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”笠間家のギンモクセイ”から目久尻川に沿って更に北上。7月18日(土) 13:50カーナビの案内で進むと道路脇に案内板「曹洞宗 崇福山長泉寺」が立っていた。長泉寺 (ちょうせんじ)山号を宗福山といい曹洞宗(禅宗)の寺てす。本尊は釈迦如来で、寛永十一年(1634)亡の僧格雲守存により開山されました。かつてここには、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。渋谷庄司重国の孫、曽司五郎定心(入来院氏)とのゆかりも考えられる一帯と言えましよう。 平成三年三月 綾瀬市教育委員会この説明板は草に覆われて見えなかった。道路から数百メートル山側へ入ると杜の中に長泉寺の山門があった。人影がなく山門前が広かったので駐車。山門の左側は進入禁止になっていた。。ここにもバナナの木があったが収穫できるのか。崇福山長泉寺所在地:神奈川県綾瀬市早川3146現在は本堂が建て替え前で更地になっている。正面階段から上がると何も建物が無くビックリしますが、階段を登り切ると左手に仮の本堂があるので安心して下さいと。門柱の右側には「崇福山」、左側には「長泉寺」と。山門を入ると両側にイチョウの木が聳えていた。山門を入ると階段下右側に、赤頭巾前掛けをした3体の石仏群。左側にも石仏群があった。赤頭巾前掛けをまとった六地蔵。石仏人気の無い階段を登ることに。階段を登ると正面に本堂がなく更地になっていた。右側の生い茂った中に石燈籠、石塔が立ちヤマユリが咲いていた。ヤマユリ近畿地方以北の本州に自生するユリ科ユリ属の多年草。日本に自生する15種のユリを代表するユリであり、古くは万葉集にも登場する。その圧倒的な存在感から、吉凶慶弔さまざまな場面で花材として使われる。宝篋印塔らしき塔も立っていた。旅友が訪れた5年前は本堂が建っていたようだが現在は更地に。長泉寺背後の山は、「金王丸の山」と呼ばれ、平治の乱で敗れた源義朝に従って東国に逃れようとした八騎の中にいた渋谷金王丸が葬られた山という言い伝えがある。金王丸は、渋谷重国の子(あるいは弟)といわれているが定かではない。尾張国野間長田忠致を頼った義朝が、入浴中に忠致の裏切りに遭い殺されたときも一緒だった。義朝が殺されたことを京の常盤御前に伝えたのも金王丸で、その後出家し、義朝の菩提を弔ったという。奥に立つ木柱に「大恩教主 本師 釋迦牟尼佛」と書かれていた。境内に入ると左側に仮本堂が建っていた。長泉寺は曽洞宗のお寺で本尊は江戸時代造立の木造釈迦如来像。開山は格雲守存和尚である。三田村(厚木市)の清源院の末寺で、開基は渋谷金王丸と伝えられている。仮本堂の扁額「長泉寺」。仮本堂前から北側を望む。枝垂れ桜が聳えていた。仮本堂裏へ回り込む。この建物はもともとあったのか。仮本堂等の説明もなく詳細は不明。Googleマップでは本堂がある。下側の建物が現在仮本堂になっている。本堂の再建はいつになるのか。樹々の間に堂宇が建っていた。阿弥陀堂であろうか。祖師山菩提寺といわれ、鎌倉時代からの堂宇の所在地といわれている。渋谷一族の菩提寺と伝えられ、一族の供養塔と伝えられる石碑が残っているとあったが。ここにも草が生い茂る中にヤマユリが咲いていた。ヤマユリの開花は暑さ真っ盛りの6月下旬~8月で、普通は4~5輪がまとまって咲く。花に近付くとむせ返るほどの強烈な香りがある。花の大きさは直径20~30センチにもなり、野山に咲く花の中では最大級であると。また、19世紀に来日したシーボルトは本種をヨーロッパへ持ち帰ったが、純潔を重んじるかつてのヨーロッパでは赤褐色の斑点模様が受け入れにくかったようで、その後、彼の地で改良を重ねられたカサブランカが編み出され、日本にも逆輸入されることとなったと。客殿であろうか。客殿前から、枝垂れ桜、仮本堂を見る。枝垂れ桜が咲く時期は見事な光景になるのであろう。長泉寺を後にし駐車場へ。境内に案内書(再建に関する)等がなかったので荒廃したのかと思ったが。立派な石燈籠もあった。再建計画の掲示が欲しかった。それともどこかに掲示されていたのか。山門前から進入路を見る。途中から未舗装になっていた。長泉寺から目久尻川を越え東側にある「おぎん様の墓」へ。駐車場がなかったので道路脇に駐車、南側に東名高速の早川高架橋を見る。小園広場所在地:神奈川県綾瀬市小園南1丁目1-23小園広場は綾瀬市にある住宅街の比較的広めな公園です。平成初期につくられた比較的新しい公園です。公園の設備には水飲み・手洗い場がありますと。お銀さまの墓この上の墓地の中に、お銀さまの墓があります。お銀さまは本名を「まち」といい、江戸時代後期に早川村の佐藤家に生まれました。後に江戸の田原藩下屋敷に奉公に出て藩主三宅康友の寵を受け、友信を生みましたが母の急死で帰郷し、その後小園村の大川家に嫁ぎました。渡辺崋山が少年期に世話になった、この「あこがれのお銀さま」を天保二年(1831)に訪ねた様子は「游相日記」として今に残っています。 昭和六十三年三月 綾瀬市教育委員会この後方の杜の中に「おぎん様の墓」がある。墓への案内板がなかったので分かりづらい。一般の墓石の中に一緒に並んでいた。事前にGoogleマップで調べていたのでどうにか見つけることができた。墓石の後ろに「お銀様の墓」とあった。ここだけに竹筒の花立が設けられていた。お銀さまの墓石には「皈元開外全修大姉 文久2年11月15日」と読めたと。14:15おぎん様の墓を後にした。 ー continued ー
2026.07.31
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龍洞院の参拝を終え更に、目久尻川の上流へと。7月18日(土) 13:15虚空蔵橋の西側道路脇に祠が建っていた。地蔵尊所在地:神奈川県綾瀬市早川1763-2龍洞院への入口道路角に建っている地蔵尊で奇麗に整備されていた。花も備えられ地元民による崇敬が篤いのであろう。橋の袂に「虚空蔵橋(こくぞうばし)」の標柱。虚空蔵橋の親柱には「市の木 ヤマモミジ」。路面のタイルには「市の花 バラ」。虚空蔵橋(こくぞうばし)龍洞院へ行く橋で、昔、大水が出たときに目久尻川から流れてきた虚空蔵菩薩を拾い上げたと伝えられています。橋の欄干に「虚空蔵橋」と。目久尻川を挟んで両側に道があり、西側の道を振り返る。道路脇に「龍洞院 ⇦」の案内板。直進し坂を上ると先ほど訪れた「西山橋」へ。龍洞院の境内へは直進しても、左折してからも入れる。虚空蔵橋上から目久尻川の上流を望む。防音壁があるのは東名高速道路の早川高架橋。この後この上流側へ移動。東側の橋の袂の信号には、「虚空蔵橋際」と。目久尻川の下流側。目久尻川の上流は川底が深く(4.8m)、両岸の擁壁はコンクリートで固められている。左岸のコンビニは「セブン-イレブン 綾瀬早川虚空蔵橋店」。地蔵尊後方は東名高速道路の防音壁。庚申塔、道祖神辻の角に4基の石塔が立っていた。右から「庚申塔」「道祖神」「無酒□□□ 一遍上人□□□」「?」と。カーナビの案内で東名高速道路の早川高架橋を潜り抜け北側へ。スマホのGoogleマップの案内で「白山神社」へ向かうが案内板もなく分かりずらかった。カーブミラーから路地を上ることに。スマホの案内で森の中へ、草が生い茂り嫌だったが1m幅程が刈られていたので登った。右奥に白山神社を見つける。白山神社所在地:神奈川県綾瀬市早川1802階段を登った山林中程に鎮座する小さな社で、鳥居はなかった。説明板もなくここの地主さんが祀ったのであろうかと。幅1m程の階段だが樹々の根で盛り上がっていた。どうにか参道の階段は歩けたので登り社殿前へ。社殿回りは枯枝が散らばって足元が悪かった。社には注連縄、中には祠があった。白山神社前から集落を見下ろす。比較的新しい注連縄が飾られていたので祭事は行われているのであろう。Googleマップではこの辺りに「稲荷宮」があるのだが。右側の竹林の中に朱色の屋根を発見。中へ入ろうとしたが足場が悪く外から。稲荷宮草をかき分けてどうにか撮影。冬場なら樹々が枯れ見易いのであろうが。写真はネットから竹林の中に鎮座している稲荷宮。登ってきた路地を見下ろす。右前方には東名高速道路の防音壁があり、かつては騒音公害で悩まされたのであろう。滞在時は昼時であったので車の騒音は感じなかったがさて夜間は?。白山神社から更に北上、次に訪れたのは「第六天神社」。第六天神社所在地:神奈川県綾瀬市早川3096-1かつては境内に聳えるサクラの巨木が目立ち木陰になったようだが (ネットの写真)。鳥居の扁額には「第六天神社」。左側には社号標石も立っていたが「第六天神社」と。その巨木も伐採されて切り株だけになっていた。幹直径は1メートルはあったか。社 殿第六天神社祭神は神道でいう天神六代目にあたる、面足尊(おもたるのみこと)、惶根命(かしこねのみこと)の夫婦神であろうと思われますが、創建年代はわかりません。かつては地域の人々に信仰が厚く、当社を中心としたここは桜の名所として、祭日には大変にぎわったところです。 昭和六十三年三月 綾瀬市教育委員会東側から見上げる。かつてはサクラの名所であったと。道路を挟んだ第六天神社の向かい側に「不動講中供養塔」。破損した庚申塔も置かれていたのか。石塔の上には、像が彫られ風化していたが「不動明王」か。台座の正面には「不動講中供養塔」。横には「相州高座郡土早川邑」とあり、左側面には「嘉永元戊申七月吉日建之」とも・・・。1848年で江戸後期の造立による石塔であると。西側から第六天神社を見下ろす。笠間家のギンモクセイ所在地:神奈川県綾瀬市早川3114-1笠間家のギンモクセイは樹齢130年と推定され、県の「名木100選」に選定されたことも。綾瀬市の天然記念物。5本の株立ちで高さは約10メートル。9月末から小さな白い花が束生して咲く。関東では黄花のキンモクセイが多いが、ギンモクセイは「上品で優しい香り」が特徴であると。咲く時期が楽しみであるが。13:45ギンモクセイを見下ろす高台に大きな墓石があったが。 ー continued ー
2026.07.30
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関東地方に住む神奈川県民にとってはこの大地震は「寝耳に水」であったが。何気なく見た映像に昨日7月28日(火)16:27頃、熊本県でマグニチュード7.1の地震が発生、多大な被害が発生しているとのことでビックリ。今朝のNHKは、この地震の被害状況の報道、その大きさに再度ビックリ、被害の状況は、 ①イオンモールでは爆発・・・何が原因か? ②日本製紙八代工場では煙突が倒壊 ③熊本城でも石垣が28箇所崩落・・・修復された天守閣の映像は、大丈夫? ④八代宮の神社の倒壊 ・かつて訪れた時の「八代宮」👈をクリック願います。 ・八代城の石垣も崩落 現在でも行方不明者がおられるとのことで、炎天下の中での消防団、自衛隊の懸命な救助活動に敬意を表するものです。NHKの映像から、日奈久断層帯この辺りは”日奈久断層帯”と呼ばれ、昨日からの地震発生状況が集中していると。このような場所に建設する重要な施設・設備は避けるべきではと思うが。日奈久断層帯は、布田川断層帯とともに「布田川・日奈久断層帯」を構成し、九州で最長の活断層帯の一つです。日奈久断層帯自体は、益城町木山付近から芦北町を経て八代海南部まで北東から南西方向に延び、全長は約81kmと推定されています。この断層帯は右横ずれ断層であり、一部では上下変位も観測されていますと。猛暑日の中での被災者、救援活動の方にお見舞い、感謝の念でブログアップしましたが考慮不足もあったかもしれませんがご容赦ください!。 END
2026.07.29
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五社神社の参拝を終え、次の目的地は「龍洞院」へ。7月18日(土) 12:50庚申塔所在地:神奈川県綾瀬市早川1722Googleマップに龍洞院への途中に「庚申塔」があると。五社神社から目久尻川が流れる北側へ下ると道路脇にあった。道路脇に車を停め散策。下ってきた道を振り返る。門扉があり、大谷石の上に庚申塔があった。庚申塔は苔むし、風化して字は確認できなかった。道路脇にバナナの木が聳えていたが、実がつくのであろうか。曹洞宗 一澤山 龍洞院所在地:神奈川県綾瀬市早川1766龍洞院は香山重菰(慶長5年1600年寂)が開山となり創建したと言われている。駐車場への途中に咲いていたこの花は「ヒオウギ (檜扇)」であったか。ズームアップ駐車場への途中の標柱に「龍洞院」と。山の斜面に枝垂れ桜が植えられていた。板碑、木柱があったが。板碑には、「本堂改築記念 龍洞院護持会は老朽化の進む本堂の再建を計画し、護持会役員会と合同の建設委員会 を設け、臨時総会を経て改築を決定した。資金は会員の浄財を募ることとし、平成二 十九年七月二十八日、遷座式・落慶式を行なった。記念に枝垂れ桜を植樹した。 令和三年十一月吉日 当山三十六世代 護持会役員の名が刻まれていた。駐車場の一角に大きな「龍洞院観音像」が立っていた。左側横にも小さな観音様が2体立っていた。この辺りは目久尻川が流れる低地で東側の台地には工場、倉庫が建っている。お顔をズームアップ。観音像の後方にも多くの像が置かれていた。これらは個人で奉納されたものであろうか。境内の駐車場脇に「東司(とうす) (トイレ)」が建っていた。境内には梅の木が植えられ、ヒノキが聳えていた。山門前に掲示板。掲示板には、「おやこ de 坐禅会 令和8年11月7日(土) 10:00~17:00」と。参道の先に本堂。石碑には「龍洞霊園」と。ヒノキの根がブロックに。ヒノキの実。山門を入ると右側の石柱に、「福授大黒堂一切建立 寄進者 守山甲子太郎殿」と刻まれていた。先ほど参拝した五社神社の狛犬にこの「守山甲子太郎」があったが。福授大黒天堂堂の扁額に「福授大黒天」と。扁額の下に「昭和九年如月 甲子太郎翁謹書」と。堂の扉が開いたので撮影。ズームアップ。ユニークなお顔を。石碑に「龍洞院復興紀年」と。全て漢字で刻まれていた。「龍洞院□一澤山慶長年間香山重菰創為□曹洞宗總持寺 派為愛甲郡玉川□龍鳳寺未明治十二年三月十七日□□ 禄住職初澤瑞光師亦焼死・・・中略・・・ 昭和四年四月 前衆議院議員勲四等山宮藤吉撰并書」と。本 堂明治12年の火災で堂の建物、記録類を焼失し、寺史は不詳です。現本堂は、昭和4年に再建されました。本尊の「虚空菩薩」の台座からは、「大塔宮御骨」と書かれた小箱が発見されました。「大塔宮」とは後醍醐天皇の第三皇子・護良親王を指し、出家して天台座主にのぼられ、大塔にいたことがあったため、世に大塔宮といわれていますと。幅の狭い参道にはドウダンツツジが植えられていた。本堂の右側に寺務所であったか。本堂右前に観音像と足元に地蔵。本堂前の植込みに「大久保泰助建之」と刻まれた碑。何を建立されたのか。境内、坂を登り墓地へ。境内から東方向を見る。龍洞院の北側に東名高速道路があるので「東名跨道橋西山橋」を見ることに。龍洞院に車を置き歩いて坂を登る。車でも行けたのだがリハビリを考えあえて歩いた。登り口の一角に祠があったが・・・。急な坂道を登り、龍洞院を見下ろす。右奥には墓地が広がっていた。東名跨道橋の「西山橋」。上り方面。跨道橋は約50mmのグレーチングで落下防止対策が行われていた。道路標識に「綾瀬 出口800m」と。綾瀬スマートインタはETC専用出口である。走行3車線+出口車線の4車線。下り方面ズームアップ、道路標識に「海老名 1km」と。跨道橋西山橋を渡り北側から。この辺りは丘陵地で未開発になっている。跨道橋は強固な構造に。欄干に「西山橋」と。13:15龍洞院境内へ戻る。龍洞院の墓地は丘陵地の中腹にあった。 ー continued ー
2026.07.29
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五社神社の参拝を始める。7月18日(土) 12:30参道を進むと正面に五社神社の社殿が建っていた。参道沿いに掲示板があり写真が貼られていた。当神社は映画やCMなどの様々な映像作品のロケ地でもあると。日清どん兵衛CMのモデル神社に使われました。2022年10月末よりTVCMで放送。モデルによる撮影風景ガムテープで貼られていたが。abemaTV お笑いストリートファイト 五社神社にて撮影 令和5年5月18日テレビ神奈川 猫ひたいほどワイド 令和6年4月10日放送 綾瀬のプリンスこと石渡真修さん(綾瀬市出身)来社左側の杜の中に社務所。右側には手水舎。今だ手水舎の前には消毒のスプレーが用意されていた。水口の龍社殿の前には大正天皇御大典(御即位)で植栽された対のクスノキが聳えていた。対のクスノキが植えられている。立札に、「御神木 楠木 一対 大正天皇の御大典(御即位)記念に植栽されました 社務所」。クスノキを見上げる、樹齢百数十年程だが巨木に。左側から社殿を見る。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。拝殿の唐破風見事な彫物があったが逆光で、木鼻も。拝殿の内陣を見る。祈祷用の椅子が用意されていた。内陣の扁額には「五社宮」と。拝殿の海老虹梁拝殿前から参道を見る。狛犬の台座には、「茲為七十四翁 守山甲子太郎 大患平癒祈願 報賽」と。病気の平癒を祈願して奉納されたのであろうか。社殿の左側に「神輿殿」、扉が開けられた境内社。境内社を納めた覆い屋。左から「渋谷神社」と「疱瘡稲荷社」。祠の後方の壁に「渋谷神社」「疱瘡稲荷社」と。神輿殿ちょうど清掃中の高齢の宮司さんがおられたので聞くと「神輿は子供神輿が三基、部落が三村あるのでそれぞれ製作した」と。「最近は子どもが少なく親が担いでいる」と。暑い日であったが樹木に覆われ清涼感溢れる空間であった。映画『たまには、大きな声で』ロケ地 監督・脚本:柴山健次 出演:村田寛奈、眞嶋秀斗 ほか綾瀬市を舞台に撮影された作品で、五社神社はじめ市内9カ所で撮影がされた。【その他ロケ地】 イタリアンレストラン バフェット、CAFE KAKA、市内倉庫、大久保商店、バーミヤン 綾瀬市役所前、綾南公園、城山公園、綾瀬市役所五社神社を訪れた人 村田寛奈さん、眞嶋秀斗さん地元最後のライブで新曲を歌う中、”彼”と過ごした回想シーンで登場社殿の右側に建つ「神楽殿」。7月25日(土)の盆踊り大会はこの広場で開催予定と。社殿を右前から見る。本殿の裏側へ回り込む。五社神社の境内はスギ等の樹々が生い茂っていた。本殿裏に石祠が並べられていた。本殿裏に聳える「御神木のスダジイ」。五社神社の御神木で、樹齢約四百年、樹高二十メートル、胸高直径二メートル市内随一の古木です。椎の仲間の一つであるスダジイです。スダジイと本殿。神楽殿の裏側の入口。尾ノ井 (おのい)所在地:神奈川県綾瀬市早川五社神社の神楽殿の裏から坂を少し下るとあった。尾ノ井を見下ろすが水があったか。落葉で覆われていたので。尾ノ井五社神社の境内の形が亀の形に似ており、池がその尾の位置にあるので、亀ノ尾ノ井が尾ノ井と呼ばれるようになりました。高い所にある湧き水の池で、古くは飲み水になったり、田の用水になったり、雨乞行事に用いられたりしました。また、これにまつわる昔話なども伝えられています。 平成三十年一月 綾瀬市教育委員会尾ノ井は柵で囲われ、近年に奉納された石燈籠があった。近寄れなかったが斜面に祠があった。祠をズームアップ。境内へ戻り、御神木のクスノキを見上げる。社殿は、御神木のクスノキ、スダジイの巨木に囲われている。神楽殿横から見上げる。これからは突風等による倒木の恐れが。東側に見えるのは綾瀬市役所であったか。玄関先に「祈祷・御朱印 受付所」と。目久尻歴史スタンプラリーの案内「目久尻歴史スタンプラリー」とは・・・ スマートフォンを使ってQRコードを読み込み、あやぴぃの出すクイズに 正解すると、オリジナルあやぴぃスタンプがもらえるよ! 更にあやぴぃと記念撮影も・・・!?12:45境内横の駐車場。 ー continued ー
2026.07.28
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誰一人いない静寂な吉岡神明社の参拝を続ける。7月18日(土) 12:00境内から「狛犬、社殿」をズームアップ。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。拝殿の扁額は「神明宮」か?拝殿前から境内を見下ろす。拝殿横に立つ石碑に「神明社屋根替奉賛御芳名」。多くの氏名と金額が刻まれていた。三基の石碑が立ち、右側は、「神楽殿造営工事落成奉祝記念碑 吉岡神明社明細帳 本殿に奉納の棟札に因れば神楽殿に文久元卒酉年(1861)十一月 三日本殿再建と同時に造営されたものであったが、大正十二年関東大震災による倒壊 のため取り壊し、その内使用に堪え得る物を改築用に供すると共に神社境内の間伐材 を使用し昭和四年に改築した。 しかるに昭和五十九年十月九日原因不明の出火により全焼したが、神社の崇敬一日た りともなおりにするに忍び□万難を排しこの程神楽殿建設の儀まとまり茲に氏子崇敬 者の多大な協力により昭和六十年九月十五日落成をみたのでこれを記念するものなり 昭和六十年十一月吉日 吉岡神明社 氏子一同上の写真左側二基には、「社地拂下・石垣改修 記念」「記念碑 相模鉄道株式会社に於て本社殿周囲の土手神楽殿裏土手及び 金比羅社裏提間知積工 事施行せられ辨財天社池の周囲の竹垣根参道コンクリート階段工事等境内整備施行せ られしを記念す 昭和四十五年九月吉日建之 氏子總代」。社殿の右側から望む。拝殿横には太鼓をたたく踏み台があった。太鼓をズームアップ。社殿の左側から見る。拝殿と本殿の屋根つなぎ目には落ち葉が積もっていた。拝殿の左側。拝殿前から社務所を見下ろす。社務所右奥に「金毘羅様」が鎮座している。社務所の壁面に拝殿の「旧鬼板」であろうか。金毘羅様ガンジス川に住む鼻の長いワニがもとになった仏法の守護神。航海安全や大漁祈願また厄除けと、船舶関係者を中心に信仰を集めている十二神将のうちでは宮毘羅(ぐびら)に当る階段を上がるとケヤキの巨木の下に社が建っていた。中に小さい祠があった。中には七福神の?か。金毘羅様の前から境内を見下ろす。拝殿の屋根を見上げる。神紋の間の紋様は龍であろうか。拝殿の鬼板。社務所横から社殿を見る。境内は綺麗に清掃されていた。吉岡神明社の参拝を終え後にすることに。右側は駐車場だが閉鎖中であった。12:15綾西公園駐車場へ。12:25カーナビの案内で五社神社の駐車場へ。民家の塀にポスター、「五社神社 納涼 夏祭り 令和8年7月25日(土) 開会 16:00 閉会 20:30(雨天中止) 場所 五社神社境内」と。五社神社所在地:神奈川県綾瀬市早川1603住宅に囲まれた静かな高台にあり、天気が良いと境内から富士山、大山が見える。神社前を回り込み。玉垣の中に「文字道祖神」が立っていた。 社号標石「郷社 五社神社」と。新しい鉄製?の鳥居が建っていた。鳥居の扁額「五社神社」。参道脇には御神木の「イチョウの木」が聳えている。宮司さんに聞くと「雄のため銀杏はつかないが、落葉の掃除が大変」と。根元の立札に、「御神木 銀杏 江戸時代中期の頃に植栽されました。 社務所」と。イチョウの木を見上げる。五社神社御由緒一、鎮座地 綾瀬市早川1603番地一、祭 神 天照大日霎貴尊 天忍穂耳尊 天津彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊 鸕鵜草葺不合尊一、由 緒 第十二代景行天皇の皇子日本武尊東征の折当地(亀井山)に五乃朶榊を樹て地神五代を 創祀し給う第九十五代花園天皇の正和二年の春浄覚大徳社殿を再建す鎌倉時代早川城 主渋谷重国亜族の崇敬厚く生々祭祀怠りなし慶安二年八月徳川三代将軍より社領十三 石の御朱印を給う 明治六年村社大正五年幣帛供進神社に指定昭和十二年十月六日郷社に列せらる一、祭 日 例大祭九月最終土曜日 祈年祭二月十七日 新穀感謝祭十一月ニ十三日 その他中小諸祈願祭随時執行一、境内社 痘瘡稲荷社、八坂神社、渋谷神社大きな板碑に「社務所・神楽殿 奉納金者」と。こちらの板碑には「玉垣造成記念 奉納金寄附者芳名」と。参道には樹々が聳える。参道を進むと左右に覆い屋。左側の覆い屋の中に祠があった。覆い屋の右側の標石に「八坂神社」と。八坂神社右側には鎖で囲われた覆い屋が建っていた。標石に「日本武尊御腰掛石」と。日本武尊御腰掛石八坂神社を振り返る。12:30日本武尊御腰掛石、参道入口方向を振り返る。 ー continued ー
2026.07.27
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この日は綾瀬市の北西部の寺社史蹟巡りに。7月18日(土) 11:00寒川から中原街道(県道45号線)を用田交差点方面へ北上。今日の目的地「吉岡神明社」への途中、見落としていた藤沢市用田の地蔵尊へ立ち寄った。中原街道から西側に下り目久尻川沿いの道へ。子育守護根之神地蔵尊所在地:神奈川県藤沢市用田2658Googleマップでは「子育守護根之仲地蔵尊」とあったが。子どもの成長を祈って今でも崇敬されているのであろう、地蔵尊の周りの境内は綺麗に清掃されていた。新しい標柱に「子育守護根之神地蔵尊」と。社の横には手ほうき等が吊るされていた。標柱の裏面には、「平成十三年一月吉日建之 寄贈 株式会社 □石材□」と。覆い屋は閉ざされていた。扉は閉ざされていたが「さい銭口」「扉開ける ➨」と。この構造なら扉が閉められていてもお賽銭は投入できるが盗難対策はと。扉を開けると母娘の地蔵であったか赤い衣装をまとっていた。新しい花(造花)も備えられていた。親地蔵様をズームアップ。子地蔵であったかキリっと。お地蔵様の救いと願いお地蔵様は庶民の ほとけお地蔵様の名前は、正しくは地蔵菩薩といいます。しかし、ふつうは、そんなかた苦しい呼び方はせず「お地蔵様」とか「お地蔵さん」と呼んでいます。お地蔵様は私たちにとって、最も親しみやすい菩薩さまです。そのため、このようなこのような呼び方がされているのです。お地蔵様は日本国中どこにでもおられます。お寺に行けば六体並んだ六地蔵、村や町の路傍に、大都会の街角や道路に、お地蔵様はじっとたたずみ、通行人や走り去る車をみまもっているのです。そうとも知らず人々はドンドン通り過ぎていきます。なんともったいないことでしょう。悩み苦しむ人々を救う地蔵様地蔵様は救いの菩薩さま、悩み苦しむ人々を、あまさず、もれなく救う、それがお地蔵様の誓いです。「地蔵菩薩本願経」というお経に、次のように説かれています。以降「略」。覆い屋の奥に、「子育守護 根の神地蔵尊 整備 竣 工 2026年7月16日 竣工式 寿昌寺住職読経(平沢 智樹氏) 地区参加者 6区 長谷川 明夫 7区 磯野 郁男・笹山 征二・渡邉 大策 境内地整備 (五十音順) 渡邉 大策 地蔵尊扉制作・立木伐採・土止め 除草等全般竣工が、2026年7月16日とあり2日前に竣工式が行われたようだ。どうりで綺麗に整備されていたのだ。地蔵尊前から目久尻川に架かる水管橋を望む。地蔵尊から農道を北上すると道路脇の一角に道祖神があった。新旧の双体道祖神が置かれていた。ズームアップ。双体道祖神がある辻から北方向を望む。坂を上った右側に蟹ヶ谷公園がある。11:30綾西公園駐車場所在地:神奈川県綾瀬市綾西2丁目11-14吉岡神明社の駐車場が閉ざされていたので、神明社の西側にある駐車場へ。5台ほどが停めれる小さい駐車場であった。駐車場脇にレンタル自転車があった。Googleマップには「🚴 HELLO CYCLING 共有自転車ステーション」と表示されている。綾西公園の長いすべり台。すべり台の出発点には「藤棚」があるようだ。太陽光パネルと風力発電があったが電力は何に利用されているのか。上の北側には多目的広場、テニスコート1面がある。駐車場から坂を下り吉岡神明社入口へ。境内の南側は新しい玉垣で囲われていた。吉岡神明社の駐車場だが鎖で閉ざされていた。吉岡神明社所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1808当社は、小島左衛門尉源忠重が当地土着に際して康和4年(1102)に勧請したとも、元和2年(1616)春日局が伊勢神明天照太神宮を勧請して創建したともいい、いずれか確かか不詳ながら、江戸期には吉岡村の鎮守社であったというと。社号標石に「吉岡神明社」と。神明社年間祭事 元旦祭 一月一日 祈願祭 四月一日 秋季大祭 九月十五日 七五三祭 十一月十五日 感謝祭 十二月一日吉岡神明社 案内図石碑には「大松樹記念碑」。板碑には、「玉垣完成記念碑 奉納金寄附者芳名 奉納金 個人 伍拾萬圓~弐拾萬圓 氏子崇敬者一同 弐百萬圓 平成九年二月吉日 施行 (有)工藤石材商会」と。 樹々に囲われた中に鳥居が立っていた。吉岡神明社の周りは新興住宅地になっているがここだけは昔のままに樹々が生い茂り静寂な空間に。この日は土曜日であったが子どもたちの声もなく。参道の右側に「神明社辨天池改修記念碑」と。神明社辨天池改修記念碑寛政四□子年(1792)にこの辨天宮が再建され、すでに百九十余年を経過した其の後 明治 大正 昭和と数度に亘って改築され今日に至った辨天宮の鎮座するこの地は往古より清水の湧く村の鎮守の地として崇められてきたが 自然のままに荒廃するに忍びず 此の度 辨天池の改修を発起し 氏子崇敬者の多大な努力により此に完成をみたので是を記念し 後世に伝えんものと書き記すものなり 昭和五拾七年拾貮月壹日 氏子一同辨天池の傍に手水舎が建っていた。柵で囲われた中に、辨天池と弁天様。弁天様もとはインドのサラスバティ川の女神。仏教では弁舌、音楽、学問、智慧、財福などを司る神とされる。手には琵琶や武器を持つ。七福神の一つとしても知られている。俗に紅一点の才能のある女性。弁天様を祀る社。辨天池手水舎の向かい側に奉納の一覧が掲示されていた。神明社台風災害復旧奉賛金御芳名 平成二十三年九月二十一日下に多くの名前が書かれていたが無残にも消えかかっていた。弁財天宮覆殿新築工事御芳名(順不同) 平成三十年九月五日(敬称略) 金額、御芳名が書かれていたが、個人では五萬圓~弐千圓と。参道を進み境内へ。参道を進むと左側に「スギの御神木」が聳えていた。後方は「社務所」。スギの幹に、「御神木 杉 江戸時代初期、植栽されたと伝えられている」と。境内の右側に「神楽殿」。神楽殿も新しく、石燈籠も新しいものであった。12:00社殿を見上げる。神明社 (しんめいしゃ)神明社は、天照大神、豊受大神が祀られています。社殿は本殿、覆殿、拝殿、及び幣殿で、他に社務所と神楽殿があり、境内社に琴平神社、稲荷社、弁財天社があります。元和二年(1616)に、三代将軍徳川家光の乳母であるお福(春日局)が勧請したとされる棟札が残されています。昔は当社の付近に、瀧岡寺(寿宝院)という別当寺がありました。 平成二十二年三月 綾瀬市教育委員会 ー continued ー
2026.07.26
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この日は、我が人生最後の新車ノートで出かけた。前車もノートで走行距離は4年間で約18,000kmであったが、査定金額が高価であると。また返済額も今までと同額であるとのことで頭金を用意して決断し新車に。車検の3年後には軽自動車に乗り換え予定だが、さてそこまで・・・。前回はゴルフでお馴染みの大きなキーを持って撮影したがなくなったと。7月22日(水) 先日の茅ヶ崎FMで、DJの田﨑亜美さんが"平塚名物の弦斎カレーパン"を紹介していたので出かけた帰りに立ち寄った。16:00高久製パン(株) 工場 食パンハウス 所在地:神奈川県平塚市老松町10-18大正13年(1924)創業の高久製パンで、弦斎カレーパンでお馴染みで、パン・給食パン・焼き菓子を製造販売している。この日はカーナビをここ工場にセットして閉店間際に訪れた。東海道本線を挟んだ南側には「オリンピック(OSC)」がある。高久製パンは給食パンで、平塚市・茅ヶ崎市・大磯町・秦野市の小学校、二宮・中井町の小・中学校へ納めており馴染みの味では。東海道本線の車窓から山側にこの看板が見える。今まで何度もこの路線に乗車しているのだが記憶にない。工場直売所住宅街の一角にある工場で駐車場もない場所にあり販売は自動販売機による。営業時間:10:30~16:30 無休人気の”弦斎カレーパン”この商品の開発秘話(社長談)は、「私は1904年から亡くなるまで神奈川県平塚市の平塚駅の南側に居住していた村井弦斎翁 のことを幼少のころから聞かされておりました。ある日、当時の平塚市長が私を呼び出し ”歴史で平塚の町おこしをしたい” と告げられました。その時私はすぐに、村井弦斎翁が 1903年(明治36年)ごろ連載していた料理小説『食道樂』にカレーを紹介していた記事を 思い出しました。私は、それをヒントにカレーパンを開発しました」と。この日は訪れたのが遅く完売であったので食レポは次回の楽しみに・・・。コンテナハウスの中に自動販売機があり「営業時間(自販機) 夜21:00まで延長」と。値段も「お得パン ¥200~、食パン ¥150~、菓子パン ¥90~」と、この時期にしてはリーズナブルな価格設定であった。二階の事務所下に、「創業 大正十三年 高久製パン」。 定休日:悪天候の場合、年末年始水曜日:朝焼き食パン 超お得・数量限定 1本500円コンテナハウス入口、左側の貼り紙に、「《 食パンハウスよりのお願い 》 ご来店ありがとうございます。 販売価格維持のため、開店から12時までの間の時間帯は ご希望の商品に関する店員へのお声がけを、 お控えくださいますようお願い申し上げます」と。ここまでしてリーズナブルな価格で提供しているのかと。自動販売機購入は1,000円を入れ「希望の番号」➨「購入」続けて次の製品を注文、最後に「おつり」を押すとおつりが出てくる。目的の「弦斎カレーパン ¥300」は売り切れであった。こちらの自動販売機は一つのBOXが大きく袋詰めで販売。ちょうど係りの方がおられ聞くと「両替は二階の事務所で」「駐車場は向かいのオリンピック(OSC)が3時間まで無料」と。袋詰めのコッペパン ¥200、2袋等を購入したが1,000円でおつりがきた。店先の貼り紙。老松町公園工場の傍に駐車場がなく、路上に駐車できないので少し離れた公園傍に駐車。工場を振り返る。係員の方から頂いたパンフレット。シャンパン☆ベーカリー桜ヶ丘店所在地:神奈川県平塚市桜ヶ丘4-46営 業:平日/9時~17時、土日祝/8時~17時、定休日/火曜日弦斎カレーパンでお馴染みの高久製パンが運営しているパン屋さん。大船・平塚・藤沢にもベーカリーを運営している。裏面には、7、8月のスケジュールが。月1回「60分食べ放題」を、大人¥1,500で開催。ひらつか 匠 の店17店舗が紹介されている。ひらつか匠の店とは?平塚市では、手作業にこだわり、伝統的な技や卓越した技術等により、自店又は自社で製造した製品を販売する店舗及びサービスを提供する店舗を「匠の店」として認定する「匠の店認定事業」を平成26年度より開始しました。「ひらつか匠の店」認定店は、優れた目利きと確かな技術でこだわりのある魅力的な商品やサービスを提供しています。また、匠の技が体験できるイベントを開催している店舗もあります。是非、各店舗へお越しください。おまけ7月23日(木)小玉スイカも受粉してから1か月を経たので2回目の収穫で4個目になる。黄色の玉は中身は赤色であった。庖丁を入れるとパリッと割れ、甘みも十分にあり美味しかった。また、朝起きると愛車ノートの上にブドウの皮があり、鳥獣被害?か、袋掛けした。 END
2026.07.25
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神崎遺跡資料館で「綾瀬市の歴史・神崎遺跡の紹介」を見た後、屋外の発掘エリアへ。7月8日(水) 15:00資料館2階の「遺跡展望バルコニー」からの全景。柵で囲われた道は東側下の市道3号線からの進入路。土の部分は発掘後埋め戻された住居跡。神崎遺跡資料館から出て発掘エリアへ。神崎遺跡は弥生時代後期の環濠集落(周囲に溝を巡らしたムラ)で、ほぼ完全な形で出土した国指定史跡である。遺跡は発掘調査後埋め戻されており、神崎遺跡公園として整備されています。公園には環濠等の位置表示や遺跡の説明板があり、散策しながら歴史を学ぶことができます。また、神崎遺跡に隣接する神崎遺跡資料館は2016(平成28)年開館で、1800年前の土器や実物大の環濠の模型が展示されていますと。神崎遺跡は、南北103m、東西65m、面積5,000㎡ほどの広い環濠集落であるので夏場には草刈等の管理が大変である。大きな石に「史跡 神崎遺跡」と。公園内案内図記念碑の前から時計回りに散策することに。国指定史跡 神崎遺跡1、名 称 史跡 神崎遺跡2、指定年月日 平成23年2月7日3、指定理由 国家の成立にむけて日本列島が揺れ動く弥生時代に、東海地方から関東地方へ200km 以上を人々が集団移住したことを示す遺跡であること、及び、環濠集落全体がほぼ完 全な形で残っていること。3、遺跡の内容 弥生時代後期(約1,800年前)の環濠集落。集落の形は楕円形で、規模は南北103m、 東西65m、面積は約5,000㎡。環濠(周囲を巡る溝)は、幅、深さともに約2mで、 断面はV字形。これまで実施した発掘調査は遺跡の一部で、確認できた弥生時代の竪 穴住居跡は18軒。4、そ の 他 史跡の隣接地に神崎遺跡資料館が平成28年5月に開館。館内には出土遺物や環濠の復 元模型が展示されているほか、2階からは環濠集落を一望できる。神崎遺跡公園神崎遺跡は平成元年に初めて発掘調査され、ここに弥生時代後期(今から約1800年前)の環濠集落があったことが明らかになリました。環濠集落は周囲に深い溝を巡らせたムラです。弥生時代特有のもので、各地から発見されていますが、当時、ムラ同士が緊張関係にあっことを示しています。さらに神崎遺跡の環濠集落は東海地方からの移住者によリつくられたこともわかり、日本の歴史を考えるのに必要な遺跡とされました。また、遺跡全体が良好な状態で保存されている点も高く評価され、平成23年2月に国史跡に指定を受け、遺跡公園として整備されました。これまでの発掘調査から、18軒以上の住居跡があることがわかっています。現在では住居跡や環濠は地中に保存されています。公園には全長270mにわたる環濠(ムラ周囲の溝)とこれまでに確認された住居跡の位置が表示されています。上空には海上自衛隊の飛行機が厚木航空基地へと。右奥には「竪穴式住居」の復元住居が2棟建っている。環濠(かんごう)弥生時代になると、日本列島にムラの周囲に溝を巡らした環濠集落が出現します。環濠集落は弥生時代特有のムラですが、環濠は攻撃から自分のムラを守るための防御施設と考えられています。集落間の争いの原因は、弥生時代になって使い始められた鉄製品が、国内で生産できない貴重な輸入品だったために、入手をめぐり、争いが多発したと言われています。しかし、関東地方では武器などの直接的証拠が見つかっていないため、住民が一致団結するために環濠をつくったという考えもあります。神崎遺跡の環濠は地点によって異なりますが、幅、深さともに2mほどで、断面はV字形ですので、外部からは容易に侵入できませんでした。なお、未調査部分に橋などの出入口施設があった可能性があります。神埼遺跡資料館には実物大の環濠復元模型が展示されています。環濠(かんごう)公園内にアジサイが植えられていた。左奥には四阿が建っていた。ガクアジサイをズームアップ。神崎遺跡公園の北西隅に建つ四阿から神崎遺跡を見る。土器捨て場平成元年の最初の発掘調査で、この周辺(南北約15m、東西約6m)から土器の破片が多量に集中して出土しました。一般に、多量の遺物が出土すると、住居などの建物跡が確認できることが多いのですが、ここからは発見されませんでした。出土した土器には完全な形のものはないため、破片を廃棄した場所と推定し、「土器捨て場」と呼んでいます。ここからは多量の土器の破片に混じり、鉄鎌も発見されました。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。説明板には「土器捨て場」と。公園の中央に復元された「竪穴式住居」の2棟が建っている。右側に「1号住居跡」、左にビニールシートがかけられた「2号住居跡」。1号住居跡2号住居跡1、2号住居跡の先を東海道新幹線が横切る。復元住居の南側に見えている神崎遺跡資料館。手前は発掘調査後埋め戻された住居跡。3号・4号・5号・6号住居跡3号・4号・5号・6号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。3号住居跡は5.9m×4.8mの楕円形です。炉跡と4本の柱穴がありました。4号住居跡は6.3m×6.2mの隅が丸い方形です。炉跡と10本の柱穴が確認されました。一見、不整形に見えるのと、柱穴が他の住居跡より多いのは住居の建て替え(増築)のためです。5号住居跡は5.2m×4.7mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。6号住居跡は遺跡保護を優先としたため、住居跡の有無の確認にとどめました。そのため、規模は推定となりますが、5.5m×5.5mほどの隅が丸い方形と思われます。3号・4号・5号・6号住居跡復元住居の北側に3号・4号・5号・6号住居跡が発見されたようだ。奥に「1号住居跡」、手前に「2号住居跡」が復元されているがそろそろ修復時期に。入り口は閉ざされて中は見れなかった。10号住居跡10号住居跡は平成25年の発掘調査で確認された竪穴住居跡です。神崎遺跡の主な調査は、平成元年の市史編集事業に伴う調査、平成22年の国史跡指定にむけての調査、平成25年の史跡整備による調査となります。平成25年の発掘調査は、それまでの調査では不明だった、環濠集落中央部の様子を確認することが目的でした。そのため、中央部を東西に横断する4m幅の発掘調査を実施し、発見されたのが10号住居跡です。この住居跡の発見により、中央部は広場ではなかったことがわかりました。平成22年以降の発掘調査では、住居跡が確認できた場合、掘り上げないで発掘を終了しています。したがって、10号住居跡の規模は推定となりますが、7.5m×5.5mほどの隅が丸い長方形と思われます。埋め戻された10号住居跡。復元された竪穴住居の1号住居1号住居跡1号住居跡・2号住居跡1号住居跡と2号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。1号住居跡は4.6m×3.5mの隅が丸い長方形で、ほかの住居跡よりも小型です。炉跡は見つかりましたが、柱穴はありませんでした。2号住居跡は6.3m×5.4mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。出土遺物には神崎遺跡の住民の故郷であった東海地方に特徴的な「ブランデーグラス」と呼ばれる土器、使いみちがはっきりしない球形土製品、儀礼(まつりごと)に使われた銅鏃(銅製のやじり)が出土しています。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。ここからは公園内を横切る小径の南側エリア。遺跡全体図7・8・9・13・14号住居跡平成21年以降に発掘調査したこの一群の住居跡は遺跡保護のため、発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、13号住居跡は確認のため、一部を掘り下げたところ、予想外の発見がありました。3種類の形の土器が住居の床の上から出土したのです。弥生土器は使い方により形が異なりますが、主に甕形土器(煮炊き用)、壺形土器(貯蔵用)、高坏形土器(供え用)の3種類からなります。13号住居跡の床からは、当時の生活の復元に必要なこのセットが発見されたのです。残る未調査部分には何が眠っているのか期待できる資料にもなりました。出土土器は資料館に展示しています。東側の目久尻川から登ったところに位置する住居跡。11号・12号住居跡長期間にわたり同じ場所に住み続けると、人々は古い住居を壊して新しい住居をつくります。発掘調査では、このような場合、新旧の住居跡が重なっ確認されます。これを住居跡の重複といいます。神崎遺跡からは平成25年の発掘調査で初めて住居跡の重複が確認されました。出土土器からは時間の変化が読み取れなかったため、集落の継続期間は短いのですが、住居を建て替える必要があるくらいの年数は、人々はこの地に住んでいたようです。神崎遺跡の南東部を東海道新幹線が横切る。説明板には「移住者のムラ」と。移住者のムラ今から1,800年前、前方に見える東海道新幹線の向かって右方向200km先 (駅名でいうと浜松、豊橋あたり、現在の愛知県から静岡県にかけての地域) に住んでいた人々が、集団でここに移住し、環濠集落と呼ばれるムラをつくったことが発掘調査により明らかになりました。発掘調査により土器等モノの移動が明らかになることはよくありますが、人の移住を証明できることはほとんどありません。神崎遺跡は出土した土器の95%以上が東海地方の土器に酷似していること、しかも、その土器は神崎遺跡周辺の土でつくられていたこと、さらには、竪穴住居の形も「横長型」という地元のものではなかったことから、日本列島内での集団移住が明らかになりました。上段:神崎住民の故郷下段:そっくりな土器 左:静岡県浜松市伊場遺跡出土土器(浜松市博物館 蔵) 右:神崎遺跡出土土器神崎遺跡の東側下に市道3号線が走り北方向。南側を東海道新幹線が横切る。案内板は市道3号線沿いに立つ「神崎遺跡公園」で入口になる。神崎遺跡公園の南東部から北側を望む。説明板に「15・16・17・18・19号住居跡」と。中央奥は神崎遺跡資料館。15・16・17・18・19号住居跡平成25年に環濠内の南端部の状況を確認するため発掘調査したところ5軒の住居跡が見つかりましたが、遺跡保護のため発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、この確認により、環濠内全体に住居が作られたことが明らかになりました。また、19号住居跡は古墳時代後期のもので、弥生時代とは異なり、かまどが備えられています。神崎遺跡は弥生時代後期以降、近世まで無人の地であると考えられていましたが、この住居跡の発見により、環濠集落廃絶後、500年ほどして一時期人が住んでいたことがわかりました。集落南端部の調査集落南端部の発掘調査は最小限にとどめているため貴重な遺跡は地下に眠っていると。遺跡の散策を終え駐車場へ。北側を振り返る。神崎遺跡資料館前来館者は私以外にはいなかったが。遺跡の南側には民家が建っているが。神崎遺跡資料館の東側。2階は学習コーナーで遺跡展望バルコニーがある。外からもトイレへ入ることができる。15:30神崎遺跡の中の小径を走り資料館を後にした。 ー continued ー
2026.07.24
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展示室で「綾瀬市の歴史・神崎遺跡の紹介」の映像を見た後、パネルを追う。7月8日(水) 14:45展示室(綾瀬の歴史)この部屋では「綾瀬市の歴史・神崎遺跡の紹介」の映像が見れ、壁面には綾瀬の歴史がパネルで紹介されている。後方の壁面に、「原始・古代~中世」のパネル。原始・古代綾瀬のはじまり(旧石器時代) 吉岡遺跡群(現在の綾瀬浄水場)からは約4万年前の石器群が発見されています。氷河 時代とも呼ぶ厳しさのなか、最初の綾瀬の住人は定住してはいませんでした。土器の出現(縄文時代) 約1万2千年前、日本列島で土器が作られはじめ、寺尾遺跡(現在の県立綾瀬高校)でも 見つかっています。縄文時代がはじまり、人々は定住生活を営むようになりました。旧石器~奈良・平安時代ムラの発展(縄文時代) 約5000年前、定住生活を営むムラは徐々に大きくなっていきました。上土棚南遺跡 (現在の南部ふれあい会館・綾南保育園周辺)からは約4000年前のムラの跡と祭祀道具 の土鍋等が発見されています。神崎遺跡の登場(弥生時代) 約3000年前、日本列島に水田稲作が伝わり、弥生時代がはじまりました。その後、環 濠集落や金属器利用も広がり、約1800年前、神崎にムラが営まれようになりました。国家の成立(古墳時代) 約1700年前、日本列島は一つの国家としてまとまっていきました。それを示すのが全 国で見られる前方後円墳です。綾瀬市内に前方後円墳のような巨大墳墓は見つかって いませんが、横穴墓が確認されています。ムラの様子(奈良・平安時代) 宮久保遺跡(現在の県立綾瀬西高校)や早川城山遺跡(城山公園周辺)からは当時のムラが 見つかっています。奈良三彩のような貴重な遺物も出土していることから、中央政府 に関連したムラと考えられています。中世 綾瀬市内の中世遺跡早川城跡 渋谷氏ゆかりの伝承のある早川城跡は、保存状態が良好の中世城郭として、2008(平 成20)年に県史跡に指定されました。現在では城山公園として、親しまれています。びわみ堂遺跡 落合に今も残る中世墓地の跡です。現在の卒塔婆にあたる板碑が多数出土しています が、1305(嘉元3)年銘のものは市内で最も古い年号を記した板碑です。宮久保遺跡 現在の県立綾瀬西高校の発掘調査をもとに復元した鎌倉時代の武士の館です。中世 平安時代末~鎌倉時代~戦国時代渋谷荘と渋谷氏と入来文書 渋谷重国は、12世紀半ばに円満院の荘園「渋谷荘」を支配した開発領主です。 源頼朝の鎌倉幕府設立を支援し、鎌倉殿の御家人となりました。 入来文書は、13世紀後半、薩摩国入来地方に領地を得て転出した渋谷一族が遺 した古文書で、相模国の御家人の姿を伝えています。早川(祖師)・吉岡・大谷・ 寺尾・藤心・落合・五所宮(五社神社)などがみえます。 渋谷荘(吉田荘)は、高座郡の引地川・目久尻川流域にまたがり、現在の綾瀬市・ 海老名市・藤沢市・大和市・座間市に位置します。 五社神社は渋谷一族の精神的拠り所、長泉寺は一族の菩提寺と伝えられています。戦国大名北条氏の領国 16世紀には、戦国大名北条早雲の領国となりました。北条氏は支城や街道・駅 や伝馬を整備し、検地によって村々を掌握しました。 北条氏康は、家臣団の領地と役務をまとめた役帳を作成しました。市域4か村と その領主がみえます。<土棚(垪和氏)、𠮷岡(岡本氏)、寺尾(長田氏・後藤氏)、 小園(高城氏)> 1571(元亀2)年北条家臣団の軍役着到状が発せられ、吉岡村を本貫地とする岡本 八郎左衛門の軍役(軍勢)が定められました。軍装や武器が決められ、武将や供の 名前も判明しています。 北条氏は印判状を発給して当主の命令を伝達しました。 1587(天正15)年北条氏直が、小園村に竹6束を供出し、伝馬を用いて津端へ運 ぶよう命じています。 近世 江戸時代徳川幕府の支配下の村々 村々は、徳川家康とともに三河国から移住してきた旗本の領地や徳川氏の直轄領とな りました。現代につながる8か村の姿が整いました。ー 近世後期の村々の景観復元絵図一鳥になって西の空から綾瀬の村々をみる ー 近世後期景観復元絵図 この図は、1841(天保12)年「新編相模國風土記稿」及び村絵 図(個人蔵)などに見える村々の様子と、1883(明治15)年測量のフランス式彩色迅速測 図の地形・土地利用情報を重ね合わせ、市域の景観復元絵図としたものです。蓼川村(たてかわむら) 1673(寛文13)年、立川野の開発され蓼川新田村が成立しました。村の観音堂には五代 将軍綱吉の母桂昌院の位牌が伝えられました。深谷村 最初の領主大橋氏は長龍寺を菩提寺として墓碑を残しました。元禄期には深谷新 田(大上)が開発されています。村の中央を中原街道が通り、幕末には深谷寄場組 合の親村となりました。寺尾村 寺尾子之社(ねのしゃ)は後北条氏の家臣橘川氏が勧請しました。報恩寺は入来文書 にもあらわれます。村の北境を矢倉沢往還(大山街道)が通ります。小園村 近世中期に佐倉藩領となりました。原の開発が進み、村高は幕末には2倍になりました。 地蔵堂は相模国分寺の隠居寺と伝えられています。早川村 最初の領主石川氏は早川城山に陣屋を設けました。渋谷氏の精神的拠り所とされる五所宮 (五社神社)は菩提寺とされる長泉寺とともに中世の面影を伝えています。また、龍洞院は 国分寺の隠居寺と伝えられています。綾瀬市南部エリア本蓼川村(ほんたてかわむら) 蓼川村の親村です。 若き日の田沼意次の領地でした。村の中心を中原街道が通ります。厚木飛行場建設で、 住民は移転しました。上土棚村(かみつちだなむら) 領主の遠山氏は蓮光寺を菩提寺とし、幕末までの累代の墓碑を残しました。吉岡村 三代将軍家光の乳母春日局は、吉岡村周辺に化粧料として3000石の領地を下付され、吉 岡に館をたて、神明社を勧請しました。春日局の館跡とされる済運寺周辺には、春日道や 春日原という地名が残ります。高座郡の渋谷荘と周辺地域渋谷荘(吉田荘)は、高座郡の引地川・目久尻川流域にまたがり、現在の綾瀬市・海老名市・藤沢市・大和市・座間市に位置します。< 近世後期 綾瀬市域8か村の概要 >近代・現代明治維新と綾瀬村の誕生 近代国家建設にむけて、地租改正・徴兵令・学校令などの政策が行われ、 1889(明治22)年には市町村制の施行により、綾瀬村が誕生しました。 早川・吉岡・小園・寺尾・深谷・蓼川・本蓼川・上土棚の8か村が合併し、 綾瀬村となりました。15年戦争と村の生活 昭和になると、近代国家日本は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争と続く 戦争の歴史を歩み、村の青年たちも戦場へ向かいました。現代 昭和戦中・戦後期海軍施設の建設と町制施行 1941(昭和16)年から、海軍厚木飛行場と高座海軍工廠の建設が始まり、 周辺は軍都として整備され、1945年、綾瀬村は綾瀬町になりました。戦後復興と市制施行 綾瀬町は高度成長期に首都圏のベッドタウンとして、また内陸工業地域と して発展し、1978(昭和53)年11月1日、市となりました。綾瀬市の航空写真が1階フロアに(南側から)。市内の北東に位置する厚木基地は、18%強が在日米軍と海上自衛隊となっており(同基地総面積の約78%に相当)している。2階:神崎遺跡の展示地上2階建てだがエレベーターも設けられている。2階フロアから南側の東海道新幹線高架橋を見る。新幹線をズームアップ2階:神崎遺跡展示室神崎遺跡の出土品展示、神崎遺跡の暮らし、集落復元模型、移動の軌跡(東海から相模へ)。時計回りに移動壁面には、神崎遺跡のパネルが掲示されていた。1⃣ プロローグ/市史編集事業にともなう発見 発掘調査の始まり遺跡の位置 綾瀬市神崎遺跡は、海老名市と藤沢市との市境に近い標高24mほどの目久尻川を臨む台 地の上に立地し、周囲の水田との標高差は約11mあります。 遺跡からは東海道新幹線が見えます。遺跡の発見 1986(昭和61)年11月に綾瀬市の歴史をまとめる「綾瀬市史編集基本構想」が制定され、 1987(昭和62)年から綾瀬市史編集事業が始まりました。 市域の歴史を描くためにはその時代の資料が必要です。しかし、どの時代にもわたって 十分な資料が残っているとは限りません。市史編集事業が始まった当時、綾瀬市の弥生 時代についての資料は極めて少ない状況でした。 当時、総括市史編集委員であった故岡本勇氏は不足する弥生時代の資料を収集するため に、市内各地を歩いて調査した後、神崎の地で採集された土器をもとに発掘調査を実施 しました。発掘調査 発掘調査の結果、弥生時代後期という国家成立に向かう時代に、東海地方から関東地方 へ人々が集団で移住していた事実が明らかになりました。綾瀬だけではなく、日本の歴 史に必要な遺跡の発見となったのです。この発見により、2011(平成23)年2月7日、神 崎遺跡は国史跡に指定されました。2⃣ 第1章/東海から綾瀬へ 東海地方から来た証拠明らかになった移住 遺跡からの出土品を分析しても、それを作った人の動きに迫ることは実はむずかしいの です。例えば、地元のものではなく、離れた地域でよく見られる土器が出土したとしま す。このことをどう考えるでしょうか。一つは「完成した土器が運ばれてきた」、もう 一つは「離れた地域から移住してきて土器を作った」。この2つの可能性が考えられます が、移住と断定できる例は少ないのです。神崎遺跡の場合は、その珍しい例にあたり、 200km以上離れた地域から、人々が集団で移住してきた事実が明らかになったのです。 なぜ、モノではなく人の動きであるとわかったのでしょうか。証拠1 出土した東海系土器 出土土器のうち95%以上が東海地方(現在の静岡県西部から愛知県東部)の土器の型その ものだったのです。全体の5%ならば、土器が運ばれてきたと考えられますが、毎日の生 活に使う土器のほぼすべてが運ばれてきたとは考えにくいのです。 さらに、胎土(土器の土)を分析したところ、綾瀬周辺から採取された土という結果がでま した。つまり、東海地方から来た人々が綾瀬で故郷の土器を作ったことがわかりました。証拠2 横長型の住居跡 一般に、この時期の関東地方で見られる住居跡は縦長型です。しかし、神崎遺跡から発 見された住居跡の半分以上は横長型でした。これも東海地方からの移住の証拠と考えら れます。そのほか、東海地方の影響と思われる球形の土製品や鋼の矢じりも出土してい ます。3⃣ 第1章/東海から綾瀬へ 200kmを超える移住の理由戦乱を避けて神崎に? 中国の文献には、弥生時代の日本が小さな戦乱状態であったと記されています。また、 西日本の弥生時代の遺跡からは武器や、戦死者と思われる人骨が出土していることから、 当時の日本列島には社会的な繁張関係があったと考えられています。そのような情勢の のなかで、人々は集団で長距離を移住しました。無人の地への移住 神崎遺跡からは環濠集落ができる以前の住居跡が見つかっていませんので、東海地方から 人々が移住するまで、無人の地であったことがわかっています。 なお、神崎遺跡を含む相模川流域には西遠江・東三河(西遠)の人々が、金目川流域には 東遠江(東遠)の人々が移住してきたことが、これまでの発掘調査から明らかになってい ます。このように、弥生時代後期が始まるときに、東海地方から多くの人々が神奈川県 内に移住してきました。東海地方の人々はこちらの様子をわかっていたのでしょうか。4⃣ 第2章/環濠集落をつくる 神崎の弥生ムラ集落の全容 神崎遺跡は楕円形の環濠集落です。長軸103m、短軸65mで、面積は約5,000㎡です。 集落を巡る環濠総延長は推定270mです。これまでの調査から18軒の弥生時代の住居跡 が見つかっています。このうち、同時に存在したのは、15軒程度と考えられています。 全域を発掘調査してはいないので、実際はこれ以上の住居跡が地下に眠っていると思わ れます。 住居跡や環濠などからは□、壺、高杯などの土器をはじめ、銅□、鉄□、鉄□、球形土 製品、砥石が出土しています。5⃣ 第2章/環濠集落をつくる 環濠に守られた暮らし環濠の役割 環濠は幅・深さとも約2mのV字形に掘られています。当時は機械もないので、相当の労 力をかけていたことでしょう。 環濠は戦乱のようなムラ同士の緊張関係によりつくられたと一般には考えられています。 一方で、関東地方では武器などの戦乱の直接的な証拠が発見されていないため、ムラの 住民が一致団結するために環濠を掘ったとする考えもあります。 しかし、環濠集落が多数同時に出現するのは弥生時代に限られるので、ムラ同士の緊張 関係は否定できないのではないでしょうか。 環濠集落の模型神崎の環濠の特徴環濠の断面形はV字形(逆三角形)です。場□によって深さや幅は異なりますが、概ね幅、深さは2mになっています。このような形の溝がムラの周囲200m以上を巡っていました。出入口は確認されていませんが、仮にあったとしても、ムラの出入りは簡単にはできなかったと思われます。ここに展示した環濠は実物大です。発掘調査で確認された大きさです。掘られた当時はさらに深かったと考えられています。環濠の模型集落の復元模型土器捨て場より出土した「壺形土器」。出土品の展示。神崎遺跡の13号住居跡から出土した「壺形土器」。6⃣ エピローグ/環濠集落の終焉、そして未来へ 弥生ムラの終焉神崎以降の弥生時代の綾瀬 神崎遺跡の環濠集落が終焉を迎えた以降(弥生時代後期後半)、弥生時代の綾瀬は遺跡 数は少ないものの、人々が住んでいた痕跡が見つかっています。 綾瀬にまた人々が集まりだすのは、古墳時代後期からになります。6⃣ エピローグ/環濠集落の終焉、そして未来へ 弥生ムラの終焉短い継続期間 はるばる東海地方から200kmにわたり集団で綾瀬に移住し、労力をかけ環濠を掘り、ム ラをつくりましたが、短い期間で住人がいなくなったことが、出土土器の変化が少ない ことからわかっています。1989(平成元)年の発掘調査では、住居跡の重複が確認できな かったので、東海地方から来た人々は一瞬にしてどこかへ行ってしまったという印象を 受けましたが、2013(平成25)年の発掘調査で住居跡の重複が確認でき、住居を建て替え る程度の期間はムラが続いたことがわかりました。神崎の新たな住人 環濠集落終焉以降、この地に人が現れるのは、約500年後になります。発見された古墳 時代後期の住居跡がそれを示しています。 新しい神崎の住人は、かつてこの地に東海地方から人々が集団で移住してきたことを知 っていたのでしょうか。7⃣ エピローグ/環濠集落の終焉、そして未来へ 未来へ託す発掘残された課題 一般的に、弥生時代の環濠集落と方形周溝墓と呼ばれるお墓がいっしょに発見されること が多いのですが、神崎遺跡の方形周溝墓は未確認です。集落の継続期間が短いので、方形 周溝墓をつくるまもなく人々はどこかへ行ってしまった可能性もあります。 そのほか、他の遺跡では確認できている掘立柱建物跡や、環濠の入口施設があったかどう かが、今後の調査への課題です。未来へ託す発掘調査 2013(平成25)年に実施した最後の発掘調査では、破片から全体を復元できる高杯、甕と ともに、壺のほぼ完形品が13号住居跡の床面から並んで出土しました。まだまだ貴重な 資料が地中に眠っていることが改めて確認出来ました。 発掘調査は掘れば掘るほどたくさんの発見があります。それなのに、なぜ、神崎遺跡は 全部掘っていないのでしょうか。 発掘調査は一度掘ってしまったら、やり直しができません。ところで、科学的分析方法 をはじめ、発掘技術は年々進歩し、一昔前まで予想できなかったデータが収集できるよ うになってきました。今後はさらに多くのデータが期待できます。このように、将来、 最新のデータを収集するためには、未調査のまま遺跡を残し、発掘調査に備えることが 重要になります。 このような理由から、神崎遺跡はすべて掘らずに、その答えを未来の人々に託している のです。東海地方から相模地方への移動海路による移動土器や住居の形に、地元ではなく東海地方の特徴しか見られないため、東海地方からの集団での移住が考えられます。環濠集落も移住して来た集団によりつくられたのでしょう。移動手段は陸路か海路かのどちらかになりますが、集団の移動となると海路が一般的です。実際に弥生時代の船の現物は出土しています。絵として残っている後世の船からも考えると、神崎に来た人々は準構造船を利用してきたのではないでしょうか。神崎遺跡の発掘調査(空撮)学習コーナー学習コーナーには海老名市史、綾瀬市史が置かれていた。学習コーナーから展示室を見る。学習コーナーの北側には「遺跡展望バルコニー」がある。遺跡展望バルコニーにあった神崎遺跡の模型。15:00遺跡展望バルコニーから神崎遺跡を見下ろす。 ー continued ー
2026.07.23
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この日の目的地である綾瀬市の「神崎遺跡」へ。7月8日(水) 14:30東側の目久尻川沿いの市道3号線からの入口。神崎遺跡の西側の県道43号線(藤沢厚木線)側からの入口。国指定史跡 神崎遺跡公園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡3425-5国指定遺跡の神崎遺跡を通じて綾瀬の歴史や文化を紹介している綾瀬市初の歴史学習施設。綾瀬・海老名・藤沢の市境に位置している施設で、県道の向かい側は海老名市になる。神崎遺跡公園駐車場は20台ほど駐車でき駐車料金、資料館入館料も無料である。レンタル自転車の中継点になっていた。システムがわからないので利用できないが。公園内案内図東側の目久尻川沿いの市道3号線からも入れ、遺跡の中の道を走り資料館前へ。神崎遺跡資料館開館時間:午前9時~午後5時。休館日 :月曜日(祝日にあたるときはその翌日)、12月29日~1月3日。綾瀬市の歴史や神崎遺跡に関する展示がある。1階の展示室では、綾瀬の歴史と神崎遺跡に関するビデオが見れ、あわせて15分程度であると。館内へ入り、受付があり親切に対応願った。1階:綾瀬の歴史展示、映像・VRコーナー2階:神崎遺跡の展示受付係の方から「来館は初めてですか、ビデを見ますか」と。ビデオをお願いし、館内の撮影はOKと。綾瀬の歴史旧石器時代から平成までの出来事が年代ごとに記されていた。上段:綾瀬市域に関連する出来事下段:世の中の出来事右から、旧石器、縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉・・・旧石器時代に綾瀬に人が住み始めたと。右から、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成と。平成8年 新市庁舎が完成する平成23年 神崎遺跡が市内では初めての国指定史跡となる平成28年 神崎遺跡資料館が開館する展示室(綾瀬の歴史)映像が見れ、壁面には綾瀬の歴史がパネルで紹介されている。後日訪れた時は研修会が行われていた。ここからは映像画面。神崎遺跡資料館 展示映像一部 綾瀬市の歴史 約11分13秒二部 神崎遺跡の紹介 約2分33秒綾瀬市市の全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やかでもともと農業・工業中心の町である。面積22.14k㎡、総人口82,752人(推計2026/6/1)、人口密度3,738人/k㎡。綾瀬市の歴史映像は、縄文時代から現在までを紹介している。吉岡遺跡群 蟹ヶ谷公園に隣接する神奈川県内広域水道企業団綾瀬浄水場内で発見された遺跡群です用田鳥居前遺跡 神奈川県藤沢市に位置し、高座丘陵西端の目久尻川左岸で発見された。出土した地層は 約23,000年前に遡る旧石器時代後期のもので、標高は約24メートル。約3000年前 弥生時代集落復元図約1700年前~古墳時代前方後円墳吉岡堀ノ内横穴墓群8世紀~奈良・平安時代相模国分寺1185年~鎌倉時代源頼朝荘園・渋谷荘の武士の館早川城跡現在は綾瀬市の城山公園で、一角に土塁、掘切、物見塚、曲輪などが残っており、現地にて見学ができる。発掘調査から、14世紀~15世紀の火鉢が出土していることから、14世紀~15世紀以降に使用された城だと考えられる。一説には、鎌倉幕府の御家人であった渋谷一族により築城されたとも伝えられている。1603年~江戸時代徳川家康上土棚村地頭遠山氏の墓碑文禄年間、上土棚村を所領とした旗本、遠山佐左衛門安則をはじめとする遠山氏累代の墓碑群である。春日局の位牌と遺品(済運寺)1868年~明治時代官軍の行列養蚕(昭和初期)1923(大正12)年9月1日 関東大震災 発生被害を受けた横浜震災により倒壊した綾瀬小学校校舎大正11年(1922) 綾瀬小学校が火災で焼失 翌年春に再建する大正12年(1923) 関東大震災 綾瀬小学校新校舎が倒壊する1926年~昭和時代厚木航空基地の格納庫と管制塔昭和16年(1941) 海軍厚木航空基地・高座海軍工廠の建設始まる (蓼川・本蓼川・上深谷・深谷大上が軍用地となる) 厚木基地は厚木の名称を冠しているが、厚木市はかかわっていないと。1945年~戦後1945(昭和20)年8月15日 太平洋戦争 終戦1945(昭和20)年8月30日 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立つ綾瀬工業団地大規模な住宅団地の建設1978(昭和53)年 綾瀬市になる14:45神崎遺跡1989(平成元)年 神崎遺跡 発見2011(平成23)年 国史跡に指定映像は大まかなものであった。 ー continued ー
2026.07.22
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茅ヶ崎市の4大イベントの一つである「浜降祭」が海の日(7月20日)に開催された。茅ヶ崎西浜海岸での祭典は3年前の令和5年(2023)7月17日に見ているので、今年は地元神社の宮立ちを見ることに。写真はスマホで撮影。7月19日(日) 16:45本村八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目13-40神仏混合の名残があり、牛頭天王には夫人との間に八人の王子がいたので、この方々をお祀りしたので八王子。広い境内には、天満宮、八坂神社、お稲荷さまが、祀られている。鳥居下から神輿が渡御する坂道の参道を見る。南側の参道には献燈の提燈が並ぶ。八王子神社の前に神輿が出されていた。本村八王子神社の境内社「八坂神社」の神輿である。神輿に樽酒が献納されていたが、何斗樽であったか。神輿の前で記念写真。八坂神社の神輿は、市内で最重量級で134年前に二宮町で制作されたもの。漆のひび割れや金属部分にサビが出るなど傷みが目立ってきたため、37年ぶりに修復することになり、令和4年(2022)夏から千葉県の神輿専門の工房で作業が進められたと。ポスターに、「集合 午前零時三十分 宮立ち 午前一時十五分」と、今夜来ることに。今夜はどのくらいの人が集合するのであろうか。神輿を担ぐ「本村氏子八坂会」のメンバーは60名(2024.6.2現在)。買い物途中に立ち寄った八王子神社。今夜、深夜再度来ることに。7月20日(月) 0:20浜降祭には寒川町・茅ヶ崎市の34神社から子ども神輿4基を含む38基が参加予定と。西浜海岸までの渡御は18社で、16社は人手不足等から車両による。国道1号からの参道を見下ろす。国道1号の歩道橋下に。本村八王子神社の境内社「八坂神社」。神輿は境内の中央に置かれていた。境内には既に多くの担ぎ手が集まっていた。神輿の前では神社関係者、担ぎ手が記念写真を行っていた。神輿をズームアップ。若い男女も多く参加していた。法被の背中の文字は「本村」であろうか。1:05式典が始まり、神社関係者、神輿関係者がご挨拶。境内には法被を着た老若男女の担ぎ手が200名近くいたのでは。かつては東京浅草あたりから応援の担ぎ手が来ていたが。神社関係が登壇したステージをズームアップ。鏡開きで3人の代表が掛け声とともに樽を割っていた。大きさは見えなかったが司会者が「全て飲み干したら宮立ち」と。また「今日一日熱中症にかからぬよう頑張ろう。そして無事宮入りするように」と挨拶。消防関係者も10数名が参加すると。1:35式典も終わり境内で神輿お披露目をしばし行い、太鼓の合図、鐘楼の鐘が鳴りいよいよ神社から宮立ちに。実はこの低い石鳥居があるのでどのようにするのかと興味があったのだ。鳥居には注連縄があったので関係者が二本の棒で押し上げていた。また担ぎ手のリーダーが声を張り上げ「神輿を下げて下げて」と誘導していた。皆さんもこの光景をスマホで撮影。無事潜り抜けた瞬間、拍手喝采であった。神社によっては長い階段を下りるところもあるのだ。神輿は再び担ぎ手の肩に。深夜ながら近所の方も見学に。神輿は掛け声とともに揺られ鈴がなっていた。事前の調査で国道1号を渡る光景を歩道橋の上から撮影しようと。歩道橋に上がり坂道を登る神輿を追う。神輿の担ぎ棒をロープで引っ張っていた。神輿の後方には多くの人が、200名どころか300名以上はいたのか?。担ぎ手は揃いのタオルを首に巻き。赤信号になるが神輿優先でご勘弁をと。神輿の担ぎ棒は二本。1:40国道1号(旧東海道)を渡り終え、茅ヶ崎駅前へと進んだ。茅ヶ崎駅前には、数社の神輿が集結。この後、自宅へは2時ごろに帰宅し入浴後ベッドへと。浜降祭に興味のある方は令和5年(2023)の「浜降祭」👈をクリック願います。 END
2026.07.21
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曇天の中、リハビリを兼ねて愛車のリンちゃんで出かけた。市立病院の療法士からは「電動アシスト自転車は効果はない」と言われているが。7月12日(日) 10:25家族連れであったかカートにキャンプ用品?を積み込み海岸へ向かっておられた。レギュラーガソリンは158円/ℓと。右側には小型犬専用のドッグラン。道の駅を後にし、久しぶりにサイクリングロードを走ることに。国道134号の歩道橋上から江の島方面に海鮮料理の「快飛(かっとび)」を見下ろす。この歩道橋は自転車に乗って走れる。駐車場は快飛の裏にもあった。この日は曇天で海風が吹いていたが、久しぶりにサイクリングロードを走ることに。ここは江の島の鵠沼海岸までのサイクリングロード起点である。海岸サイクリング道路Sー57 茅ヶ崎市柳島 柳島 終点 ➨ 鵠沼海岸 7.7km柳島海岸 公衆トイレ起点そばにあるが、利用時間は6時00分~19時00分。白波が押し寄せる茅ヶ崎海岸。この日の夜のニュースで、西側の平塚海岸で高校生が波に飲み込まれたと。この後行ったヘッドランドの警報盤に「波浪注意報発令中」とあった。茅ヶ崎漁港の平島、右奥に烏帽子岩を望む。この辺りは波が強くサーファーを見かけなかった。茅ヶ崎漁港へのサイクリングロードには潮風が。カメラをシートで養生カバー。柵内にはハマヒルガオが植栽されていた。茅ヶ崎漁港駐車場営業時間が4時00分~19時00分であるので要注意である。料金は最初の1時間は200円。その後は、30分で300円で、上限は1日2,000円。サザンビーチカフェ海辺のカフェ&ダイニングで、オープンテラスのある、開放感に溢れた空間でパスタ料理やデザートを楽しめると。ビーチ内の駐車料金も2,000円/日であったのでこちらの方が安心して一日楽しめる。海の家は他にも多く建っていたがこの海の家はお客さんが多かった。中から音楽が聞えライブが行われていた。何か催し物をしないと人は来ない。茅ヶ崎サザンC茅ヶ崎を代表するオブジェで、中年の女性グループが各自ポーズをとり撮影していた。サザンのCDジャケットにもなったサザンビーチちがさきのシンボル「茅ヶ崎サザンC」。オブジェのCの右側に人が立つと、Cの切れ目が繋がって円(縁)になることから縁結びスポットとしても有名であると。八大龍王神茅ヶ崎サザンCからここまでのルートは変更され直線化されていた。工事中移設されていたが元の場所に鎮座していた。八大龍王は雨乞いや海難など水に関する龍神8体の総称のこと。法華経に登場する神様として知られています。全国各地の神社、寺院問わず祀られているのが特徴です。ご利益:祈雨/止雨/海上安全/大漁祈願/家内安全などと。散歩に来た人が手を合わせお参りしておられた。八大龍王神前から、ヘッドランドを望む。遠く江の島を望み海岸には白波が押し寄せていた。ヘッドランド沖に荒波であったが多くの釣り船が集まっていたが、こんなに海岸線に近いのは珍しい。釣り対象は何であったのか。モノクロの世界の中に烏帽子岩。ヘッドランドビーチ ウッドデッキここでは近隣の人が集まり毎朝6時からラジオ体操が行われている。この日は人が集まり催し物が行われていた。集団の中央に白い袋が置かれていた。司会者が拡声器を持ちしゃべっていたが。振り返ると富士が見えるのだが。サザンビーチ茅ヶ崎を望み、ウッドデッキ周りには赤い幟旗が立っていた。幟旗には「不法投棄防止 パトロール実施中 茅ヶ崎市」と。催し物はこれであったのか。ヘッドランドの西側。釣り船、多くのサーファがいた。ヘッドランドの東側にも多くのサーファ、釣り船。釣り船には多くの釣り人が楽しんでいた。こんなに近くに釣り船とサーファーが競演。江の島をズームアップするが潮風がレンズを曇らす。ウッドデッキでは解散して記念写真に。左側に奥の袋が置かれていた、ごみ収集をしたのであろうか。白い幟旗には「ゼロ宣言 かながわプラごみ クジラからのメッセージ」と。主催は「SDGs未来都市 神奈川県」。参加者の記念写真。若者が多かった。日本初ロケット火薬実験の地の碑ウッドデッキの隅に立っている碑である。日本初ロケット火薬実験の地JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授 的川泰宣氏の「日本ロケット物語」によれば「1934年(昭和9年)に村田勉博士により日本で最初にロケットの打ち上げ(火薬実験)が行われたのは辻堂海岸だった」とのことです。日本の宇宙開発の第一歩としてあげられるのは、1955年(昭和30年)4月12日に東京都国分寺市で公開試射された糸川英夫博士のペンシル・ロケットですが、このロケットの燃料に結実する火薬の開発実験地が、当時、横須賀海軍砲術学校辻堂演習場であった汐見台でおこなわれ、さらに終戦までに茅ヶ崎海岸一帯に拡大されていました。この地にお住まいであった加山雄三氏の記憶では、終戦直前、ご自宅の前の海岸に「ロケット研究所の発射試験場」があったと言っておられ、そこに勤務していた人の証言もあります。土井隆雄・野口聡一と二人の宇宙飛行士ゆかりの茅ヶ崎は、日本の宇宙開発の黎明にも深く関わってきたことになります。記念地が海岸一帯におよぶことから、2か所に記念碑を建立しました。ほかの一つはここから東約2.5kmの汐見台にあります。ウッドデッキではゴミ袋を収集して解散。ヘッドランド越しに烏帽子岩を望む。岩場に荒波が押し寄せていたがこの日は岩場での釣りは禁止であったか。烏帽子岩をズームアップ。帰路は、サイクリングロードの「茅ヶ崎駅入口」から北上駅前へ。サイクリングロード脇に「津波避難情報」と。国道134号の茅ヶ崎駅南口入口交差点。ここから茅ヶ崎南口までが県道310号線(雄三通り)になっている。神奈中バス停「東海岸南3丁目」。かつてここの南側に「旧上原謙邸跡地」があり加山雄三氏が生まれた。鉄砲道との、雄三通り中央交差点。左角にアイスクリーム店の「プレンティーズ」がある。茅ヶ崎駅南口11:30竪琴に乗る裸の少年少女楽団駅南側のバスロータリーの一角に据え付けられているモニュメント。説明板はないのか、「タイトル、作者ともに不明だが、茅ヶ崎駅前で一際目立つモニュメントである。少年少女たちが竪琴の上で楽器を奏でている」と。この後、スーパーマーケットに立ち寄り買い物をして自宅で昼食をとった。この日の走行距離は18キロであったが。自転車の距離計は正しいのかと。 END
2026.07.20
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この日は”道の駅湘南ちがさき”で市長出席のもと10時から1周年記念式典があるとのことで愛車のリンちゃんで出かけた。7月12日(日) 9:20エトアール洋菓子店所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目7-17駅から数分のサザン通りにあるサザンファンにとっては聖地と呼ばれる洋菓子屋さんである。店内には桑田さんが店主に送った直筆のお手紙が大切に飾られていましたと。各種ケーキもあるがお薦めはサザンサブレか。数年前のサザンライブでは連日長蛇の列であった。ドアーに「サザンオールスターズ 勝手にお祝い申し上げます 48周年」と。家族そろってサザンファンだと。店名でポスターを作製しておられた。熱いサザン愛か、他の店先でも貼られていた。サザン神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目11-14サザン通りの途中から西方向へ進むと、茶商小林園の前にある。ここの店主もサザンファンで、自ら作成したサザン神社の御朱印を発行(4枚)しておられる。この日はまだ時間が早く、茶商もシャッターが下りていた。通りに法被を着た集団が。法被を着た集団が通りに注連縄を張っておられた。鉄砲道に貼られた横断幕に「祝 浜降祭」と。茅ヶ崎市の4大イベントの一つである「浜降祭」が毎年7月の海の日に開催されている。昭和53年に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、57年には『かながわのまつり50選』にも選ばれている。今年の浜降祭は7月20日(月)の早朝に開催され、市内34社の神輿が参加する。鉄砲道と左富士通りが交差する浜見平交番前交差点。この辺りの浜見平団地はリニューアルされ新しい大型店舗が建っている。浜見平交番前交差点近くにある「えぼし本店」。式典開始まで時間があったので、浜降祭に参加する近くの「柳島八幡宮」へ立ち寄ることに。数回訪れているので地理感があり鉄砲道を北側の住宅街へ入る。柳島八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市柳島2丁目3-10柳島部落の氏神様である。浜降祭前で境内には多くの人が集まっていた。石鳥居の扁額「八幡宮」柳島八幡宮 境内図境内の詳細は前回の「茅ヶ崎市の寺社史跡巡りー8」👈をクリック願います。浜降祭 柳島八幡宮 令和八年七月二十日(月) 式 典 午前三時 宮立ち 午前三時三十分 宮入り 午後三時三十分 柳島八幡宮・柳島自治会・浜降祭丁頭 柳島八幡宮拝殿拝殿の左側に神輿殿、柳島自治会館があり開放されていた。三基の神輿には既に白い帯が巻かれていた。浜降祭には三基の神輿が参加するようだ。境内へは多くの氏子の方が動き回っておられたので控えた。手水舎、左側には注連縄が巻かれた「御神木(スダジイ)」。鐘 楼入口左側に石碑が立ち「八幡宮復興記念碑」と。碑の下に字が刻まれていたが風化して解読不可能に。御神木(スダジイ)、鎖で囲われた「折れた鳥居」。折れた丸柱には「文政五年・・・」と。折れた鳥居この折れた鳥居は、大正十二年九月一日(1923)の関東大震災の被害の状況を示すものです。当時の柳島地区は世帯数161戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは3戸だけでした。地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります。折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内では数少ない貴重なものの一つです。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮後方に回り込み。御神木のスダジイ根が浮き出しており根元が養生されていないのでこのままではまずいのでは。樹齢は何年になるのか鳥居の左奥に建つ、「藤間柳庵の碑」。碑の裏には、「昭和五十八年十一月吉日建之 柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店」と。浜降祭前の境内を見る。多くの若者が集まっていた。神輿の担ぎ手であろうか。ズームアップ。9:50柳島八幡宮の境内前。道の駅での式典開始が近くなってきたので後にすることに。柳島八幡宮前の民家の敷地の一角に「朱色の鳥居と祠」が建っていた。祠の前に狐が祀られており稲荷社であろう。柳島通りから西方向に「道の駅湘南ちがさき」を望む。鉄砲道と国道134号が合流する”道の駅湘南ちがさき交差点”。この二階にはレストランがあり富士が見えると。ズームアップ。モニュメント「SHONAN CHIGASAKI」。道の駅へ到着、式典司会者が「ご来賓の皆さまご登壇してください」と。式典開始前。左側に茅ヶ崎市長、来賓の方が着席。右から佐藤市長、サーフィン協会の方。皆さん首にはレイがかけられていた。司会の女性はどこの方であったか。司会者から「道の駅駅長の茅ヶ崎佐藤光市長」と紹介。市長になった時は建設反対であったが地元産を販売することで建設に続行。今年2月には来場者100万人に達し、現在は約135万になったと。続いてサーフィン協会の方が挨拶。昭和2年にサーフボードを2本輸入し、茅ヶ崎はサーフィン発祥の地であると。道の駅内の各店舗の営業時間のご案内道の駅内の案内所 AM10:00~PM6:00 本日の試食・試飲会”プレンティーズ ドライブイン”のマスコット人形。知り合いの店も出店している「熟成肉工房ジロー」。10:20値段表があったがチョット高価であった。 ー continued ー
2026.07.19
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この日は綾瀬市の「神崎遺跡」を見に、合わせて近くの寺社史跡を巡った。7月8日(水) 13:50中原街道(県道45号線)の綾瀬市吉岡交差点、春日道はここから北上。綾瀬市吉岡交差点から春日道を北上、途中右方向に入り「供養碑」へ。目的地は三角地の畑の辻にあり、傍に目印のように木が一本聳えていた。北方向は広い農耕地になっている。五差路に位置している。南方向の中原街道側。右側の道を進むと先程の綾瀬市吉岡交差点へと。北西方向には大山が薄く見えていた。江戸時代には大山詣で多くの参拝者がこの道を歩いたのであろう。供養碑所在地:神奈川県綾瀬市吉岡三角地の草むらの一角にあり、ここのみがロープが張られ整備されていた。お供え物の花、飲物が供えられていた手前の新しい碑には「供養 行き倒れの墓」と。裏面には、「由来 三角畑のはやり神 無縁仏 江戸時代(1650年)頃、芝原近春日道の所で行き倒れ2体有り、 その人の石塔三界万霊供養塔」と刻まれていた。五差路を後方から。古い石塔は風化してボロボロに。中央の碑は無残に壊れ補修されていた。字が刻まれていたが「???」。新しい板碑には「発起人・協力者」の名が。再度、後方から見る。この道は大山詣の道で、東海道のような一里塚は無く休憩する木陰もなく行き倒れに。春日道に戻り北西方向へ走る。車窓の右側には広い畑が広がっていた。春日道の北側は広い「春日原農用地」で、東側の綾瀬中央通り(県道42号線)と北側の市役所南通りに挟まれた丘陵地の三角地になっている。春日原農用地の東側の綾瀬中央通り(県道42号線)沿いには、左側に「綾瀬市市役所」、右側には「綾瀬市オーエンス文化会館」が建っている。綾瀬市は鉄道の駅がないので、 交通手段はバスか車になる。車では北側に東名高速道路の綾瀬スマートインタがあるので便利であると。春日道から綾瀬市役所をズームアップ。綾瀬市は2026年時点では神奈川県内で最も新しい市で、横須賀市とともにアメリカ軍と自衛隊の基地を有する都市となっている。市内の18%強が在日米軍と海上自衛隊の厚木基地となっており(同基地総面積の約78%に相当)、騒音問題や財政面などで基地の影響を大きく受ける自治体である。なお、厚木基地は厚木の名称を冠しているが、厚木市はかかわっていないと。市の全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やかでもともと農業・工業中心の町である。市内に鉄道駅がなく、また「何もない」事を逆手に取り官民一体となってロケ地として力を入れていると。総人口:82,752人(推計2026/6/1)、面積:22.14k㎡、人口密度:3,738人/k㎡。市の花は「バラ」でマンホール蓋のデザインに採用、多くの公園ではバラを植栽奇麗に咲いている。丘陵地から目久尻川が流れる低地部へと。道路脇に、目久尻川歴史文化ゾーン ⇦ 0.3km 道場窪遺跡(市リサイクルプラザ) 綾瀬市 済運寺・五社神社方面 0.65km ➩民家の擁壁傍に説明板が立っていた。ちょっと分かり辛いところにある。春日道はこの路地なのか。でなければ上の「目久尻川歴史文化ゾーン」の看板傍に立ててもらいたいものだが。春日道この道は、徳川三代将軍家光の乳母である春日局にちなんだ道で、春日道と呼ばれています。江戸時代後期、天保十二(1841)年に編纂された、『新編相模国風土記稿』によると、春日局は吉岡村に領地を持ち、済運寺の付近には屋敷もあったと伝えられています。また、𠮷岡神明社に残る棟札によると、神明社は元和二(1616)年に、春日局が勧請したとされています。春日道は長年、大山参詣の際に使われていました。 平成二十四年十二月 綾瀬市教育委員会 ※ 現在、この道の先は通り抜けできません。と、いうことはこの路地が「春日道」なのか。現在、この先は通り抜けできませんと。中央の「庚申塔」と並んで右に六角柱の「天照皇大神」がのこされている。左端の角柱の側面には「向 左 深谷」などが書かれた簡素な道標が残されている。現在は目久尻川から一気に上る坂道になっているが、かつては川沿いから丘陵地へ上る九十九折の坂道で、ここは往還の辻だったのであろう。道路脇へ車を停めたので工事中の方が不審そうな顔で見ていた。春日道の坂を下り目久尻川に架かる吉野橋。上吉岡北山の道祖神所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1293吉野橋の袂にある、相鉄バス「宮際(みやぎわ)」のバス停そばにある。吉野人道橋袂にある「角柱文字道祖神」。この先の交差点は五差路で、左手前を川沿いに下ると春日局の屋敷があったという「済運寺」へと至る。また、左方向には春日局が勧請したという「吉岡神明社」がある。正面には「道祖神」と。年代は風化して分からなかった。ズームアップ。今後補修されるのであろうか。目久尻川の下流側。目久尻川沿いはサイクリングロードになっている。川には大きなコイが泳ぎまわっていた。洪水浸水想定区域目久尻川は、相模原市相武台団地付近にその源を発し、寒川町の一之宮で相模川に合流する、延長約20kmの一級河川である。目久尻川沿いには遊水地があったか。吉野人道橋に設けられていた「河川監視カメラ」。一級河川だけに下流側の浸水を防ぐために中央監視しているようだ。橋桁に、施工銘板。14:15春日道の吉野橋。ここから上流には「城山公園」周辺の寺社史蹟があり、また、近くには「吉岡神明社」もあるので後日訪れたいものだが。この後下流側にある「神崎遺跡」へ行くことに。 ー continued ー
2026.07.18
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この日は綾瀬市の「神崎遺跡」を見に、合わせて近くの寺社史跡を巡った。7月8日(水) 13:30県道43号線(藤沢厚木線)を西へ走りこの先の用田交差点を右折。ここ用田交差点を右折、中原街道を北上し綾瀬市へ。いつもはここまで寒川から中原街道を北上してくるのだが今日は別ルートを走った。御嶽神社所在地:神奈川県綾瀬市吉岡東5丁目5-33神奈川県綾瀬市吉岡にある神社で、吉岡地区の鎮守の神社であると。道路を挟んで西側から境内を見る。Googleマップでは「御岳神社」だが境内の説明板は「御嶽神社」とあったがどちらが正。鳥居の右側に、金網で囲まれた「不動明王像と庚申塔」が立っている。金網で囲まれているのでうまく撮影できなかったが、左側に「不動明王像」と右側に「庚申塔」。二基の石塔が立っていたが説明板が欲しいものです。不動明王をズームアップ。網目からズームアップ。御嶽神社(みたけじんじゃ)祭神大己貴命(おおむなちのみこと)ら六柱で、明治二十七年(1894)に遷宮・造営されました。鳥居の右にある不動明王は、安政三年(1856)の造立です。その手前には庚申塔があり、造立は天保九年(1838)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。 平成三十年一月 綾瀬市教育委員会三基の石塔を後方から見る。不動明王像を後方から。庚申塔造立は天保九年(1838)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれていると。”南ふしさハ(藤沢)道”は東海道であろう。庚申塔 (道標)御嶽神社の北側に中原街道がありこの辺りは交通の要衝地であったのであろう。境内の奥に大小の社殿が建ち、左側には自治会館か。玄関先に看板。玄関先の看板には、「芝原高齢者憩の家」「空巣にご用心 大和警察署・綾瀬市防犯協会」と。先端が伐採された御神木のクスノキの巨木が聳えていた。クスノキの根元に石碑が立っており「御即位記念・・・・・」と。社殿と境内社。境内社の前には花が植えられていた。社殿にのぞき窓があったが詳細は不明。主祭神:櫛真知命(くしまちのみこと)で、創建年代等は不明。御神木のクスノキには紙垂が飾られていた。クスノキは生命力旺盛で新芽が伸びていた。伐採部分からも多くの若木が芽吹いていた。近くに民家があるので倒木を恐れ伐採したのであろう。境内にはサクラの木も聳えていた。境内の北側にある中原街道の綾瀬市吉岡交差点。交差点角に建つ”セブン-イレブン 綾瀬吉岡東店”。コーヒーを購入し車を停めさせていただいた。Googleマップで”妙法稲荷大明神”への入口を探す。向かい側の人が出て来ている路地を入ることに。中原街道から狭い路地を抜けると妙法稲荷大明神が建っていた。妙法稲荷大明神所在地:神奈川県綾瀬市吉岡東2丁目11民家の庭先に建っており、社殿の前には物干し竿があった。立派な建物であったが説明板等はなかった。引き戸が開けられたので内陣を見る。鞘堂の中の「妙法稲荷大明神」。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)。ここから中原街道までは100メートル程であったが、説明板等もなくまだ祀られているのであろうか。また、右側に民家があったが生活感が感じられなかった。立派な社殿であるが・・・。13:50中原街道越しに車を駐車させていただいたセブンイレブン。 ー continued ー
2026.07.17
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この日は綾瀬市の「蟹ヶ谷公園のハス」を愛でに、合わせて近くの寺社史跡を巡った。吉岡地区には「春日局ゆかりの済運寺」があると。7月5日(日) 15:50スマホの案内で目久尻川の左側の市道を北上。道路脇に「西根の不動尊」を発見、路地へ駐車して散策。この先はバス停「西根」。西根の不動尊所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1940下流側の「駒井不動尊」には説明板があったがここは未設置であった。不動尊は下流の用田橋から、「浪乗不動尊」「駒井不動尊」そしてここ「西根の不動尊」とあったが何か関連があるのか。祠の中にはこちらも状態の良い不動明王が。 嘉永三年(1850年)造立と。ズームアップ。車を停め散策していると何か匂いがしていたが。目久尻川の堀之内橋近くに豚舎があった。建物の壁面に、「綾瀬市の”名産品” 高座豚手造りハム」と。目的地の「済運寺」へ。西根の不動尊から北上すると、直ぐに済運寺の長い土塀が。手前にお寺専用の駐車場があり駐車して参拝。吉岡山済運寺(さいうんじ)所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1783境内駐車場への山門。石柱の右側に「吉岡山済運寺」左に「禅宗建長寺派」と。市道を進むと山門右側に「吉岡山済運寺」と。済運寺山門境内には桜が聳えていた。山門から本堂を望む。本堂前に常香炉。本堂前から山門を振り返る。参道両側にアジサイが奇麗に咲き、桜が聳えていた。アジサイをズームアップ。本 堂本堂右側の書院であったか。屋根瓦の紋は建長寺の「ミツウロコ」。本堂を西側から望む。タイサンボク(泰山木)の下に、水鉢に植えられた花ハスが咲いていた。タイサンボクが一輪咲いていた。水鉢に植えられた花ハス。花ハスをズームアップ。本堂横にも広い駐車場があった。境内の裏側傾斜部に墓地が広がっていた。済運寺(さいうんじ)済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。本尊は木造釈迦如来坐像で、貞和五年(1349)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(1618)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。三代将軍徳川家光の乳母である春日局が化粧料として吉岡・用田等に三千石の所領を与えられ、このあたりに屋敷を建て、大山参詣の宿泊所にしたといわれています。済運寺には春日局の御位牌とともに、局が使用したと伝えられる茶臼・茶釜が寺宝として大切に保管されています。 平成二十年一月 綾瀬市教育委員会黄色の衣装を着た地蔵が立ち横に「延命地蔵尊」と。鉄製の階段を登ると「追弔慰霊碑」「六菩薩」、中央に「観音像?」があった。左から「地蔵菩薩」「宝珠菩薩」「宝処菩薩」、後方に「戦争殉難者諸霊之碑」。中央の像をズームアップ。境内を見下ろす。境内の西側にも新しい「六地蔵」が奉納されていた。六地蔵の右側にあった石像。西側から本堂を見る。西側からの出入口があった。上吉岡堀ノ内の道祖神所在地:神奈川県綾瀬市吉岡目久尻川に架かる岡野橋近くの堀ノ内公園の入口に立つ道祖神。堀ノ内公園新しい道祖神で平成十五年(2003年)に再建されたという櫛型文字道祖神である。目久尻川沿いには今だ多くの道祖神が保存されており、地元民の信仰の篤さを感じる。側面に「上吉岡講中」と。反対側には「平成十五年一月再建」と。100年後にはどうなっているのか興味津々だが。学校法人 春日幼稚園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1360岡野橋上からカラフルな春日幼稚園を望む。済運寺の南側百メートル程に位置している数年前からヨコミネ式教育法を取り入れ、「読み」「書き」「体育」に力を入れている春日幼稚園。逆立ち歩きができるようになることも全員の課題の一つであると。16:20岡野橋上から目久尻川の下流を望む。 ー continued ー
2026.07.16
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この日は綾瀬市の「蟹ヶ谷公園のハス」を愛でに、合わせて近くの寺社史跡を巡った。7月5日(日) 14:55ネムノキ東北地方以西の本州、四国、九州及び沖縄に分布するマメ科ネムノキ属の落葉樹。痩せ地に育つ代表的な樹木であり、山地のみならず郊外の道路沿いや川原、伐採の跡地など至る場所で目にすることができる。ネムノキ 合歓木 眠ノ木 合歓(ねむ) ネブ 合歓(ごうか) 暗くなると小葉を閉じる 薬用 分布 本州以西~東南アジア 英名 Silk Tree花期は夏(6~7月)に咲く。小枝の先から花柄を出して、淡紅色の花が10~20個集まって頭状花序のようにつき、暑い日中を避けて夕方に開き、翌日にはしぼむ。既に種子化した花柄も見られた。和名のネムノキは、「眠る木」を意味し、夜になると葉が合わさって閉じて(就眠運動)眠るように見えることに由来すると。花はピークを過ぎているようだ。低地部ある湿生園(蓮池)の西側から傾斜部を望む。中央の遊歩道には蓮池を見下ろす人が。大きなカメラを持って何を追っておられるのか。花ハスをズームアップ。湿生園最下流部にピットがあった。公衆トイレから。公衆トイレ遊歩道脇にクチナシが咲き甘い香りを放っていた。咲き始めのクチナシは純白で奇麗だが。時間が経つと「劣化して」。劣化と言えば、先日テレビで女優の岸本加世子が飯島直子に「貴女は劣化しないね」と。ベンチに座りスマホで撮影するご夫婦も。こちらの方は超望遠レンズを装着して何を追われているのか。この日もカワセミの飛来はなかったが。自分の傍には、200~800mmのレンズを装着した高齢の女性が。尋ねると「ツバメ、スズメを追っている」と。「スズメはツバメの巣を横取りする」と。ベンチに座りしばし見ているとツバメが数羽飛び回っていた。湿生園を後にし駐車場へ戻ることに。遊歩道脇にはアジサイ。今後は花後の剪定作業が待っている。各公園では専属の造園業者が決まっているのか。期初めの入札で決まっているのであろうか。台地部に建つ管理棟。蟹ヶ谷公園の近くに「春日局ゆかりの済運寺」があることを知り訪れることに。スマホをセットして蟹ヶ谷公園から下り目久尻川沿いへ。途中、塀際に道祖神が立っていたので駐車。この坂道は中原街道への道になる。風化して文字は確認できなかったが道祖神であろう。この坂を下ると道庵橋へ。道庵橋を右折して、目久尻川の左側の市道を上流へと走る。途中前回訪れた「駒井不動尊」前を通る。駒井不動駒井不動尊は、安政五年(1858)に三軒庭駒井庭という講中により建てられ、その台座には、「大山不動明王 安政五午年四月吉辰立之 天下泰平 村中安全」「講中 三軒庭駒井庭」と銘文が刻まれています。駒井不動尊の右脇には享保五年(1720)に造立された地蔵尊と、左脇には寛政八年(1796)に駒井三軒村の念仏講中の女性により造立された地蔵尊があります。駒井不動尊は、現在でも駒井講中により、不動講が行われ、大切に祀られています。 平成二十一年三月 綾瀬市教育委員会スマホの案内で市道を北上「目的地に到着しました」と。手前に「𠮷岡自治会館」の駐車場があったので駐車。上吉岡芦久保の道祖神旧綾瀬小学校吉岡分校(現:吉岡地区センター)の間知石積の中にお祀りされている。開発でこのような場所に祀られている。嘉永二年(1849年)の尖頭角柱型文字道祖神である。説明板がないので見落としやすいが今でも崇敬されているようだ。旧綾瀬小学校吉岡分校門柱𠮷岡自治会館所在地:神奈川県綾瀬市吉岡かつて「吉岡地区センター」があったようだが工事中であった。隣接するネット内は「国分寺台ゴルフクラブ」のショートコース。工事看板があった。「解体工事をしています 令和8年7月31日まで 時間帯 8:30~17:00 令和7年度吉岡地区センター解体工事 請負金額:50,906,900円 発注者 :綾瀬市役所都市部建築課 施工者 :株式会社 金沢工業」と。新しい施設は、これまでの地区センター機能に加え、自治会館機能を備え、施設のオープンは令和10年3月を予定していると。門扉が閉まっていて入れないので外から撮影。石碑の横の木が伐採されていた。石碑は残されるのか帯に「残1」と記されていた。判読できなかった。国分寺台ゴルフクラブ所在地:神奈川県綾瀬市吉岡2316回り放題で5,000円、距離は短いがグリーンが砲台だったり谷超えが有ったりと、アプローチの良い練習になると。自分も何度かプレーした。15:45受付は2階にあり、テーブル&椅子が有るので、持参したお昼を食べれると。 ー continued ー
2026.07.15
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この日は綾瀬市の「蟹ヶ谷公園のハス」を愛でに、合わせて近くの寺社史跡を巡った。その前に海老名市にある「有馬のハルニレ」をカーナビにセットして出かけた。7月5日(日) 14:15中原街道(県道45号線)の用田交差点を左折して県道43号線(藤沢厚木線)へ。新幹線のガードを潜ると右前方に県道22号線の用田大橋。橋の下を目久尻川が流れ、この辺りは藤沢・綾瀬・海老名市の市境になる。県道22号線(横浜伊勢原線)との用田□□交差点。このまま直進。県道43号線の根恩馬交差点を右前方の県道406号線(吉岡海老名線)へと進む。左前方に目的の巨木が聳えていた。この辺りは道路を挟んで右側が綾瀬市、左側が海老名市になる。有馬のハルニレ所在地:神奈川県海老名市本郷3881ハルニレは 北海道から九州の各地に分布するニレ科の落葉高木で、北日本を中心とした寒冷地の沢沿などの湿地に自生します。この辺りでは 珍しい木だったため、昔の人々は 何の木なのか樹種がわからず「なんじゃもんじゃの木」と呼んでいたと。説明板が立っていた。ハルニレの巨木は一部が朽ちているのか養生されていた。神奈川県 県指定天然記念物 昭和29年7月27日指定 有馬(ありま)のはるにれ 和名:ハルニレ(ニレ科)このハルニレは、徳川幕府の御典医であった半井驢庵(なからいろあん)が、寛永年間にこの地に構えた屋敷内にあったと伝えられています。樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ、親しまれてきました。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。 樹高 15メートル 胸高周囲 8.6メートル 樹齢 約350年以上(推定)ハルニレは北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。木柱には「なんじゃもんじゃ そびえる 驢庵屋敷跡」と。下から見上げる、樹齢は300年以上で、1954年(昭和29年)に県指定天然記念物に、1984年(昭和59年)にはかながわ名木100選に選定されています。1988年(昭和63年)に環境庁により行われた「日本の巨樹・巨木林調査」では、ハルニレの中で幹周りが全国第1位の巨木であるとされましたと。ハルニレの葉。秋には紅葉して落葉するのであろう。幹の養生は竹で行われていた。県道406号線(吉岡海老名線)の用田方面。この辺りは工業地帯になっている。イチョウの木に囲まれた石碑が立っていた。石碑に覆いかぶさり確認できなかった。冬場のイチョウが落葉した時期に確認。石柱には「名木 なんぢゃもんぢゃ」と。敷地の角に、道祖神、五輪塔が集められていた。近くに工場が建っているので開発で移設されたのであろう。ハルニレ(右から2本目)はイチョウに囲まれて聳えている。西側の海老名市側へ回り込む。ハルニレの地上部は養生されていた。石碑のそばにイチョウが植えられていた。ハルニレの成育・養生を思うと不要ではと思うが。この後、ここ丘陵地から下り「蟹ヶ谷公園」へ。道庵橋(どうあんばし)から上流側を望む。徳川三代将軍家光に仕えた典藥医半井驢庵は、この目久尻川を渡り中原街道を江戸へ向かったのであろうか。それにしても江戸まで片道約40~50キロと遠い。道庵橋三代将軍徳川家光に仕えた典藥医半井驢庵(なからいろあん)が有馬のハルニレ(県指定天然記念物)の近くにあった屋敷から通ったことによって名づけられた橋です。ろあん橋がいつの間にか、どうあん橋になまって伝えられてきたものです。 平成二十年一月 綾瀬市教育委員会現在この辺りは工事中で、令和4年度までに、「用田橋」より上流約1.4㎞区間の整備がおおむね完了しており、 現在は、ここ「道庵橋」上流の区間の地盤沈下等により堤防高が低下している箇所において、堤防の嵩上げと老朽化した護岸の再整備を行っていると。よって、サイクリングコースは閉鎖中。目久尻川 サイクリングロード 距離表示板下流の用田橋から9個の橋間の距離が記されており、全長3,300m程である。下流の⑨用田橋近くに、神崎遺跡がある。神崎遺跡は今から約1800年前の環濠集落です。環濠集落全体が遺存しているのは全国的に見ても珍しい例です。このような特徴が評価され、平成23年2月7日に国指定史跡になりました。市では今後整備活用を図ってまいります。後日訪れたいと。蟹ヶ谷公園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡905ー10市の南西に位置する蟹ヶ谷公園は、低地部、台地部、傾斜地からなる地形を生かした公園となっています。低地部の湿生園では、吉岡地区から湧き出る湧水を水源としてカキツバタ、ハナショウブなどが植栽されている。今年は6月1日(月)にハナショウブを愛でに訪れている。駐車場は台地部にあるので坂を下り低地部へ。低地部への遊歩道脇にアジサイが植えられていた。ガクアジサイガクアジサイは日本古来のアジサイで、現在存在するさまざまな種類のアジサイの原種。ズームアップ。”ホンアジサイ”であろうか。ガクアジサイを園芸用に品種改良して作られたもので、花房はテマリのような形をしている。生垣のシモツケ(下野)が咲いていた。シモツケ(下野)シモツケは日本、朝鮮半島、中国に分布する落葉低木。和名は下野(しもつけ)の国(現在の栃木県)にちなんでいる。初夏に、紅色の小さな花を枝先にたくさんつける。花色や葉色が変化した園芸品種が多数あり、花のない時期でも、春から秋まで葉色の変化を楽しむことができる。ズームアップ。蟹ヶ谷公園の低地部にある「湿生園」を東側から見る。低地部の湿生園には、吉岡地区から湧き出る湧水を水源としてカキツバタ、ハナショウブなどが植栽されている。かつてはカワセミが飛び回っていたが。遊歩道を歩いていると水の音が聞え四阿へ。四阿脇から水が湧き出ていた。吉岡地区から湧き出る湧水であったか。それともポンプアップか?。流れにクレソン?が群生していた。クレソンなら食用に収穫したいものだが。湿生園の東側から西側を見る。中央のウッドデッキから西側の湿生園(蓮池)を見下ろす。湿生園周りの遊歩道には望遠レンズを付けたご婦人が待機していたが何を追っているのか。ハスが満開であったか。ハスの花は一般的に4日間咲きます。 ・1日目は早朝から咲き始め、昼頃には閉じ始めます。 ・2日目はさらに咲き、昼頃には閉じます。 ・3日目は午前中に咲き、昼頃には蕾に戻ります。 ・4日目は午後から完全に散ります。このように、ハスの花は短い期間で美しい姿を見せてくれますと。ズームアップ。湿生園の最下流部(西側)に公衆トイレがある。ハスは早朝になると花が咲き(午前7~9時で満開)、午後になるとだんだん閉じていくので、撮影は午前中が良いと。ハナショウブが咲き残っていた。湿生園の中央のウッドデッキ。14:55ところでハスと言えば私の好物のレンコンを思い出すが。ハスとレンコンの違い。日本では一般的に「ハス」は植物全体を指し、「レンコン」は食用の地下茎を指します。しかし、東京では「ハス」という言葉で地下茎も含めて呼ぶ習慣があり、これは東京の方言的な使い方とされています。また、ハスには「花ハス」と「食用ハス」の品種があり、花ハスは観賞用で地下茎が細く、食用には向きません。食用ハスは地下茎が太く育ち、レンコンとして収穫されますと。 ー continued ー
2026.07.14
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地元茅ヶ崎へ帰り人気の「あさまる」でランチ。6月25日(木) 13:15網元料理 あさまる本店所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18-31いつも混雑しているので他の場所「えぼし 本店」も考えていたが、運よく空いていたのでランチをとることに。テレビ等で放映されているので客筋は他県からも来られる人気店になっている。南に進むと国道134号を渡り500~600mで海岸へ。茅ヶ崎でも人気の海鮮料理店。刺身の盛り合わせ、鯛料理などを提供し、店内は飾らない素朴な雰囲気になっている。住宅街の一角にあり駐車場も点在している。交通整理員の方も数名おられる。店先には「本日、生しらす 水揚げありません」と。また黒板には、6月、7月のお休み日が書かれていた。火曜日が定休日。大魚旗が張られた待合室でしばし待機。いつもは多くの人が待っているのだが、この日は雨で少なかった。店内に入り、この水槽は観賞用の金魚であったか。店内に浜降祭のポスターが貼られていた。浜降祭 柳島八幡宮 令和八年七月二十日(月) 式 典 午前三時 宮立ち 午前三時三十分 宮入り 午後三時三十分 柳島八幡宮・柳島自治会・浜降祭丁頭 自家船の「あさ丸」によって毎朝水揚げされる透き通った新鮮な生しらすをはじめとした、湘南の鮮魚を味わえる網元料理の店。店内は船内をイメージさせる情緒ある空間となっている。メニューは豪快な舟盛りやキンメの煮付けを中心に、寿司や天ぷらなどの料理で海鮮を堪能できる「舟盛コース」のほか、ランチにはしらす料理を味わう御膳や、海鮮丼なども人気であると。メニュー 日替わりお楽しみ御膳 2000円 (税込 2200円) しらす御膳(朝どれ生しらす) 2000円 (税込 2200円) お刺身御膳(豪華7点盛) 2400円 (税込 2640円) 天ぷら御膳 2000円 (税込 2200円) ご飯、みそ汁のお替りは1杯無料と。 昨年のコメ騒動で値段が上がっていた。奥さんがオーダーされた「天ぷら御膳」。男性群がオーダーした「日替わりお楽しみ御膳」。刺身は3種類で分厚く大きかった。 店先から北側を望む。この先の鉄砲道の信号を左折すると「道の駅 湘南ちがさき」がある。この旅の仕上げに豪華なランチを食べ家路に。”あさまる”周辺にあるお薦めの海鮮料理店。・快飛 (かっとび) 赤い丸・えぼし本店 赤い丸・道の駅湘南ちがさき 黄色丸快飛 (かっとび)所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸15-12国道134号に面してある海鮮料理店。大きな看板に「しらすと地魚」。駐車場は裏にある。営業時間 11:00~15:00 (ラストオーダー 14:30) 17:00~22:00 (ラストオーダー 21:00)定 休 日 年末年始天ぷら、刺身、地元で獲れたしらすを使った料理をカウンター席で提供する、居心地の良い店であると。自分はまだ訪れたことがないので一度は食したい。網元・北村水産直営の快飛では、早朝漁に出た「快飛丸」からその日水揚げされたてのシラスを、そのまま調理場に直送している。国道134号の浜見平入口交差点を入り、左富士通りを北上(500mほど)するとある。えぼし本店所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目17-56海鮮を中心に定番の和食を提供する木造の食事処で座敷席もある。営業時間 昼の部(ランチ) 11:30~14:00(ラストオーダー) 夜の部 17:00~20:30(ラストオーダー)定休日 月曜日女将は50年ほど前の冬に茅ヶ崎で一軒の焼き鳥屋を開店。その後、実家が代々地引網漁を生業にしていたことから、地元の魚をお出しする店を開店したと。一時「えぼし」が知られ、自分も何度か訪れている。14:15国道134号浜見平入口交差点から国道1号鳥井戸橋交差点までの左富士通りを北上。両側に”コンフォール茅ヶ崎浜見平”が建ち並んでおり関連の清掃者であろうか。15時前には各自無事帰宅した。 END後日、グランドオープン1周年の「道の駅 湘南ちがさき」を訪れた。7月7日(火) 14:00国道134号の”道の駅湘南ちがさき交差点”。ここを左へ入ると鉄砲道。道の駅 湘南ちがさき所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1546-1昨年7月7日にグランドオープンした湘南地方唯一の道の駅である。駐車場にあったマンホール蓋。姉妹都市を結んでいるホノルルとの関係でハワイアンアートが描かれている。周年祭 7日(火)~12日(日)7月7日(火) ・1周年記念セレモニー 8:30~ ・1周年特別記念きっぷ配布 9:00~ ・切り花プレゼント 9:00~7月12日(日) 10:00~ 茅ヶ崎市長ご挨拶、その他来賓ご挨拶 12:30~ Chiyo Tia ライブ 14:00~ フラダンス 14:45~ プロサーファートークショー 16:00~ タヒチアンダンスフラダンスの横断幕2Fへの大階段にご婦人が3名。2階の東側はテラス席になっている。西側にもあれば富士が見えるのだが。プレンティーズのカップアイスを食べておられた。交流広場にはテーブル椅子が置かれていた。右側には小型犬専用ドッグランがある。友好都市の長野県佐久市からの、出張道の駅が営業していた。但し、7日のみと。”道の駅ヘルシーテラス佐久南”道の駅館内に入り、店内にはスーツの「Plenty's」、ハワイアン&スイーツの「ホノルル食堂」の2店が営業。茅ヶ崎産の新鮮野菜や肉、魚やお土産なども豊富♪、日常使いにもおすすめですと。外では、花苗・鉢花も販売します!と。プレンティーズ ドライブイン 道の駅 湘南ちがさき価格は500円〜で端末機で注文し、カウンターで商品を受け取るかたちであると。アイドルのお人形がお出迎え!鎌倉・江の島・伊豆からの帰路に立ち寄る観光客が多い。右奥では茅ヶ崎漁港水揚げの鮮魚が販売されている。”茅ヶ崎なんどき牧場”の弁当が販売されている。店舗が2階にありアジフライ、メンチカツ、鶏唐揚げがいちどに食べることができると。各種弁当も販売。油淋鶏弁当 税込800円、黒酢酢豚弁当 税込800円、特製タレカツ重 税込800円 等。大岡越前守菩提寺 浄見寺越前そば 小松菜入り 1000円。初めて知った”そば”であるが製造は福井県坂井市と。会計はセルフ。ここにも人手不足、反面最近は万引きが多いと。交流広場。昨年のグランドオープン時は、猛暑日が続きミストが噴射されていたが。国道134号の平塚、小田原方面。国道沿いに駐輪場がある。富士が見えるスポットである。 END
2026.07.13
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熱海からの帰路、途中にある伊豆山神社へ立ち寄った。伊豆山神社は伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が、源氏の再興を祈願したと伝わり、頼朝からの崇敬が厚く、また頼朝と妻・北条政子の逢瀬の場であったとも伝わる。6月25日(木) 11:35伊豆山神社所在地:静岡県熱海市伊豆山708-1社務所下の第一鳥居横に駐車場があったが、雨で階段が濡れているので坂を上り境内にある駐車場へ車を停めた。入口の鳥居は女優小泉今日子さんの奉納である。駐車場脇にあったお濠には多くの鯉が泳ぎ回っていた。上の駐車場へ車を停めたが、まず社務所へ。社務所雨の日であったが多くの参拝者がおられた。御朱印、お守りを授与。境内の配置図社務所前から、階段下の第一鳥居を見下ろす。参拝者はみなさん境内横へ駐車。階段の両側には多くの境内社が鎮座している。詳細は令和5年(2023)3月8日(水)に参拝した時のブログ「根府川から熱海へ」👈をクリック願います。社務所前から境内を見る。境内には枝垂桜が生い茂り聳えていた。手水舎手水舎の周りにも境内社があった。赤白二龍の由来 伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」(鎌倉期に成立) に拠れば、当伊豆山の地底 に赤白二龍和合して臥す。 其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り、 温泉の沸く所は此の龍の両目二耳並びに鼻穴口中なり(走り湯)。 二龍精気を吐き、赤白海水に交わる、二色浦(熱海錦が浦の名の由来)は此を謂 ふなり。 赤白二龍は御祭神 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の隋神であり、 赤は火を表し白は水を表す、火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神 であります。手水舎の中には赤白の水口。手水舎前から階段を数段上がると、拝殿前に「茅の輪」が設けられていた。また、両側には狛犬が鎮座していた。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。夏越大祓(なごしおおはらえ)の「茅の輪」。夏越大祓 茅の輪守 初穂料 800円 茅の輪守を飾り心や身を清め、 災いを取り除き家内安全・無病息災を願いましょう。茅の輪(ちのわ) 備後風土記逸文に次のような話があります。 貧しい兄の蘇民将来と、富んだ弟の巨旦(こたん)将来という兄弟が居ました。ある日、 武塔(むとう)神(一説にはスサノオの命の別名)がみすぼらしい旅人の格好で、この地に 訪れ、一夜の宿を求めたところ、裕福な弟はそのみすぼらしい姿を見て宿を貸すのを断 りましたが、兄は貧しいながらも精一杯のもてなしをしてあげました。 翌日武塔神は蘇民将来に茅の輪を作り与え腰に着けさせこう言いました。「これからこ の村に疫病を振るう災いが押し寄せて来るが、お前はその茅の輪を腰に下げている限り 災いに遭う事は無い。お前の誠意に報い今後もお前の子孫に至るまで守るから、災いが 近づくときには茅の輪を腰に下げて『蘇民将来子孫なり』と唱えるように」と告げて旅 立ち、やがてお告げの通り災いが押し寄せて来て、巨旦将来をはじめ全ての人々は疫病 に罹り死んでしまいましたが、蘇民将来の一族だけは難を逃れたと言うことです。くぐり方 左側から廻り、次いで右側を廻り、再度左側を廻り拝殿へと進む。くぐる時の唱えことば 水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はらえ)する人は 千歳(ちとせ)の命(いのち) 延(の)ぶと云(い)うなり 蘇民将来子孫也拝 殿拝殿前の境内には御神木の一つである「梛 (なぎ)」が聳えていた。拝殿の扁額「伊豆山神社」。拝殿前から境内を見下ろす。拝殿下の境内右側に朱色の鳥居が立っていた、扁額には「こころむすび」と。鳥居には若者向けのハートのマークが付けられおみくじが多く結ばれていた。枝垂れ桜の下に「頼朝・政子腰掛け石」。説明に「どうぞお座りになって」とあったが、残念ながら雨で濡れていて座れず。頼朝・政子腰掛け石伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝候は、当伊豆山神社を崇敬した。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、当社で二人はむすばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せました。 伊豆山神社モミジの紅葉も期待できる。社殿の左奥に倉庫or神輿庫が建っていた。11:45この日は雨の中での参拝で、約10分ほどで早々に引き上げた。12:20漁港の駅 (TOTOCO小田原)所在地:神奈川県小田原市早川1番地の28帰路の途中立ち寄った、小田原漁港西側エリアにあるモダンな3階建ての複合施設。地元の魚市場、海鮮料理レストラン、刺身食べ放題の店がある。建物の壁面に「漁港の駅 (TOTOCO小田原)」と。建物1階のショップにはお土産、鮮魚、地元野菜、プリン屋さんなど充実している。2階には海鮮丼やカレー、ラーメンやお蕎麦などの店があるがいつも行列。また、3階テラスからの眺めも最高で、遠くに小田原城も見えると。入口にマグロのオブジェが吊るされている。館内のご案内 1階 9:00~17:00 お土産コーナー お寿司・お弁当もあるよ 小田原漁港プリン 2階 10:00~16:00(L.O) 小田原漁場 とと丸食堂(どんぶり・定食) 列にお並び頂き食券をご購入下さい 2階 平日 11:00~15:00(L.O) 土日 10:00~16:00(L.O) 小田原漁港カレー(カレー) 2階のお店前までお進みください 3階 10:59~16:00(L.O) 土日祝 10:30~ テイクアウトもできるよ! おさしみ天国・小田原海鮮ゴーゴー!!(食べ放題) 3階で整理券を発行してください! 営業時間 9:00~17:00 年中無休 ソフトクリーム MENU ミルクソフト、レモンソフト 430円 ~ プリンソフト 630円お土産のお菓子類以外にもたまねぎの販売も。1階の「小田原漁港直送 鮮魚販売コーナー」。 マダイ 1匹 ¥14,980(税込 16178) 刺身・焼き イサキ 1匹 ¥128(税込 138) 刺身・焼き・煮付け アナゴ 1匹 ¥680(税込 734 ) 焼き・天ぷらメダイ 1匹 ¥12,380(税込 13370) 刺身・焼き・煮付けこのような高価なタイを購入する人がいるのか。一般的な魚も、クロウシノシタ (シタビラメ) 1匹 ¥198(税込 213) 焼き・揚げソウダガツオ 1匹 ¥398(税込 430) 焼・煮和惣菜・割烹 石橋 魚沼産の米を使用した各種弁当が販売されていた。 左から「特製 天丼 999円(税込)」「釜揚げ しらす・桜えび 1,347円(税込)」。湘南名物の「しらす丼 934円(税込)」も。各種だし汁が試飲で販売されていた。自分に一番口にあった、ねこんぶだしをお土産に1本購入、980円(税込)でした。貼り紙に「そうだおばちゃんにも買って行こう!」と。卵焼きに小さじ一杯半のみを入れて焼くと美味しかった。たまごかけごはんにもあうと。会計はレジで、カードも利用できた。最近は日本近海で黒マグロが豊漁と報道されているが。捕獲量の増はどうなるのか!12:45ここでのランチは諦め地元茅ヶ崎に帰って食べることに。 ー continued ー
2026.07.12
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今回の旅のもう一つの目的地「熱海のジャカランダ」を訪れた。時期的には遅いとは思っていたが皆さん見たことがないとのことで立ち寄った。6月25日(木) 10:45熱海サンビーチ案内図熱海サンビーチ喫煙マナーお宮緑地(ジャカランダ遊歩道)所在地: 静岡県熱海市東海岸町15国道135号と熱海サンビーチに挟まれた遊歩道である。予想通り1週間程訪れるのが遅かった。枝先に咲き残った花があったので助かったが。ジャカランダは、南米に約50種類が分布する樹木で、青紫色の綺麗な花を咲かせる。「カエンボク」、「ホウオウボク」と並ぶ世界3大花木のひとつに数えられ、世界各地で愛されていると。雨の雫が付いたジャカランダ。遊歩道入口にブーゲンビリアが奇麗に咲いていた。古いホテルを壊して新しいビルの建設工事が始まるのであろうか。訪れたのが10日程の遅れで咲き終わったジャカランダの樹に。カシワバアジサイ (柏葉紫陽花) も終盤になっていた。ジャカランダ学 名 Jacaranda 別名 キリモドキ(桐擬き)シウンボク(紫雲木)原産国 中南米開花期 5月 ~ 6月科・属名 ノウゼンカズラ科 キリモドキ属(ジャカランダ属)ジャカランダは南米産のノウゼンカズラ科に属し、ホウホウボク、カエンボクと並んで世界三大花木の一つに数えられています。日本では5月下旬から6月にかけて極めて美しいブルーの花を□花□上、ブドウのように□状に咲かせます。花言葉は「名誉」「栄光」カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携記念植樹ジャカランダ(ノウゼンカズラ科) 平成2年(1990)7月2日。カスカイス市は、ポルトガルのリスボン県の都市で、国際的なリゾート地である。また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着している。ジャカランダは南米原産で、「南半球の桜」とも称される落葉高木。成長すると約15mの大木になり紫色の美しい花を咲かせる。街路樹や庭園樹としても広く植えられている。ジャカランダ:ノウゼンカズラ科中南米原産の落葉高木。。ラッパ形で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなど約50種がある枝先に咲き残りも。ズームアップ。速足で散策、雨の中の「尾崎紅葉の ”貫一・お宮の像”」。左側には二代目「お宮の松」が聳えている。像を見上げる奥さんは何を思われたのか。足蹴りする貫一・お宮の像。現代ではこのような光景はニュースになるのでは。尾崎紅葉記念碑 尾崎紅葉(1867~1903)森鴎外等と並び明治を代表する文豪。胃癌のため35才の若さで惜しまれつつ世を去ったが、晩年、読売新聞紙上に連載した恋愛小説「金色夜叉」が日本全国の読者の熱狂的支持を得て、その舞台となった熱海海岸は一躍全国に知れわたった。以来。熱海市は国際観光温泉文化都市を標榜し、全国有数の観光地として大きな発展をとげ、今日に至っている。熱海市民は、尾崎紅葉先生の業績に感謝するとともに、その遺徳を偲び「金色夜叉」の「来年の今月今夜のこの月を」の名科白で有名な貫一・お宮の別離の日、1月17日を記念日と定め、尾崎紅葉祭を開催している。アジサイが咲き傍に碑があった。金色夜叉の碑明治の文豪尾崎紅葉の傑作「金色夜叉」にちなんで建てたものです。”宮に似たうしろ・・・・・雨の中の散策で早々に引き上げることに。お宮緑地のジャカランダ遊歩道以下2枚は2021年6月8日(火)に訪れた時のジャカランダ遊歩道。まだ低木であるが満開のジャカランダ。ジョナサン 熱海サンビーチ店書き込みで「海の目の前で眺めが良いのでランチで利用し公園への散歩が食後の定番」と。釜鳴屋平七夫婦像平七は文久三年十月(1863)、江戸から八丈島送りとなったが、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなった。その思いが像に・・・。初島からの船が熱海港へ帰港。雨のムーンテラスを見下ろす。沖には初島が見えていた。イル・ド・バカンスプレミア号(最大605名収容)静岡県唯一の有人離島「初島」との連絡船で、海向きのペアシートやグループ向けのボックスシートなども完備しバリアフリー対応の船である。他にも、昨年2025年7月就航・遊び心満載の非日常感あふれる船旅を楽しめる「金波銀波」(最大626名収容)が就航し、熱海港から約25分で初島へ渡ることができると。この花の名は?、スマホのAIに尋ねると「デュランタ (別名:タイワンレンギョウ)」と回答があったが。デュランタであれば、花は藤色や白の小花が集まって房状に垂れ下がって咲く人気の熱帯花木で、夏の鉢物としてよく流通しています。また、観葉植物として観賞される品種も一般に出回っており、沖縄などの熱帯地域では生け垣としてよく植えられています。丈夫で開花期間が長く、霜に当てなければ戸外でもよく冬越しするので、暖地では庭木として植えることができますと。水滴がついたデュランタをズームアップ。更にズームアップ。11:15糸川の河口国道135号に架かる「熱海渚橋」「渚歩道橋」を見る。以下2枚の写真は今年1月27日(火)に訪れた時の早咲き桜の「あたみ桜」。ここから上流の糸川遊歩道沿いの300メートル程に58本のあたみ桜が植えられている。あたみ桜はひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)である。 ー continued ー
2026.07.11
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この旅二日目、予想通り昨夜から雨に、熱海経由で「道の駅巡り」に。途中、開花時期はピークを過ぎているが「ジャカランダ」へ立ち寄ることに。6月25日(木) 7:00朝風呂を6時から使用、雨に濡れ新緑が映える。我々は和室を使用したが後片付けが大変である。館内放送で7時半から朝食に。5組ほどの宿泊であったので空き部屋があったのではと。朝食 660円(税込)9時にチェックアウト。費用(税込)は、宿泊費、追加料理(4,900円)、焼酎(1,624円)、ビール3本(1,797円)を含め締めて38,511円であった。持ち込みビール代、交通費を含め各自11,000円で精算。長年別荘のように楽しませていただいた保養所であった。閉館が8月30日であるので、既に予約状態は100%状態に、予約待ちで再度来るか?。雨の中、芦ノ湖畔の神社通り、国道1号を走り最初の道の駅へ。道の駅 箱根峠所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根381-22芦ノ湖と近隣の山々を見渡せる休憩所であるがこの日は雨で雲の中であった。芦ノ湖から箱根峠への途中にありこじんまりとした道の駅である。この先で箱根新道と合流、小田原、三島方面への分岐点。旧東海道のルートはこの先で箱根の関所(左下方向)から登って来る。道の駅は小さいながらも食堂、お土産コーナー、情報コーナーがある。芦ノ湖や箱根散策前のトイレ休憩に寄ると良いかもと。食堂コーナーでは、うどん・そば、カレーライス等がリーズナブルな価格で販売されていた。しかし、物価も上がり ”かけそば・うどんが600円”。そばつゆのいい香りがしていたが朝食をとったばかりで、つばを飲み込んだ。右側のカウンター席からは天気が良ければ富士、芦ノ湖が見えるのか。土産コーナーでは地元野菜も販売していた。芦ノ湖産・宮中献上 公魚(わかさぎ)(神奈川の名産100選) 道の駅から芦ノ湖方面。旧東海道を歩いた時、箱根峠へはこの先の階段を登った。この写真は、8年前の2018年12月18日に撮影したものである。その時のブログは「三島宿へ 箱根関所跡から箱根峠へ(2/8)」👈をクリック願います。小さい道の駅であったが「EV充電エリア」があった。箱根峠から雨が降る霧の中、県道20号線(熱海箱根峠線)を南下。9:50森の駅 箱根十国峠所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20十国峠ケーブルカーの登り口駅に併設されている「箱根・十国峠レストハウス」は、お土産品やそば処が入った便利な施設である。到着した時は観光バスが1台駐車していたが同時に出発したので広い駐車場には愛車のみに。伊豆半島MAP観光バスが出発した後で店内は我々のみで閑散としていた。いろんなお土産物があったが男連中は見るだけであった。前回訪れた時、保養所で飲み美味しかった冷酒「箱根山(純米酒) 2,000円」を購入した。まだ10時で準備前であった。2階にある十国峠山麓駅のTICKET売り場。次の出発は「10:00」とあったが、雨で頂上は霧の中であるので乗車する人はいなかった。頂上からの富士山今年2月18日(水)に訪れた時の写真。テラス席があったが天気が悪いと訪れる人も少ない。15分ほどの散策で森の駅を後にした。この後、熱海峠から県道11号線(あたみ梅ライン)の熱海梅園、来宮駅前を下り熱海海岸へ。10:35親水公園のスカイデッキタイムズ熱海市営第1親水公園へ駐車して「熱海サンビーチ脇のジャカランダ」へ。ジャカランダの近くに駐車場があったのだが。雨の中アガパンサスが奇麗に咲いていた。スカイデッキから熱海港方向を望む。スカイデッキから下りムーンテラスを見る。あたみ桜に挟まれて「釜鳴屋平七夫婦像」が立っている。左側に新しい「橋田壽賀子 顕彰碑」が設置されていた。熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑大正十四年京城(ソウル)生まれ。戦後映画界で、女性脚本家の草分けとして執筆を開始。後に黎明期のテレビに活躍の場を移し、ドラマの発展を支えた。日本人の心と家族の絆を温かく描き、多くの視聴者に感動を与え、愛された。ドラマは海外でも放送され、文化を超えて高評価を得る。壮絶な戦争体験から物語には平和への祈りも込められた。熱海を慈しみ、この地で多くの作品を生み出した。熱海市名誉市民、テレビ界で初の文化勲章を受賞。従三位。主な作品 おしん おんな太閤記 春日局 愛と死をみつめて 女たちの忠臣蔵 源氏物語 渡る世間は鬼ばかり 橋田壽賀子」。銅像は文化勲章受章で熱海市名誉市民である彫刻家「澤田政廣」先生の作品であると。釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。 熱海市銅像の台座には、熱海ゆかりの文豪、武者小路実篤の言葉が記されている。「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起った漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈へ遠 島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。 八十五歳 武者小路実篤」ムーンテラスを見下ろす。中央奥に「恋人の聖地」 のモニュメントが立つ。10:45熱海サンビーチ ー continued ー
2026.07.10
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チェックインまで時間があったので皆さん”大涌谷”へはしばらく来ていないとのことで訪れた。6月24日(水) 15:00大涌谷駐車場駐車場への入庫は平日にもかかわらず混んでおり5分ほど待って駐車できたが、休日の渋滞時には1時間以上かかることもあると。大涌谷には無料駐車場がなく駐車料金は1時間500円。営業時間:9:00~16:20(12月~1月 9:00~16:00)。黒たまごオブジェ温泉池で生卵を茹でると、鉄分と硫化水素などの火山ガスが化学反応を起こし、殻が黒いゆで玉子ができあがる! ”1個食べれば7年寿命が延びる”と言われている。4個入り500円で販売されている。大涌谷ちきゅうの谷からの噴煙が立ち込めていた。相変わらずインバウンド客が多く、これに大陸の方が来られるとオーバーツーリズムになるのではと。冠ヶ岳が聳える。大涌谷は約3000年前に箱根火山最後の水蒸気爆発をおこした爆裂火口。かつては地獄谷、大地獄と呼ばれていたが、明治6年(1873)明治天皇・皇后両陛下の箱根静養にあたって「両陛下がお出になる地に地獄があってはおそれ多い」と大涌谷に改称したと。ちきゅうの谷を見下ろす。大涌谷は「かながわの景勝50選」にも選定され、噴火の痕跡を残す山並みや立ち上る噴煙など、火山のダイナミックな活動の様子が観察できる。2022年3月28日より、引率入場方式で「大涌谷自然研究路(玉子蒸場までの散策路)」の散策も再開された(事前予約制)。左側は「大涌谷くろたまご館」、前方は「箱根ロープウェイ大涌谷駅」がある。くろたまご館前ではベンチに座り購入したゆで玉子を食べておられた。箱根の一大観光スポット「大涌谷」に昨年(2025年4月)オープンしたのが、展望エリア「ちきゅうの谷」。趣きの異なる3つのデッキが設けられ、足元に広がる荒々しい岩肌、立ち上る噴気、スリリングな気分を楽しめながら、谷の中にいるような近さで地球の鼓動を感じることができると。展望エリアには、趣きの異なる3つのデッキが設けられている。直径約18メートルの回遊式「風の輪テラス」。案内板には「大涌谷駅、ちきゅうの谷」と。展望デッキから「ちきゅうの谷」を見下ろす。箱根の強羅、仙石原等の温泉地への温泉源になっている。ちきゅうの谷を越える箱根ロープウェイ。尾根を越えると、早雲山駅へと下る。MAPには、左から、「丹沢山」「明神ヶ岳」「東京スカイツリー」「新宿副都心」 「横浜ランドマークタワー」「明星ヶ岳」「相模湾」「早雲山」と。大涌谷駅大空のほとりほっとひと息。羽を休める。目の前の大空を行き交う、ロープウェイの空中散歩。ふわりふわりと、乗りたい気持ちも浮かんでくる。展望デッキに設置されている「火山のカメラ」。火山のカメラ【火山監視カメラ】ちきゅうの谷の見張り役。火山を見つめ、安全を見守る防災カメラ。映像は気象庁ホームページで公開され、いつでも誰でも噴煙を観察できる。ちきゅうの谷を越えるゴンドラ。息吹のデッキ谷の上に約11メートル突き出した高さ約8メートルのデッキで、足元はガラス張り。新型ロープウェイには、スイスCWA製のゴンドラ(定員18人)が50台設置されている。また、ゴンドラ・駅舎ともにバリアフリー対応になり、車椅子でも利用できる。架け替え後の年間送客数は5万人増の155万人を目指している。なお、ゴンドラに動力はなく、大涌谷駅と姥子駅のモーター(原動設備)でロープを操作している。ロープは直径48mm。大涌谷駅舎へ入る。箱根ロープウェイ大涌谷駅乗客はインバウンド客が目立った。休日には長い列になると。営業運転時間 9:00 am ~ 5:00 pm片道券 おとな ¥2,000 桃源台 ⇦ 姥子 ⇦ 大涌谷 ⇨ 早雲山 どちらの方向も片道2,000円往復券 おとな ¥3,000 桃源台 ⇔ 姥子 ⇔ 大涌谷 ⇔ 早雲山 1区間の往復も3,000円、全区間の往復も3,000円大涌谷駅舎をでると回遊式の「風の輪テラス」。冠ヶ岳の麓に「大涌谷自然研究路(玉子蒸場までの散策路)」がある。散策路にはヘルメットを被った団体が見える。大涌谷くろだま館を見下ろす。箱根ジオミュージアム大涌谷くろだま館の1階にある「箱根ジオミュージアム」で、標準見学時間は20分と。入口を入るとインフォメーション。箱根ジオミュージアムへの入館料は100円。温泉の汲み上げ等の模型が設置されていた。温泉をくみ上げる「揚湯泉 (ようとうせん)」の仕組み。残念ながら室内が暗くてうまく撮影できなかった。ポスターには「芦ノ湖展」「火山がつくった湖」。パネルに「2015年 大涌谷に新火口誕生! 噴火前後の記録」。広いホールがあり、「火山の不思議や自然の魅力をたっぷり味わえる、大涌谷にある施設です。箱根ジオパーク の拠点として、興味深い情報や楽しい展示が盛り沢山。箱根火山の溶岩の観察や温泉の体 験展示がおすすめです」と。いろんなパネル説明があった。冠ヶ岳(Mt.Kanmurigatake)神奈川県足柄下郡箱根町にある標高1,409mの火山である。箱根火山の中央火口丘を構成する一峰である。麓の大涌谷から見ると烏帽子の形に見える。くろ玉子の製造工程が映像で紹介されていた。映像の紹介 ①湯守の仕事 ②黒たまごができるまで大涌谷と温泉各地を結ぶ、22キロメートルのホットライン。貼られていた写真「大涌谷からの富士山」。かつての大涌谷の光景写真が数枚展示されていた。1951(昭和26)年頃の大涌谷 ①1951(昭和26)年頃の大涌谷 ①1951年頃になると大涌谷の観光施設の整備が進みました。左に延命地蔵、右奥にたまご茶屋が見えます。バスもボンネット型で多くのバスが発着している。1962(昭和37)年頃の大涌谷1962(昭和37)年頃の大涌谷新たな観光施設の増設と同時に駐車場の整備も進められました。自分が始めて訪れたのは昭和43年頃であったか。仙石原を視察する渋沢栄一(大正9年)明治から大正にかけて活躍した大実業家 渋沢栄一と箱根大涌谷今を生きる、渋沢栄一の奥箱根の発展の思い奥箱根の開発に尽力した渋沢栄一翁当時大涌谷に温泉権を所有していた人びとにより大涌谷からの湯引管が共同出資され、さらに渋沢栄一氏を始めとした渋沢・三井・益田の三家、それに大倉組代表者等が発起人となり、現在仙石原・強羅エリアに温泉を供給している「箱根温泉供給㈱」が設立。様々な方々の努力と結晶により大規模な給湯そして大涌谷をはじめとした奥箱根の開発が行われました。15:35駐車場脇に立つ「渋沢栄一翁箱根を拓く」顕彰碑。富士の麓が見えていた。16:00仙石高原ビラ所在地:所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1285-417途中コンビニで湯上り用のビールを購入して到着。今年2月、4月に続いて3度目の宿泊である。部屋割はご夫婦は洋室、義兄とふたりで和室と。湯上り後、ビールは椅子席になる洋室で夕食まで談笑した。18:00いつものように18時から夕食に。宿泊者は5組11人ほどであったか。追加料理として、各自に天婦羅、唐揚げ2人分、刺身を一皿オーダーした。ビールで乾杯、後は大島酒造の芋焼酎「ちょうちょうさん」をボトルでオーダー。20:00 過ぎまで食堂で宴会。焼酎は飲み終えたので、部屋では持ち込んだ梅酒で二次会。明日の天気は雨が100%とのことで「道の駅巡り」と。 ー continued ー
2026.07.09
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夕日の滝からはこね金太郎ラインを走り箱根仙石原へ。6月24日(水) 13:50はこね金太郎ライン入口この道は箱根へは国道1号を走ると箱根湯本等で渋滞するので数回走ったルートであるが、途中の景観は山道だけで期待できない。また、道路幅が狭いので乗車定員11名以上の乗用自動車と、最大積載量3トン以上の貨物自動車は通行できない。ネット情報から、「はこね金太郎ラインを経由することで、東名高速道路大井松田ICから仙石原交差点 まで約45分で行くことができます!!!(一般道では今まで1時間以上かかっていました。)」と。箱根へはいろんなルートがある。はこね金太郎ラインは信号がなく渋滞もないので予定の時間で到着できる。但し、冬場は積雪があるので要注意である。はこね金太郎ラインの道路脇に。金時見晴パーキング所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢トンネルの手前に約35台駐車可能なスペースがあるが売店・トイレが無いのが残念である。駐車場は無料でいつも無人の車が駐車している。後方は金時山への尾根。金時山の頂上にある茶屋の”金時娘”はお元気かと。箱根町・南足柄市 はこね金太郎ラインこのイラストは令和2年 県立小田原城北工業高等学校デザイン科の生徒さんの作品です金時山・明神ヶ岳方面ハイキングコース入口ハイキングコース入口にいろんな看板が立っている。金時見晴パーキング付近の公衆トイレのご案内下記のトイレをご利用下さい ①金時公園内(約5分) ②ラーメン屋「蔵一」駐車場内(約7分) ③箱根仙石原観光案内所(約7分) ※カッコ内は金時見晴パーキングから車での所要時間案内板に「金時山(45分)・明神ヶ岳(100分)」と。クマの「出没注意」の看板も設けられている。駐車場から東方向を見下ろすが景観はいまいちである。着替えをしておられた女性と会話をすると「明神ヶ岳まで登ったが約1時間を要した」と。往復約2時間になるので手頃なハイキングコースなのであろう。14:20仙石原諏訪神社所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原88箱根仙石原の鎮守の杜で、仙石原地区の氏神として古くから尊崇されている。また、当社は隣町の宮城野諏訪神社と共に湯立獅子舞と呼ばれる卜占(ぼくせん)の貴重な神事が伝えられている。獅子が人に代わって湯立てを行う事は全国的に見て稀だと。近くの公時神社は当社の境外末社であると。長安寺に隣接してあり、今まで何度も仙石原へ来ているが始めて参拝した。右側の建物は?。箱根仙石原湯立神楽の碑 無形文化財 神奈川県指定 昭和二十九年十二月三日 国 選 択 昭和四十九年十二月四日諏訪神社に伝わる湯立神楽の起源は、安永五年で、伝授した師は、甲斐国郡内下吉田村(富士吉田市下吉田)の住人萱沼儀兵衛である。国家安泰、家内安全、五穀豊穣、悪疫退散を祈念し、祖先代々、郷民の精神生活の拠り処として、共に生き、厳格に秘伝された貴重な民俗行事である。宮舞、平舞、剱の舞、行の舞、宮巡りの舞、釜巡りの舞、四方固めの舞の七舞により構成され、大釜の熱湯を神楽の法力によって冷まし、氏子の頭に振りかけ、無病息災を祈る神事である。獅子が人に代って湯立の行をすることは、全国的にも稀な価値を有し、厳粛なその行法は、将に国選択無形文化財に値するものである。仙石原に伝承された古い習わしも、時の流れと共に薄れ、そして変りゆくとき、我々の心であるこの湯立神楽を、永久に保存していくことはまた意義の深いことである。ここに湯立神楽創始二百年及び、国の無形文化財選択を機会に、有志相計り、郷民の浄財を基に、社殿の修復、神楽堂の建設、境内整備の大業が完成したものである。我々は、益々敬神の念を培い、郷土の発展に苦難の努力をされた先人の遺徳に感謝すると共に、永遠の平和を祈念し貴重な湯立神楽を永く後世に伝えることを希い、この碑を建立するものである。 紀元二千六百三十六年(西暦一九七六年) 昭和五十一年三月二十七日建立 諏訪神社 社殿境内整備 神 楽 堂 建設委員会碑の前に草が生い茂り。階段下の右側に狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。階段を上ると杜の中に社殿が建っていた。拝 殿右奥に建っていたのは倉庫であったか。拝殿の扁額「諏訪神社」。社殿の右側から。社殿は修復されたようだが昭和51年(1976)頃か。社殿の左側に廻る。境内の左奥階段を登った上に新しい社殿が建っていた。手摺も設置されていた。ネットでは「境内社の山神社」とあったが、由来等の説明板がなかったので不詳。山神社前から境内を見下ろす。左側に坂道があったので下る。下ると茂みに石碑が立っていた。碑には、「神楽歌 大平楽とぞあらたまる 神をいさめてかんきょある いさめていさめてもかんきょある 天の岩戸を押しひらき いざや神楽をまいらせん 三尺の剣を抜いて 悪魔を拂う七五の楽」であったか。仙石原諏訪神社では毎年3月27日に「湯立獅子舞」が行われ、この行事は国選択無形民族文化財に指定されていると。境内の一角に、石碑、鳥居の部材が置かれていた。左から、祝 国指定重要無形民俗文化財 箱根の湯立獅子舞 令和四年三月二十三日指定 箱根仙石原神楽保存会関東大震災で倒壊した鳥居であろうか。右側の丸柱に「大正十二年三月廿七日建設」とあったので震災の年に建設されたのであろうか。石碑には「神楽歌之碑」と。平舞の歌 伊勢の社に松植えて松の青葉や若竹に しめを飾りて神いさめ みなしろたえの御幣をもちて 悪魔をはらう七五の楽湯立の歌 げにや神國おさまりて 人は天地のみたまもの ここは高天原なれば 集り給え四方の神々お濠の傍に簡易な手水舎が建っていた。ここ神社の周りも紅葉がよさそうだ。歴史を感じさせる手水鉢。14:30神楽堂も新築したとあったが。この建物か?。足早での参拝であったので再度秋の紅葉時期に訪れたい。 ー continued ー
2026.07.08
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ランチ後は、近くにある「夕日の滝」を訪れることに。7月4日(土)読売新聞朝刊でこの日が「滝修行の日」であることを知る。遅かった・・・。また、夏のレジャーの安全祈願を行う「夕日の滝びらき」が7月5日(日)に開催されたが、天候不良のため一部「山伏による安全祈願」のみが実施されたと。6月24日(水) 13:20夕日の滝駐車場所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢2230 辺り夕日の滝へはここへ車を止め歩いて行く。キャンプ場もあり駐車料金は無料。掲示板に、「土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域等を明示した現地表示板(夕日の滝入り口)」。 夕日の滝駐車場から指定避難所(北足柄小学校)まで7.2km7月4日(土)付け 読売新聞朝刊より、滝修行の普及に取り組む富山県高岡市の善光さんが4日に開催すると。2019年10月、7月4日が「滝修行の日」として正式に登録された。7は滝の流れ、4は手を合わせて滝に打たれる人を横から見立てたもので、水があまり冷たくない夏の始まり頃に設定したという。今回の滝修行は「足柄修験の会」(南足柄市) の協力を得て開催。約30人が参加予定で、午前9時半から善光さんが参加者に滝修行の歴史などを説明し、記念日登録証を見せた後、全員で滝修行を行うと。駐車場脇に立っていた案内板。夕日の滝バンガロー 足柄のテントサウナキャビンサイトとテントサイトの2つを備え、トイレやシャワールームも完備している。キャビンの裏手では川で遊べ、夕日の滝へは徒歩数分で行くこともできる。さらに、足柄峠の金時山登り口まで車で約15分と、周辺散策も楽しむことができる。時期によってはイベントやテントの展示会も開催される。テントサウナ入口(事前予約制)。夕日の滝付近の観光案内現在地から、足柄峠ハイキングコース 60分 金太郎ハイキングコース 100分 金時山登山にはクマ対策が必要!キャンプエリアに新しいトイレ(無料)。夕日の滝は年間約10万人の観光客が訪れる南足柄市の代表的な観光スポットで、高齢者らにも配慮した新しいトイレが設置された。障害者・高齢者用のトイレもあり最新である。少々過剰設備ではと思ったが、清掃も大変であろう。利用者のモラルを!。内川に架かる仮設橋。上流側にテントサウナが設けられていた。予約制で日帰りの貸切サウナ。下流側の対岸にステージがあった。夏場にはイベントが行われるのであろうか。橋を渡ると左側に「石碑」、右側に「見守り地蔵」。石碑には、「金太郎のふる里足柄山 金太郎の歌 作詞/石原和三郎 作曲/田村虎蔵 一、まさかりかついて金太郎 熊にまたがり お馬のけいこ はいしどうどう はいどうどう はいしどうどう はいどうどう 二、足柄山の奥で けだもの集めて 相撲のけいこ はっけよいよい のこった はっけよいよい のこった」と刻まれていた。金太郎の力水夕日の滝の水で産湯を使ったといわれている元気な金太郎にちなみ、この水を「金太郎の力水」と名付けました。金太郎は地蔵堂の四万長者といわれたお金持ちのむすめの子として生まれたと伝わっていることから、この水で銭洗いをして、四万長者にあやかってみてはいかがでしょう。 この水は、夕日の滝の横にある地蔵堂水源の湧水を浄水処理したもので、安心して飲 んでいただけます。 地蔵堂自治会 南足柄市水道事業所おいしい水について おいしい水の条件/地蔵堂簡易水道 水の水質が記されていた。金太郎の力水見守り地蔵 お賽銭はご遠慮ください奥の貼り紙に、「見守り地蔵 このお地蔵さんは、ごみの不法投棄をなくし、きれいで潤いと安らぎのまちにしよ うという願いを込めて「見守り地蔵」と名付けました。お地蔵さんの製作や設置は、 郷土を愛する多くの人たちの温かい心と熱意が積み重なって出来たものです。 多くの人たちの環境美化への願いが込められたこのお地蔵さんは、南足柄市の豊か な自然、美しい森、おいしくきれいな水、さわやかな空気を次の世代に引き継ぐた め、地域の住民を温かく見守ってくれることでしょう」と。箱根ジオパーク南足柄エリア、「断層と侵食が作った」夕日の滝。南足柄はかつて本州と伊豆地塊に挟まれた海の底でした。その後伊豆地塊が本州に衝突し、地表に押し上げられた海の地層に、後から噴火した、箱根の熔岩が覆いかぶさりました。夕日の滝は南足柄市の西部、箱根外輪山を水源とする内川の上流にある高さ約23㍍、幅約5㍍の滝です。この一帯は金太郎生誕の地という伝説があり、金太郎は夕日の滝で産湯をつかったとされています。そもそも滝ってどうやってできるの?滝ができる2つの成因 Ⅰ、異なる2つの地層が接する 箱根ジオパーク内 飛龍の滝 Ⅱ、断層によってできた崖が滝になる 山北町 酒水の滝夕日の滝はどのようにできた? 答え・・・Ⅰ、Ⅱ 両方の成因が関わっている。橋を渡り右方向へ約百メートル程進むとスギ林の先に滝の音が聞えて来た。遊歩道はチップで整備されていた。スギ林の合間に滝が見えていた。夕日の滝の名称は、夕日に映える美しさから名づけられたと言われているが、毎年1月半ばに夕日が滝口に沈むところからつけられたとも言われている。この滝での「滝修行」は申し込みで参加できると。費用は、滝行体験コース お一人様 6,000円 ※令和8年末までの限定価格となります。 その他 9,000円の祈祷コースもございますと。夕日の滝標高約五○○㍍の地点にある夕日の滝は、金時山の斜面より酒匂川へと流れ出る内川上流にかかる滝である。高さ23㍍、幅5㍍ほどの垂直に落ちる滝で、スギ、ケヤキ、ナラなどの林に囲まれている。滝は、箱根古期外輪山の堅い火山岩と、泥岩と礫岩から成る柔らかい地層が接する断層にあり、内川からの流水により柔らかい地層はしだいに削られたことにより滝ができたと考えられている。夕日に映えるその美しい姿から滝の名称が付けられたといわれているが、一説には勇ましく水煙をあげ男性的なところから雄飛の滝と呼ばれたこともあった。また、この滝は金太郎伝説と深い関係がある。源頼光(平安時代中期の武将)の四天王の一人である坂田金時(幼名金太郎)は地蔵堂で生まれ、産湯にはこの滝の水が使われたといわれている。このことから「金太郎産湯の滝」とも呼ばれ、さらに下流には「金太郎生家跡」や「かぶと石」「たいこ石」などの金太郎が遊んだとされる「遊び石」がある。春は新緑、夏は豊かな水量がしぶきをあげ、秋は紅葉、冬は滝つぼのまわりに樹氷ができ、ときには全面凍結の滝になるなど、四季折々の風情を見せる名勝地である。 泥岩 (泥が堆積し固まった岩石) 礫岩 (堆積岩の一つで直径2ミリメートル以上の岩片が粘土や砂などにより、くっつき 固まった岩石) 雄飛 (雄鳥が大空に飛び上がるように大きな志を抱いて盛んに活動すること) 南足柄市指定名勝(昭和四十一年十二月三日指定) 平成二十五年十二月 南足柄市教育委員会滝口を見上げる。夕日の滝の名は毎年1月半ばに夕日がこの滝口に沈むところからつけられたとも。滝の前左側上に祠が建っている。祠の扁額「夕日堂」。夕日堂前に「自撮り用の台」が設けられていた。ここへ沈む太陽を撮影したいものだが、冬場は滝つぼのまわりに樹氷ができ、ときには全面凍結の滝になるとのことでここへたどり着くのが大変であろう。三度目の訪問であるがいつも水量が多く水しぶきが飛んでいた。滝修行はここで開催。多くのカメラマンが来たのであろう。じっくりと撮影したかったが同行者はカメラ持参でなかったので早々に。滝壺をズームアップ。滝壺の周りは岩が多く足場が悪かった。また深さは?。夕日の滝を後にすることに。スギの木にこのような案内も。同行者はスマホを持っていたのだが。仮設橋へ戻る。下流側にはキャンプの炊事場であろうか。これからの夏場には多くの人で賑わうのであろう。夕日の滝バンガロー駐車場傍で咲き始めたアジサイを楽しんだ。標高が約五○○㍍の地点にあるのでアジサイの開花も遅い。純白のアジサイが咲いていた。ズームアップ。13:45約30分の散策であったが10人程の方とすれ違った。夏場には多くの人が訪れるのであろう。この後”はこね金太郎ライン”を上り箱根仙石原へと向かうことに。 ー continued ー
2026.07.07
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大雄山最乗寺の参拝後、箱根へのルートは”はこね金太郎ライン”を選択。ランチはその途中にあるかねてから知っている”うどん店”でとることに。6月24日(水) 12:35伊豆箱根鉄道大雄山線の大雄山駅前を通り抜け、竜福寺交差点から北上。足柄古道 万葉うどん 本店所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢2393以前、地蔵堂、夕日の滝へ来た時この店の存在が記憶にあり訪れた。店先に「自転車の駅」「手打うどん」の幟旗が立っていた。最初の目的地が臨時休館であったので、幟旗が立っていて”ほっと”した。道路標識に「⇦ 足柄古道」「矢倉岳 ⇨」と。この下に駐車場があるかと思ったが、引き返し道路脇に駐車した。矢倉岳への登山はここを下るようであった。古民家風のうどん店であった。 入口上に「あしがら古道 万葉うどん」と。入口にいろいろと貼り紙があり、「営業時間:11:30~17:00 (ラストオーダー 16:30) 定休日 :木曜日 駐車場は、地蔵堂のバス停下 公共の駐車場をご利用ください」と。車輪に、一杯用メニューがあったが・・・。木臼の中にお土産用「多肉植物 100円」。うどんのラインナップは、湯うどん・ザルうどん・とろろうどん・カレーうどん・つけカレーうどんと豊富で、価格は590円 〜 と驚くほどリーズナブルであった。別看板に「トマトだれの肉みそうどん 920円」とあった。店内には椅子席があり、手打ちうどん場があった。写真はネットから。美味しそうなおでんが。リピーターの方が多いようで、外にテラス席があったので外へ陣取った。夜の豪華な料理がまっているので「湯うどん 590円」をオーダーした。うどんのお替りは 110円と、四国の讃岐うどん並みか。併せて、おでん(140円/本)2本をセルフで皿にとった。辛子と思いきやダイコンの上は味噌であった。湯うどんうどんのおいしさを味わいたい方に、温かいだし汁にゆでたてのうどんをつけて食べますと。お替りをしても良かったのだが。テラス席からは庭先の苔・シダ・花類が目を癒してくれる。カンパニュラの一種ホタルブクロが咲いていた。ホタルブクロは、各地の平地から山地に広く分布する多年草です。日当たりのよい草原や、林縁などで多く見られます。初夏から夏の前半にかけて釣り鐘形の花を茎に多数咲かせる。テラス席で食事をしながら楽しんだ。ガクアジサイも終盤に。店内ではお土産用に地酒類も販売されていた(ピンボケに)。頂いた店の名刺。食事後近くにある地蔵堂へ。道路標識も「地蔵堂」。足柄山誓光寺として1282年(弘安5年)に開山したといわれる、この地を象徴するお堂です。地蔵堂の扁額「足柄 地蔵尊」。地蔵堂の濡縁に、「神奈川縣指定重要文化財 木造地蔵菩薩一躯 昭和・・・・・ (説明文は消えて判読できなかった) 地蔵堂内厨子一基 昭和五・・・・・ (説明文は消えて判読できなかった) 南足柄市教育委員会 地蔵堂自治會地蔵堂内厨子 室町時代末期 作本堂は、天保一二年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』によると、文化一四年(1817)に火災に遭ったが、その後再建されたと記されている。昭和五〇年(1975)にも焼失したが、住民の手によって本堂内の厨子と本尊である地蔵菩薩立像や他の仏像はすべて救い出された。本尊の地蔵菩薩が納められているのが厨子であり、三間(柱間)四方の入母屋造りの屋根に、軸部を禅宗様、軒を和様とした折衷様式で、鎌倉を中心に分布する禅宗様に対して特色がある。また、木鼻が上部の貫だけでなく下部の貫にもつけられていることや天井が丁寧に造られていることも珍しい。現在は地蔵堂裏の収蔵庫に納められている。 ・入母屋造り(上部は二方、下部は四方へひさしをつけた屋根) ・軸部(建物の土台から軒あたり) ・禅宗様(鎌倉時代に禅宗とともに宋から伝えられた寺院建築様式) ・和様(平安時代以降の日本化した寺院建築様式) ・木鼻(貫(柱に通す水平材)の端を彫刻したもの) 屋根 間口 二五六cm 奥行 一四七cm 本身 間口 一六六cm 奥行 九九cm 台座 間口 一七八cm 奥行 一一〇cm 軒高 一八二cm 神奈川県指定重要文化財(昭和五十四年二月十六日指定) 平成二十五年三月 南足柄市教育委員会木造地蔵菩薩立像 鎌倉時代 作この地蔵菩薩立像(像高160.5cm)は足柄地蔵尊と呼ばれ、玉眼の技法を使い、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、構造は寄木造りである。身体は黒漆で彩られ、着衣は朱漆塗地に銀泥で文様が描かれている。衣の正面にある松葉状に枝分かれする衣文の特色から、慶派仏師またはその影響下にあった仏師が制作したと考えられる。鎌倉時代(十三世紀)の作と考えられる。本像には、「一木三体の作」の伝承があり、一本の霊木から三体の地蔵尊が造立されたといわれ、一体は駿東郡小山町の竹之下に、もう一体は小田原市の板橋に安置されていると伝えられている。なお、本像は乳の病に御利益があると云い、女性の信仰が篤かった。現在は地蔵堂裏の収蔵庫に安置されている。 ・玉眼(鎌倉時代に発達した技法で、仏像の目に水晶またはガラスを入れたもの) ・宝珠(火災を表して上方がとがり、全ての願いを思うとおりにかなえてくれるという 宝の玉) ・錫杖(僧侶の携帯する杖) ・寄木造り(頭部と体部など各部を組み合わせて一体の像に造りあげる技法) ・銀泥(銀粉をにかわで溶いたもの) ・慶派(平安末期~江戸時代の仏師一派、名に「慶」のつく仏師が多かった) ・仏師(仏像を作る工人) 神奈川県指定重要文化財(昭和五十四年二月十六日指定) 令和二年七月 南足柄市教育委員会木柱に、「県指定文化財 木造地蔵菩薩立像 地蔵堂内厨子」と。正面の道はこの後訪れる「夕日の滝」への道。左下に公共の地蔵堂駐車場(無料)があり公衆トイレもある。地蔵堂ウオーキングマップバス停「地蔵堂」。関本(大雄山駅)行きが、平日 9:40、16:40 の二便。 土・日・祝日 8:45、9:40、15:25 の三便運行。地蔵堂前に道路案内。足柄古道足柄古道は、足柄道、足柄路と呼ばれ奈良時代には官道として東西を結ぶ重要な道路として機能していました。九世紀の初めに起きた富士山の延暦噴火で、足柄古道は一時通行が途絶え、箱根越えの道が利用されましたが、噴火が止んだ一年後には復旧しました。万葉集や更級日記などには足柄峠や古道の様子が書かれています。戦国時代には国境防御の目的で古道沿いの尾根に多くの城郭が建設されました。徳川家康が天下を治め江戸に幕府を開いた後は、箱根越えの道が東海道となりましたが、足柄古道はその脇往還である矢倉沢往還となり、物資の輸送や富士講の人々で引き続きにぎわいました。 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会13:15万葉うどん来店者は皆さん交通量も少ないので路上駐車。我が家の庭に咲いていた「オニユリ」(7月4日撮影)。 ー continued ー
2026.07.06
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奥の院の参拝は諦め下山することに。6月24日(水) 11:55御真殿前に建つ「御真殿御守授与所」。御真殿御守授与所「特別祈祷承ります」と。御真殿、御真殿御守授与所を振り返る。御真殿横でガクアジサイが咲いていた。ズームアップ。更にズームアップ。御真殿境内から「不動堂」を見下ろす。急な階段を下りることに。不動堂の扁額も苔むしていたが「□□不動」と。不動堂内を足早に抜けると、スギの古株から新芽が成長していた。不動堂の下にも社が建っていたが配置図に記載されていないので?。不動堂を振り返る。多宝塔を見下ろす。文久三(1863)年に建築され、最乗寺境内の建物の中で最古の建築物で、南足柄市の指定文化財である。多宝塔の塔内に多宝如来が安置され、塔の下には了庵慧明禅師、大綱明宗祖師、春屋宗能祖師の火定灰が納められている。下層の蟇股に十二支の彫り物があると。多宝塔の右前に狛犬の「阿形像」。左側には狛犬の「吽形像」。多宝塔の左側に人工の「先心の滝」がある。水神様が祀られており、傍らの東屋の椅子に腰掛けて眺められる。石祠の下に「水神」と刻まれた標柱が立っている。東屋から御供橋、結界門を見下ろす。多宝塔から階段を下り見上げる。多宝塔 (たほうとう)最乗寺の多宝塔は、神奈川県下で唯一の多宝塔遺構であり、曹洞宗の寺院としては珍しく、内部には多宝如来を祀った厨子が安置されています。心柱に残る墨書から建立は江戸時代末の文久三(1863)年で、願主は江戸音羽の高橋清五郎、工匠は大工棟梁の相模匠藤原直行、彫物師は後藤豊次郎であることが分かっています。この多宝塔は、棟身が高く相輪が短いものの、その形態や彫刻のあり方に江戸時代の技術や手法をよく残しています。また、二重構造のうち下部の四天柱をそのまま伸ばして、上部の側柱にするなど、珍しい手法も見られます。多宝塔は、大正十五(1926)年と昭和三(1928)年の二度の火災でも被害を受けることなく、建立当時の姿を残しています。まさに、過去と現在をつなぐ歴史の証人としての役割を果たしているといえます。 平成二十二年三月 南足柄市教育委員会標柱に「市指定文化財 多宝塔」と。こちらにも氷柱があったが。インバウンド客の家族連れが訪れておられた。奉納 多宝塔塔中に多宝如来を奉安し、塔下に当山開祖了庵禅師、大慈開基、報恩開基の火定灰を収む、三禅師宅□の地なり、二間四尺の方形 層上□型の木造二重の塔、文久三年江戸音羽の住人 高橋清五郎の奉献 七坪半 中建道了講 昭和五十四年一月吉日之建多宝塔はスギの大木に囲まれている。これからはスギの倒木等による被害が発生するのでは。御供橋、結界門前から本堂へと進む。鐘楼下の参道両側には奉納碑が立ち並んでいた。開山堂奉納 金剛壽院大雄山開祖 了庵慧明禅師及び通幻寂霊 大綱明宗 無極慧徹 春屋宗能の各祖師の尊像 歴代住持の霊牌を祀る当山の 開山堂である日夜その真に侍して 酬恩の行持を奉勤している昭和三十六年 開創五百五十年記念法要に再建された 總欅造り 四十坪余 昭和六十一年一月吉日 中建道了講本堂を後にする。一段高い場所の手前に「書院」奥に「本堂」が建っている。瑠璃門から、境内の東屋「光明亭」を見る。同場所から右奥に「総受付 白雲閣」。瑠璃門の渡り廊下に貼られていた挿絵。大雄山ものがたり「大雄山」とか「道了尊」とか親しみをこめて呼ばれているお寺のものがたりです。正しくは「曹洞宗・大雄山・最乗寺」というんですが、今まで通りの呼び方でいいんだよ。このお寺を開山した、つまりこのお寺を最初に造ってくださったお方は、了庵禅師様とおっしゃいます。親しみを込めて「了庵様」ともよんでいます。三つの宝了庵様は子どもの頃から本を読んだり、字を書くことがすきでした。その頃の学校は寺小屋といって、お寺で勉強をしました。和尚さんが先生です。通っているうちにお寺が大好きになり、自分もお坊さんになろうと決心をしました。最初に入ったお寺は、鎌倉の建長寺です。不聞禅師、峨山禅師、通幻禅師お坊さんになるための修行は、今も昔もそれはそれは厳しいのですが、自分からなりたいと決めた道ですから、自分に厳しく修行を重ね、立派な和尚さんになっていくのです。いくつものお寺で修行をし、遂には、石川県は能登半島にある總持寺の、一番偉い和尚さんになります。「了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師」とおよびします。「禅師」とは立派な和尚さんという意味です。12:15瑠璃門から階段を下り参道へ、左上に駐車場があり、このまま下ると「道了尊三門」へと。今回は新緑を楽しんだが秋には紅葉の撮影に再度訪れたい。参道をズームアップ。境内には多くの堂宇があり、秋の紅葉時には全てを撮影しアップしたいものです。小田原フラワーガーデンが臨時休館で急遽訪れた大雄山最乗寺を後にした。昼時になりさて何処でランチをするか。 ー continued ー
2026.07.05
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箱根仙石原の保養所が8月末に閉鎖するとのことで、義兄と近所のご夫婦を誘い2月、4月に次いで今年3度目の一泊の旅を計画した。 梅雨時で生憎の空模様の中、自宅を10時に出発、我が愛車ノートで出かけた。目的地は一任するとのことで、6月2日に訪れた小田原フラワーガーデンのアジサイ、ハナショウブ、スイレンが見頃であろうと思いハンドルを握った。6月24日(水) 11:00小田原フラワーガーデン正門予定の時間に到着したが、何故か正門が閉ざされていた(この写真は前回)。正門に立つ警備員に聞くと「園内の電気工事で6/22(月)~26(金)まで臨時休館」と。仕方がなく近くにある「鈴木さん宅のざる菊」へ向かうが、ご夫婦の旦那さんから「大雄山最乗寺」へ行こうとのことでスマホをセット。11:20参拝者用無料駐車場(大雄山最乗寺)所在地:神奈川県南足柄市大雄町250ここまでの麓からの急坂の参道脇に咲くアジサイが奇麗であったのだが。最乗寺へは今年4月3日(金)に「枝垂れ桜」を見に訪れている。当初男三人で来る計画であったが奥様が休みとのことで「コンパニオンで参加する」と。参道を上ると左側に新しい玉垣に囲まれた塔が建っていた。玉垣中央に「神奈川県鳶工業連合会」と。石碑に「神鳶之碑」と。碑文は残念ながらピンボケに、次回再度撮影したい。細い円柱に「□慰霊碑」と。最乗寺の通用門である「瑠璃門」への新緑に覆われた階段を上る。左側は「宝物殿」。瑠璃門新緑のモミジが映える。この紅葉を撮影していないので今年は訪れたいと。この紅葉が楽しみだ!最乗寺境内案内板の「大雄山最乗寺全景」を見る旦那さん。大雄山最乗寺全景大雄山最乗寺(道了尊)の草創応永元年(1394)。福井県の永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ格式のある曹洞宗のお寺である。創建に貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝えられることから、道了尊とも呼ばれている。この道了にちなんで、境内には多くの下駄が奉納されている。また、仁王門からの参道約3kmには樹齢500年以上の杉並木(県天然記念物)がうっそうと茂っている。大書院階段下左の石碑に「大書院案内 昭和三十二年秋建立 約二百五十坪」と。境内の咲き終わったツツジ、サツキは綺麗に剪定されていた。本堂下の大香爐この日もインバウンド客を含め参拝者が訪れていた。本堂を見上げる。前回参拝した時は両側の枝垂れ桜が奇麗に咲いていた。本堂の扁額「護国殿」。本堂脇のモミジの新緑が映える。本堂左側に建つ「開山堂」。開山堂は昭和36(1961)年に再建、総欅造りで、別称 「金剛壽院」と呼ばれ歴代の禅師を祀る。本堂から左方向にある「御真殿・奥の院」へと進む。多くの堂宇が建ち、新緑に覆われた参道両脇には奉納板碑が立ち並んでいる。苔むした板碑には「奉納 金壹百圓 大正八年□□□」と。右上には「鐘楼」が建っていた。ロープが張られ中へは立入禁止になっているが、像芸緻密で精巧に作られていると。一段高い場所に石塔が立ち、左側には板碑があった。石燈籠が立ち、石碑、石塔が立っていた。木柱には「市指定文化財 松平大和守直基の墓」と。松平大和守直基の墓正面には「捐館仏性院殿鐵関了無大居士神儀」と刻まれている。松平大和守直基の墓松平大和守直基(なおもと)は徳川家康の次男である結城秀康の五男にあたります。越前勝山城主を経て越前大野、出羽山形へ移封の後に姫路城主となりましたが、姫路へ向かう途上で発病し、慶安元(1648)年、江戸にて四十五歳で死去しました。直基の遺骨は大雄山最乗寺に葬られ、寛文十(1670)年に兵庫県姫路市の書写山円教寺に分骨されました。直基の墓は、将棋の駒形をした安山岩製で、高さ400cm、幅135cm、厚さ94cmを測り、正面には「捐館仏性院殿鐵関了無大居士神儀」が刻まれています。直基の墓が大雄山最乗寺に建立されたのは、時の権力者である徳川将軍家と大雄山最乗寺との関係の深さもさることながら、直基自身が大雄山最乗寺に対する信仰が深かったことに由来すると考えられています。 平成二十二年三月 南足柄市教育委員会墓地の一角には慰霊塔。塔には「明治二十七八年之□陣□軍人之碑」と。日清戦争の戦没者慰霊塔であろう。鐘楼を見下ろす。鐘楼前から更に進むと「御供橋」「結界門」。御供橋辺りは杉林に覆われ”最乗寺で最も雰囲気が良い場所”であると。結界門この門からは「これより内は不浄の者入るべからず」で道了尊の浄域になる。結界門は明治三十年(1897)に建立された向唐門。結界門の前には天狗様(右側)と烏天狗様(左側)が立っている。金剛製の天狗像一対は、昭和十一年(1936)に東京五大講の寄進であると。結界門の扁額には「結界」と。結界門を入り、御真殿(ごしんでん)への直階段を見る。下から見上げるが途中に踊り場がないので怖い。階段数は77段と。現在の建築基準法では直階段の場合一定の高さ(概ね4~5m程度)で踊り場が必要であると。階段の途中で、結界門を見下ろす。御真殿 (妙覚宝殿)道了さん(妙覚道了大薩埵)を本尊として、脇には大天狗と小天狗がお祀りされており、ここで色々なお願い事をかなえてくれるご祈祷が行われている。御真殿の扁額は「妙覚宝殿」と。拝殿では5,6人の若者が祈祷を受けていた。御真殿御守授与所御真殿の横にたくさんの高下駄が奉納されている。世界一大きい「和合下駄」。修験者や天狗の履物として、世界一の大きさという巨大下駄の目方は、1,000貫(3,800kg)であると。また、下駄は二つ揃って役割をなすため、夫婦円満、夫婦の和合に通じると。慈雲閣(奥の院)への登山口。奉納 奥の院と参道これより三百五十余の石階を登れが奥之院慈雲閣に到る。鎮護道了大菩薩の御本地十一面観世音菩薩を奉安する。向陣渡殿拝殿ともに昭和四十三年に再建された。 總坪十七余 昭和五十五年一月吉日 中建道了講 奥の院へは今だ未登山であるので参拝を迷ったが同行者が「NO」とのことで途中まで挑戦することに。旦那さんはかつてお子さんと登り箱根まで行ったと。登山口の右側に狛犬の「阿形像」。左側の狛犬も口を開けていたが。これより三百五十余の石階を登れが奥之院慈雲閣に到る。途中まで登ると奥の院から同年齢のご夫婦が下りて来られた。階段右側に祠があった。皆さんが登山口で待っているのでここで引き返すことに。11:50左側には石祠があった。最近中古の”Canon EOS60D”を購入使用しているので慣れなくピンボケに。 ー continued ー
2026.07.04
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梅雨の合間に訪れた「小出川の河津桜会場」の花々を楽しんだ。6月29日(月) 14:30アジサイが目的であったがダリアも奇麗に咲いていた。庭植えすると場所を取り背丈が高くなるので好まない花であるが広い場所では映える。ズームアップ。”小出川河津桜”の最上流部へ。県道44号線の西久保橋、圏央道の高架橋。ダリアは今まで撮影対象にしていなかったがよく見るといろんな表情がある。ダリアは、キク科ダリア属の多年生草本植物の総称。和名は、花の形がボタンに似ているため、テンジクボタン(天竺牡丹)と呼ばれた。日本へは、江戸時代天保13年(1842)にオランダから長崎に持ち込まれたのが、日本への最初の到来となったと(ウイキペディアより)。ズームアップ。アナベルも咲いていた。ズームアップ。小出川の下流側を望む。堤の斜面部には草が生い茂っていた。これからの時期草刈り機で除去する必要が。河津桜の下にアジサイが咲き、キクが植えられていた。ざる菊は管理がたいへんであるので止められたのであろうか。ガクアジサイ。天気が良ければ富士山が見える場所であるが。雑草に覆われたアジサイ。ボランティアの手が必要に。小出川河津桜会場へ戻る。木製のベンチ・テーブルがあり「花とともにくらす会」の皆さんの憩いの場所になっているのであろうか。マイファームたかはし枝豆直売所所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園312小出川河津桜会場の西側にあるファームで、右側の畑で枝豆を生産して早朝に販売している(販売日は要チェックである)。後方には湘南銀河大橋の白い橋脚が見える。小出川に架かる浜園橋周辺が工事中であったので立ち寄った。今年(1月22日)に訪れた時掲示されていた工事看板。「小出川の護岸整備を行っています 令和8年7月31日まで 時間帯 8:00 ~ 17:00 浜園橋橋りょう整備工事 (護岸工) 請負金額 ¥273,900,000 発注者 茅ヶ崎市建設部 道路建設課 受注者 亀井工業・湘南いざわ特定建設工事共同企業体」。欄干に「浜園橋」と。住民の方が工事状況を見学しておられた。下流側の護岸工事。数ヶ月ぶりに見たが右岸の護岸工事はほぼ完成まじかか。完成予想図が掲示されていた。工事名:浜園橋橋りょう整備工事(護岸工) 工事完成イメージ(AI合成画像) 施行者:亀井工業・湘南いざわ特定建設工事共同企業体工事現場のフェンスに、「特定建設作業実施届出書」。工期が「令和8年7月31日まで」とあったので、これから後1ヶ月の追い込みに。春先に比べて小出川の水量は梅雨時でもあり増水していた。上流側を望む、大山が見えるのだが雲の中であった。河川敷には多くの土嚢が積まれ水路が変更されていた。左岸の一部が掘削されていた。掘削部から湧水があるようで工事を中断し関係者が見ていたが。台風が襲来すると増水して被害が浜園橋から下流側左岸は春先に眼を楽しませてくれた梅並木になっている。後日、市内へ。6月30日(火) 14:00愛車のリンちゃんで買い物に。途中の旧東海道(国道1号)の松並木。道路脇の標柱に「日本橋まで 58km」と。イオンスタイル 湘南茅ヶ崎いつも駐輪する自転車置き場の横にアジサイが咲いていた。ここの駐輪場は一時無料になっていたが、設備が修復され3時間?まで無料に。精算機が置かれている。国道1号の北側にバイパスの敷地。最近まで史跡の発掘調査が行われていたが、終了し埋め戻されて更地に。バイパスの完成はいつになるのであろうか。道路脇にアジサイ、アガパンサスが咲いていた。アガパンサスはさわやかな涼感のある花を多数咲かせ、近年よく見かける花である。純白から緑に変化したアナベルが咲いていた。アナベルは純白の装飾花の他、アナベルの魅力の一つに花色変化があります。蕾の頃は淡い緑、花が咲くと純白、咲き進んでいくと再び緑に変化し、秋にはドライフラワーのように乾燥しますと。我が家のぶどう棚。今年も100房近くの収穫になるが。小玉スイカの栽培、そろそろ補強の網が必要に。昨年は3個の収穫であったが、さて今年は何個収穫できるか。5月18日に受粉させ6月26日に2個収穫した。実もしまり美味しかった。7月1日(水) 10:15朝9時~9時30分まで茅ヶ崎市立病院でリハビリ。昨年12月12日(金)から、週2~1回のリハビリを行っていたが順調であるということでこの日を最後に終了した。今後は自己管理ということで有酸素運動を行うようにと。病院へは歩いて通院しているが、その道路脇に咲いていた西洋アサガオ。葉は丸く、さわやかな空色の花は短日開花性により暖かい地域で8月以降から霜のころまで咲き続けます。とても生育がよく「緑のカーテン」に適していると。ズームアップ。民家の庭を見上げるとノウゼンカズラが咲いていた。ノウゼンカズラは茎から気根を出して壁や塀を這うように生長していくつる植物である。このため庭に植えることを敬遠されている、 ①この気根が建物の外壁を傷めるのではないか。 ②生育旺盛で根を伸ばし株で生長する上に、こぼれ種からも発芽し植えた覚えがない所 からも増える。 END
2026.07.03
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今年の梅雨は近年になく雨の日が多く「梅雨の時期」を感じているが、年金生活のため傘をさしての通勤もなく、自宅で懐かしく思い出している。この日は午後雨が降っていなかったので、春先目を楽しませてくれた「小出川の河津桜会場」へアジサイを愛でに車で訪れた。6月29日(月) 14:00途中、烏が道路の水溜りで行水していた。小出川河津桜会場所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番春先に咲く河津桜を愛でに何度も訪れている場所である。桜の中にアジサイが植えられており今年は愛でに来たいと思っていた。この辺りの小出川の西側は市街化調整区域になっており、枝豆の直販もされている。梅雨の時期は雨に濡れるアジサイのイメージがある。訪れるのが少々遅かったか。この花をAIで検索すると「ウズアジサイやおたふくアジサイ」の可能性が高いと。後方には黄色いグラジオラスが咲いていた。以前はこのエリアには、ざる菊、コキアが植えられていたが草が生い茂っていた。その景観は、市民団体「花とともにくらす会」の活動によって支えられていたのだが会員不足なのであろう。ズームアップ河津桜も来年のために葉が生い茂っていた。アジサイに混じり黄色い花が咲いていた。同じようにAIで検索すると、ヘメロカリスの仲間でゼンテイカ (通称:ニッコウキスゲ) とでたが。ヘメロカリスであったか。アジサイは上流側の河津桜下に植えられているので西久保橋に向けて歩くことに。小出川の斜面には草が生い茂っていたが遊歩道は刈られていた。河津桜の木の間に植えられていたが、梅雨時は草が伸びるのが早い。梅雨時は除草作業も大変であるのだ。景観の維持は市民団体「花とともにくらす会」の活動もあるようだが、やはりボランティア活動も必須ではと。河津桜の下に咲くアジサイ。綺麗に見る為には下草の除草も必要である。アジサイも咲き終わると剪定作業が大変である。サクラの枝も伐採が必要なものもあったが。アジサイ(紫陽花)は、日本原産の落葉低木。日本原産のガクアジサイや西洋アジサイは品種改良が盛んで、毎年のように新品種が登場し、その数は数千品種に及びますと。ガクアジサイが西洋に渡り、品種改良を重ねられできたのが西洋アジサイ。アジサイは挿し木をすると繁殖しやすいので花名は?である。私は酸性土壌を好むブルー系が好みだが。カシワバアジサイカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)は、円錐形に伸びる花房と、柏の葉に似た大きな葉が特徴のアジサイで、北アメリカ東部が原産といわれている。アジサイの花が丸いのに対して、カシワバアジサイの花はピラミッド型をしており、カシワバアジサイといえば白いが赤みを帯びていた。花の色は咲き始めは、グリーンがかった色、そこから徐々に白に変化していく。また、花は散り始めには赤くなり、秋には葉が色づいて紅葉すると。カシワバアジサイの開花時期が終わった後も花がらを切らずにおくと、少しずつ変化する花の色味を楽しむこともできます。純白の花は徐々にピンク色に染まり、最終的にはくすんだ茶色のアンティークカラーになりますと。花柄をズームアップ。花札はなかったが左側のアジサイは「ウズアジサイ」であろう。ウズアジサイは最近はポップコーンという名前で再度注目されていると。また、花が丸いことから「オタフクアジサイ」「オカメアジサイ」、花の形状から、「バイカアジサイ」「カイザキアジサイ」とも呼ばれますと。ホンアジサイの変種で、江戸時代にウィルスに感染した病気のアジサイが固定されたとされる。ウィルスが遺伝子を壊してしまい、変異したものがコレで、それをそのまま固定したと。土壌のpHによって淡いピンク(中性〜弱アルカリ)から淡い青(酸性)に花いろが変わります。花びらが丸まり、変な雰囲気になっている。ボタンクサギ (牡丹臭木)中国南部原産で冬に葉を落とす落葉性の低木です。日本でも暖地や平地で野生化したものがよく見られます。花がきれいなので、庭木や鉢植えとして利用されます。草丈は1m~大きくなると2mほどになります。地下茎から芽を出して広い範囲に茂ります。花をズームアップ。梅雨時から夏にかけて、ピンク色の小花がボール状にまとまって咲きます。一輪咲き始めていた。花をズームアップ、4本の雄しべが突き出る。開花時のボタンクサギ(写真はネットから)。河津桜の幹に、「河津桜 花とともにくらす会」と。河津桜の木漏れ日の中に純白のアジサイが咲いていた。ズームアップ。植込みにこのような立札が・・・。カメラマンとしてのマナーは最低限守ってほしいものですネ!各地で私有地へ無断で入りトラブル発生(北海道美瑛等で)。草が刈り取られ杭が立ち並んでいた。何か植えられ添え木が立っていた。コキアの苗であった。14:30コキアの周りには雑草が押し迫っていた。秋の紅葉を楽しみたいがこれからの管理が大変だ。 ー 続く ー
2026.07.02
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今年も早半分が過ぎ時の流れの速さを痛感している。また、近年の空梅雨から毎日のように雨の日が続き久しぶりに梅雨を痛感している。引き続き、勝福寺から隣接する飯泉八幡神社へ。6月2日(火) 14:25仁王門の右側にあった石塔群。大きな石燈籠。最近の地震多発から先人の耐震対策は・・・。右後方の石碑には「奉納 修行大師御足下 西国坂東秩父 百霊場御土砂」と。苔むした石碑には、「弘法大師御修行之像 高僧弘法大師は□を空海と云う・・・(中略)・・・ ・・・(苔むして判読できなかった)・・・ 昭和四十八年癸・・・・・」と。これらの石塔も周辺から集められたのか説明板がなかったのか残念である。巨木の下に石塔群。石塔には「坂東五番 飯泉山勝福寺」と。また、石塔には字が刻まれていたが苔むして判読できなかった。この苔を落とす行為は禁じられているのか?。仁王門の左側から境内の大イチョウを見上げる。秋には黄葉が見事であろう。東司(とうす)の烏枢沙摩閣勝福寺と飯泉八幡神社との境にあるトイレ。壁面に「烏枢沙摩閣」、入口には「東司」と。禅寺における「東司」は 便所(雪隠)を指す言葉で、読み方は「とうす」。寺院の七堂伽藍の一つとして位置づけられ、便所の守護神である烏枢沙摩明王が祀られています。使用時の作法や唱える偈文などが細かく規定され、禅修行の場としても重要視されますと。八幡神社の境内。境内には、ケヤキ、ムクノキ、イチョウ、エノキなどの落葉高木を主に、クスノキ、カヤ、イヌマキなどの常緑の高木が生育し、お寺の森と神社の森が一体となっている。古木の下に「八幡神社」の看板。飯泉八幡神社所在地:神奈川県小田原市飯泉1164勝福寺境内に八幡社が残り、明治初期の廃仏毀釈令を無事に乗り切ってくれたと。神輿庫であったか。左側の木は”カヤ”であったか。巨木に囲まれた八幡神社。紙垂が巻かれたカヤノキ。樹齢は何年なのか大きなコブが。カヤ (榧) イチイ科分 布 本州 (宮城県以西) 、四国、九州用 途 庭□、材は桶・碁盤・種子は食用。大木になり幹周4~5mにもなる。 長命で□□□年以上の木も多い。幹 周 昭和46年□□□、平成3年3.80m 56年 と紙垂で隠れ・・・。大きな手水鉢が置かれていた。八幡神社 鎮座地 小田原市飯泉一一六四 主祭神 誉田別命 例祭日 十月第一日曜日 境内末社 稲荷社・天神社・神明社古来、茲(ここ)飯泉は、鎌倉街道・大山街道・足柄山道・箱根山道等々が交錯し、殊(こと)に鞠川(現在の酒匂川)の渡し場、隣接の坂東観音五番札所の宿場と共に交通の要衝であったが、同時に、洪水・地震・噴火に悩まされた住民は相謀り、永年の願望だった茲飯泉村に鎮守神を奉斎すべく、時の宗我播磨介広之(宗我都比古神社々主)に請願し、鎌倉八幡宮のご分霊を奉遷したのである。其の後逐次近郊の末社を整理集合して、郷社として天下泰平・五穀豊穣・安産・永世平和の守護神として崇尊され祀られてきた。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。拝殿大虹梁の木鼻。八幡神社の創建年代は不詳だが、龍の彫り物も。拝殿前から広い境内を見る。カヤノキであったか。カヤノキの葉をズームアップ。根元近くが太った奇怪なカヤノキである。社殿前の2本のカヤノキを見上げる境内の西側に境内末社の祠が並んでいたが説明板がなく不詳。境内末社の後方に鳥が、携帯電話で撮影 AIの回答は、「全身が白く、くちばしが一年中黒いのが特徴のコサギ」であると。例祭日には多くの露天商が出店し賑わうと。銅板?を巻かれた鳥居。境内の前を横切る県道711号線から鳥居を見る。玉垣のそれぞれに氏名が刻まれていた。14:35飯泉観音の縁日は、1月18日が初観音、8月9日・10日が四万八千日、12月17日・18日がだるま市で、いずれも市が立ち、多くの人で賑わうと。北の道祖神所在地:神奈川県小田原市飯泉522-4勝福寺の北側にあり、スマホの案内で民家の間を抜け道路脇にあった。Googleマップで見るとこの辺りには他にも多くの道祖神が点在しておりその一つである。北側を国道271号(小田原厚木道路)が走る。祠の前にはお供え物があり今だ地元の方に崇敬されているようだ。飯泉地区の北の守り神であると。石祠の中に双体道祖神があり大分磨耗していると。二つの五輪塔が置かれていた。弥勒院 (みろくいん)所在地:神奈川県小田原市飯泉1129-1次に訪れたのは勝福寺の東側に隣接してある当院。Googleマップに載っているが道路標識もなく案内板もなかったので通り過ぎ再度戻ってきた。ブロック塀で囲まれた広い敷地内の一角に鳥居と祠のみがあった。傍に説明板等がなく詳細は不詳。広い敷地の一角に建物があったが。南側の巡礼街道沿いに入口がある。かつてこの敷地に堂宇があったのか。巡礼街道弥勒院から国道255号の飯泉交差点から県道718号線(巡礼街道)を東へ走り帰路についた。JR東海道線の北側を走る直線道路である。巡礼街道は、国府津駅から下って森戸川を渡った富士見橋際交差点から飯泉観音の少し手前の飯泉交差点に至る2車線道路である。沿道には郊外型の大規模店舗が多い。熱海線(現在の東海道線)が国府津から小田原まで延伸される(1920年10月)以前は、国府津で下車した道了尊参りの講中が歩いて関本まで向かう経路にあたるため、巡礼街道、巡礼道と呼ばれていたと。以前から気になっていた街道名で今回のブログ作成でその由来を知った。15:15東華軒 ハローズ国府津店所在地:神奈川県小田原市国府津4丁目2朝、西湘バイパスを走っていてここ東華軒の弁当を買いたいと思い立ち寄った。JR国府津駅には外壁塗装?の足場が設けられていた。東華軒は明治21年(1888)7月1日構内で駅弁販売を開始(東海道本線初の駅弁とされる)。明治21年、竹の皮に包んだ握り飯から始まってから、100年余り、伝統の味を守りつつ、新しい味にも挑戦しつづけておりますと。この時間帯はほとんどの弁当が売り切れであった。残り少ない”焼き鯵寿司(540)”、”小鯵押寿司(1400)”を夕食用に購入した。帰宅後夕食の膳にこの二つの弁当が並んだのであった。懐かしい弁当で美味しかった。写真を撮り忘れアップできなかったのが残念である。この日の歩行数は、約8,000歩であった。 END
2026.07.01
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