カテゴリ未分類 0
全708件 (708件中 251-300件目)
< 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ... 15 >
伊豆の国 大河ドラマ館から北方向にある「荒木神社」へ向かう。途中「八坂神社」があったが駐車場が見つからず、国道136号(下田街道)の八坂交差点を右折して北上。3月13日(日) 15:30郷社荒木神社(あらき)所在地:静岡県伊豆の国市原木90-1国道沿いに駐車場が見つからず農道の道を進み裏側へ駐車。写真は国道136号(下田街道)側から「一の鳥居」を撮影。国道沿いに建つ社号標石「郷社荒木神社」。「一の鳥居」を潜り「二の鳥居」に向かって進む。参道両側では様々な花木が植えられておりウメが咲いていた。式内社 郷社 荒木神社神社名 荒木神社(茨城神社 鞍掛神社)鎮座地 原木上町九〇番地の一外御祭神 天津日子根命(あまつひこねのみこと)例祭日 十月十八日創 建 不詳由 緒創建はさだかでないが、境内や隣接する荒真木遺跡からは古墳時代の祭祀土器が見つかり、遺跡包蔵地に指定されていることからも神社の存在が推測される。「延喜式神名帳」(905年)に荒木神社名があり「伊豆の国神名帳」に正四位上あらきの明神と記載されている中古は茨城神社、鞍掛神社とも称しており、歴史ある神社といえる。原木(ばらき)の地名は「荒木神社」「茨城郷」の「あらき」「いばらぎ」「ばらき」に転訛したものと考えられている。例祭に奉納される「日の出三番叟」は古くから引き継がれている。「二の鳥居」の先に「手水舎」「拝殿」。「手水舎」境内の左側に「神楽殿」、この裏の道路脇に車を駐車。拝殿正面。荒木神社は、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝頼朝が参拝の度に社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたという。狛犬(阿形像)狛犬(吽形像)拝殿の扁額「郷社 荒木神社」多くの千社札が貼られていた。御神木のクスノキ(楠)樹高:28m、目通り幹囲:6.6m、推定樹齢:300年以上。社殿の右側奥に「境内社」が2社。社殿の右手に境内社がいくつか並んでいたが詳細は不明。昭和十六年の『静岡県神社誌』には、伊勢両大神宮、三珠神社、風神社、御門神社、稲荷神社、許登比良神社、山神社、八坂神社、厳島神社、八衢神社の十社相殿の祠があると記されているとのことだが???。境内隅に巨大な石碑が建つ。石碑の裏側に、砲弾が祭られていた。日清、日露戦争の慰霊碑であろうか。こちらも詳細不明。南側から社殿を望む。15:36拝殿前から二の鳥居、一の鳥居を望む。15:42荒木神社前から国道136号(下田街道)の西側を並行する街道を北上。曹洞宗成願寺(じょうがんじ)所在地:静岡県伊豆の国市原木158山門の左側にあった「童地蔵」門前に苔むした寺号標石「曹洞宗成願寺」入口右側に、「享和2年(1802)建立 三世一切諸経塔」、「六地蔵」等が祀られていた。左側にも、「萬霊塔」、「庚申塔」等が建つ。成願寺源頼朝が流人として蛭ヶ島にいた頃、たびたび三嶋大明神(現・三嶋大社)に参詣していました。途中の原木に餅売りのお婆さんの店があり、頼朝は参詣の折に立ち寄り休息しました。その後、将軍となった頼朝は、恩に報いるため、お婆さんの願いである寺を建立しました。その寺が成願寺で、境内には「餅売り媼(おうな)の墓」があります。 伊豆の国市一部破損した「六地蔵」本堂右手前に多くの墓石が並んでいたが移設されたのか。成願寺本堂源頼朝が餅売りの媼(おうな・老女)の為に建立した寺。源氏再興の悲願を胸に、若き頼朝は三島明神への百日詣でに通う道すがら、折にふれ原木にある餅売りの媼の店に立ち寄りました。媼は不遇な源氏の御曹司を励まし、時には蛭ケ小島を訪れ餅を献じることもあったといいます。1180(治承4)年8月、頼朝は兵を挙げ平家を倒して鎌倉幕府を開きました。頼朝は旧恩を忘れず、媼を訪ね「何なりと望みをかなえよう」と言ったところ、媼は「私は老い先短いので、阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願ったといいます。頼朝は早速阿弥陀仏を与え、一寺を建立して媼の望みをかなえてやりました。成願寺は媼の「我が願い成る」と喜んだ言葉を寺号としたもので、本堂に向かって左側に餅売媼の墓があった。本堂の扁額「徳光」本堂手前に「心經五萬部讀誦供養塔」の石碑。本堂左側を進むと多くの墓石が。ここにも多くの古い墓石が並んでいた。その左側に歴代住職の墓地がありその中に「餅売りの嫗の墓」。五輪塔のそばに「頼朝公伝説 餅売嫗之墓 成願寺」の立札。これ以外に案内板がなく見落とす。本堂裏西側に立派な観音像後方の堤は狩野川そのそばにも立派な墓碑境内に戻り「檀信徒会館 真慈閣」前に立つ石祠。15:50成願寺山門から向かい側の実相寺を望む。 ー 続く ー
2022.03.25
コメント(0)
伊豆の国 大河ドラマ館の中に入り見学。今日は日曜日で多くの人が入場しており館内は三密状態。3月13日(日) 14:38正面に主人公「北条義時」を演じる小栗旬(おぐりじゅん)さんのパネル。大河ドラマ館内の配置 1⃣ 「鎌倉殿の13人」の世界 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のストーリーや登場人物をパネルで紹介。人物相関図も。 2⃣ 出演者サインコーナー 北条家など、伊豆の国にゆかりの深い役を演じる出演者を中心に、サイン色紙を展示。 3⃣ 衣裳・小道具展示 見て楽しめる、作中で登場した衣裳や小道具を展示。 4⃣ シアター映像コーナー ドラマのダイジェスト紹介やメイン出演者のインタビュー、伊豆の国市で行われたオー プンセットロケのメイキング映像のほか、市内の北条家ゆかりの地を紹介。 5⃣ フォトスポット 当時の時代の雰囲気をイメージしたフォトスポット。記念撮影用。矢印から入り、時計回りに展示品を見学。館内はパネルが中心になっていた、作 三谷幸喜(みたにこうき) 大河ドラマ3作目の舞台は陰謀渦巻く鎌倉時代 『新選組!』『真田丸』に続き3作目となる今回は、幕末や戦国と比べるとあまり知られてい ない鎌倉時代を舞台に、今までの大河ドラマにはない、予測不能な面白さのある新しい大河 を作ろうと思いました。物語は当時を克明に記した『吾妻鏡』を基本にしています。ただ史 実に忠実であればあるほど、その裏側が見えてこない部分があります。そこは僕なりの解釈 でイメージを膨らませて書いています。語り 長澤まさみ 登場人物に寄り添い、それぞれの行く末を見届けたい。音楽 エバン・コール ドラマの世界観をシネマティックな音楽で盛り上げる。小池栄子さんが演じた「北条政子」の衣装。着物と草履、どちらも「撮影使用品」。勝気な「北条政子」役の小池栄子さんのパネル。新垣結衣さんが演じた「八重」の衣装。着物と草履、どちらも「撮影使用品」と。北条義時 伊豆の若武者が武家政権の礎を築く 八重 北条義時の初恋の人であり、源頼朝の最初の妻 北条政子 義時の姉にして源頼朝の妻。のちには尼将軍として君臨 源頼朝と結婚したが何故「源政子」と名が残らないのか? 北条宗時を演じる、片岡愛之助さん。 弟・義時とは異なり、打倒平家に燃える若き夢想家、北条宗時。 伊豆の豪族・北条時政の嫡男。のちに源頼朝の妻となる政子や義時の兄にあたる。阿野全成(あのぜんじょう)を演じる、新納慎也(にいろしんや)さん。 頼朝の弟。北条の栄枯盛衰を見つめる、阿野全成。 源頼朝の異母弟であり、源義経の同母兄。実衣(みい)(阿波局)を演じる、宮澤エマさん。 兄・義時を慕うも、北条家を冷静に見つめる皮肉屋の、実衣(みい)(阿波局)。 伊豆の豪族・北条時政の娘。源頼朝の妻・政子と北条義時の妺にあたる。伊東祐清(いとうすけきよ)を演じる、竹財輝之助(たけざいてるのすけ)さん。 家族思いがゆえに、苦渋の決断も下す八重の兄、伊東祐清。 伊豆の伊東を拠点とした大豪族・伊東祐親の息子。仁田忠常(にったただつね)を演じる、高岸宏行(たかぎしひろゆき)さん。 義時を支え、頼朝の天下取りに力を注ぐ勇敢な坂東武士、仁田忠常。 伊豆の武将。カ自慢であり、初めての戦を前に準備を怠らない真面目な性格の坂東武士。比企尼を演じる、草笛光子さん。 源頼朝の不遇の時代を陰ながら支えた乳母、比企尼。 武蔵国を治める比企能員の母であり、源頼朝の乳母。頼朝が京から伊豆国へ と流刑となり、自らも坂東の地へと下る。その後は長年に渡り仕送りをする など、頼朝の味方となって援助をし続ける。大泉洋(おおいずみよう)さんが演じる「源頼朝」のパネル。3⃣ 衣裳・小道具展示 まだ撮影が途中のためか作中で登場した衣裳や小道具が少ない感がする。正面奥 千鶴丸おもちゃ:馬を模して作られた藁のおもちゃ左 側 木簡:米の納品伝票手 前 八重が頼朝へ宛てた矢八重が頼朝へ宛てた矢義時から頼朝挙兵の動きを聞き、父・祐親と頼朝の間で心が揺らぐ八重。思い悩んた未、八重は対岸の北条家に向け、白い布を結び付けた1本の矢を放った。それは頼朝だけに通する秘密の合図であり、父や兄を裏切るものであった。 第4回「矢のゆくえ」伊東祐親(いとうすけちか)を演じる、浅野和之(あさのかずゆき)さん。 義時の祖父。平家に謀反を企てる頼朝の命を狙う老武士、伊東祐親。 伊豆の伊東を拠点とした大豪族。北条時政は娘婿にあたり、義時や宗時、政子は孫になる。 平家に仕え、伊豆に流刑となった源頼朝の監視役を務めるが、大番役として上洛している 間に娘・八重と頼朝が深い仲となり、子どもまでもうけたことに激怒。平家討伐を目論む 頼朝を目の敵にして命を狙う。北条時政を演じる、坂東彌十郎(ばんどうやじゅうろう)さん。 義時の父、北条一族のため天下取りの大勝負に挑む田舎武士、北条時政。 伊豆を拠点とした在地豪族であり、義時の父にあたる。欲がなく大らかな性格で、後妻に 迎えたりく(牧の方)にメロメロだったが、娘・政子と源頼朝の結婚を機に、北条一族のた めに平家討伐へと舵を切る。いざ戦に出ると息子たちが驚くほどの剣の達人でもある。 鎌倉幕府の初代執権。りく(牧の方)を演じる、宮沢りえさん。 義時の継母。傍らで夫の欲を煽り、権力の座へと導く、りく(牧の方)。 公家である牧宗親の妹。大番役として上洛していた北条時政に見初められ、後妻として北条 家へ嫁ぐ性格はしたたかな面があり、欲のなかった人・時政を傍らで鼓舞し続け、天下取り を後押しする。しかし、のちのち、りくの言動が思わぬ事態を巻き起こすことになる。源頼朝を演じる、大泉洋さん。 孤独を胸に秘めた源氏の棟梁 義時を右腕に天下を狙う、源頼朝。 源氏の棟梁。父・義朝が平清盛率いる平家との戦に敗れたため、14歳で伊豆国に流刑となっ た。監視役の伊東祐親の娘・八重と結ばれたことで、祐親の逆鱗に触れる。 北条家に匿われ、時政の娘であり、義時の姉・政子と結婚。やがて、義時ら坂東武士の力を 借り、打倒平家の兵を挙げる。ついには平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開く。現在までの様々な放送画面がパネルで紹介されている。鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館 4Kシアター伊豆の国からはじまる新時代「鎌倉殿の13人」の魅力に迫る! 上映時間9分51秒風俗考証から紐解く「鎌倉殿の13人」の世界 上映時間4分57秒北条ファミリーの足跡をたどる ~ 伊豆の国 歴史散歩 ~ 上映時間5分35秒ドラマシアターをご覧になる際の注意事項 ● 上映中の写真撮影・録音は禁止とさせていただいております。 ● 上映中はスマートフォン・携帯電話での通話をご遠慮ください。 ● 飲食物の持込はご遠慮ください。 ● 上映中、ご気分が悪くなった場合はご移動ください。もしくは館内スタッフまで お知らせください。この時代の東国武士の文化・風習ここが武士の歴史のスタート地点この時代は歴史上にようやく武士が出始めてきた時代です。まだ武士たちも素朴でローカルな雰囲気が漂っていますが、この東国の地で頼朝や北条家が心に葛藤を抱えながらも戦い抜き、その後数百年続く武士の時代を作りました。つまり、この地は武士の歴史のスタート地点です。大河ドラマでもあまり描かれてこなかった難しい時代ではありますが、三谷さんの見事な脚本と手練な役者の皆さんのおかげで、とても分かりやすく面白い物語になっていると思います。都と地方の武士の対比に注目この物語の前半の面白さの一つに、都の武士と地方の武士の対比があります。これまで貴族社会に君臨していた朝廷に陰りが見え始めると、平家はその隙をついて富や権力を手にしていきました。一方、農民と紙一重の存在だった地方の武士たちは素朴で、生活そのものがとても質素でした。その違いは彼らが身に纏う物にも顕著に表れており、たとえば平家はツヤのある絹製の着物を着ているのに対して、地方の武士は縄文時代から続く伝統的な植物繊維の布から作られた直垂を着ていました。また甲冑も、平家は真新しいものや綺麗なもの、豪華なものでしたが、地方の武士は古色蒼然としたもの、簡素な甲冑を着けています。ドラマの中では、こうした衣装や甲冑などで当時の武士たちの貧富の差を表現し、彼らの対立を分かりやすく描いています。また、この時代は武士の世の幕開けともいえます。農民から武士へと職能を移し始めた彼らが、今後自分たちの土地を守るためにどう変わっていくのかも見所です。今回の作品は当時の風俗をかなりリアルに再現していると思います。烏帽子は当時の武士の必需品今回の時代性を示すアイテムの一つに烏帽子があります。当時の成人男性の風習の一つに、自分の頭頂部を人に見せてはいけないというものがありました。現在では考えられないことですが、当時は他人に頭頂部を見られたら、人によってはしばらく人前に出られないくらい恥ずべき事柄だったのです。だから、彼らは就寝中も入浴中も烏帽子を取らず、頭に被っていました。この烏帽子も種類があり、たとえば京都の貴族や武士の烏帽子は薄く黒漆で塗り固めたようなぱりっとしたものでしたが、坂東武士の烏帽子は柔らかくて質素なものでした。しかし、東国の武士の中でも源頼朝のように武士団を束ねる大将ともなると貴族と同じような立烏帽子を被り、折烏帽子(別名:侍烏帽子)を被る家人や所従とは一線を画していました。今回の大河ドラマでは、烏帽子が武士の間の序列や状況の違いを表す重要な小道具として用いられています。鎌倉殿の13人 人物相関図 ー 伊豆の国から 歴史の表舞台へ ー平泉、武蔵、相模、房総で活躍・登場する人物。伊豆で活躍・登場する人物。京、頼朝の協力者、甲斐、信濃 で活躍・登場する人物。知恵を絞り自然と共存当時、田舎の豪農と大差のなかった武士たちは、板屋根や茅葺屋根の家に暮らしていました。一方、農民たちの家はとても粗末なもので、その中には縄文時代の竪穴式住居のような家も残っていました。また狩野川がたびたび氾濫していたこの地域では、蔵や家の軒先に船を吊り、いつでも逃げられるようにしていた様子も再現しています。藁の鹿を的に矢の練習万全の応援体制て撮影自然の神々を崇める戦とは無緑の坂東武士簡素な造りが当時の主流当時の情景を見事再現今回のオープンセットは北条時政の館周辺を中心に作られました。実際にはセットとして作られていない場所からの景色もイメージすることで、当時の雰囲気により近づけることができました。守山を彷彿させる小高い山や周囲の自然、季節の移ろいなどがリアルさを伴い、まるでタイムスリップしたかのようなセットになりました。伊豆の国市オープンセット「鎌倉殿の13人」は、物語序盤の舞台である伊豆の国市内に作られた広大なオープンセットで撮影されています。細部にまてこだわったオープンセットの見所をご紹介します。遙か遠い昔に思いを馳せる北条家ゆかりの地 伊豆の国市 1、北条義時館跡 2、北條寺 3、豆塚神社 4、池田の大蛇伝説 5、史跡北条氏邸跡(円成寺跡) 6、眞珠院 八重姫御堂(静堂) 7、頼朝・政子語らいの路 8、蛭ヶ島(蛭ヶ島公園) 9、守 山 10、願成就院 11、北条政子産湯の井戸 12、光照寺 13、香山寺大河ドラマ館から出ると貼り紙、【 お知らせ 】エキストラ募集中(3/13まで)大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の撮影が再びやってきた! ※ 詳細は、伊豆の国市ホームページを確認してください。鎌倉市にある「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」のパンフレット。開催期間:2022年3月1日(火) ~ 2023年1月9日(月・祝)開館時間:午前9時30分 ~ 午後5時 最終入館は午後4時30分会 場:鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム 鶴岡八幡宮境内入 館 料 :大人 1000円 小人 500円(小・中学生)史上はじめて武家政権が樹立された鎌倉市で「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」がオープン。衣裳等の実物展示と映像展示による、ここでしか見られないコンテンツが多数。大河ドラマのファンだけでなく、歴史好き、鎌倉好きの方々も必見です。あなたなりの「まだ見ぬ鎌倉」「知られざる鎌倉」を、発見してみてください。大河ドラマ館の南側で開催されている「特別企画展 義時の里」入場無料であったが、パネル主体の展示であった。日だまり広場の東側を走るカラフルな路線バス。物産館の前に立つ幟。韮山時代劇場の北西方向にある、伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅。駅のホームにも「源頼朝・北条政子の史跡を巡る 北条義時ゆかりの地」の幟。韮山時代劇場を振り返る。壁面には「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」と。韮山時代劇場の北側に位置する「一般図書室」。その前に植えられたまだ蕾の堅い桜。日本の桜の郷づくり 遺伝研の貴重な桜による地域づくりこの桜は、三島市にある国立遺伝学研究所(遺伝研)に植えられている桜の枝を再生させたものです。遺伝研には、染井吉野(そめいよしの)の起源の研究で有名な竹中要(たけなかかなめ)博士が収集した260品種もの桜が植えられており、日本有数の重要な遺伝資源となっています。これらの貴重な遺伝資源を未来に残していくため、静岡県では、遺伝研と連携して日本の様々な桜を見ることができる「日本の桜の郷づくり」を進めています。なお、桜の再生には日本製紙(株)の技術協力を頂きました。 静岡県図書室前に咲くハクモクレン。いつの間にか春になりその中でハクモレンの開花も早い。韮山駅東口から線路沿いに建つ民家の塀にも花を飾り。これからしばらく彩を添える花だが花の名は???。駐車場に戻り、修善寺行きの電車が来る。西武系の電車であろうか、ワンマンカ―。15:15まだ時間も早く、体調に違和感がないので次の場所へ。 ー 続く ー
2022.03.24
コメント(1)
蛭ヶ島公園の西側にある「大河ドラマ館」へ移動。3月13日(日) 14:25蛭ヶ島公園の北側の道から「大河ドラマ館」方向を望む。ドラマ館へ西方向へ数百メートルに位置する。近郊の地図大河ドラマ館(韮山時代劇場内)伊豆箱根鉄道駿豆線の三島行きの列車。駿豆線は、静岡県三島市の三島駅から伊豆市の修善寺駅までとを結ぶ伊豆箱根鉄道の鉄道路線。社名をもじったいずっぱこの愛称で親しまれる。 路線名の駿豆とは駿河国と伊豆国を意味するが、これはかつて同線が駿河国に属する沼津市と伊豆国に属する三島市の間に軌道線を運行していた駿豆電気鉄道の路線だったことに由来する。先頭車両に「Ikemen Series 9th Anniversary」のプレート。ネットで調べると、サイバードは2009年に恋愛ゲームに参入して以来、様々なゲームを提供してきました。イケメンシリーズは「女性の毎日に、ときめきや恋する気持ちを届けたい」という思いから生まれた恋愛ゲームブランドで、全世界でシリーズ累計3,500万人のお客様にご好評いただいている大人気シリーズです。現在は国内外でのゲーム配信の他にも物販やリアルイベントなど、幅広く展開していますと。地方私鉄はJR等からの払い下げ車両が多いがこの車両は新しい。伊豆箱根鉄道駿豆線 韮山駅へ向かう列車。駿豆線の開業:1898年5月20日、駅数:13駅、路線距離:19.8km、軌間:1,067mm。大河ドラマ館の駐車場(無料)に駐車して、ドラマ館へ。鎌倉殿の13人「伊豆の国 大河ドラマ館」大河ドラマ館では、ドラマに登場した小道具や衣装の展示、メイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示など、大河ドラマの世界観を体験できる施設。パンフレット鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館 2022年1.15(土) ~ 2023年1.15(日) 韮山時代劇場内(伊豆の国市四日町772) 開館時間 9時 ~ 17時(最終入館:16時30分まで) 休 館 日 水曜日(祝日の場合は、翌日以降の平日) ※ 2022年1月・2月および、4月29日~5月8日は休まず開館 入 場 料 大人 400円、小・中学生 100円 駐 車 場 無料(専用駐車場 乗用車180台、大型バス2台)歩道に埋められていたタイル【清和源氏系図】源氏(げんじ)平安時代、皇族が源という姓をもらい臣下となった一族です。なかでも清和天皇の孫経基に始まる清和源氏は武門の家として栄えました。にらやまのおすいマンホール蓋旧韮山町のマンホールで富士山と特産のイチゴと反射炉のデザイン。伊豆の国市 韮山文化センター 韮山時代劇場所在地:静岡県伊豆の国市四日町772韮山時代劇場ご案内 1F 2F時代劇場らしい時計塔が建つ。時計塔も岡崎市だと徳川家康の像、ここ伊豆の国市では「江川??」の像では。伊豆の国市韮山文化センターは、平成9年(1997) 4月にオープンした複合施設です。大ホール、映像ホール、研修室やアトリエ、韮山図書館などを備え、コンサートやあらゆる芸術文化の鑑賞、活動に利用できる施設です。通称「韮山時代劇場」と呼ばれています。大河ドラマ館の幟が立つ。もう少し広い所で開催しているのかと思っていたが。伊豆の国物産館の前にいろんな幟が立つ。「北条義時ゆかりの地」「伊豆の国 ビール」。営業時間:9:00 ~ 17:00 2023年1月15日まで 期間限定営業!!!南方向に客席数509席の「大ホール」。正面に「大河ドラマ館」の入り口。「鎌倉殿の13人」あらすじ。平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに運命の歯車は回り始める。1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打に乗った。頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。”飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。(次へ)(つづき)義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵を取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだーーー。「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。頼朝の天下取りは十三人の家臣団が支えていた。頼朝の死後、彼らは激しい内部抗争を繰り広げるが、その中で最後まで生き残り、遂に権力を手中に収めたのが、十三人中もっとも若かった北条義時である。チケット販売機当日券 400円係員から「イオンカードを持っていると300円」とのこと。丁度持参していたので提示し、300円にラッキー。チケットもパンフレットのデザイン。鎌倉殿の13人 伊豆の国市 大河ドラマ館北条義時を始めとする勇猛な武士たちの活躍により、源頼朝が開いた史上初の武家政権 鎌倉幕府。その中心的存在となった北条家の原点が伊豆の国です。大河ドラマ館では、主人公の北条義時が源頼朝と出会い、父・時政、兄・宗時、姉・政子、妹・阿波局たちと共に、歴史を動かす存在へと成長していく姿を展示しています。また、伊豆の国市の特産品等を扱う「伊豆の国物産館」、文化財展示「義時の里」を併設。1⃣ 「鎌倉殿の13人」の世界 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のストーリーや登場人物をパネルで紹介。人物相関図も。2⃣ 出演者サインコーナー 北条家など、伊豆の国にゆかりの深い役を演じる出演者を中心に、サイン色紙を展示。3⃣ 衣裳・小道具展示 見て楽しめる、作中で登場した衣裳や小道具を展示。4⃣ シアター映像コーナー ドラマのダイジェスト紹介やメイン出演者のインタビュー、伊豆の国市で行われたオー プンセットロケのメイキング映像のほか、市内の北条家ゆかりの地を紹介。5⃣ フォトスポット 当時の時代の雰囲気をイメージしたフォトスポット。記念撮影用。以下は、「大人の休日 俱楽部 2022年2月号の記事」から、北条義時が武士の世の礎を築くまで、 伊豆国・北条氏、勃興の足跡を辿る鎌倉幕府・二代執権の北条義時は、伊豆の豪族・北条氏の出身。源氏の御曹司・源頼朝と運命の出会いを果たし、頼朝に従って平家を倒すと、初の武家政権を支えた。さらには朝廷と対峙し、「武士の世」を盤石なものとする。北条氏ゆかりの地・伊豆へ、歴史ロマンの旅に出かけよう。絵は『承久記絵巻』より。写真は、北条氏の本拠地・守山の山頂ある展望台より、伊豆の国市江間地区を望む。江間地区は義時が幼・少年期を過ごした場所とされ、創建した北條寺などが今も残る。鎌倉幕府草創の地 ” 伊豆 ”と北条氏伊豆を本拠地とし、やがて幕府の中枢を担った北条氏。彼らはいったいどんな一族であったのか。頼朝に従い、武家政権を築く『承久記絵巻』(第2巻)に描かれた北条義時(左上)。後鳥羽上皇の動きを知らせる御家人と、それを聞く義時の姿が描かれている。高野山龍光院所蔵/高野山霊宝館提供義時をズームアップ。北条義時は、長寛元(1163)年、伊豆国(現在の静岡県伊豆の国市)に誕生した。父の北条時政は、在庁官人として国衙(こくが)※1 に関わる小規模な武士団の惣領であったという。※1 国衙 律令制度の下で、国ごとに置かれた地方の役所のこと。源氏と北条氏の系図第Ⅰ期 永暦元(1160)年 ~ 治承4(1180)年北条氏と源頼朝の運命の出会い、そして挙兵。写真は、香山寺(こうざんじ) 山木兼隆の創建と伝わる。頼朝が最初に攻め込んだ兼隆の屋敷はここからほど 近い場所にあったと推定される。第Ⅱ期 治承4(1180)年 ~ 建久10(1199)年鎌倉幕府成立、時政・義時らによる「13人の合議制」が発足。絵は、「石橋山伏木隠 大場三郎景親」 大庭景親と、洞穴の中に潜む頼朝の姿が描かれている。歌川国芳画/藤沢市藤澤浮世絵館所蔵第Ⅲ期 建仁3(1203)年 ~ 元仁元(1224)年源氏将軍家の断絶。北条氏、幕府の実権を握る。写真は、修禅寺 修禅寺は修善寺温泉街の中心にあり、多くの文人墨客に愛されてきた。二代将軍頼家ゆかりの修善寺は、頼家が幽閉され、非業の死を遂げた場所であり、岡本綺堂が、頼家を主人公に戯曲『修善寺物語』を執筆したことでも知られる。源頼家の失権の陰には北条氏がいる。北条氏は頼家派の比企一族を滅ぼし、頼家は出家を強いられて修善寺に幽閉され、翌年、謎の死を遂げる。伊豆国・北条氏の里を巡る。修善寺エリア:今回は計画していないので次回の旅とする。韮山エリア :2月2日、3月13、14日に訪れる。 ー 続く ー
2022.03.23
コメント(0)
江川家菩提寺の日蓮宗本立寺の参拝後、前回見落とした香山寺の近くにある「山木皇大神社」を訪れた。3月13日(日) 13:30香山寺の手前の路地を左折し「山木皇大神社(やまきこうたいじんじゃ)」へ。所在地:静岡県伊豆の国市韮山山木1072皇大神社は、山木地区の鎮守である。明治13年(1880)、山木地区の神明宮・天神社などが合祀されて成立した神社である。毎年年末には、江川家から供え餅と注連縄飾りが納められている。一の鳥居下にある駐車場。一の石鳥居の扁額「皇大神社」。境内から山木地区を見下ろす。左方向に「香山寺」がある。山木皇大神社は山の傾斜地に存在し、「手水舎」「二の石鳥居」「社殿」。屋根を塗装したのか真新しい「拝殿」本殿に平兼隆、天照大神、相殿に菅原道真・八牧幣座神(やまきみてぐらのかみ)を祀っている。平兼隆とは山木兼隆(やまきかねたか)のこと。治承4年(1180)8月、頼朝は 以仁王の令旨を受け挙兵、兼隆の館を急襲する。三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって討たれた(山木館襲撃)。隙間から、内陣を覗く。右隣に「境内社」。境内社に、来宮神社・八牧別所幣座神社・滝山明神・山木稲荷がある。左に「八牧別所幣座神社」、右に「来宮神社」。信仰深い人がおられるようでワンカップがひとつ供えられていた。来宮神社の御札には・・・・その縁起が書かれていたが。拝殿前を見下ろす。社殿の左側に「山木神社」。山木村の山木判官を祀る兼隆神社は、嘉永六年(1853)の山木大火で堂社を焼失し、皇大(こうたい)神社に合祀されたのだと。社殿を見下ろす。以下三枚の写真は、前回2月2日(水)に訪れた時の香山寺。香山寺本堂への参道右側にある「山木兼隆の供養塔」。800回忌を記念して建てられたものだそうで、それからまた月日が流れ今年で842回忌ということに。「山木兼隆供養塔」は五輪塔。香山寺(山木兼隆供養塔) 山木兼隆は平氏の一族で、伊豆に流人として暮らしていましたが、京都の政変により伊豆国の目代(国を治める長官の代官)として取り立てられました。そのため、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げでは最初の標的とされ、滅ぼされました。その日は三島大社の祭礼で、頼朝たちは祭りで行きかう人々にまぎれ、また山木館の守りが手薄になる機会を狙ったとも言われています。禅宗に改宗後、「香山寺殿興峯兼隆大禅定門」と法名を授けられました。山木兼隆供養塔は、この地で減ぼされた兼隆を偲び、平成2年に建立されました。 伊豆の国市山木兼隆供養塔の五輪塔。右側に「香山寺殿興峰兼隆大禪定門追善菩提供養塔 建長○○書」。13:54山木皇大神社から蛭ヶ島公園へ移動。所在地:静岡県伊豆の国市四日町12天気が良ければこの方向に富士山が見えるのだが。駐車場は無料。蛭ヶ島公園(ひるがしまこうえん)源頼朝は14歳の時、平治の乱に敗れ、伊豆に配流されました。その後20年間流人として過ごしました。ここ蛭ヶ島は頼朝が流人生活を送った場所と伝えられています。公園内には、江戸時代に伊豆の地誌「豆州志稿」を著した秋山冨南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)があります。また、平成16年に富士山に向かって頼朝と政子が寄り添うプロンズ像「蛭ヶ島の夫婦」が建てられました。 伊豆の国市駐車場脇に「静岡県へようこそ」こちらは「ようこそ 伊豆の国市へ ここは蛭ヶ島公園です」。道路沿いに建つ大きな「石碑」、「韮山史跡・観光総合案内図」。大きな石碑には、「遺蹟 永暦元年(一一六〇)源頼朝公配流の地 蛭ヶ小島」。1160年(永暦元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の命乞いで、翌年、伊豆国のここ蛭ヶ小島に流罪となった。伊豆国で約20年間を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、ついに源氏再興の兵を挙げたのだ。蛭ヶ島公園の北側にある道路。直進した西方向に伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅がある。歩道にタイルが埋め込まれている。以下はそのタイルの一部です。この辺りの田畑にはイチゴ栽培の温室が多かった。源平のおもな合戦(1180~1185) 【一ノ谷の戦い】 京に上ろうとする平氏を義経らが打ち破った戦い。 【屋島の戦い】 屋島で体勢を立て直そうとした平氏を襲撃。 【壇ノ浦の戦い】 源平最後の大決戦 清盛の妻二位尼は8才の安徳天皇を抱き海中へ飛び 込み自害しました。平家の滅亡(へいけのめつぼう) 1185年(元暦二年)、源平最後の決戦、壇の浦の戦いで平家軍は壊滅。平家は滅亡します。弟 義経との再会(おとうとよしつねとのさいかい)富士川を平家が敗走したのち、黄瀬川に陣をはる頼朝の元にはるばる奥州から弟の義経がかけつけました。父義朝が平治の乱で討死した時、義経はまだ2歳の幼児でした。以下二枚の写真は、旧東海道の弥次喜多道中で訪れた時の写真(2019年1月16日撮影)。八幡神社にある「対面石」所在地:静岡県駿東郡清水町八幡39向かい合って二つの石が置かれている。対面石治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらへ捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会韮山名物” いちごの電照栽培 ” 冬の夜景は見事です。富士川の対陣(ふじかわのたいじん)頼朝追討の平家軍は、平維盛を大将軍として京を出発し、富士川の西岸に布陣していましたが、水鳥の羽音を夜襲と思いにげてしまいました。西方向から、蛭ヶ島公園を望む。蛭ヶ島公園に立つ「蛭ヶ島の夫婦」。富士山に向って立つ夫婦。蛭ヶ島の夫婦(ふたり)治承元年(1177年)源頼朝(31才)二人はこの地で北条政子(21才)結ばれる。日本史上にその名を残す二人の若き日の姿である。 平成十五年 秋 吉日 像・寄贈者 佐藤美智子 題字・韮山町長 渡辺解太郎 制作者 山田 収蛭ヶ島公園にある「蛭ヶ島茶屋」店内では軽食もとれ、無料休憩所になっている。営業時間:10:00 ~ 15:00 営業時間は変更される場合があると。店先には「本日の献立」 椎茸そば 600円 カレーライス(サラダ付き) 650円 山菜そば、うどん 各 550円 おにぎりセット 350円 ざるそば、うどん 各 550円 みそおでん 250円 成願餅 150円 コーヒー 300円成願餅とは、頼朝に餅売り媼が献上したといわれる餅である。既に時間は14時で、見学後遅い昼食をとることに。蛭ヶ島茶屋の裏に「遠藤韮城」の句碑。碑には「ふるさとは富士の全き良夜かな」と刻まれている。頼朝と政子(梛(なぎ)の葉の縁結び)伊豆国に流罪となった源頼朝と北条政子は、変らぬ愛の証として、伊豆山神社の御神木の葉を持っていたといわれている。それが「椰の葉」。政子は、椰の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛を祈ったといわれている。「椰の葉」は、横に裂けないことから「愛のお守り」として、また、「家族平穏のお守り」として功徳があると。頼朝と政子(梛の葉の縁結び)北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、31歳の源頼朝と21歳の北条政子は恋に落ちました。源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆国の目代である山木判官平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山木館を脱出し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相会することができたのです。かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができました。近世中期の投節のひとつに『こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を。』という歌があります。「今度、おいでになるときには、伊豆のお山のなぎの葉を持ってきて下さいね」という願いのうちに「それをお守りにしたいから。」との意がこめられています、女の方から男に言った言葉です。当時の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると、願いごとがかなう(結ばれる)とされていました。「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉は、当時の娘たちのあこがれであり、願いであったことでしょう。梛を鏡の裏のお守りとすることは、寛永の頃から享保の頃まで流行したようです。公園内にはいろんな石碑が建つ。秋山富南の顕彰碑公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は市指定文化財。平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ヶ小島に配流されました。1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の三社詣、天城山での巻狩りなどの伝承も残されています。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地8田島)であったと考えられます。 他にも蛭ヶ小島と称する中州がある中で一番小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと思われます。蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)このあたりを、伊豆の国市四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承四年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流二十年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、『吾妻鏡』治承四年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約十七年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政二年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、伊豆の国市の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った萩原正夫が、明治二十六年に建立したものである。 伊豆の国市公園の東側に立つ、「民族資料館」建物は、18世紀初期頃の創建と推定される庶民農家で、住宅としては県内最古。県指定文化財。伊豆の国市 歴史民俗資料館 静岡県指定有形文化財 旧上野家住宅この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが十八世紀中頃以前に建造されたものと推定される。軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となって上までのびている。この型式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。昭和五十年一月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和五十二年十二月二十日、静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮山町歴史民俗資料館として昭和五十四年三月三十日解体、移築復元したものである。 平成十七年四月一日 文 化 庁 静岡県教育委員会 伊豆の国市教育委員会畳を敷かない板の間だけの広間・座敷を見る。県指定文化財 旧上野家住宅について一、この建物は間口11.9m、奥行5.9m、建物面積は65.7㎡(19.9坪)です。ニ、広い「土間」を左にとり、右側に「ひろま」「ざしき」「なんど」の3間を配しており、 この型式を「広間3間取型式」といい、口伊豆地方に多い型式です。建物の総面積に比し、 「土間」や「ひろま」を広く取っているのは、民家が単なる「住まい」という単一目的だけ のものではなく、「生産」という大きな役割を果たす場所でもあったからです。三、建物の材料は松・けやき・杉の他、竹、茅等を使っており、これらはすべて近くの山野で 入手できる材料ばかりです。また柱等の表面仕上げは鉋(かんな)を用いず、手斧(ちょうな) 等を使用した荒仕上げがふつうでした。四、「土間」と「ひろま」の中央境の柱が大黒(柱)、また「ひろま」と各部屋の中央境の柱が 小黒(柱)です。それぞれの柱は梁を抜けて棟を支えています。このような柱を棟持柱とい い、平屋建てで使われるのはたいへん古い型式です。尚、各間柱や梁の間隔は寸法が一定 せず、不揃いのことも古い民家の特徴といえます。五、当時の一般農家には天井がなく、また部屋に畳を敷くこともなく、このような板の間に、 必要により、ゴザやムシロを敷いて起居したようです。六、「いろり」は単に煮物や暖を採るだけのものではなく、生木等を燃やすことによって出る煙 が、木材や屋根茅にしみ込み、虫害や腐蝕を防止する役目をしました。またテレビやラジ オのなかった時代における一家団らんの場所としても、たいへん親しみ深い場所でした。 尚、「いろり」には一家の者の座る場所がハッキリと定まっており、それぞれの場所に名 前がつけられていました。七、広い「土間」の入り口に近く、「わら叩きの台石」があるのも農家の特徴でした。雨の日 や、夜の仕事に縄やぞうりを作る「わら」を打った場所です。八、この建物を復元するにあたり、「わら縄」はすべて手ないのものとし、また、新しく補て んした材料も近在古民家の古材を使用し、昭和五十三年の焼印を打ち区別してあります。 その他、屋根棟の(瓦)覆いを「口伊豆型」にあらためるとともに、やぐら煙出し(あげおむ し)は後世の改造になるもののため、移築の際、撤去しております。 伊豆の国市教育委員会土間にあった懐かしい農機具。脱穀機、木臼。天井のない藁葺き屋根裏を見上げる。柱、梁の木々は煙で黒くなり。遅い昼食をとりに、「蛭ヶ島茶屋」へ。茶屋内へ入るが既に閉店したと。山菜そば(550円)、成願餅(150円)を決めていたのだが、残念!壁面に「源氏節」の歌詞。小高い所に立つ「蛭ヶ島の夫婦」を後方から、天気が良いと富士山が見えるのだが。14:15蛭ヶ島公園を後にし、近くの「大河ドラマ館」へ向かう。 ー 続く ー
2022.03.22
コメント(0)
函南桜まつり会場から伊豆の国市の「江川邸(旧韮山代官所跡)駐車場」へ向かう。3月13日(日) 12:45県道136号線(函南停車場反射炉線)を南下。この交差点を左折して、「江川邸」「韮山反射炉」方面へ。12:53江川邸(旧韮山代官所跡)駐車場所在地:静岡県伊豆の国市韮山金谷10前回 2月2日(水)15時頃にここから緊急で・・・・・。駐車場脇に観光案内板「ようこそ 伊豆の国市へ、ここは江川邸駐車場です」。道路角に「坦庵公思索の道」、本立寺まで歩いて約5分とのことで進むが、途中引き返して車で行くことに。江川邸(旧韮山代官所跡)入口前の畑に。綿花の花13:06本立寺(ほんりゅうじ)所在地:静岡県伊豆の国市韮山金谷268-1山門前を右側に曲がり山門右奥に駐車場があり車を停める。山門に掲げられた「日蓮宗本山 本立寺」。山門の扁額は山号の「大成山」。右側に題目碑「南無妙法蓮華経」。左側にも石碑があったが解読できず。山門を入ると前方高台に本堂、イチョウの木が聳える。山門を入り右手にあったのが「霊儼大明神」の社殿。霊儼大明神の社殿の扁額「霊儼堂」。霊儼大明神縁起当堂は今を去る一八〇年前に建立祭祀の霊儼明神を勧請し信者の守護神老若男女の信仰をあつめて今日に至る。堂内には頸(くび)の真骨が安置され渇仰(かつごう)の象徴といわれ頸から上の難病を平癒する明神であります。病を祈願する者は必ず霊験あらたかに不思議の力よく病体を加被(かび)して苦悩を除き災厄、病難を消除する明神であります。特に子供に知慧をさずけ試験合格 学業成就 頸から上の眼病、頭痛、熱病、痴呆の諸病を消滅し息災延命を司る御守護神であります。 維時平成六年五月修復整備 当山五十世日仁代 総代一同参道右側に枝垂れ桜、これからが楽しみである。日蓮宗 本山 大成山 本立寺〔江川家菩提寺]縁 起当山は、比叡山で修行中の大擅那江川家十六代の当主江川太郎左衛門英親公が日蓮聖人を当地に招き、そのおり日蓮聖人より御自筆の火伏の曼荼羅を授与され、家門繁栄・子孫長久の祈願を奉行される。以来江川家は七百年の伝統を継承し現在に至る。英親公七十三歳の春、身延山に登詣、日蓮聖人より優婆塞日久の法号を授け御眞筆の曼荼羅・祖師像を授かる。本立寺建立の歴史は英親公(日久上人)のカ大なるものあり。後、永正三年六月(1506)江川家ニ十四代英盛公が邸内にあった大乗庵を当地に移し本立寺を建立す。現在の本堂は、昭和三年四月八日落慶入仏式を奉行す。本堂裏に江川家代々の墓碑が並び一段目の中心に開基優婆塞日久上人の墓、最上段に源英龍・坦庵公・源英敏公・源英武公の墓碑が七百年の伝統を伝え現代に至る。参道の左奥にあった「寺務所」。寺務所の手前左に庭園があった。庭園の中に立つ石碑には「菩提の庭」と。ウメも咲く。ズームアップ。本堂前の参道脇にも桜並木。参道の右側に、龍の手水場。手水場の向かい側に「江川太郎左衛門英龍(坦庵公)像」。ミツバツツジも咲き始めていた。本堂前の境内に聳える「御神木のイチョウ」。鐘 楼本立寺の鐘は、鎌倉の東慶寺にあったものであると。大旦那は北条高時の母・覚海尼。梵鐘の鋳造は1332年(元徳4年・元弘2年)だが、その翌年に鎌倉幕府は滅亡した。幕府滅亡後、覚海尼は伊豆韮山に移り住んだが、その時に鐘も伊豆に持ち込んだものと考えられている。江戸中期に円成寺が焼失した後、韮山の有力者で徳川幕府の代官だった江川氏の菩提所へ移されたものと考えられる。「鐘楼」の扁額は「鯨海」。正面に銅板葺きの「本堂」。境内に建つ「日蓮聖人像」。日蓮聖人像裏に、日蓮大聖人立教開宗七百○○年記念報恩事業として、平成四 壬申 年十月十二日開眼入魂法要を○修す。 大成山五十世 鈴木寛善代 像の材質 青銅 彫刻製作者○○山田 高 さ 十二尺 3.6m 協賛当山総代○○○○ 重 量 一・五t 1500kg 台座施行者 三島市中島○○○○境内隅に多くの無縁仏群。本堂左奥から境内を望む。本堂左奥に連なる「佛殿位牌堂」。本堂裏の杉林の中に多くの墓碑が並ぶ「江川家墓地」。案内板に「本堂裏に江川家代々の墓碑が並び一段目の中心に開基優婆塞日久上人の墓、最上段に源英龍・坦庵公・源英敏公・源英武公の墓碑が七百年の伝統を伝え現代に至る」とあったがそれぞれの墓碑の前に墓標がなく。墓碑の名前を確認するために着色したのか?本堂の右側から鐘楼、御神木を望む。南国を感じさせる蘇鉄が植えられていた。本堂右側に鳥居と石段があり、鳥居には「玉女峰」。石段を上り広場に杉林があり片隅に小さな社が建つ。小さな社には「山神社」とあった。駐車場脇にはいつの間にか開花を始めた「ハクモクレン」。ハクモクレンは、モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。早春の葉が展開する前に、白色の大きな花が上向きに咲く。花被片は9枚で萼片と花弁は分化していない。中国南部原産であるが、日本など世界各地で庭木や街路樹として植栽されている。参道から山門を望む。13:25山門前から「坦庵公思索の道」を望む。 ー 続く ー
2022.03.21
コメント(0)
前回2月2日(水)に見落とした函南町にある史跡を訪れた。3月13日(日) 12:00春日神社から南下、途中左折して函南駅方向へ。途中左上の小高い丘の上に幟を見つける、「北条宗時 狩野茂光の墓」。所在地:静岡県田方郡函南町大竹218-4JR東海道線の函南駅から西に500mほどのところに宗時の墓と伝わるお墓がある。県道141号線(清水函南停車場線)の道路脇に車を駐車して急な坂道を上る。北条宗時 狩野茂光 の墓由来石橋山合戦(1180年)の際の頼朝方武将「北条三郎宗時」と「狩野茂光」の両者を祀る。北条三郎宗時北条時政の嫡子、父、弟義時と共に頼朝に従い石橋山にて戦うが敗走の途上小平井名主紀六久重に討たれる。狩野茂光狩野の豪族で源為朝を討つ等軍功あり。石橋山合戦には頼朝に従うが敗れ割腹する。「注」毎年秋のお彼岸中日に二氏供養のための祭例を行う。 昭和五十年九月吉日 有志之建 函南町観光協会 今回のNHK大河ドラマ放映で整備されたのであろう、急な階段を上る。急な階段を上ると「北条宗時・狩野茂光の墓」北条宗時は北条時政の嫡男で、北条政子の弟・北条義時の兄。1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従うが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗。頼朝は山中へ逃れた。『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとした。しかし、早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたのだという。大小二基の塔のうち、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野(工藤)茂光の墓。『吾妻鏡』によれば、1202年(建仁2年)6月1日、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の墳墓堂で追善供養を行っている。時代を感じさせる墓碑、右側が「北条宗時」、左側が「狩野(工藤)茂光」の墓。墓前には浄財箱が置かれていた。墓地の奥に水道の蛇口、切り株があったが。北条宗時の墓土地の人から「時まっつあん」と呼び親しまれた宗時神社としてこの地に祭られている。五輪の小塔、大小ニ基があり、大が北条宗時、小が狩野茂光の墓といわれている。石橋山の合戦に敗れ後退の途上この地で戦死後年父時政によりこの台上に祭られたといわれている。 函南町教育委員会 函南町観光協会 墓地の広場にはベンチも置かれていた。右側に大きな石碑が建つ。石碑の上部には「北條宗時 狩野茂光 碑」と刻まれていた。墓地の東側から望む。墓地の右側にあったこの建物は物置と思ったが、「宗時神社 ?」。墓地の高台から南側を見下ろす、下を走る県道141号線(清水函南停車場線)。この下に駐車してここまで上って来た、左側へ進むと函南駅、南側を流れる冷川。墓地前から南西側の大仁・韮山方面を眺望。12:06駐車場がなく最初この上から下って来て、県道141号線(清水函南停車場線)脇に駐車した。北条宗時・狩野茂光の墓の後、函南の河津桜が見頃ではと思い向かうことに。県道11号線(熱海函南線)を進み、前方は岐れ道交差点。岐れ道交差点の角に函南町役場がありここを左折して県道136号線(函南停車場反射炉線)へ。県道136号線(函南停車場反射炉線)を南下。伊豆の玄関「かんなみ」の新名所かんなみの桜まつり 令和4年2月11日(金) ~ 3月6日(日)函南町の畑毛温泉のすぐ西の田園に箱根山麓を源流にしておだやかに流れる柿沢川があります。この柿沢川堤に2001年から「かんなみ桜の会」が約410本の河津桜を植樹し丹精こめて大切に育ててきました。大きく育った桜並木は、箱根連山・富士山のすばらしい眺めとともに訪れる人の目を楽しませてくれる。12:27伊豆畑毛温泉「大仙家」前を通り過ぎ、右折して柿沢川に架かる榎木橋(えのきばし)へ。柿沢川に架かる榎木橋柿沢川の下流側、河川敷には自生した菜の花が咲き乱れる。榎木橋から上流側を望む。柿沢川の堤下に河津桜並木があるが満開を過ぎていた。自生している菜の花は満開。ズームアップ。自生している菜の花から実を取り菜種油の採取は?榎木橋から上流へ向かい、松の木橋(まつのきはし)へ。柿沢川改修記念記念樹 函南サクラ(河津サクラ) 植樹申請者 函南町観光協会 函南町商工会 函南町環境整備事業組合 2001年2月 吉日堤下の桜並木を追う。以前は桜並木と云えば河川の堤の上に植えられていたが、ここでは堤下に植えられていた。満開の河津桜ズームアップ、既に花が散った花柄も。柿沢川の上流側を望む。昔の光景は両岸の桜並木が映えるのだが。菜の花ばかりが目に付く。松の木橋から上流の新畑毛大橋を望む。松の木橋から上流側に河津桜が多く植えられている。松の木橋から下流側の桜並木。河津桜の下に咲く菜の花が絵になるのだが。12:38ここから下流側では富士山も見えるのだが、この日は霞がかかり富士はお隠れに。 ー 続く ー
2022.03.20
コメント(0)
箱根峠から国道1号を下り函南町、三島市へ。3月13日(日) 11:08国道1号を下り「山中城跡」入口。以前はここを左折していたが山中城跡の北側に笹原山中バイパスが完成してからは直進。ここを左折して旧国道1号へ。11:10山中城跡の「案内所・売店」所在地:静岡県三島市山中新田410-4山中城は日本100名城のひとつで、昨年も何度も訪れている。売店の前にいろんな幟が立つ。店内では天ぷらそば等の軽食が取れ、「寒ざらし団子」が名物である。営業時間:10時から16時で、月曜日が休業。次に訪れる「春日神社のクス」をスマホにセットして出発。旧国道1号を下り、笹原山中バイパスとの合流点、山中城口交差点。道路脇で何の工事をしているのか?山中城口交差点。旧東海道はこの交差点を横切り直進。11:18途中国道1号から脇道に入り函南の「春日神社のクス」へ向かう。下界は函南、三島方面。この後狭い道(農道)を下り函南町へ。国道1号も整備され片側2車線に。畑ではビニールトンネルで野菜の植え付け。11:40狭い道(農道)を下り、途中から舗装された坂道を下りどうにか目的地へたどり着く。前方を東海道新幹線が走る。東海道新幹線のカルバート。大竹BV 106K039M春日神社のクス所在地:静岡県田方郡函南町大竹38春日神社の秘宝、創建以前から自生、樹勢良好で、県指定天然記念物に指定。静岡県指定天然記念物「春日(かすが)神社のクス」 昭和29年1月30日指定春日神社のクスの樹勢は極めて良く、五月の新芽が伸びる頃が最も美しい。クスは正しくはクスノキ、関東地方南部以西に分布する常緑高木。かっては樟脳(防虫剤等)製造の原料として、造林も各地で行われていたが、開発や生活様式の変化により減少し、現在では神社や寺に残るものが目立つ。一、樹 高 十七・五メートル。(以前は二十メートル以上あったが、火災や新幹線の工 事で枝払いされた。)一、目通幹囲 九・四メートル一、根本周囲 十一・三三メートル一、枝 張 東西二十七・〇メートル 南北二十・五メートル一、推定樹齢 八百五十年 静岡県教育委員会 函南町教育委員会 根本周囲、11.33メートルの老木である。見上げると樹勢に勢いがあり数々の枝が出ている。春日神社の石鳥居。県道から右側の坂道を上り社殿横に駐車。左側にはクスノキの根が道路脇にはみ出す。春日神社鳥居の扁額「春日神社」。鳥居をくぐり参道を進む。参道から、「クスの根本」クスノキの南側を東海道新幹線が走る。春日神社社殿防護柵に囲まれた「石柱」。碑には「奉献春日大明神○宝前」。春日神社所 在 函南町大竹ご祭神 健御電命(たけみかづちのみこと) 相殿 経津主命 大日霊命 天津児屋根命ご神体 境外社祭 日 例祭二月一日氏 子 約200戸創 建 弘化2・夏大風・之大・・・社・・・慶応3丁卯再建創建者 田中太郎、栗田幸右衛門、田中良右エ門境内・祀 八坂神社、山神社、八幡神社、安房神社 秘 宝 ご神木大樟、県指定天然記念物社 地 180坪 函南町文化財を守る会春日神社社殿、左奥にも境内社が建つ。社殿の扉に覗窓があり、カメラを入れて撮影。壁面には「神社等級認証書」。神輿には「○○神社御霊」。社殿前から狭い境内の先を新幹線が走る。社殿の左側斜面に建つ、石祠。古い石灯籠も建つ。社殿横の駐車場からクスノキを見下ろす。11:50県道から振り返り、次の場所へ移動。 ー 続く ー
2022.03.19
コメント(0)
前回の『北条氏ゆかりの伊豆の地』の旅は途中で中断したため、3月14日(月)に『退院後初診』で病院を訪れるので、一泊二日で伊豆の国市を訪れた。この日3月13日(日)妻から反対されながら午前中に出発して愛車のジュークで訪れた。3月13日(日) 10:10倉見のグランドで野球の練習(立ち合いのみ)後、湘南バイパスが工事中のため小田原厚木道路を利用して小田原方面へのルートを計画。県道44号線(伊勢原藤沢線)を伊勢原方面へ向かい、伊勢原インター交差点。交差点を左折、直ぐに右斜めへ進み有料道路へ。久しぶりに走る、有料道路の「小田原厚木道路」。小田原まで 23km、平塚まで 2km。左側は有料道路に沿って走る県道63号線(相模原大磯線)。箱根方面へ向かう場合、西湘バイパスは270円だが、この小田原厚木道路は、260+260円のためいつも海岸線の西湘バイパスを利用する。平塚IC、平塚 秦野方面への出口で出口に料金所がある。パーキングへ入ると平塚出口へは行けないと!出口は左方向へ進み高架橋を渡り料金所へ。平塚ICを通り抜け、右前方の山の斜面に新興住宅地。10:16料金料金所、ここまでで260円。道路脇に看板「西湘バイパス リニューアル工事」。小田原厚木道路:小田原西IC ~ 小田原IC 昼夜連続・通行止/ランプ閉鎖 1/5(水) → 7/21(木)、3/23 → 5/8 除く 要確認!西湘バイパス:小田原IC ~ 小田原西IC 昼夜連続・通行止/ランプ閉鎖 1/5(水) → 7/21(木)、3/23 → 5/8 除く 要確認!こちらの垂れ幕には、西湘BP 小田原IC ⇔ 石橋 ⇔ 小田原西IC 1/5 ~ 3/22 通行止3/23(水)からは西湘バイパスは通行可能になるようだ!電光掲示板には「早川 ~ 小田原 工事通行止」。出口「大磯」道路脇に、「ここから 小田原区間」で別料金になる。二宮 2km小田原東 9km熱海 41km、箱根 20km小田原厚木道路の「二宮トンネル 長さ 450m」。覆面パトカーが走っており、違反した車が数台止まっていた。スピード違反、追い越し車線連続走行か?二宮 秦野 出口500m小田原厚木道路は山間部を走っており、動物の侵入があるので注意と!二宮 秦野 出口、国道1号へ。二宮から小田原東区間の山間部。小田原東 6km小田原西 12km熱海 37km、箱根 15km弁天山トンネル 長さ 980m。このトンネルを出ると小田原からの富士山が見えるのだが。気温が高く霞がかかり、箱根の山並み富士山は見えず。小田原厚木道路「小田原料金所」。10:28小田原区間の料金、260円。西湘バイパスに比べ倍の料金になる、270:260×2=520。坂下トンネル 長さ 130m。荻窪 3km小田原西 4km熱海 30km、箱根 7km西湘バイパス 真鶴道路と箱根新道の分岐JCT 2.5km。小田原西出口 湯河原 熱海箱根新道 伊豆スカイライン 箱根 三島荻窪 小田原市街 出口 500m荻窪 出口小田原西IC 1.2kmインタを過ぎ左折して、西湘バイパス:湯河原 熱海、直進して左折して、小田原市街、箱根ターンパイク、直進して右折して、箱根新道:箱根 三島、伊豆スカイライン。小田原西ICを過ぎ左折して、西湘バイパス:湯河原 熱海、この先別料金になると。直進して、小田原市街、箱根ターンパイク、直進して、箱根新道:箱根 三島。小田原西I.C左折して、箱根ターンパイク、小田原市街、右折して、箱根新道:箱根 三島。小田原西I.Cを右折して、箱根新道へ向かう。ここまで渋滞もなく順調に走る。箱根新道方向へ進む。箱根の山並みが見える。10:37箱根新道の山崎IC。以前は料金所がありソバを販売していたが無料化と同時に閉店。箱根峠に向って登る。箱根新道の上に架かる「旧東海道の石畳橋」右下に、箱根旧街道の「畑宿一里塚」がある。国指定史跡 箱根旧街道 石畳橋先頭者がトラックなのか渋滞して進む。箱根新道の終点。右折すると国道1号の元箱根方面へ下る。国道1号を熱海 三島方面へ上る。この先を右折すると「芦ノ湖スカイライン 湖尻方面」。神奈川県と静岡県の県境。11:00静岡県函南町 箱根峠 標高 846m ー 続く ー
2022.03.18
コメント(1)
伊豆滝山不動から下り、狭い道を進み香山寺へ。2月2日(水) 14:15香山寺脇の駐車場へ。山木判官兼隆館跡と菩提寺香山寺平安時代末期に伊豆国は平家の直轄地でした。その目代であった山木判官兼隆は、この山木地区に館を構えていたと伝わっています。治承4年(1180)に源頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵、最初に攻撃したのが山木館で、兼隆は牧之郷の加藤景廉に討たれたとされています。この時の軍勢には、北条時政・義時父子も加わっています。高台にある香山寺は兼隆によって創建されたと伝わり、境内からは山木地区を一望することができ、兼隆の供養塔があります。臨済宗建長寺派 香山寺(こうざんじ)所在地:静岡県伊豆の国市韮山山木868-1伊豆滝山不動から下り暑かるたので上着を一枚脱ぎ参拝。背中に寒気を感じる。臨済宗の寺らしくないアーチ型の石造りの山門は、明治初期の韮山県庁に使われていたもの。変遷の末に香山寺に移設再建されたという。韮山県庁は江川家のある韮山代官所に置かれ、早い時期に新政府に恭順した代官の江川英武が県知事を務めたが、数年で足柄県に統合され廃止となった。この門はその時期(慶応四年・1868年 )に移設したと推定されるから、既に154年近くが経過しているとのこと。アーチ型の石造りの山門から進み、左側に無縁仏塚景雲山 香山寺臨済宗建長寺派(諸山)開山密宗 不明 臨済宗 勅諡佛乗禅師天岸慧廣大和尚開基密宗 伝・八牧判官平兼隆公 臨済宗 足利家時公(尊氏公太父) 中興間基・北条早雲公 再中興開基内藤信成公 千手観世音菩薩伊豆中道十ニ番札所由緒・略歴草創久寿元年(1154)開基八牧判官平兼隆公、治承四年(1180)八月十七日逝去す。法名は香山寺殿興峰兼隆大禪定門。この当時は禅宗にあらず密宗なりしという。それ故、当時の開山和尚は不明なり。その後百七十余年を経て寺門頽廃するに至る。この時足利尊氏公の太父家時公、元徳二年(1330) 四月開榛して野州雲岩寺開山勅諡佛国禅師応供広済国師の法嗣佛乗禅師を請じて開祖とす。その頃独立本山にして塔頭五院ありて輪番地なり。七堂伽藍整備して百器具足豆南の巨刹、東海の厳林と称せらる其後足利氏の末世に及び天下争乱の世となり寺門頽廃、塔頭両院を残す有様となった。然る時小田原北条氏長氏公(北条早雲)、諸堂伽藍を中興し、境内地ニ万五千ニ百六十一坪、門外の寺領永ニ十三貫文を寄付せらる。然れとも世は更に再転して秀吉の小田原征伐となり、本堂もその災を受けて宝物器具を焼失するに至る。慶長ニ年(1597)韮山城主内藤三左衛門尉藤原信成公又費を投じて再興せらる。元禄五年(1692)建長寺の指名を受けてその末寺となる。江戸幕府の本末制度の励行受けざるを得ざる法令に従いしなり。幕末に及んで嘉永六年(1853)十月二十五日町家の延焼により類焼を 免れず、遂に堂宇宝物古記録等残らず灰燼に帰せりと云う。宝物・古記 薬師如来座像(伝・兼隆公室念持仏) 開山勅諡佛乗禅師像。 小田原北条氏・虎之御朱印等 三通他石造遺物 六地蔵石憧(室町前期) 笑華・川派和尚塔 山門(元・韮山県庁の門)他 田方郡韮山町韮山山木868-1 現住元照記 扁額は「瑠璃光」。内陣には、「南無薬師如来」の提灯木像の「薬師如来像」。香山寺本堂への参道右にある「山木兼隆の供養塔」。800回忌を記念して建てられたものだそうで、それからまた月日が流れ今年で842回忌ということに。「山木兼隆供養塔」は五輪塔。香山寺(山木兼隆供養塔) 山木兼隆は平氏の一族で、伊豆に流人として暮らしていましたが、京都の政変により伊豆国の目代(国を治める長官の代官)として取り立てられました。そのため、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げでは最初の標的とされ、滅ぼされました。その日は三島大社の祭礼で、頼朝たちは祭りで行きかう人々にまぎれ、また山木館の守りが手薄になる機会を狙ったとも言われています。禅宗に改宗後、「香山寺殿興峯兼隆大禅定門」と法名を授けられました。山木兼隆供養塔は、この地で減ぼされた兼隆を偲び、平成2年に建立されました。山木兼隆供養塔の五輪塔。右側に「香山寺殿興峰兼隆大禪定門追善菩提供養塔 建長○○書」。一段高いところにある本堂に向かって進む。香山寺本堂本堂は禅寺(臨済宗)らしい、広くはないが華美な印象を避けた豪壮な雰囲気を持つ。久寿元年(1154年)、伊豆国目代の山木(平)兼隆によって建立された臨済宗建長寺派の寺院。本堂の扁額は山号の「景雲山」。内陣を望む。中央に「薬師如来座像」。本堂前に座り「北条氏ゆかりの地」を見下ろす。桜の時期もよさそうだが。沼津アルプス方面の眺望。中央の山が「鷲頭山 392m」であろうか。伊豆半島の付け根に位置する、400mにも満たない低山だが、首都圏からのハイカーも多い人気の山。北にある徳倉山(256m)や西に位置する大平山(356m)などと併せて「沼津アルプス」の愛称で親しまれ、縦走を楽しむ登山者も少なくなく、首都圏から訪れるハイカーも多い。季節を問わず楽しめ、登山道中は富士山、南アルプス、駿河湾の眺望が楽しめるのだと。治承4年(1180)八月十七日に源頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵、最初に攻撃したのが山木館で、山木判官兼隆は牧之郷の加藤景廉に討たれたとされています。この時の軍勢には、北条時政・義時父子も加わっている。この時頼朝は向かい側の山の麓から見守っていたと。そして次に訪ねたのが、香山寺近くにある「平兼隆館の跡」。案内板はこれのみで他には何もなかった。突き当りになる坂道を上って行った。私はこの狭い道を運転して上ったので、旅友の写真を借用しました。突き当りで個人宅になりユーターン。山木判官平兼隆館跡治承4年(1180) 8月17日の夜、源頼朝は挙兵するとその手始めとして伊豆目代平兼隆(もくだい たいらかねたか)の屋敷を襲ったのであった。奇しくもその日は三島大社の例祭の日。そのため館の郎党は祭りに出かけて守りが手薄であった。激戦の末、平兼隆の首を討ち取ったのは加藤影廉。館に火を付けて、北条屋敷で激戦を待ち焦がれている源頼朝への知らせとし、これが源氏再興ののろしとなったのであった。現在は個人宅となっており、許可なく入れなくなっていた。先輩が石碑を探す。個人敷地内にある「兼隆館跡」と刻まれた石碑。14:43そして次に向かったのが兼隆館跡から下った「江川邸」。駐車場には「伊豆の国 北条義時 ゆかりの地」とラッピングされたタクシーが駐車中。伊豆の国市内に宿泊された方は、宿泊施設、指定の観光拠点及び最寄り駅を自由に移動できるよう、シャトルタクシーが無料で利用できるとのことであった。ラッピングは全部で3種類。運行期間 2021年12月1日(水)~2022年2月20日(日)運行台数 13台/日ようこそ、歴史とのかけはし韮山町へここに住む人も、訪れる人も、ともに気持ちよくありたい。わたしたちの郷土がいつまでもきれいで美しく、誇れますようみなさまのちょっとした「ふるさとへのこころづかい」をお願いします。韮山町の良き想い出は大切に持ち帰り、旅でのごみはマナ-を守ってお捨てくたさいどなたも気持ちよく過ごせますようご理解・ご協力をお願い申し上げます。似顔絵は、「源頼朝」「北条早雲」「江川太郎左衛門英龍」。 伊豆の国市江川家菩提寺 江川太郎左衛門・江川家代々の墓碑 徒歩5分 日蓮宗本山 大成山 本立寺 伊豆の国市 観光協会掲示板に、「江川邸が「島津家屋敷」に」と書かれた2018年2月7日の新聞記事。ここ江川邸で大河「西郷どん」のロケが行われたと。駐車場から歩いて「江川邸」へ。【主屋工事実施に伴う限定公開について】ネットから、 主屋屋根工事実施のため、江川邸(江川家住宅)は臨時休館しておりましたが、 2021年11月7日(日)より開館しております。 まだ工事中ですので、通常とは異なる動線でご案内することが続きます。 また、展示品なども工事の影響を考えてご覧いただけない場合もございます。 なお現在は、通常見学では使用していない正面玄関から主屋にご入場いただいております。重要文化財 江川家住宅江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者十三人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現在の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和三十三年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同三十五年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化十四年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際に茅葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍(担庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。昭和四十二年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。 江川家住宅宅地 11,837 平方米 同 主屋 552 平方米 同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等14:46正面に工事用のフェンスに覆われた「江川邸」。工事中であったため、入場料金も700円するのでこの日はパスすることにして駐車場に向かって引き返したのであった。この後、足元がふらつき・・・・・。この写真が今回の旅で撮影した最後のものであったのだ。ふらつきながら駐車場へ戻り、先輩に水を購入していただき、トイレで用を済ましベンチへ。旅友が我が車を回してくれ、車のドワー際で一瞬気を失った!この後、車の助手席に横たわり休む間に、旅友二人が「救急車を呼ぼう」と。15:00待つこと数分で救急車が到着、人生初めての救急車へ乗車、救急隊が心電図等を測定、我妻へも車中から電話して「こちらへ来てください」と。この後、病院と連絡を取りたらいまわしもされず「順天堂大学医学部附属静岡病院」へ運ばれる。病院までは後で調べると6キロほどであったが、旅友は後方から追いかけ病院へ移動したと。順天堂大学医学部附属静岡病院所在地:静岡県伊豆の国市長岡1129今回の旅の計画は二泊三日の旅であったが、この病院に14泊15日の長期入院となった。緊急入院でとんだ旅になりましたが、明日14日(月)は「退院後初診」で伊豆の国市へ。このため今夜は近くのビジネスホテルへ宿泊。10時には訪れ「採血」「レントゲン検査」「心電図」。 ー END ー
2022.03.13
コメント(0)
毘沙門堂から文覚さんと毘沙門道を下り伊豆滝山不動へ移動。2月2日(水) 13:38伊豆滝山不動所在地:静岡県伊豆の国市韮山山木富士見農園前を通り富士見パークウエイを進み道路脇の駐車場に駐車(無料)して散策。毘沙門堂 → 滝山不動明王へ、所要時間 8分、4.0km。黄色の丸印は、旗上不動明王奥之院。伊豆滝山不動名 称 伊豆滝山不動明王(別名 旗揚不動・呼止不動)堂 宇 本堂・奥の院名 所 不動の滝(高さ十八M)、文覚上人の隠れ穴本 尊 不動三尊像(不動明王・矜羯童子・制吐童子)由 来 不動明王は大日如来の使者で、衆生を救うための仮の姿とされる。慣怒の相をし、手 には三鈷剣と羂索を持ち迦楼羅の焔という火炎を背員う。 本不動明王の由来は詳らかではないが、石造物や伝承から江戸時代中期までは遡れる。 奥の院の下には、鎌倉時代の僧、文覚が隠れたとされる洞窟があり、文覚がここで、 源頼朝に平家打倒を勧めたとの謂れから、旗揚不動とも呼ばれている。また、この洞 窟は文覚が配流されていた奈古谷の毘沙門堂へつながっていると言い伝えられている。 このように、中世には既に祀られてあり、古くは修験者の震場として知られていたと 推察できる。 堂内の奉納物などからは、地元をはじめ近郷近在の人々を護ってくれる不動として、 江戸時代から大変栄えていたことが窺えます。 平成十六年十月 平成二十三年六月再製 山木区 近辺に案内図、「伊豆滝山不動」。源平合戦端緒の地治承四年八月十七日、源頼朝は山木目代平兼隆を夜襲し、この山木の地で源平合戦の火蓋がきられた。これに先立ち、この滝山不動で、平家の流人文覚上人と頼朝が、平家追討の策謀を練ったと伝えられる。参道を進み桜並木の奥に、滝山不動堂。参道の右側に、石碑、案内板。黄色のロウバイが咲いていた。こちらの石碑には「奉納 滝山水神」。滝山水神 由来当山最古の水神様なり 現在の滝壺の端附近にあり 再度の台風水害により流失不明此の水神様の神勅に基き昭和五十六年二月四日現在地に再建神祭す。 奉納 滝山水神 昭和五十八年九月吉日 堂主 佐藤 勝石碑には「奉納 滝山不動明王」、「滝山大不動明王」の案内板。参道横には、ロウバイの花が満開状態。蝋梅(ロウバイ)はロウバイ科の2mから4mほどになる落葉低木です。別名の唐梅(カラウメ)とも呼ばれ、その名の通り中国原産の樹木。蝋梅(ロウバイ)は 12 月~2 月に、よい香りのする花を咲かせます。日本に蝋梅(ロウバイ)が入ってきたのは江戸時代頃と言われています。また、雪中四友(せっちゅうしゆう)と呼ばれる雪の中で咲く 4 つの花のひとつです。直径1センチほどの花を多くつけて咲く。以前種をいただき蒔いたが発芽せず。参道を上り左手にあったのが「滝山不動堂」の「本堂」。氏子?の方がおられ「奥の院まではどのくらい」と尋ね「約15分ぐらいで登れます」とのことでチャレンジして登ることに。内 陣。平家の流人文覚上人と頼朝が平家追討の策謀をこの場所でも練ったのであろうか?本堂(不動堂)には、源頼朝が文覚とともに祈願崇拝した不動明王(旗挙不動明王)が安置されているとのことであったが、御開帳されていなかった。旗上不動明王 由来源頼朝旗上げをするため文覚聖人と共に祈願崇拝した不動明王なり。 奉納 旗上不動明王 昭和五十八年九月吉日 堂主 佐藤 勝滝山不動堂を見下ろす。巨岩の転がる中に築かれた狭い参道を上る、沢の奥に奥之院。急な坂を上る。石垣の上に築かれた「奥之院」。13:52なんとか「奥の院」に到着。奥の院には、江川家三十五代当主江川英毅が奉納した大不動明王が安置されている。三十六代英龍が盗まれた不動明王を日本橋で発見し、買い戻したという伝説が残されている。内陣には「滝山不動明王」と書かれた提灯がぶら下がる。内陣をズームアップ。滝山不動由 来 江川家三十五代当主江川太郎左衛門英毅滝山に天保三年十二月十五日大不動明王奉納神祭 する三十六代英毅時代・・・盗難にあって英龍江戸勤番も無事終り自宅に帰る道すがら日 本橋の角の古道具屋の前に来た時太郎左衛門、太郎左衛門と云う声にかごを止めて出て見 れば小道具屋の前何にげなく店に入る。奥にきて見れば韮山不動明王ほこりまみれてあわ れな姿早速店の主人に実状を話し手持金全部ニ銭三厘三毛七買戻し不動明王を駕籠にのせ 自分は歩きつづけ故郷に到着、自宅によらず滝山に一直無事奉納再神祭せらる由、今にし て大不動明王故こに鎮座す。今直を伝説として世に残る英龍こと坦庵公信仰の深さを知る。 奉納 滝山大不動明王 昭和五十八年九月吉日 堂主 佐藤 勝ステンレス製の鳥居の先に小さな石祠があり傍に「滝山明神」の石柱。落差十八メートルの不動の滝不動の滝には水がチョロチョロと僅かに流れる、また多賀火山の溶岩の端にかかる滝であると。滝壺周辺を歩きまわる先輩。私は珍しく疲れ、滝山不動奥之院の濡縁に座る。滝壺廻りをズームアップ。不動の滝周りに「文覚上人隠窟」があるのだが案内板がなく未確認。14:008分程滞在して下ることに。急な坂を下り「奥之院」を振り返る。坂道に岩が転がるので足下に注意しながら下る。14:05滝山不動堂に降り立ち、再度黄金色に輝くロウバイを楽しんだ。見事なロウバイ(旅友の写真を借用しました)。 ー 続く ー
2022.03.12
コメント(0)
奈古谷観音堂を後にし、「文覚さんと毘沙門道」の坂道を上り、次の目的地である伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている「毘沙門堂」を目指す。2月2日(水) 12:58途中大きな石と石碑を見つけ、文覚さんと毘沙門道の道路脇に車を止める。道路脇に「蛇石(へびいし)ー 七つ石 ① ー」、左上に石像。石段下の左側に立派な石碑があった。史跡 文覚上人流寓(るぐう)之跡文覚上人 承安四年(1174) 伊豆国奈古谷村に配流、居寓六歳、その間、東奔西走、専ら源家の再興斡旋に努めた、治承四年八月、源頼朝公の挙兵は実に上人の勧説による所と、平家物語は叙している。即ちこの地が「上人籠居」の跡である。後 頼朝公神仏家祖報恩のため、上人に布施して毘沙門堂○宇を建立、源家の万福を祈った。春風秋雨八百年 茲に往時を追思しつつ略史を彫み、建碑の所以とする。 田方郡韮山町奈古谷 史跡保存会長 木内栄撰 世話人 沼津市 山田梅軒 三島市 木村庄三 昭和五十一年十一月 東京都台東区上野二丁目 建碑者 倉島延三上記の木内栄撰氏は「天長山国清禅寺盛衰沿革史」(韮山町史『町史の栞』第三集)を著された木内栄撰氏。また建碑者の倉島延三氏は、三島市出身の中央財界の方で、三島大社内、旧三島宿関連等、三島市内の史跡碑を多く寄贈している倉島延三氏であると。一段高いところに石灯籠、社があるが一部破損している。文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた。文覚は、同僚の源渡の妻袈裟御前に恋をし、誤って袈裟御前を殺してしまう。その後、文覚は真言宗の僧となった。神護寺再興の勧進で後白河法皇の怒りに遭い、伊豆に流されたといわれているのだ。石碑の奥、寓居跡と思われる場所に石仏が三躰祀られていたが一体は頭部がない。源頼朝と北条氏ゆかりの地であるのでこれから整備されるのか。文覚さんと毘沙門道を見下ろすが、大河ドラマ関係の幟は立っていなかった。杉の根が絡む岩。文覚さんと毘沙門道の坂道を上ると右側に、「谷響石(こだまいし)ー 七つ石 ③ ー」南側の谷奥、200メートルにあり、山の神が祀られています。ここより北側の川を隔てた旧道で手を叩くと、こだまが返ったと伝えています。13:08文覚さんと毘沙門道を上り左手に「毘沙門堂」入口の石鳥居を見つけ駐車。この上にも駐車場があったようだがここの道路脇に駐車して参拝することに。所在地:静岡県伊豆の国市奈古谷1784防寒、防コロナ姿の地蔵様と足元にスイセンが咲く。毘沙門堂入口に石鳥居。仁王門への案内板。金剛力士門由来記(仁王門)当山は平安時代末期奈古谷寺という寺院であった。文覚上人と源頼朝の二人によって大改修され端龍山授福寺と改めた。境内に毘沙門堂その下に金剛力士門(仁王門)を建立して守護神とした。授福寺は現在大護摩石のある平坦地に建立されていた。金剛力士像保存のため昭和四十九年に同士十数名により保存会を結成する。昭和五十年三月十九日学術調査を終わり県交化財に指定を受ける。金剛力士像の破損や虫食いが進んだために修復することを計画。昭和五十一年七月東京芸術大学保存技術研究室に移し、西村公朝先生のご指導により解体修理を始める。二年間の歳月を費やして修復が完了した。非常に古形式の金剛力士像である。京都の大非山峰山寺金剛力士像(国指定)が最近発見され、続いて当山の金剛力士像が発見されて全国にニケ寺にしか無い貴重な金剛力士像となった。このたび修復が終わり帰山した。 昭和五十三年三月吉日(1978年) 保存会建立 (2012年毘沙門天奉賛会修復) この石碑は「???」石鳥居の扁額「毘沙門天堂」。石鳥居を潜り苔むした古い石段を上って行くと前方に「仁王門」の姿が見えて来た。仁王門をズームアップ仁王門の金剛力士像は、源頼朝の寄進で、運慶・湛慶父子の作とも、運慶が修理したとも伝えられ、静岡県の重要文化財に指定されている。口を開けた「阿形像」。口を閉じた「吽形像」。仁王門の扁額「瑞龍山」県指定重要文化財の金剛力士像があるので消火栓の配管。県指定重要文化財金剛力士像(寺のパンフレットから)静岡県重要文化財 授福寺・毘沙門堂仁王像毘沙門を守る仁王門内の仁王像は、昭和五十一年東京芸術大学に運ばれ約二年間の歳月を掛けて解体修理を行ったところ、尊像体内より板書が出現しました。それによると1186年文治2年壇ノ浦にて平家滅亡の翌年源頼朝公は、天下安全のため運慶父子に命じ彫刻を寄進しました。その後六百余年を経過した亨保八年、尊像の破損甚だしく大仏師辻式部兼房、塗純又八の手によって修復されました。その記録として尊像胎内に修められた板書です。昭和五十ニ年修復完成後再び胎内に修められています。板書の山護主大川浅右衛門は、大川家推定ですが十代前の先祖にあたります。仁王門から更に進むと左側に「護摩石(ごまいし)」。この辺りに、授福寺が建立されていた。護摩石(硯石・鏡石)ー 七つ石 ⑥ ー授福寺の跡にあるこの石の上には、51センチ四方の穴があけられ、文学上人が護摩を焚いたとも、硯として使用したとも伝えています。鑿(のみ)の跡が残ったままであることなどから、礎石ではないかとも考えられています。参道を進み、文覚さんと毘沙門道に出ると再び石鳥居と石碑があった。この下に駐車場があり、いろんな案内板が立つ。毘沙門への最後の石鳥居石鳥居の前に「大開帳記念碑」。石鳥居の扁額は「瑞龍山 授福閣」。石段の下に「手水舎」13:15苔むした石段を登ると正面に「毘沙門堂」。毘沙門堂の扁額「毘沙門天堂」毘沙門堂前に「略縁起」が建つが少々疲れた案内板である。折角NHKで放映されているのに幟も無く、盛り上がりを欠く感じがするが。豆州奈古谷毘沙門天 略縁起縁 起 凡そ千百余前年前 平安時代の初期天台宗の高僧慈覚大師が入唐の行を了て皈朝せられ衆生済 度の一大悲願をこめて刻まれた御自作の尊像である。 本山は住吉安養浄土院と云った。承安三年僧文覚が此の地に流された時、源頼朝に源氏再興 をすすめた由緒の地である。頼朝が大願成就した時、瑞夢をみて文覚に毘沙門堂を建立させ て瑞龍山授福寺と改名した。 特に当毘沙門天は古来より無病息災、交通安全、商売繁昌、心願成就の開運授福の神として 広域に亘り深く信仰されている。例 祭 正月三日、九月三日 早朝より行われるお開帳 大開帳 五十年毎に一回 中開帳 二十五年毎に厳修される境 内 授福門(毘沙門堂) 仁王門(金剛力士像 県重要文化財) 文覚荒行の滝 文覚の護摩石及び沿道の銘石 昭和五拾九年拾壱月 毘沙門天 世話役 韮山町産業観光課毘沙門堂の裏の竹林50年に一度本開帳される、慈覚大師作の秘仏の「毘沙門像」を安置する「授福閣」とも言われる御堂。元々伊豆に流されていた文覚上人が草庵を結んでいた場所で、源頼朝の命により改修された「瑞龍山授福寺」の御堂だったが、廃寺となり現在は「国清寺」が管理している。この毘沙門堂に祀られる毘沙門像は、慈覚大師(794~864)の作と伝えられている。慈覚大師は、圓仁と号し、唐に渡って修行し、帰国の際に船が難破、圓仁は、その船から逃れて伊豆に漂着し、山岳に霊地を求め、滝のある現在の付近に庵を結び、布教や仏像の謹彫に精進した。毘沙門堂に祀られる毘沙門像もその一つとされている。毘沙門堂前の苔むした石畳。毘沙門堂から石階段を見下ろす。毘沙門堂への階段。13:25毘沙門堂入口の石鳥居に戻る。約20分程度の急ぎ足での参拝であった。次の目的地、Ⅽ (毘沙門堂) → Ⅾ 経由(滝山不動明王)へ、所要は8分、4.0km13:27文覚さんと毘沙門道を下り、右側に「二つの巨石」。夫婦石 ー 七つ石 ② ー治承年間、源頼朝・政子夫婦が、毘沙門堂付近にいた文覚上人を訪ねて来た折、この石に腰をおろして一息入れたという伝承が残されています。元は、道路の中央付近にありましたが、道路拡張のため、現在地に移されました。 ー 続く ー
2022.03.11
コメント(0)
臨済宗國清寺の本堂裏に進む。2月2日(水) 12:34本堂から杉林の中を進み、左方向へ。正面にあったのが開山である畠山國清を祀る「開山塔」。石碑には「開山塔」と刻まれていた。開山塔の奥に、「国清寺のスダジイ」が聳える。右奥に本堂が建つ。國清寺椎の木について椎の木はブナ科の常緑高木で、気候温暖な地に多く鬱蒼とした大木になると言われる。室町の古刹國清寺の森に残るこの椎は正にその樹木で樹齢八百年と伝わる貴重な古木である。 平成二十年元旦 木内昭一郎氏寄進樹樹齢八百年の椎の木を見上げる。椎の木の下から富士山を望む。国清寺のスダジイ、畠山國清を祀る開山塔を後にする。引き返し、左手杉の下に、「畠山國清 上杉憲顕 開基塔」の石碑が建つ。前方に「十三重塔」「石塔」の石碑群。國清寺開基塔群石灯籠、五輪塔が並ぶ。上杉憲顯公顕彰碑南北朝武将上杉憲顕は関東管領、上野、越後、伊豆守護などの要職を歴任し晩年伊豆に国清寺を建立、壮麗な寺院に修築整備された。國清寺は三代将軍足利義満の代に関東十刹の一寺に数えられたと伝えられる。憲顯公は応安元年(1368)九月十九日足利陣中に没し此処國清寺の森に眠る。因みに鎌倉九代記に卒去後の上杉憲顯公葬送の記録があると郷土史家木下喜衛氏は講ず。上杉憲顯公 世を去りて六百三十年その功を称え徳を偲びて碑を刻み後世に残す。 平成十年九月十九日 國清寺護寺会 撰奥にある墓は上杉憲顯と関係者の墓であろうか、配置図がないため確認できず。五輪塔をズームアップ。鎌倉市の扇谷に「扇谷上杉管領屋敷迹」の石碑が建っている。本堂脇から鐘楼を見る。本堂前から左側に六地蔵尊。珍しく赤い頭巾をかぶっておられない地蔵尊。仏殿(釈迦堂)の北側に「慈母観音像」、石灯籠塔が建つ。般若塔慈母観音像慈母観音像は慈しみの母であり、抱いている子供が衆生の私たちを常に母親の愛情で見守る意味もある。その為、家内安全・子授け・子供無事成長・水子供養等々の願いを成就するといわれているのだ。国清寺仏殿の「花頭窓」。史実としての「国清寺」の正式な読みは「こくしょうじ」だが、現在では「こくせいじ」を正としていると。仏殿前にぶら下がる小さな梵鐘。階段があり今でも使用されているのであろうか。杉木立ちの中に國清寺本堂、庫裡、鐘楼、仏殿が建つ。駐車場脇に、朱の鳥居のある神社。12:46駐車場から、國清寺本堂、庫裡、鐘楼を後にし次の場所へ。韮山史跡巡り ー 國清寺への案内略図 ー國清寺の南側にこれから訪れる史跡が連なる。移動後、ネットから検索(A → Bの所要時間、距離)。A、國清寺 1分 379m、B、奈古谷観音堂 2分 1.3km、Ⅽ、毘沙門堂 8分 4.0kmⅮ、旗上不動明王 2分 1.0km、E、香山寺 1分 581m、F、江川邸12:51國清寺から狭い道を進み、「奈古谷観音堂」所在地:静岡県伊豆の国市奈古谷奈古谷観音堂 (なごやかんのんどう)室町時代、奈古谷は国清寺を中心として大変栄えていました。今でも、七堂、七坂、七ツ石や多くの史跡が残っており、往時の繁栄ぶりを伝えています。この観音堂は、地蔵堂、阿弥陀堂、庚申堂などとともに、奈古谷七堂の一つで、他の諸堂は廃堂になりましたが、唯一旧位置に建っています。堂内には、本尊聖観音立像の他、十王堂や阿弥陀堂などにあった諸仏が安置されています。また、境内地には、庚申塔、唯念碑、五輪塔、宝篋印塔などが諸堂から集められています。付近の屋号を観音堂、堂の前、辻、横道といい、観音堂が道路の四つ角にあって、今よりも大きなものであったことがわかります。現在のお堂は、昭和十二年に再建されたもので、平成九年八月、屋根の修理を実施しています。今でも毎月十七日には観音講が行われています。 平成九年十月吉日 奈古谷区 裏面もお読みください。奈古谷観音堂を正面から。狭い境内には多くの石碑、石仏が並んでいた。境内には、庚申塔、唯念碑、五輪塔、宝篋印塔などが諸堂から集められ並べられている。12:53奈古谷観音堂は、いずれも國清寺の祠堂や支院に由来する建造物であり、中世以来國清寺を中心に形作られてきた宗教的空間の一部をなすものである。このあと、右側の狭い坂道を上る。12:58奈古谷観音堂を後にして、次の目的地である、伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている「毘沙門堂」を目指して「文覚さんと毘沙門道」の坂道を上って来た。道路脇に車を止め「文覚さんと毘沙門道」の標札。道路脇に「樋倉簡易水道 平成四年八月竣工」の貯水池。文覚さんと毘沙門道の左手にあったのが、七つ石のひとつである「蛇石(へびいし)」。蛇 石 ー 七つ石 ① ー蓮華座に乗る月輪(がちりん)中に、刷毛書きの書体で種子・アを平底彫りにしていますが、石が傾いたため、種字も傾いてしまっています。アは、一般に胎蔵界大日如来の種子として用いられますが、「通種子(つうしゅじ)」として、全ての仏をも表します。書体や彫り方は、鎌倉時代前期の特徴を備えています。江戸時代後期に著された「槃遊餘録(はんゆうよりょく)」には蛇石来訪の記録があって、弘法大師の筆と伝えていたことが分かります。この石には白蛇が棲んで、里人を怖がらせていましたが、国清寺の高僧がこの岩に封じ込めたという伝説が残されており、蛇石の名の由来となっています。また、蛇石裏の石祠には乾元二年(1303)銘の地蔵石仏龕(がん)があり、市指定文化財に指定されています。また、他の2つの地蔵は延享4(1747)と天保2(1831)年に祀られたものです。灯篭は文政5(1822)年のものです。 ー 続く ー
2022.03.10
コメント(1)
函南町内の散策を終え12時を過ぎるが今回も休まず次の場所へ移動、函南町から伊豆の国市へ入いる。伊豆の国市は、平成17年(2005)4月1日に伊豆長岡町、韮山町、大仁町が合併して誕生した。伊豆の国市は伊豆半島の北部に位置し、東西は山々に囲まれた豊かな自然環境を保っている。平野部は南北に狩野川が流れている。また、狩野川に沿うように国道136号や鉄道が走り、周辺に市街地を形成している。人口は推定 46,201人(2022年2月1日)。カーナビを六萬部寺(ろくまんべじ)から国清寺(こくせいじ)にセットして南下。所要時間は、2.4km、6分と。2月2日(水) 12:20臨済宗国清寺脇の駐車場へ。駐車場に車を駐め散策開始。駐車場脇に多くの石碑、石仏が立ち並んでいた。萬霊塔観音像、石仏庭園には開花を始めたウメの古木。国清寺の左側にある「臨済宗円覚寺派 華頂峰高岩院」所在地:静岡県伊豆の国市奈古谷68石碑には「国清寺塔頭奉行職之寺也 臨済宗円覚寺派 華頂峰高岩院 豆国八十八ヶ所十五番 札所」と刻まれている。伊豆の国市奈古谷(なごや)にある「国清寺」の塔頭のひとつ、「華頂峰・高岩院」。山号は「華頂峰(かちょうほう)」、寺院名は「高岩院(こうがんいん)」。六地蔵尊が立ち並ぶ。本 堂 本堂の扁額「華頂峰」。国清寺(こくせいじ)の「仏殿」への参道。石碑には「臨済宗円覚寺派 天長山 国清寺」。所在地:静岡県伊豆の国市奈古谷1240-1華頂峰・高岩院と同じように境内ではアジサイが綺麗に咲くと。天長山国清萬年禪寺 臨済宗円覚寺派本 尊 観世音菩薩創 立 康安ニ年春(1362)開 基 畠山国清(天猷道誓大禅定門)足利管領の執事再開基 慶安元年(1368)上杉憲顕(桂山道昌大禅定門)大いに修築巨刹となす。 本堂正面にあります。開 山 無礙妙謙敕諡佛真禅師(後花園天皇直筆の額が本堂正面にあります)十刹六位 往昔殿堂壮麗にして子院七十八宇を有しなり。足利三代将軍義満の時、関東十刹の 一に加えらる。天長山、国清萬年禅寺と号せらる。旧朱印 弐拾石境内二千九百余坪(佛殿右側に徳川歴代将軍の位牌を祠ってある) 往昔末寺三百余ヶ寺塔中七十八院あり 延徳三年伊勢新九郎長氏御所を隠れし時より漸く衰退せり、其の後鎌倉円覚寺の付 属となる。子院現存するもの 高岩院 徳隣院 龍泉院 松月院である。旧十境 一、十里松 二、愈好橋 三、雙峠 四、石橋 五、馬鬣峰 六、寒山窟 七、石牛洞 八、芍薬渓 九、華頂峰 十、寶珠嶺 鎮 守 毘沙門堂 寺を距ること十余町の山中にあり国清寺に属す。伝え云ふ 僧文覚此の地に流寓す。 堂中に慈覚大師作の毘沙門尊天あり。仁王門に運慶修飾の金剛像あり。 辨財天、は佛殿左側に祠る。 (豆州志稿による)伊豆の国市奈古谷のここ「国清寺」は観世音菩薩を本尊とし、山号を天長山と称する臨済宗圓覚寺派の寺である。康安元年(1361)、室町幕府の有力者であった畠山國清は、関東管領にそむき鎌倉から伊豆に居を移し、翌康安2年春、奈古谷に一寺を建てこれを「国清寺」と呼んだ。應安元年(1368)、上杉憲顯(1306~1368・関東管須)が国清寺を大いに修築して大きな寺にした。これにより、生い茂る杉の木立ちに囲まれた国清寺の殿堂は、ひときわ荘厳さを増し、室町三代将軍足利義満の時に関東十刹の一に加えられ、「天長山国清萬年禪寺」と号せられる大きな寺院となった。正面に見えたのが「仏殿」。参道脇に咲くスイセン。仏殿(釈迦堂)本尊が安置されている方形造鋼板葺の、仏殿「大雄殿」は、延宝年中(1673~80)の建立と伝えられており、周辺にはさらに古い礎石や雨落ち溝が残る。仏殿の扁額「祈禱」。仏殿には、鎌倉時代慶派の作による本尊「釈迦如来像」が安置されていた。本尊は伊豆の国市の指定文化財になっている。仏殿の右側に建つ「鳳林庵地蔵尊」。立て膝で思椎姿のお地蔵様は非常に珍らしい。また、頬に手をあてられた姿の為か、昔から、土地の人は歯の痛い佛様として、尊崇祈願し、今でも、石を積み、お膳を供えて御利益を願う古老の方を見かけます。鳳林庵地蔵尊お地蔵様裏の処に、明治の頃まで鳳林庵とゆう国清寺塔中のお寺がありました。その為鳳林のお地蔵様として部落人達に親しまれて来ました。作者は不詳ですが、約三百年程前に刻まれたのではないかと言われています。立て膝で思椎姿のお地蔵様は非常に珍らしいのです。頬に手をあてられた姿の為か、昔から、土地の人は歯の痛い佛様として、尊崇祈願し、今でも、石を積み、お膳を供えて御利益を願う古老の方を見かけます。また安産の佛様としても知られ、願いをかける時は、通リの良いようにとの意味からか、底無し柄杓を泰納するのが例になっています。木立の中、幾星霜を経た、素朴なお顔のお地蔵様は、野の佛としても人の心をうつのかいろんな本の表紙にもなります。例奈は、毎年八月ニ十三日に行っています。やすらぎ子育て・水子地蔵尊仏殿を振り返る。左に鐘楼、奥に本堂。国清寺本堂寄棟造瓦葺の本堂は、昭和9年(1934)の建立である。本堂の扁額「天長山」本堂に掲げられている、「大本山円覚寺百観音霊場第三十番札所」本堂正面に掲げられている、後花園天皇直筆の額、「敕諡佛真禅師」。「勅諡佛真禅師(ちょくしぶっしんぜんじ)」とは初代國清寺住職「無礙妙謙(むげみょうけん)」和尚のこと。無礙妙謙和尚は、武州比企県人(現在の埼玉県比企郡)と言われる。上杉憲顯によって國清寺が修理増築された頃に中国へ渡り、天目山禪寺に修行する一方、多くの寺々をめぐり佛法の真髄を求め、その奥義をきわめた。帰国後、鎌倉5山中第3位の壽福寺住職や圓覚寺の住持となり、礼に篤いその人柄からにじみ出る徳を持って優れた人を育てるなど、卓越した手腕を寺院経営に発揮した、と言われている。内陣を望む。鐘楼は延宝8年(1680)の建立と伝えられ、昭和9年(1934)に改修されている。本堂前に並ぶ、六地蔵尊には頭巾はなく。12:33本堂から左奥へ進む。杉林の中に、「畠山國清 上杉憲顕 開基塔」の石碑が建つ。 ー 続く ー
2022.03.09
コメント(0)
柏谷公園の「柏谷百穴横穴式古墳群」から、近くの「日蓮宗 六萬部寺(ろくまんべじ)」へ。2月2日(水) 11:55日蓮宗 六萬部寺所在地:静岡県田方郡函南町柏谷430北条氏・源氏ゆかり13の地を巡るデジタルスタンプラリーポイント源頼朝が父祖の冥福と源氏の再興を祈念し、法華経六萬部を埋葬した経塚があるお寺である。お寺の南側にある駐車場へ車を駐車。お寺の南側にある駐車場から向かうと正面に大きな「経塚」。六萬部寺の本堂六萬部寺は日蓮宗の寺で、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、韮山城を攻める豊臣方の出城として使用されたという。本堂には花頭窓が。本堂の扁額は山号の「王城山」。本堂の向かい側に「経塚」があり、前にあるのが「南無日蓮大菩薩」碑。本堂の左側(南)に、「永代供養 悠久廟」。その奥に小さな「稲荷神社」。本堂前から北側へ向かう。こちら側が正門であったようだ。山門には「日蓮宗」、「六萬部寺」の表札。入口の山門は四脚冠木門(かぶきもん)。看板に「北条氏・源氏ゆかり13の地を巡るデジタルスタンプラリー」の案内。デジタルスタンプを5つ集めると、プレゼントがもれなくもらえる!参加方法は、ラリーポイントに掲示されているQRコードをスマホで読み取るだけ。北条氏・源氏ゆかりの地を巡ってスタンプを集めよう!開催期間 2021.12.1(水) ~ 2022.2.28(月)併せて「鎌倉殿十三人の配役」発表の新聞記事。秋元才加(あきもとさやか)さんが木曽義仲の愛妾・巴御前役に選ばれたと。武勇に優れ、敬愛する義仲とともに戦場を駆け抜ける強く気高き女武者であると。そして青木崇高さんが、木曽義仲に扮すると。木曽義仲は源氏の棟梁の座を争う頼朝のライバル。快進撃で都に乗り込み、平家を追放する武功をあげるが、後白河法皇と頼朝の政治力に翻弄される人物。北条家、木曽義仲、源頼朝の相関図。門前にはいろんな碑が建つ。境内にあった張り紙。《 ほんの少しの違い 》 出来ない人は言葉で説得し 出来る人は行動で説得する 出来ない人は話したがり 出来る人は聞きたがる 出来ない人はお金を求め 出来る人は成長を求める 出来ない人は過去にこだわる 出来る人は未来にこだわる 出来ない人は不可能と思い 出来る人は可能と思う 出来ない人は他人のせいにして 出来る人は自分のせいにする 出来ない人は一人で頑張り 出来る人はみんなで頑張る 出来る人も出来ない人も 能力にほとんど差がない! ほんの少しの意識の違いによって 結果に差が生まれるさあ皆さん一つだけでもチョイスして、本年は昨年以上良い年にしましょう!新型コロナウイルス早期終息を祈念します。 合掌 令和四壬寅年正月元旦 新春正月元旦御年始之砌 玉城山六萬部寺四十一世日修山門を入ると左側に「稲妻堂」の案内。稲妻堂昔々稲妻ケ池に棲んでいた龍が、婦人に化けて「あの世で苦しんでいる」と頼朝に訴えました。頼朝が法華経を読経したところ、龍の苦しみは消え成仏できました。その尊像を造り稲妻大明神として祀っています と「経塚」案内板には。そして再び「頼朝公の経塚」へ。頼朝公の経塚経塚とは、経典などを土中に埋めた塚のことです。この地の経塚は古墳を転用したと考えられています。平安時代未期、伊豆に流された源頼朝は、父の冥福と源氏再興を願って、治承4年(1180年)7月、僧と共に法華経を六萬部(六万部)読経しました。それを祝して経塚を築きました。当初は高さ3メートル、縦15メートル程あったと言われています。これが「六萬部寺」いう寺の名前の由来になっています。その後頼朝は、平氏を倒して鎌倉幕府を開き、見事に祈願成就することとなりました。山門横には「稲妻堂」があります。昔々稲妻ヶ池に棲んでいた龍が、婦人に化けて「あの世で苦しんでいる」と頼朝に訴えました。頼朝が法華経を読経したところ、龍の苦しみは消え成仏できました。その尊像を造り稲妻大明神として祀っています。 令和三 辛 丑(2021)年十一月吉日 日蓮宗 王城山六萬部寺 第四十一世海修代経塚のイメージ石室を造り、その中央に六萬部読経した記録を納めた経筒を配し、それを土盛りしたもの。土盛りの上部には五輪塔を奉納。源頼朝/日蓮上人/六萬部寺再度本堂前を通り駐車場へ。12:07駐車場近くから柿の木越しに富士山の勇姿を望む。12:10天降(あまおり)神社所在地:静岡県田方郡函南町柏谷443六萬部寺からの帰路にあり、巨木・鳥居が目に入り立ち寄る。鳥居の扁額「天降神社」 扁額には「三嶋大社宮司渡邉○○朗謹書」石段の左側に「向原鎮守天降神社」碑。数十段の石段を上がると社殿。社殿前に狛犬(阿形像)狛犬(吽形像)社殿の廻りは綺麗に整備されていた。境内から函南の田園風景を見下ろす。12:13天降神社の由緒がなく詳細は分からず。 ー 続く ー
2022.03.08
コメント(1)
函南駅のホームの観光案内板に載っていた「柏谷百穴(かしやひゃっけつ)」の横穴式古墳群へ。2月2日(水) 11:32住宅街を抜け「柏谷公園」の駐車場へ。所在地:静岡県田方郡函南町柏谷676-1聖徳太子の頃の横穴墓跡があり、約2世紀にわたって使われていたらしく120以上の横穴がある。こうした遺跡が公園として残され開放されている。サクラの木も多く植えられ開花時期には多くの家族ずれが訪れるエリアである。柏谷横穴群(かしやよこあなぐん)の分布柏谷横穴群の分布は、大きくは5地区に分かれ(昭和22年第1次調査)そのうちの一部が国の史跡に指定されています。左:2020年(令和2年) 作成地形図上での5地区区分右:1947年(昭和22年) 第1次調査の時の5地区区分国指定史跡 柏谷横穴群全体で三〇〇基以上が東西六〇〇メートル、南北二五〇メートルにわたって造られたと考えられている静岡県内で最大規模の横穴墓(よこあなぼ)群です。横穴墓は、六世紀末頃から八世紀末頃までの二〇〇年間にわたって、お墓として利用されました。後半期には新たな横穴墓は造られず、今まであった横穴墓に追葬が行われ、最後の頃には火葬骨を納めた例もみられます。横穴墓が造られている地質は、箱根火山の噴火のときに流れ出た「箱根火山新期軽石流」と呼ばれる軽石を主体としたもので、加工がしやすい反面こわれやすいという特徴があります。昭和五十一年二月ニ十日に国の史跡に指定され、その後、発見された北伊豆で一番古い横穴墓が、平成十年七月三十一日に追加指定されました。 文 化 庁 静 岡 県 函南町教育委員会横穴墓の形と部分の名前遺骸を安置した部屋・玄室の前に「閉塞石」が積まれ玄室を護っていると。家族は同じ玄室に埋葬される事があり、この「閉塞石」を一旦外して埋葬されるのだと。横穴式古墳群のそばに民家が迫る。北側の横穴式古墳群の上にも民家が迫る。順路に従い進む。東西600m・南北250mにわたり、6~8世紀末に作られた県内最大規模の300基以上の横穴墓が残っている。保存状態が良好な範囲は国指定の史跡に認定されている。約6.6万年前に箱根で起きた大噴火では西は富士市、東は鎌倉付近まで到達するような巨大な火砕流が発生したとのこと。柏谷横穴群はこの火砕流の堆積物が厚くつもっている丘陵に作られている。「柏谷横穴群B群」を見る。南・東・西面の標高約20~30mの所に、前面に田方平野を望み、富士・箱根を背後に仰ぐ地に存在していた。柏谷横穴群の最初の学術調査は、1947年(昭和22年)日本大学の軽部慈恩によって実施された。群集する横穴を、A~Eの5地区に区分し、横穴の形態を5類型に分類しているとのこと。柏谷横穴群B群から西側の公園を見下ろす。10~19・93号横穴横穴を覗き込む。10~19・93号横穴史跡指定地区内の東側で、西斜面の上から一・二段目につくられています。比較的小型の93号が最上段に造られるほかは、10~19号が一見列をなしているように並んでいます。しかし、よく観察すると、それぞれに高低差があり、奥壁だけが残る横穴の奥壁は天井部に近く、その主体部である玄室は、三段目の横穴との間に造られていることが分かります。特徴的な形態をもつ横穴に12号があります。12号の奥壁中央から奥に棺を納める納棺施設(室)が造られています。この施設は幅95cm、高さ1m、奥行2m15cmで、入口側のところに溝があります。この溝は閉塞用の木の蓋をはめ込むためのものと考えられています。 図は《12号横穴実測図》横穴墓の斜面から南側を望む。自然な状態の横穴墓(B地区)西側に向いた斜面に造られたグループで、上から三段目にあります。現在は埋まっていますが、四・五段目にも横穴墓が確認されていますので、この西斜面にも今開口している数と同じくらいの数の横穴墓があるものと推定されています。写真は、この三段目の横穴墓を発見した時の発掘調査(1974年)のようすです。小さな穴は火葬骨を埋納したと考えられているミニ横穴墓です。横穴墓を掘ったノミの跡この一面の調査の時に、横穴墓を掘った時のノミの跡が大変きれいな状態で見つかりました。ノミの跡が残されていたのは96号と118号の2基の内側の壁です。写真は左:発掘調査後の風景(1984年撮影)、右下:鉄製ノミの跡(118号)。北側の最上部から、南西方向を見下ろす。北側の最上部から階段を下り、「柏谷横穴群A群」へ。横穴を覗き込むが広いスペース。柏谷公園に「史跡 柏谷横穴群」の碑。柏谷横穴群A群公園の東側の斜面に掘られた横穴群で、125号と127号は伊豆地方で最古の横穴で、古墳時代後期の六世紀末頃であることがわかったと。入口は、閉塞石と呼ばれる石組みで塞がれていて、内部を玄室といい黄泉の国(あの世)となり死者が生活する場となる。食料品や食器(土器)や耳飾りなどの装飾品、武具、馬具などが副葬品として出土しているのだと。遺体は玄室の中に安置されて、閉塞石を積んで放置され、土をかぶせたわけではない。玄室の中で腐敗し、白骨化した後は長い時間をかけて風化したようで、骨は残っていなかったと。墓前域(前庭部)墓前域とは、遺骸(亡くなった人)を納めた玄室と呼ばれる部屋の前面に造られた、小さな広場で、前庭部とも呼ばれています。墓前域では、亡くなった人の霊(れい)を慰めるための供養祭のようなことが行われたと考えられています。そしてそれを示すように、その時に供えられたと思われる土器などの遺物が数多く見つかっています。玄室は死者を納める部屋、墓前域は供養祭が行われたと考えられている場所です。玄室内部(天井部は崩れてなくなっている)墓前域 供養祭が行われた墓前域供養祭で使われた土器柏谷横穴群A群を右方向から見上げる。埋めてある横穴墓ここから見上げた一番上の段のグループの横穴墓は、そのままにしておくと崩れてしまうので今は埋めてあります。これは横穴墓の保存方法のひとつです。この方法以外には、崩れる恐れのないものは現状のまま保存・公開しているものと、保存整備を行った後に公開しているものとあります。50号の左側で発見されたA・B二つの超小型の横穴は、火葬骨を納骨したミニ横穴墓と考えられています。写真は、発掘調査後の風景(1982年撮影)植栽ゾーン柏谷横穴群A群前から公園の南方向を望む。植栽ゾーンここの植栽ゾーンには、万葉の樹木や郷土の木々を植えています。代表的な万葉の樹木には、カエデ、ホウノキ、マユミがあります。郷土の木々は、ここに植えたもの以外でもここの近辺にも数多くみられます。代表的なものにエノキ、ユズリハ、スギがあり、これらは万葉の樹木でもあります。柏谷横穴群A群を望む。11:49駐車場から「柏谷百穴の横穴式古墳群」を振り返り次の場所へ。 ー 続く ー
2022.03.07
コメント(0)
山間部の高源寺、不動の滝からJR函南の駅前へ。2月2日(水) 10:45JR函南駅(かんなみえき)所在地:静岡県田方郡函南町大竹190-6函南町は、静岡県東部の田方郡に属する町。神奈川県に接し、近隣の沼津市や三島市などとともに、県東部の中心都市部を形成する。人口は、3.778万人(2019年7月31日)。函南町の北東のはずれに位置し、函南町の中心部から離れた場所にある。静岡県内にある東海道本線の駅としては唯一、町に所在する駅である。一日の乗車人員は、1,758人(降車客含まず)-2019年-。伊豆の玄関「かんなみ」の新名所かんなみの桜まつり 令和4年2月11日(金) ~ 3月6日(日)函南町の畑毛温泉のすぐ西の田園に箱根山麓を源流にしておだやかに流れる柿沢川があります。この柿沢川堤に2001年から「かんなみ桜の会」が約410本の河津桜を植樹し丹精こめて大切に育ててきました。大きく育った桜並木は、箱根連山・富士山のすばらしい眺めとともに訪れる人の目を楽しませてくれる。丹那トンネルの西口にあり、このトンネルが貫通した1934年(昭和9年)の12月に駅は開業した。現在の停車列車は普通列車のみである。1996年(平成8年)3月に特急列車に格上げされるまでは、急行「東海」1号・4号が停車していた。改札口JR東海のため、TOICAは使用できるがSuicaは使用できない。駅前に「土木学会選奨土木遺産」案内板。旧熱海線鉄道施設群(桑原川橋梁)の「土木學會選奨土木遺産 2019」プレート。旧熱海線鉄道施設群桑原川橋梁 延長 22.5m 径間長 6.1m X 3函南駅の西側を流れる来光川(当時桑原川)に3つのアーチ型の橋梁(拱渠)が、丹那トンネルの工事とともに建設された(昭和9年)。表面には自然石のポータルが施され、同じ形が連続する3連の拱渠は珍しく、力強い曲線が周囲の景観を引き締め、地域のシンボルとなっており、丹那トンネルとともに、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。 ※函南駅より 600m 所要時間:徒歩10分旧熱海線鉄道施設群(丹那トンネル函南ロ)の「土木學會選奨土木遺産 2019」プレート。旧熱海線鉄道施設群丹那トンネル(函南ロ) 延長 7,804m。東海道線を輸送強化するため、熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故など多くの犠牲を払い、困難を克服して昭和9年に完成した。その過程では、丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多くあり、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。 ※JR東海用地内のため立入れません。東方向の丹那トンネル(函南ロ)側を望む。 ホームは1面2線となっており、1番線を下り列車が2番線を上り列車がそれぞれ使用しています。ホームが全体的にカーブしているため、列車が到着する度に駅員さんがホームに出てきます。ホームに立つ「名所案内板」。畑毛温泉(はたけおんせん) 田園情緒豊かな温泉郷、環境庁指定・国民保養温泉 南 4km バス 20分柏谷百穴(かしやひゃっけつ) 古墳時代の横穴式古墳群、文部省指定の重要文化財 南 4km高源寺(こうげんじ) 源頼朝公ゆかりの地 北 2km原生の森 林野庁・環境庁指定の総面積14ヘクタールの生活環境保全林 北東 6.5km函南駅前広場。駅は町の一段高いところに位置している。10:57そして次に訪ねたのが「丹那隧道工事殉職者慰霊碑」。カーナビの案内で狭い坂を上っていくと突き当りに駐車場がなく、悩んでいると近くにあった工場の方から「ここに駐めて良い」とご親切に。言葉に甘えて駐車させて頂き、急な坂を更に上っていった。坂を上り切り北方向を見ると東海道本線が走る。山の斜面には新興住宅が立ち並ぶ。その麓を東海道新幹線、東海道本線が走る。坂を上った奥に、「丹那隧道工事殉職者慰霊碑」に建つ。丹那トンネル工事においての犠牲者全67名の殉職碑が、鉄道省によって熱海側の坑門の真上に建立されている。付近にある、工事の際に労務者の信仰の篤かった山神社なども含めて、地元有志の手で丹那神社として整備されている。なお工事は熱海口側を鉄道工業、函南口側を鹿島組が請負った。こちらの慰霊碑は、函南口側の犠牲者36名を祀っている。この慰霊碑は函南口側の工事を請け負った鹿島組が犠牲者36名を祀っている。当初は東海道本線の線路の北側にあったが、現在は南側に移転している。現在JR東海が樹木伐採等の周辺整備を行い、地元有志により定期的に清掃奉仕をされている。石碑には、「丹那隧道 工事殉職者 慰霊碑」。慰霊碑の裏側丹那トンネル工事の全犠牲者は、67名にものぼり、いかに難工事であったかが伺える。ここ函南口側の犠牲者は36名であり、その方全員の名前が石碑の裏に刻まれていた。 昭和八年十月二十一日際チ誉行隧道貫通式為 供養株式會社鹿島組社長鹿島精一建此碑謹題毎年慰霊祭が行われていたが、このコロナ禍で中止となっていると、先程の方から。近くにある「臨江寺」の住職が菩提を弔っているようであった。新しい塔婆には、「令和二年十月三日建立 函南地区協議会地区長藤原三夫」。石碑横から東海道新幹線の線路も見え、ひっきりなしに通過。丹那隧道工事殉職者慰霊碑前から階段を下り、手前が東海道本線、奥に東海道新幹線が走る。新丹那トンネルは、丹那トンネルの約50メートル北側に並行して延びる長さが7,959メートルの東海道新幹線(三島~熱海間)のトンネルである。今までに何度通過したであろうか新丹那トンネルの函南口側。新丹那トンネルの工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル、東山トンネルが同時期に着工されている。しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647メートル、函南口(西口)は1,433メートルの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200 ~ 300メートル程度の覆工を完成させていたと。東海道本線の「丹那トンネル」の函南側出口を見る。丹那トンネルは、東海道本線の熱海駅~函南駅間にある複線規格の鉄道トンネルである。総延長7,804メートル、1934年(昭和9年)12月1日に開通した。函南駅側より丹那トンネル坑口をのぞむ。完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長だった。現在、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東海旅客鉄道(JR東海)との会社境界はトンネル東口付近(来宮駅電留線の上り場内信号機)で、丹那トンネル自体はすべてJR東海の資産となっている。11:07慰霊碑から駐車場へ戻る、坂を下り右側の工場駐車場へ駐車させていただいた。JR函南駅の西方向を見下ろす。駐車場に戻り、工場から機械音が聴こえていたので「何を作っているのか」と尋ねると、「工場見学しますか」との問いに答え工場内へ。㈲中川製紐(せいちゅう)工場所在地:静岡県田方郡函南町平井1746靴メーカーのABC社の外注先で、靴紐等紐の製造工場であった。工場内には各種機械が動いており騒音が、作業員は4ラインを一人で受持ち。御多分にもれず「コスト面で海外製品に苦慮している」と。ラインになっているが、一つの機械で十数本の糸を編み一本の紐に。約4時間で100メートルの紐を製造する。11:11後日病院であった方から「社長は90歳」だと。世界遺産の「富岡製糸場」を思い出す光景であるが。11:26㈲中川製紐工場から、次に訪れる「柏谷公園の柏谷横穴群」へ向かう。 ー 続く ー
2022.03.06
コメント(0)
曹洞宗高源寺(こうげんじ)の苔むした歴史を感じる参道を進む。2月2日(水) 10:10頼朝公の乳母「比企尼の供養塔」比企尼の供養塔源頼朝公が伊豆に流された時、乳母である比企尼も現在の函南町大竹に住み、頼朝公を守られました。その比企尼の供養塔(宝筺印塔)です。一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。四脚門を振り返る、左側に駐車場。鐘楼門を見上げる。鐘楼門の下に並ぶ「懸衣翁」「奪衣婆」の像。左側に「懸衣翁の像」。懸衣(けんえおう、けんねおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆(だつえば)の隣にいるといわれる老人の妖怪である。奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという。右側に地獄の熟女「奪衣婆の像」。三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。鐘楼門を潜ると左側に「六地蔵」。鐘楼門の正面に「本堂」。源頼朝が蛭が小島に流されてから、その乳母である比企尼(ひきのあま)も伊豆に来て、頼朝に付かず離れずの、函南・大竹に起居していたことから、頼朝が比企尼に頼んで、この高源寺を文覚上人との面会場所として用意してもらった。本堂の扁額「高源寺」船山 高源寺 縁起當山は諸天神仙の霊地箱根山の旧蹟にして道昭法師行基菩薩万巻上人弘法大師等諸法師の修法堂場として文武聖武嵯峨帝の御勅願所たり 古源頼朝公義旗を揚げんと欲するの時武運長久の祈願あり公甞て試むるに檜を以て椿に挟み柷して曰く椿寿八千才と云えり亦公が椎の樹下にまどろみし時其の実落ちて公が面を打てり公恨みて曰く若し椎なるとも実らざれと、その椎実らず之敵軍降服の徴なりと云う。頼朝公が姫妾丹後局御懐妊の時参籠当山安置の子育地蔵尊に御祈願あり伊予国に落延るの途次攝津国住吉明神の社庭に於て安ず其の時当山守護地蔵尊異人と為りて介抱せられたりと神佛加護の霊験なりと頼朝公深く感激し寺領六十町歩を寄進せらる。 當山の靈石靈木 七木 七石として伝えらるゝは頼朝公旗掛の松、諸天降臨の松、檜椿、実無し椎、陰陽杉、源平椿、つつじ椿、弘法の疱水石、弘法座禅石、龍頭石、龍胴石、龍尾石、怒り石、兜石 且寺后五丁奥に弘法大師爪堀不動尊あり。 寶船山 昭和五二年四月 木の幹にキノコ本堂前から鐘楼門を振り返る。二階部分に梵鐘がぶら下がる鐘楼門。重心が高い感じがする建物である。本堂前から西に向い鐘楼門を振り返る。境内の一段低いところに、「ムーミン」の小屋と広場。ムーミンの小屋残念ながらムーミンは出てくれず、お尻だけを・・・。番人役なのか広場に居座る猫。本堂前には枝垂れ桜。建築年度はいつなのか古い建物である。使い古された木の臼。駐車場の片隅に観光案内所かオフィスが。なまこ壁の白い蔵の如き建物があった。歴史を感じさせる参道へ再び立つ。大河ドラマの影響で訪れる人がチラホラと。10:24石畳の参道を古木が蔽い被さる。高源寺は源頼朝が文覚上人と密議を交わしたお寺と伝えられている。山火事で焼失する前は、「長久寺」という名であったが、源頼朝が1190年に再興し、「源」を入れた「高源寺」に改名された。古刹を後にし次の場所へ行くことに。10:34高源寺から来た坂道を冷川に沿って下る。そして右手にあったのが「不動の滝」。高源寺を振り返る。狭い境内に「冷川(ひえかわ)不動堂」。右側の石碑には「不動明王」と。冷川不動明王略縁起創建年代は不詳なれども伝説として次の事頃を伝えている。平治の乱頼朝伊豆に配流され、(永暦元年、1160年)源家再興を伊豆三島大社、箱根権現、伊豆山権現に祈願、その後文覚上人(1173年)伊豆奈古屋に流され、頼朝文覚と共に舟山大平山長久寺に参詣(現宅舟山高源寺)、源氏再興祈願と旗上げを議したという。当時高源寺は真言宗にて修行の道場として伊豆一円を支配していたものと思われ、塔中に安養寺臨川寺瑞雲寺不動院ありしと豆州志稿にあり、案ずるに不動院は今の冷川不動なりしやと思われる。本尊赤不動明王は文覚の作なりと云われるのも、この関係ありやと思われる。頼朝幕府を開くや長久寺は、比企能員の母己れの乳母として奉せしを以って、朱印地六十町歩を寄進したと云う。文覚は後御白河法皇の許しを享け、京都高雄の新護寺の再興に努力せりと云う。この故を以って冷川不動尊も真言宗本山派の道場として栄えたものと思われる。その後栄枯盛衰あり徳川時代になり本地衰跡院(神佛混合)により、佛教の寺院に対し鳥居が建立され、川口勇氏入口ニ十米程の所に一の烏居境内にニの烏居が立てられて居れど、伊豆震災でニの烏居は倒壊し、一の島居は台座だけ昭和の初期まで残されていた。最も栄えたのは文化、文政(化政期1803~1837)時代で当時は桑原川口氏所有(上川口氏)なりと云われる。その後堂主も常仼なく荒れるにまかせたりしも、大正十ニ年川口利三郎氏(上川口の分家)の世話に依り近隣十七戸で引継ぎ、今日に至っているのが現況である。大正七年丹那トンネルの工事がはじまり、鹿島組西口を受け持ち配下の伊沢組がこの不動尊を信仰し、境内に板碑を立て岡田清海老師が住し盛況なりしも、トンネル工事終了と共に亦静閑になったものである。本不動尊院に安置される佛体は次の如きものである。本尊赤不動明王 石像 座像 ニ童子 矜羯羅童子(こんがらどうじ) 滝右側石屈の内 制咜迦童子(せいたかどうじ) 道路(山之田方面中央石屈内)現在不明 降摩の剣に炎 滝上岩上に在り 青銅製当入穴よりの湧水で滝が出来ているが奥の院と云われている。滝壺には座禪石が置かれている。冷川の岸にカグラ石が在りミソギの場所だったと云われているが、道路の拡張で現在はない。そして奥に「不動の滝」。落差3m前後の滝であったが、この日は水量が少なかったが。異常気象でゲリラ豪雨があると・・・。落ち口をズームアップ。滝の右側斜面にある石祠「冷川不動」。御祓(みそぎ)の滝打たれをするのであろうか。滝壺には「座禪石」が置かれている。滝上岩上に在った青銅製の「降摩の剣に炎」。10:41不動の滝の見学を終え。 ー 続く ー
2022.03.05
コメント(0)
あたみ桜の後、函南町へ向かう。2月2日(水) 9:15糸川の河川敷から「柳橋」を見上げる。柳橋の欄干ビルの壁に「そのまま5階に上がってきてね ❤ 」 柳橋から上流側の「糸川橋」。柳橋の欄干とあたみ桜糸川の両側の道は一方通行になっている。9:19スパ・マリーナ熱海には、多くのヨットが停泊。港湾海岸防災協議会創立40周年記念 港湾海岸防災関係功労者表彰記念熱海港海岸における景観・利用に配慮した先駆的な海岸整備は、人と海とのふれあいを回復し、地域の活性化にしました。今後の海岸整備の模範となることから港湾海岸防災協議会より表彰されました。 平成12年11月1日 静岡県熱海市熱海湾の防波堤熱海サンビーチ熱海親水公園のテラス真鶴半島をズームアップ。更にズームアップ。親水公園のテラスから東方向を望む。熱海の山の斜面には多くの高級マンションが立ち並んでいる。9:25熱海市営第1親水公園駐車場約45分の散策で駐車料金、220円を支払い次の場所へ進むことに。この後、来宮駅前、熱海梅園横を走り県道11号線を上り、函南へ向かう。9:42県道11号線(熱海函南線)を上り熱函道路の鷹ノ巣山トンネル(L=1268m)を通過、函南町へ。富士山が顔を出していたので、第二丹那橋手前に停車。熱函道路の熱海側の鷹ノ巣山トンネル方向。富士山の撮影に。富士をズームアップ。函南ゴルフ俱楽部、かんなみスプリングスC/Cがある。富士の裾野に自衛隊の演習地が広がる。宝永の噴火口。宝永大噴火は、富士山の三大噴火の一つであり、他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火(800年 ~ 802年)」と「貞観の大噴火(864年 ~ 866年)」である。宝永大噴火以後、現在に至るまで富士山は噴火していない。三島、沼津市街地を見下ろす。南アルプスの山並みには雪が積もる。10:05JR函南駅前を通り山奥にある、高源寺の駐車場へ。所在地:静岡県田方郡函南町桑原1265「北条氏ゆかりの伊豆の地」の最初に訪ねたのが「高源寺」。伊豆へ流された源頼朝が平家の監視役の目を逃れ、遠く離れた山の中にあるこの高源寺で頼朝の乳母比企尼の計らいで文覚上人と源氏再興の密議をしたと言われ、平家討伐の初陣となる石橋山の戦い(1180年)に臨む際の旗揚げの地とも云われている。駐車場から「四脚門」を見下ろす。駐車場から参道入口へ下る。幟には「義時ゆかりの國 伊豆の国 源頼朝・北条政子の史跡を巡る 北条義時ゆかりの地」と。駿豆線沿線地域活性化協議会先輩に幟を持っていただき撮影。石畳の参道脇に「高源寺(こうげんじ)」。高源寺は、弘法大師(空海)によって開かれたという古寺。参道は苔むしていて古刹の風情が色濃い。奥に四脚門が建つ。四脚門とは日本の門の建築様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てたもの。四足門とも表記される。重要文化財として残る日本の門の建築様式の中では最も多いものであり、正門に配されることの多い格式の高い門とされる。遺構として残るものは鎌倉時代以降のものだが、奈良時代から存在すると言われている。石畳は隙間があり注意しながら進む。四脚門源頼朝が伊豆に流されていた当時の高源寺は、長久寺と称する真言宗の寺で、修行の道場として伊豆国一円を支配していたものと考えられている。山火事によって伽藍を焼失してしまうが、1190年(建久元年)に源頼朝が再興。その時に「長久寺」から源氏の一字を入れた「高源寺」に改められたのだとか・・・。四脚門の扁額は山号の「寶船山」。四脚門をくぐると右側に苔生した石仏。古木の下には石灯籠がひっそりと建つ。左手には巨石の上に小ぶりの社が傾いて。風にあおられて倒れるのでは。巨木の根が参道の石畳を持ち上げている。10:10参道の奥に鐘楼門が建つ。 ー 続く ー
2022.03.04
コメント(0)
あたみ桜の散策を続ける。2月2日(水) 8:57遊歩道脇に「坪内逍遥」の歌碑。ちかき山 ゆきはふれゝと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう熱海をこよなく愛した坪内逍遥は、明治四十五年春ここ糸川べり荒宿に、別荘を新築した。やがて時移りこの地も栄え、夜ごとのざわめきを避けて、大正九年水口に移り双柿舎を営み、ひたすら文筆に明け暮れ、昭和十年、七十七歳の多彩多難な生涯を終えた。シェークスピアの完訳をはじめ、小説「当世書生気質」戯曲「桐一葉」「役の行者」舞踊「新曲浦島」「お夏狂乱」等の名作を世に送り、劇文壇、さらに早稲田大学文科の創設など教育面にも多くの先駆的な足跡を残した。ここに先生の熱海を詠まれた歌一首を刻して、先生の敬慕のよすがとした。 昭和六十二年六月七日 逍遥協会あたみ桜の下にオブジェ。亀とマンボウのオブジェ。糸川の上流に向かうと次に「ドラゴン橋」。ドラゴンの頭部をズームアップ。ドラゴン橋は糸川に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。橋の先に「伊太利an」。大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家 大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成25年1月吉日 熱海市長 齊藤 栄上流側から「ドラゴン橋」の欄干。新柳橋のたもとにある「村越魚店」所在地:静岡県熱海市中央町7-4熱海の街の小さな魚屋さん。地元民愛用の老舗の一軒である。朝、仕入れた魚を捌き、加工した魚たちが店頭に並ぶ。以前来た時魚を購入し酒のつまみにした。ブーゲンビリアとあたみ桜のコラボ。タコのオブジェ。対岸で愛犬の記念写真。9:02バス停「本町商店街」に架かる「御成橋」ここで折り返すことに。あたみ桜がたわわに咲く。糸川を覆いかぶさるようにあたみ桜、ブーゲンビリアが咲き乱れる。ズームアップ。先輩は危険な行為で撮影。新柳橋の欄干。新柳橋の上流側を望む。マンボー。ドラゴン橋から上流側。青空をバックに。赤いブーゲンビリア。メジロが動き回っていたが。糸川を下り、桜橋を振り返る。糸川の川幅は約5メートル程であたみ桜が覆い被る。オブジェの説明がなく。桜橋辺りから糸川の河川敷に下り上流側を振り返る。国道135号上り線の糸川橋下を潜る。川の水は浄化処理されており匂いもなく綺麗であった。下流の橋は「柳橋」。河川敷も遊歩道になっているようだ。河口から二番目の橋「柳橋」。上流側を振り返る。上流側に国道135号上り線の「糸川橋」。河川敷への階段。国道135号の下り線に架かる「渚橋」。9:15スパ・マリーナ熱海に停泊する豪華ヨット。 ー 続く ー
2022.03.03
コメント(0)
今年NHKで放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連する、北条氏ゆかりの伊豆の地「函南町」「伊豆の国市」をいつもの「爺守りトリオ」で二泊三日の旅に出発。2月2日(水) 6:45我が家で藤沢からの旅友と合流、我が愛車で出発。西の空に朝日を浴びる富士山が見える。鉄砲道から柳島交差点で国道134号と合流。国道134号の柳島交差点。トラスコ湘南大橋上から北西方向に富士山。7:35二宮で先輩をピックアップして三人で国道1号を走る。西湘バイパスが工事中のため国道1号(旧東海道)を小田原方面へ。道路脇にキロポスト「日本橋から75km」。道路脇には「日本橋より十八里」の石柱。国道1号川匂神社入口交差点。神奈川県中郡二宮町山西辺り。早川口から海岸線の国道135号を走り湯河原、熱海へ。そして昨年7月3日に発生した熱海市伊豆山の土石流災害で土砂が流れ込み、発生から26日間通行止めになった国道135号の逢初橋(あいぞめばし)手前を通過。土石流は、同市伊豆山地区を流れる二級河川「逢初(あいぞめ)川」に沿うように流れ落ち、海沿いのここ国道135号を越え、海まで達したのであった。8:44熱海市営第1親水公園駐車場所在地:静岡県熱海市渚町10時間が早く駐車場には車が少なかった。駐車場廻りの桜はソメイヨシノ。国道135号に架かる「熱海渚橋」を見る。円形のサイトグラスのある小さな白い橋である。親水公園から、遠く山の上に熱海城。糸川に架かる「熱海渚橋」。「第12回あたみ桜 糸川桜まつり」の糸川遊歩道の散策を始める。上流に向かって右側の遊歩道を進むことに。時間が早く人通りがない。今年の「第12回あたみ桜 糸川桜まつり」と「第78回熱海梅園梅まつり」のポスター。あたみ桜は満開状態糸川の上流に向かって渚橋 → 柳橋→ 糸川橋 → 桜橋 → ドラゴン橋 → 新柳橋 → 御成橋 とデザインがそれぞれ異なる橋が架けられている。あたみ桜の開花時期は、例年1月から2月上旬。1つの枝に早期開花の芽と後期開花の芽の2種類を形成するため、開花期間が非常に長いのも、あたみ桜の特徴です。一般的な桜が1~2週間で散ってしまうところ、あたみ桜は1カ月以上も咲き続けるので美しい桜を長く楽しめます。花の数が多くまた八重咲きである。あたみ桜開花期 1月~2月特 徴 開花期間が1ヶ月間と長い。柳橋の欄干飲食店街も人がなく。祭り期間中は、夕方から桜がライトアップされるので、夜桜を楽しむこともできますと。桜の枝の中にメジロが蜜を吸いに。枝の中を数羽飛び回っていた。メジロはじっとしていないのでシャッターチャンスが難しい。あたみ桜は既に満開を過ぎた状態に。ひとつひとつの花が大きく、濃いピンク色をした美しいあたみ桜は、熱海を訪れる人々に少し早い春を感じさせてくれます。あたみ桜は、明治初期にイタリア人の手によってレモンやナツメヤシと共に、熱海に伝わったと言われています。開花時期が非常に早いのが特徴で、沖縄のカンヒザクラ(寒緋桜)とほぼ同時期の1月に開花することから、早咲きの桜として親しまれ、それをお目当てに熱海を訪れる観光客もたくさんいます。欄干に「柳橋」。国道135号の上り線に架かる「糸川橋」。糸川橋のバス停「銀座」。交差点を渡り、「あたみ桜の基準木」、「石碑」が立つ。あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)。市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。「糸川あたみ桜 基準木」案内板。糸川あたみ桜 基準木の横に「熱海桜」の石碑。ブーゲンビリアの花も咲く。霜枯れしていないのでやはり熱海は暖かいようだ。昨年6月には爺守りトリオで熱海のジャカランタの花を観賞、先輩から苗木をいただき我が家にも植えたが花が咲くであろうか。糸川遊歩道沿いにはいろんなオブジェがある。このオブジェは?あたみ桜はひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴である。8:57桜橋に立つ看板には「あたみ桜糸川まつり開催に伴う交通規制について」1月8日(土) ~ 2月6日(日)迄の(土)(日)(祝)の11日間、糸川遊歩道下り及び糸川遊歩道上りの一部(桜橋~新柳橋間)、伊太利an 周辺。新柳橋にて車両通行規制を致します!見上げると満開状態に。鈴なり状態のあたみ桜。 ー 続く ー
2022.03.02
コメント(0)
この日は野球の朝練で相模川のグラウンドへ。その帰りに現在放送の寒川にある鎌倉殿の13人の一人「梶原景時」の館跡へ立寄る。2月27日(日) 10:00県道46号線(相模原茅ヶ崎線)を南下、梶原景時館跡へ向けて進む。この先の一之宮小入口交差点を左折して県道44号線(伊勢原藤沢線)へ。一之宮小入口交差点を左折すると直ぐにある。梶原景時館跡(一之宮天満宮)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-6県道44号線(伊勢原藤沢線)沿いの南側にある。駐車場があるが私有地。NHKの大河ドラマで放送すると地域の活性化になり観光客も。石鳥居を潜ると、「梶原景時館址」、「浩宮徳仁親王殿下 御成記念」の石柱が建つ。また「ゆかりの地 梶原景時」の幟も立つ。梶原景時館跡梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。 平成二十一年三月 寒川町教育委員会一之宮天満宮梶原景時は初期の鎌倉幕府を支えた13人の御家人のひとり。13人とは、二代・源頼家時代にとられた政策「十三人の合議制」の構成員のこと。鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた有力者のうち、頼家を支えるために選ばれた重臣たちです。● 梶原 景時(かじわらかげとき) 1140?~1200年 頼朝の信頼が厚く、その側近として権勢を振るっていました。しかし頼朝の死後、御家人 らの弾劾により失脚、追放されて一族とともに滅ぼされてしまいます。現在放映中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、悲劇の梶原景時を、歌舞伎役者・俳優の中村獅童さんが演じている。梶原景時館跡から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ進むと直ぐにある。西町集會所(薬師堂)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-31車の場合はここへ駐車可能であるが数台。駐車場脇に大き案内板。梶原景時公尊像東京・馬込 萬福寺 蔵梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、八月二十四日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめさまざまな重職を携わりました。頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀反の疑いを将軍頼家に讒言したとの理由で御家人六六名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、十二月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。正治二年一月二十日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ケ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。梶原氏の足跡治承四年(1180) 石橋山の合戦で敗退した頼朝を助ける。治承五年(1181) 土肥実平の仲介により頼朝に面謁。家臣として認知される。 小御所御厩の地の奉行。寿永一年(1182) 政子安産祈願奉幣使として二男景高が相模国一宮(寒川神社)に遣わされる。寿永三年(1184) 宇治川の合戦。長男景季「名馬麿墨」にて佐々木高綱と先陣を争う。 一ノ谷の合戦。平重衛を生け捕りにする。 播磨国大山寺に大般若経典読料として田一町二段を寄進。元暦一年(1184) 播磨・美作両国の守護に任ぜられる。元暦二年(1185) 屋島の合戦。義経の奇襲により景時、合戦に遅参。 壇ノ浦の合戦。義経と先陣を争う。文治五年(1189) 衣川で討たれた義経の首実験を腰越で行う。 奥州征圧軍軍勢着到奉行。一族あげて従軍、途中和歌を多く残す。 新造の御厩別当。建久一年(1190) 頼朝上洛の奉行。景時、景季、景高供奉して入京。建久三年(1192) 頼朝征夷大将軍に就任、鎌倉幕府開府。建久四年(1193) 富士の巻狩。一族あげて頼朝に供奉する。建久六年(1195) 頼朝上洛の隋兵奉行。建久十年(1199) 頼朝死す。将軍頼家「古書始」に十三宿老の一員として列席、侍所別当と 傍注あり。正治一年(1199) 景時公弾劾の署名を六六人の御家人が提出、一宮館に下向。正治二年(1200) 一宮館を後に京を目指す。 途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)にて合戦、一族滅亡。一宮館址案内図土塁が残されているのかは未確認。西町集會所(薬師堂)の南東の方向にある「梶原伝七士の墓」。ここにも幟が立っていた。梶原源太景季(かげすえ)公。梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「麿墨」共に武名をあげる。同年2月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙に挿し 「かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん」と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。 平成二十年五月 梶原公顕彰会二十周年記念事業以前来た時は訪れる人もなかったが、ちょうど梶原景時が出ている場面であるので。伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。 平成二十一年三月 寒川町教育委員会10:50小出川の河津桜会場所在地:神奈川県茅ケ崎市萩園附近小出川沿いに100本近く植えられている。下には菜の花も。後数日で咲き始めるのであろうか。本場の伊豆半島の河津町では満開と放映されているが。近くの掲示板に「桜まつり中止のお知らせ」立春を過ぎましたが、寒い日が続いております。皆さま、お元気でお過ごしのことと思います。河津桜の蕾がかなり色を付けています。今年もまた、「やっぱり春は小出川」。春色のときを迎えます。しかし、残念なことに「コロナ」の感染拡大が続いております。「桜まつりは今年も中止します」私たちはこれからも、この環境の保全、桜など「花」の栽培・育成に努めてまいりますので、何とぞご理解いただきたくお願い申し上げます。 2022年2月 花とともにくらす会休憩場所には多くの高齢者が、毎月第四日曜日の午前中に「花とともにくらす会」のボランティア活動。小出川の上流側を望む。秋には、コキア、ざる菊が楽しませてくれる。風除けのネット。2月26日(土) 9:00高齢者講習で自動車教習所へ認知機能検査で総合点が80点であったので、120分の講習。1時間の座講習と約10分間の実車運転。実車運転の結果「指定場所一時停止の停止線前で停車するように」との指摘。今年5月13日から取り締まりが厳しくなり、75歳以上の方は違反の度に「実車試験」がある。受講者全員に「高齢者講習修了証明書」を発行。免許更新時に持参する必要がある。我が家のウメの花が開花。今年の収穫は、昨年はこの木一本で約10キロ近く収穫した。「ウメ切らぬ馬鹿」にならないよう昨年整姿しておいた。ズームアップ。庭先に咲く「ヒメリュウキンカ(姫立金花)」。科 名:キンポウゲ科分 類:多年草(初夏~秋落葉)原産地:ヨーロッパ~アジアの温帯大きさ:背丈8~20cm、横幅15~40cm主な見所:花(3~5月)ヒメリュウキンカは、比較的長期間にわたり光沢のある小さい一重の黄色い花を咲かせます。品種によっては八重咲きになるものや、花色の濃いもの、白花種などがあります。葉は心臓型で濃いめの緑、より黒く染まるカラス葉の品種もポピュラーです。株はロゼット型でこんもり茂りあまり背丈は高くなりません。梅雨ごろには葉がなくなり休眠に入り、秋に再び葉が出てきます。 END
2022.03.01
コメント(0)
伊勢原へ行くとき神川橋を渡り平塚の八坂神社境内の菊を見たので立ち寄る。11月10日(水) 12:37田村八坂神社所在地:神奈川県平塚市田村8丁目21-30境内の詳細は、前回訪れた時のブログ「前鳥神社から、八坂神社へ」👈をクリック願います田村八坂神社略誌御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した神様です。御神徳 無病息災の厄払い、学問上達、商売繁盛、家内安全などにご利益があります。創 建 明治35年(1902)に記された『八坂神社由緒調査書』には、「延暦年間(782~806)以前に創 建された」とあります。これとは別に、社殿の最も古い棟札には元禄10年(1697)8月と書か れたものがあります。神社紹介 江戸時代の後期に書かれた『新編相模国風土記稿』に「牛頭天王宮村の鎮守となり、幣殿、 拝殿建てり、鐘楼の鐘は聖徳3年(1713)に鋳造す」と記されています。 明治時代になると神仏分離令によりお寺から村営になるとともに、社名が牛頭天王宮から 八坂神社という称号に変わりました。 また、神輿とともに祭りの華である屋台は、横宿が江戸時代後期天保3年(1832)に、下町は 江戸後期に、一度焼失したと言われている上町は、明治21年(1888)に新調されました。例大祭 7月28日以前の日曜日です。境内図江戸時代の後期に書かれた『新編相模国風土記稿』に鐘楼の鐘は聖徳3年(1713)に鋳造すると八坂神社社殿等移設記念碑 神川橋架替工事に伴い 八坂神社社殿、末社(四社)、鳥居、神楽殿、狛犬、石燈篭等、移設 平成二年五月吉日 氏子中裏面には、追 記 宮司 沖津昇治 謹書 鐘楼、梵鐘 再建 平成三年五月吉日 玉 垣 改築 平成五年六月吉日 社務所 改築 平成五年六月吉日 田村ばやし練習場 新築 平成五年六月吉日 幟旗幟支柱 再建 平成九年七月吉日手水舎越しに社殿社殿の前には鉢植えの菊が飾られていたズームアップ、鉢は昨夜の風で無残にも倒れていた南西の方向から社殿を正面から社殿を見上げる拝殿の扁額、「八坂神社」倒れた鉢を元に戻し風に揺られる花びら菊の種類観賞用に育てられる菊は花のサイズと咲き方で大きく分けられている筒物の菊:花びらが筒状になっている12:54相模一之宮寒川神社所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916寒川神社は、相模國一之宮の延喜式内社。旧国幣中社。現在は神社本庁の別表神社である。 関東地方における著名な神社の一つであり、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れる。初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多い相模国 一之宮 國幣中社寒川神社石製の神池橋、三の鳥居寒川神社御祭神 寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと ) 二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。例祭日 九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)由 緒 当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献上 品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史 を有しています。 以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に 神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されまし た延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心 をなしていました。 中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田 信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家から の崇敬は極めて篤いものがありました。 明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭において 国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。 その後、大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和二十年八月十 五日、大東亜戦争の終戦後、・・・・・・後略いつも年始めに参詣しており多くの人が訪れているが、この時期は七五三の家族が参詣石畳の参道右側に、「一ノ鳥居 記」一ノ鳥居 記この鳥居は、当神社の一ノ鳥居で、寛政八年(西暦1796年) 木内善治郎の寄進により参道に建立されたもの。安政二年江戸大地震、大正十二年間東大地震、二度にわたり倒壊した。高さ一丈一尺(約三・三m) 柱間一丈(約三m) 明神鳥居。当時をしのびここに設置する。 寒川神社社務所境内のご案内神 門神門前左側にある、「神馬舎」いつも参拝者が多くまだ見たことがなかった神馬舎神馬舎の扁額、「神馬」神馬舎の中には、猿使いに引かれる白馬神門から御本殿を望む御本殿本殿前には祈祷が終わった七五三の家族が集う神門を入ると左側の回廊に菊の花が展示されていた優秀賞コーナー菊の特徴キクは皇室の紋にも使われている日本を象徴する花のひとつです。中国から奈良時代に伝わり、江戸時代に入ってから盛んに品種改良されるようになりました。こうしたキクを「古典菊」と呼び、「江戸菊」「嵯峨菊」「美濃菊」など地名を冠してカテゴリー分けされています。スプレーギク、ピンポンマムなど、イギリスを中心に欧米で生み出された小輪でたくさんの花をつけるキクは「洋菊」と呼ばれています。花弁の形状は様々。伝統的な白、黄色にはじまり赤、ピンク、オレンジ、複数の色を合わせたものなど数多くの品種があります。古典菊、洋菊どちらも丈夫で育てやすいのが特長。品評会を目指すもよし、色とりどりの寄せ植えにしてもよし、様々な楽しみ方ができます優秀賞のコーナー、最優秀作品 宮司賞 厚物の部最優秀作品 宮司賞 厚物の部をズームアップ優秀作品 ○○本庁統理賞 〇〇の部だるまの部お皿のような変わった品種の菊回廊にはいろんな出品があったが・・・・・御本殿の前にも菊が飾られていた御本殿の前から神門を望む、境内は石畳が敷かれている祈祷者はこちら側の回廊から御本殿へ上がる方位盤(ほういばん)と渾天儀(こんてんぎ)方位盤と渾天儀方位盤と渾天儀寒川神社は、古くより全国唯一の八方除の守護神として信仰されています。八方除とは、地相・家相・方位・日柄等から起因する、すなわち方位神によるあらゆる悪事災難を除く方災厄除の神としての御神徳です。ここに、方位盤・四神の彫塑・渾天儀という八方除に因む三つの構造物の構成による記念碑を製作しました。方位盤は四正(東・南・西・北)と四隅(北東・東南・南西・西北)の八方位と中央の九星・十千十二支を、八方には易の八卦を配当しています。一般的な気学方位盤とは異なり、八方位を均等に配置し正八角形の意匠でわかりやすく象られています。四神は天の四方の方角を司る霊獣で、・・・・・・後略 平成二十四年十月吉日 寒川神社 宮司 利根康数 識御本殿の裏側には、「神嶽山神苑」があり庭園が整備されている。 ※ 神嶽山神苑への入苑。また方徳資料館への入館は、御祈祷を受けた方に限る若い宮司神門を入り右側にある、「神符守札授与所」コロナ対策をしての授与神門を出て振り返る。入口に、「第五十四回 菊花展 写真展 開催中」看板は使いまわしされているのであろう、回数のみが修正されていた南門の東に隣接する、立派な「納札殿」納札殿の扁額、「納札殿」神門を振り返る伊勢原の日向地区からの帰路、菊を楽しんだ。 END
2021.12.07
コメント(0)
浄発願寺奥ノ院跡を見た後、帰路の途中にある「史跡 (伝)大友皇子の陵墓」へ立ち寄ることに。夏場は嫌なものがいるので立ち寄れないが、この時期は安心して草むらへ入れる。11月10日(水) 11:30奥ノ院跡から林道日向線を下り、石雲寺駐車場へ日本遺産のまち伊勢原 日本遺産の構成文化財 ~ 石雲寺と日向地区の文化財~《信仰の地「大山」の生い立ち》大山への信仰は古く、奈良時代には、霊山寺(現・宝城坊。通称・日向薬師)、石雲寺、大山寺が開かれ、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記される阿夫利神社や比々多神社、高部屋神社の成立などにより、信仰の地としての姿が整えられていった。駐車場の脇に竹林春先には竹の子シャガの花も咲く石雲寺略縁起寺伝によれば、八世紀初めの養老2年、諸国を行脚していた華厳妙瑞という法師が日向へやって来た。法師が山中の石上に座し瞑想すると、渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が、河原に降りると周囲三丈(十メートル程)の石の上方に紫雲がたなびいていて、法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御姿が現れたという。里人に尋ねたところ、その昔、壬申の乱で敗れた大友皇子が近江国から逃れ住まわれ、この地で亡くなられ、従者も殉死したという。哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩薩を弔うこととした。これが石雲寺の草創である。皇子の墓所は当初、遺言により松を植えただけであったが、鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建てたという。永禄年間、天渓宗恩和尚が曹洞宗として中興開山され、天文12年に北條幻庵から朱印状を拝領した頃、寺院としての基盤が確立したようだ。当初の寺院名は「雨降院」で、後に開創の縁起に因んで「石雲寺」と改められている曹洞宗 石雲寺今回はスルーしましたが以前訪れた時のブログ「浄発願寺・石雲寺」👈をクリック願います紅葉にはまだ早かった史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松 大友皇子の墓まで、3分前回は、草が生い茂りここで引返した入口に車を駐車して緩い坂を上る二百メートル程で前方に石碑「 (伝)大友皇子之陵」伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」 旧所在地 旧所在地 日向字渕ノ上1800番地のロ 塔 高 149cm(相輪除く) 指 定 日 平成十七年四月二十六日この場所は壬申の乱(672年)で破れた大友皇子の墓所との伝承があり、通称「大友皇子の墓」と呼ばれています。かつては、鎌倉時代末から南北朝時代の初め(十四世紀前半)に造られたものと考えられる五層塔が置かれていましたが、貴重な層塔を適正に管理するために、本体は令和二年に石雲寺境内に移設し、当地にはレプリカを設置しました。 令和三年三月坂道を登ると、竹の柵に囲まれた墓地石碑には、「(伝)大友皇子陵」この塔は後の弘文天皇である大友皇子の陵と伝えられる。皇国地誌日向村には「相伝往古兵乱ノ際親王此地ニ行幸シ行宮ヲ建築シテ御座シマス、終ニ行宮ニ崩シ賜フ、ヨッテ此地ニ埋〇シ奉ル。」とある。大友皇子は天智天皇を父とし、歳若くして太政大臣となるが、天智帝崩御の天智十一年(672年)後の皇位継承を巡って叔父大海人皇子と争い敗れ自害したという。これが壬申の乱である。しかし当地の伝説によると百済の若者を身代わりに自害したと偽り、僅かの従者を率いて近江国山崎を逃れ、この地に隠れ住み、淋しい生涯を閉じたとされている。当初、墓所には遺言にしたがって皇子が生前に愛された松が植えられたのみであったという。後に諸国行脚の僧、華厳法師が紫雲に導かれるまま日向の地に分け入り、皇子を開基として養老二年(718)〇寺を建立した。この寺が医王山雨降院石雲寺である。その後、鎌倉時代に里人が五層の石塔を皇子の墓として、その他の五輪塔を従者の墓として建立したと伝えられる。現在 雨降山石雲寺の貴い寺領として〇人の参詣が絶えない。 平成八年十月吉日 石雲寺二十八世 清水○○ 贈 (有)秋山○○最近整備されたのか柵だけが綺麗にレプリカの五層塔苔むした塔廻りにはサザンカが咲く陵墓の廻りは草に覆われている11:51日向薬師所在地:神奈川県伊勢原市日向1644昨年の11月22日(日)にも訪れておりその時のブログは「紅葉を求めて」👈をクリック願います。日向薬師の裏側にある日向山駐車場(無料)へ駐車して境内へ道案内バスのりば【日向薬師終点】 750m 参道を登ってくるルートがあり、仁王門から本堂まで、木立がうっそうと茂っている日本遺産のまち伊勢原 日本遺産の構成文化財 ~ 日向薬師・宝城坊の主な文化財~《信仰の地「大山」の生い立ち》大山への信仰は古く、奈良時代には、霊山寺(現・宝城坊。通称・日向薬師)、石雲寺、大山寺が開かれ、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記される阿夫利神社や比々多神社、高部屋神社の成立などにより、信仰の地としての姿が整えられていった。伊勢原市指定重要文化財 史跡 宝城坊境内 指定日 昭和四十八年三月二十三日【 主な文化財 】 本 堂・・・国指定重要文化財 銅 鐘・・・国指定重要文化財 仏 像・・・宝殿内には、国指定重要文化財で平安時代の薬師如来及び両脇侍像、 二本杉・・・県指定天然記念物 大太鼓・・・県指定重要文化財 寺 林・・・県指定天然記念物 仁王門から本堂の裏まで、木立がうっそうと茂っています。 平成十八年三月 伊勢原市教育委員会境内の奥に、「宝城坊の二本杉」が聳える県指定天然記念物「宝城坊の二本杉」足利基氏が幡をかけ、平和と幸せ・五穀の豊かな実りを祈った「幡かけの杉」として親しまれている。昭和59年12月には「宝城坊の幡かけの杉」として「かながわの名木100選」に選定されている。 樹高:33、35メートル 胸高周囲:6.3、7.8メートル 樹齢約800年(推定)新旧の塔と地蔵が建つ観音像、地蔵像群子育地蔵菩薩子育地蔵菩薩地蔵菩薩は万物を育成する徳を有しておられる。 奉納 有限会社 秋山安太郎石材 秋山安太郎 秋山光雄 秋山良次 秋山ツネ 秋山英子 秋山竜子右三夫婦を一家に向かえることができた幸せは世間多くの人の中には少ない この幸せを地蔵菩に謝し広く世の方々の繁栄を願い この聖地に子育地蔵菩薩を祀るあまたのご参詣の方々には地蔵菩薩の功徳を納受せられんことを願うものである 昭和五十七年十二月八日 当山主 敬白境内の隅に「かながわの景勝50選 日向薬師」国指定重要文化財「宝城坊本堂」 平成7年12月26日指定宝城坊は旧霊山寺の別当坊で、この本堂は霊山寺の本堂を引き継いだものである。霊山寺は、霊亀2年(716)の創建と伝えられる真言宗の古刹で『吾妻鏡』の健久5年(1194)源頼朝参詣の記事には「是行基菩薩建立、薬師如来霊場也」とあり、早くから崇敬を集めてきた様子が窺える。南北朝時代の暦応3年(1340)の銅鐘銘によると、この時に十二神将を勧請していること、また、康暦2年(1380)には遠江国・三河国二か国の棟別をもって修造すべき綸旨が下されているので、この頃に本格的な本堂の造営があったと考えられる。その後、江戸時代には万治3年(1660)に幕府から丹沢の立木百本の寄進を得て修造が行われており、現本堂はこの時の再建と考えられている。柱や繋梁などの一部には前の本堂の古材が再利用されている。本堂は寄棟造、茅葺の七間堂で南面している。内部は前方二間を土間床の外陣、後方三間を板敷の内陣で、内外陣境の中央五間は中敷居に引違格子戸を構えている。天井は内外陣とも側廻りの一間通りを化粧屋根裏、内側は竿縁天井となっている。この本堂は、数次にわたる改変を経て現在の姿となったもので、簡素ながら古材を再利用して中世的な趣を伝える広大な内陣と、近世的な華やかな外陣の架構に見るべきものがあり貴重である。 平成九年一月 伊勢原市教育委員会手水舎、宝城坊本堂宝城坊本堂宝城坊の鐘堂鐘堂の脇にも一鐘伊勢原市指定文化財「宝城坊の鐘堂 一宇」宝城坊の境内の東側に建つ本鐘堂は、柱間が3.916メートル四方で、屋根は茅葺です。国指定重要文化財の暦応3年(1340)の銘文を持つ銅鐘を吊るしています。最初の鐘堂(楼)は銅鐘の銘文から、鐘とともに平安時代に建てられたと考えられます。現在の鐘堂は、昭和54年の改修時に宝暦13年(1763)銘の棟札が発見されたことから、建造はその頃と考えられます。また、平成24年には、茅葺き屋根の全面的な葺き直し、地覆の損傷部分を取り替える修復工事が行われました。通常、鐘堂は四本の柱で建てられていますが、宝城坊の鐘堂は一隅に三本を使い、四隅合わせて12本の柱で建てられています。12本の柱は、薬師如来を守護し十二の刻を守るとされる十二神将をあらわすと言われています。 平成二九年三月 伊勢原市教育委員会紅葉を期待してきたが早かったようだ弘法大師像宝城坊本堂 平成の大修理宝城坊本堂は、県内唯一の七間堂(正面の柱間が七つ)、茅葺きの大規模な本堂として、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の建立以来、本格的な修理をせず維持されてきましたが、主要な柱の虫害や屋根の軒の歪みなどの老朽化が進んでいたことがわかり、平成22年から足掛け7年をかけて、大規模な改修工事を実施しました。工事は、本堂に仮設の屋根を掛け、作業場所を確保することから始まりました。 1、茅葺き屋根の解体 2、建物の解体:解体は、全ての部材に元の位置を記録した上で、屋根の上部(小屋組)から 3、解体修理 :釘は使用されていません。礎石は地面に大きな石を据え、柱はその上に・・・ 4、部材の補修:解体した部材は、再び使用するために補修を行います。 5、組立の開始:組立に際しては、延享2年の姿に復元しました。 6、完成 :茅は御殿場と阿蘇から運び、総重量は50tとされている。事業名 重要文化財宝城坊本堂保存修理工事工事期間 平成22年11月 ~ 平成28年11月総事業費 8億6990万円建築年代 万治3 (1660) 年改修年代 延享2 (1745) 年設計監理 公財)文化財建造物保存技術協会施行 田中社寺株式会社1、茅葺き屋根の解体 茅葺き屋根は30年ほどで葺き直し、その間も部分的に茅を追加(差茅)するなどの手入れ を行いますが、解体前の屋根はかなり傷みが進んでいました。度重なる差茅により屋根が 部分的に厚くなって不均等に重みがかかり、また、背面には草木が生え、屋根が土と化し ている状況でした。茅降ろしは、京都・美山の茅葺き職人によって、土ぼこりが立つ中、 行われました日向薬師裏の駐車場へ12:13駐車場脇にあった道標県道603号線(上粕屋厚木線)を下りこの先の西富岡交差点を右折、相模原大磯線(県道63号線)へ右上の高架橋は新東名高速道路寿雀 直売所相模原大磯線(県道63号線)いつもは車が列を成しているのだが、今日は空いているようだ12:18右側の建物は、「伊勢原市立子ども科学館」所在地:神奈川県伊勢原市田中76市役所に隣接する敷地にある科学館です。夏休みなどは子どもに大人気のスポットですが、工夫を凝らした展示は大人でも充分楽しめます。プラネタリウム(別料金)や実験教室などのソフトも充実、さらに、図書館も併設で丸々1日楽しめる施設です。 利用料金:大人 300円、子ども 100円、プラネタリウム別料金:大人500円、子ども200円 ー 続く ー
2021.12.06
コメント(0)
水汲み場から林道日向線を下り、浄発願寺奥ノ院跡へ。11月10日(水) 10:52浄発願寺奥ノ院(じょうほつがんじおくのいん)所在地:神奈川県伊勢原市日向日向薬師行きバスの終点から日向川の谷を坂を登ること1.8キロメートル、奥ノ院の入口に着く。道路脇の駐車場に車を止め奥ノ院へ木食僧の寺として有名な浄発願寺は、尾張出身の弾誓(たんせい、慶長18年・1613入寂)を第1世とするが、秋田の大名佐竹氏出身の4世の空誉(くうよ)により、天和3年(1683)に建立された浄発願寺奥の院無常山浄発願寺は慶長13年(1608)、弾誓上人開山の天台宗弾誓派総本山である。上野寛永寺の学頭寺凌雲院の末寺として、江戸時代に繁栄し4世空誉上人の時代が全盛期だった。「男の駆け込み寺」で知られ、放火・殺人以外の罪人は駆け込めば助かった。また、木食行(穀物を避け、木の実・草の実などを火を通さないで食べる)の戒律を大正初期まで守り続けた。さらに、雨乞い・安産信仰等でも知られ、10月の「お十夜法要」は、鎌倉市の光明寺、平塚市の海宝寺とともに相模の三大十夜に数えられ、昭和初期まで盛大であった。信者には、公家の広幡家や、徳川本家、尾張徳川家、藤堂、佐竹、大久保、黒田、有馬、織田氏等があり、境内は165,600坪もあった。寺宝としては、市重要文化財の縁起絵巻三巻や、雨乞軸、唐金の子安地蔵、出山の釈迦像など、数多くの像がある。昭和13年(1938)の山津波で、この地にあった浄発願寺は、諸堂宇が潰滅し、当地に復旧困難なため、昭和17年(1942)に約1km下の地に再建し、以後この地は浄発願寺奥の院と称し、市指定史跡にもなっている。この地には、弾誓上人が修行した岩屋や、罪人53人に一段ずつ築かせた石段(平成3年/1991/3月再建)等があり、参道には、浮世絵師歌川国経の供養塔(現在は浄発願寺に移してある)や極楽浄土に往生できるよう祈願した「南無阿弥陀佛」の名号碑などがある。 伊勢原市指定文化財(史跡)日向川に架かる橋を渡ると、閻魔堂(えんまどう)跡閻魔堂(えんまどう)跡地獄の王閻魔を安置したお堂があったが、大正12年(1923)の関東大震災後の山津波で流出した宝篋印塔(ほうきょういんとう)宝篋印塔は、元禄5年(1692)に名古屋城主徳川綱誠(つななり)の正室・瑩珠院(けいしゅいん)殿を弔うため建立された。大正12年(1923)の山津波で流出したが、昭和5年(1930)に再建された宝篋印塔の右手に参道入り口ここから上るのだが案内板がなく、迷うが一人で登ることに 右側に六地蔵? 地蔵に本来の頭部がないので、少々異様な雰囲気がある。浄発願寺は麓に移設されているので、赤い帽子がないのが寂しい山門前左側には、卵を立てたような住職たちの墓である無縫塔が並んでいるが、第22世(中興18世)速阿の墓の台座には三猿が彫られ庚申塔でもあると山門跡の参道入り口山門跡南岳悦山筆の「無常山」の山号額がかけてあった浄発願寺の山門跡参道脇に石碑、「三萬○○○」とあるが沢に沿った参道を進む石垣らしきものがあるが何も説明板がなくぽつんとひとつだけ立っていた所々に石仏、供養塔等が置かれた参道を進む正面から、玉石を載せているのか旧浄発願寺は、大正12年(1923)の関東大震災後の山津波、昭和13年(1938)の山津波で、この地にあった浄発願寺は諸堂宇が潰滅したとのことで、発掘すればまだいろんな遺跡が出るのでは破損した石仏左の石碑には、「○○○二万三千日回向?」と山津波で破損した石仏字が刻まれているが、破損、風化で確認できず裏にまわりこみ独り独占の参道を上る。沢には、砂防堰堤が造られている参道に無造作に石仏、供養塔等が置かれている。途中にはいくつかの供養塔などがあるが、まだまだ右手の沢に埋まっているようだと本堂が近いのか、前方に階段が見える。目的地までの案内がないので左側の斜面も急峻である本堂下にある、「五十三段の石段」閻魔堂から200メートルほどで本堂下に着きます五十三段の石段四世空誉上人の代に駆け込んだ53人の罪人が一段ずつ築いた本堂へ登る石段は53段あり、空誉が幕府から罪人53人をもらい受けて一人に一段ずつ築かせたものといい、これ以降、放火と殺人を犯したもの以外は、ここに駆け込めば助けられたという五十三段の石段下に並ぶ石仏、供養塔群石仏、供養塔群をズームアップするが読めず五十三段の石段を登ると正面に、本堂跡。左側の塔には「施主 小川太良右エ門」と刻まれていた本堂跡文化7年(1810)22世速阿上人により再建された。間口7間(約12.73m)、奥行12間(約21.81m)の本堂があった荒れ果てた本堂跡本堂跡は東西の沢の合流部の平坦地にある。明治15年頃の見取り図では、向かって左から本堂・茶の間・居間・庫裡と建物が連なっていた。東西の沢には岩盤を切り開き、沢水を流す工夫がされている本堂跡を西側から堂宇跡 昭和13年(1938)秋の山津波で倒壊するまで浄発願寺の本堂・庫裡などはここにあった。本堂は貞享2年(1685)秋田城主佐竹氏出身の4世空誉(くうよ)上人の時代に完成したが、寛政7年(1795)の火災で焼失した。その後、文化元年(1804)22世速阿(そくあ)上人に再建され、間口は7間(約12.73m)、奥行12間(約21.81m)で、廊下・居間・庫裡等を合わせて約230坪あり、三方は自然の岩を掘り割って排水溝とし、非常の時は貯水槽となった。 周囲の山は原生林だったが、明治末の官林払い下げで伐採された。なお、山の境界には70余の塚があった。三日三晩のお十夜法要には、本堂・庫裡等が信者であふれ、相模の三大十夜と称された。本堂にあった浄発願寺の寺号額は、徳川家康の師寒松(かんしょう)の筆によるもので、現在は約1km下の本堂に掲げてある。 伊勢原市堂宇配置図① 本堂、② 廊下、③ 居間、④ 庫裡、⑤ 水路左側の斜面に立つ、石仏、供養塔群木橋を渡りこの坂を100メートルあまり登ると、弾誓が修行したという岩屋がある。今日はここで引返すことにここから二枚の写真はネットから借用。岩 屋丘陵壁面が広い範囲で削平されており、ここだけホント鎌倉のようだと。壁面上部には自然に出来たものなのか、加工したものなのかよくわかりませんが、上から水が流れてくるような窪みが確認でき、岩屋の左右には数多くの無縫塔が立ち並んでいるとまた、玄室内部には石塔が置かれていて、弾誓上人の石像仏を中心に左側に卵塔(僧侶の墓)、右側には武家の石塔が並んでおり、瑩珠院や佐竹氏・藤堂氏といった大名の女性の墓石や仏像・仏塔がある。箱根・塔之沢にある阿弥陀寺にも弾誓修行の岩屋があり、また弾誓は京都・古知谷の阿弥陀寺にある岩屋に眠っていますと本堂跡から参道を見下ろす本堂から下り参道を下る最近は整備されていないのか、参道に石仏、供養塔が転がる振り返る沢の砂防堰堤は満杯に誰も訪れない坂を下る閻魔堂跡へ橋を渡ると下流側に、「亮台(天阿)上人の念仏石」(りょうだい・てんあ)11:26第12世亮台(天阿)上人が念仏修行をされた石。そばに欅の大木があり、樹下石上の念仏といわれた。「延享元(1744)甲天七月 此石居□亮台上人代」と彫られている ー 続く ー
2021.12.05
コメント(0)
今日はいつも行く飲み屋のママさんから「鶏糞が欲しい」との依頼で、購入するためにガソリンが高騰する中、車で伊勢原へ出かけた。また、日向薬師が近いので足を延ばしたブログです。11月10日(木) 9:33相模川越しに見える富士山山頂は雪をかぶり途中、伊勢原藤沢線(県道44号線)の平塚と伊勢原の市境近くの畑から富士山を望む今年の稲作の出来具合はどうであったか?手前の道路は小田原厚木道路コロナの感染も落ち着き箱根・伊豆方面への観光客も増えるのであろうかこの辺りは開発調整区域になっているのか田園風景が広がる10:13今日の目的地である、「寿雀 直売所」へ相模原大磯線(県道63号線)から、いつもは車が並んでいるのだが今日はスムーズに駐車場へ駐車場に入る所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋47鶏糞置き場に袋がないので店員の方に聞くと「最近は販売していない」と。何故とは聞かなかったが、一袋(20数キロ)で100円と安かったのだが。寿雀卵を購入、卵かけごはんが最高!日向薬師が近いので足を延ばすことに、相模原大磯線(県道63号線)を北上。この西富岡交差点を左折して県道603号線(上粕屋厚木線)へ日向薬師方面へ緩い坂道を上る左折すると新東名の「伊勢原大山料金所」。名古屋方面はまだ未開通であるがいつ開通するのか、2021年開通の予定であったが日向薬師入口交差点を直進前方には大山10:27日向薬師バス停前を通り過ぎ、浄発願寺へ← 石雲寺 0.6km 日向薬師 1.6km →里山の風景を振り返るのどかな風景である浄発願寺の三重塔を見上げる浄発願寺(じょうほつがんじ)所在地:神奈川県伊勢原市日向1816既に参拝しているので今日はスルーして上流へ。前回のブログは「浄発願寺・石雲寺」👈をクリック願います塔をズームアップ日向川の上流川沿いの桜の紅葉を期待したが既に葉は散り日向川のせせらぎ天台宗 浄発願寺浄発願寺は慶長13年(1608)、尾張国出身で木食遊行の開祖と呼ばれた弾誓(たんせい)によって開かれた寺。四世の空誉(くうよ)が発展させ、天和3年(1683)に浄発願寺を建立した。本尊は、約2mの阿弥陀如来坐像。天台宗弾誓派総本山。もとは、山の奥にあったが、昭和13年(1938)の台風の被害により現在地に移転した。この後立ち寄ることに三重塔の中を望むがボケました紅葉と三重塔のコラボが良かったのだが残念背景の山も紅葉が始まる川の流れをシャッタースピードをかえてシャッタースピードを遅くしNDフィルターを付けるとまた違うのだが10:42浄発願寺から日向川に沿って林道日向線を登り、途中に大山登山者用の駐車場があったが。二百メートル程登り通行禁止道路脇には、コロナ感染で三密を避けるようにと看板沢からパイプがあり「この水を利用する場合は沸騰してください」と 伊勢原市・伊勢原市観光協会車にペットボトルを積んでいたので、珈琲用に10リットル頂く10:50登山道入り口水を戴き、林道日向線を下り、登山道入り口石碑には、「櫻栽植記念」関東ふれあいの道 1.9km 日向薬師登山者用に 日向薬師バス停へ 35分 日向薬師へ 50分 ヤマヒルに御注意ください日向(ひなた)の文化財めぐり① 日向薬師(宝城坊)、② 石雲寺、③ (伝)大友皇子の墓、④ 浄発願寺奥ノ院、⑤ 日陰道、⑦ 勝五郎地蔵この後、浄発願寺奥ノ院、(伝)大友皇子の墓、日向薬師(宝城坊)へ行く ー 続く ー
2021.12.04
コメント(0)
久しぶりの弘法山公園から下り帰路につく。10月28日(木) 15:58県道62号線(平塚秦野線)を平塚方面へ走り土屋橋交差点。水無川は室川橋辺りで金目川に合流、金目川は県道62号線に沿って流れ河口近くで花水川となって相模湾へと流れる県道62号線(平塚秦野線)の、平塚東インター入口交差点を左折、県道63号線(相模原大磯線)へ右方向は有料道路小田原厚木道路の平塚料金所途中道路脇に駐車して富士山を望む県道63号線(相模原大磯線)は小田原厚木道路沿いを厚木方面へと走る。道路脇にある、以前取引を行った近藤鋼材の看板。以前は違う社名であったが・・・・・小田原厚木道路(国道271号)の両側を、県道63号線(相模原大磯線)が走るが信号が少ないのでスピード違反には注意が必要平塚市から伊勢原市に入り再度平塚市に入る。カーナビはこの先を右折指示県道44号線(伊勢原藤沢線)の下谷交差点を右折。県道605号線(下糟屋平塚線)を直進すると伊勢原市に下谷交差点に立つ地蔵、地蔵の台座には「祈交通安全」と。次回はこの交差点は愛車のリンちゃんで、大山街道を進む予定帰宅途中、陽の入り近くになり夕焼けを期待して最近知った「富士見の丘」へ立ち寄ることにハンドルを切る。16:43藤沢の「富士見の丘」所在地:神奈川県藤沢市打戻2668陽の入りにギリギリ間に合う、先着の人が数人待機して撮影陽が沈む金時山をズームアップ右側に矢倉岳もクッキリと16:44富士山の麓に雲が広がる手前にはざる菊が咲いていたが暗くなり陽が沈んだ時間を楽しむ標高1212メートルの金時山をズームアップ16:47茜色に染まる金時山16:56富士山をズームアップ17:00陽の入り後約20分が経つ撮影中の人から「今の時期山中湖辺りからはダイヤモンド富士」と言われたがいつかダイヤモンド富士を撮影したいが17:0817:15住宅街に灯が灯るビルがないので変化がないが17:19カメラを丹沢方向へ向け17:20この日は三脚を忘れ手振れになりましたこの日は車での移動であったが、県立秦野戸川公園を歩き回ったので歩行数は約9,000歩であった。 END
2021.11.24
コメント(0)
弘法山公園の権現山には、数年前に鳥撮りで妻と何回か訪れた。浅間山(せんげんやま)、権現山(ごんげんやま)、弘法山(こうぼうやま)の3つの山一帯を弘法山公園と呼び、県立自然公園にも指定されています。10月28日(木) 14:50標高243mの頂上に立つ展望台弘法山公園は、春には園内にある1400本以上の桜が咲き誇り、桜の名所としても有名で、平成6年度(1994)には「かながわの花の名所100選」に選ばれています。他にも夏のアジサイ、ヤマユリ、秋の紅葉など、四季折々の美しさがあり、ハイキングや散策に最適である。この日も数人のグループが弁当持ちで訪れていた。広場に建つ塔は「平和塔」公園内には権現山山頂に野鳥の観察施設であるバードサンクチュアリがあり、今回は訪れなかったが弘法山の山頂には鐘つき堂、乳の井戸、大師堂などがある。関東ふれあいの道関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、一都六県を巡る自然歩道です。沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里をみなおしてみませんか。弘法大師と桜のみち このみちは、県内17コースのうちの9番目です。 ここから南平橋バス停へは展望台横の階段を下り集落内の道を進みます。 ここから坪ノ内バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進んでさらに弘法山へ登ります。一度 国道246号へ出て新善波隧道をくぐり旧矢倉沢街道を通って吾妻山へ登ります。下り坂を進 んで鶴巻温泉駅方面との分岐を左に曲がり、集落を経て終点坪ノ内バス停に至ります。弘法大師と丹沢へのみち このみちは、県内17コースのうちの15番目です。 ここから蓑毛バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進み、駐車場にでたら市道を下ります。 途中消防団車庫を左折し国道246号名古木交差点に出ます。県道秦野清川線に入って少し先 を左に入り、さらに集落や田園の中を歩いて再び県道秦野清川線に戻ると小蓑毛バス停です。 小蓑毛バス停から県道を1.4km上ると終点蓑毛バス停に至ります。権現山の歴史通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。最近の城郭調査によると山頂の西北端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が取り巻き大小十四箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて西(秦野方面)に対する備えを目的としているようです。築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。この山頂では毎年八月十四日、十五日両日の弘法山の百八松明として親しまれている民俗行事の採火が行われる。当日の夕方になると東麓の瓜生野部落の人々が二メートル前後の麦藁を束ねた松明を担ぎ登ってくる。午後七時過ぎ、辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦藁に点火する。そして銘々がその火から自分の松明に点火し、年少者から順次麓に向って下山する。麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがある。前田夕暮 解説本名洋造。明治十六年七月二十七日神奈川県大住郡大根村大字南矢名小南(現秦野市南矢名)に生まれる。大根村小学校入学、同校高等科を卒業し、明治三十一年隣村の金目村にあった「中郡共立学校」(現神奈川県立秦野高等学校)に入学。病のため中退。二十二歳(明治三十七年)若山牧水と相前後して、尾上柴舟の門を叩く。・・・中略・・・昭和二十五年十月、県立秦野高校創立二十五周年(草創から八十年)の記念事業の一つとして、国語教諭で歌人である杉山茂夫(長風)が、郷土の一大歌人、夕暮を永く語り継ぐべく、歌碑の建立を生徒集会で訴える。秦野市観光協会の建設費支援と、延べ百五十余名に及ふ在校生・教職員・有志による、台石・礎石とりや、山頂への運搬などの労力奉仕によって、夕暮のふる里ゆかりの弘法山、菜の花畑と秦野市内を見降ろす権現山山頂の富士に真向かう、この地に建立された。自由律短歌による三歌碑に続き、郷里母校の在校生の手によって建立された、史上希有なる定型短歌を刻んだ第四歌碑である。因みに、夕暮は歌碑の完成を待たず、昭和二十六年四月二十日六十九歳で永眠。枕辺のノートには、「ふるさとの高校生 夕暮の歌碑」と書き記して筆を絶つ。同年七月二十九日 除幕。ここに夕暮及び 歌碑建立の経緯をも記し、永く顕彰する。 「生くることかなしとおもふ山峡ははだら雪ふり月照りにけり」 神奈川県立秦野高等学校同窓会 秦野市 観光協会展望台今朝秦野へ来るとき富士が綺麗に見えていたので期待するが定 礎弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等伝統行事の舞台にもなっています。眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催により「神奈川県新八景」に当選したことを記念して建てられた見晴台があります。建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。 2001年(平成13年)1月1日 秦野市長 二宮忠夫この方向に富士山が見えるのだが、残念ながら気温が上がり霞んで見える角膜移植に関する碑と少女像裏面に、あなたのランプの光を もう少し高くかゝげて下さい見えない人々の 行く手を照らすために ヘレン・ケラー少女像の台座の裏側に刻まれた、角膜移植記念像平成10年3月29日「愛の光」揮毫 秦野市長 二宮忠夫 彫刻・副碑 制作 彫刻家 土屋〇健展望台の下から、相模湾、平塚市街地、江の島。手前のビルは東海大学平塚市街地、江の島をズームアップ展望台の上に上ることに廻階段を上り展望台には各方向の写真が掲げられていた。権現山展望台から南西(箱根方面)富士山は頂上がかすかに見えていたズームアップ秦野市街地右方向から中央部に水無川が流れる。中央左には小田急線が小田原方面から下ってくる小田急線をズームアップ左に金時山(1212m)、右に矢倉岳(870m)権現山展望台から西(西丹沢方面)西方向をズームアップ新東名高速道路の白く伸びる高架橋が見える南方向の遠くに大磯丘陵地、相模湾手前は東名高速道路の高架橋小田急線を見下ろす展望台から東方向赤い実がついているが遠く、横浜ランドマークタワーがかすかに見える。冬場には気温も下がりよく見えるのだが権現山展望台から西北北方向には大山。手前は権現山の広場、廻りにはサクラの木展望台から下り、「かながわの探鳥地50選・権現山公園」 この付近で見られる主な野鳥メジロ、シジュウカラ、コジュウケイ、コゲラ、エナガ、イカル、エゾビタキ、ホオジロ、アオジ、キジバト権現山展望台の北側に、バードサンクチュアリ、公衆トイレがある広場から少し下ると、バードサンクチュアリこの時期でも数人の人が待機していた権現山で見られる野鳥これからはいろんな野鳥が訪れる!1月 ~ 3月4月 ~ 8月9月 ~ 10月11月 ~ 12月 ルリビタキ(♂ ♀)、シロハラ、アカハラ、アカゲラ、アオゲラ、ビンズイ、エナガ、 ジョウビタキ(♂ ♀)、イカル、モズ野鳥のための水飲み場しばし待機するが飛来せず野鳥が水浴びをするバードサンクチュアリから広場を見上げる権現山展望台ここからの夜景も良さそうだが、帰ることに時季外れのツツジの開花カラス瓜が色づいていたこちらは食用のウリかながわの景勝50選「弘法山」第一駐車場に戻り15:34弘法山公園 第1駐車場前にある「ジンギスカン レストランの木里館」所在地:神奈川県秦野市曽屋5896-2席は店内とテラス席がありリーズナブルな価格で美味しいとカーナビを自宅にセットして帰路につく。 — 続く ー
2021.11.23
コメント(0)
県立秦野戸川公園から坂を下り、途中道路脇の寺社に立ち寄る。まだ時間が早いので、以前鳥撮りで訪れた弘法山公園へ行くことにし国道246号を戻る。10月28日(木) 13:36国道246号を走っていて、とんかつ「かつ庵」の看板を見つけ昼も過ぎていたので立ち寄ることに。スマホの案内で、この堀川入口交差点を左折13:38とんかつ「かつ庵 秦野平沢店」所在地:神奈川県秦野市平沢308-4店前の道路は、県立秦野戸川公園へ行く、「はだの桜みち」はだの桜みちは、県道62号「西大竹」交差点から県道706号「新橋」交差点まで約6.2kmに約540本のソメイヨシノが咲く。この桜並木は神奈川県で一番の奈川を誇り、美しい桜のアーチが人々の目を楽しませてくれる店内への入店は、消毒、マスク装着入店しても、店員は来ずオーダーはタブレットからとんかつ定食をオーダー14:09いつも、「かつや」を訪れているが値段は少し高いはだの桜みちから国道246号へ国道246号を東へ進む、道路脇に、「全国名水百選の地 秦野市」の看板14:27国道246号の「名古木宮前交差点を右折」して弘法山公園へ。弘法山公園 第1駐車場所在地:神奈川県秦野市曽屋ここの駐車場に車を止め、歩いて弘法山公園の権現山展望台へ向かうことに第1駐車場から北西方向を望む新東名高速道路の高架橋が見える登山道に建つ道案内関東ふれあいの道 「 ← 蓑毛」、「弘法山・権現山 → 」権現山への遊歩道から、めんようの里、第1駐車場を見下ろすここまで歩いてきたが、ここにも数台車が駐車していた弘法山公園現在地は、東に弘法山、西に権現山。弘法大師がこの山で修行をしたという故事から来ている弘法山公園。浅間山、権現山、弘法山の3つの連続した尾根山一帯が神奈川県立自然公園にも指定されています。富士山・相模湾の眺望にすぐれ、きれいに整備されたハイキングコースになっています。しかし、この山でもクマが出没、ヤマビルに注意の看板が目立つ。「弘法の里湯」「富士見の湯」などの温泉もある同場所から、左は、第1駐車場ヘ下る、右は、弘法山へ石碑には、「かながわの景勝50選 弘法山」この辺りは、ヤマユリが咲くようで看板には、「ヤマユリ採取厳禁!」 ヤマユリは神奈川県自然公園条例により許可なく採取してはならない植物です。 秦野市 観光課顕彰碑顕彰碑の先に石柱石柱には、「弘法の乳の水、左へ五〇米」。昔お乳が出るよう願いを込めて、この弘法山山頂まで井戸の水を汲みにきたとこの顕彰碑は、秦野出身の南画家「大津雲山」(1885~1971)の画業を後世に伝えるため、1970年(昭和45)に地元の有志の手により建立されました。南画とは、中国の南宋画を祖に、江戸期以降発展した日本独自の文人画であります。明治、大正、昭和にわたり、「山水」「花鳥」「道釈人物画」など多岐にわたるジャンルの作品を発表し続けた雲山は、中央画壇で研鑽を重ね、帝展にも入選を重ねました。雲山の出生から修業時代、大正天皇御前揮毫、帝展出品、中国外遊など、故人の足跡をたどる本碑文は、市域を一望できるこの景勝地に、生誕地の東田原に面し建てられています。西に向かう、馬場道(ばばみち)昔、草競馬を楽しんだという真っすぐな馬場道馬場道に立つ、「百八松明」百八松明(ひゃくはつたい)秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。旧盆の八月十四日の夕刻、麦わらで作った直径30~40センチメートル、長さ1.0~2.5メートルのたいまつ約70本を権現山に運び午後七時過ぎに点火、参加者がかついで麓の龍法寺の山門付近までおろします。暗い山の斜面をえんえんと動くたいまつは火の帯となってたいへん壮観です。 昭和六〇年二月 秦野市観光協会坂を下ると、麓の龍法寺の山門、東海大学前駅馬場道の北側に「女坂(おんなざか)」このモニュメントは?台座に、「森に生きる」とふくろうに、こども?馬場道にある公衆トイレ、使用料は、一人50円と男坂(おとこざか)下ると、秦野駅 2.5km、名水はだの富士見の湯、権現山まで、0.3km、戻ると弘法山、0.5km馬場道から相模湾、平塚市街地を望む遠く平塚市街地、左奥に江の島、下を東名高速道路が走る弘法山公園には約2,000本の桜があり、満開になると山頂付近が、ふんわりと桜色に染まる石碑には、「秦野とたばこの歴史」が刻まれている「秦野たばこ」の一生たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどになりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野からたばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の農家があったことを付記します。 平成8年3月吉日 昭和59年度 廃作者一同1 ~ 3月 (苗床期)4 ~ 6月 (本畑期)7 ~ 8月 (収穫、乾燥期)9 ~ 10月 (葉のし、調理)11 ~ 12月 (葉たばこの納付)14:45馬場道を西へ向かい、ここから階段、スロープを登り権現山へ石柱には、「関東ふれあいの道」スロープを登り振り返る。両側にサクラが植えられており開花時はトンネルに休憩用のテーブルも設置14:50権現山に登り振り返る権現山展望台 — 続く ー
2021.11.22
コメント(0)
曹洞宗蔵林寺から更に坂道を下り、戸川公園へ行くとき見かけた堀之郷正八幡宮へ立ち寄る。10月28日(木) 12:58堀之郷正八幡宮(ほりのごうしょうはちまんぐう)所在地:神奈川県秦野市堀山下988境内の狭い駐車場に止め神社前の丹沢公園松原町線(県道706号線)から振り返る堀之郷正八幡宮御祭神 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) (応神天皇) 息長足姫命 ( おきなたらしひめのみこと ) (神功皇后) 高良玉多礼命 ( こうらたまだれのみめい ) (竹内宿弥)由 緒 天安二年(西暦858年)九州宇佐八幡宮から分霊を勧請してこの地に祀り当初は金光山正八 幡宮と号し武門では立身出世・氏族繁栄・行路安全・災難消除の神様として、他に民間では 安産・子育ての神様として信仰された。何れも御祭神の歴史的事蹟によるものである。 天正年間には小田原北條氏が堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)の神官として 祭禮奉串の儀を行ない、その後徳川氏の時代には社領五石の朱印状を受けている。また堀山 下村の領主米倉氏からは守護神として手厚い保護を受けた。明治維新後は郷社に列せられ堀 四ヶ村の鎮守として崇敬護持とされ今日に至っている。特筆事項 例祭日 四月十八日(現在は前後の日曜日)神輿の渡御は白丁・烏帽子姿の氏子が奉仕す る古儀を今に伝える。社頭の用水路に架かる太鼓橋は県内では珍しい古い様式の 物と言われている。社頭に、「堀之郷正八幡宮」の石柱が建つこの用水路に架かる太鼓橋は県内では珍しい古い様式の物と言われている鋼製の鳥居の扁額は、「堀之郷正八幡宮」鳥居をくぐると右側に手水舎石段下左側に建つ「震災復舊記念」碑。碑の正面には、「震災復舊記念」の題字の下に、字名別に寄付金額と氏名が刻まれており、その数は全部で389名です。背面には、大正十五年二月吉祥日に続いて、社司、総代、大世話人、世話人、復興委員などの氏名が刻まれています。この復舊記念碑は表裏ともに氏名を中心としており、具体的な復旧内容は記載されていません。寄付者の属する字名や背面は社司・総代と続くことから考えて、氏子による堀之郷正八幡宮の復旧であると思われます。復旧碑には、字名として堀山下・堀川・堀西森戸・堀西波多川・堀西黒木欠畑等が刻まれています。明治22年の町村制に際し、堀西村・堀川村・堀山下村・千村・渋沢村が合併して西秦野村が生まれました。なお、その前の明治20年には堀斎藤村と堀沼代村が合併して堀西村になっています。復旧碑にある字名は、現在の堀山下・堀川・堀西に相当し、さらに細かい小字も含まれているようです。これらの字名には頭に「堀」が付き、いわゆる「堀之郷」の鎮守が堀之郷正八幡宮に当たります。堀之郷正八幡宮の案内板にある「堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)」とは、西秦野村が生まれる以前の堀山下村・堀斎藤村・堀川村・堀沼代村を指すものと思われます。階段を上り、石灯籠、狛犬、社殿神社前の丹沢公園松原町線(県道706号線)を見下ろす真新しい銅葺き屋根の社殿平成二十九年(2017)三月二十五日に竣工した社殿。新社殿の設計はサイトウアーキデザイン、改築工事は諸星建築が請け負った。諸星建築の諸星文男棟梁によると、社殿の彫刻や枡組は以前のものを使っており、塗り直しなどをして違和感なく仕上げたという。また、狛犬と賽銭箱も新たに氏子から奉納された拝殿の扁額「正八幡宮」左側からの社殿左奥に「金刀比羅神社」金刀比羅神社の扁額、「金刀比羅神社」金刀比羅神社前から、境内を見下ろす平成29年(2017)3月25日、拝殿で行われた竣工祭には関係者が参列。境内には地域住民らが詰めかけた。神事後、建設委員会の村上茂委員長は「この日を目標に熱い想いで取り組んでいただいた皆様に敬意と感謝を述べたい」と挨拶。村上宮司は「新しく生まれ変わった八幡宮をお守りしていきたい」と話した。氏子総代代表の北村瑞徳さんは「この八幡宮は昔から地域のよりどころ。これから200年先も、同じ気持ちで地域の人たちが集ってもらえたら嬉しい」と完成を喜んだと。(ネット情報)堀之郷正八幡宮改築記念碑当社は、平安時代に大分県の宇佐八幡宮から分霊を迎えたのが始まりと伝えられている。応神(おうじん)天皇・神功(じんぐう)皇后、武内宿禰(たけのうちすくね)の三柱をご祭神とし、堀之郷四ヶ村の鎮守として人々から親しまれてきた。同八幡宮の本殿は17世紀後期に、拝殿は1840年に建立されており、かつては茅葺き屋根だったという。1965年に本殿横にあったご神木の杉が雷に打たれ、伐採したご神木を売って茅葺き屋根から瓦屋根に改築。しかし土台は170年余り変わっておらず、老朽化が進んでいたという。平成20年(2008)から氏子や自治会を含め、改築に向けた話し合いが行われ、平成23年(2011)7月に建設委員会を設立。奉賛金8,000万円を目標に掲げて、64人の委員らが地元住民らに熱心な呼びかけを行ってきた。積立金などが一切ないなか、一から呼びかけを行い個人や企業など644人から目標を上回る8,430万1,000円の奉賛金が集まった。2015年12月には境内の假(かり)殿へ御遷座(ごせんざ)の神事が行われ、16年1月から改築工事を開始。5月の上棟式を経て、12月に本殿へ御遷座が行われ、今回の竣工式を迎えたと13:05社殿東側の駐車場から社務所堀之郷正八幡宮から坂を下り前方は国道246号。左側の石碑には、「御嶽神社」秦野市のマンホール蓋秦野市が1987年に採用したデザインです。 丹沢の美しい自然と澄んだ空気をいつまでも大切に守り、次代へと引き継ぎ快適な市民生活環境の保全を願い定めた市の花「なでしこ」を幾何学的に13箇所、そして中央に市章を配置したものを図案化しました。 この鉄蓋は汚水のマンホール蓋に使用されています。カラーも見てみたいが13:18御嶽神社(みたけじんじゃ)所在地:神奈川県秦野市堀西653道路から見上げると鳥居、車を道路脇に駐車して参拝することに石段を十数段上り鋼製の鳥居鳥居の扁額は、「御嶽神社」鳥居から参道の左側に、「この土地に 日本武尊 立ち寄りて 民は喜び後世に祀る」 昭和六十三年九月八日 石原移幹 書 秦野市自治会連合会 会長 谷 好文杉林の参道の先に社殿社殿をズームアップ参道左側に建つ、「聖徳神社」『神社誌』には境内社として「菅原神社」一社が記載されているが、その後「秦野西建築組合の方が太子講を開き」聖徳神社を勧請したとある(社頭掲示)。聖徳太子は宮大工の祖として木地師・木工建築業の人々に祀られる。多く「太子堂」として境内社にあるものと同じである境内社:天神社(菅原神社)菅原神社の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。御嶽神社の社殿御祭神 日本武命 ( やまとたけるのみこと ) 宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )御嶽神社御由緒創建年代は不詳であるが、大昔からの言い伝えによれば貞観九年(867)に蔵王権現として創建されたと言う説や、さらに室町時代当初の正平二十年(1365)頃創建されたと言う説もある。又、地頭須田家より永正年間(1504~1520)不闕(欠けることなく)「御供米」として玄米一斗宛上献があり、明治六年村社に列すと言う文書もある。又、江戸時代の寛文十一年(1671)宗旨門別帳が作成され、寺請檀家制度が完成し、神仏混淆思想が盛んになり当神社も月光山桂林寺の持ち分となり「蔵王宮」と呼称される様になり、明治元年神仏分離令が出されて、神道の国教化が進み廃仏毀釈の運動が高まり、仏教を排斥し、寺や仏像を壊す行動が高まり、明治六年より御嶽神社と改称されたようです。新編相模風土記・中郡勢誌等の記述によると蔵王宮(御嶽神社)は、堀四ヶ村の鎮守なり、ご神体は木像、例祭は八月八日となっている。然し、煙草耕作等の関係で例大祭は毎年四月四日と固定されてきたが、近年児童数の激減の為御神輿の渡御が休日で無いと困難になり四月四日以降の土曜日と変更された。堀四ヶ村とは、堀山下村・堀川村・堀斎藤村・堀沼城(沼代)村のことで、尚堀斎藤村と堀沼城村が明治二十年頃から堀西村となった。従って、例大祭には、堀山下の堀之郷正八幡宮の・堀川の八坂神社・森戸の神明神社・黒木の須賀神社・波多川の天津神社・学校前の浅間神社・新生町八幡神社の代表が昔の堀四ヶ村当時の氏子として現在も参列されている。その他に、千村の白山神社・神社境内にある聖徳神社の代表も参列される。◎御祭神 御嶽神社の御祭神は日本武尊で、「古事記」や「日本書紀」によれば景行天皇の皇子で天皇の 命令を受けて、九州の熊襲や、東国の蝦夷を征伐して、帰国の途中伊勢の国で亡くなられた。 昔から武勇の優れた神様で、又、愛情のある歌人としても崇められ、多くの人から信仰されて いる。※大森稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命で五穀豊穣の神様で元亀元年(1570年)「織田信長の頃」 大森式部吉正(大森宮司の先祖)が自宅に創建されておられたが明治末年に県庁の指示によっ て御嶽神社の合祀された。◎境内社※菅原神社(天神様)の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、 子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。※山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信 じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。※天社神 春秋の社日(春分、秋分に最も近い前後の戌の日)に農事を休んで地神講を開き農家 の方々が農作物の豊作や収穫の感謝をお祈りした。※聖徳神社の祭神は聖徳太子で秦野西建築組合の方が太子講を開き、毎年一月と七月の二十二日 に例大祭が執行され、工事の安全祈願をされます。 平成十五年(2003年)四月之建社殿の前に、狛犬、石灯籠が建つ拝殿の扁額、「御嶽神社」社殿の左側から境内社:石祠の「山神社」山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。13:24車を道路脇に駐車していたので、急いで参拝 — 続く ー
2021.11.21
コメント(0)
県立秦野戸川公園の散策を終え、丹沢公園松原町線(県道706号線)を下る。10月28日(木) 12:30戸川公園から丹沢公園松原町線を下り直ぐにある、曹洞宗蔵林寺の門前に「米倉丹後守一族の墓地」の標柱を見つける山門前に並ぶ、六地蔵蔵林寺の南側で、新東名高速道路の工事現場。秦野丹沢サービスエリアへの高架橋と、水無川橋秦野丹沢サービスエリアの工事現場、東京方面。左の高架を登り左奥に「秦野丹沢SA(上り)」、右奥に「秦野丹沢SA(下り)」本線の「水無川橋」、上り:70.5m、下り:70.5m。横断橋は、一般道であろうか秦野丹沢サービスエリアの完成予想図左が東京方面、右が静岡方面新東名高速道路に架かる「堀山下橋」から、静岡方面この辺りの車線は、4車線(暫定形)、設計速度120km/hいつの完成になるのか楽しみだが。パンフレットには2021年完成とあったが工期遅れ!新秦野インターチェンジ完成予想図将来は、圏央道の「圏央厚木IC」から新しい厚木秦野道路で接続される計画になっている曹洞宗蔵林寺(ぞうりんじ)所在地:神奈川県秦野市堀山下1153道路脇の白い標柱で興味津々立ち寄ってみる山門を入り参道を進むと右手に駐車場がある蔵林寺は享徳年間(1452~1455年)に開山された。その後、文明年間(1469~1487年)に現在地に移転した。江戸時代、当地は旗本米倉氏の所領となった。その米倉家当主の米倉昌尹によって中興され、菩提寺となった。昌尹は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の下で頭角を現し、ついに大名に昇格し六浦藩を立藩した。その六浦藩主米倉家一族の墓が境内墓地にある本堂右前に建つ、「慈悲恵観音」本堂左手前に、水子地蔵尊、一対の狛犬本堂の扁額、「蔵林寺」本堂左に建つ、水子地蔵尊本堂手前左に、十三重塔、赤いマスクを付けた導地蔵尊こちらは白いマスクを付けた「導地蔵尊」導地蔵尊をズームアップ米倉丹後守一族の墓地の案内※ 米倉丹後守(よねくらたんごのかみ) 米倉丹後守は名を昌尹(まさただ)といい、父昌純は徳川四代将軍家綱、五大将軍綱吉に仕え、 江戸城大番組頭として重きをなしました。昌尹は元禄3年、丹後守(今の京都府の北部)に任 じられ初めて大名に取り立てられました。 とくに将軍綱吉には信任厚く、国中の犬の取り 締りを命じられ一世を風靡しました。領地だった堀山下に先祖供養のため蔵林寺を建立、 ここに昌尹のほか、米倉一族の男女合わせて50余名の霊が眠っています。米倉丹後守一族の墓地は一段高い所にある米倉一族の男女合わせて50余名の霊が眠り、墓石が建っている。墓石の字は風化して読み取れない秦野市指定重要文化財 米倉丹後守一族の墓地 昭和四十三年三月二十八日指定米倉氏は、甲斐国(山梨県)の出身で、八代郡米倉郷(笛吹市)の地名から米倉姓を名乗ったとされる。戦国時代、甲斐武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡後、徳川家康に召し抱えられた。天正十八年(1590)家康の関東入国の際、米倉清継は堀山下村(秦野市堀山下)に二百石の領地を賜っている。清継の孫、昌尹は、将軍綱吉の時代に幕府の要職を務め、元禄三年(1690)従五位下丹後守に任ぜられた。元禄九年(1696)には若年寄になり、武蔵国、上野国などに領地を賜り、旗本から一万石の大名となった。さらに元禄十二年(1699)相模国や武蔵国、下野国などに領地を賜り、下野皆川藩一万五千石の領主となった。この時の秦野市内の領地は、堀山下、菩提、羽根、渋沢村などであった。その後、米倉氏は陣屋を武蔵国久良岐郡(横浜市金沢区)に移し、金沢藩(六浦藩に改称)藩主となる。蔵林寺は、享徳年間(1452~1455)に瑞秀祥禎和尚によって四十八瀬川上流の堀山下村寺屋敷の地に開かれ、文明年間(1469~1487)に現在地に移ったと伝えられる。昌尹は、祖父から受け継いだ天正十八年以来の領地である堀山下村の同寺を菩提寺とし、寛文十三年(1673)に本堂庫裡を再建、元禄五年(1692)に先祖の墓石を建立した。この墓所には、昌尹とその父昌純が埋葬され、初代重継から十五代昌寿までの当主一族の墓石(埋葬は他寺)などが建立されており、現在も米倉氏墓石二十基、家老塚一基、石灯籠二十三基が残されている。 平成三〇年三月 秦野市教育委員会南方向から墓石群を見る苔むした墓石が立ち並ぶ墓石群の一番奥に、石囲いされた「米倉昌尹(蔵林院)の墓」中央に立つ墓石には、「元禄十二年・・・・」と刻まれている。背面の塔婆には、「秋季彼岸會為米倉・・・」、「大乗妙典為米倉家先・・・」とこの墓所には、昌尹とその父昌純が埋葬され、初代重継から十五代昌寿までの当主一族の墓石があるようだが、せめて配置図、また墓石の前に、「人名」が欲しいものだが一族の墓地は高台にあり眺望を見ながらの休憩用ベンチを設置秦野丹沢サービスエリアの上り線が見える場所である境内を西側から見渡す参道から「米倉丹後守一族の墓地」を望むススキの穂が風に揺られ鐘楼は工事中であった蔵林寺の参道に立つ小僧12:53参道にはアジサイが植えられ、秦野市内ではちょっとした紫陽花スポットとして有名なお寺 — 続く ー
2021.11.20
コメント(2)
県立秦野戸川公園の散策を続ける。10月28日(木) 11:35県立秦野戸川公園は、季節ごとにさまざまな種類の花を観賞できるスポットである。表丹沢の山々や秦野盆地に囲まれた、子どもから大人まで楽しめる。丹沢登山口としても知られており、多くの登山客やキャンパーも訪れるスポットです。コスモスが綺麗に咲いていたが、11月1日には来年のチューリップのために引き抜いたとイングリッシュガーデンイングリッシュガーデンとは、英国で発展した庭園の様式です。自然の地形を生かして作られた庭に、さまざまな種類の草花を取り混ぜて植え、季節を追って次々と花を咲かせるのが特徴です。歴史は古く、18世紀前半に形づくられました。それまで全盛だったフランス式の直線的、幾何学的、整形的な様式に代わるものとして、曲線を用い、植物を自然な状態で植え、まわりの風景と調和する庭園を目指しました。アクセントをつけるために、アーチやトレリスに絡ませたり、ハーブを模様花壇に植えたりもします。一見、無造作に植えてあるように見えますが、花の咲く時期や、咲いたときの色の調和などが考慮されています。このイングリッシュガーデンには、四季を追ってさまざまなハーブの花が咲きます。ハーブは花を楽しむだけでなく、料理や香料などに使える有用な植物です。ここの南側には農体験場があり、春先には7万本のチューリップが一面に咲くイングリッシュガーデン、ビジターセンター小さな庭の見本園西方向の、小さな庭の見本園地球儀には、県立秦野戸川公園の北緯・東経が記されている。 北緯 35° .23 東経 139° .11兵庫県明石市との経度差 +4.11コスモス畑を東方向から小さな庭の見本園の後方には農体験場があり、植え付け準備をしていた。昼時で、持参のおにぎりがあれば最高だが!公園内には丹沢の山々を源流とする水無川が流れ、チューリップやアジサイ、ヒマワリ、コスモス、サクラなど1年を通して美しい花が楽しめます。ゆっくり散策し、移ろいゆく花々で季節の変化を感じながら、お気に入りのスポットを見つけてみるのも楽しいものです自然を身近に感じることで、心身ともにリフレッシュできる。子供向け遊具も充実しています。園内の向かい側には「はだの丹沢クライミングパーク」があり、話題のボルダリングウォールもありますキバナコスモスと一緒に咲くコスモスをバックに愛犬を撮影長さ20数メートルのふじ棚ふじの時期も楽しみざる菊はこのエリアだけで500本は植えられているかざる菊、コキア、コスモスと楽しませてくれた県立秦野戸川公園パークセンター風の吊り橋を渡り対岸へ吊り橋だが揺れを感じなかった南方向に、新東名の秦野丹沢サービスエリアを建設中。遠くに秦野の市街地を望む水無川の上流側を望む。下にバーベキュー場水無川の下流には秦野戸川公園の多目的グランドA、少年野球場がある風の吊り橋を渡り西側を望むこちら側には「はだの丹沢クライミングパーク」があり、話題のボルダリングウォールがある散策路脇に立札、ここに咲いているのは幻の野草「おきな草」です。当公園の「おきな草」は、「おきな草愛護会」(当時の会長:大森五男氏)のご提供により2,000株を植えて頂きました。その後愛護会の方々のボランティアでの手入れにより、毎年可憐な花を咲かせています。花は天気の良い日中しか開きません。現在では希少となった山野草ですので大切に見守りたいと思います。 ・花の見ごろ: 3月中旬 ~ 5月中旬 ・株数:2,000株【オキナグサ】(キンポウゲ科)日当たりの良い原野や草原に生える多年草。高さは15~20センチ、茎と葉に白い毛が密生しています。暗赤紫色の花に見えるのはガクで下向きに咲きます。綿毛の実が白髪のおじいさんのように見えることから名づけられました。環境省、神奈川県のレッドデータブックでは「絶滅危惧種」に指定されています。ポプラが聳える下の柵内は、「おきな草」エリア吊り橋の下から見上げる休憩所・茶室 「おおすみ山居」谿風(けいふう)の庭ご案内この庭園は水無川左岸の段丘にあって、丹沢の山々が秦野盆地に移るところに位置しています。茶室「おおすみ山居」を付属する休憩所を中心に、優れた自然をゆっくり楽しむための和風の庭園として、平成十年九月十五日開園いたしました。この庭園をご利用される方は、次のことをお守りくださるようお願い申し上げます。 一、ペットなどを連れての入園は御遠慮ください。 一、たばこは、指定の場所以外では吸わないでください。 一、庭園内は、自転車を乗り入れないでください。 一、庭園内での一般の飲食は、御遠慮ください。 一、庭園内の草木や植物を取らないでください。 一、建物、庭園の使用し営業写真の撮影はあらかじめ許可が必要です。パークセンターに ご連絡下さい。◎ 貸切で利用を希望される方は利用日の六ヶ月前から七日前までに御申し込みください。 秦野戸川公園パークセンター開園時間は午前九時から午後四時迄です。尚、ご不明な点が御座いましたら、茶室職員にお尋ねください。おおすみ山居 おしながき 営業時間 午前九時 ~ 午後四時 ラストオーダー 3時30分 茶室 おおすみ山居入口の上には「おおすみ山居」おおすみ山居の玄関先抹茶、珈琲等で食事ができないので今回はスルー林の中に「絶対さわらないで!!」 猛毒きのこ『カエンタケ』『カエンタケ』に触れるだけでも、皮膚がただれるなどの炎症を起こします。また、誤って食べると発熱、悪寒、嘔吐、下痢、腹痛、手足のしびれなどの症状が現れ、脳神経障害により死に至ることもあります。 【お問合せ】 秦野市環境共生課水無川の河辺から、沢の橋がある。吊り橋の上流側にバーベキュー場(有料・要予約)があり、駐車場から荷物を運ぶカートを無料で貸してくれるので荷物の運搬に便利とまた、公園の中央を流れる水無川は丹沢の山から湧き出た水で、透き通ったとてもキレイな水で夏には水遊びが楽しめる高さ35m、長さ267mの風の吊り橋を見上げる橋のたもとから急斜面を登りショートパス戸川公園は紫陽花スポットとしても有名で、5,000株の紫陽花が咲き誇るとのこと秦野ビジターセンターレストハウス出店店舗を応募しているようだがレストハウスの入口に登山情報発信中ここ大倉の標高は 290m です。登山者の皆様へ事故防止のため、登山者カードは必ず記入し、投函しましょう。体力と経験に応じた安全な登山に心がけましょう室内には、新東名高速道路事業 工事進捗状況のお知らせ神奈川県秦野市では現在、新東名高速道路の建設事業が全盛期です。ドローンで撮影した航空写真で、刻一刻と変化する工事現場を定期的にお伝えします!【葛葉川橋】 【秦野サービスエリア】 【秦野インターチェンジ】 上記場所の【完成予想図】、【進捗状況】 10月更新12:27この日は、平日で駐車料金は2時間まで100円と趙安!戸川公園に1時間半滞在したが、四季折々の花が楽しめるビュースポットである。来年の春の開花が楽しみだ — 続く ー
2021.11.19
コメント(0)
ある日、我がスマホに「県立秦野戸川公園のざる菊、コキアが綺麗」と案内があったため、秋空のこの日愛車のリンちゃんも考えたが車で出かけた。公園は我が家から片道27kmに位置する。10月28日(木) 11:00左側は県道706号線(丹沢公園松原町線)。バス停の「大倉」、奥にレストハウスがあり、丹沢登山の受付、休憩室がある神奈川県立秦野戸川公園は、神奈川県西部に位置する広さ36.1haの都市公園です。公園は、表丹沢の山々と秦野盆地に囲まれ、公園の中心には、丹沢の山から湧き出る水無川(みずなしがわ)が流れています。高さ35m、長さ267mの公園のランドマーク「風の吊り橋」でつながれた水無川の両岸には、「子供の広場」「バーベキュー場」「お茶室」 「自然観察の森」「多目的グラウンド」などがあり、美しい丹沢の山並みを背景に一日中楽しめます。県立秦野戸川公園パークセンター・秦野ビジターセンター所在地:神奈川県秦野市堀山下1513パークセンターでは、みなさまに公園を気持ちよく利用していただけるよう公園のご案内をしています。バーベーキュー場や多目的グラウンド、少年野球場等、公園施設の利用当日の受付もこちらです。また、施設内には、県立秦野ビジターセンターが併設されているほか、和室休憩室や多目的会議室、赤ちゃんコーナー、多目的トイレなどがあります。お気軽にお立ち寄りください。開館時間:9:00~16:30 休館日:年末年始(12/29~1/3)入口で、消毒・検温をして入る。県立 秦野ビジターセンター丹沢大山国定公園丹沢山地は南北20km、東西40kmにおよび、神奈川県の面積の約 1/6を占めています。神奈川県最高峰の蛭ヶ岳(1673m)をはじめ標高1500m以上の山が9座あり、多くの登山者に親しまれています。 ・・・身近な大自然・・・低山では、里山で燃料などとして利用してきたクヌギやコナラなどの林、標高800m以上では、ブナやウラジオモミの自生する自然林など、標高により植生の移り変わりがみられます。また、急峻な斜面、沢や岩場、崩壊地など立地環境もさまざまであり、その多様な自然環境から、ツキノワグマやニホンカモシカなどの大型哺乳類も生息しています。動植物や景観などを保全するため、丹沢山地の中心部は丹沢大山国定公園、周辺部は神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されています。神奈川県内で使われている水の多くは、丹沢の森林がはぐくんでいます。水源地である丹沢は、県民の生活に欠かせない大切な山といえます。丹沢山系のジオラマアカゲラながーい舌で虫をつかまえます!丹沢に生息する動物いろんな巣を展示戸川公園のランドマークである、高さ35m、長さ267mの「風の吊り橋」県立秦野戸川公園鳥獣保護区区域図この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。鳥獣の保護に、ご協力をお願いします。 神奈川縣ズームアップ公園に建つ、「県立秦野戸川公園 総合案内板」水無川の両岸には、「子供の広場」「バーベキュー場」「お茶室」 「自然観察の森」「多目的グラウンド」などがあり、美しい丹沢の山並みを背景に一日中楽しめる右はペット用の撮影ステージ、右は人間様用高さ35m、長さ267mの「風の吊り橋」県立秦野戸川公園パークセンター。屋根には太陽光パネルが載っている風の吊り橋は県立秦野戸川公園に設置された歩道橋である。センタースパン160mの重厚なその容姿は、来園者の目を引きつける。”風の吊り橋”の命名は、ここ丹沢山麓の水無川上流の扇状部に架かり、丹沢から吹き下ろす風の通り道となっていることから由来している。風の吊り橋の主要構造諸元は、橋長267m、高さ35m、幅4mであり、吊り橋形式の長大人道専用橋であると同時に、景観が重視されたデザインといえる。”渡るも良し、遠目にも下から見上げるも良しの風の吊り橋は、秦野戸川公園のランドマークであり、土木構造物がその本来の機能(歩道橋としての機能)に、観光資源としての魅力と価値が付加されていると橋のたもとに「丹沢賛歌」の歌碑丹沢賛歌作詞:森 一歩、作曲:加藤 正三春春は浅く 山里けむり雪とけて 大地は明ける幸せの 木の芽ふくらみ鳥は歌い 人は目覚める夏は燃えて 山あい深く丹沢の水清く 緑かがやく幸せの 光はてなく川は流れ 人はともに働く秋はひそかに 文化を語りくれないに 心をそめる幸せの みのり豊かに鹿は鳴き 人は相寄る冬の陽に 山はだ白く霧氷咲き 大地をのぞむ幸せの 生命あたため鳥は帰り 人は生きぬくああ 丹沢おおらかに天をつき 道を教える丹沢永遠に讃えん東側のエリアにも、諏訪丸駐車場がある。クライミングウォール、はだの丹沢クライミングパークがある2010年頃までは土日のみ「風の吊橋」がライトアップされていたが、現在では夏の短い期間と12月のみの限定ライトアップとなっています。(2017年の夏は8月26日から5日間、2016年は12月は1ヶ月間連続ライトアップ)園内には四季折々、チューリップ、アジサイ、ヒマワリ、コスモス、サクラが咲く。ヒマワリの見頃は例年8月上旬から中旬頃で、約一万本が咲き「ヒマワリフェア」が開催される手前はアジサイざる菊の後方にサクラ開花は黄色が早いようだ方向を変えてズームアップ広場の周りには、桜並木、ふじ棚コキアは終盤になっていたサクラ越しに風の吊り橋こんな時間に女子高校生がと思いきや、コスプレの女性?東屋では弁当持ちの熟女が自撮りでポーズをとり、手持ちのバッグも持参していたが花壇にはコスモスが満開風に揺られて左右にコキアはこのエリアのみであった11:34このコスモスは11月1日(月)には全て刈り取りなくなったと(来春に咲かせるチューリップの植付け準備のため) — 続く ー
2021.11.18
コメント(0)
スマホに「県立秦野戸川公園のざる菊、コキアが綺麗」と案内があったため、秋空のこの日車で出かけた。スマホで検索すると片道27kmであったので、愛車のリンちゃんも考えたが所在地が、丹沢の裾野であるため車とした。10月28日(木) 9:33カーナビを「県立秦野戸川公園」にセットすると、片道27km、所要時間は約1時間。県道44号線(伊勢原藤沢線)を走り西方向へ。圏央道の高架橋の先に富士山が顔を出していたズームアップ、富士山には積雪寒川町に入る田端二本松交差点を右折、産業道路(県道46号線)を北上。イチョウ並木が色づき始めていたこの先の一之宮小入口交差点を左折して、藤沢平塚線(県道47号線)へ藤沢平塚線(県道47号線)は、大山街道県道44号線の神川橋上から神川橋東側からの富士山もビューポイント年に二度ダイヤモンド富士が撮れると国道129号の田村十字路交差点を横切り、伊勢原藤沢線(県道44号線)を伊勢原方面へ進む平塚市消防本部神田出張所小学生の社会見学か9:55田園風景の先に富士山が綺麗に顔を出していたので、伊勢原藤沢線(県道44号線)から農道へコンバインで刈取り即脱穀したのか、陰干しはしていないようだ送電線の鉄塔、電柱が林立した先に富士山稲刈り前の稲穂、穂が軽そうだが。今年の稲作は、東日本を中心に「平年並み」以上となった産地では、出穂期まで総じて天気に恵まれた。一方、「やや不良」は東海や中国、九州が中心で6月下旬から7月上旬の日照不足や8月上中旬の台風、大雨の影響が出たと伊勢原藤沢線(県道44号線)を進み伊勢原市へ、前方に大山。道路脇に大山街道の道祖神が建っていたが、これは後日愛車のリンちゃんで訪れることに10:10カーナビはこの先の国道246号の市役所前交差点を左折する指示であったが、直進しこの先にある「寿卵」を購入することに。この市役所前交差点はいつも渋滞しかし、寿卵の駐車場が混んでおり諦め、国道246号へ戻る。国道246号を西へ進み、道路脇にキロポスト。国道1号の東海道は「日本橋から」であったが、国道246号は「三宅坂から 57km」と標示。この辺りは、伊勢原市白根上り線の国道246号は渋滞。街路樹はサクラであろうか。国道246号は、東京都千代田区から神奈川県県央地域を経由して、静岡県沼津市に至る一般国道であり、総距離は 125.3km。起点:千代田区三宅坂交差点=国道20号交点、終点:沼津市上石田交差点=国道1号交点、国道414号終点ガソリンの値段は、レギュラーが167円/リットルと高騰国道246号の歴史江戸時代に五街道の一つである東海道が徳川初代将軍家康によって整備されると、ほぼ足柄道に沿う形で新たに矢倉沢往還が整備され、東海道の脇往還として利用されるようになる。東海道同様、江戸と東海道沿道各地を結び、人や物資が往来し発展した。この矢倉沢往還は、現在の国道246号の原形となる経路をたどっている。享保年間になると大山講が盛んになり、江戸から山岳信仰のある大山に詣でるための街道としても賑わった。丹沢山地南端に位置する大山阿夫利神社への参詣のため、多くの庶民から人気を集め利用されるようになり、この頃より大山道(大山街道)とも呼ばれるようになる。その名は、現在も神奈川県内の通称名や同県内および、東京都内の旧道などに残っている。国道246号の新善波隧道(しんぜんば)。この隧道を抜けると伊勢原市から秦野市に入るトンネルを出るとその先には富士山。秦野市内ではいたるところで富士が眺望できるとトンネルの前後は上下線ともに渋滞秦野盆地を見下ろす。秦野といえば「落花生」「たばこ」「名水」が頭に浮かぶ秦野市は、神奈川県の中西部に位置する市で、人口は約16.2万人山並みの左側には金時山。秦野市は神奈川県の行政区域としては湘南に含まれているが、海には面していない。北部と西部に丹沢山地が連なり、東は相模平野と秦野盆地に挟んでいる大根台地があり、南には大磯丘陵が横たわる盆地(秦野盆地)が市の中心部である。また、秦野盆地は県内唯一の盆地である国道246号の堀川入口交差点を右折して県道706号線を山側へ、両側にサクラがあり「はだの桜みち」と呼ばれているはだの桜みちの突き当りの新橋交差点を右折。道路標識に、大倉「県立秦野戸川公園」と右折してすぐに、大倉入口交差点。ここを左折して、秦野戸川公園へ。交差点角に「鮨市場春」があり、リーズナブルな価格だと。所在地:神奈川県秦野市堀山下730県道706号線(丹沢公園松原町線)を上る10:57県道706号線(丹沢公園松原町線)を上り、「県立秦野戸川公園」。大倉駐車場 利用時間:8:00 ~ 21:00 (夜間の駐車はできません)大倉駐車場入口駐車場利用の皆様へ今日は木曜日で平日料金普通車:30分以内 無料、30分~2時間未満 100円、2時間~10時間未満 200円、 10時間以上 410円二輪車:無料少し遠回りをしたが、自宅から約30km、1時間半で到着した。愛車のリンちゃんでの行動範囲であるが、国道246号を走るのは少々危険だが — 続く ー
2021.11.17
コメント(0)
衆議院選挙も終わり、コロナ感染者も減少、以前の生活に戻るのか・・・・・。そんな中、文化の日の昼前天気が良いので、ざる菊とひまわりが見頃であろうと思い愛車のリンちゃんで出かけた。場所は度々訪れている「茅ヶ崎小出川桜祭り」会場。所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番付近11月3日(水) 12:00萩園橋から小出川の上流側を望む。高架橋は首都圏中央連絡自動車道(圏央道)ひまわりの会場アクセスは、● 茅ヶ崎駅の北口からコミュニティバス鶴嶺循環市立病院線鶴嶺北コースで「萩園橋」下車、 徒歩約6分● 茅ヶ崎駅の北口から神奈中バス 茅41・45系統「小谷」行きで「番場」下車、徒歩約10分どちらも1時間に2本程度の運行本数しかないので、時刻表を確かめてから行かれることをおすすめします。車の場合は、駐車場がないので道路脇への駐車となります会の方がテントを張り昼食中小出川の堤防に建つ掲示板掲示板に貼り紙11月7日(日) 10:00~14:00ひまわりの花 5本 200円で販売します ひまわりの会神奈川県茅ケ崎市の小出川沿いには、、約70本の河津桜が植えられている。春先には、河津桜、菜の花が咲き、紫陽花、秋には彼岸花が咲き四季折々楽しませてくれるざる菊とコキア今日は富士山はお隠れにひまわり会場ざる菊、コキアエリアの南側に植栽会の方に聞くと、今年の9月15日頃 2,500本ほど種を蒔いたとひまわりもいろんな種類があると背丈は1メートルも満たないひまわりの会場は二箇所ある。こちらは、県道44号線田端南交差点から萩園通りを南下、50メートル程で東側へ入る。ざる菊、コキア、ひまわりが咲く花とともにくらす会の会長さんがおられ、立ち話。 ① 今年は、ざる菊は病気で出来が悪かった ② ひまわりも数種類植えたが、植える時期を変える必要があったのか ③ 管理をする協力者を探していると ④ 活動は、第2、4日曜日の 9:00~12:00、12月は第2、3日曜日 END
2021.11.04
コメント(0)
このブログ 2/2は、打戻会場近くから黄色の線を歩く。9月19日(日) 10:45これからは、富士山と彼岸花とのコラボを楽しんだ。珍しく釣り人がいた右側の通路には立入禁止のロープがはられていた上流側を振り返る打戻会場辺りからの富士山。箱根の山並み、金時山が見える富士山方向をズームアップシルバーウイークでコロナ禍の中人が多い。皆さんマスクを装着上流側を振り返るが、川の中の草は水の流れで倒れていたこの辺りの彼岸花は綺麗に咲いていたが、被害はなかったのか腰を下ろし撮影ススキも穂が出、中秋の名月も間近いチョウが飛来今日の折り返し点の新道橋(しんみちはし)が見える。まつりの25日まで一週間もつか?この辺りは越流した水が田んぼに入ったのであろう水が流入した田んぼが遊水地になっている彼岸花は球根だが、水に浸かっても大丈夫なのか?上流側を振り返るが、反対側は彼岸花が多く咲いていた。こちら側に越流したのか上流に新道橋。11:55新道橋脇に掲げられた「小出川彼岸花」の垂れ幕。新道橋から上流を振り返る。今日はここで引返すことにする小出川沿いの彼岸花(曼殊沙華)は、上流の里山などから大水により球根が流れ込み、古くからこの地域に自生していました。平成15年頃から流域の彼岸花保護団体が相次いで組織され、増殖・保全活動に努めています。開花期(9月下旬頃)には、上流の大黒橋から下流の追出橋まで両岸3キロが紅の帯に染まり、西方に望む富士や箱根連山を借景に、絶好の散策コースになっています。毎年、この時期に「小出川彼岸花まつり」を開催し、来場者を歓迎しています。 ・神奈川県藤沢土木事務所・藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町 ・小出川彼岸花団体協議会・設置者:打戻彼岸花の会写真は、 ・小出川 彼岸花群生地 (これより300m上流附近) ・宇都母知神社 雄略天皇の時代(466年)厳粛な祭祀が執り行われたと「日本総風土記」に記されている 延喜式内社。境内に「民具・農機具資料館」(祭礼時等に開放)がある。 (これより北東方向1.5キロ) ・盛岩寺 薬師堂 昭和文化館 盛岩寺の薬師堂は、築90余年の旧商家を再移築した古建築で、昭和文化館として活動を している。堂内の薬師三尊十二神将は、旧東光寺の本尊で、(明治4年廃寺 盛岩寺に移管) 「堂の前」の名はこれに由来する。 (これより北西方向0.5キロ)新道橋から南方向の県立里山公園へススキの穂が風にたなびく新道橋から下流側下流側のMAP小出川彼岸花まつりは、大黒橋から追出橋まで3kmの彼岸花コース上流側へ引き返す車椅子の方も補助者の援助で花見帰路は反対側を戻る満開の彼岸花新道橋を振り返る富士山も台風一過でこの時間でも良く見えた今年は稲刈りが遅い農道の畦道にも咲く下流側を振り返る無残に倒れた彼岸花倒れた彼岸花には草がひっかかりボランティアの人は花に絡みついた草を除去していた。私も座り込み十数株取り除いた。草を除去後の彼岸花この辺りをボランティア活動した。訪れた人が各自10本除去すれば、後日訪れた人が楽しめるのではと思うが。白い彼岸花この辺りは対岸を歩けない、また花も少ない何の木であったか?鉄塔が邪魔だが水の被害を受けなかった彼岸花を追う。三本の白い彼岸花彼岸花から蜜を吸うチョウを追う12:30駐車している小出橋へ戻り、上流側を望む。台風14号の影響で大雨になり小出川の水位が上がり、満開まじかの彼岸花を無残にも押し流していたがボランティアの協力で手入れをしていたので、まつり当日(25日)には復活していることを祈る。また、今年は昨年に比べ開花が早いのでどうか気になるが。約2時間歩き廻ったが、歩行数は 5,500歩であった同橋から下流側を望み、富士山。やはり鉄塔が12:35大庭獺郷線の苅込交差点信号の後方は宝泉寺17:40夕刻になり急遽、自宅から自転車で10分で行ける「農業ふれあい館」へ出向く。所在地:茅ヶ崎市赤羽根4528陽の入りを期待したのだが、既に太陽は沈んでいた先に来ていた人に聞くと「10分前に陽の入りした」、「陽の入りは富士山の左側」と。野鳥対策の鳥が舞う17:44東の空には満月前の月がのぼっていた刈り取った稲を陰干し富士山、箱根連山と金時山がはっきりと見える。次回はもう少し早く訪れたい END
2021.09.21
コメント(0)
台風14号の影響で9月19日(日)の野球の試合が中止になったため、一週間前の状況から小出川の彼岸花が見頃ではと予想し、今回は車で訪れた。現在我がブログは、鎌倉の深沢・大船地区シリーズをアップしておりますが、「小出川彼岸花まつり」が25日(土)から開催されるので、早期情報として二日間「小出川彼岸花まつり」を入れさせていただきます。ネットから、第14回小出川彼岸花まつり2021年9月25日(土) 10:00 ~ 15:00ところ:小出川沿い 大黒橋から寒川町青少年広場 3kmスタンプラリー開催 9月25日(土) 9時から15時まで9月19日(日) 10:45いつもの場所に路上駐車。周辺の道路脇には多くの車が駐車していたこの辺りは、小出川の小出橋南側これからのルート黄色の丸印に駐車。小出橋(起点) → 大黒橋(Uターン) → 小出橋 → 新道橋(Uターン) → 小出橋(ゴール)。台風で道がぬかるんでいると想像し、運動靴から長靴に履き替え散策開始小出橋の下流側、一週間前の9月12日(日)の開花状況一週間後の昨日(19日)の状況、彼岸花が下流側に倒れていてビックリ!小出橋から大黒橋の上流側へ進む下流側の小出橋方向彼岸花の茎に草が覆いかぶさり倒していた彼岸花がのきなみ倒れ花にゴミが倒れた彼岸花にもキアゲハがとまり蜜を吸うズームアップ小出川沿いに「彼岸花まつり」の幟が立つこの辺りの川岸の彼岸花も倒れていた一週間後の祭りのために会場準備中。地元の人の話では、昨日は台風の関係で小出川の水位が上がったと最上流の「遠藤会場」まつりの25日(土)には露店、地元野菜も販売される。スタンプラリーも開催され、4か所のポイントで捺印すると地元野菜がもらえる水位が上がり、押し倒された彼岸花ボランティアの協力で花に付着したゴミを除去していると。除去後であろうか、もとに・・・元気に咲いている彼岸花も白の彼岸花彼岸花まつりの最上流の起点、大庭獺郷線に架かる大黒橋昨日の関係で浸水し、まだ路面に湧水がこの辺りは浸水しなかったのか大黒橋近くにある道祖神11:05大庭獺郷線の苅込交差点手前にある広場大黒橋(だいこくばし)その昔、窪島氏が寄付された伊豆小松石二本の橋であった。この橋の近くには比丘尼橋があって、玄光院(廃寺)から宝泉寺に通う尼さんが架けた橋といわれる。比丘尼橋に対して、大きな橋をこう名付けたという説や、黒い立派な橋だったので、という話もある。新編相模国風土記稿にも大黒橋の名がある。 (遠藤まちづくり推進協議会)大黒橋からの下流側同橋からの、小出川の上流側だが川幅が狭い上流側は、「遠藤あじさいまつり」の会場になる大黒橋から下流側の彼岸花この辺りは被害がなかったのか色鮮やかに綺麗に咲いていたが、対岸は押し倒されズームアップ、白赤の彼岸花が咲き乱れる下流側をズームアップ連休の台風一過で多くの人が訪れていたが無残に倒れた彼岸花市道辻堂駅遠藤線の宝泉寺前交差点大黒橋傍に立つ案内板に、小出川 ” 彼岸花 ”彼岸花鑑賞コースをお楽しみください!鑑賞期間:9月下旬~10月上旬(見頃:お彼岸の頃) ~ ”人と自然がいきづくまち” 遠藤 ~小出川沿い大黒橋から追出橋まで3kmの彼岸花コース大黒橋から新道橋まで下ることにまつり準備中、みなさん私と同じ高齢者だ!遠藤会場には仮設トイレも設置ボランティアの若者たちが倒れた彼岸花を手入れ。これからも花を楽しむため一人、10株でもごみを取る協力をしたらと思いながら歩くごみを除去後の彼岸花、翌日には立ち上がると。私も下流側で十数株草を取り去り手入れをしたが、手袋をしていなかったので前方に富士山が見える鉄塔が邪魔だが十数人でボランティア活動をしていたが、近くにある慶大生か?まつりに日には、スタンプ置き場に慶大生がバイト?無残な彼岸花達バッタも彼岸花に紅白の彼岸花小出橋まで戻る、多くの車が駐車。そのうち取締りがあるのでは小出橋から下流側へ進む既に終盤の彼岸花この先からは、自転車も入れない富士山には雲がかかる彼岸花が押し倒されている犬連れの人も散歩がてら小路脇に立札ヒガンバナ養生 保護のため 自転車通行・犬の散歩 は ご遠慮下さい 御所見まちづくり推進協議会富士山の雲も取れてくる田んぼは稲刈り前、座り込んでスマホで撮影する人も水があふれ土が流されて彼岸花の球根が現れていた対岸の彼岸花が少ない名もない橋だが、橋桁に流されてきた草が引っ掛かりボランティア活動で除去したいがこの先の右側に「打戻会場」が設置される彼岸花と富士山のコラボ撮影これより下流は、彼岸花群生地です。毎年9月に開花します。地域の皆様が大切に保護しております。このため雑草の刈取は、地域の皆様が時期に配慮して行っております。堤防の雑草が繁茂している時期もありますので、ご承知願います。 藤沢土木事務所11:38田んぼ際に群生する彼岸花 ー 続く ー
2021.09.20
コメント(0)
今年も彼岸花のシーズンになりました。9月12日(日)の朝、野球の練習のあと立ち寄り開花状況を確認しました。小出川彼岸花の垂れ幕ネットから入手、第14回小出川彼岸花まつり2021年9月25日(土) 10:00 ~ 15:00ところ:小出川沿い 大黒橋から寒川町青少年広場 3kmスタンプラリー開催 9月25日(土) 9時から15時まで大庭獺郷線苅込交差点手前の橋は大黒橋大黒橋に立つ看板彼岸花まつりはここ大黒橋から下流の寒川町青少年広場までの3km鑑賞期間:9月下旬~10月上旬(見頃:お彼岸の頃)紅白の彼岸花小出川沿いに幟が立つ今年は昨年に比べて開花が早そうです小出橋あたりの彼岸花このポイントは前方に富士山が見えるニラの花が咲くニラの花をズームアップ里芋の収穫はこれから小出橋から上流側 END
2021.09.12
コメント(0)
車の車検で寒川のオートバックスへ。その帰路、大山街道の田村の渡し近辺の史跡を訪れた。8月21日(土) 19:30突然大きな音がし外を見ると、自宅近くの某会社で打ち上げられた花火が例年、周辺住民への感謝を込めて夏祭りを実施しているが、新型コロナの影響で2年連続の中止となった。このため、代替として企画した「75発の花火打ち上げ」8月24日(火) 11:09オートバックス・寒川店所在地:神奈川県高座郡寒川町小谷1丁目1-38車検を予約していたので予定の時間に訪れたオートバックスからのその帰路代車で移動。県道44号線(伊勢原藤沢線)を走り相模川に架かる神川橋へダイソー平塚田村店の駐車場に車を止め、県道44号線(伊勢原藤沢線)を西に歩き、前方に旧田村十字路交差点旧田村十字路交差点の角にある、「十王堂跡」サルスベリが満開に十王堂跡碑の前を、県道44号線(伊勢原藤沢線)の大山街道田村十王堂江戸時代にはかつてこの田村十字路に十王堂が建てられていた。伝承によると、天文六年(1573)小田原の北条氏が河越の上杉氏を攻撃する際相模川で合戦があり、多くの戦死者を出した。この戦死者を妙楽寺の住職が集めて、篤く弔い後世のため十王堂一宇を建てたといわれる。 田村自治会 平塚市観光協会旧田村十字路交差点は、東西に大山街道、南北に八王子道が走る交差点。この交差点の一角にある、大山道標。左側の道標にはちょっと読みにくいが、正面の文字は「右大山みち」大山道標の左側面の文字は「田村講中」旧田村十字路交差点を右折(北方向)しすぐにある、(有)井筒屋菓子店所在地:神奈川県平塚市田村6丁目4-14屋根は茅葺なのか鉄板で覆いいかにも古い佇まいであるネットで井筒屋の所在を知り、甘党の私?は目的地にしていた和菓子屋である。営業時間: 9:30 ~ 19:00定 休 日 : 毎週月曜日店舗の壁面に「田村渡し最中」店内に入り撮影の許可を得て撮影カウンターはコロナ対策で飛散防止のカーテンで覆われていた大福、茶まんじゅう、だんご、どら焼き等いろんな和菓子がある。だんご(2本) 180円、たむら渡し最中 150円 を各一個購入、帰宅して食する井筒屋当店は古くより大山街道と八王子道の交差点にあり、代々暖簾を受け継いで来た老舗です。大正、昭和初期、先代(菊治)は手焼せんべいで名を売り、和菓子は繊細な生き物をモットーに、現代(一三)は県指定銘菓(渡し最中)を考案して、地域で愛されるお店として営業しています。一才の祝に「誕生餅・御赤飯」も受けている店内の壁面には古い絵が飾られていたが井筒屋から八王子道を北上、街道沿いに「居酒屋 なんでもかんでも」大山街道はこの先を左折する緊急事態宣言が発令されているので営業しているのか?平塚市のおすいマンホール蓋。デザインは日本三大七夕である湘南ひらつか七夕まつり、右に「たなばた」。左の「田村」は設置場所の地名。中央に、平塚市の市章の中に下水の「下」の字を入れたもの。下部に「おすい」の文字、カラー版はどこに設置されているのか「居酒屋 なんでもかんでも」前から引き返し、前方に旧田村十字路交差点井筒屋の手前に、ラーメンの「花水ラオシャン田村」旧田村十字路交差点の西側から、寒川方面左角に、十王堂跡碑交差点の志柄喜酒店前から向かい側の「十王堂跡碑」ズームアップ11:30十王堂跡からダイソー平塚田村店の駐車場へ戻り、帰路に。伊勢原藤沢線(県道44号線)の神川橋東側交差点を右折、藤沢平塚線(県道47号線)を南下。高架は、首都圏中央連絡自動車道藤沢平塚線(県道47号線)を南下藤沢平塚線(県道47号線)を南下し道路脇に車を止める藤沢平塚線(県道47号線)、左側は、目久尻川道路脇に、一之宮不動堂入り口横には「一之宮河原集会所」の看板一之宮不動堂の扁額「一之宮不動堂」内陣を見る大山街道と一之宮不動堂江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発達しましたが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース 〜 東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み、大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる 〜 この道でした。この不動堂の、堂内には不動明王が安置されています。堂の外には、江戸の人が奉納した力石や不動をかたどった道標があり、当時の街道の隆盛を今日に伝えています。 寒川町教育委員会黒の実線大山街道(田村通り大山道)河原不動尊本尊は、不動明王坐像と二体の眷属(けんぞく)(お供の仏像)からなる不動三尊像です。不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦3年(1753)に江戸芝口(東京港区)の初音屋平吉が修理した。との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制咜迦(せいたか)童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したものです。このようにこの不動尊は、江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について、「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けて来たことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」とも記されていますが、詳細は定かではありません。 平成十九年十二月 (一之宮河原地区住民による) 不動尊維持管理会お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したもの一之宮不動堂から藤沢平塚線(県道47号線)を歩き、目久尻川に架かる河原橋河原橋から目久尻川の下流高架は、首都圏中央連絡自動車道近くを走る首都圏中央連絡自動車道「寒川南 出口1km」11:43神奈中のバス停「八角広場前」前方は藤沢平塚線(県道47号線)の工業団地入口交差点八角広場(西寒川駅跡)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮6丁目2-25八角広場の片隅に、「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の石碑 寒川町長書裏面には、ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000㎡)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安穏を祈る。 建立 相廠会及び協力企業 昭和63年春この公園は、旧国鉄西寒川駅の相模海軍工廠跡に作られ、一部レールが残されている。旧国鉄西寒川駅は、昭和59年(1984)3月31日に廃止された。一之宮緑道一之宮緑道は、緑のネットワークの一環として旧国鉄相模支線跡地を利用して、昭和60年度より整備を行ったものです。延長は約900mあり、広場及び3つのタイプの園路から構成されています。みなさんでご利用ください。左側の赤矢印が現在地昭和55年(1980)10月の時刻表によると、寒川ー西寒川の列車の本数は、朝1往復、夕3往復の1日4往復のみで、通勤に特化した利用だったと八角公園の隅に鎌倉・江ノ嶋・大山、「新版往来雙六」からの絵も飾られている鎌倉・江ノ嶋・大山、「新版往来雙六」 一の宮 田村へ 十八丁 三十五 神奈川県立博物館蔵八角広場から、一之宮緑道(旧相模線支線跡)を北方向へ進む藤沢平塚線(県道47号線)の押ボタン式交差点押ボタン式交差点から、一之宮公園方向。民家の間に、一之宮緑道(旧相模線支線跡)振り返り、八角広場方向この交差点を右に行くと八角広場で、左に行くと丸太広場と。一之宮公園を通称丸太広場とも言うようです11:50八角広場(西寒川駅跡)へ戻り、帰路につく首都圏中央連絡自動車道下を走る、県道44号線(伊勢原藤沢線)を帰るが渋滞。上は、茅ヶ崎JCT辺りで、茅ヶ崎中央IC END
2021.09.01
コメント(1)
伊勢原の高部屋神社から、大山道を帰り平塚、寒川へ。8月18日(水) 12:50高部屋神社の拝殿及び幣殿本 殿拝殿の右側を回り本殿へ本殿は、正面の柱間が五つある五間社流造という形式です。県内の五間社の本殿は、寛永元年(1624)建立の鶴岡八幡宮若宮本殿(鎌倉市、国指定重要文化財)、寛文7年(1667)の箱根神社本殿(箱根町)、享保3年(1718)の六所神社本殿(大磯町)といった名だたる神社にしか見られません。高部屋神社の本殿は、関東大震災による倒壊後、昭和4年に再建されたものですが、倒壊前(正保4年、1647年築)の旧本殿の漆塗りの残る扉など、主要な古材が数多く再利用されています。再建に当たって、旧本殿の持つ江戸時代前期の雰囲気を残す努力が見られ、当時の関係者の想いを知ることができます本殿の右側に三つの「稲荷祠」水神の祠下糟屋の雨乞い行事下糟屋では古くから、日照りが続くと高部屋神社の北東にある水神池で雨乞い行事が行われていました。最後の雨乞いは昭和8年に行われ、その時の様子は次のようなものでした。この年は干ばつで田植えがままならず、7月18日に雨乞いが行われました。高部屋神社に伝わる黒面(陵王面)と赤面(癋見面)(べしみめん)を付け、蓑を着て笠をかぶり、草鞋を履いた二人の雨乞い役を先頭に、地区内を行列して水神池へと向かいました。池に着くと神官が祈祷をし、雨乞い役二人は竹を立て、しめ縄を張った池の中に向かい合って立ちました。そして、黒面役が「龍王や、龍王や」と呼べば、赤面役が「雨を降らせたもれ」と応じる問答を大声で唱えながら水を掛け合いました。池のまわりを囲む地区の人々も同じく大声で唱和しました。この時は、その後9日後に雨が降ったということです。 平成21年3月 伊勢原市教育委員会雨乞いに使われた陵王面(左)(りょうおうめん)と癋見面(右)(べしみめん)(高部屋神社所蔵)本殿奥から、右側(西)の本殿、拝殿及び幣殿拝殿及び幣殿の屋根は、平成24年(2012)に茅葺屋根の葺き替え工事が行われました茅葺の表面は黒ずんでいるが裏側はまだ新しい葺き替え工事には数千万本殿の西側に、庚申12:54本殿奥から、左側(東)の本殿、拝殿及び幣殿13:12高部屋神社から、県道44号線(伊勢原藤沢線)の神奈中バス停「横内四ツ角」御霊神社前から向かい側に石碑が建つ県道44号線(伊勢原藤沢線)沿いに車を駐車石碑には「是 大山道」県道44号線(伊勢原藤沢線)沿いに建つ鳥居。御霊神社(ごりょうじんじゃ)所在地:神奈川県平塚市横内900鳥居前に狛犬、敷石供養の碑鳥居を潜り敷石の参道から社殿へ石碑には、奉納 山林弐畝拾九歩 昭和14年 平塚市 山林壱反弐畝弐拾五歩 昭和19年 千葉県市川市柵の中には、 奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹 正面に拝殿御霊神社御由緒 祭神 主神 崇道盡敬皇帝(すどうじんけいこうてい) 相殿 国常立尊(くにとこたちのみこと)御霊神社の主神である崇道盡敬皇帝は、第49代光仁天皇の第三皇子早良親王であり、日本後紀「六国史の中の一つに仁明天皇の時に作られたもので桓武天皇(792年)から淳和天皇(833年)に至る史実を記述したもの。40巻から成るが現存十巻」日本後紀によれば、第50代桓武天皇の次に皇位を継承される早良親王が宮中におけるいわば勢力争いの犠牲となり36歳の折、淡路島に配流と決まりその途次、身の潔白を訴えながら京都の乙訓寺に於いて自ら食を断って御逝去されたのであります。親王の御逝去後、15年を経た紀元800年に崇道天皇と追称され京都八所の御霊社に祀られたのであります。早良親王が在世中、特に親交のあった坂上田村麻呂は桓武天皇に親任され、奥羽の蝦夷が蜂起した時、天皇は田村麻呂を蝦夷大将軍に任じこれを征討せしめられた。田村麻呂はその途中、田村の八坂神社に戦捷を祈願され、その効あって奥州遠征に武運を立てられた。八坂神社の神威を大いに感じ帰路再び立ち寄り、地名を田村と名付け西田村「横内」に京都の御霊社より勧請したのが、現在の御霊神社であります。御祭神は崇道盡敬皇帝であり、そのために社紋が菊の紋章になっているのです。・・・(後略)正面に拝殿、右側に鐘楼、神楽殿鐘 楼左に神輿殿拝殿の扁額「御霊神社」海老虹梁(えびこうりょう)海老のように湾曲した形の虹梁の事で、側柱や本柱など高低差のあるところに用いられます龍の木鼻右側の木鼻向拝(正面の庇部分)下の彫り物拝殿前から境内、鐘楼、鳥居社殿の後方を東海道新幹線が走る。社紋が菊の紋章になっている拝殿の脇障子を後方から拝殿の脇障子、彫り物は、鶴、亀、松社殿後ろにある、石祠と水神碑鳥居横にある境内社の「八坂神社」東側に神明神社がある八坂神社の社号13:45昼も過ぎ、昼食は欠食届を出していたのでいつものトンカツ屋へ立ち寄ることに。とんかつ水龍 寒川店所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山126-1店先のメニュー店内に入り、コロナ対策でアクリルで仕切りご飯、キャベツ おかわりできます!メニューの「ちょい飲み」セット 800円アルコールが出るのであろうか?ガッチ巻きかつ定食 1,330円(税別)ニンニクの芽を食べて夏のスタミナを付けよう14:15帰る頃には店先の看板は「準備中」に、夜の部は「五時より営業」と END
2021.08.31
コメント(0)
座間のひまわり畑から相模川を渡り厚木市の若宮公園へ向かう。8月18日(水) 11:04相模川を渡り県道42号線(藤沢座間厚木線)を進むが、西の空は雲が厚い国道129号との関口立体長坂立体県道42号線(藤沢座間厚木線)を、厚木市街、愛川方面へ11:43若宮公園駐車場所在地:神奈川県厚木市森の里1丁目38-39この間を通り駐車場ヘ、到着したとたんに雨が降り出し車中で待機。奥にトイレがある江ノ電の江ノ島駅前にも同じようなものがあったが、こちらのスズメは衣裳なし若宮公園駐車場駐車料金は無料でトイレもある森の里地区案内森の里ニュータウンは、昭和45年から14年の歳月をかけて、丘陵と谷戸を切り開き分譲住宅地として街づくりが始まりました。玉川と細田川に挟まれた山あいには、縄文時代から各時代にわたる数多くの遺跡が発掘されました。出土した土器などによって江戸時代中頃ここに若宮八幡宮があったと伝えられ、橋の名もこれに由来したと思われます。森の里地区は、若宮公園・県立七沢森林公園・高松山・巡礼峠から飯山観音への関東ふれあいの道など自然に恵まれ、楽しく憩いの場所として親しまれています。また、公民館・学校・病院・銀行・郵便局・企業の研究所・ショッピングセンターなどもあり、住み良い環境となっています。 平成12年3月吉日 厚木らしさの創造推進事業玉川地区協議会若宮公園周辺若宮公園案内図園内には広い芝生広場や野外ステージ、テニスコートがあり、幅広く楽しむことができる。西側には「D51形蒸気機関車(1119号機)」が展示されている。また、4月末には、対岸から対岸にこいのぼりが泳ぐ園内には厚木市の友好都市である揚州市(中華人民共和国)から寄贈された「風月亭」がある森の里行バスが走るケヤキ並木。公園の北側に「スーパー三和 森の里店」が隣接。この奥に、春先に訪れた「あつぎつつじの丘公園」がある厚木市街方面11月下旬になると、モミジが真っ赤に染まり、とてもきれいだと細田川に架かる若宮橋公園の南側の「若宮橋」のたもとには調整池があり、洪水時には川の下流に流入する水の量を抑えるよう設計されている公園内を散策したかったが雨が止まず今回は諦める雨の中に、タカサゴユリが咲く12:13伊勢原経由で帰るので、途中にある「寿雀卵」の卵を購入することに。第二東名高速道の高架橋。この先を右折すると、伊勢原大山I.C、「名古屋方面へ行けません」と日向・大山方面第二東名高速道の高架橋12:17県道63号線沿いにある、寿雀卵生産直売 三本松店所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋47開店時間の9時頃は車が列を成しているが、この時間はスムーズに駐車場ヘ県道63号線を南下すると国道246号の市役所入口交差点へ営業時間 午前9:00 ~ 午後4:00 ※ 商品がなくなり次第、閉店させていただくことがあります。 ※ ご予約されたお客様は、午前11:00 ~ 午後3:00 の間にお引取りください。定休日 ・・・ 第4日曜日・元旦商品ラインナップ時間が遅く、MSサイズ、小玉ミックスしかなく、MSを2パック購入 319円(税込み)。夜は卵かけごはんに、久しぶりに食べたが美味しかった!!!数年前に店舗、駐車場が改築された。会員にもなれポイントが振り返り、県道63号線の大山方面12:39市役所入口交差点を左折し、国道246号を東方向へ走り下糟屋交差点を右方向へ入り直ぐに、糟屋庄百二十七ヶ村の総鎮守 延喜式内 高部屋神社 所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋2202駐車場は本殿裏にあるとのことで駐車し、鳥居前に雨の中鳥居を潜り、正面に拝殿、右に手水舎。境内の樹は、指定保存樹木「いちょう」で青い銀杏が落ちていた。手水舎には、コロナ対策で消毒が置かれていた延喜式内 高部屋神社祭 神 三箇男命(みつつおのみこと)(住吉神社)・神倭伊波禮彦命・誉田別命・大鷦鷯命・息気長足 姫命・磐姫之命由 緒 当社は『延喜式神名帳』に記載されている相模国十三座の一座で、大住郡127ヶ村の惣社と 言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前660年とも言われている。 当神社の本宮(元宮)は、糟屋庄の奥津城(霊城)である。澁田山(澁田川の源流)に鎮座してい る。澁田山は、古来より高部屋神社所有の飛地境内でもある。 糟屋住吉の大神として、又の名を『大住大明神』と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せ られたる古社である。江戸中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ、名社の名を謳われ た。古社たる由縁には『汐汲みの神事』があり、更に「雅楽面三面の古面」と「源朝臣・頼 重施入の経巻」・「上杉定正が寄進の大般若経の経典」の伝承があり、境内の釣鐘堂には、 至徳3年(1386年作・県重要文化財に指定)平秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。 当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認 められた。鎌倉時代に源頼朝の家人で藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭『糟屋藤太左 兵衛尉有季』の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。 室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われる。糟屋氏・ 上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、後北条氏を迎え、相模国風土記 稿に載る、天正9年(1581)5月10日、八幡宮境内(高部屋神社)の三ヶ条、松山城主『上田能 登守長則』の禁制(法度)が知られている。 天文20年(1551)に地頭『渡辺岩見守』が社殿を再興し、天正19年(1591)に、徳川家康から 式内社の名社であることで、社領十石を寄進され、朱印状を頂いた。 社殿は、正保4年(1647)に本殿を再建されたが関東大震災で倒壊し、昭和4年に柱・彫刻・ 正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は慶応元年(1865)に再建され現在に至っている。 尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額が掲げられている。国登録有形文化財高部屋神社 本殿、拝殿及び幣殿 登録日 平成28年2月25日鳥居をくぐりますと、正面の建物が拝殿及び幣殿、その北側の建物が本殿です。本殿は、正面の柱間が五つある五間社流造という形式です。県内の五間社の本殿は、寛永元年(1624)建立の鶴岡八幡宮若宮本殿(鎌倉市、国指定重要文化財)、寛文7年(1667)の箱根神社本殿(箱根町)、享保3年(1718)の六所神社本殿(大磯町)といった名だたる神社にしか見られません。高部屋神社の本殿は、関東大震災による倒壊後、昭和4年に再建されたものですが、倒壊前(正保4年、1647年築)の旧本殿の漆塗りの残る扉など、主要な古材が数多く再利用されています。再建に当たって、旧本殿の持つ江戸時代前期の雰囲気を残す努力が見られ、当時の関係者の想いを知ることができます。拝殿及び幣殿は、江戸時代の慶応元年(1865)に、相模国梅沢(二宮町)の大工、杉崎周助政貴により建立されました。拝殿は入母屋造の茅葺で、手前に銅板葺の向拝(正面の庇部分)を設け、背面には幣殿を連結しています。主要な柱は、一辺20㎝以上の太いケヤキを用いています。正面の柱には龍が巻き付き、軒下には亀に出会う浦島太郎、その上には乙姫と竜宮城という珍しい彫刻が彫り出されています。彫物師は、江戸を本拠に活躍した彫物大工後藤家の後藤楢之助藤原正義です。平成24年には茅葺屋根の葺き替え工事が行われました。市内では唯一、県内でも貴重な茅葺屋根の社殿です。年代の異なる端正な五間社の本殿と相まって、見応えのある神社景観を形作っています。 平成28年3月 伊勢原市教育委員会写真は上から、「本殿」、「屋根の葺き替え直後の拝殿及び幣殿」、「拝殿向拝軒下の彫刻」茅葺きの拝殿及び幣殿拝殿は入母屋造の茅葺で、手前に銅板葺の向拝を設け、背面には幣殿を連結している拝殿前には狛犬拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額が掲げられている拝殿向拝軒下の彫刻軒下には亀に出会う浦島太郎、その上には乙姫と竜宮城という珍しい彫刻が彫り出されている拝殿前にあった、登録有形文化財「第14ー0219~0220号」 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁拝殿正面の柱には龍が巻き付く(左側)同、右側の木鼻防犯カメラを設置カメラの方向から、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額を撮影?境内の右側(東)に鐘楼、金刀比羅宮金刀比羅宮右奥に道標が二基大山道の道標ここにある二基の石造物は、伊勢原市東部第2土地区画整理事業地内の市道900号線菖蒲田交差点付近の道路端に建てられていた『大山道の道標』です。令和2年10月に、区画整理に伴い、当地に移設されました。二基の道標は、庚申塔を兼ねています。向かって右側の道標には、「柏尾道」「藤澤道」と彫られています。このことから「柏尾通り大山道」の道標であること、さらに銘文から慶応元年(1865)11月に設置されたことがわかります。左側の道標は、区画整理事業が行われた際に、右の道標近くの水田から掘り出されたものです。道標には、「比方 かしを道」「比方 ふじさハ道」とあり、天保15年(1844)に再建されたことを示す銘が刻まれています。高部屋神社前を東西に走る道が、大山と東海道の柏尾(横浜市戸塚区)を結ぶ「柏尾通り大山道」となります。「大山道」は、江戸時代中期以降、庶民の間で流行した「大山詣り」に向かう人々が歩いた道で、関東一円をはじめ福島県、新潟県、山梨県、静岡県、長野県から参詣する人々も利用しました。こうした参詣者を案内する道標は市内で113基が確認されています。これら二基の道標も、大山へ向かう多くの旅人を見守ったことでしょう。 令和3年3月 伊勢原市教育委員会写真は上から、「移設前の道標」、「掘り出された道標」、「現在地ともとの位置」二基の道標は、庚申塔を兼ねており、右側の道標には、「柏尾道」「藤澤道」と彫られている。左側の道標には、「比方 かしを道」「比方 ふじさハ道」とある猿田彦大神鐘楼、奥に社務所鐘 楼梵鐘は、神奈川県指定重要文化財(昭和44年12月2日指定)県指定重要文化財 高部屋神社梵鐘高部屋神社は、別名を八幡神社と称し、平安時代に書かれた「延喜式」にもその名が残る延喜式内社です。この神社に伝わっている銅鐘は書かれている銘から至徳3年(1386)12月に河内守国宗によって造られ、平秀憲によって奉納されたことがわかります。龍頭は鼻の上に鋭い目と眉、紐をくわえた口と全体に引き締まっています。笠形については上面のほとんどが平らに近いふくらみをもち下端に一隆線をめぐらせています。上帯は各縦帯の上に一個ずつ陽鋳(浮き出た)の遊離飛雲文が見られます。乳は四段四列の太い葺形でしっかりとしています。池の間には、上下に鋳型の繋ぎ目が見られ、銘文(左参照)が陰刻(彫り刻まれた)されています。下帯は各縦帯の下に陽鋳の遊離訪唐草文が見られ、撞座には花弁の短い八弁の蓮華文が見られます。鐘の全体としてはよく整った優れた作品であり、上帯下帯に見られる文様や作者である河内守姓などから鎌倉を中心とする文化圏のものとわかります。 平成16年3月 伊勢原市教育委員会境内の左側に、八坂神社八坂神社、高部屋神社の拝殿及び幣殿雨が強くカメラレンズに水滴12:47拝殿前から、狛犬、鳥居、境内に聳えるイチョウの樹 ー 続く ー
2021.08.30
コメント(0)
今年の8月中旬は日本列島に前線が停滞し西日本では例年8月の雨量の三倍近く降ったと。このため全国で土砂崩れ等の被害が発生、九州では4年連続の水害で農業被害。この日は雨が上がり、雨も予想されたので車で出かけた。ネットでは中止とあったが、ひまわりが咲いているだろうと予想し出かける。8月18日(水) 10:09昼食は妻に欠食届を出して自宅を出発。小田急小田原線高架橋東方向の小田急海老名駅前ビル群。東の空は青空だが県道46号線を北上するがこの辺りは、JR相模線、小田急線がありいつも渋滞。駅周辺にはまだ田んぼが広がる県道46号線(相模原茅ヶ崎線)下今泉中通交差点を左折県道46号線と相模川の間を走る農道?を走る道路脇に「令和3年度 ひまわりまつり中止」と10:32相模川の河川敷、座架依橋南側にある、「水と緑の風広場リバ-サイドコ-ス」。ナビでは「西洋水仙花壇」と出るが「座間パークゴルフ協会」所在地:神奈川県座間市新田宿27ホールある、座間パークゴルフ協会。パークゴルフは9ホール、パー33でスコアーを争うゴルフに類似した競技で、専用クラブ1本とボールがあれば簡単で楽しく遊べるスポーツである毎週月曜日、水曜日、土曜日に練習会開催。活動時間 毎週 月、水 は合同練習日で 9:00~14:00 毎週 土 は自主練習日で 9:00~11:40事前に連絡頂ければ用具は貸出可能です。興味のある方は是非見学に来てくださいと1番ホール PAR3 33mコロナ過のため皆さんマスクをつけてプレー、4人一組会員募集中で、市内在住者、市外在住者も可。入会金は1,000円で会費は月200円。6番ホールからボールを拾う女性、ホール径は?cm7番ホールに立つ女性二人PAR3 33m上から見ているとホールインワンをしている人もいたが県道42号線(藤沢座間厚木線)に架かる「座架依(ざかえ)橋」の上流側モニュメントをズームアップ座架依橋の下流側落書きされたモニュメント座架依橋の南側に広がる座間パークゴルフ座間パークゴルフの後方に、圏央道の圏央厚木インタ高架座架依橋上から南東方向の海老名駅前ビル群。本来なら手前の畑に黄色のひまわりのお花畑があるのだが海老名駅周辺をズームアップいつもひまわりが植えられている畑だが座架依橋下相模川の護岸桜並木、アジサイ座架依橋の橋下に建つ像「本多菊近翁之像」と「土地改良の碑」「土地改良の碑」には、神奈川県知事 長洲一二区画整理記念碑 座間市長 星野勝司本地域は、古くから相模第一の美田と称せられた水田と、畑地が連らなる相模川左岸耕地の北部に位置するが、水田地域に於ける用水不足や農道用排水路の不備。また狭小かつ不整形な圃場区画による農作業の非効率性解消は、関係耕作者永年の願望であった。昭和26年に国が農業基本法を制定されたのを契機に、関係者相諮り既に区画整理完了済の○○○○第一区とし主水路の改良、未整理地区〇第二区として区画整理の実施を目的に土地改良区を設立、昭和33年・・・・・・・(後略) 平成四年三月吉日 座間市新田宿土地改良区本多菊近翁之像の後ろ側に「勲五等瑞○○○○」中止になった「座間ひまわりまつり会場」所在地:神奈川県座間市新田宿北側に、座架依橋(ざかえばし)ネットには、令和3年(2021)の「ひまわりまつり」は、新型コロナウィルス感染拡大防止のため中止になりました。今年度のひまわりまつりは中止となりましたが、農地の維持管理を目的にひまわりの播種は行いました。四ツ谷地区は9月中旬、座間、新田宿地区は9月下旬に開花する予定です(播種面積は例年より縮小)。駐車場やトイレの設置はありませんので、来場の際は地域住民や交通の妨げにならないようご覧ください。また、農地は私有地ということをご理解いただき、立ち入りはご遠慮くださいとネットでは、ここ新田宿地区は9月下旬に開花する予定とあったが風にあおられながら咲くひまわり相模川の桜並木昭和44年(1969)に座間市の市の花に制定された「ひまわり」また、平成6年(1994)には「かながわの花の名所100選」にも選ばれていますズームアップ平成5年(1993)から荒廃地、遊休農地対策の一環としてひまわりの景観植栽が行われてきた。当初は3haの面積でしたが、今では総面積5.5ha(55万本)を超える規模に拡大しています座架依橋の下に「座架依橋壁打ちテニス練習場」座間市立 座間市スポーツ課座架依橋壁打ちテニス練習場の利用方法等について一、座架依橋壁打ちテニス練習場(以下「壁打ちテニス」という)を利用するものは、市内在住・ 在勤者で「スポーツ施設利用者登録申請書」をスポーツ課に提出し「利用者登録書」の交付 を受けていることが必要です。一、壁打ちテニスを利用するときは、あらかじめ施設予約システムでの予約を済ませてください。一、予約を済ませた後、壁打ちテニスを利用しないことになったときは、直ちに施設予約システ ムで予約の取り消しをしてください。一、フェンス以外(周囲の畑等)へのボールのの飛び出しは迷惑です。・・・・・(後略)11:00県道42号線(藤沢座間厚木線)の座架依橋際交差点ここを右折して、厚木市にある「若宮公園」へ向かう県道42号線(藤沢座間厚木線)の座架依橋相模川に架かる「座架依橋」11:04相模川を渡ると厚木市へ。西の空は雲に覆われ天気が心配になる — 続く ー
2021.08.29
コメント(0)
小雨の中秩父宮記念公園の花を愛でる。7月27日(火) 13:27母屋母屋は木造草葺平屋建てで、元大蔵大臣の井上準之助の別荘だったものを宮家が購入し、秩父宮御別邸とされたものです。もともとは1723年(享保8年)に建築された御殿場市深沢の小宮山家が所有する家屋でした。昭和2年に現在の場所に移築された工事内容はわからなかったが庭先には立入禁止母屋の前に立つ秩父宮殿下の登山姿の像昭和天皇から贈られた登山服姿の秩父宮殿下銅像は富士山に向けて設置されています。朝倉文夫氏(彫刻家)が制作したもので、東京赤坂の御本邸より昭和19年に移設された。像の後方に立つと富士山が見えるのだが、工事中で入れず横顔をズームアップ大きなアメリカ芙蓉芙蓉とアメリカ芙蓉の違いは、どちらも、アオイ科フヨウ属芙 蓉:樹木で、別名モクフヨウと云う。葉の形が、先がとがり切り込んでいる。芙蓉はよく 枝分かれして、横にも張りこんもりと茂る。原産地は、日本、台湾、中国。アメリカ芙蓉:草花で冬を越して咲く宿根草、別名クサフヨウと云い大型の草花。北アメリカ 原産で、葉は切れ込みがなく、卵形で先がとがっているアメリカ芙蓉はとても大きな目立つ花を咲かせるハイビスカスの仲間です。原種は大きくて立派ですが、園芸では主に矮性の改良・交雑品種がよく出回っています。花は一重の丸型で15cm以上になり、花色は赤からピンク、白がある以前撮影した、庭先からの新館と東屋カノコユリ(鹿の子百合)カノコユリは四国南部(愛媛県や徳島県の山間部)や九州(薩摩半島から長崎県沿岸)などで見られる。また、海外では台湾北部、中国・江西省に自生し、タイワンカノコユリと呼ばれています。タイワンカノコユリは花は白く、赤からオレンジ色の斑点が入るそうです早くも、ヒガンバナが咲いていた秩父宮メモリアルガーデンに咲くいろんな花ヤブラン科名・属名:ユリ科 ヤブラン属草丈10~25cmの多年草。匐枝はなく、根の中部~端に楕円状の肥厚が時々ある。葉は常緑で束生し、葉身は線形、長さ25~70cm、幅6~13(-20)mm。先は鋭頭~鈍頭。表面には多少とも光沢があり、裏面は帯黄色の縦筋がある。花は直立し、円柱形で角稜がない花茎に総状につき、花数は35~200花と多数つき、1つの節に2~11花つくカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)カシワバアジサイは、葉の形がカシワ(ブナ目ブナ科の落葉中高木)と似ていることから名付けられた。秋にはきれいに紅葉するため、カラーリーフとしても楽しめるカシワバアジサイとバラズームアップカサブランカオランダを原産とするユリ科の耐寒性球根植物です。生長すると草丈は1m~2mほどになり、白の大輪の花を咲かせます。オレンジ色の大きな花粉があり、強い香りが特徴です。花言葉が「祝福」という意味があり、結婚式はブーケ等にして、プレゼントされる人も多いなお、カサブランカに含まれる成分は、猫にとって中毒を引き起こす危険性があります。猫を飼っている方は、猫が近づかないよう十分な注意が必要ですブッドレア科名 / 属名:ゴマノハグサ科 / フジウツギ属、和名:フサフジウツギ(房藤空木)ブッドレアは長い円錐形の花穂が甘く香り、チョウが集まるため、英名では「バタフライブッシュ」と呼ばれています。藤色を基本に、白や紫などの花色があり、ほかに葉に斑が入るもの、小型のものなど、数多くの園芸品種があります。ブッドレアの仲間は、約100種があり、アジア、南北アメリカ、アフリカに分布します。日本にもフジウツギとウラジロフジウツギが自生しています栗の木にとげとげの実が白いキキョウナデシコバラ園中門から正門へのヒノキ林薄暗いヒノキ林を見上げる正門から中門への「森のエントランス」には約1,000本のヒノキが植栽されている中門を振り返るヤマユリの支柱が残るヤマユリの見納め13:47正門を出、駐車場へ約2時間半の秩父宮記念公園の散策でした御殿場市マンホール蓋富士山を背景に、御殿場線が東海道線だったころに走っていた蒸気機関車が勾配のきつい坂を力強く上ってくる。機関車の前部ナンバープレートにはD52の文字。太平洋戦争中の昭和18年から昭和21年にかけて製造された機関車だそうだ。サクラは御殿場市の市の花「富士桜」。カラーのマンホールもあるが駐車場脇に咲いていたフロックス御殿場からの帰路は、仙石原、箱根湯本ルートもあるが、来た道足柄峠経由で帰ることに。14:27県道365号線(金太郎富士見ライン)を足柄峠へ上る。途中にあった「下の六地蔵」所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下六地蔵とあったが八地蔵?離れたところにも地蔵、石碑があったが14:29下の六地蔵の先数百メートルに「上の六地蔵」上の六地蔵所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下こちらの地蔵さんは六体上の六地蔵の10メートルほど先にある大岩に彫られたお地蔵さまで、一石六地蔵と呼ばれているズームアップするが苔むして判読できず14:31さらに県道365号線(金太郎富士見ライン)を足柄峠へ向かい、小山町方向を振り返る。道路脇に「足柄村造林記念碑」足柄村造林記念碑所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下造林記念碑移転のいわれこの記念碑は、足柄城跡二の丸の高台に昭和6年10月吉日足柄山の造林完了を記念して建立されたものであるが、その後永い年月に土台の石垣等の破損が甚しく、倒壊の危険にひんした為、昭和61年4月小山町に於いて現在地に移転されたものである。この地は、足柄城西の出丸にして西南に張出し下方には堀跡がめぐり、山裾まで足柄古城の面影を止めている。山城では天下の名城といわれる古城であり、貴重な歴史的史跡を出来るだけ自然のまゝに保存を心掛けています。現在は道を境にはるか金時山の鳥居下まで小山町足柄林業組合の管理地であり、組合員271名によって其の撫育管理を行っております。 記念碑移転に当りこゝに建立す。 昭和61年9月吉日 小山町足柄林業組合14:34神奈川県との県境、神奈川県南足柄市小田原 21km 南足柄市街矢倉岳(やぐらだけ)県道78号線(御殿場大井線)を南足柄市街へ下ると前方に。矢倉岳は標高870mで、神奈川県西部の足柄山地に位置する山。山頂は広く、北側には立木があるが、西側が草原状に開けており、富士山の展望がよくハイキングコースになっている15:09道の駅 足柄・金太郎のふる里から南下、開成みなみ通りを東へ開成駅南側交差点酒匂川に架かる、足柄紫水大橋 大井町へ足柄紫水大橋を渡り、県道711号線のせせらぎの郷西交差点から南下15:12県道711号線の大井高校前交差点15:35国道1号の橘インター入口から西湘バイパスへ入る東の空は青空が見える二宮 秦野 出口まで 700m15:38台風8号が来ていたが、東の空は青空今日は台風8号が近づく中の往復145キロのミニドライブでした。次回は天気の良い日に再度訪れたいものです。 END
2021.08.28
コメント(0)
引き続き、秩父宮記念公園の花々を楽しむ。7月27日(火) 12:30左にうぐいす亭、右に記念館。うぐいす亭の右側奥がアジサイロードへの道うぐいす亭秩父宮殿下の和歌「雪きえぬ山のおくにもおちこちのはひ松つたひうぐいすのなく」より名付けられたカフェの「うぐいす亭」。カフェはヒノキの間伐材で建てられており、ヒノキの香りも楽しめる。月替わりでオリジナルケーキや和菓子、宮邸限定コーヒーや軽食もあり、散策の疲れを癒せる場所である昼になりランチをとることに正面に、記念館入口園内で採れた野菜で作りました「自家製ピクルス」税込600円ランチ 650円、コーヒ 350円をオーダーこれで、パーキング料金200円がサービスになるのでコーヒーを追加注文。おにぎりにいろんなものが入っており美味しかった!注文した「おにぎりとみそ汁セット」リーズナブルな価格店内には「自家製ピクルス」1年間に500本売れました!!と額には「秩父宮勢津子妃殿下御詠」吾亦紅・刈萱(かるかや)・薊(あざみ)目立ち来て野にもどりゆく庭を楽しむ 秩父宮勢津子妃殿下御詠 鳥宮暁秀 書「かつて牛小屋、綿羊の小屋、鶏舎などあった土地も元の原野に戻ってまいりましたが、それを 寂しいとは思いません。敗戦後の、生きるための闘いの跡は、豊かな時代を迎えて消えていく のですから、宮様もお喜びになっていることでしょう。」 銀のボンボニエールより(勢津子妃殿下著)この庭園を詠まれた歌です うぐいす亭周りに咲き誇る「シュウカイドウ(秋海棠)」ショウカイドウ科ショウカイドウ属に分類される多年生草本球根植物である。和名は中国名「秋海棠」の音読み。ヨウラクソウ、相思草、断腸花、八月春とも呼ばれる可憐なショウカイドウであるズームアップ13:00ランチ後、記念館へ、今日はお客さんも少なく館内は独り占め状態。皇室の面影を訪ねて 箱根 ~ 三島・沼津 ~ 御殿場恩賜箱根公園(神奈川県箱根町)沼津御用邸記念公園(静岡県沼津市)三島市立公園楽寿園(静岡県三島市)秩父宮記念公園(静岡県御殿場市) 秩父宮記念公園は、御殿場市に寄贈された秩父宮別邸を整備して平成15年4月に開園。 昭和16年から10年間お暮しになった茅葺き屋根の母屋(築300年)は現在記念館となっ ており当時の暮らしが偲ばれます。 記念館ではご遺贈品の英国製の家具などゆかりの品々が展示され、広大な庭園では 四季折々の花が咲き富士山の眺望と一緒にシダレザクラを眺めることができます。記念館の二階から「うぐいす亭」を見下ろす館内に生けられた花御殿場市華道連盟 小原流木イチゴ・リンドウ・ナデシコ・ドラセナ御殿場市華道連盟の先生方による生け花を展示しています。松ぼっくりで作られたオブジェ展示室(記念館)平成4年(1992)に建てられた新館の一部を改装し秩父宮家から御遺贈頂いた品々を中心とした常設展示と年数回の特別展示をしています。園内にある三峰窯の作品も多数所蔵していますごあいさつ秩父宮同妃両殿下が戦中戦後の時期を過された御殿場御別邸は、平成7年8月25日に薨去(こうきょ)された秩父宮雍仁(やすひと)親王妃勢津子殿下の「秩父宮記念公園及び同記念館として使用すること」を前提とした御遺言により、御愛用の品々と共に御殿場市へ御遺贈いただきました。爾来、平成9年度から公園整備計画策定委員会を開催して基本計画・基本設計及び諸調査を実施してまいりました。その方針として、秩父宮両殿下の別邸での御生活ぶりが想い起される場とすること、自然が豊かで歴史的な当地域の品格を保全・誘導する象徴的施設としての役割を担うものであること、この地を訪れる人々が交流できる場とすることを基本としました。秩父宮記念公園は遺贈された御殿場御別邸と隣接地とを合わせて、約9.2haの「総合公園」として整備を進めておりますが、「寛ぎと安らぎの開放感」「自然美の発見」「創造から得られる精神的な満足感」をテーマに、本公園を訪れていただいた方々にさまざまな形で『交流と交遊』が体感できる公園運営を目指してまいります。秩父宮記念公園の開園にあたりまして、御理解と御協力を賜りました多くの方々に深く感謝を申し上げます。 平成15年4月吉日 御殿場市長秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下大正天皇の第2皇子として御生まれになり、御成人と同時に秩父宮を設立されました。若き日の殿下は様々なスポーツを愛好され、「スポーツの宮様」として敬愛されました。ラグビーなどに興味をお持ちになると共に、テニスではニースのトーナメントに出場し、ボートでもオックスフォード大学の選手に選ばれたりしました。とりわけ登山とスキー、ボートを好まれ、英国留学中にはマッターホルンに登頂されています。殿下のスポーツに対する御関心は自らの体験と相まって、今日のスポーツ界の輝かしい時代を建設する礎になりました。晩年には陶芸もなさいました。戦後は御別邸において御療養生活を送りながら読書や執筆活動をなさいました。その御人柄は広く国民から親しまれていました。秩父宮妃勢津子殿下外交官松平恒雄(旧会津藩主松平容保の四男)の長女として英国ロンドン郊外で御誕生。御成婚に当って、御名前の表記(節子)が、皇太后陛下(貞明皇后)と同じであったため、勢津子と改名されました。妃殿下は日本赤十字社名誉副総裁、財団法人結核予防会総裁、財団法人交通遺児育英会名誉総裁として、社会福祉のために貢献されました。また、日英協会、日本瑞典協会の各名誉総裁として、かつての外国生活の御経験を生かして国際親善に尽くされました。殿下の御療養中は献身的に御看病に努められ、殿下が薨去された後もその御経験を踏まえて、結核の撲滅を目指し熱心に活動され、結核問題は妃殿下のライフワークでありました。幼少時より御殿場に御縁があった妃殿下は、殿下が薨去された後も夏季を中心に御別邸で生活されました。秩父宮 略系譜皇族は成年に達すると宮家を創立します。淳宮雍仁親王殿下は大正11年6月25日、20歳の誕生日を迎えられ、秩父宮の宮号を宣賜されました。宮号である「秩父宮」は、明治天皇が崇めていらした帝都所在の武蔵国の名山「秩父嶺」の名からとられたものです。殿下のお住まいになられていた青山御殿の西北の方向に遥かに連なっています。「秩父嶺」は、かつて景行天皇の時代、日本武尊が奥羽平定の後、甲斐に入られるのに往復共にこの地方を経由されるなどの縁の深い土地であり、今なお秩父郡の各地に御遺蹟が存在します。古来より由緒のある地方の山なので、宮号として御採択になりました。展示室内パネル写真と各種メダルが展示されている東京オリンピック TOKYO 1964 TOKYO 2020開催都市 日本の旗 日本 東京 日本の旗 日本 東京 参加国・地域数 93 206 参加人数 5,133人 11,092人 (男子4,450人、女子683人)競技種目数 20競技163種目 33競技339種目開会式 1964年10月10日 2020年7月23日閉会式 1964年10月24日 15日間 2020年8月8日 17日間開会宣言 昭和天皇 令和天皇選手宣誓 小野喬 山県亮太、石川佳純最終聖火ランナー 坂井義則 大坂なおみ主競技場 国立霞ヶ丘陸上競技場 国立陸競技場 SAPPORO72 他各種メダル黒漆塗葵紋入御手鏡(大)御殿場御別邸「母屋」は木造草葺平屋建てで、元大蔵大臣の井上準之助の別荘だったものを宮家が購入し、秩父宮御別邸とされたものです。もともとは1723年(享保8年)に建築された御殿場市深沢の小宮山家が所有する家屋でした。昭和2年に現在の場所に移築されました。東向きの33畳間が土間から洋間に改装され、応接間・食堂・書斎として使用されました。南西側の床下には殿下の御発想で作られたトロッコ風の重ね箱が収納されています。御別邸で栽培された野菜を乾燥するためのものです。「新館」は母屋の北側にあった建物が老朽化したので取り壊し、その跡に妃殿下の御健康等を勘案し、木造銅板葺平屋建物約400平方メートルの御住居として平成4年3月に完成したものです。母屋とは廊下でつながっており、最晩年の妃殿下が主として夏季に滞在された際、御付の方々と共に使用されました。妃殿下専用御寝所奥にベッドを置いてカーテンで仕切り手前をリビングとしてお使いになられました。おもに夏の避暑としてご使用になりました。 平成4年新館増築部分母屋見取り図母屋:リビングルーム殿下は英国留学の経験があり、親交の深かった英国から家具やカーテンを取り寄せ、英国風の部屋を再現し、書斎、応接間、食堂として使用されておりました。殿下は、ここで英国にいる気分に浸り、寛がれておりました。リビングルームの暖炉広間(リビング・ルーム)1723年に造られた日本家屋の土間の部分に床を張りリビング・ルームとしてご使用された、応接間、書斎、食堂兼用のお部屋です。柱は欅、梁は松、窓はステンドグラス、カーテンは英国から取り寄せた布地で椅子の張り替え布も英国製、洋家具は英国オックスフォード大学ご留学中にご使用のお持ち帰り品です。机は英国で使用したときと同じように斜めの位置に置かれました。食卓は両方の下板面が伸び、お客様の人数にあわせられます。椅子は全部革張りです。現在もほぼ当時のままの配置で保存しています。 1723年建築母屋母屋:炉の間炉の間は両殿下でくつろがれた場所です。妃殿下は毎朝、水質の良い中坪の井戸から水を汲みお茶を淹れました。殿下は日用品に「用の美」を見出し、素朴でどっしりとした民藝派の器を好んで使われました両殿下がくつろがれた囲炉裏で、現在でも地元のボランティアの方が茅葺屋根の保存(害虫駆除等)を目的とした燻蒸(くんじょう)作業を行っている写真は以前訪れた時の「燻蒸作業」毎週火曜日に、地元のボランティアの方が母屋内の『燻蒸作業』を行っている。茅葺を全面修復すると、約4,000万円とか西の間への廊下だが、中へ入れず。突き当り左が、母屋:西の間昭和16年(1941)、妃殿下は、殿下の療養には富士山の見える所を希望され、西の間を下見し、部屋から富士山が見えると当地を療養地に決められました。御別邸が当地にできたのは西の間があったからです13:21記念館前右側に樹齢130年のしだれ桜(イトザクラ)が聳えるしだれ桜(イトザクラ) バラ科サクラ属 花期4月上旬 樹齢130年シダレザクラ一名 イトザクラ <枝垂桜>バラ科 サクラ属エドヒガンの園芸品種花は淡紅色で一重咲き 枝垂性ロックガーデン現在、園内には200種類を超える山野草が生育しています。妃殿下は山野草をことのほか大事になさいました。この傾斜地を利用して整備されたロックガーデンには、富士・箱根地方の山野草・亜高山植物が多数生育していますが、これは富士山周辺の山野草の絶滅を恐れた故・池谷貞一氏が摂取した種子から栽培されたものです。ここにもヤマユリが咲く、近くにはキレンゲショウマもヤマユリは花径20cm強の大きな花ズームアップキレンゲショウマアジサイ科キレンゲショウマ属の多年生の植物レンゲショウマに似ていることからこの名があるが、レンゲショウマはキンポウゲ科である。日本の紀伊半島、四国山地、九州山地にブナ林などに自生するカノコユリ(鹿の子百合)カノコユリは四国南部(愛媛県や徳島県の山間部)や九州(薩摩半島から長崎県沿岸)などで見られる。また、海外では台湾北部、中国・江西省に自生し、タイワンカノコユリと呼ばれています。タイワンカノコユリは花は白く、赤からオレンジ色の斑点が入るそうです草丈は50㎝から大きいもので150㎝ほどまで成長します。葉は線形で10~20㎝ほどの長さ、葉に触れてみると少し硬さを感じ、光沢も少し見られます。花期は7月~8月。直立したカノコユリは茎先で枝分かれをし、数個の花をつけ、花の大きさは直径で10㎝ほどで、大半は下向きに咲きます。花弁の縁が白く、中央部に向けて徐々にピンク色となり、個体によってはより濃いピンク色のものもあり、花全体が白花のものもあります13:26記念館を後にする — 続く ー
2021.08.27
コメント(0)
秩父宮記念公園の花々を楽しむ。7月27日(火) 12:02木道 → 憩いの庭 → つばき園 → 防空壕へと進む憩いの庭に咲く花ジュウニヒトエ(十二単)葉の脇から穂状花序(柄のない花が花茎に均等につく)を出し、小さな青紫色ないし白い唇形の花を輪生させる。 花は幾重にも重なって咲く。 花径は5ミリから10ミリくらいである。 上唇は2つに浅く裂ける。 下唇は大きく3つに裂け、真ん中の裂片が大きい。 雄しべは4本で、2本が長い。全体に白い毛を密生させるカンゾウズームアップユリとの競演。ジュウニヒトエ(十二単)の和名は、花の咲く様子を宮中の女官などが着る十二単に見立てたものである。 俳句の季語は春であるユリの原種は北半球に約100種類が分布します。そのうち15種が日本に自生。ヤマユリ、ササユリ、オトメユリ、テッポウユリなど、美しい花が多いことが世界に知られているが、このユリは紅カンゾウ?ズームアップつばき園平成17年(2005)に、新たにヤブツバキを中心とした「つばき園」が開園された石碑の裏には、『「つばき園」ができるまで』郷土の政治家元衆議院副議長勝間田清一氏が、「私が子供の頃は何処の屋敷や田圃の土手にも、緑の葉に真っ赤な花の咲く「やぶ椿」があったが、世の中の変化と共になくなっていくのは寂しいことだ。どこかに「椿の森」を造り残したい」と提案されてから28年の歳月が経ちました。これに共鳴された元東京天文台長 古畑正秋氏が基金を寄付し、東山会会員がその遺志を継いで奔走し、御殿場財産区制施行30周年記念事業として、ここに「椿の森」の実現に踏み出すことができました。御殿場市内で古くからみられた「火防せ」、「防風林」、「河川の土手持ち」として効果が高く、寒さが厳しい当地方でも開花する「やぶ椿」の花の中を散策できるように整備を進めました。 平成17年11月 吉日 御殿場市長 石碑の上にはコケが生い茂るつばき園内には約1,000本の椿が植栽されているヤブツバキの種子種子からは椿油を採取するつばき園を出、散策路沿いにいろんな花が咲いている。バラ雨に濡れたバラフロックス科名 / 属名:ハナシノブ科 / クサキョウチクトウ属(フロックス属)フロックスの仲間は67種が知られて、草丈1mを超えるものから、岩場に張りついてクッション状に育つもの、常緑、落葉、一年草、多年草と、非常に変化に富んで、花が美しいので観賞植物として多くの種が栽培されています。シベリアに1種が分布するほかは、残りすべてが北アメリカに分布していますルドベキアタカオ科名 / 属名:キク科 / オオハンゴウソウ属(ルドベキア属)ルドベキアは、北米に30種ほどが分布している一・二年草、または多年草です。多く栽培されるルドベキア・ヒルタは、秋まきし、強く凍らせないように防寒して冬越しさせると、初夏から夏にかけて黄や、赤茶、黄色に赤茶の模様の入った花を咲かせる一・二年草です。春まきにしても夏に開花??ズームアップ防空壕の案内がありスギ林の中へ、左上に東屋があるが、工事中で立入禁止将校用防空壕入口将校用防空壕入口に立つ説明板、◎ 秩父宮勢津子妃殿下が書かれた手記の中には以下のような記述があります。 参考文献:銀のボンボニエール(主婦の友社) 平成3年6月27日発行 「八月十五日」・・・289ページ 別邸の屋根には迷彩が施され、等海軍部隊の兵隊によって強靭な防空壕も造られました。 地下を螺旋状に掘り固めて、ちょうどカタツムリの殻のように奥に入れるようになってお りました。奥には煙突のような脱出口もついていました。いざというときは宮さまを担架 にお乗せしたままずーっと奥まで入れるのです。このほかに宮内省が作った簡素なものも ございました。◎ 御殿場の空襲についても下記のように書かれています。 「八月十五日」・・・292ページ 七月三十日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きい音がつ づけざまに聞こえてきました。私にはそれが爆弾の音だとすぐにわかりました。御殿場駅 から東へ三キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さま を皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますと、 艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に五十キロ爆弾を八個投下したというこ とです。◎ 両殿下が入られた防空壕は整備し、公開されています。 この防空壕を出て、正面の竹林内にある赤い三角の通気口がある場所が両殿下が入られた 防空壕です。防空壕(将校用)秩父宮同妃両殿下防空壕当園内には、秩父宮同妃両殿下防空壕、将校の防空壕、民間人用防空壕(未公開)の三つの防空壕があります。平成27年に戦後70年を迎え、秩父宮同妃両殿下防空壕を一般公開に向けて整備を進めてまいりました。当時、皇位継承順位第三位であった殿下の防空壕は特殊掩体壕というかまぼこ型で、遮弾層として石を1.5メートルほど積み上げ、その後さらに土を盛った構造で強度があるものでした。 昭和19年11月1日 御殿場別邸上空を敵機が通過するようになる。 昭和20年3月16日 東海軍により殿下専用の防空壕構築計画をたてる。 昭和20年4月8日 構築開始。 昭和20年5月11日 掩体セメント作業のため将兵250名を増員。その他約140名にて照明 燈下のもと作業。その間、市内小学生も石積み奉仕作業に加わる。 昭和20年6月22日 竣工 昭和20年7月30日 御殿場駅付近に爆弾八個投下により両殿下は初めて新築防空壕に退避 されました。病気療養中であった殿下を別邸から担架に乗せたまま防空壕の奥まで入れるカタツムリのような構造となっています。入り口は近くに爆弾が落ちても中に弾や飛散物、爆風などが直接入らないよう折れ曲がり、厚い板戸がついた設計になっています。奥には煙突のような脱出口もついています。 参考文献『銀のボンボニエール』(著者 雍仁親王妃勢津子)より竹林の中に「秩父宮同妃両殿下防空壕」防空壕の上に三角の通気口三角の通気口横に咲くヤマユリズームアップ防空壕園内には3つの防空壕がある。現在内部公開している「将校防空壕」、「両殿下防空壕」、未公開の「民間人防空壕」。両殿下防空壕は、昭和20年3月造成開始、6月完成。その後7月30日御殿場駅付近での空襲時に退避、8月15日終戦を迎えた。当時の図面は「特殊掩体(えんたい)設計図」となっている。「特殊掩体」=「掩体壕」とは、かまぼこ型で大きな強度のある建物。躯体完成後、周りに遮弾層として石を1.5m程度積み、その後土を盛った構造。当時地元の生徒が参邸し石積の奉仕をした。掩体壕設計図は、入口から右に曲がり前室、そのまま居室へとまっすぐに入るようになっていたが、実際は入口から右に曲がり前室に入り、前室左側から居室に入るようジグザグになっている。入口付近に爆弾が落されても爆風が直接両殿下のいる居室には届かないよう、建設段階で変更したと思われる。 秩父宮同妃両殿下防空壕内部。奥には煙突のような脱出口もついている両殿下の居室ここへ担架で運ばれた秩父宮殿下防空壕横から竹林を見上げる竹林の中にはアジサイも咲く両殿下防空壕上に咲くヤマユリズームアップ竹林はアジサイロードになっており、いろんなアジサイが咲く竹林の木漏れ日の中にウズアジサイズームアップ西洋アジサイうぐいす亭裏にある、アジサイロード入口 — 続く ー
2021.08.26
コメント(2)
御殿場市にある秩父宮記念公園の花を小雨の中、ヤマユリほかいろんな花を愛でた。7月27日(火) 11:30中門を入り、受付・案内所入園受付案内所は、売店 休憩所 へお越しください受付前に掲示されていた、 ご注意【入園制限につきまして】現在、緊急事態宣言対象地域からお越しの方のご入園はできません。神奈川県は対象なのか? 入園できるのか心配になる!売店 休憩所への途中にあるバラ園プリンセス チチブ昭和46年(1971)に、イギリスの J.ハークネスから秩父の宮妃勢津子さまに捧げられたバラがあるようだが雨に濡れたバラバラの名札がなく林の小道から売店 休憩所入場時にカードに、住所氏名を記入して提出。カードを提出しながら係員の方に聞くと「東京都の方が対象です」とのことでホット。検温、消毒をして入園料金 300円(JAF会員は250円)を支払い園内へ順路(標準コース)花壇(節花・宮菜) → 母屋 → 木道 → つばき園 → もみじ園 → 防空壕 → 記念館 → 売店 → ※お帰り ※ お帰りは売店(受付)をお通りください。木道 → 憩いの庭 → つばき園へと進む売店 休憩所まえから母屋方向順路(標準コース)に従い、反時計回りに進むことに。台風8号も近づいており雨が降っていたため入園者は数名で園内を独り占め状態林の小道入口秩父宮記念公園は、標高約500メートルにある庭園で、両殿下が愛された山野草を始め四季折々の花々を楽しむことができるメインロードから、林の小道に入り、売店 休憩所を振り返る林の小道にアジサイが咲くアジサイカエデの葉に水滴チップがばらまかれた「林の小道」の足元にはシャガ5月頃にはシャガの花が咲き乱れる標高が約500メートルあるので、アジサイの開花時期も遅いガクアジサイウズアジサイ(渦紫陽花)この花は、オトギリソウ(弟切草)の実夏に黄色い小さな花をたくさん咲かせ、秋にはかわいらしい実をたくさんつけるオトギリソウ(弟切草)の花言葉は「秘密」「迷信」実が可憐である茅葺の邸宅享保8年(1723)に建てられた茅葺きの母屋は、御殿場市指定文化財。昭和2年(1927)に移築したとのことで、移築費用は現在の金額では2億円とか。廻りには樹齢130年のしだれ桜があり、4月中旬が見頃とのこと。団体記念写真を撮影する場所で、後方には梅の木林の中に、ヤマユリが咲くヤマユリは7月から8月に、強い香りのある、花径20cm強の大きな花を1~10輪ほど咲かせます。花弁には白地に黄色い帯状の筋が入り、えんじ色か紫褐色の細かい斑点が散りますアジサイも競演ウズアジサイ木道沿いの花壇に、レンゲショウマ(蓮華升麻)が咲くレンゲショウマは日本固有の1属1種の植物で、東北地方南部から近畿地方にかけて分布。深山のやや湿った林床に多く見られ、やや薄暗い林に大群落をつくっていることもある。シャンデリアのように、大きな美しい花を無数にぶら下げて咲く姿は、夏の花の風物詩としてマスコミなどでも毎年取り上げられている花の特色茎先に円錐花序(枝分かれして全体が円錐状に見える)を立て、花径3~4センチの淡い紫色の花を下向きにつける。外側にあって白い花びらのように見えるのは萼である。萼片の数は7~10枚ある。内側にあって雄しべを取り囲むようにしている淡い紫色の部分が本当の花びら(花弁)である。 花弁の数は10~12枚であるズームアップレンゲショウマは可憐な花であるウバユリ(姥百合)名は、子守役の姥(乳母)にたとえたものといい、世話をしていた幼児が花の盛りの年頃になる時分には、子守をしていた女性はもう歯が抜ける歳になってしまっていることを、花が終わると葉(歯)がなくなることに掛けたものといわれる。直立して大きな葉をつけるので、大きいという意味の「ウバ」が冠せられたという説もあり、そっちのほうが本当らしく思える。ユリの名があるが、通説ではユリ属ではなく独立したウバユリ属とされる。山野のやぶや照葉樹林下に生える多年草。主に関東地方以西に生え、昭和初期には東京全域で普通に見られたという。多くの図鑑では日本海側の分布を石川県以西としているが、秋田県北部でウバユリと思われるものの自生を確認している。東北地方では少なく、代わりに大型のオオウバユリが生える。オオウバユリは北海道と本州中北部に分布し、大型で花が10-20個咲く変種フシグロセンノウ (節黒仙翁)山地の林内でみられる高さ50~80cmの多年草。茎は直立して上部で枝分かれし、まばらに軟毛がはえます。茎の節はやや膨らみ、黒褐色です。葉は対生する単葉で、長さ5~14cm、幅2.5~5cmの卵形~披針形、全縁です。花は茎先に数個つくか、葉腋の2出集散花序にまばらにつきます。花は朱色の5弁花で、花弁は平らに開きます。雄しべは10個です。萼は円筒状で長さ2.5~3cmです。果実は蒴果で、上部が5裂して種子を出します売店で売っていた「フシグロセンノウ」林の中に咲いていたヤマユリヤマユリには「荘厳」「威厳」「純潔」「飾らぬ美」「飾らない愛」「人生の楽しみ」「高貴な品性」といった、花言葉の意味が付いている木道を進み「憩いの庭」へ花の廻りをチョウが飛び回っていた12:02ズームアップ — 続く ー
2021.08.25
コメント(2)
誓いの丘公園から金太郎富士見ラインを下り、県道149号線と合流、秩父宮記念公園へ向かう。7月27日(火) 10:23県道149号線(竹之下小山線)を走り、前方に東名高速道路の橋脚塔10:28JR足柄駅所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下数年前に近くのゴルフ場へ来た時は、古い駅舎であったが。明治22年(1889)に東京 - 大阪間を結ぶ鉄道(1909年に東海道本線と命名)の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和9年(1934) 12月1日の丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の御殿場線となった。なお鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている足柄駅は、駅舎を建替え「交流センター」として、2020年6月下旬よりオープンしました。建屋の向かって右手が「小山町足柄支所」、左手の1Fに「トイレ」など、2Fが「休憩所」になっています。 足柄駅・交流センターの設計は、新国立競技場を設計した「隈研吾建築都市設計事務所」によるものですとJR足柄駅 JR東海TOKYO 2020に合わせて完成させた新駅舎駅前に立つ「足柄古道・銚子ヶ淵コース」 全 長:2.94km、累積高度差:141m金太郎ゆかりの地 足柄古道を散策するコース「足柄山の金太郎」ゆかりの地である足柄地区は、駅前を離れ、里山に入ると高い木々に覆われた穏やかな森が現れます。足柄古道に沿って流れる渓流のせせらぎを聞きながら歩きます。コース最奥には、静岡県水辺百選の銚子ヶ淵があり、滑水をたたえ森と水の調和が清々しく感じられます。コース内に、名高い平安時代の武将である「源頼光」と金太郎が初めて対面したとされる「頼光対面の滝」があり、随所で歴史を感じるコースです駅舎に掲示されていた、東京 2020 オリンピック・パラリンピック 自転車競技ロード 世界が小山をかけぬけるオリンピック 7.24(土) 男子ロードレース 7.25(日) 女子ロードレース 7.28(水) 女子・男子 タイムトライアルパラリンピック 8.31(火) ~ 9.3(金) 男子・女子 タイムトライアル/ロードレース事務所の入口に貼り紙。ここは「小山町役場足柄支所」です。JR足柄駅の乗車券等は取扱いしていません。乗車券は無人駅の為、乗車してから購入して下さい。次の電車は、上下線 10:35駅舎は新築されたが、ホームは従来のまま。第二次世界大戦中の昭和19年(1944)には、不要不急線に指定されて単線化され、レールなどの資材は回収されて他の路線の建設に転用された。しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。また、大幹線である東海道本線から一ローカル線の御殿場線に転じたのちも、1992年に発生した東海道線来宮駅構内列車衝突事故の際などには、不通になった東海道本線のバイパスとしての役割を果たし、寝台列車が当路線経由で運行された← するがおやま あしがら ごてんば →JR東海が管轄する在来線では唯一神奈川県に乗り入れている路線となっており、同社在来線の最東端の路線である。前述の歴史的経緯から東日本旅客鉄道(JR東日本)管理の国府津駅から沼津方面に向かう方が下りとなっている上りの国府津方面沼津方向から上り電車が到着ワンマンの国府津行列車10:35発の上下線の列車下りは、御殿場行き国府津方面急勾配の御殿場線上り方面。御殿場線の最勾配は、御殿場駅の沼津方面の富士岡駅と岩波駅間で25%の勾配。東海道本線時代に使用されていたスイッチバックの跡が残されている東名高速道路の斜張橋橋脚駅前のロータリー足柄駅・交流センターの左手の1Fに「トイレ」など、2Fが「休憩所」になっている2021 静岡県富士山マイカー規制 7月10日(土) ~ 9月10日(金) 期間中は五合目にマイカーで乗り入れできません。 乗換駐車場(有料1台 1,000円) 五合目へは有料シャトルバスまたは有料シャトルタクシーをご利用ください。2Fの「休憩所」から、駅前ロータリーを見下ろすコロナ対策をした休憩所2Fの「休憩所」から1Fを見下ろす1Fには貸出し用の図書足柄文庫のご利用方法こちらは、町立図書館で除籍になった資料や、リサイクルとして図書館に持ち込まれた本を利用しています。 ・『貸出票』に氏名、連絡先、書名をご記入の上、左のポストに投函してください。 ・小山町にお住まいの方、小山町に通学、通勤している方はご利用していただけます。 ・貸出期間は2週間です。 ・読み終わった本は、棚にお戻しください。終日、書棚を確認させていただきますので、返却の連絡は不要です。 小山町立図書館おやま おすいマンホール蓋西の外れが富士山頂という小山町。当然のように富士山が描かれている。南東の外れには金時山があり、東名高速の足柄SAもここ小山町にあるので金太郎も登場し、周囲を町の花「フジザクラ」が囲んでいる。ちなみに、富士スピードウェイもこの町にある国道138号湖水前交差点ここを右折して秩父宮記念公園へ11:20秩父宮記念公園駐車場 駐車料金 バス・マイクロバス 1,000円 上記以外の自動車(二輪車を除く) 200円 駐車場利用時間 午前8時45分から午後5時まで園内で食事すると駐車料金はサービスになると。駐車場には私の車一台美しい日本の歩きたくなる道500選秩父宮記念公園と富士山絶景のみち コース案内マップ 全 長:5.4km(約1時間30分)緑あふれる高原の街「御殿場」 霊峰富士の東麓に位置する緑豊かな高原都市御殿場。四季折々の美しい景観、雄大な自然に囲まれてのスポーツ、そして歴史探訪。御殿場市の魅力を心行くまでご満喫ください。秩父宮記念公園 正門所在地:静岡県御殿場市東田中1507-7秩父宮記念公園は、昭和16年(1941)9月から約10年間、秩父宮両殿下が実際にお住まいになられたご別邸です。秩父宮妃勢津子殿下が、平成7年(1995)8月にお亡くなりになられた際の遺言により御殿場市に御遺贈され、園内を整備し平成15年4月に開園された公園である秩父宮記念公園日本の歴史公園百選秩父宮記念公園沿革秩父宮記念公園は、箱根外輪山の山裾に位置する御殿場市二の岡・東山地域の自然環境の豊かな場所に所在しています。ここは、市街地との接点空間を構成しており、明治期からの別荘地の雰囲気を内包した、御殿場市の近代史を語ることのできる象徴的な場所でもあります。日中戦争の最中、御過労と御心労が積み重なって御健康を害された秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下は、昭和16年から御療養のために夏でも涼しいこの御殿場に御別邸を構えられ、以後昭和27年に鵠沼(藤沢市)に移られるまでのおよそ10年間の大半を過されました。この間、昭和20年8月15日には、終戦の詔書を伝える玉音放送を高松宮同妃両殿下と共にこの地で聴いておられます。当時は食糧難の折であり、邸内では戦時下より畑を耕し芋やカボチャなどを作っていました。秩父宮妃勢津子殿下は、殿下を看病される傍ら、農夫姿で鍬を握り作物を育てられました。殿下も戦後、一時的に御身体が回復されてきた頃には、近在の農民と共に野良着姿で畑仕事や家畜(鶏、綿羊、役牛など)の飼育に励まれ、農園の広さはおよそ500坪に及びました。平成7年に薨去(こうきょ)された秩父宮妃勢津子殿下の御遺言により御殿場市に遺贈された御殿場御別邸に、隣接地をあわせて9.2haの総合公園『秩父宮記念公園』として整備計画が策定されました。整備にあたり「寛ぎと安らぎの開放感」「自然美の発見」「創造から得られる精神的な満足感」をテーマに、本公園を訪れていただいた皆様にさまざまな形で『交流と交遊』が体験できる場所を目指しております。平成17年には、新たにヤブツバキを中心とした「つばき園」を開園しました。見頃の花情報ヤマユリ、西洋アジサイ(中門付近)、カンゾウ(三峰窯付近)、ハナタバコ(秩父宮メモリアルガーデン:以降TMG)、バラ(バラ園)、フロックス(TMG)、ヤブラン(TMG)、ヤマホトトギズ(中門付近)、ブッドレア(TMG)、ガウラ(TMG)、チェリーセージ(TMG)、ナデシコ(三峰窯付近)、ヤブミョウガ正門から中門への「森のエントランス」約1,000本のヒノキ林通りを抜けた先に四季がうたう庭園が広がる正門を入ると直ぐ右にある第16回 静岡県都市景観賞 優秀賞「緑陰の空間 秩父宮記念公園」 緑の園内には、築280年の母屋や樹齢120年のしだれ桜、秩父宮両陛下の御遺贈品の展示室 などがあります。 平成15年度受賞森のエントランスの中には、咲き終わったヤマユリの支柱まだ開花していた、ヤマユリ日本には10種以上のユリが自生しています。中で園芸的に最も重要なユリの原種がヤマユリです。ヤマユリは本州の平地から山地に分布し、日陰がちの斜面や、明るい林、草原に見られる球根植物です。7月から8月に、強い香りのある、花径20cm強の大きな花を1~10輪ほど咲かせます。花弁には白地に黄色い帯状の筋が入り、えんじ色か紫褐色の細かい斑点が散ります。まれに斑点のない「白星(しろぼし)」と呼ばれるものや、花弁の筋が紅色になった「紅筋(べにすじ)」などがあり、少量ですが生産されて市販されています。茎は斜めに伸びて高さ120~200cmになり、その先端に開花しますヤマユリと同様に栽培できる野生のユリに、カノコユリやタモトユリなどがあります。ヤマユリとこれらを交配して、豪華な花を咲かせる園芸品種の系統、オリエンタル・ハイブリッドがつくられているとヒノキ林を見上げる11:28中門の奥に、受付・案内所 — 続く ー
2021.08.24
コメント(0)
雨の中、足柄峠周辺の足柄之関跡、足柄山聖天堂。7月27日(火) 9:40雨の県道78号線(御殿場大井線)を上り、足柄峠へ。ここ足柄峠は、奈良・平安の時代には東国と西国とを結ぶ官道(足柄道)であり、東海道の交通の要所でもありました。当時、東国から西日本の防備のために赴いた防人が、足柄山や足柄地方を詠んだ歌が万葉集の中に多いことでも知られています。また、峠の足柄城址から見る富士山は、長い尾をひく裾野から雪をかぶった頂上まで手に取るように大きく壮大です足柄城址遊歩道案内図足柄城は、後北条氏によって築城された戦国時代の出城です。この城は、足柄峠を中心に???のいくつかの城郭群に守られた堂々たる城でしたが、天正18年(西暦1590年)豊臣秀吉の小田原攻め後廃城となりました足柄峠標高759米 静岡県小山町足柄峠主要史景行43年(113) 倭建命。東征の帰路 足柄峠にて「あづまはや」とのたまう。弘仁2年 (811) 空海。聖天堂本尊を早川の海辺に発見し、足柄峠に祭祀する。昌奏2年 (899) 足柄坂に関を置き「太政官符す。足柄坂、碓氷坂に関を置き勘過すべきの事」。天慶2年 (939) 平将門。乱を起し、足柄、碓氷の関を固める。天延4年 (976) 源頼光。総州大守の任期満ち都への帰途足柄峠を越える(坂田金時を見出だす)。寛仁4年(1020) 菅原孝標の女。「更級日記」に足柄越を記録する。 寛治元年(1087) 新羅三郎義光。後三年の役にさいし足柄峠に露営、兄義家のもとへ行く。 (笛吹石の故事)治承4年(1180) 源頼朝。伊豆に挙兵、軍勢を引率し足柄山中を越え駿河に発向。元暦元年(1184) 西行法師。足柄山を越える時歌を詠ずる。貞応2年(1223) 鴨長明。「海道記」の作者、足柄峠を越える。文永2年(1265) 日蓮。身延への途、足柄峠を越え竹之下に泊る。建武2年(1335) 足利尊氏。一条中将為冬卿らと足柄山中竹之下にて戦い勝つ。文明8年(1476) 太田道灌。今川氏の内紛につき氏親に合力せんと足柄を越える。永禄12年(1569) 北条氏。足柄城他十一城を一万八千の兵を配分守らせる。天正8年(1580) 豊臣秀吉。足柄城などを攻め落し小田原へ迫る。天正18年(1590) 徳川家康。足柄を越え、小田原城の寄せ手に加わる。 倭建命(日本武尊)古事記(和銅5年・712年完成)によれば、景行天皇の皇子、小碓命は、九州の熊襲健を征服した後倭建命と名を改めた。九州から大和へ帰った命は、天皇より東征の命令を受け上総(千葉県)へと出発した。相模(神奈川県)では、野火の難を草薙の剣で無事切りぬけ、いよいよ相模半島(三浦半島)から海路、目的地へ向った。船が大海原にさしかかった時、海の神の怒りにふれたが平穏な海は一瞬にして怒濤さかまく荒海に変った。この時連れの弟橘媛は、荒狂う波間に身を投じ、神をなだめ海を静めた。上総の岸へ無事着いた命は、任務を果したその帰路、足柄峠の頂に立ち、再び見ることはないであろう東の海をながめ、あの橘媛を思い「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と嘆き悲しんだのだった。足柄之関跡おじぎ石おじぎ石旅人がこの石に手をついておじぎをし、手形を差し出した足柄之関跡古代の足柄の関足柄の関は昌奏2年(899)、足柄坂に出没する強盗団、僦馬の党を取り締まるために設けられた。関の通行には相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要だった。関の設置された場所や規模関の停廃の時期などは分かっていない。「源平盛衰記」に治承4年(1180)のこととして、土屋宗遠が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」と見える。また、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅経が、「とまるべき せきやはうちもあらはにて 嵐ははげしあしがらの山」(「明日香井和歌集」)と詠んでいることから、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にはその残骸が残っていたことがわかる。峠付近の路傍から採取された四千年前の縄文土器片が語るように、この峠道の歴史は古く、鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。また、歌枕として関・峠ともに、多くの歌に詠まれている足柄峠一里塚足柄峠一里塚一里塚は慶長9年(1604)江戸幕府が日本橋を起点として一里(約四キロ)毎に塚を盛り上げ榎の木を植えたもので道中の里程と旅人達が駕籠かきや馬方と運賃を決める手段とした。従来は一里が六町(654米)としていたが三十六町(3927米)に変えた為その周知を目的としたとも云れている。この街道は官道として栄えていたが、元和4年(1618)より箱根路に変ったので足柄街道とか鎌倉街道と呼ばれ、甲斐(山梨県)と相模(神奈川県)を結ぶ物資の輸送や富士山、大山詣などの信者でにぎわいをみせたと伝えられている。足柄山聖天堂聖天堂は、日本三大聖天尊のひとつ足柄聖天で、本尊は弘法大師が自筆の「足柄峠」の額と共に奉納したといわれる大聖歓喜双身天(石像1.8m)をまつり、ご利益は、一家和合、商売繁盛、縁結び、厄除で、毎年4月20日の大祭には多くの観光客でにぎわう。足柄山聖天堂前に「クマにまたがった金太郎」の石像足柄山聖天堂の境内に建つ「足柄山聖天堂 電氣電話開通 記念碑」苔むした石祠足柄山聖天堂は屋根を修復中本堂の扁額「〇秋○○」「下(しも)」の安穏由来昔相模の国、小田原在の姥、足柄山聖天尊に祈願し曰く 「吾、年老いて余命いくばくもありと覚えず、大往生遂げたしと願ふても叶ねざる事往々にしてあり、永年病床に臥し家人に「下」の面倒を愛くるは堪え得ざるものあり、されば日頃信仰せし聖天尊の功徳を何卒吾に垂れ給え」と姥は持参せし「腰の物」を差し出したり。堂主、信心深き姥に応え心を込めて誦経し、差し出せし「腰の物」に印授を書きしるし、終生之をまとわば汝の願望必ず叶ふべし、と与えたり、幾星霜年経て、姥の若者山を尋ねて曰く「吾が母、米寿の祝を経て大往生せり、遺言に「下」の世話にならぬはこれ大聖歓喜双身天の法徳なり、願わくば功徳を後世に垂れ給え・・・これ母の意志なりと」かくて堂主、この妙果と功徳を永く伝ふべく念力こめし護法の品を、里人の美男善女に分ち与ふる事となりぬ。それ以来、老若男女を問わず「下」の安穏の為、行楽がてら参詣に来られる方々を数多く見受けます。お年寄りになりましても嫁御や子供達に「下」のお世話にならぬために安穏祈願を済まされる様、皆様におすゝ 一、おとこもの 一、おんなもの 足柄山聖天堂 聖天尊のいわれ足柄山聖天堂に鎮座致します御本尊は大聖歓喜双身天(石像 高さ1.8米)で、元は京都にあったものといわれ、昔、宮中の女官と武士が相思の仲となっていたのが、この聖天像に願をかけて一緒になる事が出来ました。然し有司(役人)は「こんな物を置いていては風紀上よろしくない」と云って、空舟に乗せ海に流したところ、舟は海上を漂流し相模国(神奈川県)早川に着いたので、土地の者が拾い上げ祭っていたのを、弘法大師が見出して足柄山に勧請自筆の「足柄山」と云う額と共に奉納したと伝えられる。この聖天尊の御利益はあらたかで、衆生の迷いを救い願をかなえさせ、紋所である大根は、一家和合、商売繁昌、縁結び、厄除、開運をあらわしその霊験あらたかなことは広く知られ「日本三体聖天尊」(浅草聖天、生駒聖天、足柄聖天)の一つとして数えられている。 行事 一月一日 初詣り 二月三日 節分祭 四月二十日 大祭 毎月二十日 例祭本堂前に聳える「御神木」御神木縁起當山御神木と・・・・・・・・・(判読できず) 平成十二年新春吉日 足柄山聖天堂世話人御神木の上で咲くヤマユリズームアップ足柄山聖天堂前から、県道78号線(御殿場大井線)の南足柄への下り9:54県道78号線(御殿場大井線)沿いに「足柄城址」の石碑。階段を上れば史跡があるのであろうが雨足が強いので今回はスルー足柄峠足柄峠は、標高759米の箱根外輪山から派生する尾根上に位置し、静岡県小山町と神奈川県南足柄市との境にあり、古くから官道として防人や旅人の往来も盛んであった。また軍事的にも重要な場所であったため、多くの史跡や遺跡、石仏、文学碑等が残され、その上旅情豊かな風景は、訪れた人達の心を離さない。 一、足柄の関 一、足柄城址 一、笛吹塚 一、聖天堂 一、万葉公園 一、万葉集から 足柄の御坂に立して 袖振らば 家なる妹は 清に見もかも 一、その他の遺跡、句碑など足柄峠この先を下ると100メートル程で「足柄山聖天堂」周辺の観光案内新羅三郎義光吹笙之石足柄山 笛の調べ八幡太郎義家の弟、三郎義光は琵琶湖の畔り三井寺の近くの新羅の森で元服したから新羅三郎義光と云っていた。戦乱の世にあっても風雅の心を失わず、笙(しょう)は時の名人豊原時元に学んだ。堀河天皇の御代に奥州の清原武衡等が叛いて兵を挙げたのでこれを鎮定するために八幡太郎義家が行った。世に云う後三年の役で、この時敵の抵抗強く義家苦戦と聞いて三郎義光は数十騎の兵をつれて逢坂山を越え、日を重ねて足柄峠に露営したのは寛治元年の仲秋の名月であった。義光は豊原時秋を傍近く呼んで「よく聞かれよ、我は御尊父より笙の秘曲を授り、これを後世に伝うべく托された、然るにこの度戦場に赴く上は生死の程も計り難い、我死なば、この道はすたれ先師の志をも空しうする。只今これより相伝の秘曲を伝授すれば貴殿はこれより京へ引き返しこの道を守られよ。」と諭しこの大石の上に坐り伶人豊原時秋に笙の奥義を伝えた。雨の県道365号線(金太郎富士見ライン)を下るカーナビ10:06県道365号線(金太郎富士見ライン)を下り「誓いの丘公園」所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下3660-59令和2年11月1日に改修工事が終了、新国立競技場を設計した「隈研吾建築都市設計事務所」による「番傘屋根東屋」が新しい見どころだと。天気がよければ富士山が正面に見える。目前に迫る富士山を前にして立つと、富士山に向かって思わず叫びたくなる雰囲気から『誓いの丘』と名付けられました。富士山眺望日本一を誇るこの地『誓いの丘』に設置されている誓いのモニュメントに鍵をかけ、誓いの鐘を鳴らすと幸せが訪れると言われています誓いの鐘左側のハートのオブジェに南京錠をかけ愛を誓いあうと誓いの鐘2002年11月3日 設立後方に富士山が控えダイヤモンド富士に新田次郎文学碑について山岳・歴史作家新田次郎(本名藤原寛人)は、明治45年(1912)6月6日長野県上諏訪町(現・諏訪市)の角間新田に生まれ、昭和7年無線通信講習所本科(現・電気通信大)を卒業し、中央気象台(現・気象庁)に入り富士山測候所にも勤務されました。昭和31年に「強力伝」によって第34回直木賞作家となり昭和41年3月気象庁を退職し、作家生活に入りました。生涯の全作品は合わせて288編で、代表作「孤髙の人」をはじめ「新田次郎全集」全33巻に集成されています。中でも富士山を舞台にしたものが多く、代表的なものとして「強力伝」をはじめ「凍傷」「蒼氷」「富士山頂」「芙蓉の人」「富士に死す」「怒る富士」などがあります。小山町にかかわる作品は「強力伝」「怒る富士」「新田義貞」等がありこれらの執筆にあたり町内各地で取材されました。数々の名作を生みベストセラーとなり、全国の読者から慕われながら昭和55年2月15日惜しくも急逝され68才の生涯をとじました。本会は、先生が富士山を通じて文筆活動に入り私たちの町はもとより富士東麓地域を全国に紹介してくれたことに深甚なる敬意と感謝を表すため生誕90年と町制施工90周年を記念し、富士山眺望日本一を誇るこの地「誓いの丘」に文学碑を建立しました。碑文は、富士山を愛し自然をこよなく愛した先生の作品「白い花が好きだ」の「富士の美」から選定しました。 平成14年6月6日 新田次郎文学碑建設事業委員会新田次郎氏の碑文。「恋をしている 若者たちの眼に映る富士山は バラ色に輝いて見えるであろう」御殿場市街地を見下ろす左奥には愛宕山、手前に御殿場市街地。天気がよければ、駿河湾、富士山が眺望できるビューポイント。4月と8月には富士山頂に夕日が沈む「ダイヤモンド富士」を楽しむことができるので、天気が良い時に再度訪れたいものです番傘屋根東屋、左側は有料のトイレ10:20誓いの丘公園から県道365号線(金太郎富士見ライン)を下り、県道149号線と合流。ここを左折して、御殿場へ合流地点には多くの石碑群、「足柄峠入口」、後方の高架は東名高速道路ズームアップ右は県道365号線(金太郎富士見ライン)の足柄峠下を、県道149号線に平行してJR御殿場線が走る — 続く ー
2021.08.23
コメント(0)
前回訪れなかった、夕日の滝の近くにある足柄地蔵堂へ立ち寄る。7月27日(火) 8:45地蔵堂の左側を進むと夕日の滝へ、左下には駐車場・トイレがある地蔵堂ウォーキングマップ 金太郎生誕の地 地蔵堂へようこそ 自然豊かな里山散策をお楽しみください車を道路脇に駐車して雨の中地蔵堂へ地蔵堂所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢県指定文化財木造地蔵菩薩立像地蔵堂内厨子地蔵堂の扁額「足柄 地蔵尊」地蔵堂前に飾られた花地蔵堂内厨子 室町時代末期 作本堂は、天保12年(1841)に編集された『新編相模国風土記稿』によると、文化14年(1817)に火災に遭ったが、その後再建されたと記されている。昭和50年(1975)にも焼失したが、住民の手によって本堂内の厨子と本尊である地蔵菩薩立像や他の仏像はすべて救い出された。本尊の地蔵菩薩が納められているのが厨子であり、三間(柱間)四方の入母屋造りの屋根に、軸部を禅宗様、軒を和様とした折衷様式で、鎌倉を中心に分布する禅宗様に対して特色がある。また、木鼻が上部の貫だけでなく下部の貫にもつけられていることや天井が丁寧に造られていることも珍しい。 現在は地蔵堂裏の収蔵庫に納められている。 ・入母屋造り:上部は二方、下部は四方へひさしをつけた屋根 ・軸部:建物の土台から軒あたり ・禅宗様:鎌倉時代に禅宗とともに宗から伝えられた寺院建築様式 ・和様:平安時代以降の日本化した寺院建築様式 ・木鼻:貫(柱に通す水平材)の端を彫刻したもの 神奈川県指定重要文化財(昭和54年2月16日指定) 平成25年3月 南足柄市教育委員会木造地蔵菩薩立像 鎌倉時代 作この地蔵菩薩立像(像高160.5cm)は足柄地蔵尊と呼ばれ、玉眼の技法を使い、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、構造は寄木造りである。身体は黒漆で彩られ、着衣は朱漆塗地に銀泥で文様が描かれている。衣の正面にある松葉状に枝分かれする衣文の特色から、慶派仏師またはその影響下にあった仏師が制作したと考えられる。鎌倉時代(十三世紀)の作と考えられる。本像には、「一木三体の作」の伝承があり、一本の霊木から三体の地蔵尊が造立されたといわれ、一体は駿東郡小山町の竹之下に、もう一体は小田原市の板橋に安置されていると伝えられている。なお、本像は乳の病に御利益があると云い、女性の信仰が篤かった。 現在は地蔵堂裏の収蔵庫に安置されている。 ・玉眼:鎌倉時代に発達した技法で、仏像の目に水晶またはガラスを入れたもの ・宝珠:火災を表して上方がとがり全ての願いを思うとおりにかなえてくれるという宝の玉 ・錫杖(しゃくじょう):僧侶の携帯する杖 ・寄木造り:頭部と体部など各部を組み合わせて一体の像に造りあげる技法 ・銀泥(ぎんでい):銀粉をにかわで溶いたもの ・慶派(けいは):平安末期~江戸時代の仏師一派、名に「慶」のつく仏師が多かった ・仏師:仏像を作る工人 神奈川県指定重要文化財(昭和54年2月16日指定) 令和2年7月 南足柄市教育委員会雨の中アジサイが咲く地蔵堂から見下ろす近くの駐車場脇に咲いていたアジサイ小雨の中アジサイを追うズームアップ9:00足柄地蔵堂から夕日の滝方面へ、前回はこの先を直進した。左折すると「はこね金太郎ライン」。金太郎の生家跡と金太郎遊び石。所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢2324雨が降っていたので今回はここで引返すことにする。雨が強いので車中から撮影金太郎遊び石蛤沢(はまぐりざわ)周辺地蔵堂地区は、かつて本州と伊豆地塊に挟まれた、海の底に溜まった泥や砂や礫でできた層(足柄層群)と、その上を覆う箱根火山の熔岩や火山灰の層から成り立っています。金太郎伝説が残るここ地蔵堂地区では、「蛤沢」という地名の由来となった海成層の痕跡(貝化石)や、断層によってできた滝を観察することが出来ます金太郎の遊び石金太郎が産まれた家の前の田んぼの中に、金太郎が遊んだと伝わる、兜の形をした「かぶと石」、太鼓の形をした「たいこ石」といわれる大きな石があります。元気に育った金太郎は、やがて立派な若者となり、足柄峠を通った武勇に優れた武将である源頼光の目にとまり、家来となり名前を坂田金時と改め、京の都に上り「頼光の四天王」の一人として大江山の酒呑童子退治などで活躍しました。 南足柄市夕日の滝酒匂川の支流内川にかかる落差約23メートル、幅約5メートルの滝で金太郎が産湯をつかった滝と伝えられている。夕日の滝の名称は、夕日に映える美しさから名付けられたと言われている。この写真は、5月25日(金)に訪れた時の写真である県道78号線(御殿場大井線)に戻り、足柄峠へ向かう。道路脇に建つ石碑には「○○山〇」足柄古道の案内標識があるが一人では・・・・・。ヒルもいると9:14さらに県道78号線(御殿場大井線)を上ると、バス停「見晴台」足柄古道は、足柄道、足柄路と呼ばれ奈良時代には官道として東西を結ぶ重要な道路として機能していました。九世紀の初めに起きた富士山の延暦噴火で、足柄古道は一時通行が途絶え、箱根越えの道が利用されましたが、噴火が止んだ一年後には復旧しました。万葉集や更級日記などには足柄峠や古道の様子が書かれています。戦国時代には国境防御の目的で古道沿いの尾根に多くの城郭が建設されました。徳川家康が天下を治め江戸に幕府を開いた後は、箱根越えの道が東海道となりましたが、足柄古道はその脇往還である矢倉沢往還となり、物資の輸送や富士講の人々で引き続きにぎわいました。 平成21年3月 南足柄市教育委員会四阿があり、天気が良いと相模湾が見えるのであろうが四阿近くにこんな立札「7月25日にクマと思われる目撃情報がありましたので、注意して下さい。」 南足柄市 産業振興課 環境課 9:18さらに足柄峠に向かって登ると、車中から木々の間に子連れのシカを発見道路脇に車を駐車、車中から撮影こちらの様子をうかがっているのか親シカをズームアップ9:20足柄万葉公園所在地:神奈川県南足柄市足柄万葉公園は、神奈川県(相模の国)と静岡県(駿河の国)の県境にある足柄峠を主とし、南には箱根、東に足柄平野や遠くに相模湾が見渡せ、自然を破壊することなく、市民や観光客が自然の中で憩いながら歴史にふれ、文化的教養の向上を図ることを目的として開設された 足柄万葉公園 案内図 ● 万葉広場一周 約45分 ● 足柄神社跡まで約7分園内は、歴史散策・自然の景勝・万葉集を味わうの三区分からなっており、万葉集に出てくる足柄ゆかりの歌を刻んだ石碑(根府川石)と、歌に出てくるネズ、エゴノキ、アセビ等約90種の植物などが植栽してあります。また、アブラチャン(油瀝青 別名;ムラダチ)が多く自生し、早春(3月〜4月)には黄色い小さな花が園内を彩りますと。 公園内には、歌の解説板、あづまや、駐車場(5〜6台駐車可)が設けてある。左下の矢倉沢・関本から上って来た。富士山の眺望もよいのでまたいつか訪れたいものです石碑には「希望の丘」← 足柄峠 0.6km、 駿河小山駅 6.3km →ここが駐車場であったのか石碑には「かながわ景勝50選 足柄峠」9:23静岡県との県境、静岡県小山町御殿場 15km 小山 8km県境にある「足柄明神社」所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢雨が激しくなり参拝は次回にすることに足柄明神社のご案内ここ南足柄市矢倉沢字明神は、1500年以上も昔から足柄の開拓者たちが足柄明神を産土神として祀ってきた元宮の地です。足柄明神は、『古事記』によると、東国平定の帰りに食事をしているヤマトタケルノミコトを、白い鹿になって襲って打ち殺された坂の神です。坂東人(ばんどうびと・関東地方の人)の誇りを守った古代の英雄なのです。『国名風土記』の足柄明神は、亡き妻の鏡に相模(さかみ)を見る愛妻家で「相模国」の起源だと書いてあります。『梁塵秘抄』等によると、足柄明神の神楽歌「足柄十首」は、巫女であった坂田金時(金太郎)の母たちによって伝えられ、八百年ほど昔、後白河天皇ものどをつぶして練習・伝承されています。今あります足柄明神の石祠は、1873年矢倉(現足柄)神社が、足柄明神を祭神から消して、ヤマトタケルノミコトと入れ替えたので、氏子から抜けた田代静平ら矢倉沢村の人びとが、足柄明神社を再建し護持して来たものです。またここは、足柄城の明神くるわ跡で、ランドマークタワーから房総・三浦半島、江ノ島・酒匂川・大涌谷・金時山までの、旧五か国を車椅子でも展望できる景勝地です。そばに天然記念物級の金太郎赤松もあります。以上のように、足柄明神社地は、足柄の史跡・景勝地であります。しかるに足柄万葉公園からも外れ、森の陰で眠らされていました。わたしたちは、先人が護ってきた足柄明神を知っていただくために境内(国有地)への入口(五か市町組合地)に紅白の鳥居と案内板を建立しました。 2010年8月 足柄明神の鳥居を立てる会奥に足柄明神の茅の輪くぐり9:32県道78号線(御殿場大井線)沿いに、足柄古道の案内標識下ると「足柄古道 足柄神社跡・地蔵堂」上ると「聖天堂・至金時山 約4.0km」足柄道足柄道は、今から約1200年前の奈良・平安時代の官道で、西の都から静岡へ、さらに、御殿場からこの地(足柄峠)を越えて坂本(関本)をとおり小総(国府津)から箕輪(伊勢原)、武蔵へと続いていました。802年に富士山が噴火して足柄峠が埋まってしまった時は、御殿場から箱根へ出て碓氷峠から明神を越えて、関本に下る碓氷道が利用されたこともありますが、古代の官道はほとんど足柄峠であったのです。その後、今の東海道が主流となり足柄道の往来も少なくなりました。南足柄は都から関東に入る玄関口であったわけで、中央の文化の一番早く伝えられる所でもあったといえます9:40足柄山聖天堂所在地:静岡県駿東郡小山町竹之下3649聖天堂は、日本三大聖天尊のひとつ足柄聖天で、本尊は弘法大師が自筆の「足柄峠」の額と共に奉納したといわれる大聖歓喜双身天(石像1.8m)をまつり、ご利益は、一家和合、商売繁盛、縁結び、厄除で、毎年4月20日の大祭には多くの観光客でにぎわう。屋根がシートで覆われ工事中なのか足柄山聖天堂前に「クマにまたがった金太郎」の石像 — 続く ー
2021.08.22
コメント(0)
仁王門から杉林の県道723号線(関本小涌谷線)を上り、境内手前の駐車場ヘ駐車雨の中境内へ。7月27日(火) 7:46曹洞宗 大雄山最乗寺所在地:神奈川県南足柄市大雄町1157大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4,000余りの門流をもつ寺である。御本尊は 釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。開創以来600年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ大雄山最乗寺全景開山了庵慧明禅師は、相模国大住郡糟谷の庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓である。長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉 不聞禅師に就いて出家、能登總持寺の峨山禅師に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師の大法を相続した。その後永沢寺、 近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住する。50才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に 竺圡庵を結んだ。そのある日、1羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(1394年)3月10日のことである境内から参道へ降り立ち瑠璃門前の階段、右側の石燈籠には「東京有志者」と石段を上り「瑠璃門」扁額の「瑠璃門」千社札が多く貼られていた瑠璃門を入ると正面高台に「書院」境内の右側に「光明亭」正面奥に「僧堂」碧落門を出て参道を見下ろす。左の石段は瑠璃門への階段参道を下ると三門があるのだが、雨が降っているので今回は見下ろす参道横に立つ石碑石碑には「金百圓 明治廿二年六月 誠大購」明治時代の1円は、現在の3,800円であるとのことで、380,000円になるのだ碧落門下にある高下駄天狗さんの履き物は、高下駄だが、下駄は左右一対そろって役割をなすところから、夫婦和合の信仰がうまれ、奉納者が後を絶たない碧落門碧落門の扁額「碧落門」碧落門、瑠璃門、総受付がある白雲閣、衆寮、僧堂に続く回廊が禅寺らしい景観を作っている。瑠璃門方向碧落門を入ると正面に、本堂(護国堂)、本尊は釈迦三尊像。昭和29年再建。間口15間、奥行き12間。昭和を代表する仏教建築家、伊藤忠太氏の設計である。御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍に文殊・普賢両菩薩を祀り、日夜国土安穏が祈念され、朝晩の勤行や当山山主が修行僧に対しての説法の場である。左に「大香爐」本堂の扁額「護国殿」本堂前の天水桶雨が降っており天水桶に水が集まる本堂前から碧落門本堂前から右側には、開山堂、鐘楼、多宝塔 等の塔があるが雨のためここでユーターン8:00駐車場脇に建っていた、東京オリンピック5000m代表「松枝博輝」 8月3日(火) 19:00 国立競技場8:09最乗寺から県道723号線(関本小涌谷線)を下り、大雄山駅前を通り、竜福寺交差点。この交差点を左折、県道78号線(御殿場大井線)を御殿場、山北方面へ8:15雨の中、県道78号線(御殿場大井線)を進み正面に矢倉岳。矢倉岳は足柄平野からみるとお椀をふせたような美しい姿である。また、湘南海岸から見ても富士山の手前に、お椀をふせたような二つの矢倉岳、金時山が見える。矢倉岳へのハイキングコースがあり急登のあとにたどりつく頂上で、富士山から箱根、丹沢に連なる大パノラマの眺望が見れる8:24県道78号線(御殿場大井線)の道路脇に立札があり車を止め振り返る。バス停は東山。足柄道、足柄古道の道路標識矢倉沢関所と周辺東海道の脇街道として賑わった矢倉沢往還には徳川幕府により「入り鉄砲と出女」を取り締まるため、ここ矢倉沢の地に関所を置き旅人を厳しく取り締まりました。関所は季節に関わらず午前六時から午後六時までの間しか通行が出来ませんでしたので、関所周辺には旅籠等が立ち並び、関所を通過する旅人で賑わったそうです。現在も「立花屋」「釜成屋」「大和屋」「江戸屋」「常陸屋」「車屋」等、当時の屋号が各家に伝わっていますアジサイが咲く道路の反対側に石碑群庚申塔バス停から小道を下り住宅街へ入ると、矢倉沢関所跡(末光家)この写真はネットから前方は県道78号線(御殿場大井線)の関場足柄古道(足柄道)、矢倉往還足柄道は古代から東西を結ぶ街道として発達し奈良時代には官道として整備された。万葉集には西へ赴く防人の歌をはじめ、足柄を詠む多くの歌が万葉集に残り足柄峠には万葉歌碑が集められた足柄万葉公園も整備されている。街道沿いにはヤマトタケル、源頼朝、徳川家康等にまつわる史跡も残る。江戸時代になると東海道の脇往還として江戸赤坂から駿河吉原を結ぶ街道として賑わった。現在でも宿場や関所跡、そして峠道に残る石畳に往時を感じる事が出来る。古道の一部はハイキングコースとして整備されており、古人(いにしえびと)の気分でハイキングも楽しめる道路標識は、直進すると県道78号線 小山 足柄峠、右折すると県道726号線 山北。この辺りは関場で足柄峠へと坂道を上る8:35この先を左折すると、今年4月28日に新しく開通した「はこね金太郎ライン」へ。箱根仙石原への近道であるが、今日はここを直進し足柄峠へ向かう周辺観光案内古と今をつなぐ、足柄古道名称:足柄古道足柄古道は、古代から東西を結ぶ街道として整備されました。万葉集にもこの地で詠まれた歌が多く残されていることから、この道が古くから人々の往来に深く関わってきたことが分かります。古道の一部は今でもハイキングコースとして整備され、史跡を巡りながら歩くことができます県道78号線 (御殿場大井線)を更に進み、夕日の滝・地蔵堂8:40夕日の滝入口の案内「ようこそ金太郎のふるさとへ 南足柄市」夕日の滝まで、1.5km足柄万葉公園までは、3.5kmアジサイが綺麗に咲いていた金太郎伝説の里「足柄山の山奥で・・・ハッケヨイノコッタ・・・」と歌にうたわれた金太郎は、夕日の滝で産湯をつかい「金太郎遊び石」で動物と遊んだと伝えられている。大自然の中で、熊を投げ飛ばしたといわれるほど、元気のよい子供であった。後に、武将源頼光の家来となり、坂田公時と名のって、四天王の一人として歴史に名を残したダイヤモンド富士富士山頂へ夕日が没するときに、まるでダイヤモンドが光り輝くような光彩が見られます。黒いシルエットの富士山と太陽の光が織り成す光景は、自然が作る芸術です。 金時山 5月10日、8月2日 足柄峠 4月22日、8月21日 矢倉岳 4月15日、8月28日夕日の滝の云われ夕日に映えるその美しい姿からきていますが、一説には毎年1月15日に夕日が滝の真ん中に落ちるので、その名が付けられたといわれています静岡県境まで 3.7km花壇を飾る花々クレオメ和名をセイヨウフウチョウソウ(西洋風蝶草)といいフウチョウソウ科の植物の1つ。蝶が舞う姿にも似た美しい花を咲かせる草本で、観賞用に栽培され、また日本でも逸出帰化している。花言葉は、「秘密のひととき」「風に舞う胡蝶」「想像したほど悪くない」雨に濡れた花をズームアップ。クレオメは花が少なくなる真夏にも元気によく開花します。風に蝶が舞うような花姿からセイヨウフウチョウソウの名がつきました。太くて長い雌しべと、さらに長い雄しべが突出している姿がユニークです。1輪の花の寿命は短いですが、毎日先端に向かって咲き進み、夏の間長く花を楽しめます。蕾から咲き始めは濃い色で夕方には薄くなるので、花序の全体で見るとまるで咲き分けしているようです。こぼれダネでもふえ、育てやすい草花です — 続く ー
2021.08.21
コメント(1)
訪れてから約一ヶ月を経ちましたが、この日はコロナ感染者が増加する中、テレビはオリンピックの放映ばかり。台風8号が関東地方に近寄る中、晴れ間もあるとのことでネットで調べ御殿場市にある秩父宮記念公園のヤマユリ等の花が見頃であるとのことで車で訪れた。7月27(火) 6:03小雨の中、6時前に自宅を出発鉄砲道から国道134号へ小雨が降っており西の空もどんよりと雲がたちこめ西湘バイパスを走り、どうにか箱根の山並みは見えていた6:14西湘バイパス 大磯西インタ前方に大磯プリンスホテル、大磯ロングビーチここを右折し、一般道の国道1号へ6:20国道1号二宮駅前6:48国府津から曽我梅林脇を通り、国道255号を北上。右側は、東名高速道路大井松田インタへ。この先のインター前交差点を左折して県道78号線(御殿場大井線)へ県道78号線(御殿場大井線)を西方面へ進むJR御殿場線の立体交差酒匂川に架かる足柄大橋まだ雨は降っていないが箱根の山々は雲に覆われ足柄大橋の東側の欄干に「クマにまたがった金太郎」他に3種類の像がある足柄大橋上から正面に標高870mの矢倉岳左奥に金時山(標高1212m)、天気が良いと正面に富士山が見えるのだが6:58県道78号線(御殿場大井線)の竹松交差点脇に建つ、道の駅「金太郎のふる里」道の駅 足柄・金太郎のふる里所在地:神奈川県南足柄市竹松1117ー1物販のほか、情報発信・交流コーナーがある多目的施設で2020年6月26日にオープンした店内の物販コーナーは時間が早く開店前。物販コーナーでは地場産の野菜や加工品の他、地域の逸品「南足柄ブランド」などを販売道の駅の東側にヒマワリ畑フェンス越しに望む後姿を撮影ズームアップ道の駅から出て東側からヒマワリを撮影道の駅をオープンしたので、ヒマワリ畑もズームアップ道の駅の後方に矢倉岳このあと足柄峠へ向かうが県道78号線(御殿場大井線)は左側を上る7:24秩父宮記念公園の開園が9時からのため大雄山最乗寺へ立ち寄ることに。伊豆箱根鉄道大雄山線の大雄山駅所在地:神奈川県南足柄市関本駅舎の左側に、金太郎のふる里足柄山金太郎のふる里の元祖を、静岡県小山町と競い合っているようだがクマにまたがった金太郎像7:28大雄山駅前から、県道723号線(関本小涌谷線)を上り大雄山最乗寺へ。途中に「仁王門」バス停バス停横に立つ案内板大雄山最乗寺参道二十八宿道標二十八宿石燈籠は、中国式の星座名を冠した石燈籠型の道しるべです。一丁目から二十八丁目の道程を知らせるとともに、宵祭りの参道を照らし参拝者を安全に導く燈籠として設けられたものです。燈籠は、元治元年(1864)小田原誠信社中、及び明治40年(1907)東京浅草新吉原構中によって建てられました。天狗伝説の里てんぐのこみちは仁王門から道了尊バス停までの約2kmの遊歩道。1万株のあじさいや林床のシャガなど四季折々の花が咲き、秋には紅葉と訪れる人々の目を楽しませてくれます。また、樹齢四、五百年の杉並木は「神奈川県の天然記念物」「かながわの美林50選」に指定され、森林浴も楽しめます。仁王門の右側に県道723号線(関本小涌谷線)の坂道サクラの時季も最高である仁王門の石段の両側にアジサイが咲く。参道の3丁目に位置する朱色の門大雄山最乗寺の石標仁王門前にアジサイと石燈籠仁王門安政元年(1854)建立で、最乗寺最古の建物です。右側に阿形像、左側に吽形像の二体の金剛力士像が安置された朱塗りの門で「東海法屈」と「最乗寺専門僧堂」の扁額を掲げていています。金剛力士は金剛杵とゆう武器を持ち仏法を守護する護法神で、二体の尊像が祀らてる門を仁王門といいます右側に立つ、阿形像の金剛力士像左側に立つ、吽形像の二体の金剛力士像仁王門から東側の大雄山駅方向を見下ろすこの辺りのアジサイは終了。来年は最盛時に訪れたいものです7:46曹洞宗 大雄山最乗寺所在地:神奈川県南足柄市大雄町1157仁王門から杉林の県道723号線(関本小涌谷線)を上り、境内手前の駐車場ヘ標高が高いのでアジサイが見頃カシワバアジサイズームアップカノコユリ(鹿の子百合)カノコユリは四国南部(愛媛県や徳島県の山間部)や九州(薩摩半島から長崎県沿岸)などで見られる。また、海外では台湾北部、中国・江西省に自生し、タイワンカノコユリと呼ばれています。タイワンカノコユリは花は白く、赤からオレンジ色の斑点が入るそうです草丈は50㎝から大きいもので150㎝ほどまで成長します。葉は線形で10~20㎝ほどの長さ、葉に触れてみると少し硬さを感じ、光沢も少し見られます。花期は7月~8月。直立したカノコユリは茎先で枝分かれをし、数個の花をつけ、花の大きさは直径で10㎝ほどで、大半は下向きに咲きます。花弁の縁が白く、中央部に向けて徐々にピンク色となり、個体によってはより濃いピンク色のものもあり、花全体が白花のものもあります ー 続く ー
2021.08.20
コメント(0)
全708件 (708件中 251-300件目)