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加藤周一は自分の周辺のことを語らない。もちろん「羊の歌」「続・羊の歌」という自伝はある。しかし、それさえも1960年で「審議未了」ということで終わっているし、それの続編の短文も書かれているが、70年代で終わっている。 かつて「居酒屋の加藤周一」を企画した井上吉郎氏はは私にこう言ったことがある。「加藤さんの理論なんか研究するのはやめて、もっとおもしろいものを研究したほうがいい。たとえば、彼の朝日新聞連載の「夕陽妄語」に時々問答形式の話のときに高校生が出で来るだろう?彼はいまではもう立派な大人なんだけど、じつは彼の子どもなんだよ。しかも最初の奥さんの子どもなんだ」「というと、60年代のドイツ人の奥さん?」「いやちがう、加藤さんはその前にすでに結婚している。いや、実際の結婚はしたかどうかははっきりしない。「羊の歌」に京都の女というのが出てくるだろう?加藤さんはそのとき結婚までいっていたんだけど、結局わかれてしまう。その経緯がよくわからない。でも、どうやらそのとき一人息子をもうけていたらしいんだよね」「えっー!そんなんですか!」「そのあたりを君に調べてもらいたいんだよ。どうも「夕陽妄語」に出でくる高校生はその時の息子みたいだし、まるで夢の中のこまっしゃくれた加藤さんの分身みたいに出で来るものだから、彼が一体どんな大人になっているのかもすごく気になるんだ」「それはものすごく魅力的な話なんですけど、私の手には負えない話です」 という、もうすでに15年くらい前の話なのでこの会話自体の信ぴょう性は留保させてもらいたいが、そのあと唯一加藤氏と懇談会を持った時にある人が「加藤さんの教育に対する意見を聞きたい」と質問したことがあった。「その質問に対しては、私は答える資格がない。子供を育てるということは、本当に大変なことです」と言った。みんなは(まずいこと聞いたかな、という思いで)それ以上聞くことができなかった。その話とはまた別の流れで加藤氏は「今まで三回結婚をしたけど」と言ったのである。みんなは「えっ」と思った。「羊の歌」で国際結婚をしていたのはみんな知っていた。けれどもあと2回いつ結婚したのか。これもみんな勇気がなくて、誰もそれ以上突っ込んで聞くことができなかったのである。そのあと、もとの外国人の奥さんとは離婚して、いまの矢島翠さんと一緒になっているのがわかったがつい最近である。けれども、矢島翠さんと共著で「日本人の死生観」を書いたのが、70年前後だったと思うから、実際二人が一緒になったのは、もっとずっと前だったのだろうとは思う。 話はそのことではない。問題はあと一回の結婚は何だったのか、ということだ。それが50年前後の「京都の女」だったのではないか、と私はずっと思っている。 ともかく、著作集にも加藤氏の「年表」はあるのだが、「誰誰と結婚して子供をもうけた」という話は見事なまでに削られている。だから、加藤研究で人より違うことをしようとすれば、この部分を明らかにすればいいという、井上吉郎氏の意見は正しいということになるだろう。これは下世話な三面記事的な関心ではない。最近になって、九条の会の一番の仕掛け人は加藤周一ではないか、ということが明らかになってきた。先の朝日の記事の「居酒屋のムッシュ」では、九条の会の事務局長小森陽一が説得されたのは03年秋加藤周一氏からだということを明かしている。「改憲反対の運動を呼びかけなければ、手遅れになる」その年の7月。党首討論で、戦闘地域への自衛隊派遣は憲法に違反しないのかと問われた当時の小泉首相は「どこが非戦闘地域か、私に聞かれたってわかるはずがない」と、ひとごとのように答えてていた。喫茶店で、加藤は続けた。「いくつにも分かれている護憲運動を、知識人が協力して一つにつなぎたい」言葉には幾分焦りが混じっていたように小森は感じた。加藤の肝いりで、翌年6月に「九条の会」が発足する。 九条の会の広がりが、危機的だった憲法改悪問題を転換させたのは今ではほぼ常識になりつつある。加藤氏は自らの中の「平均的な日本人」に付いて常々語り、「日本のために」発言していると、常々語ってはいたが、ついには「家族のために、子孫のために」という発言は一度もなかった。(きっぱり)加藤の中での「家族問題」はどういう位置づけなのか、日本思想史を語るときに、加藤周一は必ず問題になるが、その全体像を明らかにするためにもこれは必ず問題になる。加藤氏の戸籍謄本を取よせて、関係者にインタビューする等、私はそこまでする気力はない。誰か調べてくれないだろうか
2009年11月01日
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貧稿である、低調である、と云ふ。云ふほうも面白くないが、聞かされる方も大抵飽きたであろう。…という風に、このアンソロジーは始まる。藤澤正のペンネームで書かれた高校生編集の雑誌のあとがきなのだ。この青年客気溢れる文章はその20年後の文体とはまた違っていてほほえましい。ただ、ただ、三木清氏は一高の講演で日本には学生を措いて本当のインテリゲンチアはないと言ふ意味のことを宣告した。この宣告の意味することはそれ(文化的情熱のこと私注)から逃避することである。わたしの考へでは同時にそれは敗北を意味するのだが。当時の日本の最高の知性である三木清と自分たちを同等においていることにはやはり末恐ろしいものを感じるのである。(大学時代には集会で横光利一を苛めたというのは有名な話)加藤周一が書いた加藤周一これは1938-2008にかけて書かれた加藤周一氏の「あとがき集」である。その大部分は一度は目を通したものであるはずなのに、このように年代順に並べられ、一通り読むと、改めて氏の文章の変遷、思想の変遷が分かって非常に面白かった。いくつかの画期がある。敗戦、留学、「三題話」、「言葉と戦車」、「日本文学史序説」、「加藤周一著作集」…。1979年著作集14の後がきのなかで加藤周一氏は「世の中の基本的な構造が変わらぬ以上、その世の中に対するわたしの立場が基本的に変わるはずもないだろう」と書いた。氏は73年「歴史・科学・現代」という対談集のあとがきのなかで「わたしは座談を好んで、演説を好まない」と書いている。しかし、96年に「同時代とは何か」という「講演集」が出る。10年にわたった講演をまとめたものだという。だとすると、氏は86年くらいから講演を始めたということになる。「世の中の基本的な構造」のどこが変わったのだろうか。中曽根の不沈空母発言はこのころであった。90年代から、「日本美術史序説」の構想があったことも、あとがきでわかる。「鴎外・茂吉・杢太郎」も未完成に終わる。それを犠牲にしてでも、90年代から本格的に講演や対談が増えていく。九条の会を発足させる十年以上前から、氏は次第と社会に対する働きかけを強めて言ったということなのだろう。また変わらぬものもある。「日本文化における時間と空間」は07年の発行だが、そのほぼ完成の原型は90年代にはすでに出来ていた。著作集のあとがきをまとめて読むと、それはそのまま「加藤周一入門」ということになるのだろう。著作集15「上野毛雑文」のあとがきには、よく読めば、氏の住んでいる周りの描写が詳しい。駅前のパン屋「モンテ・ヤマサキ」はまだあるのだろうか。こんど東京に行ったときには、必ずこのあたりを散歩することに心に決めたのであった。
2009年10月30日
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二週間ためていた朝日新聞をまとめて読む。いつの間にか、「居酒屋のムッシュ 素顔の加藤周一」という連載が始まって終わっていたのに気がつく。生誕90年を前に加藤を巡って何人かが発言をし、朝日の記者がそれをまとめている。いくつか重要な証言もある。三回目で、立命館大3年の山本美穂子が10代のころ、白いタートルネックのセーターの上に淡いブルーのシャツ、銀のネックレス、ジーンズ姿を加藤が褒めた。「美的センスと物事を批判的に見る力。その二つが大事で、あなたにはもうそれが備わっているね」といわれたことが彼女を救ったらしい。彼女は高校で不登校になり、自信を失っていた。加藤はどんな人も平等に扱った。そのことは、私の唯一の加藤との出会いの中でもそのとおりだと思う。最も重要なのは、安斎育郎と妻の矢島翠の発言である。安斎育郎が加藤に護憲運動の旗振りを期待したとき加藤は「ほかの人に頼みなさい」と言って日高六郎の名を上げたという。これが95年のことだった。矢島翠は「あの加藤がよくやったと思う」と6月の九条の会講演会で挨拶をしたという。会を発足させるまでの加藤は良くも悪くも評論家で当事者になりたがらなかった。その加藤が80歳を過ぎて変わったのはなぜか。矢島は言う。「晩年の加藤は、ピラミッド型の組織ではなく、生活を持つ人たちが集まり、緩やかなきずなを広げるコミュニティー感覚が、平和を守ることにつながるのだといっていました。」記者は京都の居酒屋の語らいが加藤を変えたのだと書く。(連載四回目9月25日)誰も書いていないが、私は古在由重の死が大きかったのではないかと踏んでいる。古在は東京の喫茶店でずっと生活者と気の置けない哲学カフェを運営していた。古在は晩年は原水禁運動への態度の違いから共産党除名という憂き目に会うが、決してそれを公にせず、思想家としての矜持を全うした。晩年に古在が目指そうとしたことを、加藤は実践しようとしたのではないか。私はずっと、この10数年の加藤は今までの加藤と違う、と感じていた。そのことを、ずっと身近に、同士として接してきた矢島翠から発言されたことが、私にはとても嬉しい。「生活を持つ人たちが集まり、緩やかなきずなを広げるコミュニティー」はまさにフランス五月革命の精神であり、68年のプラハの春の精神であり、アメリカヒッピーたちのの精神でもある。知識人はそのとき、一定の役割を演じなければならない、と加藤は感じていたようだ。一般大衆の私たちはこれから何をしたらいいのだろうか。
2009年10月04日
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最近ある出来事が二つあって、「海行かば」という歌に注目している。海行かば 水漬くかばね山行かば 草むすかばね大君の 辺にこそ死なめ顧えりみはせし 大伴家持(万葉集)ある出来事は何かということを書くと長くなるので次回に譲るとして、この歌について加藤周一が明確に説明しているのを読んだ。それを紹介したい。「日本文学史序説」補講(かもがわ出版)学生(?)がこう質問する。「「万葉集」の「防人」の歌が日本文学の伝統であるかのようにいうナショナリズム的な動きが、また出てきているのではないか。」加藤周一は即座に答えます。「ある意味で簡単な問題なのですが、愛国心がことに天皇に集中して、天皇に忠誠であること、忠誠の表現として天皇に献身するという考えた方を教育し、鼓吹し、強化しようとするとき、日本の古典、伝統的文化を踏まえないわけには行かない。そういう人たちは、いま自分たちが言い出したことじゃなくて、「万葉集」の昔から続いているといいたいわけでしょう。」「陸軍情報部もそう思って、日本の古典の中に勇ましい歌を探しました。彼らは一生懸命探したけれど、日本文学史を知らないからいくら探しても出てこなかった。」勅撰和歌集を全部探してもなかなか出てこない。「そこで、わらをもつかむ気持で(笑)探しに探したら「万葉集」に「防人」の歌があったというわけ」「そこで陸軍情報部は、もちろん「万葉集」を全部読みませんから、「防人」の歌だけを読んで、飛びついたのでしょう。「大君の辺にこそ死なめ顧えりみはせし」などそういうのだけを拾い上げたのです。そこが陸軍省情報部と加藤周一の違うところで、こちらは「万葉集」を全部読んだ(笑)」「「万葉集」は全部読むと、たしかに「防人」の歌はちょっとあるけれども、恋愛また恋愛です。もっとも大きなテーマは自然でさえなくて、恋愛です。その意味では「古今集」とそう違わない。「古今集」はもっと純粋化して他の要素を全部捨てちゃった。「万葉集」には他の要素もたくさん入っています。しかし一番大きなテーマは明らかに恋愛、相聞です」「防人」は二つの部分からなっていて、一つは徴兵された人々の歌らしい。その歌は「ああ悲しい、兵隊にとられてたまったものではない、家族や恋人と別れなければならない、一日も早く帰りたい、何でこんなひどい目にあうんだろう、の一点張りです。ほとんど全部。天皇のために死のうなんてただの一首も無い。」もうひとつは徴兵する側の下士官の歌。嫌がる兵隊を捕まえて九州に連れて行く側です。はっぱをかけるための歌、だから戦闘的、政府の政策みたいになる。しかしそんな歌は「万葉集」全2000首のうち、10か、せいぜい多くて20首あるかとどうからしい。「日本文学の伝統?ふざけるなといいたい。「万葉集」の伝統でさえない。デタラメも休み休み言えですよ」加藤周一が珍しく声を荒げて怒っていたので、この部分はよく覚えています。加藤は東大時代に万葉集のサークルみたいなものに入って万葉仮名から読んでいたらしい。「万葉集」に対する愛情は並々ならぬものがあったし、そもそも「雑種文化」を論じたときから「日本的なるもの」とは何か、ずっとと問いかけて来た人なので、愛国心にかこつけていにしえの「万葉集」が使われたのが、おそらく東大時代から我慢ならんかったのでしょう。「戦争中に日本文学を使って煽ったナショナリズムはその程度の話です」「海行かば」に節をつけて、64年前だけではなくて、現代も涙を流しながら人に歌うのを「強制する輩」がまたぞろ生まれています。そのことについてはまた次回。
2009年03月17日
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加藤周一さん:東京で「お別れの会」 千人がしのぶ21日のお別れ会は共同通信ならびに各新聞NHKなどが報道していだが、この毎日の記事が一番詳しいのでご紹介。(でも長くなるのでクリックしてね)朝日がこの一週間、五人の人物から「追想加藤周一」の文章を載せていた。それぞれがたった2,000字足らずの中に自分の加藤周一を表そうとして四苦八苦しているさまが見えて興味深かった。思い切って、加藤周一論を書こうとすると(たとえ結論部分だけを書こうとしても)無理が出る。ほんの一部分だけを書けば、「群盲象を撫でる」になりかねない。そりゃたしかに難しい。かといって、一人ひとりは非常に鋭いことを書いている。樋口陽一(法学者)は「「時代を読む」」ことに抜きん出て、"時流"から身を離し知の独立を高めることにおいて徹底した加藤さんは」護憲運動にかかわると同時に「愉しむ」事を忘れないとも言う。池澤夏樹(作家)が加藤の盟友福永武彦の息子だったとは知らなかった。きっと彼にとって加藤はいい小父さんだったのだろう。科学を学んで、作家になり、衆を頼まず、党派を作らず、「反戦と民主主義という思想」「それを合理的に展開するための国際的視野。要するに他の事例との比較による案件の客観化」加藤も人を評するときは結局「自分を語った」。池澤夏樹も加藤を語りながら自分を語って、その忠実な弟子になっている。福岡伸一(分子生物学者)。むかし現代科学の無味乾燥に失望していた学生は「羊の歌」を読んで、さまざまな本を読み書き、経験をつんで最後に作家になった加藤を知り、「まだ私は全く何もしていなかった」と「自分の学問」の世界に戻る決心をする。もちろんそれは無味乾燥な世界ではない。高畑勲(アニメーション映画監督)は加藤の日本文化論を性急にまとめてしまい、エッセイとしては失敗していると思う。つまり加藤の日本文化の文法を(1.此岸性、2.集団主義、3.感覚的世界、4.部分主義、5.現実主義)と何の説明もなく列挙したのである。しかし「「今=ここ」主義の危うさに警笛を鳴らしながらも同時にその成果である日本の文化を深く愛した」とはその通りであり、重要な点ではある。一海知義(中国文学者)は1日も欠かさずに古典を読んでいて「何ヶ月も読まずにいると、日本語の力が落ちるのです」という加藤の言を紹介している。私もなるほどそうだったのか、と思う。昔、加藤の文章には「蓋し(けだし)‥‥‥」というのが多かった。それがいつの間にか「思うに‥‥‥」という言い方に代わって言った。蓋しリズムは漢語の方がいい。ついつい私も使いたくなる。しかしそれは甘えなのである。昨日「私にとっての20世紀―付最後のメッセージ (岩波現代文庫)」を買った。このまえのNHKインタビューが載っているらしい。加藤は1000年単位で歴史を見ると、未来が見えてくるといった。今=ここに拘る日本人の私は、やはり未来が気になるので、加藤を何度も何度も紐解くことにはなるだろうと思う。
2009年02月22日
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加藤周一はやはり胃ガンでなくなった。春に発症。医者であった氏は小田実よりかは早く見つけたのか、12月まで生きた。しかし、最後の言葉は7月17日のこのインタビューで最後になったようだ。NHKはそのインタビューをじっくりと再構成し、1時間半の番組を作った。昨日半分うとうとしながら聞いたときには、今まで言っていた事と同じことを言っていると思っていた。(「言葉と戦車」「テロリズムと日常性―「9・11」と「世なおし」68年 」)しかし、もしかしたら、少し違うことを言っているのかもしれない。番組を見ながら、メモしたことを記して、記録しておきたい。氏は反戦運動が世界同時多発的に起こった1968年と同じ閉塞感が漂い始めているという。「オバマがChangeと言った。抽象的だ。けれど効いた。あれだけの反応を引き出せたのは、深い現実に触ったからだろう。」「68年のときにもあった。街のスローガンでは「チャジャー ラ ビエ 生活を変えよう」というがあった。こっちの方が批判的で深いけれどもね。」フランスの五月革命、学生の反乱から、ゼネストに発展。「パリでは私のよく知っているところが主戦場になった。」氏はサルトルと対話。サルトルは「アンガージェマン(主体的に政治に参加する)」とよく言った。氏は街頭で若い女性が言った言葉を忘れられない。「これはまだ序の口」それは直接に、革命の序の口ではなかった。しかし長い目でみた「世なおし」の「序の口」ではあるだろうと思う。‥‥‥しかしどうしてこりもせずに、私は誰にもわからぬ将来を考えようとするのか。私はカッサンドラではない。しかし「素晴らしいなにものか」には将来があると信じる。(「世なおし事はじめ」)これはまだ序の口‥‥‥もしいま氏が生きていたならば、日本の同時多発的に非正規労働者が立ち上がり、今までにないようにそれをテレビが報道する現実を観て、やはり「これはまだ序の口」と呟くのではないだろうか。もちろん私はカッサンドラ(予言者)ではない。氏はプラハの春を直接に見る。そしてそこでソ連軍の「戦車」に「言葉」で相対しようとする多くの市民を見る。「ヒトラーでさえ、自分自身を説明するのをやめなかった。戦争は「戦車」だけでは成り立たない。「言葉」と「銃弾」で成り立っている。それならば、戦いは「言葉」によって抑えることが出来るだろう。」68年はプラハとシカゴと、そして日本でも若者がたちあがる。特に日本の学生が軍産学協同体制を批判したことを大きく評価する。「だから、68年の学生運動は死んではいない。彼らは空中に舞い上がってはいたけどね。」現代の学生運動よ、グローバリズムの中で、予算削減の中で新しく始まっている軍産学協同体制に反対しようではないか。「1910年代のダダイズム、と1968年の閉塞する時代への抵抗という点では繋がっている。五月革命が盛り上がったのはなぜか。第一次世界大戦は主要な転換点だった。大勢の人が死んだ。社会のいろんなところが変わることが望まれていた。しかし変わらない。現状は全体を変えたい。アメリカでもパリでも同じような閉塞感が漂っていた。このときのスローガンは「生活を変えよう」生活だから、すべてを含む。」「20世紀から、21世紀に積み残した閉塞感がある。このままじゃうまくない。根本的に変わる必要がある。世界中で自由を抑圧する力が強まっている。」例えば秋葉原事件。「実際に殺すのは特殊な人たちだけど、彼らを招いたのは、定義しがたい閉塞感だと思う。働いてもよくならない。あれは下の方に淀んでいたものが絶望的に爆発したのだ。」私は偶然にも、石川啄木の歌を借りて同じようなことを最近書いていた。もちろんほかの人もたくさん書いているから、これは偶然ではなく、7月段階で氏がすでに喝破していたように、「現実」なのだろう。1910年と1968年と2008年、何が共通しているかといえば、「戦争」である。私はだんだんと加藤周一が「何故いまこれを語ろうとしたのか」わかる様な気がしてきた。「過去にどういうことがあったのか、よく見定めることが老人の任務です。それを伝えていかなくてはならない。聞きたくない人は仕方ない。聞きたい人に、学ぶことが出来る用意をすることが必要だ。」「現代はシステムの力が強くなって個人の影響力が後退している。専門分化が進んで、全体として、人間として、大きな方向を示すことが出来る人がいない。だんだんと進んでいる。」「知識人は思想的影響力を持たなくはならない。何が必要か。第一に事実認識。何が起こっているのかをつかむこと。第二は「だからどうしようか」。それには人間的感覚による世界の解釈が必要だ。」つまり「教養」が必要だということですね。「何が相手なのか。敵は誰なのか、理解することが大切だ」
2008年12月15日
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加藤周一氏には一度だけ会ったことがある。もう15年ほど前だったと思うが、地元の団体が加藤周一講演会を企画したのである。ところが、その講演会にどうしても参加できない用事があった。嘆いている私を哀れに思って、その講演会を企画したメンバーの一人の女性がそのあとにあるレストランでの懇談会にもぐりこませてくれるというではないか。もちろん私はいちもにもなく頷いた。寒い日だった。今はもう店はないが「サヴォイ」というフランス風レストランに現れた氏は黒のタートルネックセーターにウールの紺の背広を着ていたと思う。氏はいつもネックセーターであり、決してネクタイは締めなかった。氏は最初に見たときには、背を丸めたよぼよぼの老人であった。ところが、歓談は10人ほどで始まり、みんなが講演会の感想を述べだすと、突然と背は伸び表情は引き締まり、氏はそのひとつひとつに見ようによっては非常に怖い目をして真剣に聞いていた。そして、氏のコメントはその場でも古今東西に及んだ。どうしてとっさにあんなに頭が回るのか、「そのことについて問題点は三つほどあると思います」と言って第二の講演を聞くが如しだった。目の前に起こることが信じられない想いだった。老人とはとんでもない、ひとりの日本を代表する知性がそこに座ってた。私はあれも聞きたいこれも聞きたいということがあったのであるが、自分の番になると頭が真っ白になってしまい、なんかとんでもないことを言ったようである。おそらく正直に最初老人だと思ったこと、話を聞くとやはり凄い方で、本当に尊敬していること、氏は日本は集団的競争主義社会で閉鎖的だといっていますが、そういう日本が民主的になるにはどうすればいいのか、けれども氏はそうは言ってももうお年であり、これからの若い人間が頑張らなくてはならないこと、等々言ったのではないか、と思う。私を無理言ってこの場に座らせてくれた女性は私をきっとにらみつけたが、後の祭りであった。氏は悠然と微笑み「その通りです。私の先はたぶんもう長くない。知りたいこと、したいことは多く、人生は短い。だからこそ、私は若い人たちに期待しています。今出来るだけ若い人たちと語り合いと思っている。私は日本の未来を悲観していない」およそこんなことを言ったような気がする。氏はその言葉をその場限りの言葉で言ったわけではなかった。その後精力的に講演会に出かけ、対話本、講演本は10冊以上を数え、「居酒屋の加藤周一」(かもがわ出版)という対話本を作ったり、「テロリズムと日常性―「9・11」と「世なおし」68年 」(青木書店)などの本を凡人会という青年の読書会との共著で作ったりした。今までとは一歩前に進み出て、「九条の会」を創ったのも、そういうことと関係はあるだろう。私を誘ってくれた女性はその後数年間、私と言葉を交わさなくなった。よほど腹に据えかねたのだと思う。本当に申し訳ない。10年ほどまえに「居酒屋の加藤周一」の仕掛け人の一人であったことを知らずに、京都市長選に出馬する前にある講演会で井上吉郎氏を呼んだ。その後の懇談会で私が加藤周一のファンで著作のほとんどを読んでいると言うと、井上氏は大いに喜び、大いに盛り上がったことがある。私が「大ファンだけれども、批判的に読みたいと思っている」と色々というと、井上氏は「そんな難しいことはいいから、加藤さんの女性関係を調べてくれ。彼の年表を見ても、彼がどんな人と結婚しているかわからないだろう?」と言ってひとつのヒントを呉れたのではあるが、「私の専門は思想史であって国文学ではないので、そういうことはちょっと‥‥‥」とむべもなく断ってしまった。人を思いやる回路が欠落しているのが私です。加藤周一の研究本は丸山真男のそれと比べてあまりにも少ない。これからだろうと思う。
2008年12月07日
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加藤周一氏が亡くなられた。この夏から朝日新聞連載の夕陽妄語を休まれており、九条の会の交流会も欠席で心配していたのだが、まさかこんなに早く亡くなられるなんて‥‥‥。ショックである。言葉もない。私は、今日哀悼の言葉は書くが、氏の業績をまとめようという気持はさらさらないし、出来もしない。しかし、いつかはしないといけないという気持ちは持っている。ずっと前から左のカテゴリーに「加藤周一」を設けているのは、その決意の現れだ。加藤周一論は私のライフワークだとずっと勝手に思っている。初めて氏の著作に出会ったのは、高校時代だった。そのとき私は梅棹忠夫の「文明の生態史観」(中公文庫)にはまっていた。歴史を抜きに今ある現象を捉えて、世界の国々の特徴をいくつかの型に当てはめた(今から考えると底の浅い)「世界の見方」であるが、世界史を習ったばかりの高校生にとっては新鮮な世界観であり、なにより分り易かった。(梅棹氏の「知的生産の技術」を読んで京大カードを手に入れて200枚くらいカードに記入して終わったのもこのころ)梅棹氏の著作に刺激されて幾つかの日本人論を読んだ。その中に加藤周一著「雑種文化-日本の小さな希望-」(講談社文庫)があった。そして、その中に加藤の「文明の生態史観」批判があった。その明晰な論理に一挙に心酔した、わけではない。確かに批判に説得力はあった。しかし一方で、氏が提起している日本人論はあまりにもありきたりで新鮮味がなかった。日本の文化が和洋折衷だと言うことは誰でも知っていることじゃないか。しかもその輸入文化を次々とたまねぎの皮のように剥いでいくと、本当の原型が出てくるわけでもないと言う。狐に包まれたような話だった。次に出会ったのは、大学2年、山田洸先生の日本思想史の講義の中であった。山田先生は氏の梅棹史観批判や雑種文化論を大いに評価し、この論を全面的に発展させたのが「日本文学史序説」(筑摩書房)であると言って夏休み前の講義を終え、ちょうどその夏に下巻が発売され、夏休みあとの講義で山田先生は「この夏の最大の収穫だった」と言った。私はその後一年ほどかけてこの本を読み、すっかり加藤周一に魅了された。その後今に至るまで氏の著作の9割以上読んでいるという自信がある。文字通り古今東西に渡る一級の知識量とそれをまとめる明晰な論理、高い倫理性。「この人を知ることで、世界を知ることが出来る」22歳の私はそう思った。加藤周一氏が亡くなられた。89歳である。本来ならば、十分に生きた歳である。感謝と慰労の言葉をかけるべきなのだろう。しかし、客観情勢は、大いに惜しみ悲しめと言っている。2008年12月5日、日本の知性は頭ひとつ低くなった。フランス、ドイツ、アメリカ、カナダ、中国、韓国と、日本よりも世界に知られた思想家だった。万葉集から小田実に至るまで、必要な日本の文学作品を万遍なく読み、的確に歴史的な評価が出来る唯一の日本文学者だった。縄文美術から現代美術、あるいは建築文化まで、その守備範囲はひろくにわたり、日本文化と世界文化との違いを統一的に説明できるおそらく唯一の人だった。20世紀末、「20世紀はどんな時代だったのか」を述べる本が幾つか出たが、三冊も発行されたのは氏のみだった。日本の知性は頭ひとつ低くなった。けれども残された者は、頑張るしかないのだろう。加藤さん、しばらくはゆっくりお休みください。むこうで、本当にたくさんの友人としばらくは談笑していてください。そして落ち着いたら、下界に来て、一言コメントください。
2008年12月06日
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今日は加藤周一の誕生日です。1919年9月19日生まれの加藤なので、今度89歳になったはず。二年後には、191991991と語呂がよくなる。ぜひともそのときには、盛大な91歳を祝う企画をささやかな私のブログでしたいと思う。加藤周一は日本を代表する知性です。だとすれば、加藤の言う日本論を批判的に継承することは日本の未来にとって有益なのではないか、という目論見を立てて、加藤周一論を書こうと思い至ったのが、20代の私でした。以後10数年間、加藤の著作の八割がたは読みこなし、未だに加藤論をかけないでいる私です(^_^;)その理由はいくつもあるのですが、90歳近くなろうとしているのに、未だにその思想が発展しているということです。ずっと、「非専門の専門」を目指し、批評家であろうとし、実際運動に入るのを避けていた加藤が「九条の会」という実践に精力的に入っているのはなぜか。そのことも、明らかにしなくてはなりません。果たして、いつになることやら‥‥‥。さて、前にも紹介した「九条の会を記録する会 」という映像専門のサイトがあります。そこでは、色々な興味深い映像が山積みなのですが、加藤周一講演会老人と学生の未来-戦争か平和か2006年12月8日、東京大学駒場900番教室というのもあります。その後半42分の大部分は東大生から加藤に向けた質問に答える形式で、加藤がその場で考え、答えるものになっています。古今東西、あるゆる教養を背景にして答えたその内容は、加藤の人生をも物語っているように思えます。暇なときはバックミュージックとして流すのも良いかも。その一つにこんな質問がありました。「為政者の9条放棄の目的はなんでしょう?」それに対する回答「集団的自衛権を行使して、日米軍事同盟に今よりもっと積極的に参加すること。政治、文化、軍事の面で今のところ、米国の力は強大である。困ったときに助けてもらえる、というのを期待していると思う。しかし、そうするとアジアの中で孤立する。対外関係は今より飛躍的に悪くなる。為政者はそのことを意識してやっているのか、意識していないでやっているのか、私はわからない。」と、まあ大体その様な意味のことをいっていたような気がします。
2008年09月19日
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薔薇豪城さんの東京新聞のように、私の読んでいる朝日新聞で紹介したい記事はあまり無いのであるが、いつも楽しみに読んでいるのは、月一連載の加藤周一「夕陽妄語」である。今月のお題は「超楽天主義のすすめ」。「楽観主義」と書かないところが氏の知性なのだ。もちろんこの「楽天」を利用しよう、ということではない。(←面白くない、親父ギャグでした。すみません。)「たしかに今年の年賀状は「新年おめでとう」と書くのをためらう人が多かった。」と、氏は言う。それを何とか工夫して「希望の常に実現する未来を空想する」方法を考える。ひとつは希望複数主義。たくさんの望みを持つことの自覚。お茶を一口飲むために卓上の茶碗を手元に引き寄せることから始める。しかし、望ましい目標が大きくて、実現に必要な手段がむやみに必要なこともある。例えば護憲のこと。そこで第二の工夫。行き先のハッキリしない大事については、初めから最悪の結果を予想する。予想が当たっても当たらなくても、当事者は絶望するには及ばない。さすがに意気盛んとまでは行かぬとしても、なんとか細々と時には冗談なども交えながら、根本的な思考の軸は変えない。「希望は目標であり、目標は動かず、方向を与える。動くのは当方との距離である。その伸縮に一喜一憂することは無い。」---と、この文は結んでいる。(ほとんどはしょりました)第二の工夫のほうは何も「悲観主義に陥れ」ということでは無いというのは明らか。安倍政権の支持率がついに30%台に突入した。一ヶ月前は、教育基本法が改悪されて多くの人が悲嘆にくれた。今ある現象は、とりあえず「護憲」という大きな目標に対しての一つのバリエーションに過ぎない。私の目標は何か。護憲運動の大きな盛り上がりの中、国民投票になるにしてもならないにしても、圧倒的な多数で国民は「護憲」を選ぶ、ということ。もしそれを実現したなら、その時からはじめて「憲法を暮らしに活かす」ことを堂々と要求できることになるだろう。政府にもう、嫌だとは言わせない。
2007年01月23日
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木下順二が死んだ。ついに彼の脚本による演劇を見ていない。(学芸会の夕鶴は別)けれども彼の「マクベス」(岩波文庫)の解説からは多くのことを学んだ。「ドラマトゥルギーとは葛藤である。」後にその主張は若干修正されたようだが、思うにドラマつくりの基本だと私は思っている。昨今の映画を見ていると、ありのままに撮ればいいのだ、と勘違いしている監督が多く、緊張感のない場面をずっと見せられて眠ってしまうことがよくある。セリフと現実の会話とは違うと私は思う。(もっと注釈を加えなくてはならないのだが、余裕がないので割愛)けれども、本で読むのと実際に演劇を見るのとは違う。その体験をしていない私は木下順二に影響を受けたけども、木下順二を知らないままに人生を終わるのかと思うと残念でならない。(彼が生きているときの演劇と死んだあとの演劇はまた変わるだろう)ただ、現実世界で私は彼の作った脚本世界を見ている気がしている。「巨匠」という作品がある。ナチスの将校が、ある集団から知識人だけを連行しようとする。大学生の青年は自分の身分を隠す。ひとりの男が連行されそうになったとき、掃除人の老人が名乗りを上げる。「自分は昔有名な役者でした。」ドイツでは役者は知識人の仲間である。しかし、連行されるということは自分の死を意味する。将校は言う。「信用できない。」「証明します。」老人はシェイクスピアのセリフを朗々と述べる。老人は連行された。‥‥‥数年後、有名な大ホールで、シェイクスピアの舞台に立つ青年の姿が見られた。東大出身の92歳の木下順二の後輩に、加藤周一(87歳)がおり、彼らは学生時代から交友があった。戦前の東大出身の知識人でまだ生きているのは、もう加藤しか居なくなったかもしれない。加藤は長い間自らを「非専門の専門家」評論家と位置づけ、出来るだけ政治の世界から自らを遠ざけようとしていた。しかし、この5年間の「九条の会」呼びかけ人になるちょっと前からの活躍は今までのスタンスを大きく変えている。加藤周一は朝日連載の「夕陽妄語」のなかで、木下の「巨匠」について二回も論じている。自らを「巨匠」の中の「老人」と位置づけているのではないか、と私はずーと思っている。加藤自らはそんなことは一言も言ってはいない。老人は朗々と語っている。あとに続く青年はいるのだろうか。木下順二氏の冥福を切に願います。
2006年11月30日
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加藤周一氏講演があり、中国新聞にこんな記事が載っていた。「老人と若者論」は私にとっては90年代ぐらいからの彼の持論だから、別に驚かない。記事は次のようなものである。加藤周一さん、九条改憲をけん制 '06/5/23 平和憲法を守ろうと、「九条の会」の呼び掛け人の一人で、医学博士で評論家の加藤周一さん(86)の講演会が二十一日、下関市大学町の市立大学であり、学生や市民約七百人が聞き入った。 「私たちの希望」をテーマに、加藤さんは二度の世界大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争の現実から「平和を望めば戦争を準備せよ、という格言は誤り」と強調。「平和を望めば、平和を準備しなさい。それが九条だ。戦争をしないために憲法九条は大切」と改憲の動きをけん制した。と同時に「今が分かれ道。改憲を止めない限り、私たちの希望はない」と訴えた。 九十分の講演の後、加藤さんは学生に向け「若い人は想像力を働かせ、意見を伝えるために積極的に発表してほしい」と呼び掛けていた。前に私は。「若者と高齢者は手を取り合って欲しい。この層は発言力は弱いが組織からの圧力は少ない。『未来と過去の同盟』が発言すれば、日本も変わる。」という加藤の言葉を紹介した。今回の共謀罪を巡る反対運動の中でブログの果たした役割は大きいと私は思っているが、若者特に学生のブログはどうも数えるぐらいしかないようである。(私の検索能力がないせいかもしれない。)もっと、もっと、もっと、もっと若者が動いてほしい。そのとき初めて、運動にダイナミズムが生まれる。加藤周一は哲学者の古在由重と交友があった。70年代古在は長い間東京で若い人たちとお茶を飲みながら歓談する機会を持っていた。古在の死去後にそれを継いだ様な形で、加藤は京都で居酒屋で歓談する試みを始める。(「居酒屋の加藤周一」かもがわ出版)ここには、大学教授や出版社社長も来ていたが、普通の勤め人や学生も来ていた。そして文化や政治の四方山話をする。自ら「非専門の専門家」であるといって、特定の組織に入って運動をすることをしていなかった加藤が、社会に対する働きかけを強めてきたのがこのころである。加藤は「教養の再生のために」(影書房)の中で、「今ある日本には小さな反戦のグループが無数にある。しかしそれを横に結ぶ連絡網が無い。」といっている。おそらく加藤たちが「九条の会」をつくった動機もそこなのだろう。「教養に何が出来るか、それは分からないのですけど、それしかないし、それに賭けるしかないと思います。希望はそこにしかない。」「教養」とは技術屋や官僚とは対極の言葉です。今回の共謀罪へのブロガーたちの反応はまさに「教養ある人たちの言葉」だっだろうと思う。 また、『テロリズムと日常性』(加藤周一 凡人会 青木書店)のなかで次のようなことも言っている。まず次のような質問があった。『日本の学生運動は「生き甲斐」主義で、権力に対する反発に終始してしまった(全共闘の運動のこと)ということですが、…われわれが現在支配的なものに対抗していくとき(何を考えたらいいか)』加藤は現状打開の可能性をひとつの「行動」の中に見る。『小さなグループがいくつか連携して、具体的な問題をひとつ解決する。そういう流れをだんだん広めていって、地方行政を動かすような規模になって、ある程度社会的な力を持つ…ということがあり得るんじゃないか。』大きな目的を掲げるのではなく、まずは行動しようといっているのだ。それは世界の戦後(フランスの五月革命、チェコスロヴァキアの『プラハの春』、アメリカの黒人運動)を見ていていた加藤が提言する日本にとって現実的な運動なのだろう。ブログには力がある。繋がりの力。スピードの力。若者はもっともっと発言を。若者と老人の橋渡しは中年が。
2006年05月27日
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