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10/20(土) 茅ヶ崎から大磯宿への3/3の最終版です。大磯宿は日本橋から8番目の宿。平安末期には相模国の国府が置かれ、鎌倉時代から宿が形成されていたので、東海道制定の当初より宿駅に指定された。14:00 国道一号の相模貨物駅前交差点正面に昔と変わらない高麗山が14:05 平成の一里塚広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川花水川の上流方向、遠くに大山が見える14:10 日本橋から66km大磯町観光案内図14:13 高来神社(タカクジンジャ)創建は神武天皇の頃と言われている。鎌倉時代には幕府の庇護を受け、高麗権現社と高麗寺を中心に二十四もの僧坊を有した大寺院だったが、室町・戦国時代に大半は兵火で焼失したその後、家康から寺領百石と山林をもらい再建し、家康死後は東照権現を祀った明治の神仏分離で高麗寺二十四坊は廃止され高麗神社と改称、明治30年(1897)から高来神社となった高来神社の説明板高来神社左右に二棟あるが高来神社のシイニッケ幹の心材が腐朽し、頂上部が凹状になったスダジイの古木にヤブニッケイが根付き生長した結果、現在のよな樹形になった。樹齢は幹下部のスダジイが300年以上、幹上部のヤブニッケイが150年前後と推定忠魂碑等の石碑が並ぶ14:23 関東ふれあいの道道標14:25 国道一号沿いにある「虚空蔵尊」虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通った。《寺領傍示杭》高麗寺村と大磯宿との境界を示す。高さは三米程であった14:29 国道一号線から旧東海道の「化粧坂」入口国道一号線から旧東海道へ14:36 「化粧(ケワイ)坂の一里塚」旅人の旅程の目安となり江戸日本橋より16里の所に、日陰で風よけなどで小休息の場となる。高さ約3米程の上に海側に榎を山側にせんだんを植えた本図は、初代歌川広重が天保4年(1833)頃に制作した浮世絵『東海道53次之内大磯虎ケ雨』上部絵の解説14:39 大磯八景碑「化粧坂の夜雨」大磯八景は明治40年頃大磯町長が大磯の名所八景を選んで絵葉を出版したのが始まりで、その後、大正12年に大磯小学校の校長が自作の詩を刻んだ記念碑をそれぞれの位置に建立した。現在は7基が残っている旧東海道の並木14:45 虎御前化粧井戸跡の説明板鎌倉時代にあった大磯宿の中心はこのあたりで多くの白拍子(遊女)がいた。仇討ちで有名な曽我兄弟の兄・十郎祐成の恋人であった白拍子・虎御前が、井戸の水を汲み化粧をしたという伝説の化粧井戸井戸は民家のそばに位置する旧東海道は住宅に面しており車の量は少ない旧東海道と住宅の間には脇道がある木が多く木陰になる大磯町の下水マンホールOISO雨水マンホール14:50 樹木の管理も徹底西洋アサガオ14:54 江戸見附宿場の出入り口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。また、宿場の範囲を示しており、宿場の京側にあるものを上方見附江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいた14:57 国道一号線、平塚方面、左側が旧東海道14:58 JR大磯駅入口15:03 国道一号線から坂道を登り大磯駅へ15:04 大磯駅前洋館:旧木下家別邸及び新館並びに敷地H24年2月23日に国登録有形文化財に登録されている今は洋食店に利用されている大磯駅前洋館:旧木下家別邸及び新館並びに敷地緑豊かな土地に周辺環境と調和した風格のある佇まいは、新館と石垣を携えた敷地と一体となって、大磯の別荘文化を現在に伝える景観を形成している15:05 JR大磯駅前15時過ぎに着いたが、クラブツーリズムのツアーは15:30にここで解散する明治になると大磯はリゾート地としてにぎわうようになり、明治18年(1885)日本で初めての海水浴場が開かれた。伊藤博文、山形有朋らが別荘を構え、島崎藤村が晩年を過ごした駅舎内の東海道53次、歌川広重の「大磯 虎ケ雨」駅舎を出て、バス、タクシー乗り場ここの駅前に立つのは、現役時代に最終電車で乗り過ごして降り立った時以来か駅の陸橋から東京方面小田原方面15:11発の小金井行きが15:11発の列車に乗り、約10分で茅ヶ崎駅へ到着朝10時に茅ヶ崎駅を出発してから大磯駅まで約5時間36,500歩の道中でしたが、このルートは再度旅友と弥次喜多道中で挑戦予定 東海道53次大磯宿ー2へ 東海道53次ーEND
2018.11.04
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10/20(土) 東海道53次の平塚宿をアップします平塚宿は、日本橋から七番目の宿で、古くから相模川河口に須賀湊があり、農作物や海産物などの集散地として栄え、15~16世紀にかけては小田原北条氏の直轄地だった11:29 国道一号線の、ここから平塚市馬入橋からの相模川下流の「湘南大橋」11:33 日本橋から62km、天気が良いと富士山が見える。若い時平塚研究所勤務時は、この橋を自転車で通勤JR東海道本線、平塚駅手前上流に「湘南銀河大橋」が見える。型式:3径間連続鋼斜張橋 全長:520m11:39 馬入橋の平塚側にある「陸軍架橋記念碑」大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶た。9月17日、陸軍第十五師団(豊橋)、第十六師団(京都)所属の工兵大隊が急遽派遣され、架橋工事が開始された。橋の全長450mを両師団が担当して工事、同年10月3日に完成した。この記念碑は馬入側を担当した第16大隊の事績を称えたもの。平塚市の下水マンホール11:41 工業団地入口交差点11:43 馬入交差点11:44 東海道 馬入の一里塚馬入の一里塚は江戸日本橋から数えて十五番目この道を大磯方面へ直進したが、旧東海道ではなかったようだ。クラブツーリズムのツアー団体も見えず11:59 平塚駅北口ここでスマホで確認、北側の国道一号線へ向かう12:03 国道一号線の陸橋上から南方面の平塚駅を望む国道一号線の東京方面国道一号線の大磯宿方面、鳥居は平塚八幡宮12:05 平塚八幡宮の鳥居手水舎折しも「七五三祝い」の受付が境内ではお祝いの家族が境内からの鳥居12:12 八幡山公園内にある旧 横浜ゴム平塚製造所記念館愛称は「八幡山の洋館」施設案内記念館の見学は無料開館時間:9:00 ~ 21:30 休館日:毎週月曜日庭園では秋薔薇が咲き薔薇の香りが漂いいろんな色の薔薇が12:22 日本橋から64km12:30 鶴峰山 光圓寺六地蔵尊本堂と手向けの塔本堂前から鐘楼12:34 国道一号線12:40 日本橋から65km12:44 国道一号線を歩いていたら「平塚の塚」の案内板を見つける12:49 スマホで案内をさせるが、近くにあった「春日神社」神社本殿、左に社務所12:50 西仲町公園12:51 ようやく「平塚の塚」へたどり着く平塚の塚由来天安元年(857)桓武天皇の曾孫、高見王の娘政子が東国に向かう途中この地で没した。その棺を埋めて塚を作ったところ、塚の上部が平らであったため「平塚」の地名となったとの伝承がある平塚の碑の松12:54 平塚の塚を後にする13:04 教善寺永海山 妙音院「教善寺」開祖一遍上人留錫霊跡大賀蓮由来記と当山の大賀蓮当山の大賀蓮は平成9年(1997)に千葉県農業試験場より譲渡された13:09 平塚宿京方見附この後、地図で本陣跡等の所在を知り引き返して向かうことに13:15 カンパーニュ 平塚店(tel:0463-31-1767)住宅街を歩いている時、パンを焼いているいい香りが漂いお腹も空き店先に並べた販売の特売商品、店員が「迷うなら買ったら」とパンが好きで4個購入、店先のベンチに座りカレーパン他を食べる2個を食べたので2個はお土産で持ち帰る13:33 平塚宿東組問屋場の跡の石碑平塚宿東組問屋場平塚宿は東海道53次の一つの宿場として慶長6年(1601)に成立した。宿場には人馬の継立や御用旅宿の手配をはじめとする、宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といった。平塚宿には問屋場が二か所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といった13:42 平塚宿脇本陣跡の石碑平塚宿脇本陣13:44 「平塚宿高札場」の跡の石碑高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札。その高札を提示した場所が高札場で、各宿屋や村々に設けられていた13:48 福生山 宝善院境内と本堂福生山 宝善院の歴史戦国時代は、小田原北条氏の庇護を受け、今も寺紋は「北条のミツウロコ」である鬼門よけの呪法(猿すべりのまじない)。屋敷の東北を鬼門と呼び、当院東北の角に樹齢数百年と思われる2本の「さるすべり」が植えられている斎藤麗山 句碑麗山は江戸時代末、当院の檀家、平塚本宿の質商斎藤家に出生福生山 宝善院にある「須賀神社」院内にある、武田信玄の小田原攻め戦死者供養塔13:55 東海道平塚宿の京方見附之跡平塚宿京方見附初代広重によって描かれた東海道53次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山の姿に往時の風情が偲ばれる国道一号線、この先から大磯町14:00 大磯側から平塚市内へいよいよ花水川を越えて大磯宿へ平塚宿から大磯宿までは27町(約3km)で、東海道の宿場間距離としては、石薬師宿から庄野宿間の25町(約2.7km)についで三番目に短い 東海道53次大磯宿-1へ 続く
2018.11.03
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四国88霊場の遍路も3月末に結願、次は東海道53次を歩こうと旅友K氏と計画、手始めに今年の2月15日(木)に日本橋から品川まで歩いた。その後、海外旅行、夏場になり計画は進まなかったがネットでクラブツーリズムで『歴史街道あるき旅』のツアーがあることを知る。10/20(土)に「第9回茅ヶ崎から大磯宿」旅費代金:5,000円のツアーがあり、今後の参考のために後からついていくことにした。駅前に10時集合とのことで、自宅を9時半過ぎにでて歩いて茅ヶ崎駅へ向かう。9:45 自宅近くの国道一号線:日本橋から57km案内板は「東海道の松並木」茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2mの高さで測定)2.2m(推定樹齢400年)の大きな松が育っている。この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道53次にも描かれている昔の松は枯れ若木に植え替えられ国道一号線の東京方面国道沿いの、曹洞宗「海前寺」入口曹洞宗「海前寺」6地蔵と山門茅ヶ崎市本村にある八王子神社茅ヶ崎駅まで約500m、この辺りも松が多いが何代目?9:59 国道一号線「一里塚」交差点茅ヶ崎一里塚徳川家康は関ケ原の戦いの翌年慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかった。慶長9年(1604)徳川幕府は東海道などの一里(約4km)ごとに塚を築き旅人の目安にした。東海道は江戸の日本橋を起点にして茅ヶ崎の塚は日本橋から14番目10:05 集合場所のJR茅ヶ崎北口クラブツーリズムの集合時間は10:00であったが、既に参加者に説明中茅ヶ崎駅からのウオーキングコースが、A~Fの6コースある駅北口の2階コンコースに茅ヶ崎に関係する有名人の手形が4名分ある。「海その愛 加山雄三」 「きぼうの未来園へ 野口聡一」「宇宙をめざせ 土井隆雄」「温故知新 市川團十郎」何故市川團十郎なのか? 私の知る限りでは、九代目市川團十郎が明治29年、茅ヶ崎鉄砲道付近に土地を求めて別荘を建てた。狐松庵と名付け、敷地内には稽古場を備えここで次世代の歌舞伎界を担う若手を育成した参加者は最小催行人員18名に対し、36名ほどが参加、皆さんリュックを背負い参加。前後に係員がクラブツーリズムの旗を持ち誘導駅から数分の茅ヶ崎新庁舎、手前は解体された旧庁舎後旧庁舎跡地とマンション、駅方面茅ヶ崎市の下水マンホール茅ヶ崎市中央公園前の陸橋10/28(日)に茅ヶ崎パン祭りが開催される茅ヶ崎市中央公園茅ヶ崎市役所の敷地内にある「旧寛永寺石燈籠 四基」。上野寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたされた。ツアーはここを説明していたが私は離れて別の場所へ国道一号線の歩道にある「クロマツの株後」当時のものかモニュメントとして残している10:27 茅ヶ崎円 円蔵寺御本尊:薬師如来 厄除秘鍵大師宗 派:高野山真言宗総本山:高野山金剛峰寺 宗 祖:弘法大師(空海)山門からの本堂山門にある竜の彫刻本 堂弘法大師修行像駅近くにある寺10:31 十間坂交差点10:34 日本橋から59km国道沿いの民家の庭に咲いている時期外れのさくら平塚方面10:38 第六天神社クラブツーリズムのツアーも訪れ陸橋の上から第六天神社 御由緒創立年代、創立者等は不詳。文献では江戸幕府編集の新編相模風土記(12代将軍家慶の時代・天保12年)に初見される御祭神淤母陀琉命(オモダルノミコト)妹阿夜訶志古泥命(イモアヤカシコネノミコト)神社の裏にある「パワースポット」第六天さんの黒松(樹齢は200有余年と推定される)手水舎山岡鉄舟(山岡鉄太郎)書が、拝殿に掲げられた扁額がある。幕末から明治時代に活躍した幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟)の一人で、単身にて敵陣に向かい西郷隆盛と面談して交渉し、江戸無血開城への道が開かれた龍の彫刻山岡鉄舟(山岡鉄太郎)書が、拝殿に掲げられた扁額10:50 第六天神社を後にする10:58 千の川に架かる「鳥井戸橋」東海道南湖左富士之碑浮世絵師安藤広重が天保3年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道53次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。左富士が見えるのは、ここと静岡県の吉原の二か所が有名鶴嶺八幡宮大鳥居11:05 国道一号沿いの「旧相模川橋脚」案内神明大神祭神:天照大神 大山咋命11:09 天然記念物&史跡の「旧 相模川橋脚」関東大震災時の液状化現象により水田の中から橋脚七本が出現し、地中から三本が発見された発見された当時の写真が歴史学者である沼田頼輔によって、建久9年(1198)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証された大正15年(1926)に国の史跡に指定された11:13 「旧 相模川橋脚」旧 相模川橋脚の位置からも昔は馬入川の流れがもっと茅ヶ崎よりだった。ただし、この橋脚が作られた当時の流路の全体は明確でなく、この橋が相模川の本流・支流とどのような関係にあったかは、まだはっきりしていないのだと小出川の下流方面と新湘南バイパス11:15 今宿ポンプ場今までの仕事の関係上、気になる設備11:19 国道一号線の平塚方面日本橋から61km11:21 日蓮宗「妙厳山信隆寺」11:24 国道一号線の距離表示:日本橋から61.3kmで100m毎に表示この地点は茅ヶ崎の馬入川(相模川)手前で、橋を渡り平塚宿へはいるこのツアーは人気があるようで、ネットで調べると今年あと二回実施されるが10/25の段階では、10/27、11/4 はキャンセル待ちであった 東海道53次ー続く
2018.11.02
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2/15(木) 三田界隈から、泉岳寺経由JR品川駅へ泉岳寺は昨年行って以来二度目の参拝 15:40 泉岳寺中門へ到着 中門から山門を 泉岳寺山門 萬松山 泉岳寺案内板 大石内蔵助良雄 銅像 泉岳寺本堂 山号:萬松山 宗派:曹洞宗 寺格:江戸三箇寺 本尊:釈迦如来 創建年:慶長17年(1612) 開基:門庵宗関、徳川家康(願主) 萬松山 泉岳寺 本堂前から山門を 赤穂義士墓所へ 石塔に巨人軍 長嶋茂雄と刻まれ、女優の冨士真奈美も 後方の建物は、赤穂義士記念館 瑶池梅(ヨウチウメ)の下に石碑が 瑶池梅(ヨウチウメ)の由来 瑶池梅(ヨウチウメ)の開花はまだ 首洗い井戸 義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸で洗い、主君の墓前に 供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている 石塔には、川上音二郎建立とある 義士墓入口の門 線香を100円で購入して義士墓へ参拝 手慣れたおじさんが線香に火をつけてくれ 義士墓入口の門 墓の配置図 正面に浅野長矩公の墓、右手前には長矩公夫人(瑶泉院)の墓 正面に、大石内蔵助良雄 その右に大きな浅野長矩公の墓 奥の屋根囲いの中は、大石主税の墓 墓地内には忠臣蔵で有名な赤穂藩主・浅野長矩公、長矩公夫人(瑶泉院)の墓、及び 赤穂義士大石内蔵助良雄、大石主税を含む47士の墓と萱野三平の供養塔がある 萬松山 泉岳寺本堂 外国人観光客も訪れ動画で撮影 庫裏から山門、右奥に義士墓所 旅友は御朱印を頂く 山門前の土産物店 その土産物店の上には、ふれ太鼓 中門の屋根には 16:16 稲荷神社 16:20 高輪神社 ビル街の中にある、高輪神社 16:30 高輪海岸の石垣石 当時の浮世絵 高輪の地名の由来 この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていたが 転じて「高縄」から「高輪」となった この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東禅寺など多くの名跡がある 16:35 第一京浜(国道15号線)をJR品川駅方面へ歩く 16:43 旧竹田宮邸洋館 この地で唯ひとつ現存する旧宮家の邸宅は竹田宮邸の洋館 宮家の変遷 幕末から明治初期にかけて宮家6家(山階宮家、華頂宮家、北白川家、梨本宮家 久邇宮家、小松宮家)が創設され、その後しばらく間をおいて、明治中期以降に 7家(賀陽宮家、東伏見宮家、朝香宮家、竹田宮家、東久邇宮家、李王家、李鍵 公家)が創設された。 戦後、皇籍離脱と財産税対策のために旧宮家はその邸宅を手放し、西武グループ の創始者・堤康二次郎はこれを次々に購入し、その地にプリンスホテルを建設した) グランドプリンスホテル高輪 16:55 高輪のカトリック教会 江戸の大殉教 1623年12月4日、徳川三代将軍家光は外国人宣教師を含む50名のキリシタンを 迫害政策により江戸市内を引き回したうえ、ここから近い札の辻の小高い丘で 火刑に処した・・・・・・・ カトリック教会の入り口に 江戸時代の処刑シーンの絵図 この坂を下ると、JR品川駅へ 17:05 グランドプリンスホテル新高輪 既に点灯していたが、夜はイルミネーションがきれいであろう 17:06 JR品川駅前 第一京浜(国道15号線)、京都方面 東京方面 日本橋を10:18に出発して、昼食時と公園での休憩のみで、旅人と途中ところどころ にある旧跡や碑を訪れ、約6時間半の散策、自宅から31,700歩でした 17:00過ぎから、駅前の居酒屋で日本酒を頂く 20:15 いろんな料理を頂き このあと、JR東海道線で自宅へ帰る 日本橋から品川宿までの 11.6kmを6編でアップしましたが、 この後日を改めて、品川宿から川崎宿、神奈川宿まで、9.8km+9.5kmに挑戦予定 END
2018.02.23
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2/15(木) JR田町駅近くで遅い昼食をとり、泉岳寺方面へ向かう途中、ところどころにある旧跡や碑を見ながら移動した 14:15 聖坂(ヒジリザカ) 古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿舎も あったと。竹芝の坂と呼んだ説もあると 聖坂の途中にある『亀塚稲荷神社』 弥陀種子板碑 14:30 亀塚公園の『亀塚』 旧華頂宮邸跡 小山の上にある、亀山碑 歴史資料『亀山碑』 14:40 幽霊坂 坂の向かい側に寺院が並び、ものさびしい坂であるため、この名がついた らしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七か所ほどもある 曹洞宗 玉鳳寺 幽霊坂にある仏教寺院 山門寄進は、檀信徒総代 高橋是清 翁 明治39年7月10日建立 仙翁寺:幽霊坂にある仏教寺院 14:50 臨済宗 正覚院にある福島正則の墓 戦国武将の福島正則は、豊臣秀吉の親類で賤ヶ岳の七本槍の一人 14:55 由良山 荘厳寺 鐘楼と親鸞聖人御像 江戸時代にはここのお寺から海が見え、大名が訪れて月見をしたと刻まれている 鯉の滝登り 15:00 三田台公園 同公園内の梅も満開に近い 紅梅も咲き、良い香りが漂い 15:10 大石良雄等自刃ノ跡の石碑 大石良雄外十六人忠烈の跡 この地は肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部 この中は大石と砂場 自刃せる義士左の如し 元禄16年2月4日壮烈な死を遂げた現場 囲いの中は 15:15 丸山神社 創祀の沿革 曹洞宗 醫王山、廣岳院 15:18 興意親王墓 所在地:港区高輪1-25-4 宮内庁管轄だけに墓地内の整備は整い このあと狭い路地を歩いたが、道を間違えて国道一号線へ出る 旅友が、iPhoneでナビして方向確認 15:40 泉岳寺の前にある公園 道を間違えたがようやく泉岳寺へ END
2018.02.22
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2/15(木) 徳川将軍家の菩提寺『浄土宗大本山増上寺』へ 2/15(木) 10:18 に日本橋を出発、旅友と弥次喜多(爺二人)道中に 旅友に撮影されたものを追加しました 12:40 三解脱門(別名、三門) この門は増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に 指定されている 三解脱門(三門)を入り、正面に大殿(本堂)と東京タワー 鐘楼と枝垂れ桜 水盤舎(スイバンシャ) 増上寺大殿(本堂)と東京タワー 宗 派:浄土宗鎮西派 本 尊:阿弥陀如来 創建年:明徳4年(1393) 開 基:聖聡 増上寺旧方丈門(黒門) 全体が黒漆塗りであったことから黒門とも呼ばれた 12:50 重要文化財『旧台徳院霊廟惣門』 日比谷通りから 彫刻『木造仁王像』 左右に安置している寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に 乗った岩坐の上に立っている 平成16年から17年に行われた修理の際に、体内から修理銘板が発見され 元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門 に安置されていたもので、二度にわたり修理されていたと 門を入り 港区は、昨年(H29年)3月15日に70周年を記念して植樹した その時植えられた、カンザクラ カンザクラも一部咲き 12:55 芝東照宮へ 御祭神:徳川家康 以前は、増上寺安国殿と呼ばれ、『江戸名所図会』にもその姿が見れる 明治の神仏分離によって増上寺から切り離され東照宮となった 社殿へ、境内には紅梅が咲き 芝東照宮鎮座 由来記 白梅 紅梅も 手水舎 芝東照宮のイチョウ このイチョウは、、寛永18年(1641)安国殿の再建に際し、三代将軍家光が 植えたものと伝えられている 平成5年(1993)の調査では、高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m 根元の周囲が約8.3m 天然記念物 芝東照宮ノ公孫樹 銀世界の梅 江戸時代の光景 梅屋敷銀世界 紅梅が咲き始め、この金・土は梅まつり タブノキ:クスノキ科 都立芝公園案内図 2月16日(金)・17日(土)に『芝公園梅まつり』 芝公園内 芝丸山古墳の上にある『大野伴睦句碑』 岐阜県美山町出身の政治家で副総裁まで務めた 彼の一声で、東海道新幹線の『岐阜羽島駅』が決定したという逸話も 芝丸山古墳の上を歩いて、伊能忠敬記念碑へ 木の上にエナガ? 芝丸山古墳の頂上にある『伊能忠敬記念碑』 測量の起点が近くの高輪大木戸だったことからとか 丸山古墳の斜面を利用して測量を実験していたとか 記念碑の横から、増上寺を 東京タワーも 丸山古墳の上にある、円山随身稲荷大明神 13:35 日比谷通りを田町方面へ向かう ここも川の上を首都高速道路が走る 日比谷通り、芝園橋 13:45 日本電気本社ビル 1990年に完成した高層ビルで、高さ180m 地上43階・地下4階 本社ビル玄関口 地下鉄都営三田線 三田駅 13:47 第一田町ビル:国道15号線沿いにある 江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地 13:54 JR田町駅近くの蕎麦屋へ、「キツネそば」を頼む 今回も、遅い昼食になった。量が少なく途中コンビニでおにぎりを一個購入 昼食後、待ち合わせが17時過ぎであるので、泉岳寺方面へ向かう 日本橋を10:18に出発してから品川まで、3時間半、31,700歩でした END
2018.02.21
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2/15(木) 新橋界隈から増上寺へ 11:49 国道15号線:中央通り JR新橋駅手前、正面は『新橋ゆりかもめ駅』 JR高架橋 手前は新幹線架橋 年期の入った東海道線架橋 日比谷神社 東新橋一丁目交差点:環二通り方面 店先の石玉:下からの水圧で石が回転 増上寺へ行くために道を変更 12:10 御成門交差点 愛宕警察署の前を通り日比谷通りへ(正月の箱根駅伝のコース) 芝公園 芝公園からの高層ビル お台場の石垣石 お台場(内海御台場)は、、嘉永6年(1853)黒船来航により、幕府が急遽築造 した海上砲台です。未完を含め7基の台場のうち第3と第6の二基を残して その他は解体、埋め立てられた この石は、その時第五台場(現・港南5丁目)から移されたといわれている 12:18 御成門 関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる 御成門の解説 増上寺(徳川家菩提寺)の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際に もっぱら用いられたので『御成門』と呼ばれるようになった 当初は現在の御成門交差点にあったが、明治25年の区画整理でこの位置に移築 腐食した御成門の床部分 敷地内から 修復が必要ではないか 『有章院霊廟・二天門』保存修理工事中 『有章院霊廟・二天門』を囲って解体修理 修復前の写真 工事期間:H27年8月1日からH30年7月31日 松の木にヒヨドリが 東京プリンスホテルと東京タワー 12:27 道路下は都営三田線が走る、皇居方面 港区役所前の広場、松原の復元 園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え 月見をイメージしたモニュメントを設置した 寛永17年(1640)増上寺20世大増正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右 に松を植え付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したとも 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに 港区役所前にある『浅岡飯たきの井』 『浅岡飯たきの井』 万治3年(1660)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から 守ろうとして母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと 徳川将軍の眠る、浄土宗大本山 増上寺 公園制度の誕生 太政官布達公園 落語『首提灯』 12:37 増上寺前交差点 国の重要文化財、三門『三解脱門』が象徴的な伽藍である 江戸時代からの現存する三門である ペルリ提督の像 万延元年(1860) 遣米使節記念碑 12:40 常夜燈 江戸の夜の暗い町筋を照らしていたのは、辻々に設けられた常夜燈でした このあと、増上寺に参拝する 12時を過ぎそろそろ昼食の時間だが、ここまで休憩もせず水も飲まずに散策 END
2018.02.19
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2/15(木) 京橋2丁目から銀座8丁目までの散策を『その2』でアップします中央通り(銀座通り)のところどころにある旧跡や碑を見ながら京都を目指して歩く 10:44 京橋二丁目:明治屋前 高層ビルも建ち 10:47 日本橋から1.0km地点のポール ところどころにある旧跡や碑を見たため30分を要した 京橋三丁目 10:49 江戸歌舞伎発祥の地 猿若座(後の中村座)の猿若勘三郎が中橋南地(日本橋と京橋の中間)で櫓を 上げたのがはじまり 京橋大根河岸(青物市場蹟) 『きやうはし』の親柱 京橋の親柱 京橋は、日本橋とほぼ同時期に初めて架けられた 昭和38年から40年にかけての京橋川の埋め立て工事に伴って撤去された その名残りとして、石造の親柱2基と石及びコンクリート造りのの親柱1基が残された 煉瓦銀座の碑 京橋の親柱 京橋の親柱 10:55 警察博物館 警視庁の歴史と活動に関する資料を展示している 入館料は無料で、1Fから5Fに展示、多くの人が 1Fの玄関口にある、ヘリコプターの実機 赤バイ(インディアン 1000cc) 大正6年(1917)当時、都内の自動車台数は1,300台で、交通事故による死亡者 は年間51人、負傷者は3,600人にも達していた このため米国製の車両が輸入され、車体の色から『赤バイ』と呼ばれた 白バイ 昭和11年(1936)8月1日から、欧米各国にならい、赤色の車体をより目立つ 白色に塗り替え、それ以降『白バイ』と呼ばれた 足のマークに立つと映像と重なり婦警に変身 自動的に衣装が替わり 警察博物館の前 11:14 銀座一丁目に 沿道の花屋さん ウインドーショッピング 折しもこの日15日からは中国の春節で、沿道には中国語が 銀座発祥の地(銀座役所跡) 慶長17年(1612)徳川幕府 此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す 当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治2年遂に 銀座を町名とすることに公示さると Tiffany&Co.銀座本店 11:18 銀座二丁目 銀座の柳 由来 銀座の柳は明治20年頃銀座通りに植えられて以来、大正9年撤去昭和6年 復活の変転を経ながら数多くの詩歌にうたわれたと 銀座マロニエ通り 11:26 銀座三丁目 街路樹が新しく植えられていたが、桜? 11:28 銀座四丁目 銀座四丁目交差点 同交差点にある三越銀座店 11:31 銀座五丁目 向かい側には『PRADA』 11:33 銀座六丁目 11:37 銀座七丁目 日本橋から2.0kmのポール ここまで1時間19分を要した 11:40 向かい側のshopは、オーストリアの『SWAROVSKI』 街頭にかわいい子犬が 我が嫁が欲しがっているが、これなら買えるが(笑) 11:45 高速道路の下には、もと汐留川が流れ中央通り(旧東海道)には、昭和39年 まで新橋が架かっていた 銀座文化碑 銀座の柳二世 芝口御門跡 昔の絵図が 宝永7年(1710)、朝鮮の聘使(ヘイシ)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとずき 我が国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現外桜田門に見られる ような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ新橋は芝口橋と改称された 11:48 芝口御門跡 城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に 入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられた ところどころにある旧跡や碑を見たため時間を要した END
2018.02.18
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2/15(木)から、旅友と東海道53次へ挑戦を始めたJR東海道線で東京駅に行き、歩いて日本橋へ撮影枚数が多いので数回に分けてアップします 8:22 日本橋から58km茅ヶ崎市元町の国道一号線の標識ポール 自宅から歩いて茅ヶ崎駅へ 9:45 東京駅に到着 東京駅八重洲口 観光案内場所か 八重洲北口から外堀通りへ 旧日本相互銀行本店ビルの鉄骨柱梁接合部(実物)が、現在の 三井住友銀行ビルの前にモニュメントとして展示 日本相互銀行が、1952年にこの地に本店ビルを建設した 外堀通りの呉服橋へ 日本橋川の上を走る首都高速は補強工事中 この首都高速は撤去して日本橋の景観を戻すための計画があるが 呉服橋の上を走る首都高速 三越の前の老舗うなぎ蒲焼 10:05 三越日本橋本店 前の道路の下は、地下鉄銀座線が走る 三越日本橋本店 JR神田駅への道 日本国 道路元標 日本橋にある『元標の広場』 日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められた 現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で 四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんばし」の文字は最後の将軍 徳川慶喜公の揮豪によるものと 各地への里程標:北方面 各地への里程標:西方面 三越日本橋本店 日本橋の上を首都高速が走り景観を損なっている ボランティアの人が観光客に説明 反対側にもボランティアの人が 日本橋魚市場発祥の地 日本橋魚河岸跡 この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移った 日本橋の全景が見えないのが残念 この日は暖かく桜の咲くのも早くなるか 日本橋の親柱と元標の広場 10:13 日本橋から、中央通り(銀座通り)を ここから弥次喜多(爺二人)道中が始まる 親柱が四隅に立ち 10:14 首都高速に『日本橋』の標識が 日本国重要文化財『日本橋』の説明版 江戸時代の景観が 説明版がいろいろとあり 日本の道100選『中央通り』 10:18 日本橋をスタート 日本橋の歴史は、慶長8年(1603)に徳川家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路 として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治44年4月に完成 平成3年4月には80歳を迎えた、これを記念し平成2年7月から翌年の5月にかけて 広場の整備を行い、平成3年5月に完成式典がおこなわれた 日本橋一丁目 中央通り(銀座通り)の道路脇に設置している 10:23 名水白木屋の井戸 漱石 名作の舞台 江戸っ子漱石は、ロンドンを舞台にした作品にも、日本橋を言挙したほどと 青春小説『三四郎』にはここの路地の寄席や料理屋が描かれている 日本橋高島屋 TOKYO 2018は、来週25(日)に開催される東京マラソン 10:32 日本橋三丁目 10:33 八重洲通り、右に大きなキリン 『平和の鐘』、定期的にメロディーが鳴り 遠方はJR東京駅 京橋一丁目 歌川広重住居跡 10:40 現在工事中 このあと、中央通り(銀座通り)を京橋、銀座方面へと散策 END
2018.02.17
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