星とカワセミ好きのブログ

2019.10.17
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カテゴリ: 国内旅行(九州)
2019年8月3日午後、幽霊寺として有名な、人吉市の永国寺に行きました。

1408年頃、実底超真和尚(じっていちょうしんおしょう)が寺を開山しました。その和尚が描いた幽霊の掛け軸が残っています。
話によると、寺の近くの男性には本妻とは別に妾がおり、本妻が嫉妬して妾をいじめるので、妾は球磨川で入水自殺し、幽霊になって夜な夜な本妻の所に現れ、本妻を苦しめるようになりました。
本妻の相談を受けた和尚は、幽霊の姿を見て絵を描きました。そして、和尚は幽霊にその絵を見せました。もともと美しい容姿だった妾は、醜い幽霊の姿に驚き、和尚に成仏させて欲しいと懇願し、和尚は幽霊を成仏させたそうです。

幽霊の掛け軸(レプリカ)の横には、西南の役で使用された官軍の砲弾や、西郷隆盛の書が展示してあります。
寺には、西郷隆盛本営跡碑があります。
1877年(明治10年)に田原坂(たばるざか)で官軍に敗れた西郷隆盛は、八代から人吉に逃れ、この地で官軍を防ごうとしました。当時人吉城は取り壊されていたので、永国寺に本営を設けました。4月27日から33日間、人吉で官軍を防ぎましたが、5月29日に小林(市)まで逃れました。寺は戦禍で燃えてしまいましたが、その時に焼け残ったのが、幽霊の掛け軸です。

永国寺から人吉城まで歩き、途中で武家蔵や、繊月(せんげつ)酒造を見ました。



↑ 人吉市の永国寺にある、有名な幽霊の掛け軸(レプリカ)。







↑ 仁王門。


↑ 永国寺。





↑ 永国寺。


↑ 実底超真和尚が描いた幽霊の掛け軸。


↑ 入水自殺して本妻を苦しめた妾の幽霊。






↑ 西南の役で使われた官軍の砲弾。


↑ 西郷隆盛の書。



↑ 1877年(明治10年)に田原坂(たばるざか)で官軍に敗れた西郷隆盛は、八代から人吉に逃れ、永国寺に本営を設けた。4月27日から33日間、人吉で官軍を防いだが、5月29日に小林まで逃れた。


↑ 千人塚石塔(耳塚)
朝鮮出兵で、豊臣秀吉は諸大名に手柄の証拠として、打ち取った敵兵の耳鼻をそぎ落として塩漬けにし、目録を提出するように命令し、相良頼房もそれを提出した。石塔はその霊を鎮めるためのもの。


↑ 人吉ニ番隊士の碑。



↑ 人吉高校(向かって左)、球磨中央高校(向かって右)のパネル。


↑ 南稜高校(向かって左)、球磨工業高校(向かって右)のパネル。



↑ 人吉藩の家老屋敷跡。正面の堀合門は、明治初期の廃藩置県で、人吉城の建物が取り壊された時、相良家の一族であった新宮氏が拝領し、自宅の門として移した。
人吉城の御館の水の手側入り口にあったもので、堀合門と呼ばれていた。現存する唯一の人吉城の建造物。





↑ 堀合門。







↑ 人吉市立第一中学校入口。


↑ 繊月(せんげつ)酒造の焼酎蔵。


↑ 繊月酒造の入り口。足湯もある。





↑ 繊月酒造にあるお社(やしろ)と繊月石について。
お社の中の「繊月石(せんげついし)は、相良家(さがらけ)初代長頼公が人吉城の修築中、1199年に出土した石。繊細な三日月の形をした石で、それ以来、人吉城は「繊月城:せんげつじょう」とも呼ばれている。





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最終更新日  2019.10.27 14:15:50
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