星とカワセミ好きのブログ

2021.11.13
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2021年10月29日(金)午後、妻と一緒に小田原城址公園へ行き、小田原城天守閣内の展示室を見ました。

小田原城の歴史ですが、15世紀中ごろに大森氏が小田原に築きましたが、1501年に伊豆・韮山の北条早雲が大森氏を攻めて統治します。その後、上杉謙信や武田信玄に攻められるも、籠城戦で退けます。
ところが、天下統一を進める豊臣秀吉が、1590年に小田原城を兵糧攻めにしました。結局、5代続いた小田原北条氏は降伏して開城します。そして、豊臣秀吉の天下統一が成されます。
小田原城には、徳川家康の重臣・大久保忠世が城主となりました。

その後、1614年には大久保忠隣が改易され、小田原城が破却された後、幕府直轄となりました。
1632年には稲葉正勝が城主となり、小田原城の修築工事が開始されますが、1633年には寛永小田原地震が起こり、大きな被害が出ます。
稲葉氏は小田原城を大規模に改修し、近代城郭に形を変え、1675年に小田原城の修復工事が完了します。
1686年には大久保忠朝が城主となりますが、1703年に元禄地震があり、天守や城の施設が倒壊、焼失します。
1706年に元禄地震で失われた天守が竣工しますが、1706年には富士山が噴火し、1782年には天明地震で、天守が傾きました。1853年には小田原大地震があり、被害が出ます。


昭和に入ると、1938年に小田原城址が国指定史跡となり、1960年には天守閣が復興されました。

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↑ 小田原城址公園へ歩いて行く。


↑ 案内図。


↑ 常盤木橋へ進む。


↑ 常盤木橋。





↑ 常盤木門。





↑ 常盤木門。

















↑ ニホンザルがいた。


↑ 本丸広場。


↑ 小田原城。








↑ 記念撮影。


↑ 天守閣入口。


↑ 記念撮影。


↑ 遊園地が見える。



↑ 小田原城の最盛期の姿の模型。(スケール:1/700)







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↑ 小田原城の城主たちと小田原城のあゆみ。


↑ 北条氏綱(ほうじょううじつな)像/ 早雲寺蔵。
北条早雲の嫡男。(二代目)。領地を武蔵(東京都・千葉県)、駿河、下総(千葉県の一部)まで拡大した。


↑ 北条氏直(ほうじょううじなお)像/ 早雲寺蔵。
小田原北条氏の5代目。豊臣秀吉による小田原合戦の敗北後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなった。小田原北条氏は北条早雲から5代約90年間続いた。



↑ 大久保忠世(おおくぼただよ)/ 小田原城天守閣蔵。
1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏の小田原城を兵糧攻めにした、小田原合戦の終結後、小田原城の新たな城主となったのは、徳川家譜代(ふだい)家臣である大久保忠世だった。

忠世が小田原城を近代的な城郭へ再整備していくも、亡くなってしまう。城主を引き継いだ息子の忠隣(ただちか)は、幕府に許可なく養女を結婚させたことを理由に、1614年に改易させられ、小田原城は幕府の直轄領になり、城は破却された。



↑ 大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)と『三河物語(みかわものがたり)』/長福寺蔵。
大久保彦左衛門は実名を忠教(ただたか)といい、大久保忠世(ただよ)の弟である。
彦左衛門が有名な「三河物語」を執筆し、徳川家の事績などを書いて後世に残した。



↑ 稲葉正勝(いなばまさかつ)/ 神奈川県立歴史博物館蔵。
三代将軍徳川家光は、南関東の守りとして、幕府の直轄領であった小田原に稲葉正勝を入封した。小田原藩が復活し、稲葉氏は小田原城の城郭と城下町の整備を進めた。
稲葉正勝の母は、春日局(かすがのつぼね)である。



↑ 三代将軍徳川家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)/麟祥院蔵。
稲葉正勝の母は、徳川家光の乳母として有名な春日局(かすがのつぼね)。
春日局は将軍となった家光を補佐し、稲葉正勝も小姓時代から側近として家光を支えた。
正勝は早世したので、息子の正則が家督を継いだ。春日局は正則を助け、稲葉氏と有力大名との婚姻を実現させた。春日局の死後、正則は小田原の紹太寺(しょうたいじ)に供養塔を建て、その菩提を弔った。



↑ 稲葉正則(いなばまさのり)像/ 神奈川県立歴史博物館蔵。
稲葉正則は小田原藩第2代藩主。稲葉正勝の嫡男で、春日局の孫。



↑ 大久保忠真(おおくぼただざね)像/ 小田原城天守閣蔵。
1685年、稲葉正通が越後国高田(上越市)に転封(てんぽう)になり、大久保忠朝(おおくぼただとも)が小田原に入封した。71年ぶりの小田原復帰となった大久保氏、1703年の元禄大地震、1707年の富士山噴火とその火山灰が堆積した酒匂(さかわ)川の頻繁な洪水といった大規模な自然災害が長期化し、被災地は復興が完了するまで幕府の直轄地となった。
大久保忠真は、小田原藩第7第藩主で、二宮尊徳(金次郎)を表彰した。



↑ 二宮尊徳(金次郎)像/ 報徳博物館蔵。
二宮尊徳(金次郎)は、1787年、今の小田原市栢山(かやま)村に生まれ、1818年には藩主・大久保忠真(ただたね)から表彰された。忠真は大久保家の分家がある下野国桜町領(しもつけのくにさくらまちりょう)(真岡市:もおかし)を荒廃から立て直すため、尊徳を藩に登用し、桜町領の復興を任せた。





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最終更新日  2021.11.23 20:00:19
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