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1945 (昭和20) 年9月27日。 有楽町第一生命ビル ・ 占領軍総司令部。 国体護持・・・。 天皇制権力機構の温存を策する支配層の思惑を背景として、 昭和天皇 と連合国軍最高司令官 ダグラス ・ マッカーサー元帥 の会見が実現する。(A ・ ソクーロフ監督 『太陽』 ) ・・・日本の官僚機構が最も有効な人民支配の体系である事を連合軍に認めさせ、 占領政策を代行する間接統治の機関として、 是を残存させる事。 そして・・・。 革命思想の波及を抑止するための精神的支柱として天皇制を存続させる事が、 日本の支配層にとって最重要の課題であったのである。
September 27, 2007
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関東軍の無法極まりない行動は、 国史に拭い難い汚点を残すものである。 それは、 明治期の先人達が、 心血を注いで、 営々と築き上げて来た、 日本の国際的信用を、 一挙に失墜させてしまったのである。 国際社会の激しい批難が日本に集中される中・・・。 関東軍は、 政府の不拡大方針を無視して、 進撃を続行。 東北三省 (奉天省 ・ 吉林省 ・ 黒竜江省) の軍事制圧を完了する。(山本薩夫監督作品 『戦争と人間 第一部 ・ 運命の序曲』 ) 首謀者としての役割を演じたのは・・・。 関東軍作戦主任参謀 ・ 石原莞爾中佐 。 同高級参謀 ・ 板垣征四郎大佐 。 同奉天特務機関長 ・ 土肥原賢二大佐 等である。 然し、 全てを 関東軍幕僚の独断専行 に帰してしまうと、 事変の本質を見誤る。 彼等の上級者として、 彼等を監督 ・ 制御する立場に在りながら、 謀略が実行に移されるのを黙認・・・或いは積極的に支持した将官連がいる。 関東軍司令官 ・ 本庄繁大将 。 朝鮮軍司令官 ・ 林銑十郎大将 。 軍政 ・ 統帥の長としての責任に於いて、 謀略の事後追認を成した者がいる。 陸軍大臣 ・ 南次郎大将 。 参謀総長 ・ 金谷範三大将 。 省 ・ 部の枢要に在って、 謀略計画の策定に深く携わった者達がいる。 参謀本部第一部長 ・ 建川義次少将 。 参謀本部第二部支那課長 ・ 重藤千秋大佐 。 同支那班長 ・ 根本博中佐 。 同ロシア班長 ・ 橋本欣五郎中佐 。 陸軍省軍事課長 ・ 永田鉄山大佐 等々・・・。 事実上・・・組織包みと呼んで良い 陸軍中央 の関与が、 明確に認められる。 更に、 政友会幹事長 ・ 森恪 の如く、 田中義一内閣時代から一貫して、 対中国強硬路線 を推進して来た政党人・・・。 又、 大川周明 の如く、 出所の怪しい工作資金を提供する事で、 謀略支援に一役買った 反動政治団体 代表の存在にも注目しなくてはならない。 満州事変は、 そうした巨大な背景の下に成就した 国家規模の一大謀略 なのである。 この背景を解明する事は、 昭和史の本質に迫る上で、 極めて重要な作業と成り得よう。 無論、 当時の日本国民の大多数は、 終戦に至るまで、 事態の真相を知る事はなかった。 然しながら、 今日・・・。 真実の一切が白日の下に曝された時点に在って、 尚も知らないと弁じ立てる事は出来ないのである。
September 20, 2007
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1863 (文久3) 年9月18日深夜。 京都西郊 ・ 壬生村。 京都守護職支配下 ・ 新選組 の筆頭格であった 芹沢鴨 は、 宿所にて就寝中を、 朋輩の 近藤勇 ・ 土方歳三 らに襲撃され、 無惨な最期を遂げた。 一般に、 芹沢の人物評は極めて悪い。 酒乱 ・ 淫乱。 兇暴で、 無頼漢めいた性格。 恐喝同然の手口による商家からの献金取り立て等々・・・。 治安と秩序を守る者に有るまじき行状が、 数多語られている。 凄惨な粛正劇の背景には、 予てから、 芹沢の悪業に眉を顰めていた守護職の意向が存するとも云われる。 とも有れ・・・。 芹沢一派を排除した事によって、 新選組部内の実権は、 晴れて近藤 ・ 土方らの手に帰するのである。
September 18, 2007
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1931 (昭和6) 年9月18日夜。 満洲 (現中国東北部) ・ 奉天郊外柳条湖。 南満洲鉄道と付属地の警備を主任務とする 関東軍 は、 自らの手で鉄道線路の一部を爆破。 満洲の政治主権者である張学良軍閥の仕業として、 一斉に軍事行動を開始 した。 張作霖暗殺から三年余・・・。 一度は頓挫した 満蒙分離構想 ・・・東北三省を中国本土から切離し、 日本の支配下に置こうとする計画は、 無法是の上ない手段をもって実行に移されたのである。 日本の運命の重大な岐路となった 満洲事変 である。(山本薩夫監督作品 『戦争と人間 第一部 ・ 運命の序曲』 ) 高級参謀 ・ 板垣征四郎大佐 は、 北大営兵舎砲撃と、 奉天城内への進撃を同時に下令した。 奉天総領事代理の 森嶋守人領事 は、 急報に接するや、 戦闘行動の即時停止を要請する為、 奉天特務機関へ直行した。 特務機関には、 板垣大佐を始めとする関東軍参謀連が詰掛け、 今や・・・臨時の戦闘指揮所として機能していた。 「攻撃命令は、 司令官閣下が出されたのですか?」 「本庄閣下は、 旅順の司令部に居られる。 緊急突発事件であるからして、 自分が代行指揮を執っている。 我が重要権益たる満鉄線が攻撃を受けた以上、 是に応戦するのは当然至極ではないか? 軍は規定の方針通り・・・」 「中国側は無抵抗主義で応じるから、 速やかに鉾を収めて貰いたいと、 総領事館へ再三に渡って電話が入って居ります」 「もう遅い。 統帥権 は、 既に発動した!」 「いえ! 遅くはありません!!」 森嶋領事は、 食い下がった。 「今すぐ停戦命令を出していただければ、 我々が責任を持ち、 外交交渉によって解決致します」 「総領事館は、 統帥権に容喙干渉 するのか! ソレが総領事館の方針か?」 板垣大佐は、 矢庭に威丈高に成った。 一度腰砕けになったら、 計画全てが破綻する。 三年前の二の舞である。 軍の陰謀である事が露見する。 免官程度では済まない。 陸軍刑法 による厳重な処罰が待っているのである。 特務機関長代理の 花谷正少佐 は、 軍刀を抜放つと咆哮した。 「統帥権に干渉する者は叩ッ斬る!」
September 18, 2007
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・・・千代田の森に暮色迫り、 風あり粛殺として吹く。 宮城前より馬場先門に至る御道筋には堵列兵森々として整列す、 其後なる芝草青き四個の広場には都下各学校代表者約五万余人あり。 時は愈よ移りて夜更けんとし、 宮城前の人愈よ静かに天地声を呑む、 仰げば大内山、 夜の空に黒み清浄の霊気世を蔽うかとぞ思わるる、 一発の砲声あり、 正に午後八時霊柩御発引の号砲なり。 御先登は近衛軍楽隊なり、 『哀の極』 を奏す、 曲調無限の悲を惹く 大正元 (1912) 年9月13日。 明治天皇の御大葬の儀が厳粛に執り行なわれている最中の帝都 ・ 東京・・・。 日露戦争時の旅順攻略軍司令官として知られる 陸軍大将 ・ 乃木希典 は、 赤坂の私邸にて、 夫人の 静子 と共に、 自刃した。 希典の享年 63歳。 静子は、 53歳であった。 遺書には、 西南の役に際して、 陛下から下賜された 連隊旗を紛失 した事への謝罪。 その責任を取って、 明治天皇へ殉ずる旨が認められていた。 また・・・。 旅順攻囲戦に於いては、 ロシア軍の近代要塞を攻めあぐね、 死傷者五万五千名 という膨大な犠牲を供するに至った事。 それが、 終生の遺憾 として、 重く圧し掛かっていたであろう事は、 関係者の誰もが容易に推察する処であった。(東映 『二百三高地』 ) 旅順攻略に際しての軍司令官 ・ 乃木の苦悩 をクローズアップした映画作品としては、 『明治大帝と乃木将軍』 (新東宝) と 『二百三高地』 (東映) が挙げられます。 『二百三高地』 の場合、 旅順攻囲自体を 戦陣 と云うよりも、 一個の 災害事象 として捉えていた点が特徴的でした。 回避する事が可能であった大規模災害は、 如何にしてもたらされたのか?と云う風な・・・。 恰も 『八甲田山』 (東宝=シナノ企画) を御手本にしたかの様な作劇手法が取られていました。 結果的に、 反戦イデオロギーに偏しない視点から、 戦争の不条理 を描出するのに成功していたと思います。(東映 『二百三高地』 )
September 13, 2007
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霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁 月三更越山併せ得たり 能州の景遮莫家郷遠征を憶う(上杉謙信 『九月十三夜』 ) 1577 (天正5) 年9月13日。 加賀国能登半島に兵を進めた上杉謙信が、 七尾城攻略を目前にして酒宴を催し、 その席上詠んだ詩とされています。 さて、 本日・・・9月13日は、 旧暦にて 十三夜 と呼ばれ、 中秋 (8月15日= 十五夜 ) とともに、 名月を鑑賞する最上の時節とされて来ました。 又、 十五夜に対して、 十三夜は 後の月 とも称されます。 是の日をモチーフとする文学作品では、 樋口一葉 の小説 『十三夜』 が最も有名でしょうか (表題ズバリ!ですので) 伊藤左千夫 の純愛小説 『野菊の墓』 でも、 後の月には、 非常に重要な意味が込められています。
September 13, 2007
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去年の今夜 清涼に侍す秋思の詩篇 独り断腸恩賜の御衣 今此に在り捧持して毎日余香を拝す(菅原道真 『九月十日』 ) 901 (延喜元) 年9月10日。 筑紫国大宰府。 平安期の政治家として、 国文学者として名高い 菅原道真 の歌を紹介させていただきます。 宇多天皇 の絶大な信頼を得て、 顕官として重用され、 国政の枢要に在った 菅原道真 でしたが、 醍醐天皇廃位を企んでいるとの冤罪を蒙って、 役職を解任された上、 太宰府へ左遷されてしまいます。 左大臣 ・ 藤原時平 の讒言に因るものとされています。 天皇家の外戚としての地歩を固め、 国政壟断の機を伺っていた 藤原一門 にとって、 道真は・・・どんな卑劣な手段を用いてでも、 排除しなくてはならない存在だったのでしょう。 菅公左遷 の概要に就いては、 1月25日付の日記 【 本日、 菅原道真、 左遷さる。 】 に記述してありますので、 御参照いただければ幸いです。 配流の地にて、 宇多天皇から賜った御衣を拝し、 一年前を追想しながら、 道真が詠じたとされるのが、 前掲の歌です。 二年後・・・道真は、 帰参の叶わぬ儘、 同地にて病没します。
September 10, 2007
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露暦1812年9月3日。 炎上中のモスクワ市内。 『戦争と平和 ・ 第三部』 から。 前夜発生した大火は、 更に勢いを増し、 今や・・・モスクワ全市街が紅蓮の焔に包まれていました。 同時にフランス兵の掠奪が横行し、 市内は阿鼻叫喚の巷と化します。 ナポレオン暗殺の機を窺い、 徘徊を続ける ピエール は、 猛火の中から、 一人の幼女を救出する仕儀に・・・。 然し、 フランス軍の巡察隊に遭遇。 拳銃を隠し持っていた事が露見し、 捕縛されてしまいます。
September 3, 2007
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1939年9月3日。 独軍のポーランド侵攻開始から二日後・・・。 英 ・ 仏両国 は、 ポーランドとの相互援助条約に基いて、 独国に対して宣戦を布告する。 人類史上、 最大最悪の惨禍として記録される事となる 第二次世界大戦 の勃発であった。 同日夜・・・。 英国 ・ 首都ロンドン。 名画 『哀愁』 から。 臨戦態勢が布かれ、 市内が異常な緊張感に包まれる中・・・。 戦地へ旅立つ ロイ ・ クローニン大佐 (ロバート ・ テーラー) が、 ウォータールー橋の袂に佇んで、 帰らざる日々を追想したのが、 同夜の事です。 二十余年前・・・。 クローニン大佐は、 永遠の愛を誓い合った女性 マイラ (ビビアン ・ リー) と、 その場所で出会ったのでした。 小鳥の様に可憐・・・。 運命の企みに脅えながら、 全く無防備で、 全く無力な女性・・・マイラとの純愛は、 悲劇的な予感を漂わせていました。
September 3, 2007
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露暦1812年9月2日。 モスクワ市内。 ボロディノ会戦から一週間後・・・。 ナポレオン麾下のフランス軍 は、 ロシアの聖都 モスクワ に整然と入城を果たします。 住民の大半が逃げ去ってしまった大都市を手中にして、 勝者然と振舞うナポレオンですが、 彼が内心で待望していた降伏の軍使は、 遂に姿を現わしませんでした。 聖都失陥と云う事態も、 ロシアに講和を促す決定的要因とは成り得なかったのです。 然も、 ボロディノの戦闘の結果、 満身創痍の状態に陥っているフランス軍に、 更なる攻勢を掛ける余力は残されていない。 結局、 フランス軍は、 補給の途絶したモスクワに一ヶ月余に渡って滞留を続け、 徒に兵力を損耗してしまうのです。 ・・・その夜、 市内各所から火災が発生し、 モスクワは嘗てない巨大な劫火の洗礼を受けます。 同夜。 モスクワ郊外イムーシチ。 『戦争と平和 ・ 第三部』 から。 炎上するモスクワの焔は赤々と夜空を焦がし、 ロストフ一家 が投宿している郊外の寒村からも望見されました。 その光景は、 祖国を蹂躙した者に対するロシア人の憎悪と敵愾心を、 いっそう激しく燃え立たせずにいませんでした。 一方・・・。 同行している傷病兵の一群の中に アンドレイ がいる事を知った ナターシャ は、 意を決して、 仮設繃帯所を訪っていました。 重傷者の悲惨な姿を目の当りにしながら、 懸命にアンドレイを捜し求めるナターシャ。 そして・・・遂に、 瀕死の床に横たわるアンドレイを発見します。 漸くにして果たされた二人の再会。 最後に言葉を交わしてから、 二年半以上の歳月が流れていました。 過ちを深く詫び、 一途に許しを請うナターシャを、 混濁する意識の端に捉えるアンドレイ。 アンドレイは、 変わらぬ気持ちを・・・ナターシャへの愛を、 切れ切れの言葉に込めて伝えます。 その眼差しには、 前にも増して強められた慈愛と信頼の光が満ち溢れていました。 是の夜から・・・。 ナターシャは、 終始アンドレイの傍らに寄添い、 献身的看護に勤しむ事となるのです。
September 2, 2007
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1864年9月2日夜。 苦難の逃避行の果て・・・タラにたどり着いたスカーレットを待ち受けていたのは、 想像を絶する、 過酷な現実でした。 タラは敵軍に蹂躙され、 屋敷も農園も、 見る影もなく荒れ果てていました。 その上、 母 ・ エレンは病に斃れ、 父 ・ ジェラルドも、 度重なる心労が基で、 精神に変調を来たしていたのです。(MGM 『風と共に去りぬ』 ) 困苦と絶望に打ち拉がれるスカーレットでしたが・・・。 やがて、 荒廃した大地の上に、 毅然として立ち上がります。 その面には、 力強い、 生存への意志が漲っていました。 「神様に誓います。 二度と飢えません! この試練を、 私は生抜いて見せます。 その為なら、 人を騙し、 奪い、 殺すでしょう。 ・・・神様に誓います。 二度と飢えに泣きません!」
September 2, 2007
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露暦1812年9月1日。 モスクワ市内。 『戦争と平和 ・ 第三部』 から。 ロシア軍総司令官 クトゥーゾフ将軍 の発した退去命令に従い、 顕官貴族 ・ 市民らは続々とモスクワから脱出。 膨大な数の避難民が列を連ね、 市中は空前の混乱を呈していました。 ナポレオン軍の軍靴が迫る是の日・・・。 ロストフ家の人々 も又、 連れ立って同市を離れます。 その最中・・・ ナターシャ は、 平民に身を窶した ピエール の姿を街路に認め、 声を掛けます。 束の間言葉を交わした後、 共に避難しようとの誘いを辞退し、 ピエールは雑踏の中に身を翻して行きました。 是の時・・・ピエールは、 単身市内に潜伏し、 ナポレオン暗殺を決行する覚悟を固めていたのです。 そして、 未だナターシャは知りませんでしたが・・・。 偶然、 ロストフ一家と同道する事となったロシア兵の一隊の中に、 ボロディノ会戦で重傷を負い、 意識不明に陥っている アンドレイ がいたのです。
September 1, 2007
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1864年9月1日夜・・・。 米国ジョージア州 ・ 合衆国軍攻囲下のアトランタ市。 マーガレット ・ ミッチェル の長編小説 『風と共に去りぬ』 から。 女主人公 スカーレット ・ オハラ が、 敵軍の迫るアトランタから決死の脱出を試みたのが、 この夜の事です。 弾薬庫炎上のシークェンスは、 物語前半の最大の見所として、 スリリングに、 スペクタキュラーに描かれています。(MGM 『風と共に去りぬ』 ) 合衆国軍の猛攻の前に、 南軍アトランタ守備隊は、 遂に撤退を開始。 群集の一部は暴徒化し、 略奪の嵐が市内に吹荒れます。 メラニーの出産に立会い、 避退の機を逸したスカーレット・・・。 彼女の前に救い主として立ち現われたのは、 レット ・ バトラー でした。 レットは、 スカーレットとメラニー母子の為に、 馬車を仕立てると、 自ら御者と成って鞭を振るう。 馬車は、 狂瀾の街路をまっしぐらに駆抜け、 炎上する弾薬庫の真前を突破。 間一髪・・・脱出に成功します。 アトランタが陥落するのは、 この翌日の事です。(MGM 『風と共に去りぬ』 ) 逃避行の途次・・・。 南軍の惨状を見兼ねたレットは、 志願入隊の意を決し、 スカーレットに別れを告げます。 残されたスカーレットは、 メラニー母子と共に、 一路・・・故郷のタラを目指すのです。
September 1, 2007
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1939 (昭和14) 年9月1日。 独軍がポーランドへ侵攻を開始した、 その日・・・。 瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦 ・ 長門艦上で、 山本五十六中将 の司令長官就任式が執り行なわれました。(FOX 『トラ ・ トラ ・ トラ!』 ) 満洲事変から日中戦争を経て、 国際社会からの孤立 を深める日本・・・。 中国戦線の混迷状態を打開する方途として、 陸軍は 独 ・ 伊両国との軍事同盟 締結を主張します。 蒋介石政権を物 ・ 心両面に渡って援助し続ける米 ・ 英両国への牽制意図からでした。 是に対して、 米 ・ 英両国との関係悪化を憂慮する山本大将ら海軍首脳は、 断固反対の態度を表明していました。 然し、 過酷な運命は、 山本をして対米英戦争の陣頭指揮を執らしめる事となるのです。
September 1, 2007
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1939年9月1日午前4時40分。 ドイツ ・ ポーランド国境。 ヴェルサイユ体制を仇敵視し、 東方の失地回復を叫んでいた ドイツ第三帝国総統 ・ ヒトラー は、 是の日・・・。 暗号名 【白の場合】 ・・・ポーランド侵攻作戦の発動を指令。 機甲師団を主力とする、 ドイツ国防軍の精鋭百数十万が、 有力な航空兵力の支援の下に、 国境全線から、 ポーランド領内へ雪崩れ込んだ。 是の軍事行動は、 ポーランドとの間に相互援助条約を締結している 英 ・ 仏両国 をして、 対独宣戦布告に踏み切らせる事となる。 人類史上、 最大最悪の惨禍として記録される 第二次世界大戦 の勃発である。 欧州に燃え上がった大戦の火の手は、 日中戦争の泥沼に喘ぐ日本を、 やがて捲込み、 東亜から太平洋へ、 その狂気の炎を燃え拡げていくのである。
September 1, 2007
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1923 (大正12) 年9月1日11時58分・・・。 相模湾北西部を震源とする、 マグニチュード7.9の大地震が関東南部を襲い、 帝都 ・ 東京は壊滅的被害を蒙ります。 市内の至る所から火の手が上がり、 折からの強風に煽られて大火災へ発展、 下町一帯を焼き尽くしました。 火災による死者の数が、 家屋倒壊による圧死者数を遥かに上回った事は、 人口周密地に於ける防災上の欠陥が露呈したものでした。 死者 ・ 行方不明者十数万名。 被災家屋四十万戸。 被災者四百万名。 日本経済は極めて深刻な打撃を受けたのです。
September 1, 2007
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