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続いて2012年演奏会、声楽曲編です。印象に残ったものをあげます。 2月 1日 バルバラ・フリットリ マルトゥッチ 「追憶の歌」ほか (東京オペラシティ)2月 9日 バッハ・コレギウム・ジャパン第96回定期演奏会 (東京オペラシティ)2月29日 聖トーマス教会合唱団&ライプチヒゲヴァントハウス管/バッハ マタイ受難曲 (サントリー)4月27日 モーツァルト 「ドン・ジョバンニ」 (新国立劇場)7月 2日 クリスティーネ・シェーファー ソプラノリサイタル (ピアノ:エリック・シュナイダー)(王子ホール)7月26日 プロムジカ合唱団 (東京オペラシティ)7月29日 ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ聖歌隊 「祈りの歌」(サントリー)8月31日 クセナキス オペラ「オレステイア」 (サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2012)10月 5日 ブリテン 「ピーター・グライムズ」 (新国立劇場)11月17日 藤村実穂子 メゾソプラノ・リサイタル (ピアノ:ヴォルフラム・リーガー) (フィリアホール)11月25日 シャルパンティエ 音楽付きコメディ 「病は気から」 寺神戸亮/レ・ボレアード (北とぴあ国際音楽祭)12月10日 中島彰子ほか シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」 (すみだトリフォニー)12月21日 ヴォーチェス・エイト クリスマス・コンサート (王子ホール)○オペラオペラでは、初体験のブリテンの「ピーターグライムズ」が音楽・演出ともすばらしく、感銘深かったです。それからやはり僕の初体験だったモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」も、タイトルロールのクヴィエチェンさんが、まさにはまり役ですばらしかったです。モーツァルトの音楽のすごさにもいまさらながら驚嘆し、再認識しました。ことに終盤の場面の音楽の進歩性というか、革新性というか、すごいと思いました。それから、珍しさにつられて見に行ったクセナキスのオペラがこれまたすごかったです。アイスキュロス原作のギリシャ悲劇、ギリシャの人たちの演出で、山田和樹指揮、東京シンフォニエッタ、東京混声合唱団、東京少年少女合唱隊ほかの演奏でした。チケットをもぎってもらってはいろうとすると、いきなり階段に白い衣装をまとった子どもたちが倒れているという過激な演出で、始まる前から度肝を抜かれました。音楽が始まると、その原始的・土俗的で強靭なエネルギーの奔流に圧倒されました。大きな木を中心にすえた舞台も秀逸でした。字幕も型破りなものでした。普通の字幕も確かあったように思いますが、そのほかに、ホールの壁を広く使ってどんどん重なり合うようにして投影されていく日本語の「字の塊り」がしばしば登場し、音楽にふさわしい勢いがすごくあって、良かったです。意味は良くわかりませんでしたが、それは「字の塊り」のせいではなく、もともとのテキストが良くわからないので、これで良いのでしょう(^^)。それにしてもクセナキス、偉大なり。バロックオペラは上演が少なくてさみしいなか、北とぴあ国際音楽祭で、このところ途絶えていたバロックオペラの上演が復活したのがうれしかったです。モリエールの台本にシャルパンティエが音楽をつけたという、劇半分・音楽半分の喜劇でした。役者のせりふは日本語で、歌手の歌は原語での上演で、字幕付きで、わかりやすく面白かったし、ハイレヴェルな演奏陣によるシャルパンティエの音楽は、とても素敵でした。○アカペラ2012年のアカペラは、少女、少年、大人の3グループを聴きました。まず少女合唱。ハンガリーの少女合唱団プロムジカを、来日のたびに聴きに行っています。前回は2009年夏でした。しかし福島原発震災が起こり、もう日本では聴けないだろうと思っていました。ところがそのプロムジカ合唱団が、なんと早くも来日してくれました。いつものように完璧なハーモニーを聴けて、心洗われるひと時に感謝感謝でした。・・・でも、今のような日本の状況が、このまま改善されないで続くのでしたら、日本にはしばらく来ないでいただいたほうが、彼女たちにとっては良いことかも、と複雑な思いを抱かざるをえません。次に少年合唱。プロムジカの3日後に、イギリスの名門、セント・ジョーンズ・カレッジ聖歌隊を聴きました。「祈りの歌」というプログラムで、バードの5声のためのミサより抜粋ほかの魅了的なプログラムでした。貴重な少年合唱の響きではありましたが、プロムジカ合唱団がいかにすばらしいかをあらためて実感する場にもなりました。最後は大人のアカペラ。イギリスの、ヴォーチェス・エイトという8人組みのグループでした。ウェストミンスター寺院聖歌隊出身の仲間たちで結成したグループということです。前半はしっとりとしたキャロルと、古楽からグレツキまでの宗教的な祈りの曲で、CDで親しんでいたグレツキの名曲「Totus Tuus すべて御身に」が聴けたのは大収穫でした。後半は一転してクリスマスの楽しいキャロル集で、軽やかなジングル・ベルでフィニッシュとなりました。いわば前半がタリス・スコラーズ的なステージ、後半がスィングル・シンガーズ的なステージでした。どちらも高い水準ではありましたが、今回はいまひとつ調子が出なかったのかもしれません、イギリスのアカペラ・グループであればもっと高い水準を求めたい、という印象を持ちました。王子ホールはどちらかというと残響の短めな小ホールですので、アカペラにはちょっときびしい音響のホールかもしれません。○リサイタルシェーファーさんが聴き応えがありました。モーツァルト、ウェーベルン、ベルク、シューベルトというプログラム。じっくり聴かせてくれて皆良い中で、ウェーベルンとベルクが、特に光っていました。藤村さんの日本でのリサイタルもこれが確か3回目となりました。過去2回と同様、今回もマーラーを含むドイツリート・プログラム(シューベルト、マーラー、ヴォルフ、R.シュトラウス)でした。僕は紀尾井ホールに先立って行われたフィリアホールの公演を聴きました。藤村さんはマーラーも良いですけど、彼女の劇的な表現にはR.シュトラウスがよりふさわしいと感じました。アンコールもオール・R.シュトラウスでした。ピアノ伴奏は、繊細な詩情が美しいヴォルフラム・リーガーさん。藤村さんの前回のリサイタル(2010年11月)も、このリーガーさんとのコンビによるもので、非常に味わい深いものでした。フリットリさんのマルトゥッチは、記事にしたとおりです。折角のマルトゥッチの美しい曲が・・・という結果にはなりましたが、次の機会を期待したいと思います。○バッハ諸事情と、多少思うところがあって、数年間続けていたバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の定期会員を昨年度でやめました。2012年2月はその最後の演奏会でした。この演奏会では、最初にBWV639のオルガン・コラールが演奏され、そして演奏会の最後には、このオルガン・コラールと同じ賛美歌に基づくカンタータ第177番が演奏されました。BWV639は、タルコフスキーファンならご存知、「ソラリス」で使われた曲ですね。僕は「ソラリス」でこの曲を知り、映像とともに強烈に焼きついてしまいました。その後、この曲がオルガン小曲集のひとつだということを知り、オルガン小曲集のCDをいろいろと聴きました。曲集の中の一つとして弾いている演奏だと、あっさりしたものが多く、物足りなさを感じることが多かったです。ピアノによる演奏のCDもいろいろと聴きました。そんなとき、ブーニンがこの曲を弾いたCDに出会い、ゆっくりと、深い情感をたたえて弾かれたブーニンのBWV639に、いたく感動しました。「ブーニンもソラリスを見たのだろうか」などと想いをめぐらせたりしたものです。自分にとってBCJに一区切りのこの演奏会で、BWV639にゆかりのカンタータを聴けたのは、うれしいことでした。今年(2013年)は、いよいよBCJのカンタータ全曲演奏が完結するということですので、ときにスポット的には聴きにいこうと思っています。あと聖トーマス教会合唱団ほかのマタイ受難曲は、良かったですけれど、現在のカントールであるビラーさんのバッハは、僕にはちょっと相性が悪いみたいで、いまひとつしっくり来ませんでした。2010年12月のドレスデン聖十字架合唱団のマタイには、本当に感動しました。そのことを思い出しました。○古楽古楽は、上記したシャルパンティエのオペラくらいしか聴けませんでした。聴けなくて残念だったのは、青木洋也さんのパーセル・プロジェクト。古楽のコンサートは情報がはいりにくく、わかったときにはすでに仕事などスケジュールが入っていることが多く、なかなか聴けないことが多いです。2013年は、できれば古楽をいろいろと聴きたいと思います。
2013.01.16
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2012年コンサートを振り返って、続いてはピアノ編です。ピアノリサイタルは6回聴きました。1月 5日 藤井一興 ピアノリサイタル (東京文化会館小ホール)2月21日 メルニコフ/ショスタコーヴィチ 24の前奏曲とフーガ全曲 (武蔵野市民文化会館小ホール)3月15日 リフシッツ/バッハ フーガの技法全曲 (紀尾井ホール)5月18日 舘野泉 左手の音楽祭2012-2013 左手の世界シリーズ第1回 (第一生命ホール)11月18日 ウォンウィンツァン ピアノコンサート (浜離宮朝日ホール)12月1日 チッコリーニ ピアノリサイタル/セヴラック&ドビュッシー (すみだトリフォニーホール)ピアノリサイタルは、2011年に引き続きウォンウィンツァンとチッコリーニを聴くことができたことが、何よりうれしくありがたいことでした。毎年恒例で聴けていければ、と思います。あとメルニコフによるショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガ全曲、リフシッツによるバッハのフーガの技法全曲という、ふたつの重量級リサイタルの充実ぶりも、特筆すべき貴重な体験でした。館野泉さんもますます健在です。今度は全16回の「左手の音楽祭」が始まりました。僕の聴いた第1回は、「新たな旅へ・・・ふたたび」と題し、2004年5月の復帰演奏会と同じプログラムが再演されました。ブラームス編曲のバッハのシャコンヌ、スクリャービン、ブリッジおよび、間宮芳生とノルドグレンという、舘野氏と長いつきあいである二人の作曲家の委嘱作品でした。2004年5月の館野泉さんの復帰リサイタルは、日本各地で5回行われ、僕はそのうちの東京公演を聴きに行きました。今回と同じ5月18日でした。CDではいろいろと聴いていた館野さんを、それまで生で聴いたことがなく、このときが初めての体験でした。館野さんならではの詩情豊かなピアノが、深く印象に残っています。今年2013年には喜寿を迎えるという館野さんのさらなる旅は、これまで同様に、実り豊かなものとなることでしょう。
2013.01.14
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しつこく、2012年コンサートを振り返るシリーズを続けます(^^;)。今度はヴァイオリン編です。2012年に聴いたヴァイオリン関係の全コンサートは、以下の8つでした。 1月13日 アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル (紀尾井ホール) 2月20日 ナイジェル・ケネディ 「バッハ plus ファッツ・ウォーラー」 (東京オペラシティ コンサートホール) 4月 9日 枝並千花 ヴァイオリンリサイタル/コルンゴルド「空騒ぎ」ほか (東京オペラシティ リサイタルホール) 4月17日 ヘニング・クラッゲルー 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル/イザイのソナタ全曲 (武蔵野市民文化会館) 6月18日 ララ・セント・ジョン 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル/バッハ (武蔵野市民文化会館)11月 5日 ギドン・クレーメル ヴァイオリンリサイタル (サントリーホール)11月10日 ラドゥロヴィチ(指揮&Vn),東響/バッハとメンデルスゾーンのVn協奏曲 (東京オペラシティ コンサートホール)11月13日 ラドゥロヴィチ 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル (浜離宮朝日ホール)圧巻は、断然、クレーメルでした。あと、ナイジェル・ケネディを聴けた(&見れた)ことが貴重でした。僕がケネディを初めて知ったのは、彼が1984年(27歳時)に録音したエルガーのヴァイオリン・ソナタ&小品集のCD(シャンドス)でした。そのCDを僕が聴いたのは1992年のことで、その純粋なまばゆい輝きの美しさに魅せられ、たちまちケネディファンになりました。けれどその後すぐにケネディはコンサート・ドロップアウトしてしまい、驚いたものです。そのあと「KAFKA」という、なんとも変わったCDが出たりして、翌1997年にはコンサート復帰しました。 しかしその後に出たCD「クライスラー」(1998年)、「クラシック」(1999年)、「エクスペリアンス」(同)は、僕にはちっとも良さがわからなかったし、それらのジャケットの顔写真はもの悲しげな表情で、この先ケネディはどこに行ってしまうのだろうか、と心配してしまいました。その後のCDでは「EAST MEETS EAST」(2003年)で僕としては久々にケネディの波長にあった自分を感じることができましたが、あとは僕にはピンと来なくて、ケネディへの関心もうすれつつあるこのごろでした。そんなとき、5年ぶりの来日になるという日本公演のチラシを見つけて、一度はケネディの生の姿をこの目で見ておきたくて、出かけました。いでたちは相変わらずで(パンク・ファッションというらしい)、ジャンルを超えた音楽を仲間と奏で、ストレートパンチのようにして仲 間とこぶしとこぶしをあわせて喜ぶケネディのやさしそうな笑顔を見ることができたのは、音楽を聴いて感動という体験とは違いましたが、貴重な機会でした。 今後も独自の旅を、続けて行かれることでしょう。それから、4月の枝並千花さんという方のリサイタルがとても良かったです。僕の好きな曲、コ ルンゴルドの「空騒ぎ」を弾いてくれるので聴きにいったものです。プログラムの最初が「空騒ぎ」で、手堅い演奏でした。その次に指揮者のブルーノ・ワル ターが作曲したヴァイオリン・ソナタという珍しい曲が聴けて、これがまた、なかなかに良い曲でした。2012年はワルターの没後50年ということで、それで取り上げたのでしょうか。そしてプログラムの最後はR.シュトラウスのヴァイオリン・ソナタでした。コルンゴルドの曲をいろいろと初演し、よき理解者であったワルターと、コルンゴルドの才能を早くから絶賛し、コルンゴルド一家と親交のあったR.シュトラウス。この3人の曲を並べた、なんとも素敵なプログラムだったわけです。演奏も良くて、満足でした。コルンゴルドとワルターといえばマーラーも重要人物ですから、「もしマーラーがヴァイオリンの小品を書いていたら、きっとそれも演奏してくれたのではないか」と空想をめぐらせたりもした、充実のひとときでした。さてクレーメルとほぼ同時期に、ネマニャ・ラドゥロヴィチが来日しました。僕が彼を初めて聴いたのは2007年で、大友&東響の演奏するエルガーの交響曲2番を聴きにいったときでした。プログラム前半で、彼がチャイコフスキーの協奏曲を弾きました。それはまるで違う曲をきいているような、すごく新鮮なすばらしい体験でした。それで彼をマークするようになりました。翌2008年に武蔵野市民文化会館で聴いた、グリーグのヴァイオリン・ソナタも真摯な熱い演奏で、その実力をあらためて思い知りました。そのあと渋谷タワーレコードでたまたまミニ・リサイタルに遭遇して、サインをしてもらったりもしました。今回は、東響とは、指揮・ヴァイオリンの弾き振りで、バッハのイ短調の協奏曲と、メンデルスゾーンの二短調、ホ短調のふたつの協奏曲というプログラムでした。それから浜離宮朝日ホールでは、バッハとイザイの無伴奏リサイタル。どちらの演奏会も、ケネディほどではないですが個性的ないでたちで、個性的な演奏を聴かせてくれました。しかし今回僕は、両方とも、彼の音楽から過剰なデフォルメ、過剰な自己主張を感じてしまい、彼の音楽世界に入り込めませんでした。これまでにも、彼の演奏からこのような違和感を少々感じたことは、ありました。しかし今回は、かなり強い違和感でした。特にバッハはそうでした。ちょうど直前に、クレーメルの、自己主張のないすばらしいバッハを聴いていただけに、より一層それを強く感じたのかもしれませんが、それだけではないような気がし ます。ラドゥロヴィチさんが今の路線のまま進んでいけば、いずれ独りよがりの袋小路に突き当たってしまうのではないか、そんな危惧を感じました。それが見当違いになってくれればいいな、と思います。あとヘニング・クラッゲルーさんというノルウェーの若いヴァイオリン奏者のリサイタルは、イザイの全曲を一夜で弾くという気合のはいったもので、かなり聴き応えがありました。プログラムの詳細な楽曲解説もご自分で書いていて、ためになりました。ララ・セント・ジョンさんという愛らしい名前のカナダのヴァイオリン奏者のバッハは、我流で大きくくずしたバッハで、僕には完全にはずれでした。ただ、僕にとってひとつサプライズがありました。このときのプログラムはバッハの無伴奏曲3曲がメインで、途中にコリリアーノの小品1曲がはさまれていました。この小品が演奏され終わって拍手が始まると、奏者が客席を見回し、それにこたえて僕のすぐ近くにいた長身の外人が、すくっと立ち上がりました。なんと作曲者のコリリアーノさんがいらしていたのでした!昔FMでたまたま途中から聴いていた曲が、やがて闇の中に深く沈みこんでいき、その音の静かな美しさとともに、その背後にある不安というか不条理というか、そのとんでもない大きさに、強いインパクトを受けました。これはすごい、なんという曲なのだろう、と思って聴き終わって曲名のアナウンスに集中していると、「コリリアーノ作曲 ハメルンの笛吹き」とアナウンスされました。それがコリリアーノさんを知ったときでした。そのコリリアーノさんのお顔をまさかここで拝見できるとは、ちょっとしたサプライズでした。以上、2012年コンサート・ヴァイオリン編でした。
2013.01.13
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2012年コンサートを振り返るシリーズ、ここからはマーラー、ブルックナー以外で、印象に残った演奏会を書きます。まずはオーケストラ。 2月17日 大植,大フィル/田園、春の祭典 (ザ・シンフォニーホール) 3月 9日 広上,東フィル/黛敏郎 涅槃交響曲ほか (サントリー) 3月10日 秋山,東響,神尾/コルンゴルド Vn協奏曲,スクリャービン「法悦の詩」 (サントリー) 9月21日 佐渡裕/東フィル 映画「ウエストサイドストーリー」 (東京国際フォーラム)10月15日 フェドセーエフ,チャイコフスキー響/チャイコフスキー「悲愴」ほか (サントリー)12月22,23日 大植,東フィル/ベートーヴェン交響曲第9番 (22日サントリー,23日オーチャード)大植&大フィル、2月大阪での田園・春の祭典の完全燃焼に心打たれました。あと大植&東フィル、年末のベートーヴェン第九も、ロマン的で熱い音楽に感動し、いまさらながらこの名曲の偉大さを再認識しました。しばらく歓喜の歌のメロディーが頭から抜けませんでした。10月のフェドセーエフとチャイコフスキーシンフォニーオーケストラのオールチャイコフスキープロの、魂のカンタービレに感動。悲愴という名曲の偉大さも、あらためて再認識しました。3月の広上&東フィルは、メインの涅槃交響曲をはじめとして4曲すべてが黛敏郎作品という好企画にブラボーでした。同 じく3月の秋山&東響は、大好きなスクリャービンの4番お目当てで聴きに行きました。秋山さんの堅実な指揮、東響の高いレベルで聴けました。ただ残念だっ たのは、鐘です。この曲のクライマックスで延々と打ち鳴らされる鐘は、大寺院の梵鐘のようにグオーーン、ガオーーンと腹底に響いてこそ、感動のエクスタ シーに達するというものです。しかし今回はギーーン、ギーーンという、やたらと金属的で耳に刺激的なだけの高音で、いささか感動が萎えてしまったのは僕だ けでしょうか(^^;)。ところで僕の席からは、どこでどんな鐘を鳴らしているのかわからなかったので、終演後に舞台そばに行って、後片付けをしている打 楽器奏者のかたに尋ねてみたら、指し示して教えてくれました。なるほど、雛壇上にバケツくらいの大きさの鐘がおいてありました。東響の所有する鐘かどうか お尋ねしたら、そうではなくて、いろいろな楽器をレンタルしてくれるお店からのレンタルだそうです。へぇー、そういうお店があるんですか、勉強になりまし た。・・・それにしても、この曲のクライマックスでフルオケがびんびんと鳴っている場面で、このバケツ大の鐘ではいかにも悲しすぎます。もっとこう、大きく て重厚な音のする鐘はないものでしょうか。。。予算不足のおり、鐘はあっても、かねがない、のかも??この3月、涅槃の鐘と、法悦の鐘と、はからずも日露梵鐘合戦となった月でありました。今回の鐘は、涅槃の貫禄勝ちでした!あ とオケもので変わった企画では、佐渡さんによる、映画「ウエストサイドストーリー」の生オケ伴奏上映が良かったです。映像を大スクリーンで上映し、歌とセ リフは映画の音声をそのまま使用しつつ、伴奏だけはオーケストラがその場で生演奏するというものでした。キワモノかもと、心配しましたが、そんなことはあ りませんでした。僕はこの映画を見たのは初めてで、大スクリーンによる映像に、生オケによるバーンスタインの音楽がきらきらと輝き、感動のひとときでし た。
2013.01.09
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もう終わりにするつもりだった2012年の個別の演奏会の感想、ティーレマンのブルックナー7番を追加しておきます。-----------------------------------------------------------------指揮:ティーレマン管弦楽:ドレスデン国立歌劇場管10月26日サントリーホールワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死ブルックナー 交響曲第7番-----------------------------------------------------------------ティーレマンのブルックナーを聴くのは、ミュンヘンフィルとの5番、8番に続く3回目です。オケの音色は渋く美しく、特にホルンは非常に渋い個性的で良い音でした。ブルックナーが良くあうオケです。ティーレマンの指揮はさすがに心得たもので、細部まで神経が行きとどき、弱音部の緊張感が非常に高いものでした。一方強音部では力まないフォルでオケをゆったり と響かせます。ブルックナーのフォルテの本質が、力むフォルテでなくて力を解き放すフォルテであることを、ティーレマンが良くわかっていることが伝わってきました。また強音での楽節終止時には、音の最後を微妙にディミヌエンドしていました。これはチェリビダッケもとっていた方法で、余韻が美しく響きまし た。終楽章の堂々たる音の大伽藍は、実にもう立派なもので、終演後にはものすごいブラボーの嵐となりました。普通にいえば文句のつけようがない、完成度の高い、立派なブルックナー演奏でした。大感動された方は多いかと思います。僕も、その真摯さ、丁寧さには敬服しましたし、貴重なブルックナー聴体験ができたことはうれしかったです。でもその一方で僕は、7番の演奏としては小さからぬ不満も感じました。以下に、そんな屈折した一ファンの心境をつらつらと書いてしまいました。もし読んでいただければありがたいです。ティーレマンは、第一・第二楽章を抑え気味とし、第四楽章に大きな頂点を作ることを明らかに目指していました。そしてその意図は申し分なく実現されていました。 これがブルックナー4番とか5番とか8番なら、この意図でもまぁいいと思います。それらの曲では、終楽章にもう一つドラマが生成し、起承転結のドラマが展開するからです。でも7番の作りはそれとまったく違います。7番では第一・第二楽章が曲の中心であり、そこに重点があります。語られるべき中核はこれら二つの楽章で語られ終わっています。終楽章それ自体には、生成して展開されるべき新たなドラマはもはやありません。終楽章が始まった時には、もう結論が出ていて、終楽章はその結論を確保・確認するような意味合いを持つ。そのように僕は思っています。つまり7番は、ちょうど古典派の交響曲の構造的バランスを持った曲だと思います。たとえば古典派交響曲の金字塔たるベートーヴェンの5番の終楽章が、始まったとたんにもう結論は出ているというのと、同じ構造です。シュ-ベルトのザ・グレートも同じです。こういった構造の曲の演奏では、第一・第二楽章をともかく音響的に充分に表現しつくして、意味内容を充分に語りつくすことが、必要不可欠だと思います。それがあってこそ、それら先行楽章の音響内容、意味内容を受けて結論を確認する第四楽章の存在が意味を持ってくる、と僕は思います。7番の第一・第二楽章は、決して曲の後半に向けての準備ではありません。今回のティーレマンのように第一・第二楽章を抑えて、語るべき内容を我慢して我慢して、精神的エネルギーを解放しないで通り過ぎてしまうのは、曲の構造に背いていると思います。そのあと終楽章で突然どんなに立派に堂々と結論が語られても、その結論に僕は説得力を感じません。宗教とはあまり縁がない僕がいう資格はないですが、7番の第一・第二楽章が神への祈りだとすれば、第四楽章は神への感謝と言えるかな、と思います。この曲が名曲なのは、祈りと感謝の両方が、深くかつバランス良く表現されているからではないか、と思うわけです。・・・ブルックナーの7番は古典派の交響曲構造の枠組みで成り立っている曲であり、終楽章自体にはドラマはないということ。そのことを踏まえて、第一・第二楽章の深い内容が十全に表現され、かつその内容をしっかりと受け止める第四楽章になっていること。この楽章相互のバランスが高い次元でとれていることが、僕にとっての7番の名演です。今回のティーレマンは、終楽章に偏ったそのバランスの悪さが、僕は大いに残念でした。(2010年にN響を振った尾高さんも、同じように第一・第二楽章 を抑えすぎ、第四楽章に大きな頂点を築こうとするアプローチで、どうにもしっくり来ませんでした。)さらに蛇足を承知でいえば、ブルックナーの音楽は、5番を例外として、どこかに頂点がある音楽ではないと思います。どこかに最大の頂点があって、そこを目指して音楽が一点に凝集していく、そういう音楽ではなくて、むしろ拡散していくというか、解放されていくというか、そういう音楽だと思うんです。ことさらに終楽章に頂点を作ろうとする今回の7番での ティーレマンのアプローチは、そういう僕の捉え方とはずれていました。この点でみると、やはりブルックナーでは5番が、もっともティーレマンに合っているのかな、と思うこのごろです。現在53歳のティーレマン。今後彼のブルックナー演奏は、どう変貌して行くのでしょうか。
2013.01.07
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続いて2012年のブルックナー演奏会のまとめです。2011年に続いて、ブルックナー演奏会に行った回数は少なめでした。--------------------------------------------------------------3番 3月 7日 スクロヴァチェフスキ/読響 (サントリー)4番 11月 6日 ブロムシュテット/バンベルク響 (サントリー)7番 10月26日 ティーレマン/ドレスデン国立歌劇場管 (サントリー)8番 3月31日 大植/大フィル (ザ・シンフォニーホール) 6月 7日 ヤルヴィ/フランクフルト響 (サントリー)9番 6月16日 コバケン/日フィル (サントリー)--------------------------------------------------------------ブルックナー3番のコンサートといえば、思い出すのが朝比奈隆さんのことです。朝比奈さんの最晩年、東京での最後のブルックナーとなった8番のあと、さらに 3番の演奏会が東京で予定されていて、そのチケットを買って楽しみにしていました。しかし体調が悪化され、結局それは幻の演奏会になってしまいました。手元に残った3番のチケット、そのまま記念に永久保存しておこうかと、かなり迷いましたが、結局払い戻しのために郵送し、手放してしまいました。ですので今度の3番は、「スクロヴァさんには是非お元気で予定通り振ってもらいたい」とひそかに願っていました。幸いにも無事演奏会が行われ、若々しいブ ルックナーを聴くことができて何より良かったです。スクロヴァチェフスキさんにはいつまでもブルックナーを振っていただきたいと思います。4番は、記事にしたとおり、ブロムシュテットさんの超名演が、至高の体験でした。7番のティレーマンについては、このあと独立した記事で書いておこうと思います。立派な演奏ではありましたが、僕には疑問の7番でした。8番は、大フィルの歴史にまた一つ偉大な8番が刻まれた、その時空間に仲間たちと居れたことにただただ感謝です。コバケンのブルックナーを聴くのは、2009年の4番に続き2回目です。4番のときはあまり印象がありませんでしたが、この9番は僕にはなかなか良かったです。ちょっとおもしろかったのは、最近の日フィルの技術的進歩は著しく、インキネンや佐渡さんのマーラーとのときに聴かせてくれた輪郭のしっかりしたシャープな音への変貌ぶりに感心していましたが、このコバケンが振ったブルックナーのときは、悪い意味ではなく、それ以前に耳にしていた日フィルらしい音が聞こえてきて、懐かしかったです。コバケンが振ると、オケの中に染み込んでいるであろうコバケンの薫陶が呼び起こされ湧き上がって来るのだろうかと、興味深く思った次第です。
2013.01.06
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引き続き2012年コンサートです。ブリテン オペラ「ピーター・グライムズ」2012年10月5日 新国立劇場指揮:リチャード・アームストロング演出:ウィリー・デッカー合唱;新国立劇場合唱団管弦楽:東京フィルピーター・グライムズ:スチュアート・スケルトン(テノール)エレン・オーフォード:スーザン・グリットン(ソプラノ)バルストロード船長:ジョナサン・サマーズ(バリトン)ブリテンのオペラを見たのは初めてです。とても楽しみにしていました。その期待どおり、非常に良かったです!ブリテンの音楽は、北の海べを舞台とする陰鬱で重々しい物語をたんたんと語っていきます。その重苦しさがちょっとしんどいなと思いながら見続けていると、ときにあらわれるアリアの澄み切った美しさにうたれます。たとえば第一幕、少年をひきとるために村の酒場に現れたグライムズが歌うアリア「大熊座とスバルは」。粗暴な言動が目立ち村人たちと気持ちの通わないグライムズですが、彼が北の空の星座を見上げる詩的な心情を歌ったこの孤独なアリアの透徹した美しさは、圧巻でした。アリアの歌いだしの一節をあげておきます。 大熊座とスバル星は、 地とともに動き 人間の悲しみは 空に雲を生み出し 深い夜に神々しい空気を息づかせる・・・こういう音楽の深さは、ブリテンの真骨頂が発揮されるひとつですね。 衣装以外にはモノトーンでシンプルな舞台美術、最小限に切り詰められた舞台装置も、音楽内容に実にふさわしいものでした。夜空に薄明かりをあびてほのかに光る雲の切れ切れの背景が、心象風景として絶妙な美しさをはなっていました。これらを含んだ演出が、過度に自己主張せず、ブリテンの音楽の効果を非常に高めていたのだと思います。見事な演出でした。グライムズが慕う女教師エレン役を歌ったソプラノのスーザン・グリットンさんは、たまたまその少し前に買ったCD(フィンジの「ディエス・ナターリス」、ブリテンの「イリュミナシオン」「4つのフランスの歌」、ディーリアスの「去りいくひばり」を収録)で歌っていた方でした。このCDでも、イリュミナシオンで素敵な歌を聞かせてくれていました。ブリテンの音楽に相性が良いように思いました。ロビーにはブリテンが住んでいたオールドバラの家の写真や、ブリテンとピーター・ピアーズなどの興味深い写真がいろいろと展示されていて、幕間にそれらを見れたのもとても有意義なひとときでした。今年(2013年)はブリテンの生誕100周年ということです。ブリテン作品の、今回のようなすぐれた上演(演奏)に接する機会が、またあればいいなと思っています。
2013.01.03
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もうちょっと書きます、2012年コンサート。「月に憑かれたピエロ」を、能と重ね合わせたユニークな舞台を見てきました。一点を除いては本当にすばらしい舞台でした。---------------------------------------------------夢芸能 月に憑かれたピエロ12月10日 すみだトリフォニーホール作曲:シェーンベルク演出:中島彰子ピエロ(ソプラノ):中島彰子シテ:渡邊荀之助笛:松田弘之太鼓:飯島六之佐地謡:佐野登、渡邊茂人、藪克徳指揮:ニルス・ムース管弦楽:オーケストラ・アンサンブル金沢メンバー Vn(Va持ち替え)、Vc、Fl(ピッコロ持ち替え)、Clの4人ピアノ:斎藤雅昭映像:高岡真也---------------------------------------------------プログラムノートによると、数年前の満月の夜、京都・龍安寺で座禅を組んでいたソプラノの中島彰子さんの脳裏に、ふと「月に憑かれたピエロ」のメロディが浮かんだというのです。それ以来中島さんが、この曲を、能と舞台とを重ねて上演したいというコンセプトをいだき、それにむけて準備をすすめ、この上演が実現したということです。中島さんはシェーンベルクの子どもたちに、この上演の了解をいただいたそうで、プログラムにも彼らからの応援メッセージ文が掲載されていました。本公演にあたっては彼ら(シェーンベルクの子どもたち)の意向がふたつ出たそうで、ひとつにはプレトークで背景説明をしてほしいこと、もうひとつは字幕をつけて上演してほしい、ということだったそうです。それでプレトークから始まりました。中島さんと、地謡で出演する佐野登さんというお二方が、能の簡単な説明も含めて、この上演のコンセプトやストーリーをわかりやすく解説してくれました。舞台は、シェーンベルクの音楽に沿って進行し、ところどころに能の部分が挿入されるというもので、かなり楽しめました。僕はシェーンベルクの音楽はどちらかと言えば苦手なほうで、この曲をちゃんと聴くのは今回初めてでしたが、繊細な音楽がとても美しいと思いました。中島さんの歌と演技も説得力ありましたし、アンサンブル金沢の人たちの演奏もすばらしいと思いました。一方で、ところどころにはいる能の部分も、シテのおごそかな舞というか所作というか、それと笛や鼓の音も、非常に良くて、シェーンベルクの音楽と違和感なく結合していて、見ごたえがありました。中島さんはじめ、出演された皆様に心から拍手を送りました。ただ、唯一の大失敗と思うことがありました。字幕です。今回の字幕は、舞台中央の背景に大きなスクリーンを置き、そこに映像を投影して作られていました。投影されるのは普通の文字だけではなく、いろいろなイメージを喚起するような映像が多彩に映し出され、その映像の中にときどき文字が出てくるというものでした。その文字の出方が、素直にさっと出てこないで、文字と絵の中間的な画像がでてきてそれが時間をかけてゆっくりと文字に変形していくというような、非常に凝ったものでした。しかも、その文字が、普通の字幕のように1行あるいは2行ずつ短く出てくることがほとんどなく、数行あるいはそれ以上の長い多量の文字が、詩のようにスクリーンに映し出されるのです。そうかと思えば、歌が歌われているのに、その間かなり長いこと何も文字が表示されないということも多かったです。思うに字幕の効用とは、まずぱっと見たときにすぐに文字を認識して短時間でそのフレーズの意味を理解するということと、もうひとつは、今歌われている部分の訳を同時に提示することにより、今歌われているフレーズがどういう意味を持つかが理解できるということ、すなわち対訳を見ているように、聴きながら同時に理解できること、この二つの効用が主なものだと思います。短時間に、同時性を持って理解できるという効用です。しかし今回のような変に凝った提示方法では、じっと見ていてもなかなか文字の形にならないので、結果として長いことスクリーンを見なくては意味がわからないことと、一度に長く詩のように日本語を出してしまうので、現在歌われているフレーズがどこに該当するのかがさっぱりわからない、ということです。これでは、はっきり言って字幕の意味がほとんどありません。さらに、意味がないだけならまだしも、このスクリーンを使うことが、音楽を鑑賞する上で非常に大きな妨げになってしまっていたのです。それは、ノイズです。スクリーンに画像と文字を映し出すための装置に起因するノイズだと思いますが、かなり大きい送風の音が、上演の最初から最後まで、ずーーーーっと鳴り続けていたのです。こんなに大きなノイズがあるコンサート、ありえないです。これが大編成のオーケストラのコンサートであれば、まだ被害は多少は少なかったかもしれません。しかしピアノを入れて総勢5人の小編成、しかも非常に繊細で、微妙な音色のうつろいが美しいシェーンベルクの音楽です。この音楽を味わうためには静寂がすごく大事なのに、この大きな送風の音で、台無しでした。能のときも同じです。虚空にゆらぐ笛の音や、ぽつんと響き渡る鼓の音。これらもまた、静寂の中に立ち現れてこそ、その真価が現れるものです。これらもまた、送風の大きな持続音で、魅力が大きく損なわれてしまったのが、非常に残念です。この笛や鼓、静寂の中で聴いたらさぞかしすばらしかったと思います。今回の字幕、百害あって一利なし。この上演自体の価値は本当にすばらしいと思いますので、再演を重ねていったらよいと思います。しかしその際は、この字幕に関して全面的に見直しをしたほうが良いと思います。最低条件として、ともかく音が出ない方法にすることです。そうでないと折角の美しい音楽と能が台無しです。そして上記した短時間に認識できることと、同時理解可能であるということ、すなわち本来の字幕の効用を考えた字幕にしてください。シェーンベルクの子どもたちの望む字幕とは、きっとそのようなものであるはずです。ユニークであって、かつ上の三要件(無音、短時間認識可能、同時理解可能)を満たすすぐれた字幕は、いくつか見たことがあります。2009年のバッハコレギウムジャパン他によるモンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」でのフラッシュ方式、それから2012年8月のサントリーサマ-フェスティバルでのクセナキスのオペラ「オレステイア」などです。
2013.01.02
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引き続き書きます、2012年コンサート。2012年11月のクレーメルのリサイタルのことを書いておきたく思います。クレーメルは大好きなヴァイオリニストです。もう随分前になりますが、香山リカさんがテレビ番組の中で、クレーメルが大好きという話をしているなかで、「私にとって、クレーメルはジャンルなんです。」と仰った発言が、妙に強く記憶に残りました。そのときはその言葉の意味が良くわからず、「ひとりのヴァイオリ ニストがジャンルっていうのは、なんか変だな」としか思わなかったのですが、その違和感が心に長くひっかかっていました。やがて随分あとになって、その言葉の意味に合点がいきました。僕の80~90年代はCDをひたすら買っていた時期で、増え続けるCDを収納する場所の問題と同時に、CD をどのように分類してしまうか、ということに悩むようになりました。(いまの若い人だと、CDのような物理的物体としてのメディアから離れることが進んでいるでしょうから、CDの収納なんて話はぴんと来ないかもしれませんが。)当初はレコード芸術誌の分類に従って、「交響曲」「協奏曲」などの分類方式ではじめま したが、すぐにもっと細分化する必要を感じ、作曲家別の分類をとりいれました。マーラーとかブルックナーとかバッハとか、好きな作曲家のCDの多くは、それでほぼ解決しました。困ったのが、いろいろな作曲家の曲が入っているCDです。その中で特定の楽器によるCDは、「ピアノ」「ヴァイオリン」「フルー ト」など楽器別に分類することで大体決まっていきました。しかしそれでも困るものがありました。いろいろな作曲家の、いろいろな楽器編成の作品が入っているCDです。それからもう一つ困ったのが、たとえばクレーメルが演奏したショスタコーヴィチとシュニトケの作品が入ったCDを、「ヴァイオリン」の分類に入れるのか、それとも作曲家の分類としての「ショスタコーヴィチ」あるいは「シュニトケ」の分類にいれるのか、あちら立てればこちらが立たず、と悩むことが多くなりました。いろいろ試行錯誤を繰り返しているうちに、はっと思いついたのが、そうだ、自分がそのCDを買うのに理由がある、その中で一番主要な理由で分類すればわかりやすいぞ、と思いました。たとえばマーラーの作品だから買ったのなら「マーラー」、ヨッフムの指揮だから買ったのなら「ヨッフム」とするわけです。沢山の作品が入っているCDは、たとえばもしイギリスの合唱曲が沢山入っているので買ったCDなら、「イギリスの合唱曲」とすればいいな、と。そうしたときに、このCDはクレーメルだから買った、というのであれば、「クレーメル」という分類にすれば良い、と気がついたんです。そう気がついたときに、目からうろこで、あっ、あのとき香山リカさんが言っていたのはこのことなんだ、と合点がいったのでした。これ以後、好きな演奏家のCDがある程度たまったら、それをジャンルにしてしまうことで、分類がだいぶ楽になりました。ちなみに今のところヴァ イオリニストでマイ・ジャンルになっているのはギドン・クレーメルとナイジェル・ケネディの二人だけです。このごろはCDをあまり買わなくなったので、この二人に続いてジャンル入りするヴァ イオリニストは、当分登場しそうにありません。80~90年代のクレーメルのCDは結構沢山買いました。その中で僕が特にお気に入りなのは、ロッケンハウス音楽祭の音源からアンコールピースを集めたCDに収録されている、アルゲリッチとのクライスラーの「愛の悲しみ」の演奏と、ピアソラの 「ブエノスアイレスのマリア」のCDと、ペルトなどのバルト3国の作曲家の作品を集めた「From My Home」というCD、シュニトケのヴァイオリン協奏曲4番などを収めた「Out of Russia」というCD、シルベストロフの「dedication」と「post scriptum」を収めたCD、などです。しかしクレーメルを生で聴いたのは、これまで多分2回だけです。最初は、渋谷Bunkamuraのシアターコクーンでの、ピアソラの「ブエノスアイレスのマリ ア」。この曲のCDが発売されて少しあと、クレーメルたちがこの曲を演奏しながら世界を回っているときの一環のコンサートで、もうめくるめく最高のひとときでした。あともう1回は、2000年代にサントリーホールで、バッハとシュニトケをクレメラータ・バルティカと演奏したとき。これもなかなか刺激的な体験でし た。僕の中のクレーメルのイメージの中心は、同時代作品を、研ぎ澄まされた演奏で世に広めていくシャープな伝道者、でした。そんなクレーメルももう65歳になるということで、今回のコンサートで現在のクレーメルを聴いておきたい、と思いました。今回、4日にわたるスペシャルステージは、協奏曲1夜、室内楽2夜、ソロリサイタル1夜でした。この中ではやはりソロが聴きたくて、最終日のソロの日を聴きにきました。サントリーホール スペシャルステージ ギドン・クレーメルの芸術11月5日 サントリーホールバッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番グバイドゥーリナ:リジョイス!-ヴァイオリンとチェロのための (Vc:ギードレ・ディルヴァナウスカイテ)イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ登場したクレーメルは、白髪で、さすがに歳をとった、という感じを強くいだきました。そして始まったバッハが、信じがたいすばらしさでした。ク レーメルは、雄弁な自己主張からは遠く離れ、静かに、丹精こめて、ひたすらバッハと対峙するのみです。クレーメルを通じてその場に広がっていくバッハの音楽が、僕の胸にそのまま自然にすーっと入り込み、僕の内から体をあたため、心を清めてくれるような、そんな体験でした。クレーメルという天才がいよいよ円熟の境地に達している、ということを感じながら、ただただバッハの音楽とともに、そこにいさせていただいた、そのような時間をすごしました。2曲目はグバイドゥーリナ。僕はこの人の曲は、CDで聴いても、まれに実演で聴いても、ぴんと来るものを感じたことがなく、僕には相性があわない作曲家だろうと思っていました。でも今日は、グバイドゥーリナを聴いて初めて感動しました。静謐で、芯のある、祈りの音楽に、心うたれました。前半終わって休憩。これでコンサートが終わりだとしても大満足、という高密度の時間でした。後半は、イザイの5番と、バルトークの無伴奏ソナタ。これまで、バルトークのソナタは正直言って僕には良くわからない曲でした。前半のグバイドゥーリナ開眼体験があったので、もしやバルトークにも開眼できるかとひそかな期待をもって聴きはじめましたが、やはりこの曲、僕には良くわからないままで終わってしまいました。折角クレーメルが弾いてくれているのに、勿体無いことでしたが、こればかりは仕方ありません。いずれ自分に、この曲の良さがわかる日が来ることを願うだけです。クレーメルという天才は、これからもますます深化していくことでしょう。ともかく現在のクレーメルが、すでに途方もないところに立っている。そのことを、半分くらいしかわからなかった僕ですけど、それでも充分に感じ取れたひとときでした。
2013.01.02
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新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年もゆるゆるペースで、ブログを続けていこうと思います。2012年のコンサートのまとめにとりかかりたいのですが、その前にもう少し、昨年末の書き込みの続きで、昨年印象に残ったコンサートをいくつか書いておきます。まずはバルバラ・フリットリが、マルトゥッチの「追憶の歌」を歌ったリサイタルです。--------------------------------------------------------------------バルバラ・フリットリ ソプラノ・リサイタル2012年2月1日 東京オペラシティ・コンサートホールソプラノ:バルバラ・フリットリ指揮:カルロ・テナン管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団第一部: マルトゥッチ 「タランテッラ」(オーケストラ曲) マルトゥッチ 「追憶の歌」第二部: プッチーニとチレアのオペラアリアと間奏曲--------------------------------------------------------------------オペラ歌手によるオペラアリアを中心としたリサイタルは、僕はあまり興味がなくて、これまで一度も行ったことはありませんでした。今回は、たまたまコンサートのチラシをぱらぱらと見ていたところ、マルトゥッチの「追憶の歌」をやるリサイタルを発見して、これは聴きに行こう、と思いました。もう20年ほど前、自分に娘が生まれたとき、かなりへこむ出来事がありました。そのときにたまたま、CDでこの曲に出会いました。作曲者の名前もそのとき初めて知りましたが、その歌が、声が、音楽が、胸になんとも沁みこみました。この曲ばかり繰り返し何度も何度もきき、繰り返し涙を流し、へこんだ時期を乗り 越えました。ちょうどその頃に読んでいた五味康祐氏の著作に、悔いと絶望のなかで音楽にどんなに救われたか、という体験が書かれていたのを、氏ほどの絶望状況ではなかった自分ですが、身に沁みて共感した次第です。そのCDは輸入盤で、英文解説から歌の内容の概要が、失われた愛を追憶するというものであることだけはわかりましたが、歌詞の詳細はわかりませんでした。歌詞の意味ではなく、ただただその声と音の響きそのものが、胸に沁み、僕は癒されていきました。マー ラーのシンフォニーからクラシックにのめり込み、もともと声楽より器楽に嗜好が傾いていた自分ですが、そのときになぜかこの歌がとても胸に響いたのです。 当時、歌という文字のことを考えました。可可欠という、考えてみれば一風変わった要素で成り立っています。この字の本当の成り立ちの意味は知らなかったし、調べもしませんでしたが、自分なりに勝手に、歌とは、「欠」けている自分を、「可」能な限り「可」能な限り、高めていこうとする営みではないか、と思いま した。ちょうど生まれた子どもにも、いろいろなことがあるであろうこれからの人生を、どんなときも、自分なりの歌を歌って生きていってほしい。自分も、自分なりの歌を歌っていこう。そう思いました。それ以来、マルトゥッチの「追憶の歌」は、僕にとって特別の曲になりました。他のディスクをいろいろ探して、少ないながらも、少しずつ保有盤が増えていきました。そのうちに、僕が最初に輸入盤で聴いていたものが国内盤でも発売され(ソプラノ Rachel Yakar、ダヴァロス指揮、フィルハーモニア管、ASV)、少し話題になったりもしました。また1995年にはムーティがミラノ・スカラ座管と録音し、 SonyからCDが発売されました。ムーティは、さらに2009年にもベルリンフィル・ヨーロッパコンサートでナポリで演奏し、これはDVDで発売されています。ナポリ出身のムーティは、ナポリで没したマルトゥッチ作品を折に触れ取り上げているということですので、今後少しずつマルトゥッチが世に広がっていくと思います。今回のリサイタルのプログラムにも、フリットリさんはこの曲を、ムーティにすすめられて勉強した、と書いてありました。 ムーティがフリットリさんにすすめ、フリットリさんもこの曲を気に入って、日本の聴衆に聴いてもらいたいと思って今回のプログラムに入れたということですね。ムーティに感謝しなくては。当日大変楽しみに聴きにいったのですが、僕にとってお目当ての「追憶の歌」は、悲しいできでした。。。フリットリさんにまったく非はないです。ひとつには指揮者です。「追憶の歌」は7つの歌からなる歌曲ですが、7つの歌の内容はひとつながりだし、それぞれの最後の和音と次の曲の開始の和音もほぼ同じで作られています。ですので7つの独立した曲ではなくて、全体が完全にひとつの曲というべきものです。しかし指揮者はそのつながりをまったく無視するかのように、曲間に無節操な中断をはさみます。連続して演奏してくれとは言いませんが、休むにしてもデリカシーを持った休み方というものがあると思うのです。この休み方から推して知るべく、曲自体にしても、この指揮者が「追憶の歌」を理解しているとは到底思えない指揮ぶりでした。オケも、やる気が感じられませんでした。東フィルは、気合が入ったときはすばらしい演奏をするのですが、そうでないときに、ときとして落差が大きい演奏をすることがあり、今回がそれでした。残念至極。。。後半のオペラアリアは、フリットリさんの魅力が充分発揮され、盛り上がりましたが。いつか、もっとこの曲の真価を伝える演奏で、「追憶の歌」を聴きたいと思います。
2013.01.01
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全てフェデリコ・モンポウ作品という貴重なコンサートを聴きました。東京オペラシティ・コンサートホール 開館15周年記念公演フェデリコ・モンポウ<インプロペリア>~ひそやかな祈りのために~9月1日 東京オペラシティ・コンサートホール第一部 歌と踊り第13番(ギター独奏) :村治佳織 コンポステラ組曲(同上) :村治佳織 橋 (チェロとピアノ) :遠藤真理(Vc)、三浦友理枝(P)第二部 内なる印象(ピアノ独奏) :三浦友理枝 歌と踊り第15番(オルガン独奏) :鈴木優人 魂の歌(ソプラノ、合唱、オルガン):幸田浩子(Sop)、アントニ・ロス・マルバ指揮、新国立劇場合唱団、鈴木優人(Org)第三部 <郊外>より「街道、ギター弾き、老いぼれ馬」(ロザンタール版) オーケストラによる :アントニ・ロス・マルバ指揮、東京フィル 夢の戦い(ロス・マルバ版) ソプラノとオーケストラによる :幸田浩子(Sop)、アントニ・ロス・マルバ指揮、東京フィル インプロペリア(マルケヴィッチ版) 日本初演 バリトン、合唱、オーケストラによる :与那城敬(Bar)、アントニ・ロス・マルバ指揮、新国立劇場合唱団、鈴木優人(Org)前半は器楽曲、室内楽曲で、後半は声楽のはいった大きな編成の珍しい曲、ともかく全部モンポウという、すごい演奏会でした。僕がモンポウのことを初めて知ったのは、チッコリーニのセブラックの記事で書いたのと同じように、やはり館野泉さんのCDでした。館野さんのCDで初めて買ったものが、モンポウの「内なる印象」で、ひそやかで美しい響きに、すっかり魅了されたのが始まりです。その後、ラローチャの「歌と踊り」のCDにも心底ほれこみました。そんなモンポウのいろいろな作品が聴けるというこの演奏会、どなたの企画か存じませんが、ありがたいことです。ちょうどこの日は、改装なった東京芸術劇場のこけらおとしで、下野さんによるマーラー復活のコンサートとバッティングしたのですが、迷うことなくこちらを選びました。この演奏会は、作曲家の加藤正則さんとギタリストの村治佳織さんが司会進行役を務めるというサービス精神にも富んだ趣向で、トークなどはさんで和やかに進んでいきました。若手女性軍による前半の器楽曲は、残念ながらギター、ピアノともに作品への切込みが甘く、聴いていて、いささか退屈さを禁じ得ませんでした。しかしそんななかで、遠藤真理さんのチェロは本当にすばらしい歌と呼吸があり、すばらしかったです。遠藤さんのチェロはいつか聴いてみたいと思っていたところ、これが初体験でした。その音楽性の豊かさにうなりました。今後もいろいろ聴いてみたいです。プログラム後半は、声楽曲です。皮切りはソプラノの幸田浩子さん。奇しくも、NHK-FMの新旧の番組司会女性が同席するという演奏会になりました。幸田さんは今年3月までの「きまクラ」の司会で、ショウヘイさんの突っ込みに素朴に応対していた素直なキャラが素敵でしたし、遠藤さんは今年4月からの新番組「きらくら」で、ふかやさんの天衣無縫のつっこみにさりげなく大人の対応をしつつも、犬の鳴き声も名人級という不思議なキャラ。幸田さんの歌を聞くのも、僕は初めての機会でした。後半の曲目が、聴きものが続きました。「魂の歌」は、短いですが、敬虔な祈りが伝わってくる、美しい曲でした。次の2曲は、モンポウ以外の人によるオーケストラ編曲物でしたが、このオケの響きがとても良いです。今日の指揮をしたロス・マルバさんという方は、モンポウと直接の交流があったといいます。トークでもマルバさんの謙虚な人柄が感じられました。「夢の戦い」はこのマルバさん自身による編曲版でした。チェレスタ、ハープ、イングリッシュホルンなどが隠し味的に使われた味わいある編曲で、響きが素敵でしたし、指揮ぶりもモンポウ作品への敬意と愛情が感じられ、とてもすばらしいものでした。最後の曲が、30分弱を要する、インプロペリア。バリトンの与那城さんの力強い歌も加わり、モンポウの敬虔な宗教心に基づく信念ある音楽が、マルバさんの指揮に導かれ、聴くものの心に染み入ってきました。マルバ氏の滋味ある指揮を中心に、良い演奏でとても貴重な体験ができたひとときでした。インプロペリアは日本初演ということですから、モンポウ(ほんぽう)初公開、だったわけですね(^^)!もうすぐ新年、おあとがよろしいようで、今年の書き込みは、これにて終了といたします。皆様、また来年もよろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。
2012.12.31
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ずっと記事を書いていて、頭がもうろうとしてきましたが、がんばってもう少し書きます。コンスタンチン・リフシッツ ピアノリサイタルバッハ フーガの技法 全曲3月15日 紀尾井ホールフーガの技法全曲という、なかなかないプログラムをやってくれたリフシッツ。2010年12月にもゴールドベルグ変奏曲のリサイタルがあり、非常に楽しみにしていたのですが、やむを得ない事情で行けませんでした。それだけに今回のフーガの技法はとても聴きたかった演奏会でした。リフシッツは作品への敬意に満ちた、深々とした演奏を聞かせてくれました。本当に全編にわたって、期待にたがわず、内面に深く沈潜していくバッハを聞かせてくれました。B-A-C-Hの主題が出てきてほどなく中断する、最後の未完のフーガ。大バッハ絶筆の瞬間のこの中断も、音楽がぼつっと切れるのではなく、深い余韻をたたえた終わり方でした。そのあとの、コラール「われら悩みの極みにありて」BWV608aの曲も、僕はとても好きなのですが、この一音一音を慈しみ、大切に弾くリフシッツの音楽に、大きな感銘を受けました。リフシッツのバッハ、すばらしい。
2012.12.31
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今年もチッコリーニが来日してくださいました。87歳。2010年のベートーヴェンの協奏曲は、とてつもない名演でした。今回はリサイタルのみです。12月1日 すみだトリフォニーホール今回はセヴラックとドビュッシーのプログラムです。セヴラックが大変楽しみでした。セヴラックの音楽は、館野泉さんのCDで初めて知りました。館野さんが病気を患う前、デビュー40周年を迎えた2001年に、フィンランドで録音した2枚組 みのCD「ひまわりの海」です。館野さんは昔からセブラックを愛好していたということで、レコード会社に録音の話を持ち替えたがどこも乗ってくれなくて、 しかたがなくて自分で録音したところ、さいわいFinlandiaレーベルが話しに乗ってくれたということで、同レーベルから出たものです。当時のレコー ド芸術に、濱田滋郎さんのインタビュー記事が、きれいな写真とともにのっていました。このCDで聴いたセヴラックの音楽があまりに素敵なので、他の録音も あるのかと調べたら、チッコリーニの演奏で3枚組みのCDが出ていることを知って、早速買い求めたものでした。チッコリーニは70年代にセヴラックの主要 ピアノ曲をすべて録音しているわけですから、セヴラックへの愛着は相当なものでしょう。そのチッコリーニのセヴラックが聴けるというのですから、夢のよう です。プログラムの前半がセヴラックで、 組曲「ランドック地方にて」の第四曲、「春の墓地の片隅」 「休暇の日々から」 第一集 (全8曲) 「セルダーニャ」から第四曲、「リヴィアのキリスト像の前のラバ引きたち」 演奏会用の華麗なワルツ「ペパーミント・ジェット」というものでした。プログラム後半が、ドビュッシーの前奏曲集第一巻でした。チッコリーニのセヴラック3枚組みのCDから、コンサートのプログラム順どおりに曲を抜粋してカーステレオに録音し、あまり予習しすぎないように注意し、ほどほどに予習して、当日にそなえました。コンサート当日、配布されていたプログラムには上記の濱田滋郎氏の解説が乗っていました。登場したチッコリーニは、杖をついていました。去年までは杖は使っていませんでした。セヴラックの珠玉の作品を奏でるチッコリーニの音は、澄みきって美しいことこのうえありませんでした。後半のドビュッシーは、近くの聴衆に不心得者がいて、かなり邪魔になったのがつらいところでした。しかし前半だけでもじっくり体験できて、幸せなことだと思います。アンコールはスカルラッティとグラナドスでした。アンコールが終わって最後は客席総立ちで、チッコリーニに感謝の拍手を送りました。
2012.12.31
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今年も聴きました、ウォンウィンツァンさんのピアノコンサート。11月18日 浜離宮朝日ホール入場時、プログラムのほかに、ジョン・レノンへの手紙、と題した2枚の文章が配布されました。被災地を思いやり、原発の問題意識を持ち、発言し続けているウォンウィンツァンさん。日本と中国の血が流れるウォンウィンツァンさん。そんなウォンさんがジョン・レノンにあてた手紙の内容は、ウォンウィンツァンさんのブログのこちらの記事で読んでいただけます。そして今年のピアノも、魂があらわれる、すばらしいものでした。プログラムの前半はオリジナル曲を、即興的テイストをまじえての演奏に、ただただ感動です。後半は、サティの曲を中心としたプログラムでした。そして最後は「ふるさと」。ウォンさんの内なる強い想いが、ピアノの音を介して、その場のみなと気持ちがつながったひとときでした。アンコールは、新曲の披露でした。これがまた、即興を交えて、すごく良かったです!ウォ ンウィンツァンさんのコンサートでは、普段だと、アンコールが終わるとすぐにウォンさんが舞台裏に引っ込んで、それであっけないほどすぐに拍手がやんで、 お開きになってしまいます。内容の充実ぶりとは無関係に、クラシックのコンサートではありえないほど、すぐに終わってしまいます。ところが今回は、アン コールの曲があまりにすばらしかったのでブラボーも出るし(ウォンさんのコンサートでは異例)、舞台裏にウォンさんが引っ込んで一度は鳴り止んだ拍手が、 自然発生的にふたたび湧き起こり、彼を舞台に呼び戻すべくひたすら続けられたのです。ウォンさんはかなり長いこと出てこなかったのです が、拍手は粘り強く続き、ついにウォンさんが舞台に再登場。本当に困った顔で、「さらなるアンコールなんて予定していない、こんなこと初めてだ、どうしよ う」と仰りながら、ピアノに座って、「さぁどうしよう、何をやりましょう」と仰ったら、すかさず客席から、「ジャズ!」(「ブルース!」だったかも)とい うリクエストがとび、ウォンさんは、それにこたえてひとくさり、2曲目のアンコールを弾いて、それでお開きとなりました。来年もまた、ウォンさんのかけがえのないピアノを聴きたいと思います。願わくばそのときに日本が、世界が、今の方向のあやまちに気づいて、少しでも良い方向に進み始めていますように。
2012.12.31
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指揮:大植英次管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団ソプラノ:アンナ・ガブラーアルト:スザンネ・シェファーテノール:ヨセフ・カンバリトン:アンドレアス・バウアー合唱:東京オペラシンガーズベートーヴェン 交響曲第9番12月22日 サントリーホール12月23日 オーチャードホール大植さんが東フィルを指揮する第九は、チャリティコンサートなどを含めると、この年末に数回行われたようです。オケの主催公演としては21、22、23日の3回で、その二日目と三日目を聴きました。まず22日サントリーホール。P席で聴きました。昨年末の大植&大フィルの第9は、とてもユニークな楽器配置ということでしたので(大フィルのブログに大フィルの第九の歴史を紹介する興味深い記事があり、その中に昨年末の楽器配置の写真があります)、今回がどういう配置かが、気になるところでした。 普通の対抗配置でした。すなわち弦は下手から第一Vn、Vc、Va、第二Vnで、Cbは一番下手側。管も普通の配置でした。コンマスは、2011年のブラームス1番、そして今年の大フィルとのマーラー9番でもコンマスを務めた三浦章宏さん。暗譜で、指揮棒を持たず、各パートにさかんに忙しくキューを出す激しい指揮ぶりで、大植さんはとても元気そうです。第三楽章は、大植さんならではの味わい深い歌が歌われました。そして第三楽章が終わると、普通に一息ついただけで、声楽陣が入場せず、そのまま第四楽章が始まりました。これは一体?と思っていると、大きな仕掛けがありました。歓喜の主題が低弦で静かに奏でられ始めるとまもなく、舞台上手からバリトンが、ゆっくりと静かに入場してきました。そして低弦の主題提示が終わる頃に、オケ の後ろの、ほぼセンターの位置にバリトン歌手は到着して、まっすぐ前をむいて立ちました。続いてヴィオラによる歓喜の主題提示が始まると、今度は舞台下手 からアルト、上手からテノールが、やはりゆっくり静々と入場してきて、主題提示が終わるころに、バリトンの隣にまっすぐ立ちました。続いてヴァイオリンに よる歓喜主題の提示になると、今度はソプラノが下手からしずしずと入場し、主題提示の終わるころにセンターに到着し、4人ならんで正面をむいて立ちまし た。続いてフルオケで歓喜主題を確保するところで、男声合唱ついで女声合唱が舞台両側から続々と入場し、センター寄りに男声、外側に女声で合唱団がずらり と並びました。並び終わると、独唱者4人がそろって着席して、オケの経過句が終わると、バリトンがすくっと立ち上がって歌い始める、という趣向でした。この入場方式、ベートーヴェンのコアなファンは嫌がるのではないでしょうか。僕は、コアなファンではないですが、最初はびっくりして、結構な違和感がありま した。特にヴィオラの主題提示にファゴットが対旋律でからむところは、この曲で僕がもっとも好きなところですので、あえてここで入場させなくともいいのではないか、と感 じたりしました。しかし、合唱が入ってくるあたりになると、人が大勢集まってくるさまが、音楽が盛り上がっていく曲想に非常にあっていて、これもありかな、と思いました。そして始まったバリトンの歌唱が圧倒的にすばらしかったです。そのあとの合唱も力強くすばらしく、大植さんらしいテンポの大きな揺れとためが、実に心地よいです。古典的な形式美を至上とする向きからは嫌われるベートーヴェンかもしれません。僕は大好きでした。曲の最後の最後にアッチェレランドするところで、さっと胸から短い指揮棒を取り出して、颯爽と指揮棒を振って、曲を締めくくりました。それまでの長い長い間をずっと指揮棒なしで振って、なんと最後の10秒だけ指揮棒を出して振ったのでした。これも音楽的にどこまで意味があるのかはわかりませんが(^^)、大植流というところでしょう。終演後、ブラボーの歓声は結構あがりましたが、心なしか拍手があまり大きな感じがしなかったのは、気のせいなのか、それとも伝統的な演奏を愛する人たちに嫌われたのか。。。でも僕はこのロマン的な第九、非常に好きです。翌日はオーチャードホール。これは1階平土間のセンターで聴けました。席の関係が大きいと思いますが、きょうは弦楽の音の熱さが、昨日よりずっとダイレクトに伝わってきます。第一楽章からチェロの気合が半端でなかったし、弦の各奏者が楽しそうに、生き生きと弾いていました。きょうも、後半のふたつの楽章が絶品。第三楽章が始まった瞬間の弦のアンサンブルが、とても美しかったです。すばらしい第三楽章でした。そして今日の入場方式も、昨日と同じでした。歓喜の主題提示のところで、まずバリトン、ついでアルトとテノール、そしてソプラノがゆっくりとはいってきて、そして音楽の盛り上がりに合わせて合唱団が一気に入場。こちらも2回目で心構えができていたせいか、きのうよ り違和感なく受け止められ、音楽に合わせて最初は一人ずつゆっくり、その後は大勢がざざっと参集してくるさまに、演出といえば演出ですけど、なにかとても 感動をさそわれました。ここ、言葉はなくても、音楽はまさにこういう内容の音楽ですから。(もちろん演奏自体が充実しているからこそ演出効果があがったのだと思います。)こういう入場方式って、誰か他にやったことがあるのでしょうか。もしなければ、今後「大植方式」と呼ぼうと思います。マーラー3番はシャイー方式、ベートーヴェン9番は大植方式(^^)。バリトンは昨日と同じく絶好調。昨日は少し弱めに感じたほかの独唱者も立派な歌いぶりで、そして合唱の力強さは昨日に増してすばらしいものでした。終演後の拍手も、昨日より一段と大きく熱い拍手でした。これまでに僕が聴いた第九(、といっても数えるほどですが)、その中で一番の、圧倒的な感動体験でした。あらためて、第九のすばらしさをしみじみと実感しました。そのあとしばらく、歓喜の主題が頭から離れませんでした。この23日が、僕の今年のコンサート納めの演奏会でした。一年の締めにふさわしい充実のコンサートで、パワーをたっぷりといただきました。大植さん、今年も沢山のかけがえのない感動を、ありがとうございました。
2012.12.31
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まだまだ書きます。指揮:大植英次管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団ベートーヴェン 交響曲第6番ストラヴィンスキー 「春の祭典」2月17日 ザ・シンフォニーホール2月19日 サントリーホール大植英次、大フィル音楽監督として、17日は大阪での最後の定期演奏会(二日公演の二日目)、19日は最後の東京定期でした。17日の演奏会については、ぐすたふさんの文章がすべてを語ってくれています。僕は何も付け加えることありません。あの、春の祭典での跳躍、あれは本当にすごい、すさまじい気のほとばしった瞬間でした。19日も、すばらしかったです。東京では珍しく(おそらく初めてか)、終わったあとに温かい拍手が、長く長く続きました。東京の聴衆にとっても、一つの大きな区切りに、大植さんと大フィルを称えた、特別な演奏会になりました。ただ、19日には、「春の祭典」でのあの跳躍は、出ませんでした。演奏の燃焼度は、明らかに17日の方が高かったです。17日は、まさに完全燃焼でありました。演奏者と聴衆とが一体となったあの特別な空気は、ホームグラウンド・シンフォニーホールならではのものでした。両方を体験したものとして、このことだけ書いておきたくて、記事にしました。
2012.12.31
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ブロムシュテット85歳記念と銘打った、ブルックナー4番の演奏会を聴きました。大感銘を受けました。--------------------------------------------------11月6日 サントリーホール指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット指揮管弦楽:バンベルク交響楽団ピアノ:ピョートル・アンデルシェフスキモーツァルト:ピアノ協奏曲第17番ブルックナー:交響曲第4番 (ノーヴァク版)--------------------------------------------------僕は、これまでにブロムシュテットのブルックナーは、自分の行ったコンサートの記録をつけるようになった2003年以降では、4回チケットを買いました。2005年2月 ゲヴァントハウス管 7番 (サントリー)2008年1月 N響 4番 (NHKホール)2009年11月 チェコフィル 8番 (サントリー)2010年4月 N響 5番 (サントリー)けれど2005年の7番は、楽しみにしていたのですが、ひどい風邪による体調不良で、やむなく行くことを断念しました。ですので聴いたのは3回になります。チェコフィルとの8番は、さすがにオケの魅力もあって、それなりに良いブルックナーを楽しむことができました。そのときの自分の感想は、ブログ記事「2009年ブルックナーの演奏会を振り返って」に書いていました。見返してみたら、”ブロムシュテット/チェコフィルの8番は、余計なことをしないで、曲そのものに語らせるというような、匠の技を感じました。オケは、すべてのパートが必要以上に突出することなく、引っ込みすぎることもなく、すばらしいアンサンブルでした。これに凄みのようなものが加われば、さらにすごいブルックナーになったとは思いますが、それはそれとして、極上のブルックナーのひとつを聴けたと思います。”と書いてありました。しかしこのチェコフィルとの8番を含めて、これまで僕が聴いたブロムシュテットのブルックナーは、いずれも比較的淡白なあっさりとした演奏で、そこが僕としてはいささか物足りなさを感じていました。ブルックナーは、もっと大きな、もっと超越的な音楽であってほしい、という思いを抱いていました。今回、同じようなスタイルのブルックナー演奏を想像しつつ、ホールに臨んだのでした。さてプログラムの前半は、アンデルシェフスキのピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲第17番。自由な感覚で夢のように繊細なピアノが美く、オケもそれにあった上質な響きで、とりわけ第二楽章、第三楽章が素敵で楽しめました。アンコールのバッハ(フランス組曲第5番からサラバンド)がまた繊細でロマンティックで、とても素敵なバッハでした。そしてブルックナー。オケは両翼配置で、コントラバスは舞台下手に8台。冒頭のホルンの主題呈示から、一気に引き込まれました。ポーーーポーーッポポーーーの動機を4回繰り返しますね。この4回目は低い音になりますが、その4回目のホルンの音量がぐっとさがり、弦の音色に埋もれるような響きとなり、すごく深みがありました。これに始まり、弦が、木管が、金管が、ティンパニが、さまざまに呼応し、あるいは一体となり、絶妙のバランスで、音楽が進んでいきました。このパートのバランスが、必要なところに必要なものが必要なだけ出てきて、何かが突出しすぎるようなことがありません。金管が大きく吹くところでは、充分にゆったりと力みなく鳴り、刺激的でなく、全くうるさくありません。堂々としていますが、勇ましくありません。これこそ正しきブルックナーの金管の鳴らせ方と思います。柔にして剛の響き。たとえば、もっとホルンの音量が大きいロマンティックは沢山あるでしょう。もっと勇ましいロマンティックは沢山あるでしょう。でも、これで良いのです。ところでこういった方向性の美質は、これまできいたブロムシュテットのブルックナー演奏でも程度の差はあれ、感じてきたものです。今回の演奏がこれまでと決定的に違ったのは、音楽の流れです。これまでのブロムシュテットのブルックナーは、淡白というか、あっさりと流れすぎていたのですが、今回はまったくちがいました。テンポが極端に遅いというわけではないし、大きな長い間合いをとるというわけでもありません。たまに目だったアッチェレランドなどはありますが、決して極端なテンポ変化はないし、どこかの楽節や、楽節間の移行の間合いをことさらに特に強調するようなことはまったくありません。音楽のどこかに頂点を作ろうとか、そういう作為がなく、あくまで音楽の自然な流れの中で、ちょっとしたテンポ変化や、ちょっとした間合いをとるという感じです。それでいて、そこから立ち現れる音楽が、まったく淡白でないのです。そこから立ち現れる音楽は、信じられないほど巨大で、深く、澱まずに悠然と進む一貫性があり、そしてまったく弛緩することがありません。完璧なテンポ、完璧な間合い。これは奇跡ではないでしょうか。ブロムシュテットの指揮ぶりを見ていると、本当にブルックナーを演奏するよろこびと幸せをいっぱいに感じているようで、心から楽しんでいるように見えました。作為が感じられません。ブロムシュテット85歳にして達した、透徹の境地。僕はもう、そんな指揮を見ながら、巨大すぎて全部は受け取れないものを、少しでも受け止めようと、背筋をのばし、襟を正して、ただただ聴くばかりでした。短いようでもあり、長いようでもあった、至福のひとときでした。これぞブルックナーの音楽。(音楽が終わって、ブロムシュテットの指揮棒が高くあがったままのとき、残響が消えて少ししてからですが、拍手が始まってしまいました。タクトが降りてから拍手、というマナーがもっと守られることを願いたいです。)これまでにブルックナーの4番は、いろいろ聴いてきましたし、いろいろと感動してきました。でもこれほどの大きな感銘を受けたことは、そう滅多にはありません。チェリビダッケ&ミュンヘンフィルの4番をサントリーで聴いて涙した、それ以来と言える、久しぶりの感動体験でした。ブロムシュテットさんとバンベルク交響楽団の皆様、ありがとうございました。
2012.11.07
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久しぶりの書き込みになります。フェドセーエフ指揮、チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ(旧モスクワ放送響)の演奏会をききました。10月15日 サントリーホールチャイコフスキー 歌劇「エフゲニー・オネーギン」より3つの交響的断章チャイコフスキー 弦楽のためのセレナードチャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」僕はフェドセーエフさんの実演を聴いたことは皆無だったし、CDもほとんど聴いたことなくて、ノーマークでした。これまでロシアのオケをあまり聴いていなかったので聴いておこうかくらいの気持ちで買ったものでした。これが実に感銘深い演奏会でした!そもそもからしてチャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラという、聞く方がちょっと気恥ずかしくなるような名前のオケです。旧モスクワ放送響という有名オケであるにしても、近年どのように変化しているかは全く未知数でした。当日サントリーホールのPブロックに座ると、開演時刻が近づいても、客席は驚くほどがらがらです。Pブロックを含むステージ周りの安い2階席はほぼ埋まっていますが、それ以外の2階席はほとんど空席です。Pブロックから正面によく見える広大な1階平土間席にしても、センターの良席はほぼ埋まっていますが、サイドや後方席はほとんど空いています。結局全部で、ほぼ4割りほどの入りでしょうか。これほど入りの悪いコンサートは僕は初めてです。オケが気の毒に思えるとともに、これは、事情通が避ける理由が何かあるのだろうか、という不安もわき起こりました。しかしそのような不安は、ただちに吹き飛びました。1曲目(初めて聴く曲でした)からにして、腰の落ち着いた弦楽の響きが美しく、管も派手さはないものの、味わい深い音楽が聴けました。そして弦楽セレナード。16-14-12-10-9で、左から第一Vn、Vc、Va、第二Vnの対抗配置。コントラバスは中央後ろに横に並びました。これがもう本当にすばらしかったです。もう弦楽の魅力充分。9本のコントラバスの土台が厚く、その上に重なる弦も、透明感というよりも、厚みがあり、深みがあります。フェドセーエフさんの指揮はしなやかで、情感ゆたかですが、しかしそれに溺れすぎない、しっかりとした歌が歌われました。これで演奏会が終わったとしても、もう大満足です。休憩のあとに悲愴。僕はそれほど悲愴を沢山聴いていないですけど、これぞ悲愴、これぞチャイコフスキーと思いました。大感銘です。第二楽章は意外なほどゆっくりとしたテンポで、僕はちょっと集中がうすらいだ部分もありましたが、ほかは全編にわたって引き込まれました。最終楽章の終わり近く、最後の盛り上がりが終わって、ゲネラルパウゼのあとの、コントラバスの入りがすごかった!ここの音楽の深みが、これほど胸に響いたことはありません。この瞬間を僕はきっと忘れないと思います。茂木健一郎氏風にいえば、最大級のクオリアに圧倒された瞬間でした。1曲目、2曲目とも、フェドセーエフさんは、曲が終わるとわりあいすぐにタクトを降ろし、それとともに拍手が始まっていました。比較的すぐにタクトをおろすタイプの指揮者とお見受けしました。それでも悲愴では、最後の余韻が消えた後、フェドセーエフさんは数秒ほどタクトをあげたままで、そのあとすっとタクトを降ろしました。タクトが降ろされたのですから、これで拍手が始まったとしてもおかしくありません。しかし拍手はまったく起こりません。皆、深い感動にうたれていたのでしょう。息を呑むような静寂がさらに数秒ほど続いたあと、指揮者が体を少し動かしたのを合図のようにして、ようやく拍手が始まり、クレッシェンドしていきました。聴衆の人数は少なくとも、それはそれは大きな拍手になりました。そして鳴り止まぬ拍手のなか、ハープが運び込まれ、アンコール。眠りの森の美女から「パノラマ」で、ハープの分散和音に乗って、静かな弦楽の歌が、かなりゆっくりと歌われました。悲愴の凄絶さに胸打たれたあと、その美しさに心が癒される音楽でした。そのあとさらにもう1曲、白鳥の湖から「スペインの踊り」で、一気に元気良く盛り上がって、この稀有な演奏会は締めくくられました。アンコールを含めてオールチャイコフスキープログラムだったわけです。指揮者とオケが一体となり、「これぞ自分たちの音楽だ」と、血肉からの共感に根ざした音楽が歌われました。チャイコフスキーのカンタービレがびんびんと伝わってきました。演奏会後、「弦っていいなぁ、オーケストラっていいなぁ」と幸福な余韻にふんわりと包まれた、すばらしい体験でした。「チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ」の名前がちょっと気恥ずかしいかも、などと思った自分が恥ずかしいです。これぞチャイコフスキー・オーケストラの名前にふさわしいオケだと思います。なんと38年間にわたるという、フェドセーエフさんとこのオケの幸せな信頼関係を実感した次第です。今回の日本ツアーは、フェドセーエフさん80歳の記念ツアーということで、13日の鎌倉公演から21日の大阪公演まで、全8回の演奏会の曲のすべてがロシアもの、という徹底ぶりです。サントリーは3回公演があり、このチャイコフスキープロ、その翌日にシェエラザードなどのプロ、その翌日にショスタコービッチの交響曲第10番などのプロです。そのあと19日は名古屋でショスタコ5番など、20日は兵庫でシェエラザードなどをやり、ツアー最後は21日大阪で悲愴を中心としたオールチャイコフスキープロです。僕は翌日のシェエラザードなどの演奏会も聴きました。この日は聴衆の入りも前日よりずっと多く、演奏ももちろん良かったですが、前日のオールチャイコフスキープロほどの圧倒的な感銘は受けませんでした。(最後のアンコールには、前日同様チャイコフスキーのバレー音楽から小品2曲で、素敵でした。)たった二日間聴いただけですが、自分の印象としては、このオケ、技術の高さが売りというよりも、弦楽を中心としたカンタービレが、ともかくすばらしいオケでした。そしてそのカンタービレは、特にチャイコフスキーこそが、ぴったりあう、と思いました。21日の大阪公演(14時から、ザ・シンフォニーホール)は、今回のツアー最終日ですし、しかもオールチャイコフスキープロです。彼らが満を持しての、さぞやの味わい深い演奏会になるのではないかと思います。関西方面のかた、もしも都合がつけられたら、聴きに行かれることを、強くお奨めします。きっと貴重な体験になることと思います。そしてもし演奏会に行かれたら、一部500円のプログラムもご購入をお奨めします。豪華なカラー写真や広告や堅苦しい挨拶文が詰まったありがちなプログラムではなく、フェドセーエフさんのお人柄などが伝わる心温まる文章が載っている、小さくてとても素敵なプログラムです。
2012.10.17
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3月31日、大植英次スペシャルコンサートを聴きました。大フィル音楽監督としての最後の日、本拠地ザ・シンフォニーホールで大フィルとの演奏会、ブルックナーの交響曲第8番でした。もう本当に、9年にわたる大植さんと大フィルの営みの締めくくりに、ミューズの神が惜しみない祝福をあたえた、稀有なる「場」がそこにありました。この「場」を体験して、細かなことをいろいろ書く意味などないのかもしれませんが、大植さんと大フィルの演奏でブログを始めた者としては、自分の一つの大きな節目として、書いておきます。ホワイエには大植さんや長原さんや佐久間さんに贈られた沢山のきれいな花々が所狭しと飾られていて、あー本当にこれで終わってしまうんだなという感慨がわいてきました。ホールにはいると、多数のテレビカメラがスタンバイされていました。オケは、変則両翼配置ともいうのか、左手から順に第一Vn、Va、Vc、第二Vn、一番右手にCbという、このごろ大植さんが良く使う配置です。舞台左端にはハープ3台。オケが入場し、客席の灯りが落とされると、ステージの奥に、ライトアップされて銀色に厳かに輝くパイプオルガンが浮かび上がりました。第一楽章はなんとなくまだエンジンが充分に回っていないような印象でした。第二楽章のトリオから、変わりました。トリオは非常にゆっくりとした、呼吸の深い演奏でした。ハープの分散和音が大きく凛として美しい。このハープの分散和音が終わって次の思索的な楽節(練習番号E)に入るところ、普通だとハープの響きを奏者が手で押さえて止めて、次に移行していくところですが、大植さんはハープを響くままにさせ、その豊かな余韻がホールの隅々までしみ渡って消えるまでの長い長い間合いをおいて、それから次の楽節に進んで行きました。なんとも美しい間合いでした。またトリオの最後、スケルツォに回帰する直前も、ハープと弦のピチカートの音の余韻が長く尾を引いてゆっくりと自然に消えていくまで、充分な長い間合いをとりました。ハープと低弦の胴の響きの織り交ざったその余韻の美しいこと。作曲者ブルックナーでさえここまでの深さを意図していただろうかと思うような味わいでした。そしてさらに第三楽章の深み。非常にゆっくりとしたテンポで、随所随所に充分に長い間合いをとり、ひとつひとつかみしめながら音楽は進んでいきます。音符の一つ一つ、間合いの一つ一つにこめられた大きな想いが、胸にしみます。特に、楽章の中ほど、主要主題の回帰に向けてだんだんと音楽が沈潜していくところ(練習番号Mのなかほどから)は、非常に非常におそくなり、最後のチェロの止まりそうな上行音の弱音が消えたあと、完全な長い間合いがとられ、そこからおもむろに主要主題が、これまた非常にゆっくりと奏でられはじめたところは、もう本当に息をのむすばらしさ。この、MからNへの移行部分には、もちろんスコアにはゲネラルパウゼはありません。これほどの深い呼吸によるM、MからNへの移行、そしてNの演奏は、これまで体験したことありません。そしてそこから音楽は徐々に高まっていき、大フィル渾身の合奏で高みに達し、そしてコーダの安らぎと充足。。。この第三楽章は、大きく、やさしく、慈愛に満ちた、奇跡のアダージョでした。終楽章は、大胆なテンポ変化に富んだ演奏でした。凡百の指揮者なら、わざとらしい不自然なブルックナーになってしまうこと必至です。しかしこの演奏は違いました。これほど、ありえないほどの大胆なテンポ変化があるのに、巨大な音楽の流れが、揺るぎなく、一貫して流れていきます。ありえない体験です。これぞ大植流ブルックナーの大いなる結実、と思いながら、ただただ音楽の流れに身をゆだねていました。コーダのUuにはいる直前、ティンパニのピアニッシモから、長い間合い(ここにはスコアにゲネラルパウゼあり)を経て始まったUuの、尋常ならざるテンポの遅さと緊張。いろいろ遅い演奏は聴いてきましたが、これほどの体験は初めてです。そして「巨匠スタイル」ならばこのままのテンポで最後まで行くのでしょうが、大植流ブルックナーは違いました。コーダ後半は程よく加速して、そして曲はついに終わりました。終わってしまいました。その後の長い長い拍手。オケの各パートを順に立たせ熱い拍手を送る大植さん、大植さんに拍手を送るオケ。それを包み込む聴衆の拍手、また拍手。やがて、花束を受け取った大植さんが、花を一輪ずつ、何人かの女性奏者に渡し、そのあと、朝比奈時代からのヴィオラ奏者小野眞由美さんに花束ごと渡し、ご自分はそこから赤い薔薇一輪を抜きとり、オケを立たせ、ご自分も指揮台の上に立ってその薔薇をかかげた、そのときです。会場のほとんどの人が立ち上がり、すごいスタンディングオベーションになりました。これまで、オケが去り始めてからさみだれ式に立つ人が増えていき、呼び戻された指揮者を迎えてさらに人が立ち上がっていき、結果として総立ちに近い状態になる、という形のことは、晩年の朝比奈、近年のスクロヴァなど、時折ありました。しかし今回は全く違います。オケが全員まだ定位置に立っていて、指揮者が指揮台の上に立っていて、その状態で、ほぼ一斉に総立ちに近いスタンディングオベーションになったわけです。指揮者とオケ全体に対するスタンディングオベーション。こんなこと、初めての体験です。自分もその中で立って一生懸命に拍手を贈りました。ありがとう大植さん、ありがとう大フィル。やがてオケが解散したあともスタンディングオベーションは続き、呼び戻された大植さんが、とうとう先日の最後の定期演奏会のときのように、客席に飛び降り歩き回ったり、さらには舞台の後ろに行ってクワイヤ席の聴衆が下に差し出す手と握手をかわしたり。そうした去りがたい光景がどのくらい続いたか。やがて大植さんは舞台の袖に引っ込んでいきました。・・・大監監督&大フィル時代の9年間。と言っても僕の大植さん体験は、2005年3月のマーラー6番東京公演が最初で、強くのめりこむ契機になったのは同年9月のマーラー3番ですから、6年半になります。この間、それほど頻回というわけではありませんでしたが、事情の許す限り大植さん&大フィルの演奏を聴き、胸打たれ、こころ振るわせてきた6年半でした。今回の演奏は、この実り多き大植監督時代の画竜点睛であるし、大フィルブルックナー演奏の歴史に、また一つ刻まれた偉大な到達点と思います。まさに「特別な」演奏会でした。そう、大植さんはいつも「特別」であったし、これからも「特別」。そして大植さんの音楽を通じて出会うことができたぐすたふさんからのありがたいご厚意の数々には、ただただ感謝のみです。本当に、ありがとうございました。ぐすたふさんのブログと大植さん体験がなかったら、僕はブログを始めていませんでした。そのぐすたふさんのブログが終わってしまうというのもかなりの打撃です。しかしさみしがっているばかりでも仕方ない。これから始まる新たな時代、前向きに生きていきたいと思います。
2012.04.03
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僕の今年初めのコンサート行きは、藤井一興さんのピアノリサイタルでした。1月5日、東京文化会館小ホール。藤井さん毎年恒例のニューイヤーリサイタルです。今年はドビュッシーの12の練習曲を中心に、バッハと、湯浅譲二氏の作品1曲を配したプログラムでした。湯浅作品「内触覚的宇宙 II」が、とても聴き応えがありました。長い音の響きがコーーーン、コーーーンとして、宇宙の虚空に光る星々のひそやかな輝きのイメージを喚起される美しい作品でした。こういう透明で微妙な響きのニュアンスを美しく豊かに表現するのが、藤井さんならではの、得がたい魅力です。藤井さんのオフィシャルサイトに載っている、今回のリサイタルの曲目についての藤井さんへのインタビューから、この作品についての一部分を引用すると、”鐘が鳴る時の倍音のイメージのスタイルはドビュッシーからメシアン、メシアンから湯浅さんへと受け継がれているように思えますが、この曲は湯浅さん独特の部分が多く、この時代の曲のスタイルを徹底的に研究したものだと思います。この曲の響きには無駄がなく、12の音に命を与えつつピアノの音がずっと湯浅さんの宇宙のなかで響きあう曲です。現代音楽が分からなくても没頭できる美しい響きがあります。”演奏が終わったあと湯浅さんがホール中央あたりの客席から立ち上がって拍手を受けられてました。プログラムノートにも湯浅さんが文を寄せていましたし、練習にも立会われたということです。素敵な作品の、素敵な演奏で、年の始まりの良いひとときを過ごせました。
2012.01.31
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