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今日は風の強い日でしたね。徳之島では朝の7時頃から8時頃に風も雨も一番強かったので、なかなか通勤には苦労しました。徳之島にある一番大きな港、亀徳港を紹介します。この橋は亀徳大橋と呼ばれる橋です。この橋の上から見た太平洋です。後ろを振り返ると、徳之島の最高峰井之川岳(標高645m)が見えました。人気ブログランキングへ
2012年04月03日
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徳之島で見かけた花を撮影しました。花壇に植えられていた黄色い花、カザニアですね。そして、これは樹木ですが、これはシャリンバイ(車輪梅)です。シャリンバイといえば、道路の分離帯や歩道の植え込みでよく見かけますが、徳之島では野山に自生しているそうです。ちなみに、樹皮は奄美大島の特産品である大島紬の染料に使用されます。奄美大島では「テーチ木」と呼ばれ、このチップを煮込んで染液を作るそうです。また、沖縄の芭蕉布という織物の染料としても利用されているので、この奄美地方では、とても重要な花なんでしょうね。こちらは雑草のように自生していました。やはり、ヒルガオかなにかの仲間なのでしょうか。人気ブログランキングへ
2012年04月02日
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天城町の「ユイの館」です。正式には「天城町歴史文化産業科学センター」というそうです。徳之島の大自然、歴史、民族などが学べる施設で、パネルや映像を使ってわかりやすく解説され、二階の天城町くらしコーナーでは民具などの展示もされているとか、また、屋上には徳之島の四季折々の星座が観測できる天体望遠鏡があるそうです。しかし、入館料がかかるようで中は拝見していません。「ユイ」とは、「結(ゆ)い」を意味する沖縄やこのあたりの方言です。「ゆい」は結い=結合=共同=協働ということのようでも助け合ってという精神だそうです。ユイの館の玄関に飾られている、天城町の港に迷い込んできたクジラの背骨です。徳之島ではよくみかけるハイビスカスです。和名では、ブッソウゲ(仏桑華)というそうですが、葉がクワ(桑)に似ているからでしょうかね。人気ブログランキングへ
2012年04月01日
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天城町にある「さとうきびの碑」です。奄美群島におけるサトウキビの歴史は慶長の頃(1600年初期)直川智翁が中国からひそかに導入し、奄美大島の大和村で栽培普及して以来今日まで、奄美諸島の主要作物として発展してきました。特に太平洋戦争前後の生活窮乏期には真の島民の食料源として、また砂糖産地を失った日本の唯一の甘味資源供給地として、大きく貢献してきました。奄美群島が祖国復帰25周年を迎える1978年史上初の生産量12万余トン反収8トンを達成したことを記念して建立されたそうです。ちなみに、平成22年産さとうきびは天城町で8万4千トン、徳之島全体で22万トンだそうです。この歯車は、むかしさとうきびを絞って砂糖を抽出する時に使ったものだそうです。人気ブログランキングへ
2012年03月31日
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徳之島にも国土地理院が設置した電子基準点がありました。設置位置は天城町中央公民館の裏にあるグランドの中。こういうものがあるのは、やっぱりここも日本の領土という感じですね。こちらは徳之島町亀津でみつけた二等水準点です。人気ブログランキングへ
2012年03月28日
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徳之島にある天城町をブラブラとした時に撮影した写真です。天城町平土野にある火力発電所天城町図書館天城町のAコープ人気ブログランキングへ
2012年03月27日
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徳之島天城町にある西郷南州翁上陸上陸地の石碑です。そして、隣にあった解説です。ところで西郷南州って誰なんでしょうか?維新の三傑といわれる西郷隆盛のことなんですね。雅号が南州ということだそうで、最敬意を表した呼び方として、この「南州翁」は鹿児島では使われているらしい。で、この西郷隆盛は奄美大島と徳之島・沖永良部島と2回、島流しにあっているそうですが、ちゃんと島妻という愛人を作っているところをみると、なかなかの肉食系男子だったんですね。ちなみに徳之島にいたのは2ヶ月足らずということだそうです。この海岸が上陸地点のようです。しかし、西郷隆盛がいかに立派で偉大だとしても、その上陸の地まで石碑を建てるとは、なんか、大げさでは?人気ブログランキングへ
2012年03月25日
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徳之島は離島なので、大抵の移動は飛行機でする人が多いです。地方にある簡素な空港という感じで大きくはないです。滑走路もシンプルです。別名は、徳之島子宝空港というそうです。最近、開港50周年を記念して徳之島子宝空港と名付けられました。空港になる前は、塩田(海水から塩をとるところ)だったようです。石碑の下の解説には「明治11年天城町浅間出身、碇本宮多恵氏は土佐の国に塩の製法を学び、この地に初めての塩田を開き製塩に従事し、またその技法を同志、後輩に伝え以来本島唯一の製塩地として発展、昭和34年までの84年の歴史の基を築いた。」と書いてありました。人気ブログランキングへ
2012年03月23日
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ある人の話だと、徳之島の人口はおよそ27,000人、牛は母牛で10,000頭、子牛が8,000頭いるそうです。徳之島では子牛を育て販売するそうで(これを繁殖というそうです)、全国の畜産関係者がその子牛を引き取り、大人の牛に育てて売るそうです(これを肥育というそうです)。そんなわけで徳之島では子牛のセリ市が毎月開かれているそうです。ここにつながれている牛は、ドナドナ、売られていく牛です。人気ブログランキングへ
2012年03月22日
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徳之島町にある「徳之島町文化会館」です。劇団四季も公演を行うというのですから、大したものです。そして、前庭は土俵もありました。さすが、第46代横綱朝潮太郎や元小結旭道山を輩出した土地柄ですね。人気ブログランキングへ
2012年03月20日
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富山丸慰霊碑のある「なごみの岬公園」の近くに大きくて立派なお墓がありました。墓の名前は、徳田家之墓。建立したのは徳田虎雄氏と徳田秀子氏でした。徳田虎雄とは、あの徳州会理事長の徳田虎雄医師のことですかね。成功者として故郷に立派なお墓ですか。ちなみに徳之島の徳州会病院の写真です。手前に写るルミエール徳之島とは、農協の経営する斎場です。いや、万が一、薬石効なく徳州会病院で逝去しても、近くに斎場があると安心かも。明日はお彼岸、今やALS(筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)の徳田虎雄医師。お墓参りには来られないでしょうね。※この日記は別に徳州会に意を含むものではありません。念のため人気ブログランキングへ
2012年03月19日
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平和を祈念する公園ですから、徳之島町軍恩同志会による平和祈願の碑というのもありました。もうひとつひっそりと建てられていたのが、「疎開船武州丸遭難者の碑」です。1944年9月25日に奄美大島の古仁屋港を出発した学童疎開船。徳之島の疎開者ら約200人を乗せ、県本土に向かう途中、トカラ列島・中之島沖で米潜水艦の魚雷が命中し、同日午後9時ごろに沈没した。15歳以下の幼児学童77人を含む、182人が犠牲になったことを悼む石碑です。富山丸慰霊碑が戦争に向かう兵隊さんたちの慰霊塔であるのに対して、武州丸遭難者の碑は、疎開途中で撃沈された一般の人たちの慰霊碑となるのがより痛ましいことですね。しかも、学童疎開船「対馬丸」というのはよく知られていて、(参考→ 対馬丸事件また、対馬丸の犠牲者は叙勲までされているというのに、こちらの武州丸の遭難者はそういうことすらされていない。また、疎開船というものがまさかこの武州丸と対馬丸だけというわけではなく、記録を調べればもっとあったかもしれないのに。それがこの国の姿勢なんですね。しかし、対馬丸、武州丸、富山丸という船を沈めたアメリカ海軍というのは、立派に「アメリカの民間人も犠牲となった真珠湾の仇をとる」という目的を完遂したことは、やはり、国の姿勢の違いなんでしょうか。
2012年03月18日
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なごみの岬公園の入り口にある喫茶店です。もんじゃ焼が名物だとかこれがガジュマルという木だそうです。沢山の枝が絡んだみたいな木ですね。そしてこれが、ソテツ。そして、これがソテツの実。水にさらすと食べられるそうです。人気ブログランキングへ
2012年03月17日
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なごみの岬から眺望です。なかなか見飽きない景色ですね。ビーチも見えます。こういうところでのんびりと時間を過ごすのはいいですね。そして、徳之島の都会亀津のほうの眺めです。春霞の中でまた一段と雰囲気が・・・、しないかな?下の海岸まで降りてみると、サンゴ礁のつくる見事な造形です。そして、広々とした海はいいですね。ところで、このあたりの海岸は、禁漁区なんですか。でも、イセエビが釣れるとは、なかなか。人気ブログランキングへ
2012年03月16日
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公園のあたりはかなり整備されていて、ちょっと意味が分からない言葉が刻まれた石碑海がみえるパーゴラそして、なごみのひびきと名付けれらたものがありました。中にある石を叩いて音を出すものです。
2012年03月15日
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これが「なごみの岬公園」のメインテーマの富山丸慰霊碑です。両側に建立されている石碑には、富山丸が沈没した時の犠牲者の名前が刻まれています。新しいのは、「富山丸慰霊碑」から「なごみの岬公園」に名称が変わった時に建立されたためでしょう。あらためて戦争の犠牲になられた方の御冥福と恒久の平和を祈念します。これが、元々あった慰霊碑です。ところで、富山丸については詳しくはこちらをご覧ください。↓↓↓http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E4%B8%B8要するに、1944年(昭和19年)6月28日に沖縄へ兵員、重火器、ガソリンなどを送るために徳之島の沖合を通過していた輸送船富山丸がアメリカ海軍の潜水艦の魚雷によって沈没したということです。これが、慰霊碑の横にあった碑文です。どうして、こんな慰霊碑が建てられたのかというと、この石碑に名前の刻まれた三角光雄氏の功績ということになります。三角光雄 1906-1987 昭和時代の実業家。 明治39年9月10日生まれ。昭和24年熊本県人吉市に三角商店を設立,家業の石油販売店を発展させる。28年本店を鹿児島市にうつし,LPガス販売もはじめ事業を拡充,三角グループの礎をつくる。第二次大戦中アメリカ軍に撃沈された輸送船富山丸の生存者で,39年徳之島に慰霊塔を建立。昭和62年11月3日死去。81歳。熊本県出身。ということです。人気ブログランキングへ
2012年03月14日
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徳之島はガソリンが高いので、写真撮影は今のところ歩いて行ける範囲です。行ったところは「なごみの岬公園」というところ。下に透けて「富山丸慰霊碑」と見えるところが、なんというかおおらかですね。のんびりとして畑の中の道を歩いて行きます。公園の入り口です。ここは「地福徳之島三十三聖地旧跡めぐり」の二番拝所ですね。徳之島、天城、伊仙の各観光協会が11カ所ずつの神社や石碑などを聖地旧跡として選定し、案内板や解説図を設置したそうです。一応、四国の八十八札所巡りのように多くの参拝者が訪れるよう期待されているそうです。石碑の揮毫は小泉純一郎です。いわれは隣の看板に、ところで、富山丸遺族会全国連合会とはなんなのでしょうか?人気ブログランキングへ
2012年03月13日
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高千穂神社から見た徳之島町亀津の町です。やはり、港町には町を見下ろせる山が必要ですね。横浜しかり、神戸しかり、鞆の浦しかりですね。人気ブログランキングへ
2012年03月11日
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徳之島の高千穂神社の鳥居です。鳥居の笠木に反りがないシンプルなデザインの神明鳥居ですね。神社の拝殿です白木造りのこれも素朴な感じでした。そして、境内の中には、護国神社もありました。マークは菊の御紋と呼ばれる十六八重表菊の紋でした。徳之島から徴兵されて戦死された方も多かったのでしょうね。人気ブログランキングへ
2012年03月10日
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高千穂神社の境内にあった石碑です。碑文を読んでみると、兵庫県の明石市に住む徳之島の出身者が記念にサクラとヒノキを植樹したとのこと。なるほど、石碑の後ろにはヒノキらしいものが。良く見てもサクラはどこにあるのかわかりませんでした。人気ブログランキングへ
2012年03月09日
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徳之島にあって信仰を集める高千穂神社というところに参拝してみました。徳之島にある三十三か所の聖地の一つのようです。結構きゅうな石段を登っていきます。登ってみると矢場がありました。そして、これが来歴です。読んでみると、徳之島では仏教、つまりお寺は衰退してしまい神教が盛んとなったようです。地元の人の話では、徳之島にお寺はないのではと言われました。お葬式の時は、普段は別の仕事をしている人がお坊さんとしてお経を唱えてくれるのだとか。人気ブログランキングへ
2012年03月08日
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徳之島は離島ゆえに、毎日運航されるフェリーが運んでくる物資が頼りです。亀津にある亀徳新港のフェリー乗り場。鹿児島県が運営しているようです。フェリーで運ばれるコンテナも並んでいました。生活物資のトイレットペーパーやらドッグフードやらが運ばれています。また、台風でフェリーが止まると、牛乳などの生鮮食料品は店頭から消えてしまうそうです。そして、発電所もあります。徳之島には、この九州電力亀津発電所の他に天城町の平土野に火力発電所があるそうです。また、戦前から動いている水力発電所もあるそうです。人気ブログランキングへ
2012年03月07日
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町の中に建っていた石碑です。碑文には、むかしはこのあたりは浜辺でそれを埋め立てて亀津の中心街を作ったと記されていました。今も少しだけ浜辺が残っていました。また、海辺の町らしく、余り大きくはないですが、漁港もあります。人気ブログランキングへ
2012年03月06日
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道端にあるモニュメント。地元の建設会社が寄付で作ったみたいです。樹冠部が切り落とされた街路樹。なんとなく無残です。人気ブログランキングへ
2012年03月05日
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徳之島にも持ち帰りのできる弁当屋さんがあり、食事を作るのが面倒な時に重宝します。しかも不思議なのは、五百メートルも離れていないところで、「ほっともっと」と「ほっかほっか亭」が、それぞれ店を構えていることです。「ほっともっと」を展開する株式会社プレナスは、もともと「ほっかほっか亭」とフランチャイズ契約して、チェーン展開をしていた(その前は博多駅の駅弁屋さん)のが、商標権を巡るいざこざから、「ほっかほっか亭」から2008年に離脱して、「ほっともっと」になったそうで、東京の実家の近所の「ほっかほっか亭」もみんな「ほっともっと」に店の名前が変わりました。でも、まだ「ほっかほっか亭」が経営しているお店もあったんですね。このあたり、徳之島の事情も複雑かも。人気ブログランキングへ
2012年03月04日
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徳之島には水田は見かけません。よく目に付くのは、サトウキビです。サトウキビは冬の間に収穫され、島内にある精糖工場で原料糖に加工さた後、内地の製糖工場に送られ白砂糖やその他の砂糖製品に加工されるそうです。人気ブログランキングへ
2012年03月03日
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徳之島に遊びに来るとすれば、まあ、そんなリゾート感のある島ではありませんが、まあ、まあ、泊っていいホテルは二軒ほど見つけました。ここが「ホテルグランドオーシャンリゾート」徳之島の中心部・亀津港の程近くに位置し、オーシャンビューの部屋に泊ると洋上を昇ってくる朝日が楽しめます。デラックスオーシャン海側だと正規料金で一泊17,000円だそうです。ビジネスホテル代わりなら山側のシングルになりますが、一泊5,450円となります。こちらは、「ホテル・レクストン徳之島」、シングルルームで一泊5,490円です。どちらかというとビジネス客向けですね。これら以外にも、商人宿やら民宿的なものもありますが、まあ、泊れるかなというのが、徳之島町では、この二軒ですかね。人気ブログランキングへ
2012年03月01日
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徳之島のようなところでどんな生活が送れるのかというと、買い物はここ。Aコープという農協が経営するスーパーマーケットがあります。普段の食料品などはここで間に合います。そして、今ではなくてはならないコンビニエンス・ストアもあります。そして、娯楽施設もパチンコ屋さんです。余り出そうにないような雰囲気でした。人気ブログランキングへ
2012年02月29日
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徳之島には三つの町、徳之島町、天城町、そして伊仙町があります。その中で中心的なのが徳之島町のようです。これが、徳之島町役場、看板の「投票はみんでてきる町づくり」とありますが、徳之島というと選挙の時に盛り上がりが尋常でないらしい。 ご存じの方もいるかもしれないが、以前は徳之島を含む奄美諸島は国政選挙の時には奄美群島区で定数1を争う選挙激戦区であった。保岡興治と徳田虎雄の「保徳戦争」と言われた選挙は確かに激しい戦いであったようだ。酒好きな島民の性格のせいか何しろ喧嘩が多かったと聞いています。 二つに分かれた政治勢力構図の中での町議会選挙だから、もちろん、候補者も保岡派と徳田派に分かれる。そして町民も固定支持者たちは必死に自分たちの候補者を応援するというそうだったらしい。そんな町だからこそのこの選挙の標語なのでしょうかね。 ということて、徳田虎雄といえばこの徳州会病院。徳之島町にもちゃんとありました。いい意味でも悪い意味でも、徳之島の象徴的な存在かも。人気ブログランキングへ
2012年02月28日
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転勤のため鹿児島県徳之島へ住居を移したのですが、ようやくインターネットが開通しました。やはり徳之島、今まで使っていたイーモバイルが利用できなかったとは知りませんでした(T_T)人気ブログランキングへ
2012年02月11日
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