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昨日、都知事選の期日前投票に行ったら、テレビ局の出口調査を受けました。出口調査って期日前投票でもやっているんですね。で、誰に投票したかを聞かれましたが、実際に投票した人とは別の名前を回答しておきました。だって、開票が始まって、すぐに「〇〇さん当選確実」って出ると、つまらないじゃないですか。やっぱり、〇〇さん当選するのかしないのか、ハラハラしながら選挙番組を見た方が楽しいでしょ。ということで、皆さん出口調査には正直に答えないようにしてはどうでしょうかね。ということで、最近、よくテレビ番組で見る北関東の紹介です。霞ヶ浦を構成する川の一つで、北浦と外浪逆浦を繋ぐ鰐川です。この鰐川の流れる茨城県潮来市延方から対岸の鹿嶋市を見ると赤い鳥居が見えました。ズームしてみてみると、大きな鳥居が水上に建てられています。鰐川に架けられた参宮橋を渡り、対岸の赤い鳥居に近づいてみました。この鳥居が建てられているのは、茨城県鹿嶋市大船津という地区です。ここは北浦(霞ケ浦)の港として栄え、また、鹿島神宮参拝者の船着場だったところです。そして神宮へ向かう参道の始まりの場所でした。利根川の舟運を利用して、江戸時代には東国三社参り(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)が盛んに行なわれましたが、息栖神社から船に乗り、北浦の大船津で上陸、鹿島神宮に参拝していたそうです。鹿島神宮には東西南北に「一之鳥居(いちのとりい)」があり、神宮を守っています(→→→こちら)。そのうちの西の一之鳥居がこの鳥居になります。現在の鳥居は2013年に完成したものですが、その歴史は古く、平安時代から水上にあったことが記録に残っていて、船が運航するときの目印にもなっていたといわれています。きっと、多くの参拝者が神宮に向かっう時に目にしたのがこの鳥居でしょう。この鳥居は、水上鳥居としては日本最大級で、高さ18.5m、幅22.5mだそうです。夏にはこの鳥居をバックに、大きな花火が打ちあがるそうです。(場所はこちら)人気ブログランキング北関東の旅、鹿島神宮一之鳥居
Jun 30, 2024
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今日、青いコチョウランを見ました。こんな色のコチョウラン初めてです。元々青色色素(デルフィニジン型アントシアニン)を作る遺伝子(青色遺伝子)を持たない植物種であるコチョウランに、ツユクサの青色遺伝子を組み入れ、今までの品種に無い気品ある花色を実現したそうです(→→→こちら)。花の中には、このコチョウラン以外にも青いバラ(→→→こちら)や青いキク(→→→こちら)といった遺伝子組み換え技術を使ったものが開発されているみたいですね。人気ブログランキング青いコチョウランは遺伝子組み換え
Jun 29, 2024
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立ち食いソバのチェーン店、富士そばで意外とお勧めなのが、このかつ丼(580円税込み)です。かつ丼にすまし汁までついていて、580円とはリーズナブルです。お味は、まあ格別というものではないとしても。かつ丼を食べたという充実感はありますよ。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 富士そばでかつ丼
Jun 28, 2024
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西武新宿線沼袋駅の商店街です。一本脇道に入ると飲食店も多く、地域住民には親しまれている商店街のようです。ちなみに商店街は沼袋親交会という名称で、キャッチフレーズは「とかいなかぬまぶくろ」というようです。都会+田舎ということで「とかいなか」なのか都会の中という意味なのが真意はわかりません。キャラクターの鶏らしいのは「フクロウ」ということで沼袋に掛けているのだと思いますが、ということで、駅からハイキングのゴール、沼袋駅です。現在は地下駅になる工事中です。ということで、駅名標も工事中の仮設のようでした。こちらは30000系(スマイルトレイン)の拝島行の急行が通過していきました。上りの各駅停車がやって来ました。20000系の各駅停車、西武新宿行です。これでに乗って帰りました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【了】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その12) 沼袋親交会
Jun 27, 2024
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哲学堂公園の次は中野沼袋氷川神社(→→→こちら)に向かいます。哲学堂公園を出たところにある、中野通り(だと思う)を新井薬師の方へ向かってしばらく南下して行きます。そして蛇行する妙正寺川を渡り、さらに今度は沼袋駅に向かって右折して住宅街の中を歩き、またこの妙正寺川を横切ります。そして、中野沼袋氷川神社の大きな案内板がありました。駅からハイキングに参加したのは5月12日だったので、6月にあるお祭りの大きな案内板がありました。大きな石造りの鳥居です。社号碑には氷川神社と刻まれています。現在の埼玉県さいたま市にある武蔵国の一の宮である氷川神社から分霊された神社なのですね。、階段を登って二の鳥居になります。この狛犬は、子育て狛犬と呼ばれ、子供を抱いてあやしている珍しい狛犬です。3回撫でるとお産が軽くなり、子育てが順調に進むと言い伝えられています。子供を産むことはないですが、3回撫でてはみました。JA東京グループの設置した江戸・東京の野菜の説明板がありました。東京大越瓜(とうきょうおおしろうり)というのは、奈良漬専用として現在の豊島区、中野区、練馬地区で広く栽培されていたそうです。こちらに並べられている大きな石は、力石(ちからいし)です。力石とは、昔、若者たちが力比べに使ったもので、持ち上げられた「大石」に、その重量や姓名を刻んで奉納したものです。こういう大きな石を持ち上げることで一人前と認められたんでしょうね。お正月やお祭りの際、奉納舞踊やお囃子などが披露される神楽殿です。新しいのは、天皇陛下御大典奉祝記念事業として、令和元年に改修したからだそうです。参拝記念の写真撮影がこの大きな絵馬の前でできるみたいです。お正月の初詣の時に家族記念写真で撮影するのに良さそうですね。切株だけ残ったこれは、道灌杉と呼ばれているそうです。文明9年(1477年)に太田道灌が豊島氏との間で合戦(江古田・沼袋原の戦い)の際に、当神社に陣営を置いたと言われ、その際戦勝を祈願して境内に杉の木を植えたと言われている。これが「道灌杉」と呼ばれ、高さ30メートルほどの大木となり、長く親しまれてきたが1942年に枯死し今はこの痕跡だけとなったそうです。この神社、太田道灌とのゆかりが深いのでしょうね。そしてこちらが社殿です。厄除け・疫病除けのご利益があるとされている須佐之男命(スサノオノミコト)が御祭神としてお祀りされています。扁額は、名誉宮司の小俣茂氏が揮毫したものだそうです。ちなみに、この社殿も新しいですが、昭和63年(1988年)に昭和天皇在位60年を記念して作られた社殿が、1年数か月後の平成3年(1990年)に過激派によるゲリラにより焼失してしったため、改めて、平成3年(1991年)に造営されたそうです。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その11) 中野沼袋氷川神社
Jun 26, 2024
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哲学堂公園(→→→こちら)の中をちょっと散策してみました。哲学堂公園とは、明治37年(1904年)に哲学者で東洋大学の創立者、故・井上円了博士(→→→こちら)によって精神修養の場として創設された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された全国に例を見ない個性的な公園だそうです。ということで、庭園の中の施設にも、哲学的な名称が付けられています。こちらの池に架けられた石橋には、「概念橋」と言う名前が付けられ、「理性(島)に達する道程には概念(橋)が存在するとしてこの名をつけた」という解説がありました。哲学というのはよくわかりませんが、精神的なことを示しているみたいですね。園内にあるこの泉には、「先天泉」という名称で、これにも「我々の心の深淵には時に教育や経験を超越した高妙尊厳の消息に接することがあるのを、この先天泉に喩えている。」という理屈が書かれていました。こちらは公園の横を流れる妙正寺川の対岸にあった洪水調整池です。哲学とは関係ない土木の施設ですね。こちらは園内の高台に登る階段ですが、「直覚径」と名付けられ、「唯心庭より丘上の論理域に達する近道を選ぶとするならば、この直覚径を行けばよい。」とありました。調整池の設計は物理的な考察によるもので論理の組み立てが重要であることから、この道を上がって論理域に行くことにしました。ということで丘の上に論理域に出ると、この「四聖堂」という建物がありました。四聖とは、井上円了が影響を受けたソクラテス、カント、孔子、釈迦のことを言うそうです。この建物が哲学堂とも呼ばれ、公園の名称の由来になったのですね。四聖堂の前にある石碑には井上円了博士のことが記されていました。さらにこちらの朱塗り、三層六角形のこの建物は、「六賢台」という建物で、 日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅の東洋の六人の哲人が祀られているそうです。そして、哲学堂の正門にあたる「哲理門」です。「哲理」とは、人生や世界の本質などに関する奥深い道理を意味して、それらを探究することが哲学であるということのようです。公園内には、スポーツ施設もあり、こちらはテニスコートです。また、野球場もありました。このようなところで肉体を鍛えながら、テニスや野球の勝負を通して、どのようなところへボールを打ち返せば相手は取れないとか、対戦相手を騙すための思索を深めるのも哲学には必要なのでしょうね。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その10) 哲学堂公園
Jun 25, 2024
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林芙美子記念館を出て妙正寺川(→→→こちら)沿いを歩いて行きます。妙正寺川では、1966年(昭和41年)の台風6号による氾濫そして2005年(平成17年)には首都圏を襲った局地的な大雨により周辺地域で浸水被害が発生したりする川なので。ところどころに調整池が設けられています。しかし、都下の中で用地取得も容易でなく、地下式の調整池も建設されています。右岸側は中野区の上高田運動公園となっていますが、地下は調整池となっていて、川の水位が増えると、ここから調整池に流れ込むようです。調整池の上は、このようにグランドとして利用されています。妙正寺川の左岸側の新宿区側には、目白からはかなり離れていますが、目白大学(→→→こちら)のキャンパスがあります。そして哲学堂通りにやって来ました。中野区立哲学堂公園へ中へ入って行きます。公園の面積は、52,494平方メートルとかなりの広さの公園のようです。ちなみに阪神甲子園球場の面積は38,500平方メートルです。入ったところにあっった池です。菖蒲池という名称通り、ハナショウブが咲いていました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その9) 妙正寺川
Jun 24, 2024
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トキワ荘公園から山手通りに戻って、山手通りを中落合方面に向かって南へ下ってゆきます。道路の真ん中にそびえるこのコンクリートの塔は、山手通りの地下にある首都高速中央環状線の換気塔です。やがて、新目白通りと交差する位置に到着しました。山手通りと新目白通りは立体交差になっていて、下に見えるのが新目白通りになります。中落合の町の中に入って林芙美子記念館(→→→こちら)にやって来ました。林芙美子記念館とは、林芙美子が、生涯最後の10年間(1941年(昭和16年)から1951年(昭和26年)を暮らした家を改築・整備し、記念館として公開しているものです。林芙美子(→→→こちら)というのは、「放浪記」、「浮雲」などの作品を残した作家です。こちらが林芙美子邸の門になりますが、ここからは入れず。こちらの入口から入ります。入口の横に記念館の平面図があり、記念館の解説がありました。こちらで、入館料(150円)を払って中に入れます。駅からハイキングの特典で団体入館料の80円で入館できました。こちらが台所です。林芙美子は家事好きでここでよく家族の食事やお客さんへ出す酒肴などを調理していたそうです。お手伝いさんなどは雇っていなかったんでしょうかね。この部屋はもともと林芙美子の書斎として使われていたそうですが、明るすぎるということで、書斎を隣の納戸に移して、家族の寝室にしたそうです。こちらが、納戸を改造した書斎だそうです。こちらが庭です。執筆に疲れた時はこの緑を観て眼を休めたのでしょうね。庭から見た林芙美子邸です。なかなか趣味のよい日本家屋のようです。こちらは小間で、芙美子の母、キクが使っていた部屋だそうです。また男性の書生がいる時はその寝室になりました。また客間が一杯になった時や引き合わせたくない客がぶつかったりすると、客間としても使われたそうです。そして、こちらが客間。流行作家だった林芙美子のもとには原稿を取りにきた記者たちがここで何人も待たされていたそうです。林芙美子邸は台地の下にあり、裏は小高い丘になっていて、ここから林芙美子記念館を見下ろすことができます。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その8) 林芙美子記念館
Jun 23, 2024
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そしてこちらの公園に到着しました。トキワ荘公園です。正式な名称としては「南長崎花咲公園」(→→→こちら)ですが、この近くに手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄などが住んでいたトキワ荘があったことから、地元の方の呼びかけによって、平成21年4月「トキワ荘のヒーローたち」の記念碑が立てられました。さらに、豊島区立トキワ荘マンガミュージアムが建てられて、トキワ荘公園とも呼ばれるようになったようですね。記念碑「トキワ荘のヒーローたち」についての説明板です。トキワ荘を地域の文化資源として継承・発信していくシンボルとして、2009年に地域との協働で設置した記念碑になるそうです。ちなみに、トキワ荘があった当時、この南長崎花崎公園には、「大和寮」と呼ばれていた都営バスの社宅があつたそうです。うっかりして、記念碑の全景を撮影していませんでした。本当はこの台座の上にトキワ荘のブロンズ模型が載っていたのです。台座部分にはトキワ荘に入居していた10人のマンガ家たちの自筆の似顔絵とサインが刻まれています。どんな方々かというと、寺田ヒロオ、藤子F不二夫、藤子不二雄Ⓐ、鈴木伸一、守安なおや、手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとしお。の10名です。こちらには、解説文もありました。近くの地図もありました。ここでトキワ荘の漫画家さんゆかりの地を巡るのもたのしいかも。またこちらには「トキワ荘へようこそ」というトキワ荘を紹介する看板もありました。当時の内部の写真などもありました。こちらが建物の外観です。南長崎花咲公園(トキワ荘公園)は、南長崎三丁目第3児童遊園を拡張して出来た公園です。こちらも周辺案内図が掲示されていました。そしてこの建物が、かつて豊島区椎名町(現南長崎)にあったトキワ荘を再現したトキワ荘マンガミュージアム(→→→こちら)。外観は当時のトキワ荘を忠実に再現しており、館内では一部居室の再現展示や、常設展示、年3回程度の特別企画展を行っているそうです。実は、このマンガミュージアム、入場料は無料と思っていたのですが、何故か係の人から「入場料が必要です」と言われたのと、まあ時間もなかったので、中を見学していません。こんな看板もアパートの前に建っていたんですかね。トキワ荘があった1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけては、携帯電話はもちろん、アパートの部屋に固定電話を持っている人もいなかったでしょうから、こういう公衆電話が出版社と漫画家の方の連絡には欠かせなかったでしょうね。こちらはトキワ荘マンガミュージアムで行われた特別展の紹介ポスターでした。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その7) トキワ荘公園
Jun 22, 2024
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道路沿いにあった豊島区トキワ荘通りお休み処(→→→こちら)です。ここでは、トキワ荘に関する展示や漫画の閲覧、またお土産販売や街の魅力などを発信しており、初めて訪れる人は必ず訪問したい観光スポットです。もとは吉津屋米店だっようで、トキワ荘のに住んでいた漫画家の皆さんもここでお米を買っていたんでしょうね。トキワ荘通りと呼ばれているこの道沿いには、1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけてあったトキワ荘というアパートに住んでいた手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら後に著名となった有望な若手マンガ家の皆さんにちなんだゆかりの土地や建物があるそうです。、この建物は、昭和20年代後半に建てられた戦後マーケットである味楽百貨店を改装してできたトキワ荘通り昭和レトロ館(豊島区立昭和歴史文化記念館)(→→→こちら)です。昭和の歴史・文化を次世代に継承するとともに、地域文化の発展及び地域の活性化に寄与することを目的として、昭和の暮らしが感じられる展示や、豊島区の昔懐かしい街並みを再現したジオラマ展示、昭和をテーマにしたイベントt開催などが行われています。創業は昭和25年頃。当時1杯40円のラーメンの出前をよく取っていたという、マンガ家たち御用達の「中華料理 松葉」です。マンガや映画・ドラマなどにも登場する有名店で行列ができていました。「トキワ荘、青春物語」や「まんが道」でおなじみの子育地蔵尊だそうです。こちらがその子育地蔵尊です。近くのトキワ荘に住んでいたマンガ家先生がたが、背景などに描いたこともあって、観光スポットの一つともなっているんだとか。この説明板を読むとなかなか由緒のあるお地蔵さまのようです。こちらがお地蔵さまのある祠ですが、地域のシンボルで、戦前の「地蔵さんの縁日」の賑わいは、巣鴨をもしのぐほどだったと言われています。現在は、近隣の住民向けの商店街の催しで、参道では「子育て地蔵まつり」が開催されるそうで、食べ物の模擬店なども出揃うそう賑やかなおまつりが続いているみたいです。こちらの路地は、老朽化のために取り壊されたトキワ荘の跡地に続く路地です。こちらがトキワ荘跡地で、どこかの会社のビル社屋が建っていて、トキワ荘の痕跡は残されていませんが、「マンガの聖地」を訪れるファンたちのために、ここがトキワ荘の跡地であることを記したモニュメントが設置されていました。この建物の模型、手塚治虫のトキワ荘物語(→→→こちら)に登場するのと同じですね。こちらの絵のような木造2階建アパートだったんですね。トキワ荘通りにあった絵画です。豊島区トキワ荘ミュージアムおもてなしプロジェクトの一環として展示されているようですが、よく見るとこんな絵で、かなり不気味な絵ですね。隣でこの絵を観ていた小さな男の子、怖かったんでしょうか泣き出してしまいました。子供が泣くのも、裏はあっても表なしの、「おもてなし」ということでしょうか。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その6) トキワ荘通り
Jun 21, 2024
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山手通りとの交差点に到着です。山手通りを越えて豊島区南長崎に入ります。目白通りを歩いて行くと、薬局とアパートが一緒になった建物の壁に、「トキワ荘ゆかりの地」という、古ぼけたような看板がありました。トキワ荘(→→→こちら)とは、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら著名な漫画家が若手時代に居住していたことで知られ、漫画の「聖地」となったアパートのことです。この建物のある場所は、昔は映画館だっんですね。漫画家のみなさんはこの映画館で映画を観て、刺激を受け、そのイメージを膨らませて、紙の漫画の上に表現していったんでしょうか。そしてこの道をたどっていくと、目白通り二又商店会と書かれた道路案内に、トキワ荘マンガミュージアム(→→→こちら)への案内も記されていました。今回の駅からハイキングではそこに立ち寄ることになっています。トキワ荘マンガミュージアム、それほど遠くなさそうですね。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その5) 伝説の漫画家たちの町に来た
Jun 20, 2024
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次の目的地は下落合野鳥の森公園(→→→こちら)です。この細い道に入って行きます。この木製のゲートから先が下落合野鳥の森公園になるようです。立派な石柱に公園の名前が刻まれていました。園内には湧水を利用した池がありました。この公園で見られる野鳥だそうです。野鳥の森公園からさらに坂道を上がり、台地の上にでると、目白通りの下落合四丁目付近に出ました。この「落合」という地域名称は、神田川と妙正寺川との合流点がこの付近にあることに由来するそうです。こちらが目白駅の方です。こちらが南長崎、中落合方面です。こちらの方向へ目白通り沿いを歩いてゆきます。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その4) 下落合野鳥の森公園
Jun 19, 2024
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新宿区立おとめ山公園です。おとめ山は、御留山または御禁止山と書き、江戸時代にこの一帯が徳川家の狩猟地で一般人の立ち入りが禁止されていたことからこの名前があるそうです。おとめ山公園の中を散策してみます。公園の由来を説明した看板がありました。大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成されましたが、のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園したそうです。その後、自然と歴史豊かなおとめ山公園を核に緑や湧水の保全拡充を図り、あわせて地域のレクリエーションの場や防災拠点を創出するため、公園の隣接地を取得し「区民ふれあいの森」として公園の拡張整備を行っているそうです。面積は27,566平方メートルとかなり広いです。おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地です。園内は、湧水による流れや池、樹林地、原っぱなど様々な自然があふれており、新宿区民が自然と触れ合える貴重な財産ですね。そんな公園ですからホタルを育てているそうです。公園の自然を楽しむ人たちが散策しています。公園の中は叢林(そうりん)という風情ですね。園内には大きな池が所々にあります。優雅に鯉が泳いでいました。こちらの池には、カルガモが棲んでいました。こちらは、崖錐線の公園であるため湧水がみられるそうです。また、公園ということで防災のためにも利用されているようです。こちらは椅子のようですが、椅子を外すとカマドとして利用できるそうです。このような原っぱもあって子供たち元気よく遊んでいました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その3) おとめ山公園散策
Jun 18, 2024
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諏訪神社への参拝を終えて通りに出ると、この大きな建物が見えてきました。消防署です。そして、こちらは東京メトロの駅。西早稲田駅です。そしてこちらの大きな道を今度は北に向かって歩きました。この通りは明治通りです。「305」という数字は、東京都道305号芝新宿王子線という意味ですが、一口に「明治通り」と呼んでいますが、いくつかの道路がつながってできています。古川橋-( 東京都道416号古川橋二子玉川線)-渋谷橋-(東京都道305号芝新宿王子線)-西巣鴨-( 国道122号)-王子駅前-( 東京都道・千葉県道501号王子金町市川線)-溝田橋-(東京都道306号王子千住夢の島線)-夢の島が組み合わさって「明治通り」になっています。そして橋の下に流れるのは神田川です。神田川沿いに西に歩いて、東京都道8号千代田練馬田無線こと、新目白通りに出ると、JRの跨道橋の下を抜けて、住宅街の中に入ると、ようやく次の目的地である「おとめ山公園」(→→→こちら)に到着しました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その2) おとめ山公園に向かって
Jun 17, 2024
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5月12日のJR東日本が西武鉄道と共同で開催した駅からハイキング「新緑の公園と漫画界巨匠の足跡を訪れる街歩き」に参加した報告です。高田馬場駅から出発です。高田馬場駅前のロータリーにある平和の女神像です。東京藝術大学名誉教授・文化功労者・彫刻家の山本豊市氏の作品だそうです。 高田馬場再興の記念として作られました。山手線に沿って南に進み、大久保スポーツプラザ入口交差点にある新宿ガーデンタワー、地上37階、地下2階、149.65m(最高159.65m)の超高層複合ビルです。 建物はオフィス、高級賃貸マンション(ラ・トゥール新宿ガーデン)、多目的ホール(ベルサール高田馬場)で構成されているそうです。そこから東に向かって歩き、諏訪神社(→→→こちら)に到着しました。この諏訪神社一帯は平安時代を代表する歌人 在原業平にまつわる伝承があるそうです。在原業平が妻とこのあたりに立ち寄った際、道に迷い二人は離ればなれになり一夜を過ごしましたが、夜明けを迎えると二人はすぐ側に寝ており、夜の暗い森では気づけなかったが実はお互い同じ杉の大木の下で一夜を過ごしており再会することができたというお話です。そこからこのあたりの森は「恋の森」と呼ばれるようになったそうです。境内には、東京都指定史跡の明治天皇射的砲術天覧所阯というのがありました。明治15年(1883年)、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来た時、明治天皇の行幸があったことを記念するものです。この石段を上がって、広場になったところに石柱が建てられていました。石碑には、「明治天皇射的砲術天覧所阯」と刻まれていました。聖蹟と書かれた立て札には、昭和18年12月と記されていることから、昭和18年に東京都より行幸史跡に指定されたのでしょう。こちらの手水舎の水は、諏訪の霊泉と呼ばれていて、この錆びの出た説明板によると、眼病、諸病に霊験有りとして、多くの人々がお水取りに来ていたそうです。社殿に参拝する前に、さらに気になるものがありました。こちらの石碑です。新宿区登録有形民俗文化財、塞神三柱の塔です。これが塞神三柱の塔です。塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神なんだそうですね。こちらは、庚申塔です。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔ですが、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られていました。いよいよ社殿にて参拝です。諏訪神社はもと戸塚村、大久保村、百人町の鎮守でした。社伝によると、平安初期の弘仁年間(810~24年)に小野篁(たかむら)が大国主と事代主をまつったのが起源とされています。その後、源頼義、義家父子、源頼朝が勝利祈願に訪れ、大田道灌も信仰したそうです。残念ながら、元亀年間(1570~73年)、北条早雲により焼かれ、江戸時代初期に尾張藩祖徳川義直によって、信濃の諏訪神社を合祀し、改称・再建したそうです。とはいえ、老朽化していたことから、昭和55年(1980年)に現在の社殿が完成したそうです。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その1) 高田馬場から諏訪神社へ
Jun 16, 2024
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富士そばで紅生姜天そば(570円税込み)を頂きました。紅生姜の天ぷら、ビリッとした辛味と酸味がミックスされて、なかなか美味しいですね。ところで、紅生姜の天ぷらの発祥は大阪だといわれています。元々関西では、梅酢を活かすために紅生姜を作っていたので、その紅生姜を美味しく食べるため、衣を付けて揚げるようになったんだとか。でも東京でも、紅生姜をかき揚げの具材にして、紅生姜の天ぷらが食べられてはいるんですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 紅生姜天そば
Jun 15, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。四谷三丁目交差点にそびえる四谷消防署。その消防署に併設されているのが、この消防博物館(→→→こちら)。正式には東京消防庁消防防災資料センターというそうです。東京の安全と安心を進める消防がまるごとわかる広報・教育施設として1992(平成4)年12月3日に開館しています。江戸時代からの現代に至るまでの、消防の歴史が学べるほか、貴重な資料の展示や、参加型の展示コーナー、消防ヘリや、消防車の乗車体験も行われており、子供連れでも楽しめるみたいです。しかもうれしいことに、なんと入場は無料!ということで中に入ってみました。こちらは地下1階に展示されているクラッシック・カーのコレクション。ではなく、消防自動車の変遷を紹介しています。これは、大正13年に輸入された「アーレンスフォックス消防ポンプ自動車」。エンジン前方にポンプ装備していました。写真左の消防車も大正13年に輸入された「スタッツ消防ポンプ自動車」。赤く塗ってなければ、クラッシック・カーとして乗ってみたいですね。左は「マキシム消防ポンプ自動車」こちらのメルセデスベンツのシャシにカールメッツ社の梯子を載せた「ベンツ・メッツ梯子自動車」です。昔は消防士さんはベンツに乗って出動していたんだ。後ろ向きなっているのは、「いすゞ・メッツ梯子自動車」です。また、建物の5階には、1988年まで東京消防庁航空隊で現役として使用されていた消防ヘリコプター「かもめ」が展示されています。操縦席に座る体験ができますよ。人気ブログランキング新宿彷徨(その8) 消防博物館
Jun 14, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区四谷三栄町にあるちょっと個性的な建物。新宿歴史博物館(→→→こちら)です。その名のとおり、新宿区の旧石器時代から昭和時代初期までにおける展示が行われています。撮影可能な展示物も多く、館内で撮影したものを紹介します。こちらは、江戸時代の甲州道中で、江戸から最初の宿場、江戸への最後の宿場だった頃の内藤新宿の様子を再現した模型です。蔵造り建築と呼ばれる商家の建物です。2 階の窓は観音開扉、また壁面の半球型の盛り上がった物は飾りなんでしょうかね。こちらは商家の室内です。よく時代劇でも見かける光景ですね。こちらは昭和初期の路面電車です。塗装の色は違ったけど、このタイプはMoMo太郎が子供の頃(1960年代)まで走っていたような気がします。これもなんか懐かしい感じの住宅ですね。「文化住宅」(→→→こちら)と呼ばれる様式の家屋だそうです。このような小さな和風住宅に洋風の応接間をつけた形式が文化住宅ですが、MoMo太郎が少年時代に住んでいた大阪では、文化住宅といえば、瓦葺きの木造モルタル2階建ての集合住宅のことを文化住宅と呼んでいたことを思い出しました。人気ブログランキング新宿彷徨(その7) 新宿歴史博物館
Jun 13, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。靖国通りの合羽坂下交差点から新宿通りの津の守坂入口交差点に向かう坂道です。この道は「津の守坂通り」という名称ですが、この坂の名称の由来は。江戸時代、隣地(荒木町周辺)に尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことに由来するそうです。摂津守の「津守」からの名称ですかね。この坂道を登って、三栄通りに歩いていくと、四谷税務署の隣に小さな公園がありました。三栄公園という公園です。銘板によると、この三栄公園の地は、明治8年東京市四谷区の公立として最初に建てられた四谷小学校のあったところで、その後、東京市が公園造成のうえ、昭和18年6月1日に開園した。とありました。太平洋戦争を戦っていた昭和18年に開園したというは、まだその時点では公園を楽しむ気持ちがあったのでしょうか。ちなみに開園した昭和18年6月1日には東京都制が公布されています。人気ブログランキング新宿彷徨(その6) 三栄公園
Jun 12, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅近くにある外濠公園へ続く坂道を下っていくと、土木学会(→→→こちら)の建物があります。建設会社で橋梁の設計を担当していた木村拓哉さんもこの学会の会員だったんでしょうね。国家の独立、平和と安全を守る防衛省の建物です。住所は東京都新宿区市谷本村町5-1ということだそうで、新宿区に国防の要があったんですね。帝国データバンク(→→→こちら)の東京支社です。企業を専門対象とする日本国内最大手の信用調査会社の支社もあったんですね。ちなみに本社は港区南青山だそうです。人気ブログランキング新宿彷徨(その5) 新宿区に本拠地があります
Jun 11, 2024
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立ち食いソバの「ゆで太郎」で食べたかき揚げ丼セット(630円税込み)です。昔なら、こういう丼とそばのセットなんて食べ切れたんですが、最近は丼物のご飯が食べ切れなくて、もったいないですが少し残ししまいました。やっぱり、年相応に消化能力も落ちてきているのでしょうか。人気ブログランキングへ孤独のグルメ セットメニューはキツイかな
Jun 10, 2024
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この浄閑寺には、色々と史跡があるようです。全ては回れませんでしたが、見つけたものだけ紹介します。まず山門の横にあった二基の石碑です。右側にあるのが、「萩原秋巌先生の墓」です。萩原秋巌(1803〜1877)は江戸時代後期の書家だそうです。左側にあったのが、「新比翼塚」比翼塚とは夫婦や心中した男女を葬った墓のことで、「新比翼塚」は明治12、3年頃に品川楼で情死した遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄の二人の供養のために建てられたそうです。文豪・永井荷風は「里の今昔」という作品の中で、浄閑寺の「新比翼塚」の事を書き記しているそうです。この里とは吉原遊里のことを意味するのでしょうね。また永井荷風は「断腸亭日乗」という日記の中でもこの「新比翼塚」について書き記しています。よほど永井荷風の心に残る塚だったんでしょうね。そんなわけで、永井荷風は遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、たびたびこの寺を訪問していたのでしょう。また、永井荷風の詩碑というのが建立されていました。この詩碑には「震災」(→→→こちら)という詩が刻まれています。またこの石塔は、「新吉原総霊塔」というものです。これは、昭和4年(1929年)8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたものです。以前の塔は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女500人余を供養していたものですが、こちらは新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と380年余りの間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政地震、関東大震災に死んだものを含めた25,000人を超える人たちの供養塔になっています。ちなみに「新吉原」というのは、かって吉原遊郭は、日本橋 葺屋町(今の日本橋堀留町一丁目、日本橋人形町三丁目あたり)にありました。しかし、江戸市街は拡大し続け、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっため、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤へ移転することになったのです。そのため、移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶようになったというわけです。新吉原総霊塔の台座には、明治時代から昭和時代にかけて活躍した川柳作家の花又花酔(はなまた かすい)の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」が刻まれていました。【了】人気ブログランキングへ三ノ輪の浄閑寺(その2) 生まれては苦界、死しては浄閑寺
Jun 9, 2024
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「男が通う極楽道、女が売られる地獄道」とは五社英雄監督の映画「吉原炎上」(→→→こちら)のオープニングのナレーションで流れる名台詞です。その舞台となった吉原遊郭の近くにあるのが、この浄閑寺(じょうかんじ)(→→→こちら)です。荒川区の地下鉄三ノ輪駅近くにあるので、三ノ輪の浄閑寺とも呼ばれています。山号は栄法山という浄土宗のお寺です。浄閑寺の山門は荒川区最古の木造建築物として荒川区教育委員会によって文化財の指定を受けています。山門の脇にある「投げ込み寺、浄閑寺」の解説です。安政2年(1855)の大地震で犠牲となった吉原遊郭の遊女たちの遺体が投げ込み同様に葬られたことから、通称「投込寺」とも呼ばれるようになったそうです。その他にも、病気や事件などで亡くなった遊郭関係者も多くこのお寺に葬られたようです。【つづく】人気ブログランキングへ三ノ輪の浄閑寺(その1) 投げ込み寺
Jun 8, 2024
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気がつくと6百万アクセスを越えていました。この拙いブログをご覧になっていただきありがとうござます。これからもよろしくお願いいたします。「いろり庵きらく」はJR東日本の駅ナカの蕎麦屋さん。急いでいる時は、こういうところで蕎麦をかき込むのって、なんか働くおじさんらしくていいのかも。ということで、ちくわ天そば(550円税込み)を頂きました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ いろり庵きらく
Jun 7, 2024
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JR羽村駅の近くに戻ってきたました。やや文字が薄くなってきていますが「東京都指定文化財 史跡まいまいず井戸」と書かれています。JR羽村駅東口近くの五ノ神社境内にある「まいまいず井戸」です。こまかい説明が書かれた看板がありました。「まいまいず井戸」(→→→こちら)はこのようなものです。まいまいとはカタツムリのことで、その名のとおり地表面から渦巻き状に通路がついた古い井戸のことです。この五ノ井まいまいず井戸は直径16m・深さ約5mあるそうです。かつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種だそうですが、掘削当時、垂直に深く掘る技術がなかったためこの形になったと言われています。下に降りられるようになっているので、中に入ってみました。下から上の方を眺めてみると、かなり深い感じがしました。しかし、この坂を昇り降りして水汲みをするのはかなりの重労働だったことでしょうね。それだけこの地域では水は貴重品だったんでしょうね。井戸のそばにあった、馬頭観音の石碑です。このまいまいず井戸は、五ノ神社に境内にあります。五ノ神社も春祭りの八雲祭の準備に追われていました。そしてJR羽村駅東口に到着しました。ここから家に帰りました。(春の羽村散歩のコース)【了】人気ブログランキング春の羽村散歩(その14) まいまいず井戸
Jun 6, 2024
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羽村市神明台にある神明神社(しんめいじんじゃ)に到着しました。神明神社(羽村)の創建年代等は不詳ながら、かつて屡々怪事があったことから老樹の下に神明社を祀り、川崎村の鎮守としたといい、明治6年村社に列格したと伝わっています。4月7日(日)にこの神社に参拝したのですが、この神社でも四月第二日曜日に行われる八雲祭、または天王祭呼ばれる、羽村市の春祭りの準備が進んでいました。このように社殿の畳も新調されていました。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その13) 神明神社
Jun 5, 2024
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医王山という山号が書かれた扁額のある立派な山門のお寺にやって来ました。門前の寺号碑には、「臨済宗建長寺派医王山崇禅寺」(→→→こちら)と刻まれています。宗教の世界にも〇〇派という派閥はあるんですね。医王山崇禅寺(いおうざんそうぜんじ)と書かれた羽村市教育委員会の説明板がありました。元和元年(1615)創建のお寺ですが、境内にある薬師堂はその前から存在し羽村市で最古の建物として市指定有形文化財となっているそうです。確かに、山号の医王山の医王は、薬師如来のことで、境内にある薬師如来を祀っている薬師堂が山号の由来となっているのでしょう。こちらが境内で山門と鐘突堂が兼用となっているんですね。こちらは本堂、ご本尊様は釈迦如来坐像だそうです。お寺の山号の由来となっているこちらの薬師堂は、寛政年間(1460~1465)創建、天正年間(1573~1592)再建との伝承があるそうです。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その12) 医王山崇禅寺
Jun 4, 2024
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羽村取水堰近くの羽村橋の近くある大きなケヤキの木がありました。多摩川の河岸段丘の崖沿いにあり、根元には湧水があったのでしょうね。計幾条件も良く、大きな樹木に育ったんでしょうか。説明板によれば、「羽村橋のケヤキ」と言う名称で、1965年に、東京都の天然記念物に指定されています。羽村橋のケヤキは、玉川上水に架かる羽村橋と奥多摩街道を隔てた大樹です。崖線からの豊かな湧水に育まれたケヤキは、樹枝全体が鞠状を成しており、幹の周囲は5.5m、高さは約24mと巨木です。樹齢は、400年とも600年とも伝えられています。河岸段丘を登り、羽村東小学校の近くにあった小さな神社です。この神社の境内から玉川上水第三水門が見えました。この第三水門から地下の水道管を通じて狭山湖・多摩湖へ送られており、この先は一気に玉川上水の流量が減ります。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その11) 羽村橋のケヤキと玉川上水第三水門
Jun 3, 2024
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羽村取水堰の回りを散策してみました。取水堰直下の玉川上水です。こちらは、牛枠(→→→こちら)と呼ばれるものです。牛枠とは、伝統的河川工法の一つで、重りの蛇籠を載せて沈めるて造られています。洪水が起きると、蛇行する川の曲がり角が決壊しやすいため、水の流れを弱めたり、方向を変えるための施設です。こちらの銅像は玉川上水を開削した玉川兄弟の銅像です。玉川上水は、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画され、工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、玉川庄右衛門と玉川清右衛門の玉川兄弟が工事を請負ったそうです。兄弟二人だけで羽村堰や羽村堰から四谷大木戸までの約43キロメートルの水路を建設したわけではなく、多くの作業員を雇って工事したんでしょうでしょうから、江戸時代の建設会社の社長と専務みたいな人だったんでしょうか。この銅像は「玉川兄弟」を永く称えるため、昭和33年(1958)に、ゆかりの地である羽村取水堰付近に建てられた像です。右側に立ち、当時の測量器具である間縄を持っているのが、兄の庄右衛門で、左側で片膝をついて間竿を持っているのが、弟の清右衛門だそうです。こちらの塔は、水道管の圧力を調節するためのサージタンク8→→→こちら)です。管の中を流れている水が急に止められると、水の流れの勢い(エネルギー)が圧力に返還されて管の中の圧力が高くなるので、その圧力上昇を水槽の水位の上昇で吸収します。また、止まっていたみずが流れ始めると、逆に圧力が下がるので、圧力降下を水槽の水位が下がって吸収します。この圧力の上昇や降下は何度か繰り返されて、やがて水とパイプの摩擦でそのエネルギーの変動が消えていくそうです。玉川上水に沿って約200本の桜が植えられていて。玉川上水は国土交通省関東地域整備局京浜河川事務所の「多摩川八景」「多摩川50景」にも選ばれているそうです。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その10) 玉川兄弟の銅像
Jun 2, 2024
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「多摩川の原水の流れ図」です。上流の小河内ダムで貯められたみずは多摩川を通ってこの羽村取水堰で取水され、玉川上水の水路を通って東京都内に水道水を供給しています。こちらが取水堰の取り入れ口になります。正式名称は東京都水道局羽村取水堰というそうです。ここで多摩川の水を取り入れます。江戸へ上水道を供給する玉川上水の取水口として江戸初期の承応2年(1653年)に上水とともに完成し、明治・大正期に増改築を繰り返し現在の形とないます。こちらが多摩川の河川内に設けられた取水堰です。この堰は、「固定堰」と「仮設堰」(投渡堰、なげわたしぜきと呼ばれる)を組み合わせて構成され、世界でもここだけとされているそうです。こちらが投渡堰部分です。投渡堰とは、固定的な支柱の桁に仮設材として丸太や木の枝を柵状に配置したものです。よく見るとコンクリート柱の堰柱の間には仮設の木材で締め切られています。これは、増水時には桁を上げて仮設の木材を意図的に多摩川本流に流下させることができます。これは、圧倒的な自然の力に逆らうことなく堰や水門を守り、洪水を回避する目的で設計されているそうです。堰が設置された当初からこの構造になっているそうです。また、堰の下流側には第二水門が設置されていて、玉川上水へ流れ込む水量を調節したり、流れ込んできた土砂を多摩川に戻しています。川の中心部には、固定堰になっています。固定堰は流れに直角ではなく斜めに造られているのは、越流する幅を長くして、洪水水位が上がることがなく洪水を流せる仕組みになっているのでしょう。堰柱と固定堰の間のスロープはかつて江戸(東京)へ木材を運搬する目的で設けられた筏の通し場のようです。このような工夫と歴史があるからでしょうか、「江戸の発展を支えた歴史的価値の高い施設であることに加え、設置当時の投渡しの技術が現在まで継承されている貴重な土木遺産」として羽村取水堰(投渡堰)は土木学会選奨土木遺産となっています。(春の羽村散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング春の羽村散歩(その9) 羽村取水堰
Jun 1, 2024
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