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カスター連隊を撃破した 七大部族 は、 ハンクパパ ・ オガララ ・ ブルーレ ・ ミネコンジョ等の スー族 や 北方シャイアン族 を主体としていました。 その戦闘員総数に就いては、 四千名とも、 三千名とも、 二千五百名とも記録されています。 カスター当人は、 精々千名前後と見積もっていたらしい。 首尾良く・・・先制攻撃に成功すれば、 騎兵一個連隊の兵力 (六百名前後) でも、 十分凌駕し得ると踏んでいたのでしょう。 敵の実勢を大きく見誤った事。 又、 その 戦闘能力を著しく過小評価 した事は確かな様です。 リトル ・ ビッグ ・ ホーン進撃に際して、 さなきだに劣勢な兵力を、 四隊 (三個大隊と輜重隊) に分散 している事からも、 ソレは容易に察せられます。 当時の合衆国陸軍の兵制では、 騎兵一個連隊は騎兵十二個中隊から成っていました (騎兵一個中隊の成員は、 五十名前後) 。 カスターは、 そのウチの五個中隊を直率し、 次席指揮官の マーカス ・ リーノー少佐 と、 尉官としては最先任者の フレデリック ・ ベンティーン大尉 に、 夫々三個中隊の指揮を執らせたのです。 そして、 残余の一個中隊をして、 輜重隊の護衛に当たらしめています。 敵野営地に対して、 リーノー大隊が先制攻撃を加え、 混乱に乗じてカスター大隊が別方向から雪崩れ込む。 両大隊が野営地を存分に蹂躙している間、 ベンティーン大隊は遊撃行動に任じ、 離脱を図る部族が有れば、 是を撃滅する。 まるで敵の戦闘能力を 零若しくは零同然 としか想定していない、 安直な作戦構想でした。 広域に渡る七大部族の野営地に対して、 完全な挟撃作戦を可能ならしめるには、 師団規模の兵力が必要である事位、 尋常一様の戦略眼を備える指揮官なら、 容易に理解が及ぶ筈です。 何れにしても・・・カスターは、 翌日の総攻撃開始まで兵力の使用を差し控えるのが順当であったと思われます。
June 25, 2007
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1876年6月25日。 米国モンタナ州南東部リトル ・ ビッグ ・ ホーン峡谷。 合衆国陸軍 第七騎兵連隊 の指揮権を有する ジョージ ・ アームストロング ・ カスター中佐 は、 同峡谷に大集結した 北米先住民七大部族 の一挙殲滅を目論み、 独断 で攻撃開始を命じる。 カスター連隊は、 翌26日を決行日とする 三方向からの総攻撃作戦 の一翼を担わされていた。 リトル ・ ビッグ ・ ホーンへの進出も、 上記作戦計画に基づく既定の行動であったが、 功名心に逸るカスターは、 予定を一日繰上げ、 単独攻撃 に踏み切ったのである。 然し、 カスター連隊の急襲を察知した七大部族は、 猛然と反撃に転じる。 先遣大隊は脆くも撃破され、 カスターの直率する大隊 (五個中隊264名) は、 七大部族連合軍の重囲に陥り、 約三十分の戦闘の果て・・・全滅した。 七大部族の野営地へ進撃中の先遣大隊は、 平原を覆い尽くして疾駆して来る スー ・ シャイアン戦士団 に遭遇する。 嘗て・・・彼らが眼にした事のない、 夥しい数の騎馬軍団であった。 指揮官 マーカス ・ リーノー少佐 は、 全員に下馬を命じると、 最寄の林地に拠って、 応戦を試みる。 敵は、 圧倒的多数・・・。 然も、 四名中一名は乗馬の制御に専念しなければならず、 射撃が可能なのは百名前後でしかなかった。 到底支え切れるものではなく、 間もなく退却命令が出される。 多大な犠牲を強いられながらも、 戦士団の追撃を振切ったリーノー大隊は、 リトル ・ ビッグ ・ ホーン河沿いの一台上 (後に リーノー ・ ヒル と呼ばれる) に即製の防禦陣地を構築し、 再度の防戦に努めた。 スー ・ シャイアン戦士団は、 その実勢から推して、 彼らを全滅させるのは極めて容易であった筈である。 然し、 リーノー大隊の幸運は、 是の時・・・スー ・ シャイアン戦士団の下に、 カスター大隊 接近の報がもたらされた事であった。 戦士団の大部分は、 リーノー隊を打ち捨てて、 新手の敵 (カスター隊) との戦闘へ転進してしまったのである。 リーノー ・ ヒルの戦闘は、 一時中断された。 やがて、 フレデリック ・ ベンティーン大尉 指揮下の予備大隊が合流。 更に 輜重隊 も合流し、 陣地は翌日の主力軍到着まで、 辛くも持ち応える事となる。 然し、 カスター大隊のたどった運命は悲惨で、 生存者は皆無 であった。 カスター戦死の情況 は詳らかでない。 野営地突入を期して、 リトル ・ ビッグ ・ ホーン渡河中、 対岸から銃撃されて致命傷を負ったとする記述 ( D ・ H ・ ミラー 著 『カスター将軍の最期』 ) もあるが、 是に就いては立証されている訳ではない。
June 25, 2007
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1633年6月22日。 イタリア中部 ・ ローマ教皇領首都ローマ。 物理学者 ・ 天文学者として当代随一の盛名を謳われていた ガリレオ ・ ガリレイ であったが、 その著書 『天文対話』 中で語られる 地動説 が教会の説く教理に反するとの理由から、 ローマ教皇庁に召喚され、 異端審問の場に立たされる仕儀となる。 是の日・・・。 異端審問所は、 ガリレイに対して、 有罪を宣告し、 地動説撤回の誓約を迫った。 ガリレイは、 苦悩 ・ 逡巡の果て・・・是を承諾。 為に減刑が図られはしたものの、 一切の 栄誉を剥奪 され、 『天文対話』 は 禁書指定 を受けた。 その後、 ガリレイは、 幽閉に近い生活を余儀なくされる事となる。 ガリレイの名誉が完全に回復される迄、 実に三世紀半の歳月が必要であった。 近代科学の黎明期に纏わる悲劇として語られる、 有名な逸話である。 又、 如何云う訳か。 何処までも自説を翻す事なく、 従容として死に就いた 哲学者 ・ ソクラテス の故事に、 何かと比較される逸話でもある。 更に、 日本に在っては・・・。 昭和初期から太平洋戦争前夜、 激しい 思想 ・ 言論弾圧の嵐 の中で転向を余儀なくされ、 無謀な戦争へ突進む時代の流れを押し止める事が出来なかった、 知識人の苦悩と無力感 に重ね合わせて語られる事も多い。
June 22, 2007
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“仰げば尊し 和菓子 の恩~~♪” ・・・と云う訳で。 本日は、 全国和菓子協会 制定に成る処の 和菓子の日 ですネ。 ワタ菓子の日じゃありませんよ。 古く平安期から、 宮中行事として執り行われて来た 嘉祥の儀 に由来するものです。 848 (嘉祥元) 年6月16日。 仁明天皇の御世。 蔓延する疫病の猛威を鎮めるべく、 その日付に因んだ 十六種類の菓子 ・ 餅 が神前に供えられ、 退魔招福が祈念されたと伝えられています。 唐突ですが、 バレンタインデー と ホワイトデー に比較して、 非常に 分が悪い 。 両記念日が日本の年中行事として定着するに至ったのは、 他でもない。 卒業シーズン を見据えて、 洋菓子業界が大々的に打出した、 あざといばかりの 営業戦略 が、 見事に功を奏した結果です。 実際・・・催事としての卒業は、 特有の季節感に彩られた、 好個の舞台装置であると云えるでしょう (業界にとって) 学園生活の最後を飾る想い出。 永遠の友情の誓い。 切ない、 純真な恋心の告白。 胸を打つ、 無数のドラマが毎年演じられている舞台装置。 業界が裏で演出する、 高級キャンディやチョコレートの贈答劇が、 コレにピッタリフィットした訳なんです。 悲しい哉・・・和菓子の日には何もない。 地味で、 中途半端な印象を拭えない。 唯でさえ洋菓子党が大勢を占めている若い人達に向けて、 改めてアピールする処が何もない。 御中元には、 未だ間がある。 父の日に引っ掛けるにしても、 和菓子は如何なものか? ビール券の方が断然喜ばれるんじゃないでしょうか? 私自身は、 下戸ですが・・・。 (^.^; ボヤキが長くなりました。 事程左様に分の悪い記念日なのですが、 制定された意義は壮とすべきでしょう。 全国和菓子協会には、 和菓子の一層の普及に向けて、 アグレッシヴな取組みを期待したい処です。 何を隠しましょう。 私は、 大の 和菓子党 でして・・・。 (^.^) アルコール類が全然ダメな分、 美味しい和菓子にすぐ目が行ってしまう。 洗練された和菓子のフォルムには、 独特の、 日本人の心象を捉えて離さないものがある。 小皿に載せられた 黄身時雨 と 鹿の子 の控え目な形姿は、 時として、 西洋の高級銘菓群を霞ませます。 ラジュレの マカロン にも、 アンジェリーナの モンブラン ・ ケーキ にも、 決して引けを取るものではない。 繊細な風姿に違わない、 繊細な味覚。 しっとりとした餡の食感。 豊潤な味わい。 直に頬張るのも良い。 楊枝で切り分ける際の感触も又捨て難い。 休日の午後・・・。 豊富に取揃えた洋菓子の演出する、 リッチなティー ・ タイムも宜しかろうと思いますが、 和菓子のもたらしてくれる、 安らいだ、 至福の時間がある事も、 もう少し見直されて良いのではないでしょうか?
June 16, 2007
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ナポレオン戦争を背景とした トルストイ の大河小説 『戦争と平和』 。 フランス軍侵攻の報を受けて、 激震するロシア貴族社会。 自然発生的に祖国防衛に立ち上がる、 無数の・・・無名の民衆達。 人々の愛と運命も、 目まぐるしい転変に見舞われる事となります。 ナターシャ との愛に破れた アンドレイ は、 絶望を振払うかの如く、 再度の前線勤務を志願。 その生家も侵入軍に蹂躙される処となります。 一方、 ピエール は、 神秘思想に惹かれ、 ナポレオン暗殺 を決意。(米 ・ 伊合作版 『戦争と平和』 ) ロストフ家の人々 の運命も急転します。 長男 ・ ニコライ は、 愛する ソーニャ との誓いを胸に、 勇躍戦地へ赴く。 未だ十代の 次男 ・ ペーチャ も、 両親の猛反対を押し切って、 志願入隊を果たします。 そして、 傷心のナターシャは・・・。 自らの過ちを悔い、 アンドレイとの再会を希求するナターシャですが、 その日はめぐるのでしょうか。 ボロディノ会戦。 ナポレオンのモスクワ入城。 同市街炎上。 冬将軍の到来。 フランス軍の敗走と、 惨憺たる壊滅。 畳み掛けて描かれる、 歴史上のモニュメンタルな事件の数々・・・。 叙事詩的展開を見せながら、 物語はクライマックスへ向かいます。
June 12, 2007
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露暦1812年6月12日。 ポーランド ・ ロシア国境線ネマン河。 欧州全土の覇権確立を目論む フランス皇帝 ・ ナポレオン一世 は、 大陸封鎖令 に順わぬロシアを軍事的に屈従せしめるべく、 国境地帯に集結させた隷下軍団に対して進撃を下令。 フランス軍四十五万を主体とする 六十万の将兵 が、 国境のネマン河を押し渡り、 ロシア領内へ雪崩れ込んだ。そして 戦争 が始まった。人間の理性とあらゆる本性に反する事件 が起こったのである(トルストイ著 『戦争と平和』 ) 革命の寵児・・・。 自由と平等の崇高なる理念の体現者と讃えられたナポレオンも、 今は欧州制覇の野望に憑かれた 一個の偏執者 に過ぎなかった。 宿敵 ・ 英国 を経済的苦境に陥れんと謀った 大陸封鎖令 は、 欧州諸国の反感を高め、 離反を促す結果を招いていたのである。 ・・・ロシア軍は、 戦略的撤退 を重ねながら、 フランス軍を広大な国土の奥深くへ引込もうとしていた。 ロシアの農民達は、 収穫物を侵入軍の手に渡すまいと、 自ら農地に火を放って逃亡した。 フランス軍の行く手には、 満目一面の焦土 が現出した。 食糧の調達も、 物資の集積も、 成らなかった。 暗い平原を進む 征服者の軍隊 は、 何者も征服し得ていなかったのである。 やがて・・・彼らは、 冬の到来 と共に、 彼ら自身が創り出した 荒廃の道 をたどって帰る事となる。皇帝は 歴史の奴隷 に他ならない(レフ ・ トルストイ)
June 12, 2007
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(S ・ スピルバーグ監督 『プライベート ・ ライアン』 ) ノルマンディー上陸作戦に於ける最大の激戦地として記録されるのが、 米軍第一歩兵師団が攻撃正面に投入された、 暗号名 オマハ海岸 です。 上陸軍は、 海岸線一帯に張巡らされた独軍の熾烈な火線に前進を阻まれ、 多大な犠牲を供する事となります。 静穏な浜辺は、 飛散する米兵の血と肉片に彩られた、 凄惨な地獄へと姿を変えました。 是の日一日の戦闘による米軍の死傷者は、 四千名に達したのです。 その凄惨な様相の一端は、 スティーブン ・ スピルバーグ 監督の映画 『プライベート ・ ライアン』 の冒頭部で、 些か過剰効果気味ながら・・・克明な再現が試みられています。 ジョン ・ ミラー大尉 (トム ・ ハンクス) が指揮を執る歩兵中隊もまた、 是の地獄図の只中に放り込まれます。 中隊は歴戦の勇士揃いですが、 彼らが戦うのは勝利や栄光のためじゃない。 ひたすら自己の生存を賭して、 敵と死闘を繰り広げ、 味方が次々と倒れていく中・・・辛うじて生を掴み取ります。 ミラー大尉と相識る事は、 遂にありませんでしたが・・・。 アイオワ州の農場から打連れて出征した ライアン家の四兄弟 の一人ショーンが戦死を遂げたのも、 是のオマハ海岸に於いてです。 ライアン兄弟の運命は、 惨憺たるものでした。 別の一人は同日、 暗号名 ユタ海岸 に於いて・・・。 更に、 別の一人はニューギニア戦線に於いて・・・。 実に、 四人兄弟の中・・・三人が、 至短時日の間に戦死を遂げると云う悲劇に見舞われたのです。 兄弟の最後の一人・・・。 末弟である ジェームズ ・ ライアン二等兵 (マット ・ ディモン) のみは、 何としてでも、 無事・・・郷里の母親の元へ帰還させなくてはならない。 所在の分からないライアン二等兵を捜索し、 保護せよとの特命が、 ミラー大尉に対して下るのは、 三日後の事です。
June 6, 2007
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1944年6月6日6時30分。 北フランス ・ コタンタン半島ノルマンディ海岸。 航空兵力 ・・・戦闘爆撃機 1万1000 以上, 輸送機 2300 以上, グライダー 2000 以上。 海上兵力 ・・・戦艦 6 , 巡洋艦 22 , 駆逐艦 93 , 機雷掃海艇 233 , 輸送船 ・ 上陸用舟艇 6000 以上。 兵員総数 ・・・287万人。 米英軍を主体とする欧州本土進攻軍は、 荒天を衝いて、 ノルマンディ海岸 の五つの浜 (暗号名ユタ, オマハ, ゴールド, ジュノー, ソード) に上陸を開始。 同日中に、 各上陸部隊は目標地点を確保する。 是等は、 数日の間に、 全幅 80 km、 縦深 10 ~ 17 kmの大橋頭堡に発展する。 ダンケルク撤退から四年・・・。 西部戦線 の再構築が成ったのである。 東部戦線 に於いては、 ソ連軍の大規模攻勢の火蓋が切られようとしている矢先であった。 欧州の戦局は、 枢軸軍崩壊へ向けて、 急角度で傾斜を深めていく。
June 6, 2007
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1832年6月5日。 フランス首都パリ市内。 共和派勢力のカリスマ的指導者であったラマルク将軍の葬儀が行われたのが是の日の事です。 二万数千からなる群集は、 当初・・・整然として葬列に従っていましたが、 武闘派の扇動によって、 突如暴徒化し、 武装蜂起へと発展。 市内各所にバリケードが築かれます。 大河小説 『レ ・ ミゼラブル』 のクライマックスとして描かれる六月蜂起の勃発です。
June 5, 2007
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1864 (元治元) 年6年5日。 京都 ・ 三条木屋町。 司馬遼太郎の名著 『燃えよ剣』 に限らず、 池田屋事件 は、 武闘集団 ・ 新撰組の独壇場として描かれる場合が圧倒的です。 是の夜の新撰組の働きに対しては、 京都守護職 ・ 松平容保 から 感状 が下賜されるに至るのですが、 是は極めて異例の事です。 感状と云うのは、 軍功表彰状 。 戦陣中の武勲を顕彰して、 発せられるものです。 そう成ると、 池田屋討入は、 新撰組本来の任務である不逞浪人の追捕とは一線を画する、 純然たる軍事行動 と見るのが妥当かも知れません。 浪士達が極秘裏に進めていた陰謀は、 禁裏 ・ 京都市中に火を放って、 一橋慶喜 ・ 松平容保を始めとする幕府方要人を殺戮した上、 孝明天皇を長州へ拉致すると云う、 途方もないものでした。 それ程の大計画が、 二十数名程度の人数で、 果たして遂行可能であったか如何か? ・・・無論、 議論の場で醸成される猛々しい熱気を反映した、 極めて杜撰なものであったでしょう。 然し、 そうした大それた暗躍が、 王城の地で進められていた事自体に、 京都守護職は強かな衝撃を受けたでしょうし、 さればこそ会津 ・ 桑名を始めとする、 諸藩兵が鎮圧に動員されたのです。 結局、 急場には間に合いませんでしたが・・・。 (^.^; 天誅組の大和の乱 や、 平野国臣の生野の変 。 或いは、 水戸天狗党の乱 と同等の性格を有する、 挙兵計画に他ならなかった。 云うなれば、 新撰組は、 挙兵鎮圧の先陣 を賜ったと云う事になります。 予て戦場に立つ日を夢見て、 隊務に精励して来た近藤 ・ 土方からしたら、 是は感激に総身が震える程の栄誉であった筈。 斬り込みに際して近藤が、 鉢金の上に兜を装着すると云う、 司馬遼太郎の表現に拠るなら・・・ “異様な軍装” で臨んだ意気込みの程も、 自ずと理解出来るのではないでしょうか?
June 5, 2007
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1928 (昭和3) 年6月4日未明。 中国東北部 ・ 奉天省。 国民政府軍の大攻勢の前に、 北京から撤退を余儀なくされた 満州軍閥 ・ 張作霖 は、 特別列車に身を委ね、 本拠地である奉天に帰着しようとしていた。 然し、 満鉄線と京奉線の交差点である 皇姑屯 を通過した時、 線路に仕掛けられていた爆薬に点火が成され、 列車は轟音と共に爆砕した。 張作霖は瀕死の重傷を負い、 帰らぬ人となる。 列車爆破の実行犯は、 独立守備隊中隊長 ・ 東宮鉄男大尉 。 首謀者は、 関東軍高級参謀 ・ 河本大作大佐 である。 満洲の政治主権者である張作霖を暗殺し、 奉天市内に混乱を惹起する。 治安維持を名目として、 軍事行動を開始し、 一気に満洲全土を制圧してしまうと云う、 横暴極まりない計画が立てられていたのであった。 関東軍は、 日本の権益である 南満洲鉄道 と沿線付属地の警備を主任務として駐留する軍隊である。 当然過ぎる程、 当然の事ながら・・・。 政治 ・ 外交問題に容喙する権限など、 当初から与えられてはいない。 然し、 関東軍は・・・。 時の 田中義一内閣 の推進する 対中国強硬路線 を背景として、 満蒙を中国本土から切離し、 日本の支配下に置くべく、 武力行使の機会を虎視眈々と窺っていたのである。 張作霖の死を確信した関東軍は、 直ちに日本総領事館に対し、 出兵要請を行った。 満鉄沿線に在っては、 総領事館からの要請が有って、 初めて出動出来る事となっているのである。 然し・・・総領事館は、 是を断固拒絶。 治安の維持は領事館警察力のみで全うする方針を通達して来た。 関東軍は切歯扼腕したが、 及ばない。 中国側も、 軍官憲を能く統御して、 付け入る隙を与えなかった。 武力発動の名目は失われ、 満洲制圧計画は挫折するに至った。 関東軍の陰謀は、 徒に・・・張作霖を殺害するのみの結果となったのである。
June 4, 2007
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1953年6年2日。 英国首都ロンドン ・ ウェストミンスター寺院。 前年の父王ジョージ六世の死去に伴い、 エリザベス内親王が25歳にして即位しましたが、 是の日・・・。 英国女王としての戴冠式典が、 賑々しく催されました。
June 2, 2007
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