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1948年1月30日。 インド連邦共和国 ・ 首都ニューデリー。 自主独立を求める民衆の声は印度亜大陸を覆い、 英国の植民地統治は終焉の日を迎えんとしていた。 その最大の推進力となったのは、 ガンジーの提唱する 非暴力 ・ 不服従 主義である。 1947年8月15日、 悲願の独立は達成されるが、 同時に・・・回教国家 パキスタン の分離と云う現実を生んだ。 国内に於いても、 回教徒 対 ヒンドゥー教徒 の血腥い抗争が表面化する。 懸命に、 両者の 融和共存 を説くガンジーであったが、 彼に対するヒンドゥー教原理主義者の反感は募っていった。 そして、 是の日・・・。 一青年の発砲によって、 78年の生涯を閉じた。
January 30, 2007
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プーシキンは名門貴族の出身であったが、 青年時代西欧の自由主義思想に傾倒し、 叙情的で、 瑞々しい感性の漲る詩風によって、 絶大な人気を博した。 奔放な詩作は、 当然の如く体制批判に及んで、 皇帝直属の秘密警察から摘発対象と見做される事となる。 その生活は、 秘密警察の監視下に置かれながら、 自由主義精神 ・ 反骨精神は終生失われる事なく、 上流社交界の虚栄 ・ 偽善を容赦なく暴いて見せた。 ロシア官憲にとっても、 社交界の人士らにとっても、 排除すべき存在と映じていた事も確かな様である。 プーシキンの死は、 彼らが・・・射撃の名手であるダンテスを使嗾し、 詩人の謀殺を図った結果であるとの、 実しやかな風説も成されている。 決闘から死までの二日間・・・。 プーシキンの屋敷前には、 その容態を気遣い、 回復を祈る見舞客の来訪が絶えなかったと云う。
January 27, 2007
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露暦1837年1月27日。 ペテルブルグ郊外。 詩人 ・ 小説家として絶大な人気を博し、 ロシア国民の多くから敬愛されていた アレクサンドル ・ プーシキン は、 是の日・・・。 フランス人近衛将校ジョルジュ ・ ダンテスとの決闘によって、 瀕死の重傷を負う。 美貌の誉れ高い、 プーシキンの妻 ・ ナターリヤ に対するダンテスの執着が、 決闘の原因とされる。 二日後・・・死去。 享年 39歳であった。
January 27, 2007
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1880年代のスーダン派兵を背景とする文芸作品としては、 英国の歴史小説家 A ・ E ・ W ・ メイスン の執筆した 『四枚の羽根』 が最も著名であろう。 近年、 シェカール ・ カプール 監督/ヒース ・ レジャー 主演で映画化された事から、 日本での知名度も急激に増し、 従来抄訳でしか読めなかったのが、 完訳での鑑賞が可能となった。 非常に嬉しい事である。 (^.^) その作品・・・ 『サハラに舞う羽根』 は、 七度目の映像化となる。 前述の如く・・・スーダン派兵は、 英国政府の一貫性を欠いた方針の下に挙行された。 大国の威信。 世論への配慮から成されたもので、 勇断さの片鱗も見られず、 結果として万事が裏目に出て、 惨憺たる失敗 に終わる。 その不透明な振幅の過程を反映するかの様に、 同作品の主人公 ハリー ・ フェヴァシャム も、 戦争への懐疑に揺れ動いている。 名門の軍人の家庭に生まれたハリーは、 軍人の道を歩むべく宿命付けられ、 幼少期から厳格な訓育を施されていた。 然し、 元来が 繊細な感受性 の持主である彼は、 戦争に対して、 強い恐怖の念を抱き続けて来た。 成長したハリーは、 陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、 名門連隊に配属される。 美しい婚約者 エスネ ・ ユースタス との挙式を間近に控え、 人生行路は順風満帆かと思われた。 ソンなさなか、 スーダン派兵が決定したのである。 従軍命令を受領するものの、 大英帝国の体面のために、 遥か異郷の地に赴いて戦う意義を見出せない。 愛するエスネを気遣い、 懐疑と苦悩の果てに除隊を決断したハリーであったが、 戦地へ征つ三人の同僚は、 彼のもとへ 白い羽根 を送り付ける。 白い羽根とは・・・。 臆病者 に対して投げ付けられた、 訣別の印であった。 事情を知ったエスネもまた、 四枚目の羽根を差し出して、 彼のもとから去っていく。 愛 も 名誉 も 友情 も・・・全てを失ったハリーは、 或る決意を胸に秘め、 故国から姿を消す。 そして、 三年後・・・。 嘗ての僚友達が苦戦を強いられているサハラ砂漠へ、 忽然と現われるのである。 ハリー ・ フェヴァシャムは、 臆病者ではない。 決して、 死を恐れていないし、 敵を恐れてもいない。 彼が恐れていたのは、 自分が臆病風に吹かれる事であった。 初陣に臨んで、 無意識の裡に醜態を曝してしまうのではないかと、 絶えざる不安に苛まれていたのである。 従って、 臆病者の烙印を押された者が 汚名返上 に奮闘すると云う、 単純な冒険譚ではない。 無論、 贖罪 の物語でもない。 現地人に身を窶し、 敵地深く潜入するのも、 ジョセフ ・ コンラッド の 『ロード ・ ジム』 の如く、 自虐自責の念 に駆られての事ではない。 敢えて危険に身を曝すのは、 自己の全否定を意味しない。 本来の自己を発見し、 確立するための試練と位置付けている。 自分が、 本当に価値ある人間なのか。 その証を立てるべく、 戦乱の渦中へ身を投じたのである。 誰に対して、 証を立てるのか? 他でもない、 自分自身に対してである。
January 26, 2007
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1885年1月26日。 エジプト領スーダン ・ 首都ハルツーム。 回教原理主義者 マフディー ・ ムハンマド ・ アフマド 率いる叛乱軍の攻囲下に在った ハルツーム は、 是の日・・・。 数万からなるマフディー軍の総攻撃を受けて陥落。 エジプト軍守備隊は全滅した。 エジプトの宗主国的立場に在った英国が、 事態収拾の切札として派遣した チャールズ ・ ゴードン将軍 もまた、 壮絶な戦死を遂げる。 享年 53歳であった。 マフディー軍が、 燎原の火の勢いで、 スーダン全土を席捲しつつある情勢下・・・。 英国政府は、 軍事介入の意思を持っていなかったが、 極めて困難な問題に直面していた。 将に・・・マフディー軍の重囲に陥らんとしている首都ハルツームから、 エジプト軍民一万数千名を脱出させ、 虐殺の運命を免れしめる事である。 無為無策に終始し、 大量のエジプト人を見殺しにしたとあっては、 宗主国の体面を保てない。 窮余の策として取られたのが、 前スーダン総督であるゴードン将軍の派遣であった。 清朝を震撼させた 太平天国の乱 に際して、 常勝軍を率いて、 叛乱軍を鎮圧。 スーダン総督時代、 奴隷制度廃止 を断行。 英国からも、 スーダンからも、 英雄視され、 信望の厚いゴードンをして、 ハルツーム撤退の陣頭指揮に当たらしめたら良いと考えたのである。 処が、 ハルツームに赴いたゴードンは、 現地の情勢から、 居留民の安全な避難を全うする為・・・大規模な保障軍事力が必要と判断、 援軍の派遣を要請し、 本国政府の思惑と真向から対立する。 大いなる 誤算 であった。 英国国民の大多数がゴードン支持を表明し、 ゴードン救出の声は日増しに高まっていく。 宰相グラッドストン は、 世論に突上げられる格好で、 スーダン派兵の決断を下す。 英国軍は、 水陸両路からハルツームへ進撃を開始し、 マフディー軍との間に戦端が開かれる。 然し、 先遣隊がハルツームに到達した時、 同市は既にマフディー軍の制圧下に在ったのである。 結局、 英国軍はなんら得る所なく撤退し、 スーダンは以後十数年間・・・戦乱と飢餓と疫病に支配される事となる。
January 26, 2007
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901 (昌泰4) 年1月25日。 京都 ・ 御所内。 宇多天皇 の絶大な信頼を得て、 重用され、 国政の枢要に在った 右大臣 ・ 菅原道真 は、 藤原一門の陰謀によって、 役職を解任され、 太宰府権帥への配転を命じられる。 菅公左遷 として、 往古から語継がれている一幕である。 比類のない学識を謳われ、 一文章生から文章博士を経て、 柱石として重用され、 右大臣の地位にまで登り詰めた道真であったが、 その破格の栄達を不服とする者、 改革に反感を抱く者達も増大していた。 就中、 天皇家の外戚としての地歩を固め、 国政壟断の機を伺っていた 藤原一門 にとって、 道真は・・・どんな卑劣な手段を用いてでも、 排除しなくてはならない存在であった。 左大臣 ・ 藤原時平 を中心とする勢力は、 道真が醍醐天皇廃位を企んでいると云う、 嫌疑を捏造したのである。 なんら謂れのない罪科を蒙った道真は、 自らの悲境を一首の和歌に託し、 宇多上皇へ哀訴する。流れ行く われは水屑 (みくづ) と なりはてぬ君 柵 (しがらみ) と なりてとどめよ 思わぬ事態に宇多上皇は驚愕し、 急遽・・・参内の手筈を整える。 醍醐天皇を説諭し、 道真に対する処分を撤回させる意向であった。 然し、 警護の士に通行を阻まれ、 帝への謁見は叶わなかった。 二年後・・・道真は、 配流の地にて病没する。 菅原氏追放をもって、 藤原氏が多年に渡って推し進めて来た、 他氏族排撃の陰謀は完了する。 最早、 藤原氏の専横に異を唱える勢力は、 廟堂に全く存在しなかった。 平安文化は、 やがて爛熟期を迎え、 藤原一門の栄華の幕が開く。 同時に、 古代律令制国家は精神的背骨を失い、 急速に崩壊へと向かうのである。
January 25, 2007
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1902 (明治35) 年1月24日未明。 青森県八甲田連峰。 目的地まで 2km弱と云う地点に達しながら、 暴風雪に前進を阻まれた演習部隊は、 雪濠を構築し、 露営の態勢に入っていた。 黎明まで現在位置に留まって、 情況を見るのが賢明との指揮官判断によるものである。 然し、 演習部隊に随行していた 大隊本部 は、 公然と指揮に容喙し、 帰営の命令を下す。 「この儘では・・・朝までに、 大半の者が凍傷で動けなくなってしまう!」 斯くして、 演習部隊は八甲田踏破を断念・・・帰営の途に着くのであるが、 その途次に於いて、 当初の目的地への道が発見されたと具申する上曹が有って、 その意見を容れ、 再度反転する。 その結果として、 進路も退路も見失い、 完全な遭難状態に陥ってしまう。 部隊は、 食料も燃料もなく、 数日間に渡って山中を彷徨した果て、 潰滅を遂げるのである。 演習参加人員 210名中、 凍死者 199名。 世界山岳遭難史上最大最悪の惨事として記録される。 戦前に在って・・・。 この事件は、 軍歌 ・ 『陸奥の吹雪』 に詠われ、 微かながら片鱗を伝えられて来た。 軍国美談調の修辞に糊塗された詩世界は、 凄惨極まりない遭難の実態から程遠い。 厳秘に付されていた感のある惨劇の実態が、 一般に周知されるに至ったのは、 戦後も相当年数が経過してからの事・・・。 云うまでもなく、 作家 ・ 新田次郎 の小説 『八甲田山死の彷徨』 によってである。 作者は、 青森第五連隊と平行して八甲田踏破の計画を進めていた 弘前歩兵第三十一連隊 の演習部隊に着目している。 同部隊は、 全く同時期に八甲田山系へ突入しながら、 一人の落伍者を出す事もなく、 踏破に成功しているのである。 両者の全く正反対の結果は、 一体何を意味するのか? 何が両者の明暗を分けたのか? 綿密な資料に基いて、 小説ならではの分析手法によって、 両者の行動を対比的に再構成していく。 大自然の猛威を侮る事なく、 謙虚な態度で対象を分析し、 問題点の克服に努め、 周到な準備をもって臨む、 三十一連隊。 情報を軽視し、 自らを過信し、 状況を自己に都合良く推量し、 惨憺たる潰滅に至る、 第五連隊。 同書の示唆する所は重大で、 刊行当初から 経営者 ・ 管理者 の 必読書 と評され、 今日まで読み継がれている。
January 24, 2007
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1902 (明治35) 年1月23日。 青森県八甲田連峰。 日露戦争前夜・・・。 厳冬期の輸送路確保と耐寒訓練を目的として、 冬の 八甲田山 を踏破する行軍演習の計画が、 第八師団隷下の二つの歩兵連隊によって、 同時に進められていた。 一方の計画策定者である 青森歩兵第五連隊 の演習部隊 210名は、 是の日・・・。 進軍喇叭の吹奏音と共に、 意気揚々と営門を発した。 折から・・・列島北部には、 観測史上未曾有の大寒気団が急接近していた。 天候は急激に悪化し、 八甲田山系は雪と突風の支配する、 魔の領域と化す。 視界一面の白い闇・・・。 荒れ狂う暴風雪に進路を阻まれ、 演習部隊は立往生を余儀なくされるのである。
January 23, 2007
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1879年1月22日。 アフリカ南部ナタール地方イサンドルワナ。 先住部族国家 ・ ズールー王国 は、 英国植民地政府の服属要求を拒絶し、 臨戦態勢を着々と整えていた。 チェルムスフォード中将 麾下の英国軍一万余が、 国境線のツゲラ河を越えて、 ズールー領内へ侵攻を開始したのは、 同月11日の事であった。 情報を軽視し、 敵の兵力と攻撃力を過小評価するチェルムスフォードに対して・・・。 ズールー王 ・ セヨワテ は、 英国軍の動静から眼を離さなかった。 是の日・・・。 ツゲラ河東方16kmの イサンドルワナ に宿営中の英国軍先遣隊は、 ズールー王国軍主力一万二千余の反撃に遭遇する。 槍と楯を翳しながら押し寄せるズールー軍に対し、 英国軍は一斉射撃で応じるが、 弾薬の消耗も凄まじく、 補充を得られない儘、 陣地への突入を許してしまう。 白兵戦に移行すると、 ズールー戦士の槍は俄然・・・その威力を発揮し、 英国兵を圧倒した。 繰出される槍の前に、 次々と斃れていく英国兵。 方陣も崩され、 部隊は壊乱状態に陥る。 戦闘は、 何時しか虐殺の様相を呈していた。 英国軍の戦死者は、 千数百名と云われる。 ダーンフォード中佐 を指揮官とする、 現地人義勇軍も、 多くは戦死を遂げた。 先遣隊壊滅の悲報を受けたチェルムスフォードは、 作戦の破綻を悟って、 全部隊に、 ズールー領内からの撤退を命じた。 この イサンドルワナの戦闘 は、 最新式の銃器を装備した近代的編成の軍隊が・・・。 白兵突撃を主体とする前近代的戦闘集団に、 惨憺たる敗北を喫した、 史上最悪の戦例とされている。
January 22, 2007
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1793年1月21日 フランス王国首都パリ。 革命圧殺を目論む普 ・ 墺連合軍との戦闘は、 日毎に激化の一途をたどっていた。 存亡の危機に瀕した革命政府は、 義勇兵を急募すると同時に、 反革命勢力の巻返しを封じるため、 国王処刑の決断を下す。 前年8月10日の急進派蜂起以後、 権利を剥奪され、 家族とともに、 タンプル塔内に幽閉されていたフランス国王 ルイ十六世 は、 是の日・・・。 革命広場にて、 二万の群集が見守る中・・・ 断頭刑 に処された。 享年 40歳であった。 1754年8月、 国王 ルイ十五世 の孫として生まれる。 1765年11月、 王太子に擁立される。 1770年5月、 オーストリア皇女 マリー ・ アントワネット と結婚。 1774年5月、 ルイ十五世死去に伴い、 19歳にして国王位を継承。 困難な時代の国政を担わされる。 やがて、 三部会から国民議会を経て革命政府が成立すると、 旧体制の最高責任者として糾弾される立場に置かれる。 愛妻家で、 子煩悩の、 温和な家庭人。 争い事を好まず、 他人に対して、 まるで悪意を抱かない。 質朴で、 無欲恬淡とした性格の所有者。 絶対王制の体現者 ・ 圧制者と云う印象は更々なく、 逆に・・・革命の生贄に饗された犠牲者であるとする、 同情的な見方が浸透している。 取分け日本では。 実際・・・フランス革命が、 あんなにも 急進的 ・ 暴力的 な様相を呈する事なく、 英国名誉革命 の様に穏健な路線を取って、 立憲君主政体 へ移行していたなら、 ルイ十六世の性格は、 「国王は君臨すれども統治せず」 との基本理念に見事適合し、 寧ろ理想的な君主像として奉られていた・・・かも知れない。 (^.^; 然しながら、 フランス絶対王制の君主として、 是等の性格は、 意志薄弱を意味するものでしかなく、 無能 ・ 無定見と同義的に作用し、 革命の到来を早め、 ブルボン王朝を破滅へ導く遠因となった事も否めない。 国家の危急に際して、 果断な態度で政務に臨んだ事が一度もなく、 窮迫に瀕している国民生活の実情に関して、 正確な理解が及んでいたのか大いに疑わしく、 結果として・・・なんら有効な施策を打出せなかった。 また、 巨費を投じて、 遊興に耽溺する王妃を間近に見ながら、 夫として、 国王として、 全く諫言を成さないでいた事の責任も重大であろう。
January 21, 2007
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1184年 (寿永3年) 1月20日 一時的に、 京洛を手中に収めていた源義仲でしたが、 是の日・・・。 源義経軍の攻勢の前に、 義仲軍は大敗を喫しました。 義経方の武将である 佐々木高綱 と 梶原景季 による、 有名な先陣争いが行われたのが是の時の事とされています。
January 20, 2007
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露暦1547年1月16日。 モスクワ ・ クレムリン内ウスペンスキー聖堂。 モスクワ大公国君主 ・ イワン四世 の・・・ロシア皇帝としての戴冠式典が、 厳粛に執り行われた。 二百数十年に及ぶタタール人の支配を覆し、 スラヴ民族が独立を回復する過程で、 指導的役割を果たした英雄を、 累代に渡って輩出している、 光輝ある家系の末孫・・・。 幼少時から英明の資質を謳われた 16歳の若者は、 ロシア変革の大理想を胸に抱いていたが・・・。 皇帝の権力基盤は非常に脆く、 その身辺には・・・国政壟断の機を窺う 大貴族 達の陰謀が渦を巻いていた。 国威の発揚と皇帝権力の強大化を企図するイワン四世は、 タタール諸国家への外征を推進する一方で、 大貴族を国政中枢から排除するための大粛清を断行する。 呵責容赦のない弾圧が、 敵対勢力の上に加えられていくのである。 革新の理想に燃えていた若者の治世は、 何時しか戦乱と流血に彩られていた。 人々は、 イワン四世を畏怖し、 雷帝 の異名を奉った。 そして、 その名は 専制 と 恐怖政治 の代名詞として、 後世へ語継がれていく事となる。
January 16, 2007
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630年1月11日。 アラビア半島西部 ・ メッカ。 開祖 マホメット に率いられた一万余の回教徒軍は、 メッカ 近郊に進出、 同市攻囲の態勢を整えていた。 マホメット軍の勢威に圧倒された守将アブー ・ スフヤーンは、 抵抗を断念し、 自ら進み出て、 その軍門に降った。 宿敵クライシュ族との積年の抗争に終止符が打たれ、 悲願とする聖市征服が、 無血の中に成就したのである。 宗教指導者としてのみか・・・政治家 ・ 軍略家としても稀有の天分を有するマホメットは、 民衆の熱狂的支持を受けて、 アラビア第一の実力者 の地位を確立しようとしていた。 メッカ入城を果たした彼が最初に命じたのは、 カーバ神殿 に祀られている 数百体からの偶像 を、 悉く破壊する事であった。 偶像中の最高神であるフバル神の巨像が、 大音響を伴って倒壊した時・・・。 マホメットは、 『コーラン』 の一節 (第17章83節) を叫んだとされる。 「見よ! 真理が到来し、 虚偽なる物は潰え去った!」
January 11, 2007
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露暦1905年1月9日。 首都ペテルブルグ ・ 冬宮前広場。 旅順要塞陥落から数日後・・・。 深刻な食糧難に喘ぐ労働者 ・ 大衆によって、 生活の窮状を皇帝に直訴するための、 大規模な請願行進が催された。 正教会の 僧侶ガポン を先頭に、 聖像と皇帝の肖像画を掲げ、 冬宮を目指して、 人々は行進を開始した。 参加者十万人を数える大規模な行進であったが、 賛美歌を斉唱しつつ、 努めて整々と成された。 然し、 列の先頭が 冬宮前広場 に至った時、 思わざる事態が発生する。 配備されていた軍隊に、 突如発砲が命じられたのである。 広場にあふれる民衆に向かって、 無差別に銃撃が加えられ、 阿鼻叫喚の地獄図が現出した。 死傷者は、 千人以上と云われる。 血の日曜日事件 と呼ばれる。 是の事件は、 ロシア民衆が意識の内に根強く抱いていた帝室への崇敬の念を、 粉微塵に打砕く結果ともなった。 同盟罷業 ・ 暴動の渦はロシア全土に波及し、 革命派は混乱に乗じて勢力を拡大していくのである。 結果的に、 ニコライ二世は、 請願書に盛込まれていた議会開設の要求を認めざるを得なくなる。 第一次ロシア革命 の起点ともされている。
January 9, 2007
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水師営の会見佐々木信綱 作詞岡野 貞一 作曲旅順開城約成りて敵の将軍ステッセル乃木大将と会見の処は何処水師営庭に一本棗の木弾丸痕もいちじるく崩れ残れる民屋に今ぞ相見る二将軍乃木大将は厳かに御恵深き大君の大詔伝うれば彼畏みて謝しまつる昨日の敵は今日の友語る言葉も打ち解けて我は讃えつ彼の防備彼は讃えつ我が武勇容形正して言い出でぬ此の方面の戦闘に二子を失い給いつる閣下の心如何にぞと二人の我が子それぞれに死所を得たるを喜べりこれぞ武門の面目と大将答力あり両将昼食共にして尚も尽きせぬ物語我に愛する良馬あり今日の記念に献ずべし厚意謝するに余りあり軍の掟に従いて他日我が手に受領せば永く労わり養わんさらばと握手懇ろに別れて行くや右左砲音絶えし砲台に閃き立てり日の御旗
January 5, 2007
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例年の事ですが・・・。 正月三箇日も夢の如くに過ぎ、 苦行の日々が戻って参りました。 2007年が、 皆様にとって幸多い年であります事を、 心から祈念申し上げます。 (^.^) 個人創作サイト 【土曜日の書斎】 のリフレッシュ ・ ルームとして開設されたのが、 一昨年の事・・・。 当室にも、 漸く方向性らしいものが見えて来ました。 日々少量ずつ、 その手応えを感じながら、 運営に勤しんでいる次第です。 また、 別室 と銘打っていますが、 私の気持の中では、 別々の物であるなどと・・・ 寸毫 も思っていません。 二つの部屋は、 不可分 。 全く同一の物であるとの認識の下に、 精一杯の愛情を注いで運営しています。 余程御暇な時で結構ですので、 本拠地の方も覗いてやって下さい。
January 4, 2007
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1868 (慶応4) 年1月3日。 京都南郊 ・ 鳥羽街道。 新政府の主導勢力である薩摩 ・ 長州は、 徳川氏排除の方針を崩さず、 旧幕府勢力との対決色を露骨に打ち出していた。 辞官納地の強要を始めとする、 前将軍 ・ 徳川慶喜 に対する過酷な処遇は、 その幕下の士を憤激せしめ、 薩長打倒の声は日増しに高まっていく。 前年12月の政変以来、 京坂街道に布陣し、 臨戦態勢を整えていた 旧幕府軍 15, 000 名は、 是の日・・・。 薩長勢力の討滅を期して、 京都への進軍を開始した。 薩長連合軍 は、 4, 000 ~ 5, 000 名でしかない。 兵力の上からは、 旧幕軍が圧倒的に優勢であった。 鳥羽街道を北上する旧幕軍と薩摩軍との間に戦端が開かれると、 伏見方面でも砲火の応酬が成された。 鳥羽街道周辺は、 忽ちにして凄惨な戦場と化し、 伏見市街は炎上した。 会津藩兵や、 土方歳三 指揮下の 新撰組 、 佐々木唯三郎 指揮下の 京都見廻組 は、 白刃を振るって、 果敢に突撃を繰り返すが、 新式銃を装備した薩長軍を打破る事は出来なかった。 4日の戦況は一進一退で推移するが、 5日・・・薩長軍の陣頭に 錦旗 が翻った事で、 勝敗の帰趨は決した。(松竹 『壬生義士伝』 ) 旧幕軍将士は、 自分達が朝廷に叛く者・・・朝敵となった事実を知ったのである。 朝敵の汚名 を蒙る事・・・。 それは、 大坂城に在る総帥 ・ 慶喜が 最も恐れていた事態 であった。 6日深夜、 慶喜は、 会津藩主 ・ 松平容保 ら数名を従えて、 大坂城から脱出。 翌7日早朝、 大阪湾に停泊中の幕艦 ・ 開陽丸に座乗すると、 一万数千余の将士を置捨てた儘・・・江戸へ帰還した。 戊辰の争乱 の序曲である 鳥羽伏見の戦闘 は、 旧幕軍の全面的敗北に終わった。 新政府は 慶喜追討令 を発し、 改めて東征軍が編成される事となる。
January 3, 2007
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1905 (明治38) 年1月2日。 中国東北部 ・ 遼東半島。 二百三高地 失陥を転機として、 ロシア軍は完全な非勢に陥っていた。 東鶏冠山 ・ 二龍山 ・ 松樹山 ・・・。 攻囲開始時から日本軍の進出を頑強に阻んでいた、 ロシア軍の名立たる堡塁は、 相次いで攻略されていった。 守備兵の戦意も、 急速に減退。 伏魔殿 ・ 旅順 は、 断末魔の苦悶に喘いでいた。 1905 (明治38) 年1月1日。 日本軍は、 ロシア軍防衛線の要である望台一帯を制圧。 一挙に本要塞内へ突入しようとしていた。 要塞司令官 アナトール ・ ステッセル中将 は、 遂に降伏の軍使を差遣する。 翌 1月2日 。 日露両軍代表は、 開城規約文書に調印。 戦闘の全面的停止が命じられる。 作戦期間六ヶ月余・・・。 日本軍将兵の戦死者数 一万五千 。 戦傷者数 四万四千 。 夥しい犠牲を伴った旅順攻囲は、 漸くにして終結を見たのである。
January 2, 2007
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1946 (昭和21) 年1月1日。 ・・・朕は爾等国民と共に在り、 常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。 朕と爾等国民との間の紐帯は、 終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、 単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。 天皇 を以て 現御神 (あきつみかみ) とし、 且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、 延て世界を支配すべき運命を有すとの 架空なる観念 に基くものにも非ず。 ・・・( 「年頭、 国運振興ノ詔書」 )
January 1, 2007
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