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米国テキサス州のメキシコ湾沿岸には、細長い島がとぎれとぎれに続いています。その中でもヒューストン南方のガルベストン島、コーパス・クリスティ付近のパードレアイランド島が良く知られています。外海側でも遠浅になっていて、数多くの釣り桟橋が多少の深さになるまで遠くまで延びていますので、種々の魚を釣り上げることができます。又、島と沿岸との間は水路になっているので、此処もまた小さな魚達の避難場所で且つ生育場所となっている様で、釣果には事欠きません。釣りをするには、釣り許可証が必要ですが1年間有効で、多分10ドル程度で釣具店・釣り桟橋などで購入出来ます。勿論釣り桟橋では不要なのですが、何れかの海岸・防波堤等で釣りを楽しんでいると、時々抜き打ち検査があり、所持していないと1万円程度の罰金が科されます。一番の狙い目はヒラメですが、季節は晩秋が良い様でした。これはアメリカ人も狙っていて、海中に入って小魚を餌にして岸近くでも40cmオーバーのものが良くあがっていました。日本人にとっては、黒鯛に似たSheeps-head(頭の骨が硬いからでしょう)、少し油の乗っているDrum(釣り上げると音を出すからでしょう)も狙い目です。刺身にして、頭・骨・皮を吸い物にすると最高なのですが、アメリカ人はフライにして食べるのが普通なので、油が乗っていない魚をあまり好みません。海が荒れて来ますと、釣れるのは鮫・海ナマズばかりとなります。これらはヒキが強くて面白いのですが食べませんので結局は捨ててしまします。鮫と言っても体長50cm程度ですが、種類も多く撞木鮫まで釣れてしまいます。なかなか死なず危険なので、棍棒で敲いて殺してから海に投げ捨てます。海流が良いと青物も到来し、ヒラマサも来た様ですが私の釣果には加わりませんでした。メキシコ湾は魚影が濃く、舟を仕立て無くても、釣り桟橋・防波堤・普通の海浜・橋の下など陸から良い魚を釣れる楽しみがありました。ガルベストン島での釣り桟橋をご覧下さい!一日作れば、ゆったりと素晴らしい釣行が出来ますので旅行するチャンスがあれば試して見て下さい。
2003.01.31
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テオティワカン遺跡はメキシコの首都メキシコシティの北東50kmの高原にあります。緯度的には北回帰線の南に位置していますので熱帯地方になるのですが、高度が2400mもありサボテン・灌木が散在してますので暑いという気候ではありません。この遺跡はアステカ文明以前、西暦で言うと紀元前後に作られたもので、テオティワカン文明に属するとのことです。その後西暦900年頃、軍事大国のトルテカがシティの北西トゥーラに都を置いて栄え、西暦1000年頃内紛により衰退し、300年続く戦国時代を制したアステカでシティに都を定めたのが西暦1300年頃の様です。「テオティワカン」という名前もアステカ語で「神々の座」という意味だそうです。南北に走る「死者の道」大通りは最北端にある「月のピラミッド」に向かっています。途中の東側に最も大きい「太陽のピラミッド」が聳えています。これらの命名も、この地を訪れたアステカ族が、巨大な廃墟を見て、それらを神の仕業と考え、太陽と月の創造がここを舞台としたと解釈したことに由来しているそうです。兎に角、太陽のピラミッドは底辺の一辺が224m、高さ65mと言う巨大な建造物です。頂上からの展望は素晴らしいのですが、高度が2400mありますので急いで登りますと息が切れますので要注意です。因みに、エジプト・ギザのピラミッドは底辺236m、高さ136mとのことです。メキシコのピラミッドは巨石で構成されてはいませんで、輸送容易な大きさの岩石が漆喰で固められて作られています。訪問したのは多分昭和52年頃(1977年)です。写真がぼけていますのは古い写真であることと、私自身が写っているのでトリミングした結果です。メキシコにはメキシコシティを中心に10回以上行っているのですが、仕事中心と思ったのか写真が全くありませんで、遺跡見学のこの三枚だけでした。
2003.01.30
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ヨーロッパ大陸の北部は、天気の良くない冬が長く、目映い光が乏しい季節となります。そのせいかどうかは調べていませんが、北部にある教会には微細な光を使って、美しい祭壇画を創り上げようとステンドグラスが発達した様です。確かに、明るい光に恵まれたイタリアの教会では、ステンドグラスよりも、フレスコ画が発達した様な感じがします。有名なバチカンのシスティーナ礼拝堂では、素晴らしい壁画で飾られていますが、これは光がいつも溢れているのではっきりと見ることが出来るのです。ステンドグラスの美しい教会となると、ドイツにあるケルン大聖堂、パリ郊外の世界遺産シャルトル大聖堂が有名です。又、パリ市内にあるノートルダム寺院の側壁の丸窓は“薔薇窓”として極彩色の美しい幾何学文様で有名です。何回かパリに滞在したことはあるのですが、シャルトル迄は電車で1時間程掛かりますので、行ったことが無いのは残念です。 ケルン大聖堂、ノートルダム寺院等のステンドグラスをご覧下さい!これらはASA400のフィルムで撮影したのですが、光量が不足して上手く撮れていません。この頃のデジカメはASA1600迄対応していますので、もっと鮮明な写真が出来ると思いますので訪問する方は試して見て下さい。旧約および新約聖書を良く把握していれば、ステンドグラスが何を表現しているのか理解出来るのだとは思います。しかしながら、暗闇に浮かぶ光の芸術を鑑賞しつつ、堂内からパイプオルガンなり賛美歌合唱なりの音楽を耳にすると、なにがしか荘厳な雰囲気に浸ることが出来るのは確かなことです。ノートルダム寺院で聞こえたアベ・マリア、ウルム大聖堂で聞こえたバッハのオルガン曲などは今でも忘れることはありません。
2003.01.29
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カンクーンはユカタン半島の北東部、カリブ海に面した“日本の天の橋立”を数倍大きくした様な砂州に開発された、メキシコが誇るリゾート地です。カンクーンは北回帰線の内側に位置する熱帯地方にあるのですが、エメラルドグリーンの海による温暖な気候に恵まれ、設備の整った近代的な豪華ホテルが海浜に建ち並ぶ素晴らしい観光地です。そして近くには、ジャングルに眠るマヤ遺跡が多く散在しています。最大の遺跡は西方のジャングルにあるチチェン・イツァですが、南方に100kmほど行くと最も美しいと言われるトゥルム遺跡が海辺に残されています。カンクーンからは海岸に近い熱帯雨林の中をドライブして行きますが、この辺は雨量がそれ程多く無いのでしょうか、大きな樹木はあまり無く、遠くを見通せる高さしかありません。アマゾン(行ったことはありませんが)のジャングルとは大きく違っています。トゥルム遺跡は規模は小さいのですが、美しい珊瑚の細片の白乳色の海浜の岩場に作られていますので、灰色の遺跡が白い海岸、青い海、緑の密林に映えて絶景を提供してくれます。 カンクーンには1983年1月に訪問しましたが、未だこの頃は日本から観光客は少なかった様です。急遽ホテルを探しましたので、ホテル街の外れに位置するシェラトンしか取れませんでしたので、砂州突端にある最高級のカミノリアルへは家族で見学に行きました。トゥルム遺跡見学後、夢の様に美しいと言われるチェル・ハー(Xel-Ha)の入り江を見てみましたが、入り組んだ岩礁での透明な海水の中に、無数の熱帯魚が様々な色模様を織りなして泳いでいる様子が、岩場の上からはっきり見えたのは感動的でした。
2003.01.28
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ガムラスタン(旧市街)は、西からのメーラレン湖の流れが東のバルト海と出会う地点に浮かぶ小さな島で、ストックホルム発祥の地です。その後南北に発達し、現在ではストックホルムは14の島から市街地が構成されているようです。ストックホルムには1998年6月に訪問し、4泊しましたが到着した日以外は、生憎雨にたたられてしまいました。北のベニスと呼ばれる美しい市街地を十分に堪能出来無かったのは残念ですが、まあこれも旅の一コマと思えば良いとします。北緯60度に位置する地点では、6月でも白夜となりませんが真夜中になっても漆黒の夜の帳が降りず、ぼんやりと薄暗い感じの夜だったのは初めての不思議な経験でした。 到着した日は天気の良い午後に恵まれましたので、ガムラスタン(旧市街)迄の散歩を楽しみましたので、ご覧下さい!画像は翌日の雨中の市内観光の一枚です。その後雨がひどくなり翌々日は土砂降りとなりました。ガムラスタン(旧市街)へ市中心部から行くには、旧通りと思われるドロットニングガータンを真っ直ぐ南下して進みます。この通りは土産物屋さんも多く、通りは各種の旗で満艦飾で飾られています。小さな橋を渡りますと、国会議事堂のあるヘンゲアンスホルメン島(聖なる魂の島の意味だそうです)を経て、王宮・大聖堂のあるガムラスタン(旧市街)に到着します。バルト海側の岸壁からはノーベル賞受賞者の滞在するグランドホテル、国立美術館を含め、美しい海と島の風景が楽しめます。
2003.01.27
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ボイマンス美術館はオランダ最大の貿易港ロッテルダムにあります。訪問したのは1999年3月でしたが、寒い雨の日でした。三日前にアムステルダムに泊まった時は雪が降っていましたが、その翌日は天候が回復し、海岸のリゾート地であるスヘフェニンゲンに二泊して帰国する日となりました。飛行機は夜出発となりますので、半日のゆとりを利用してボイマンス美術館に行って見ることにしました。ロッテルダム駅で旅行トランクをロッカーに預け、駅前のデパートに行って雨傘を買い、美術館が近くにあると思い徒歩で出掛けました。歩いている内に雨風が強くなって、なかなか見つかりませんし、濡れるは寒いはで大変なことになりましたが後の祭りです。ようやく到着した時は、ほっとしましたが風邪もひいてしまった様です。そんな日だった為か、館内は入館者も少なく空いていてゆっくりと楽しめました。最も見たかったブリューゲルの「バベルの塔」の絵がある部屋には誰もおらず、ひっそりとしていたのには吃驚しました。ものすごい細密画で、人が又骸骨人間もいたと思うのですが、一心不乱に建設に従事している様子が描かれていたのです。人間の不遜を正す為に、従事した人々は飛散しバベルの塔は打ち捨てられるのですが、ブリューゲルはそれを暗雲として塔の上に漂わせ暗示している様でした。館内は撮影禁止でしたので、売店で購入した絵葉書をスキャナーでアップしましたのでご覧下さい!オランダを含むフランドル地方は油絵が発明され、フランドル派画家達が多く輩出されたので、名画が沢山残されていて不思議はありません。悲運の画家レンブラントが息子ティトスを描いた唯一の油絵も此処にあったのかと感激しました。アムステルダムの国立美術館、ゴッホ美術館と違って混雑は少ないので、数多くの名画が静かに自分と向き合いながら鑑賞出来る美術館です。
2003.01.26
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モントリオールはカナダフランス語圏ケベック州にある大都会です。オンタリオ州から車でドライブしてケベック州に入った途端、英語の道路標示は無くなり、全てフランス語表示になります。公用語が英仏の両言語なのですが、ケベック州はフランス語使用を誇りとしているのです。モントリオールはフランス本土よりもフランスらしい伝統が残されていると言われています。ビジネス中心街から地下鉄に乗って、数駅で旧市街に近い市庁舎のある駅に着きますが、歩いて旧市街に入るとまるでフランス中世に迷い込んだ感があります。その一角にノートルダム寺院があります。パリのノートルダム寺院とは違って、市街地区の一角ですのであまり目立ちませんが、中に入って見るとその美しさに驚かされます。祭壇の壮麗さも見事ですが、アーチ式の天井は緑地に白い斑点模様でビロード状に装飾されているのです。1983年8月に訪問した時の様子をご覧下さい!旧市街の写真は、家族が入ったものが全てで、単独のものがありませんのでスライドショーには入れませんでした。モントリオールは冬は寒く零下30度以下になることがあります。寒さに慣れていない私は、オーバーコートで外に出たのですが、冷たい空気で呼吸が苦しくなり、慌ててデパートに入って毛糸のマフラーと帽子を買い込み、マフラーをガーゼ代わりにして呼吸したことがあります。冬期での訪問は、しっかりした防寒対策が必要の様です。又、郊外にはパリ・モンマルトルにある有名な寺院と酷似したサクレ・クール寺院がありますので、訪問して見て下さい。
2003.01.25
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カナダの首都オタワはオンタリオ州にある小さく美しい町です。オタワ川にそって議事堂、政府建物、外国公館等が並び、対岸には美術館、ノートルダム教会等があって、静かに観光するには良い所です。又、近くを流れる大河セントローレンス川は無数の島(Thousands Islands)が散在し、遊覧クルーズも出来るのです。サラダドレッシングで“サウザンド・アイランド(千の島)”はそこで考案されたドレッシングなのです。カナダ最大の都市モントリオールからは車で1時間程東に向かって行けば到着します。国を代表する議事堂は、その国に算出する岩石を使って建てられます。日本では国内産の花崗岩が使われていますが、カナダでは石灰岩しかも無数の小さな動物が封じ込められた化石が使われているのに驚かされます。議事堂内見学ツアーは、フランス語・英語のガイドツアーがあります。カナダの公式言語は二つなのですから当然かも知れませんが、頂くパンフレット類も必ず二カ国語で記載されているので、ページが二倍必要なので多少とも煩わしい感じもあります。アメリカの連邦議会議事堂ほどの壮麗さはありませんが、内部は何となくシックな雰囲気で、美しいステンドグラスもそれを盛り立てます。付属する国会図書館も必見で、カナダ産の美しい木材で書棚・柱が構成された美しい円形の図書館となっています。1983年に訪問した際の写真をご覧下さい!但し、国会図書館の写真は1989年再訪して貰ったパンフレットからスキャンしたものです。対岸にあるノートルダム教会は、モントリオール程の壮大さはありませんが、観光客も少なくゆっくり見学出来るのが良いと思います。美術館には多分、日本の“根付け(印籠などを帯に止める道具)”の数多い展示があった様に思いますが、記憶違いかも知れません。
2003.01.24
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アメリカ政治の中心ワシントンは、Wasington D.C.と言って他50州とは違う特別区(D.C.=District of Columbia)となっています。此処は観光客として訪問しても、見るべき場所は多いのです。ワシントン記念塔、リンカーン記念堂、ジェファーソン記念堂は言うに及ばず、連邦議会議事堂(Capitol Building)、大統領官邸(ホワイトハウス)も事前許可も要らず見学出来ます。その他、スミソニアン科学博物館、スミソニアン美術館もありますので、一日では足りません。日本では国会議事堂は事前許可を申請し見学の際は国会議員等の付き添いが無ければなりません。又、首相官邸は一般国民には見学が出来ないと思われます。昔ながらの“知らしむべし、寄らしむべからず”の“お上”意識は抜けておらず、民主主義が十分機能していません。民主主義の大国アメリカでは、会期中・執務中を除いて、重要な会議場等が一般国民ひいては普く世界中の人々に、広く開かれているのです。最も2001年9月の同時多発テロ事件以降、警戒が厳重になったので、違いが出て来ているとは思いますが・・1983年3月にワシントン訪問した時の連邦議会議事堂の写真をご覧下さい!内部には見学に疲れた場合を想定して、ソファー等が備えられています。但し、官庁街周辺の住宅地区には1970年代から貧困な黒人層が住み始めましたので、中間階級の白人層は郊外に居住地区を移したと言われています。これは差別の問題でなく、地域の治安・教育での問題が大きいとされています。
2003.01.23
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カナダ・オンタリオ州の州都トロント市はカナダの中で最大の人口を誇る都市です。政治経済の中心都市なので、その発達経緯もある為か、バンクーバー市の様な緑濃い自然も無く、モントリオール市にある様な文化遺産も残っていない都市で、観光には一寸物足りない感もあります。それでも五大湖の一つオンタリオ湖の湖畔に発達した町なので、景観は良く無味乾燥な都市ではありません。観光客は、竹筒を割った様な奇抜な設計の新市庁舎、格式のある旧市庁舎付近に、多く見られます。CNタワーはコンクリート製のTVタワーとしては世界最高で、530メートルの高さがあります。そこには二つの展望台が設けられています。下部展望台と言っても350メートルの高さを誇っており東京タワーより高いのです。展望台の床は一部ガラス張りになっていますので、350メートルの足下が見えるのですが、強度は十分と言われても一寸怖い感じがします。上部展望台は450メートルの高さにあるようですが、私は体験していませんのでコメントのしようがありません。1983年に訪問した際は、古い格式のあるロイヤル・ヨークと言うホテルに泊まって新旧市庁舎を見学し、CNタワーに登って見ました。ロイヤル・ヨークはその当時でも古く、現在も残っているか否かは分かっておりません。CNタワー展望台から、オンタリオ湖の遠望を、中心街のビル群を下方に、足下にカナダ鉄道駅・操車場を足下に、見ることが出来ますのでお試し下さい!世界一の観光地であるナイアガラ滝へも車で1時間しか掛かりませんので、時間が少しでも許せば是非行って見る必要がありましょう。
2003.01.22
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ラスベガスからグランドキャニオンへは陸路で行くと砂漠地帯を走って5時間以上掛かりますが、軽飛行機による遊覧飛行では1時間以内で到着出来ます。 グランドキャニオン空港は国立公園の中にありますので、軽飛行機が発着するだけの小さな空港で、高原の樹林帯を切り開いて作られています。ラスベガスからの遊覧飛行はフーバーダムの真上を飛んで行きますが、巨大なフーバーが小さく見えます。その後巨大な人造湖のミード湖の中心をグランドキャニオン方向に向います。ミード湖を過ぎると山岳地帯となり、コロラド川が作った河岸段丘が現れて来て、段々と切り立った断崖の深さが深くなって行きます。峡谷の中心にはコロラド川が流れていますが、流れが急なのでしょうか不透明な流れであることが良く見学出来ます。空港はサウスリム(南崖)の国立公園管理事務所の近くにあり、樹林帯の中に整備されています。1972年3月での遊覧飛行をご覧下さい!出発する時は曇りでしたが、飛行中に薄曇りに変わり、グランドキャニオン到着には快晴となりました。1時間弱の遊覧飛行は、素晴らしい体験となりますのでお勧めです。但し、峡谷内は断崖から乱気流がありますので、天候によっては危険な遊覧になると思いますので注意する必要があります。最も危険と判断されれば、遊覧飛行は中止とはなりましょうが、自分で判断することで自己責任を明確にしなければなりません。危険を予知して断念するのも勇気の証でしょうから。グランドキャニオン国立公園については、1982年再訪した時の写真をご覧下さい。世界一スケールの大きい渓谷美-グランドキャニオン
2003.01.21
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フーバーダム・ミード湖を見学に行ったのは1972年3月のことでした。最初の海外旅行で車の免許も持っておらず、会社から米国大学に留学している人の運転で行ったのでした。フーバーダムは砂漠に湖をと言う掛け声から、当時のフーバー大統領がコロラド川の山岳・砂漠境界地帯に1931年建設を許可し、予定より2年早く1936年に完成し、完成式は次のルーズベルト大統領の臨席を以て執り行われたのでした。アーチ式の美しいダムは、高さ221メートル、幅が379メートルで、その高さは1958年まで世界一の高さを誇っていました。又、ダムによって堰き止められた人造湖はミード湖と呼ばれ、広さは日本の琵琶湖の二倍で、湖岸線の長さは885kmともなり、貯水量は350億トンに達するので日本の合計貯水量を凌駕するのでは無いかと言われています。水力発電所も装備し発電量は150万kWにもなります。日本で名高い黒部ダムは高さ186メートル、幅は492メートルと匹敵する大きさですが、貯水量は僅か2億トン・発電量は34万kWしか無いのです。完成を記念して、アーチ式通路の一角には、オスカー・ハンセン氏による記念彫刻があります。映画で有名なオスカー賞と同じ名前ですが、同一人か否か確かめていませんが、何となく似ている雰囲気の彫刻でした。空撮写真はラスベガスからグランドキャニオン遊覧飛行の途中で撮ったものです。又、1972年3月は渇水期だったのかミード湖の水位はとても低く、アーチ式通路からは水面が良く見えませんでした。そこで、ミード湖展望台にも行ってみました。コロラド川の急流は、山岳高原を数百万年浸食し続け、壮大なグランドキャニオンを創り上げました。しかし、その浸食量は凄まじく、その景色変容が問題にされたのですが、下流にあるこのミード湖、上流にあるパウエル湖によって水量が成魚出来る様になって、その心配は無くなったと言われています。
2003.01.20
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ボストン美術館の門外不出と言われたゴーギャン畢生の大作が今年秋からのオルセー美術館の特別展に貸し出されることになったそうです。ゴーギャンはパリで生まれ、中年から画家に転身、1903年に南太平洋で寂しく死んだのでした。即ち没後100年の特別展を生誕の地パリでする為の4ヶ月間の貸与の様です。「我々は何処から?、何者?、我々は何処へ?」と言われるこの作品は、傲慢で放蕩生活をしていたことから家族からも見放されたゴーギャンを唯一応援していた実の娘が突然の交通事故で死去してしまって、自殺未遂も起こす程実生活に絶望して人生を見つめた結果の作品と言われています。1897年の製作で、経済的な貧窮状態からフランスに帰国するのですが、いたたまれず再度南太平洋に移住し寂しく死ななければならなかったのです。現在は準備の為収蔵庫に入れられていますので、ボストン美術館に行っても公開展示は行われていない様です。1982年夏に訪問したボストン美術館をスライドショーでご覧下さい!一般公開展示なので、この畢生の大作も混雑もなくゆっくり鑑賞することが出来ました。ボストン美術館と日本美術と関係は深く、明治時代での文明開化で欧米文明のみを尊重し“廃仏毀釈”で滅亡の危機に貧した日本古来の美術を、岡倉天心と共に再生させたフエノロサが帰米後、ボストン美術館の美術部長になっていたのです。その当時の消滅を免れた国宝級の優れた美術品の収蔵がこの美術館の一つの重要なテーマとなっているようです。現在の日本人としては嬉しい様な、又国外流出してしまった悲しい様な複雑な思いに駆られます。ニューヨークのメトロポリタン美術館での大混雑と較べ、買い物目的の日本人観光客も少ないので、このボストン美術館は人混みを避けて、時間をじっくり掛けて鑑賞出来るのが最大の売りかも知れません。
2003.01.19
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シカゴ美術館を訪問したのは1976年春の一回だけでした。その後何回かはシカゴをビジネス折衝の為訪れることはありましたが、日帰りであったりして泊まる機会も無かったのです。シカゴ美術館はニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン美術館と共にアメリカの三大美術館として知られています。フランス印象派の絵画、仏像や磁器等のコレクションでは世界有数と言われていますが、シカゴはニューヨーク、ボストンと違って観光客も少ないので、入館者もそれ程多く無くゆっくりと鑑賞出来るメリットがあります。美術館の場所はビジネス街の中にありますが、シカゴの中心街通りは長く数キロにも達しますので、タクシーを使って行くのが良いと思います。最大の注目絵画は、点描の大作スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」だと思いますが、その他のヨーロッパ絵画の名作も多数所蔵されていますのでゆっくりと鑑賞することをお薦めします。日本からの「源氏物語絵巻」の他、絵屏風も展示されていますので注意して、自分の国の伝統文化にも触れて見ることも出来ます。1976年3月末のシカゴ美術館の様子を覗いて見て下さい!
2003.01.18
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ルーブル美術館は世界最大の収蔵量を誇る美術館なので、1日なり半日なりの短期間で十分に鑑賞することは出来ません。最初に、入口で各国語の案内書を入手し自分が鑑賞したい順番を決めて、其処だけを集中的に鑑賞する必要があります。エジプト古代美術、ギリシャ・ローマ時代、東洋美術、彫刻類、王冠・壺等の美術品、家具、絵画等多種多様なのです。ルイ14世の王冠はイギリス王朝に次ぐ大きなダイアモンドが散りばめている逸品ですが、探すのは大変です。特に絵画はイタリア、スペイン、フランドル、オランダ、フランスの多数の絵画が時代別に陳列されているので、順番に見ていくと数日掛かることになってしまいます。それに加えて、入館者も非常に多く混雑が激しいのです。「モナリザ-ダヴィンチ」、「ミロのヴィーナス」の前は時間によっては団体客が来襲しますと見ることも困難となりますので、暫く様子を見る時間を取って置かなければなりません。私の場合は二回程しか入館したことはありませんが、「ミロのヴィーナス」、ダヴィンチの最後の三作、レンブラント、フェルメール、ドラクロアを集中的に見て来ました。20年程前は、日本での海外旅行ブームが来ていませんでしたのでそれ程混雑はしていませんでした。中央広場のガラスのピラミッドからの地下入口が出来てから、観光客は飛躍的に増大しているようです。1983年当時の案内書を含めて、ご覧下さい。ミロのヴィーナス付近はゆったりと見学出来たのです!
2003.01.17
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オルセー美術館は、鉄道線路も無く残っていたオルセー駅を改造して作られ、開館したのは1986年12月のことでした。ルーブル美術館とはそれ程離れていませんで、セーヌ川の対岸に位置しています。印象派以降の絵画がルーブル美術館から移されて、展示されているのが魅力です。ルーブルを含めて、通常の美術館では中世の宗教画、ルネッサンス絵画から順番に展示されているので、丹念に鑑賞して行きますと是非見たいと思っていた時代の絵に出会う頃には疲れてしまうのですが、オルセー美術館では、古典派の雄であるアングルから始まりますのでそんなことはありません。思い切り、好きな絵だけを好きな時間だけ楽しめると言う様になっている美術館なのです。その為、世界各国からの入館者は極めて多く、開館時刻前から長蛇の列となります。中学生を引率している美術の先生などが、列の中で仏語・英語なりで説明している姿も多く見られます。日本人も印象派、後期印象派については学校で教えられていることが多く、日本人入館者も多数で館内には日本語の説明書も備えられています。元々は駅舎のいう制約から、面積は広くありませんので展示は高さ方向に整備されています。ゴッホ、ゴーギャン等の後期印象派の展示室は多分駅舎の屋根の上4階か、5階に新設されているスペースに設けられています。1991年に訪問した時は、開館時間が午前中のみで二階以上は閲覧出来ない日となっていましたので、珍しく空いていました。入館料金も半額で、その時は写真撮影は出来ました。1998年再訪した時は、入館者で溢れかえっていました。その時の写真が残っていませんので、写真撮影は禁止となったのかも知れません。1991年に訪問した時の写真をご覧下さい! それにしてもアングルの名画「泉」の表面防護ガラスに室内の様子が写ってしまっています。ルーブルにあった時にはガラスは無かった様に思いますが・・
2003.01.16
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1933年、日本の中国侵略を咎める決議(賛成42カ国に対して反対は日本の只1国でした)に対して、日本は国際連盟を脱退して“栄光ある孤立”の道を選びました。既に文民政治は5.15事件での犬養首相暗殺によって影をひそめ、1932年満州国を創立し、傀儡の溥儀皇帝を宗主に祭り上げていたのです。往時を知る人は「私は当時小学生だったけれども、外務大臣の松岡洋右さんが席を蹴って国際連盟をを脱退するのに、国民は皆、拍手喝采と言う感じでした。」と言っています。日本は世界を敵に回して、以後、戦争へと突き進んでいったのです。政治家の大政翼賛会参加による抑圧、学生動員を含む国民の総徴兵制、工場労働への国民の徴用、朝鮮人を日本国臣民としての強制徴用と軍事体制を確立して行きました。欧米を中心としたABCD(アメリカ、英国、中国、オランダの略)ラインに石油禁輸による経済封鎖に対抗して、インドネシアの石油資源を求めて南方に侵略を開始し、ついには太平洋戦争に突入し、日本国を破壊させてしまいました。あの時のことを、日本は忘れても世界は忘れていません。中国、朝鮮での戦後補償の解決が未だされていませんが、軍国日本での最大の被害者は日本国民であったことも忘れてはならないと思います。北朝鮮は将に“この道”を追っているのです。共産主義による工業発展・経済発展に破綻し、天候不順も一因かも知れない農業生産の不振から国民生活は事実上出来なくなりました。そこで、国民の不満を抑える為軍部独裁による戒厳令状態が続け、諸外国による食糧支援、医療支援も軍部によって抑止され国民レベルに展開させないのです。それでも、共産主義による朝鮮統一と言う夢を追って、偽ドル札製造、麻薬・ロケット輸出によって外貨獲得をすると共に、日本人・韓国人拉致による他国侵入・他国攪乱を拡大させています。今回の核拡散防止条約(NPT)の脱退声明に対して、朝鮮国民は拍手喝采で世界を敵に回して、米国帝国主義への非難を声高に放映しているのです。この様な情勢は、従来の友好国である中国、ロシアもこれでは困惑するばかりでしょう。軍国日本の轍を踏んで、自暴自棄の戦争突入だけは避けなければなりませんが、譲歩を前提とする対話では解決となり得ません。共産主義・軍国主義による体制は崩壊寸前ですから延命に荷担することなく、押しつぶされている北朝鮮国民を救う国際舞台への復帰を第一に考えて、困難な国交正常化交渉をして行かねばなりません。ナチスドイツの強硬姿勢に譲歩した英国首相チェンバレンは一時的に領土割譲をドイツ近隣国をせまり、融和政策が効をそうしたかに見えましたが、ナチスのポーランド侵攻によって一敗地にまみれたのです。
2003.01.15
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彼女はモーツアルト弾きとして1970年代に名を馳せ日本での演奏会も盛況で、私も「戴冠式」等のレコードを持っていました。しかし、アナログレコードプレーヤがもう無いので聞くことが出来ません。僅かにカセットテープでのK.467(Elvira Madigan)等が残っているに過ぎません。CD時代になってからは、ブレンデル、内田光子のCDの方に移ってしまいましたので、ヘブラー女史のピアノ協奏曲CDは持っていないのです。彼女の演奏は、内田光子の感情移入が激しい演奏と較べ、譜面にあるがままに弾くことで知られています。演奏する前から既に全てが徹底的に考え抜かれ、検討されて整然と弾くのです。彼女の思いつきとか恣意的なものは無く、徹底的に忠実に従うのですから、これ位作品に献身的な演奏をする人も無いのです。彼女の緻密な演奏は、如何に彼女の本性に合って、又如何に自分の理想を自然に追求している印象を与えることに成功しているのです。彼女が過去に教えられ、現在教えているモーツアルテウム音楽院の目標が彼女を介してにじみ出てきているのだろうと思われます。彼女の特質は、主任教授として後世に間違い無く伝えられるのだろうと安心感に似たものも感じざるを得ません。モーツアルト6才の時の作品を演奏している彼女を聴いて下さい!
2003.01.14
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油絵は、気に入らなくなると上塗りして全く新しいものに出来るので良いと思い、時に触れ描いていたのですが、此処七年程遠ざかっています。全くの自己流で「油絵入門」等の本を買ってきて始めた経緯もあって、別にサークルに入っているのでも無いので誰かに見せるとか展覧会に出品すると言うのでもありませんので、強制力の無いことがその一因かも知れません。思い起こしますと、1970年頃に描いていた油絵は欲しいと言う人に差し上げたりして散失してしまっています。1979年からの米国駐在時代には絵の道具もどこかに行ってしまい、全く描かなくなりました。1987年から急に又描いて見ようかと言うことで、絵の道具専門店「世界堂」で一式を買い込み、米国での備忘録の目的を中心に8年程続いたのですが、実母と義母が亡くなったのが意欲を無くす結果となったのかパタリと描かなくなってしまいました。その間も米国人を含めて、描いた絵を欲しいと言われると差し上げていましたので結構散失してしまっています。私の場合は、絵を描く動機がどうも不純のようなのです。1970年に始めたのは、担当する仕事が単調に思えてこんなことで良いのかと疑問を感じてのことでした。1987年からは米国向け輸出工事のプロジェクトマネージャとなって、毎月1回は米国出張してのプログラム調整をしなければならず、体も頭もボロボロになる位に疲労してしまいましたので、これでは仕事に潰されてしまうと思い、疲弊した精神をリラックスさせる為に再開したのです。そんな風でしたから、1996年からの窓際族の閑職になった途端に描く意欲を失ってしまったのだと思っています。しかし、2000年に自己都合退職してからは、毎日が日曜日となっていますので、逆に義務感と言うものが欠落してしまっています。今年は、そんな緩んでしまったタガを締め直す意味で油絵を再開出来れば良いなと言う気持ちが芽生えて来ました。どこかのサークルか教室にでも通った方が良いかも知れませんので、検討して見ようと思います。 「上五島風景」は亡き義母を偲んで描いたもので、「山中湖入口からの富士」は実母を偲んで描いたものです。
2003.01.13
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17世紀ヨーロッパの最大の頭脳、物理学者で数学者はイギリスの造幣局長官として、イギリス貨幣制度を安定させ且つアイルランド収奪に寄与する所が大きかったと言われています。アイルランド人であったスウィフトはその収奪ぶりを批判するのを目的として、ニュートンを「巨人ガリバー」に見立てて諷刺せざるを得なかった様なのです。それ程収奪は組織的に行われたので、スウィフトは弾圧を恐れ諷刺小説という形でしか対抗出来なかったのです。現在では両国間に協定が成立し沈静化していますが、1949年のアイルランド独立後も、様々な対立や暴動の続く、所謂アイルランド問題の発端を作ったと言う説さえあるのです。ニュートンは1643年に月足らずの未熟児として生まれましたが、父は誕生前に死亡しており、母親はその後再婚してしまい養育費を送って来るだけの孤児となりました。少年期から「村の小魔術師」として奇妙な玩具を手作りし、青年期からは錬金術への傾倒が始まり、秘密裏に一生続くことになりました。幸いにしてケンブリッジ大学に進学することが出来たのですが、貧乏だったので、寮費の免除と引き換えに雑役をし、その間にデカルトやパスカルを学んだようです。20代半ばで教授に推薦されるほど、頭脳明晰だった様ですが40代半ばに大学行政に手腕を発揮し、名誉革命後は政界入りを策すのですが果たすことが出来ませんでした。結局、造幣局長官になって莫大な財産を蓄え、王立協会会長としてイギリス知的階級に君臨したのです。彼の著書「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」は、フランス・パリサロンの貴婦人達にとって聖書となり、啓蒙主義者を鼓舞する「新秩序原理を展望させる」革命の聖書でもありました。アメリカ独立戦争を、又フランス革命の原動力になったと言われているのです。ニュートンは、一生を「女嫌い」で通し、晩年には深紅の家具の部屋で暮らしたと言われ、それは何者かに向けられた怒りの色でありました。表で概念の実体を神の栄光と共に明らかにしつつ、陰の部分に深いデーモンの深淵がある、深紅の怒りに包まれた凄まじい老人であった様です。出典は「魔術から数学へ」森毅-講談社学術文庫です。
2003.01.12
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今では、音楽の巨塔としてバッハの地位は揺るぎないものがありますが、彼の生きていた時代はテレマン、パッヘルベルに較べて評価は低かった様です。彼は10才の時に両親を失い、長兄に養育されたのですが経済的理由から音楽大学に行くことが出来なかったことが、音楽的才能を云々する前に、世の中の尊敬を得るのに困難さがあった様です。ライプチッヒの聖トーマス教会の合唱長に就任するに際しても、テレマンが断り、次の候補も駄目になり、三番手としてバッハが選ばれるのですが、「最良の人物が得られなかったのだから、中ぐらいの者で我慢しなければなるまい」と言うのが選定理由でした。しかも、晩年は作曲法は古いと言われ半ば忘れられた存在になり、眼の手術にも失敗し盲目となってしまうのです。そんな彼を暖かく支えたのは、二番目の妻アンナ・マグダレーナでした。彼女が綴ったと言う想定で書かれたこの本「バッハの思い出」は真筆か否かは1936年発刊当時からあった様です。訳者の山下肇氏はあとがきで次の様に述べています。戦後版(1962年)には、あるドイツ人読者の読後感が「私の長い読書生活の中で、この本は最愛の書と言って良い。この魅力的な文学ほど、ドイツの家庭を美しく深く描いた書物は無い。」として紹介されている。このドイツ人読者は、本書がマグダレーナの真筆かどうかと言う疑念を承知の上で、優れた文学作品であることを主張しているのです。その後、この疑念も次第に明らかになり、本書が真筆でないと言う見解が有力視される様になっているが、だからと言ってバッハの人間像の忠実な再現、資料としての正確さ等、その価値がいささかも減じているとも思われない。バッハの再評価は死後100年を経て、メンデルスゾーンにてマタイ受難曲の演奏が行われて以後のことです。それ以降は彼の評価は高まる一方で現在に至っています。バッハの平均率ハ長調の前奏曲をグノーが歌曲に編曲した“Ave Maria”をお聴き下さい
2003.01.10
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朝日新聞で連載されていた「大学の力(転機の教育)」が2003年1月9日の8回目の「進む国際化」で完結した。シリーズ全ての項目にて問題提起に終わっていたが、考えさせられたことが多かった。大学教育でも、年々日本脱出組が増えている現状を鑑みると、教育機関の品質保証が問われ、再検討されるべきだと言うのです。経済協力開発機構(OECD)加盟国では、少なくとも4兆円と試算される高等教育サービスは、今や貿易交渉のテーマである。世界貿易機関(WTO)の交渉の場で加盟国が自由化要求を出し合った所、米、豪、中国等8カ国が日本に「制限無しの自由化」を求めて来たと言う。日本には米国大学の分校はあるが、文科省は「大学」と認定していない。それが外国には「閉鎖的」と写る。大学の質を保証する為、国連ユネスコはフォーラムを設け、国際的な品質保証の枠組みと、高等教育の供給者の倫理規定を作ろうとしている。根幹は「サービスを受け入れる国は、消費者である学生を保護する義務がある。」と言うことにあると言う。従来、日本の大学は受動的で何もしていなくても学生が殺到し、教育機関としての経営が可能でありました。その卒業生を受け入れる企業群も、新卒者を優先的に採用する暗黙の体制にあり、卒業後勉学意欲に燃え、海外の大学で研究に従事すると、企業の正式採用枠から外れて不当な扱いを受けるか、仕方なく海外で活躍する場を見つけなければならかったのです。しかし情勢は一変し、少子化の影響を受けて学生が集まらず、大学経営は危機に瀕して来ました。差別化を図らないと生き残りが困難となったのです。一方、企業も国際化への変貌無くして生き残りが出来ず、積極的か消極的かを問わずグロバリゼーションの大波に洗われることとなり、海外教育を受けた学生を採用せざるを得なくなったのです。これだけカタカナ英語の氾濫している日本では、ある面ではチャンスを増やす近道かも知れません。しかし私自身は今でも、創造性を発揮するには母国語で物を考えるのが必須条件だと思っていますが、日本での教育機関がそれに応えられない場合は海外で外国語教育を受けて後、時間を掛けて咀嚼して自分のものとしてから母国語で展開することも出来ると信じています。私が住んでいる近くでも米国テンプル大学がありましたが、既に閉鎖されてありません。在校生なり卒業生はどうなったのか、教育経営が破綻した影響を受けて無駄な体験をしたのか心配です。いずれにせよ、教育機関の品質保証を問うて見るのは良いことです。そうすれば安易な開校・閉校も無くなり安心した教育を受けることが出来、日本の再生に寄与する所大だと思っています。
2003.01.09
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ヨーロッパの大都市は海沿いの港湾都市としてより、大河沿いの河川都市として発達している例が多い様です。最も、人類の文明の発達が、古来から川を中心に発達して来た歴史から考えると当然なのかも知れません。エジプト文明 - ナイル川メソポタミヤ文明 - チグリス・ユーフラテス川黄河文明 - 黄河インダス文明 - インダス川大河は、飲料水および生活用水の水源として利用され、且つ水利輸送として利用することで各地との交易が盛んになることで、文明が発達することが出来たのです。一方、河口近くの港湾都市は、川の水源は塩分を含んだ汽水となっているので飲料水としては別に求める必要がありました。又水利輸送手段として海上船舶は、嵐に備えて堅牢で大型である必要から、建造技術は時代を相当下がらないと確立されていなかったことから発達は遅れました。内陸の川とは言っても、ローマ中心を流れるテベレ川は水質が悪く飲料に適さない為、ローマ人は遠くの水源から水道設備を構築して供給する技術を発達させました。ローマ帝国軍が駐屯したヨーロッパ各地で彼等は病気感染を怖れて川の水源を飲料水として使用せず、水道設備を発達させたのです。ロンドンは彼等に席巻されたとは思いませんが、ロンドン付近のテームズ川は河口に近く、その水位は潮の干満によって6m程変化する様ですので、水質は汽水で飲料水として利用出来ません。水道発達後の特異な都市かも知れません。それに引き換えヨーロッパ大陸側の大都市は、殆ど大河沿いに発達しています。パリを流れるセーヌ川は、未だ中流域にあり比較的水質も良く流れは思ったより速いのです。ノートルダム寺院のあるシテ島では中州の島で流れが二分され、小川の様に狭くなっています。ドイツを代表する大河ライン川は汚染されていますが、これはローマ軍団が駐屯した時に水道設備を遺して行ったことで水源としての役割を放棄した結果だと思われます。ローレライの急流を過ぎた下流域にある、ボン、ケルン、デュッセルドルフでは悠々たる大河の様相です。フランクフルトを流れるマイン川は清流とまではいきませんが、それ程汚染されていないと思います。かえって上流のヴュルツブルクでは茶色に見える濁った小さな流れの様です。ハイデルベルクはネッカー川と丘陵地帯が良く整合された町造りがされている様です。此処の流れも綺麗に思えました。ヨーロッパ最大のドナウ川も上流域にあるアインシュタイン生誕の地ウルムでは狭く急流ですが、既に清流ではありません。丘陵地帯から山岳地帯に移動するに従って、町中に清流が確保されています。ロマンチック街道にあるランツベルクを流れるレヒ川、ザルツブルクでのザルツァッハ川は冷たい清流で清涼感を満喫出来ます。プラハを流れるブルダバ川(モルダウ)は既に大河の様相ですが、釣り人が散見されるので水質は悪くないのだと思います。プラハ城と中心街を分断している川で、カレル橋は観光のメッカとなっています。フランスのリヨンはローヌ川に沿って発達していますが、河岸丘陵の高台にはローマ帝国の駐留跡が残されている古い町です。此処も平地なので清流ではありませんが、あまり汚染はされていない様でした。ヨーロッパの都市と川の様子を数例スライドショーでご覧下さい!
2003.01.08
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2003年1月4日朝日新聞の1面に「大学の力(転機の教育)」シリーズの第三回として「産学連携」が掲載されました。大学発の研究成果を事業化を通じて産業の発展に繋げ、競争力回復を目指す「産学連携」が、ここに来て急速に発展の兆しが見えて来た。「産」は不況で大学の技術開発能力を期待し。「学」は国立大法人化を控え、社会との接点強化に生き残りをかけている。つまり、危機感がバネとなって急接近した。ただ、産業との壁を完全に崩すのは、ベンチャー先進国の米国でも慎重だ。MITは学外での教員のコンサルタント活動は“一週間に一日迄”とルールがある。教育研究活動を疎かにしない為だ。MIT技術移転機関のウィルソン所長は「研究成果をどう使われるかを皆が考えることは大事だが、それが学問の自由の放棄に繋がってはならない。」と言うのです。しかし、主要企業の経営者は人材養成機関としての即戦力を育て得ない大学に不満を感じ、産学連携に関心は高いが、技術移転ノウハウ・環境整備の不足から具体的な成果に結びついていないと考えている様なのです。そうした不満意見の中で阪急百貨店社長の椙岡氏が「集団の時代から個の時代へと確実に変化している。より高い専門教育よりも個の時代の生き方のベースになる所を充実して欲しい」と述べていますが果たしてそうでしょうか?戦後教育は戦前の集団教育の反省から個の教育を目指して始められました。しかし、文部省(現在の文科省)の指導により、日本型の経済成長に沿うべく徐々に集団教育に変質させられたのです。現在の経営者はその経緯を体験している筈で、その推進の応援者でもありました。従って、不満を述べる経営者が、その学生時代に創造力豊かな即戦力として育てられたとはとても思えません。物量の無い時代に育った彼等は何とか勉強・努力して、何とか会社に就職して物を得ようとしたに過ぎません。既存の経営形態を持続する為に彼等なりの希望を述べているのですが、飽食の現代にあっては現在の学生には通じないのです。功利主義に基づいたマスメディア主体の物質文明では、彼等の「生き甲斐とは何か?」の問いに対する回答になり得ません。親の世代が懸命に働いても人生に得る所が少ないと見えるのです。全ての人が技術を好きな訳でなく、全てが商売を好きでは無いのですが、嫌々ながらその分野で活動しなければ生活していけないと見えるのです。やはり、適材適所に人が配置され、何か“Project X”が成し遂げる組織に貢献出来そうだと判断出来れば、彼等は生き甲斐を感じ苦しいことも厭わなくなる筈で、創造力は必然的に生まれます。技術担当、経理担当、営業担当は各々その得意分野で能力を伸ばし、プロジェクトに貢献出来る人材が確保されれば日本は安泰です。そこで今は廃れてしまった儒教の精神を再認識することも必要でしょう。先ず“隗より始めよ”で、経営者自ら功利主義を離れた「自分を知る構造改革」が必要だと思うのです。講談社学術文庫「大学」-宇野哲人全訳注の序文に曰く「天が人を生む以上は、きっとこの人に仁義礼智を生まれついて与えたはずである。しかしながら、人の気質は、人々によって異なり、誰でも聖人君子の如く清き気質を受けて生まれたのでは無く、或いは濁った気質の人もある。そこで人々が皆、その本然として備わっている仁義礼智の徳を知ってこれを全うすると言う訳にはいかない。本然の性に四徳の備わっていることも知らず、これを失う人も少なくない。万民本然の性を知らずしてこれを失うに当たりて、一度聡明叡智にして、良く自分の本性を明きらめ尽くす者が、その間に出づれば、天は必ずこの人に命じてもって天下の万民の君となりてこれを治め、師となりてこれを教育せしめて、もって万民をして各々その本性の善に立ち帰らしむるのである。」
2003.01.07
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一昨日、夏の湖を紹介しましたが、寒い冬には夏の美しい滝を思い起こして見るのも一興かと思います。滝の世界代表格は何と言っても米国・カナダ国境のナイアガラ滝、半分崩れ堕ちたアメリカ滝、馬蹄形のカナダ滝を上から、横から、下からと色々鑑賞できるように整備されている観光メッカです。「霧の乙女号」に乗ってカナダ滝の滝壺近くまで迫ってずぶ濡れになるのも良い思い出となります。米国ヨセミテ公園には、数多くの美しい滝があります。ネバダ滝、霧のベール滝等々ありますが、代表格はヨセミテ滝です。二段となっていて総計高さは400mに達します。カナダのバンフ国立公園付近にも美しい滝があります。ジャスパー国立公園にあるアサバスカ滝は、落差はあまり無いのですが、清流と山岳が良くマッチしている美しい滝です。バンフの隣に位置するヨッホー国立公園のタカッコー滝は訪れる人も少なく、滝壺付近に行って霧状のマイナスイオンが沢山享受することが出来ます。スイスのラウターブルンネンにあるシュタウプバッハ滝はオーバーハングした断崖から人家近くに水流が堕ちてくるので驚きます。美しい滝です。開かれた渓谷と居住地区が不思議にマッチした美しい滝です。 古い写真が多いのですが、スライドショーでご覧下さい
2003.01.06
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ヘルマン・プライ(1929 -- 2001)はドイツ・リート界において、フィッシャー・ディスカウと天下を二分するバリトン歌手であったが、惜しくも一昨年、帰らぬ人となってしまいました。ヘルマン・プライは、フィッシャー・ディスカウの知的分析力と明晰な歌唱理論で唄うのに較べ、先ず重要視したのは「初心の感動」の様です。プライは常に胸一杯の心のときめきを、ふるえを、感動を訴えかけるのに情熱を燃やす人でした。プライは、その明るい発声法によって、オペラ歌手として「フィガロの結婚」でのフィガロ等の当たり役があるのですが、彼はゲーテの言う“人が苦しみのあまり黙する時、神は何を悩むかを言い表す力を与える”、そうした心の極限状態を訴えようとするひたむきさを唄う永遠の青年でもありました。「愛するツィターよ」(K. 351)では、ツィターの替わりにマンドリンが使われていますが、マンドリン伴奏は日本人の越智 敬氏です。録音は1975年11月ドイツのミュンヘンで行われました。
2003.01.05
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2003年になって3日が過ぎました。新年最初の日記はやはり旅行ジャンルに登録していますので、それに纏わる情報に致します。東京郊外の多摩地区では珍しく3日間連続の雪の天気となりました。寒くて天気が悪いと、無性に美しい夏の湖が恋しくなります。美しい夏の湖はアメリカ・ロッキー山中に、カナダ・ロッキー山中に、又ニュージランド南島に沢山数え上げられますが、半透明なトルコ石色をした幻想的な湖となると数が限られます。カナダ・バンフ国立公園にあるペイトー湖は“ロッキーの宝石”と呼ばれるルイーズ湖をジャスパーに向かって北上した所にあります。湖畔にはたどり着けませんが、展望台からの美しさは格別です。多分カナダ南部では、トルコ石色をした唯一の湖です。ニュージランド南島には複数道路沿いに見つけることが出来ます。テカポ湖は“良き羊飼い教会”内部窓から望む景観は素晴らしいの一言です。その近くにプカキ湖がありますが、トルコ石色の湖面に浮かぶクック山の眺望は長時間眺めていても飽きることはありません。トルコ石色になるのは、湖周辺の岩石が微粉となって湖水中に浮遊して太陽光線を乱反射させることによるのですが、やはり氷河による長年に亘る浸食することで、岩石の細粉が紛れ込むことが必要の様です。太陽光線の影響でもその色が微妙に変化するようで、又月明かりでも少し白く発光していると思います。氷河から解け出る水流は、乳色に白濁していますので、それが湖水中に絶妙に混入する条件も必要で、氷河湖が全てトルコ石色にならないのは不思議でもあります。スライドショーでトルコ石色の湖をご覧下さい。
2003.01.04
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