全31件 (31件中 1-31件目)
1

石岡市は昭和4年3月の大火で、多くの建物が焼失したそうです。その中で、丁子屋は 焼失を免れた数少ない建物の一つであり,火災以前にあった商家建築では,現存する唯一のものになるそうです。そして、丁子屋店舗兼住宅として国の登録有形文化財になっています。現在は「まち蔵藍」という観光施設として利用されていて、内部を各種物産品の販売や喫茶室として活用し,自由に見学ができるようになっています。こちらは、主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた看板建築と呼ばれる建築様式の建物です。様式としては、木造2階建ての店舗兼住宅で、建物の前面を垂直に立ちあげ、モルタルや銅板、7タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物になるそうです。こちらの建物も看板建築だと思われますが、水酉酒店という名称がいいですね。「水」つまり「氵」で「酉」と併せれば「酒」になるという、ちょっとしたシャレですかね。この「たばこは市内で買いましょう」という看板、懐かしいですね。どうしてこんな看板があるかというと、市たばこ税は、たばこの製造者・卸売販売業者等が、市内の小売販売業者に売り渡した「たばこ」に対してかかる市の税金になるからです。ちなみに、実際に市たばこ税を負担するのは、たばこの購入者です。愛煙家のみなさん知らないうちに健康を害しながら税金を払っていただいているんですね。そして石岡駅に戻って来ました。北関東、茨城県にある石岡市、色んな魅力がある町でした。(石岡市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その8) 看板建築
Jan 31, 2024
コメント(32)

国道355号沿いにある金刀比羅神社(→→→こちら)です。金刀比羅神社は,もともとは平安時代中頃に、桓武天皇の曾孫である平高望(たいらのたかもち)王から国香(くにか)・貞盛(さだもり)らが常陸大掾(ひたちのだいじょう)という官職を得て国府に着任して以来、そのまま土着して勢力基盤を築き上げると、平氏ゆかりの神社として香取神宮を祀ったことにはじまるそうです。その後、文政10年(1827)に金刀比羅神社社殿を造営して,讃岐の国の金刀比羅神社を勧請して祀ったことが始まりだそうです。金刀比羅神社は江戸時代以来,航海守護や開運の神として信仰されてきており、この神社も古くから海の守り神として,銚子,那珂湊,平磯,平潟などの漁民から信仰され繁栄したそうです。俳人の正岡子規(1867-1902)が明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。この様子は東京に戻ってから書いた「水戸紀行」の中に記されているそうです(→→→こちら)。その旅の途中で詠んだ「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」という句を刻んだ句碑が建立されています。東京を発って二日目に泊まった石岡の宿でこの句を詠んだそうです。ちなみに、元来体の弱い子規はこの旅を終えて、帰京一ヶ月後に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています(→→→こちら)。金刀比羅神社は、1929年(昭和4年)、石岡の大火で炎上、1936年(同11年)に復興され、1952年(昭和27年)に宗教法人を設立しました。しかし、2000年(平成12年)2月に不慮の火災で社殿を焼失、2005年7月から2年間かけて復興が進み、2007年9月の石岡のおまつりにあわせて、今の新しい社殿が完成したそうです(→→→こちら)。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その7) 金刀比羅神社と正岡子規句碑
Jan 30, 2024
コメント(26)

常陸國總社宮(→→→こちら)にやってきました。総社とは、それぞれの律令国に鎮まる八百万の神々を国府近くの一ヶ所に合祀した神社であり、全国で55社が確認されているそうです(→→→こちら)。国司たちは総社を拝することで自らが治める国の数多の神々に祈りを捧げることができるようになったという神様のデパートです。社伝によれば、奈良時代の天平年間(729年 - 749年)の創建とされる。ただし「総社」の制度が確立したのが平安時代末期であることからちょっと眉唾感がありますが、いずれにせよ常陸の国を代表する神社であることは疑いようがないようです。こちらの板碑には常陸國總社宮の由緒が記されているようでした。花崗岩できたこの鳥居を抜けて長いこの参道を歩いて行った先に、こちらにあるのが、常陸國總社宮の由緒です。この中には特に書いてはありませんが、現在の石岡市が府中松平藩と呼ばれていた江戸時代末期、藩主・松平播磨守に仕えた手塚良庵という藩医がいました。世界的な漫画家・手塚治虫先生のご先祖だったそうです。こちらの随神門は本殿と同じ寛永4年頃造営された境内最古の建造物の一つで、遷座時の仮宮の木材を用いたと言われます。門内には石岡市指定文化財の「随神像」一対が置かれています。こちらが、神社の境内になります。左側の建物は神楽殿だそうです。右奥の建物が拝殿でその後ろにあるのが、御本殿になります。この石は、第12代景行天皇の王子・ヤマトタケルノミコトが東征の途中、この石に腰かけられたと伝わる倭武天皇腰掛石だそうです。ヤマトタケルノミコトは当地で編纂された『常陸国風土記』で「倭武天皇」と記されているそうです。当宮を造営する際に建造地選定の決め手になったのもこの神石だと言われているそうです。こちが拝殿になります。この拝殿は、昭和39年に参拝者の失火で焼失した茅葺の拝殿に代わり、昭和60年に復興奉賛会により新造されたそうです。石岡市は筑波山系の清冽な水に恵まれ、関東の灘と称される酒どころとしても知られていいるそうで、こちらはその石岡で作られている日本酒です。白鹿というと兵庫県西宮市の酒造メーカー(→→→こちら)が有名ですが、こちらは石岡酒造というメーカーの製品です。ちなみに石岡酒造破産しているそうです(→→→こちら)。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その6) 常陸國總社宮
Jan 29, 2024
コメント(29)

石岡市立ふるさと歴史館(→→→こちら)を訪れました。この施設、石岡小学校の敷地の中にあり、中に入っていいものかどうか戸惑いながら校門の門扉を開けて入って行きました。見たところ何の変哲もない小学校の校庭ですが、実は、この校庭の場所には、今から約1300年前、「常陸国」の国府が置かれていたそうです。国指定史跡「常陸国府跡」(→→→こちら)の上に建つのが、この石岡市立ふるさと歴史館です。2階の常設展示では旧石器時代から近代までの石岡の歴史を紹介しており、市内遺跡からの出土遺物はもちろん、常陸国分寺、鹿の子遺跡の模型や漆紙文書(複製)などを見ることができました。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その5) 石岡市立ふるさと歴史館
Jan 28, 2024
コメント(24)

常陸国分寺を出てしばらく歩くと、筑波山が見えてきました。標高877 mの筑波山、1000mにも満たないのに日本百名山の一つに入っている筑波山。万葉集にもその名が出ているのですから、標高とは関係なくやはり百名山ですね。こちらは石岡小学校の前にあった大木です。工事中で仮囲いに覆われていましたが、これは石岡の陣屋門(→→→こちら)で、昔は石岡小学校の校門となっていたそうです。江戸時代、石岡市には徳川光圀の弟である松平頼隆を藩祖とする府中藩が置かれていましたが、府中藩は御三家・水戸藩の御連枝として格式が高く、藩主は江戸に常駐していたそうです。そのため、地元で政務をとるために設置されいた役所が、「陣屋」と呼ばれていたそうです。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その4) 筑波山と陣屋門
Jan 27, 2024
コメント(30)

そして、常陸国分寺(→→→こちら)にやって来ました。厳密にいえば、今の常陸国分寺は、奈良時代に聖武天皇の詔(みことのり)により日本各地に建立された国分寺のうち、常陸国国分寺の後継寺院にあたるお寺になります。最初にあった常陸国分寺は、天慶2年(939年)の平将門の乱で焼失したり、さらには天正13年(1585年)の佐竹氏・大掾氏の兵火で焼失して以後衰退したそうです。そのため、常陸国分寺跡として昭和27年(1952年)3月29日に国の特別史跡に指定されており、現在の常陸国分寺は、かっての常陸国分寺の遺構の上にあるお寺になります。いったんは衰退した常陸国分寺ですが、慶長年間(1596年-1615年)に近隣の菩提山千手院来高寺の住職が国分寺住職を兼務するようになり、国分寺は千手院末寺となりました。やがて、大正8年(1919)、千手院と国分寺との合併によって現在の国分寺が成立し、千手院は廃寺とさて今の常陸国分寺になったそうです。こちらが、国分寺跡の金堂の位置に建てられている薬師堂となります。現在の常陸国分寺は、真言宗智山派の寺院であり、山号は浄瑠璃山。院号は東方院。本尊は薬師如来となるそうです。こちらの建物は、都々一坊扇歌堂です。都々逸節の創作者として知られる都々逸坊扇歌が嘉永5年(1852年)に府中で没したことから、記念として昭和8年(1933年)に建立されたそうです。こちらが今の本堂になります。そして、これが山門となるそうです。元々は、旧千手院の山門になりますが、前述の通り、大正8年(1919年)に国分寺と合併して廃寺となった。この山門は、その千手院の唯一の遺構になります。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その3) 常陸国分寺
Jan 26, 2024
コメント(26)

石岡駅から駅前通りを西に向かって歩きます。この通り御幸通りと呼ぶようです。そして今度は国道355号を北に向かって歩きます。古めかしい名前の薬局がありました。創業は慶安元年(1648年)とありますから、徳川家光の時代からの薬屋さんなんですね。でも建物は比較的新しいですね。しかし、国道からそれて一つ奥の通りに入ると、昔の土蔵を思わせる作りの建物や、古い商家を思わせるような建物が残っていました。石岡の町並み、ちょっと古い雰囲気もあっていいですね。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その2) 歴史を感じる建物あり
Jan 25, 2024
コメント(28)

北関東を旅してきた記録です。2023年10月の秋晴れのある日、上野駅から、常磐線にの乗って、茨城県石岡市へやって来ました。石岡駅、2016年に建て替えられた新しい駅舎です。石岡と言えば、毎年9月の「敬老の日」を最終日とする3連休(計3日間)に開催される、関東三大祭の1つ「常陸國總社宮例大祭」(→→→こちら)で有名です。このおまつりで使われる山車が駅前に展示されていました。また駅前広場には、みんなのタローという犬(→→→こちら)の銅像も建てられてました。みんなのタローとは、昭和39年,一匹の犬が石岡市立東小学校に迷い込んできました。誰が呼ぶともなく,「タロー」と名付けられ,児童たちにかわいがられていた犬です。このタロー 朝と夕方,石岡駅に向かいます。そして,いつも駅の待合室から改札口をジッと見つめています。誰かを待っている目です。午後4時から3時間も待っています。待ちくたびれたタローは寂しそうに帰って行きます。それは17年も続いたそうです。そんなタローのことは映画にもなったそうです(→→→こちら)。ちなみに、タローが待っていたのは、飼い主だった5歳の幼稚園児(女児)だったそうです(→→→こちら)。ちなみにタローの本当の名前はコロというそうです。飼い主は当時5歳の幼稚園児(女児)で、1人で自宅のある鹿島鉄道(07年に廃線)玉造町駅から幼稚園のある11駅目の石岡駅へ通っていたそうです。自宅から玉造駅までは彼女のタロー(コロ)が送迎をしていたそうでした。タロー(コロ)は列車の車内まで女児を見送りに来ており、頭を撫でられると電車から降りて帰路についていたました。しかし、ある朝、頭をなで忘れたのか、タロー(コロ)は列車を降りずに、石岡駅までついてきてしまう。「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれた。犬を乗せたことを怒られると思って女の子は首を振り、そしてタロー(コロ)は駅員に追い払われました。それが女の子とタロー(コロ)の別れとなり、その後幼稚園を卒園した女の子は石岡駅を使うこともなく、時が過ぎていったということです。でも、地元の人ですからその後石岡駅を使うこともあったでしょうけど、女の子が成長して大人になったらタロー(コロ)にはわからなかったかもしれませんね。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その1) 忠犬タロー
Jan 24, 2024
コメント(25)

今日、山手線に乗ったら、若いお兄さんに座席を譲られて、なんとなく複雑な気持ちになったMoMo太郎です。【女子高生の靴下の丈】最近の通勤時間で気になっているのは、女子高生の靴下の丈です。どうも、女子高生の靴下は一種のおしゃれアイテムで、最近は紺色のハイソックスを履いている人が多く、これを履くと、白いハイソックスよりも足が細く見えるらしい。また、反対に短いスカートにくるぶしまでの丈のソックスを履いている人もいます。これは足を長く見せる効果があるそうです。そして、冬になってきて、黒いタイツを履いている女子高生も多いですが、さすがに網タイツというのは見かけないですね。一方、かって一世を風靡したルーズソックスなるものはもはや絶滅したようです。このルーズソックスというのは足首周りで靴下をだぶつかせることで、相対的に太ももを細く見せる効果があったそうです。しかし、最近見かけるようになったのは、ゴムが緩くなったのか、普通の丈の靴下がたるんで足首が小さなルーズソックス状態になっている子がいることです。これはルーズソックス復活の兆しでしょうか。【親切なおじさん】朝の中央総武線の三鷹行きに乗っていると、四谷駅を過ぎるとかなり乗客が減ってきて、座席に座っている人も増えてきます。ただ代々木や新宿で山手線に乗り換えて学校に向かう女子高生の中には座席に座ったまま居眠りしている子もいます。普通は、なんとなくそういう子を無視してしまいますが、MoMo太郎が乗り合わせた車内で、離れた座席に座っていたおじさんが、わざわざ居眠りしていた女子高生に近づいてきて、肩をゆらして「代々木だよ」と言って起こすと、その女子高生、ハッと起きて電車から降りてゆきました。そのおじさん、どうしてその子が代々木で乗り換えないといけないのか判っていたんでしょうか?ひょっとして、制服を見て、どこの学校か生徒さんかわかっていたんでしょうか!?【車内ではお菓子は禁止】昼下がり、外出した時に電車に乗ろうとしたら、ベビーカーに乗った二歳か三歳くらいの小さな男の子とお母さんが同じように電車を待っていました。男の子は袋に入ったビスケットを手に持っていて、おそらくむずかる子供の気をそらすためにお母さんが食べさせようとしたのだろう。しかし、その子はお菓子を食べようとせず、お母さんが「電車に乗る前に早く食べなさい」と言うと、その子供は首を振って食べようとしなかった。重ねてお母さんは「電車の中で食べると臭いがするから、食べるとダメだから、早く食べなさい」と言った。実は、お昼ご飯を食べていなかったMoMo太郎は、電車の中で食べようと、駅のコンビニで総菜パンとコーヒー牛乳を買って持っていたので、このお母さんのつしつけを邪魔していけないとと思い。別の車両に乗るためにそこから離れました。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その5)
Jan 23, 2024
コメント(26)

平成12年(2000)に閉鎖された松竹大船撮影所の名残がないかさがしてみました。今の撮影所の敷地のほとんどはこちらの、鎌倉女子大学(→→→こちら)の敷地になっているようです。その鎌倉女子大学の前の小道を北側に向かって歩き、大学の敷地の北側を流れる砂押川(→→→こちら)に出ると、桜並木があり、砂押川プロムナードとして整備されていました。また看板にある鎌倉芸術館(→→→こちら)というのは松竹大船撮影所の敷地の一角を借りて建設された施設だそうです。砂押川沿いには相当な桜の大木もあるようで、桜の季節の時に訪れてみたいものです。そして、この橋。親柱には、松竹第二号橋と刻まれていて、松竹大船撮影所に関連して建設された橋なのでしょうか。また、こちらの橋にも、親柱の文字を見てみると、松竹大通橋との名称が記されていました。【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(付録その2) 松竹大船撮影所の名残をさがして
Jan 22, 2024
コメント(28)

折角、大船までやってきたので、お昼ご飯でも食べようかと思い、すこし駅の東側を歩いてみました。東側はちょっと賑やかな商店街になっていました。駅の北側、戸塚方面に向かって歩いて行くと、笠間口という入口があることを発見。そして、こちらからは横浜市になっていました。つまり、大船駅って鎌倉市と横浜市の両方にまたがる駅だったんですね。こちらの通りを更に、東に向かって歩いて行くと、松竹前というバス停がありました。そして、その近くの交差点の名前が、松竹前という名称でした。昭和11年(1936)から平成12年(2000)まで、この大船にあった松竹大船撮影所(→→→こちら)があったことの名残りなんですね。【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(付録その1) 松竹前
Jan 21, 2024
コメント(30)

大船といえば、大船観音(→→→こちら)、全長約25メートルの巨大白衣観音像、が有名ですね。大船観音入口があったので、ちょっと立ち寄りました。ここが大船観音の大船観音寺(→→→こちら)の入口のようです。参拝料が必要なようなので、時間の都合もあり、またの機会に参拝させていただくことにします。ということで、この柏尾川を渡って、大船駅の構内に入りました。駅西口には、立派な高架型の歩道、ペデストリアンデッキがあります。このペデストリアンデッキから大船観音を拝んでおきました。観音様の優しいお顔がいいですね。ここでよく見ると、地上にあるのは半身像だけのようで、全身のある立像ではなかったんですね。大船駅のコンコースには商店が並んでいて、便利がよさそうです。こちらが南改札となっています。大船駅には、東海道線・横須賀線・湘南新宿ライン・根岸線(京浜東北線)が乗り入れており、鉄道の要衝となっています。そんなことから発着する列車も多いためでしょうか、駅の発車標がフルカラーLEDを用いて10本分の列車発車時刻を表示していました。大船駅からは、まだ乗ったことのない根岸線経由で帰ることにしました。根岸線を走っているのは、この京浜東北線E233系です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その15) 大船観音と大船駅
Jan 20, 2024
コメント(29)

河川と東海道線を跨ぐ橋が見えてきました。柏尾川(→→→こちら)沿いに大船駅に向かって歩きます。並行して東海道線も走っています。大船駅周辺のマンション群も見えてきました。そして、ここで鎌倉市に入りました。振り返ると、横浜市でした。横浜市って結構広いですね。歩道を塞ぐように建っています。理由はあるのでしょうけど、なんとかならないんでしょうかね。やがて、ペデストリアンデッキ(→→→こちら)らしきものが見えてきました。どうやら駅のようですね。ようやく大船駅(→→→こちら)のようですね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その14) 鎌倉市に入ります、そしてようやく大船駅
Jan 19, 2024
コメント(28)

大規模な道路工事を横目に見ながら、大船駅に向けて歩きます。横浜環状南線の工事だそうですが、このあたりインター・ジャンクションができるのでしょうか。いくつもの橋が交差して建設されているようです。この近くニコンの工場もあるようです。高速道路の下に広がる水田です。田谷・長尾台農業専用地区(→→→こちら)という看板がありました。都市農業の確立と都市環境を守ることを目的とした、横浜市独自の農業振興策だそうです。集団的な農地等を農業専用地区に指定し、農業振興策を実施することにより、農地の保全を図っている地域になります。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その13) 田谷・長尾第農業専用地区
Jan 18, 2024
コメント(24)

大きな水路がありました。結構、魚影がありました。鯉でしょうか。水田の中を道路工事が進んでいました。住宅のすぐ脇にも道路が造られているんですね。田谷の洞窟(→→→こちら)というのがあるようです。ちょっと立ち寄ってみました。田谷の洞窟とは、正式名は「田谷山瑜伽洞(ゆがどう)」といい、横浜市登録地域文化財の「地域史跡」に登録されているものだとか。真言宗大覚寺派田谷山定泉寺境内にある人工洞窟になるそうです。大変興味深いもののようですが、ここまで歩いてきたので、足も疲れてきたので、また改めて参拝させていただくことにしました。真言宗のお寺ということで、弘法大師の立像が建立されていました。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その12) 田谷の洞窟
Jan 17, 2024
コメント(28)

建設中の道路橋がありました。工事個所を迂回して、丘の上に登ると、建設現場が見えました。橋脚の工事ができて今度はその上に橋桁を載せるのですね。横浜環状南線道路(→→→こちら)の工事なんですね。知らなかったんですが、建設現場って週休2日ではなかったんですね。まあ、雨が降れば作業もできないから休みもあるので、梅雨時期なんかだと週休4日も夢じゃないかも。とはいえ、休みが増えると工事期間も長くなって、令和6年3月31日までには工事が終わらないかも。日曜日だったので、工事は休んでいましたね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その11) 横浜環状南線道路工事中
Jan 16, 2024
コメント(22)

住宅街の中を歩いて、東海道線の次の駅、大船へ向かっています。ちなみに、この道を歩いていたのは2023年9月17日(日)です。まだまだ残暑の厳しい中を歩きました。そしてちょっと疲れたので住宅街の中の公園でひと休みです。公園の名前が「原宿公園」、横浜にも原宿(→→→こちら)があったんですね。ちなみに東京の原宿は江戸時代以前は鎌倉街道の宿場町があった(→→→こちら)そうですが、このあたりもそういう宿場町だった歴史があるんでしょうか?高齢者専用の押しボタン式信号機がありました。でも通学に使う子供たちも押しているかも?炎天下の下で、サッカーの練習をしている高校生のようです。途中の道端にあった廃止された公衆電話です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その10) 横浜市の原宿、そして使われなくなった公衆電話
Jan 15, 2024
コメント(24)

大坂松並木を過ぎてさらに国道一号沿いに歩みを進めると、このような石碑があります。石碑には「お軽勘平戸塚山中道行の場」(→→→こちら)と刻まれていました。人形浄瑠璃や歌舞伎の演目である「仮名手本忠臣蔵」の中で演じられる三段目・恋歌の意趣の中にある「道行旅路の花聟」に因むもので、「仮名手本忠臣蔵」の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 清元節を使った所作事になるそうです。、話としては、腰元お軽と逢引していて殿中で刃傷沙汰を起こした主君の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、お軽の実家のある山崎へと、お軽とともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむという筋立で、鎌倉から落ち行くふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事になるそうです。ちなみに仮名手本忠臣蔵の中では、お軽の故郷に逃げた勘平は猟師として暮らしていたところ、誤って義父与市兵衛を殺したと誤解し自害するが、死に際に潔白が証明され,討ち入りの連判状に加えられるといった内容でした。こちらの石碑は、お軽勘平戸塚山中道行の場の石碑が建立された由来が記されているようで、清元節に因んだことが記されているようでした(多分)。このレストランのあるところで左折して、住宅街のなかの道を歩いて行きます。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その9) お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
Jan 14, 2024
コメント(12)

国道一号沿いに歩いて行くと、また旧東海道道しるべ(→→→こちら)が見つかりました。大坂松並木という道しるべてした。説明文では、大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(一九三二)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。とありました。さらに進んでいくと、大きな歩道橋になっているところがありました。グーッと突き出したカーブした歩道橋になっています。歩道橋の下は環状3号線(→→→こちら)が通っていました。道がきれいで最近開通したような感じですね。歩道橋の上から望遠で撮影しましたが、港南台(→→→こちら)と呼んでいるニュータウンの方でしょうか。横浜も多くの人が済んでいるんだなと思いました。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その8) 大坂松並木と環状3号線
Jan 13, 2024
コメント(26)

旧東海道から離れて、国道一号の新道に向かいます。バイパスに面した戸塚警察署です。この道が国道一号の新道、バイパスになっています。そして、お正月の箱根駅伝のコースになっています。箱根駅伝の戸塚中継所近くなってきて、ちょっと渋滞。この広場、箱根駅伝往路2区→3区から中継所になります。飲食店などがあって、多くの車が駐車されていますが、駅伝当日は一般車両は駐車禁止になるんでしょう。こちらの自動車販売店は復路8区→9区の中継点です。店名が戸塚中継店になっていました。アピールできる店名ですね。駅伝のイラストもありました。しかし、いつも思うのですが、駅伝ってオリンピックの競技でもないのに、なんであんなに人気あるんですかね。と言ってもMoMo太郎も好きですが。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その7) 箱根駅伝戸塚中継所
Jan 12, 2024
コメント(24)

バス停の横に道標がありました。わざわざ植樹された木もあって、目立たたせようとしているのか。道標には「横浜市地域史跡東海道戸塚宿見附跡-上方見附-」とありました。ここが戸塚宿の上方(京都)側の入口にあたるのですね。戸塚区内の旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、江戸方見附跡と上方見附跡の2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされていたそうです(→→→こちら)。ここからは、長大な登り坂が始まるようです。坂道に差しかかるあたりに石碑が立ち並んでいました。この石碑は庚申塔のようですね。江戸時代庚申信仰(→→→こちら)が盛んだっんでしょうね。さらに坂道を登って行くと、またバス停の近くの植え込みに道標がありました。植え込みに隠れていますが、説明文には、かつては二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り一町余(百m余)、二番坂登り三十間余(五十四m余)と書かれています。大坂では嘉永六(一八五三)年に仇討ちがあったという記録があります。とありました。ということで長い坂が続きます。その道しるべの先に石碑が植え込みの中に建っていました。東海道の史跡「大坂」を示す石碑、もっとわかりやすく設置し直して欲しいな。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その6) 戸塚宿上方見附と大坂
Jan 11, 2024
コメント(22)

しばらく歩くと、大きな交差点がありました。戸塚町とありましたから、ここが戸塚の中の戸塚なんですかね。その交差点の近くにあった旧東海道道しるべ、結構頼りにしています。説明文によれば、戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。とのことです。とりあえず、お参りさせてもらいました。こちらの石碑が松尾芭蕉の句碑です。句碑には、「鎌倉を 生きて出でけむ 初鰹(芭蕉翁)」と刻まれてました。鎌倉産の初鰹の活きのよさを詠んだ句なんでしょうね。江戸っ子に珍重された初鰹。当時は鎌倉に水揚げされて戸塚を通り江戸へ運ばれていたんですね。こちらには冨塚八幡宮の由緒が書かれていました。御祭神は誉田別命、富属彦命で、社殿後方の地は富属彦命の古墳になるそうです。また、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあるそうです。そして社殿は、この石段を登ったところに。登ってみました。こちらが社殿です。御幣束で扁額の文字が隠れてしまいましたが、冨塚八幡宮です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その5) 冨塚八幡宮
Jan 10, 2024
コメント(20)

澤邉本陣跡から平坦な道が続く通りを300mほど進むと、この鳥居が見えてきました。鳥居の前にあった東海道道しるべによると、この神社は「八坂神社」(→→→こちら)だそうです。この説明文によれば通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守です。元亀3(1572)年に。牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われています。毎年7月14日行われる「お礼まき」は、無病息災を祈願して市の無形文化財になっています。神社脇の東海道と鎌倉道が交差するあたりに高札場がありました。と説明されていました。また鳥居のすぐそばに国土地理院の水準点が設けられています。八坂神社の境内には、明治天皇東幸史跡の石碑が建立されていました。ここにも明治元年の天皇が東京に移られた時に内侍所(三種の神器の一つである神鏡(八咫鏡やたのかがみ)を安置した所)が建てられたことによるものだそうです。この石碑の脇にあった、八坂神社の由緒を説明した看板です。これによると、創建は元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親によるものだそうです。ちなみに「庄司」とは、江戸時代において村落の長。庄屋。名主(なぬし)。肝煎(きもいり)を意味していたそうです。横浜市の無形民俗文化財の「お札まき」についての説明板もありました。こちらが八坂神社の境内になります。風に舞う幣束が写り込んでいますが、社殿の扁額です。八坂神社とあります。ちなみに京都の八坂神社では、素戔嗚尊 (すさのをのみこと)がご祭神になりますが、こちらで祀られていた牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていたことから、明治初年社号を八坂社と改めたのでしょうか。そして、神社脇の東海道と鎌倉道の交差点にあった古びた石碑です。読みにくいですが、「これよ里かまくら道」と刻まれていますが、建てられている場所が東海道の北側で、本来の、東海道の南側のかまくら道の入口でないのは、道路工事かなにかの関係でここに移設されたんでしょうかね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その4) 八坂神社と「これよ里かまくら道」
Jan 9, 2024
コメント(26)

戸塚宿の澤邉本陣跡の横には羽黒神社があります。参道にある鬱蒼とした大木がこの神社の歴史を物語るようです。戸塚羽黒神社の由緒は、国府台の合戦(→→→こちら)で戦死した沢辺修理亮信直(天文7年1538年没)の長男沢辺河内守信友が弘治2年(1556)に創建したと伝えられています。江戸時代の初め、戸塚が宿場町になるよう幕府に働きかけていた澤邉宗三は、元和2年(1616)11月17日に(戸塚が宿場町となる)伝馬証文が下附された際、羽黒社に感謝して祭日を11月17日としたそうです。江戸期には戸塚宿内の鎮守とされ、明治6年村社に列格、明治14年戸塚町内神沢より当地へ遷座したと伝わっています。今の社殿は昭和34年8月17日の改築になっています。また祭礼の日も現在では8月17日だそうです。しかし、神奈川県の戸塚から遥かに遠い出羽の国、山形県にある羽黒山とつながりがあるのは、なんか不思議ですね。また、この神社を創建した沢辺河内守信友という方も、羽黒山とどういうつながりがあったんでしょうかね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その3) 羽黒神社
Jan 8, 2024
コメント(24)

旧東海道に沿って歩いて行くと、旧東海道道しるべが設置されていました。ここに戸塚宿の脇本陣があったようですね。説明文によると、脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあります。 戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。だそうです。さらに南に下って、進んでいくと、「きじま本陣」(→→→こちら)がありました。江戸時代からの流れを汲む本陣が、飲食店になったのではと思いましたが、そうではなく普通の飲食店のようでした。こちらが正真正銘の戸塚宿 澤邊本陣跡だそうです。背後に建つお宅には澤邉本陣にゆかりのある方がすんでいたりして。説明文では澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の1つ 羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。と記されていました。大きな木製の標柱もあり、そして、明治天皇戸塚宿行在所址の石碑もありました。行在所(あんざいしょ)とは、天皇が行幸時に、臨時に滞在する場所のことで、わざわざ天皇滞在のための建物を建てると行宮(かりみや)となるのでしょうけど、臣下の邸宅・寺・官衙などを臨時に利用・転用した場合に行在所と呼ぶようです。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その2) 本陣と脇本陣
Jan 7, 2024
コメント(26)

新年早々、東海道線の駅間歩きをはじめます。さて、戸塚駅から出発します。戸塚駅に停車している東海道線の車両です。駅西口にある地図で行き先を確認します。駅前の広場には、なぜかハトがたむろしていました。西口には、横浜市の戸塚区役所がありました。駅西口から続く商店街です。駅前の国道1号にある戸塚郵便局です。旧東海道にあたる国道1号を南の方角に向かって歩いて行きます。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その1) 戸塚区役所
Jan 6, 2024
コメント(30)

日高屋さんの天津飯(560円税込み)です。かかっている甘酢の酢がちょっとキツイ感じがしましたが、それはそれで食欲増進になりました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 天津飯
Jan 5, 2024
コメント(28)

一宮町に戻って、一宮海岸広場にやってきました。こちらは大塚実氏顕彰記念碑です。一宮の海岸再生に活用をとして大塚商会名誉会長だった大塚実氏が4000万円寄付したんですね。(→→→こちら)大きな石碑が二基建立されていました。こちらは「芥川龍之介 愛の碑」だそうです。裏面の解説によると、芥川龍之介は千葉県九十九里浜の南端、長生郡一宮町に、大正3年夏と5年夏、二回にわたって滞在してたそうです。大正3年に来たときは、芥川の初恋の人、吉田弥生とは、家柄の違いを理由に恋は実らなかったようです。大正5年には新しい恋人塚本文(ふみ)に、この一宮町から長い長い求婚の手紙を出し、結婚したたそうです。こちらの石碑は「黄塵碑」と読むのでしょうか。裏面の説明によると、となりの長南町出身の上田広(本名浜田昇)(→→→こちら)の記念碑のようです。この方は、日中戦争に応召され、現地で「黄塵」などの作品を書いた、いわゆる兵隊作家だったようです。戦後は、鉄道関係の著作を多く書かれたそうです。【了】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その3)芥川龍之介愛の碑
Jan 4, 2024
コメント(26)

隣のいすみ市にある太東海浴場にやってきました。雰囲気は南国ですが、やっぱり寒かったです。夏の海水浴シーズンにはこのベンチに座って記念撮影する人も多いんでしょうね。イルカののモニュメントがありましたが、ここにイルカはやって来るのかな?これはシンボルの石像ですね。こちらの海岸、2020年東京オリンピックのサーフィン競技の会場となった釣ヶ崎海岸に続いています。海水浴場の隣は太東漁港になっています。冬の海ってなんか寒さを一層感じました。【つづく】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その2)太東海水浴場
Jan 3, 2024
コメント(20)

去年の暮も押し迫った頃、急に海が見たくなったので、千葉県九十九里浜の方へドライブしてきました。こちらはJR東日本の外房線の駅、上総一ノ宮駅の西口です。上総一ノ宮駅は東京・千葉方面からの快速電車終着駅であるためここから千葉や東京に通勤している人もいるそうです。駅舎の天井は杉の木を使った格子状になっていて、なかなか凝ったデザインになっています。こちらは駅の東口、改札はICカードのみ利用のようです。一ノ宮というだけあって、駅の近くには上総国一之宮として知られる玉前神社(→→→こちら)があります。一之宮というのは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことだそうですから。この神社も大きな神社でした。この鳥居を抜けて、階段を上がると、黒漆塗りの権現造りという珍しい社殿がありました。一年の最後ということで年末詣でお参りさせていただきました。【つづく】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その1)上総国一之宮 玉前神社
Jan 2, 2024
コメント(34)

あけましておめでとうございます。気候変動、戦争など人類の将来を憂うばかりですが、自分にできることに着実に取り組んで参りたいと思っています。本年も宜しくお願い致します。人気ブログランキング新年おめでとうございます
Jan 1, 2024
コメント(26)
全31件 (31件中 1-31件目)
1


![]()