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いよいよ明日から、プロ野球各球団のキャンプインですね。最近はアメリカのメジャーリーグに押されて人気がないような日本のプロ野球ですが、海の向こうの「ベースボール」と「野球」はちょっと趣の違うスポーツと思って、今年もMoMo太郎はプロ野球を応援します。そんなMoMo太郎が都内にあるお薦めの野球に関する記念碑を紹介します。まずは、プロ野球と言えば、こちらの東京ドーム。東京ドームの建物の一角にあるのがこちらの野球殿堂博物館(→→→こちら)は、野球の歴史と現在を展示する専門博物館です。野球殿堂入り者の肖像や資料、プロ野球や国際大会の用具、映像などを見ることができます。また、東京ドームの敷地にこちらの石碑は、鎮魂の碑(→→→こちら)です。太平洋戦争などで戦死したプロ野球選手の功績を記念したもので1981年4月に旧後楽園球場脇に建立されたものが、東京ドームの完成に伴いここへ移設されました。こちらの石碑には、戦死した選手の氏名が刻まれています。その中には日本プロ野球黎明期に伝説的な活躍を見せた不滅の大投手、沢村栄治(→→→こちら)の名前も見えます。こちらは、鎮魂の副碑と呼ばれるもので、遺族を代表して特攻隊員として戦死した石丸進一の実兄・藤吉による追悼文や当時セントラル・リーグ会長だった鈴木龍二による「建立趣旨文」が刻まれています。千代田区神田錦町、一ツ橋交差点の近くにある学士会館(→→→こちら)。この敷地の一角にあるのが、日本野球発祥の地(→→→こちら)の記念碑です。平成15年(2003年)に出来たものです。碑文によると日本野球発祥の地 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。1872(明治5)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843~1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌73年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。76年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、71年9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、77年7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門,第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。 2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。2003年12月 (財)野球体育博物館この建物は、江東区新砂1丁目にある警視庁の江東運転免許試験場です。この試験場の近くにあるのが、洲崎球場跡の記念碑があります。洲崎球場(→→→こちら)とは、かつてこの地に所在した木造の野球場です。昭和11年(1936年)に大日本東京野球倶楽部(現読売巨人軍)とタイガース(現阪神タイガース)による初の日本一決定戦が開催された歴史的な野球場です、この碑文によると「伝統の一戦(巨人・阪神)」誕生の地 洲崎球場跡 新砂一丁目1・2付近 洲崎球場(別称・洲崎大東京球場)は、日本プロ野球草創期の野球場で、昭和11年(1936)2月に日本で6番目に結成されたプロ野球チーム「大東京軍」の本拠地でした。プロ球団結成への気運は、昭和9年開催の日米野球で高まりました。同年12月に大日本東京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)が結成されると、東京、大阪、名古屋に相次いでプロ球団が誕生し、昭和11年には7球団によるプロ野球公式戦が開始されました。しかし、東京にはプロが使用できる野球場はなく、在京球団の本拠地建設が急がれました。そのため、洲崎球場はわずか3ヵ月ほどで完成し、秋のシーズンの最後を飾る「東京第二次リーグ戦」が開催されました。シーズン終了後には、巨人とタイガース(現在の阪神)による初のプロ野球日本一決定戦(3連戦)が開催され、沢村栄治投手擁する巨人が初代王者を獲得しました。この試合は、日本プロ野球史上屈指の好ゲームといわれ、洲崎球場が最も輝いた時でした。現在でも「伝統の一戦」といわれる両チームの熱戦は、ここから誕生しました。日本プロ野球の歴史を刻んだ洲崎球場は、昭和13年の3試合を最後に閉鎖されました。わずか3年間とはいえ、日本プロ野球界繁栄の礎を築いた貴重な野球場跡として記録に残すものです。 平成17年2月 江東区教育委員会。人気ブログランキング球春待ち遠しい皆さんへ
Jan 31, 2025
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JR東日本大井町駅の京浜東北線のホームにあった眼科の看板です。先生が美人だとかで目を惹きますが、「愛新覚羅 維(あいしんかくら い)」という先生のお名前、愛新覚羅といえば、中国の清王朝のラストエンペラーにして、日本が主導して建国した満州国の最初で最後の皇帝「愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)」と同じ姓。もしや、愛新覚羅 溥儀の子孫だったりして。と思ったら、「愛新覚羅」というのは中国東北部にいた満州族の姓氏のひとつで、今も中華人民共和国や台湾、そして日本にも存在する姓氏だそうです(→→→こちら)。そして、この先生、中国出身で日本でお医者さんになったようですね(→→→こちら)。人気ブログランキングちょっと変わった姓の女性医師
Jan 30, 2025
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昨夜のフジテレビの記者会見、夜の9時を過ぎてもやっていて、9時間もやっていたんですね。しかし、品格のない人も沢山いましたね。1回につき2問までとされているにも関わらず何問も質問する人、高圧的に質問する人、これってパワハラハラにならないの?自説を延々と語る人、野次は当たり前報道機関として真実を追究することは結構ですが、自分の描いたストーリーにあわせるような質問をするのはどうなんでしょうかね。報道機関の人ってマナーが悪いので、官庁では記者クラブでお行儀よく毒にも薬にもならいことをやってるんですね。よくわかりました。さて、日高屋の中華そば(420円税込み)です。以前は390円でしたが、最近値上げになりました。それでも安いですね。海苔と薄いチャーシュー、そして醤油味のスープ。中華そばは、こういうシンプルなものでいいなと思います。記者の皆様も短くシンプルな質問で事実を明らかにして下さい。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 「中華そば」はこれでいい
Jan 29, 2025
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茅ヶ崎駅の北側に出て茅ケ崎市役所の方にやって来ました。こちらにあるのは旧寛永寺石灯籠(→→→こちら)です。徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていました。その石燈篭が戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたもので、茅ケ崎市内には6基あるそうです。こちらの建物が茅ケ崎市役所です。こちらの「ALOHA」という文字のモニュメントは、令和6年10月25日に茅ヶ崎市とハワイ州ホノルル市・郡が、姉妹都市友好協定締結10周年を迎えたことを記念し、茅ヶ崎管工事業協同組合より寄贈されたものだそうです。そして、この金色の粥山雄三の銅像というか金像(?)。加山雄三さん、茅ケ崎市の名誉市民になっているんですね(→→→こちら)。調べてみると加山雄三さん、令和3年10月に文化功労者に選出されているんですね。通常、文化勲章受章者は原則として前年度までに文化功労者として顕彰を受けた者の中から選考するそうなので、こんな文章を書く加山雄三さんもいずれ文化勲章?ですか。そして、ようやく茅ヶ崎駅に戻って来ました。駅につながペデストリアンデッキには、各界の著名人の手形のモニュメントがありました。こちらは、中日ドラゴンズで活躍した、山本昌投手(→→→こちら)の手形です。市内の松林小学校、松林中学校を卒業して2008年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞しています。こちらは宇宙飛行士の土井隆雄氏(→→→こちら)の手形です。土井さんは、実家が神奈川県茅ヶ崎市にあり、学生時代の一時期を過ごしたことから、2008年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞しています。こちらも宇宙飛行士の野口聡一氏(→→→こちら)の手形です。市内の浜須賀小学校、浜須賀中学校、茅ヶ崎北陵高等学校を卒業し、2005年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞しています。こうやってみると宇宙飛行士になるには茅ケ崎で暮らすのがいいのかもしれませんね。そして、名誉市民の加山雄三さんの手形は外せないですね。湘南茅ケ崎、結構興味深いものが沢山ありました。(茅ケ崎を歩いたコース)【了】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その12) 加山雄三モニュメントと手形モニュメント
Jan 28, 2025
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サザン通りを歩いて駅に近づくと「サザン通り商店街」(→→→こちら)と呼ばれるようになりました。こちらにあるのがこのサザン神社(→→→こちら)です。一体、どういう神社かわかりませんが、とりあえず建物の中に入ってお参りします。社殿が写真というのが、胡散臭くて面白い施設ですね。両側の壁には「桑田さんありがとう」という文字が、桑田って・・・巨人のピッチャーの、ではなくて、そう音楽バンドのサザン・オールスターズの桑田さんなんですね。この胡散臭さ満開のサザン神社、「サザン通り商店街」の会長が建てた桑田佳祐さん公認済みの神社だそうです。2008年(平成20年)に茅ヶ崎サザンビーチで結成30周年を記念したサザンオールスターズのライブが行われ、それに合わせ建立されたのだとか。この神社の向かい側にあるお茶屋さんで、こんな御朱印がもらえました。左側のカードは駅からハイキングの参加記念でもらったものです。話を聞いてみると、このお茶屋さんのご主人の弟さんがサザンオールスターズの桑田圭祐と幼馴染だということのようでした。その話を聞くまで、「桑田佳祐は鎌倉出身」とMoMo太郎は思ってました。だって、「♪江ノ島が見えてきた、俺の家も近い」と歌っていたので。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その11) サザン通り商店街のサザン神社
Jan 27, 2025
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サザンビーチちきがさきから茅ヶ崎駅に続く道を歩きます。この道は「サザン通り」という名称なんですね。道路沿いに、ホテルがありました。このホテル(→→→こちら)、窓が見えないなどの雰囲気から察するに休憩できるホテルのようですね。このサザン通りを歩いて行きます。この通りに面して、やっぱり、茅ケ崎の人たちの信仰の篤い八大龍王神社がありました。住宅街の中の道ですね。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その10) サザン通りのホテル
Jan 26, 2025
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茅ヶ崎観光の定番撮影スポットとなっている茅ケ崎サザンCにやってきました。でもこれだと「C」の字には見えないですね。こちら側から海に向かって眺めるのが正しい見物方法ですね。茅ケ崎サザンC(→→→こちら)についての説明もありました。円の中心に「えぼし岩」が顔を出していますから、Cの右側に人が立つとCの切れ目が繋がって円(縁)になると、えぼし岩とのツーショット写真が撮れるわけですね。こちらからのえぼし岩もきれいに見えますね。このあたりが「サザンビーチちがさき」(→→→こちら)と呼ばれている海水浴場です。もとは茅ケ崎海水浴場だったのが、平成に入ってから海水浴客の減少に苦悩していた茅ヶ崎市観光協会が平成11年(1999年)に、地元茅ヶ崎市出身の桑田佳祐が率いるサザンオールスターズの名にあやかり、茅ヶ崎海水浴場からサザンビーチちがさきに改名したそうです。訪れた11月3日はサザンビーチちがさきでお祭りが行われていたみたいですね。海岸で、皆さんBBQを楽しんでいました。海岸の近くには、未来手想図というモニュメントがあり、子供たちの手形が飾られていました。どれどれ、MoMo太郎が手相を占って進ぜよう。しょう君、あなたは一生食べるのに困らない手相ですよ。勿論、当たるも八卦、当たらぬも八卦です。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その9) 茅ケ崎サザンCとサザンビーチちがさき
Jan 25, 2025
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こちらの公衆トイレなんですが、サーファーや海水浴の人が使えるシャワーも設置されていました。シャワーのついている公衆トイレってなんか珍しいですね。海岸に沿って富士山に向かってサイクリングロードが延びていました。風が強くて自転車で走れない時もあるんでしょうね。サーフボードが積めるように改造されているサーファー用の自転車があるんですね。サイクリングロード沿いに小さな赤い鳥居があり、鳥居の先には石碑が安置されていました。石碑には、少々読みづらいものの「八大龍王神」(→→→こちら)の文字が彫られています。八大龍王とは、仏教の教えを守る八体の龍神のこと。龍は川や海に住むとされ、水や雨の守り神として考えられていることから、昔から漁業に従事している人が多かった茅ヶ崎では信仰されているのでしょうね。この鳥居の前からもエボシ岩のある姥島が見えました。実はこのエボシ岩にも八王龍王を祀る神社があったそうですが、風や波の影響で壊れることを心配した住民が茅ケ崎南湖地区にある住吉神社に移設したそうです。また、八大龍王にまつわる民話も残っているそうです。茅ヶ崎村の源三という若い漁師が砂浜で美しい玉を見つけ、後に竜宮城から盗まれたものだと分かり、返したところお礼に玉手箱をもらう。その後、海で嵐にあった源三が玉手箱を手に必死に祈ると雨や風が止み、命が助かる。源三が玉手箱を龍王に返すと、竜宮城から2匹の亀が茅ヶ崎村に遣わされ長く漁場を守った。という話です。詳しくは、こちらの茅ケ崎観光協会の作った動画(→→→こちら)をご覧ください。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その8) サイクリングロードと八大龍王
Jan 24, 2025
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海岸沿いを西に向かって歩いて行くと見えてきました富士山。例年は10月初めには初冠雪を記録している富士山ですが(→→→こちら)、2024年は茅ケ崎を訪れた11月3日になっても冠雪は観測されていませんでした。場所を変えて富士山を撮影しました。さて海岸を見ると、サーファーたちの向こうに見える海に突き出た石の集まり。これは、砂浜の侵食を止めるために造られた施設で、「茅ヶ崎ヘッドランド(通称:Tバー)」と名づけられています。そして、この付近は速い流れの離岸流が発生して大変危険なそうです。ここでサーフィンするとは、皆さんなかなかスリルを楽しんでおられるのですね。といっても、なかなか波に乗れないサーファーの皆さんです。さて、岩の上を歩いて行くのは大丈夫と思い、ヘッドランドの先端に向かいました。岩の上を歩くのは、ちょっと大変でしたが、Tの字の上の横棒の位置までやって来ました。やって来た道を振り返ってみました。東の方には江ノ島が見えています。ズームしてみました。西の方を見ると富士山が見えています。こちらもズームしてみました。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その7) ヘッドランドビーチ
Jan 23, 2025
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海岸沿いをはしる国道134号です。ここを渡るとこの松林の樹林帯があり、松林の中は散歩道になっています。ここを通り過ぎると、茅ケ崎の海が見える海岸です。この砂浜、「♪まさに砂まじりの茅ケ崎」ですね。そして遠くですが、「♪江ノ島が見えてきた、俺の家も近い」です。そして、「♪エボシ岩が遠くに見える、涙あふれて霞んでいる」このエボシ岩(→→→こちら)、正式名称は姥島というそうです。姥島は大小50個以上の岩礁からなる島で、その中で最大の高さの岩の形が、昔、公家や武士、神官がかぶった烏帽子(えぼし)という帽子があり、それに似ているのでこの名前がついたといわれています。一説では、この岩の高さは14.6mだと言われています。詳しくはこちらの「えぼし岩の秘密」(→→→こちら)を見て下さい。なお、茅ヶ崎漁港から周遊船に乗船し、エボシ岩を間近で見ることができるそうです。茅ケ崎海岸を西に向かって歩いて行きます。11月3日というのに、サーフィンをしている人がいるんですね。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その6) エボシ(烏帽子)岩
Jan 22, 2025
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鉄砲道を右折して、この道を海岸に向かって歩いて行きます。この道の名称は、ラチエン通り(→→→こちら)というそうです。日本をこよなく愛し、茅ケ崎に別荘を建てたドイツ人貿易商ルドルフ・ラチエン氏の名前にちなんで名付けられたんだとか。結構、狭い道ですが対面交通になっています。ということで、ドライバーや自転車に乗っている方への注意が書いてありました。この通り沿いには結構オシャレな建物が建っていました。玄関脇には、「You Makre Me Happy」(あなたが私を幸せにしてくれる)という言葉が飾れていました。そして、ラチエン通りに面して、開高健記念館(→→→こちら)と茅ケ崎ゆかりの人物館(→→→こちら)という施設がありました。ラチエン通りが少し引っ込んだところに施設があるようです。普通の家のような門があって、ここが開高健記念館のようです。開高健(→→→こちら)は平成元年(1989年)に亡くなられたので、この方が作家だということを知っている人も少ないかもしれませんね。ちなみにMoMo太郎は、この人はテレビCMで魚釣りをしていたので魚釣りが職業の人だと思っていました。しかし、あたらめてこのCMを見ると、昔のCMって、なんか重厚だったんですね。表札には。夫人で詩人の牧羊子(→→→こちら)氏の名前もありました。知らなかったんですが、奥さんの方が7歳年上だったんですね。そして亡くなったのが平成12年(2000年)なので、開高健氏より長生きしているんですね。開高健のようにやっぱりお酒飲んでタバコを吸うと早死にするんでしょうか。遺族の方から茅ケ崎市に邸宅の土地建物が寄付されて、開高健記念館として開設されたようです。「茅ケ崎ゆかりの人物館」というのも隣接してあるようです。「茅ケ崎ゆかりの人物館」では、主な取組の一つとして、市民の地域アイデンティティを高めることを目的に、市民と研究者が茅ヶ崎にゆかりのある人物と地域の調査研究を共に行い、その成果を還元する「研究室(ゆかりラボ)」や各種イベントを実施していまるそうです。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その5) ラチエン通りと開高健記念館
Jan 21, 2025
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次の目的地に向かって、この道を東に向かいました。 茅ケ崎では、通りに名称というか愛称をつけているようで、JR東海道線と海岸の国道134号の間を東西に貫く道には、鉄砲道(→→→こちら)という名称がありました。その名称の由来は、江戸時代に茅ヶ崎から藤沢にかけての海岸に設けられていた鉄砲場の中をぬっていた道というのがその名の由来ですが、雄三通り、これはひょっとして、雄三通りの説明がありました。やっぱり加山雄三(→→→こちら)に因む通りの名称だったんですね。この雄三通りは、2001年(平成13年)愛称名の公募により多数の中から選ばれたそうです。それ以前は、上原謙通りといったそうで、御存知の通り、上原謙(→→→こちら)は加山雄三のお父さんで通り名の世代交代があったんですね。そして、上原謙通りの由来は、この通り沿いの海に近い所に上原謙の旧居があった事からの命名になるそうです。ちなみに、MoMo太郎も学生時代の成績は「可山優三」で、成績の「優」は3つくらいで、残りは「可」という有様でした。卒業する時、大学の先生から「MoMo太郎君が、国家試験に合格するとは思ってませんでした」と言われました。さて、鉄砲道をさらに東に行くと、この女性が熱心に見ている石碑がありました。この石碑には「佐々木氏追悼記念碑 明治三十一年六月十六日建之」とありました。佐々木卯之助(→→→こちら)とは、江戸幕府の相州炮術調練所の責任者として、幕府大筒役であったが、相州炮術調練場の敷地(茅ヶ崎市南湖の周辺)の一部を開放、耕作することを事実上黙認したことの罪を問われ。伊豆の離島青ヶ島へ遠島ととなり、1868(明治元年)に赦免となるが、明治9年、82歳で青ヶ島で死去したそうです。佐々木卯之助事件と呼ばれる事の顛末とこの石碑建立については、こちらの碑文に記されていました。佐々木卯之助追悼記念碑のいわれ茅ヶ崎一帯の海浜は享保十三年以来幕府の鉄砲場となっており、区域内への村民の立入りや耕作などは禁じられていた。佐々木卯之助が大筒役(鉄砲方役人)になったのは文政七年のことで、そのころ南湖では田畑が少なく農民はこの地の耕作を願っていた。それを察した佐々木氏は上司に内密で耕作を許可し、農民はこの情ある計らいに心から感謝をしていた。しかし、この事が発覚するに至り天保六年その罪で佐々木氏は八丈島を経て青ヶ島へ遠島となり、その後赦免となったが、かの地で一生を終えた。時移り明治三十一年、茅ヶ崎村々長、伊藤里之助が発起人となり村の恩人・佐々木氏を追悼してこの碑を建立した。初め南湖六道の辻に建てられたが、幾たびか場所が変り末永くこの地に収めることになった。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その4) 鉄砲道と雄三通り
Jan 20, 2025
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さらに高砂緑地の園内を歩いてみると、松林が広がり、かっての茅ケ崎はこのような雰囲気で防潮林として松がたくさん生えていたんでしょうかね。こんな石碑がありました。石碑に刻まれていたのは、元始、女性は太陽であつた。真正の人であった。平塚らいてう 1886〜1971でした。平塚らいてふ(→→→こちら)と書いて「ひらつか らいちょう」と読むそうです。でこれはペンネームらしく、本名は平塚 明(ひらつか はる)というそうです。隣りの撰文には、その平塚らいてふの時期が記されていました。平塚らいてう(1886-1971) 東京に生まれ 日本女子大学に学ぶ 1911年の『青鞜』創刊の辞「元始 女性は太陽であった」は 日本女性初の人間宣言として 後世につたわる 大正期に新婦人協会をおこし 女性に禁じられていた政治への一歩をひらく 第2次大戦後も女性解放 世界平和の初心を貫く 生涯の伴侶奥村博史と南湖の地でめぐりあい 茅ヶ崎を「愛のふるさと」と偲んだらいてうを想い この碑を建立す 1998年5月23日とありました。さらに広い園内を歩いて行くと、こちらにも石碑とその説明板が、石碑には「赤とんぼ作曲の街 晴朗な湘南茅ヶ崎の大気 南湖の居にて 山田耕筰記」と記されていました。山田耕筰(→→→こちら)といえば、日本人初の交響曲を作曲したり、日本初の交響楽団「東京フィルハーモニー会」を結成。日本での本格的な西洋音楽の導入に努めた人ですね。そういう方が茅ケ崎に長く住まわれて、童謡「赤とんぼ」を作曲したんですね。下の説明板には、石碑の説明と赤とんぼの歌詞が載せてありました。松林の中あったこの四角い石は、これは、明治30年代に、「オッペケペー節」で知られる明治の俳優、川上音二郎が愛妻の貞奴と暮らした住まいがこの地にあり、住居跡といわれる井戸枠だそうです。赤とんぼの唄、名曲ですね。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その3) 高砂緑地の石碑めぐり
Jan 19, 2025
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最初の訪問地は、こちらの高砂(かたすな)緑地(→→→こちら)です。高砂緑地の歴史についての説明が記された説明板がありました。ざつくりと、要約すると、高砂の名の由来は、かつてこの付近に砂山があって「たかすな」と呼ばれていたこと、この地は小字が「上高砂下」であることによるそうです。また、この地に明治の人気新派俳優の川上音二郎が住まい「萬松園」を構え、大正時代には、財界で活躍した原安三郎氏(元日本化薬・会長)の別荘「松籟荘」となったそうです。そして昭和59年に茅ヶ崎市が購入し、「高砂緑地」として開園したそうです。園内にある日本庭園に入ってみました。2月には「梅まつり」が行われているそうで、梅の木が庭園に植えられています。日本式庭園のお約束でしょうか、池がありました。池の向こうに見えるのは、前庭つき茶室・書院が「松籟庵」です。この建物は、市内在住の岩田孝八氏(元長崎屋・会長)の母親が亡くなられたときに、生前の70年間茅ヶ崎市にお世話になったお礼に末永く茅ヶ崎に残る有形物を、と1億円を市に寄贈したことが、きっかけで松籟庵の建設、庭園整備を行い、平成3年の文化の日に開館したそうです。建物の中には茶室があり、本格的な茶事を行うことができるそうです。松籟庵の松籟(しょうらい)とは、松の梢 (こずえ) に吹く風。また、その音のことをいうそうですね。なかなか風情を感じる名前ですね。池の周りを歩いて行くと、一段と高くなった築山があり、三重塔が建てられていました。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング湘南 茅ケ崎を歩く(その2) 高砂緑地の日本庭園
Jan 18, 2025
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2024年11月3日の文化の日、湘南といえばこの町、茅ケ崎を歩く「駅からハイキング~茅ケ崎勝手にウォーキング」に行ってきました。駅にある茅ケ崎市観光案内所で、イラスト地図をもらいました。目印になるものと要所要所の写真もついていて、なんとか道に迷わず歩いていけそうです。そして、コース内のスポット3か所以上で写真を撮影すれば、オリジナルグッズがもらえるので、忘れず、写真は撮影しないといけないですね。茅ヶ崎駅南口からスタートです。最初はこの高砂通りを南に向かって歩きます。高級な住宅が並ぶ印象の茅ケ崎市ですが、こんなお店もあるんですね。もちろん、こんな洒落たカフェもありますよ。そんな魅力的な茅ケ崎の町歩くのは楽しそうです。(茅ケ崎を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ湘南 茅ケ崎を歩く(その1) 茅ケ崎を勝手にウォーキング
Jan 17, 2025
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富士そばのミニとろたく丼(650円税込み)をいただきました。トロといってもマグロの「すき身」に沢庵を混ぜたものでした。しかし、なんとなく高級感があって美味しく頂きました。人気ブログランキングへ
Jan 16, 2025
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名古屋出張二日目の朝、この日は今シーズン一番の冷え込みで朝は雪が降っていましたが、前日のブレブレ夜景写真のリベンジで「中部電力 MIRAI TOWER」の写真撮り直しました。そして、名古屋といえば喫茶店モーニングだと思い、栄の地下街にある星乃珈琲でモーニング(550円税込み)を食べました。昼からは、名古屋駅に戻って、名古屋駅前ってすごい高層ビルが3棟も建っているんですね。尾張一宮へ向かいます。名古屋駅の在来線ホームの地下通路。天井が低くて、いかにも昭和の国鉄の駅という雰囲気を残しているなと思いながら、在来線の岐阜行の313系電車に乗りました。313系電車ってJR東海のベテランエース格の車両なんですね。というわけで、1泊2日の新年の出張、の締めくくりは、名鉄百貨店のマスコットのナナちゃん人形(→→→こちら)を撮影しました。昭和48年(1973)年以来、51年間、休むことなく同じ姿勢を保ち続けているナナちゃん。肩こり痛でナナちゃんの肩、そろそろ限界という装いで飾られていました。久しぶりの出張で、MoMo太郎も肩こり痛でした。【了】人気ブログランキング新年から名古屋出張(その2) ナナちゃんも肩こり
Jan 15, 2025
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新年のごあいさつで名古屋に出張してきました。気楽に1時間40分で出張できるのは、東海道新幹線のおかげです。その「新幹線の父」と呼ばれる第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁十河信二氏(→→→こちら)を記念するレリーフが、東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に建立されています。そして、名古屋に着いたら名古屋めしの代表、醤油きしめん(750円税込み)を名古屋駅構内にある「駅釜きしめん」で頂きました。煮含めた油揚げと削り節、そしてほうれん草などの青菜がきしめんの具材としてのデフォルトなんでしょうね。そして、名古屋駅の金時計で、名古屋にいる知り合いと待ち合わせて、名古屋の繁華街、栄に行って会食しました。夜の「中部電力 MIRAI TOWER」(旧名古屋テレビ塔→→→こちら)です。ブレブレですね。恥ずかしい。【つづく】人気ブログランキング新年から名古屋出張(その1) 名古屋めしとテレビ塔
Jan 14, 2025
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上野駅の9番、10番ホームです。このホームにある立ち食い蕎麦です。セルフ式です。つまり、自動販売のそばになっていました。定番のかき揚げ蕎麦は470円(税込み)で、立ち食いそばにしては高いかも。七味もなく水もありませんでした。冷凍を解凍して出すようで、時間もかかります。味は・・・。でも朝早くから食べられるのは、メリットかな。人気ブログランキングへ孤独のグルメ セルフ式立ち食い蕎麦
Jan 13, 2025
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北小金駅に戻る途中に立ち寄った八坂神社(→→→こちら)です。こちらにこの神社の歴史が記されていました。創建年代は不明ですが、「小金城落城の際(戦国時代後期)に遷座した」という話が伝わっているそうです。名称も「牛頭天王社」であったのが、明治時代に神仏分離により八坂神社と改称したそうです。1973年(昭和48年)に旧水戸街道沿いのイオン北小金店前から現在地に移転したそうです。こちらには、「八坂神社社殿復興記念碑」と刻まれた石碑が建立されていました。社殿です。北小金駅南口に戻って来ました。駅からのバス路線も色々あるようですね。そして、駅から常磐線で帰りました。(新松戸~北小金コース)【了】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その10) 八坂神社
Jan 12, 2025
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こちらの門は中雀門です。中雀門は江戸末期から明治初期の建立されたようですが、軒から上は昭和50年代に新造されたんだそうです。この先に本堂があります。この建物が本堂です。こちらが鐘楼です。本堂、鐘楼、中雀門、山門、総門の改修、書院の新築などは昭和40年後半より、開創500年記念復興事業として、熱心な檀信徒の協力を得て行われたそうです。こちらには石碑が2柱、建立されています。明治維新に活躍した志士の竹内廉之助、啓次郎兄弟を顕彰する碑だそうです。元治元年(1864)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖の子藤田小四郎らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟は、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死したそうです。そして、この石碑の銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたそうです。こちらは、平成8年に建立された観音堂です。本堂は1722年建立の記録だそうですが、建築の手法は江戸末期のものだそうです。本堂にお参りしました。こういう時、お賽銭の小銭がない方は、PayPayで決済できます。本堂の中です。装飾も見事です。扁額は、達筆で「一乗院」とありました。本尊は阿弥陀如来です。本当に見事な紅葉の東漸寺、「紅葉を見にまた来よう」と思いました。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その9) 東漸寺に参拝
Jan 11, 2025
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旧水戸街道に沿いに南に向かいます。このあたりが昔の小金宿の宿場町だったんでしょうね。そして、次の目的地の東漸寺(とうぜんじ)(→→→こちら)に着きました。総門の前で三脚を立て撮影している方は二眼レフカメラ(→→→こちら)で撮影していました。こういう見事な紅葉の景色をフィルムで撮影して残すというのは、本当の写真愛好家、或いはプロなのかも。東漸寺についての説明板がありました。佛法山東漸寺は540年の歴史を持つ浄土宗のお寺です。文明13年(1481年)、信濃国出身の経譽愚底運公上人により開創されました。当初は、現在地より1キロ北東の根木内の地にありましたが、約60年後の天文年間(1532年 - 1555年)、現在地に移され、江戸時代初期に関東十八檀林の1つとされた名刹であり、江戸時代には幕府の手厚い擁護を受け大いに栄えました。壇林とは、仏教寺院における僧侶の養成機関のことです。こちらの総門から本堂に向かいます。総門の横にある「勅願所」の石碑。明治初頭に、明治天皇によって、皇室の繁栄無窮を祈願する勅願所となったそうです。総門の中はまだまだ長い参道が続き、見事な紅葉が続きます。鮮やかに色づいていました。さらに、こちらが山門(仁王門)が続きます。山門は文化元年(1804年)に楼門造り(竜宮門風)の門に再建され、昭和52年に営繕し、仁王像が新たに設置されたそうです。山門に掛けられている扁額は、中国、明の何請甫の筆によるもので、佛法山と記されています。山門の背面ですイロハモミジの紅葉がきれいでした。境内は更に続きます。松の木の根元にあった石仏にほっこりしました。本当に鮮やかな赤に色づいていますね。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その8) 東漸寺の紅葉
Jan 10, 2025
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北小金駅から南に少し行った所にある交差点です。ここは、江戸から下る水戸街道と本土寺参道に別れる交差点になり、小金城の高城氏が支配した頃からこの場所は交通の要衝だったそうです。この交差点の横あったのが、この本土寺参道の道標です。交通の要衝であったこの地点には、天文年間(1532-1555)、小金城主の高城氏は信仰する牛頭天王の社をここに創建したとされます。明治時代にこの神社は八坂神社と改称しました。しかしながら、鉄道開通後さらに賑わいを見せた小金宿ですが、狭い駅前には限界があり、区画整理による再開発用地確保のため神社は昭和48年(1973)に近くに遷座しました。こちらの大きな石碑はここに八坂神社があったことを示すものです。こちらのイオンが八坂神社の跡地にできたのだそうです。ということで、後で八坂神社にお参り脛ことにして、この交差点を渡りました。交差点を渡ると、小金宿(→→→こちら)と書かれたモニュメントがありました。小金宿は、水戸街道千住宿から3つ目の宿場町。宿場は南北に約1キロ程度の範囲に広がっており、この交差点は北端にあたります。家並みは1万軒余りで宿場町としての規模はとても大きかったそうで、幕府の軍馬牧場である小金牧の近くに位置しており、重要性も高かった宿場です。一般大名用の本陣が置かれていたほか、水戸藩は独自に本陣(日暮家)を指定していたそうです。その隣あったのが、この説明板、「マツモトキヨシ創業の地」ドラッグストアチェーンの国内最大手マツモトキヨシの創業者である松本清(→→→こちら)が、昭和7年(1932年)にここで個人薬局「松本薬舗」を開業したそうです。こういう説明板が設置されるのは、松本清氏が松戸市長だったからでしょうかね。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その7) 水戸街道小金宿とマツモトキヨシ創業の地
Jan 9, 2025
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本土寺の参道を戻って北小金駅に向かいます。参道の並木道の途中にあったベンチと大木。小金ポケットパーク第2号とありました。ということは、この近くに第1号は子の近くのかな?と思ってみたら、大きな公園がありました。東平賀公園という公園でした。この公園、ただの公園ではなく、東平賀貝塚という貴重な遺跡の上にある公園でした。東平賀貝塚は、このあたり一帯は縄文時代 につくられた貝塚で、貝層がドーナツ状に巡り現在でも所々で地表に表れているそうです。この遺跡では昭和40年代から今までに10回発掘調査が行われ、縄文時代中期を中心に13軒の住居跡をはじめ、貯蔵や埋葬に使われた土坑 とよばれる穴が多数発見されました。埋葬された人骨に加えイヌやイノシシの幼獣の埋葬も発見されているんだそうです。また、この公園の近くにあった板碑です。説明板はなかったし文字も読めませんでしたが、貴重と思い撮影だけしました。参道の入口付近にあった標柱です。この参道の松や杉は水戸光圀の寄進したものと言われているようですね。こちらにある船橋屋、亀戸天神にあるくず餅で有名な船橋屋(→→→こちら)さんの支店のようです。しかし、この支店、本土寺への参拝者が多くなる季節だけ営業しているようです。そして、JR常磐線の北小金駅にやってきました。この北小金駅の構内を抜けて、駅南側も駅からハイキングのコースに入っています。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その6) 北小金駅へ
Jan 8, 2025
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大谷口歴史公園(小金城趾)から次の目的地の本土寺(→→→こちら)に向かいます。途中で見かけた郵便局です。小金城趾(こがねじょうし)の近くにあるのに大金平(おかがねだいら)なのはちょっと面白いですね。この郵便局に貯金するのは大金持ちに限るだったりして。並木道の入口に石碑がありました。石碑には「本土寺」と刻まれていました。この並木道を入ってゆきます。参道を進むと、この石の門柱がお寺の門ということでしょうか。参道沿いにはお店がありました。草だんごが名物なんでしょうかね、幟がありました。店名が「黒門家」とありました。ということはさっきの門柱は黒門と呼ばれるお寺の山門の跡なんでしょう。草だんご以外にもしば漬けなんかも名物のようです。さらにお寺に向かって進んでいくと、またお店がありました。こちらの店名は「赤門家」、ということは店主は赤門(東京大学)の出身者?ではなくて、こちらの仁王門が朱塗りの高楼であることに因むのだと思います。史跡長谷山本土寺(ちようこくさんほどじ)の説明板がありました。 長谷山本土寺は、建治3年(1277年)豪族平賀忠晴の屋敷内に日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。 本土寺は、池上の「長栄山本門寺」鎌倉の「長興山妙本寺」とともに、「朗門の三長三本」と称される屈指の名刹で、松戸地方における日蓮宗の教団活動の中心とされました。ここには日蓮直筆の書状類をはじめとして松戸市域の貴重な中世史料を数多く所蔵されています。 近年においては境内整備がなされ、「あじさい寺」として市民にも親しまれています。平成13年3月松戸市教育委員会「朗門の三長三本」の、「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味で、「三長三本」とは、上記3か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによるそうです。仁王門の先には見事な紅葉がありました。仁王門から続く石段では、夢中で写真に紅葉を収める人も多く、MoMo太郎もその一人です。さて、本堂にお参りしようとすると、この貼り紙がありました。この本土寺、普段は無料ですが、時期により参拝料を払ってもらうシステムのようです。ということで、参拝料を払ってまでというケチな料簡のMoMo太郎。受付の横の門から中の本堂に向かって手を合わせておきました。フェンス越しにみても立派なお寺ですね。今度、無料で参拝できる時にお参りさせてもらいます。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その5) 本土寺へ
Jan 7, 2025
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このあたりが、駅からハイキング「紅葉彩る寺院し戦国城趾を訪ねて」の中間地点になります。道路標識に大谷口歴史公園(おおやぐちれきしこうえん)(→→→こちら)とありました。15世紀後半、戦国時代が始まったころに造られた小金城(→→→こちら)跡の一部を整備した公園です。立派な石碑がありました。正面からきちんと撮影すると道路の真ん中から撮影となって危険だったので、斜めからの撮影になりました。全体を上手く撮影できなかったのですが、石碑の上にあるのは家紋のついた兜でした。おそらくこの小金城を拠点としていた千葉氏の家紋のある兜なんでしょう。小金城は、このあたり丘陵地に建てられた平山城だったのでしょう。この階段を登って大谷口歴史公園に入っていくことになります。この階段は、小金城に入る出入り口の一つの金杉口跡になるそうです。そして、この門は城郭の出入り口「虎口門」になります。そして、丘の上にはこのような広場がありました。ひろばの中心には四阿がありました。広場の端にあった、石碑です。逆光での撮影となりました。石碑には、小金城のあったあたりの空中写真がありました。小金城の城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った城だそうですが、ほとんどが宅地開発により消失しているようで、この歴史公園は写真の左上の方の一角だけになっているようです。小金城(別称 大谷口城)跡についての説明が記されていました。千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城として、天文6年(1537年)に築かれた。以来、天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めで落城するまで、三代に亘って千葉県北部の東葛飾地方一帯を支配する拠点として栄えたそうです。小金城落城後は文禄2年(1593年)に廃城となったそうです。ちなみに千葉氏(→→→こちら)とは、坂東八平氏(*)・関東八屋形(**)の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族です。*坂東八平氏とは、平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏のこと。**関東八屋形(宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家を指し、室町時代、関東地方においてそれぞれの国の守護を出す家柄の優れた有力な大名のこと)。城の遺構として土塁が残っています。土塁とは、下の写真のように敵の侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁です。また、障子堀と呼ばれる堀も残っています。こちらがその障子堀の遺構です。大谷口歴史公園に隣接して大勝院(→→→こちら)幼稚園がありました。お寺が経営する幼稚園にしては、なんか可愛らしい装飾がありました。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その4) 大谷口歴史公園(小金城趾)
Jan 6, 2025
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流鉄流山線小金城趾駅(→→→こちら)は、付近に小金城趾があることからこの駅名となりました。こちらからはこの長い跨線橋を渡って改札口にいくことになります。流鉄流山線は、全線単線で、この駅にて電車がすれ違うようになっています。こちらの赤い電車はこれから常磐線の馬橋方面に向かって行きます。こちらが改札口となっています。ちなみに流鉄では交通系ICカードは使えません。駅の構内を通り抜けて、北側に出ました。エスカレーターもエレベーターもないので、ちょっと不便ですね。駅から少し離れてドラッグストアのマツモトキヨシがありました。マツモトキヨシは松戸市発祥というので、松戸市内ではよく見かけます。このマツモトキヨシの近くにある公園です。この中をちょっと歩いてみました。公園の入口です。大谷(オオヤ)口馬屋敷緑地という名称の緑地です。看板には詳しい説明はありませんでした。名称から察するに、小金城(→→→こちら)の「馬屋敷」と呼ばれた郭の西側を緑地化したものだしょう。公園として立ち入り可能な範囲はおそらく郭を囲んでいた腰郭のようなものと思われます。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その3) 小金城趾駅と大谷口馬屋敷緑地
Jan 5, 2025
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新松戸地区を東西に貫いている「あめりかふう通り」にやって来ました。「あめりかふう」と名乗りながら、あまりアメリカンな雰囲気はしない並木道です。この街路樹が「モミジバフウ(紅葉葉楓)(→→→こちら)」という種類で、北米原産であることから、別名「アメリカ楓(フウ)」や「アメリカソゴウコウノキ」とも呼ばれていることから「あめりかふう通り」と名付けられているそうです。このように葉はカエデ(楓)に似ていますが、5~7に裂けるのと葉軸に対して互い違いに小葉が付くタイプなので、カエデとは違うと見分けられるそうです。「あめりかふう通り」と交差する「きょうちくとう通り」を歩きます。かなり大きな送電線が中央分離帯に建てられています。このあたり、大きな集合住宅などがあり、いかにも住宅街といった町並みです。さらに北に向かっていくと、まだ農地が点在している住宅街の中を通って、流鉄(→→→こちら)流山線の小金城趾駅に出ました。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その2) あめりかふう通り
Jan 4, 2025
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2024年12月8日、JR東日本の催行する駅からハイキング「紅葉彩る寺院と戦国城趾を訪ねて」に参加した報告です。やって来たのは、新松戸駅(→→→こちら)です。降りたのはこちらの武蔵野線のホームです。新松戸駅は、JR東日本の常磐緩行線、武蔵野線、そして流鉄流山線の幸谷駅(こうやえき)に乗り換えられる駅ですが、降りたのは初めてです。日曜日ですが、多くの人が利用している駅のようでした。駅前にはロータリーが整備され、路線バスも乗り入れていました。駅を出て流鉄沿いの線路を南に少し行くと、流鉄の踏切と、その向こうの高架橋は、JR常磐遷線と武蔵野線をつなぐ馬橋支線です。武蔵野線(→→→こちら)は、山手貨物線のバイパス路線として日本国有鉄道(国鉄)が建設した貨物線で、貨物列車が主に利用しているのでしょう。馬橋支線の下を流れるこの川は、江戸川の支川の一つである坂川から分流して流れる新坂川です。坂川は千葉県流山市の下総台地を源とし、柏市、松戸市を流れる川で、昔は逆川(さかがわ)と呼ばれていてよく洪水を起こしたそうです。(新松戸~北小金コース)【つづく】人気ブログランキング紅葉彩る松戸を訪ねて(その1) 新松戸駅から
Jan 3, 2025
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2025年の幕開けは、浅草の浅草寺への初詣です。宝蔵門の下から本堂を撮影しました。人出も多くて、観音様も皆さんの願い事、全部叶えるのには大変でしょうね。比較的早い午前9時ごろにお参りに行ったのですが、本堂の前には行列ができています。これだけの人が初詣で訪れるのですから、やっぱり迷子にな子供もいることでしょう。そんなわけで。この「浅草迷子しらせ石標」(→→→こちら)が残されているんでしょうね。こちらは浅草寺の五重塔(→→→こちら)です。昭和48年(1973)に再建された、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔です。五重塔、昭和20年に焼失するまでは、こちらに建っていました。参拝を終えたら、こういう露店で飲食を楽しむ人も多いんでしょうね。MoMo太郎のおばあちゃんは、「こういうところは不衛生だから」と言って露店で食べ物は買わないようにしていたのですが、高校生の時、友達とこういう露店のたこ焼きを食べたところ、本当に食あたりして2~3日寝込みました。この時、やっぱりおばあちゃの言葉は正しいと悟り、以来、露店では食べ物を買わないというのが、MoMo太郎の掟になっています。人気ブログランキング浅草寺に初詣
Jan 2, 2025
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あけましておめでとうございます。最近は「年賀状じまい」をする方も多いと聞きますが、ブログでは新年のご挨拶は今後も欠かさないようにしたいと考えていますので、また、よろしくお願いいたします。人気ブログランキング新年おめでとうございます。
Jan 1, 2025
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