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1859 (安政6) 年10月27日。 江戸 ・ 伝馬町獄舎内。 橋本左内 ・ 頼三樹三郎 ら数多くの尊攘派志士が非命に斃れた 安政の大獄 の最中・・・。 幕政批判の廉で投獄され、 江戸へ送致されていた長州藩士 ・ 吉田寅次郎 もまた、 謀反人の一人として、 斬首刑に処せられた。 享年30歳。 予て温めていた幕閣要人襲撃構想を、 詮議役人の前で、 臆面もなく開陳した事が、 致命的過失となった。 ・・・将来の展望を鎖された獄内。 閉塞的な状況下に在って、 松陰の国家論は極端に尖鋭化する。 幕府弾劾に留まらず、 幕藩体制その物の否定へと突き進むのである。 そして、 在野の志士達の内部に漲る情熱とエネルギーに無限の可能性を見出し、 彼らこそ国家変革の主体であるべきとする、 いわゆる 草莽崛起論 を説くに至る。 松陰の人格は、 江戸期=後期封建制度下の教養 ・ 美意識に育まれたものであったが、 その思想は特殊な電磁性を帯び、 封建制度を突き崩す役割を果たした。 刑の執行役を務めた 六代目 ・ 山田浅右衛門 は、 松陰の名を知る事はなかった。 後世に成ってから、 是の日・・・ 安政6年10月27日 に斬った志士の最期が、 自分が実見した中で、 最も見事であったと語ったとされている。 思想とは本来、 人間が考えだした最大の 虚構 であろう。 松陰は思想家であった。 かれはかれ自身の頭から、 蚕が糸をはきだすように日本国家論という奇妙な 虚構 をつくりだし、 その 虚構 を論理化し、 それを結晶体のようにきらきらと完成させ、 かれ自身もその 『虚構』 のために死に、 死ぬことによって自分自身の 虚構 を後世にむかって実在化させた。(司馬遼太郎 『世に棲む日日』 )
October 27, 2007
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1941 (昭和16) 年10月18日。 神奈川県横浜市。 奇しくも、 東条内閣が成立した是の日・・・。警視庁特別高等警察は、 治安維持法違反の容疑によって、 ドイツ国籍の日本在住外国人 リヒァルト ・ ゾルゲ の身柄を拘束した。 ゾルゲは、 表面上・・・ドイツの有力紙フランクフルター ・ ツァイトゥングの東京特派員を装っていたが、 その正体は、 ソビエト赤軍参謀本部第4局に所属する諜報員であった。 ゾルゲを中心とする諜報団は、 八年間に渡る日本での諜報活動を通して入手し得た、 日独両国の政治 ・ 軍事上の最高機密情報を、 本国政府へ送信し続けていたのである。 独ソ開戦と同時にソ連侵攻を企図し、 関東軍の大増員を実施した日本が、 最終的に侵攻を断念した事実を探知 ・ 通報したのは、 最大の功績とされている。 ソ連指導部は、 この報告に基づいて、 精鋭軍を極東から西部戦線へ転進させ、 モスクワ防衛に成功したのであった。(東宝 『スパイ ・ ゾルゲ』 ) ゾルゲ諜報団の摘発は、 日本の支配層に甚大な衝撃を与えた。 ゾルゲが、 同盟国ドイツの駐日大使付情報官で、 大使から絶大な信頼を得ている人物であった事。 事件に連座して逮捕された日本人ジャーナリスト ・ 尾崎秀実 が、 近衛文麿内閣の嘱託の一人であった事。 更に、 彼らへの情報提供者として、 前年物故した元老 ・ 西園寺公爵の血縁者や、 五 ・ 一五事件で非命に斃れた故犬養総理の子息の名が浮上した事にもよる。 然し、 真に驚嘆すべきは・・・。 政権中枢まで巧妙に浸透させた諜報網も然る事ながら、 ゾルゲ個人の卓越した分析能力と深い洞察力であろう。 二 ・ 二六事件以後の、 日本の国内政治の動向。 対外的国家戦略の行方について。 豊富な情報資料に的確な分析 ・ 検討を加え、 極めて正確な推論を導出していたのである。 不幸な事に・・・。 日本は、 ゾルゲの予見の正当性を、 自らの手で実証するかの様に、 無謀な戦争への道を突進んで行く事となる。
October 18, 2007
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1018 (寛仁2) 年10月16日。 京都 ・ 藤原道長邸。いやあ~~あ! 栄華 ッて良いモンですネ~~エ♪ 通称・・・土御門殿。 今を時めく権門の威容を誇示する 前太政大臣 ・ 藤原道長 の豪邸に於いては、 盛大なる宴が催されていた。 是の日・・・。 道長の 三女 ・ 威子 は、 晴れて後一条天皇の中宮となったのであった。 既に・・・。 長女 ・ 彰子 ( 『源氏物語』 の作者 ・ 紫式部 が仕えたのは、 この人) を一条天皇の下へ・・・。 次女 ・ 妍子 を三条天皇の下へ・・・。 共に、 中宮として入内せしめていた。 今又、 威子を中宮と成し、 道長にして、 息女三人を相次いで后に立てると云う、 古今未曾有の快挙 (暴挙か?) を達し得た事になる。 将に 閨閥 とは、 是の一族に奉る言葉であろう。 天皇家の外戚としての地歩を固め、 朝権を掌握すべく、 累代に渡って、 有りとあらゆる策謀を廻らせて来た 藤原一門 であったが、 道長に至って、 その権勢は遂に絶頂に達したと云える。この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば 宴の席上、 道長が即興で詠んだとされる、 余りにも有名な歌である。 時しも、 爛熟期に達した平安文化の芳醇な香気に彩られて、 一門の栄華は頂点を極める。 然し、 古代国家の基盤は、 既に危殆に瀕して居り、 押し止め様のない勢いで崩壊へ向かっていたのである。
October 16, 2007
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慶応3 (1867) 年10月13日。 京都 ・ 二条城大広間。 第十五代征夷大将軍 ・ 徳川慶喜は、 在京四十余藩の代表を招集し、 江戸開府以来二百六十年余に渡って、 徳川家が担い続けて来た政権を、 朝廷に返上する旨を表明した。 翌10月14日。 大政奉還の上表は、 朝廷に提出される。 予て・・・土佐藩主 ・ 山内容堂から建白の成されていた、 政権返上案を実行に移したものである。 その立案者が、 一介の浪人に過ぎない坂本竜馬である事は、 今日では良く知られている。
October 14, 2007
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露暦1812年10月11日。 ロシア軍総司令部。 ナポレオン軍モスクワ撤退の報は、 是の日・・・。 ロシア軍総司令官 ・ クトゥーゾフ将軍 の下にもたらされた。 反撃の好機到来と息巻く幕僚連は、 全軍を挙げての決戦を主張するが、 クトゥーゾフは是を退ける。 彼が、 自らの使命と固く信じているのは、 侵入軍を一兵も残らずロシアの国土から駆逐する事であった。 フランス軍は、 退却に全エネルギーを注いでいる。 将に、 ロシア全軍が目的とする事を、 全ロシア人が願って已まない事を、 自ら・・・死物狂いで実行しているのである。 その行く手を遮るなど、 愚の骨頂であった。 退路を断つのではなく、 背後から追い立てる。 或いは、 側面にピタリと張付いて、 絶えざる脅威を覚えさせる。 それだけで良い。 フランス軍の自壊作用は、 一層速まるであろう。 (我が軍は、 特別な作戦行動を、 なんら必要としない。 我々の目的は、 自然に、 確実に達成される。 我々が望む以上の好結果がもたらされるに相違ない) 徒に戦闘を交える必要はない。 無用に味方の兵を失う事もない。 ロシアの冬の猛威の前に、 敵は凄まじい速度で壊滅を遂げつつある。 ロシア軍は、 その見届役に回るだけで良い筈であった。
October 11, 2007
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露暦1812年10月7日。 聖都失陥から一月を経ても、 ロシアは講和に応じない。 本国との連絡を遮断され、 補給の途絶した遠隔の地に在って、 フランス軍は物資の欠乏に喘いでいた。 モスクワは大火災に見舞われ、 全市街の大半が灰燼に帰していた。 食糧も、 住居も、 確保の見込みがなかった。 勝者然と振舞っていたナポレオンも、 自軍の陥っている、 抜差しならない状況を認めざるを得ない。 ロシアの冬の猛威が、 目前に迫っているのである。 (この儘では、 廃墟同然のモスクワに孤立する事となる・・・) あらゆる兆候が破滅を示唆する中・・・ナポレオンは、 遂に全軍退却を決断する。 斯くして、 フランス軍がモスクワから撤退を開始した、 是の日・・・。 ロシアの空に、 冬の到来を告示する、 白い粉雪が舞い始めていた。 歴史上名高い 1812年の雪 ・・・。 雪は、 日成らずして、 巨大で獰猛な怪物と化す。 荒廃した道をたどって退却するフランス軍の背後から、 牙を剥いて襲い掛かった。 五十万の大軍団は、 惨憺たる壊滅を余儀なくされるのである。
October 7, 2007
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1789年10月5日。 フランス王国首都パリ ・ ヴェルサイユ宮殿。 革命勃発後も、 国王府と国民議会の対立は続いていた。 国王 ルイ十六世 は、 革命の有効性を認めず、 人民主権を謳った 人権宣言 の承認を拒み続けていた。 そして、 深刻な食糧危機に陥っているパリ市中の惨状を余所に・・・。 ヴェルサイユ宮殿に在っては、 従来と変わらぬ豪奢な生活が営まれていたのである。 是の日・・・。 飢餓に喘ぐパリ市民数千名は、 食糧の緊急供出を求め、 ヴェルサイユ宮へ向けて行進を開始した。 その構成主力は、 家計を預かる主婦層であったとされるが、 ヴェルサイユまで二十数kmの行程。 異常な興奮に駆られていたとしても、 栄養失調状態の女性達が、 この距離を半日で踏破し得たものとは想像し難い。 恐らく、 壮健な男達が先導役を務めたものであろう。
October 5, 2007
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国王の死去 に伴い、 情勢は一変する。 好戦分子が十字軍内部の実権を握ると、 回教国家との関係は険悪化の一途をたどり、 遂に全面戦争へ突入する。 敵の実力を過小評価し、 一気呵成に押し出した十字軍は、 サラディンの機略に縦横に翻弄され、 ハッティンの戦闘 で壊滅。 保障軍事力を失い、 エルサレムは 絶体絶命の窮地 に立たされる。 然し、 守将 バリアン ・ オブ ・ イベリン の卓越した指揮の下・・・結束を固めた市民は、 押し寄せる回教徒軍に対して、 果敢な抵抗を試みる。 思わざる苦戦を強いられるサラディンであったが、 昼夜を分かたぬ猛攻撃は、 遂に城壁の一角を突崩した。 10月2日 。 王都エルサレムは、 陥落。 ボードワン四世が胸に抱いていた理想も、 同時に消滅した。 然しながら・・・開城に際して、 サラディンが示した態度は、 非常に寛大なものであった。 降将バリアンと大多数の市民は、 エルサレムからの退去を認められたのである。 ・・・真の平和の到来は、 未だ遠かった。 基督教世界に在っては、 聖地奪還 が叫ばれ、 第三次十字軍 が編成される事となる。 原理と原理の対立から生まれる悲劇が、 果てもなく続いていくのである。
October 2, 2007
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1187年10月2日。 中東パレスチナ ・ エルサレム王国。 三大宗教の聖地 エルサレム は、 第一次十字軍の際に樹立された基督教国家・・・エルサレム王国の統治下に在ったが、 是の日・・・。 回教世界の英雄的指導者 サラディン の率いる軍勢によって奪回された。 先々代のエルサレム国王 ボードワン四世 は、 賢君として名高く、 回教徒巡礼者に対しても聖地を開放する等・・・異教徒との融和と協調に心を砕いていた。 サラディンも、 嘗て・・・戦場に於いて自分を打破った相手であるボードワン四世に対しては、 深い敬意を払っていた。 二人の偉大な君主の、 人格と政治的指導力の賜物として、 平和は保たれていたのであるが・・・。 不幸にして業病に冒されていた国王は、 24歳で早世する。
October 2, 2007
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紀元前331年10月1日。 北部メソポタミア ・ ガウガメラ平原。(O ・ ストーン監督 『アレキサンダー』 ) 先王の遺志を継いで挙行された東征も、 早や四年目に至った。 マケドニアの英雄 アレキサンダー の名は、 並外れた武勇 ・ 知略と相俟って、 東方の民を強かに畏怖せしめていた。 是の日・・・。 宿敵 ペルシャ帝国 との最終決戦の時が迫る。 マケドニア ・ ギリシャ連合軍 四万数千に対して、 ペルシャ軍は二十数万・・・。 アレキサンダーに連戦連敗中の 大王ダリウス三世 は、 捲土重来を期し、 全兵力を結集して決戦に臨んだのである。 然し、 アレキサンダーの天才的用兵術の前に、 又しても翻弄される。 加えて、 マケドニアの誇る胸甲騎兵団と重装歩兵団の威力・・・。 更に、 常時先陣を駆けるアレキサンダーの勇猛心は、 大軍を圧倒した。 今一歩という所でダリウスを取逃がすものの、 統率者を失ったペルシャ軍は、 壊乱状態に陥る。 この敗北をもって、 西アジアに於けるペルシャ帝国の覇権は、 事実上消滅した。 アレキサンダーは進軍を続け、 バビロンを手始めに、 主要都市を次々と陥れていく。 念願とする 世界帝国 の礎石は築かれた。 目前には、 東方世界への扉が・・・新たなる征路が開かれていた。 24歳の青年を、 征服事業へ駆立てるものは、 飽く事のない領土拡大の野望か? 或いは、 神秘に包まれた異世界への憧憬であったか?
October 1, 2007
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