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浦安の町、東水門を越えたあたりは新しく開かれた団地の町になります。この道を歩いて行きます。大きなアパートが立ち並んでいますね。こちらは交通公園(→→→こちら)です。自転車やバッテリーカーなどいろいろな乗り物が揃っていて楽しめそう。みんな並んで順番を待っています。ちなみに乗り物は無料で利用できますが、大人だけで利用は出来ません。信号や横断歩道もあるので、「交通を勉強する」公園です。子供の頃からここで交通法規を勉強していてれば、運転免許試験も楽勝かも。こちらは動物広場と呼ばれるミニ動物園。ボニーがいますよ。このポニーに体験乗馬もできるそうですが、これも小さいお子様だけです。カピバラもいました。ヤギも飼われていました。係の人は檻の中を一生懸命掃除していました。こちらはこどもの遊び場。大きな山があります。この通り、公園の周りには高層アパートが立ち並んでいて、ここって子供を育てるにはいい環境ですね。公園の隅にはなにかあるようですね。今度はそっちに行ってみました。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その16) 交通公園・若潮公園
2022年03月18日
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浦安郷土博物館の屋外展示場を見下ろしたところです。かなり本格的に町並みが再現されています。かって浦安の境川などで使われていた「べか舟」です。東京湾で海苔を採るときに使われた一人乗りの木造船で、板が薄くペコペコすることからその名が付いたと言われています。こちらに展示されている物は「焼玉エンジン」(→→→こちら)と呼ばれるもので、昭和30年代まで大型船に使用されていた本物のエンジン。旧江戸川に沈んでいたものを引き上げ、展示しているのだとか。こちらは、町には必ずあったタバコ屋さん。店の中ではさらに色々なものが売っていたようです。昔の真空管ラジオや柱時計、火鉢も雰囲気ですね。こちらは漁師の家の再現したものだそうです。家の中はこんな感じでした。漁労の無事を願う神棚は欠かせないものだったのでしょうか。むかしの手押しポンプもありました。この雑然とした作業場は、海苔の製造場だそうです。銭湯の建物も再現されていました。山本周五郎の小説「青べか物語」にも登場した、堀江フラワー通りに本当にあった天ぷら屋「天鉄」です。店の中には山本周五郎や浦安に関する展示がありました。こちらは、人々が住んでいた長屋を再現したもの。駄菓子屋もありました。実際に駄菓子を買うこともできるみたいでした。長屋の中の様子です。今風に言えばワンルームマンションですかね。こちらが台所ということでしょうか。アサリを干していたという設定でしょうね。寿司屋もあったんですね。こちらは魚屋さんだそうです。店の前にある車で魚を行商していたんでしょうか。むかしの魚屋のショーケースだったんですね。鮭の切り身なんかも売っていたんですね。豆腐屋さんです。下総屋という屋号。このあたりの旧国名が下総だからですかね。板壁が雰囲気ですね。干してあるのは手ぬぐいですか。その下にある箱のようなものは、ゴミ箱でしょうか。なつかしい映画のポスターも貼ってありました。この屋外展示場の他にも中の展示も充実していて、浦安市郷土博物館、無料で楽しめるいい施設でした。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その15) 昭和の浦安にタイムスリップ
2022年03月17日
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境川沿いをまた歩いています。河岸にあった小舟、発動機がついていましたが、べか舟(→→→こちら)ってこんな雰囲気だったんですかね。東水門が見えてきました。かってはこの水門の先が海だったそうです。東水門のそばには、ここに常灯明(海岸にあった灯台)があったそうです。常灯明跡(じょうとうみょうあと) 漁師は夜間海で働くときは、星をたよりに方向を定めますが、闇夜や天候の悪いときは目印がないので、遭難する人もいました。 明治十三年(一八八〇)十月三日、六人船で操業中の十六人の漁師が、暴風雨に遭い死亡するという事故が起きました。東学寺第十五代住職の法印律師高橋義応は、遭難者の死を悼み、その霊を弔うとともに海難事故を防ぐため、自費で堀江の江川付近に柱をたて、頂上に木箱に入れた石油ランプを掲げ、漁場で働く人の目印としました。それが、「常灯明」です。それ以来、住職は夕方になるとランプにあかりをつけ、明け方に消すことを日課とするようになりました。その後、常灯明は、周囲に人家が建てられ、海上から見えにくくなったので、明治二十五、六年頃漁業組合では、ここに高さ十七尺(約五・一メートル)の鉄骨造りの常灯明を建設しました。 この常灯明は、漁村にふさわしい情緒あふれる形をしていて、漁場で働く人々のよき道標として長い間親しまれてきましたが、昭和三十年代に入ると、漁業不振になりその必要性が薄れ、腐朽も進んだので、取り壊されました。 平成二十二年三月 浦安市教育委員会この常灯明跡の近くにあった浦安公園ゆうゆう広場です。芝生の広々した気持ちの良い公園でした。その公園の中にあるこの建物。浦安郷土博物館(→→→こちら)です。博物館の前にあるこの彫刻もなかなかですが、博物館の中には、昭和27年頃の浦安の町並みを再現した屋外展示場「浦安のまち」があるのです。これだけ大掛かりな展示物がありながら入場は無料なんです。明日の記事では、この屋外展示場をじっくりと紹介したいと思います。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その14) 浦安の歴史を学びに行く
2022年03月16日
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豊受神社を出て境川を下流に向かって、東に進みます。途中で見かけた標識「左右天命弁財天(さゆうてんのみことべんざいてん)」というのがあるらしいので、立ち寄ってみることにしました。この細い路地を入って行くと、神社の入口が見えてきました。「左右天命辨財天」の扁額があります。ここですね。よくわからないのですが、高校野球で有名な「智辯学園」とか「智辯和歌山」は、新聞やテレビの報道では「智弁」と表記されています(→→→こちら)。これはどういう理由なんでしょうかね。悠仁様が入学される筑波大学附属高校も「附属」と表記している新聞もあれば「付属」と表記している新聞もあり、正式名称はどちらの漢字を使うんだと思うことが時々あります。黒御影石の社号碑もちょっいワル風でオシャレかも。こちらが社殿です。社殿の周りは池になっています。そういえば弁財天を祭っている神社やお寺って水が近くにありますね。例えば、琵琶湖の竹生島神社、神奈川の江ノ島の江島神社、広島の厳島神社、鎌倉の銭洗弁財天、上野寛永寺不忍池辯天堂そして利根川のほとりにある千葉県柏市の布施弁天 東海寺など。やっぱり弁財天って女性の姿をしているので、川の近くで毎日お風呂に入って清潔にされるのですかね。これが猫実の弁天様の由緒です。明治十七年十月(1884)川島という人が建立した。この弁天様は猫実の弁天様といい、左右天命をお祀りしてある。弁天様は灰やのくるわに災害が起る前には、女の姿になって現われ、災害を未然に教えたり、大津波の襲来を予告したりして常にくるわの人達を救ってくれるといわれ、非常に霊験あらたかなところから、信者が多く、特にくるわの人々は付近の守り神として崇拝している。大正六年(1917)の大津波で堂宇が流出してしまったので、くるわの人達は浄財を持ち寄って弁天様を再建した。堂宇の中には、行徳の後藤仏具師の作による弁財天が本尊として安置してある。灰やのくるわの人々は、毎年一月、五月、九月の三日にお祭りをしている。 浦安市教育委員会。(註1)「灰やくるわ」というのは、この辺りに貝灰を作る大きな工場があったことからそう呼ばれていたそうです。川島という名前はその工場の経営者だったのかもしれません。ちなみに、貝灰とは、昔浦安でよく採れたハマグリ、アサリ、バカ貝などの殻を高温の窯で焼き、ふるいにかけてつくった粉のことで、家屋の壁など建築用材料として、また農業用の肥料や、戦時中は軍馬のカルシウム補給用に使われていたそうです。山本周五郎り青べか物語にも「貝殻を焼いて石灰を作る工場」として度々登場します。今では、漁業権放棄に伴う貝類の漁獲減少のため工場は閉鎖されて存在してません。(註2)「大正六年(1917)の大津波」とは1917年(大正6年)の10月1日に東京湾岸で発生した、台風による高潮災害のことです(→→→こちら)。地震による津波のことではありません。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その13) 猫実の弁財天
2022年03月15日
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猫実にある大きな神社がこの豊受神社(→→→こちら)です。保元2年(1157年)の創建といわれ、浦安市で最古の神社なるそうです。保元といえば源氏や平家の武士が歴史の中心に登場するきっかけとなった「保元の乱」(→→→こちら)頃ですね。そのころから浦安に人が住んでいたんですね。ということは<今年のNHK大河ドラマで活躍している源頼朝や北条義時などの人もこの地を通ったのかもしれませんね。最近は新型コロナウイルスの感染防止で手水舎では柄杓を使わないようにしていますね。訪れたのが昨年の11月14日だったので、七五三詣りの方が写り込んでいますね。境内にあるイチョウの大木。枝が重すぎるのか下から支柱で支えています。幹の周りも太いですね。そしていくつにも分かれています。この説明板によれば、河口に小さなイチョウの木が流れてきたのを村の者が拾い上げ、豊受神社の境内に植えたのが始まりだそうです。浦安市指定天然記念物ということで、浦安のシンボルのような存在なのかもしれませんね。大銀杏のそばにある神輿の収納庫です。今まで訪れた、猫実地区の「豊受神社」、堀江地区の「清瀧神社」そして当代島地区の「稲荷神社」の3社は「浦安三社」と呼ばれており、それぞれ浦安市の母体ともなった3村の鎮守になります。この三社で4年に1度行う「浦安三社祭」があるそうです。元々は10月中旬に各社がそれぞれ豊年祭を開催していたのですが、大正時代末に、4年に1度、6月14日-16日に3社が合同で大祭を行うようになったそうです。そして夏季五輪と同じ年に行われる6月中旬の夏祭りです。こちらが社殿。御祭神は豊受姫大神だそうです。こちらにあるのは境内社の「浅間神社」大正12年(1923)に氏子たちによって築かれた富士塚です。ということは「浦安三社」のそれぞれに富士塚があったので、浦安では富士山を信仰していた人達が多かったということですかね。また、秋葉大権現や金比羅大権現と記された小さな祠が富士塚の麓に並んでいます。清心元講と記された台座の上には天狗像。清心元講(せいしんもとこう)とは、不動明王と清心菩薩を信仰している信者の集団のことだそうです。さらに秩父の三峰神社もありました。錆の浮いた塗炭の屋根が"shabby"な感じがします。狼を守護神とする三峰神社らしく、狛犬ではなく狼(又は山犬か)が鎮座しています。江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、信仰する団体(三峰講)も増えたそうで、浦安の人もそういう講を作っていたんでしょうね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その12) 豊受神社
2022年03月14日
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一昨日、紹介した海苔に続いて、浦安駅の近くには浦安の名産品を取扱うお店が残っいます。こちらのお店は「浦安名物」の焼蛤のお店です。更に浦安の町の中を歩いて行くと、ここにも焼蛤のお店がありました。浦安は、古くから採貝が行われてきた漁村地帯でした。そこで収穫されたアサリやハマグリなどの貝類は佃煮や缶詰などの加工業者によって製品化され、東京方面に出荷していたそうです。そのような、貝類加工業者は「むき身屋」、貝むき包丁を使って貝をむく人は「むき手」と呼ばれ、昭和30年代まで大勢の女性が活躍していたそうです。だから、このような焼蛤が名物になったのですね。そんな浦安も、高度経済成長によって東京湾沿岸の開発が進み、海水の汚染が進むと漁獲高は年々減少。漁業の将来に不安を抱き転職する住民も増え、昭和37年(1962)に漁業権の一部が放棄され、海面埋立事業が開始されました。その後、昭和46年(1971)には漁業権の全面放棄に至り、公有海面の埋め立てによりできた土地に大規模住宅などが建設され、都市化が進み、昭和44年(1969)に地下鉄東西線が開通すると、都心から近い住宅地に変貌していたそうです。東京郊外のベッドタウンだった浦安を全国的な町にしたのは、やはり、昭和58年(1983)に開業した「東京ディズニーランド」ですね。さらに、周辺には来場者を意識したホテルなども開業して、浦安はテーマパークの町として繁栄しているんですね。町の中に置かれた立て看板です。昼間は路上喫煙してもいいのかい。ここの地名が「猫実(ねこざね)」(→→→こちら)というのですね。今まで歩いてきた、浦安にある「海楽」、「堀江」、「当代島」といった地名は、その由来がなんとなく想像できるのですが、猫実というのはちょっと想像できなかったのですのが、その由来は、調べてみると以下のようでした。鎌倉時代に、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が豊受神社付近に堤防を築き、その上に大きな松の木を植え、この松に根を波浪が越さないように願い、「根越さね」と言われた。それが「猫実」と称されるようになったと言われる。そして、街角にあったのが庚申塔。説明板には、こう記されていました。猫実の庚申塔 昭和五十七年(一九八二)市指定有形文化財 この庚申塔 は、正徳五年(一七一五)一月、猫実村の庚申講の信者によって建てられました。青面金剛菩薩を刻んだ庚申塔では、市内で最も古いものです。塔の正面には、邪鬼(たたりをする神)を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、庚申の干支にちなんで「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が刻まれています。庚申信仰は、もともと道教(中国の民間信仰から発達した宗教)の三尸(さんし)説に始まったものです。三尸説では、六十日に一度の庚申の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神様にその人が犯してきた罪を告げるのだといわれています。これを聞いた天の神様は、その分だけその人の命を削りとり、早死にさせるので、この虫が抜け出ないよう、信者たちは夜どおし話や会食をして過ごしました。ただし、この地域では、庚申の晩に祭礼を行ったというような記録は残っていません。大正時代には、毎月二十五日が祭礼日とされ、現在でもこの日に病気の回復などが祈願されています。かつては、祭礼の日には、お堂の前の道に露店が立ち並び、多くの参拝者でたいへん賑わったといわれています。 今日でも、先人たちの信仰心が脈々と受け継がれ、この塔は「猫実の庚申様」として、地域の人々に大切されています。 平成十六年一月 浦安市教育委員会。こちらが、青面金剛菩薩です。庚申塔をガードする神猿像。口を閉じているのと、開いているのが、神猿の阿吽の呼吸ですね。庚申塔前の商店街です。毎月、25日には縁日が行われているのですね。縁日の日に賑わうのかな。庚申通りというの商店街なんですね。ここにも海苔店がありますね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その11) 猫実(ねこざね)の庚申塔
2022年03月13日
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この道も明るいうちは大丈夫でしょう。夢のみずうみ村(→→→こちら)だそうです。全国展開している介護施設のようですね。当代島児童公園にあった浦島太郎像。竜宮城から戻ってきたら「夢のみずうみ村」でリハビリかな。葛西橋通りに出ました。千葉県に入っても葛西橋通りと呼んでいるのかな。そして、東京メトロ東西線の高架橋です。ここから東京ディズニーリゾートへ案内板が出ていました。そういえば京葉線の舞浜駅ができるまで、東京ディズニーランドへは浦安駅からバスが出ていましたね。といっても、MoMo太郎は東京ディズニーランドに行った事がないので、舞浜駅で降りたことは勿論、バスに乗ったこともないのですが。東京メトロ東西線の浦安駅前に出ました。右側の建物が浦安駅です。昭和44年(1969)3月29日に開業したそうです。それまで浦安って三方を海と川で囲まれた陸の孤島みたいな場所だったのかも。駅前近くにあるこの海苔店(→→→こちら)の両国国技館の相撲みやげにもなっているそうです。国技館の前で「丸茂(まるも)海苔店」のワンボックスカーをよく見かけます。九州の有明海産の海苔が有名ですが、この店は千葉県産の海苔を取扱っています。確かに国技館でお土産の海苔を買ったら、有明のりだとがっかりするかもしれませんね。ちなみに、海苔店にはなぜかお茶も扱っていますが、お茶の方は千葉県産ではなく静岡県産だそうです。もともと浦安は海苔のまちとして有名だったそうです。堀江村の大塚亮平と猫実村の田中徳次郎が、「浅草海苔」の代表的な産地であった大森を明治前期に視察。深川の越中島で養殖技術の向上を図り、明治31年(1898)には浦安の海で養殖を行う許可を得て、本格化された。その後は漁場も拡大され、昭和に入ると水産物の水揚げ額は海苔が最も多く、全体の6~7割を占め『海苔のまち』として発展。冬になると川岸には海苔採り用の木造船「べか舟」がひしめき、海苔すき、海苔干しの光景が見られた。 引用元は→→→こちら(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その10) 東京メトロ東西線浦安駅前
2022年03月11日
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船圦緑道のそばに、この神社がありました。ここに参拝します。本殿へと続く狭い参道の両側には、民家が立ち並んでいました。ようやく本殿が見えてきました。社号碑にはシンプルに「稲荷神社」(→→→こちら)と記されていました。普通は「〇〇稲荷」とか「〇〇神社」という名前が入るはずですが、ここはシンプルに「稲荷神社」。つまり、ここは浦安稲荷でも当代島神社でもなく、稲荷神社というのが社号なんですね。こちらが拝殿、訪れた日が2021年11月14日だったので、七五三詣の幟やパネルがありました。御祭神に豊受大神、應神天皇そして春日大神とされているそうです。稲荷神社といえば、稲蒼魂命(宇加之御魂神)だと思っていましたが、豊受大神というパターンもあるのですね。境内には、やはり戦争に関する石碑もありました。「支那事変出征祈願」とあるので、いわゆる日中戦争に出征した方々の戦勝を願ったものなんでしょうね。稲荷神社のもう一つの目玉は、こちらの「大鯨の石碑」です。いわくありげな石柱が4基並んでいます。大鯨の石碑はこれらしいですね。大鯨の石碑の由来が記されていました。簡単に言うと、明治8年に当代島の住民であった高梨源八と西脇清吉の2人が、浦安の海で鯨をとり、意気揚々と当代島へと戻てくると、村中が大騒ぎとなり、村人がこぞって見学に集まったそうです。(確かに、東京湾で鯨を獲るなんて珍しいでしょう。)そして、大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした2人は有名人になりました。しかし、有名になりすぎて仕事も手につかなくなり、それを見かねた年配者に「大鯨の碑」を奉納して祀り、記録して称え、この騒動を終わらせた、ということです。境内には、更に見たものは、こちらの鳥居の奥にある。富士塚です。そして、富士山といえば、やっぱり浅間神社ですね。しかし、堀江にあった清龍神社にも富士塚があったし、浦安の人って富士山が好きなんですかね。ということでこの角度から稲荷神社の拝殿をカメラに収めて、次の目的地に移動しました。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その9) 当代島の稲荷神社
2022年03月10日
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堤防沿いの道を上流に向かって歩いて行きました。そして、堤防から下って「当代島」(→→→こちら)と呼ばれる地区に来ました。児童公園の片隅に地蔵堂がありました。慈悲地蔵尊というそうです。江戸川沿いのこの土地には、度重なる洪水で亡くなられた人たちの余多の霊がこの土地に漂着したであろうし、また災難や事故で亡くなられた地域の人も多く、これらの人々の霊魂の成仏を願うとともに、これからの地域の住民の家内安全幸福な生活が営まれることを祈念して、町内会でこの慈悲地蔵尊を建立したそうです。更に北に向かうと、船圦緑道(→→→こちら)に出ます。この道沿いを歩きます。ここには、かつては船圦川という川があり、水田へのかんがい用水や、漁師さんたちの船が係留場所として利用されていたそうです。しかしながら、水田が住宅地に変わり、漁業権も放棄されたことから埋め立てられ緑道に生まれ変わったそうです。その船圦川のことを残すかのように人工の水路が流れていますが、元々あった船圦川も、江戸時代のはじめごろに狩野浄天・田中十兵衛(当代島地区を開墾した人物)により人工的に開削されたものであるともいわれています。また絶命危惧種の二ホンウナギもいる川のようですが、こんなところだと近所に住む「大沢木 小鉄」(漫画「浦安鉄筋家族」の登場人物→→→こちら)のような良い子のみなさんに採り尽くされてしまうのでは。安心して下さい。石でてきた作り物でした。こちらは石の上に小さな魚が、ハゼでしょうか。こちらも作り物でした。本物を釣りたければ、やはり旧江戸川に行くしかないでしょうね。船圦川跡という説明板が設置されていました。船圦川跡(ふないりがわあと)現在、緑道になっているこの場所は、昭和40年代後半まで「船圦」と呼ばれた川が流れていたところです。全長550m、川幅12mあまりの川で、江戸時代のはじめごろに狩野浄天・田中十兵衛(当代島地区を開墾した人物)により人工的に掘削されたものであるともいわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。当代島地区は、この川沿いに集落が形成され、発展してきました。かつては、この川から農業用の水路(堰)がひかれ、田んぼへ水を運んでいました。また、漁業用の船が多く係留され、採ってきた魚介類を荷揚げする光景がよく見られました。漁へ行くときは、ここから旧江戸川に出て、海へと下っていきました。「船圦」という呼び方は、ここからきたものを思われます。川の水は、飲料水や洗い物などの生活用水として、日常的に利用され、地域の人々の生活を支える大切な役割を果たしていました。しかし、漁業権の放棄や宅地化によって、川であることの必要性が次第に薄れて、昭和48年(1973)には、川の埋め立て工事が始められました。そして昭和52年(1977)、緑化推進事業の一環として、道路中央部に木々が植えられた緑の道路が完成しました。この道路は、市民の公募により「船圦緑道」と名づけられ、いこいの散策道として親しまれています。 平成17年1月 浦安市教育委員会(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その8) 当代島の船圦緑道
2022年03月09日
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東京メトロ東西線の第一江戸川橋梁の下は船着場になっていて、屋形船が係留されていました。その橋のすぐそばにあった、船宿です。この船宿はかなり古くから続く店のようで、小説家の山本周五郎(→→→こちら)氏の作品「青べか物語」に「船宿・千本」として登場する船宿だそうです。「青べか物語」(→→→こちら)とは、山本周五郎により昭和36年(1961)に 文藝春秋社より刊行された連作短編小説で、、浦安をモデルとする架空の町「浦粕」を舞台に、昭和初期の漁師町の人間模様を描いた作品です。また、山本周五郎氏は実際に大正15年から昭和4年の春まで、23歳~26歳の時に同地で暮らしていたそうです。旧江戸川その名の通り、かつての江戸川本流だった川です。江戸時代の初期、江戸幕府は水上輸送路を確保するために利根川水系の改修を行い、その結果、利根川の水が現在の江戸川に流れるようになりました。そして、明治43年(1910年)に利根川水系に起きた大きな洪水をきっかけに、政府は利根川から江戸川へ流れる水を増やす「江戸川改修工事」を大正3年(1914)に着手します。大正5年(1916)には千葉県の行徳を貫く開削に着工しました。この開削は大正8年(1919)に竣工し、その後、新たに開削した川を「江戸川放水路」、また篠崎から下流の旧流路を「旧江戸川」と呼ぶようになりました。その後、江戸川放水路は「江戸川」と改称されたのです。対岸は東京都江戸川区です。そして、川の中にあるコンクリート壁でかこまれた土地が「妙見島」(→→→こちら)です。この島は東京23区内にある唯一の自然島です。渡し場跡の説明板がありました。江戸末期から明治初期にかけて、旧江戸川対岸の堀江飛地(現江戸川区南葛西)の農地耕作のため、「堀江の渡し」が内田平次郎によってはじめられました。待合所は、堀江4丁目469番地地先(現境川西水門堀江側)にありました。その後、この渡しは廃止され、そのかわりにこの場所に待合所ができ、ここから対岸の東長島(現江戸川区東葛西)を往復する「浦安の渡し」が開かれました。~「中略」~昭和初期の渡し賃は、大人2銭、子供1銭、自転車3銭、小車4銭であったといいます。(当時のアンパン1つの値段が3から5銭くらい)昭和15年(1940)の浦安橋開通により、対岸へは徒歩や自転車で渡れるようになったため、渡し船は、その役目を終えました。また、明治15年(1882)年、国から新川を経て江戸川を上り銚子に至る航路が開かれ開き、蒸気船「通運丸」が運航されており、ここに発着場が設けられ、浦安から東京方面や行徳に行くのに大いに利用されていたそうです。そして、この船着場が蒸気河岸と呼ばれていたそうです。このあたりが蒸気河岸と呼ばれていたところです。「青べか物語」では、山本周五郎氏がモデルとなっている主人公の「私」は、この蒸気河岸の近くに住んでいて「蒸気河岸の先生」と呼ばれていました。係船杭(けいせんくい)と呼ぶのでしょうか、水域に杭が打ち込まれ、船が係留されています。理由はよくわかりませんが、杭のアタマにはバケツがかぶせられていました。川の中をボートに乗ってクルージングしていました。カッコイイですね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その7) 山本周五郎の青べか物語
2022年03月08日
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境川沿いを旧江戸川に向かって歩きます。向こう側に見えるアーチ橋は東京メトロ東西線の第一江戸川橋梁、ちなみに第二江戸川橋梁は東西線の妙典と原木中山の間にある江戸川の本流に架かる橋になります。町の中を流れる境川。なんか気持ちが落ち着く風景でした。この辺りの河岸が、六人網の漁をする舟の船着き場たったそうで、「六人河岸」と呼ばれる河岸だそうです。こちらには川に飛び出した不思議な構築物。扉には排水機場と書かれていました。この道路の下に排水路があってその水を排水するのでしょうか。東西欄の橋梁の手前に大きな水門があります。旧江戸川と境川をつなぐ境川西水門です。近くで撮影してみました。水門の両側には桜の大木が見えました。花見の季節にまた来たいですね。旧江戸川の堤防の上に上がってみました。水門の前に小さな広場があって、その手前に記念碑のようなものがありました。この記念碑には人の顔のレリーフが。これはリンド技師記念碑というそうです。リンド技師はオランダ人で、陸軍の土木技師で、明治5年(1872)、日本政府土木寮のお雇い外国人技師として技師長のファン・ドールンと共に来日し、国内の河川管理・治水管理のために活躍し、3年後に契約期間を終え帰国したそうです。清龍神社にあった堀江水準石もこのリンド技師が設置したものです。詳しくは国土交通省 関東地方整備局 江戸川河川事務所のホームページ(→→→こちら)を参照して下さい。西水門から境川を撮影してみました。浦安村の時代には多くの船がこの川を航行していたのでしょうね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その6) リンド技師記念碑と西水門
2022年03月07日
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堀江フラワー通りを抜けると鳥居が見えてきました。「清龍(せいりゅう)神社」(→→→こちら)というそうです。こちらが拝殿です。神社のご祭神は大綿津見神(海の神)(→→→こちら)。かつては漁師町だった浦安だけに海の神様を祀り、海路安全、漁業繁栄を願うのは当然のことですね。神社の狛犬、こちらの子供はまだ親の下で守られていますが、こちらになると、台座の下に降りたのか落ちたのか。こちらが清龍神社の本殿です。上総国のケヤキの大木を使用し安政2年(1855)9月に造られたもので、建築様式は木造三間社流造り、浦安市の指定文化財となっていました。摂社或いは末社もありました。この塚がある境内社は、近づいてみると、浅間神社。富士山信仰に基づく富士塚でした。また境内の中には、末社ではないが、変わったものがあった。説明板があって、「堀江水準標石」とのこと。掘江水準標石この水準標石は、江戸川や利根川の水位の基準点として設置されたものです。明治政府は、明治5年(1872)オランダから水工技師団を招きました。そのうちの一人、リンド(I.A.Lindo;1848~1941)が河川計画作成のための第一歩として、この地から水準測量を始め、「堀江水準標石」を設置しました。リンドは、測量の結果、この標石の頂点の高さを基準として江戸川河口の水位ゼロ点の高さをY.P.(Yedogawa Peil;江戸川工事用基準面)としました。Y.P.は、130年以上経った現在も両河川の水位の基準となっています。Y.P.は、現在の基準となっている東京湾中等潮位T.P.より0.8402m低くなっています。堀江水準標石は、歴史的土木建築物として、歴史的・学術的に価値が高いとの判断から、平成19年(2007)11月18日、(社)土木学会より選奨土木遺産として認定されました。 平成20年(2008)1月 浦安市・浦安市教育委員会・浦安市観光協会つまり、今は東京湾の平均海面が日本全国の標高の基準となっていますが、明治のはじめはここが江戸川・利根川流域の標高の基準だったんですね。こちらが、堀江水準標石(右)と土木学会の選奨土木遺産のプレート(左)です。日本の標高の最初の基準が浦安にあったとは知らなかった。本当に重要な文化遺産だと思う。ちなみに、日本の標高が東京湾平均海面で決まっていると大雑把に記述しましたが、宇宙からGPS(Global Positioning System)(→→→こちら)で測量する今日では、ジオイド(Geoid)(→→→こちら)という、地球の重力による位置エネルギーの等しい面(重力の等ポテンシャル面)が標高の基準となっています。ところで厳密に重力が測定できたとした場合、ジオイドは周囲の地形や地下の岩石の密度の影響によって凸凹になるので、地球楕円体と呼ばれる回転楕円体でその形を近似されることにしています。ただし、混乱しないように日本においては、東京湾平均海面に一致する等ポテンシャル面をジオイドと定め、標高の基準としています。そんなことを考えながら、カーナビのGPSで運転していると事故を起こすので、その話は置いといて、清龍神社の隣あるこの庭園にやって来ました。こちらには古い写真とその解説があり、ここに、明治28年(1895)から昭和49年(1974)まで浦安町役場あったところで、この近くには境川に沿って漁業組合、缶詰工場、貝むき場などが軒を並べた浦安随一の賑やかな場所だったそうです。その裏手には、このような看板も建てられており、役場の裏には樹齢200年以上の松があったそうです。また、浦安町役場がここに建設された理由と移転した経緯などが記されていました。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その5) 清瀧神社と日本の標高の始まり、そして浦安町役場跡
2022年03月05日
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境川と並行したこの道を歩きます。道沿いに大きなお寺があって、昔から人が住んでいた地域のようです。「堀江フラワー通り」、昭和30年代以前、かつて「漁師の町」として栄えていた頃の浦安唯一の商店会で、通りには映画館、日常雑貨の店、飲食店などが並びにぎわっていたそうです(→→→こちら)。フラワー通りといっても、こんな花屋さんがあるくらいかと思ったですが、よく見ると、道路の側溝の蓋に花の絵が、フラワー感ありますか?また、大きなお寺が。街角にちょっとした公園が、町の人が集まってなにかイベントがありそうですが、今日は浦安の町を「巡検」するのが目的の駅からハイキングなので、先を急ぎます。浦安の歴史と文化をめぐる散歩道が紹介されています。こちらの広場には、大きな木で隠れていますが、ちょっとお洒落な洋風建築の建物が隠れていました。「旧濱野医院」(→→→こちら)という建物です。浦安で最初の洋風建築物で、昭和4年に建てられたそうです。病院では、約20年前まで診療が行われていたんだとか。公開されて中を見学できるそうです。浦安にも歴史を感じさせる建物が残っていますね。堀江フラワー通りを更に歩いていくと、千葉県指定有形文化財の「旧大塚家住宅」(→→→こちら)がありました。この細い道を入って行きます。境川、随分狭くなっていますね。この川の脇に、旧大塚家住宅がありました。まだ、オープン前で中に入れませんでした。説明板がありましたが、ざっと言えば、「建築構造と様式の特徴などから江戸時代末期の建築と推定され、当時の浦安では比較的大きい家、また屋根裏2階があって、土間と玄関の天井から上がれるようになっていて、たび重なる水害の時には、ここに避難したり、家財道具をしまったりしていた」ということです。確かに、ここは川幅が狭くなっていて、水害は多かったでしょうね。フラワー通りに戻って、また古い建物が、「旧宇田川家住宅」(→→→こちら)です。明治2年(1869)、宇田川吉蔵によって建てられた木造建築物です。米屋、油屋、呉服屋、郵便局、診療所と商家として使われてきた建物です。商家遺構の少ない関東地方では特に貴重な建物といわれています。棟瓦の端部に付けられた鬼瓦にあるのは、宇田川家の家紋でしょうか。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その4) 堀江フラワー通りと古い建物
2022年03月04日
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浦安市健康センターの入口付近にあった看板です。かってはこのあたりに金魚の養殖池があったんですね(→→→こちら)。こちらにあったのは、浦安市民憲章です。豊かな伝統と美しい人情に恵まれた浦安市民は互いに手をとりあい、やすらぎのある緑と健康の海浜都市をめざす全市民の願いをこめてこの市民憲章を定めます。1.近隣を大切にし、思いやりのあるあたたかいまちにしましょう。1.自然を大切にし、緑あふれる明るいまちにしましょう。1.教養を高め、豊かな文化を育てうるおいのあるまちにしましょう。1.勤労を尊び、健康で若さあふれるまちにしましょう。1.善意を尊び、笑顔といたわりで心のふれあうまちにしましょうこちらの石像。二人の河童が舟に乗っています。「べか舟河童」という石像ですが、「河童連邦共和国 ふるさと浦安かっぱ村(→→→こちら)」という団体が管理しているようですね。浦安の漁村を舞台にした山本周五郎の小説「青べか物語」(→→→こちら)でも登場する「べか」は、海苔や貝を採るための長さ12尺(3.6メートル)、幅2尺8寸(84センチ)位の薄板で造った小舟のことです。「青べか物語」は、主人公が青く塗られた古びたべか舟を売りつけられたことから、物語が始まっていきます。また、この名前は東小学校の児童からの公募で決められたそうです。境川をきれいにするという「環境(かん・きょう)」をテーマに、魚を手に持っているのが男の子の河童で「かん君」、手をたたいて喜んでいる河童が女の子で「きょうちゃん」というそうです。境川に架かるこの橋を渡って、右岸側を歩いていきます。橋の上から、東水門を撮影しました。こちらは上流側です。この先は旧江戸川につながっています。このような歩道橋も架けられていました。この道は「しおかぜ緑道」(→→→こちら)という名称で、ここにあった水路を暗きょ化した上に建設された緑道です。境川には、お馴染みのカルガモや、このような大型のアオサギのような鳥も棲んでいて、鳥たちの餌となる魚や昆虫が境川の周辺にはいるということですね。こちらの橋は少し大きい橋ですね。手前にある黄色い帯のようなものは、浮遊ゴミを受け止めるものなんでしょうね。橋の親柱と説明用の看板です。江川橋と書かれた親柱の上にある彫刻は、やはり「べか舟」なんでしょうね。境川についての説明看板です。江川橋から上流部は川幅が狭くなっていました。お煎餅屋さんがありました、浦安で昔からやっているお店なんでしょうね。川幅の狭くなったところに架かる橋を渡ります。欄干には、往時の境川の風景の写真が掲げられていました。かっては漁師町だった浦安らしく、魚の干物を作っている写真でした。べか舟に乗って、漁に漕ぎ出す様子でした。かっての浦安の記憶を残すことで、郷土愛のようなものが醸成されていくのでしょうね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その3) 境川を歩く
2022年03月03日
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やたら大きな非常階段があるこちらの建物は、消防署の施設でした。この建物は浦安市集合事務所というそうです。市の関係の施設がここに集まっているようですね。ちょっと、小さな公園が住宅街の中にありました。「海楽南児童公園」です。浦安鉄筋家族(→→→こちら)という漫画に登場する公園だそうです。「浦安」、「浦鉄」、「浦筋」などとも略される「浦安鉄筋家族」というのは、浜岡賢次による漫画で、千葉県浦安市に住む過剰に元気な小学2年生・大沢木小鉄とその家族や友人たちの日常を描いたドタバタ系ギャグ漫画だそうです。テレビアニメやテレビドラマにもなったので、御存知の方も多いでしょうね。この先に見える大きな建物は、東京ディズニーランドの本社ではありません。浦安市役所だそうです。人口は約16.9万人の比較的小さな感じもしますが、総務省のホームページ(→→→こちら)によると令和2年度の財政力指数(→→→こちら)は、1.52。全国第6位になります。財政力指数とは自己財源を行政の必要経費で割ったものですから、支出を上回る収入があるというお金持ちではあるようです。ちなみに最下位は鹿児島県十島村の0.07だそうです。市役所の横には旧江戸川から分流され浦安市内を流れ東京湾に注ぐ境川(→→→こちら)が流れています。かっては漁業で栄えたところです、今でもレジャーボートなどの船着き場になっているのですね。東水門と呼ばれる境川に設置された水門です。この水門が東京湾の高潮から浦安の町を守っています。浦安市内を散策するための案内図ですが、ちょっと色褪せていて、よくわかりません。財政力指数1.52なんですから、こういう物も小まめに点検して欲しいですね。ちなみに、財政力指数が1.0を上回ると行政の必要経費、つまり学校の教科書が無償、道路整備費用、その他諸々の経費を自分で賄えるということで、地方交付税は交付されませんから、ギリギリ1.0の市町村は、案外苦しいのかも。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その2) 政治行政の中心
2022年03月02日
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昨年の11月14日に、JR東日本の駅からハイキングで企画された「『浦安鉄筋家族』ゆかりの地とまちなかさんぽ」で、千葉県浦安市を訪れました。浦安といえば東京ディズニーランドと思う方が多いでしょうが、そんなテーマパーク以外にも浦安には魅力的なものがあり、それらを紹介していきたいと思います。京葉線の新浦安駅から歩き始めました。駅前には、大きなショッピングモールがあって、生活するには便利なところと言う印象ですね。京葉線のガード下を潜り北の方へ、駅前には大きな集合住宅が沢山あります。歩道は広々して緑があって、いかにもニュータウン、新しい住宅街という印象ですね。歩道の途中に現れたスロープ。スロープを登りきると視界が広がりました。首都高速湾岸線を渡る陸橋の上からです。この先は東関東自動車道につながり、成田空港、鹿島神宮へ。湾岸線を越えて、大きな交差点に来ました。このあたりの地名は「海楽(かいらく)」。地名の由来を調べてみると、戦前、当地に遠浅の砂浜を利用した「海楽園」と呼ばれる潮干狩りの行楽地があったことから「海楽」とした。(→→→こちら)浦安には、もう戦前からレジャー施設があったんですね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その1) 東京ディズニーランドだけじゃない
2022年03月01日
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こちらも先週の駅からハイキング「自然と文学を感じる手賀沼散策コース」の復習です。先週訪れたJR東日本野球部柏野球場です。先週訪れた時は中に入れませんでしたが、今日は中に入ることができました。この野球場、東京ドームと同じ広さがあるそうです。柏野球場では、練習風景を見学できるそうです。もちろん練習や試合がない日は入場できません。練習に取り組むJR東日本野球部の選手。小学生の頃から野球一筋でやってきたんでしょうね。先週の駅からハイキング「自然と文学を感じる手賀沼散策コース」で見た時は準備中だったクリスマスの飾りつけが完成していました。そして、水戸街道(国道6号線)を渡って、我孫子駅北口に到着しました。ここ我孫子駅がゴールです。先週の復習がてら、我孫子駅の南口に行くと、かって我孫子に住んでいた、志賀直哉、柳宗悦などの文化人の集合写真の碑がありました。そして、最後は弥生軒の唐揚げそば(→→→こちら)を食べて、帰りました。【了】(自然と親しむ柏市のコースです)【了】人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その9) 先週の復習をしながらゴールの我孫子駅へ
2022年02月12日
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今日の東京は雪景色ですね。雪と言えば、今北京で冬季オリンピックが開催されていますが、その中でも花形といえば、やっぱりスキー。MoMo太郎のお姉さんもスキーが好きで、若い頃は志賀高原にスキーに行ってナンパされたという思い出を今でも自慢げに語ってくれます。まさに「愛に雪 恋は白」(会いに行き、恋はしろ)という青春を謳歌していたのですね。そんなおばさんの思い出話は置いといて、2021年11月28日に参加してきたJR東日本の駅からハイキング「駅周辺の賑わいと昔ながらの街道を楽しみながら自然と親しむ」の話を続けます。こちらがあけぼの山農業公園(→→→こちら)です。ここもすでに平成28年(2016)のゴールデンウイークに訪れているのですが(→→→こちら)、公園の中を歩いていくコースが設定されていたのと、新しい施設もあったようなので、ちょっと色々紹介してみます。広々とした芝生の広場、いいですね。移動販売のクルマもいて、遊んでお腹が減っても大丈夫。こちらの建物は令和3年3月12日にオープンした「あけぼのビーチパーク」というレストランです。喫茶店や売店がある建物です。味噌や豆腐、太巻寿司、手打ちそば等、加工や郷土料理を楽しみながら食品に関する知識、理解を深めることができる加工実習館です。亜熱帯植物が学べる温室です。会議室や研修室等を利用できる農業公園の本館です。こちらが正面の入口になります。あけぼの山農業公園のバス停です。このバスに乗ると我孫子駅へ行けます。ちなみにあけぼの山農業公園は柏市にあるのですが、バスの便は柏駅より我孫子駅から方が本数が多くて便利なようです。農業公園近くにあったイチゴの温室。温室を温めるために重油を使うのでしょうか。重油を燃やすことで二酸化炭素などの温室効果ガスを発生させるので、イチゴのハウスを温めるだけではなく地球も温めてくれる施設ですね。しかし、クリスマスやお正月に温室で栽培したイチゴを嬉しがって食べているとスウェーデンの環境保護活動家グレタ・トゥーンベリ(→→→こちら)さんになんて言わるんでしょうか。(自然と親しむ柏市のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その7) あけぼの山農業公園
2022年02月11日
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見事な日本庭園があり、紅葉が見事だったの撮影してみました。さて、ここが関東三大弁天の一つで「布施の弁天さま」として親しまれている「紅龍山布施弁天東海寺」です。三大弁天の残りの2カ所は、「上野寛永寺の弁天堂」と「江の島の江島神社」になります。寺号碑には布施弁天東海寺と刻まれていました。ここはすでに平成28年(2016)のゴールデンウイークに訪れているので(→→→こちら)、中には入らず外から拝むだけにします。お寺でありながら、鳥居があるのは、弁天さま(弁才天)が元来は仏教における智慧(ちえ)、弁舌、技芸の女神であったのが、日本では財産の神としての側面が信仰され、弁財天と書かれるようになり、また七福神の神様として、日本の神様である恵比寿様と同じような位置づけだからでしょうか。このあたりの融通無碍(ゆうずうむげ)というか曖昧(あいまい)さというか、外国のものを日本のものに解釈し直してしまうというのが、日本人の精神なんでしょうかね。(自然と親しむ柏市のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その6) 紅龍山布施弁天東海寺
2022年02月10日
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今回は布施弁天に向かいます。思えば、この一週間前参加した駅からハイキング「自然と文学を感じる手賀沼散策コース」と同じ目的地を目指すようです。布施弁天につながるこの道は布施弁天通りと言う名称です。途中で見かけたこの看板「富勢(とみせ)運動場」。富勢とありますが、知らなければ「ふせ」と読んでしまうかも。なかなか広いこの場所が、富勢運動場です。この運動場の住所は柏市根戸507です。布施通りをさらに歩くと、小学校がありました。小学校の名前も富勢小学校。ちなみにこの小学校の住所は柏市布施833-2。でも、「富勢(とみせ)」と名乗っているのはなぜなんでしょうか。ちょっと柏市富勢の歴史を調べてみると、明治22年(1889)、 町村制施行により、南相馬郡根戸村、同郡宿連寺村、同郡布施村、同郡久寺家村、そして印旛郡呼塚新田、同郡根戸村新田、同郡松ヶ崎村新田、同郡柏堀ノ内新田字一番割および水神前が合併したのですが、この中で布施村は、関係諸村中で圧倒的な大村であるため、新村名にその旧名を踏襲することを希望したが、他の村はそれを好まず、「布施」に音を通じて「富勢」村と命名することに決定したとのことのようです。さらに、昭和29年(1954)9月1日には「昭和の大合併」により田中村・柏町・小金町・土村と小金町が合併して、東葛飾郡の中央部に位置することから東葛市となることになったのですが、富勢村は、東葛市と我孫子町のどちらと合併するか揉めて、東葛市及び我孫子町への分村合併をするこことし、11月1日に富勢村は廃止され、東葛市と東葛飾郡我孫子町に分割されました。一方、東葛市ですが、小金町の方も田中村・柏町・小金町・土村グループと合併するか松戸市と合併するかのグループに分かれて揉めていたため、小金は柏と暫定的に合併した後に、改めて柏に残るか、松戸に移るかを住民の意思で決めるという次第でしたが、元から松戸市との合併を望む住民が多く、あっさり小金は東葛市から離脱しすることになり、10月15日に松戸市に編入されました、その際、小金の一部地域は“手切れ金”として東葛市に残したそうです。そんなことから、東葛飾郡の中央部という意味も薄れ、昭和29年11月15日には、名前を東葛市から柏市に変更したということです。東葛市、たった2ヶ月で終わったんですね。さて、この建物のあたりが、今回の駅からハイキングコースの中間地点のようです。布施新田という古い呼称が使われていました。一週間前、間違った道にやってきました。前回の駅からハイキング「自然と文学を感じる手賀沼散策コース」ではこの三叉路を右に行かなくてはならなかったのですが、間違って左にいってしまったのです。しかし今回の「駅周辺の賑わいと昔ながらの街道を楽しみながら自然と親しむコース」では左に進むのが正解です。(詳しくは→→→こちらをご覧ください)そして、一週間ぶりに前回と同じ大きな板碑のある四ツ辻にやってきました。(自然と親しむ柏市のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その5) 富勢(とみせ)から布施(ふせ)弁天へ
2022年02月09日
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手賀沼のほとりに沿ってしばらく歩いて、根戸城址通りを歩いて行きます。この台地の上に根戸城址のようです。根戸城(→→→こちら)は戦国時代に造られたと考えられている山城です。相馬胤光が築城して根戸氏を名乗ったという説や、太田道灌が築城したという説などがあり、築城者や城主については諸説あるそうです。我孫子市に残された唯一の城址で、昭和60年(1985)年に発掘調査が行われ、土塁や空堀など築城当時の全体像が把握できる遺構が良い状態で残っています。金塚古墳(→→→こちら)は5世紀前半に築造されたと考えられている 直径約20m、高さ2mの円墳もこの台地にあるそうです。昭和38年(1963)東京大学により発掘調査が行われ、墳丘に並べられた埴輪や、短甲や石枕といった副葬品などが出土し、県の指定文化財になっているそうでした。更に北に進んで常磐線のガードを抜けて、国道6号線を横断して行きました。日差し除けのあるお馴じみの電球式信号機に代わって、最近はこのLED式信号機が増えてきましたね。この道を進んで行くと、千葉県野田市につながるのですね。(自然と親しむ柏市のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その4) 根戸城跡・金塚古墳
2022年02月08日
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手賀沼のほとりにある柏ふるさと公園にやって来ました。このような遊具もあって子供連れにも楽しめる公園です。このような遊歩道もあり、ジョギングなども楽しめます。この遊歩道は自然豊かな手賀沼をの周りを巡る散歩道にもなっています。この鋼鉄のオブジェは、利根川と江戸川を結び手賀沼の水質浄化にも使われる北千葉導水路の導水管の模型だそうです。こちらの鉄の輪が連なるオブジェも、北千葉導水を記念するものでした。手賀沼に流れ込む大堀川です。この先が手賀沼になっています。木の上に鳥が止まってました。ムクドリのようですね。カワウも泳いでいます。こちらはハクチョウですね。このように鳥たちも集まって憩う公園でした。(自然と親しむ柏市のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その3) 柏ふるさと公園
2022年02月07日
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駅からハイキング「駅周辺の賑わいと昔ながらの街道を楽しみながら自然と親しむ」ということですから、柏を通る水戸街道に沿って歩きます。明治天皇柏御小休所碑の石碑がありました。明治天皇が行幸の途中でここでお休みになられたのですね。でも、お付きの人達も休んだのでしょうから、かなり大きな食堂か喫茶店があったんでしょうね。この道は、国道16号線です。この道を境に首都圏の都会と田舎が別れていると埼玉県在住の友達が言っていました。16号線を越えると、柏公園への並木道です。なかなかいい感じの散歩道でした。柏公園の裏に出ると、体育館がありました。結構立派な体育館ですね。高架になった道がありました。この橋を抜けると、柏ふるさと公園に出ます。(自然と親しむ柏市のコースです)人気ブログランキング常磐線沿線物語 柏編(その2) 水戸街道
2022年02月06日
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駅からハイキング「駅周辺の賑わいと昔ながらの街道を楽しみながら自然と親しむ」に2021年11月28日に参加してきました。その時の報告です。やって来ました柏駅。ここ柏駅からスタートです。駅前にこんなアケードのある商店街があったんですね。そして、最初の目的地はここ柏神社(→→→こちら)です。訪れたのが去年の11月でしたから、七五三の案内が出ていました。柏神社は、天王様と親しまれ、山形県の月山神社・湯殿山神社、羽黒山にある出羽神社(イデハジンジャ)の三神合祭殿の神々からなる御祭神と京都市の八坂神社の御祭神を祀っています。江戸時代に柏近辺で流行した疫病から人々を救うために、厄除けとして名高いスサノオノミコトを境内に祀ったのが始まりと言われているので、御祭神をスサノオノミコトとする八坂神社から神様をお迎えしたのでしょうね。江戸時代、柏市域の一部は小金牧といわれた幕府直轄の馬の放養地、供給地だったそうで、当時の水戸街道はこの牧の中を通過していました。水戸街道は、水戸藩士の通行や人々の物資の輸送などに使われた重要な道でした。そのため牧と村の出入り口には木戸を作り、人々の往来を確保し、無宿者や浪人者などにも対処するための関所の役目も果たしていましたそうです。。(自然と親しむ柏市のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 柏編(その1) 柏神社
2022年02月05日
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この建物は我孫子市鳥の博物館(→→→こちら)です。山階鳥類研究所が昭和59年(1984)、我孫子市に移転したことをきっかけとして平成2年(1990)に開館した我孫子市の施設です。手賀沼沿いを東に向かって歩き、この藤棚のがあるところに来ました。手賀沼のほとりから離れこの階段を登って行くと、高野山桃山(こうのやまももやま)公園(→→→こちら)があります。ここは手賀沼の眼下に見下ろす南向きの丘陵地で、手賀沼の絶好のビューポイントになります。ここで手賀沼に別れを告げて、北の方に向かいます。この線路は利根川右岸を通って我孫子と成田を結ぶ成田線我孫子支線です。明治34年(1901)に開業した路線で令和3年(2021)には開業120年を迎えています。そして、常磐線の駅舎が見えてきました。天王台駅です。ここが今回の駅からハイキングのゴールとなります。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【了】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その15) 高野山桃山公園
2022年02月03日
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手賀沼の湖面に竿が立てられていました。張り網というものでしょう。ところで、手賀沼には手賀沼漁業協同組合と我孫子手賀沼漁業組合というのがあるようです。漁業権とかあるので釣りをする人には要注意ですね。この橋は、手賀大橋(→→→こちら)です。この橋は平成13年(2001)に旧手賀大橋が架け替えられて完成した橋ですが、昭和39年(1964年)に旧手賀大橋が完成するまでは、手賀沼では17ヶ所とも数えられた渡し場があり、「江間(えま)」と呼ばれる船溜(ふなだまり)が設けられていて、人や物資の輸送を行っていたそうです。そのような状況の下、昭和19年(1944)には周辺の小学校の女子教員らを乗せた船が転覆し、18人もの犠牲者を出す遭難事故も発生したそうです。橋ができ安心して沼を渡ることができるようになったことは我孫子やその周辺に住む人たちや地域の発展にとって大変重要な事だったんですね。11径間連続上路式鋼アーチ橋で、全長は415m。千葉県立印旛手賀自然公園内に架設されることから、環境との調和を考えたデザインになっているそうです。この建物は「水の館」(→→→こちら)です。プラネタリウム、農産物直売所、レストランや展望室があります。展望室から見た手賀沼です。手賀沼親水広場には広い駐車場があります。手賀沼の面積は約6.5平方Km2(東京ディズニーリゾートの約6.5倍)、周囲約38Kmの広い沼です。前回のブログで紹介した手賀沼の河童像です。手賀大橋です。こちらは、水の広場。展示されているのは「アルキメデスの無限螺旋」の模型でしょうね。この螺旋の回転によって上方に運び上げた水を落とし、水車を回転させ、それを動力として螺旋を回すというアイデアで、永遠に動き続ける装置ということですが、実際は摩擦などのエネルギーロスが発生するので、永遠に動き続けることはできないですね。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その14) 手賀沼親水広場・水の館
2022年02月02日
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我孫子は、やっぱり北の鎌倉と言われるだけあって、こんな立派な家が今でも残っているんですね。そして、この大きな広場がある湖畔に出ました。近くには手賀沼を跨ぐ手賀大橋(→→→こちら)がありました。ここは取手市手賀沼親水広場という施設です。こちらの桟橋は、我孫子手賀沼漁業組合の桟橋ですが、ヨットクラブも利用しているようですね。湖畔の遊歩道を歩いて行くと、手賀沼の水面を優雅にスワンボートが走っていました。少々くたびれた感じのスワンボートでした。こちらにいるのは、ズームしてみると河童たちでした。手賀沼には河童が棲んでいるという伝説があり、我孫子市では毎年8月にカッパ祭りが行われ、昔から河童は市民に親しまれています。こんな歌もあって、我孫子駅の発車メロディにも使われているそうです。しかし、手賀沼の河童伝説どんな内容か調べてもわかりませんでした。むかし利根川には、禰々子(ねねこ)(→→→こちら)と言う河童の女親分が住んでいがたそうですが、江戸時代の川奉行・加納家の人に生け捕りにして改心させたと伝わっていますが、ちょっと違うのでしょうね。ちなみにこの河童像、ブロンズ像ではなく強化プラスチック製だとか。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その13) 手賀沼の河童
2022年02月01日
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ハケの道をさらに歩くと、この木戸があります。説明パネルによると「旧村川別荘」(→→→こちら)というところです。大正から昭和にかけての別荘地としての我孫子の様子をよく残すことから市の指定文化財になっています。こちらが、母屋です。村川一家はこちらの建物で、食事や入浴などの生活空間として使っていたようです。母屋は、大正10年(1921)に我孫子宿本陣の離れを解体、移築したもので、当初は茅葺屋根でしたが後に瓦葺屋根に直しています。建物は、江戸の佇まいを残す純和風建築です。この別荘地も背後のハケと呼ばれる台地の斜面に建てらていて、このように階段があり、台地の上に登っていけます。台地の上にはベンチがあり、展望ができるようになっていました。この別荘が造られたのは、今からおよそ100年前、我孫子にはまだ電気も通るか通らないかのころです。別荘からはこのような手賀沼を一望できたのでしょう。でも今は庭園の木が繁茂し過ぎで、沼を見る眺望は・・・。こちらが新館と呼ばれる建物で、昭和2年(1927)から翌年にかけて斜面地を活かして建てられたものだそうです。内部はこのようになっていて、寄木のしゃれたフローリングなど外観の和風とは違い、洋式に造られていました。この別荘の持ち主は、村川堅固(→→→こちら)という西洋古代史を担当する東京帝国大学教授でした。また、昭和になって長男の村川堅太郎(→→→こちら)に引き継がれました。村川堅太郎氏も父親と同様に西洋史を専攻する東京帝国大学教授でした。さらに学術書だけでなく、エッセイストクラブ賞を受賞した紀行随筆「地中海からの手紙」も著作され、山川出版社から出版された「高校世界史教科書」もあり、なかなか文才にも恵まれた方のようです。それにしても、昔の東京帝国大学教授はこんな別荘を持てるほど高い給料をもらっていたんでしょうか。ハケにある別荘なので、やっぱりここにも湧水を利用した池が造られていました。【追補】昨日、投稿した「常磐線沿線物語 我孫子編(その11) ハケの道」について、以下のような指摘を受けました。>台地の崖をハケ>関東でも一部の地域での言葉ではないかと思います。MoMo太郎が調べたところ精選版 日本国語大辞典「はけ」(→→→こちら)の解説では「〘名〙 北海道・東北、関東から西の方にかけて、丘陵山地の片岸をいう地形名。地名になったものも多い。※武蔵野夫人(1950)〈大岡昇平〉一「土地の人は何故そこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」という記述がありました。ただ専門家ではないので、詳しくはわかりませんが、「ハケ」が正式な地形学や地理学の術語かどうかはわかりません。しかし、「ハケ」という語素を含む地名の例もかなりあることから、日本で地形を表す俗称として広く認知されていると思われます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その12) 旧村川別荘
2022年01月31日
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古びた看板で文字も剥げかかっていましたが、多分「富桝旅館」と書いてありました。今も営業しているのでしょうか、手賀沼が眺められる旅館なんでしょうね。階段のところに「瀧井孝作仮寓跡(寿古墳公園)」の案内柱がありこの階段を登ると古墳跡があるのでしょうが、立ち寄るのは省略しました。この傍の道沿いに小さな公園があって説明パネルが立っていました。パネルには「ハケの道と湧水」と書かれていました。パネルには以下のことが書かれていました。関東地方では台地の崖を「ハケ」と呼びました。「ハケ」下のあたりは平坦で、安定していることから、集落と集落をつなぐ道である「ハケの道」が作られ、古くから人々の生活道として機能していました。白樺派の文人たちもハケの道を往来し、友情をつないでいました。また、「ハケ」からは台地に降った雨が浸透して染み出し、豊かな「湧水」が作られました。湧水はハケの道沿いの水田の水源として利用されたほか、台地から手賀沼へとつながる生態系を形成、維持してきた点でも重要です。我孫子のハケの道沿いには、かつてはあちこちに湧水が見られましたが、台地上のアスファルトで覆われ、斜面林が少なくなると、湧水も減っていきました。その中で、当地の寿古墳公園(瀧井孝作仮寓跡)下の湧水は、東側80mの旧三谷別荘下の湧水とともに現在も比較的安定して水が湧き出しています。我孫子市では湧水の持つ歴史的、自然的な意義を評価し、2か所の湧水が市民に親しまれるよう再整備しました。なお、この湧水は飲用には適しません。また、説明文の下には昭和初期の我孫子と文人の住まいの図、旧村川別荘から子ノ神大黒天付近の「ハケの道」と水田(昭和初期)の写真がありました。ここは枯れることもなく水が湧き出ていました。さらに東に100メートルも行かないところにも湧水痕のようなものがありました。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その11) ハケの道
2022年01月30日
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大正煎餅と書かれた昭和感満載の煎餅屋の木川商店(→→→こちら)がありました。さらに西に進むと、白い変なオブジェを展示しているちょっと変わった感じの建物がありました。我孫子白樺文学館(→→→こちら)です。柳宗悦(むねよし)・志賀直哉・武者小路実篤(さねあつ)などの白樺派と呼ばれる文学者が手賀沼のほとりに集まって住み文学活動を行ったことを次代に伝えるためにつくられた記念館だそうです。白樺派(→→→こちら)とはなんなのか、ちょっと調べてみました。狭義には、雑誌「白樺」(明治43年(1910)4月-大正12年(1923)8月)の同人、有島武郎、武者小路実篤、児島喜久雄、柳宗悦などからなる、華族および華族に準ずる階層の文学者たちを指すそうです。また、広義には「白樺」に影響を受けた、文学者、美術家、そして無名の青年たちを含むそうです。これらの文学者、芸術家らは、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げていたのが特徴でしょうか、別に白樺(シラカンバ)の木を愛好していた集団ではないことは確かですね。この我孫子白樺文学館と通りを挟んだ向かい側に、志賀直哉邸跡がありました。志賀直哉邸跡は白樺の木がない木立の中にあるようです。白樺派といってもみんな白樺の木が好きではなかったようですね。ここに志賀直哉が住んでいた家があったのですね。志賀直哉は、我孫子以外にも東京は勿論のこと、尾道、松江、京都、奈良などにも住んでいたので、ひとところに落ち着けない性分だったのでしょうか。転居することで創作意欲が刺激され色々な小説ができたんでしょうね。ここに母屋が建っていたようですね。間取りなども紹介されていました。コンクリート床の上にはそれぞれの位置が示されていました。色が変わっている所が壁ですね。我孫子に集っていた白樺派の人達のことも紹介されていました。相関図などもあって誰と誰が仲が良かったのかとかわかります。手賀沼のほとりに住んでいて、みなさん交流があったようですね。また、白樺派の文人たちのエピソードも紹介されていました。ここは手賀沼北岸の台地の斜面下で、「ハケ(捌け)」と呼ばれる地下水がしみだす場所にあるため、湧水がありました。志賀直哉家ではこの水を使って生活していたんでしょうね。「城の崎にて」「小僧の神様」「暗夜行路(前編)」など志賀直哉が我孫子時代の作品はこの書斎で執筆されたそうです。平成23年に市の指定文化財になっています。茶室風の趣味の良い日本家屋なんでしょうね、白樺も使われているのでしょうかね。ちゃんとトイレも付いてますよ。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その10) 白樺派とは~志賀直哉邸址to
2022年01月29日
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手賀沼公園の中をさらに歩いていくと、大きな石碑がありました。血脇先生謝恩之碑という石碑です。この石碑、元は我孫子駅前にあったものが市街地の整備によりこの地に移設されたことが、東京歯科大学の名前で記されていました。血脇先生謝恩之碑は、かなり大きな石碑です。血脇先生とは血脇守之助(→→→こちら)のことで、我孫子出身の守之助は、弱冠12歳で上京しいくつかの学校に通った後、新聞記者、英語教師を経て、高山歯科医学院に入り歯科医となります。そして、高山歯科医学院の 経営を受け継ぐと、東京歯科医学専門学校への昇格を果たし、現在のように高等教育機関で歯科医が養成される仕組みの先駆となりました。このことが、戦後の東京歯科大学創立につながります。このように歯科医の地位向上に尽くした立派な先生です。また、野口英世の恩人としても知られています。会津で出会った野口英世が守之助を頼って上京ししてくると、高山歯科医学院の寄宿舎に住まわせて仕事を与え、アメリカ留学に当たっては渡航費用を工面したそうです。それ故に、このような大きな石碑が建立されたのでしょうね。この説明板に碑文が書かれてました。血脇先生謝恩之碑 (碑面) 従三位 池田成彬題額血脇守之助先生の歯科界に於ける多年の業績は茲に呶々を要せず歯科医育の独 立歯科医師制度の確立歯科医師会の設立等々で斯道の向上に資すべき経綸施設 一として先生の指導補翼に成らざるものなしと云ふも過言にあらす先生の功業 は我歯科医術発達の歴史と共に永世不巧なりと云ふべし先生高山歯科医学院を継承し育英の業を主宰すること既に40年に及ぶ今や先 生の門下歯科に業を立つる者8000人中に最高学位を帯び又は名声一世に高き者 数十百人を算すべく桃李 門亦一代の盛事なり先生天資温厚姿度広大頗る大人の風あり晩年易を好み造詣甚だ深し又能く時務 に通じ経済に明かにして経世家の素質に富む人或は功名場裡に擁せんとするも のあるも先生初志に殉ずるを以て任とし敢て動かず終始一貫力を歯科界に效し て老の至るを知らざる者の如し先生茲に古希を越えること1歳時偶々東京歯 科医学専門学校創立50周年祝典挙行の佳辰に会す即ち後進子弟 謀り先生生 誕の地を選び碑を建て文を勒し其寿康を祝し併せて謝意の意を表す 紀元二千六百年十一月二日 従四位勲二等木下謙次郎撰こちらの石碑は、イギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られるバーナード・リーチ氏'→→→こちら)のものです。この石碑には、リーチ自作の詩と陶芸の図柄に好んで描いた、さすらいの修道僧が刻まれていました。I have seen a vision of the marriage of East and West. For off down the halls of time I heard a childlike voice How long? How long?「私は東洋と西洋の結婚する姿を夢見続けてきた。時の流れのはるか彼方から子供の声を聞いた。 それは いつのまで掛かるの? いつまで掛かるの?」(訳 MoMo太郎)バーナード・リーチ氏は明治20年(1887)に香港で生まれたイギリス人で、幼児期は日本で過ごしたそうです。帰英後は、ロンドン美術学校などでエッチングを学び、明治42年(1909)日本への憧れを強くし再来日、上野桜木町に居を構えてエッチングを指導し、入門してきた柳宗悦ら白樺派の人々と親交を結び、さらに千葉県我孫子の柳宗悦の住む三樹荘に窯を築くなど日本国内で作陶を始めた人物です。大正9年(1920)陶芸家の濱田庄司を伴って帰英、コーンウォール州セント・アイヴスに日本風の登窯を築き、大正11年(1922)にはリーチ工房を設立し生涯の拠点とした。昭和47年(1972)まで制作を続け、昭和54年(1979)に亡くなりました。昭和38年(1963)に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章し、昭和49年(1974)には国際交流基金賞を受賞しています。こちらの石碑にはリーチ氏の功績が紹介されていました。しかし、我孫子市には多くの文化人とか芸術家の足跡があるのですね。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その9) 血脇守之助とバーナード・リーチ
2022年01月28日
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天神坂を下り手賀沼のほとりに向かいます。手賀沼公園(→→→こちら)がありました。手賀沼のほとりにあるこの公園、このようにボート乗り場あり、種類もさまざまで、スワンボートや少し大きめの遊覧船、釣り船などもあります。ボートに乗らずとも手賀沼の周りを散策して水と緑の景観を楽しむこともできます。手賀沼は、昭和30年頃まではウナギなどの漁獲が多い清澄な沼であった。水底が透けて見え、子供たちは沼で泳ぎ、漁師は船上から沼の水をすくって飲んだほどだったそうです。その後の高度経済成長による周辺の都市化に伴い、手賀沼に注ぐ大堀川と大津川に生活排水や産業排水が流された結果、沼の水質汚濁と富栄養化が進み、かっては水質がワースト1位ということでした。しかし、利根川のきれいな水を入れる北千葉導水路事業(→→→こちら)などによる努力が実を結び、、環境省による令和元年度公共用水域の水質測定結果では、手賀沼の水質は全国ワースト3位とやや改善の兆しが見えてきました。公園の中にこのようなモニュメントがありました。「平和の記念碑」というもので、昭和60年(1985)12月、広島市から原爆で被爆した旧市庁舎の側壁と敷石を我孫子市原爆被爆者の会が譲り受け、翌年8月に市が建立したものだそうです。そして、毎年8月に平和の記念碑前で、我孫子市原爆被爆者の会とともに、平和祈念式典を開催しているそうです。「平和の灯」と名付けられた石碑とともしびがありました。ここに広島平和記念公園にある「平和の灯」から火を譲り受け、平成27年(2015)8月15日に、その年の広島派遣中学生の手により、手賀沼公園に点灯しました。この灯は、地球上から核兵器がなくなるまで燃やし続けるそうです。公園内を散策しみると、踏切がありました。これは、手賀沼公園のアトラクションである手賀沼公園ミニ鉄道のものです。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その8) 手賀沼公園
2022年01月27日
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大正時代から昭和初期にかけて我孫子は「北の鎌倉」と称されるほど、多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持っていたそうです。その中の一人に柔道創始者で、講道館を開き柔道の普及に努めた嘉納治五郎(→→→こちら)もいたそうです。その跡地が天神山緑地として公園となっています。嘉納治五郎別荘跡地の説明板がありました。我孫子には明治44年(1911)に別荘と農園を構えたほか、杉村楚人冠(ジャーナリスト)や村川堅固(西洋古代史学者)らと手賀沼保勝会を結成して、環境保全運動と手賀沼を活かした町おこしに尽力したそうです。生誕160年にあたる令和2年(2020)に市民団体の寄付により建立された銅像です。こちらは東京都文京区にある講道館前にある嘉納治五郎の銅像です。同じ型から制作されたんでしょうかね。そっくりです。このような書が我孫子に残されているんだとか。「力必達(つとむればかならずたっす)」「鏡為人以(ひとをもってかがみとなす)」なるほど、生き方の参考になりますね。ロンドンオリンピックで日本男子史上初の金メダル0個という結果に終わった柔道男子日本代表監督だった篠原信一(→→→こちら)さんなんか、この言葉の意味を噛みしめて指導されていたんでしょうね。別荘地からは手賀沼の景観が楽しめますが、往時はこんな感じで手賀沼を眺められたのでしょうが、今は、ちょっと周辺の木も大きくなって視界を遮っていて、ちょっと残念です。もう少し、枝を落とすなどの手入れをして景観を楽しめるようにしてもらいたいです。富士山なども見ることができたとそうですね。嘉納治五郎別荘跡地の向かい側にあった青い南欧調の屋根の邸宅は「三樹荘」と呼ばれる思想家、美学者、宗教哲学者として知られる柳宗悦(→→→こちら)邸宅跡です。今は現在は歌人の村山祥峰氏邸となっていて公開はされていないそうです。やっぱり、こんなお洒落な家は文化人と呼ばれるような人が住むもんですね。嘉納治五郎別荘跡と三樹荘の間にある天神坂と呼ばれる坂道を下っていきます。「三樹荘に 夢をつむぎし文人の 足跡しるす 天神の坂」と記された石版が坂の途中にありました。村山祥峰さんの歌なんでしょうね。更にこちらの石板には、天神坂の記かつて我孫子が、北の鎌倉と言われた大正時代、文人達の集った三樹荘と椎の実の降る天神坂は、彼らがこよなく愛したという。耳をすますと、往時の人々の声が、足音が、轆轤(ろくろ)の軋しみが、聴こえてきそうである。この度、市がこの様な石段となし、私たちの憩いの道として整備された。遠き日の三樹荘が天神様の境内であった歴史の道、文学の径を私たちも愛し、守っていきたいと思います。平成5年春 三樹荘主 村山祥峰と記されていました。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その7) 嘉納治五郎の別荘もありました
2022年01月26日
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我孫子市杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)記念館(→→→こちら)にやってきました。旧杉村楚人冠邸をそのまま利用した記念館のようです。こちらが、記念館の建物で、杉村楚人冠邸の母屋をそのまま利用したそうです。入場料が300円だそうです。また、近隣の白樺文学館・鳥の博物館との3館共通券だと500円です。また庭園にはいろんな樹木が植えられていて、杉村楚人冠と言う人の趣味が活かされた庭園のようです。この竹林、春にはタケノコが採れそうでいいですね。さらに歩いてゆくと楚人冠公園というのがあり、杉村楚人冠碑という石碑が建立されています。楚人冠碑には、陶製の碑で、楚人冠の詠んだ「冬晴れの 筑波見ゆ 洪(おお)いなる空に」という句が刻まれていました。でも、本当は「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と読むのが正解だそうです。いずれにしても俳句の五・七・五になっていないところが、秀作たる理由でしょうかね。杉村楚人冠の人物の紹介がここにありました。杉村楚人冠(本名・広太郎)は、明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。日本で初めて新聞社に調査部や記事審査部を設け、新聞の縮刷版を企画、発行するなど、先進的な新聞人でした。また大正12年(1923)の関東大震災を契機に翌年に我孫子に移住し、我孫子ゴルフ倶楽部の建設を町長に進言したり、手賀沼の干拓に反対し景観保護活動に取り組むなど、風光明媚な郊外の住宅地、観光地としての我孫子の発展に尽力したそうです。また、主宰した俳句結社「湖畔吟社」をはじめ、地元文化の育成に努めたそうです。こちらは楚人冠と我孫子とのかかわりを説明しています。MoMo太郎、この杉村楚人冠という人初めて知りましたが、現在でいえば、池上彰とか立花隆みたいな人だったんですかね。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その6) Who is 杉村楚人冠
2022年01月25日
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我孫子市は、江戸時代より水戸街道・我孫子宿の宿場町として栄えていた町だそうで、市街地を通る国道356号線(旧成田街道)沿いに本陣の跡がありました。本陣の建物は残っておらず、マンションが建っていました。近くにある防犯ステーションです。ここに水戸道中と我孫子宿の町並みについての説明がありました。こうしてふるさとの歴史を知ることで住民に郷土を愛する心を養ってもらうということは大切だと思いました。「防犯 ステーション」とは、警察の交番の統廃合で使われなくなった建物を市民の防犯 拠点とする取り組みです。昼間、市民ボランティアが常駐し、道案内の対応や子供の下校時の見守りにあたるそうですが、日曜日はお休みでした。防犯ステーションの横には「従是子之神道」というの大きな角柱石がありました。子之神大黒天(→→→こちら)へ行くための道標だったんでしょうね。この角柱石の横にある案内板を頼りに歩いて行きます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その5) 我孫子宿本陣跡
2022年01月24日
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かなり古くて大きなお宅です。古くからある農家なんでしょうね。このあたりは台地の上で水の便が悪いのでしょう。畑が続きます。そして、この細い坂道を下ると。我孫子二階堂高校(→→→こちら)が見えてきました。こちらは付属の二階堂幼稚園です。いずれも日本女子体育大学を経営する学校法人二階堂学園の経営です。ちなみに東京にある日本女子体育大学付属二階堂高校は女子校ですが、こちらの我孫子二階堂高校は男女共学です。また二階堂というのは、大学の創設者で女子の体育指導者・教育者であった二階堂トクヨ(→→→こちら)からきています。このあたりも我孫子市久寺家なんですね。さらに沢山の建物が見えてきました。左手にも学校の校舎がありました。こちらは我孫子高等技術専門校(→→→こちら)です。いわゆる職業訓練校ですね、こういうところで技術を身に着けて活躍している人も多いことでしょう。こちらは中央学院大学(→→→こちら)です。箱根駅伝によく出ているので、名前は知っていましたが、ここにあったのですね。立派な校舎ですね。きっといい学校なんでしょうね。明王山寶蔵寺(→→→こちら)というお寺があります。ここにはかって久寺家城(→→→こちら)があったと伝わっているそうです。再び国道6号線を渡ります。ここは歩道橋ではなく地下道で渡ります。そして、常磐線のガード下を抜けて、手賀沼のある我孫子駅の南側に出ます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その4) 我孫子の文教地区>
2022年01月23日
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住宅街を抜けると畑が広がるところに出ました。次の目的地は「あけぼの山農業公園」(→→→こちら)です。実はMoMo太郎以前平成28年(2016)5月にここを訪れたことがありました(→→→こちら)。ということで、渡された駅からハイキングのコースマップを確認せずにこの標識を見て歩いて行きました。途中、こんな広告オブジェを作っている会社があったりして、結構楽しんで歩いていたのですが、ここに来て、道を間違えていることに気がつきました。本当は最初に見た畑の中を突っ切っていく道を進まなければならなかったのです。立派な顕彰碑でしたが、これを確かめる余裕もなく、慌てて、布施弁天の方へ歩いて行きました。この綺麗な日本庭園を抜けて、こちらが布施弁財天のある紅龍山布施弁天東海寺です。こちらも平成28年(2016)5月に訪れていますので、どんなお寺かは過去のブログ記事(→→→こちら)で確認して下さい。そして、あけぼの山農業公園に出ました。風車があって長閑な風景ですが、11月ということもあって花なども咲いておらず、ちょっと寂しい次第です。こちらが公園の案内図です。色々あって楽しめそうですね。しかし、のんびり見ていることもせず次に進みました。なんといってもメインの手賀沼へ急がなくては。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その3) 布施弁天とあけぼの山農業公園
2022年01月22日
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この建物は、JR東日本野球部柏合宿所でした。野球部の皆さん、ここで合宿しながら野球の練習しているのですね。練習がない時はJR東日本の社員として駅員さんとか会社の事務とかやっているんでしょうね。そういえば、歌手の藤井フミヤは、チェッカーズでデビューする前は、国鉄職員で貨物列車の操車・入換業務に従事していたそうです。JR東日本野球部は1920年に東鉄野球部として創部され、今年で創部102年を迎えた伝統ある強豪社会人野球チームです。会社の野球部が活躍すると社員の士気も上がるのでしょうね。その野球部が練習場として使用する野球場があるので、そこが「駅からハイキング」のコースになっているので行ってみました。こういう人気のない雑木林の中の道を歩いて行くと、ちょっとお洒落な建物がありました。ここは「マザーズガーデン」という特別養護老人ホームです。そしてその向かい側に、JR EAST JAPAN BASEBALL TEAM と書かれた建物があり、JR東日本野球部柏野球場がありました。ここで、観戦可能なゲームが掲示されていました。こういう時に来れば、試合が観れるんですね。近所の野球ファンにはうれしいですね。この奥にグランドがあるみたいでしが、この日は中に入れませんでした。この後、さらに歩いて行くと、いつの間にか「柏市」に入っていました。高級住宅街の中を歩いて行きます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その2) JR東日本野球部
2022年01月21日
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2021年11月21日の日曜日に参加した駅からハイキング「自然と文学を感じる手賀沼散策コース」は、ここ我孫子駅から始まりました。我孫子駅、初めて降りました。大きな集合住宅もあり、ベッドタウンという感じですね。道路標識、どうしたらこんなに損傷するのでしょうか。国道6号線の交差点です。歩道橋の上から取手方面を撮影しました。通行量は多い道ですね。訪れたのは11月21日、町の人がクリスマスの飾りつけをしていました。こういうものでちょっと気分も明るくなれそうですね。下総台地の上に我孫子市があり、なだらかですが起伏に富んでいます。このあたり久寺家(くじけ)という地名のようですね。「くじけ整骨院」、「久寺家」か「挫け」かどちらを当てるのでしょうか。MoMo太郎は、くじけず歩き続けます。(自然と文学を感じる手賀沼散策コースです)【つづく】人気ブログランキングへ常磐線沿線物語 我孫子編(その1) 久寺家(くじけ)ないぞ
2022年01月20日
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京都で友達と旧交を温める集まりがあったので、京都に一泊した。駅ビルが出来るまでは、新幹線で京都に停車する時、この京都タワーが見えたていたような気がするが、今では見えないので、京都タワーさんお久しぶりという感じでした。タワーの高さは131メートルあり、京都市内では最も高い建造物だそうですが、東京タワーや通天閣とは違い、鉄骨ではなく鋼板の円筒で出来ているそうだ。通天閣のように塔に広告をつけないのが京都の町の風格というものなのでしょうか。翌日、東京に帰る前に、京都駅ビルにある空中経路から、改めてタワーと京都の町並みを眺めてみました。京都では伝統的に「東寺の塔よりも高いものは建てない」ことが不文律となっており、高層ビルもなく、このタワーが一番高い建造物のなんですね。平安時代中期970年の書『口遊』(くちづさみ)には当代の建物の大きさ比べで、「雲太 和二 京三」とあり出雲の大社が一番、次いで大和東大寺の大仏殿、3位が京都平安京の大極殿となってますが、今だと、この京都タワーは、3位にはならないでしょうね。人気ブログランキング昔は「雲太 和二 京三」だったけど京都タワーは
2022年01月19日
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常磐線のガード下の壁に描かれた「COLORS OF LANDSCAPE」という題名の壁画です。取手市では、「壁画によるまちづくり」(→→→こちら)に取り組んでいるそうで、この絵もその一環で制作されたそうです。イメージとしては利根川なんでしょうか。この珍妙な物体は、宇宙人?こちらは利根川を渡る船なんでしょうね。常磐線の擁壁にも壁画がありました。まあ、壁画といえば壁画、そう言われないと、バンクシー(→→→こちら)気取りの輩が描いた単なる手の込んだ落書きのような。色んなテーマで壁画が描かれていますが、これに飽きたら消して、また次の作品を描いてくれるのでしょうか。それとも、このままずっと残すのか。残す価値のある壁画なのか。わかりませんけど。これは利根川の河原で生活する人の様子なんでしょうか。そんなアートに力を入れている取手市の取手駅にあるアトレ取手の4Fにある「たいけん美じゅつ場ViVa」です。芸術に触れられる交流スペースで、東京藝術大学所有の卒業作品の展示やワークショップをやっているそうですが、MoMo太郎が行った時には展示スペースは閉まっていましたし、ワークショップもやってませんでした。やる気あるんですかね、東京藝術大学。それとも新型コロナウィルスの感染を恐れて展示やめているのかな。ということで、取手駅西口改札から常磐線に乗って帰りました。(アートのまち取手のコースです)【了】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その9) 壁画といえば壁画かも
2022年01月16日
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承平元年(931年)に平将門の勅願所として建立と伝わる長禅寺(ちょうぜんじ)(→→→こちら)に参詣します。臨済宗妙心寺派に属する寺院で、この説明書きを読むと、なるほど、なかなかの名刹なようですね。昭和25年05月10日茨城県告示第211号の茨城百景(→→→こちら)になるのですね。長禅寺のあるの場所は利根川左岸を北西端の古河市から坂東市・守谷市・取手市、南東端部は利根町北部にのびる猿島台地の端部になるのでこのような急な石段があるのでしょうね。石段の途中にある石柱には、東京の人からの寄進されたものも多くみられ、このお寺が広く信仰されていたことがわかります。重層四脚門の古い佇まいの山門です。相馬霊場総本山の看板が掛かってるのは、新四国相馬霊場八十八ヶ所(→→→こちら)とは取手市及び千葉県我孫子市、同じく柏市にある四国八十八ヶ所霊場の写し霊場のことで、ここが一番、五番そして八十八番の札所であることを示しているのでしょう。ちなみに相馬郡というのはかって千葉県と茨城県にまたがる下総国相馬郡のことで、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将千葉常胤の代に二男の相馬師常が治めていた土地であったそうです。現在福島県に存在する相馬郡は、中世下総国相馬郡より起こった千葉氏の一族相馬氏に由来するもので、こちらが本家の相馬郡になります。これで「大鹿山」と読むのでしょうね。大鹿山というのは、創建当時は旧大鹿村(現在の取手市白山地区、取手競輪場近く)にあったことに由来するのでしょう。そして、江戸時代初期に水戸街道が整備され取手宿が整備されると、この地に移ったそうです。この建物が茨城県指定文化財の長禅寺三世堂(→→→こちら)です。外観は2層ですが内部3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっているという不思議な作りの建物です。新四国相馬霊場八十八ヶ所の札所ということなのでしょうか、大師堂があります。臨済宗という禅宗のお寺なので、四国霊場八十八カ所に祀られる弘法大師ではなく、臨済宗の開祖、無相大師が祀られているのでしょうか。取手大師と書かれた提灯が吊り下げられていました。こちらが社務所です。隣の建物が本堂になります。本堂の前にある噴水のある池。木立に隠れていますが、こちらが本堂です。扁額には長禅と書かれていました。台地の上から利根川の景色が眺められるかと思いましたが、木立とビルに遮られて眺望は茨城百景ではなかったかも。そして、この急な石段を下って、取手駅に向かいます。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その8) 大鹿山長禅寺
2022年01月15日
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取手は水戸街道の宿場町だったそうですね。この道がかっての水戸街道になります。ということで、旧取手宿本陣染野住宅(→→→こちら)が残っています。茨城県指定文化財です。本陣とは、江戸時代の宿場町で、身分が大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡らが利用した宿屋さんですね。こちらが染野住宅の表門になります。取手市教育委員会による旧取手宿本陣染野住宅の説明がありました。千住と水戸を結ぶ水戸街道の取手宿は、千住から数えて6番目の宿場になります。貞享4年(1687)、代々取手宿の名主である染野家は水戸徳川家から本陣に指定され、歴代の水戸藩主をはじめ多くの大名や武士たちが、宿泊や休憩に利用していたそうです。ちなみに、水戸徳川家は参勤交代がない定府大名でしたので、水戸藩主はそう利用することはなかったと思いますが、家臣の利用は多かったかもしれません。また、奥州にある各藩の大名たちも利用することも多かったのでしょう。こちらが本陣として利用した玄関。なかなか堂々としたものですね。大名などの身分の高い宿泊者は、ここに駕籠を横付けしてここから建物の中に入ったんですね。染野家は明治11年3月に、現在の特定郵便局長にあたる五等郵便取扱役に任命されたので、この建物を郵便局として利用したため、このような郵便窓口かあります。こちらが染野家の住人が出入りしていた玄関だそうです。建物の内部です。太い梁が3段になっていました。竈(かまど)ですね。こちらは染野家の茶の間ですね。奥のテレビではこの建物の修復過程が紹介されているビデオが流されていました。街道沿いだけに歴史のある建物が並んでいました。明暦元年(1655)以来日本酒を醸造している田中酒造店(→→→こちら)です。創業が明治元年(1868)創業の新六本店(→→→こちら)です。茨城なのに奈良漬が名産とは意外ですね。まあ、「奈良漬」というものが地域団体商標(→→→こちら)でなくウリやキュウリ等の野菜の粕漬けことを普通名詞として奈良漬ということなんでしょうね。この蔵で、茨城県取手産の奈良漬けが作られているのですね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その7) 宿場町です
2022年01月14日
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利根川に架かる常磐線の鉄橋が見えてきました。その近くでは、利根川には今でも現役の渡し船があるようです。小堀(おおほり)の渡し(→→→こちら)と言うそうです。行った時は11月初旬でした、コスモスが花盛りの中に、これが乗船場です。これが渡し船「とりで号」です。なかなかポップな感じの船ですね。東京藝術大学美術学部長の日比野克彦氏が「市の鳥、かわせみにちなんだ、カラフルで、水面に映ったときの輝き」をイメージして、デザインしたそうです。横の小さい船も応援で来ている先代の渡し船のようです。待合室にあった渡し船の時刻表です。この渡し船、観光用ではなく主目的は利根川に対岸にある取手市の飛び地と取手市中心部を結ぶ地域住民の足として使われているようです。小堀の渡しの由来は以下のそうです。利根川は、取手市の南(現在の小堀地区・古利根沼)を蛇行して流れていましたが、大正9年に利根川河川改修によって、当時、地続きであった小堀地区は、取手(井野村)から分断されました。交通の不便を感じた地域住民によって渡船場の設置が協議され、渡し舟を出したのが始まりと想定されて以来、現在に至っています。利根川の流れ、ゆったりしていていいですね。壁に派手な壁画が描かれている取手市民会館です。この横を通って、取手総鎮守の八坂神社(→→→こちら)です。八坂神社は素盞鳴命(スサノオノミコト)を祭神とする神社ですね。「邪」を裂き「魔」を祓う強い力を持つスサノオノミコトをおまつりすることから、厄除け・除災招福に御神徳があるとされているそうです。神社の由緒が書かれていました。明治39年(1906)に建てられた本殿です。前年には日露戦争に勝利し、欧米に並ぶ強国となったという勢いで建立したのでしょうか。彫刻が見事でした。こちらにあった健育塚。お食い初めで使った歯固めの石をこちらに納めると、その後、健康に育つことをお祈りするところだそうです。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その6) 小堀の渡しと八坂神社
2022年01月13日
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利根川に沿って上流に向かって歩きます。途中所々にこのような標識が立っていました。この地点では「海から82.50km」でした。ところで、この海から起点は銚子の河口ということになるのでしょうが、元々、江戸時代以前の利根川(→→→こちら)は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ流れではなかったのです。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いでいたのです。しかし、江戸幕府が成立すると利根川東遷事業として、江戸湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする河川に付け替えられたのです。河川堤防の所々に、こんな工作物が見えます。川に向かって水路がつながっていました。内水排除(堤内地の水を排除する)ための施設のようてすね。河川敷は取手緑地運動公園(→→→こちら)として、色々なスポーツが楽しめるようになっています。こちらは、野球かと思いながら見ていると、どうやらソフトボールのようでした。駐車場もあって、沢山の自動車が駐車しています。こちらは、沢山の人が入り乱れて、子供達がラクビーをやっていました。テニスコートもありますね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その5) 利根川沿いを歩く
2022年01月12日
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本願寺を過ぎて、さらに東へ歩いて行くと、次の目的地にあったこの建物。取手市埋蔵文化財センター(→→→こちら)です。取手市内には、旧石器時代から中世、そして水戸街道の宿場として栄えた近世の宿場跡に至るまで、約90か所の遺跡があるそうです。こういう施設で郷土の歴史を学ぶのもいいことですね。この埋蔵文化財センターの前庭にある小さなブロンズ像。象さんではなく、豚さんでした。なんか跳ねた泥がついていたりして、たまには綺麗にしてあげればと思いました。この細い道を抜けて利根川に向かって歩いてゆきます。前を歩く方がいるあたりが、今回の「駅からハイキング」のコースの中間点のようでした。そして利根川の堤防の上には、こんな展望台がありました。展望台の上からは取手市の住宅街の街並みと田畑。こちらも田畑。でも広々としていいですね。こちらは堤外地になります。利根川の流れの下流側です。ちなみに、堤防によって洪水氾濫から守られている住居や農地のある側を堤内地,堤防に挟まれて水が流れている側を堤外地と呼ぶそうそうです。こちらは上流側、対岸は千葉県ですね。これから、展望台から利根川に沿って上流に向かって歩きます。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その4) 利根川展望台
2022年01月11日
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日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、徳川家康の重臣、本多作左衛門重次が天正3年(1575)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙だそうです。その本多重次(→→→こちら)の菩提寺が、ここ本願寺です。参道の左側に並んでいる石柱。左から圓光大師霊場(文政2年、1819)、六阿弥陀如来(文化11年、1814)があり歴史はあるお寺なんですね。本願寺は応永3年(1396)に建立された浄土宗のお寺だそうです。本多作左衛門重次との縁も説明してありました。徳川家康の重臣として戦功も多く、また行政面でも活躍していたそうですが、家康を大事に思ったため、豊臣秀吉から疎んじられ、家康の手によって、上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた後、最後は下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に蟄居させられたことから、この本願寺を菩提寺としたそうです。仏教の教えも示していて、なかなか真面目なお寺なのかも。境内にある一筆啓上の顕彰碑です。ところで、福井県にあった旧丸岡町(現坂井市)では、本多重次が書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」にちなみ平成5年から毎年テーマを定めて「一筆啓上賞」として作品を募集し、平成15年から「新一筆啓上賞」として、日本全国、海外から応募が寄せられていまます。これは、手紙の中にあった「お仙」こと、本多重次の息子の越前丸岡城主 本多成重(幼名 仙千代))に因んで行われているイベントです。本家の取手市としては、内心忸怩たる思いはあるのかな。しかし、こういう商売っ気のある地域おこしのアイデアが浮かばないところは、堅実で真面目な茨城県民性によるのかも。こちらが本堂、鉄筋コンクリート造りです。扁額は、どこのお寺も立派なものですね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その3) 一筆啓上
2022年01月10日
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坂道を下っていきます。山中坂という坂道です。石柱に「この坂道はの辺りは字山中坂と呼ばれていた」とありました。今の住所は取手市台宿なので、山中坂というのは古い地名みたいですね。昔風の団地の集合住宅が建っていました。これは、雇用促進住宅(→→→こちら)だったんでしょうね。雇用促進住宅とは雇用保険事業の一つであった雇用福祉事業により整備された勤労者向けの住宅でした。しかし、雇用福祉事業が国の方針により廃止され、住宅も令和3年度(2021)までに譲渡・廃止することが決定されたので、雇用促進住宅は、民間のソフトバンクグループ傘下の米国投資会社フォートレス・インベストメント・グループに売却され、低価格賃貸住宅「ビレッジハウス」(→→→こちら)として運営されているそうです。ここもビレッジハウス台宿とありました。そして、ビレッジハウスというと「敷金、礼金、更新料、手数料が無料」というのが売りのようです。和菓子屋さんがありました。人気がありそうな感じかしました。一般的な5階建て階段室型の古い団地が並んでいました。井野団地というそうです。取手市は、高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、日本住宅公団(現在の都市再生機構)による住宅団地の開発が行われていて、この団地もその一つなんでしょう。下の写真は、若い芸術家のための共同アトリエ「井野アーティストヴィレッジ(INO ARTISTS VILLAGE)」(→→→こちら)です。井野団地内のショッピングセンターを改修して、若手芸術家に創作活動の場を提供してアトリエと利用しているそうです。さらに、「やさいINO」という取手市内で作られた野菜の直売所、「いこいーの+TaPPino」というもカフェがあります。これはなんかショッピングセンターらしいですね。団地があれば、小学校もあります。廃校になっているそうで、雑草がグランドを覆っているの等、荒れた感じ、やっぱり、団地が出来て長い年月が過ぎると子供の数も減って、小学校の児童も減って、廃校なんですね。交差点にあった小さな祠。新しいものですが、なにか由緒ありそうな。「疣(いぼ)取り榎の木の跡」平成5年10月建立 鈴木遖(あっぱれ)とありました。鈴木遖さんという地元の方が、地域の記憶を残すために建立されたのですね。色々な石像や銅像が残されていました。MoMo太郎の敬愛する二宮金次郎の銅像もありました。こちらも移転した中学校の跡地だったんですね。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その2) 団地のまち
2022年01月09日
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昨年の11月7日、駅から歩いてハイキング「~繋がる 人 まち アート~アートのまち取手を散策」に参加して、茨城県取手市を歩いてきました。そのご報告です。出発はこちらの取手駅東口からです。取手駅東口に展示されているのが、このパブリックアート「シュプリンゲン」。東京藝術大学前学長の宮田亮平氏の代表作のひとつだそうです。でも「シュプリンゲン」とは「飛翔」という意味で、イルカがモチーフなんだそうです。ここからイルカが想像できるなら、藝大の学長になれるってことですね。いや、芸術家の考えることってよくわからないです。この通路を抜けると西口に出られます。ここのを抜けて西口に回ります。地下通路の中には、市民の皆さんの絵画などの作品が展示されています。取手駅西口には、JR東日本の主要駅には欠かせないアトレというデパートがありました。そして駅前にあるこの「治助坂」の途中には、ストリートアートステージ「リング」というのがあります。道の反対側の歩道にも。この「リンク」は東京藝術大学の学生による作品だそうです。どうして、取手市に東京藝術大学関係者の作品が展示されているかというと、東京藝術大学の取手キャンパス(→→→こちら)があるからだそうです。しかし、東京で美術の勉強ができると思って地方から上京してきて、茨城県の取手市で勉強して下さいだと、ちょっとガッカリかもしれませんね。取手といえば甲子園に春夏合わせて6回出場し、前述のとおり1984年夏の大会で優勝した経験を持つ。取手二高が有名ですが、二高があれば、一高もあります。こちらはあまり知られていないかも知れませんが、アトランタオリンピック 1㎞タイムトライアル銅メダリストの十文字貴信さんなどの競輪選手を多く輩出しています。この跨線橋を渡ります。橋につけられている石碑には、取手ということで鳥が描がれているのでしょうかね。跨線橋の下にあるのは、JR常磐線と関東鉄道常総線(→→→こちら)が走っています。関東鉄道の常総線の方は電化されていません。そして、線路わきの擁壁にも壁画「letter"酔狂"ー生命り音ー」が描かれています。SUIKO氏の作品だそうです。落書きとしてもここまで描き込んでいるのは芸術ですかね。ということで、取手市内にあるアートを見ながらの駅からハイキングです。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その1) アートのまちだった
2022年01月08日
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埼玉県出身の渋沢栄一が主人公のNHK大河ドラマでは、渋沢栄一の実家の人達が「〇〇だいねえ」とよく使っていることに気がつかれたでしょうか。実は埼玉にも方言はあるのですが、関東でもあり東京との行き来もあるので、本当は埼玉の方言なのに、あたかも標準語のような言葉があります。「そうなん」: 「そうなの」の語尾を「ん」に変えています。関西弁のように思われますが、関西ですと「そうなんや」となります「したっけ」:「そうしたら」という意味で、文節を繋ぐ表現で用いられます。「なにげに」:若者言葉としても浸透している「なにげに」は、元々は「何気なく・さりげなく」という意味です。「~じゃねえ」:若者言葉のイメージが強くありますが、こちらも埼玉発祥と言われています。念を押したり、同意を求めたりする際に語尾を上げるイントネーションで使われます。「~かしんねえ」: 語尾につけて「かもしれないねぇ・もしかすると・ ひょっとすると」といった意味を表します。「~だよねえ」:語尾につけて「そうですよね」といった意味を表します。ちなみに、歩くことは「あいく」と言うそうです。そして、ようやくゴールのJR宇都宮線の蓮田駅が見えてきました。ここまで埼玉に親しんだMoMo太郎。埼玉県人のフリをして、むりくり埼玉の方言使ってみます。こちらは西口の駅前に展示されている鉄道の車輪だいねえ。こちらの車輪は説明書きでは昭和38年から昭和58年まで製造された国鉄115系電車の車輪です。蓮田市民に長い間利用された、湘南色と言われるオレンジとグリーンの二色で塗装された電車です。115系電車(→→→こちら)といえば、昭和38年(1963)から昭和58年(1983)まで製造された電車で、最初に投入されたのが東北本線(今の宇都宮線の区間)だよね。「蓮田市民に長い間利用された」って、したっけ、大宮や浦和の人は利用しなかったかしんねえ。こちらはD51( →→→こちら)484号機の車輪だいねえ。説明書きには「デゴイチ」の愛称で慕われた蒸気機関車の第3動輪です。このD51 484号機は、昭和15年に製作され、昭和51年度に廃車となるまで約270万キロ(地球を約67周)を走行しました。とありました。そうなん、したっけ昭和51年度(1976)で廃車となるまで約270万キロ(地球を約67周)を走行したら相当、鉄も削られるかしんねえ。それでも、後ろの軽自動車よりも大きいということは、新車の時はもっと大きかったんじゃねえ。バス旅番組に出演してもいいように、バス停をチェック。こちらは「けんちゃんバス」の乗り場だいねえ。そして朝日バスの乗り場だいねえ。ここは蓮田駅。なにげに、駅名の「蓮」はしんにょうの点が2つじゃねえ。「蓮」という漢字はしんにょうの点が1つじゃねえ、ところで、蓮田市の「蓮」の表記も2011年1月4日より、しんにょうの点が2つから1つに変更されています。したっけ、しんにょうの点が2つなのが歴史的には正しいんだよねえ。西口には立派な石碑が建立されています。蓮田駅西口駅前交通広場竣工記念碑だいねえ。こちらは古色蒼然たる石碑じゃねえ。こちらは単管パイプで囲われてるじゃん。これって篆書体(てんしょたい)っていうフォントじゃねえ?蓮田車站納地(はすだしゃたんのうち)記念碑だねえ。「車站」とは停車場とか駅の意味だよね。飯野吉之丞らは明治18年(1885)東北本線が開通の際、駅の敷地を寄附して蓮田駅を開設させことを記念して建立されたんだいねえ。こちらは駅の東口。東京までうえの東京ラインで50分はかからないだいねえ。便利じゃねえ。ということで。ニューシャトル志久駅からJR宇都宮線蓮田までのあいくは無事終了だいねえ。(伊奈町から蓮田のコースです)【了】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その12) 蓮田駅前のエセ埼玉県人
2022年01月06日
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