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正規ルートの馬出門土橋 (めがね橋) を渡り小田原城の城内へ。3月30日(木) 11:50馬出門 (うまだしもん)写真左側の石垣は復元に際し真鶴のブランド石『小松石』。右側の石垣は石垣山城近くの県道の拡幅工事で発見された江戸城の石切り場『早川石丁場郡』から廃棄となる予定の石を取り寄せて利用している。馬出門から天守閣を見上げる。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられますと。馬出門馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。石垣と土塀で四角く囲んだ桝形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。小田原城跡 馬出門小田原城の大手筋(正面)に位置する、二の丸を守る重要な門が馬出門。小田原市の「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」で二の丸から本丸に至る往時の登城ルートの復元整備が行なわれていますが、平成21年に復元されたのが馬出門です。門をくぐると修景整備が行なわれた馬屋曲輪である。説明板の写真から「御用邸時代の馬出門」。馬出門桝形は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいう。小田原城跡 馬出門桝形馬出門桝形は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡って奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。明治34年(1901)に、二の丸一帯が皇族の御用邸となった後、関東大震災で石垣の大部分が崩落し、周囲の堀の一部が埋め立てられましたが、平成15年(2003)から整備のための調査を開始し、平成21年(2009)に復元整備を完了しました。石垣の復元には、安山岩を用い、馬出門の南側を真鶴産小松石、北側を江戸城の石丁場である早川石丁場で発掘され、記録調査後に廃棄予定であった石を使用しています。馬出門桝形(内側)から馬出門を振り返る。馬出門はそれぞれの控柱に屋根のつく『高麗門』という形式の門である。周囲の土塀には三角形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が1間(約1.8m)間隔で開けられ、流石に小田原城の大手口(正面)だけに、太平の世に建設されながらも実戦的な防備が備わっている。内冠木門 (うちかぶきもん) を振り返る。小田原城案内図現在地は「内冠木門 」辺り。小田原城小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)の稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。又、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。 昭和35年 (1960) 天守閣復興 昭和46年 (1971) 常盤木門再建 平成 9年 (1997) 銅門復元 平成21年 (2009) 馬出門復元 平成28年 (2016) 天守閣リニュアル 常盤木門SAMURAI館オープン 小田原城と銅門 (あかがねもん)銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋 (現在のめがね橋) から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。図は「江戸時代末期の小田原城絵図 (部分) 小田原城天守閣蔵」。内冠木門前から、銅門への住吉橋を見る。内冠木門の南側に馬屋曲輪。大腰掛跡 (おおこしかけあと)大腰掛とは、登城する人の待機所や番所として用いられた建物で、ここの大腰掛は、徳川将軍家が来た時に使われる特別なものでした。絵図(「文久図」)の記載や発掘調査の結果から、長さ12間(約23.63m)、奥行3間半(約6.89m)の建物であったことがわかりました。元禄16年(1703)の元禄地震によって倒壊、焼失し、以後再建されませんでした。発掘調査では焼土や焼けただれた瓦が出土しています。現在は、建物の範囲を表面表示しています。馬屋曲輪に聳えるソメイヨシノ。馬屋曲輪 二重櫓櫓台石垣馬屋曲輪 二重櫓 (うまやくるわ にじゅうやぐ)馬屋曲輪は、寛永10年(1633)に馬をつなぐ「馬屋」が設置され、寛永20年(1643)には、南東隅に2階建ての二重櫓が建てられていました。この櫓は、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊・焼失し、その後再建されましたが、明治時代に取り壊され、櫓台石垣も埋め立てられました。平成21、22年(2009、2010)に石垣復元工事にあわせて発掘調査が行われ、埋められた櫓台石垣が現れました。櫓台石垣の寸法は南北北約12.4m、東西約10.9mの長方形で、現存する石垣の高さは、約2.5mでした。また、櫓台には西側と北側にそれぞれ石段が付けられていました。発掘調査では、元禄地震で焼けた瓦が大量に発見され、記録にあった地震時の火災を裏付けることができました。また、ここには、樹齢100年を越える黒松が生えており、これらの根が石垣や石段の隙間に入り込んでいる状況も見られました。櫓台石垣と石段は、一度解体して、新たに石を補填して積み直され、馬屋曲輪の土塁内法石垣とともに復元されました。馬屋曲輪 二重櫓上から、北側の馬出門土橋 (めがね橋) を望む。馬出門土橋は小田原城正規登城ルート (正面入口) である。お堀端通りのサクラ並木が綺麗であった。めがね橋をズームアップ。馬屋曲輪 二重櫓上から馬屋曲輪を見下ろす。堀の南側に建つ建物は「三の丸小学校」、右奥に「スポーツ会館」。馬屋曲輪 二重櫓上にはテーブルがあり、手弁当を楽しむご夫婦。切石敷井戸跡 (きりいししきいどあと)切石敷井戸跡安山岩の円礫を積み上げ、上面に箱根山の溶結凝灰岩 (風祭石) の切石を敷き詰めた井戸です。外側は円形、内側は六角形に形作っており、六角形の井戸は特別な井戸であったと考えられています。徳川将軍家用の馬屋で用いるための井戸であったと考えられます。土塁に作られた「雁木 (がんぎ)」。 雁木 (がんぎ) 土塁の上に登るための階段で、鳥の雁が並んで飛んでいる様子が階段の形に似ているため、「雁木」と呼ばれています。箱根山の溶結凝灰岩(風祭石)で造られており、他にはあまり例がない斜めに階段が設置されていたというところが特徴的です。二の丸観光案内所の手前に、スモーキングエリア。二の丸観光案内所小田原ガイド協会が、城址公園内や小田原の観光スポット・史跡などをガイドします。小田原城址公園内ガイド、モデルコースガイド、期間限定の企画ガイドなど様々なプランをご用意しております。ぜひ小田原の魅力をご堪能くださいと。二の丸観光案内所の二階に「小田原城総合管理事務所」がある。二の丸観光案内所に貼られていた「第59回 小田原北條五代祭り」開催日:2023年5月3日 (水・祝)観光案内所内には鎧兜が陳列されていた。北条氏照公の兜「紅葉」(鉄製)。観光案内所の建物は、下見板張り、縦長の上げ下げ窓など、洋風の躯体を持ちながら、史跡の雰囲気を壊さぬよう、屋根は日本建築の意匠となっており、明治の初期の居留地等にあった、いわゆる擬洋風建築の部類に入るものと思われると。馬屋曲輪馬屋曲輪は、L字型を呈する独立した曲輪である。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、土塁の上へと登る雁木(階段)は、二重櫓両側(写真1)と南側土塁(写真2)の位置にあった。この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。曲輪の規模は、東西四十七間(約92.59m)、南北三十七間(約72.89m)であった。曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と「大腰掛」の二棟の建物を中心に番所、切石を配した井戸などがあり、南東隅には二重櫓があった(図1)。「馬屋」と「大腰掛」は「板塀」により繋がっており(円礫を用いた石列の位置)、発掘調査では、塀を境に表と裏では敷かれている石が異なっている様子が確認されている(写真3)。また、「住吉橋」の東に「住吉松」と呼ばれた名物のマツがあったが、幕末に失われた。なお、曲輪内にあるマツの内、4つ目垣のある老マツは古写真にも写る古木である(写真4)。馬屋跡・大腰掛跡馬屋曲輪の名前の由来でもある主要建物。古文書や絵図類を見ると、稲葉氏の時代には存在することがわかり、元禄16年(1703) 11月22日の地震で発生した大災で焼失した。発掘調査でも、この時の大事の痕跡が明瞭に確認されている。西側の建物が「馬屋」、東側が「大腰掛」である。「馬屋」は、現存する彦根城の馬屋を参考にすると、およそ14頭の馬を繋ぐことができたと考えられる。「大腰掛」は、「大腰かけ御番所」とも呼ばれる登城者の待機所であり、江戸城の「百人番所」(東京都千代田区)、二条城の「二条在番」(京都府中京区) のように番所でもあった。いずれも、寛永11年(1634)の将軍徳川家光の上洛に際し、小田原城が宿所とされたために整えられた特別な施設と考えられ、小田原城の重要性がうかがわれる。なお、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった。二重櫓櫓台寛永20年(1643) 12月26日付で、幕府より櫓新設の許可を経て作事が行われた建物である。絵図に描かれた二重櫓を見ると、雌雄の鯱瓦を乗せた上層の屋根は破風のない入母屋造り、下層は千鳥破風を伴う寄棟造りで、石落としを備えていたことがわかる。切石敷井戸円礫を積み上げた井戸で、表面は溶結凝灰岩の切石で装飾されていた。表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は、大陸より伝えられた特別な井戸とも言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。内冠木門、馬出門方向を見る。馬屋曲輪にマツが聳える。銅門 (あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復原されています。写真は説明板から「解体される前の銅門 (明治5年) 横浜市美術館蔵」。櫓門の屋根や土塀の傷みが激しく、小田原藩が城を維持できなくなった様子を示している。住吉堀 (すみよしぼり)住吉堀は、銅門と馬屋曲輪・御茶壺曲輪の間を仕切る堀で、寛永9年(1632)以降、稲葉氏による近世化工事で完成しました。大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後埋め立てられ、小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。昭和58年(1983)から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が堀全体で確認され、江戸時代の絵図と合致することが確認されました。また、絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を掘り残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面積みの石垣などが検出され、時代によって異なる堀の変遷が確認されました。住吉堀の石垣と堀の復元工事は、昭和63年(1988)から発掘調査と並行して、城絵図や発掘成果と整合させて行われました。また、平成2年(1990)に住吉橋を復元しましたが、銅門櫓台石垣を含めた石垣までの完成には、平成7年(1995)までの6年間を要しました。復元に際しては、関東大震災で崩落した石垣の石を使い、角石などの一部は、真鶴産小松石(安山岩)を新たに使用しています。住吉堀右側は内冠木門。住吉堀に架かる住吉橋。住吉橋、銅門桝形内仕切門をズームアップ。銅門 開門時間午前7時から午後9時照明時間 日没から午後10時まで住吉橋から銅門桝形内仕切門へ進む。住吉橋銅門桝形内仕切門と馬屋曲輪の間にかけられた橋。 平成 2年 (1990) 復元 平成30年 (2018) 改修12:10銅門桝形内仕切門内仕切門廻りの土塀には三角形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が開けられている。 ー 続く ー
2023.05.12
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久しぶりの小田原城の散策を開始。3月30日(木) 11:20小田原城案内図小田原城正規登城ルートの案内馬出門【高麗門】➔ 銅門【渡櫓門】➔ 常盤木門【渡櫓門】➔ 天守閣。馬出門【高麗門】 :二の丸馬出口を守る門。平成21年 (2009) 復元。銅 門【渡櫓門】 :二の丸の表門。平成9年 (1997) 復元。常盤木門【渡櫓門】:本丸の表門。昭和46年 (1971) 再建。天 守 閣 :昭和35年 (1960) 復興。平成28年 (2016) 改修。事前にGoogleマップで調べていた「蓮池辨財天」を訪れた。蓮池辨財天記大永2年(西暦1522年)蓮上院十三世住職亮海の勧めにより、北条氏康が江之島の辨財天を武運と住民の繁栄を願って此の地に勤請したのが起りである。辨財天は、須佐之男命の女神、多紀理比亮、市寸島比亮、田寸津比亮の三女神を役小角(修験道の創始者)が印度の女神辨財天の魂と霊覺し以後神佛習合の神、怨敲を滅ぼし、福徳宝を授ける神として信仰されている。江之島の辨財天は、源頼朝が武運の神として信仰し、北条時政は、参籠して奇瑞を豪り、龍の三鱗を授けられ家紋となし、小田原北條も三鱗を家紋となし辨財天を信仰した。連上院の口伝によれば、北條氏の要請により、天守に安置された辨財天の祈祷を毎月続けて来たが、徳川の世となるにおよび大久保家により祭典が執行され、明治維新以後は、護持者を失い、奇持者により数度うつり変わり、昭和28年石碑に記載された人々により、此の地に安置された。蓮池辨財天社所在地:神奈川県小田原市城内1鳥居の扁額「蓮池辨財天社」。鳥居を潜り階段を上ると正面に琵琶を抱えた弁財天。台座には「蓮池弁財天」。ズームアップ。鬱蒼とした中に石碑が建っていた。石碑には「辨天社再興之碑 小田原市長鈴木十郎書」と。鳥居の前を進むと小田原城の北入口へ至る。蓮池弁財天の後は、「正規登城ルート:馬出門【高麗門】」の正面入口へ行くことに。史跡小田原城跡 小田原城の北を守る蓮池この付近には、その昔「蓮池」と呼ばれた天然の池が広がっていました。南禅寺 (京都市) の東嶺智旺は、『明淑禄』(天文20年4月26日記) に小田原城の周りに「三方有大池焉 (三方に大池がある)」 と記しており、「蓮池」はその一部と考えられています。蓮池の中島には二代北条氏綱が移した江ノ島(藤沢市)の弁財天があり、「蓮池弁財天」として小田原城の鎮守でありました(『北条五代記』)。現在「蓮池弁財天」は、御用米曲輪北東土塁に祀られています。四代北条氏政は、永禄4年(1561)の長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(1569)の武田信玄を蓮池で迎え撃っており(『謙信公御年譜』巻七、「深沢城矢文」)、戦国時代には小田原城北側の重要な防衛戦であったと考えられいます。江戸時代になると、南側の御用米曲輪との間を堀で区画したL字型の弁財天曲輪(勘定所曲輪)・焔硝曲輪が整備されます(図2)。これにより、弁財天曲輪からの侵入者に対しては城内から横矢(側面攻撃)を仕掛けられる状況を作り、防御力を強化しています。弁財天曲輪からは幸(裏門)橋を渡り、小田原城の搦手口(裏門口)へと至りますが、大手口(馬出門・銅門)が将軍家用であったのに対し、裏門口は多くの小田原藩士に利用されました。左 (図1) 現在の小田原城案内図 右 (図2) 「文久図」に描かれた蓮池弁財天通りに立つ「小田原城正規登城ルート (正面入口) ← 約300m」の案内板。弁財天通りに立つ石柱には「史跡 小田原城址」。弁財天通りの奥には「二の丸広場」。国指定史跡小田原城跡 指定日 昭和13年8月8日弁財天曲輪跡江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。小田原城東側の、お堀端通り。小田原かまぼこ通りと小田原宿なりわい交流館の案内。お堀端通りのソメイヨシノが満開になっていた。多くの観光客が訪れていた。国指定史跡小田原城跡 二の丸東堀小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています。二の丸の堀は、二の丸馬屋曲輪の二重櫓を南東角として、東西に伸びている二の丸の南側の堀と、南北に伸びている二の丸の東側の堀で構成され、藩主の居館や行政機関がおかれた二の丸と、武家屋敷などが広がる三の丸とを画しています。二の丸の東側の堀は、本丸や二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、二の丸東堀を中心に、馬屋曲輪東堀や弁財天東堀から成り、堀幅は最大で約40mの規模がありました。堀は後世に埋め立てられたため、この看板が立つ場所もかつての堀の中に位置しており、看板に向かって左側の水堀が右側に約60m(交差点付近まで)伸びていました。二の丸側に見える石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右下の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果、二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。二の丸東堀沿いにサクラ並木。満開のサクラを見上げる。堀に朱色の「学橋 (まなびばし)」が架かる。お堀端通りのサクラ並木。小田原城正規登城ルートでない学橋にも多くの観光客。ここ学橋手前にも「小田原城正規登城ルート (正面入口) 約100m」 の案内板。正規ルートでないが多くの人が渡っていた。この学橋が最初にできたのは昭和4(1929)年のこと。市立の城内小学校が二の丸に移転した際に竣工しました。この橋を渡ると小学校があったことで、「学橋」と名付けられました。その小学校は平成4年に移転してしまいましたが、橋だけは今も残っていますと。朱色の橋のため撮影のアクセントになっていると。朱色の橋に「学橋」と。学橋から二の丸隅櫓を望む。学橋からお堀端通りのサクラのトンネルを進み馬出門土橋へ。お堀端通りから、二の丸隅櫓、二の丸広場のサクラを望む。サクラの裏側に小田原城正規登城ルート (正面入口) の馬出門がある。この辺りからは天守閣も見えるので多くのカメラマン。二の丸広場への学橋。かつては二の丸にあった市立城内小学校の子供たちが渡った橋である。朱色の学橋をズームアップ。二の丸東堀の水面にはカモが悠々と泳いでいた。サクラの間に天守閣が聳える。天守閣をズームアップ。最上階には多くの観光客が見えた。ズームアップ。お城のお濠にはボートが浮かぶがここ小田原城には無い。馬出門土橋から二の丸隅櫓を望む。馬出門土橋手前に、← 小田原城 大手登城口小田原城正規登城ルート 馬出門・銅門 常盤木門・天守閣馬出門土橋左に立つ説明板『国指定史跡 小田原城跡』小田原城の歴史小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には周囲9kmにわたって、堀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展しました。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として、天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されます。小田原城は中世の城と近世の城が同じ場所で重複して存在する城郭であることが特徴といえます。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、二の丸内は、皇族の御用邸になりますが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉堀や銅門、馬出門、御用米曲輪の復元整備が進められています。小田原城の歴史年表応永24 1417 鎌倉公方・足利持氏が大森氏に小田原を与える。明応9 1500 伊勢宗瑞(北条早雲)、この頃までに小田原に進出。永禄4 1561 長尾景虎(上杉謙信)、小田原城を攻め城下に放火。永禄12 1569 武田信玄、小田原城を攻め城下に放火。天正18 1590 豊臣秀吉、小田原に侵攻 北条氏直、総構で大軍を防ぎ、長期戦の末に開城 その後、徳川家康の家臣 大久保忠世が入城。慶長19 1614 大久保忠隣改易、小田原城破却元和5 1619 阿部正次が入城。寛永9 1632 稲葉正勝が入城、近世化工事が進められる。寛永10 1633 寛永地震により、小田原城、城下町に甚大な被害。延宝3 1675 この頃、稲葉正則による小田原城近世化の改修が完了する。貞享3 1686 大久保忠朝(忠隣の子孫)が入城。元禄16 1703 元禄地震により、天守など倒壊・焼失宝永3 1706 天守再建天明2 1782 天明地震により、天守が傾く。嘉永6 1853 嘉永地震により、石垣など崩れる。明治3 1870 小田原城廃城、天守など売却され、解体される。明治34 1901 小田原城内に御用邸が建設される。大正12 1923 大正関東地震(関東大震災)により、石垣など崩落、御用邸が廃止される。昭和4 1929 小田原高等女学校・小田原第二尋常高等小学校建設。昭和9 1934 隅櫓復興、この頃までに二の丸堀に石垣が積まれる。昭和25 1950 小田原こども博覧会が開催され、動物園、こども遊園地が開園される。昭和35 1960 天守閣復興。昭和46 1971 常盤木門再建。平成9 1997 銅門復元。平成21 2009 馬出門復元。平成23 2011 馬屋曲輪整備。平成28 2016 天守閣平成の大改修。主な城主北条氏直(1562~1591)、大久保忠世(1532~1594)、稲葉正則(1633~1696)。馬出門土橋から学橋を望む。馬出門土橋を渡り、馬出門 (うまだしもん)。平成21(2009)年に復元された馬出門。馬出門前の広場から二の丸東堀沿いのサクラ並木。堀に垂れ下がったサクラ。一本のソメイヨシノは満開に。二の丸東堀に架かる学橋を望む。多くの人が渡っていた。11:50向かい側の二の丸広場に建つ二の丸隅櫓廻りの満開のサクラ。二の丸隅櫓は昭和9(1934)年に復興された。 ー 続く ー
2023.05.11
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今年はいろんなところの桜見物に訪れたが、最後は久しぶりに日本100名城の小田原城へ。東海道本線にも久しぶりに乗車、小田原駅へ。3月30日(木) 10:20愛車のリンちゃんを茅ヶ崎駅への途中にあるイオンスタイル湘南茅ヶ崎へ駐輪。駐輪は有料で24時間で100円。駅まで5分程度の距離にある。今年何度も撮影したミモザ。ミモザの花言葉は、「感謝」「友情」「秘かな愛」「エレガンス」である。Noodle Works (ヌードルワークス)所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町2-15 リンク湘南茅ヶ崎駅への途中にあるラーメン店で、市内人気度ナンバーワンで開店前にはいつも行列になっている。九州系のラーメンで、とんこつ+細麵+硬さ指定+替え玉可である。替え玉注文時にはスープも足してくれる。茅ヶ崎駅北口。二階コンコースは南北の連絡通路になっている。茅ヶ崎駅からの乗車は新型コロナの関係もあり数年ぶりではと。熱海行き 普通 10:29に乗車。茅ヶ崎駅のプラットホームにはまだホームドアは設置されていなかった。10:55小田原駅へ到着。現役時代には関西方面への出張時に新幹線への乗り換えで良く利用した。三階改札口。出口の天井には大きな小田原提灯。かつての「相州小田原停車場」の写真。改札口を出ると、左側:西口、右側:東口と。今まで小田原駅は東西に建っていると思っていたが、地図を見ると北東から南西方向へ。改札口は三階にあり東口へ向かう。東口は海側で、箱根方面へのバス発着場があり、今日の目的地小田原城も。大きな小田原提灯を見上げる。小田原駅の東口は近年開発されており初めての下車である。駅ビルも「ラスカ小田原」、地下街の「HaRuNe 小田原」、南には「ミナカ小田原」が完成。三階のコンコースにあるステンドグラス。この左下からエスカレーターに乗り二階へ下りる。二階のペデストリアンデッキに出ると、二宮尊徳 (金次郎) (1787 ~ 1856)郷土の偉人、二宮尊徳(金次郎)は、今の小田原市栢山に生まれ、少年時代に両親を亡くして苦労しましたが、それを乗り越えて立派に成人し、後に栃木・茨城・福島・神奈川など各地で多くの村の復興に尽力しました。また「どんなものにも徳がある」「譲って損なく奪って益なし」など、たくさんの教訓を残して、今でも多くの人から尊敬されています。祝 小田原市制八十周年 令和二年十二月吉日 小田原報徳実践会台座には、二宮金次郎生誕のまち小田原一七八七年に現在の小田原市栢山(かやま)に生れ一八五六年に栃木県今市市で没。 平成十三年十月二十日 建立東口のペデストリアンデッキから南西方向に小田原城が見えていた。ペデストリアンデッキにある観光案内板。小田原市全域案内図小田原城中心の案内図。今回はこの辺りを巡ることに。城下町 小田原「家康と小田原北条氏」シンポジウム場 所:小田原三の丸ホール日 時:2023年5月3日 (水・祝) 12:20 ~ 15:40ペデストリアンデッキから東口ロータリーのバス発着場を見下ろす。このスペースは以前と同じ広さでは?。駅前から南西方向へのお城通りを見下ろす。右側には新しい「ミナカ小田原」。ズームアップすると小田原駅駐車場の建物が小田原城の全景を損なっている。天守閣の最上階には多くの観光客が登城していた。東口のペデストリアンデッキからラスカ小田原を見る。お城通り沿いの建物は江戸時代の雰囲気を醸し出している三階建ての建物。お城通りに下り、駅ビルを振り返る。ミナカ小田原は、小田原市の小田原駅東口の南方、小田原城址公園へと向かう「お城通り」沿いにある半公共的な複合商業施設。2020年12月4日に開業。万葉倶楽部が運営しており、グループ傘下にある箱根の温泉旅館・天成園も「小田原駅 別館」として施設内で営業している。お城通りに立つ石碑には「日向屋敷 (ひゅうがやしき)」。地名の由来は、慶長十九年(1614)小田原城主大久保忠隣が改易となった時、その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった。道路沿いにはサクラ、ハナミズキが植えられていた。町並みの一角にはコンビニの「LAWSON」が営業。LAWSONの二階には「小田原おでん○店」が営業。お城通り沿いに立っていた説明板。小田原城三の丸元蔵跡第Ⅱ地点・三の丸元蔵堀第Ⅱ地点の発掘調査この地は、小田原城三の丸の北側に位置しています。平成25年(2013)11月から平成26年3月にかけて発掘調査が行われ、奈良時代の竪穴住居址5軒、戦国時代~江戸時代のの3条の障子堀や井戸などの遺構、縄文土器、弥生土器、奈良時代の土師器・須恵器、戦国時代~江戸時代の陶磁器などの遺物が検出されました。南側調査区の元蔵跡第Ⅱ地点では、北側から南側へ傾斜する緩斜面上に・・・後略道路脇に地名碑の「元蔵」が立っていた。小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城外の北方に新しく元蔵が建設され、これを「新蔵」と呼んだ。そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と呼んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。松本驛長殉難碑所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目6-12事前にGoogleマップで調べていた碑で、お城通り沿いに立っている。この碑は台風で殉職した小田原駅長のための石碑である。碑文は文藝春秋の創立者である菊池寛が寄稿したものであると。松本驛長殉難碑鐵道旅行の利便と幸福とを受くる方々はどうぞこゝに一度は足を停めて鐡道旅行の安全のためにさゝげられた犠牲の一人松本驛長の事を考へて下さい。昭和十六年七月二十二日暴風雨の夜松本驛長は當小田原驛附近の支障現場を再三視察中烈風豪雨の暗夜とて不幸足を取られて陸橋下に墜落重傷を負い遂に再起されなかったのです。それは戦場の死に見るやうな華ゝしさはありませんが職務に忠誠なるわが國鐵道職員の魂がはしなくも火花を散らした美しくも貴い死だと云わねばなりません。この貴い殉職は三十八萬鐡道職員の胸にいな常に鐡道を利用する一般國民の胸にも永く永く傳へねばならないことだと思はれます。 昭和十七年七月 菊池 寛 小便小僧 ニコット所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目6-12松本驛長殉難碑のすぐ南側のJR東日本敷地内にある小便小僧。この像は、小田原駅「旧駅舎」の入口横にあった像で、小田原では「ニコット」という愛称で呼ばれていたと。新駅舎ができ転々としここに落ち着いたと。そういえば昔旧駅舎で見たことがある、隣の丹頂鶴の口元には魚があったようだが撮れず。お城通りの歩道のタイル。東海道本線の跨線橋青橋辺り。11:20小田原城案内現在地は「北入口」。天守閣の開館時間を延長します。◆ 期 間 / 3月25日~4月9日◆ 開館時間 / 午前9時 ~ 午後7時(最終入場は午後6時30分 ー 続く ー
2023.05.10
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引き続き、今年最後の茅ヶ崎小出川沿いのサクラを追い上流へ。3月29日(水) 14:10また来ました新鶴嶺橋手前の枝垂れ桜が満開になっていた。今年最初に訪れたのは3月15日(水)で、まだ一部が咲いていた程度であった。開花を始めてから2週間は目を楽しませてくれる枝垂れ桜である。満開の枝垂れ桜。そろそろ葉芽も出始めていた。小出川河川敷の菜の花も終盤に。遊歩道脇のツバキも満開になり散り始めていた。枝垂れ桜の横で花桃も綺麗に咲いていた。咲き分けの花桃。ズームアップ。新鶴嶺橋を背景に枝垂れ桜。鶴嶺通りの新鶴嶺橋の上流側のウメは既に葉芽になっていた。今後ウメの実の収穫はあるのか。ドウダンツツジが咲いていた。釣り鐘状の花をズームアップ。秋には赤く紅葉するドウダンツツジである。上流に浜園橋、数年後には新しい橋に架け替えられる。ここから上流側は浜園橋を渡り西側へ。小出川の西側堤に植えられた萩園橋までのサクラ並木である。3月15日(水)に訪れた時の蕾はまだ膨らみ始めであった。サクラの木の横に立札があった。植栽日:平成20年(2008)3月2日植栽してから既に15年を経て幹回りも50センチはあるか?今年のサクラの開花は早く満開に近い。枝をズームアップするがまだ開花前の花もあったが数日で開花。上流側に萩園橋。菜の花を背景にソメイヨシノが映える。今年の春先はコロナもようやく終結?し近郊のサクラを楽しんだ日々であった。萩園橋の上流では早咲きの河津桜を楽しんだ。座り込んでのんびりとBQQでも楽しみたいが。下流側の遊歩道には愛犬と散歩、家族連れも。ズームアップ。植栽後15年で ”胴吹き桜” も。ソメイヨシノを見上げる。オオシマザクラが満開になっていた。ズームアップするがオオシマザクラであったか。葉芽が無いのでソメイヨシノか。更にズームアップ。この日は春休みで広場では家族連れが花見を楽しんでいた。下流側を走る新湘南バイパスの高架橋。萩園橋から下流のサクラ並木。この景観も植栽をされた「萩桜会」メンバーの管理で保たれているようだ。ズームアップ。萩園橋から上流は東側を進むことに。小出川の河津桜は青々と。帰路の途中にあった畑にはネットが張られ中ではナシの花が開花していた。梨は隣町の寒川町で多く栽培されているが茅ヶ崎でも。千ノ川に架かる北茅ヶ崎橋から上流側に咲くソメイヨシノも満開。千ノ川の上流を望む。この辺りの川幅は広いが、上流に見える一里塚北通りに架かる千ノ川橋から上流側は狭くなる。垂れ下がるソメイヨシノをズームアップ。左側は茅ヶ崎市立円蔵小学校。満開のソメイヨシノが川面に映える。15:10地元の年配者が集まり、満開の桜の下で花見、宴会中。このシリーズは茅ヶ崎市内の桜の開花状況を追いました。あと、今年のサクラは3月30日(木)に訪れた「小田原城のサクラ」です。 END
2023.05.09
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大型連休の後半が始まった3日、県内で様々なイベントが開かれた。ここ小田原城は3月30日(木)に桜見物で訪れており、その時5月3日に「小田原北條五代祭り」が開催されることを知った。新型コロナウイルスの対策が緩和されたこの日は天気も良く電車に乗り訪れた。なお、今回はダイジェスト版ですので、詳細は後日アップ予定です。5月3日(水・祝) 10:02電車は熱海行きで車内は大型連休で満席状態であった。小田原駅に到着、改札口には多くの人が。11:05時間があったので市内を散策後、二の丸広場へ。広場ではオダワラオープンマルシェが開催されており多くの人がキッチンカーの前に行列。銅門広場の隅で出番を待つ七頭の馬。後方は銅門。小田原北条氏誕生500年記念事業「第59回小田原北條五代祭り」のポスター。パレード時間は13時30分~15時20分頃。今年は2代氏綱が伊勢から北条に改姓し、小田原北条氏となって500年。12:10内冠木門南側の馬屋曲輪には多くの観光客。馬屋曲輪で出陣の撮影を準備するカメラマン。アームの先に取り付けられたカメラ。13:15国道1号の御幸の浜交差点。パレードはこの先のお堀端通りから来る。撮影ポイントを探しに国道1号を東へ進む。13:25本町交差点の小田原宿なりわい交流館の前に山車。パレードまで時間があったので、近くの伊勢屋でいなり寿司を購入して館内で食した。13:50食している間に先頭は既に通過急いで。撮影ポイントは”小田原宿なりわい交流館”の前にする。市旗を持った「ガールスカウト神奈川県第13団」。小田原観光大使 湘南ベルマーレフットサルクラブのメンバー。少年少女武者隊 小田原市子ども会連絡協議会少年少女武者隊 小田原市子ども会連絡協議会小田原 北條手作り甲冑隊北条五代観光推進協議会「北条五代」を大河ドラマ。14:03初代 北條早雲公隊早雲公に扮する「俳優 合田雅史さん」。出生は秦野市だが小田原高等学校を卒業、小田原ふるさと大使に任命されている。二代 北條氏綱公隊氏綱公に扮する「小田原市自治会総連合の?さん」。三代 北條氏康公隊氏康公に扮するのは女性の「はたちのつどい運営委員の?さん」。この女性の方は乗馬の経験があるのか?14:10いよいよ、四代 北條氏政公隊氏政公に扮する「俳優 高嶋政伸さん」。NHK大河ドラマ「真田丸」で北條氏政役で出演している。観客の声に振り向き手を振る高嶋政伸さん。馬は二人の先導で引かれている。この後、八王子城主 北條氏照隊、鉢形城主 北條氏邦隊が続いた。14:15五代 北條氏直公隊氏直公に扮する「俳優 柳沢慎吾さん」。出生は小田原市で、小田原ふるさと大使に任命されている。14:17馬上で観客の「慎吾!」の声で振り向き「今夜はいい夢見ろよ」の決めゼリフを叫んだ。14:47小田原宿なりわい交流館前でのパレードを見た後、急いでお堀端通りへ移動。氏政公に扮する「俳優 高嶋政伸さん」を再度見る、既に1時間以上乗馬しているのでは。お堀端通り沿いにも多くの観光客が待機。14:51氏直公に扮する「俳優 柳沢慎吾さん」を見るが、こちら側からは誰も声をかけなかったのか振り向くことはなかった。15:00お堀端通りを南下する「鳶行列」。帰路につく多くの観光客。小田原神輿連絡協議會。賀茂神社の神輿。松原神社の神輿4基ほど出た最後の松原神社の神輿。15:10パレード終了 横断幕ガールスカウト神奈川県西湘地区のメンバーが持つ。15:25家路につく観光客。5月4日(木)の朝日新聞の朝刊によると、北條五代祭りは、武者隊700人を含む約1,600人が約2.1キロのパレードに参加し、コロナ前と同じ規模の祭りが復活。祭りの人出は26万人で、2017年の25万人を超えて過去最高となった。詳細は後日アップしますのでよろしくお願いします。 END
2023.05.08
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浄見寺の帰路は一番交通量の少ないスリーハンドレッドクラブのコース内の道を選択。3月27日(月) 16:40緩い坂を上りコース内の道を南下。フェンス越しにコースを覗き込む。この日は休業日でコース上には人影がなかった。オープンしていてもこの時間帯には人影がないだろうが。亡き元首相安倍さんも好んだコースであると。コースの両側にはメタセコイア?並木。メタセコイアも大木になり樹齢は?。7番ホールのグリーン上を覗く。私も二度ほどプレーしたがスコアはどうであったか。7番ホール 380 Y. par 4 ティーグラウンド横に咲くソメイヨシノ。中に入りたいが関係者以外立ち入り禁止と。観桜会での地元民への開放はないのであろうか。満開のソメイヨシノ。高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼473スリーハンドレッドクラブの間の道を通り抜けると花の寺として有名な成就院へ。駐輪横に咲いていた ”ほうき桃”。いつも目を楽しませてくれる。本堂墓地への入口に聳えるオオシマザクラも満開になっていた。次回はナンジャモンジャ、ハンカチノキを楽しみに。16:50成就院前の畑に植えられたチューリップが満開になっていた。傍では農家直販の野菜も100円で販売している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3月29日(水) 13:15この日は昼食後小出川沿いのソメイヨシノの開花が満開であろうと、今年最後のサクラ鑑賞に愛車のリンちゃんで出かけた。小出川の下流から上流へのコースを選択。途中、茅ヶ崎中央公園へ。中央公園北側の桜並木。曇り空の中にサクラを見上げる。サクラトンネルの入口に「創立十周年記念植樹」とあるが。ソメイヨシノも満開を過ぎるとピンクを帯びてくる。遊歩道には飛び散った花びらが。茅ヶ崎中央通り南下すると茅ヶ崎駅へ。正面の東横INNホテルも完成間近である。第一カッターきいろ公園 (茅ヶ崎中央公園) の樹々も芽吹いていた。公園には春休みで新緑のもと親子連れが多い。秋には紅葉が見事であるが、月日の経つのが早く感じられるこの頃であるが!公園前の茅ヶ崎中央通り沿いにはサクラが植えられており、オオシマザクラも満開に。ズームアップ。露出を変えて撮影。花は露出を絞った方が輪郭がはっきりするようだ!中央公園から国道1号を西へ走り、南湖の左富士(鳥井戸橋交差点)から千ノ川を下る。エサを探すこの鳥はサギ?。この辺りは中島橋の手前で右側からの小出川と合流。下流側を東海道本線が走る。小出川に架かる中島橋。右上を新湘南バイパスが走り、南方向にはベルブリッジ。中島橋から右側(東)を上流へ上ることに。ソメイヨシノが植えられていたが満開に、ズームアップするとまだ蕾もあった。史蹟 旧相模川橋脚天然記念物 旧相模川橋脚前回は開花前の3月15日(水)に訪れたが満開になっていた。水面にはサクラの花びらが飛び散っていた。多くの方が訪れており、座り込んで宴会をしている人も。南側から国道1号側を望む。水面に映えるソメイヨシノ。カメラを右に振り。満開のソメイヨシノをズームアップ。幹回りが2~3メートルはあるであろうか老木のソメイヨシノ。レプリカの橋脚。国道1号を渡り振り返る。14:05黄色のカタバミが咲いていた。ズームアップ。 ー 続 ー
2023.05.08
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神明大神のサクラを追う。昨年も同じ日に参拝しており、詳細はその時のブログ「満開のサクラ」👈 をクリック願います。3月27日(月) 15:50二之鳥居の右側にマスクを取り外した狛犬 (阿形像)。左側の狛犬 (吽形像)。座の裏には「昭和十年九月」と彫られていた。後方に手水舎が建つ。神明大神社殿廻りのサクラは昨年と同じように満開になっていた。社殿前左側から。社殿前の狛犬は新しい。右側の狛犬 (阿形像)、後方には「神輿殿」が建ちサクラも満開。左側の狛犬 (吽形像)。社殿横のソメイヨシノを狛犬越しに見上げる。境内の東側から右奥に社殿、奥に手水舎、社務所を見る。右側は神楽殿。満開のソメイヨシノ。社殿の左側に聳えていたオオシマザクラを見上げる。オオシマザクラはバラ科サクラ属のサクラ。日本の固有種で、日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つ。成長が速く再生力が強く古来雑木林に植えられて燃料として多用されたことからタキギザクラの別名があるほか、葉が桜餅の葉に使われるためモチザクラとも呼ばれる(ウィキペディアより引用)。オオシマザクラをズームアップ。オオシマザクラとカンヒザクラが自然交雑して河津桜が生まれた。16:00境内の南側を新湘南バイパスが走る。高架橋下には住宅地があり防音対策で防音壁が設置されている。この後、北側にある「浄見寺」へ向かうことに。16:05浄見寺へのルートはスリーハンドレッドクラブ経由で行くことに。小出県道のスリーハンドレッド下の交差点。この急な坂を上りクラブハウス前へ向かう。クラブハウスへの坂道にはソメイヨシノが多く植えられており満開になっていた。歩いて登るのも厳しい坂だが、愛車のリンちゃんは電動アシストのため悠々と登れた。満開のソメイヨシノを見上げる。フェンスの中にはサクラが植えられ茅ヶ崎配水池がある。スリーハンドレッドクラブ所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼441昨年はクラブハウス前のこの枝垂れ桜を追ったが既に葉桜になっていた。この日は月曜日で休業日であった。昨年訪れた3月27日は満開であった。その時のブログは「満開のサクラ」👈 をクリック願います。コース脇のサクラは、オオシマザクラ。門扉は閉まっており、立ち入り禁止ゴルフ場内は私有地です。許可なく立ち入ったり、果実や花など植物を採る行為は犯罪です。また、ゴルフ場内は工作車両などもあり大変危険です。万一、事故が発生しても一切責任は負いません。 スリーハンドレッドクラブ 茅ヶ崎警察署16:20浄土宗 窓月山 浄見寺 (じょうけんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤4317昨年も同じ日に参拝しておりその時のブログは「満開のサクラ」👈 をクリック願います。逆光に映えるソメイヨシノ。旧和田家住宅所在地:神奈川県茅ヶ崎市市内堤3882浄見寺の前にある茅ヶ崎市景観重要建造物(第1号)の民俗資料館である。昨年も満開であった。山門前右側に建つ「大岡越前守菩提所」の石柱。今年は4年ぶりに大岡越前祭が開催される。開催日:4月29日(土・祝)、30日(日)タウンニュース 1月27日号より。当日は一般参加者も300円で参拝できると。今年は参拝したいものだ。山門を入ると正面に本堂。今日の目的はサクラであるので、参拝して境内の南へ。浄見寺の敷地南側にはスリーハンドレッドクラブが隣接、その境界に立つメタセコイア。ここには枝垂れ桜が二本植えられている。野鳥が枝へとまる。ズームアップすると「ジョウビタキ」か。枝垂れ桜を見上げる。木にネームプレートが無かったので名は不明。枝垂れ桜も満開になっていた。こちらはまた違う枝垂れ桜。ズームアップ。更にズームアップ。本堂左側に広がる砂の庭園。左奥にサクラの古木があったが今年の開花は少なかった。コケの中に水鉢。シャガが咲いていた。ツツジも開花前。黒みを帯びた赤いツツジである。芍薬もつぼみが膨らみ1週間もすると開花。浄見寺 本堂本堂の扁額「浄見寺」。本堂前に大きな巾着袋の浄財箱。本堂前から山門、左側には鐘楼が建つ。山門の入口側に掲げられている扁額は山号の「窓月山」。山門の境内側にも扁額「窓月山」が掲げられている。16:35山門前のソメイヨシノの並木も満開。昨年の27日も満開であった。 ー 続く ー
2023.05.07
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小出川沿いのソメイヨシノを追った後、昼食をとり千ノ川へ戻る。3月20日(月) 12:35このサクラは毎年綺麗に咲かせている枝垂れ桜である。この場所からは富士は見えない。いつも誰かが足をとめ携帯で撮影する枝垂れ桜である。樹齢はまだ10年ぐらいであろうか。まだ満開ではないようだ。小粒な枝垂れ桜であるが、ネームプレートが無いので名は不明。簾の様に咲く枝垂れ桜。別の方向から。14:45千ノ川沿いのソメイヨシノも咲き始めていた。かつてはこの辺りは千ノ川が溢れ度々床上浸水があったが、50センチ程の嵩上げ等の治水対策で解消した。咲いている枝を探しズームアップ。満開のサクラも良いが咲き始めのサクラも趣があるのでは。この遊歩道は夕刻になると多くの人がペットを連れてペット談議に集まるエリアでもある。遊歩道脇には芝桜も咲いていた。丘一面に咲き誇る芝桜も良いが。芝桜にはピンク色、白色、青色、縞模様、赤色とたくさんの種類があり、40種類以上販売している業者もいると。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3月22日(水) 11:25イオンスタイル湘南茅ヶ崎正面玄関前に植えられているミモザが満開に。ミモザはひときわ目を引く黄色である。満開のミモザ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この日は、茅ヶ崎のソメイヨシノも3月20日に開花し1週間経ったので満開であろうと、いつものようにカメラを持ち愛車のリンちゃんで出かけた。昨年も同じ日に訪れたがここしばらく訪れていないので北地区を訪れることに。3月27日(月) 15:25運動を兼ねてまず千の川沿いのサクラを追った。満開近くになっていた。ソメイヨシノの中に一本の枝垂れ桜。前回3月20日にも撮影したが満開状態を維持していた。サクラの色も濃くなり満開の枝。見飽きない枝垂れ桜である。満開になり色が濃くなったか。この辺りの千ノ川沿いにある300メートル程の桜並木である。50センチほど嵩上げされた擁壁である。茅ケ崎の開花宣言?の20日から1週間、満開間近のソメイヨシノ。千ノ川の下流方向を見る。遊歩道は片側だけで上流側のサクラの木は若木が多い。次に訪れたのは室田通り沿いにある、日蓮宗 妙行寺 (みょうぎょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目5-5寺号標石の側面には「妙法山妙行寺」と刻まれている。室田通りからの参道にはサクラの老木が数本聳えている。右側の石碑には「日蓮大聖人六百五十遠忌記念」と。山号は妙法山、寺号は妙行寺。開基は日蓮聖人の直弟子 六老僧の1人大国阿闍梨日朗聖人(1245年~1320年)。比企谷 妙本寺の末寺である。妙行寺は享保10年頃 (1725年) 室田の山本仁兵衛による草創と伝えられています。この時期に鎌倉小町より当地に移転されたと思われる。見上げると満開のソメイヨシノ。真新しい本堂。本堂は数年前の大雪の影響で雨漏りが発生し、調査した結果約100年ぶりの建て替えとなり昨年の5月14日に地鎮祭が行われ、今年3月末に完成すると(タウンニュースより)。再建に当って檀家の方が寄進されたのであろうが記念碑が楽しみだ。いつ竣工式が行われるのか。屋根瓦には山号の妙法山。サクラ切る馬鹿と言うが。境内の西側にある室田通り。サクラも老木になり「胴吹き (どうぶき) 桜」。そのサクラをズームアップ。某家の枝垂れ桜妙行寺の北側を横切る田村通り大山道沿いの枝垂れ桜。民家の庭先に聳え、満開を過ぎ花びらが散っていたが見事に咲いていた。タウンニュースの取材ネタになるような立派な枝垂れ桜である。路面は花びらの絨毯になっており満開から数日経っているようだった。散策をしていてたまたま見つけたが立派な枝垂れ桜である。15:50神明大神 (しんめいおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468民家の枝垂れ桜から新湘南バイパスの下を走り神明大神の境内へ。二之鳥居。昨年も同じ日に訪れ満開のサクラを堪能していた。社号標石には「相刕 赤羽根鎮座 神明大神」。神明大神の南側を走る新湘南バイパスの高架橋。神明大神の参道は上を新湘南バイパス、下を一般道が走るので分断されこの「神明歩道橋」が参道と境内を繋いでいる。神明大神の境内のサクラも満開であった。 ー 続く ー
2023.05.06
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今年もハマヒルガオの咲く時期になり、愛車のリンちゃんで午後茅ヶ崎の海岸へ向かった。昨年も5月3日(火)に訪れており、今年は例年より気温が高いので。5月4日(木) 14:35サイクリングロードの汐見台ウッドデッキから江の島を望む。江の島にはゴールデンウイークで多くの観光客が訪れているのであろう。江の島の沖には海上保安庁の「巡視船 いず PL31」。 いずは、海上保安庁の巡視船で2代目。阪神・淡路大震災の教訓をもとに、大規模災害発生時に現場指揮所となるための指揮通信設備や、被災地への救援物資運搬能力などを備えた「災害対応型」の巡視船として建造された。全長:110m、ソナー:超音波海中捜索装置、建造所:川崎重工業坂出工場、船種:3,500トン型巡視船(PL)、進水:1997年2月7日東海地震の発生率が30年以内99%からいつも待機している。砂浜ではこの平和を感じながら凧揚げに。また、汐見台ウッドデッキ周りでは多くのグループがBBQを楽しんでいた。西の柳島までは5.2km、鵠沼海岸までは2.5km。汐見台ウッドデッキの西側一帯の砂浜に咲いていたハマヒルガオ。ハマヒルガオ (ヒルガオ科)昔は5、6月になると、たくさんのピンクの花が砂山をおおっていたそうです。内陸に咲くヒルガオ、コヒルガオとの見分け方を観察するのも楽しみのひとつです。漢字名:浜昼顔ズームアアップ。説明板には昔は5、6月になると、たくさんのピンクの花が砂山をおおっていたと書かれていたが昨年も今年も5月始めには満開状態に、やはり地球温暖化か。コウボウムギとのコラボ。コウボウムギ(カヤツリグサ科)湘南海岸の優占種。砂の移動を和らげ、砂丘形成に役立ちます。地下の葉鞘を筆代わりにしたともいわれています。別称:筆草(ふでくさ)、漢字名:弘法麦江の島をバックに!いつもお世話になっております。こちらの砂浜には、ハマエンドウが満開になっていた。ハマエンドウ(マメ科)エンドウマメに似ることからその名があります。湘南海岸で減りつつある砂丘植物神奈川県の絶滅危惧Ⅱ類の甲虫・クロマメゾウムシの寄主植物。漢字名:浜豌豆よく見ると可憐な花である。サイクリングロード脇に雑草のように咲いていたが。現在放送のNHKの「らんまん」のモデル牧野富太郎も見たのであろうか。草むらの中にハマヒルガオの群生。シャリンバイ(車輪梅)この花木は大気汚染や暑さに強いうえ、潮風にも強い常緑性である。道路の緑地帯や公園などによく植えられている。光沢があり厚みのある葉が美しく、5月から6月には枝先に多くの白い花をつけ、秋には果実が黒紫色に色づく。この実を食べた鳥が我が家の庭に運び、今では花が咲いているのである。このような崖に生えていた。一昨年の新聞では「浸食されて群生地が狭くなっている」とあったがまだどうにか。だが一旦大きな台風が訪れると直ぐに浸食されて無くなってしまうのだ!シャリンバイとハマヒルガオのコラボ。15:05サイクリングロードを茅ヶ崎ヘッドランドへ戻り。イエローコンテナハウスには、裸の警備員が5~6人待機していた。砂浜には装甲車。救助用のボートであろうか。ヘッドランド沖には荒波に洗われる烏帽子岩。今日は釣り人はいるのであろうか。ウインドサーフィンを楽しむ人も風に乗り疾走していた。こちらのデッキでも多くの若者、家族等のグループがBBQを楽しんでいた。ここの西側100メートル程にトイレもあるので安心して・・・。サイクリングロードをサザンビーチ方向へ進む、箱根の山にも霞がかかり。この夏も花火大会が開催されるのであろうか。15:20サザンビーチでも多くの人がBBQを楽しんでいた。15:25今日の目的地「西浜中学校前」。ハマヒルガオはこの辺りから西側の「浜見平入口」まで約200メートルにわたって群生している。西浜中学校前から茅ヶ崎漁港方向を振り返るが、この日は風が強かった。砂浜の傾斜地に群生しているハマヒルガオ。満開のハマヒルガオ。西側の柳島方向の海岸にも荒波が押し寄せていた。このいつまでも継続するパワーを電源にはと思いながら無力な私には・・・。群生するハマヒルガオに潮風が押寄せていた。可憐な花は風にあおられていた。つぼみは咲き終わったものであろうか。ズームアアップ。いつも午後撮影に訪れているので、次回は富士が顔を出している早朝に訪れてみたい。妻が言うには「朝日を浴びてもう少し赤味を帯びているのでは」と。その光景が楽しみである。荒波をバックに。コウボウムギ。穂は実になり食用になるのであろうか?コウボウムギとハマヒルガオ。茅ヶ崎漁港、江の島をズームアップ。柳島方向の砂浜には二人の子供を連れ散歩に、御安全に!。ハマヒルガオはつる性多年草。日本全土の海岸の砂地に生え、砂の中に白色の地下茎を長く伸ばしてふえる。茎は砂の上をはい、なにかあれば巻きついたりして広がる。葉は互生し、長さ2〜4cm、幅3〜5cmの腎円形で基部は深い心形。厚くて光沢がある。葉腋から長い花柄をだし、先端に淡紅色の花をつける。花冠は直径4〜5cmの太い漏斗形。雄しべ5個と雌しべは花筒の中にある。苞は広卵状三角形で萼を包んでいる。さく果はほぼ球形で、黒い種子が入っている。花期は5〜6月とあるがここ茅ヶ崎海岸では5月始めには満開になっている。花の開花時期は長く5月末ごろまでは楽しめるのでは。次から次とつぼみを持っている。ハマボウフウが咲き始めていた。ハマボウフウ (セリ科)平安中期の延喜式に、「相模国」が献納していたことや屠蘇散に調合する生薬だということが書かれています。神奈川県に縁(ゆかり)の植物です。生薬:北沙参(ほくしゃじん)、漢字名:浜防風綺麗な砂浜から芽を出しているハマヒルガオ。サイクリングロードの「西浜中学校前」から西側の「浜見平入口」へ移動。サイクリングロード脇にリンちゃんを駐輪し海岸へ。茅ヶ崎漁港を振り返る。この辺りの海岸線は浸食されていると。15:50大きな台風が押寄せると浸食も進むようだが、いつまでもこの光景を残してほしいものだが。次回は午前中の早朝に訪れたいものだ。 END
2023.05.05
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この日も引き続き愛車のリンちゃんで市内のソメイヨシノを追った。3月20日(月) 10:35本社丘(ほんじゃがおか)所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑603-5住宅街の中にある史蹟で地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っているとのこと。古墳のような丘の上にサクラの木が十数本植えられている。鳥居は紙垂で飾られ、丘の上に新しい石祠が建っていた。本社丘 (ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(矢畑142番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前九年の役に向かう頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後三年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる。なお、別に江戸時代後期の地誌『新編相模国風土記稿』の浜之郷村鶴嶺八幡宮の項に「社伝に長承二年筑紫宇佐鶏足寺の僧が八幡本地種字の正体を奉じ来て祀る」との創建に関する記載もある。 平成二十四年四月 本社宮 総代 ソメイヨシノが咲いていた。これだと今年の茅ヶ崎の開花宣言は「3月20日以前」であったか。ズームアップ。本社丘は小高い丘になっておりスイセン、サクラの木が植えられている。小出川沿いの新鶴嶺橋の下流側に植えられている枝垂れ桜。上流側に架かる新鶴嶺橋。前回 3月15日(水)に訪れた時は一部咲いている程度であったが、この連日の暖かさで5日間で七分?咲きになっていた。ピンクが鮮やかな枝垂れ桜。この枝は五分咲きだが数日で満開になるのでは。ズームアップ。こちらの枝も明日には満開に。国道1号の下町屋橋から上流の萩園橋までの堤に、ウメ、枝垂れ桜、ソメイヨシノ、河津桜が植えられ愛車のリンちゃんでの散策コースになっている。同場所から下流側に架かる中原橋を望む。河川敷の菜の花は満開に、ところでこの菜の花の種子は上流から流れつくのであろうか。菜の花をズームアップ。新鶴嶺橋から上流へ進み、富士が綺麗に見えていた。前回は3月15日に訪れたがサクラの蕾はまだ膨らむ程度であったが、チラホラと咲いていた。先程訪れた本社丘でも数輪咲いておりやはり茅ヶ崎の開花宣言は「3月20日?」か。この日はチラホラと咲き蕾も大きくなっていた。ズームアップ。小出川の萩園橋から下流に植えられているソメイヨシノの並木。今年は気温が高いので一気に満開になるのでは。富士が見えていたので萩園橋を渡り東側の護岸へ移動。富士が綺麗に見えていた。萩園橋から東側の護岸を北上。対岸に「小出川河津桜会場」を見る。この辺りは生産緑地地区のため高い建物が無いのだが邪魔な電線が景観を・・・。小出川の東岸を上流へ進み新湘南バイパスの茅ヶ崎JCT。前方の護岸下に設備を発見。小出川の東側に広がる水田地帯。右上に新湘南バイパスの茅ヶ崎JCT料金所。この辺りも生産緑地地区になっているのか。田んぼの隅に設備を発見。設備の横に説明板があり、農村自然再生活動高度化事業「ビオトープ水田」休耕田に水を張ったり湿らせたりすることで、ドジョウなどの魚類や水生生物を生息させ、タゲリなどの野鳥の採食地をめざしています。 三翠会 (さんすいかい) (社)農村環境整備センター 西久保生産組合 茅ヶ崎市農政課 平成19年5月20日 設置南側に池らしきものがあった。今までは草が生い茂っていたので見ることができなかった。設備をズームアップするがこれ以上は不明。池にドジョウが生息するのであろうか。それを求めて野鳥が来る?。同場所から、対岸(西側)には咲き終わった河津桜の並木。小出川には多くのカモが泳いでいた。富士をズームアップ。上流側には圏央道の高架橋。県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋の下を抜け上流へ。漸くこの場所から富士が撮影できた。右側に大曲樋管。ズームアップするが鉄塔が景観を損なっている。この辺りでも河川敷に菜の花が多い。この設備は香川、円蔵地区の樋管であろう。小出川の河川敷に西久保堰、大曲橋を望む。河川敷に広がる菜の花畑。西久保堰所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保従来の堰はゲート式で、昭和初期に建設され2008 (平成20) 年まで現役の取水施設として稼働、西久保のシンボル的構築物であったと。現在の堰は河川敷にありその存在がわからない。堰の廻りは深くなっており魚が集まるので野鳥も飛来している。クチバシに小魚が確認できた。ズームアップ、サギの一種であろうか。西久保堰の新しい施設。建物の壁にあった銘板に、名 称 西久保堰取水工法 河川表流水取水工法ポンプ型式 連動抽気式横型水中モーターポンプ YMR-2510 2台取 水 量 15.132m3/min (1台当 7.566m3/min)取水ストレーナー AD-1500L-400-S 2基施工年度 平成18年度、平成19年度元請工事業者名 小澤建設工事株式会社 株式会社西浜工務店施工特約店 株式会社山産 東京支店見上げると茅ヶ崎JCT料金所。西久保堰は、表流水取水工法の取水堰で丸い二つの蓋の中にポンプがある。取水した水は圏央道の南側の水田へ送水すると。河童徳利ひろば所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲4丁目4-211-3ここの詳細は「茅ヶ崎の民話」👈 をクリック願います。ひろばにあったこれは西久保堰の一部であろうか、説明板が無いのが残念である。石碑には、西久保 堰竣工 起 工 昭和二十九年四月 竣 工 昭和二十九年七月 工 費 三百三十萬圓 縣會議員 添田良信 他にも9名の氏名 が刻まれている。コンクリート製の堰である。12:00出かけに昼食は外でとると伝えていたので吉野家で食事。食べてみてビックリ「キムチ牛サラダ」であったので当然ライスはなく。この日3月20日(月)は茅ヶ崎でのサクラ開花宣言であったのではと。1週間後にはサクラも満開に。 ー 続く ー
2023.05.05
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電動アシスト自転車 (愛車のリンちゃん) で花をもとめて動き回った2月に続き3月の市内散策です。3月15日(水) 15:50この日は小出川沿いのソメイヨシノを追い南下した。国指定史蹟 旧相模川橋脚所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目551-2旧相模川橋脚は、国道1号(旧東海道)沿いにあり大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡である。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定された。現在公開されているこの橋脚はレプリカで、本物は地中深くで保存されている。ここの廻りにもソメイヨシノが植えられているがまだ開花前であった。あと一週間もすれば咲き誇るのであろう。旧相模川橋脚、次に訪れる柳島八幡宮は既にブログアップしておりますので「茅ヶ崎市の寺社史蹟巡り-8」👈 をクリック願います。旧相模川橋脚から東海道本線を横切り南側へ移動。16:00柳島八幡宮所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目3-10境内には社殿の他、鳥居と梵鐘、狛犬などがあり、境内片隅には青面金剛や石仏群がある。尚、当神社には2度目の参拝である。拝殿前から境内を望む。境内には桜の木はなかった。柳島八幡宮拝殿。拝殿の彫刻。藤間家住宅所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目6-30柳島八幡宮の南側にある、市指定史跡である。この日は水曜日で休館日であった。ここも既に訪れており「茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りー9」👈 をクリック願います。開館日は金曜日と土曜日:9:00 ~ 16:00柳島スポーツ公園所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1300藤間家住宅から海岸へ向かい鉄砲道沿いにある、ランニングトラック、テニスコート、サッカー場のほか、カジュアルなレストランを備えた広大な公園である。鉄砲道を挟んだ柳島スポーツ公園の南側にある道の駅予定地のフェンスに貼られていた各種パネル。Choice!茅ヶ崎パン祭り 茅ヶ崎パン祭り実行委員会「パンに親しむ、パンを楽しむ」ことを目的とした茅ヶ崎のパン祭りです。茅ヶ崎といえば、「チガパン」と言われるくらいのブランドイベントに育てていきたいと思います。Choice!茅ヶ崎海辺の朝市 茅ヶ崎海辺の朝市会毎週土曜日のみ、午前8時から9時に茅ヶ崎公園野球場東側駐車場付近で開催されている朝市です。生産者と消費者が対面販売を通じて茅ヶ崎産の新鮮な農産物を購入できる場として、毎週末多くの方々で賑わっています。Choice!アロハシャツ CHIGASAKI 一般社団法人茅ヶ崎市観光協会茅ヶ崎のクールビズはアロハシャツで!姉妹都市協定締結5周年を記念し、作成した茅ヶ崎市観光協会オリジナルアロハシャツ。茅ヶ崎、ハワイをイメージしたデザインを取り入れています。Choice!生チョコスペシャルアイス 株式会社プレンティーズ選び抜いたフランス産の濃厚なチョコレートをアイスにし、生チョコとパリパリとした食感のチョコレートを混ぜて一度に3種のチョコが味わえる逸品。Choice!湘南名物茅ヶ崎メンチ 株式会社なんどき レストランなんどき牧場湘南名物茅ヶ崎メンチは素材、味付け、製法までとことんこだわり抜いた匠の造るメンチカツ。かながわフードバトル金賞、かながわグルメコンテストグランプリ、かながわグルメフェスタ金賞の3冠を頂きました。Choice!茅ヶ崎「海の和」食パン Breadstudio mog (ブレッドスタジオ モグ)茅ヶ崎の漁港でとれた魚を使って作られた魚醤 ”えぼしの雫” を加えた食パンです。潮の香りと旨味を味わえる和食に合う風味が特徴です。どんな方にも安心して食べてもらえるよう、国産の原材料を使用し、添加物不使用で作っています。Choice!茅ヶ崎ナンプラー えぼしの雫 欣ずし (きんずし)茅ヶ崎でとれた魚に、塩だけを加えて発酵させた旨味調味料です。無添加食品ですので、離乳食からエスニックまで幅広く色々な料理にお使い頂けます。Choice!認定品目ぞよ!!フェンスの中は道の駅になる。当初は令和4年3月オープン予定だったが新型コロナの関係で令和7年7月に延期となった。柳島スポーツ公園の柳島キッチン。マップはこの場所を起点に、自転車で10分、20分、30分エリアを示している。柳島スポーツ公園のご案内。施設の利用時間 クラブハウス 6:00 ~ 22:15 駐車場 6:00 ~ 22:15建物内には、湘南ベルマーレ茅ヶ崎 コンディショニングセンター 鍼灸炎整骨院自転車のBICYCLE SEO国道135号の柳島交差点が、県道46号線(産業道路)の起点となっている。柳島交差点の上に架かる歩道橋上から東方向。東方向には茅ヶ崎の浜見平を望む、正面下の三角点に新しい道の駅がオープンする。また、この先の交差点が鉄砲道の起点になる。右側は国道135号。道の駅予定地をズームアップ。茅ヶ崎市の道の駅は令和4年3月オープンに向けて事業に取り組んできたが、全世界的に新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、本市においても市民生活や市内経済へ多大なる影響を与えていることから、あらためて道の駅の整備工程を精査した結果、令和7年7月へとオープン時期を見直すこととなりましたと(HPから)。4月21日付けタウンニュースに、道の駅「湘南ちがさき」に決定したと!応募が多かった6案 (湘南茅ヶ崎、湘南ちがさき、ちがさき、茅ヶ崎、アロハ茅ヶ崎、ALOHAちがさき) による「決選投票」が3月1日から22日まで行われた。その結果、有効投票3310票のうち、39.5%に当たる1308票を集めた「湘南ちがさき」に決定した。今後のスケジュールは、今年度は設計業務、来年度に工事を実施し25年7月の開設を目指すと。北東方向に柳島スポーツ公園が広がる。西方向の平塚方向。右方向に富士が見えるのだが雲が厚かった。北方向には新湘南バイパスのベルブリッジ。16:30相模川左岸河口へ。西の空には雲がありこの日は夕陽が期待でなかった。また富士も顔を出していなかった。相模川河口の砂丘を見下ろす。荒い波の中砂浜に釣り人がいたが高波の心配はないのか。相模川河口の東側。いつもは水があるのだが砂浜が現れていた。遠く茅ヶ崎漁港の防波堤、更に奥に江の島。サイクリングロード脇に構造物が並んでいた。近くに重機があり消波ブロックを製作しているようだ。ズームアップ。多くの場合、設置される現地の近くで、金属製の型にコンクリートを流し込んで製造される。海岸線に転がる角型のテトラポット。16:35テトラポットには丸型、角型があるようだ。3月15日(水) 16:40サイクリングロードを東へ進み「浜見平入口」。この辺りには夏にはハマヒルガオが咲き乱れる。茅ヶ崎西浜海岸ここは7月17日(月)の海の日に4年ぶりの浜降祭が開催される場所である。当日は市内、寒川町の各神社から約40基の神輿が夜明けとともに参集する夏の風物詩である。まだ一度も見たことがないので今年は愛車のリンちゃんで訪れるか。茅ヶ崎西浜海岸ステージ所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖6丁目18-7浜降祭のときはここへ観光客は入れるのかどうか。4月7日付けのタウンニュースから。サザンビーチにある「SUN BY AIR」。テラス席もある若者向きのカフェ・喫茶である。メニューサザンビーチからヘッドランドの先に江の島。江の島をズームアップ。16:55サザンビーチからサザン通りを北上して帰宅。 ー 続く ー
2023.05.04
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時の過ぎ去るのが早くこのシリーズも1カ月以上前の「ヒロ散歩」です。地球の温暖化から今年のソメイヨシノの開花は全国で例年より約10日ほど早く開花した。2月は河津桜を追ったが3月はソメイヨシノを主に開花状況を追ったブログです。3月13日(月)庭に咲いていたハクモクレン。例年は3月末頃に満開になるのだが今年は中旬には満開になった。咲いている時は綺麗だが花が終わると花びらの掃除に。18:00玄関先から見ると西の空が染まっていたので急遽カメラを持ち富士が見える市立病院へ。既に日の入り後であったが富士の稜線がはっきりと見えた。18:12急遽愛車のリンちゃんに乗り、東にある生産緑地地区の赤羽地区へ向かった。どのような気候の時にこのような光景になるのか。富士の麓には雲が多くあったが上空の雲が赤焼けしていた。富士をズームアップ。日の入り後は上空の雲も赤焼けしていたのか。左側は金時山。18:23日の入り後約30分を経過したようで帰路に。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3月14日(火) 10:55イオンスタイル湘南茅ヶ崎いつも買い物で訪れるイオンの正面玄関前に植えられているミモザ。春先に咲く黄色の花で好きな樹木である。開花期が長くこのシリーズでも何度も撮影した。ミモザはギンヨウアカシアやフサアカシアなど、黄色い房状の花を咲かせるマメ科アカシア属の総称です。シルバーリーフと呼ばれる銀色がかったグリーンの葉が特徴的な半落葉~常緑高木です。本来の「ミモザ(mimosa)」はオジギソウの学名ですが、黄色の房状の花が咲くアカシアの仲間の呼び名として使われています。ミモザ(アカシア)は庭木としても人気です。銀色がかったグリーンの葉と、春先に咲く明るい黄色の花のコントラストが美しい樹木です。ただしミモザ(アカシア)は庭植えにすると非常に大きくなるので、植える場所を考える他に毎年の剪定が必要になります(ネットから)。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この日は天気が良かったのでいつものように愛車のリンちゃんで運動を兼ねて出かけた。3月15日(水) 14:55河津桜が咲き終わった「小出川河津桜会場」へ。この時期は河津桜以外の桜が咲いているであろうと訪れた。掲示板に貼られていたポスター花とともにくらす会の「会員募集」ポスター、年会費1000円。小出川の西側は散歩コースになっている。2月に追った河津桜も咲き終わり葉桜に。小出川河津桜会場の花壇にはクリスマスローズも植えられていた。クリスマスローズも満開になっていた。 ネームプレートが破損していたが「おかめ桜」と。おかめ桜も満開に。桜の木にネームプレートがぶら下がっていた。ネームプレートには「春めき桜 (足柄桜)」と。満開の春めき桜 (足柄桜)。ズームアップ。寒緋桜が満開であった。河津桜は咲き終わっていたが寒緋桜はまだ満開であった。15:15小出川の河津桜会場から小出川を下ることに。萩園橋から小出川の下流を望む。ここから下流の西側護岸にソメイヨシノが植えられている。高齢者の集団が「不法投棄防止パトロール」の旗を持ち巡回していた。護岸にはソメイヨシノが数十本植えらている。この日は3月15日であったがサクラの蕾が膨らんできていた。高齢者の集団が旗を持ち巡回。開花しているサクラを探すがまだこの日はなかった。護岸下には広場がありサクラが咲くと近郊の人が訪れるためベンチも用意。仮設トイレもある。サクラの木の横に立札があった。植栽日:平成20年(2008)3月2日植栽してから既に15年を経て幹回りも50センチはあるか?小出川を下り浜園橋上から「浜之郷樋門」。浜之郷樋門所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷今まで紹介しているが銘板があった。浜之郷樋門純径間×扉高 2.0m × 2.0m門 数 2門開 閉 速 度 0.3m/min.扉 体 重 量 0.85 t製 作 年 月 昭和59年7月製 作 株式会社田原製作所昭和58年度河川改修 (第一種) 工事工樋門工 2.0m × 2.0m (2連ボックス)直接基礎 鋼矢板Ⅲ型 L=9.0m施工者 株式会社小川工務店浜園橋から上流を望む。橋桁の基礎も完成し数年後には新しい橋が架かっているであろう。西側の護岸にソメイヨシノが植えられている。浜園橋から下流の新鶴嶺橋までの遊歩道脇は2月は梅の花が楽しませてくれた。ユキヤナギが満開になっていた。15:35花桃も咲き始めていた。ズームアップ。15:40新鶴嶺橋の下流側には枝垂れ桜が植えられている。一部咲いているサクラをズームアップ。下町屋ポンプ場近くにあるので排水溝か?。左側は新湘南バイパスの下町屋高架橋。15:45下流側に国道1号に架かる下町屋橋。 ー 続く ー
2023.05.03
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湯河原幕山公園の梅まつりの散策を続ける。3月8日(水) 15:05支柱に保護されたしだれ梅500本が咲くエリアへ。もう少し大木になっていることを期待してきたのだが5年ぐらいでは大木にはならない。しだれの白梅をズームアップ。おすすめ絶景ポイントの梅林最高地点は、開花状況が終盤で伊豆山神社で歩いたので取り止めた。梅林の最高地点方向を見上げる。幕山の頂上であろうか。梅林の最高地点への遊歩道を見上げる。梅林の傾斜地には岩が転がる。紅白の花が咲く梅林を見上げる。梅林は階段状に植えられている。梅の幹に下げられていたネームプレート。⑰ 十 郎 JYUROU 実梅 開花期が早いため冬期の凍寒害を受けやすい。梅の実は楕円形で小さく果肉が厚い。 また果皮が薄く色が淡黄色で見た目がきれい。梅の花は小振りであるので桜程の豪華さが感じられない。白い枝をズームアップ。実の収穫ができるのか。紅白の花が咲く、輪違い (別名:思いのまま) であろうか。菜の花も終盤になっていた。淡い紅色、紅色の花が咲く梅。枝先に咲く白梅をズームアップ。15:15管理棟の前に咲く整姿された梅。西日が当たり赤みを帯びる梅。紅のしだれ梅は残念ながら終盤であった。幕山公園の下流側 (東側) に広がる梅林。このエリアの上におすすめ絶景ポイントの梅林最高地点がある。ズームアップ。梅林には一本の樹が聳える。ズームアップ。憩いの広場から幕山の裾野を見上げる。梅林の下に花壇(菜の花畑)がある。一本の樹をズームアップ。梅林の奥にロッククライミングに格好の岩場を見上げる。新崎川に架かる幕山橋からズームアップ。その後方に広がる梅林。この日最高のビューポイントであったか。幕山橋廻りの紅白の梅を見上げる。新崎川に架かる幕山橋から上流側を見る。新崎川は清流で山女魚が釣れると。スローシャッターにして撮影。水の流れが雲海の如くに。幕山公園の入口にあったマップ。この辺りには幕山ハイキングコース、城山ハイキングコース、南郷山ハイキングコースとある。15:25幕山橋から幕山公園の梅林を見納め帰路についた。新崎川に沿って坂を下ると前方に東海道新幹線の新崎川橋梁。宮渡橋の道祖神所在地:神奈川県足柄下郡湯河原町道路の角地にあり賽銭箱も用意され、後方を東海道新幹線が走る。カーナビの案内でここを左折、宮渡橋を渡り真鶴駅方面へ。車中から撮影したので前列だけ見えたが後列もあり全部で10体あるようだ。県道740号線(小田原湯河原線)のこの交差点を右折して国道135号へ。真鶴駅前を通り抜け真鶴道路料金所。この日は渋滞もなく順調に合流。前方には相模湾。国道135号の前方に往路で上から見下ろした白糸川橋梁。16:10前方は国道135号の根府川交差点。往路はこの交差点を右折して県道740号線(小田原湯河原線)を根府川駅へと進んだ。国道135号の渋滞もなく順調に走り西湘バイパスの石橋料金所へ。16:40西湘バイパスの橘インタで遅い食事をとった。西湘バイパスの橘料金所この日は、根府川、伊豆山神社、幕山公園と歩きまわったので久しぶりに約13,000歩。 END
2023.05.02
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熱海市の東部にある潮音寺を後にして帰路の途中道路脇に「幕山公園の梅が見頃」の案内板があり折角であるので急遽立ち寄ることにハンドルを切る。3月8日(水) 14:25幕山公園駐車場所在地:神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1国道135号の幕山公園(梅林)入口交差点を左折して約4キロ山側へ入り、途中駐車場があったが梅林に一番近い第1駐車場へ駐車。湯河原駅からの直通バスも約15分でここまで来る。運賃はおとな290円。駐車場の先に受付湯河原梅林は「只今見ごろです」の表示。私にとって当梅林への訪問は4~5度目になるか。湯河原梅林 梅の宴期 間:2023年2月4日(土) ~ 3月12日(日) 【開園 9:00 ~ 16:00】 ※ 期間は開花状況により延長になる場合があります。入園料:200円(15歳以上 ※ 中学生を除く)駐車料金(1回) 普通車 500円・大型バス 2,000円” 梅の宴 ” 交通のご案内湯河原駅 ~ 湯河原梅林 直通バス約15分!! 運賃 おとな290円。幕山公園 (第1・2・3・4) 駐車場 普通車 ¥500 No.041282湯河原梅林 入園券 入園料 200円 No.144223湯河原梅林マップ園内のチェックは、 ① 柱状節理の奇岩絶景。 ② 額が青い珍しい梅の木です。川のせせらぎも聞こえます。 ③ 紅梅と白梅が一本の木から咲いています。 ④ 梅林最高地点:超おすすめ絶景ポイント。 ⑤ しだれ梅 500本、早咲き梅 150本。梅林の中を新崎川が流れるている。湯河原マップ新崎川に架かる幕山橋。幕山橋廻りでは許可を得ればバーベキューもできる。正宗(まさむね)屋敷跡と製鉄遺跡この地は古くから正宗屋敷跡と呼ばれ金山堂が祀られてきましたが、大正十二年に発生した関東大震災による壊滅的な被害を受け、大正十五年に瑞應寺地内の現在地に移転しました。平成十六年、この地を試掘したところ多量の鉄滓(てっさい)が出土しました。この鉄滓は放射性炭素年代測定法(加速器質量分析法)により西暦940年~985年頃(平安時代中期頃)の遺物と分析され、この地で古代製鉄が営まれていたことが分かりました。 平成二十二年三月吉日 湯河原町鍛冶屋金山講 湯河原町教育委員会幕山橋を渡ると案内板。⇐ 地場産品・特産物・飲食コーナー昼食をとっていなかったので何か食べたいと思い立寄ることに。入口の岩に「幕山公園」。幕山公園は新崎川に沿って造られた自然豊かな公園で、春には梅や桜、夏にはあじさい、秋にはキンモクセイ、冬にはサザンカなど、一年中花を楽しむことができます。その中でも梅は白梅、紅梅合わせて約4,000本もあり2月上旬から3月中旬に開かれる「梅の宴」ではさながら梅の絨毯のような光景が広がり、公園は梅の甘い香りで包まれ、例年多くの観光客が足を運びます。また、夜にはライトアップが行われ、暗闇に浮かぶ幻想的な梅の光景を楽しむことができます。また、4月からの半年間はバーベキュー利用も可能となる他、体を動かすにはうってつけのアスレチック施設も併設されているので、子供連れのファミリーやデートにも最適です。幕岩と呼ばれるロッククライミングに格好の岩もあり、連日多くのクライマーたちで賑わいを見せます と。お休み処の河津桜は葉桜になっていた。お休み処に売店が立ち並んでいた。お休み処の広場から紅白の梅が咲く山を見上げる。岩場をズームアップ。中央上部にロッククライミングに格好の岩がある。出店ブースでは飲食処、お土産物・地場産品などが楽しめ、温泉まんじゅう、焼き芋、お茶 他を販売していた。焼き芋は一本、600~800円?とあり割高感。食事は適当なものが無くここでの食事をあきらめ散策開始。湯河原幕山公園の梅は小田原の曽我梅林に比べ傾斜地に植えられているので趣がある。梅林の中に「湯河原梅林」と刻まれた石碑。この辺りの白梅の開花は既に終盤になっていた。立札には「四季彩のまち 湯河原梅林」と。ここでも菜の花が植えられ梅とのコラボを造形していた。句碑も立っていた。湯河原町在住の俳人で俳句結社「春野」の名誉主宰・黛執(まゆずみしゅう)さんの作品が刻まれた句碑建立の除幕式が2020年3月27日、湯河原町幕山公園で行われた。句会の会員らが集まり、建立を祝ったと(タウンニュースより)。句碑には「梅ひらく 一枝を水に さしのべて 執」。句碑の前から見下ろす。傾斜地を見上げるが白梅のエリアは終盤。紅梅も混在している。遊歩道には岩も転がっている。幕山という山があり、箱根火山の火山活動の一つとして、約15万年前の噴火で誕生した標高626mの山で、箱根ジオパークのジオサイトとして選定されている。頂上からは相模湾が一望でき、都会から近い手頃な低山ハイクの山として人気がある。柱状節理の岩壁はロッククライミングの練習場としてクライマーには知れ渡っている山である。梅の木も老木になっている。幕山公園の歴史は、昭和29年(1954)に崖崩れ防止と将来の観光スポットとするために植えたのが始まりで、以来年々増やし、平成に公園としての整備がなされ現在に至っている。その美しい様は「日本の美しい風景」の準百選にも選ばれている。白梅をズームアップ。幕山の裾野には28種約4000本の梅が植えられ、早春を彩る絶景ポイントとなっている。梅林内には蜜を求めメジロが飛びまわっていた。紅梅をズームアップ。遊歩道には大きな岩が転がっていた。岩に座り休憩している人もチラホラ。傾斜地の遊歩道に咲く梅。梅の幹に下げられたネームプレート。① 輪違い 別名:思いのまま RINCHIGAI (Alias:OMOINOMAMA) 花梅・野梅系・野梅性 1つの枝に白、淡い紅色、紅色、絞りの花がつく。 こちらには立札で、’ 輪違い ’輪違(りんちが)い。ウメの園芸品種。野梅系。花は八重。白や淡紅色に咲き分けます。バラ科。1つの枝に白、淡い紅色、紅色、絞りの花がつく輪違いであろうか。幕山の裾野を新崎川の上流側から下流側へ下る。幕山公園の東側 (新崎川の下流側)。支柱に保護されたしだれ梅500本が咲くエリアである。前回来た時から既に何年も経っているがまだ支柱に支えられていた。後方下にはお休み処に並ぶ出店ブース。満開のしだれ梅をズームアップ。しだれ梅の後方には紅梅も満開。紅梅の梅が満開に立札には「楊貴妃」と。’ 楊貴妃 ’楊貴妃 (ようきひ)。ウメの豊後系園芸品種。花は淡紅色で、大輪の八重咲です。バラ科。サクラにも「楊貴妃」があったが梅にもあるようだ。楊貴妃の花をズームアップ。更にズームアップ。咲き終わった梅のトンネル。梅の幹に下げられたネームプレート。⑫ 白加賀 SHIROKAGA 花梅・野梅系・野梅性 白い一重咲きの中輪。江戸時代から「加賀白梅」と呼ばれ親しまれてきた。 主に梅干用や梅酒用としてだが、鑑賞用としても栽培されている。 咲き終わった梅の幹に下げられたネームプレートには「鹿児島紅」と。⑨ 鹿児島紅 KAGOSHIMAKOU 花梅・緋梅系・緋梅性 濃い紅色をした八重咲きの中輪。花弁は波打たず平たい。 花は平開きし、雄しべも紅色になる。 15:05こちらのネームプレートには、⑱ 未開紅 MIKAIKOU 花梅・豊後系・豊後性 桃色をした八重咲きの中輪。 ー 続く ー
2023.05.01
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伊豆山神社の参拝を終え一路帰路についた。途中、Googleマップで調べていた神奈川県と静岡県の境にある寺社を巡ることに。3月8日(水) 13:35伊豆山神社から市道、十国峠伊豆山線を下り、前方は国道135号の伊豆山交差点。右角に熱海警察署伊豆山交番が建っている、この交差点を左折。伊豆山交差点の左側に大きな社号標石「伊豆山神社」の石碑が建っている。国道135号を湯河原方面へ進み、道路脇に石碑。石碑をズームアップするが「○○塔」としか確認できなかったが。熱海町稲村「万霊塔・関東大震災惨死者の慰霊碑」と旅友から。13:45国道135号を進むと海岸線を走る有料道路の熱海ビーチラインと合流する門川交差点へ。道路沿いに寺号標石「海光山 潮音寺 三界萬霊等」と。門川交差点を左折し右側の道を下り千歳川に沿って上流へ進む。その先に鬱蒼とした中に駐車場があり、左側には墓地。曹洞宗 潮音寺 (ちょうおんじ)所在地:静岡県熱海市泉12-1駐車場脇に「三界萬霊等」の碑が立ち並んでいた。中央に、西國三十有餘箇所、秩父坂東六十餘院「南無観世音菩薩供養塔」と。門柱の右側には「曹洞宗 開光山」、左には「相模国八十八ヶ所七番 潮音寺」と。山門を入ると左側に「御堂」が建っていた。扁額には「潮音寺」であろうか。内陣を覗き見る。祭壇の上にいろんな石仏が並んでいた。観音菩薩が立っていた。奥へ進むと本堂手前右側に寺務所。潮音寺の本堂本尊は釈迦牟尼仏。本堂の扁額「海光山」。本堂前に大きな石が配置されていた。境内には縁起や由来に関する記述が無かったので詳細は不明。境内の西側には墓地。山が迫り竹林が広がっていた。その一角に水子地蔵が立ち、左下には「聖観世音菩薩」の碑。社の中に着飾った六地蔵尊。六地蔵の社の左側の墓石には「奉納両國三十三所観世音菩薩○」。 右側に立つ墓碑には「奉納○○○○○○○菩薩」と。左右の墓石の字が判読できなかった。また、恐竜のおもちゃが供えられていた。本堂の西側は山が押し迫り竹林。本堂横から寺務所を見る。まだ午後2時頃だが陽が当たらないので薄暗い感がある。右下には石仏、石段には苔が生え古刹を感じさせる雰囲気である。小さなお地蔵様が慈悲ある微笑み。墓地の一角に尖った石碑があり、昭和四十四年と刻まれた「馬頭観音○」。国道135号からの参道脇に石仏が並んでいた。参道を南下、国道135号の門川交差点。寺号標石が立っており「三界萬霊等」と。寺号標石に沿って石仏が立っていた。寺号標石から見上げると階段の上に社が建っていた。山神社所在地:静岡県熱海市泉鳥居には注連縄が飾られており階段を上る。説明板が無く詳細は不明。鳥居には「安永二年 (1773) 己十一月建立」と刻まれている。1.5メートル四方の小さな社殿。両側には石祠。社の左側には風化した石祠。社殿前の高台から千歳川に架かる千歳橋を見下ろす。国道135号で千歳橋の中程が静岡県と神奈川県の境界になっている。橋を渡ると神奈川県湯河原町になる。潮音寺への途中にも社が建っていた。右下は千歳川。社には扁額もなく、Googleマップにも未記載で名もなき神社であるが。社の前に立っていた石塔、右側は壊れた「庚申塔」であろうか。潮音寺への参道から名もなき社を見上げる。参道脇に石仏が並ぶ。14:00潮音寺の駐車場へ戻り国道135号側を望む。この後、帰路についた。 ー 続く ー
2023.04.30
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伊豆山神社の参拝を続ける。3月8日(水) 12:20伊豆山神社拝殿拝殿の扁額「伊豆山神社」。拝殿前の境内に植えられている「梛 (なぎ)」。梛はマキ科マキ属に含まれる常緑高木。雌雄異株。日本の本州南岸、四国九州、沖縄、台湾、中国の海南島などの温暖な地方に分布する。梛 (なぎ)当神社「御神木」のひとつ樹木保護のため柵の中には入らないでください。梛の木の葉。針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つユニークな木なので、独立してマキ科ナギ属とされることもあります。拝殿前右側に「昭和天皇 お手植の松」が柵の中に。昭和天皇 お手植の松大正三年一月、当時皇太子であられた昭和天皇が御参拝の折、お手植えになられた松は見事な大木に成長しましたが、松くい虫の被害により残念ながら伐採されました。しかし、後にその松の種子が奇跡的に芽を吹き今に至ります。昭和天皇お手植の松の手前にも梛の木。幹の肌が特有である。拝殿前から境内を見下ろす。社殿の右側に「伊豆山郷土資料館」があり廻り込む。イタジイの木の手前に「征清軍凱旋記念碑」の碑が立っていた。イタジイの根が地面を覆う。イタジイに付けられた名札には、 「保存樹木 イタジイ (ブナ科) この樹木は緑を守るために保存するものです。 熱海市」と。伊豆山郷土資料館伊豆山郷土資料館開館時間:9:00 ~ 16:00休 館 日 :毎週水曜日 (祝日の場合はその翌日)入 館 料 :大人 180円/中高生 120円 (小学生以下無料)こちらの資料館も休館日、小田原の江之浦測候所も休館日で水曜日は要注意であるようだ。伊豆山子恋の森公園概 要 ◉ 所在地:静岡県熱海市伊豆山字水立地内 市内中心部より北約3km。 ◉ 面 積:9.1ha・標高:210 ~ 342m・入園無料。 ◉ 登山ルート ・下側は本宮経由で、伊豆山神社から伊豆山子恋の森まで40分。 ・上側の白山神社経由は子恋の森公園まで30分。白山神社 遥拝所本殿右奥にあり鳥居の手前には「天下泰平 疫病退散」の旗が立っていた。遥拝所とは、遠く離れた所から神仏を拝むために設けられた場所のことをいう。白山神社への登山口にある遥拝所。遙拝所と木の間が登山道。本宮までの参拝路遥拝所から白山神社まで約20分、白山神社から結 明神社まで約20分、結 明神社から本宮社まで約15分。遙拝所の横に立つ石碑には、「奉納 白山大神 ○○本社マデ二丁余」と。後方には大木のクスノキが聳える。末 社 白山神社御祭神 伊豆大神奇魂 (くしみたま)・菊理媛命 (くくりひめのみこと)例祭日 八月七日御由緒 伊豆山記、走湯山記によれば、聖武天皇天平元年夏、東国北条の祭主、伊豆権現 に祈願したところ「悪行のなす所、救いに術なし、これ白山の神威を頼むべし」 との神託があった、時に猛暑のころであったが、一夜のうちに石蔵谷 (白山神社 鎮座地) 雪が降り積もり、幾日たっても消えず、病にある者これをとってなめた ところ、病苦たちどころに平癒、よって社を創立せり。 古来、病気平癒・厄難消除の神としての庶民の信仰が厚い。 なお、社殿はこれより奥、山道を登って五百メートル余り、(徒歩約二十分) 石蔵 谷の岩上に社殿が鎮座する。登山道入口に立っている案内板。(白山社コース出発地点) 白山社・子恋の森公園・本宮社白山神社までは約五百メートル、約二十分とのことで頑張って登ることに。登山道入口に聳えているクスノキに付けられた名札には、 「保存樹木 クスノキ (クスノキ科) この樹木は緑を守るために保存するものです。 熱海市」と。登山をしている方がいないので体に相談しながら坂を上る。順調に進み途中振り返る、廻りは杉林、杉花粉の人は大変であろうが。坂道の途中に立っていた案内板には「スタート地点から8分、ここからしばらく平らです」と。願わくば「白山神社まで何メートル」と標示して欲しいが。平らな道が続くが右側は急斜面になっている。案内板に「白山社、すぐ! スタート地点から13から17」、英語表示があったが中国語はなかった。ハイキングコース 白山神社 ⇔ 伊豆山神社こちらの案内板には「白山社 白山社もう一息、行場跡」と。行場跡へ行くが所在がわからず途中で引き返す。引き返し登ると朱色の鳥居が目に入る。社殿下から見上げる。ハイキングコース 白山神社 ⇒ 伊豆山神社鳥居から岩場を登ると新しく塗られた社殿が建っていた。社殿は石蔵谷の岩上に鎮座している。予定通り20分で登ってきた。社殿は注連縄、紙垂で飾られ、榊が供えられていた。社殿に携帯を置き標高を調べると「標高 307メートル」の表示。社殿の横に立っていた案内板には「⇐ 子恋の森公園・本宮社」とあったが、下にあった案内板では所要時間は約35分とあった。白山神社から本宮社へ登り始め振り返る。崖下にあった鳥居を見下ろす。12:50白山神社から次の結明神社までは約20分、結明神社から本宮社までは約15分。結明神社方向を見上げるが人影もなく心配になり、ここで引返すことに。引返し点で下を見ると白山神社。13:06クスノキが聳える社殿裏の登山道入口。白山神社から、一気に約11分で坂道を下った。伊豆山神社の右側。本殿前に降り立つ。伊豆開山の三仙人日金山地蔵堂のさらに奥、木立が切れて笹原となる境い目に、伊豆山を開いた三仙人の廟所と伝えられる三基の石造宝篋印塔が並んでいる。伊豆山走湯権現の由来を記した『走湯山縁起』によれば、応神天皇二年(271)四月、相模国唐浜の海上に直径三尺の円鏡が出現したという。そのとき三十歳あまりの異国風の身なりをし、松葉を常食とし、松華仙人と呼ばれた人物が高麗山に神鏡を祭ったのが伊豆権現の発祥である。仁徳天皇の御代、松葉仙人によって神鏡は伊豆山に移され、勅命によって社殿を造立した。これによって勧請仙人とも呼ばれた。仁徳天皇七十一年(383)、巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現した。仙人は富士山の噴火や疫病を鎮めて霊験を表し、伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開いた。権現の神像はこの時初めて作られたという。敏達天皇四年(575)、大地震とともに金地仙人が現れた。そのころ、高麗より鳥の羽に書かれた読むことのできない図書が届けられ、権現は人の姿て現れてこれを読み解き、朝廷より所領が献じられた。孝徳天皇九年(653)、金地仙人も入定し、三仙人の廟窟が並立して設けられたという。現存する三仙人の石塔は、文化十年(1813)ごろ、般若院別当・周道によって、古い石塔を組み合わせて造成されたものである。仙人開山の伝承は、記される年代こそ空想的ではあるが、仏教公伝以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であったことを主張しているのであろう。なお称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、往古の富士登頂者として走湯山開山の仙人と似た金時・覧薩・日代の名が記録されている。『走湯権現当峰辺略本縁起集』では伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験霊場と考えられていたようである。末代上人と走湯山平安時代、初めて富士登頂に成功し、富士修験の開祖とされる末代上人(1103~?)は走湯山出身の僧であった。室町時代の成立と見られる『地蔵菩薩霊験記』の日金山地蔵の記述によると、富士山を開いた末代は、伊豆・箱根二所権現をも草創し、焔熱を発して地獄の様相を示していた熱海の亡者を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置したという。近年発見された金沢称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、末代上人は駿河国の出身で、本名は有鑑。幼いころから出家して走湯山に入ったものの、出世を求める僧ばかりであったことに失望し、五穀を断ち、粗衣を常用して諸国の霊峰を踏破し、衆生を救う苦行の道を選んだ。ついには人跡未踏と考えられていた富士登頂(富士禅定)を発願し、同志の頼然とともに準備を重ね、大宮浅間(富士宮市浅間大社)の神官や山麓の住民に助けられて、長承元年(1132)閏四月十九日に初登頂に成功した。「末代聖人」の名は浅間大菩薩の護法童子から与えられたという。その名声は京都にまで達し、久安五年(1149)には鳥羽法皇に招かれて上洛、貴賤上下の人々が書写した如法大般若経を賜り、それを富士山頂に納めた(『本朝世紀』)。末代が開いた登山道は村山ロと呼ばれ、山麓に村山浅間社(興法寺)、中腹に往生寺(中宮・室大日)、頂上に大日寺が創建された。富士開山の末代は、没後村山浅間社の境内に大棟梁権現として祭られた。こうしたゆかりによって、中世を通じて富士山麓村山の地は走湯山領として存続した。近年、日金山に通じる「仏の道」三六~三七丁付近の山腹から、文化十一年(1814)に般若院主周道によって建てられた末代上人の供養塔(石造宝篋印塔)が発見され、江戸時代後期まで、走湯山においても末代上人が重要な先徳文として顕彰されていたことが明らかになった。 文 西岡芳文本殿廻りの左側の玉垣に掲示されていた案内板。伊豆山神社保存樹木位置図神域には11本あるようでその内6本が「ナギ」で、ほかに「コウヤマスギ」「クスノキ」が2本、「イシダイ」「アラガシ」と。案内板では13番まであるが、7、10番が無いので枯れたのか?「これらの樹木は、熱海市がみどり豊かな自然環境を守るため指定したものです大切に保存しま しょう。」と。 熱海市長左側(西)から拝殿前の境内を見る。左側から社殿を望む。社殿の西側に広がる駐車場。銅板葺きの建物は?、その左側に「勢興會神輿庫」が建っていた。本殿の左側に裏参道の鳥居が建っていた。鳥居の横に小さな社が建っていた。裏参道の鳥居に近づくと???。鳥居の柱に「奉納 小泉今日子」と。他の方が神社関係の方に「あのキョンキョンですか」と尋ねたら「そうです」と。しかし、奉納理由は教えてもらえなかったと。芸能関係者もいろいろと奉納しているようだが。続日本100名城で訪れた栃木県の唐沢山神社では「舟木一夫」が旗を奉納していた。正面の階段がきつい方は車でここまで来れる。この鳥居の扁額も「伊豆山神社」キョンキョンからのお恵みがあるのか!本殿前の左側に池があった。いろんな色のコイが泳ぎまわっていた。岐阜県関市板取にある名もなき池 (通称:モネの池) とは言えないが綺麗な池であった。インスタ映えであろうか簡易的な鳥居に大きなハートマーク「こころむすび」。鳥居の前には記念写真用でカメラ用の台が置かれていたが一人で撮るのも。社務所前から西側を見下ろすと東海道本線に特急踊り子号。左手前は悲惨な土石流が発生した場所であるが。西の山の中腹には「MOA美術館」。MOA美術館 は、静岡県熱海市にある私立美術館。1982年1月11日に開館。岡田茂吉の収集品を収蔵展示、運営は公益財団法人岡田茂吉美術文化財団。 前身である熱海美術館は、1957年1月1日に開館。13:30二の鳥居、一の鳥居と潜り駐車場へ下りる。右側が下駐車場(約8台収容)、左側を上ると上駐車場(約30台収容)。◆ 上駐車場もご利用ください(大型バスは入れません)。一の鳥居横の駐車場にも「梛」が植えられていた。熱海観光案内マップ ー 続く ー
2023.04.29
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頼朝、政子ゆかりの伊豆山神社の参拝を始める。3月8日(水) 12:00神社前の市道から一の鳥居を見上げる。伊豆山神社は伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が、源氏の再興を祈願したと伝わり、頼朝からの崇敬が厚く、また頼朝と妻・北条政子の逢瀬の場であったとも伝わる。石碑の横にバス停があり多くの参拝客が待っていた。石碑には「神徳如天」。震災復興○格之碑大正十二年九月一日正午関東地大イニ震ヒ當社・・・後略 昭和四年三月二十五日一の鳥居横に、ここより約百七十段程の石段を上がると本殿に到着します。階段左側の坂道を登っても境内に行くことができます。本殿横にも駐車場があります。一の鳥居の横に駐車場。石造りの一の鳥居。折角であるので階段を登ることに。階段を上ると鋼製の二の鳥居。二の鳥居の扁額「伊豆山神社」。更に階段を上ると右側に建っていた「祖霊社」。祖霊社 (それいしゃ)祖霊社とは、先祖の御霊(みたま)をまつる社です。この社は、古来、関八州総鎮護と称えられた伊豆大権現 (伊豆山神社) に仕えた氏人の祖霊をお祀りしています。この祖霊社は、伊豆山の人々の守護神として景仰されており、例祭は、毎年春分の日・秋分の日の年二回斎行されています。祖霊社には多くの千社札が貼られていた。祖霊社から更に階段を上ると右側に「役の小角社 (足立権現社)」。末 社 役の小角 (おづぬ)社 (足立権現社・あしだてさん)御祭神 役の小角 (神変大菩薩)例祭日 七月一日御由緒 役の優婆塞(うばそう)ともいう。舒明天皇六年(西暦634)、大和の国葛木上郡に生 まれ神仏両道に渉り行を積み深く学を究め、孔省○法を修習、奇異の験術を証す。 また日本国中の名山高山を開き登り、修験道の祖とも、開山の祖とも仰がれる。 文武天皇の御宇、捕えられて伊豆大島に流されたが、昼は皇命を慎み、夜は飛行 の術を駆使し当伊豆大権現に飛び来て修行を重ねたと伝える。大島に在ること三年 大宝元年勅命を以って許され大和に還ったが遂に仙人と化って唐に渡ったと云われ る。役の小角隠れ給ひてより千百余年後、光格天皇の寛政十一年(1799)その神徳 を讃えられて神変大菩薩の神号を賜う。 当社は運命開拓の神なり、また古くから足の病に悩める者足腰弱き者、祈願致さば 神護を享けて強足になるという信仰があります。社の中を撮影 (写真がボケたためネットから)。役小角は、平安時代には「役行者」(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになり、亡くなってから千百余年後の1799年(寛政11年)には、その神徳を讃えられ「神変大菩薩」(じんべんだいぼさつ)の神号を賜った。「役行者本記」によれば、役小角は、その飛行術で江の島にも飛来したという。そして、江の島岩屋で最初に修行したのは役小角だという伝承があり、江島神社には自作という像が伝えられている。社の前に「熱海市指定文化財 木造役行者倚像」。役の小角から上り振り返る、左側に役の小角、階段下には二の鳥居、一の鳥居。階段の左側に「結明神社 (むすぶみょうじんじゃ)」。結明神社末 社 結明神社 (むすぶみょうじんじゃ)御祭神 結明神 (日精・月精)御由緒 結明神の本社は、子恋いの森公園上(七尾)むすぶ平に鎮座す、その里宮として是の 所に祀る、走湯山縁起によれば景行天皇の三十一年、久地良山(日金山)に大杉有り、 その中より一女一男が出生した。時に初島・初木神社の御祭神初木姫が二子をとり て養い育てたが、時を経ずしてたちまちに成長し、一女を日精と号し、一男を月精 と号した。後に二人は夫婦となり日金山に仕えて「伊豆権現氏人之祖」となったと 云う。 日精・月精その終没を不知(富士山)から神上がったと記されのちの人たちより結明 神として仰がれ祀られたと伝える。 御祭神は男女の縁結びを叶えて下さる神様で、古くは一名恋祭りと云う神事があり、 各地から集まった若い男女の参列を得て行われていたことが伝えられている。結明神社の前に桜が植えられていた。桜の根元のプレートには、伊豆山四五六櫻燦會 平成二十四年度伊豆山神社厄年奉賛会 多くの人の名前が刻まれていた 平成二十五年四月七日 記念植樹結明神社から階段を登り終えると正面に本殿。本殿前の境内には開花前の枝垂桜が2本であったか聳えていた。満開時の枝垂桜は見応えがあったのでは。階段を上ると右側に社務所。社務所前には多くの人が御朱印をもらっていた。社務所横の階段を八百二十五段下ると伊豆大神が湧き出させている走り湯があり約七十度の源泉が洞窟の中で沸いている様子を見ることができます日本唯一の横穴式源泉走り湯は洞窟内を自由に見学できます 車でも行くことができます御朱印 初穂料 500円、奉拝 初穂料 300円。社務所西側から見下ろす。左から国道135号、東海道本線、東海道新幹線が走る。この辺りが2021年7月3日に発生した「熱海市伊豆山土石流災害」場所であろう。早咲きの寒緋桜が満開であった。枝にぶら下がっていた札に「寒緋桜 台湾桜 緋桜 とも呼びます」。あたみ桜は「寒緋桜」と「山桜」の交配種です。ピンクが濃い寒緋桜。手水舎手水舎の水口は赤白の龍。赤白二龍の由来伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」(鎌倉期に成立) に依れば、当伊豆山の地底に赤白二龍和合して臥す。其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り、温泉の沸く所は此の龍の両目二耳並びに鼻穴口中あり(走り湯)。二龍精気を吐き、赤白海水に交わる、二色浦(熱海錦が浦の名の由来)は此を謂ふなり。赤白二龍は御祭神 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の隋神であり、赤は火を表し白は水を表す、火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神であります。伊豆山温泉散策マップ近郊の見どころが記載されていた。手水舎前から階段を数段上り狛犬(右側)。狛犬(左側)右側の狛犬の先に「頼朝・政子腰掛け石」があった。自分も腰かけたが写真は未撮影。頼朝・政子腰掛け石伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝候は、当伊豆山神社を崇敬した。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、当社で二人はむすばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せました。 伊豆山神社石碑には「伊豆山神社基本財産造成奉献記念碑」奉納者の氏名と金額が刻まれていた。朱の鳥居には「こころむすび」と書かれた扁額。鳥居には若者向けのハートのマークが付けられおみくじが多く結ばれていた。昨年の大河ドラマ用で作られたのか境内に掲げられていた。「今から八百四十五年前 この地で源頼朝、北条政子が結ばれ鎌倉の世がはじまりました。 伊豆山神社」伊豆山神社参道について当、伊豆山神社はその参道のほとんどが階段であることから「歴史の承認になりませんか」の呼びかけで多数の参加者により平成二十二年二月十四日に神社参道階段の段数調査が行われました。 記一、神社参道を、伊豆山浜から神社本殿前までとする。一、踊場の長短かかわりなく一段、段の高低にかかわらづ段のあるところは一段とする。一、宮下で横断する市道の段差は、階段としない。 中継ポンプ場横階段踊場 (起点) 走り湯神社 16段 宮下・市道 173段 国道 220段 市道 648段 鳥居前 657段 本殿前 837段調査参加団体 伊豆山神社宮司、伊豆山神社総代会、伊豆山連合町内会、熱海市議会議員有志、 その他 総勢三十名本殿前の境内右側に建っていた石碑には「騎兵第七十一聯隊記念碑」と。我が騎兵第七十一聯隊は當時我が國の生命線といわれた北邊防備の緊迫に伴って新設された機甲騎兵部隊であった。昭和十四年十月千葉縣習志野の騎兵第十五並びに十六聯隊より選抜された精強から将兵を根幹とし第一師團からの一部要員を加え習志野・・・後略前略・・・此の記念碑は聯隊への懐古と亡き戦友への鎮魂の思いを籠め 萬○太平を祈念し天皇陛下御在位六十年奉祝の欣びをも表すべく、茲に六十年○月戦友並びに講友の発起に依り建立を計画戦友格各位の協賛を得、凡そ一ヶ年を経て伊豆山神社の厚意のもと伊豆の海を一望する景勝の神域に之を建てる。時に昭和六十一年九月七日、願わくは子孫相傳以って○○祖国発展の礎とならんことを 編栄 水野静石謹書境内の左側に置かれていた「光り石」。走湯山縁起と吾妻鏡の大磯高麗山 (高来神社) より道祖神 (猿田彦大神、天宇受売命) とともに来た神様の降り立つ光り石です。神様の愛を受けて、良き事がありますように光のパワーを沢山沢山沢山賜わって光り石にさわったり座ったりして楽しくお参りして下さい。道祖神進むべき道を見失い思い悩める時 困難にぶつかり挫折してしまいそうな時 ひとすじの光のごとくに正しい道をさし示し 導きくださる神様です。摂社 雷電社 (若宮)摂 社 雷電社 (若宮)御祭神 伊豆大神荒魂・雷電童子(瓊瓊杵尊)例祭日 三月十五日御由緒 創立年代は不詳ですが、吾妻鏡に「光の宮」と別名があリ、鎌倉幕府三代将軍源 実朝が再興しそののち、暦応四年に足利氏が、康長十七年に徳川二代将軍秀忠が 改築、現社殿は昭和十年に内務省によって改築。 政治を司り導く神として、源頼朝を始め歴代の将軍家の崇敬が篤く、室町時代に は全国に多数の社領を有しておりました。御神徳 事業、経営、商売繫昌・必願成就・良縁成就・家内安全、夫婦円満、子孫繁栄な どその御神威、弥高くまします。摂社 雷電社 (若宮)を左側から。本殿前の玉垣に、伊豆山神社略記〔御祭神〕 伊豆山神 火牟須比命 (ほむすびのみこと) 天之忍穂耳命 (あめのおしほみみのみこと) 栲幡千千姫命 (たくはたちぢひめのみこと) 邇邇芸命 (ににぎのみこと)〔社 格〕 別表神社 「旧国弊小社」〔例祭日〕 四月十五日〔鎮座地〕 本殿は、相模灘を一望に望む、海抜百七十メートルほどの地点にあります。境内は歌枕に 名高い伊豆の御山、子恋の森の一部で、約四万坪の広さがあります。この場所は、かつて 上宮と呼ばれていました。参道の階段を下って海抜五十メートル弱の地点には下宮の跡地 があり、さらに伊豆浜に下ると走り湯があり、また、海抜三百八十メートルほどの頂きに、 本宮があります。伊豆の御山は、日金山や岩戸山に連なり、伊豆・相模・駿河の三国にま たがる広大な神域の要です。〔御由来〕 ○ 関八州総鎮護伊豆山神社は、かつて伊豆御宮、伊豆大権現走湯大権現と称され、略して伊 豆山、走湯山と呼び親しまれてきた、強運守護、福徳和合、縁結びの神様です。 ○ 祭祀の創まりは遥か上古に遡り、現存する木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、 『走湯山縁起』が応神天皇の御代に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に 飛来し祀られたと伝える伊豆大神の御神影をあらわしています。 ○ その神威の源は、湧き出づる霊場「走り湯」です。走湯権現とはこれを神格化した呼び名 で、伊豆の国名は湯出づる神である当社の神徳に由来します。 ○ 神威を被るところは、沖合に浮かぶ初島をはじめとする伊豆の島々、伊豆半島、共に二所 と呼ばれた箱根や、富士山に及びます。後白河院御撰『梁塵秘抄』に「四方の霊験所」の ひとつとうたわれたように、平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せ、顕密神道を 学ぶ名高い道場となりました熊野信仰とも結びつき、全国に末社が祀られています。 ○ 平安時代後期、この伊豆山に修行して富士登拝を重ね、富士上人と呼ばれた末代上人は、 鳥羽上皇をはじめ貴族と民衆に勧進し、富士山に一切経を奉納する偉業を達成しました。 伊豆山から富士山につながる修行の道は、そののち平治の乱によって伊豆国に配流された 源頼朝が、北条政子とともに当社に深い信仰を寄せ、当社の加護のもとで平家を打倒し、 鎌倉幕府を樹立して征夷大将軍となるに至る、いわば東国王権神話とも呼ぶべき歴史の舞 台になります。 鎌倉将軍の参詣する二所詣の聖地となった当社は、威光を輝かし、格別の尊崇を集め、戦 国時代には後北条氏、江戸時代には徳川将軍も崇敬して興隆がはかられました。武家が誓 いを立てる時の起請文には、誓詞証明の社として、当社の名が必ず連ねられています。 ○ そうした神徳を讃え、鎌倉三代将軍源実朝が参詣の途に詠じた和歌は『金槐和歌集』に収 められています。平安時代の女流歌人として名高い相模や鎌倉時代の阿仏尼も参詣して、 百首和歌を奉納しました。その伝統は、仲秋の名月に熱海市が主催する伊豆山歌会に受け 継がれています。 ○ 明治維新の神仏分離令により伊豆山神社と改称されてからも、伊豆大神の神威は絶ゆるこ となく、大正三年一月十八日には当時皇太子であられた昭和天皇、昭和五十五年九月十二 日には当時皇太孫であられた今上陛下が御参拝になられました。 ○ 宝 物 後奈良天皇辰筆『般若心経』一巻、古剣一振、男神立像(以上国指定重要文化財)、 伊豆山経塚遺物ほか、多数の宝物を所蔵しております。12:20本殿前の境内を見る。 ー 続く ー
2023.04.28
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昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」であるとの放送があり訪れた。放送では「園内では5,000株、130種のエビネが咲いており、例年より1週間早い」と。4月27日(木) 9:10駐車場は無料で、いつもは係員はいなかったがこの日は2名の方が誘導していた。駐車場の南方向の林の中にある。私自身は今まで何度も訪れているが9時からの開園にもかかわらず多くの方が訪れていた。9:15遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580竹林中の坂を下ると「慶應義塾大学 看護医療学部」がある。開園期間:4月 第2日曜日 ~ 8月 第2日曜日 午前9時 ~ 午後4時 期間中は無休入 園 料 :おとな 300円 小中高生 200円詳細については以前訪れた「藤沢えびね・やまゆり園」👈 をクリック願います。園内では山野草、野菜等の販売をしている。ガンセキランラン科 ガンセキラン属 開花期間:5月中旬園内は「順路」の立札があり、遊歩道には竹チップが敷かれていた。エビネには名札があったのだが。ズームアップするが、エビネの名は?。エビネ:?エビネ:?ズームアップ。ニッコウキスゲも咲いていた。ムサシアブミいろんな種類のエビネが植えられている。エビネ:渡川の幻エビネ:天竜エビネ:?園内には、杉、竹。エビネ:?ズームアップ。順路の案内に従って反時計回りに移動。今まで何度も訪れているがこのように列をなしていたことがない、やはりNHK効果か!10:30受付、係員の方もこの列には「ビックリ!」。この週末からのゴールデンウイークにも多くの方が訪れるのでは!地方の過疎化対策にNHKも「地域の町おこし」で各地を取り上げて放送するのも手では!駐車場までは数分、無料駐車場入口は渋滞 (右側から入って来る)。訪問者が多いので急遽駐車場を準備されたのでは・・・。係員の方に聞くと「他府県ナンバーも多く訪れている」と。藤沢厚木線の交差点。この交差点を右折して慶応義塾大学方面へ南下。交差点に案内板がある。この日は富士が顔を出していた。今回はダイジェスト版ですので、後日再度アップ予定です。 END
2023.04.27
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昌満寺から県道740号線(小田原湯河原線)を更に西へ向かう。3月8日(水) 11:10左側の電柱の下に「道標」。所在地:神奈川県小田原市江之浦219正面の上は「小田原文化財団江之浦測候所」がある。左側にあった「道標」をズームアップ。右カーブの角には「江之浦測候所」の案内板。「駐車場入口この先左折。 ※ こちらは職員用駐車場になります」と。江之浦測候所前を通り過ぎ、レストラン「れんが屋」。所在地:神奈川県小田原市江之浦400-4相模湾が眺望できるレストランで旅友もここでランチをとったと、残念ながらこの日は水曜日で定休日であった。ここで引返し江之浦測候所へ戻る。江之浦測候所所在地:神奈川県小田原市江之浦362-1江之浦測候所へ来るがこちらも水曜日で休館日であった。平成29年(2017)10月9日に開館し、予約制による一般公開がスタートした。デザイナー兼アーティストの杉本博司の作品を展示する、相模湾を望むモダンなギャラリー。駐車場入口に車を停め散策するがまず道路を挟んだ向かい側へ。県道740号線(小田原湯河原線)の山側に石碑があった。事前にGoogleマップでチェックしていた「相翁松の碑」。所在地:神奈川県小田原市江之浦相翁松 (あいおいまつ) の碑この碑は前神戸市長 坪野平太郎書、文は元大蔵大臣 阪谷芳郎の撰、筆者は元日本興業銀行総裁添田寿一による。この3人は明治17年東京帝国大学学生当時、春期休暇を利用してここに到り、この地にあった老松の下に憩い、景勝に感嘆し、3人で誓いをたてた。その誓いとは、「我々は親の恩恵により学問を修めている身であるが今、又、ここに爽快な景色を見、大いに英気を養うことができた。将来、立身したならば此の地に碑を建てよう」というもので、その後23年3人は立身したので約束どおり記念碑を建て、相翁松の碑としたのである。このことは、当時の小学校教科書にも「松下の誓い」として掲載され有名である。碑文の追記にもあるように、現在の碑は、大正12年の大地震で埋没破損したので修理して再建したものである。文も頗る名文である。松も大地震で倒れ、今は2世を植栽してある。三人の誓いであったが石像は二体しかなかった。石碑には「相翁松碑」と。説明板の内容が彫り込まれていたようだが風化して判読が・・・。 明治四十年○○三月更に階段を上がると道祖神が建っていた。寛文2年(1662)10月20日板碑型文字・三猿・蓮華正 面「種哀重罪五逆消滅 一切無性即心成佛」正 面右側「相模列足柄下之郡早川庄江浦村」 〃 左側「旹寛文貮壬寅天十月廿日」道祖神の傍には石祠も。上の段から見下ろす。松も大地震で倒れ、今は2世を植栽してあるとあったが近くにはなかった。江之浦測候所の駐車場を見下ろす。海岸沿いの国道135号(真鶴街道)を見下ろすが絶景である。みかん畑の搬送設備はモノレールタイプ。入口に車を停め歩いて坂を上ると明月門の前には鎖が張られていた。そして受付の石柱の前には「休館日」と。右側には「江之浦測候所」。また明月門の前には「明月門」と刻まれた石柱がそれぞれ建っていた。明月門をズームアップ。この門は元々は鎌倉の建長寺の支院「明月院/あじさい寺として有名)」の正門として室町時代に建てられた物だが、関東大震災の時に半壊した。時の茶人に引き取られ移築、保存を繰り返し、その後、根津美術館正門となった物が、数年前美術館の建て替えの折に寄贈されて、今ここに建ったのだ と。明月門の左側に広場があり「江之浦公園」の石碑が建っていた。江之浦公園の奥に木製の展望台があった。展望台に上がり明月門を見下ろす。南東方向の下には「夏至光遥拝1 0 0メートルギャラリー」。ギャラリーの内部は片側に大谷石壁、もう片側は柱のないガラス窓と、約100mの長い渡り廊下は相模湾へと続く圧倒的な空間であると。北東方向には「待合棟」。建物は4面をガラスで覆われ、箱根外輪山が見渡せる。棟内の中央に置かれた大テープルには樹齢一千年を超える屋久杉が使われている と。東方向には「ヒルトン小田原リゾート&スパ」が見える絶景。展望台から下り、誰もいない明月門の右側へ回り込むと休憩所があった。営業日には売店等がオープンしているのであろう。相模湾が見下ろせる休憩所で、全てのテーブルと椅子に石材が使われていた。休憩所の下には「Stone age Cafe」と刻まれた石造りの看板があったが。更に下ると堂らしきものと井戸があった。堂の横に「赤沢蜂巣観音」と刻まれた石碑。この江之浦の集落には古くから信仰を集めた赤沢観音堂があり、室町期の観音像が祀られていた。しかし平成21年 (2009) に放火により焼失してしまった と。赤沢蜂巣観音から下も無料エリアであったのか休館日であるので引き返した。11:25明月門前に戻り、伊豆山神社へ向かうことに。江之浦測候所へはインターネット予約をして再度来るか?。旅友のブログで満足したが。11:35江之浦測候所から県道740号線(小田原湯河原線)を西へ向かい、真鶴駅の西側で国道135号へ。この辺りは国道135号沿いの湯河原町吉浜。前方は吉浜海水浴場。国道135号を走り熱海市内へ。左は、4つ星ホテルの「東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山&VIALA」。国道135号の伊豆山交差点を右折して十国峠伊豆山線を山間部へと坂を上る。十国峠伊豆山線を進み前回はここを大きく右折して進んだ。今回はカーナビのセットができたので直進。11:55伊豆山神社所在地:静岡県熱海市伊豆山708-1今回はカーナビの案内でどうにか伊豆山神社一の鳥居横にある駐車場へ到着。駐車場は10数台が停めれる程度であったが運よく駐車でき散策開始。駐車場にあった「伊豆山神社 境内ご案内」。市道を挟んだ一の鳥居の向い側の店先に「旧善満坊」の石柱が立っていた。かつて、神仏混交時代にはここに伊豆権現を支えた別当、またその下には子院などが沢山並んでいたと。伊豆山浜にある「走り湯神社」までの参道を見下ろす。参道には桜の木があったが、伊豆山浜からここまでの階段は648段であると。参道にあった「布袋様の石像」。参道から一の鳥居を見上げる。右側には「熱海市仲道公民館」。熱海市仲道公民館の壁に「権現坂」。権現坂プレートには 伊豆山神社階段 (国道 ~ 権現茶屋) 310m 伊豆山神社 伊豆山郷土資料館 般若院 子恋の森 足駄権現及び足駄の像 桜見物 仲秋名月歌会 権現山神社例大祭12:00市道沿いにある「熱海道の道祖神」。立札には、道祖神 (サイの神) 悪い病気や災難が部落内に入ることを部落の入口でさえぎっている神様だといわれています。 東谷や近くにあったものを集めたのだそうです。 岸谷の御嶽神社の所や浜の地蔵堂の所にもあります。手に持っているのは酒の○四「へいし」 だといわれている。 天明五年とありますが1785年のことで220年も昔のことです。古い石仏の前には多くの花、お賽銭が供えられていた。 ー 続く ー
2023.04.27
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ヒルトン小田原リゾート&スパの後は、前回訪れなかった伊豆山神社を目指すことに。3月8日(水) 10:27ヒルトン小田原リゾート&スパから県道740号線(小田原湯河原線)へ向けて坂を下る。右方向は、第2会場の「離れのやど星ヶ山」第1会場の「きのこ苑お山のたいしょう」方面。10:35県道740号線(小田原湯河原線)を西へ進む。途中、県道脇におかめ桜が綺麗に咲いていたので車を停める。バス停は箱根登山バスの「柿の木茶屋」。バス停横に広場があり駐車。左奥にはヒルトン小田原リゾート&スパが見えた。おかめ桜の間からヒルトン小田原リゾート&スパをズームアップ。下を見ると根府川駅。相模湾には養殖のブイが浮かぶ。植え付けてからまだ数年であろうか樹形が小さい。20数本植えられていたか将来が楽しみな木々である。ズームアップ。おかめ桜の他にもソメイヨシノが植えられているようだ。柿の木茶屋を後にし目的地へ。天正庵跡(てんしょうあんあと)所在地:神奈川県小田原市江之浦307県道740号線(小田原湯河原線)を更に西へ進むと右側に説明板が立っていた。この辺りの道路もかつては豆相人車鉄道のレールが敷設されていた。バス停は箱根登山バスの「天正庵跡」。天正庵跡ここは、天正18年 (1590) 豊臣秀吉の小田原戦役の際、秀吉が千利休に命じて、大野五郎兵衛の屋敷内に茶室を設けたところである。「天正庵由来記」によれば「天正18年5月の頃、秀吉公、小田原の北条を責める折柄、諸将の労を慰めんとて、利休、前波半入らに命じて当村五郎兵衛屋敷内に数寄屋 (茶室) を囲い結ばしめ、橋立の茶壺、玉堂の茶入、その他名器等をかざりつけ、公 (秀吉) 手づから茶を点じ、家康 (徳川)、信雄 (織田) 、忠興 (細川) 、氏郷 (蒲生) などに給り、饗応の中、公興のあまりに、給仕の青女房に金の扇子10本ばかり取り出し、躍れ躍れと利休、半入、女房達と共に興じれば、諸将各長陣の労を忘れける」とある。ここは天正庵の大野家には、秀吉から拝領の酒器、木杯や、秀吉が使用したと言われる碁盤などが保存されている。門柱の表札には「大野」と、何代目であろうか。天正庵跡を進み直ぐに右折して狭い道を上り昌満寺の裏にある駐車場に車を停める。駐車場の東側に「大美和神社」の石垣。駐車場から坂を下り鳥居前へ。大美和神社 (おおみわじんじゃ)所在地:神奈川県小田原市江之浦312鳥居からの参道は杉の木立に覆われた階段である。鳥居横に建つ社号標石には「村社 大美和神社」。案内には、御祭神:小彦名命、大物主命由 緒 創建は寛文11年(1671)であり、以前は蔵王神社といわれていたが、第二次大戦中 に現在名に改称された。例大祭は毎年7月の第三日曜日であり、この日鹿島踊りが 奉納されている。 片浦地方は「根府川石」の産地として知られ、石の運搬には海路を使ったことか ら海運にかかわる鹿島信仰が盛んで、「鹿島踊り」(県・無形民俗文化財) が伝承 されてきた。鳥居の左側に建つ「記念碑」。碑には、大正十二年九月一日に起きた関東大震災における被害の様子が刻まれていた。 昭和五年八月三十一日 神奈川縣農林技手 黒田○一織 ス 同 同 人 謹書 地方技師正五位勲四等 草○正治氏 題額階段を上ると境内には網で保護された灯籠が建っていた。また拝殿前には枝垂れ桜もあったがまだつぼみは固かった。ここの狛犬(右側)もマスクは取り外されていた。ネットでは、阿形像は透かし模様で弱かったのか、壊れてしまった玉に手を置いていると。大正七年生まれの狛犬(左側)であると。拝殿の扁額「大美和神社」。拝殿前から境内を見下ろす。杉の木立の中に参道の階段がある。西方向の下に昌満寺の本堂、駐車場がある。社殿右側に建つ石碑には、 金婚式・喜壽祝 富士登山三十三度 記念碑 昭和二年四月堡辰 と刻まれていた。拝殿裏に組まれた石垣上に鎮座する本殿。左側から拝殿、境内社を見る。杉の木の下に境内社。境内社の扁額には「山の神」。拝殿の左側に廻り込み、石垣で組まれた上に鎮座する本殿。本殿をズームアップするが上り口があったのか。境内に西側に「大震災紀念」、後方に社があり扁額にはこちらも「山の神」と。境内から階段を降りる。昌満寺への参道脇に「観世音菩薩供養塔」と刻まれた石碑。境内への入口に「不許葷酒入山門」の石柱。山門には「曹洞宗 昌満寺 (しょうまんじ)」所在地:神奈川県小田原市江之浦335海抜120メートルの境内からは、眼下に広がる相模湾、その先の三浦半島、房総半島の素晴らしい風景が望めますと。昌満寺開基・月山昌満庵主について、『風土記稿』には事蹟不詳とあるが、昌満寺の墓地内にある大野家の墓誌によると、昌満寺の開基は同家の初代・大野五郎兵衛(法号:月山昌満居士、天正19年(1591) 9月12日。「庵主」は天正庵の庵主の意かと思われる。400年以上の歴史あるお寺の境内には、忠霊塔や福田正夫詩碑、六地蔵尊などがある。石碑には「福田正夫詩碑 井上清書」「一人の人が 海ぞひの路をすたすた行く すたすたと 何を微妙な画だ 江ノ浦にて 福田正夫」。境内の手前には鐘楼。ご本尊は延命地蔵菩薩。本尊の延命地蔵は像高9寸(約27.3cm)で、湛慶の作とされていた。本堂の扁額「昌満寺」。厳つい顔の像竹筒に綺麗なユリが供えられていた。水子観音像。忠霊塔本堂の左側から裏にある駐車場へ向かう。墓地への道で、赤い前垂れをした六地蔵が並んでいた。左側の石碑には「○○○観世音菩薩供養塔」と。供えられていた花。ツバキも綺麗に咲いていた。本堂裏の駐車場への左側に「地蔵大菩薩」と刻まれた墓碑。11:05本堂裏の駐車場から振り返る。 ー 続く ー
2023.04.26
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旅友から我が新車でのドライブに誘われ『首都圏最大級。約52万株のシバザクラの群生!』を訪れた。今回はダイジェスト版で、詳細は後日アップ予定です。いつものように早朝5時半に我が家を出発、圏央道、中高速道路、河口湖インタを出て会場へ。『富士芝桜まつり』所在地:山梨県南都留郡富士河口湖富士ヶ嶺212カーナビセットは「富士芝桜まつり事務局」にセット。ここは5年前にも訪れており二度目。前回は2018年5月5日(土)で、その時のブログ「富士芝桜」👈 をクリック願います。4月24日(月) 7:30入園券売り場入場料/大人:1,200円、こども:600円駐車料/普通車:500円、バイク:500円、大型車:2,000円(マイクロバス含む)開園時間/8:00 ~ 16:00係員から前日の土日は長い列になっていたと、この日は月曜日で先頭に。列は、キャッシュレス決済と、現金払いに分かれて並び、入場料と駐車料を支払う。開園時間が8時からのため並んで待機。標高が960メートルあり気温は5℃と寒かった。頂いたパンフレットから。期間は、4.15 Sat ー 5.28 Sun主催:富士芝桜まつり実行委員会 後援:富士河口湖町・(一社)富士五湖観光連盟会場は国道139号沿いにある。富士には雲がかかり頂上が見え隠れしていた。富士芝桜まつり会場にある竜神池。会場内には八種の芝桜が植えられている。マックダニエルクッション、モンブラン、オータムローズ、多摩の流れ、オーキントブルーアイ、ジャイアントローズ、スカーレットフレーム、アメージンググレース。入園口の左手奥にある「カフェ、展望塔、ショップ&ギャラリーエリア」を望む。カフェ、展望塔、ショップ&ギャラリーエリア。展望塔から園内を見下ろす。展望塔は約8mの高さがあり、庭園越しに富士山を見渡すことができるビューポイント。左側にはキッチンカーが出店、飲食エリアになっている。別の展望台前からの富士山。右奥は入園口。紅白の芝桜で「ハートマーク!」の植え込み。園の廻りには、ゴテンバザクラも咲いていた。この日はウイークデーであったが多くの観光バス、台湾からのツアー客も多く訪れていた。このまま新型コロナもおちつきインバウンドも元に戻ることを祈る気持ちになる。また、ゴールデンウイークには多くの観光客が訪れるであろう。園内には『予告 虹の花まつり』のポスター9月1日 ~ 10月15日開催予定 カラフルな花々と富士山の共演 END
2023.04.25
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引き続いて第2会場の「離れのやど星ヶ山」のおかめ桜を楽しむ。3月8日(水) 9:45おかめ桜園のおかめ桜を見上げる。ズームアップ。おかめ桜の生いたちは寒緋桜と豆桜をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました。幹に「おかめ桜」の名札。桜は数百種ありこのように名札が付いていると助かるが贅沢か。同じ早咲きの河津桜との違いは、花が小さくて色が濃いめだと。豆相人車鉄道のレールが数十メートル敷設されている。「人車鉄道の走行は受付で許可を受けて下さい」と。豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)明治29年全開通から10年間、風光明媚な海岸線を 人間が押して、熱海 ⇔ 小田原間を4時間かけて走る、人車鉄道が運行していました。この復元車両は当時の資料を基に製作しました。車両には「人」の文字のマーク。定員は6名ないし8名の乗った客車で、3人の人が押して動かした。また、急な坂では乗客も降りて押したと。車内の座席は木製で質素なものである。おかめ桜園の桜の木もこれから大木になりより綺麗に。石碑が建っていた。石碑には「夢に向って協力し 汗をながして努力す 昭光」。こちらにも石碑。石碑には、 「沙羅の木 褐色(かちいろ)の根府川石に白き花はたと落ちたり、 ありとしも青葉がくれに 見えざりしさらの木の花。 森林太郎先生詩 森鴎外 昭和四十七年九月吉日 小田原市長 中井一郎書」。9:50離れのやど星ヶ山の客室は全室が離れのログハウスになっている。おかめ桜をズームアップ。第1会場の「きのこ苑お山のたいしょう」はここより山へ登るが今回はスルーした。所在地:神奈川県小田原市根府川657農家レストラン『きのこ苑お山のたいしょう』 営業時間:10:30 ~ 15:00(受付) 定 休 日 :毎水・木曜日写真は前回訪れた時の写真で、その時のブログは「お山のたいしょう」👈をクリック願います。第2会場の「離れのやど星ヶ山」から第3会場の「オーランジェ・ガルデン」へ向かう。坂を下りこの先を左折してヒルトン小田原リゾート方面へ向かう。10:00第3会場の「オーランジェ・ガルデン」所在地:神奈川県小田原市根府川524-2相模湾を一望できる絶景の中で、みかん狩りをお楽しみいただけます。園内では低農薬栽培で育てているみかんを食べ放題ができます。取り扱うみかんの品種は、早生みかん、大津みかん、青島みかん、デコポンの他、神奈川県の特産品種「湘南ゴールド」他、多数。お持ち帰りや全国各地への発送にも対応。また8月にはブルーベリー狩りが楽しめます。季節の苗木や草花の直売もしていると。ここからは初日の出が楽しめる場所でもあり、仮設トイレがある。駐車場からオレンジ色のオレンジ橋を望む。売店ではいろんなみかんを販売していた。また桜の苗木も販売していた。旅友もここで前回苗木を買ったが今年の開花はどうであったか。ウォーキングトレイルのご案内駐車場には歩いてこられたのか5、6名の中高年?の女性がリュックを背負い記念写真。早川・片浦ウォーキングトレイル Aルート 3時間 10.9km Bルート 3時間30分 12km石橋山古戦場・米神漁港コース こちらもオススメ! 1時間20分 4.3km オレンジ色が鮮やかなオレンジ橋。オレンジ橋下路ローゼ橋、橋長 55m、主径間 53.8m、総重量 188t、鋼重 182t。完工 1993年(平成5年)、小田原市発注。図面によると幅員 11.200m、パイプ径 1.016m、橋高 9.00。橋を渡ると門前に「Hilton」と。この設備は水道関係であろうか配水池?。オレンジ橋を渡り振り返る。この辺りのおかめ桜は植えられたのであろうか。谷越えに見る。ミカン山の中に咲くおかめ桜。オーランジェ・ガルデンのおかめ桜をズームアップ。更にズームアップ。菜の花も終盤に。オーランジェ・ガルデンの駐車場へ戻る。この先から急な坂になり県道740号線へ下りる。オレンジ橋上から相模湾を見下ろす。手前は配水池であろうか。真鶴半島、三ツ石をズームアップ。駐車場から山の上に「ヒルトン小田原リゾート&スパ」の高層ビル。ヒルトン小田原のシェフも立寄りおかめ桜をスマホで撮影していた。前回はここで引返したが、今回は坂を上りヒルトン小田原リゾートへ行くことに。オレンジ橋を渡り坂を上ると正面に高層ビル。いつも湘南海岸沿いの国道134、135号から見ている建物である。ヒルトン小田原リゾート&スパ所在地:神奈川県小田原市根府川583-1箱根の山々を背景に、相模湾を一望できる標高183mの丘に位置する、国内ヒルトン初のスパ・リゾートホテルである。駐車している車も高級車が多い。ヒルトン小田原リゾート&スパの南側から。広大な敷地に全室オーシャンビューの163室の客室、水着で楽しめるバーデゾーン(各種プール、サウナ、25mスイミングプール)や天然温泉大浴場、テニス、ゴルフなどのスポーツ施設、スパ、岩盤浴、ホテル直営レストランなど、充実した施設を誇ると。ヒルトン小田原チャペル蒼い海と澄んだ空が目の前に広がる「クリスタル グレイス チャペル」。水平線へと続くバージンロード、そして、天上から降り注ぐやわらかな光。上質かつリゾートならではの挙式を演出すると。ホテルの西側には「フィットネスクラブ」の建物群。ズームアップ。庭園も綺麗に整備されている。おかめ桜はまだ若木、数十年後の光景が楽しみだが。ヒルトン小田原リゾート&スパを見上げる。一度は宿泊してみたいが・・・。若木のおかめ桜。ピンクと黄色のコラボ。黄色のこの木は?。10:25ヒルトン小田原リゾート&スパから下りオレンジ橋。 ー 続く ー
2023.04.25
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曹洞宗岩泉寺の参拝を終え次の目的地へ。3月8日(水) 9:05岩泉寺から坂を上り県道740号線(小田原湯河原線)へ戻る。ツバキが綺麗に咲いていた。県道の階段下にあった案内板。釈迦堂は岩泉寺より下にあるが以前行っているので今回はスルーした。白糸川橋梁を越える東海道本線の車両は熱海行きであろうか。この区間はいつも車移動であるので橋梁上からの眺望を見ることがないのだ。県道740号線(小田原湯河原線)へ戻り、寺山神社に隣接する小田原市消防団第5分団の車庫。寺山神社境内。駐車場脇にあった水鉢。寺山神社を後にし県道740号線(小田原湯河原線)を湯河原方面へ進む。県道から少し下り先程参拝した「岩泉寺」の寺号標石。本来はこちらが参道入口で岩泉寺の境内へ。坂下には白糸川橋梁が見える。寺号標石には「曹洞宗 巨岳山 岩泉寺」と。この場所はGoogleマップに載っていた「豆相人車鉄道根府川駅跡」。所在地:神奈川県小田原市根府川箱根登山バスの「関所跡入口」バス停。駐車場がなく道路脇に車を停車して急いで撮影に。満開のおかめ桜の下に案内板があった。ここからの眺望は東海道新幹線、東海道本線が見れるポイントである。豆相人車鉄道歴史街道根府川駅跡豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道はおおむね海岸沿いに断崖が迫る厳しいエリアを走っていました。急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られたようです。豆相人車鉄道の小田原駅から3番目の駅根府川駅は、左側の60メートルほど先に見える旧県道との分岐点付近にありました。駅前には三河屋旅館などもありました。かつては坂道では人が押していたようだ。写真は、早川海岸を行く人車鉄道。豆相人車鉄道かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。豆相人車鉄道の根府川駅跡下を東海道新幹線が通過している(大阪方面)。下を白糸川が流れる白糸川の下流側にある白糸川橋梁。左下は岩泉寺への参道。東海道新幹線、東海道本線の列車が通過。見上げると満開のおかめ桜。おかめ桜はピンクが濃い感じがするが。ズームアップ。河津桜との違いは、花が小さくて色が濃いめだと。因みに、今年2月22日に撮影した三浦海岸の河津桜。今日の目的の「根府川おかめ桜まつり会場」へ。県道740号線(小田原湯河原線)を進み会場への入口下の道路脇に車を停める。会場入口に立っている看板。振り返ると道路脇に桜の老木。まだ開花前のソメイヨシノであろうか。かつてはこの県道が豆相人車鉄道の路線であったようだ。老木の桜の根元に小さな社があった。事前に調べていた「馬頭観世音 魚霊之碑」所在地:神奈川県小田原市根府川社の中には二つの石碑があり「馬頭観世音」「 魚霊之碑」。向かい側の斜面にはおかめ桜が点々と咲いていた。坂の左側に「おかめ桜会場」の看板が立っていた。県道から右上に上り第2、3会場の「離れのやど星ヶ山」「オーランジェ・ガルデン」へ。根府川おかめ桜マップ坂を上ると途中に案内板「離れのやど星ヶ山」。桜が満開であったので車を停め撮影。桜の名前は「??」であったが。今年は既に早咲きの「あたみ桜」「河津桜」と見ているが。9:35第2会場の「離れのやど星ヶ山」所在地:神奈川県小田原市根府川592自然豊かな山間にあるくつろぎの宿。客室は全室が離れのログハウスで根府川駅から 1 km。駐車場を振り返る。右側にはレストラン「カフェレストラン ななつの星」。豆相人車鉄道、おかめ桜園の案内板。施設ご案内● ミニカーハウス 米国大統領・世界の消防車・ハーレー他 1500台以上を展示しています。● 豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう) 明治29年全開通から10年間、風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道が 熱海 ⇔ 小田原間を運行していました。 その実車復元車両を展示して走らせています。おかめ桜園への途中見上げるとおかめ桜が咲き始めていた。開花したおかめ桜をズームアップ。おかめ桜園の中を流れる白糸川。この木橋を渡ると「サンタの森」と。白糸川の上流側は源流に近い。9:45木橋上から下流側の清流。清流のため河川敷のこれはクレソンであろうか。 ー 続く ー
2023.04.24
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JR根府川駅から郵便局前を通り200メートルに位置する寺山神社境内へ。3月8日(水) 8:50寺山神社 (てらやまじんじゃ)所在地:神奈川県小田原市根府川95-1県道740号線(小田原湯河原線)沿いに建つ石鳥居。鳥居の扁額「寺山神社」境内には落葉したイチョウの木であったか聳えていた。小田原ふるさとの原風景百選6 寺山神社と鹿島踊り 鹿島踊りは、根府川地区に伝わる神事の伝統芸能で起源は定かではないが、豊穣な生産・ 悪疫退散、航海の安全や村落防衛を祈祷する群舞といわれ、半農半漁の集落に生活する人 々の心を結集する行事である。毎年7月の第3日曜日寺山神社の祭礼に奉納されている。踊 り手は、昔は成人男子だけだったが、1980年代からは小学生が男子の子も女の子も一緒に 参加している。(神奈川県指定無形民俗文化財)寺山神社神社の創建は不明であり、古くは寺山権現といわれてたが明治初年寺山神社と改称した。祭神は武甕槌命であり、浅間神社、山神社の二社を鎮座している。例大祭は7月15日であったが、近年7月の第3日曜日となった。毎年、この日鹿島踊りが神輿の宮出、宮入の際に奉納されている。往古からこの地は根府川は、通称「根府川石」の産地として知られており、これに関連する業として石船(石材運搬船)があり、これにかかわる人達が多いことから、海や船、航海に関係のある鹿島信仰が定着し、鹿島踊りも伝えられたものであろう。しかも鹿島踊りは村に入ってくる悪疫その他を退散させる効果のある踊り故、村の若い衆によって伝承されてきた。踊りは、男子青年によってのみおこなわれるのが特徴であるが、近年後続者の育成を図るため少年も参加している。舞態は円舞と方舞の組合せであり、人数は5行5列25人が定型である。踊りはまず太鼓、鉦、三役の順序で斉庭に現われて、左回りの大きく円周を描いて一巡し、静止して弥勤歌をうたい、終わって円舞・方舞を2度繰り返す。踊りは全部歌が付き、衣装は警個と歌上げを除き白丁を着る白張り浄衣で、平札烏帽子をかぶり白足袋、白緒の草履をはく。なお寺山神社の鹿島踊りは、神奈川県無形民俗文化財に指定されている。(神奈川県教育委員編、ふるさとの文化財より一部引用)寺山神社の境内には月決めの駐車場もあったが、数台は短時間の駐車は可能であった。境内の前を県道740号線(小田原湯河原線)が走り、右側には小田原市消防団第5分団の車庫。境内から一段高いところに玉垣で囲まれた拝殿。マスクを取り外した狛犬(右側)。狛犬(左側)、後方に道祖神がある。拝殿の注連縄が新しい。拝殿挙鼻の龍の彫刻と木鼻狛犬。拝殿の扁額「寺山神社」。浄財箱は鎖でつなぎ施錠されていた。拝殿の右側にあったこの建物は倉庫であろうか。境内社の天王社、姥社。社には左側に「天王社」、右側に「姥社」の扁額。左後方には大樹が聳えていた。拝殿の奥に本殿。境内社前から境内を見下ろす。拝殿の左側に「奉納 道祖神」の旗が多く立ち並んでいた。旗の間に道祖神と、石仏が並ぶ。「小田原市指定重要文化財 小田原根府川の道祖神」の木柱。道祖神の奥に建っていた石碑には「日露戦役 彰忠碑」と。また石碑には「元帥公爵山縣有朋書」と刻まれていた。境内に並ぶ石碑群石碑には右から「浅間大神」「地鎮神」「奉祝 皇紀二千六百年」と。二基の石碑が並ぶ。完成記念碑 根府川樹園地かんがい事業 神奈川県知事 津田文吾書沿 革 小田原市根府川北区のみかんは、箱根山系を背景に黒潮暖流の恩恵を亨けて古くから一つの 大きな産業として発展してきた。時代の流れに照応してみかん生産の近代的装備を図り、経 営合理化への飛躍的な転換を目的とした受益面積130ヘクタールの当かんがい事業は、施設 の遠隔操作方式とその自動化を取入れた国内草創の事業として昭和41年着工 6年の歳月と 2億5千5百万円の巨費を投じて昭和47年3月完成を見た。 国内2千数百ヵ所に配置されたスプリンクラーが清流白糸川の自然圧に拠って樹上散水する かんがい施設は、一幅の絵ともなって施肥・病虫害防除等の多目的にまで利用され省力化と 共に誠に高度な効率をもたらした。 これ偏に関係機関の御支援を吾等同志106戸の弛まざる努力の賜である。依ってこれに感謝 をこめて碑を建立し、永く世に伝えるものである。 昭和47年4月 小田原市白糸川土地改良区 石碑は珍しく横書きに刻まれていた。 大震災 新地復舊記念時大正十二年九月一日関東未曾有ノ大震災ニ遭遇シ根府川一帯百五十一町歩ニ亘ル階段状柑橘畑ハ石垣畦畔道路ノ崩壊地床ノ陥没滑落ニ原形ヲ止メズ惨状言語ニ絶シ物心ノ打撃深刻ナルモノアリ茲ニ関係者相謀リ悲壮ナル決意ノ下ニ断乎復舊ヲ企テ耕地整理組合ヲ創立工費九萬六千圓ヲ投シ大正十三年十月起工萬難ヲ排シ其ノ筋ヨリ多大ノ恩恵ニ浴シ昭和三年八月工事全ク成リ所期ノ目的ヲ達成シ生活安定ニ復スルヲ得タルハ眞ニ官民一致協力ノ賜ト謂フベシ依テ碑ヲ建テ震災耕地復舊ヲ永ヘニ記念ス 昭和十六年七月 根府川耕地整理組合境内にあった道案内。釈迦堂 300m、根府川駅 200m。県道740号線(小田原湯河原線)沿いに建つ「釈迦堂入口」の石碑。階段下の傾斜地に墓地、岩泉寺。谷越えの西側の傾斜地には開花前の桜の木々。県道から坂を下り右側に、岩泉寺入口。門柱には「岩泉寺通用門」。東海道本線の「白糸川橋梁」。橋梁の後方には遠く真鶴半島が見える。墓地から県道側を見上げる。石碑には「三界萬霊○ 萬治四年四月」。白糸川橋梁 (しらいとがわきょうりょう)型 式:ワーレントラス橋全 長:199.34m、幅:9.7m、高さ:24.5m、最大支間長:47.4m。海側を国道135号(真鶴道路)が走っており、国道から上流に東海道本線と新幹線が走っているので鉄撮りのビューポイントになっている。初代の橋梁は1922年(大正11年)に、根府川駅と真鶴駅の間に竣工。径間150フィートの複線上路トラスが3連と、その前後に径間40フィートの単線プレートガーダーが各2径間架かる構造であった。竣工翌年の1923年9月1日。関東大震災により背後の山が崩壊し、土石流が押し寄せて壊滅的な被害を受けた。現在の橋は、被災の翌年に新たな橋に架け替えられた二代目である。3連トラスは初代の橋の図面がほぼそのまま使われ、被災前とほぼ同じ形態で再建された。トラスは赤く塗装されている。(以上 ウィキペディアから引用)。曹洞宗 岩泉寺 (がんせんじ)所在地:神奈川県小田原市根府川187岩泉寺 巨岳山は、根府川にある曹洞宗の寺院で本尊は正観音。慶長9年(1604)の創建で開山は早川・海蔵寺13世の僧・通国門泰(寛永3年・1626没)。開基は、根府川村の旧家・(広井)長十郎の家系図によると、同家の祖先・広井長十郎重次で、元和7年(1621)のこととされていた。江戸時代には海蔵寺の末寺だった。本堂の扁額「巨岳山」。本堂が開いていたので内陣を見る。本尊の正観音像には、像高3寸5分(10.6cm)の腹籠の像があり、恵心の作と伝えられている。本堂前から境内を見下ろす。正面に六地蔵。白糸川橋梁は地形的要因から特に南風の時には強風が観測され、しばしば列車の運行規制を受けた。この区間の東海道本線は首都圏と東海地方・西日本を結ぶ物流の動脈であるとともに、伊豆半島への観光路線としても重要であるため、風への対策が求められた。1991年に、車窓からの景色を極力損なわないよう60%充実金網方式の防風柵が設置された。この対策により、使用開始後1年間の実績で従前に比べ運転中止日数約80%減、運転中止本数も約90%減の効果が見られたと。上り電車が進入。境内の隅に六地蔵。本堂からの階段を降り振り返る。境内への入口に「不許葷酒入山門」の石柱。階段横に並んでいた石碑。境内へ上がり本堂。本来の入口はこの場所の左側であった。墓地の一段高いところにあった「忠霊塔」。ズームアップ。9:05岩泉寺から坂を上り県道740号線(小田原湯河原線)へ。 ー 続く ー
2023.04.23
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今年は神奈川県下の河津桜を3ヵ所見たが今回も早咲きのおかめ桜を見に出かけた。併せて、根府川駅廻りの寺社史蹟、前回行けなかった伊豆山神社を計画した。根府川のおかめ桜は令和2年(2020)3月6日(金)にも訪れており今回が2度目になる。ネットによると今年の「根府川おかめ桜まつりは、2月25日(土) ~ 3月21日(火)」。3月8日(水) 8:10朝7時に出発して一人ドライブでJR根府川駅へ向かった。根府川駅手前の保線区入口。線路補修用の車両であろうか。根府川駅の跨線橋。後方の山の中腹の建物は「小田原城カントリー俱楽部」であろうか。国道135号の根府川交差点から右に入り県道740号線(小田原湯河原線)を根府川駅へ進みここへ。この辺りに石碑があるので保線区入口に車を停め散策。左上を東海道本線が走る。この辺りは平地が無く断崖状態になっているので「根府川陸橋」が架かっている。大震災殃死者菩提の五輪塔所在地:神奈川県小田原市根府川線路の擁壁下にありブロックで囲まれていた。近くに車1台が駐車できるスペースがあった。相模湾への崖下にあり擁壁には補強用の杭が多く打ち込まれていた。五輪塔に関する説明板が無く詳細は不明。この辺りの東海道本線は崖上にあり甚大な被害があったのであろうと想像できたのである。左側は県道740号線(小田原湯河原線)の根府川陸橋。右側は東海道本線の擁壁下の道路でその脇に石碑が建っていた。おかめ祭の旗も。道路脇に建つ「府県道小田原熱海線震災復舊記碑念」の石碑。石碑には、 府県道小田原熱海線震災復舊記碑念大正一二年関東大震災ノ為メ府県道小田原熱海線ハ路線一帯崩壊シテ更に原形ヲ 留メズ其ノ惨状言語ニ絶セリ 知事安岡内氏即時其ノ復旧ヲ畫シ国幣ノ補助ヲ 請フ 内務省ハ技師牧野雅栄之丞氏ヲ派シ 県土木課長高田景氏等之に随ヒ実情ヲ 踏査ス・・・・・・字の彫り込みが浅く判読できず。 昭和七年六月二つの石碑の上を走る東海道本線。小田原、二宮方面の海岸線を振り返る。県道740号線(小田原湯河原線)を根府川駅方面へ上る。この道は休祭日には国道135号が渋滞するので裏道として利用され大渋滞になっている。8:20根府川駅 (ねぶかわえき)所在地:神奈川県小田原市根府川根府川駅は相模湾を見下ろす崖の上にありホームは2面3線。JR東日本管内の東海道本線では唯一の無人駅である。一日の平均乗車人員は 639人 (降車客含まず 2008年)。開業年月は大正11年(1922)12月21日で、翌年に関東大震災が発生しているのである。東京駅から90.4kmに位置している。駅前からは小田原城カントリー俱楽部への送迎バスが運行されている。駅舎は東海道本線の崖上にあり木造瓦葺である。駅前にはおかめ桜が咲いていた。箱根ジオパーク 小田原エリア 根府川(片浦海岸)根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東震災の際の駅裏の斜面の地滑りやその南側を流れる白糸川で起きた岩窟なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。釈迦堂大正関東地震の前は高台に位置していた釈迦堂は、震災により土砂の中に埋まったが、その後、釈迦像は見た目は無傷で掘り出された。被害のなかった釈迦像への信仰は高まり、釈迦堂は再建され、現在は地下の洞の中で昔のままの姿を見ることができる。石橋山古戦場平安時代末期の1180年、平家打倒の命令を受けて伊豆で挙兵した源頼朝が、鎌倉へ向かう途中に大苦戦となった戦いの舞台が「石橋山古戦場」である。10倍を越える敵の軍勢に頼朝方は敗れ、箱根山中に逃れた後、真鶴から海路で安房(千葉県)へ向かった。根府川関所跡江戸時代初期、白糸川岸に置かれた根府川関所は、箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地で、通行を取り締まっていた。常駐する役人の数が箱根関所に次ぐ多さで要衝として重要視された。前回訪れた時のブログ「根府川おかめ桜」👈 をクリック願います。道案内も、寺山神社 200m、釈迦堂 500m、江之浦漁港 6km。根府川駅の歴史明治29年(1896)から大正11年(1922)までは、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も存在していた。同線の「根府川駅」は、当駅よりも高台の位置に設けられていた。大正12年(1923) 9月1日に関東大震災により地すべり(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車 (8両編成、乗客約150名) が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没する。列車に乗車していた約110名とホームに居た20数名の計約130名が死亡した。駅周辺の住民も多数死傷し、駅構内に残ったのは車止め一つだけだった。駅は翌年再建された。列車の本数は1時間に3 ~ 4本運行。駅舎の屋根裏も木組みで鳥の侵入を防ぐためのネットが張られていた。無人駅の改札。右奥に関東大震災殉難碑がある。改札を入ると左側に「関東大震災殉難碑」が建っている。碑は関東大震災で列車が海に転覆した事故を追悼するものだと。説明板があったか?昭和48年(1973)に根府川駅職員一同によって設置された碑である。跨線橋は大正・昭和を感じる建築物である。駅舎からの初日の出が人気で元旦には多くの人が訪れ、また臨時列車も運行されると。ホームの海抜は45メートルで南面の崖下を国道135号が走る。熱海方面。駅を出ると直ぐに白糸川橋梁がある。小田原ふるさとの原風景百選1 潮騒の駅・根府川 海と山に挟まれたJR東海道本線の根府川駅は風光明媚で、駅から見る相模湾は絶景。 詩人茨木のり子の詩集「根府川の海」の中で『根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲い ている駅・・・』と謳われている。鉄道ファンとして知られるタモリがJRの4368駅の中から1つだけ選んだのは、まさかのここ「根府川駅」だった。それは昨年の4月23日放送の「ブラタモリ」(NHK)でのこと。テーマは「鉄道スペシャル~開業150年!鉄道は日本をどう変えた!?」で、鉄道に関するさまざまな出来事を取り上げたと。🌸 おかめ桜まつり 🌸今から約20年前、縁あって植えたおかめ桜。春になり、花を咲かせたその姿にすっかり魅せられ「このかわいい桜を皆様にお楽しみ頂きたい!」と。年々植栽し、現在の姿となりました。鳥たちの声と、心ゆくまでご鑑賞下さい。おかめ桜の生いたちは寒緋桜と豆桜をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました。ホーム沿いに数本のおかめ桜が植えられていた。おかめ桜越しに跨線橋。この跨線橋も大震災後の翌年大正13年(1924)に再建された。駅舎から下る道沿いに植えられているおかめ桜は満開。おかめ桜の木はまだ若い。駅のホームから見えるように張られていた横断幕と旗。列車は1時間に3~4本運行され普通電車が停車するが乗降客は少ない。近くには「ヒルトン小田原リゾート」「小田原城カントリー俱楽部」があるのだが。皆さん高級車利用で!県道沿いに植えられているこのおかめ桜も十数年後には大木に・・・。このエリアにおかめ桜が十数本植えられている。ホームの山側に植栽されているがこのエリアのみであろう。ホームには数名の乗客が列車を待っていた。東京方面行きの列車が入線。海側にも植栽されると十数年後には乗降客も多くなるのではと思いながら次の目的地へ。駅舎への坂道を上り車へ戻る。駐車場がなく駅前に停めていたので駐車違反に注意。駅舎の右側には小田原警察署根府川駐在所が隣接していた。8:40根府川会館所在地:神奈川県小田原市根府川92この建物は文化・観光・イベント関連施設の根府川会館である。玄関先に「根府川防災本部」の看板。壁面には「この地点の海抜 65.1m」と。根府川会館の前は広く駐車場になっていたがその隅に石碑、石祠があった。また、防災用の鉄塔も立ちアンテナ、拡声器が設置されていた。歌碑には「訪くれば 要塞たりし 丘高く 公民館の白き 映えおり 正男」と。石祠の横に植えられている桜は「おかめ桜」であろうか。成長が楽しみであるが。8:45この地は海抜 65.1メートルもあり見晴らしが良いが崖崩れが怖い場所でもある。 ー 続く ー
2023.04.22
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松田町の寒田神社の参拝を続ける。2月27日(月) 15:05社殿の裏には3社の境内社、石碑が建っていた。祖霊社祖霊社の左側に「歯の供養碑」。「歯の供養碑」説明板には、本碑の起源は昭和参拾年ときの会長田村良三氏の発案により全国に先がけて我々歯科医師の日常抜去した歯牙を祀り世の人の健康を希い生きとし生けるもの全ての生命安らかにして幸いならんと祈り当時寒田神社宮司薮田喜作氏の指導により全会員が抜去歯牙を持ち寄り毎年秋の彼岸に供養を始めた事に由来するものである爾来歯の供養祭として会員の心の寄りところとなってきたが会長の提唱により本行事を永く後世に残さんと宮司薮田義文氏の理解ある協力によって歯の供養碑をここに建立する。 昭和五十一年九月彼岸 足柄歯科医師会天神社 神明社 熊野社(写真はネットから)。扁額には「天社神 神明社 熊野社」。「天社神」と書かれていたが「天神社」であろうか。社の中には三つの石祠が並んでいた。一番左側の「境内社」。手前から「境内社」「天社神 神明社 熊野社」「祖霊社」と並んでいる。木立の中に建つ本殿で、慶応4年竣工の流造で間口二間奥行二間。建物に扁額が無くわからなかったが倉庫であろうか。その倉庫の左前に社の中に祠が寄り添って。明治二十七八年之役陣込軍人之碑。「二十七八」は二十七と二十八年であろうか?。15:10寒田神社の参拝を終え駐車場へ向かう。新十文字橋下 公衆トイレ。男子トイレはユニークで右奥の壁に便器が据えられていた。15:10酒匂川臨時駐車場へ戻る。富士が見えまだ多くの車が駐車していた。小田急小田原線の橋梁。この橋梁の下流側で川音川が合流する。15:15駐車場から西平畑公園、右上に「あぐりパーク (菜の花畑) 会場」を見上げる。今日の予定を全て終え家路についた。駐車場から県道72号線(松田国府津線)へ戻り東へ向かう。上は東名高速道路の高架。川音川の手前にある籠場(かごば)交差点。前方は小田急の踏切。県道72号線を直進し国府津方面へ向かう。県道72号線(松田国府津線)を南下、この先で国道255号と合流する根岸交差点が渋滞しているので手前を左折して裏道へ進む。途中国道255号へ戻り、再度県道72号線(松田国府津線)を南下、中河原交差点。県道沿いには曽我の梅林が広がる。車窓からの白梅が満開。曽我の梅は「十郎」が多いと。曽我梅林で開催される「小田原梅まつり」は、2/4(土) ~ 2/26(日)であった。よってこの日は、2/27(月)で梅まつりは終了していた。更に県道を南下、下曽我駅入口交差点。この辺りの梅園も満開。県道72号線(松田国府津線)は国府津で国道1号と合流。紅白の梅が綺麗に咲いていた。紅梅の枝垂れ梅が綺麗に咲いていたので路肩に車を停め撮影。曽我別所公民館 (満江御前屋敷跡)所在地:神奈川県小田原市曽我別所126満江御前(まんごうごぜん)は、曽我兄弟の母と伝わる女性である。満江御前屋敷は曽我別所にある鎌倉時代の舘跡で、現在は一軒家のような、曽我別所公民館になっている、その敷地が、満江御前の屋敷跡とされると。梅まつり会場を通り過ぎたが折角来たので折り返し梅林へ戻る。梅まつりは昨日の日曜日に終了していたようで駐車場もなくなっていた。仕方がなく農道の路肩に一時停めて撮影。枝垂れの紅梅が丁度見頃であったようだが。ズームアップ。枝垂れ梅をズームアップ。白梅も満開でこれからは実が成長し6月には収穫。ズームアップ。富士が見えていたので露出を変えズームアップ。右手前は富士に似た矢倉岳。枝垂れ梅が見事に咲いていた。じっくり見たかったが駐車場がなく。曽我梅林を後にし帰路につく。県道沿いの民家の庭先に整姿された枝垂れ梅が見事に咲いていた。16:20国道1号の橘インター入口交差点を右折して西湘バイパスへ。橘インター入口。ここから西湘バイパスを利用すると無料になる。まだ時間が早く渋滞もなく順調に進む。西湘二宮出口二宮の先輩と同行する場合はここを右折して自宅へ送るのだが今日は一人ドライブのため直進。大磯東インタ以前は慢性的な渋滞ポイントであったが、この先の平塚区間が片側2車線になったので解消?平塚市内へ入る。16:45国道134号の浜見平入口交差点を左折して左富士通りを北上、石原橋からの左富士。露出を変更して富士をズームアップ。今年は神奈川県下の3ヶ所の河津桜を楽しんだ。この日は、松田町の桜まつりを堪能、併せて近くの寺社史蹟を訪れた1日でした。松田町内を歩いたので今日一日の歩数は11,000歩になりました。 END
2023.04.20
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今年もナンジャモンジャの咲く時期になり愛車のリンちゃんで訪れた。4月17日(月) 10:30高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼473成就院は花の寺として知られており境内には四季折々いろんな花を咲かせている。寺号標石の傍に立っていた庚申塔には「元禄○○年」と。本堂前には竹の筒に供えられた花。4月8日(土)にはお釈迦様の誕生を祝って 「はなまつり」が開催された。釈迦の誕生を祝い、仏像に甘茶をかけ、健康や子どもの健やかな成長を願う伝統行事である。本堂の右側に「成就院寺務所」があり「樹木のお墓」の受付を行っている。また、墓苑の管理事務所にもなっている。本堂前の鉢に植えられていたナンジャモンジャは満開になっていた。本堂前に咲いていた「クロバナロウバイ」。クロバナロウバイは、香る濃緑色の葉、多数の花弁からなるチョコレート色の甘く香る花が特徴です。樹高は1mほどにしかならず、多数の枝を出して茂るので、宿根草花壇のアクセントに植えてもよいでしょう。変種のアメリカロウバイは、クロバナロウバイに似ていますが、全体に大型で、葉裏に毛がなく、花の香りが弱いことで区別できます。いずれも栽培は容易で、寒さにも強く、毎年よく花をつけます(ネットより)。本堂裏の墓地に聳える満開のナンジャモンジャの木。手前にナンジャモンジャ、後ろにハンカチノキ。ナンジャモンジャ、ハンカチノキを見上げるご婦人。”絶滅危惧の白い花咲く”花で、通称「ナンジャモンジャの木」と呼ばれている。学名は「ヒトツバタゴ」で通称 ” なんじゃもんじゃ ”。ヒトツバタゴはモクセイ科の落葉広葉樹。国内では自生地が限られ、絶滅危惧種の指定を受けている。同院では平成15年(2003)に移植された。今年は10年前に同木から株分けした若木も花をつけ、境内を一層華やげている。ナンジャモンジャの木は4月のこの時期に雪が積もったような光景を見せている。例年はこの広場にテントを張り休憩所にしているのだが、今年はまだ未設置であった。10年程前に株分けされた若木が鉢に植えられていた。ナンジャモンジャの木を見上げる。枝先に白い花を咲かせている。枝をズームアップ。こちらはハンカチノキ。今年は多くの花を持っていた。ハンカチノキはミズキ科の落葉高木。中国の四川省・雲南省付近原産。属名のダビディア で呼ばれることも多い。花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がりよく目立つため、日本では「ハンカチの木」や「幽霊の木」などと呼ばれる(ネットより)。ハンカチノキの幹。ハンカチノキの葉。ナンジャモンジャの木と同様に十数メートルの木を見上げる。いつもは訪れる遅くて見れなかったが、この日は多くの花が枝先に。露出を変更して撮影、花が白いので目立たない。ズームアップ。花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がっている。ズームアップ。本堂裏の墓地にある「樹木のお墓」に咲くツツジ。送電線の鉄塔の間に富士がうっすらと。ズームアップ。 END
2023.04.19
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十王尊像石仏から矢倉沢往還へ戻り次の目的地「巌根跡」、「寒田神社」へ向かった。2月27日(月) 14:40道路脇に「寒田神社 車輛入口」の立札を見つける。巌根跡の後に訪れる寒田神社。スマホの案内で「巌根跡」へ向かう。松田駅から十文字橋への道脇に、寒田神社の社号標石を見つけこの道を入る。例祭日には入口に提灯掛けが立つと。社号標石には「寒田神社」と。巌根跡 (いわねあと)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1773道路から小路へ入ると、左手にGoogleマップに載っていた「巌根跡」の石碑。ここは矢倉沢往還の道筋で元高級旅館・巌根の跡地で御殿場線開通以後、藤棚庭園と鮎料理等で人気を呼び、道了尊参詣者等で繁昌したと。現在跡地は小学校のプールとなっている。この小路は矢倉沢往還であるのか、手前に社号標石があったので参道なのか。その小路にあった側溝蓋。まつだのおすいマンホール蓋。松田町無形重要文化財である「松田大名行列」のデザイン。14:55寒田神社 (さむたじんじゃ)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767寒田神社の創建年代等は不詳ながら、倭建命東征に際して当地に滞在、御東征の成功を祈願して川に酒を流したところ、御帰還の折も尚酒香高く残っていたことから酒匂川と名づけられたと伝えられている。明治維新後の社格制定に際し明治七年郷社に列格、大正二年天神社2社を合祀、昭和十六年県社に昇格した。当社祭礼では大名行列、七五三、奴ふりが奉納され、松田町民俗芸能文化財に指定されている。鳥居の左側に建つ石碑。石碑には「相模國延喜式内社 寒田神社 相模一之宮寒川神社宮司多田一馬 謹書」と。延喜式内社について延喜式とは平安時代中期醍醐の時に完成した法制書です。この式の神明帳に掲載されている神衹官の管轄する神社を延喜式内社。略して式内社といって全国で二八六一社あります。相模国には十三の神社名がのっています。当社はその一つです。このことから寒田神社は県西地区では唯一の式内社で、延喜式の完成当時すでに有力な神社としてこの地に鎮座していたことがわかる古社です。社伝では仁徳天皇三年(西暦315年)の御創建で古来より篤い信仰を集めていた由緒ある神社です。 鳥居寄進芳名寄進金額と多くの方々の名が刻まれていた。鳥居の右側に建つ由緒説明板。寒田神社 (さむたじんじゃ)一、鎮座地 神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767番地一、祭 神 倭建命(ヤマトタケルノミコト)、弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)、菅原道真公(≒天神様) 誉田別命(ホンダワケノミコト≒八幡様)一、由 緒 ご創建は仁徳天皇三年(西暦三一五年)と伝えられ平安時代には延喜式の神名帳に相模国 の十三社の一つとして載っている古社です。 思うに一万年ぐらい前から堆積や地震による隆起により足柄平野が形成され開拓が進め られてきた過程で人々の心の拠所としてこの地に建てられた神社であります。 源頼朝はしばしば立ち寄った松田亭より年々玄米十石を奉献し徳川家光も朱印地百五十 石を寄進するなど尊崇されてきました。 時代はさがってアメリカの最初の宇宙飛行士ジョン・グレンさんも当社の祈祷神札を受 けて無事成功され大願成就の参詣をされた。昭和十六年に県社になり昭和四十三年には 神社庁より献幣使の参向する神社に指定されている。一、例祭日 七月三十一日 句碑であったか「○○○○」と。昭和四十六年六月十日指定松田町民俗芸能文化財 松田町大名行列 松田町大名行列は、明治の初め、殿様の大名行列の形を寒田神社の祭礼行事の中に取り入れようと、大久保藩(=小田原藩)ゆかりの方にお願いして許可を得て、「奴振り」の師匠から伝授されたのが始まりだと言われています、従って最初の頃は大名行列というよりは、祭りの行列の中へ「奴振り」を組み入れたものとして演じられ、親しまれてきました。神社祭礼の日に神輿や天狗の行列の中に加わって町内を巡行していましたが、戦後になって町行政と分離することになり、昭和五十一年に「大名行列保存会」という組織で運営されることになりました。本町の大名行列の特色は、寒田神社社誌にある祭礼行事の中の「赤坂奴」にあたる部分がその中心をなすもので、弓、先箱、毛槍、大鳥毛の道具を使用する「奴振り」と呼ばれるものです。昭和五十二年に神奈川県民俗芸能五十選の一つにも選ばれました。また、毎年八月、町の観光まつりの目玉として町内を巡行し、その人気を高めています。 平成二十七年十二月 松田町教育委員会鳥居を潜り境内に入ると奉納者の名前を彫り込んだ玉垣の中に石碑が建っていた。左側には、堅牢地神碑。詳細は説明板が無く不明。中央には「風害記念」と。維持昭和七年十一月十四日俄然台風襲来夜ニ至リ・・・字が判読できず・・・台風による被害が刻まれていたようだが、カタカナ入りで。 昭和八年六月 建之境内の右側に建つ神楽殿。左側の手水舎。水屋再建記念碑 平成九年七月十六日寄進金額と多くの方々の名が刻まれていた。竹林の中に「仙元大神」の碑。石畳の先に社殿。右側にマスクを取り外した狛犬。新型コロナもようやく落ち着いたのか狛犬 (左側) もすっきり。拝殿の扁額には「寒田神社」。拝殿前から境内を振り返る。落葉した木の下に神楽殿が建っている。寄進者の名前を彫り込んだ記念碑。神饌殿寄進芳名10名の名前が彫り込まれていたが金額は「金壱仟圓也 ~ 金弐百圓也」。碑の建立日を確認できなかった。石積まれた台座の上に「忠魂碑」。社殿の右手前に朽ち果てた大樹が立っていたが御神木であったのか。社殿改築記念碑寒田神社は仁徳天皇三年亥十一月の御創建で倭建命弟橘比売命誉田別命菅原道真公を祀り、延喜式内相模十三社の一に位し社領壱百五十石を賜り上古より上下の尊崇の厚い神社であります。旧社殿は明治初年の建築でありましたが老朽の程度も多くなりましたので、このたび氏子崇敬者の御協力を得て大正四年御大典記念として惣領と庶子の入会権者の方々が寄附された松田山の原野十町歩を松田山開発により売却しこれを基金とし、更に氏子崇敬者の特別寄附を加えて今上陛下の喜寿を記念して御社殿を改築いたしました。設計を竹澤古典建築設計事務所に、施工を株式会社下田組に、内装を大槻装束店並に高田装束店に依頼し、昭和五十三年一月着工一年有余の歳月を経て昭和五十四年二月竣工をみるにいたりました。御本殿は流造り、拝殿は切妻千鳥破風、向拝を切妻平入造りで、古来の技法を生かし近代建築の粋をつくし耐震耐火鉄筋コンクリート銅板葺であります。 昭和五十四年三月二日耐震耐火鉄筋コンクリート銅板葺の社殿の右側に廻り込む。社殿脇に、「史跡 腰掛石 創建 1670年 記念事業 平成七年十一月二十三日」。 背後には「倭建命〇〇趾 腰掛石」と。日本武尊が腰掛けたという伝説のある石です。『相模の古社』では、この石を古代の磐座ではないかとしています。社殿の右奥に聳えていた「寒田神社のカシ」。カシの木を見上げる。神奈川県 かながわの名木100選 寒田神社のカシ 和名:イチイガシ (ブナ科)幹はまっすぐに伸び、県内のカシ類の中では最も樹高の高いものである。イチイガシは県内ではきわめて少く貴重である。 樹 高 30メートル 胸高周囲 3.0メートル 樹 齢 約500年 (推定) イチイガシは、関東南部から九州に分布する常緑高木である。樹高30メートル、胸高周囲 5メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。社殿の裏には境内社が建っていた。右奥には「寒田稲荷」、左に「祖霊社」。鳥居の先には「稲荷大明神」の幟が立っていた。稲荷社の前にも朱色の鳥居、社の廻りには多くの石祠。幟には「奉納 正一位稲荷大明神」奉納者の名前が書かれていた。石祠の前には榊が供えられていた。左側に並んでいた石祠。祖霊社15:05祖霊社の右側に建つ石碑には「境内社寄進芳名」。祖霊社の扁額「祖霊社」。 ー 続く ー
2023.04.19
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延命寺の参拝を続ける。2月27日(月) 14:05延命寺放光殿昭和25年に延命寺25世洞雲素禅大和尚によって建立されました。南足柄市・足柄上郡の1市5町の第2次世界大戦で亡くなられた方への追悼の英霊堂です。中には入ることは出来ませんが英霊の御霊を供養しております。2年に1回法要をして、戦没者のご遺族の方と共にご供養致します。放光殿の天窓の飾り。放光殿の東側に本堂。本堂前へは珍しい車道がある。六地蔵の右側に「浄心亭」。本堂前は狭く、全景が入らないので境内から撮影。工事中の仁王門。仁王門の前にあった石祠。祠前にはお酒が供えられていた。延命寺の山門前から「あぐりパーク (菜の花畑) 会場」を見上げる。山門前には開花前のソメイヨシノの老木。14:08延命寺を後にし松田駅へ向かう。14:10延命寺から県道72号線(松田国府津線)を西へ向かい、新松田駅入口交差点。山の中腹に「あぐりパーク (菜の花畑) 会場」。レトロなボンネットバスが走っていた。行き先は「山北駅 ⇔ 新松田駅」。車のナンバーも「11-22」の「いい夫婦」と。同交差点から「あぐりパーク (菜の花畑) 会場」を見上げる。東名高速道路を挟んで延命寺の裏にある墓地をズームアップ。JR松田駅所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1879-3交差点を左折して駅前へ、新しい駅舎だが無人駅であった。松田駅のホームは2面3線で、一日の乗降人員は 3,305人 (降車客含まず 2010年)、最近は減少傾向である。駅の南にある小田急小田原線の新松田駅と乗り換えが可能である。開業は1889年(明治22年)2月1日で、開業時は東海道本線の一駅であった。西畑平公園へのシャトルバスを待つ多くの観光客。電柱の後方には富士山が顔を出していた。近距離きっぷ運賃表茅ヶ崎まで510円、東京駅までは1,520円。東京までは私鉄の小田急を利用した方が安価であるので客はそちらに流れると。御殿場線時刻表西平畑公園から見た列車は、「13:18発 新宿行 特急ふじさん4号」であった。運行は1時間に2本 ~ 1本と少ない。1番線はホームが長いので、小田急の「特急ふじさん」専用ホームであるようだ。かつては上り線であったようだが。御殿場線は跨線橋を渡って、2番ホーム 国府津方面、3番ホーム 御殿場・沼津方面。新松田駅との連絡口の南口がある。次の目的地は、事前に調べていた道祖神へ。松田町の道祖神は全部で44基あり、その内の80%を双体道祖神が占め、その他として石祠・自然石・道標・伊豆型他が点在していると。JR松田駅の御殿場側の矢倉沢踏切から松田駅を。左側は1番ホーム。右側が1面2線の御殿場線ホーム。矢倉沢踏切から山北・御殿場方向を見る。中央右に、かつての矢倉沢踏切跡の3本のコンクリートの柱が現存している。矢倉沢踏切を渡ると右前方の民家前に道祖神が並んでいた。中沢道祖神 (石祠・五輪塔・文字塔)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1934この辺りはかつての矢倉沢往還の宿場町として栄えた松田だけに道祖神が多いようだ。後方は矢倉沢踏切。民家の前に道祖神、石祠、五輪塔が並んでいたが字は風化して読みとれなかった。矢倉沢往還人馬継ぎ立て場矢倉沢往還は江戸・赤坂御門前から三軒茶屋、長津田、厚木、松田、御殿場を経て東海道・沼津宿に至る街道で、東海道の脇往還として機能。途中に矢倉沢関所が設けられていたことから「矢倉沢往還」と呼ばれていた。元々は律令時代に開かれた機内と東国を結ぶ主要街道(古東海道)で、官道として機能していたが鎌倉時代に箱根湯坂道が開かれ、さらに江戸時代になると箱根東坂 ・西坂が本道になり裏街道という位置づけに変わってしまう。しかし、江戸中期から庶民の間に大山講が盛んになると宿駅が整備されていた矢倉沢往還が、参詣道として利用されるようになり大山阿夫利神社までの道を大山街道あるいは大山道と呼んでいた。石 仏中沢道祖神から戻り、矢倉沢踏切手前を左折すると直ぐにあった社。由来は判らないと、祠の中や脇には五輪塔や石碑が無造作に重ねられ詰められていた。石仏前から矢倉沢踏切を振り返る。堅牢地神塔・石仏・石塔 (自治会館前)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子101こちらも石仏の直ぐ先にあった谷津薬師堂。自治会館前に並んでいた右から、「秋葉大権現」「堅牢地神」「奉納 供養塔」「石仏」の石塔群。入口に「谷津自治会公民館」の表札。矢倉沢往還・当町内『松田惣領・庶子境道コース』◆ 矢倉沢往還『松田惣領・庶子境道コース』 この谷津薬師堂の前の道を南下する小学校の脇の道は、元禄7(1694)年に小田原藩からの 通達で、道の東側を上松田(松田惣領)、西側を下松田(松田庶子)とする境道です。 この「境道」や矢倉沢踏切を通る道を当町の「矢倉沢往還3コース」のうちの「松田惣領・ 庶子境道コース』として神山・河内から「十文字橋」や「沢尻の渡し」に至る道筋です。 なお惣領、庶子の字名は中世の名残りで、貴重な地名と言われています。◆ 谷津の薬師堂と石仏群 この堂は「谷津のお薬師さん」で、立派な薬師如来坐像が安置され、往古にはお盆やお彼 岸にお念仏を捧げ、現在も地元の人達に敬愛されています。明治17(1884)年には、「三育 学校」(現・大井町と松田町の小学校)の松田地区の幼年児童の分校でした。境内には堅牢 地神(土地の神)、秋葉大権現の石塔(火伏の神・火災予防)などがあります。 ※ 堂内の薬師如来坐像の写真参照。◆ 矢倉沢踏切 御殿場線・松田駅近くの矢倉沢踏切の元の踏切(昭和44年廃止)は、約20m山北寄り(酒屋 さんの裏)にあります。 矢倉沢から程遠い、この松田の地・踏切に、なぜ「矢倉沢」という命名なのかを調べると、 松田駅近郊の多くのJRの踏切名は、その場所の「字名か近くの公的・歴史的なもの」を 意識している様であり、鉄道開通前から矢倉沢街道が存在していたからでしょう。同類の 踏切名として、東海道本線沼津駅近くに「箱根裏街道踏切」や東京の代々木には「青山街 道踏切」があります。 ※ 矢倉沢踏切跡(3本のコンクリート柱)写真参照。□ 甲州道(出典「松田町皇国地誌残稿」からの呼称) ※ 簡略地図参照 薬師堂の前を西方に直進する道は、矢倉沢往還から外れますが、松田庶子地区に向かい、 路傍に石仏が多く点在し歴史観があります。寒田神社の別当であった本山修験宗大蔵院、 松田城址(松田新次郎康隆)、桜観音(宝寿院)、最明寺址、唐沢古代瓦焼窯(ここで焼かれ た軒丸・平・丸瓦の一部が、海老名の国分寺や小田原・千代寺院跡より出土)の移設場所 等に行けます。なお、この道を古老は鎌倉街道とも言います。 令和4(2022)年3月 松田町教育委員会右上:薬師堂内の薬師如来坐像右下:矢倉沢踏切跡(3本のコンクリート柱)左下:矢倉沢踏切赤の太線が、神山からの「松田惣領・庶子境道コース」である。薬師堂から甲州道を進み、谷津自治会公民館を振り返る。薬師堂を後にし新十文字橋下を潜り抜け、西へ向かい次の目的地へ向かうがこの道は甲州道。よって、この道は矢倉沢往還から外れている。宮之脇双体道祖神・石仏所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子231谷津薬師堂からの甲州道の路傍には石仏が多く点在し歴史観を感じさせる。来た甲州道を振り返る。双体道祖神、石仏の前にはお供え物もあり、清掃用のほうきも用意されていた。地元の方の信仰深いことを感じさせる。宮之脇双体道祖神・石仏の西側にあった2基の石碑。後方には西平畑公園の河津桜会場。十王ノ由来吉田家祖先吉田三良左エ門佛法ニ帰依シ地蔵菩薩ヲ守本尊トシ一堂宇ヲ松田町庶子三○○番地ニ建立シ十王(石材彫刻)ヲ併置スルノ因縁ニ依リ十王堂ト称ス子孫ニ遺言シテ永年堂宇ノ修理ヲ怠ラブルフヲ諭ム以テ当家ノ繫栄子孫ノ長久ヲ祈ラシム其ノ祈願空シカラズシテ嗣子ヨリ嗣子ニ相得スルフ茲ニ十代吉田清ニ至ル実ニ是祖先遺徳ノ供思ニ因ルト信ズ順風満帆ノ吉田家十一代相続人長女安輝子次女洋子何レモ病魔ニ依リ早逝シ長女安輝子ノ為昭和五十一年五月二日三回忌ヲ期シ延命寺境内ノ一角ニ十王ヲ移シ追善ヲナシ其ノ菩提ヲ弔ハントス維時五月十七日ハ祖祖先二百六十三年ノ遠忌ニ当ル十王ハ六地蔵隣地ニ安置 昭和五十一年五月二日 松田町庶子四六三番地 吉田清 建之こちらも「十王の由来」十王尊像石佛祖先三良左エ門・・・先の石碑と内容は同様につき中略・・・・・・長女安輝子次女洋子は東京青山に眠る 昭和五十一年五月二日 建之 十王尊像石仏所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子298石碑には、十王尊像石仏を延命寺六地蔵の隣地より平成元年五月十七日祖先二百七十六年の遠忌に現地に移し二代目松田町町長祖父清太郎 父復三(東大材科卒)共に十文字橋近くに現在せる測機舎は創立当初多大の出資に依り出来せし工場にて母ツヤ(昭和三年十一月亡)十代目清の嫁八重子は一回の面接にて同年六月六日決定最愛の妻八重子は稀に見るべっぴんにと以来六○有余の永き年月それはそれは楽しい生活に終始さづかりし愛児は相次いで失い以来至って二人きりのさみしい生活に様変り東京より横浜の金沢八景の結婚当初の両人のみの愛情ある生活にうつり関西方面への旅行に数回近くは箱根を始め鎌倉・江の島等其の間、お習字に数年をたづさわり楽しき生活も五十五年十月十七日を以て愛妻八重子は脳血栓に始まり内臓の病気・右脚の骨折にて完全に療養生活終始。八重子とのそれはそれは楽しい生活、こんな仲の良い夫婦はないとの御知合の方々のお言葉、足かけ九年の入退院の生活も六十三年の六月十一日朝食后、元気は良好なりしも急変、急性心不全が直接死因にて小生と永遠の別れとなる。特に母ツヤ愛妻八重子永代の六地蔵供養と同時に菩提を弔はんとす 平成元年六月十一日(八重子一周忌) 本宅 松田町庶子四六三番地 吉田 清 建之社の中にはいろんな石仏が奉納されていた。14:35十王尊像石仏の後方に、「十王の由来」碑が二基ある。 ー 続く ー
2023.04.18
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西平畑公園の河津桜を見た後は、曹洞宗 萬松山延命寺を参拝。2月27日(月) 13:45延命寺山門松田町にある曹洞宗のお寺で550年の歴史がある。北条氏の家臣である遠山直景が所領し、延命寺は開基され文明4年(1472)相州久野村総世寺3世の一宇宗箇大和尚によって開山された。延命寺は別名を「牡丹寺」と言われてボタンで有名なお寺であると。山門の左側にも建物があったがネットを張り工事中であった。観音堂の前に建つ建物で仁王門。写真はネットから。山門を入り石畳の参道脇には開花前のソメイヨシノの古木。延命寺の例祭は初観音(1月18日)、牡丹祭り(4月29日)、四万八千日(しまんはっせ) (8月9日)の三大祭りがあり、他にだるま市(12月28日)などでもにぎわっている。本堂への参道には梅の花が咲いていた。参道の右側に「不許葷酒入山門」の石塔。多くの石塔が並んでいた。右側には「馬頭観世音」左側には「庚申供養」。こちらには右に「堅牢地神」「水道記念碑」。水道記念碑彫が浅く読み取れなかった。二本の木が聳える「観音堂」。観音堂は宝永3年(1706)に現在の松田町沢尻地域から移転・再建された。原因は元禄16年(1703)の地震と洪水と言われている。再建した観音堂も大正12年(1913)の関東大震災によって全壊したが昭和2年(1927)に現在の場所に再建された。観音堂の中には厨子があり、その厨子の中に聖観音立像と薬師如来立像があり、さらにその二体の仏像の中に胎児のように馬頭観世音像があると言われている(行基作)。初観音例祭では中に入ってお参りすることが出来る。また、厨子のご開帳は12年に1回で午年に開かれますと。観音堂の扁額「観音堂」。延命寺観音堂の三仏像 松田町重要文化財一、薬師如来座像 鎌倉時代初期の作と考えられる寄木造りの座像で、高さ六五cm、薬壺を持たずに、両手 は定印を結んで正座した端正な姿には、威厳がそなわっています。二、聖観音菩薩立像(本尊) 鎌倉時代末期の作と考えられ、像高一五三cm光背の高さ一七三cm、姿体が豊満で顔に 慈愛がこもっていて、念じる人の迷いを解いてくれる感じがする。 頭には、銅製の鳳おうのすかし彫りの冠をつけ、左手には蓮華の壺を持っています。三、薬師如来立像 室町時代初期の作で、像高一四五cm、光背の高さ一七三cm左手に薬壺を持ち、右手で これを護っている慈愛に満ちた姿からは、ありがたさが感じられます。 平成十年三月 松田町教育委員会 観音堂の右側にポックリ堂。観音堂の右側に「奉順○ 西國坂東秩父 記念碑」が建っていた。こちらは「山王大権現」の石塔。観音堂脇から山門を見下ろす。右側は工事中の仁王門。ポックリ弁天堂六角堂のポックリ弁天堂は、平成16年 延命寺26世素鳳辰哉大和尚によって建立されました。正面には弁財天様がさらに奥の方に大日如来様と阿弥陀如来様が奉られております。ピンピンコロリ亡くなりたいという素鳳辰哉大和尚の願いで建立されました。ご希望の方はどなたでも参拝頂けますと。ポックリ弁天堂の扁額「弁天堂」。中には弁財天様が祀られている。参道脇に咲く白梅。白梅をズームアップ。延命寺本堂境内の木々は職人さんの手によりよく手入れをされていた。本尊は聖観世音菩薩。本堂への参道には石橋があり両側には石燈籠、石碑が建っていた。 左側の石燈籠。第七代将軍徳川家継公菩提のためにどこかの大名により奉納された石燈籠であろう。その石燈籠の下に、有章院殿とは第七代将軍徳川家継公の事です。正徳丙申年は今から三百年前に当り、平成二十八年はそれから五回目の丙申年となります。こちらの石碑には、 「奉献石燈籠 武○三縁山 有章院殿 尊翁 正徳丙申年四月○日 従五位・・・・・・・ 昭和四十年代・・・・ 」と。 右側には「達磨和尚?」。八○七九作 海江山千○本堂前の常香炉。本堂はRC製で昭和45年(1970年)に建て替えられ現在の形になった。本堂の扁額「延命寺」。内陣の写真はネットから。本堂花天井は延命寺26世住職素鳳辰哉大和尚によって本堂と共に建立されました。花板に一枚一枚色を塗ってある珍しい花天井で、奥の内陣の天井も金色の板絵が何枚も張ってあり荘厳な雰囲気を出しております。本堂前から見下ろす。本堂前には多くの蘇鉄も植えられていた。本堂前の境内に建つ鐘楼。鐘楼上り口には「献燈 四国札所・西国札所・坂東札所・秩父札所 巡拝記念」の二基の灯籠。 参道の左側(東)には広い駐車場があり、白梅が綺麗に咲いていた。鐘楼横から参道を見る。右側に六角堂のポックリ弁天堂。参道から鐘楼を見上げる。白梅をズームアップ。境内の右側に小さな社が建っていた。茶 室平成16年(2004)建立の松延亭です。延命26世素鳳辰哉大和尚によって建立されました。松田町内にある株式会社中澤酒造様から木桶(大正末期に作られた物)を寄進頂き、その酒桶をそのまま茶室に造り替えております。中は丸の形で非常に趣があります。 4月29日のぼたん花祭りでは一般の方も中で抹茶を頂けます。ご希望の方はお貸しすることも出来ますので、お問い合わせ下さいと。使用時はこの四角の扉が開く。扁額には「松延亭」と。松延亭の由来 発案 延命二十六世 辰哉和尚 竣工 平成十六年十二月完成 木樽(大正末期に造られたもの) 容量五千六百九十三リットル 中沢酒造株式会社 寄進。 平成十七年四月十八日 延命寺ぼたん祭に併せて向切りの茶室茶処として一般に披露される。 延命二十七世 住持比丘俊英境内の右側に建つ「水子地蔵尊」と後方に紅梅。ズームアップ、後方斜面には東名高速道路が走る。子育 水子地蔵尊。子育 水子地蔵尊「オンカカカ カミ サンマエー ソワカ」(七回お唱え下さい)と。六地蔵と石仏。境内への入口に、「お寺まいりのすゝめ十箇条 積一、辺(ほとり)を過ぎて詣(もう)すべしたいし寄道(よりみち)を要(よう)せず二、暇(いとま)をつくりて詣すべしたいし無理(むり)を要せず三、思いたてば詣すべしたいし家業(かぎょう)を欠(か)くと要せず四、迷いあらば詣すべしたいし望外(ぼうがい)を望むべからず五、憂(うれい)きわまって詣すべしたいしすべてを委(まか)すべし六、志(こころざし)たたば詣すべしたいし加護(かご)を信ぜざるべからず七、喜びありて詣すべしたいしこれ信心のおかげなり八、忌日命日(きじつめいにち)に詣すべしたいし自発的な心を持ってなり九、招かれて詣すべしこれ願ってもなき好機なり十、正法(しょうほう)を求めんとして詣すべし人たるのつとめと心得べし 双体道祖神であろうか。水子地蔵尊の後方から境内、鐘楼。14:05延命寺は毎年4月29日に行われている「延命寺ぼたん祭り」が有名。見頃は4月中旬であると。 ー 続く ー
2023.04.17
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西平畑公園から下り松田山ハーブガーデンへ。2月27日(月) 13:15天使の展望台には多くの人が休憩していた。天使の展望台からの桜散策路。桜散策路には満開の河津桜、菜の花が咲いていた。西平畑公園ご案内展望台を見上げる。河津桜越しに大井第一生命ビル。河津桜をズームアップ。ピンクが鮮やかな河津桜。更にズームアップ。13:17JR御殿場線の松田駅にJRと違うカラーの列車。ズームアップ。下山してから松田駅の時刻表を見て「13:18発 新宿行 特急ふじさん4号」であった。東名高速道路を見下ろす。松田山ハーブガーデン松田山の日当たりが良好な南斜面に、面積3,667㎡のハーブ園がある。ハーブ館を見上げる。中国からの観光客であったか場違いの白いパンツで散策していた。後方は桜散策路からの入口。西平畑公園左後方には、十文字橋、新十文字橋が架かる。モノクロで!西平畑公園の河津桜。左下には車を停めた新十文字橋。橋を渡り西へ向かうと伊豆箱根鉄道大雄山線の大雄山駅へ。ハーブガーデンの見頃は、春のハーブフェスティバル毎年6月に開催されます。フリンジドラベンダーを中心にチェリーナ・ダイヤーズカモマイルなどがガーデンを彩ります。ハーブ館ではご自身で摘まれた花でクラフト作りも楽しめますと。秋のハーブフェスティバル毎年10月に開催されます。アメジストセージなどセージ類がガーデンを彩ります。ハーブ館ではご自身で摘まれた花でクラフト作りも楽しめますと。松田山ハーブガーデンの出口に立っていた像。像の台座に「松田山ハーブガーデン」。松田山ハーブガーデンの最下段部からハーブ館を見上げる。このハーブ館は東名高速道路の右側斜面に建つ目立つ建物である。桜まつり会場 (四合目) 会場入口。下の入口では長い列をなしていたが。ただここまでの坂が急であるようだ。直進すると「あぐりパーク (菜の花畑) 別料金」になります。左方向「桜まつり会場 (四合目) 会場入口。桜まつり会場 (四合目) 会場入口から急な坂を下ると朱色の鳥居が見えてきた。大山祇神社所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領説明板等が無く詳細は不明。社殿をズームアップ。社殿の扁額「大山祇神社」。社殿前から東を望むが相模湾も見える。急な坂を下って来たが車の進入は禁止。後方には西平畑公園の河津桜が覆い被さるように咲く。馬頭観世音菩薩所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領2955-1大山祇神社から更に下ると西平畑公園桜まつり会場 (四合目) への入口に立っていた。これだけの馬頭観世音菩薩が並ぶのは珍しいのでは。文久三年(1863)の菩薩も。石碑には「馬頭観世音関係者」。氏名が刻まれていた。あぐりパーク (菜の花畑) 、桜まつり会場 (四合目) への入口。13:35西平畑公園、ハーブガーデンから下り次に近くにある「延命寺」を訪れることに。スマホを「延命寺」にセットして坂を下る。松田町消防団第一分団スマホの案内で坂を下り振り返る。後方には東名高速道路、西平畑公園、ハーブ館。松田町生涯学習センター所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領2078近隣3市8町在住在勤の方ができる、ホール施設と公民館施設を兼ねそなえた総合文化施設として、町民の文化の向上を図るために建設されたもので、ボルダリング施設もある。センターの西側に「三笠宮寛仁親王殿下記念植樹」。三笠宮寛仁親王殿下記念植樹 昭和56年7月7日裏山には今回訪れなかった「あぐりパーク (菜の花畑) 会場」。曹洞宗 萬松山延命寺所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領2160延命寺の開山は文明4年(西暦1472年)久野村総世寺3世宗箇和尚(曹洞宗)です。開基は小田原北条氏家臣の遠山丹羽守直景です。時代劇に出て来る桜吹雪の刺青で有名な遠山金四郎はこの遠山丹羽守直景の直系にあたる人だと。また、このお寺には明治6年(西暦1873年)、松田小学校の前身となった貫穿舎が設置された。これは以前からの寺子屋のつながりと思われますと。県道72号線(松田国府津線)沿いに建つ寺号標石の門柱には「曹洞宗 延命寺」と。参道を進むと、左側に「万霊塔」の石塔。13:45境内には花が咲き乱れ東国花の寺100ヶ寺に登録されており、花の寺の御朱印がある。 ー 続く ー
2023.04.16
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西平畑公園チェリーナの丘の散策を続ける。2月27日(月) 12:50子どもの館手作りの雛のつるし飾りは、感染症対策のため、館内への立ち入りはできません。外からの御鑑賞をお願いしますと。入口に「雛のつるし飾り会場」と。館内に入れず外から鑑賞。正面からの雛のつるし飾り。右側に廻り込み館内を。つるし飾りと段飾り、近くで見たかったが。柱が邪魔になり館内に入れなかったのが残念。つるし飾りをズームアップ。左側に廻り込み。ズームアップ。子どもの館の前には多くの観光客が訪れていた。チェリーナの丘には多くの観光客。西平畑公園ご案内西平畑公園からの相模湾小田原城天守閣(7)の右側の凹みの右肩辺りに、真鶴半島の鶴の口に当たる三ツ石の岩が見えます。そして、少し風の強い日には(8)と(9)の間に、まっ白な潮しぶきの一線も見えます。ハーブ館の展望台より少し高い東橋倉のみかん畑や、山頂の道からは、満月・新月の日前後の引き潮時には岩肌の一線が見られます。また、厳密には、三浦半島先端の城ヶ島と伊豆稲取を結んだ線の北側が相模湾、南側が相模灘と呼ばれますが、具体的には、ここ166mの公園から見える地平線の辺りがその線となります。島影で面白いのは(3)と(4)の間に隙間があることです。国土地理院の20万分の一の地図(横須賀・三宅島)を貼り合わせ西平畑公園から線を引いてみると、地図の上では二つの島が重なっています。二つとも地平線からはるか遠くにあるため低い所は見えないのではないかと思います。イラストは「西平畑公園(約166m)から見た相模湾方面のイメージ図」。島の名前の覚え方 お(大島)と(利島)に(新島)聞えし(式根島)神津島。・松田山:標高 568m、・西平畑公園:海抜 166m。ー 西平畑公園からの相模湾 ー西平畑公園から酒匂川の下流の小田原市街地を望む。手前のかまぼこ型の屋根は、松田町立松田中学校の体育館であろう。手前の橋は、足柄紫水大橋。橋からの富士の眺望が最高。酒匂川のゆったりとした流れ、上流側には瓢箪池がある。小田原市内の小田原城を望む。小田原城の後方にはうっすらと伊豆諸島の利島(としま)が見えていた。この木は枝垂桜であったか。掃除小僧台座には「いつも心にほうきを」この像は訪れた人々にきれいにする心を持ってほしいと願っています。人に迷惑をかけないよう素直でやさしい人になりましょう。西平畑公園の斜面を見下ろす。菜の花とのコラボ。曽我、国府津方向を望む。東側の東名高速道路を望む。この辺りから下り線は4車線になりかつての慢性的な渋滞に対応。再度小田原市街地を望む。松田山ハーブガーデンのハーブ館。ハーブ館の1階には売店があり、ここでしか買えない「ハーブティー」「米粉の奴さんクッキー」などの商品を始め、足柄平野産のお土産などが購入できる。松田山ハーブガーデンを見下ろす。南斜面いっぱいに広がるハーブガーデンからは相模湾沖や足柄平野が見渡せます。空中庭園のような園内をめぐる小径を歩けば、景色のパノラマと季節ごとのハーブが楽しめる。左から小田急線の橋梁、中央に十文字橋、左に新十文字橋を見下ろす。西側には矢倉岳、富士が見えていた。ハーブ館裏には多くの特設テントの屋台村がでていた。石焼いも 一個 400円 と高価。おでん、味噌おでん、甘酒等も販売。こちらでは、 「トリプルバーガー 肉×肉×肉 2,200円(税込)」 「ベーコン・チーズバーガー 1,450円(税込)」 「ワイルドバーガー 1,300円(税込)」 「ダブルバーガー 1,700円(税込)」 と高い。観光客は高齢者が多いのでこのようなものを食べる人は少ないのではと。こちらでは、いろり焼きの魚を販売。さくら鱒 1匹 600円、あゆ 1匹 600円 と。1000円札を2枚用意して購入する人が待っていた。いい香りがしていたが、お酒が無いと・・・。子どもの館前には「まつり本部」が設置されている。広場にはスカイスウィングがあり子供達が楽しんでいた。13:10河津桜を見納め西平畑公園チェリーナの丘から下りることに。桜散策路を下りる。満開の河津桜、菜の花を見上げる。ズームアップ。右遠方には相模湾が見える。大井第一生命ビルをズームアップ。13:15芽が出始めた満開の河津桜。 ー 続く ー
2023.04.15
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桜散策路をのぼり西平畑公園のチェリーナ丘へ向かう。2月27日(月) 12:05河津桜の間に”太陽のすべり台”があり子供たちが楽しんでいた。ママは下で待ち、数十メートルのローラーすべり台を楽しむ。松田町、小田原市街地を見下ろす。酒匂川に架かる小田急線の橋梁、シャトルバスの発着場がある十文字橋をズームアップ。開成水辺スポーツ公園軟式野球場所在地:神奈川県足柄上郡開成町吉田島小田急線の下流の河川敷にある野球場で、かつて試合をやったことがある。手前の広場は”あしがら花火大会観賞場所”になっている。さらに酒匂川の下流側を望む。桜散策路をのぼり河津桜が満開のチェリーナの丘へ。西平畑公園の東にある松田山ハーブガーデンのハーブ館が見える。チェリーナの丘にある、桜 散策路入口。河津桜の合間から新十文字橋を見下ろす。愛車はこの橋の上流側に停めたが多くの車が駐車していた。橋の下流側の杜は寒田神社で下山してから参拝予定である。西平畑公園ご案内西平畑公園チェリーナの丘にあった、「伊豆 箱根 足柄 富士の山々・相模湾の島々」。相模湾の島々までの距離。箱根 足柄 富士の山々の標高。西平畑公園チェリーナの丘は、「関東の富士見百景」に指定されている。 富士山の見えるまちづくり 地点名 西平畑公園 ハーブ館ほかからの富士 平成17年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈 (社) 関東建設弘済会西平畑公園チェリーナの丘のシャトルバス発着場。駐車場もあったが満車。利用料金も普通車:1,000円。金時山、矢倉岳、富士山と見えていた。見上げると、上弦の月が出ていた。ズームアップするがお月さんにピントがあわず。今年の富士の積雪は多いのか。宝永山にも積雪。河津桜とのコラボ。河津桜にピントを合わせ撮影。松田町寄自然休養村案内板 ・キャンプ場 ・ドッグラン ・宿泊・民宿 ・フィッシング ・日帰り入浴 ・スポーツ ・観光農園 ・ゴルフコース ・公共施設 ・広域避難場所 ・その他のお問い合わせ先 の案内場所を変えて富士を望む。左下を酒匂川が流れる。ズームアップ。左に金時山、中央に矢倉岳と続く。西平畑公園のチェリーナ丘のシャトルバス発着場には多くの人が列をなしていた。松田町 ふるさと鉄道ミニSL。地元のおじちゃん運転士や係員さんが、一生懸命案内して、安全に気を配って運行していると。実物の1/6の大きさのミニ列車で、乗車券は300円で20分ほどの旅程。チェリーナ丘から奥にある松田自然館へ向かう。左下をミニ列車が走るが運転は13時半からだった。ミカン狩りもできるのか幟が立っていた。青い空に道案内板。松田町自然館所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領2971-1自然の宝箱、松田山にあり「見て、さわって、つくって、たのしむところ」として親子に人気があります。春にはたべられる野草さがし、初夏の植物スケッチ、松田山での昆虫観察会、夏休みには小中学生向けに自由研究の相談もできます。秋はどんぐりや木の実を使った工作や、すすきの穂でつくるふくろう人形作りで賑わいます。子どもだけでなく親世代も童心にかえり、自然にふれあうことのできる場所です。自然館の脇にある遊歩道では野鳥を観察することができます。松田自然館への入館は無料で、撮影許可を得て撮影。ごあいさつ神奈川県西部を流れる酒匂川は、古くから私たちに豊かな自然の恵みをもたらす「母なる川」であり、日々の生活や歴史・文化に常に寄り添ってきた存在です。そんな酒匂川を中心とした水系の魅力を多くの方に知っていただくため、酒匂川水系保全協議会では、「母なる川 酒匂川写真展」を開催しています。今年で27回目を迎えるこの写真展では、酒匂川水系をテーマにご応募いただいた127点の中から、選考された優秀な作品を展示しています。今回も流域市町の方だけではなく、県外の方からもご応募いただいており、酒匂川水系に親しむ人や想いの拡がりを大変嬉しく感じています。今回は、コロナ禍であったこともあり、・・・後略 酒匂川水系保全協議会 会長 守屋 輝彦館内には、標本、写真が掲げられていた。桜の咲くころに見られる、花や実の展示。身近な植物の草木染め早咲き桜 (バラ科)、コブナグサ。桜の咲くころに見られる、鳥、動物。机の上には写真と説明があった。窓から野鳥がみれるエリアであろうか。壁面に、「小島万里子 松田山の自然を描く」作品は春夏秋冬、各5点。足柄桜 春めきあぐりパーク嵯峨山苑 眺望抜群 菜花と桜と紅梅の競演 菜花まつり 2月11日(土) ~ 3月19日(日) 河津桜のトンネルの中をミニSLが走るのだがまだ運転前であった。運転開始まで1時間近くあったので撮影をあきらめる。枝垂れ梅が満開。再度、河津桜越しに富士を見る。ふるさと鉄道ミニSLには乗車待ちの家族。シャトルバス乗り場には多くの乗車待ちの観光客。12:50満開の河津桜で、インタビューをしていたテレビ局も。 ー 続く ー
2023.04.14
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酒匂川の河川敷にある臨時駐車場からシャトルバスを利用せず歩いて訪れた。2月27日(月) 11:15県道72号線(松田国府津線)の河南沢交差点から急な坂を上り東名高速道路のかなん沢橋を潜り抜け西平畑公園下へ。駐車待ちの多くの車が待機していた。まつだ桜まつり入口。シャトルバス、タクシー、乗用車専用で歩行者は立入禁止。金網越しに東名高速道路の上り線。下には「東名松田 (上りバス停)」があり仮設トイレ?も設置されている。11:19まつだ桜まつり車専用入口から更に進むと歩行者用の入口。多くの人が行列をなしており百メートルはあったか。右側は東名高速道路の上り線。以前来た時は自由に入れたが、今年より有料になったと。このため入口で渋滞状態になっていた。復路は別のルートになるのか?。料金は大人(18歳以上)300円、小人(6歳以上18歳未満)100円です。尚、松田町民および松田町在勤の方、身体障がい者の方は入園無料になりますと。キャッシュレス対応も可能であると。車専用の道路沿いの河津桜を見上げる。満開の薄ピンクの河津桜をズームアップ。11:31歩行者入口から坂を下り最後部へ並ぶ。東名高速道路越しに富士が全景を出していた。歩行者専用の坂道も渋滞。皆さんマスクを装着して急な坂を上っていた。更にズームアップ。11:40約10分並びようやく受付へ到着、交通系カードで決済し 300円を支払う。振り返ると長い列になっていた。右側を東名高速道路の上り線が走る。歩道から斜面に咲く河津桜を見上げる。女性もピンクの帽子をかぶり。歩道は一方通行であったか?富士を望む。河津桜越しに富士をズームアップ。車専用の道路は急坂で九十九折りになっている。この急な道を車は上って来る。桜散策路から見下ろす。見上げると菜の花とのコラボ。今年は「第24回まつだ桜まつり」であるので河津桜の樹齢も20年以上であろう。河津桜の間に”太陽のすべり台”がある。葉芽も出始めていた河津桜。河津桜の木によって開花が早いものもあるようだ。菜の花の匂いが漂っていたが養蜂家がいないのかミツバチが飛んでいなかった。桜散策路から東方向を望む。南方向には酒匂川が流れる。ズームアップ。手前にJR御殿場線の松田駅、その先に小田急線の新松田駅舎が見える。かまぼこ型の屋根は、松田町立松田中学校の体育館であろうか。急斜面に河津桜と菜の花が植えられている。狭い桜散策路(巾1メートル程)には多くの観光客。ベンチに座り見下ろす女性。大井第一生命ビルを眺望。大井第一生命ビル所在地:神奈川県足柄上郡大井町山田300この新社屋は1963年2月に敷地内の道路建設と敷地工事に着手。1967年10月に「相互台」と命名した丘陵の上に地上18階・地下2階・塔屋1階の新社屋が完成した。現在は第一生命も撤退、「未病バレー BIOTOPIA(ビオトピア)」として再整備され、2018年4月28日にオープンした。その後、温泉施設、宿泊施設が整備されているようだが。桜散策路も九十九折になっており、西平畑公園チェリーナの丘へ上る。平日の月曜日にもかかわらず桜散策路には多くの人が散策。帰りもこの道を戻るのであったのか。振り返り見下ろす。いつもは東名高速道路からここを見上げているが、また逆もビューポイントである。南方向には川音川が流れ、左にJR御殿場線、中央は県道711号線の文久橋。河津桜の後方にJR御殿場線が国府津へ南下。遠く相模湾には伊豆大島が見えていた。気温が高く霞む伊豆大島をズームアップ。足もとには菜の花と河津桜。12:05菜の花も終盤になっており種子も。 ー 続く ー
2023.04.13
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引き続き裏道の県道77号線(平塚松田線)を松田方面へ進む。2月27日(月) 10:30鴨沢隧道を抜けると前方に東名高速道路の中村川橋。近年、この中村川橋の鋼橋補強工事が入札されたようだが。まだ工事は始まっていないのか?さらに県道77号線(平塚松田線)を走り大井町へと入る。大井町は、神奈川県の南西部に位置し、足柄上郡に属する町である。丘陵地を利用したみかんなどの果樹栽培も盛んである。総人口:17,221人 (推計人口、2023年2月1日)、人口密度:1,198人/k㎡。町の木:キンモクセイ、町の花:スイセン、町の鳥:メジロ。県道77号線(平塚松田線)の左側下(南側)を東名高速道路が走る。大井町の丘陵地この辺りが中村川の源流となっている。あしがら温泉 いこいの村 あしがら所在地:神奈川県足柄上郡大井町柳260温泉施設・ご宴会・会議・テニスや各種スポーツと様々なニーズに対応している。矢頭橋交差点ここを左折すると「いこいの村」へ。県道77号線(平塚松田線)の左下を東名高速道路が走っている。正面に金時山、右側に大井第一生命ビル。正面に富士が顔を出した。左手に東名高速道路を見ながら坂を下る。左から、金時山、大井第一生命ビル、矢倉岳、富士山、左下に東名高速道路とビューポイント。県道77号線(平塚松田線)を下り、篠窪入口交差点。丘陵地から坂を下る。遠く前方にこれから訪れる「まつだ桜まつりの会場、西平畑公園」が見えた。上山田交差点を直進。左側は大井松田インタ。県道77号線(平塚松田線)は高速道路のフェンス沿いを下る。大井町から松田町へ入る。松田町は、神奈川県の西部に位置し、足柄上郡に属する町である。小田急小田原線の新松田駅と御殿場線の松田駅の2駅が存在し、東名高速道路と国道246号の連絡点のひとつとして交通の重要な役割を担っている。総人口:10,475人 (推計人口、2023年2月1日)、人口密度:277人/k㎡。町の木:ナンテン、町の花:コスモス、町の鳥:セグロセキレイ。10:40県道77号線(平塚松田線)は坂を下りこの交差点を左折して松田へ。上は東名高速道路の川音川橋。先程の交差点を左折すると直ぐに県道72号線(松田国府津線)に突き当り右折。県道77号線(平塚松田線)はこの交差点で終了。小田急小田原線の踏切の左側に富士山が見えた。小田急小田原線の踏切。松田市街地へは県道72号線(松田国府津線)を進むが複雑になっている。列車が通過。小田急の踏切を渡り県道72号線(松田国府津線)を直進、川音川に架かる籠場橋。籠場橋からの富士もビューポイント。橋の歩道に「まつだ桜まつり」の立札が立っていた。松田への道をカーナビに任せたので山越えとなったがシンプルに走れば梅林経由であったろう。モール化されていないので電柱、電線が折角の景観を損なっている。県道72号線(松田国府津線)の前方の信号は「足柄上病院入口」。花見見物であろうか車が多くなる。県道72号線(松田国府津線)を進み、警備員の案内で河南沢交差点を左折県道712号線へ。県道712号線の新十文字橋の手前を左折し、酒匂川の河川敷へ案内される。橋は新十文字橋。10:50十文字橋下のシャトルバス発着場には既に長い列。上流の橋は新十文字橋。桜祭り会場行バスのりば。利用料金は大人1名往復320円。臨時駐車場は混んでおり新十文字橋の上流側に停める。駐車料金は無料であった。駐車場から富士が綺麗に見えていた。同場所から北側の西平畑公園を見上げる。右側はあぐりパーク嵯峨山苑。駐車場脇に貼られていたポスター。第24回まつだ桜まつり場 所:西平畑公園開催日:2023年 2/11 (土・祝) > 3/12 (日)先日2月22日(水)に訪れた「三浦海岸桜まつり」は第19回であった。駐車場の下流側に架かる、新十文字橋、十文字橋、更に下流に小田急線の橋梁。新十文字橋下から、下流の十文字橋、小田急の橋梁を見る。交通整理をしていたSTAFFさんは学生さんであろうか。駐車場から「まつだ桜まつりの西平畑公園」へはシャトルバスが混んでいたので歩くことに。新十文字橋下に貼られていた案内板。新十文字橋下にある公衆トイレ。日本各地を訪れたがこのような男性トイレを見たことがない、考えたものである。新十文字橋に上がり、県道712号線を会場の北方向へ進む。西平畑公園をズームアップ。左右に走る白いフェンスは東名高速道路。右奥にあぐりパーク嵯峨山苑。県道712号線の跨線橋上からJR御殿場線の松田駅を見下ろす。県道72号線(松田国府津線)の河南沢交差点。会場傍の駐車場へはここを入るのだが警備員から「満車です」と。まつだのマンホール蓋。松田町無形重要文化財である「松田大名行列」のデザイン。河南沢交差点から東名高速道路下の急な坂を上る。東名高速道路のかなん沢橋。東名高速道路を通り抜け振り返る。11:15西平畑公園傍の駐車場への車は満車で待機。シャトルバス、タクシー優先と!。 ー 続く ー
2023.04.12
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今年は、3ヶ所の河津桜を楽しんだがその3ヶ所目のブログです。 1、三浦海岸の桜まつり:訪問日 2月22日(水) 2、茅ヶ崎の小出川沿いの河津桜:2月初めから開花を追った 3、松田町の桜まつり:訪問日 2月27日(月)今回は『第24回 まつだ桜まつり』 場 所:西平畑公園 開催日:2023年 2/11 (土・祝) > 3/12 (日) ここへは既に2回ほど訪れている。2月27日(月) 9:20天気が良く富士が期待できたので朝食後出かけた。十間坂2丁目交差点。旧東海道(国道1号)を西へ進む。この辺りはモール化されているので道路がすっきりしている。上下線の道路には自転車専用レーンもある。千ノ川に架かる鳥井戸橋からの「南湖の左富士」。鳥井戸橋の下流側に石原橋が架かる。富士をズームアップ。鳥井戸橋交差点に建つ鶴嶺八幡宮大鳥居。この辺りのモール化工事は遅れているようで、前方は産業道路入口交差点。カーナビの案内はこの交差点を左折。富士が大きく見えていたが電柱電線等の邪魔な構造物が多い。国道134号のトラスコ湘南大橋からの富士。国道134号を進み、湘南平と重なる富士。西湘バイパス大磯辺りからの富士。カーナビは一般道優先で目的地を「松田の桜会場」に設定。このため西湘バイパスの大磯西インタで国道1号へ。右側は旧東海道の松並木。10:00カーナビの案内はここ国府新宿交差点を右折して県道63号線(相模原大磯線)へ。JR東海道本線の国府地下道を潜る。大磯インター入口交差点を左折。前方は東海道新幹線の高架橋。右は小田原厚木道路の大磯インタ入口。この辺りは初めて走る道であるがカーナビの案内で進む。道路脇には河津桜か満開であった。10:05ここは石神台入口交差点で右折して、石上台団地へ。交差点角にあった公共設備であろう建物。入口のネームプレートには「国府ポンプ所 神奈川縣企業庁水道局」。新興住宅街を進みこの先を左折して「二宮」方面へ。ここまでは初めて走る道と思っていたが・・・。石神台二丁目交差点。この辺りは中郡大磯町石神台。大磯二宮隧道。トンネル前でどのあたりを走っているのか思い出す。大磯二宮隧道を出て坂を下る。二宮の先輩宅近くであったので電話をするか迷う。10:10富士見が丘二丁目交差点。この交差点を右折すると数百メートルで先輩宅がある。今回は「一人ドライブ」を選択し左折して二宮駅方向へ進む。県道71号線(秦野二宮線)の元町駐在所前交差点。前方は東海道新幹線の高架橋。県道71号線(秦野二宮線)を走進み道案内、高速の小田原厚木と東名の案内。カーナビの案内はここ県道71号線(秦野二宮線)の中里歩道橋交差点を左折。新坂呂橋通りを走り、山の上に集合住宅が2棟。この辺りは、中郡二宮町百合が丘1丁目。百合が丘坂上交差点。小田原厚木道路の二宮インタ入口。小田原厚木道路の二宮インタ。新坂呂橋通りのさつきが丘交差点。中村川を渡り県道709号線(国道1号の塔台橋交差点から北上)と合流。ここ新坂呂橋交差点を右折。中村川沿いの県道709号線を北上。中村川沿いは桜並木になっている。県道709号線を北上、中井町へ入る。中井町は、神奈川県の南西部に位置し、足柄上郡に属する町である。酪農が盛んであり、町の農業生産の4割以上を占める。その他、露地野菜や温暖な気候を利用したみかんの栽培もなされる。総人口:9,061人 (推計人口、2023年2月1日)、人口密度:453人/k㎡。町の木:キキョウ、町の花:キンモクセイ、町の鳥:シラサギ。県道709号線旭橋交差点右側を中村川が並行して流れている。10:25この先で県道709号線は終了。この先からは県道77号線(平塚松田線)となる。中井町役場入口交差点から県道77号線(平塚松田線)を松田方面へ進む。県道77号線(平塚松田線)を進み前方に富士の頂上が見えていた。この道は松田から帰る時の裏道である県道77号線(平塚松田線)。右側を中村川が並行して流れている。中村川は中井町辺りをを源流に相模湾へと流れる二級河川である。延長は10.3kmで、河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれている。10:30鴨沢隧道 ー 続く ー
2023.04.11
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京急三崎口から国道134号を帰路につく。2月22日(水) 15:25国道134号 (三崎街道) を走り三浦市から横須賀市へ入る。道路脇には田畑が広がり収穫前のキャベツをトラクターですき込んでいた。この辺りの寺社を巡りたかったが準備不足で・・・。道路脇に河津桜が咲き、野菜の直売所とのどかな光景である。この先300m「三浦縦貫道路」入口。この先は林交差点で、今朝はこの県道26号線 (三崎街道) を走り三浦海岸へ向かった。15:35渋滞もなく国道134号を走って来たがこの先林交差点から渋滞とカーナビが案内。林交差点先の「ファミリーマート 横須賀御幸浜店」で水等を購入して休憩。休憩後、カーナビが案内した迂回路を選択して右折して山側へ。15:55国道134号から迂回路の山側へ入る。車窓から道路脇に庚申塔を見つけ車を停める。長谷観音&庚申塔所在地:神奈川県横須賀市長坂4丁目14ネットで調べると何故ここに長谷観音があるのかわからないとあった。ブロックに囲まれた新旧の庚申塔群。笠付きの庚申塔と文字庚申塔が並ぶ。右に、猿田彦大神、左に庚申塔、台座には奉納者の名前が刻まれている。この先に、陸上自衛隊の長坂射場があった。横須賀市マンホール蓋。市の花ハマユウと中央に市章。下部に「車道」と「あめ」の文字がある。迂回路から国道134号に戻り海岸線を鎌倉方向へ進む。16:10長者ヶ崎所在地:神奈川県三浦郡葉山町下山口2051長者ヶ崎は、海岸や高台の駐車場から空と海を一望できる。天気の良い日は江の島、伊豆半島、富士山も見え、「かながわの景勝50選」に選ばれています。また、サンセットタイムは夕日をさえぎるものがなく、美しい絶景である。しかしこの日は富士は雲に隠れていた。ここでのダイヤモンド富士は、4月12日頃、8月30日頃であると。4月は春霞の関係上秋の方が可能性が高いと。5年前の2018年4月12日(木)にダイヤモンド富士を待った。その時のブログは「三浦半島(東海岸)の旅」をクリック願います。江の島をズームアップ。駐車場に建つモニュメント。台座には、自転車半島宣言 長者ヶ崎 ヨット三浦半島観光連絡協議会かながわのナショナル・トラスト寄贈緑地「長者ヶ崎緑地」。 ◆ 所在地:横須賀市秋谷字尾ヶ崎5676番1 葉山町下山口字白石2053番1 ◆ 面 積:10,670㎡ ◆ 寄贈者:鹿島建設株式会社神奈川県では、優れた自然環境及び歴史的環境を保全して後世に引く継ぐため、かながわのナショナル・トラスト運動を進めています。この緑地は、鹿島建設株式会社の御芳志を受け、かながわのナショナル・トラスト寄贈緑地として保全するものです。自然を大切に、みんなの手でふるさと神奈川に豊かなみどりを残しましょう。長者ヶ崎は、横須賀市と葉山町との境界地にあり後方は横須賀市。関根海岸、久留和漁港を望む。遠く三浦半島の三浦市方向。右手前は長者ヶ崎海岸、奥に葉山御用邸。小磯の鼻辺りをズームアップ。上の段の駐車場に建つ「長者ヶ崎海水浴場」の碑。近くの高台に「葉山ホテル 音羽ノ森」があるが出店であろうか。駐車場入口に「本日 無料 17時閉鎖」と。休祭日は有料なのか? 営業時間 AM 9 ~ PM 5下の段の駐車場入口にトイレ施設がある。ヨットを模したモニュメントには「葉山町」と。道路標識には「葉山公園通り」。トイレ横から葉山をズームアップ。駐車場入口に「本日 無料 17時閉鎖」と。16:20この日は夕陽も期待できないので帰路につく。ダイヤモンド富士が見れる4月12日頃に再度訪れるか。国道134号の葉山御用邸前交差点の手前右側にモニュメント。モニュメントの台座に、この碑は、明治・大正・昭和時代の皇太子殿下の葉山行慶を奉祝して、昭和十一年に葉山町が建立したものです。中央剣型塔で「恩光碑」の碑文は枢密院顧問官金子堅太郎伯爵の揮毫、設計は彫刻家青柳利男の謹作、撰文は吉田増蔵博士で、その揮○は松平直亮伯爵によるものです。葉山御用邸前を通り過ぎ、県道207号線 (森戸海岸線) を走り葉山町から逗子市へ入る。県道207号線 (森戸海岸線) を走り国道134号の渚橋交差点と合流。この辺りから渋滞。渚橋交差点からの国道134号は慢性的な渋滞になっている。トンネルの先には鎌倉市の材木座海岸、遠く由比ヶ浜。トンネルを出ると鎌倉市に入る。この辺りの山側に光明寺があり愛車のリンちゃんで訪れるところである。海側には鎌倉時代に造られた港「和賀江島」がある。由比ヶ浜の先に稲村ヶ崎。暗くなると海岸線を赤いテールランプが連なる。17:00稲村ヶ崎公園前交差点。雲がたちこめた江の島。江の島をズームアップ。江ノ電鎌倉高校前駅の踏切。踏切廻りには多くの観光客が待機していた。観光客のマナーで住民からの苦情が多々あり問題になっている。江の島の右手前に小動岬。国道134号の左端を自転車が走っているが危険なため、私は右側の歩道を走っている。17:30国道134号から学園通りを北上、JR東海道本線の伍仁原踏切を渡り帰宅。この日は以前から行きたかった「三浦海岸の河津桜」を見たが、実行委員会のご努力に感謝。都内から京急で2時間以内で来れるので今後ますます賑やかになるのではと。次回は事前情報を整理して、三浦半島の寺社史蹟巡りをしたいものです。 END
2023.04.08
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海南神社の参拝を続ける。2月22日(水) 14:40神域の南側から海南神社社殿を見る。同場所から、一段低い境内に聳える雌雄の大銀杏、神楽殿を見下ろす。海南神社境内配置図あまり広くない境内にいろんな社が建っている。包丁塚毎年4月に包丁供養祭が行われる。神社内の包丁塚は、人の食生活の伴侶として務めを終えた包丁に感謝を捧げ、人の食膳に供された鳥獣魚菜の霊をなぐさめる碑である。また包丁奉納殿は、使い古された包丁に労わりの心をこめて納めるところで、料理賄の仕事場を去る料理人が愛用の包丁を納めるところである。相州海南高家神社の右奥に階段があり上り口に立札「伊勢皇大神宮」と。階段を上ると途中に「稲荷社」幟には「奉納 権五郎稲荷大明神」と書かれていた。稲荷社の裏には石祠。伊勢大神宮 御祭神 天照大御神 御神徳 国家安穏 国民幸福社殿の右奥には「神輿小屋」があり、神社裏の入口がある。社殿には「大神宮」と。伊勢大神宮から見おろす。下側の境内の参道から本殿を見上げる。包丁塚の後方にある「祭神 大絵馬」。神楽殿神楽殿には絵馬が4枚。縁側には古いお雛さんが並べられていた。神楽殿の扁額「神楽殿」。本殿側に並ぶお雛さん。参道側に並ぶお雛さん。幟に「源頼朝お手植えの大銀杏」と。御神木頼朝公手植えの雌雄の大銀杏。この大公孫樹は鎌倉時代(一一八五)に源頼朝公、当社に敬神の念篤く祈願成就の記念として寄進せしと伝えられる(樹齢約八百年)。 市指定天然記念物大銀杏の御神木の下に「子産石 (こうみいし)」。子産石は、子宝、安産、良縁の石です。願いを込めて軽く触れてください。 ※ 持ち帰らないようにお願いいたします。芭蕉句碑「松杉を譽てや風のかをる音」。下の段の境内右側に多くの石灯籠、石碑が建っていた。記念碑「氏子総代及氏子一同境内之周邊築造玉垣以○神域之尊厳維時昭和三十二年七月 吉辰竣共功建碑以為記念」と。狛犬(吽形像)の先に神楽殿が建つ。石段の雛壇をズームアップ。朱の鳥居が建つ「福徳稲荷神社」。鳥居の扁額「福徳稲荷神社」。朱の鳥居の先にも石造りの鳥居。こちらの扁額も「福徳稲荷神社」と。福徳稲荷神社 御祭神 豊受気比売大神 御神徳 家内安全 商売繁盛社殿には小さな狐が多く奉納されていた。14:45この狭い道を走り社務所前の駐車場へ入って来た。俳優の三宅裕司は「双子の神主 (イケメン) 」と会っていたが私は会えなかった。約30分の参拝を終え帰路についたが、この先は「昭和レトロな商店街」になっている。14:50三浦漁港にある「うらりマルシェ」所在地:神奈川県三浦市三崎5丁目3-1マグロをメインにした小さな市場で、地元産の野菜や、魚介を使った軽食も販売している。観光バスも訪れていたが駐車場は有料。最初の1時間 220 円(以後30 分毎 110 円)。うらりマルシェ及び三崎下町の提携店での一定額以上のお買い物に対して「駐車サービス券」を発行している。但し、1回の駐車で2枚までご利用できますと。三崎漁港所在地:神奈川県三浦市三崎5丁目三崎漁港は、特定第3種漁港に指定されている。 東京湾の入口に位置し、城ヶ島に遮蔽されている特徴がある。日本有数のマグロ基地とされ、全国に13しかない特定第3種漁港に指定されている。2003年の水揚量は49,084トンであり、全国の漁港の中で18位だったと。14:55龍王祠所在地:神奈川県三浦市三崎町5丁目19-2三崎漁港の西側にある祠である。龍王祠漁師が海上安全大漁を祈願しているのであろう。鳥居の北側を走る西海岸線。15:05この後、三浦市三崎町周辺の寺社を巡りたかったがカーナビでの案内ができず帰路につく。横須賀三崎線を北上、この先の引橋交差点で国道134号と合流。引橋交差点を斜め左方向の葉山方面へ進む。国道134号(三崎街道)の引橋交差点。引橋交差点角に、三浦消防署、ベイシア三浦店があった。国道134号(三崎街道)沿いにあった、この社は?裏側には田畑が広がっていた。たかいく農園野菜直売所所在地:神奈川県三浦市初声町下宮田219-1店頭には三浦大根の看板、店内にはブロッコリー100円、本日のお買い物セット500円と。国道134号三戸入口交差点。15:10京急三崎口駅所在地:神奈川県三浦市初声町下宮田当駅は、京浜急行電鉄久里浜線の駅で同線の終着駅。品川から65.7kmで駅番号はKK72。三崎口駅のホームは2面2線で、一日の乗降人員は 11,704人 (2020年)。駅前にも河津桜が植えられ満開であった。三崎口駅からの線路下に咲く河津桜。三崎口駅から三浦海岸駅方向へ進む。三浦市は起伏があるので京急久里浜線も高架になっている。15:20三崎口駅前に戻り国道134号 (三崎街道) を帰路につく。 ー 続く ー
2023.04.07
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海南神社は今まで三宅裕司が「ふるさと探訪」で訪れ、NHKでも「ひるまえほっと」で紹介しており一度参拝したいと思っていたので今回訪れた。2月22日(水) 14:25鳥居を潜ると御手洗池に架かる神橋。海南神社 ◆ 主な年中行事 毎月一日 月次祭 一月 元旦 歳旦祭・初詣 五日 おんべ焼き・龍宮祭 九日 初神楽 十五日 チャッキラコ(ユネスコ無形文化遺産) 二月 十一日 健国祭・いなりっこ(市指定重要無形民俗文化財) 初午祭 二十一日 新年祭(春祭り) 以下略 ◆ 境内のご案内境内配置図神橋の擬宝珠は、三崎御船奉行向井左近将監忠勝が寛永十七年(1640)に奉納したものである。御手洗池の手前右側に「御霊神社」。御霊神社 (権五郎神社) 御祭神 鎌倉権五郎景政 御神徳 眼病平癒病気平癒必勝招来御手洗池の手前左側奥に「疱瘡神社」。疱瘡神社 御祭神 源為朝 御神徳 疱瘡退散ウィルス除武道向上御霊神社と同様に小さな社殿である。疱瘡神社前から、御手洗池に架かる神橋の先に「源頼朝お手植えの雌雄の大銀杏」が聳える。源頼朝お手植えの大銀杏で御神木。大銀杏は手前が「雄」で奥が「雌」。手前に「龍神社」が建っている。神橋を渡ると右側に「狛犬(阿形像)」。左側に「狛犬(吽形像)」。新型コロナもおちつき狛犬のマスクは取り外されていた。大銀杏の前に建つ「龍神・水神社」。社の左側には「奉納 金五拾参萬圓也 縣會議員 久野次郎」と刻まれた石碑。龍神・水神社 御神徳 災難除け 金運開運 災害防止 お社の上にかかるご神木は龍神様のお姿に見えるといわれています。御神木の前に、力石が無造作に4個置かれていた。手水舎舎の前には新型コロナ対策の消毒液が置かれていた。手水舎前から参道を進み本殿へ。本殿前の石段にお雛さんが飾られていた。ズームアップ。本殿幣殿及び拝殿(県指定重要文化財)複数の鈴がぶら下がっていた。拝殿には複数の扁額が掲げられていた。中央に「海南神社」、右に「天王社」、左に「弁財天」。三浦七福神 筌龍 (せんりゅう) 弁財天拝殿の右側に立札が並ぶ、右から、 「大イチョウ 天然記念物」「いなりっこ 市指定重要無形民俗文化財」 「行道 (お練り) 獅子 市指定重要無形民俗文化財」「神楽 市指定重要無形民俗文化財」。左側には、右から、 「チャッキラコ ユネスコ無形文化遺産」「本殿 幣殿及び拝殿 県指定重要文化財」 「三番叟面 県指定有形民俗文化財」「夏例大祭 市指定重要無形民俗文化財」 「擬宝珠 市指定重要文化財」。社殿の右側。拝殿の右側には、 「奉納 石燈籠壱對 他燈籠修理四對 三崎魚商協同組合殿」。拝殿の前に「三崎 鮪みくじ」「金鮪みくじ」「恋鮪みくじ」それぞれ初穂料 三〇〇円。テレビでは「マグロのおみくじ」で紹介されていた。拝殿前から境内を見下ろす。社殿の右側に「神馬社」。社の中には木造の神馬がおさめられていた。神馬社 (しんめしゃ)こちらに祀ってある木造の神馬は、昔神社の神馬が逃げ出したところ、たちまち疫病が蔓延したのでこの神馬を奉納したところ疫病も鎮まったという。後、この馬に祈ると脚気や足の病気がなおるといわれている。三浦七福神『筌龍弁財天』 三浦総鎮守 海南神社治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵に際し三浦大介義明、義澄父子は当社に参詣し「神事狐合」(白と赤の狐が闘い白狐が勝った)で源平の争覇を占い、神意により源氏の再興を信じ頼朝側に荷担し、和田義盛と供に衣笠城に立籠り、畠山重忠ら平氏の軍勢と戦いましたが落城、義盛の一党は久里浜から海路房州に逃れんとしました。その時、折悪しく暴風に襲われて海上を漂流、まさに兵糧尽きなんとした時、龍神に祈ったところ筌(竹で編んだ籠で水中につけておきいったん入った魚は出られなくしてある漁具)という漁具が流れ来たのでこれを用いて魚を採って飢えをしのいだとの事があり、後に、建久三年(一一九ニ)鎌倉幕府が開府し、義盛は別当職に就任しましたが或る春の一夜、筌 (せん) が昇天して龍と化した夢を見て一念発起し、陣地であるこの地に筌を弁財天として祀ったのがこの筌龍弁財天の縁起とされています。弁財天には、ニ臂(にひ)弁財天と八臂弁財天とがありますが、この弁財天は八臂で八本の手を持ち、左手に弓、刀、斧、羂索(けんさく)を、右手に箭、三鈷戟(さんこげき)、独鈷杵(とっこしょ)、輪を持ち、また琵琶を引き、大漁満足、福徳財宝、容色端正、弁智増上、芸能上達などの御神徳を叶える弁財天として変わった形の女神です。 平成三年十二月 三浦市鳥居に「金毘羅宮」の扁額。石碑には「金毘羅 神詞」と。階段を上るとまだ新しい金毘羅宮が建っていた。金毘羅宮御造替寄付者芳名寄附金額はなく多くの人の名が刻まれていた。金毘羅宮 御祭神 大物主大神 御神徳 海上安全大漁満足商売繁盛貼り紙には「防犯上、お賽銭は階段下の鳥居の賽銭箱にお願い申し上げます」と。金毘羅宮から下り海南神社の社殿。多くの幟には「金毘羅宮」と。社殿の左側に鳥居と社殿。鳥居の扁額「相州海南高家神社」。社殿の扁額「相州海南高家神社」 御祭神 磐鹿六雁命 御神徳 技術上達 鳥獣魚菜感謝供養14:40相州海南高家神社の左側に建っていた社殿。 ー 続く ー
2023.04.06
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京急三浦海岸駅廻りを散策。2月22日(水) 13:05駅前の西側に植えられている河津桜が満開状態。ピンクの幟には「さくらまつり」と。河津桜の下にはスイセンが咲いていた。河津桜も逆光に映える。スイセンとのコラボ。京急三浦海岸駅当駅は、三浦市南下浦町上宮田にある京浜急行電鉄久里浜線の駅で、駅番号はKK71。当駅から小松ヶ池公園までの線路沿いで、毎年春に「三浦海岸桜まつり」が開催されている。三浦海岸駅のホームは2面2線で、一日の乗降人員は 7,843人 (2020年)。桜まつりの開催を記念して2014年から、桜まつりの開催期間中は駅正面の駅名看板を桜色に変更しているとのことだがこれ?。こちら側の出口にも河津桜が数本植えられていた。河津桜を見に都内からも多くの観光客が訪れている。駅前にも海鮮丼等の店がオープンしていた。近郊の「きっぷ運賃表」。茅ヶ崎駅までの運賃は 1,090円。駅前に貼られていたポスター「第19回 三浦海岸桜まつり 2023.2.5 (SUN) ~ 3.5 (SUN)」。テント村では、「三浦茶道協会 お抹茶 (お菓子付き) 一服 五百円」。朝方から放送していたFM YOKOHAMAのアナウンサーもお茶を馳走になっていた。桜まつり 限定ランチ 三浦・三崎の極上海鮮丼 まぐろ丼 1,300円、ねぎとろ丼 1,300円、まぐろしらす丼 1,300円、 2色丼 まぐろ ねぎとろ 1,600円、3色丼 しらす まぐろ ねぎとろ 1,800円、 極上丼 しらす まぐろ ねぎとろ まぐろユッケ 2,300円 と豪華。観光客の皆さんはマスクを装着。満開の河津桜。13:20三浦海岸駅から駐車場へ戻ることに。道路を挟んだ「湘南信用金庫 三浦海岸支店」の窓に映える河津桜。三浦海岸駅から臨時駐車場までは約500mで緩い坂を上る。右上は京急久里浜線。この先から緩い坂道になっている。ツアー客であったか高齢者の集団。この先の階段を登り駐車場へ。左側の看板には、「小松ヶ池公園へ行かれる方は、直進せずに、右折して横断歩道をお渡り下さい 三崎警察署・三浦海岸桜まつり運営委員会」と。 階段を登りステージから、京急線沿いの桜並木を見下ろす(三崎口駅方向)。ここからが三浦海岸桜まつりのメイン場所である。京急もこの時間帯は1時間に6本運転している。交通量が多く線路側の遊歩道を歩き小松ヶ池公園へ向かう。葉芽も出始めた河津桜。階段を上がり跨線橋を振り返る。約2時間半の散策を終え臨時駐車場へ戻る。13:35臨時駐車場は満車状態になっていた。かねてより来たかった「三浦海岸桜まつり」を楽しんだ時間であった。桜まつりは今年が開催19回目のことであったが、運営委員会の御尽力に対し感謝。13:45次の目的地もかねてより行きたかった「海南神社」をカーナビにセットして進む。道路標識には「県道26号 城ヶ島 三崎」。カーナビは、引橋交差点。目的地までは、3.8km、到着予定は13:58。道路脇の看板には、「三浦国際市民マラソンのため、3月5日午前8時50分から午前11時通り抜けできません」と。道路標識には「県道26号 劔崎 城ヶ島」。右斜め後方は県道216号線の油壷方面。劔崎 9km、城ヶ島 2km。13:55県道26号線 (横須賀三崎線) を進み目的地の「海南神社」が近くなる。前方の城ケ島入口交差点を左斜め方向へ進むと城ヶ島へ。カーナビの案内で海南神社へ到着するが駐車場がわからず、神社廻りの狭い道を走り、神社裏に車を停めこの道を下り海南神社へ向かう途中振り返る。左側に海南神社。神社横の坂を下り海南神社前の鳥居前へ。ここの右側に駐車場があることを確認し、再度坂を上り車を移動することに (駐車違反であったので)。14:20相州三浦総鎮守 海南神社所在地:神奈川県三浦市三崎4丁目12-11海南神社は、三崎漁港から市街地を少し山手に入った地点に鎮座する神社。相模国三浦総鎮守であり、藤原資盈、資盈の后である盈渡姫、筌龍弁財天、地主大神等が祀られている。源頼朝の敬神の念が厚かった神社であり、頼朝お手植えの御神木や龍神様の形をした御神木等がある。鳥居の手前を右折、社務所の前に5,6台が駐車できる駐車場があり車を停める (無料)。社号標石「御社 海南神社」源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP海南神社周辺MAP ・頼朝桃の御所跡 見桃寺(けんとうじ) ・頼朝桜の御所跡 本瑞寺(ほんずいじ) ・頼朝椿の御所跡 大椿寺(だいちんじ) ・頼朝お手植えの大銀杏 ・三崎城跡 ・昭和レトロな商店街源頼朝が大願成就したパワースポット 海南神社 御祭神 藤原資盈 御利益 運気上昇 「難を解き再起を叶えた頼朝の忠臣ゆかりの神社」866年、藤原資盈公を主祭神として創建された。当時は花暮海岸にあり、本宮として今も鳥居と祠が残っている。その後、982年に現在地に社殿を造営し、相模国三浦半島の総鎮守となった。三浦氏の祖とされる三浦為継は社領を寄進し三浦家の祈願所とした。御祭神の藤原資盈公は京都の貴族で、清和天皇の時代に皇位継承問題に巻き込まれ左遷され、任地へ航する途中暴風に遭い三浦半島に漂着。三崎の地で長に推載され地元民から尊敬されたため資盈公が没すると神として祀られるようになった。三崎に別邸のあった源頼朝はたびたびこの地を訪れ、境内には頼朝お手植えと伝わるご神木の大銀杏もある。また、忠臣であった三浦義明や、その孫にあたる和田義盛にちなんだ逸話も残されている。「海南」は「解難」に通じるため崇敬者が絶えない。海南神社の鳥居鳥居の右前に「午前十時 祈年祭(春祭り)」の立札が立っていた。「疫病退散」の幟も。鳥居の扁額「海南神社」。紙垂で飾られた狛犬(阿形像)左側にも紙垂で飾られた狛犬(吽形像)。三浦一族歴史めぐり ⑳ 海南神社当社の祭神、藤原資盈(すけみつ)公は、藤原鎌足の後裔、九州太宰少弐廣嗣(しょうにんひろつぐ)の孫に当たりますが、五十六代清和天皇の皇位継承の争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかったため、善男と不和になり、故あって九州博多を出航、貞観六年(864)十一月一日当地に着岸されました。その後資盈公は土地のものに推載され、付近の海賊を平定したり、里人を教化して文化の基いを築きました。よって、里人の尊崇の念篤く、治績わずか二年であったが公の没するやそのなきがらを海に沈め、祠を花暮に建立してこれを祀りました。後、天元五年(982)に現地に社殿を造営し、三浦一郡の総鎮守として崇められ明治六年六月、郷社に指定されました。 ・・・・・ 記 ・・・・・三浦大介義明が源頼朝挙兵のとき、源平の争覇を当社に占った際、白と赤の狐が闘って白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したと伝えられます。境内には頼朝公手植と伝えられる大銀杏(樹齢約八百年)があります。また御手洗池に架かる神橋の擬宝珠は、三崎御船奉行向井左近将監忠勝が寛永十七年(1640)に奉納されたものであります。また毎年正月十五日に当社に奉納する歌舞「ちゃっきらこ」は、資盈公の妃、盈渡姫が土地の娘に教えたとの口碑があり、また歌舞島に遊んだ源頼朝公の旅の慰めにと、里女の歌に合わせて、童女達が即興的に小竹を叩いて踊ったとも伝えられており、昭和四十年五月、神奈川県の無形文化財に指定されました。 平成六年一月 三浦市 ー 続く ー
2023.04.05
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小松ヶ池公園の散策を終え、Googleマップで事前に調べていた西側にある寺社を訪れた。今回は徒歩のためスマホを手に持ち案内に従って進んだ。2月22日(水) 12:15小松ヶ池公園の西側出入口から坂を下り左側に鳥居を見つけた。岩神社所在地:神奈川県三浦市初声町下宮田1293説明板等が無く詳細は不明。鳥居を潜り階段を上ると石祠があったが風化していた。石祠前から初声町下宮田地区を見下ろす。ズームアップ。畑の野菜の苗は防風ネットで覆われていた。足もとの階段。今の時期嫌なものが出ないので安心して上れる。岩神社から下り次に「猫石園」へ向かった。途中、道路脇にこのような設備があったが畑の散水用の地下水であろうか。社会福祉法人阿部睦会 美山ホーム所在地:神奈川県三浦市初声町下宮田1846丘の上に、養護老人ホーム契約入居施設の派手な建物が建っていた。風が強いようでキャベツの苗はネットで養生している。キャベツ畑の中に置かれていた車輪4個の台車。キャベツ収穫時の台車であろう。猫石園所在地:神奈川県三浦市初声町猫石は一見するとただの奇跡のようであるが、言い伝えによるとこのあたりは昔は一面の田んぼで、稲や穀物が数えきれないほどのネズミに荒らされ、村人はほとほと困っていた。そんなある日、突如としてこの「猫石」が田んぼの真ん中に出現し、ネズミの被害も不思議とぱったりと途絶えてしまったということである。この伝説はしょうしょう寓話的な部分があるのだが、三浦市観光協会編「三浦の伝説と民話」によれば、この猫石の由来は二つの願いが込められて信仰となっていたようである。来た道を振り返る。道路を挟んで右側に「猫石園」と書かれた石碑、左側にまるで猫が寝ているかのように見える自然石がある。この石碑は大正十一年 (1922) に「初声村史蹟名勝保存会」が建てたものとされる。石碑の向い側に、長さ約4m、高さ約2m、幅約2mほどの大きな石がたたずんでおり、これが不思議な猫の伝説を今なお伝える「猫石」と呼ばれる石である。猫石園を後にし三浦海岸桜まつり会場へ戻る途中、もう一つの安楽寺へ立ち寄る。真言宗 安楽寺所在地:神奈川県三浦市初声町下宮田1341寺号標石には「高野山真言宗 大道山 安楽寺」。本尊の阿弥陀如来立像は、三浦市の指定文化財となっています。脇侍は聖観音菩薩立像、弘法大師坐像、不動明王坐像です。『初声村誌』、『寺院明細帳』によれば、宮田太郎貞明が建武年間 (1334年~1336年) に建立したとされています。その後、1685年 (貞亨2年) 、岩神村の田中吉左衛門(現田中勲家)が、近くの古屋敷という場所から現在の場所に堂宇を移して再建しました。途中、何回かの修復がなされ、1971年 (昭和46年) 12月、現在の本堂が建てられました。宮田太郎貞明は三浦一族のひとりで、佐原義連→佐原盛連→佐原時連→杉本宗明→三浦時明→三浦貞連→宮田貞明→宮田貞澄→宮田貞泰→宮田藤貞→宮田義三と続いていきます。宮田という名字から察するところ、この辺り一帯を治めていた一族であると考えられます(ネットから)境内から参道入口。本堂前から南側にある階段へ。本堂への階段は歴史を感じさせる。階段を降りたが道路への道が無かったので細い畦道を歩いて道路へ。階段下の屋根付きの社がありその中にはちゃんちゃんこを着た六地蔵。舟形浮彫りの六地蔵はちゃんちゃんこを着ていた。道路へ出て谷戸地区から坂を上り三浦海岸桜まつり会場へ向かうことに。右前方に先程訪れた岩神社の鳥居。12:40坂を上り、公園西側出入口にある「野菜直売所」。野菜直売所のすぐ南側に、京急久里浜線の跨線橋。橋の上には多くの観光客が訪れていた。跨線橋上から京急久里浜線の終着駅三崎口駅方向を望む。現在は単線だが将来は複線にするようだ。河津桜が満開になっていた。中国香港からの観光客も訪れておられた。同橋から三浦海岸駅方向。この辺りから東側の京急三浦海岸駅までの沿線約1キロが桜まつり会場になっている。跨線橋から小松ヶ池公園を見下ろす。小松ヶ池公園から京急沿線を歩き東へ向かう。青空に映える河津桜。場所によっては満開前の木もあった。スマホを持ち撮影に夢中。京急電鉄の赤い車体が映える。上は臨時駐車場辺りの跨線橋。右側の階段を上ると臨時駐車場へ行ける。右上の階段上には多くの観光客。現在地:三浦市南下浦町上宮田2777-2 京急三浦海岸駅まで 720m 小松ヶ池公園まで 310m午後1時を過ぎ多くの観光客が訪れ、旗を持ったツアー客も。京急三浦海岸駅への坂を下る。道路脇に白梅が咲いていた。白梅をズームアップ。ところどころに河津桜が植えられていたが本数は少ない。右上は京急の高架橋で正面に三浦海岸駅の駅舎。13:05駅前にあった「お食事処 和光庵」。店先には桜色の暖簾、メニューには「桜祭り限定 マグロ漬け丼 1,450円」。京急三浦海岸駅駅前には3本の河津桜が植えられ満開であった。駅前には「桜まつりテント村」があり土産物等を販売、観光客を歓迎している。 ー 続く ー
2023.04.04
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三浦海岸桜まつりの散策を続ける。2月22日(水) 11:30京急久里浜線に沿って三崎口駅方向への道。前方の橋は三浦海岸桜まつりの最西部で、橋の上からは京急が見下ろせビューポイント。視線を下げ撮影。観光パンフレットでは、「道路上での写真撮影は大変危険です。ご遠慮ください。」と。河津桜のトンネル。菜の花の植え込みに入って撮影していたが撮影マナーは守って欲しい!ズームアップ。小松ヶ池への東側出入口。桜まつり会場:小松ヶ池公園入口から法面を下る。左上を京急が走る。遊歩道側を見上げる。仮設通路なのか鉄パイプと板で造られていた。小松ヶ池公園案内図当公園は、広さ約1.5haの池を有し、珍しい野鳥・昆虫類・水生植物等が生息している公園です。春夏秋冬の草花が咲く小松ヶ池公園。小松ヶ池の堤に咲く河津桜。小松ヶ池公園は河津桜の開花時期こそ賑わうが、それ以外の季節は落ち着いた公園である。釣りをする人やバードウォッチングをする人、ウオーキングをする人がまばらに訪れる程度であると。小松ヶ池には、昔から悲しい言い伝えが語り継がれてきている。地元の小学生はほぼ必ず習うため、小松ヶ池=怖い場所、と植え付けられて育っている人も少なくない。この辺りに住んでいたお松は、意地悪な姑から、とても一人では無理な田植えをするよう、言いつけられていました。困り果てたお松は、あと半刻あれば田植えが終わるものを、と嘆き悲しみました。すると、西山へ沈もうとした太陽が東の空高くへと戻り、お松は田植えを終えることができました。しかし、その時、辺り一面が泥沼に変わり、お松は水の中に吞み込まれてしまいました・・・。それからというもの、この大沼は「お松ヶ池」と呼ばれるようになり、いつの頃からかそれが「小松ヶ池」と呼ぶように変わったというお話です。堤の河津桜が湖面に映える。桜の下には多くの観光客が訪れていた。狭い通路の脇に「厳島弁財天」。総本社は、広島県廿日市市の厳島 (宮島) にある厳島神社になります。1400年もの歴史を持つ、古く格式のある神社で、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命を祭っている。厳島神社、江島神社、宝厳寺 (竹生島・別名竹生島神社) の3つで日本三弁天と呼ばれる。水にまつわる神様であるため、水辺に建てられることの多い神社です。また、音楽や芸能の神様、財産の神様としても有名です。小松ヶ池ではもちろん、水の神様として建てられています。厳島弁財天の中には石祠があり、花、お酒が供えられていた。天上をズームアップ。整備されたようで骨組みが新しい。11:50昼前になり歩き疲れた人が護岸に座り込み休憩。満開の河津桜。堤上には露天商が出店していた。河津桜を見上げる。いい香りがしていた串ステーキ。小松ヶ池を見下ろす。小松ヶ池の南側を京急久里浜線が走る。車窓からこの池が見えると。小松ヶ池の北側に堤がある。台座の上には「水神碑」「小松ヶ池 改修記念碑」の2基の石碑。後方は森に囲まれた谷戸。記念碑小松ヶ池は古来より、当組合専用にかかる農業用灌漑池にして、組合員等共同して堤塘、水門、水路等水利施設の設置、維持管理、改修に当り、かつ配水の統制、管理を行い現在に至ったものである。然るに近時小松ヶ池周辺地域における開発の進展に伴い、当組合及び組合員等の同池に対する用水利用権並びに敷地所有権が危殆に瀕せしめられる事態が発生するに及んだ。よって、当組合及び組合員等五拾五名は、横浜地方裁判所に対し、三浦市との間における水利権、並びに所有権確認の訴訟を提起し、参年有餘に互り、審理を遂げてきたところ昭和五拾四年拾弐月弐拾四日要旨左記の如き和解が成立するに至った。 記一、当組合及び右組合員等は、小松ヶ池につき、農業用灌漑水利権を有すべきこと。一、小松ヶ池敷地所有権につき、三浦市がなした保存登記は現状のままとするも、水利保全行 為を除き譲渡その他の処分若しくは現状を変更する行為については、当組合及び三浦市に おいて協議し、合意のうえこれを行うべきこと。一、一般市民は前記水利権に支障を生せしめない限度において、自由に小松ヶ池を利用し得べ きこと。右和解成立を記念するとともに、関係当事者において、同條項を確実に遵守することにより、当組合及び組合員等の各権利が永久に保全さるべきことを期して、ここに本記念碑を建立する。 昭和五十五年四月吉日 小松ヶ池水利組合建之この時期、車窓からの小松ヶ池の河津桜は絶景では。後方を電車が走り抜ける。ツアーで三浦海岸桜まつりへ来ている方がいたが、ここ小松ヶ池まで来るのか。木によっては満開前の桜の木があるようだ。池の遊歩道脇に建つ、厳島弁財天。小松ヶ池から引き上げることに。次から次と多くの人が訪れていた。小松ヶ池越しに京急久里浜線、河津桜並木が東西に。ズームアップ。この辺りは平地が少なく畑が多い。小松ヶ池には、たくさんの野鳥が集まります。三浦半島有数の渡り鳥の飛来地で、オナガガモ、コガモ、ヒドリガモなどの渡り鳥のほかにも、ヒヨドリ、カイツブリ、カワセミ、ゴイサギ、コサギなどの留鳥も見られる。畑の畦道に河津桜、菜の花が植えられていた。この高台に上がり撮影する人もいたが。入口に「私有地につき関係者以外立ち入り禁止」とあったが。菜の花の香りが鼻をつく。小松ヶ池の谷戸から上り、小松ヶ池公園西側出入口。12:10公園西側出入口にある「野菜直売所」所在地:神奈川県三浦市初声町下宮田1260-1この後、Googleマップで調べていた西側にある「岩神社」「猫石園」「安楽寺」へ行くことに。三浦市のマンホール蓋中央に市の鳥・ウミウ、周囲に市の花・はまゆうをデザイン、中央に「三浦市」下部に「おすい」の文字。 ー 続く ー
2023.04.03
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森戸大明神から国道134号を進み三浦海岸へ向かう。2月22日(水) 10:30道路標識は「城ヶ島 18km、三崎 17km」。秋谷海岸入口交差点。会社勤務時代の先輩がこの辺りに住まわれていたが・・・。この辺りは渋滞もなく順調に進む。佐島入口交差点。右折して進むと佐島漁港がある。佐島入口交差点角にある「地魚料理 おくむら」。カーナビはここ林交差点を左折して県道26号線 (三崎街道) を案内。交差点を左折して県道26号線 (三崎街道) へと進む。県道26号線 (三崎街道) を進み、続いてこの先「一騎塚交差点」を右折。一騎塚交差点この辺りは、横須賀市武3丁目。丘の上には集合住宅の「ネアポリス湘南」。一騎塚の名は、鎌倉時代建暦三年 (1213) 和田合戦の時、義盛に加勢した武次郎義国が、ただ 一駒この地から鎌倉に馳せ参じて戦い、討ち死にしたのを里人が哀れんで塚を築いて霊を弔ったという伝承に発するとされる。一騎塚交差点を右折して県道214号線を進む。目的地へは後4.5kmで到着は10:59 と。三浦海岸までは 4km。道路脇にはところどころで河津桜が咲いていた。三浦市へ入る。三浦市は、神奈川県の南東部に位置する市。三浦半島最南端にあり、温暖な気候である。マグロの水揚げで有名な三崎漁港や農業などで知られる。面 積:32.05k㎡人 口:40,754人 (2023年2月1日)、2017年時は44,130人であったので減少している。今年3月21日(火)の新聞によると県内の自治体の中でも、三浦市と隣接する横須賀市では人口減少のペースが速い。人口減少「観光客増の三浦 進まぬ定住」が問題になっていると。三浦市に入り県道214号線 (武上宮田線) を進むと道路脇には野菜畑が広がっていた。キャベツ、三浦大根の収穫で、道路脇には野菜の直売所も多くあった。京急の路線バス「林経由 横須賀市民病院行き」。道路脇には野菜の直売所が多い。カーナビの案内でここ池代交差点を右折。この先数百メートルで駐車場があったのだが見落とし通り過ぎる。11:00迂回して京急久里浜線三浦海岸駅前へ。再度、池代交差点へ戻り駐車場へ。駅前には多くの観光客が訪れていた。三浦海岸駅前の河津桜は満開であった。ここの所在は以前から写真を見て知っていたが今回始めての訪問である。駅前には「桜まつりテント村」がある。折しも来る車中でFM YOKOHAMAのアナウンサーが「三浦海岸桜まつり」を訪れ放送していた。池代交差点を左折して京急久里浜線を越え右折して駐車場へ。待つこと無く駐車でき、駐車料金は1回1,000円。右下を京急久里浜線が走る。自宅からの距離は58キロであったが、因みに伊豆の河津町までは109キロと倍近い距離になる。11:10 三浦海岸桜まつり会場駐車場所在地:神奈川県三浦市南下浦町平成九年に三浦海岸地域の活性化のため、「三浦海岸まちなみ事業協議会」を結成。平成十年暮れ、三浦海岸駅前広場のイルミネーション事業に切り出した桜の大木を使用したところ、「春に花が咲くのがたのしみですね!」と多くの方々から反響がありました。そこで、「冬に花の咲く河津桜を植えたい」と河津町を視察。改めて河津桜の魅力に触れ、「桜の咲く里づくり」を目指します。京急電鉄株式会社の協力もあり、駅前広場・ホームにも河津桜を植えるなど、平成十一年度には約100本の苗木を植栽。取り組みを知った横浜にお住まいの小池様から桜の苗木約200本の寄贈があり小松ヶ池公園に植栽されるなど、市内・外、市民・事業者など多数の協力を頂き、京急線の三浦海岸駅から小松ヶ池公園までの線路沿い約1kmに、早咲きで知られる河津桜約1,000本をメンバーの手で植樹しました。毎年種をまく菜の花とともに、色とりどりの景色や春の香りをお楽しみいただけます。桜まつりは、平成十五 (2003)年から開催され今年は第19回目になる。今では期間中に約30万人前後の観光客が訪れる三浦のひと足早い春の風物詩となっています。案内図。駐車場が少ないので交通機関をご利用下さいと。駐車場の廻りにも野菜畑が広がっていた。駐車場脇にも野菜の直売所があり、天皇に献上したという沢庵があった。京急久里浜線に沿って植えられている河津桜。三浦海岸駅方向でこの先で下るが、観光客は三浦海岸駅から西方向へ向かって登って来る。散策は先に終点の三崎口駅方向へ向かうことに。遊歩道の線路側にフェンスがあり単線の京急久里浜線が走る。河津桜とのコラボとなる菜の花はメンバーが毎年種をまいている。伊豆の河津町の桜は河津川の両岸に植えられているがこちらは線路の南側だけである。フェンスには「桜まつり 会場:小松ヶ池公園」と。河津桜は三浦海岸駅から小松ヶ池公園までの線路沿い約1kmに、メンバーの手によって約1,000本植えられている。ほぼ満開の河津桜を見上げる。道路脇で農家直売の野菜売り場。ブロッコリー・カリフラワー・ロマネスコ \150、キャベツ \100円 とあったがこの後散策するには重い荷物になる。値段はすべて税抜きで販売。桜まつり会場の小松ヶ池公園までの遊歩道は1メートル程で少々狭い感じがするが。こちらは民家の入口で販売。遊歩道脇の交通量も多いので要注意である。人通りも多いので写真撮影も要注意!20世紀最後に植えられた河津桜も樹齢20数年に。満開の河津桜をズームアップ。菜の花の香りが漂っていた。スマホで撮影の若者。小松ヶ池公園廻りの河津桜と菜の花。小松ヶ池公園所在地:神奈川県三浦市南下浦町上宮田ここまでは京急線三浦海岸駅から徒歩約18分である。公衆トイレあり。河津桜 カワヅザクラ【原産地】 静岡県賀茂郡河津町【花 期】 2月 ~ 3月 【色】 濃紅色小松ヶ池公園内の河津桜は、三浦海岸まちなみ事業協議会により「桜の咲く里づくり」を目指して植樹されました。三浦海岸駅から小松ヶ池公園までの道のりには、約1,000本の河津桜が植えられています。河津桜植栽協力者 京浜急行電鉄株式会社 国際ソロプチミスト三浦 河津町 相馬敬次 横 浜 小池吉清 横 浜 今井成秋 平成二十三年四月吉日 三浦海岸まちなみ事業協議会小松ヶ池公園内の河津桜はまだ若木?。左奥に公衆トイレがあった小松ヶ池公園。ほぼ満開の河津桜をズームアップ。三崎口駅方向の遊歩道。この辺りは遊歩道の下を京急が走る。小松ヶ池へのスロープには提灯。小松ヶ池へは京急の下を潜る。11:30京急の運行本数も多いようだ。車両の赤いカラーが目立つ。 ー 続く ー
2023.04.02
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三浦海岸桜まつりへの途中、森戸海岸線沿いに「森戸大明神」の看板が目に入り急遽立ち寄る。ここは5年前の平成30年 (2018) 2月7日(水)に訪れており二度目である。2月22日(水) 10:10県道を右折して森戸大明神の駐車場へ車を停める。駐車場西側の松並の間に富士山が見えていた。この時期富士が良く見える。海岸には、「故石原裕次郎」、右側に「森戸の夕照」の石碑。ここからの夜景は『森戸の夕照』で、かながわ景勝50選に選ばれている。富士山、江の島をズームアップ。石碑には故石原裕次郎のブロンズ像と兄の慎太郎自筆の詩が刻まれている。上段に『夢はとおく 白い帆にのって 消えていく 消えていく 水のかなたに』下段に『太陽の季節に実る 狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで』平成元年7月17日 石原慎太郎 と。森戸大明神裏から逗子、葉山方面を望む。右奥には森戸大明神裏の岩の上に立つ「千貫松」がある。源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられている。前回訪れているので今回はスルー。再度、富士山、江の島を望む。富士をズームアップ。南方向には真名瀬漁港。岩礁には、葉山灯台 (裕次郎灯台) と名島 (菜島) 鳥居が建っている。葉山灯台 (裕次郎灯台)森戸海岸沖500mの名島(菜島)の岩礁に建っている灯台が葉山灯台。石原裕次郎の三周忌を記念して兄・石原慎太郎が会長を務めていた日本外洋帆走協会が約1億円の基金を集めて建設した灯台なので裕次郎灯台と呼ばれている。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれている。名島 (菜島) 鳥居。石碑が並んでいた、右に、大正天皇即位の「御大典記念碑」中央に、「○○○○○○ 東京御供養」左に、「奉納 永代神楽 大正五年九月吉日 東京牛込○町 小林鐵次郎」マルチイーノ公使・ベルツ博士顕彰碑。ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ人物と。彼は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言し、明治27年に葉山御用邸が造営されたのだと。その功績を称えてこの場所にこの記念碑が建てられたと。石碑の左には「葉山町指定重要文化財 建造物 顕彰碑 (ベルツ博士・マルチイーノ公使)。石碑には、IN MEMORIAM CHEV. RENATI DE MARTINO ET PROF. DR. ERWINI BAELZマルチイーノ公使・ベールツ先生 記念碑葉山一帯ノ地源平時代ニ在リテ其名己ニ顕ハル而シテ近古ニ及ヒ却テ聞ユル所アラス明治二十年中東京駐紮伊太利公使レチート、デ、マルテイーノ氏甚タ葉山ノ風景ヲ愛シ創メテ其別業ヲ森戸ニ営ム後ノ細川候邸即チ是ナリ先師エルウィン、ベールツ先生モ亦其海岸附近ノ息ノ處ト為シ・・・後略昭和十一年二月 東京帝國大學名誉教授医学博士入澤達吉 識 野村保泉刻タイムズ森戸大明神専用駐車場入口。値段を確認して森戸大明神へ参拝。「ご参拝の方は30分無料」と。森戸大明神所在地:神奈川県三浦郡葉山町堀内1025森戸海岸の南端に、森戸川を挟んで所在しており、単に森戸神社とも言う。森戸大明神 御由緒永暦元年 (1160年) 伊豆の蛭ヶ小島に配流された源頼朝公は三嶋神社を深く信仰し、源氏の再興を祈願した。治承四年 (1180年) その神助を得て旗挙げに成功して、天下を治めた頼朝公は自らが信奉する三嶋神社の御分霊を、鎌倉に近き元山王の社地であった此の景勝の地に勧請して、永く謝恩の誠を捧げたと伝えられる。当時のことは、社宝として奉蔵の後二條院並びに花園院の院宣によっても篤く崇敬された様子がうかがわれ、又、吾妻鏡には、この地で加持祈祷が行なわれ、七瀬祓の霊所としても重要な地であったことが記されている。以来、源氏はもとより三浦、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、天正十九年 (1591年) には徳川家康公より社領七石が寄進されている。その後、明治の御世に移り、葉山に御用邸が造営され、ご滞在の折には天皇、皇后両陛下を始め皇族の方々の御参拝を仰ぎ、葉山郷の総鎮守として近郷近在より多くの参詣を得ている。特に境内より富士、箱根、伊豆、江ノ島を望む光景は絶景で「森戸の夕照」としてかながわの景勝五十選に認定されている。 御祭神 大山祗命 (おおやまつみのみこと) 事代主命 (ことしろぬしのみこと) 御祭日 例大祭 九月 八日 潮神楽 六月十六日 史 跡 飛柏槇 (町指定天然記念物) (かながわの名水100選) 樹齢 八百年余 元暦元年 (1184年) 頼朝公が当社を参拝の折、三嶋神社から種子が飛来 し発芽したものと伝えられ当社の御神木である。 千貫松 頼朝公が衣笠城に向う途中森戸の浜で休憩した時、岩上の松を見て「如 何にも珍しき松よ」とほめたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれ を千貫の値ありとて千貫松とよび候」と答えたという由来がある。 子宝石 「まいられよ子宝の福さずかりに」と詠まれている通り古来より信仰の 篤い石である。本 殿 鎌倉時代に創建され、400年以上の歴史を誇るご本殿は、現在「葉山町の重要文化財」に指定されている。本殿前から境内を見下ろす。境内の北側を流れる森戸川に架かる「みそぎ橋」。この森戸の海浜は、鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとにお祓いやみそぎが行われたと「吾妻鏡」に記されている。このような故事により、この海辺で「みそぎ」が盛んに行われ、神社から海辺に通じる橋を「みそぎ橋」と呼ぶようになったと言い伝えられている。「みそぎ」とは重大な祭事の前に海水を浴び、罪穢を祓いのけ、身を洗い清めることである。森戸川の河口。右側に森戸海岸、諏訪海岸、葉山マリーナ。社務所・授与所・待合所。祈願受付、御朱印受付を行っている。社務所前から参道の先に鳥居が建つ。参道の左側に末社が並んでいる。おせき稲荷社 御祭神 宇迦之御魂大神 例祭日 4月8日社の前には狐の狛犬。おせき稲荷社古来より「せきが止まらない人」、又「喉を使う職業の人」たちの篤い信仰があります。水天宮 御祭神 天御中主大神 例祭日 5月4日水天宮「まいられよ 子宝の福 さづかりに」と石碑に刻んである通り、古くから子宝を求める人等の篤い信仰を受けている。左右にある「子宝の石」を手でなで、お詣りすると子宝が授かると言い伝えられている霊験あらたかな石です。 子寶石 納所子宝石をお受けになり、赤ちゃんを授かったご夫婦がご出産の後、お宮参りに合わせて子宝石をお戻しいただく場所です。子宝石を納める際は、子宝石へお子様のお名前をご記入いただき、お子様が石のように丈夫でありますよう願いを込めてお戻しください。二月祭事暦 十五日 午前九時 月次祭三月祭事暦 一 日 午前九時 月首祭 三 日 午後三時 ひなまつり祭典への参列は先着四○名までに制限しております。 参道の左側に手水舎。参道の右側に奉納された多くの樽。右側に「庚申塔」があった。庚申塔 葉山町重要文化財 御祭神 猿田彦大神猿田彦大神を祀った庚申塔は葉山町唯一で三浦半島では珍しい流れ造りの石祠。庚申塔庚申の信仰は、中国の道教の思想に基づくもので、江戸時代に盛んになり講中の人たちが庚申塔を建立した。六十日毎にめぐって来る庚申の日の夜、眠った人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て、天帝にその人の罪過を報告し罰が下されるといわれ寝てはいけないと信じられていた。庚申塔の石祠。参道出口に鳥居。鳥居を出て右側に駐車場入口がある。畜霊社の前に建つ石灯籠。 御祭神 保食神 例祭日 4月6日かつて、多くの家畜が疫病にかかった時、この社にお参りしお願いすると病から免れることができたと云われ、以来家畜 (ペット) の守護神として篤い信仰があります。総霊社 御祭神 英霊 祖霊 水子の霊 例祭日 7月13日英霊、祖霊をはじめ水子の霊など、この社には多くの霊がまつられています。「どなたの霊」でもおまつり致しますのでご相談下さい。総霊社英霊、祖霊を始め水子の霊など、この社には多くの霊がまつられています。どなたの霊でも「おまつり」いたしますのでお申し出て下さい。参道の両側に狛犬。10:25森戸大明神の南側にある駐車場。急ぎ足で参拝したので滞在は15分で駐車料金は無料であった。駐車場を出て県道207号線 (森戸海岸線) 沿いに建つ鳥居。狭い県道207号線 (森戸海岸線) を走り、この先で国道134号と合流。右側は葉山御用邸入口。国道134号の葉山御用邸前交差点。葉山御用邸前交差点。10:30下山川に架かる下山橋。下山川は御用邸の中を流れる川で下流側に御用邸内の橋が架かっている。 ー 続く ー
2023.04.01
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旅友たちは本場の伊豆の河津桜へ行ったが、私は一人ドライブでかねてより行きたかった三浦半島にある河津桜を見に「三浦海岸桜まつり」を訪れた。2月22(水) 9:25三浦半島方面は渋滞するので通勤時間帯を外し9時に出発した。国道1号から学園通りを南下、JR東海道本線踏切。学園通りを南下、国道134号の小和田浜公園東側交差点を左折。ここ浜須賀交差点を直進、鎌倉 江の島方面へ。辻堂海浜公園南側を走る国道134号の松並木。上下線は片側2車線で中央分離帯は松林になっている。前方は浜見山交番前交差点で左折すると辻堂駅へ。浜見山交番前交差点。左前方角に、藤沢警察署 浜見山交番。更に国道134号を進み松波交差点。ここの地下にサイクリングロードからの地下道があり時々利用している。引地川を渡り終え鵠沼橋交差点。いつもはサイクリングロードを走っているのだが今日は車。国道134号の北側には湘南海岸公園北側にあるカフェ、マンション、ホテル?。集合住宅か。ベランダからは南に江の島、片瀬西浜・鵠沼海水浴場が広がる。この先の腰越橋交差点を左折すると県道304号線 (腰越大船線) へ。腰越橋交差点。いつもこの辺りは愛車のリンちゃんで動き回っている。交差点から海側にはフェンス越しに江の島。いつも買い出しする「腰越 (漁協) 直売所」。国道134号を進み七里ヶ浜。国道134号沿いを走る江ノ電。3月18日(土)に71年ぶりの大幅ダイヤ改正があり、運転間隔が12分から14分になったと。また、列車本数も181本から154本に。運転間隔を開けることによりダイヤをよりキープすると。これから訪れる三浦半島先端。江ノ電鎌倉高校前駅。前方には稲村ヶ崎。相模湾の海面がひかる。金洗沢ノ関跡江ノ島電鉄の電車が、鎌倉高校前駅と七里ヶ浜駅の間で上下線のすれ違い交換をする峰ヶ原の信号所のあたりに、金洗沢という古い地名が残っている。江戸時代の地誌などによると、昔、ここで金が出たためとか、江の島で採れた銅をここで精錬したから、このような名が付いたとされているが、ここで言う金とは鉄のことなのだろう。稲村ヶ崎の海岸では現在でも砂鉄が採取でき、また極楽寺や稲村ヶ崎、七里ヶ浜近辺には、「針磨橋」や「金山橋」といった金属に関係する地名が今も多く残っている。また、『吾妻鏡』に金洗沢はたびたび登場する。例えば、養和2年 (1182) 4月5日条には、頼朝が江の島からの帰途、金洗沢の付近で「牛追物」を見物したとある。また、『平家物語』によれば、文治元年 (1185) に平家を滅亡させた源義経が、壇の浦で生け捕った平宗盛・清宗父子を護送してきたが、頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子の身柄だけ受け取らせたのは金洗沢の関であったという(ネットから)。左上に「顕証寺」がある、七里ヶ浜駅への入口。この先は国道沿いが狭いので左方向へ進みいつも利用している道路である。国道134号を進み、七里ヶ浜海岸駐車場東側。極楽寺駅への入口で、ここの道路標識は「車両・自転車も進入禁止」になっている。先程のところが進入禁止になっているのでこの狭い国道沿いを走り前方に稲村ヶ崎。この海岸沿いの工事が早く終わることを願っているのだが、二百メートル程が未完成である。稲村ヶ崎から由比ヶ浜へ。カーナビは、9:49 鎌倉海浜公園。由比ヶ浜、材木座海岸。道路標識には「関東ふれあいの道 稲村ヶ崎 1.2km、鎌倉駅 2.4km」と。道路標識には「横須賀 19km、逗子 5km」。材木座海岸。材木座海岸にある「和賀江島」の岩場。国道134号を走り逗子市へと入る。逗子市に入ると切りたった岩肌の上に住宅地が広がっている。斜面は補強・養生されているが見た目にも危険!補強をズームアップ。逗子海岸。横横道路、逗葉新道 (鎌倉葉山線) の案内。振り返ると江の島の先に富士山が見えていた。逗子海岸にある「太陽の季節碑」。所在地:神奈川県逗子市新宿1丁目6石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」芥川賞受賞50周年を記念して建てられた。年間を通じてマリンスポーツが盛んな逗子海岸は「太陽が生まれたハーフマイルビーチ」と呼ばれており、この記念碑は逗子海岸のシンボルになっている。岡本太郎さん制作の「若い太陽」のオブジェが用いられており、除幕式には石原軍団も参加した (2005年11月23日)。カーナビはこの先の渚橋交差点を右折して県道207号線 (森戸海岸線) を案内。逗子海岸を過ぎ渚橋交差点。左折するとJR横須賀線逗子駅、京急逗子線逗子・葉山駅。渚交差点を右方向へ進み県道207号線 (森戸海岸線) へ進む。カーナビの時間は、10:01、到着予定地までは16km、到着予定10:41と。10:05県道207号線 (森戸海岸線) の葉山元町交差点。この道もところどころ狭い。 ー 続く ー
2023.03.31
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この日は日曜日で野球の朝練に参加。2月26日(日) 7:40この日は天気が良く富士が綺麗に見えていた。いつも見ている大岡越前通りから、メタセコイア越しの茅ヶ崎市博物館、富士山。河川敷にある日鉱のグランド。大山もクッキリと見えていた。子供たちがサッカーの練習をしているので少々グランドが荒れていた。駐車場から富士をズームアップ。堤防上からの富士山。前日の雨で富士には雪が積雪。河川敷に聳えるこの木は自然に生えた木であろうが樹齢は?後方は圏央道の高架橋。時々パトカーがサイレンを鳴らして取締りを行っている。その木の根元にはナイフスイッチ型の配電盤。その配電盤が長い年月で木に食い込まれているのだ。河川敷の土手にはカラスウリも色づき。野球友が玄関先に飾ると!10:35小出川の河津桜所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127野球の練習の後、満開であろうと予想して立寄ったが2月1日以降何度開花のチェックに来たか?。この日は日曜日で農道には花見で多くの車が駐車していた。掲示板には古いものと混在して新しい貼り紙があった。掲示板に貼り紙《お知らせ》桜まつりの中止についていよいよ、「やっぱり、春は小出川から」待ちに待った河津桜が花開きます。しかし、コロナやインフルのことを考え、「小出川桜まつり」は中止することにしました。事情をご理解いただきたくお願い申し上げます。 2月10日 花とともにくらす会本来なら祭りであろうが残念ながら中止。まつり開催の場合は野菜等の直販がされているのだが。河津桜も満開に近く多くの人が堤防上を散策。またこの日は第4日曜日でボランティア活動の方達が清掃、河川敷では枯草を燃やしていた。見頃の河津桜。親子連れの方も散策。カメラマンも。この日は富士山も綺麗に顔を出していた。電柱、建屋が光景を損なっているが贅沢は・・・。下流方向を見る。この桜の木は「春めき桜 (足柄桜)」。春めき桜は、2000年 (平成12年) 3月に品種改良された神奈川県南足柄市固有の桜である。カンヒザクラとシナミザクラの交雑種とされている。色は、ソメイヨシノよりピンクの色が濃く、河津桜よりも色が薄い。甘い香りがするのも特徴であると。春めき桜 (足柄桜) とのコラボ。後日、春めき桜のアップも試みたい。自転車に乗った黄色の人はボランティア活動の方でお揃いのユニフォーム。河津桜はどこへ行っても菜の花とのコラボを演出している。満開の枝をズームアップ。更にズームアップ。河津桜の下にはアジサイが植えられている。枯草の煙がモンモンとたちこめる。下流の萩園橋。菜の花とのコラボを追う。菜の花にピントを合わせ。ピンクの濃い河津桜で見応えがある。ズームアップ。上流側を振り返り。川面に映える河津桜。対岸からは川面に映えているのか。ワンちゃんも記念写真。11:00休憩所ではボランティア活動も終了し打上げ。積雪の多い富士山。ここからのダイヤモンド富士も追いたい。休憩所脇には二列に河津桜が植えられており樹径も30センチ以上になっている。初期に植えられたものかメンバーの方に聴くと「樹齢は20年以上」とか。既に植え替えられた河津桜も数本。来年は「河津桜まつり」を開催してほしいものだが!見上げる。花壇にはこんな看板も。東方向に茅ヶ崎中央インタ料金所。対岸からの富士を入れた写真を撮るべきであったが車で立ち寄ったので・・・。11:052月1日からの小出川河津桜の追いかけも今回で終え、帰路につく。四月以降はアジサイが対象の花に! ー END ー
2023.03.14
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鶴嶺通りの新鶴嶺橋から小出川を上流へ向かい河津桜へ。2月23日(木) 13:25萩園橋から上流側にある河津桜まつり会場を望む。前回は1週間前の2月15日(水)に訪れたが桜並木もだいぶ赤くなっていた。河川敷では川魚を追っていたが・・・。堤の上を自転車で進む。河津桜下の休憩所。見上げると三分咲きであろうか。掲示板に貼り紙《お知らせ》桜まつりの中止についていよいよ、「やっぱり、春は小出川から」待ちに待った河津桜が花開きます。しかし、コロナやインフルのことを考え、「小出川桜まつり」は中止することにしました。事情をご理解いただきたくお願い申し上げます。 2月10日 花とともにくらす会週末の26日には見ごろになっているのではと。見上げると、今にも咲きそうなつぼみ。河津桜は菜の花とのコラボ。河津桜は、日本固有種のオオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑から生まれた、日本原産の栽培品種のサクラである。ピンク色が濃いのはカンヒザクラ系であろうか。こちらの桜は「玉縄桜」2月28日(火)に鎌倉市腰越の小動神社で咲いていた。玉縄桜は県立大船フラワーセンターで生まれた桜。ソメイヨシノの種をまいた中から、早く開花する個体を選んで育成したもであると。1990年 (平成2年) に農林水産省に品種登録された。例年、2月中旬から下旬頃に咲き始め、開花期は1ヶ月程度と長く、 ソメイヨシノが咲く頃まで楽しめるのだと。2月1日から開花状況を追い続けたがようやく3分咲き?に。原木がある伊豆の河津町も良いが各地に植えられた河津桜は早春を彩っている。その各地の中で私の周辺では、① 松田の河津桜、② 三浦海岸駅周辺、③ ここ小出川 とある。下流側の萩園橋を望む。上流側の圏央道と新湘南バイパスの茅ヶ崎JCTの高架橋。青空に映える河津桜。マスク装着も規制が緩和されたが、皆さん花粉症、コロナ対策?河津桜のほかにも「春めき桜 (足柄桜)」も植えられているがこちらは固いつぼみ。ここへのアクセスは、コミュニティバス or 自家用車、自転車になる。河津桜も植えられてから20年以上経っているようで一部では老木になり切られていた。菜の花とのコラボをズームアップ。菜の花の香りが鼻をつくがミツバチは少なかった。菜の花も終盤に。ご婦人連れが多かった。老カップルは稀に!小出川の下流を望む。この日は訪れたのが昼過ぎで気温も上がり富士は霞んでいた。13:55この後相模川に架かる湘南銀河大橋へ向かうことに。14:05相模川の東側堤防上からの湘南銀河大橋。河川敷には「田端スポーツ公園第二野球場」。湘南銀河大橋の上流側には広場がありいつも休日には某大学が練習。その河川敷には河津桜が咲いている。15:35相模川の上流(寒川町)を散策し再度小出川の東側へ戻り、対岸から小出川河津桜会場を見る。ズームアップするが畑のネットが景観を損なっているが農家にとっては・・・。写真をトリミング。逆光で露出が合わず、富士も見えなかった。対岸を萩園橋方向へ下り振り返る。小出川の河津桜まつり会場をズームアップ。満開時のこの光景は?この辺りの田畑は生産緑地地区に指定されている?のかいつまでも保存してほしいものだが!15:40両岸はペットを連れた人が散策、川面にはカモがエサを求めて飛来。3日後の26日(日)に、野球の練習後に立ち寄りたいと思いながら家路についた。 ー 続く ー
2023.03.13
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小出川沿いの梅林を続けた後は今まで見落としていた「浜之郷中谷の道祖神」へ。2月16日(木) 14:05鶴嶺の梅林新鶴嶺橋から上流へ戻り「浜之郷中谷の道祖神」へ向かう。浜園橋から小出川の下流を望む。紅白の梅をズームアップ。浜之郷地区の雨水流入口。スマホの案内で次の目的地「浜之郷中谷の道祖神」を目指す。途中にあった「茅ヶ崎市立鶴嶺中学校」。浜之郷中谷の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷244今までこの道は何度も通っているが、自転車だと見落としやすい。電柱の後方にある「文字道祖神」。建立年月日を探すが風化して・・・。茅ヶ崎市立浜之郷小学校所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷90正門前で多くの子供たちがおり「自分たちが造った浜小米です買ってください」と呼び掛け。聞くと「1袋1合で、100円です」とのことで、2袋購入。購入した袋についていた小学生からのメッセージ。門扉に「茅ヶ崎市立浜之郷小学校」のネームプレート。校舎をつなぐ連絡通路であろうか。浜之郷小学校から西へ向かい、もう一つ見落としていた道祖神を探しに萩園通りへ。萩園通りを南下、この路地を右斜め方向に進むとある道祖神。萩園根下の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1415社の中を見ると双体道祖神。社の前には幟用の支持石柱があり例祭には幟を立てるのであろうか。道祖神は狭い道路脇にあり、かつては須賀港への道であったのか。この日は今まで見落としていた二つの道祖神を訪れた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2月20日(月) 13:25この日は2月11日(土)に高砂緑地で「3年ぶりに開催された梅まつり」から10日を経過し、梅が満開であろうと予想し愛車のリンちゃんで訪れた。出かける時に撮影した我が家の梅も満開に。昨年、徒長枝を剪定していたので樹形も見事に。六月の収穫が楽しみだが。13:45高砂緑地所在地:神奈川県茅ヶ崎市東海岸北1丁目4-50松籟庵 (しょうらいあん)松籟庵の庭に入る。奥に「茶室・書院」が建つ。満開の花を期待したが、梅の木が古木なっているので花付きが悪くなっている。このため若木も多く植えられている。若木には竹の添え木。紅白の梅の花をズームアップ。梅の幹は太くないので古木ではないようだが今年は花付きが悪かったのか。若木が植えられているので来年が楽しみか?。厳島神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町2-14高砂緑地・松籟荘の帰りに梅が綺麗に咲いていたので立ち寄った。この神社は茅ヶ崎の海側へ行くときいつも通る道路脇にある。拝殿前に咲く梅はまだ満開前であった。花芽をズームアップ。狛犬の先に拝殿。手水舎越しに拝殿。こちらの梅は種類が違うのかまだつぼみ状態。数輪咲いていたが。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2月23日(木) 13:10鶴嶺の梅林前回1週間前の2月16日(木)に訪れていたが、天気が穏やかであったのでその後の開花状況をチェックに愛車のリンちゃんで出かけた。紅白ともに満開になっていた。梅の実もつくのであろうが収穫はどうするのか。白梅をズームアップ。紅梅をズームアップ。紅梅は花を観賞するだけと思っていたが実も収穫できるようだが。浜園橋の架け替えの基礎工事も完成し整地していた。13:20浜園橋の下流側に咲く紅白の梅をズームアップ。。 ー 続く ーおまけ今年もすでに3月になり、我が家の庭先の花も咲き出した。3月9日(木)白梅は咲き終わり、これからは実の成長を待つ。ハクモクレンもいつのまにか花が膨らみ。昼前には花も開き、数日後には花びらも落ちるのだ。ヒメリュウキンカも開花。ズームアップ。ブルーベリーのつぼみも大きくなる。昨年は実を収穫して妻がジャムを作ったが今年も。 おまけ END
2023.03.12
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今年も早3月になり、温暖化の影響かサクラの開花も例年よりは早いと。このブログは2月の小出川沿いにある茅ヶ崎の河津桜を追ったシリーズです。併せて、茅ヶ崎市内の見落としていた道祖神等の史蹟を追った。2月1日(水) 13:35小出川の河津桜所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127ここは自宅から約5キロで、坂道もなく愛車のリンちゃんで約20分で行けるので私の散策エリアになっている。ボランティアの方達によって四季折々、サクラ、アジサイ、ひまわり、コキア等と花を咲かせている。河津桜の原木がある伊豆半島の河津町では既につぼみも膨らんでいるのだろうが、茅ヶ崎では膨らんではいるがまだつぼみ状態。河津町までは既に何度も行っているが片道110キロと遠いので、今年は近場を訪れたい。つぼみをズームアップ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2月7日(火) 15:25円蔵祇園社所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2163-2農道脇に建っており社殿の屋根、外壁は塗装が施されていたが、由緒等は説明板が無く不詳。社殿前の木立の中にも小さな社、石碑が建っていた。首辺りが破損していたが双体道祖神であろうか。祇園社の北東方向にはまだ農耕地が残り、後方には鶴が台団地。東側は開発され分譲住宅地に。後方にはJR相模線、鶴が台団地。南側は「生産緑地地区」になっておりまだの農耕地が広がる。「生産緑地地区」とは(茅ヶ崎市HPより)。市街化区域 (注) 内の農地等のうち、災害や公害の防止など良好な生活環境の確保に相当の効用があり、かつ、公園・緑地など公共施設等の敷地の用に供する土地として適するものを、「保全する農地」として、都市計画の手続きを経て指定するものです。この制度により、指定された区域内の土地のことを生産緑地と呼びます。(注)市街化区域・・・すでに市街地を形成している区域及びおおむね十年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域として都市計画上定めたもの。茅ヶ崎市の生産緑地地区の現況(令和4年12月2日 茅ヶ崎市告示より) 箇所数:368箇所、面積:約51.4ヘクタール南方向をズームアップすると赤い屋根の「了覚寺」。15:30了覚寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170円蔵祇園社から茅ヶ崎特有の曲がりくねった狭い道を南へ進むと広場があった。右側後方に先程参拝した赤い屋根の円蔵祇園社。ここの南には高野山真言宗 輪光寺がある。小さな本堂の扁額「了覚院」太田氏一族及歴代僧侶之墓が並ぶ。後方にも石仏、石碑が並んでいた。高野山真言宗 輪光寺末寺 了覚院 御本尊 阿弥陀如来 江戸時代の円蔵村地頭知行高二百三十石 (総知行高は二千二百六十石) 太田善太夫 吉次が菩提の為に元和五年 (1619) に創建。吉次は法名を了覚院と云。 延宝八年 (1680) 没。太田氏一族及歴代僧侶之墓右側の墓石には「太田善太夫吉次之墓」と。了覚寺の北側は「生産緑地地区」になっている。円蔵祇園社をズームアップ。了覚寺の廻りは広場になっておりきれいに管理されていたが、数本の木も聳えており定期的に自治会?で伐採管理しているようだが旧家と新興住宅が混在しておりまとめも大変ではと。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2月15日(水) 13:30小出川の河津桜前回2月1日(水)に訪れており2週間後のこの日、開花状況のチェックに訪れた。 河津桜のつぼみもだいぶ膨らみ一部開花、下には菜の花も咲いていた。今にも開花しそうなつぼみを探す。一部咲いた花を探してズームアップ。更にズームアップ。2月9日(木)に訪れた「あたみ桜」に比べると花びらが少ない河津桜である。河津桜下の休憩所。今年は新型コロナウイルスの感染もおさまり?「桜まつり」は開催されるのであろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2月16日(木) 13:20寒川町、小出川の梅散策前に、我が家の三分咲きの白梅。昨年は梅の収穫が少なかったが今年は豊作になるのではと思いながらパチリ。新湘南バイパスの高架下を西へ向かう。西久保地下道 歩道入口。JR相模線と県道44号線(伊勢原藤沢線)が交差する地下道である。以前この下で、ブレーキのかからない自転車に乗ったおばさんとぶつかったことがあり注意!。西久保地下道西久保地下道を抜けると、県道45号線(丸子中山茅ヶ崎線)と交差する茅ヶ崎中央インター交差点。ここを直進、小出川の堤に咲く梅林へ向かう。名勝地の名前はついていないが「鶴嶺の梅林」と。場所は、鶴嶺八幡宮の西側300メートルに位置している。小出川の浜園橋から下流の新鶴嶺橋までの約400メートルに紅白の梅が植えられている。下流側に赤い新鶴嶺橋。昨年は遅い剪定で花付きが少なかったが今年は見事な花を咲かせていた。この遊歩道は地元の方々の散歩コースになっている。皆さん立ち止まってスマホで撮影。梅の木の下にはつつじも植えられている。梅並木を振り返る。小出川の東側を下り「鶴嶺通り」へ。鶴嶺通りの鶴嶺橋から上流を望む。ズームアップ。紅白の梅の木が交互に植えられているようだ。梅の木の幹も太く樹齢は数十年か?。満開の花を見上げる。梅の木の中をメジロが飛びまわっていた。メジロの動きが早く・・・。14:05スイセンも咲いていた。 ー 続く ー
2023.03.11
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高砂緑地での和太鼓を楽しむ。2月11日(土) 11:20中海岸太鼓の会の演奏は11:00、と12:30からの2回。太鼓のメンバーは小学生から高校生までか。小学生は途中で交代していたようだが、右側の高校生?は一人で演奏。11:23和太鼓&横笛の演奏を終える。一つの太鼓を二人で演奏。打ち方の説明があったのか?この打ち方は?腹筋が必要な打ち方であった。以前太鼓は「叩く」のではなく「打つ」のだと。ネットで見ると「物を叩く」と言うのはとても原始的な動作だと思います。それに比べ、太鼓を打つのは作品を表現する打法なので規則性があります。人によっては太鼓を「はたく」と言ったりしますが、長唄の世界でも「鼓を打つ」と言いますし、「人の心を打つ」とも言います。ただ怒りに任せて物を叩いたり、布団を叩いたりするのではなく、狙ったところを打って自分の感情を表現するのです。どこでも当たればよいのではなく、気を入れて情景を表すために太鼓を打つのだと。精神統一の一環であるかも。太鼓の演奏を聞き終え高砂緑地を後にすることに。おばあさん?達が焼いもの販売していた「大 300円、中 250円」。昼前になりお腹が空いたので焼きそば 200円を食べたかったが長い列だったので諦める。焼きそばの仕込み、待ち時間が長そう。こちらはフランクフルトで、沸騰したお湯につけ(解凍?)、鉄板上に。おばさんに「繁昌していたので何本目」と聞くが「?」。鉄板上でフランクフルトを焼いていた。一本購入、ケチャップとからしをつけて、100円。11:45焼いもの後方ではおじいさん達が仕込み。約2時間の滞在で高砂緑地の梅まつりを後にし海岸へ行くことに。11:55高砂通りを南下国道134号に架かる「茅ヶ崎公園歩道橋」を渡り海岸へ。茅ヶ崎公園歩道橋から烏帽子岩を望む。同歩道橋上から西を見ると富士山がくっきりと。富士山をズームアップ。更に富士山をズームアップ、宝永山あたりまで積雪しているようだ。12:00サイクリングロードを走り、茅ヶ崎漁港へ方向へ進む。右側は「サザンビーチ北原珈琲」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目12986-52-101当店は2023年2月14日(火)を持ちまして一時閉店し、時代の変化とともに進化するための準備をしてまいります。そして3月中旬より『Lune Bleue Cafe』café de lune bleueとして生まれ変わります。お客様にはご不便をおかけしますが、より一層ご満足頂けるお店を目指しますので是非ご期待くださいと。サザンビーチには多くのサーファー。茅ヶ崎漁港の灯台。右側は「サザンビーチカフェ」所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目12986サザンビーチちがさき」にある海辺のカフェ&ダイニング。オープンテラスのある、開放感に溢れた空間でパスタ料理やデザートを楽しめるカフェである。サザンビーチポセイドン茅ヶ崎所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖4丁目24-11ラーメンもあり、海を眺めながらお酒と食事をいただける地元らしいお店であると。茅ヶ崎西浜海岸 (サザンビーチちがさき西側) からの富士山。富士山が綺麗に見えていた。茅ヶ崎西浜海岸、金時山をズームアップ。富士山をズームアップ。12:05サザンビーチポセイドン茅ヶ崎前に「ラーメン」「生ビール」の旗。釣り客が寄港して昼食に利用、リーズナブルな価格である。嫁さんに言われて、釜揚げしらすを購入する予定であったが時間が早く。12:10サイクリングロードを東へ走り、国道134号の野球場前交差点近くから茅ヶ崎ヘッドランド。茅ヶ崎海岸廻りの海水は濁っていた。この日は良い波が押し寄せているようで多くのサーファーが波に挑戦。茅ヶ崎ヘッドランドの後方には葉山マリーナ、房総半島の鋸山。しばしサーファーを追う。今日は海も濁っており波は荒れていたのか。12:15茅ヶ崎公園歩道橋の北側に茅ヶ崎公園野球場、右側は高砂通り。茅ヶ崎公園野球場茅ヶ崎公園野球場の正面。茅ヶ崎公園体験学習センター うみかぜテラス所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸3丁目3茅ヶ崎公園が持つ「みどり」や「海」といった風光明媚な環境を生かした様々な学びや体験を通じて、子どもから高齢者まであらゆる世代が交流できる施設を目指している。この日は「うみかぜテラスコンサート」が開催されていた。2/11(土・祝) 10:00 ~ 16:3012:20高砂通りを北上、高砂緑地前には多くの人が訪れていた。12:25高砂通りを戻り茅ヶ崎駅南口へ到着。駅前の道路標識。 END
2023.02.25
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