星とカワセミ好きのブログ

2019.10.18
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人吉に来たら、必ず人吉城の本丸跡まで見に行くことにしています。

人吉城跡ですが、鎌倉時代初期に、遠江相良荘(とおとうみさがらしょう:今の静岡県中部)で鎌倉幕府の御家人だった相良長頼(さがらながより)が、源頼朝(みなもとのよりとも)の任命で人吉荘の地頭となり、人吉城を修築したとされています。
その時に出土した三日月模様の石から、繊細な三日月を意味する繊月(せんげつ)城とも呼ばれています。

本格的な築城は12代当主の為続(ためつぐ)の時代の1470年頃とみられます。球磨(くま)郡を統一した相良氏は、八代や薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展しますが、1587年の豊臣秀吉の九州征服により、相良氏は球磨郡だけを支配することになります。
1589年には20代当主長毎(ながつね)が石垣工事に着手し、1639年の21代頼寛(よりひろ)の時に、球磨川に面した石垣が完了しました。その後に櫓(やぐら)など工事をして人吉城が完成します。
相良氏歴代の居城として明治4年(1871年)の廃藩置県まで使用されました。

(人吉城の写真は、2019年8月3日午後撮影)


↑ 史跡 人吉城。(繊月城:せんげつじょう)。


↑ 大手橋から多門櫓(たもんやぐら)を見る。





↑ 甲冑など展示物を見た。





↑ 水の手門の辺り。



↑ 河合奈保子さんのファンなら、良くご存じの場所。


↑ はね出し石垣。 石垣の上に、石が出ている。




↑ 御下門(おしたもん)。






↑ 三の丸跡。





↑ 二の丸跡。
二の丸には、城主の住む御殿が建てられていた。







↑ 人吉城 本丸跡。




↑ 本丸跡。







↑ 城を下っていく。











初代相良長頼(さがらながとも)の入国前の人吉城主であった、平家の代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)を祀る霊社跡。第二代頼親(よりちか)が建立した。板葺きの神殿と拝殿の2棟があったが、現在は礎石が残っている。














↑ 球磨川。





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最終更新日  2019.10.27 17:09:02
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