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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。さてこのブログのテーマ、筑後川に行ってみました。ちなみに、筑後川とは夜明ダム(→→→こちらです)から下流の呼び名で、夜明ダムから上流、玖珠川との合流点までは「三隈川」と呼ばれています。この三隈川には水郷(「すいきょう」と読む)日田というだけあって、いくつもの川が流れ込んできています。左岸では、大山川、高瀬川、串川、内河野川。右岸では玖珠川、花月川、二串川、大肥川となります。そして、合流した川は市の中心部では三隈川の名前の通り、三つに分かれ、南から三隈川、隈川そして庄手川と呼ばれています。ちなみに三つに分かれているから三隈川ではありません。この地方に伝わる「日と鷹神話」によると「湖であった日田盆地に大鷹が東から飛んできて湖水に羽を浸し、羽ばたき、旭日の中を北へ去ると、湖水は轟々と抜けて干潟となった。そして日隈、月隈、星隈の三丘が現れた。」というこで、三隈川という名前になったそうです。こちらは三隈川にかかる三隈堰です。向こうに見える建物は日田温泉卿です。こちらは真ん中になる隈川。左手にみえる木立の丘が日隈の丘、いまは亀山公園と呼ばれています。そして中心みえる堰は「島内堰」です。こちらは隈川の下流方向、川はこの先で再び三隈川と合流しています。島内堰は、江戸時代の文政年間(1823)に築造されたそうで、現在の堰は昭和34年(1959)に改築されたものだとか。いまでも約40ヘクタールの水田をかんがいしているそうです。この堰のゲート、元々は青く塗装されていたのでしょうけど、なんか色が剥げかかっていますね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その23) 三隈川
2018年07月21日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。大分県日田市です。下の写真はJR九州久大本線の日田駅です。黒っぽいシックな外装がシブイ感じですね。ちなみに、昨日のブログで紹介した特急「ゆふいんの森」でここに来たわけではなく、愛車の「BMW」と呼んでいるトヨタ車でやってきました。また、コメントいただいた多くの方が「ゆふいんの森」を電車と思っておられるようでしたが、久大本線は電化されておらず、気動車というディーゼルエンジンで動く車両です。こちらは駅前にある食堂です。「大衆食堂」と銘打ってますが、建物は5階建てで大衆食堂というイメージはないですね。このブログのテーマのとおり筑後川の方へ向かうと、こんな大きな看板がありました。これはちょっと名前を耳にしたことがある「日田天領水」(→→→こちらです)の経営する施設かも。ですよね。こんなのぼりが立ち並んでいました。「日田天領水の里元気の駅」という施設で、水郷日田(「すいごうひた」と読んではいけません「すいきょうひた」と読むそうです。理由は水が清らかで濁っていないからだそうです)で生産された農産物やスイーツ、お酒、そして日田天領水が販売されているという、会社が経営する「道の駅」みたいなものでした。「元気の駅けの背後にあった建物。これが日田天領水の本社なんですかね。訪れたその日は「日田川開き観光祭」だったので、イベントでこんな太鼓の演奏をやっていました。笛を吹くお姉さんと両脇の太鼓を叩くおじさん。女性も力強く太鼓を打ちます。こんな大きな太鼓も、音がデカかったです。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その22) 天領日田
2018年07月20日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。小石原の集落の中の道路は、このような石畳の道となっていました。これもまた街の景観づくりですね。さて、小石原伝統産業会館を出て、北の方に向かうと突然見事な杉の林の中に入りました。行者杉と呼ばれる杉の巨木群が広がっていました。水源かん養保安林(→→→こちらです)に指定されているということは、筑後川にとっては重要な森林ですね。そして、行者杉とは、昔、修験者(山伏)たちが峰入修行の際に、重要な修行場であった小石原の地に杉の木を奉納植栽したものが起源だそうです。杉は、大きく成長して樹齢が長く、魂が宿ると、修験者たちから信じられていたそうです。古来より神聖な山として信仰を集め、日本三大修験の霊場(吉野・熊野・英彦山)のひとつに数えられている英彦山では、英彦山から西へ、小石原・馬見岳(まみだけ)・古処山を経て筑前宝満山に至る、峰入(みねいり)修行の道がありました。この道がその峯入修行の道に相当するものと思われます。峰入修行には3回あって、1)大みそかに山に入り、雪の山中で修行する「春峰」2)お釈迦様の誕生日4月8日の「花祭り」に始まる「花供(はなく)・夏峰」3)一年を締めくくる「秋峰」さらに、一人で英彦山山中の岩屋に籠もる「窟籠(くつろう)修行」が必須の修行とされていたそうです。そして、峰入りの回数を重ねることで、修験者として階級が上がっていくそうでした。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。筆者註:東峰村小石原を訪れたのは2017年7月5日の九州北部豪雨以前です。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その21) 小石原 行者杉
2018年07月12日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。福岡県朝倉郡東峰村小石原地区もまた筑後川流域にあります。そして、この小石原地区は小石原焼という陶芸の盛んな地区でもあります。ちなみに、小石原焼は、江戸時代初期から約400年にわたって伝えられているそうで、、昭和50年に陶磁器では日本で最初の伝統的工芸品に指定されたそうです。ここ道の駅「小石原」では陶器の品揃えも充実していました。しかし、所詮は土をこねて加熱しただけの物がなんか芸術作品ぶって高い値段になるって、不思議ですね。こちらは、小石原焼伝統産業会館という施設です。陶磁器の展示室があり、また陶芸の体験もできる施設です。こちらにあるのは登り窯。ここで陶磁器を焼くのですね。横から見るとこんな様子です。こういうところで陶芸の体験をしてもいいのですが、考えてみると一日で完成ということはないので、例えば絵付けをしたお皿が焼きあがって完成して自宅へ送られてするまでに、多分2カ月くらい必要でしょうから、昨夜、何をたべたかの記憶もあやしいMoMo太郎の場合は陶芸体験をしたことさえ忘れているかもしれませんね。そして、この小石原焼伝統産業会館の敷地にありました。筑後川源流の碑です。おなじみの流域を示した看板もありましたよ。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。筆者註:東峰村小石原地区を訪れたのは2017年7月5日の九州北部豪雨以前です。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その20) 小石原 筑後川源流の碑
2018年07月11日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑紫野市と太宰府市の境にある宝満山を源とする筑後川支流の宝満川にも「筑後川源流の碑」があるそうなので行ってみました。源流の碑が建立されている竜岩(たついわ)自然の家は、ファミリーキャンプやバーベキュー体験、宝満川での川遊び、そして運動広場で汗を流したりといった自然体験活動を行うことができる施設です。これが筑後川源流の石碑か思いましたが、よくみると昔ここに竜岩小学校というのがあったことを記念する石碑で、「竜岩小学校閉校記念碑」と「竜岩小学校跡」の石碑でした。ここの小学校の卒業生のみんな元気にしているかな。自分の卒業した小学校がむなくなるってちょっと感傷的になりますよね。そしてこれが「筑後川源流の碑」です。いつもの通り、筑後川流域の案内板もありました。これが宝満川。流れをせき止めて水を取り入れているようです。農地へのかんがい用なのでしょうね。源流の碑からまだまだ上流はあります。水源ははるか山奥のようですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その19) 竜岩自然の家 筑後川源流の碑
2018年07月01日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。うきは市にある筑後川源流の碑に行った帰りに立ち寄ったのが、ここ道の駅「うきは」です。訪れたときは拡張工事中のようでした。これは、Pepperというロボットですね。案内してくれるみたいです。なぜかゴジラも。麦秋の筑後平野が見渡せました。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その18) 道の駅うきは
2018年06月30日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川源流の碑をコンプリートすることもこの「筑後川を行く」シリーズの目的としました。筑後川の支流巨瀬川の上流部にある調音の滝公園(福岡県うきは市)にある「筑後川源流の碑」です。うきは市長、高木典雄氏が揮毫されていますね。市長になるためには字も上手でないといけないのですね。市長は字の上手な人に投票しましたょう。平成28年2月に建立されたようですね。筑後川流域の案内図です。石碑の横に建てられていました。筑後川は幹川流路延長は143キロメートル、流域面積は2,860平方キロメートルといわれていますが、国土交通省の筑後川河川整備計画(→→→こちらです)によると、筑後川 (三隈川、大山川及び杖立川を含む)区間の、起点を左岸を熊本県阿蘇郡小国町大字下城字宇津尾三千四百六十九番の二の二地先、右岸を同町同大字字白岩四千百十五番地先として、終点が河口とした時の河川延長は101.0キロメートルだそうです。なお、この起点の位置は、松原ダムの杖立川最上流部になります。この起点位置から杖立川の最上流端までの距離をGoogleマップで測ってみるとおおよそ28~29キロメートルで、足し合わせても、ちょっと公称されている143キロメートルには足りませんが、概ねこの143キロメートルというところは間違いがないのでしょうね。下の図が筑後川流域図で赤い区間が国土交通大臣が管理している区間で、それ以外は県が管理することになるよです。この筑後川源流の碑の石碑の近くには魚返りの滝というのがあります。この坂を下って滝を見物に行ってみました。落差はそれほどないようでしたが、立派な滝がありました。これなら川を遡ってきた魚も引き返したくなりますね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その17) 魚返りの滝 筑後川源流の碑
2018年06月29日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川は、大分(豊前国),熊本(肥後国),福岡(筑前国、筑後国),佐賀(肥前国)の4県、明治以前の国名では5か国を流れる、ヨーロッパでいえばドイツ、オーストリア、ルーマニアなど10か国を流れるドナウ川やアフリカ大陸にあるナイル川と同様な国際河川の風格を持つ河川です。ということで、今回は佐賀県における筑後川支流城原(じょうばる)川の方へ行ってみました。城原川の上流にある高取山公園を訪れてみました。このように高取山の斜面を利用した遊具が配置されています。全長約200mのローラー滑り台や山頂まで登れるリフトなどがあり、色々と元気のよい子供さんにはピッタリの公園ですね。モノライダーという施設、いわゆるリフトです。近くで見るとこんな感じでした。ローラースライダーという施設、いわゆるすべり台です。山の斜面の中腹から広場を見下ろしました。山頂からの眺めです。佐賀県と福岡県の間にそびえる脊振山系の山々です。訪れたのは昨年の10月上旬、木々が色づき始めていました。紅葉もまた魅力的なのでしょうね。こちらは山頂近くにある草スキー場。スキーではなくそり遊びを楽しんでいました。こちらは公園の駐車場付近にあった石碑です。「筑後川源流の碑」と記されていました。調べてみると筑後川源流プロジェクト会議(地元自治体、河川管理者、NPOなどで構成)という団体が筑後川の支流のあっちこちに、今のところ7ヵ所設置しているそうです。この小さな流れが筑後川につながっているというわけですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その16) 高取山公園 筑後川源流の碑
2018年06月28日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。三連水車のある堀川用水の管理者がこの「山田堰土地改良区」だそうです。その名前の通り、堀川用水へ送られる水は、朝倉市山田にある、山田堰により筑後川から取水しているのです。堰といっても、久留米にある筑後大堰や夜明ダムように川を横切って作るなものではなく、下の写真のような、筑後川の真ん中に石で造られた堰です。こちらは水を取り入れる取水口から撮影した写真です。大小の石を水流に対して斜めに敷き詰めることで、筑後川の勢いを抑えつつ用水路に水を導くという構造での堰で、1790年に完成し、その後何度も補強工事が行われたが、全体の形や石はほぼ当時のままだとか。しかもこの山田堰、かんがい施設として世界が注目している技術だとか、特にアフガニスタンでは日本のNGOがこの山田堰をお手本にかんがい施設を建設しているそうです(→→→こちらです)。農業にとって水は大切、そんな感じで水神社も山田堰の敷地に建立されていました。そしてこれが水神社の社殿です。また、ここ山田堰の近くには、「木の丸公園」という公園があり、下の写真の小倉百人一首・第一番の歌が刻まれた万葉歌碑がありました。百人一首の第一番といえば、天智天皇のこの和歌。 「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」ですね。これは、山田堰の近くに、恵蘇八幡宮 木の丸殿跡と御陵山という遺跡があるそうです。661年、女性天皇、斉明天皇(→→→こちらです)が百済救済のために朝倉橘広庭宮に移られて、75日間の政務の後、崩御された場所とされる朝倉橘広庭宮と思われるのが、「恵蘇八幡宮」。また天皇の御遺骸を仮埋葬したところが「御陵山」、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)が母斉明天皇の冥福を祈り喪に服したといわれている場所が、御陵山中腹の「木の丸殿跡」といわれているそうです。そして、筑後川の流域を紹介する看板もありました。今度は源流を探しに行ってみようかなと思うMoMo太郎でした。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。筆者註:山田堰を撮影したのは2017年7月5日の九州北部豪雨以前です。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その15) 山田堰
2018年06月11日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川中流部の朝倉市にあるこの三連水車は結構知られている施設だと思われます。しかし、この鉄製の三連水車は観光用に作られているもので、「三連水車の里あさくら」という道の駅のような施設に付帯している公園にあります。三連水車の里あさくらは、特産品として名高い博多万能ねぎ(博多から遠く離れた朝倉で生産されていても「博多」というのはイメージ戦略ですね)をはじめ、朝倉産の野菜・果物・地元の特産品・惣菜などを多く取り揃えている物産館です。 その物産館のアトラクションがこの三連水車というわけですね。それでも、このような水車を作る技術は素晴らしいですね。ちなみにこの水車、水車と言っても電気を発電したり、粉を挽くためにあるのではなく、水をくみ上げる揚水車なのです。でも、実は水車、ここ朝倉ではポンプの代わりに、この水路から水をくみ上げて水田にかんがいするために使われているのです。だから1990年に用水路とともに「堀川用水及び朝倉揚水車」として国の史跡に指定されているのです。水路の先、右手にあるのが揚水車です。この水路は「堀川用水」(→→→こちらです)と呼ばれています。この木製の水車は、日本最古の実働する水車だそうです。そして、この堀川用水に現在は3か所にあって、それぞれ所在地の集落名を取り、上流側からそれぞれ菱野水車、三島水車、久重水車(「ひさしげすいしゃ」と読むそうです)と呼ばれています。もとは4か所あったそうですが、最上流の水車は水路末端への影響から電動揚水機に変更されたそうです。この三連水車は菱野水車で、ほかの2基は二連水車だそうです。まだ水田への稲の作付けが始まっていなかったので、水を実際にはくみ上げていませんが、くみ上げられた水はこの石でできた井戸のようなものの中に入って、その水圧で周辺の農地に水が送られるそうです。 しかし、この木製の水車を作る大工さんも立派な匠(たくみ)と言えますね。訪れた時期(4月下旬)には、このあたりの農地では裏作の小麦が栽培されていました。麦の穂です。近くの農家の外壁にあった、古い宣伝用の看板です。シブイ風情がありますね。こちらにはちょっと変わった果樹園がありました。この花、リンゴの花です。このあたりでもリンゴが栽培できるのですね。またこのような短歌の歌碑もありました。歌碑には、「三連の水車回りて筑後野の 田毎に満つる水かがやけり」 富士子とありましたが、この富士子という人、地理・歴史には詳しくないかも。というのは、この朝倉市は、元は福岡藩、つまり筑前国にあり、筑後野という表現は、この朝倉にはそぐわないですね。MoMo太郎なら、ここは「筑紫野」としたいですが、でも筑紫野市という町は別の太宰府の近くにあるので、いっそ博多万能ねぎにあやかって「博多野」とでもしますかね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。筆者註:この堀川用水を撮影したのは2017年7月5日の九州北部豪雨以前です。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その14) 朝倉三連水車
2018年06月09日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川のほとり久留米百年公園の外れに建つ石碑です。台座だけのようですが、「明治四十四年特別大演習駐在之地碑」だそうです。「明治天皇小森野御野立所碑」というのもありました。新しい天皇陛下が久留米に来られたら、やっぱりこういう石碑を建立しないといけませんね。「田中新吾翁之像」とありますが、こちらも台座のみですね。この台座の裏に回ると、この田中新吾氏の功績が記載されていました。要するに明治時代に筑後川の治水工事に尽力した県会議員ということのようでした。こちらも台座のみですが、「衆議院議員正五位勲三等佐々木正蔵像」です。佐々木正蔵氏も先の田中新吾氏と同時期に活躍された方で国会議員となってからは、国の直轄による淀川・木曽川・筑後川の三大河川の改修工事を可決させたそうです。こちらの板碑は、「餘澤千歳碑」という板碑で、これも先の田中新吾や佐々木正蔵ともに筑後川改修工事に尽力した田中政義の功績や工事の概要などが刻まれている顕彰碑です。田中政義は、江戸時代の嘉永四年三井郡合川村より三潴郡草場村迄の新川改鑿の計画を樹て、筑後川100分の1、1000分の1の模型をつくり、水理の実験を重ねて、藩に改修計画を提示したという技術者のようですね。こちらの板碑は「筑後川改修記念碑」です。明治36年(1903)に完了した筑後川の改修工事を記念して建てられたもので、工事の経過や関係者らの名前が、細かい文字できちっと刻まれていました。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その13) 治水の石碑
2018年06月08日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。夜明ダムは九州電力が建設したものですが、福岡県うきは市浮羽町小塩と笹の隈またがるる合所ダムは農林水産省が建設したダムです。筑後川水系隈上川に建設されたロックフィルダム、つまり、コンクリートではなく岩と土で造られたダムです。堤高は60.7m、堤頂長(ダムの一番上の長さ)は、270m、そして堤体積は1,318千m3となっています。ダムが水を集める流域面積は42km2 で、ダム湖の面積は38haとなります。こちらが上流部のダム湖になります。ダムの総貯水容量は7,660千m3。そして、有効貯水容量は6,700千m3となるそうです。有効貯水量とは、ダムに貯まる予定の土砂の量を差し引いた容量ということです。こちらはダム湖に沈んだこの地域の村役場の記念碑だそうです。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その12) 合所ダム
2018年06月05日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川水系における初めての本格的なダムと言えば、この筑後川本川に建設された夜明ダム(よあけダム)になるそうです。夜明ダムは、河口から64.5km地点の右岸大分県日田市大字夜明、左岸福岡県うきは市浮羽町三春地先に昭和29年5月に完成した発電専用ダムだそうです。ダムの事業主体は発電専用ダムということで当然のことながら九州電力。ダムの諸元は、堤高15m、堤頂長223m、堤体積2.9万m3、総貯水容量405万m3、型式は可動扉付直線越流型重力式コンクリートダムになります。ダムというより大きな堰のようですね。ダム放流施設の水叩きの部分です。可動式の水門扉です。ダム下流の河床です。細かい砂や石がなく大きな石や岩盤が露出しています。上流部の貯水池です。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その11) 夜明ダム筆者註:夜明ダムを撮影したのは2017年7月5日の九州北部豪雨以前です。夜明ダムの管理所は九州北部豪雨の影響で損壊したそうです。
2018年06月04日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。有明海まで28kmの地点にある、筑後川にかかる国道3号線の久留米大橋。その南詰にあるこの石碑。「耕地整理記念碑」と刻まれていました。耕地整理というのは、「土地の農業上の利用を増進するため、統合・分合・区画変更・開墾・干拓・灌漑などの方法で耕地を整理すること。」をいうそうですが、このあたり市街地なんですよね。まあ昔は、このあたり一帯も農地だったのとは思いますが。記念碑の背後には、耕地整理事業を起こった理由が記されているようです。もう文字も掠れて読みづくなっていましたが、なんとか写真を拡大したりして読んでみますと、要は、「蛇行していた筑後川に小森野放水路を作って河川を流れやすくしたため、耕地が減少し、かんがい水源が枯れたり、河川が氾濫したりと困っていたので、電動機を設置、河水を導き、灌漑便利にし余水を旧田分給した。これによって穀物も豊作になり農民は安心して農業ができるようになった、」というようなことが書かれていました。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その10) 耕地整理記念碑
2018年05月27日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川堤防沿いにある「つつじ公園」から、久留米市内の方に大きな空き地と変な形のキノコのようなものがありました。これはなんなのか。気になったので堤防を降りて、変な形のキノコを調べることにしました。堤防すぐ下にあるコンクリートブロックでできた小屋には「ブロア室」書かれていて、モーターの回転音のような低いブォーという音がしていました。こちらの空き地には「福岡県南広域水道企業団」と「沈砂池」と書かれた看板がありました。そして、この変な形の構造物。近くで見ると大きいですね。ここにもやはり「福岡県南広域水道企業団」、そして「東櫛原取水場」の看板がありました。どうやらこれは水道水を取水している施設のようです。再び堤防の上に戻ってみると、こんな門のような施設がありました。河川側からみるとこんな感じでした。筑後川のそばまで行ってみたら、川の水の取り入れ口のようなものが。ここから水を取り入れているのでしょうか。細かい泡のようなものがスクリーンの中から吹き出していました。この取水口から真っすぐ向こうにあの門柱が。おそらくあの門柱の下に門扉があるいわゆる樋門と呼ばれる施設なのでしょうね。我々が飲む水道水、こんなところから取り入れていたんですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その9) 県南広域水道
2018年05月26日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。久留米市東串原町の筑後川堤防沿いの道路には、このような植え込みが続いています。「筑後川くるめつつじ園」です。建設省の協力により久留米特産のクルメツツジを主体とした都市緑化のシンボル施設として造成されたようです。もうツツジの季節も終わったので、閑散としていますね。このあたりの筑後川の流れです。国道3号線の久留米大橋のすぐ下流に、ちょっと白波が立っているところがありました。ズームしてみると、石が積まれているようでした。「小森野堰」と呼ばれる施設で筑後川の水流を弱めるための施設のようでした。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その8) つつじ園
2018年05月19日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。これは筑後川本流の河口から23キロメートル地点下流にある筑後大堰です。福岡県久留米市と佐賀県三養基郡みやき町に跨る取水堰で、水資源機構により建設された堰である。堤高は13.8メートルしかありませんが、多目的ダムの扱いを受けています。筑後川の治水及び福岡県福岡地方や筑後地方、佐賀県に水を供給する利水目的を有しているからでしょうね。この堰ができたおかけで福岡都市圏の上工水を送ることができるようになったそうです。これは筑後川を上り下りする船を通すためのこ舟通しと呼ばれる施設です。この大堰建設に随伴して流域で風土病として恐れられていた日本住血吸虫症(→→→こちらです)の撲滅作戦が流域市町村と連携して図られました。大堰建設と同時に国や水資源機構が低水護岸整備や高水域整備工事を行って湿地帯を無くし、また、市町村も河川敷整備を行って、日本住血吸虫の宿主のミヤイリガイ(宮入貝)撲滅に取り組んだそうです。この結果1990年(平成2年)には安全宣言が出され、その後10年の追跡調査を経て完全に終結しました。人間の命のためとはいいながら、ミヤイリガイという生物を絶滅させてことを供養する石碑が、久留米市宮ノ陣と小森野の間にあるリバーサイドパークに建立されています。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その7)筑後大堰
2018年05月16日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。筑後川昇開橋の上から筑後川を撮影してみました。こちらは上流側を撮影したものです。建物が建っているのは筑後川の中州です。こちらは下流側の写真です。写真右にある建物が気になったのでズームしてみました。ちょっと、お洒落な感じの建物と、工事用の船が。この工事用の船は有明沿海道の橋梁工事のものだと思われます。お洒落の建物が気になったので行ってみました。水門のようです。左側のゲートは船を通すための水門ですね。花宗水門です。この前紹介した酒見橋が架かる花宗川が筑後川への出口なんですね。水門の脇にはこのような建物がありました。水門の管理事務所だと思いますが。中に入ると、筑後川交流館「はなむね」とありました。管理所の一階が交流館となっていました。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その6) 花宗水門
2018年05月14日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。この筑後川昇開橋、なにが文化財的価値があるのかといえば、橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のものであるということです。ちなみに橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルあるそうです。この橋を建設した当時は、船が主要交通機関であったため、筑後川を往来する大型船も多かったそうで、位置的に筑後川の河口付近で付近には港もあり、最大6メートルにも及ぶ有明海の干満差の影響で通常の橋だと船が通れなくなってしまう可能性があったことから、中央部の橋を上げ下げして船が通れる構造にしたわけです。ということで、橋が上下する様子を撮影してみました。橋桁は普通に橋として渡れる位置にあります。別に船が通るわけでもないのですが、まあ、観光用に橋が動きます。とりあえず、最大ここまで上がります。鉄道橋梁として利用されていた頃は、通常はこのように橋が上がった状態で、列車が来ると橋桁を下げていたそうです。そして徐々に下がり始めます。橋の上からも撮影してみました。この鉄塔が橋桁の上下するところですね。なかなか高いですね。橋桁が上がる前の状態です。上がり始めます。ここまで上がります。これは、昇開橋の下流に架けられた新田大橋で、筑後川では最下流に位置する橋梁になります。多分、今、橋を建設する時に舟運の邪魔にならないようにするには、橋脚を高くして架橋することになるのではないでしょうか。新田大橋の上から有明海の方を撮影してみました。パノラマ加工していますが、さすがに九州一の大河という雰囲気がありますね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その5) 筑後川昇開橋(Part3)
2018年05月13日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。さて、筑後川昇開橋の続きです。元は旧国鉄佐賀線の鉄橋でしたから、往時を偲ばせるような雰囲気を出しています。昔はここが筑後若津駅というのがあったのですね。こんな感じの駅舎があったのでしょうかね。重要文化財および機械遺産に指定されているそうです。鉄橋を渡ってみましょう。今は歩道となっています。対岸は佐賀県佐賀市諸富というところになります。そして、ここにも駅があったようですね。往時を偲ばせるポイント交換機も残っていました。この立像は、中国から不老不死の薬を求めて佐賀県にやってきた徐福という人だそうです。徐福の説明、日本語と中国語で書かれていました。また、近くにはこんなお店がありました。道の駅かと思ったら、橋の駅という施設だそうです。筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。【つづく】人気ブログランキングへ筑後川を行く(その4) 筑後川昇開橋(Part2)
2018年05月12日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。 これは筑後川昇開橋です。この橋は、もともと国鉄佐賀線の鉄道用可動式橋梁として筑後川をまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町の間に架けられていたいたものです。しかしながら、1987年(昭和62年)3月27日に佐賀線が廃止になった後も橋は残され現在は歩道橋として利用されていて、周辺は公園として整備されています。若山牧水の歌碑も設置されています。若山牧水についての説明も添えられていました。こちらは旧佐賀線の跡地を遊歩道にしているようでした。さらに隣には、大川昇開橋温泉という施設もありました。【つづく】人気ブログランキング筑後川を行く(その3) 筑後川昇開橋(Part1)
2018年05月11日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。これは大川市を流れる筑後川の支流、花宗川のに架かる酒見橋のたもとにある小さな公園です。この公園には、かってここにあった「酒見堰」が取り壊され時の遺構が展示されています。説明用の看板です。筑後川の下流域の低平地では、「アオ取水」(→→→こちらです)により農業用水や生活用水を得ていたそうです。「アオ」とは淡水のことで、河口付近の有明海に近いところでは、比重の重い海水が上流から流れてくる淡水の下に入り込み、潮位の変化によって、淡水を取り入れることができたそうです。そして、この「酒見堰」(→→→こちらです)は平成9年までその「アオ取水」に使われていたそうです。堰に架かっていた橋柱で「酒見橋」と刻まれています。こちらは「アオ(淡水)」を取水するために使われていた堰板と堰柱です。酒見堰が撤去され、きれいな橋が架かっています。こちらが花宗川(→→→こちら)です。この先は筑後川につながっています。ちなみに花宗川は矢部川から水を取り入れて途中の水田の農業用水として使われ、最後は筑後川に注いでいます。多分、矢部川から送られてくる水が足りなかったので、このあたりではアオ取水によって補っていたのでしょうか。この近くの電柱に巣を作っているカササギです。こちらではカチガラスとも呼んでいます(MoMo太郎はパンダカラスと命名しました)。カササギは筑後平野と佐賀平野を主な生息地とする鳥で国の天然記念物に指定されています。、筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。【つづく】人気ブログランキングへ筑後川を行く(その2) 酒見堰
2018年05月10日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。久留米市にある筑後一の宮高良大社から眺めた筑後川です。久留米市付近の筑後川の様子です。このように、川の上で水上スキーを楽しむ人がいたりします。向こうに見える山は、佐賀県の背振山地の山々です。こちらは川沿いにあるショッピングモールからの写真です。筑後川沿いにある国土交通省の施設「くるめウス」です。「くるめウス」というのは「ニッポンバラタナゴ」という絶滅が危惧される魚の学名です(→→→こちらです)この施設は筑後川防災施設ということですが、昭和28年の筑後川の大水害から50年の節目の年に、人々に大洪水の記録を伝え、災害から身を守る治水の大切さを伝えていきたいという目的で建設されたそうです、館内では、ジオラマ水槽で泳ぐ筑後川の上・中・下流の魚たちが観察できます。もちろん、ニホンバラタナゴもいます。こちらは、昭和28年の水害の時に流れてきたクスノキの大木の根が川底にあったのを掘り出して展示しいるものです。この筑後川をブラブラと歩き回った記録を気が向いたらアップしていきたいと思います。【つづく】人気ブログランキングへ筑後川を行く(その1)
2018年05月09日
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水天宮のそばを流れる一級河川「筑後川」。流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川になります。坂東太郎と呼ばれる利根川、四国三郎と呼ばれる吉野川と並んで、筑紫次(二)郎(つくしじろう)と呼ばれます。水天宮のあたりは瀬ノ下とよばれるようですね。むかしはここに対岸への渡し船があったのてすね。水鳥なら泳いでも川をわたりますが、人は橋を架けて渡るのですね。筑後川、時間をかけてゆっくり探検したいですね。人気ブログランキング筑後川
2017年05月18日
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この旧中川はボートを練習する場所らしく、この日はレガッタ大会が開催されていました。橋の下がスタート地点です。二艇が並んで競争です。ここで使われるボートはこの建物に保管されているようです。保管されている建物は「平井橋水防倉庫」でした。このボートも水防用品なんでしょうかね?【了】人気ブログランキング旧中川(その2)
2017年03月30日
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平井聖天のそばを流れる旧中川です。この川が墨田区と江戸川区の境になっています。スカイツリーを眺めながらスイスイとボートを漕いでいる風景、都内とは思えないのどかさのある風景ですね。旧中川と「旧」とつくのですから、中川という川は今もあります。旧中川は、1924年荒川放水路に注水を開始したことによって分断された中川の下流部分になります。中川は埼玉県羽生市街地の住宅地の中に源を発する一級河川です。下の写真が埼玉県羽生市にある中川起点の標識です。この小さい水路が中川です。この中川の河口部は現在の旧中川を流れて東京湾へ注いでいましたが、荒川放水路の開削に伴い河道は分断され、現在の旧中川が切り離されたわけです。これが荒川放水路です。こちらが旧中川の下流部で隅田川とつながる小名木川との分岐点です。このあたりは、小松川千本桜といわれる桜の名所になっています。【つづく】人気ブログランキングへ旧中川(その1)
2017年03月29日
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千葉県銚子市から千葉県我孫子市を結ぶ国道356号線の途中、香取市にある「川の駅水の郷さわら」です。川の駅とは聞き馴れませんが、道の駅の河川版みたいなものなのでしょうか。道の駅はどちらかというと、トイレとお土産物売り場ですが、ここには、こんな郷土の祭りの展示物や利根川を巡る遊覧船や水上レジャーの基地もあります。これは、むかし利根川の堤防を建設する時に活躍した機関車だそうです。ちなみに、隣には道の駅も併設されていますから、お近くをお通りの際は一度立ち寄ってみてはどうでしょうか。人気ブログランキングへ
2015年05月27日
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この中川、途中で色々な川と合流していきます。しかし、その割には川幅が広くならないそうなので、水があふれた時、いつでも通行止めできるように、バリケードが置かれているそうです。【了】人気ブログランキングへ
2014年11月14日
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羽生領島中領用排水路土地改良区の事務所の前に置かれた銅像です。この銅像は慶長9年(1604)関東代官頭となった伊奈備前守忠次です。この人が羽生領の農業用水である備前渠用水を開削したそうです。もともとは三河武士で徳川家康の家来でした。それが、武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったという、今でいうなら、国土交通省大臣のような人ですね。伊奈忠次の事績である、利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策などは江戸幕府の財政基盤の確立に寄与した功績は大きなものである。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しているそうです。埼玉県伊奈町はこの伊奈忠次の名に因む地名だそうです。また、かつて茨城県の南部にあった伊奈町、現在のつくばみらい市は、この伊奈忠次の次男であった伊奈忠治に因むそうです。この次男忠治も、父の跡を継ぎ、関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わったそうです。特に、江戸初期における利根川東遷事業や、鬼怒川と小貝川の分流工事などが忠治の業績として知られています。つまり、親子二代にわたる国土交通大臣というわけですね。伊奈忠次の銅像の後ろにあるこのモニュメントは意味不明です。【つづく】人気ブログランキングへ
2014年11月13日
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羽生領島中領用排水路土地改良区(はにゅうりょうしまちゅうりょうとちかいりょうく)の事務所が写真の〇で囲んだところだそうです。丁度、中川のほとりなります。そして、看板も出ていました。これが事務所の建物です。羽生領島中領用排水路土地改良区というのは、「用水系統の再編成や水利施設の整備を行い、農業用水の合理的利用、管理形態の適正化、農業生産環境の改善を図るとともに農業経営の安定化」を目指した農家の団体のそうです。詳しくはこちらです→ → → http://www.hanyuryo.com/index.html【つづく】人気ブログランキングへ
2014年11月12日
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この水路が一級河川、中川の始点です。そしてこの下流、埼玉県内を流れて下流は葛飾区金町、そして、江戸川競艇場につながります。この始点部を撮影すると、川の始点というのに、泉があるわけでもなく、トンネルの出口になっています。さらに水で隠れてわかりませんが、片側はふさがれているのです。このトンネルの先は、この川の下を潜って、この水路につながっていました。つまり、川が立体交差しているのですね。それは、あぶないのでここで遊んではいけませんということなんでしょう。さてこの看板を設置している「羽生領島中領用排水路土地改良区」とは何者?こういうものは、市町村が作っているのが一般的だと思うのですが・・・。このあたり、地図で調べると、〇で囲んだあたりです。ということで、次は羽生領島中領用排水路土地改良区の正体を探してみました。【つづく】人気ブログランキングへ
2014年11月10日
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最近は休日となると家でゴロゴロしているMoMo太郎です。そんな中、友達が面白いところへ連れて行ってくれると言って、連れて行ってくれたのが、埼玉県を流れる中川です。写真は、東北本線が中川を横切るところです。この中川、埼玉県羽生市街地の住宅地の中に源を発し、最後は江戸川区東小松川にある江戸川競艇場まで流れています。この江戸川競艇場、珍しい河川水面の競艇場で、干潮と満潮による水流の影響を最も受けやすく予想が難しい競艇場として知られています。ここが、一級河川中川の始点です。始点部にはこんな石碑が建っています。ということで、しばらくはこの中川の上流部を紹介します。【つづく】人気ブログランキングへ
2014年11月09日
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観晃橋のたもとにあり、思川が見下ろせる城山公園です。もともとこの地にあった小山城や祇園城の跡地を整備して作られた公園で、桜の名所だそうです。これが思川(おもいがわ)です。思川は、栃木県鹿沼市の足尾山地地蔵岳(標高1,274m)の東麓を源流として、栃木県中西部を西から南へと流れ同県南端部にある渡良瀬遊水地に流入する一級河川です。こちらは観晃橋から下流側、渡良瀬遊水地に向かって流れる思川です。むかって流れるこちらの方は河川敷の公園が整備されていていいですね。右側の高い建物が今回の目的地です。歩いていくのには遠いので、バスで向かいます。【了】人気ブログランキングへ
2014年11月08日
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江東区と墨田区の間を流れる横十間川でボートの練習をしている人をよく見かけます。「頑張ってね」と思わず声をかけたくなります。人気ブログランキングへ
2013年05月21日
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このあたりを深川というのでしょうか。西深川橋という名前の橋です。この橋の下を小名木川沿いの遊歩道が通っているのですが、よく見ると、遊歩道がぐっと下にもぐりこんで浮橋になっていました。水位が高いと水面下に潜ってしまうのでしょうね。
2011年05月23日
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扇橋閘門の東側にある小松橋から眺めた小名木川です。川の両岸にはマンションが建っていますね。以前は工場なんかだったのが、工場は郊外に移転してマンションに建て替わったんですね。ここは大横川と小名木川が交差するところです。東京スカイツリーも見えますね。
2011年05月22日
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江東区を流れる運河「小名木川」にも閘門があります。扇橋閘門という名前です。隅田川と荒川、東京湾に囲まれた江東デルタ地帯は地盤沈下によって東京湾の満潮水位より地盤が低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」になっていますが、とりわけ東部地域の沈下が激しく、最大で約4.5メートルも沈んだ地点もあります。そのため、東部地域では東京湾の満潮位どころか干潮時の最低水位(A.P.±0メートル)よりさらに低い土地もあります。これらの土地は絶えず水害の危険にさらされているわけですが、江東デルタの外郭を高い堤防や防潮水門で囲むだけでなく、デルタ内の河川のうち東側を流れる部分については人工的に水位をA.P.-1メートルまで下げる措置をとっています。小名木川についても西側は隅田川を通じて潮の干満の影響を受け、水位はA.P.0メートル~A.P.+2.1メートルの間で変化しますが、東側は常にA.P.-1メートルで一定しています。東西で最大3.1メートルの水位差が生じることになります。この両区間を隔てている水門が扇橋閘門なわけですが、この水位差を維持するためには水門を開けることができなくなり、したがって船の通航も不能になってしまいます。そこで、水門を二重にして、二つの水門の間の水路(閘室)の水位を調整することで、水位の異なる両区間の間を船が往来できるようにしています。水位調整はバイパス管を通じて水を出し入れすることで行っています。 扇橋閘門は長さ90メートル以下、幅員8メートル以下の船が8時45分から16時30分まで無料で通航できますが、日曜・祝日と年末年始はお休みです。これは隅田川川にある前扉の方から撮影したものです。後扉は橋の上から撮影すると近すぎて水門全体は写せませんでした。ここは管理事務所の入り口これが管理事務所の建物、事務所の隣は公園になっていました。建物をよく見ると、休日にもかかわらず、人が働いていました。ご苦労様です。
2011年05月21日
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小名木川をまたぐ塩の道橋からの眺めです。橋の上から東の方を見ました。手前の橋は丸八通りです。この写真は、西の方、はるかに向こうには、日本橋あたり高層ビルが見えています。
2011年03月11日
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この大島稲荷神社、小さな村の神社という風情ですが、元禄5年(1692年)9月29日、松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で当社に参拝し、「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだそうです。また神社の入り口には平成元年に建立された「五月雨をあつめて早し最上川」と記された「俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑」があります。また平成12年9月19日、大島稲荷神社御鎮座350年大祭に建立された松尾芭蕉翁の像があります。また、左側の女木塚の石碑は、、「秋に添て行はや末は小松川」の句を記したもので、江東区有形文化財に登録されているそうです。また、大島稲荷神社は小林一茶ゆかりの地でもあるそうで、享和3年(1803年)から1年間小林一茶が居住していたとも言われているそうです。二人の有名な俳人にゆかりのある大島稲荷神社。ただの神社ではないようですね。
2011年03月10日
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小名木川を隅田川の方へ歩いていくと、北岸に神社を発見しました。大島稲荷神社という名前でした。大島という地名の由来は、正保年間(1644年-1647年)ごろに、海岸の低湿地を開発して村が作られ、約250年前の「元禄図」に初めて大島の名が出ている。当時比較的大きな島であったので、この地名がつけられたそうです。ちなみに「おおしま」と読まず「おおじま」と読みます。これは深川に大島町とよばれる地名があったため区別するためだったそうです。
2011年03月09日
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小名木川沿いには遊歩道が整備されています。この遊歩道は「しおのみち」と名付けられています。その昔、葛西あたりから船橋にかけての地域は鎌倉時代から塩を作っていて、年貢としても納められていたそうです。徳川家康も江戸に入った時、この地域には注目し、まず塩の生産地から江戸城までの輸送ルートをつくります。それがこの小名木川という運河だったそうです。塩というのは、それだけ重要な物資だったということですね。
2011年03月08日
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荒川のスーパー堤防から小名木川を臨む風景です。小名木川に架かる橋は番所橋と命名され江戸時代このあたりにあった中川船番所に因んでいます。実はこのスーパー堤防は、日本化学工業の旧小松川工場が投棄した六価クロムの鉱滓を、工場の移転後、日化工と都の協定に基づいて汚染土壌の還元処理と封じ込めの措置が取られ、スーパー堤防の盛り土によって閉じ込めているという面もあるそうです。六価クロムは、強い酸化作用から、六価クロムが皮膚や粘膜に付着した状態を放置すると、皮膚炎や腫瘍の原因になる。特徴的な上気道炎の症状として、クロム酸工場の労働者に鼻中隔穿孔が多発したことが知られている。これは飛散した酸化剤や顔料などの六価クロムの粉末を、長期間に亘って鼻腔から吸収し続けて、鼻中隔に慢性的な潰瘍が継続した結果と考えられています。また、発癌性物質としても扱われている。多量に肺に吸入すれば呼吸機能を阻害し、長期的には肺癌に繋がる。消化器系にも影響するとされ、長期間の摂取は肝臓障害・貧血・大腸癌・胃癌などの原因になるそうです。低濃度・少量の六価クロムが土中に放置された場合、土中の至る所に膨大な数が生息する微生物と接触することで、短時間で安全な三価クロムに変わると考えられており、問題はないとされています。しかし、高濃度の六価クロムが地表付近に大量に放置された場合は、周辺の微生物を全滅させてなお残留するため、その後の微生物との接触が進行しなくなる。このため六価クロムのまま長期間残留し、粉末になって飛散したり、地下水を汚染したりして公害を引き起こす要因になります。東京都は毎年、江東区と江戸川区内で定期的に大気と水質について六価クロム等の環境調査を行っています。21年度の調査結果によれば、大気中の全クロム濃度は0.0011から0.0046μg/m3(平均0.0024μg/m3 )であり、六価クロムは検出されませんでした。 また、旧中川等の河川水から六価クロム、全クロムは検出されていません。 そんなわけで、スーパー堤防の上では小鳥がのんびりと遊んでいました。ちなみに、セメント及びセメント系固化材を使用した改良土から、条件によっては六価クロムが土壌環境基準を超える濃度で溶出するおそれがあるため、「セメント及びセメント系固化材の地盤改良への使用及び改良土の再利用に関する当面の措置について」平成12年3月24日付け建設大臣官房技術審議官通達が出されており、六価クロムの溶出試験を行い、環境基準を守るように指示されています。
2011年03月07日
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旧中川から小名木川に入るところです。写真手前の水路が小名木川です。ここから、江東デルタ地帯の内部に向かって歩き始めます。
2011年03月06日
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江戸川区と江東区の境になる旧中川です。遠くに見えるクレーンは水門の耐震工事なのでしょうか。ボートの練習をしているグループがいました。
2011年03月05日
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荒川ロックゲートの横にある樋門。東京都が管理する小名木川排水機場のゲートです。小名木川排水機場の写真です。よく見ると煙突みたいなものが見えますね。これは洪水の時だけエンジンを回してポンプを動かす仕組みだからです。電気で動かすと、動いてない時でも電気基本料金支払ないといけないから、エンジンを使っているってことですね。ちなみに、ゲートの入り口についている赤と白の標識の意味は、「進入禁止」です。
2011年03月03日
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小松川閘門が廃止されましたが、荒川と隅田川にはさまれた、墨田区、江東区、江戸川区にまたがる地域)の水上交通の確保と、また、阪神淡路大震災の経験から、災害時の救援物資輸送にも期待されて、荒川ロックゲートが2005年10月に完成しました。荒川ロックゲートは、荒川と旧中川を結ぶ閘門です。なかなか、デザインもお洒落ですね。そして、最大長55m、最大幅12m、最大高4.5mの船が通過できるそうです。堤防の上には風力発電装置なんかも設けられています(写真左側の鉄塔がそうです)さらに、荒川源流から運ばれた石のモニュメントそして、荒川の成り立ちや歴史など、国土交通省の河川事業をPRする看板が展示されています。荒川水系を紹介する看板荒川ロックゲートの必要性をPRロックゲートの施設紹介荒川ロックゲート周辺の案内板など、なかなか参考になりました。
2011年03月02日
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このあたりは事業仕分けで廃止となったスーパー堤防として整備された区間です。スーパー堤防(高規格堤防)とは、通常の堤防と異なり、万一の越水でも急速な崩壊を招かぬよう、裏法面を3%以内の緩やかな勾配としたもので、水が堤防高を越えても堤内に緩やかに流れ落ちるため被害が小さくなるというものです。この堤防の特徴は、堤防の上の土地利用ができるので、地域の街づくりと一体となって整備されることです。ちなみに隅田川の墨田区役所やアサヒビールの本社ビル建つ辺りもスーパー堤防として整備されて、堤防の上に区役所や都営アパートが建っているわけです。ここのスーパー堤防の上は小松川千本桜として、春には多くの人が訪れるところです。ところで、旧中川が区境で、この小松川千本桜のある方は江戸川区です。さらに中世の古城を思わせる建物がありました。この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。ここは、水運の要である荒川と旧中川との合流地点でしたが、荒川放水路が完成した時に、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となったことから、昭和5年、小松川閘門が完成しました。その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し昭和51年に閉鎖されました。この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていますが、近世の重要な文化遺産を後世伝えています。さて、「小松川」という地名ですが、以前はこのあたりで小松菜が多く栽培されていて、それが小松菜の名前の由来になっているそうです。
2011年03月01日
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早いもので、2月は逃げるように去って行くのでしょうか? もう2月28日となってしまいました。そして、3月、3月と言えば、「卒業式」。「卒業式」と言えば「贈る言葉」。3年B組金八先生のテーマソング?(あの番組、余り知らないんです)そして、金八先生のオープニングは荒川の土手を歩くシーンですね。そして、これが荒川です。正確に言えば、これは荒川放水路で、荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川でした。1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっています。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていましたが、たびたび洪水による被害があったため、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削され、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22km、幅約500mを誇る荒川放水路となりまた。詳しくは、この写真で確かめて下さい。その工事は、内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に進められ、1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事だったそうです。今の荒川水系はこうなっています。「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となったそうです。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていました。まあ、そんなこととは関係なく、鴨はのんびり水面で泳いでいますね。
2011年02月28日
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江東区の運河めぐり、荒川放水路の方に行ってみました。ところで江東区の運河ってどうなっているか。それを示すのが下の写真です。横十間川と小名木川が交差するところに小名木川クローバー橋があり、中川を分断するように荒川(放水路)が掘削され、江東区を流れる中川は旧中川と呼ばれています。とりあえず、歩くと距離があるので都営地下鉄新宿線で東大島駅まで行ってみました。東大島駅は旧中川をまたぐように作られています。この橋は中川大橋とありますが、亀有にある中川大橋とは違いますよ。この橋のたもとにあったのが中川船番所。このような公園が整備されています。そして、江東区立中川船番所資料館高校生以上は入場料200円、小中学生なら50円です。船番所とは、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の中川口に設けた川の関所です。ちなみに、浦賀にも船番所があり東京湾に出入りする船を調べていたそうです。
2011年02月27日
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横十間川を南に向かって歩くと、小名木川クローバー橋とは、横十間川と小名木川が交差する地点にあって中央部で十字に交差する構造になっている歩行者・自転車専用橋です。横からみるとこんな感じです。橋の上ではのんびりと人が歩いてます。橋の上から西にある隅田川の方を見ると、小名木川の浚渫工事が行われていますね。南の方は、水門がありますが、横十間川親水公園として整備されています。荒川につながる東の方には、背の高いトラス橋は総武本線 貨物支線(越中島支線)の鉄橋です。どちらに行ってみましょうか?
2011年02月26日
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