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この忍野八海のあたりを散策して、富士山の写真を撮影してきました。この小川、桜の名所なのかもしれませんね。きれいでしたので、ちょっと、箸休め的に水仙も撮影しました。小川(新名庄川というそうです)に沿って歩くと小さな神社がありました。浅間神社です。地元では「忍野浅間神社」、「忍草(しぼくさ)浅間神社」と呼ばれているようですが、一般には「忍野八海浅間神社」と称されているのだとか。大同2年(807)の創建ですが、この社殿は天保2年(1831)に現在の天屋拝殿を再造営されたもので、昭和51年(1976)9月に銅板葺きとなったそうです。拝殿の前には、角樽に入った、お酒ではなく、忍野八海のそれぞれの池の水が供えられていました。沢山の千社札が貼られていますね。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その10) 忍野八海浅間神社
2021年05月16日
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やってきました忍野八海(おしのはっかい)。忍野八海とは、山梨県南都留郡忍野村にある8か所の湧泉群のことです。富士山や近くの火山山麓の伏流水を水源とし、湧水の出口が池として残ったのが忍野八海と呼ばれています。 「海」と言うほど広くはありませんが、この池も忍野八海のひとつで、「湧池」」と呼ばれています。 そして、国指定の天然記念物、名水百選、県の新富嶽百景にも選定されており、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されているという大変貴重なもののようです。 本当にきれいな水ですね。 「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの湧泉を巡礼する八海めぐりからきているのだそうです。探せば他にも湧水がありそうですが、すえひろがりの「八」ということですかね。 訪れた4月7日には、まだ桜が満開でした。 「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」という和歌を口にしたくなります。 こちらの池は「中池」というそうですが、忍野八海には入っていないようです。 この池の反対側から見ると、うっすらと富士山が見えました。 ちなみに、名水百選とは、昭和60年(1985)3月に環境庁(現・環境省)が選定した全国各地の「名水」とされる100か所の湧水・河川(用水)・地下水のことだそうです。 さらに、環境省は2008年(平成20年)6月、「平成の名水百選」を選定したそうですが、二つは重複していないそうです。 【つづく】 【追伸:<新型コロナ>「住民に説明がつく対応を」田村厚労相も苦言 首長らのワクチン先行接種、6市町で新たに判明】東京新聞によれば、自治体の首長らへの新型コロナウイルスワクチンの先行接種が14日、少なくとも茨城、栃木、埼玉、岐阜、兵庫の5県計6市町で新たに判明した。(→→→こちら) だそうです。 まあ、こちらの薬局の経営者の方も含めて、皆さん色々とやることがあるので、ワクチンを早く接種されたいのでしょうね。 ちなみに、この薬局の経営理念は、「私たちは、まごころを込めて親切に応対し、地域社会に貢献します。私たちは、社員一人ひとりの幸福、お客様一人ひとりの幸福、そして、あらゆる人々の幸福を願い、笑顔を増やします。」だそうです。素晴らしい、社員の幸福が第一ですからね。それで、経営者が社員より優先してワクチン接種ですか。 また、この薬局の経営者も自治体の首長も、予約を取るのに、ネットを使えないとか、つながらない電話を一日中架けている暇もないのでしょうね。こんなことなら、往復はがきを送って抽選でワクチン接種の予約を決めた方がラクだったかもしれませんね。わからないように多少手心を加えられたかもしれませんから。 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その9) 忍野八海
2021年05月15日
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山中湖の湖畔にあった、鯉のモニュメントがありました。 「奉納鯉の碑」だそうです。 富士山信仰が盛んだった頃、各地から富士講と呼ばれる信者たちが苦しい修行のために訪れていたそうで、1801年現在の埼玉県寄居町の富士講の一派が、八海巡りと呼ばれる厳しい修行のためにこの地を訪れ、捕えられた生き物を放してやる放生会というしきたりにより、鯉を放した記念に建てられたものと思われます。 山中湖を泳いでいたこの鯉も、富士講の人たちによって放された鯉の末裔でしょうか。 空も晴れてきたので、 富士山も姿を現してきましたね。 【つづく】 【追伸:群馬、石川、岡山、広島、熊本の5県へ「まん延防止等重点措置」を適用】 新型コロナウイルスの感染は拡大する一方ですね。 緊急事態宣言:東京、愛知、大阪、京都、兵庫、福岡 まん延防止等重点措置:北海道、埼玉、千葉、神奈川、岐阜、三重、愛媛、沖縄 それに加えて、群馬、石川、岡山、広島、熊本が追加されました。 思えば、去年は志村けんとか岡江久美子さんといった著名な芸能人が新型コロナで亡くなられたので、みなさん感染防止に一生懸命になったのではないかと思います。 やはり今回も、感染拡大を止めるには、著名人の死亡が効果あるのでしょうか。特に変異株の流行で若い方も感染しているそうなので、ここは若くて人気のある芸能人の方が新型コロナで亡くなることでもないと、「緊急事態宣言」も「まん延防止等重点措置」も効果がないのかもしれませんね。 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その8) 鯉奉納の碑
2021年05月14日
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小山町須走から国道138号線を北上し、籠坂峠を越えて、山中湖にやって来ました。山中湖といえば、富士五湖の一つなんですね。そして、山中湖といえばスワンボート。なぜかそういうイメージがありますが、陸で休んでいるスワンボートもありましたし、桟橋で乗り手を待っているスワンボートも。スワンボートの親玉が。かなり大きなスワンボート、何人くらいで漕いでいるんでしょうか。こちらの小さいのは、本物の白鳥でした。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その7) 山中湖といえばハクチョウ
2021年05月13日
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冨士講の登拝記念の石碑が多く並んでいました。 麻布山三元講は、富士浅間神社とは関わりが深く、神門の前の富士塚と狛犬を築造したそうです。また、富士講の解散に併せてこちらの富士塚と冨士講の講碑を昭和62年(1987)に移設したそうです。 その他にも境内の森には富士講石碑が置かれていました。 江戸期後半から大正期にかけて隆盛した庶民信仰・富士講の各講社が、登拝記念の石碑を建立したり、講社の解散に伴い、講社の地元から移築・寄進されたものもあるようですね。 やはり、東口本宮冨士浅間神社というだけのことがあって、アクセスのよい東京の富士講の石碑が多いですね。 こちらは四谷にあった富士講のものなんでしょうね。 富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされているそうですが、この講は55回も富士登山したのですね。 この和歌山県にある講社は899回も富士登山されたのですね。切りのいい900回にしないところに深い意味がありそうな感じがしますね。 まだ、富士山は雲に隠れて姿を現してきません。これはMoMo太郎の信心が足りないということですね。 【つづく】 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その6) 冨士講講碑
2021年05月12日
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鬱蒼とした杉の木立に囲まれた境内、いよいよ富士浅間神社に参拝です。 手水舎には、新型コロナウイルスの影響で、柄杓はなかったです。 長寿亀石という亀の形をした石がありました。亀は万年、鶴は千年といわれていますが、浦島太郎を乗せて竜宮城の往復をした亀は、地上の世界では万年生きるのかもしれませんが、竜宮城では100年くらいかも。 こちらが社殿です。 本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造になってます。現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたものだそうです。さすが世界文化遺産ですね。 賽銭箱の上にありました。朱印帳への記帳はできないので、初穂料を賽銭箱に入れてここに置いてある書き置きの朱印をいただくシステムにしているそうです。新型コロナウイルスの影響なんでしょうね。 まあ、初穂料を賽銭箱に入れずに朱印だけを持って帰る罰当たりなことをしてはいけませんね。 扁額は右からの横書きでした。鈴も鳴らすための鈴緒も感染予防のため触れないように巻き上げられていました。 鈴を鳴らさないと、神様もお参りに来たことを気がつかないかと心配されますが、神様は耳がいいのでお賽銭が入った音に気がつくので大丈夫でしょうね。 【つづく】 人気ブログランキング ぶらり富士山を見に行きました(その5) ご朱印記帳は休止していました
2021年05月11日
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静岡県小山町須走にある「東口本宮冨士浅間神社」へ参拝しました。ここは全国にある浅間神社の一社。富士山須走口登山道の起点に鎮座しています。浅間神社の総本宮は富士宮市にある富士山本宮浅間大社ですが、平成25年(2013)に富士山が世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録された際に構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている神社だそうで、登録名称は「冨士浅間神社」となっていますね。こちらの鎌倉往還と呼ばれる道を南に下って冨士浅間神社の正面に回りました。こちらは須走護国神社です。各地にある護国神社はその土地の出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神とする神社だそうです。桜(多分、ヤマザクラ)が見事に咲いていました。こちらが冨士浅間神社の表参道にあたります。表参道の鳥居の脇にある「信しげの滝」です。鳥居に掲げられた「不二山」と記された扁額。「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味なんですね。こちらが神門です。神門の前にある狛犬です。富士塚に佇む狛犬。左側の狛犬には、岩山を登ろうとする小さな狛犬が、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣ったような狛犬ですね。ちなみに、この富士塚と狛犬は、昭和の初めに東京にあった麻布山三元講という冨士講の信徒の方の寄進によって造られたそうです。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その4) 東口本宮冨士浅間神社
2021年05月10日
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御殿場市役所です。市役所の中庭って、大抵、郷土の発展に貢献したとされる人の銅像があったりするもので、御殿場市役所にもありました。こちらは勝間田(かつまた)清一氏(→→→こちら)、御殿場市出身で日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任された政治家です。こちらは初代御殿場市長勝又(かつまた)春一氏(→→→こちら)。衆議院議員(3期)。初代御殿場市長(3期)務められた政治家です。この石碑は、勝亦(かつまた)国臣翁頌徳碑です。石碑の碑文が読み取れなかったのですが、勝亦国臣氏は、大正6年(1917)に御殿場町長になった方ということがわかりました。しかし、御殿場には「かつまた」と読む苗字が多いですね、御殿場市出身のタレントの勝俣州和(くにかず)さんも政治家になれば、市役所に銅像が建つかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その3) 勝俣州和さんの銅像も立つかな?
2021年05月09日
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御殿場駅には「ポッポ広場」というD52形蒸気機関車72号機を保存展示されている場所があります。蒸気機関車の前には記念歌碑があって、右側にあるボタンを押すと、鉄道唱歌と汽車ポッポの歌が流れきます。昭和9年(1934)に丹那トンネルが開通し東海道線が熱海駅経由になるまで、御殿場線が東海本線だったので、明治33年(1900)発売の鉄道唱歌東海道篇の15番の歌詞では御殿場駅が歌われています。ここぞ御殿場夏ならばわれも登山をこころみん高さは一万数千尺十三州もただ一目また、「汽車ポッポ」を作詞した富原薫氏(→→→こちら)は、静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)の出身でこのあたりで学校教員として働く傍ら、作詞家として活動していたそうです。その縁でここで聞くことができるのでしょう。ちなみに、「汽車ボッボ」は最初、昭和12年(1937)に「兵隊さん汽車」という題名で、汽車に乗って出征する兵士を見送る内容の歌だったそうです。汽車汽車 ポッポポッポシュッポシュッポ シュッポッポウ兵隊さんを乗せてシュッポシュッポ シュッポッポウ僕等も手に手に日の丸の旗を振り振り送りませう萬歳 萬歳 萬歳兵隊さん兵隊さん 萬々歳しかし、昭和20年(1945)の大晦日にNHKラジオの「紅白音楽試合」(「NHK紅白歌合戦」の前身)でこの曲が歌われる時に、終戦後の時代にあった内容への改作をNHKから依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められたそうです。「兵隊さんの汽車」を「汽車ポッポ」、「紅白歌合戦」を「紅白歌試合」と改めるなど、時の権力者の意向を忖度するNHKの体質変わらないですね。このD52形蒸気機関車72号機、昭和19年(1944)の製造だそうです。つまり、日本が第二次世界大戦を戦っている最中、鉄などの車両用の資材が不足する中で製造された機関車でしたが、1944年から1968年までの約25年間にわたって使用されていました。機関室の中も見学できます。ちょっと複雑すぎて、どうやって運転するのか、想像がつきません。こちらは炭水車D52形蒸気機関車72号機の運用の歴史が記されていました。最初は、新鶴見機関区に配置され、戦後、国府津機関区に配属され御殿場線で活躍していたようです。全景を見てみると、武骨なザ・機械という感じですね【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その2) 汽車ポッポ
2021年05月08日
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緊急事態宣言で出かけられないゴールデンウィークも終わってしまいましたね。そんなことを予想して、ブログのネタを確保しておこうと、サンデー毎日の身となったMoMo太郎。天気の良かった4月7日に、ふらっと富士山を見にドライブに出かけました。最初にやって来たのはここ御殿場駅。ノンビリとした御殿場線ってローカル線と言う雰囲気ですが、富士山や箱根に向かう玄関口の駅、新宿からやって来る小田急の特急「ふじさん」の終点駅でもあり、なかなか立派な駅ですね。JR東海とJR東日本を跨いでICカードは使えないってことですね。そうすると御殿場から小田原に通勤している人のICカード定期券ってどうなるんでしょうかね。富士山口というのが、御殿場駅らしいですね。ちなみに東口は箱根乙女口でした。でその西口の駅前広場にあるのが、富士山を模した案内板。ローマ字で「ようこそ、御殿場」と書いてあるのが、よくわからないですね。外国人向けなら「Welcome Gotenba」とした方がいいような。裏側には、周辺観光地の説明がありました。富士山が噴火した時に飛散した火山弾(→→→こちら)です。このモニュメントは富士山にかかる笠雲をイメージしているか。で、多分、この方向に富士山が見えるはずなんですが、笠雲というよりレインコート雲で富士山は見えませんでした。【つづく】人気ブログランキングぶらり富士山を見に行きました(その1) 御殿場駅です
2021年05月07日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。ちょっと古めかしいコンクリートの門柱と小屋。ここへ戦争中、柏市にあった高射砲第二連隊の営門と歩哨所が移設され、保存されています。実際、千葉県柏市は軍都の町でした。首都防備計画の一環として1938年に柏飛行場ができ、その防空を担当する高射砲部隊があったということです。考えてみれば、千葉県って今でも軍事関係の施設や部隊がありますね。この近くには海上自衛隊の下総航空基地(→→→こちら)や陸上自衛隊の習志野駐屯地(→→→こちら)などがありますね。また、今の新京成電鉄の路線も旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷を利用したものだそうですね。移設されたのはこの児童公園で、ここで遊ぶ子供たちが将来、戦争に巻き込まれないことを願います。富勢冨士見坂という道路を進んでいきます。むかしは、ここから富士山が見えたのかもしれませんね。この坂を下って、再びここに戻ってきました。「松ヶ崎城跡」(→→→こちら)です。やっぱり柏市って大昔から軍都だったんですね。松ヶ崎城跡のある丘陵をまた上ります。松ヶ崎湧水(→→→こちら)があります。環境省の千葉県の代表的な湧水としてホームページに紹介されている湧水です。わずかですが湧水があるようでした。その湧水の上にあった屋根付きのお地蔵様です。松ヶ崎湧水の後、今回の駅からハイキングのコースはこの北柏駅で終わりです。北柏駅、もともとは貨物駅として開業したようですが、周辺が宅地開発されたこともあって旅客駅も併設されたそうです。そのため無理矢理、駅を造ったせいかホームがカーブしていました。柏市、意外と興味深い町だとわかりました。【了】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その6) 軍都だった柏市
2021年01月19日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。県道7号線我孫子関宿線沿いにある長泉寺(ちょうせんじ)が次の目的地になります。ぼけ封じ関東三十三観音霊場第七番札所というのがご利益ありそうでいいですね。駐車場完備でお参りにも便利そう。山門です。真言宗豊山派大非山長泉寺というのですね。境内です。お寺の解説がありました。このお寺、山伏堂(修験者の道場)であったのを宝暦11年(1761)に流山東福寺の末寺として開山し、1800年代中期に庫裏と本堂を改修して、明治時代には仮設学校として利用された歴史をもっているそうです。ボケ封じにいいそうなので、しっかりお参りさせていただきました。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その5) ぼけ封じの長泉寺
2021年01月18日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。東京の駅からハイキングのコースでは見かけませんでしたが、千葉県の駅からハイキングでは、このようなコース案内図がありました。矢印に従って、進んでいきました。広い畑が広がっていました。カブが栽培されていました。次の目的地のお寺に到着。花井山(かせいざん)大洞院(だいどういん)という曹洞宗のお寺だそうです(→→→こちら)。慶長元年(1596)に曹洞宗の鷹山舜岳大和尚が開山した歴史あるお寺ですが、大洞院のあった場所からは、鎌倉・室町時代(14世紀)の武蔵型板碑が多数出土しているそうで、板碑は、石の板に彫った卒塔婆状の供養塔で、その彫刻文字から、この時代の大洞院は天台宗寺院であったと思われるそうです。境内の端っこに「無邊洞」と刻まれたちょっと古い石碑が設置されていました。石碑のそばに説明板がありました。この「無邊洞の碑」は、長野出身で大久保利通に認められ伊藤博文内閣の大蔵大臣を務めるなどの功績のあった渡辺国武子爵の自宅に建立されていたもので、平成26年にこちらに移設されたそうです。こちらが本堂。このお寺は、本堂を用いたコンサート(寺コン)、ギャラリーを開放しての作品展、歴史研究会、小仏彫刻教室、書道教室、華道教室などの文化活動も活発に行っているそうです。ご住職のお考えなんでしょうね。扁額は新しいような感じですね。このイチョウの大木、樹齢450年以上といわれているそうです。【追伸】1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大災害「阪神淡路大震災」から26年。MoMo太郎個人としては、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による「東日本大震災」より、大都市の鉄道や道路の崩壊など、今まで安全だと信じていた土木構造物や建物が大きな被害を受けたという点で、強い印象が残っています。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その4) 花井山大洞院
2021年01月17日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。次に訪れたのは、歴史を感じさせる日本家屋のある公園です。国指定重要文化財 旧吉田家住宅(→→→こちら)です。旧吉田家住宅は、名主であった吉田家の豪農ぶりが分かる江戸時代末期築造の邸宅ですね。屋敷前は広大な芝生広場となって、旧吉田家住宅歴史公園として整備されています。こちらは長屋門、25mに及ぶ大きな門です。これだけも吉田家の羽振りの良さが想像できます。ちなみに、長屋門とは、江戸時代,武家屋敷で敷地の周囲に家臣を住まわせる長屋を建て,その建物の一部に扉をつけて門としたもので、裕福な農家にも見られたものだそうです。こちらは、茅葺屋根の重厚な作りの主屋。主屋の中です。土間で煮炊きがされていたのでしょうね。土間の天井です。大きな梁と丸太が交差して、頑丈そうでした。掛け軸など飾ってお客さん用の座敷でしょうか。豪農というだけあって、部屋にエアコンも完備。広くて、樹木も植えられ、なかなかの風情ある庭園です。この吉田家は主に農業を営みながら名主として栄えた家で、幕府や領主の命に従い村内の諸事全般を取り仕切っていたそうです。また、江戸時代中期頃からは金融や穀物売買等の事業を開始し、地域の特産となる醤油醸造業も手がけていたそうです、その上、文政9年(1826)には、.幕府直轄の牧(幕府の軍馬育成場)の一つ「小金牧」の目付け牧士(管理人で士分になる)に任命され、以降4代にわたり牧の管理に携わっていたそうです。明治から昭和にかけてはその財力を活かし、吉田家は醤油醸造のほかに、乗合自動車や北総鉄道の開発などさまざまな分野に進出していたそうです。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その3) 旧吉田家住宅歴史公園
2021年01月16日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。この階段になった道を登って台地の上に行くと。木立の中に、柏市指定文化財「松ヶ崎城跡」(→→→こちら)があります。建設された時期は定かではありませんが、15世紀後半から16世紀前半の中世城跡です。平成14~15年度に遺跡の範囲や内容を確認する目的で発掘調査が実施され、遺構が当時のまま良い状態で残っていることがわかったそうです。こちらは城郭を守る、堀の跡です。こちらの盛り上がったところは、物見台だそうです。さらに城内にはこのようなこのような盛り土がありますが、これは古墳をそのまま利用していたようです。城跡からは北柏の街並みが見下ろせます。眼下の半円形の平場は、腰曲輪だそうです。17世紀の江戸時代初期までは手賀沼から香取まで内海が広がり、その水辺に位置していた松ヶ崎城は交通の要所を押さえる城だったようですが、どのような武将の城だったかはよくわからないようです。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その2) 松ヶ崎城跡
2021年01月15日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。今回のスタートは常磐線の柏駅からです。柏というと、この建物の中にあった「柏そごう」。「柏そごう」が出来たことで、なんか賑やかな街へ柏市が変貌していった記憶がありましたが、今はその「柏そごう」は閉店しています。駅の西口にある高島屋はまだ頑張っています。その前を抜けて。国道6号線(水戸街道)に出てます。そして、この国道16号線に沿って北上します。16号線は横須賀から横浜市、東京都町田市、神奈川県相模原市、東京都八王子市、埼玉県川越市、さいたま市、千葉県柏市、千葉市から木更津市に至る道路で、東京を取り囲むような道路です。むかし、千葉県在住の知人から「16号線の内側は都会で外側は田舎なんだ」と言われました。さらに進むと、この川がありました。大堀川という川です。大堀川は柏市内を流れて手賀沼に注ぐ河川で、その沿岸に沿った遊歩道を歩いていきます。大堀川リバーサイドウォークには桜並木が整備されていますが、その桜は里親という方々に植えられたようです。リバーサイドウォークに変わった建物が。地下に入っていくような構造です。大堀川リバーサイドウォークの地下には利根川の水を江戸川へ導水する「北千葉導水路」(→→→こちら)という管水路が埋設されています。その管水路の点検などに降りるための施設だと思われます。北千葉導水路は、利根川の水を江戸川に運ぶことで東京都民の水を確保しているとともに、利根川のきれいな水を手賀沼に逆送して手賀沼の水を希釈してきれいにしている施設です。東京って、千葉県や埼玉県に頼って成り立っているってことが改めてわかりました。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その1) 大堀川リバーサイドウォーク
2021年01月14日
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いよいよ、久留里城天守閣に向かいます。道の上に張られた縄に藁で作った飾りが吊り下げられているのは「道切り」(→→→こちら)と呼ばれるものです。これは、村に悪霊などが入ってこないように、村の境に、縄を張る、 又は、所によっては境を守る標を村の境に置く事をいうそうです。草鞋・桟俵・蛸・烏賊・酒樽・サイコロなどが吊り下げられていますが、藁であえて粗末に作ってあり、そのムラが貧乏で不具者ばかりで悪いものの侵入を諦めさせるためだそうです。また、酒樽・サイコロは酒・博打の戒めという意味だそうです。途中にある「男井戸・女井戸」です。奈良時代の天平年間、仏教普及の命で聖武天皇に遣わされた僧によって掘られたと伝わる井戸で、江戸時代、藩士の結婚式ではこの井戸の水を飲んだという伝承も伝わっており、正月には井戸の水を江戸屋敷まで運び、新年初めての水として用いたそうです。この丸太階段を登っていくと、久留里城の天守閣に着きました。天守閣の横にあった土壇。久留里城の天守閣は明治5年(1872)に廃城となり城の建物は解体されましたが、昭和53年(1978)に再建されたもので、元の天守閣はこの土壇の位置にあったそうです。天守閣の脇の木立の中にある石碑。久留里城再建記念碑で、当時の千葉県知事川上紀一氏の揮毫によるものです。この川上紀一氏は、副知事として1971年に行われた成田空港予定地の代執行では現地総指揮官として派遣され、また1978年の成田開港に際して田村元運輸大臣と協議してインフラ整備など多くの要求を国側に認めさせたほか。東京ディズニーランド建設においては、浦安町(当時)への誘致を実現した人物です。このたび勇退することになった鈴木栄治(森田健作)知事よりも遥かに県勢発展への貢献は大きい方かもしれません。天守閣からの眺望です。この眺めで、ちょっときつい坂道を登ってきた疲れも癒されました。【了】人気ブログランキングへくるっと久留里(その6) 久留里城天守閣
2020年12月04日
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久留里城址資料館、入場無料で展示物もなかなか興味深かったのですが、やっぱり館内撮影禁止で内容は紹介できません。しかし資料館の屋外には色々と面白いものがありました。これは江戸時代中期の朱子学者で、幕府のブレーンだった新井白石(→→→こちら)の銅像です。この方、幕府に使える前、もともとは上総久留里藩の藩士だったそうですね。これは上総掘り井戸(→→→こちら)の櫓だそうです。上総掘りとは、人力で掘り抜き井戸を掘削する工法で、千葉県君津市の小糸川流域や小櫃川流域で文政年間(1818~1830年)に開発されたもので、農業用水や飲料水の確保に利用され、明治20年(1887年)頃に技術的に完成し、竹ヒゴ利用により200間(360m)以上の掘削が可能となりました。この丸い大きな輪は、「ヒゴグルマ」と呼ばれ、竹ひごの先に鉄のパイプを結び付けて、鉄パイプの衝撃で井戸を掘り進んでいくのですが、その竹ひごを巻き取る装置になります。この神社は「雨城八幡神社」です。由緒などわかりませんが、やはりこの城の武士が信仰をしていたのでしょう。久留里城を巡って、戦国時代、里見氏と北条氏が戦争していた経緯が記されていました。元々は里見氏の本拠地で、その後北条方に奪われたりしたようですが、最終的に里見氏のものとなりました。しかし、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に当主の里見義康は参陣を命じられたが遅参したことから、この城を没収されてしまい、久留里城は徳川家康の重臣の大須賀忠政のものとなったそうです。こちらは薬師曲輪というところで、久留里城下を見晴らせる展望台になっています。木に括りつけられている藁の人形は、鹿島人形(→→→こちら)と呼ばれるもので、等身大で手を大きく広げ、刀や槍を携えた鹿島神(武神)の姿で、悪霊・疫病・悪い物事などを退散させると伝えられています。新型コロナウイルス退散にも活躍してもらいたいです。薬師曲輪からみた久留里の風景です。房総の田園地帯という風情ですね。【つづく】人気ブログランキングへくるっと久留里(その5) 新井白石、上総掘り、そして鹿島人形
2020年12月03日
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城郭には曲輪(→→→こちら)と呼ばれる場所があります。このように、地面を削って平らにしたお城の一区画のことです。久留里城にも曲輪がありました。久留里曲輪と呼ばれているいますが、ここには石碑が多く建立されていました。俳句が刻まれた石碑ばかりでしたが、有名な俳人の句というものではなく、俳句同好会のような団体が自費で建立したもののようでした。これはお玉ケ池というもので、籠城戦に備えて水を確保していた池だそうです。説明版にあった内容です。久留里城の二之丸は、水源がなく不便な場所でした。城主の里見義堯(さとみよしたか)は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。 ある時、兵馬が池を掘っていると、兵糧庫が焼失する事件が起こり、火の不始末の疑いで、兵馬は捕らわれの身となります。城将小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れんで、かわりに池を掘りはじめますが、兵馬は打ち首となってしまいます。その後、この疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったそうですここの二の丸跡にあるのが、久留里城址資料館です。君津市の歴史・民俗などの資料や久留里城に関する資料の収集、保管、展示 などをしいるところで、無料で入場できます。資料館の前では、子供たちが火を起こす体験をしていました。【つづく】人気ブログランキングへくるっと久留里(その4) 久留里城址資料館
2020年12月02日
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久留里という地名の由来については諸説紛々だそうです。 1)古文書『久留里記』によれば、平将門の三男が浦田の妙見(今の久留里神社)を参詣し、築城のことを祈ると「浦田の峯に城郭を構え、名を久留里城と呼ぶべし」との夢告があったとの記述があります。 2) また久留里市場の福徳山正源寺に伝わるところでは、同寺開山の他阿心教上人が当地に留まり念仏を広めたことから、以後この地が「生き仏様が久しく留まられた里」ということで「久留里」と呼ばれるようになった、 との説があるのだとか。 さて久留里城址に向かうにはこの狭い道を車でやって来ます。見えてるトンネル車一台分の幅しかない道です。対向車には注意しないと。 途中の駐車場で、MoMo太郎の愛車を止めて、この道を歩いて上ります。 秋の青空を見上げながら歩いて行きました。 今はこんな風に山を切り開いて道を造成していますが、 久留里城ができた頃は、道の上の山道をみんな歩いていたのでしょうね。斜面の上の方が切り込まれているのは、ここに防御のための堀が作られていていた痕跡だそうです。 久留里城の別名は「雨城」というそうですね。この山に振った雨が地下水となって久留里の自噴井戸となっているのでしょうね。 久留里城の歴史が記されていました。 【つづく】 人気ブログランキングへ くるっと久留里(その3) 久留里城址に向かう道
2020年12月01日
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久留里(くるり)は千葉県君津市の内陸部にある町です。その玄関口がこの久留里駅です。木造の駅舎がいい雰囲気です。令和元年度の一日平均乗車人数は365人だそうです。確かに地方だと鉄道を使うより自家用車を使う人が多いのでしょうね。まあ、もう少し本数が多くて、駅前に無料か安い料金で利用できる駐車場があると、鉄道の利用者も増えるような気もするのですが。駅の隣にある上総地域交流センターです。いわゆる公民館と市役所の支所を兼ねた施設ですね。地域交流センターの前にあったこの施設。久留里の町に多い自噴井戸だそうです。「生きた水」というのは、久留里の地下水は溶融成分が多い軟水で、微生物も含むので時間によって味が変化することもあるため、「生きた水」だそうです。みなさん、ここで水を汲んで持って帰られているようです。水質検査とかして大腸菌数とか確認されているんでしょうか? まあ、持って帰って煮沸して飲めば問題ないでしょうけど。この建物は「久留里観光交流センター」。古い倉庫を改修したのでしょうか。中に入ってみると、展示されているのは鉄道関係の展示。懐かしい漢字の駅名標。これは蒸気機関車の前面のナンバープレート。門司港行とかあまり房総半島には関係なさそうな行先標。そしてかっては房総半島を走っていた急行の「うち房」、「そと房」のヘッドマークも。この行先標は高崎線ですね。この観光交流センターの人が「是非、久留里城へ行かれたほうがいいですよ」とのお勧めに従って、次は久留里城へ向かうことにしました。【つづく】人気ブログランキングへくるっと久留里(その2) 久留里は名水の里
2020年11月30日
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「有線放送電話」(→→→こちら)というのを御存知でしょうか?秋田県の農家出身で電気通信行政を担当する総務大臣も務められたスーガー総理ならご存じてしょう。「有線放送電話」とは,昭和30年~40年代にかけて,当時の電電公社の加入電話がほとんど普及していなかった農村漁村において、無料 または 定額で区域内での通話ができ、一部では 電電公社の電話回線と 接続して区域外通信もできた、当時のLAN(ローカルエリアネットワーク)システムでした。運営主体は農業協同組合や町村などでした。有線放送電話に加入するとスピーカーを内蔵した電話機が家に置かれて、地域の広報や NHKニュースの再放送・天気予報・農産物などの市況 ・防災情報 等が放送され、放送がない時間帯のみ電話として利用できました。また、区域外の町村外に電話する時は、電話交換手を呼び出して、相手側の電話番号を伝えてつないでもらったものでした。その発祥之地の石碑が、千葉県君津市の久留里線上総松丘駅の西側にある松丘国保診療所の前にあります。元々は、石碑は久留里線久留里駅前に建っていたそうですが、駅前整備などでこちらに移されたそうです。石碑の背面にある碑文には、こう記されていました。昭和二十四年当時,旧君津郡松丘村消防団長四宮喜八郎氏は 同村ラジオ共同聴取有線放送設備を広報の伝達,消防 その他非常の際の連絡に利用することを思いつき, 同村の通信技師沖津一氏にこの有線放送設備の改良を依頼した。 その結果昭和二十六年通話兼用の有線放送電話設備が同村一円に設置されるに至り, その後この有線放送電話の利便は広く認められ, 全国農山漁村の通信連絡用施設として,貴重な役割をになうようになった。現在この装置は,本県をはじめ全国各地に設置され,その施設は二千を数え, 約三百万世帯の利用に供されている。こゝに有線放送電話法施行十五周年に当り,有線放送電話発祥のこの地に記念碑を建て, この由来を永く構成に伝えんとするものである。昭和四十八年五月吉日社団法人 日本有線放送電話協会千葉県有線放送連絡協議会君津市昔の地方の農山漁村にも志しのある方がおられたのですね。実は、このちょっと時代を感じさせる有線放送電話、今でも施設を更新して現役で使われている地域もあるようです(松代有線放送電話→→→こちら)。【つづく】人気ブログランキングへくるっと久留里(その1) 有線放送電話発祥之地
2020年11月29日
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羽咋市といえば、この千里浜海岸(ちりはま かいがん)。1里=4キロメートルですから、4,000キロメートルの砂浜が続くわけではなく、日本海に面する石川県羽咋市南部から宝達志水町今浜にかけてのおよそ8キロメートルの砂浜海岸です。遠浅の砂浜海岸って、やっぱり海水浴にはいいですね。サーフィンにもいいかも。この海岸は「千里浜なぎさドライブウェイ」(→→→こちら)となっていて、日本で唯一、車で砂浜を走れるドライブウェイとなっています。もちろんバスやバイク、自転車でも砂浜を走ることができます。道路交通法を適用する公道になっているそうで、スピード違反したりあおり運転はしてはいけませんが、海岸線の砂浜の波打ち際を走ることができる爽快感はいいですね。ということで、今回は東京から日帰りの能登半島の旅。ちょっと入口の付近だけでしたが、まだまだ絶景、名所がある能登半島。じっくり時間をかけて春夏秋冬、探検してみたいところです。最後に、なぜか紅白歌合戦では歌ってくれない石川さゆりさんの「能登半島」、今度は是非、紅白歌合戦でも歌ってもらいたいものです。【了】人気ブログランキングへ能登路(その17) 千里浜なぎさドライブウェイ
2020年11月06日
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ドライブで旅をするとついつい立ち寄るのが道の駅。 能登島の後は羽咋市千里浜に向かいました。そこで立ち寄ったのがのと里山海道千里浜インターのすぐそばにある「道の駅のと千里浜」。 ところで、道の駅って、国土交通省の「特定交通安全施設等整備事業」(→→→こちら)という補助金で造るのですね。でもこの補助金で造れるのは駐車場、トイレ、道路情報ターミナル等だけで、それ以外のみんなが利用するお土産物屋さんとかレストランは補助しないみたいです。 まあ、そういう商業施設を税金で造るのもどうかと思うし、また、縦割り行政の原則からしてもレストランは農林水産省とか厚生労働省の管轄なのかもしれませんからね。 砂浜が近いせいか、砂像が道の駅にありました。 これくらい大きなものだと作るのは大変なんでしょうね。砂と水だけで作るそうですから、水が蒸発したらひび割れて行くし、また雨が降れば砂が流されるので、こういう屋根のあるところに造ってあるのかも。 こういう小さいものは、それほどもないのか、外に展示してありました。 能登って海産物だけかと思ったら、イノシシ肉なども特産品として売り出しているのですね。いわゆるジビエ料理っていうものですね。 ところで、道の駅といういうくらいですから、やっぱりこの施設の責任者は「駅長」と呼ぶのでしょうか? 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その16) 道の駅のと千里浜
2020年11月05日
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「ツインブリッジのと」とオシャレな名前で呼ばれているこの橋。 実は、正式名称は「中能登農道橋」というそうです。 中島地区側に「長浦うるおい公園」があり、このツインブリッジのとの七尾湾の景観を楽しむことができます。 なにやら細かく説明が書かれている、橋の説明板。 農道ですがトラクターのような農耕車両だけ通行できるというものでもなく、普通の乗用車や輸送用のトラックも通行できるのですね。 確かに、和倉温泉と能登島を結ぶ能登島大橋は観光専用みたいな感じで、観光バスや乗用車で混雑しそうですが、こちらの橋なら、通行車両も少なく、能登島で生産された能登ミルクも新鮮な海産物も運ぶのには便利かもしれませんね。 こちらの展望台に登ってみると、 海を渡る中能登農道橋です。 ちなみに、この橋の構造は斜張橋(→→→こちら)と呼ばれています。 そして、橋を渡って七尾市の中島地区にくると、。国道249号との交差点に「道の駅なかじまロマン峠」があります。 ここにある、金太郎さんの絵が描いてある「Yahata すしべん」というレストラン。どうやら石川県下で展開しているチェーン店なようです。 ここで天ぷらうどんを食べたのですが、他のお客さんの様子をみていると、ちょっと変わったシステムのお店だということがわかりました。 この店、レストランだけでなく、入り口にコンビニがあり、普通にお惣菜やご飯の入っていない弁当が売ってあります。まあ、ここで弁当を買うとご飯を盛ってくれて、そのまま持ち帰りもあるのですが、人によってはその商品をレストランコーナーに持ち込んで食べてもいいですし、また追加でレストランコーナーでうどん等をたべることもできます。 さらにビックリしたのは、レストランでうどんや丼物を注文して、そのままコンビニへ戻って、お惣菜をレジを通さず持ち込んで食べている人もいることでした。多分、最後にお会計する時に精算するんだと思いますが・・・。 ということは、カツ丼をレストランで注文して、コンビニでカップ麺を買ってきて食べてもいいということですかね。 そんな変わったシステムのお店なので、多分、MoMo太郎のような田舎者は初めて行って戸惑いました。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その15) 「ツインブリッジのと」は農道でした
2020年11月04日
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能登島からこの橋を渡って、本土に戻ります。この橋は「ツインブリッジのと」(→→→こちら)と呼ばれています。 三ヶ口瀬戸と呼ばれる海峡を渡って能登島と七尾市中島地区を結んでいます。 この橋からの眺めです。 橋から望む七尾西湾、能登島と本土に挟まれた海です。 さらに向こうには、七尾市和倉温泉地区と能登島を結ぶ能登島大橋が見えます。 しかし、人口3,100人の能登島に大きな海上橋が2つも架かっているとは、大したものですね。そのおかげて、年間100万人もの観光客が訪れているので、結構な経済効果が地元にはあるのでしょう。 しかし、観光客が増えて地元にお金を落とすことは、大変結構なことですが、日本全体からみれば、どうなんでしょうか? 人間、一日3回しか食事しないので、仮に観光客が能登島で食事しても、その分、観光客が住んでいる町で食事する分が減るだけですから、日本経済全体にとってもプラスマイナス・ゼロってことじゃないでしょうか。 旅行にしても、能登島に行った代わりに、佐渡島か沖縄へ行く人が減るわけで、全体としては変わらないような。もちろんGoToトラベルなどの施策で旅行に行く回数が増えるなら別ですが、コロナ禍でマイナスになったものを元の水準に戻すくらいで、日本経済の成長を促すような施策ではなく、一種の観光業者向けの福祉政策みたいなものですかね。 さて、こちらは七尾北湾です。能登半島にはもっと奥があることがわかります。 旅人をいざなう魅力の尽きない能登半島ですね。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その14) ツインブリッジのと
2020年11月03日
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能登島では釣りが楽しめるようですね。桟橋が整備されていて、釣り用の船まで使えるようで、釣り好きの人達には随分楽しめそうないいところですね。海もこんなに澄んだ青で、透明な水で、こんなもの東京ではお目にかかれません。そして、ここにキャンピングカーでやってくる人もいるのですね。これなら一杯遊べそうです。電源も使用できて、いわゆるRVパーク(→→→こちら)でもあるんですね。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その13) ねやフィッシングパーク
2020年11月02日
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石川県能登島ガラス美術館から下を見ると、道の駅のとじまが見えました。こちらは七尾北湾が見えます。遠くに見える陸地は能登半島です。ズームしてみると、穏やかな内海が広がっていました。釣り船でしょうか。穏やかで豊かな能登の海を感じました。この海を見るだけでも、東京からここまでやって来た価値はありますね。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その12) 能登の海を感じる
2020年10月31日
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石川県能登島ガラス美術館をちょっとのぞいてみました。美術館の周りには、ガラスを使ったオブジェが展示されています。MoMo太郎の芸術的センスでは、これらの素晴らしさが理解できないのですが、これは、一瞬、ペットボトルの再利用かと思いましたが、ガラスを使ったオブジェです。そして、これが美術館の建物です。なかなか独創的な建物に思いました。北海道釧路市出身の建築家毛綱毅曠(もづな きこう)(→→→こちら)氏の設計だそうです。別の角度から見てみると、宇宙基地のような意匠ですね。こちらが石川県能登島ガラス美術館(→→→こちら)の入口となります。しかし、考えてみたら、能登島ってこういうガラスの工芸品で有名なんでしょうか。若いガラス工芸の作家が集まっているとか、昔から伝統的にガラス製品が盛んだったとか。そういう背景もないのにこういう美術館を作っても、なんか地元に根付いていないような、それともこれからガラス工芸を盛んにしていくような政策でもあるんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その11) 石川県能登島ガラス美術館
2020年10月30日
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能登島には水族館などの観光施設が色々あるようです(→→→こちら)。とりあえず手頃というか、色々揃っていると言えば、道の駅かなと思い、「道の駅のとじま」に立ち寄りました。まあ、どこにでもあるような道の駅ですが、やっぱり海産物やそれを使った食事が楽しめる施設もあって、いいところかも。おまけに、コロナウィルス対策にも力を入れいて、入り口のところにはちょっと怖そうなおじさんが立っていて、アルコール消毒しないで建物の中に入ろうものなら、「消毒してから入れ!」とキツイ口調で注意されます。このおじさん一日中ここに立って見張っているんでしょうか?また、道の駅の近くには、下の写真の能登島ガラス工房というガラス製作体験ができる施設やら、下の写真の小高い丘の上にある石川県能登島ガラス美術館とか、ガラス関連の施設があって、ガラス好きにはたまらない島かも。「ここ能登島が発祥!能登ミルクソフトクリーム」というのをいただきました。能登島ではじめて「ミルクソフトクリーム」を作ったということでしょうか。それまで能登半島ではソフトクリームってなかったんでしょうか???それとも、能登半島では能登島でしか牛を飼っていなくて、能登半島で飲まれる牛乳はみんな能登島産ということなのかもと思いながら能登ミルクソフトクリームをいただきました。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その10) 道の駅のとじまで能登ミルクソフトクリームを食べました。
2020年10月29日
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能登島に渡って、七尾湾を眺めてみました。能登島というのは、石川県七尾市の七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ島で、面積46.78km2(東京ドーム千個分の広さ)。周囲長71.9kmになります。地図でみると、能登半島という手の中にボールのように握られた島ですね。島によって隔てられた島の三方の海を、それぞれ七尾北湾、七尾西湾、七尾南湾と呼ぶそうですが、こちらは七尾東湾になります。能登の海って、水がきれいですね。ところで、沖合にあるこの小島。人は住んでいるのでしょうかね。漁船はこの小島をスルーしていきました。能登島とりあえずザーッと見て回ります。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その9) 能登島の海
2020年10月28日
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さて、七尾市和倉温泉と能登島を結ぶ全長1,050mの「能登島大橋(→→→こちら)」を渡って、能登島に行ってみましょう。この能登島大橋、完成したのは1982年(昭和57年)4月だそうです。ということは、もう40年近くは経っているということですね。これが能登島大橋、開通当初は一般有料道路でしたが、1998年(平成10年)7月1日、建設費の償還が終わったことから無料開放されたそうです。ということで能登島へはますます行きやすくなりましたね。能登島大橋、中心部が高くなっていますが、これは橋の下を航行する船のためへの気配りですね。橋を渡る手前に「能登島大橋ロードパーク」という施設がありました。ここへ入ってみました。トイレもあるしちょっと休憩にいいかも。中の公園には句碑がありました。「能登島の 橋を ゆさぶり 鰤起こし 俊彦」という句で、裏にある由来を読むと、七尾市出身の元判事で俳人の小林俊彦さんの句だそうです。能登大橋ロードパークから眺める能登島大橋、波の静かな七尾湾にかかる優美な橋ですね。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その8) 能登島大橋
2020年10月27日
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街の中にあった温泉旅館です。ザ・日本旅館という雰囲気がして、お金と時間があれば泊まってみたいなと思いました。外湯というのでしょうか、温泉旅館に宿泊しなくても気軽に温泉に楽しめる施設もありました。「総湯」という名前です。料金は、これぐらい。東京都の銭湯並みの料金なのがいいですね。足湯だけでも楽しめます。和倉温泉のキャラクター「わくたまくん」も待っています。この「わくたまくん」は、和倉温泉を発見したとされるシラサギが産んだ「たまご」だそうです。バッグには、3つ子の温泉たまごが入っているといますので、温泉たまごづくりは好きなのかも。ちなみに、誕生日は10月10日ということだそうです。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その7) 総湯とわくたまくん
2020年10月26日
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温泉街の中心部あたりにあるのが、この「湯元の広場」です。大きな噴水でしょうかね。街灯が魅力的なレトロなデザインで夜にも訪れてみたいですね。正面には、真ん中に鳥のブロンズ像がおかれていて、ごづごつ岩で出来た築山もあって、なかなか凝った施設でした。築山の後ろにあるのは、湯をくみ上げる施設のようでした。和倉温泉の由来が紹介された石碑です。左手には、恵比寿さまの像があって、裏側も覗けそうです。さて、この古びた石碑には、「湧浦の炎」と記されていました。下の解説には、熱と水と天然ガスで成り立つ温泉の恵みによって発展した和倉温泉。炎をテーマに、燃え上がる炎と噴水で「熱と水」を、重厚な音楽で「ガスの力」を表現した。この「湧浦の炎」は、湧浦の湯壺と併せ、和倉温泉の情熱・躍動・発展を象徴しています。平成四年十月吉日和倉温泉旅館協同組合創立100周年記念とありました。ところでこういう記念碑に使われる「〇年〇月吉日」と、日付を曖昧にしているのっていつも気になります。こちらが「湧浦の湯壺」。和倉温泉の開湯伝説にちなんだシラサギのブロンズ像が置かれ源泉が湧き出ています。この湯壺の中に卵をいれて温泉卵が作れるそうです。【つづく】人気ブログランキングへ能登路(その6) 湯元の広場
2020年10月24日
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和倉温泉は元々海中から温泉が湧き出していたのを、寛永18年(1641年)、加賀藩三代藩主・前田利常が、和倉温泉の湯口の整備を命じ、後に、明治になって埋め立て工事を行つたそうです。つまり、ここは埋立地にある公園ということになるそうです。 こちらは源泉の井戸だそうです。 こちらは源泉の施設。 ここで温泉をくみ上げて、それぞれの温泉宿に排水しているのですね。 温泉がどうしてここで湧き出るかなどの説明もありました。 この源泉施設の前には亀石と呼ばれる大きな岩ありました。この岩が海の中にあったそうで、それを残しているのだとか。 施設の前には、また立派な板碑が建立されていました。 やはり、この温泉の由緒を記したものなんでしょうね。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その5) 和倉温泉の源泉施設
2020年10月23日
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さてさて、折角来たので、和倉温泉の街を見物してみます。歩いていくと正面に大きなビルの温泉旅館がありました。 展望エレベーターまで備えて、なんかすごいですね。 こういうホテルとか旅館に興味がなかったので調べたのですが、「加賀屋」と地上20階、約1,450人の収容人員を持つ全国最大級の旅館だそうです。ウィキペディアによると、なんでも、1977年(昭和52年)1月より、旅行新聞新社が主催する「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(全国の旅館業者の中から選定)の総合部門1位として認定・表彰されている。この年以降「36年連続」で加賀屋が総合「1位」を受賞している。なんか凄そうな旅館ですね。 まあ、MoMo太郎は、こじんまりとした旅館とかビジネスホテルがいいので、宿泊することはないでしょうけど、話のタネにはなりそうです。 そして、温泉街に欠かせないと思っているのが、こういうボッタくられそうな、ナイトクラブみたいな店。あとは、場末感漂うストリップ劇場なんかあると、ザ・昭和の日本の温泉街イメージですが。 加賀屋さんの近くに、ちょっとした公園を発見。 「弁天崎源泉公園」(→→→こちら)というそうです。 公園の中にやたら林立する石碑、やっぱり歴史ある温泉でその由来などを記しておきたいのでしょうね。 海面からお湯が湧き出ていたので「湧浦」と呼ばれていたのが、延宝2年(1674年)、加賀藩からの命により、地名の涌浦を「和倉」と改めたのだとか。 「湧浦開発七士賛美の碑」という立派な石碑がありました。 七士として七名の名前が刻まれていますが、よくわかりません。この辺りに昔住んでいて温泉宿をしていた人でしょうか。 こちらは足湯ならぬ手湯、手をお湯につけて温まることができまので、ストッキングを履いてきたきた女性の方も気軽に温泉を楽しめそうですね。 こちらは飲める温泉。 飲める和倉温泉とは書いてありましたが、味はちょっとしょっぱかったです。 弁天崎という名前だけあって、鳥居があって、 弁天様が奉られていました。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その4) 弁天崎源泉公園
2020年10月22日
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和倉温泉は海沿いにあります。 その海を見に行ってみました。目の前に広がる海は七尾西湾。そして、対岸は能登島です。 沖合に突き出した桟橋にある「願いの鐘」の看板。 桟橋の先にあるのが「願いの鐘」でしょうね。見に行ってみます。 桟橋の先端に、小さな鐘が。 ハートの飾りがあるってことは、やっぱりこの鐘はラブラブカップルで鳴らすのが本来の使い方でしょうかね。と思いつつおっさん一人で健康長寿を願って鳴らしました。 能登島、ちょっと行ってみたいですね。 もう一本あった桟橋の突端まで行ってみると、 能登島へ渡る橋が架かっていました。 なかなか立派な橋です。 さらに北側にも橋が架かっているようで、能登島へ渡る人って結構多いのかも。 ということで、和倉温泉を探索した後は、能登島へ渡ってみることにしました。 七尾西湾と能登島のオーシャンビューが堪能できるように、海沿いには立派な旅館がありました。 こちらも旅館でしょうか。 景色が楽しめそうな、こういう旅館もいいですね。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その3) 和倉温泉から能登島を臨む
2020年10月21日
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和倉温泉の中を歩いてみました。 和倉温泉街の地図です。いろいろな施設や温泉がありそうですね。 こちらは和倉温泉のある七尾市の観光地図。色々なみどころがありそうで、全部回って味わうのには一週間くらいは和倉温泉に泊まって、見物しないといけないかも。 緑地の真ん中にいるのが、和倉温泉のゆるキャラ「わくたまくん」。緑地ひろば、またはわくたまパークと呼ばれている場所です。温泉に入る前にこのあたりを散策するのもいいですね。 こちらはその隣にあった、湯っ足パーク。足湯はみつけられませんでしたが、ところどころに句碑が建立されていました。 こちらは有名な歌人、与謝野晶子の句碑でした。和倉温泉って俳句や短歌が盛んな町なんでしょうか。 源泉と書かれた井戸がありました。第九号とあるので、源泉が多いのですね。 今度は海の方へ行ってみます。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その2) 和倉温泉は俳句の街?
2020年10月20日
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新型コロナウイルス感染拡大に寄与するためか、東京都民にもGoToトラベルが認められたようですが、そんな皆様の参考になるように、この夏、石川県能登半島までちょっと行ってきたのでご紹介します。 最初に訪れたのが、和倉温泉。ここが和倉温泉駅。JR西日本と第三セクターののと鉄道との列車が乗り入れている駅ですが、路線としてはのと鉄道の途中駅です。しかし、JR西日本の特急列車がこの駅まで乗り入れており、JR西日本の直営駅だそうです。 ちなみに北陸新幹線の開業で、金沢から途中の津幡駅まではIRいしかわ鉄道の路線となっていて、津幡から七尾駅まではJR西日本、そして七尾駅からはのと鉄道の路線となんだかよくわかりません。 駅前に展示されている山車の車輪です。 駅から和倉温泉の中心までは、車で5分・徒歩で25分と離れています。 その途中にあったこの中学校に立ち寄ってみました。 名前は「能登香島中学校」。 この中学校の裏手に横綱輪島大士関(1948-2018)の記念碑が建立されていました。 学生相撲出身者で唯一、大相撲の頂点、横綱に登りつめた輪島氏(本名が輪島博(ひろし)で、しこ名は輪島大士(ひろし))、この中学校の卒業生だったんですね。 ところで、輪島氏が亡くなったのは 2018年(平成30年)10月8日ですから、石碑の古さからみて亡くなる以前にこの石碑は建立されたようです。 故人の功績を顕彰するのが石碑の目的かと思っていましたが、生きているうちに石碑が建立されるとは、輪島氏はなかなかの人物だったのですね。 しかし、この石碑を建立した「全国認定環境衛生同業組合連合会」って何者? クリーニング、理容美容、料理店などの組合の上位団体なんでしょうか。 さらに、同じ中学校の敷地の近くには、関脇栃乃洋の石碑も、これは平成20年建立とありますから、まだ現役力士の時に建立されたということですね。やっぱり栃乃洋もこの「能登香島中学校」の出身者なんでしょうね。 「能登香島中学校」、力士養成の隠れた名門中学だったのかも。 【つづく】 人気ブログランキングへ 能登路(その1) 横綱輪島の石碑
2020年10月19日
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北陸自動車道にある名立谷浜SA(下り)に立ち寄りました。ここで気がついたのですが。北陸自動車って、新潟から富山・金沢・福井・米原方面へ向かうのが上りで、米原・福井・金沢・富山から新潟方面へ向かうのが下りだったんですね。東京へ向かうのが上りだと思っていたので、米原から新潟、そして上信越道や関越道を通って東京へ向かうので、米原から新潟は上りだとばっかり思っていたので、意外でした。ということは、新潟より米原の方が標高が高いのかな???巻貝をイメージするモニュメントが、このあたりでは、こういう巻貝の化石が出土したのでしょうか。サービスエリアからは日本海の眺望が広がります。沖合を進む船も見えました。花壇が整備されていました。この花壇、新潟県立高田農業高等学校(→→→こちら)がお世話しているようです。このサービスエリア、サービスエリアなのにレストランがなく、軽食用のフードコートしかありませんでした。そこでメギスの天ぷら蕎麦(580円税込み)をいただきました。新型コロナウイルス感染防止のため、テーブルの真ん中にアクリル板の衝立が設置されています。メギスの天ぷらはなかなか美味しかったですよ。【了】人気ブログランキングへ夏の思い出(その5) 名立谷浜SAから見えた日本海
2020年10月15日
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夏のドライブ旅行の思い出を綴っています。 松代PAにやってきました。 真田十万石の城下町松代だそうです。 米の1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当となります。日本では、1食に米1合、1日3合が概ね成人一人の消費量になると考えると、1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいとなるので、松代藩では10万人の人が生活していけるということでしょうか。 佐久間象山(→→→こちら)は、江戸時代後期の兵学者・朱子学者・思想家だそうで、ここ松代が出身地だそうです。 歌碑もありましたが、誰が詠んだ歌かはわかりません。「築くは銀河」とは、ひょっとして、 千曲川のことですか。 ここにあったのは、この石が置かれた公園。 石の上にはタイルがあって、 タイルには武将の絵が。 武田信玄の絵だそうです。 こちらは上杉謙信。 武田信玄と上杉謙信といえば、川中島合戦(→→→こちら)ですね。 川中島合戦の布陣を石で再現している「川中島合戦の広場」がこの松代パーキングエリアにありました。 こちらは、武田方の城だった海津城をイメージした構築物なんでしょうか。 こういう華々しい合戦もありましたが、最終的に武田家は織田信長に滅ぼされ、上杉家は織田信長との戦いをなんとか耐えて、関ヶ原での失策もありましたが、徳川政権下でも大名として生き残りました。 川中島では決着はつかなかった両家ですが、大局的には、上杉家が勝ったということでしょうか。 【つづく】 人気ブログランキングへ 夏の思い出(その3) 松代PAで川中島の合戦を学ぶ
2020年10月14日
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夏のドライブ旅行の思い出です。夏の雲ですね。ここは上信越自動車道の千曲さかきPA(下り)にある展望台です。銘板にここから見える山々の名前が記されていました。眼下に流れるのは「千曲川」。そして、この三角形の山はピラミッド?ではなく、岩井堂山(793m)です。【つづく】人気ブログランキングへ夏の思い出(その2) 千曲さかきPAからピラミッドが見える!?
2020年10月13日
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今年の夏は、コロナウイルスのせいで、東京から県外に出るにも職場の許可を得ないといけないような次第でじっとしておこうかなと思っていたのですが、たまたま休みが取れたので、許可を得てドライブ旅行に行ってきました。ここは上信越自動車道の横川サービスエリア(下り)ここにある公園です。軽井沢・信州へのプロローグと看板に記されていますが、確かにこの横川SAの所在地は群馬県安中市なので、信州とは言えないですね。こういうところで一休みはいいですね。夏休みは軽井沢の別荘で避暑に行けるような大人になるのが、MoMo太郎少年の夢でしたが、現実はなかなかかなわないものですね。下りがあれば上りもあるのが、サービスエリア。横川SAの上りには、キハ58のモックアップが展示されていました。横川SAで荻野屋の峠の釜めしを買って、この列車の中で食べると、往時の旅の感傷に浸れますね。そういえば、MoMo太郎の子供の頃、長野に行くには、「信州」とか「志賀」という急行列車がありましたが、記憶に残っているのはオレンジと緑の165系の電車でしたが、こういう気動車が走っていた時代もあったんですね。【つづく】人気ブログランキングへ夏の思い出(その1) 横川SAは軽井沢へのプロローグ
2020年10月12日
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水城公園には、いくつかの石碑が建立されています。 この石碑は、田山花袋の小説「田舎教師」文学碑です。 「田舎教師」(→→→こちら)という小説は、この行田市や隣の羽生市が舞台となった小説で、石碑には田舎教師の一節が刻まれていました> 裏面に昭和36年に記された「碑陰の記」が記されていました。 この長い石碑は、「行田音頭」の石碑です。 作曲・中山晋平、作詞・西條八十により、昭和9年につくられた新民謡(→→→こちら)です。地元では「東京音頭」のように親しまれて歌われているのでしょうか。 最後にお土産として、行田名物の「十万石まんじゅう」を買いました。 十万石とは、旧忍藩の石高十万石に因んだもので、行田以外にも大宮駅の駅売店ほか、県内各地にある十万石ふくさやの支店でも購入することができます。 ちなみに、この十万石行田本店の建物は、国の登録有形文化財となっており、築100年を優に超す江戸様式の蔵づくりが特徴です。 埼玉県民には、テレビCMでもお馴染みとなっています。 【了】 人気ブログランキング 足袋の町、行田を旅して来ました(その6)水城公園の石碑
2020年08月21日
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行田市、埼玉県名発祥の地でもあったのですね。行田市大字埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)があるからでしょうか。こちらの池には、ホテイアオイのような水草が繁殖していますね。石造りの橋が雰囲気ですね。このレトロ感あふれる建物は、旧忍町信用組合店舗です。こういう信用組合が行田の足袋産業を支えてきたのかもしれませんね。今も信用組合として営業しているのではなく、建物をカフェとして利用しているようでした。【つづく】人気ブログランキング足袋の町、行田を旅して来ました(その5)旧忍町信用組合店舗
2020年08月20日
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2012年11月公開の映画「のぼうの城」(→→→こちら)の題材となった忍城。梅雨時期の水攻めによって本丸は水没しそうになりながらも、落城を免れました。忍城は水に浮かぶ城、難攻不落の浮き城。逆に言えば、この辺りは、根川と荒川に挟まれた沼沢地で水攻めにあいやすいところだったといえるでしょう。その面影を残すのが、忍城跡の南側にひろがる水城(すいじょう)公園です。忍城の外堀の沼を利用して整備された公園です。忍城が取り壊されたあと、外堀は忍沼と呼ばれていましたが、北部から次第に埋め立てられ、行田市役所や市立体育館が建設された。そして現在、水面が残る南端部が1964年(昭和39年)4月埼玉県内最初の都市計画公園である水城公園として開園しそれました。広さは約10.3haの広大な講演となっています。行田市の“天然記念物”に指定されている行田蓮(古代蓮)が植栽されている池があります。この古代蓮は原始的な形態を持つ1400年~3000年前の蓮であると言われています。このハスは市内の公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見されたそうです。開花時期ではありましたが、蓮の花は見ることか出来ませんでした。しかし、1400年から3000年前のもの蓮の花が現在も咲くというのは、ロマンを感じますね。【つづく】人気ブログランキング足袋の町、行田を旅して来ました(その4)水城公園の古代蓮(ハス)
2020年08月19日
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行田市は埼玉県で初めて「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として文化庁の日本遺産平成29年(2017)に認定され、また「行田の足袋製造用具及び製品」が国登録有形民俗になっています。江戸時代中期には忍の名産品として知られていたのが「足袋」。近代にはミシンが使われるようになったことで生産が増大し、最盛期である昭和13年(1938)には年間約8,500万足、全国シェアの約8割を占めていたそうです。そのため市内には現在でも「足袋蔵」と呼ばれる近代化遺産も多いそうです。また2017年10月にTBSで放映されたドラマ『陸王』でも行田の足袋が全国に知れ渡りました。忍城址には、行田市郷土博物館が設置され、忍城、足袋などの行田の歴史を学ぶことができます(入場料、大人200円)。下の写真が郷土博物館です。また忍城御三階櫓は、この郷土博物館の一部となっていますので、この最上階に登って、行田の町を一望することかできます。【つづく】人気ブログランキング足袋の町、行田を旅して来ました(その3)日本遺産の町
2020年08月18日
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忍城址の中です。松と竹林があり、のんびりと散策できそうな庭園です。こちらは鐘楼です。史跡「忍城の鐘」です。おそらく江戸時代の建築物のようです。中に時鐘がありましたが、本物は行田市郷土博物館に展示されています。この時鐘゜は享保2年 (1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移された鐘だそうです。こちらは、復元された土塀です。鉄砲を撃つための狭間(はざま)も復元されています。【つづく】人気ブログランキング足袋の町、行田を旅して来ました(その2)忍城の鐘
2020年08月17日
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丸ノ内線駅間歩きを中断して、猖獗を極める新型コロナウイルスの下、こっそりと埼玉県行田市へ出かけてきました。その時の旅行記です。行田市といえば、やはり埼玉県指定史跡の忍城址(→→→こちら)ですね。映画「のぼうの城」やドラマ「陸王」の舞台になったことでも有名な城址公園です。こちらは、昭和63年(1988)に再建された鉄筋コンクリート造りの忍城御三階櫓です。おそらく、忍(おし)城には、天守閣がなかったと思いますが、北は利根川、南は荒川にはさまれた低平地だったので、この櫓で十分見張りができたのでしょう。戦国時代には関東七名城の一つといわれ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いたそうですから、防御に優れたお城だったのでしょう。ちなみに、忍城攻略の豊臣方の指揮を執ったのは石田三成だそうで、石田三成、やっぱり戦争には不向きの武将だったんですかね。落ちない城ということで、受験生のお城巡りにはお薦めかも。東門です。こちらから城内に入ります。忍城の由来が説明されてました。詳しくは行田市教育委員会のホームページ(→→→こちら)を参照して下さい。【つづく】人気ブログランキング足袋の町、行田を旅して来ました(その1)忍城址
2020年08月16日
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さて、御堂筋は梅田から難波に向けての南行き一方通行。とすると難波から梅田の北に向かうには、御堂筋の一本東側にある堺筋と西側にあるこの四つ橋筋が北行きの一方通行となっているわけです。ところで、道の名前は「四つ橋筋」、交差点の名前は「四ツ橋交差点」と表記されています。ちなみに、地下鉄の駅名は「四ツ橋駅」、そして路線名は「四つ橋線」となってます。ちょっとややこしいです。どうして、「四つ橋」と呼ばれているのかというと、今は埋め立てられている長堀川と西横堀川が十字に交差した地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称として「四つ橋」になったそうです。長堀川は今の長堀通、そして西横堀川は、下の写真の見える阪神高速の高架橋になっています。写真は、四ツ橋交差点にある「旧名所四ツ橋跡」の石碑です。さて、四つ橋の4つの橋とは、西横堀川に架かる北の橋の「上繋橋」(昭和39年(1964)に撤去)西横堀川に架かる南の橋の「下繋橋」(昭和39年(1964)に撤去)長堀川に架かる東の橋の「炭屋橋」(昭和45年(1970)に撤去)長堀川に架かる西の橋の「吉野屋橋」(昭和45年(1970)に撤去)というそうです。石碑の傍にあった説明には、江戸時代中期の俳人小西来山と上島鬼貫が詠んだ俳句が記されていました。「すずしさに 四つ橋をよつ わたりけり」(小西来山→→→こちら)「後の月 入て貌よし 星の空」(上島鬼貫→→→こちら)つまり、この四つ橋あたり、避暑や月見の場所だったということですね。さて、地下鉄四つ橋線で大阪駅に向かい帰りの新幹線に乗ることにします。ここが地下鉄の駅の入り口ですが、MoMo太郎の記憶では、むかしここには大阪市立電気科学館(→→→こちら)というプラネタリウムのある施設があったのですが、平成元年に閉館して取り壊されたて新しいビルに建て替わっていたのですね。さらに、よく見ると、昔は大阪市営地下鉄(→→→こちら)だったのが、Osaka Metro(オオサカ メトロ)(→→→こちら)という、モダンな名前に変わっていました。大阪も、しばらく(といっても30年くらい)、離れていると、結構、変わっているものだと改めて思った知ったMoMo太郎でした。【了】人気ブログランキング神戸・大阪へ行ってきました2020(その8) 四つ橋筋
2020年02月20日
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