カテゴリ未分類 0
全309件 (309件中 101-150件目)
旧東海道をひたすら南下して四日市宿へ向かう。11/24(日) 10:32浄土真宗 桔梗山真光寺所在地三重県三重郡朝日町旧東海道から西側へ路地を入るとあるお寺山門と立派な鐘楼真光寺(しんこうじ)浄土真宗本願寺派で山号を桔梗山という。大同2年(807)、最澄が天神山の西北、お坊カ谷に天台精舎として創建、興国元年(1340)に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗した。明暦3年(1657)には、桑名藩主松平定良公が有馬温泉の帰途病死し、町屋川の洪水のため足止めとなったため、遺体を三日間安置した。本堂前にある松平家の梅鉢の定紋入り大手水鉢は、万治3年(1660)に定良の従兄の子定重から、また、鐘楼堂は定重の孫定賢から返礼として拝領したものである真光寺本堂本堂の前に立つ親鸞聖人親鸞聖人御像鐘 楼この紋は10:38旧東海道へ戻り南下する。街道筋にはところどころに古民家があるが空家?旧東海道を振り返る店先に大きな石碑があったが、説明板がなく???10:41旧東海道沿いに道路標識みえ歴史街道 ⇒ 真光寺、金光寺十念寺の「七福神まつり」のポスター開催日が昨日の11月23日であったのが残念弥次さんが、100メートル前を先導、見失わないようについて追う10:47前方に高架線が見えてくる近鉄名古屋線「伊勢 朝日駅」踏切の前にあった説明板萬古焼発祥の地「朝日町」朝日町は、三重県の北部に位置し、面積5.99k㎡と県内で最も小さい自治体です。北は員弁川(町屋川)を挟んで桑名市に、西は朝明川を隔てて四日市市に隣接し、東は川越町を経て伊勢湾を望みます。町名の由来は、大海人皇子(のちの天武天皇)が、672年に起きた壬申の乱の際、朝日を望拝した故事によるものです朝日町の全図旧東海道は、右上から斜め下に歩き左下へ向かう名古屋行きの特急が入線通過踏切を渡ると右手に「東芝 三重工場」所在地:三重県三重郡朝日町大字小向2121現東芝は、昭和13年(1938)の芝浦製作所の進出による踏切を渡ると左手に『旧東海道碑』小向立場跡(おぶけのたてばあと)焼き蛤が名物だった。「東海道名所図絵」に「名物焼き蛤。東冨田、おぶけ両所の茶店に火鉢を軒端に出し、松かさにて蛤を熔り旅客をもてなす。桑名の焼き蛤とはこれなり」とある朝日駅、東芝の前(南側)にある『旧東海道碑』進行方向にある、樹齢約300年以上になる「榎」が現役で残っている推定樹齢 約300年 - 榎 -この木は、東海道の並木として植えられていたものです。並木には、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、こうした雑木に類するものも混じっていました。・・・・・・・・・・・上の石碑が見ずらいので、別の説明板が併せて建っていた。 - 榎 - 推定樹齢 約300年この木は東海道の並木として植えられていたものです。並木には、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、こうした雑木に類するものも混じっていました。松は、太平洋戦争末期、松根油をとるために痛めつけられたり、その後の松くい虫の被害などによって、あとかたもなくなってしまいました。もしこの木が話せたならば私たちに、この街道や村で起こったことをたくさん語ってくれることでしょう10:55推定樹齢 約300年 の榎の前でiPhoneで調べる弥次さん11:02旧東海道沿いの寺本医院の前に立つ、小向神社の石柱小向神社はJR関西本線の西側に有り、遠いため立ち寄らず街道を進む11:05浄土真宗本願寺派 小向山浄泉坊所在地:三重県三重郡朝日町大字小向955浄泉坊(じょうせんぼう)浄土真宗本願寺派で山号を小向山という。慶長8年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。寛永15年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる山 門本殿の旧鬼瓦浄泉坊ノ由来当坊ハ正治元年(1199)正治寺トシテ小向ノ寺山ニ小向御厨神明宮ノ別当寺トシテ建テラレ禅宗デアッタ 其ノ後愛洲宗貫ガ小向ニ城ヲ構ヘ延元4年(1339)ニ朝明郡ノ池頭?ニ補セラレテ伊勢守ヲ名乗リコノ寺ヲ菩提寺トシテ愛洞山ト言ツタ・・・・・・・浄泉坊本坊山門と鐘楼この辺りの寺の鐘楼はどこも立派である11:09旧東海道と県道66号線との、朝日跨線橋東交差点旧東海道は直進して進む交差点を右側へ行くとJR関西本線の跨線橋伊勢湾岸道、東名阪自動車道11:13真宗大谷派 西光寺所在地:三重県三重郡朝日町大字柿2116山門の前に一風変わった・・・・・西光寺(さいこうじ)真宗大谷派で朝明山(あさげやま)と号する。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に「明應5年丙辰年6月2日 願主釋念正 本願寺釈実如(第九世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞亨2年(1685)大谷派に転じ現在に至る。現在の建物は、明治10年~23年にかけて建立され、街道に面する絵も風雪に耐え、松並木の面影をとどめている山 門山門から、鐘楼、本堂11:15旧東海道に出て振り返る 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.11
コメント(0)
旧東海道を南に進む。この辺りは、左手(東)方向を国道1号線が並行して走っている。11/24(日) 9:58城南神社所在地:三重県桑名市大字安永787-1城南神社御祭神 天照大御神当神社は垂仁天皇の御代皇女倭姫命天照大御神の御杖代として御神慮のまにまに大和の国より日出づる伊勢の国に御巡幸ありし時、御傍座の旧地と伝承されております。桑名の神戸でもあり伊勢の神宮との御縁故殊の外深い御社であります鳥居の前の石碑には「皇大神宮一ノ鳥居御下賜」こちらの鳥居は、伊勢神宮から移設したもので、傷んだ部分は樹脂等で補修したと境内を進むと、「乙石稲荷大明神」乙石稲荷社古来、明王院の邸内社で古くは、越後高田に御鎮座、宝永7年(1710)桑名から高田へ国替になられた。松平越中守の崇敬厚く明王院は守護所を仰せつかり、家中同様のお取扱いを受け寛保元年(1741)陸奥白河、文政6年(1823)桑名へと越中守に随従、文政6年桑名・・・・・・・・・・・城南神社拝殿拝殿の扁額「城南神社」拝殿右側の石碑「天照大御神御遷幸旧蹟」拝殿屋根鬼瓦(大正4年~平成22年)石碑には「手水舎の 上棟木の香 はつもみじ 斉月」10:03旧東海道を南下する。右側に古い蔵があるが・・・・・10:05真宗大谷派 清浄山晴雲寺所在地:三重県桑名市大字安永578山門へ晴雲寺本堂境内にある「本堂屋根旧鬼瓦」この鬼瓦は明治時代中期に愛知県三河の国佐藤庄蔵氏によって製造されたものである。昭和60年本堂大修復の際大屋根瓦も新装され、昭和63年4月本堂修復報告 法要の厳修を記念して此處に残し置くものである10:09国道258号線の高架橋左手(東)方向に国道1号線が並行して走る。左手方向を直進すると国道23号線へ、四日市からの帰路はこの道を走る人通りの無い、旧東海道を南へ進む旧東海道沿いの民家は廃家旧東海道沿いの「伊勢両宮常夜燈」この常夜燈は有形民俗文化財に指定されている。文政元年(1818)に東海道のみちしるべとして、また伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。石工は、桑名の根来市蔵(ねごろいちぞう)とある安永は、町屋川(員弁川)の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜灯はその頃をしのばせる遺物である10:13安永第一公園所在地:三重県桑名市大字安永359旧東海道はここで、町屋川(員弁川)に突き当たる公園内の案内板少々劣化して読みずらいが江戸時代、安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永12年(1635)にはじめて架橋され川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったりしばしば変っている。下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように幅がやや広くなっていた。昭和8年(1933)、国道1号線の橋が架けられ、旧東海道の町屋橋は廃止された桑名の七里の渡し(左上)から、旧東海道の赤い線を歩いてきた。ピンクが国道1号線。七里の渡しを8時頃に出発し、ここまで約2時間20分を要した公園の北方向町屋川(員弁川)、江戸時代は板橋がかかっていた東海道の案内石柱伊勢両宮常夜燈国道1号線の町屋橋へ10:19国道1号線の町屋橋北詰町屋橋の親柱には「町屋川」対岸の縄生(三重郡朝日町)江戸時代の町屋川は川幅が400mほどあった。寛永12年(1635)中洲を利用した長さ160間(約290m)の板橋が架橋された。橋の中央の幅を広くして、馬などの待避所があった員弁(いなべ)川の下流、四日市のコンビナートの煙突が見える町屋橋の橋上、日本橋から384.7km振り返り、橋を渡ると桑名市町屋橋を渡り、町屋橋南詰交差点町屋川と橋東海道中膝栗毛の絵町屋橋の親柱には「まちやはし」。町屋川の舟運で運ばれてきた年貢米や生活物資は町屋橋橋詰の船着場に着く。荷揚げ場には業者の店が、河岸には茶屋が並んだ繁華なところだった対岸の桑名側(安永第一公園)江戸時代は町屋川、現在は員弁川10:25旧東海道は橋を渡り、町屋橋南詰を右に曲がり坂を下る 旧東海道筋に咲く花朝日町の、おすいマンホール石柱は「十一面観世音菩薩」この路地を入り西へ向かう10:30雨宝山 金光寺(こんこうじ)所在地:三重県三重郡朝日町大字縄生736 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.10
コメント(0)
旧東海道の東鍋屋町を西へ進む。11/24(日) 9:21街道右側に「天武天皇社」所在地:三重県桑名市東鍋屋町588-39天武天皇社由緒当社は壬申の乱に天武天皇皇后と共に吉野より潜幸。桑名郡家に御宿泊ありし深き由縁により創立せらる。明治天皇御東幸の際当社のことを聞召され、特別の思召を以て明治2年6月?日左の如き御沙汰あり。伊勢國桑名郡・・・・・・・・・・境内に入る9:23街道の左手に『本願寺跡』所在地:三重県桑名市東鍋屋町境内の建物は伊勢湾台風で崩壊したが、本尊は移設保管されていると当社の由来は不詳ですが、江戸時代は本願寺村があり、古くからの古刹であったと思われます。境内に俳聖松尾芭蕉の門人である各務支考(俳号東華坊など)の分骨供養塔である「梅花仏鏡塔」があります。支考は蕉門十哲のの一人で美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていましたが、支考が享保16年(1731)美濃国で亡くなると、桑名の美濃派俳諧の指導的立場にあった雲裡坊杉夫は、支考の墓に参詣しやすいよう分骨を受けこの地に鏡塔を建立しました境内の隅には、他に松尾芭蕉の「今日斗り人も年よれ初時雨」や雲裡坊から続く桑名の俳句結社「間遠社」の歴代社長句碑十基があります石碑は、松尾芭蕉の「今日斗り人も年よれ初時雨」梅花佛鏡塔梅花佛鏡塔は俳人の各務支考の分骨墓であり、本願寺境内にある。享保16年(1731)に支考は美濃北野で亡くなったが不便な土地であるため、支考の門人であった雲裡坊杉夫(当時本願寺に住んでいた)が分骨を貰い受けて、東海道筋の本願寺に分骨墓を建てた。各務(かがみ)の名にちなんで、墓は丸い鏡(かがみ)の形をしている9:26更に進むと街道右側に『一目連神社』所在地:三重県桑名市西鍋屋町43地域の氏神様、境内の掲示板の説明文は経年劣化で見にくかった9:27街道脇に劣化した道標「右 西京・伊勢道、左 東海道・???道」西鍋屋町を西へ進む9:29街道右側に『明圓寺』9:31更に西へ進むと『浄土真宗 教覚寺』所在地:三重県桑名市東矢田町21参道左に鐘楼跡があるが梵鐘がない松下山 教覚寺本堂9:33国道1号線の、矢田町交差点旧東海道はこの交差点を横切り直進西方面へ国道1号線の桑名駅方面、この先の道は広いが反対方向の四日市方面の国道1号線は狭くなる。交差点隅にある『御菓子処 和(かず)」所在地:三重県桑名市東矢田町75老舗和菓子店で、最中が有名とのこと。15日は毎月半額券をくれるとのこと。チャンスがあれば食したいが、最中もいい!国道1号線のキロポストは、日本橋から383.2km矢田町交差点を渡り右角にある『走井山 善西寺』所在地:三重県桑名市西矢田町27-2浄土真宗本願寺派 走井山善西寺山門を入り左手に鐘楼があり、正面に本堂山門前を進み、矢田町交差点を振り返る9:37街道右に、立坂神社の石鳥居立坂神社は街道から北に数百メートルあるので参道へは入らず。所在地:三重県桑名市新矢田2丁目24街道沿いの店舗内には、山車の模型が9:41矢田立場跡旧東海道はここから南方向へ南下する。簡易な火の見櫓矢田立場・福江町江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所)であった。「久波奈名所図会」には「比立場は食物自由にして河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」とある。福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成3年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿場が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引止めるために、宿場の人達が集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした矢田立場跡あらの南方向矢田立場跡を振り返る9:43神戸岡神社所在地:三重県桑名市福江町34街道からここを右に入り他の神社へ、弥次さんは既に前方交差点に街道から西側にある『新地稲荷神社』所在地:三重県桑名市新地479:47旧東海道へ戻り「御菓子司 ゑびすや」矢田立場跡方向9:52浄土真宗本願寺派 了順寺所在地:三重県桑名市大字大福222本堂と鐘楼本堂前の蘇鉄ともみじ鐘楼が素晴らしいお寺である9:55了順寺から南へ200m程の所に『江場杉原跡』七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。眺望がよく西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、一本の松も残っていない9:56街道を南下すると右手に、日立金属㈱ 桑名工場 桑名宿~四日市宿-続く
2020.02.09
コメント(2)
旧東海道を四日市宿に向って進む。11/24(日) 8:47四宝山 教宗寺所在地:三重県桑名市新町35浄土真宗本願寺派のお寺です境内に咲いていた花8:50旧東海道を進むと右手に『西山浄土宗 瑠璃山 光明寺』所在地:三重県桑名市新町50境内の松が素晴らしく、町田武須計公の菩提寺である8:52旧東海道から東に反れ県道613号線沿いにある『浄土真宗 本願寺派西 法盛寺』所在地:三重県桑名市萱町93法盛寺 本堂浄土真宗「西本願寺」の重要な寺院の一つです。元は三河国ヤハギに有り「現岡崎市」室町時代に桑名三崎に移り、長島の一向一揆では中心的な位置でした。戦乱の後 法盛寺と改名し現在地に移りました。江戸時代には伊勢国の触頭「その宗派のまとめ役」を勤め、明治時代には西御坊と呼ばれ、尾張、美濃、伊勢に末寺200余ヵ寺有り、広大な境内を持ち、地内寺7ヵ寺有り桑名別院となり、別格寺となりました。戦災で全伽藍が焼失し、平成16年にバリアフリーを考慮した現在の本堂が完成した。本尊は阿弥陀如来立像である法盛寺の向かい側にある『菅原神社』所在地:三重県桑名市萱町49御祭神:菅原道真公法盛寺の南隣にある『浄土真宗 本願寺派西 最勝寺』所在地:三重県桑名市萱町888:56旧東海道に戻り『浄土宗 十念寺』所在地:三重県桑名市伝馬町53昨日の11月23日(祭)に「桑名七福神まつり」が開催されたようだ門前の左側に設置された説明板『十念寺』古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割の際に現在地に移る。県指定文化財として祭礼図屏風・当麻曼茶羅図・仏涅槃図、市指定文化財として森陳明之墓がある。森陳明(1826~69)は明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任を取り、藩を代表して切腹した桑名七福神 浄土宗 十念寺境内に、桑名市指定史跡『森 陳明之墓 一基』森陳明は、文政9年(1826)6月12日に江戸桑名藩邸で藩士小河内殷忠の長男として生まれましたが、殷忠の兄森陳功に男子がいなかったので養子となりました。陳明は、藩主松平定敬(1846~1908)が京都所司代在職中に公用人となりました。戊辰戦争(1868~1869)では、東京上野で新政府軍と戦った後、定敬に付き従い、函館に渡りましたが、その後降伏しました。戊辰戦争後、新政府から桑名藩は、戦争の責任者を差し出すように命ぜられ、陳明は藩の全責任を一身に負い、明治2年(1869)11月13日、東京深川の桑名藩邸で切腹しました。陳明の墓は、桑名の十念寺と東京深川の桑名藩主の菩提寺である霊厳寺にあります。十念寺の墓の正面には、陳明が仕えた松平定敬の手で「森陳明之墓」と記されています。なお、墓は十念寺境内の西墓所の入口にあります山門には、桑名七福神、浄土宗十念持石柱には「桑名義士森陳明翁墓所」山門の右手には葵の紋だが山門を入り本堂本堂右側に建つ朱色の建物・・・・・山門を振り返る、森陳明の墓所を探す弥次さんようやく、本堂裏の道を隔てた西墓地入り口に見つける森陳明之墓墓碑には陳明が仕えた松平定敬の手で「森陳明之墓」と記されている辞世の句か?「うれしさよ 盡すこころの あらはれて 君にかはれる 死出の旅立」9:07十念寺本堂の裏を北上して、右側に曲がり旧東海道沿いに戻り南下。街道に面して右側に『光徳寺』、左側に『泡洲崎八幡社』泡洲崎八幡社所在地:三重県桑名市新町62泡洲崎八幡社の由来江戸時代以前、桑名の町中は町屋川の流れにより自凝洲崎加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し当社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。慶長年中(1596~1614)町割の時旧地、今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守が神主として奉仕されていた。明治41年に合祀令が下り桑名宗社に合祀されていたが、昭和25年10月10日、新町産土神として現在地に分祀遷御された。境内に天保13年(1842)新町北端に建立されていた導石「右きゃういせみち」「左ふなばみち」がある光徳寺入口、石柱には「圓光大師遺跡」と刻まれ入口に「光徳寺」の説明板浄土宗、古くは泡洲崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山(1718~1877)は桑名船馬町の商人で、万古焼の創始者である。また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664~1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓がある光徳寺本堂旧東海道を南下、先程参拝した十念寺を通り過ぎる。この辺りの街道沿いにはお寺が多い、北方向を振り返る9:10次いで、「日蓮宗 妙延山 壽量寺」所在地:三重県桑名市伝馬町49寿量寺日蓮宗、元は今一色付近にあったが、慶長町割の際に現在地に移る。市指定文化財として狩野光信墓、銅磬、日蓮聖人御本尊がある。狩野光信は江戸城の障壁画を描いて京都へ帰る途中、慶長13年(1608)6月4日に桑名で没した。参道入口すぐ南側の小さな五輪塔が狩野光信の墓である。境内には明治2年(1869)銘の仏足石がある壽量寺に入り左側に「狩野光信の墓 1基」狩野光信の墓 1基材質は御影石、一石でつくられた五輪塔で、幅18.5cm高さ60cm。狩野光信(1565~1608)は、室町時代の狩野宗家の始祖祐勢正信の直系永徳州信の長子で、永禄8年(1565)生まれ、幼名四郎次郎のち右京進、父から画を学び、豊臣秀吉徳川家康に仕え画工として障壁画、天井画の名作を残している。慶長11年(1606)に江戸に下向し、慶長13年6月4日に帰洛の途中桑名で病死し壽量寺に葬られた。戦災後、復興都市計画により道路が墓地を縦断したため、現在地に移設境内には国登録有形文化財【旧大黒殿】ヴォールト状の屋根をかける鉄筋コンクリート造で妻入りとする。正面向拝では、フルーティングを施した角柱に枠肘木を置いた唐破風屋根を受ける。近代和風建築として特異な意匠【鐘 楼】宝形造鉄筋コンクリート造。柱間上部をアーチで繋ぎ、洗い出して文様をつける。伝統的な鐘楼の形態を基調とし、簡略化された和風の意匠とアーチとの折衷を試みた、当地域での鉄筋コンクリート技術を知る上で欠くことのできない建築壽量寺本堂9:13街道沿いの案内板「ここは伝馬町です」9:14浄土真宗 本願寺派 大悲山 長圓寺所在地:三重県桑名市伝馬町98長圓寺本堂この辺りの本堂は二階になっているが、浸水対策?浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地に移る。市指定文化財として、桑府名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴がある。これらは当寺第11代住職魯縞庵義道(1834没)の作品である。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を多く折る、珍しい方法である、境内に大阪相撲の千田川善太郎(1804没)の墓がある長圓寺の南隣にある「真宗 謝徳山 報恩寺」9:17旧東海道の日進小学校南交差点街道はこの交差点を右に曲がる(西方向)9:19一品料理『とし子』所在地:三重県桑名市東鍋屋町50料理が美味しく、女将さんが可愛いと旧東海道を振り返る、正面の建物は山車庫?街道沿いに立派な石垣の建物が現われる広瀬鋳物工場跡江戸時代のはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。現在は個人の住宅となっている9:21旧東海道を振り返る 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.08
コメント(0)
春日大社から、四日市宿へ向けて足を進める。11/24(日) 8:18桑名宗社山門垂れ幕には「祝 山・鉾・屋台行事 桑名石取祭の祭車行事」 ユネスコ無形文化遺産登録決定 桑名の宝が世界の宝に境内にあった「七里渡口」桑名宗社とは桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社を称し、古来桑名の総鎮守で、桑名首(おびと)の祖神を祀っているので、桑名宗社と言う8:20旧東海道を南へ向かう、左手に『歴史を語る公園』イチョウの黄葉が綺麗だ!歴史を語る公園桑名は、東海道42番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもあった。その上、桑名は、熱田宮宿に次いで東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口として、賑わいを見せていた。このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である桑名城城壁正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されている。積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多くみかけられる。片町に面したところには出隅、入隅があった。各所に堀川に向って狭い通路が設けられているのは、明治以後、廃城になってから便宜上付けられたものであろう。戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。この城壁には老松が並木を作り枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった堀川と旧東海道に挟まれた「歴史を語る公園」の入り口は「日本橋」石垣に係留されたボート桑名城城壁川口樋門から南大手橋に至る堀川東岸の城壁約500mは、桑名城創建当時の面影を残す石垣である。石積みは・・・・・・・・・・・・公園の南側から北側を望む、左にミニチュアの富士山紅葉もきれいに干潮時で水位が低い東海道五十三次 桑名宿江戸時代の東海道は、慶長6年(1601)正月に定められ、桑名宿も設けられた。江戸から約96里(約384km)、京都から約30里(約120km)であった。宮宿(熱田)から海上7里(約28km)、四日市宿までは陸上3里8町(約13km)。七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り町屋橋を渡って東海道が続いていた。天保14年(1843)調べでは、宿内人口は8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒があった桑名宿の案内、この先寺院・神社が多い紅葉がきれいであった三之丸堀の三条大橋三条大橋に立つ弥次さん本物の橋に立つのはいつの日になるのか?三条大橋の上から北方向8:27歴史を語る公園を振り返り、旧東海道を西へ向かう8:30登録有形文化財の『石取会館』所在地:三重県桑名市京町16いつも時間が早くて閉館中開館時間:10:00 ~ 16:00休 館 日 :月曜日・木曜日建築年代:大正14年(1925)建築面積:168.393平方メートル鉄筋コンクリート造 2階建、一部1階建四日市銀行桑名支店として建築された。その後、昭和10年(1935)に桑名信用組合(桑名信用金庫の前身)、昭和30年(1955)には京町支店として使用された。内部は平成3年(1991)の改修で、当初の状況を伺えない。外観は風除室を設けた以外建設当時の姿を残しており、北に金庫室を付ける。東南角を曲面として、縦長の窓を二層に開ける。南・東面は簡潔で幾何学的な柱形を表し、縦長窓上部には歯飾りを施し、陰影の深い意匠を見せている石取会館前の石碑には「揖斐の闇 潮さし満ちて 石取の太鼓の 響き狂いて 止まず」旧東海道は、この京町交差点(県道613号線)を横切り約20mで左折。左の建物は、「桑名市博物館」県道613号線沿いに建つ「桑名市博物館」左下に昔の「道標」がある道標には、「右京いせ道」「左江戸道」 江戸時代、旧東海道筋(場所不詳)に建てられていたものを移設しました桑名市博物館と新しい道標桑名市博物館前の観光案内図これから進む旧東海道左の現在地から、右側の南方向へ進むが「吉津屋見附跡」辺りで複雑に曲がる8:32桑名市博物館所在地:三重県桑名市京町37-1桑名まちかど観光案内所、本日は閉館いたしました県道613号線を南下するが、旧東海道と違うので道を横切る弥次さん県道を横切ると「三重県 電話発祥の地」明治33年4月1日、桑名市吉津屋町に名古屋電話交換局桑名支局が設立され、88名のお客様により三重県で初めて電話交換業務が開始されました弥次さんはこの方向へ進むが戻って来る。旧東海道は、「タイワン料理 味加」 の西側(右側の街道)8:35街角に戻り『京町毘沙門天堂』所在地:三重県桑名市京町10小さな毘沙門天堂であるがネットで見ると、護摩供養が新年1月12日18時から行われると。手すりがあり助かったと。堂の前に東海道の石柱旧東海道を南に進む街道沿いに『呉服 すぎや』更に南下し、左前方に『㈱浅井屋 本店』所在地:三重県桑名市吉津屋町60玄関の門構えが立派な仏壇販売店8:40街道左側に道標「右 京いせ道」方向を変えて「左 江戸道」どら猫もお出迎え8:42道路標識 折り紙の鶴の絵鍛冶町のこの辺りは、南下してきて右(西)に曲がり数十メートルで左(南)へ曲がる、再度数十メートルで左(東)へ曲がる吉津屋見附跡 ← 字がみずらいのでもう少しメンテしてほしい!江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛冶町として独立したので、鍛冶町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である升形道路を弥次さんが先導してくれる。街道隅に東海道の石柱があるが、見落とすことがあるので要注意弥次さんも、iPhone を見ながら先導してくれる8:43街道に東海道の石柱曇っているので、升形道路のため方角が解りずらくなる 桑名宿~四日市宿-続く
2020.02.07
コメント(0)
桑名の七里の渡しから、旧東海道を歩き始める。11/24(日) 7:57蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)櫓は現在、水門統合管理所になっている。管理所周辺は、城跡や名所旧跡・レクリエーション施設等が整備された公園として市民や観光客の憩いの場となっています。揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていた所に位置するため、建物の設計にあたって、この櫓の外観復元を目指すことになりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が焼失して以来、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています治水史Ⅰ-江戸時代中期宝暦治水木曽川の洪水は、長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り返していました。徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤の完成(1609)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます多くなりました。その後、徳川幕府は宝暦3年(1753)、治水工事を薩摩藩に命じました。宝暦4年2月薩摩藩家老の平田靱負を総奉行として工事が始められ、油島締切、大榑川洗堰、逆川洗堰締切などの大工事を(宝暦治水)を1年3ヶ月で完成しました。しかし、平田靱負をはじめ80余名の病死、割腹者をだした。・・・・・治水史Ⅱ-明治時代明治治水江戸時代には、木曽三川の完全な分流を行うことができませんでした。明治政府は、オランダから10人の技師団を招き、改修計画を策定した。この計画をもとに明治20年(1887)、明治改修に着手したが大震災や度重なる洪水などにより難航した。着工から26年後の明治45年(1912)にすべての工事が完了した。この明治改修により、木曽三川の流れは大きく姿を変え、以後の流域の洪水被害は大幅に少なくなりました治水史Ⅲ-現在伊勢湾台風以降の治水整備明治改修以降も、洪水は数々の被害をもたらしました。その中でとくに忘れられないのが昭和34年9月26日に上陸し、台風被害として最大の被害をもたらした伊勢湾台風です。被害は東海地方に集中し、愛知・岐阜・三重3県下で死者・行方不明者4,637人、負傷者約65,000人という大惨事になった。被害の大きな原因は高潮の発生でした。当時の小さな堤防は次々と壊れ、村や町は泥の海にのみこまれた8:01七里の渡し跡(桑名湊跡)。こちらからも、11月頃の熱田湊跡との渡船ツアーがある。この先を左折して旧東海道へ進む七里の渡跡(桑名湊)石柱の前に立つ弥次さん旧東海道の京方面に向けて進む街道の歩道面の色が違うのでわかりやすい左:舟会所跡 右:問屋場跡現在は跡地は定かでないが左:舟会所跡舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に乗船の申込みをして料金を支払い乗船した。現在は跡地は定かでない。右:問屋場跡問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で、人馬継問屋場とも人馬会所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。桑名城跡への『北大手橋』桑名城は、慶長6年(1601)家康の重臣本多忠勝が桑名城主になり本格的に築城された。忠勝は城下に揖斐川の流れを入れ外堀としたため、城内から川へ直接出ることができる水城となった。桑名城は海に面して扇を広げたような形から「扇城」と呼ばれた。本多忠勝は、徳川四天王の一人で、千葉の大多喜城も初代城主である。数年前登城した時、大河ドラマの署名をしていたので数年後には放映されるのでは!旧東海道沿いの『蛤料理 鍋料理 みくに』この先の右方向は、美濃街道まだ時間が早く、店は開店前。焼き蛤の香りがするとたまらないのであろうが通り井跡桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれているこれは汚水のマンホール8:07道路脇の看板、名物料理「歌行燈御膳」歌行燈所在地:三重県桑名市江戸町10ネットで調べると、名物の焼き蛤は、3個 1,200円、5個 2,000円、7個 2,800円で一個400円と結構高いのだ名物の「蛤料理」8:08旧東海道沿いに『春日神社の銅鳥居』昭和40年12月9日に「三重県指定有形文化財」に指定された。寛文7年(1667)桑名藩主・松平定重が250両をかけて鋳造させた青銅の鳥居は「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と唄われた有名な鳥居この鳥居は、寛文7年(1667)の七代桑名藩主松平定重によって建てられました。この鳥居の前には、初代藩主本多忠勝が慶長7年(1602)に寄進した(木造)がありましたが承応2年(1653)に台風で倒壊したと言われています。しるべいし「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。同じものが多度大社の鳥居の横にもあります。自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります桑名宗社の山門へ向かう桑名宗社所在地:三重県桑名市本町46桑名の夏の風物詩、石取り祭りで有名な「春日さん」御神徳は、子供の幸福と繁栄、事業繁栄、良縁成就、厄除け開運。2016年ユネスコ無形文化財に登録山門の扁額「桑名宗社」両サイドに鎮座する弓を持つ武将両サイドに鎮座する弓を持つ武将山門にあった掲示板。弥次さんはこの方程式を解析すると言っていたが・・・・・・山門を入り両側に石燈籠が並ぶ拝殿前の石鳥居桑名市有形文化財に指定されている「御膳水井」拝殿には二つの祭神左:中臣神社(旧春日大明神)、右:桑名神社(旧三崎大明神)拝殿の正面に本 殿現在も本殿を二つに分け、それぞれ唐破風を付けて桑名・中臣の二つの神社を祀っている皇大神宮 御分霊社御祭神:天照大御神皇大神宮御分霊社桑名東照宮御祭神:徳川家康公元和3年(1617)千姫が東照宮を勧請し、徳川家康坐像を祀る。当社は元禄14年2月に焼失するが、火災を免れた神宝は明治初年まで神宮寺に祀られる。其の後、願により春日神社の境内社として再び遷し祀る千姫人物相関図千姫は豊臣秀頼と死別後、ここ桑名藩の本多忠刻に嫁いだ春日稲荷神社御祭神:倉稲魂命当社は文政8年(1825)に山城国紀伊郡稲荷神社(現・伏見稲荷大社)より御分霊を勧請し今日に至るまで桑名市民の篤き信仰を捧げてきた神社である。明治の末より大正の初めにかけて、市内各町々に旧来より御鎮座する稲荷神社を同じ社殿に合祀せられ、御神霊も多く信者も広くあらゆる階級職業の人に崇敬される神社である境内の片隅に石碑いずれも石取祭りの山車に立つ神功皇后を詠まれたものです山口 誓子 「山車統べて鎧皇后立ち給ふ」二川 のぼる 「山車の燈に夜は紅顔の皇后よ」8:17境内にはイチョウの大木があり黄色の絨毯。左の石碑には「山車の燈に夜は紅顔の皇后よ」 二川 のぼる右の石碑には「山車統べて鎧皇后立ち給ふ」 山口 誓子石取祭(いしとりまつり、いしどりまつり)三重県桑名市で行われる祭りで、重要無形民俗文化財に指定並びに、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。石採祭と表記されることもある。30数台の祭車が、鉦や太鼓を12時に、春日神社から一斉に打ち鳴らして練り歩くさまから「日本一やかましい祭り」、「天下の奇祭」と呼ばれる。毎年8月第一日曜日の前日(土曜日)の午前0時から日曜日深夜まで行われる。写真はネットから 桑名宿~四日市宿-続く
2020.02.06
コメント(0)
桑名の七里の渡しへ向かう。桑名の沖合は。揖斐川、長良川、木曽川が伊勢湾に注ぐ合流地で、上質で大きな蛤が多く取れたので、名物といえば「焼き蛤」「時雨蛤」である。焼き蛤は宿より西にある小向や東冨田の立場で旅人に出された。宿内では溜り醤油で作った「時雨蛤」の方が有名だった。下りの旅人はすでに冨田や小向で焼き蛤を十分に食べたため、桑名宿に入った旅人は「その手はクワナ・・・・・」と洒落た。ほかに白魚や千白魚と桑名盆(漆器)が名物。11/24(日) 7:35通り井寺町通りを振り返る。桑名宿の産業では鋳物業が盛んだった。春日神社には江戸時代の青銅製の大鳥居があり、町には現在でも梵鐘屋がある通り井への水路取水口にはゴミがたまり諸戸氏庭園方向玉重橋から寺町通り方面寺町通り方面運河?は赤れんが造り道案内七里の渡跡、東海道まで、440m住吉ポンプ場諸戸氏庭園所在地:三重県桑名市太一丸18六華苑との共通券があるとのことだが残念ながら保存修理中で閉館中。秋には紅葉、春先には花菖蒲がきれいだと重要文化財 諸戸家住宅 保存修理第3次1期工事&2期工事。諸戸家は、三重県伊勢・桑名の素封家で、「日本一の山林王」と言われた一族である入り口のレンガ造りの蔵諸戸氏庭園の北北西方向諸戸家住宅の前を進む、来た方向を振り返るレンガ造りの蔵赤レンガの塀の向こうは『六華苑』六華苑には、素晴らしい庭と洋館の建物があるとのこと。営業開始は、9時から小高い所に『桑名住吉神社』住吉ポンプ場排水能力:ポンプ口径 1000mm、1500mmのポンプが各二基ある。最近のゲリラ豪雨に対応できるか県道613号線(福島城南線)のカルバート下をくぐる住吉浦7:45住吉神社所在地:三重県桑名市揖斐川の漁船は何を取っているのか? 名産の蛤?桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十薬の津」と呼ばれ、木材や米などをの集散する自由活発な商業都市として発展してきました。ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。これらの人達によって航海の安全を祈り、正徳5年(1715)に摂津の国「住吉大社」より勧請してこの住吉神社が建立されました神社前の石鳥居や石灯篭は江戸時代の材木商たちによって、狛犬は明治中頃に備前・備中や阿波の国の廻船業者たちによって寄進されたものです。近年には、西船馬町にあった「玉重稲荷」が合祀されるなど、桑名宗社境外末社として、一貫して当町がご奉仕しております住吉神社なお平成15年には、ここ揖斐川防潮堤が高潮対策として改修整備されたため、社殿が新しく建て替えられましたが、以前と同じく元旦には初日の出が鳥居の真ん中から上がることで初詣の人気スポットとなっています。さらに伊勢大橋、多度山方面の眺めは、水郷桑名ならではの絶景の趣があり「七里の渡し」と共に、水郷めぐりの発着点として大いに利用されています長良川河口堰1994年に竣工し、1995年に運用が始まった。堰の桑名側は、小川が流れる広場になっていて、ベンチもいくつか置いてあり、憩いの広場になっている。長島側は、なばなの里があります。河口堰の上流には『揖斐・長良川の背割堤』があり、国道1号線も走る河口堰をズームアップ対岸の高層ビル群揖斐川の下流方向で、国道23号線が走る。右側の櫓は『蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)』住吉ポンプ場揖斐川の下流方向住吉浦へのゲート所在地:三重県桑名市船馬町22住吉ポンプ場への水門オールステンレス製のゲート他の漁船も網を入れ曳いている九華公園、蟠龍櫓、七里の渡(桑名湊)この下から旧東海道が始まる七里の渡跡(桑名湊)から蟠龍櫓九華公園、蟠龍櫓東海道五十三次「七里の渡し」旧東海道は、七里の渡しから南方向へ進む七里の渡しからの河川(桑名城の濠)七里の渡しそばの「料理旅館 山月」7:56左側は『桑名城』 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.05
コメント(0)
昨夜(11/23) 名鉄豊明駅から車で移動、途中、昼間歩いた一部を走り三重県の桑名駅前の「桑名パークホテル」へ19時に到着。今日は延べ日数25日目の弥次喜多道中記をアップします。11/24(日) 6:35ホテルの食堂で朝食をとるバイキングで朝食7:00愛車ジュークをホテルの駐車場へ置き出発。駐車料金は無料。桑名パークホテル所在地:三重県桑名市寿町2-30-1ホテル前の国道1号線を北へ向かう、道路標識には「七里の渡し 1.2km」歩道面にいろんなマンホールが。デザインはおにぎりの形をした、「ハマグリ?」桑名は、折鶴で有名七里の渡のデザインは渡し船と現在の橋カラー版角型の消火栓丸型の消火栓桑名宿は、日本橋から42番目の宿場である。中世以来、港湾都市として発展した。平安、鎌倉期には伊勢神宮への年貢米は桑名から海上輸送され、江戸時代になると美濃方面の幕府領の年貢米や物資が桑名湊から江戸に運ばれた。旅籠の数、120軒は宮宿の248軒に次いで多く、船止めに備えてのことだった。7:11国道1号線沿いにある石碑「参宮國道」左は「参宮國道(美濃街道)」、右側が歩いてきた国道1号線ここから左の美濃街道を進む7:14美濃街道を進む、前方右側に「北桑名神社の鳥居」北桑名神社所在地:三重県桑名市堤原72石柱は「持統天皇御?跡」「北桑名神社」北桑名総社北桑名神社由緒書当社は、江戸時代始めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも「今一色神明社」とも称された今一色の産土神です。明治41年、太一丸にあった「太一丸神明社」、宝殿町にあった「左乃富神社」を合祀し「北桑名総社北桑名神社」と改称しました。昭和12年、古くなった社殿等の大改修がおこなわれ立派な社殿神舎に成りましたが、惜しくも先の大戦で全て焼失しました。戦後氏子、崇敬者の協賛により本殿拝殿等逐次再建され、今日に至っています北桑名神社の拝殿拝殿の扁額「北桑名神社」山門と鳥居御祭神7:22美濃街道から左手に入り、「浄土真宗 本願寺派 三竜山 専正寺」所在地:三重県桑名市今中町7-3専正寺真宗本派 元正念寺戦後専久寺と合わせて専正寺と称する。この辺りは、江戸時代初期には漁村で、当地名産蛤の貝殻で地面は覆われていました。文政6年この地の住人谷氏が、これら無尽蔵の貝殻を見て蛤の供養を思い立ち、正念寺の墓地に碑「蛤墳」を建てた。もとは1m足らずのものでありましたが、大正に入り「桑名の蛤」として全国に桑名を宣伝し又商売繁盛をさせてくれた感謝の為、時雨蛤商の業者によって改築されました。昭和41年11月22日市の有形民俗文化財に指定されております専正寺本堂蛤墳(こうふん)昔この辺りは漁村で、付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたので、文政6年(1823)に今一色に住んでいた谷氏が蛤の供養のために、この碑を正念寺(現在専正寺)に建てた。碑文は、桑名の狂歌師黒沢行業(一雲山人)に依頼したものである。行業は国学者・歌人として有名だった桑名藩士黒沢翁満の父。今でも時雨蛤の業者が毎年、供養を行っている。「あまおふねのりのみ声にはまぐりの 貝の耳にもとめてしのばむ」境内にある「蛤墳」蛤墳と刻まれた「蛤墳」7:28八間道りにある道案内歩道面のタイル7:29八間通りにある『海蔵寺』曹洞宗 法性山海蔵寺所在地:三重県桑名市北寺町10境内には、「薩摩義士墓所」がある海蔵寺本堂門前に掲げられた「薩摩義士墓所 24基」宝暦年間、木曽、長良、揖斐三大川治水工事に際し御手伝普請に当たった薩摩藩士が工事の難関に処してよくこれを克服したが、その間悪疫に紛争にまた重大な工事費の超過など責任を負って殉難した24名の墓所である。この24名は凡て割腹した藩士ばかりで中央は総奉行平田靱負正輔の墓碑である国歌によまれている「さざれ石」さざれ石とは、石灰岩が長い年月の間に雨水で溶解され、その時に生じた粘着力の強い乳状液が、次第に小石などを凝結して岩となったもので、協調団結の精神を意味し、日本の国や皆さんが永遠に栄えて幾千代までもという、目出たい意義内容をもった石であるさざれ石薩摩藩士墓所案内と説明板は「千本松原の松の木」千本松原の松の木ここに展示してあります輪切りは、宝暦治水工事(1754~1755)の際に薩摩藩士が植えたとされる千本松原(岐阜県海津市)に生えていた松の木です。松くい虫被害などにより枯れたため平成18年10月に伐採され、この度、国土交通省 木曽川下流河川事務所のご厚意により寄贈されたものです。この松の木は現存する中で最も幹が太いものであり千本松原を守る活動を続けてきた人々の間で「守り松」と呼ばれていたものでした。(参考) 生きていた時の大きさ:幹周り 約3.52m 樹高 約29m治水観音観音さまは三十三の姿に変身して一切の衆生をお導き、お救い下さると、古天から伝えられています。宝暦のころ、薩摩藩士が治水の大事業を完遂して岐阜、愛知、三重の三県下にわたる三大川沿岸の、百万以上の人々の生活を護って下さった行為は全て観音さまの権化と信じます。昭和34年の伊勢湾台風では有史以来の五千人余の犠牲者がでました。この度、治水観音と御名を稱えあげ、ここに安置いたしまして、亡き人々の冥福と国土の繁栄をお祈りする次第であります。 海蔵寺十九世寶暦治水薩摩義士之碑薩摩藩家老・平田靱負の供養塔を中心に薩摩藩士24名の墓がある。薩摩藩の財力を削ぐ狙いで工事を命じた、幕府の役人による嫌がらせがたびたびあり、宝暦治水の完成までに計51人の薩摩藩士が抗議の切腹をした。どの寺も幕府に気兼ねするなか海蔵寺は最初の二名の切腹者の葬儀を快諾し、手厚く葬った。犠牲者の合計は84名費用は15万両の予算を大幅に越え40万両(約400億円)に達し、平田靱負は責任を取り切腹した7:33寺町通り入口に「蛤の人形」通り井桑名は木曽川の土砂が堆積してできた土地であるため、海岸に近い所は昔から水質が悪く、住民は飲み水に苦しんでいました。町屋川や大山田川から水を汲んできて売る「水売り」の商売が成り立っていたほどでした。桑名藩第4代目の藩主松平定行(1587~1668)は、寛永3年(1626)町屋川の水源から吉津屋御門(現在の吉津屋町と鍛冶町の境目付近)までを掘って水路を作り、御門から町の中へは地下水路を通し、所々に井戸を設けて住民の用水にしました。この水道は「町屋御用水」と呼ばれ、明治時代まで使用されました7:33井戸の数は、始め吉津屋に3ヶ、京町に2ヶ、宮通筋に6ヶでしたが、寛永12年(1635)には片町筋に4ヶ、船場に5ヶ新しく設けられ、江戸時代中頃には27ヶ所にまでなりました。現在、町屋御用水の跡はありませんが、江戸町に「井」の印を見ることができます。これは「通り井」があった場所をしるすものです。なお、通り井とは「通り道に設けられていた井戸」の意味です 桑名宿~四日市宿-続く
2020.02.04
コメント(0)
今日のゴール点「七里の渡し場(熱田湊跡)」へ到着、ここまでの今日の歩行数は、35,500歩であった。この後、名鉄熱田神宮前駅から名鉄豊明駅へ。11/23(土) 16:15宮の渡し公園『七里の渡し舟着場跡』宮から桑名までの海路「七里の渡し」の湊があったところ。名古屋城下町の玄関口でもあり、人と物資の輸送で重要な湊で熱田湊と呼ばれていた。海路7里(約27km)は通常時のコースの距離で、大潮の干潮時には船は大きく沖合を迂回したので10里(約39km)の渡しとなった。船は40人乗り、47人乗り、53人乗りがあり、4時間~6時間の船旅だった左下からの黒い線が旧東海道宮の渡し公園七里の渡しの熱田湊常夜燈川は堀川で進むと伊勢湾「名古屋港」へ松尾芭蕉と七里の渡し松尾芭蕉(1644 ~ 94)は、日本を代表する俳人で「野ざらし紀行」「おくの細道」や「古池や蛙飛び込む水の音」などの句が有名です。旅の初期に熱田に度々訪れ、林桐葉(現熱田神宮南門付近)の計らいで、名古屋、鳴海の門人たちと交流。七里の渡しから舟遊びで、あゆち潟(愛知の語源)を楽しみ、熱田三歌仙を残しました。 「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」 妙安寺石碑 「海暮れて 鴨の声 ほのかに白し」 妙安寺石碑 五・五・七 「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」 宮中学校石碑この舟遊びで、五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する「芭蕉の時代」となるきっかけが生まれました。後に名古屋が「芭蕉発祥の地」と言われる由縁です。また、熱田神宮が「蓬莱宮」と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています宮の宿とシーボルトここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが、文政9年(1826)2月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、4月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした公園の隅に咲く花七里渡船着(尾張名所図会)この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた船、道を行きかう人の多さから当時のにぎわいがわかります。この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東・西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していました時の鐘と熱田湊常夜燈七里の渡し舟着場跡江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていました。昭和58年に復元されて往時の名残りをとどめています歌川広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます熱田湊常夜燈熱田湊常夜燈この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。常夜燈は寛永2年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元した東海道 七里の渡し船旅学習会が2006年から続けられている。2019年は台風の影響を考慮して、11月23日(土)、24日(日)に開催。この事業は寄付/支援金をいただいた方に限り、ご招待することになっている。この航路は現在定期船がないため、特別に臨時航路を申請、許可を受けた上で実施。なお、寄付/支援金の金額はお一人5,000円。2019年の受付は第一次募集:3月25日~5月10日第二次募集:6月11日~運行は一日2便で、定員は各48名熱田(宮):七里の渡し跡から、桑名:住吉神社南側船着場11月23日(土) 熱田発:9:30頃、桑名着:11:30頃、桑名発:12:30頃、熱田着:14:30頃11月24日(日)熱田発:10:30頃、桑名着:12:30頃、桑名発:13:30頃、熱田着:15:30頃ボランティアで運営しているとのこと(以上、ネット情報)16:24七里の渡しの道を挟んだ北側にある「丹羽家住宅(旧旅籠屋 伊勢久)」所在地:愛知県熱田区神戸町902丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの提灯箱が残されている。正面の破風付き玄関は、かつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。創建は不明であるが、天保12年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付き玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された16:24熱田荘NHKのブラタモリでタモリもこの辺りを散策した熱田荘木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り・正面庇付で、この建物は明治29年(1896)、武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用されている。建造時期は新しいが、近世の町家の形式を継承しており旧船着場に面して建ち、先に指定された丹羽家とともに、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指定されている16:25宮の渡し公園側にある『海蔵ダイイチ』道路脇に『美容室 つや』チコちゃんが国会議員だといいな!大瀬子交差点を右に入り神宮前駅へ向かう。真言宗 等覚院所在地:愛知県名古屋市熱田区幟には「西国三十三観音 大瀬子観音」㈱渡月園の店先に ひと休み 宮の渡しの 茶店にて 香りほのかに 渡月園のお茶景清社(かげきよしゃ)所在地:愛知県名古屋市熱田区神戸町402景清は平家の侍大将忠清の次子で、腕力に優れていた。平家没落後、縁あって熱田の地に隠れ住んだといわれる。謡曲「景清」では「尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子を設く」とうたわれている。後年、景清は眼病を患い、失明したという伝説からこの景清社は、眼病に霊験があるとして信仰が篤い16:33国道247号線に戻り国道1号線の「熱田神宮南交差点」熱田神宮南交差点角にある『圓福寺』所在地:愛知県名古屋市熱田区神戸町301圓福寺境内円福寺は亀井山と号し、時宗。元応元年(1319)足利市の一族とされる厳阿の開基で、足利尊氏も祈願所として堂宇を建立したといわれる。永亨4年(1432)9月、六代将軍義教は富士遊覧のため下向の折、当寺に三日間逗留し、連歌会を催した。当寺にはこの時の連歌懐紙や尾張円福寺文書、伝小栗宗湛筆紙本墨画豊千禅師図(いすれも県指定文化財)を伝えている。また、当寺は尾張二代光友の時、芝居興行が行われたところで、亀井道場の名で知られる16:34国道1号線の「熱田神宮南交差点」の歩道橋上からの東方向同、国道1号線の西方向北方向(国道19号線)で、右前方は熱田神宮の杜国道247号線の南方向16:36夕陽が下がる夕陽をズームアップ16:38歩道橋を降り、国道1号線を東へ向かう16:43伝馬町交差点を北方向(県道226号線)へ進む、前方に多くの幟が立つ秋葉山 圓通禅寺所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-15曹洞宗のお寺で、広い敷地にある先を急ぐのでほどほどに動く県道226号線を神宮前駅方面へ進み右手に『きよめ餅総本家』所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮3丁目7-21名古屋の名物のひとつ「きよめ餅」16:48名鉄神宮前駅舎神宮前駅の歩道橋、森は熱田神宮16:52神宮前駅改札ここまでの今日の歩数は、39,090歩であった。急行 吉良吉田行き 16:58 に乗車ホームで待つ17:16名鉄豊明駅へ到着今朝、豊明駅前をスタートしてから神宮前駅まで、9時間13分、39,090歩を要したが電車では神宮前駅から17分で豊明駅へ到着した。いつもながら文明の力を感じる時だ!豊明駅の系統図&値段表神宮前駅から名鉄豊明駅へは、360円17:25名鉄豊明駅北口の駐車場に戻り、愛車で一般道を走り桑名のホテルへ向かう。予想通り桶狭間辺りの国道1号線は渋滞、国道23号線を走り桑名の桑名パークホテルへは19時に到着。渋滞のため、36kmを約1時間半を要した。この夜の夕食もコンビニで調達して部屋で宴会。 鳴海宿~宮宿-END
2020.02.02
コメント(0)
山崎川を渡り進むと、旧東海道は再度県道222号線と合流。11/23(土) 15:09旧東海道(県道222号線)を西へ進む旧東海道(県道222号線)の右側に「brother 瑞穂工場」15:13松田橋交差点の歩道橋の上は「名古屋高速3号大高線」「空港線」国道1号線はこの下を左方向へ進み四日市方面国道1号線の四日市方面、旧東海道もこの方向へ進む国道1号線の「穂波西歩道橋」 356k890 日本橋からであろうか?歩道橋には、G20 愛知・名古屋外務大臣会合で、11/21(木) ~ 24(日) 大規模交通規制の垂れ幕。この後、今夜名古屋市内を走るが渋滞は?15:15穂波西歩道橋の下の街道脇には、日本橋から356.9kmのキロポスト旧東海道は国道1号線のこの先の「内浜交差点」まで進み、左に折れる古いこの建物は老舗?15:22JR東海道本線の踏切、右は国道1号線の跨線橋15:29JRの踏切を渡ると三方向への道があり左へ折れたため道を間違える。弥次さんに電話をして、進んだ方向を確認する三方向への道があったが、旧東海道は真ん中の道を進む。前方に新堀川に架かる熱田橋熱田橋の親柱15:30新堀川に架かる『熱田橋』宮宿は新堀川の熱田橋が宿の入り口で、89里目の伝馬町一里塚を経て七里の渡しまで宿の町並の長さは11町15間(約1.2km)。人口は1万人を超え、57次の中では伏見、大津、府中に次いで多く、また七里の渡しの欠航に備え旅籠屋が248軒もあった。家数も約3000軒を数え、参勤交代の大名行列や伊勢参宮の旅人でにぎわった江戸の色街では知らぬ者のいない戯作者柳亭種彦は、どこの宿場で遊んでも女郎を誉めたことはないが、宮の女郎に限ってはべた誉めしている15:34前方に名鉄常滑線の跨線橋跨線橋を潜ると道路角に木が水と緑と歴史のまち 宮地区 ~ 堀川の水、熱田の緑、東海道41番目の「宮宿」としての歴史 ~熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点となっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ、熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました今日のゴール点『宮の渡し公園』この辺りにある「伝馬町(熱田)一里塚」を探すが、ガイドさんから現在は無いと振り返ると、名鉄常滑線の跨線橋を列車が15:36前方左に石柱旧東海道の左側に『姥堂・裁断橋跡』所在地:愛知県名古屋市熱田区伝馬2丁目5-19扁額の「姥堂」裁断橋跡宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東にあった。天正18年(1590)に18歳なる我が子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている姥堂(うばどう)延文3年9月(1358)法順上人が亀井山圓福寺の厳阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図解にも登載されている。昭和20年3月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の座像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。尊容から奪衣婆とみる説もあるが、・・・・・・中略・・・・・・、安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成5年5月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である旧東海道の道案内か?都々逸発祥之地の石柱観光客にボランティアの方が説明弥次さんがiPhoneで何かを調べている15:46旧東海道の左側に『熱田神宮末社 鈴之御前社』所在地:愛知県名古屋市熱田区伝馬215:49旧東海道を進むと県道225号線に突き当たり、歩道がないので右に折れ国道1号線へ。伝馬町交差点の地下に「地下鉄名城線の伝馬町駅」がある。この交差点を直進すると「熱田神宮前駅」国道1号線の伝馬町交差点を渡る伝馬町交差点を渡り左に折れ県道225号線を100m程歩き旧東海道を振り返る県道225号線を右に折れ旧東海道へ入るとすぐに左手に『総本家 亀屋芳広』所在地:愛知県名古屋市熱田区伝馬1丁目4-7どら焼きが欲しくて立ち寄るが売切れ。仕方がなく「車楽」 税込み ¥170 を依頼待っている間に、お茶を出していただく。+小さな試食品のケーキとオーダーした「車楽」御茶を飲みながら昼食代わりに。美味しかった!!!いろんなケーキ類も販売クリスマスケーキの予約も受付中16:01総本家 亀屋芳広を出て振り返る16:03旧東海道を進むと突き当り正面に『ほうろく地蔵』ここを左に折れ国道247号線へ16:05国道247号線には歩道が無いので前方の歩道橋(熱田区伝馬一丁目)を渡る歩道橋の下にブロックがあるが意味が?歩道橋の先を左に入り『村社 笹宮』折り返して歩道橋へ16:09陽も下がり、歩道橋(熱田区伝馬一丁目)の上から旧東海道方向の塀際に多くの人が並んでいた行列は『あつた蓬莱軒 本店』で交通整理員もいた、後方は先程渡った歩道橋。所在地:愛知県名古屋市熱田区神戸町503落ち着いた和風で長年の歴史を持つ老舗の鰻屋で、創業当時より継ぎ足しされている秘伝のタレや備長炭で焼いたこだわりの鰻を頂ける16:11宝勝院蓬寿山と号す西山浄土宗の寺院である。昭和27年近くの高仙寺と合併したが、その際移安された木造阿弥陀如来立像の胎内から、仏や菩薩などを木版刷りした摺仏や写経などが多数発見された。その写経の一部に僧永巌が貞永元年(1232)仏道成就を願って阿弥陀如来の造立を企てた旨の奥書があり、造像はそのころと思われる。昭和58年、本尊、納入物とも国の重要文化財に指定された。また熱田湊常夜燈は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。先を急ぐので立ち寄らず旧東海道の右側に、宝玉烏?沙摩明王宮の渡し公園(七里の渡し)所在地:愛知県名古屋市熱田区内田町16:15今日のゴール点『七里の渡し』へたどり着く。ここまでの今日の歩行数は、35,500歩 鳴海宿~宮宿-続く
2020.02.01
コメント(0)
宮宿は、東海道五十三次の41番目の宿場である。宮とは熱田の宮、すなわち熱田神宮のことで、幕府の公式文書では熱田宿である。宮宿は熱田神宮の門前町であり、東海道の脇往還である佐屋路や美濃、木曾へ通じる美濃路の分岐点である。また熱田湊は物流の拠点であり、宮宿は経済・情報・文化の中心都市的な役割を担った。11/23(土) 14:13富部神社お葉つき銀杏この木は茨城県笠間市稲田御草庵に有ります。天然記念物親鸞聖人御手植の「お葉つき銀杏」の子木で寄贈者が其の実を愛育えしとのことです境内には菊がきれいに咲いていた境内の片隅に・・・・・境内の山車蔵山車蔵には、享保12年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく三階の上に更に高く、いわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前に尉と姥の人形が置かれている。昭和48年(1973)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦6月12日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が拳って曳行したが近年老朽化が著しく、十月の例祭日には蔵の中で組立られ祭の象徴となっている富部神社入口の鳥居の右側にある『金毘羅社』金毘羅社東海道「宿駅制度設定四百年記念碑」 平成13年吉日 名古屋市・呼続学区石碑には、現在は繁華な町となるも、長楽寺、富部神社、桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものであると名古屋十名所の石碑旧東海道に戻る途中左側に入り進むと、左手に境内14:23清水稲荷殿所在地:愛知県名古屋市南区呼続4丁目13清水稲荷殿は呼続公園の中に位置し、境内には無料駐車場があり多くの車清水稲荷殿は富部神社と長楽寺に押されて印象が薄いが、地元では大切にされている朱塗りの社殿、鳥居が目立つ~ ミツバチは宝物です ~養蜂の起源は、おおよそ紀元前1万5000年前の頃とされております。スペインのアラニア洞窟の古い壁には、女性が手を伸ばし高い崖で自然巣を採集しようとする姿が描かれております。日本では、縄文の頃から家の一角にくぼみを作り蜂蜜を採取していたと伝えられ、竪穴式住居の一角に40cmほどの穴を作り、蜂達とハチミツを共有していたと報告されております。当山の境内では、養蜂は行っておりませんが、縄文式の文化と同じで、ミツバチとも共存しております。また彼らの天敵はスズメバチで、その天敵から身を守る為お墓の所に巣を作る場合がありますが、静かに見守っていただきますようお願い申し上げます 稲荷山 長楽寺清水稲荷殿から出て左に折れて進む14:26左手に石像があり、動物観音の石柱と銀杏の大木長楽寺入口長楽寺は、曹洞宗の寺で、山号は稲荷山。所在地:愛知県名古屋市南区呼続4丁目13-18本尊:十一面観世音菩薩創建年:弘仁12年(821) 開基:空海右奥に長楽寺動物霊園があり、近年はいわゆる「ペット供養」の方面が有名である境内へ入り右側にある『立木観音堂』客 殿客殿から左に進むと『信者修行堂』中では多くの人がいて、愛犬、愛猫の法要が行われていた霊園特別法要法要日の日時が書かれ「??家愛犬????」「??家愛猫???」の札里親会:11月の開催日 10日・24日里親会のおしらせ毎月第2日曜日・第4日曜日開催11時より15時まで子犬、子猫、飼育放棄されてしまった子達の新しい家族を探しています。募金活動やフリーマーケットも同時開催14:35長楽寺から旧東海道へ出る旧東海道を進む14:38旧東海道は「呼続小学校前交差点」で東海通と交差、横切って斜め左方向へ進む交差点の標識より地名が解るが「呼続」⇒「よびつぎ」とは旧東海道を進み左手にある『正覚山 誓願寺』所在地:愛知県名古屋市南区15寺の石柱と東海道の石柱更に、旧東海道を進み右手にある『湯浴地蔵』所在地:愛知県名古屋市南区呼続3丁目12-1本堂の前の幟に「南無大師遍照金剛」湯浴地蔵の前にある案内板「南区史跡散策路 東海道周辺めぐり」 年魚市潟勝景跡(白?寺)へ310m ← 「湯浴地蔵」 → 黄竜寺へ40m街道を進むと小さな祠街道を進むと「東海道」「鎌倉街道」の石柱ここで合流したのか、交差したのか?旧東海道を北北西へ進む14:48熊野三社所在地:愛知県名古屋市南区6東海道「宿駅制度設定四百年記念碑」石碑には、古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として「松巨嶋(まつこしま)」と呼ばれ尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通りこれに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている芭蕉は「寝覚めの里よびつき」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に?する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し船の出港を呼びついたことから「よびつき」の名があるとも言われている 平成13年吉日 名古屋市・呼続学区保存樹 エノキ一里塚に植えられている榎徳川家康の「一里塚にはええ木を植えよ」を勘違いして「エノキ(榎)」が植えられたエノキの落ち葉御由緒永禄年間山崎城主、佐久間信盛が城中の守護神として祀り、信仰殊の外厚く寛永4年(1627)山崎村並に附近一帯の住民の守神として、現在地に再建せられ今日に至るも御神徳は年々高まっている 熊野三社二の鳥居熊野三社境内左に「山﨑稲荷社」、右に「熊野三社」地元に根ざした神社で、派手さはないが秋まつりでは屋台も出て、地元の太鼓が披露され温かく盛り上がるとこじんまりした拝殿左手に、保存樹 クスノキ」松巨嶋(まつこじま)手洗 松巨嶋(まつこじま)呼続の台地一帯は昔白砂青松の景勝地で松巨嶋といわれ「尾張徇行記」に記されている。この手洗の表は「松巨嶋」裏には「明和三丙戊歳五月吉辰」願主三宅徳左衛門年定と刻まれている 明和三年(1766)14:54街道へ戻る旧東海道沿いのうなぎ店「いずたま(泉玉)」。所在地:愛知県名古屋市南区呼続2丁目13-9ひつまぶし、鰻も美味しかったが、刺身のハモも美味しかったと。いつか美味しいウナギを弥次喜多道中中に食べたいものですが!「山崎の長坂」の石柱、昔はこれ以上に急坂であったと14:57曹洞宗・龍雲山 法泉寺所在地:愛知県名古屋市南区呼続2丁目1-21法泉寺山門、扁額には「龍雲山」方向を変えて撮影山門には「東海四十九薬師霊場第三十一番札所 法泉寺」15:02山崎の長坂を下り、山崎川の山崎橋へたどり着く山崎橋からの上流、名鉄名古屋本線が走る15:03旧東海道を歩き、山崎橋を渡って左方向へ進む山崎川沿いにあった祠 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.31
コメント(0)
笠寺一里塚から、今日のゴール点「七里の渡し」まで後約6キロ。この辺りの旧東海道は北西から北方向へ進む。11/23(土) 13:25笠寺一里塚一里塚は、慶長9年(1604)、幕府が主要街道を整備し、江戸日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。ここは、江戸から88里の所にあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、東側の塚だけが現存している笠寺一里塚は江戸から88里のところにあるが、87里は「有松一里塚」。因みに、この間の一里を2時間22分要した。女子のマラソンでは、これだけの時間で10倍の42.195km走る塚の上に榎が生い茂る根元にはスイセン等が芽を出していた13:27旧東海道(県道222号線)を北西に進むめずらしく祝日で日の丸を掲揚している家庭があった13:31右前方に『天林山 笠覆寺』の石柱13:35天林山 笠覆寺前を左に入り『笠寺天満宮東光院』所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町新町47笠寺天満宮東光院ご案内当山は真言宗智山派に属し尾張の名刹笠寺観音笠覆寺天平開創され延長8年兼平中将再建し其の宿坊として創立以後幾餘の変遷を圣て天文5年再興し今日に至る。本尊不動明王は伝教大師の作にして往昔紀州熊野新宮の本尊なり、しも縁有って慶安3年当寺に伝来し厄除満願不動として信仰多い。・・・・・中略・・・・・・・・・また、剣聖宮本武蔵は当寺に一時滞在し、天満宮に帰依し遺品数点現存す此の為武士道上達技藝上達祈願のご利益多し、他に源範頼の由緒有り。境内樹木多く四季折々に桜・梅・さつき・花菖蒲・茶花等の年中緑と花の絶え間なく緑の少ない都市化の中で憩いの場として親しまれている境内に入り、東光院本堂宮本武蔵遺品は一般公開しておりませんのでご了承ください 東光院13:38尾張四観音之一 天林山 笠覆寺(りゅうふくじ)所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町上新町83十一面観音を本尊とする真言宗智山派の寺院で、山号は天林山。一般には笠寺観音の通称で知られる。尾張四観音の一つで、その他尾張三十三観音、名古屋二十一大師やなごや七福神などの霊場の札所である。笠寺観音山門1300年の歴史を持ち「笠寺」の地名の由来となったお寺。名古屋を鎮護する尾張四観音の一つにも数えられる名刹で、厄除けや縁結びなどの信仰を集めています。松尾芭蕉の句碑や宮本武蔵の碑の史跡も多く、竹千代(後の徳川家康)と織田信広の人質交換の場所としても有名です玉照姫堂、後方に笠覆寺本堂幟は「玉照姫・兼平公御夫妻」笠覆寺天林山と号し、真言宗。俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。天平年中(729~ )禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。初め小松寺と称したが、延長年中(923~ )藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎4年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宜陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財多数がある多宝塔二重の塔で、阿弥陀如来をおまつりしています多宝塔の前に『人質交換之地』信長攻路「桶狭間の戦い 人生大逆転街道」多宝塔の裏(南側)にある『芭蕉句碑 春雨塚』 「笠寺や もらぬ崖(いわや)も 春の雨 芭蕉」西門から、左側に『白山社』『本堂』この日は土曜日で朝市?西門の左手に『六地蔵堂』地獄から天界まで、全ての生きる者たちの苦悩を救おうとされる、六種のお姿のお地蔵様がある笠寺観世音の西門来年の節分の案内 前夜祭(開運厄除 祈祷) 2月2日 20:00~24:00 節 分(豆まき 祈祷) 2月3日 9:00~17:00笠寺観世音の西門の向かい側にある『笠寺明王』笠寺明王後縁起当院明王堂に安置されている烏瑟沙摩明王は、今から800年程前木曽義仲公の母君が日頃持仏として信仰され、御子出産の折にもその功徳により安置されたと伝えられて居ります。母君の死後、奥女中いと女がお祀りしておりましたが、義仲公粟津にて戦死されたため、後を追い自害する際かたわらに仕えていた河地、今井の両名にご尊像をたくしました。両名は各地を転々とした後、美濃の小木村に永住し、ご尊像は河地家の秘仏として奥深く祀られてまいりました。河地家二十代彦太郎氏は火災にあい、家宝一切を焼失しましたが、ご尊像のみは無事に助かりました。氏は悟るところあって当院十八世政瑜和尚について得度、僧となり堂を建てご尊像を祀られましたが一夜、烏瑟沙摩明王、夢枕にたたれ、我が功徳を広く人々に授けんと告げられたため、戒師寺たる笠寺西方院にご尊像を移すことを決意。一堂を建て笠寺明王として安置し、以後多くの善男善女の厚い信仰を集めております。烏瑟沙摩明王の功徳うすさま明王様は不浄を転じて清浄にする功徳をもっていますので、不浄除の守護仏(便所の守護仏また毒蛇などの虫の害から守ってくださる仏)として、信仰されております。尚この明王様は安産、婦人病、しもの病に霊験あらたかであります。老若男女を問わずお「下」のお世話をかけないようにと祈願し、心身ともに不浄を除き和やかで幸せな生活ができるようにとご参拝下さい 天林山 西方院粕畠観音御縁起現在、粕畠貝塚のある場所は「観音塚」「元観音」と呼ばれ、享保元年(1716)加藤又兵衛勝貞氏が寄進した「南無十一面観世音大菩薩」と刻まれた碑と、千手観音さまの座像が安置してあります。・・・・・中略・・・・・・平成4年6月に、お堂が取り壊しとなり、縁ありまして西方院の明王堂に入られました。厄難を除き、所願を成就してくださる観音さまとして、皆様にご参詣されています真言宗智山派 天林寺 西方院所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町上新町81木曽義仲の母が持ち歩いたといわれる不動明王がご本尊。泉増院、東光院とともに、旧笠覆寺十二坊の一つです。怨霊や悪魔の出入り口とされるトイレを清める烏枢沙摩(うすさま)明王を安置しています西方院本堂西方院境内から山門旧東海道に面している13:54笠覆寺の西門前にある、旧東海道沿いの「大力餅 店」旧東海道(県道222号線)から笠覆寺を振り返る13:57旧東海道(県道222号線)と環状線との「笠寺西門交差点」を渡る交差点に「笠寺の歴史」の石碑笠寺の歴史江戸時代の笠寺村は、東海道第40番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。・・・・・・・・交差点を渡り、笠寺西門を振り返る13:58旧東海道(県道222号線)沿いの、「手打ちうどん ゆたかや 本店」サービス品「みそ豚丼:580円+?鉢うどん:310円」⇒ 800円美味しそうで食べたかった―!秋葉社右隣りは「寺町 門會堂」14:01名鉄名古屋本線を通り過ぎ、この先を右方向へ進む(北方向)旧東海道は県道222号線から別れて北上14:05旧東海道の右側に、日蓮正宗 玉泉寺住宅の間に、玉泉寺本堂14:07旧東海道の前方に高木が旧東海道から左側(西方向)へ入る14:11富部神社所在地:愛知県名古屋市南区呼続4丁目13-38富部神社鳥居の左にある「末社 秋葉社」皆さんきちんとお参りしておられた富部神社当社は慶長8年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので「戸部天王」とも「蛇毒神天王」とも呼ばれていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、神道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として陰陽道では天体と方位を掌る神として、大切に奉られています富部神社は慶長年間に清洲城主・松平忠吉公によって創建された神社。桃山建築の姿を残す本殿は国の重要文化財 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.30
コメント(2)
如意寺から旧東海道(県道222号線)を進む。しばらくは主な寄道もなく旧東海道を北上する。11/23(土) 12:13旧東海道(県道222号線)の「作町交差点」の三叉路を右方向へ北上左方向は、名鉄名古屋本線を渡り国道1号線の「京田交差点」右の軒先には貝の飾り東海道鳴海宿榊原邦彦氏の「桶廻間合戦研究」「東海道鳴海宿」を、特価頒布中と、2500円/冊街道沿いにメタセコイア12:19旧東海道と県道36号線「三皿交差点」の角にある「長翁寺」所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字花井町50長翁寺本堂和尚さんが元先生とか本堂扁額「???」境内には多くの菩薩がこの辺りは旧東海道(県道222号線)を北上している。汚水マンホール12:25丹下町常夜灯鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。表に「秋葉大権現」右に「寛政四年ーー」左に「新馬中」裏には「願主重因」と刻まれている寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である丹下町常夜燈を右に100m程入り左側に『光明禅寺』光明禅寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町丹下26光明禅寺の山門山門の両側に仁王像?光明禅寺本堂山門の天女この後、旅友がどこか探していたが、「丹下砦」では、案内板がなかった12:37旧東海道に戻り紅葉がきれいに色ずいていた12:42街道右側に「鉾ノ木(ほこのき)貝塚」鉢ノ木貝塚は、縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており上層土器の型式をとらえ「八ノ木式」と呼称されている。野村三郎氏により発見された道路標識100m程登った「千鳥塚」へ行くことに千句塚公園所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町三王山17公園入口の壁面に芭蕉の句が、 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 芭蕉芭蕉 生前に立てられた唯一の碑「千鳥塚」登り切った左手です千句塚公園の小高い丘へ向かう右側前方に弥次さんが千鳥塚この碑は、鄭亮4年(1687)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、側面に興行の年月が刻んであるこれは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。昭和52年(1977)名古屋市史跡に指定された千句塚公園内を進む天気も良く快晴で穏やか緒畑稲荷神社千句塚公園内の高台にあり、入口には狐赤く実のついたピラカンサス13:00高台からは名古屋市中心部が眺望できる。この煙突の焼却場は「名古屋市 緑環境事業所」千句塚公園から急な階段を下りる千句塚公園下の「山下交差点」旧東海道(県道222号線)は、ここより手前の三王山交差点を左折して西方向へ左が三王山交差点からの旧東海道(県道222号線)旧東海道の「山下西交差点」から、右前方は公園から見た「名古屋市 緑環境事業所」二級河川 天白川(てんぱくがわ)天白橋上からの下流右前方はJR東海道本線の「笠寺駅」辺り天白橋の塗替え塗装及び補修を行っている13:15旧東海道(県道222号線)を西方向へ進むここまでは「車線変移区間」で3車線を時間帯によって2+1に変更歩道面のタイル「松並木」歩道面のタイル「弥次喜多道中」この辺りのスピード制限は30km、弥次喜多道中の看板も街道脇に「東海道 知多郡道」の石柱に、「この先五十米南へ」と街道沿いに「東海道分間延絵図」現在地旧東海道を進む、道路を横切る弥次さん13:20旧東海道(県道222号線)を西方向へ進むと前方に一里塚の木笠寺一里塚笠寺一里塚所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町下新町 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.29
コメント(0)
鳴海宿は、品川宿より40番目の宿場町である。鳴海宿の本陣千代倉家は慶長依頼の旧家で、二代目・知足は芭蕉や井原西鶴と親交があり、また六代目・学海は池大雅や与謝蕪村と親交があり、多くの文人墨客が訪れた。文化3年(1806)建立の平部町常夜灯が宿場の東の出入り口で、寛政4年(1792)建立の丹下町常夜燈まで15町18間(約1.6km)にわたり町並みが続いていた。11/23(土) 11:45鳴海萬福寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町本町5山門を入り二つ目の門先ほど訪れた「浄泉寺」(東側に位置する)手水舎&本堂鳴海萬福寺境内から降り11:50旧東海道(県道222号線)を進み『名古屋市緑生涯学習センター』所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町本町54カルチャーセンターで食事もできる施設名古屋市緑生涯学習センター敷地内にあった石碑『旧愛知郡鳴海町役場跡地』御食事処「あじさい」日替わりランチの幟昼前でワンコインで食べれるメニューがあったがスルー旧東海道と県道242号線が交差する「本町交差点」本町交差点を右折して県道242号線へ11:53浄土宗 来迎山 誓願寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋16天正元年(1573)の創建で浄土宗。鳴海宿本陣・千代倉家の菩提寺。千代倉家二代目・下里知足は芭蕉や西鶴と親交があったので、境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。芭蕉堂には、芭蕉手植えの杉の古木で彫刻した芭蕉像が安置されている誓願寺は県道242号線の西側にある 誓願寺本堂境内は狭かったが、芭蕉堂は後ろ側にあった門を入って左奥、芭蕉堂の左手にある『芭蕉の供養塔』芭蕉お供養塔は高さ60センチ程の碑芭蕉最古の供養塔誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmほどの青石の自然石で、表面に「芭蕉翁」裏面に、元禄7年(1694)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門人下里知足の菩提寺である当寺に移された。芭蕉最古の供養塔で、昭和52年市の史跡に指定誓願寺の北側に隣接する『聖観世音菩薩』県道242号線の東側にある『鳴海宿高札場(復元)』東海道鳴海宿では、江戸時代、宿場の中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、長さ三間、幅一間との記述が残されています。また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます鳴海宿高札場の北側にある『天神社』鳴海神社創祠の地天神社 由緒右に『史蹟 鳴海城址』石柱鳴海神社(天神社)鳴海城跡根古屋城ともいい、応永年中(1394~ )安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。『尾張志』は東西75間、南北34間で4面に堀跡、本丸と二、三之丸にも堀を残すと記している鳴海神社(天神社)12:01鳴海城跡から南方向、正面に『圓道寺』鳴海城跡の東側にある『真宗 大谷派 竹林山 圓龍寺』所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町本町11-1県道242号線の西側にある『曹洞宗 庚申山 圓道寺』庚申山 圓道寺当寺は、昔から盛んにおこなわれた庚申行事にもとづく曹洞宗の尼寺院です。この地は東海道五十三次鳴海宿の高札場より北へ、通称庚申坂を上った所で鳴海城址下にあります。今から400年余り前の天正年間に、仁甫良義和尚(瑞泉寺十一世)によって開創されました。はじめ猿堂寺と号し、その後宝暦7年には地蔵寺、安永3年に庚申堂と変遷し昭和17年に庚申山 圓道寺と定められました。ご本尊は青面金剛尊(庚申さま)です。本堂の屋根にはその使わしめの三猿像(見ざる・言わざる・聞かざる)が据えられています曹洞宗 庚申山 圓道寺庚申山 圓道寺 本堂ここの奥に秋葉堂、弘法堂がある県道242号線の道路脇に「庚申坂」県道242号線を下り「元町交差点」への途中にある『聖観世音菩薩』12:08旧東海道(県道222号線)に戻り進むと『鳴海宿本陣跡』。鳴海は、江戸時代東海道53次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた鳴海宿本陣跡鳴海宿の本陣は、ここにあり幕末の頃、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3,643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、二軒あった12:08旧東海道(県道222号線)沿いの『大名茶屋「善」』鳴海宿 食い呑み問屋場旧東海道の北側にある「如意寺」へ12:10如意寺山門所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町作町85尾張六地蔵のお寺山門の扁額『如意寶珠寺』如意寺本堂と鐘楼蛤地蔵尊地蔵第四番「蛤地蔵善薩」扁額は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.28
コメント(3)
有松天満社から有松の旧東海道(県道222号線)へ戻る。間の宿有松の西側。明治維新以降、東海道の往来者が大きく減ったことなどから、有松絞りは著しく衰退しました。しかしその後、新たな意匠や製法の開発、卸売販売への業態転換などによって再興し、明治後期から昭和初期にかけて最も繁栄しました10:55祇園寺の前に立つ、石碑の歌碑 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ 梅屋鶴寿梅屋鶴壽幕末の狂歌師、享和元年(1801)江戸神田佐久間町に生まれる。姓は諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した、株をあきない、尾州家の御用を勤める。若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、後に長谷川町に待合茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった、狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて秀吟おほし本町測糸巻連の魁首にして其名四方に鳴る」とある、老後には号を株翁とも言うようになった。元治元年(1864)正月12日享年63歳で亡くなる街道を振り返る、右側に「神功皇后車(西町)の山車庫」長坂道 - 東海道より古い道 ー右側へ、国道1号線へ出る長坂道 - 東海道より古い道 ー「桶狭間道」「刈谷道」とも呼ばれ、江戸時代以前よりあった古道。紺屋(こうや)の染場や絞り職人さんの家々が並んでいました曹洞宗 大雄山 祇園寺境内には多くの子どもたちと父兄所在地:愛知県名古屋市緑区有松2121755年建立の曹洞宗の寺院で、江戸時代は寺子屋でした。境内には光明皇后が詠んだ歌碑や奈良薬師寺を模した仏足石があります金属表面処理・黒染メーカー高架橋は「名古屋第二環状自動車道」工場内藍染をしているのかと思ったが高架橋は「名二環:伊勢湾岸道方面」近くに国道1号線の有松インタがある10:58高架橋の下に「有松一里塚」東海道沿いには、今なお絞商の豪壮な主屋をはじめとする数多くの伝統的な建物がのこり、有松絞りによって繁栄した往時の様子を今に伝えています。ここまでの歩数は、11,500歩一里塚は、慶長9年(1604)、幕府が主要街道を整備し、江戸日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり無くなりました。しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年当地に復元されました11:00名鉄名古屋本線左奥は「有松天満社」が鎮座する山旧東海道(県道222号線)を西に向って進む。この辺りは電柱が立つ11:11石段に「この神社は、元伊勢伝承の神社です」の看板。私はここまでで参拝せず11:15平部町常夜灯東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる鳴海宿鳴海地方は中世末まで海に面していて、鳴海潟と呼ばれた景色のよい所だった。江戸時代に入り遠浅の海が干拓されて、新田が開かれ海は遠くなる。代わりに鳴海村は尾張藩領のなかでも石高が五千石あまりもある大きな村となった文化3年(1806)建立の平部町常夜灯が宿場の東の出入り口で、寛政4年(1792)建立の丹下町常夜燈まで15町18間(約1.6km)にわたり町並みが続いていた消火栓のデザインは名古屋城。鳴海宿は、有松で生産された絞り染め製品を「鳴海絞」のブランドで売る商家が軒を連ねていた。広重の保永堂版『東海道五拾三次鳴海』は、絞り染めを売る塗籠造りの立派な商家が並んでいる様子を描いている11:20曹洞宗 紫霊山 金剛寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町平部41宝暦10年(1760)、瑞泉寺二十世呑舟和尚が創建、本尊は行者菩薩像。そのことから行者堂と云われた昭和17年(1942)瑞泉寺三十一世道本蜜成和尚を寺号開山とし、本尊行者菩薩の金剛杖や「金剛般若経」と縁厚いところから、紫雲山金剛寺と改称した。堂前の石仏三十三観音は、明和4年(1767)に作られ、以前は街道に面して並んでいた本尊行者菩薩のほか薬師如来像なるみ焼きの十六羅漢像(明治29年 下田生素 寄贈)が寺宝としてある。町並みの中にある寺だけに、江戸時代には寺小屋として使われていた旧東海道(県道222号線)沿いに公園飛脚と旅人11:25旧東海道(県道222号線)を進み、扇川に架かる「中島橋」扇川の下流「鳴海駅」方面干潮時か? 川の水位が下がっている名鉄名古屋本線の「鳴海駅」手越川に架かる「下中橋」下中橋から扇川史跡散策路「鳴海宿コース」桶狭間古戦場跡にあったパネルでは、この辺りには城&砦があり今川軍の「鳴海城」を囲んで織田軍の「中島砦」「丹下砦」「善照寺砦」があった瑞泉寺の山門を遠望禅(曹洞宗) 大本山総持寺直末 龍蟠山 瑞泉寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町相原町4瑞泉寺は、龍蟠山と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失、文亀元年(1501、永正元年等の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。二十世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦5年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている山門前の石段を登り県の有形文化財に指定されている山門本 堂扁額は龍蟠山山 門山門から東側瑞泉寺から旧東海道(県道222号線)を進む11/24(土) 11:40旧東海道から北側に入り『鳴海萬福寺』弥次さんは右側の坂を上る石柱は『真宗 高田派 木林山 浄泉寺』浄泉寺の山門、鐘楼所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町上中町9山 門扁額は「木林山」浄泉寺の本堂山門の西側にある宝庫浄泉寺の境内11:45浄泉寺から道を隔てた西側にある、萬福寺境内のイチョウ 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.27
コメント(0)
延べ日数24日目の弥次喜多道中記。間の宿有松の散策後半。有松めぐりマップ天明4年(1784)の大火以降に再建された耐火構造の塗籠造りに卯建(正式には梲)の上がった屋根や海鼠壁の商家が多く現存し、平成28年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された間の宿有松 西側方面へ進む。天明4年(1784)の大火により村のほとんどが焼失しましたが、尾張藩の援助もあり、20年程でほぼ復興したと伝えられます11/23(土) 10:27旧東海道(県道222号線)を進む竹田家住宅竹田家住宅市指定有形文化財(平成7年)主屋 一棟、書院棟 一棟、茶席 一棟、宝蔵 一棟、・・・・・・当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院茶席とも建築的にたいへん優れている。竹田家は、屋号を笹加というのれんの上の屋根に「明治期のガス灯」が残る。竹田家は寛保年間(1741~1744)に絞業を営んでいた、竹田嘉七郎に始まると伝えられています。時代とともに改造されながらも、江戸末期の様式を継承した主屋、14代将軍徳川家茂が訪れたとされる茶室「裁松庵」、明治から大正にかけて整備された土蔵群や洋間、書院座敷、門、屏等が現存し、有力な絞商の屋敷構えの典型例をみることができます。店先の看板には、屋号の「笹加」が書かれている竹田家の土蔵川村小路(かわむらこうじ) - 東海道と長坂道を繋ぐ道 -国道1号線へ向かう小路川村小路(かわむらこうじ) - 東海道と長坂道を繋ぐ道 -絞商川村屋に因んだ名。天保の村絵図に見られるこの小路は、石積の水路(暗渠)を横切り、長坂道に通じています河竹小路(かわたけこうじ) - 町屋の間を抜ける趣のある道 -河竹小路(かわたけこうじ) - 町屋の間を抜ける趣のある道 -絞商河村竹次郎に因んで名付けられ、小路の両側には今もその子孫が住んでいます。映画「アイコ16歳」の撮影現場。小路の中ほどから眺める東海道は、いにしえの風情10:30左側2軒目が「岡家住宅」岡家住宅は東西に延びる有松の町並みの西側に位置しており、江戸時代末期頃の建造とみられています。当時は有松絞の問屋を営む「丸屋丈助」の店として小田切春江の錦絵にも描かれています。その後、昭和10年頃、岡家の先々代当主が取得し、絞問屋岡兼商店を営まられていました岡家住宅名古屋市指定有形文化財公開日時:土・日曜日(年末年始除く)、10:30 ~ 15:30 見学無料主屋は、平入、桟瓦葺、1階には格子をはめ、2階は重厚な塗籠造で、虫籠造となっており、江戸末期の絞商の主屋の特徴を残しています。主屋の間口は、有松の伝統的建造物の中で最大です岡家住宅内に入る梁は大きい部材を使用、部屋数も多い部屋に掲げられていた『歌川広重 東海道五拾三次 鳴海(名物有松絞)』卯建(うだつ)、塗籠造(ぬりごめづくり)、虫籠窓(むしこまど)、格子時代ごとの主屋(いずれも絞商の主屋)塗籠造:壁と軒裏を漆喰で塗り固める珍しい「天窓」の設置土間部の小屋組土間部と居室部では小屋組形式が異なります。天井張で見えない居室部の小屋組は、細かい材で簡素な形式ですが、土間部は太い材で組む豪壮な小屋組形式になっている屋根裏には裸の電気配線も走る親切に説明して頂くが先を急ぐので早々に出る。10:37街道を振り返る小塚家住宅市指定有形文化財(平成4年)主屋 一棟、表倉 一棟、南倉 一棟当住宅は重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた神功皇后車(じんぐうこうごうしゃ)(西町)の山車庫神功皇后車(西町)の山車庫ここ西町の山車庫には「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳行した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。平成20年以前の木造の建物で町並みの景観になじんだ造りとなっている。神功皇后車は、明治6年(1873)、西町が名古屋の大工 久七に発注して造ったもので、有松に現存する三台の山車の中で最も古くから曳かれている。昭和48年(1973)、市の文化財に指定された。毎年10月第1日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる石柱は「文章嶺天満宮」交通整理員もいて人だかりがあったが、聴いてみると幼稚園のバザー?とか石燈籠は「文章嶺天満宮」と刻まれ、手前に道標切通し - 有松天満社への参拝道 -山上に祀られているのは、有松天満社。元々は山であったところに参道を切り開き、切通しと呼ばれるようになりました10:42名鉄名古屋本線の踏切を渡り、有松天満社へ有松天満社鳥居所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町米塚10有松天満社この神社は名鉄のCMでも登場したとか有松天満社 由緒菅原道真公を祀る神社。元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1791)この地に奉納せられ、当地新興特産の絞り業最盛期を迎えて、文化7年(1810)八棟造りの壮麗な社殿が建立され、以来絞り産業の町、有松の産土社と仰がれている。・・・・中略・・・・・・昭和48年名古屋市の有形民俗文化財に指定されている階段横に手水舎結構石段の数が多いようであったが、石段を登り本殿へ本殿への途中にある広場拝殿&本殿門が閉められていて中へは入れず門の合間から撮影天満社 由緒菅原道真公を祀る神祠は、元祇園寺境内にあったが、寛政の初期(1791)この地に奉納せられ、文化7年(1810)に現在の八棟造りの壮麗な神殿が建立された。この山頂は奉遷に先だって、数千人より棒げし詩歌、文章等を埋納したので文章嶺と称され歌われている。3月25日の春祭、10月第一日曜の秋祭は広く知られている。氏子の産土神として毎年厄年有志及信人の寄進に依り諸施設大いに整う筆 塚筆塚の筆納について祭神 菅原道真公は学問の神様です。学業上達のため、ご精進された古いお筆をここにお納めください拝殿への門が閉鎖され覗き込む人石段を下り振り返るまだ百数段の石段を下りる名鉄名古屋本線10:53普通電車の「東岡崎行」今夕、宮宿の「七里の渡し」まで歩いたら、神宮前駅から豊明駅まで乗車予定 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.26
コメント(0)
延べ日数24日目の弥次喜多道中記。間の宿有松を散策。11/23(土) 10:00間の宿有松慶長13年(1608)知多半島から竹田庄九郎ら8名が有松に移住し、茶屋集落を造ったのが間の宿有松の始まりという。有松絞は竹田庄九郎が慶長13年に名古屋城築城工事に参加した際、九州の豊後高田から来ていた人夫の絞り染めの手拭いに、目を付けたことがきっかけとされる。絹布に絞りを施した手拭いを五代将軍・綱吉へ献上し全国に知られた有松めぐりマップ有松の町は、慶長13年(1608)東海道筋に生れた町です。阿久比庄(現在、愛知県知多郡阿久比町)から移住した竹田庄九郎はじめ8名により開かれ、絞りの名産地として発展しました。以来400年以上、特色ある町並みは現在も多く残り、絞りの文化とともに日本の美しさを今日に伝えています間の宿有松旧東海道(県道222号線)を右方向(東)から左方向(西)へ進む旧東海道(県道222号線)有松の東海道沿いの町並は、平成28年(2016)7月に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました絞りLab愛知県絞工業組合の看板有松の町並は電柱・電線がモール化されてすっきりのれんは全て有松の絞り有松には歴史的な街並みとともに、伝統産業の有松絞り、市指定文化財の3輌の山車が今日まで継承されています令和元年5月に有松は日本遺産に認定された。「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地 ~ 藍染が風にゆれる町 有松 ~ 」加藤呉服店有松絞りは400年前、糸でくくった木綿を藍などの草木で染めたことにはじまり、絞りの技法は100種類にも及びます。現在、製品は和装にとどまらず、様々な小物やインテリアなど多岐にわたっています。毎年6月第1土・日曜日には「有松絞りまつり」が開催され、東海道が大いに賑わいます手前:有松絞り 橋爪合資会社中央の白:有松山車会館 所在地:愛知県名古屋市緑区有松2338 有松にのこる3輌の山車は江戸期から明治期に製作されたものです。毎年10月第1 日曜日には「有松山車まつり(有松天満社秋季大祭)」が盛大に開催され、からくり 人形をのせた山車が祭囃子とともに東海道を曳き回されます毎年10月第1日曜日には「有松山車まつり(有松天満社秋季大祭)」が盛大に開催され、からくり人形をのせた山車3輌が祭囃子とともに東海道を曳き回されます右側の建物は、「手打ちめん処 寿限無茶屋」いろんなメニューがあり「忘年会」「新年会」の受付郵便受けは「カワセミ」歩道面の案内板有松・鳴海 絞会館所在地:愛知県名古屋市緑区有松30081階は数々の絞り商品の販売コーナー、2階は伝統工芸士のくくり実演と資料展示、職人さんを中心にとらえた有松の紹介映像を見学することができます。営業時間:9:30 ~ 17:00 (実演は16:30まで)休 館 日 :有松絞りまつり前後 3日間・年末年始弥次さんとともに、妻への土産を購入したが、喜んでくれるか?有松・鳴海 絞会館の場所は「旧知多郡有松町役場跡地」有松・鳴海 絞会館 前のこの石碑は?頼 山陽(らいさんよう) 1781~1832名は襄(のぼる)主著『日本外史』は幕末の尊王攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書。(外史とは民間による歴史書の意)伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる・・・有松・鳴海 絞会館 内の販売品代表的な有松しぼり有松・鳴海 絞会館の向かい側左に位置する案内板は左側:服部家住宅、右側:服部幸平家住宅の倉 とある。漆喰の壁が一部剥がれており手直しが必要服部幸平家住宅の倉服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かつて屋号を井桁一といった。明治時代中期、分家の隣に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。服部家住宅と一体をなしている点で、有松の町並み景観上、非常に重要である。昭和62年(1987)、県の有形文化財に指定された服部家住宅(井桁屋)服部家住宅服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など合わせて11棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和39年(1964)県の有形文化財に指定された。主屋の二階は黒漆喰の塗籠造、屋根両妻に卯達設ける。土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠壁とし、防火対策を行っている。有松を代表する価値ある建築群である㈱JDDC、クリニックも、絞ののれんを出している藍染の絞珍しい看板、舞妓さん、変身祭の時期には貸衣装で変身するのか笑顔からはじまる右側の看板は診療内容:病理診断、病気のよろず相談街道を振り返る、左が「服部家住宅」山与遊歩道(やまよゆうほどう)ー 有松駅と東海道を結ぶ遊歩道 ー平成24年に整備され、西側家屋の元所有者 絞商 山与さんに因んで名づけられた道。かつて東海道にかかっていた中川橋の石柱が残り、これを境に往還と橋東という小字がついていました山予遊歩道入口にある案内柱国登録有形文化財『中濱』は藍と絞の店。所在地:愛知県名古屋市緑区有松2306主屋は明治中期頃建造。当初は絞商の山田与吉郎家の建物であり、平成16年(2004)からは中濱家(中濱商店)の建物として使われています。土蔵の軒先の瓦に「山 ヨ」の印が入っており、山田家が所有していた頃の名残りが感じられます神半家茶房、石窯パン、日本料理「やまと」、ダーシェンカ蔵間の宿 有松の西側10:20旧東海道(県道222号線)と県道237号線が交差する「有松交差点」有松交差点にあった「有松天満社 由緒」有松交差点から旧東海道を振り返る旧東海道(県道222号線)を進む、左下に「天王坂(てんのうざか)」の案内柱天王坂 - 牛頭天王おはします坂道 -かつて坂の途中に、徐疫の神・牛頭天王を祀る津島社があったことに由来します。ここには常夜燈と高札場がありました唐子車(からこしゃ)山車庫唐子車(中町)山車庫ここ中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳行した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。平成17年、土地区画整理事業にともない、本来建っていた場所より多少東側(右側)の現在地に新築された。木造で、町並みの景観に配慮された造りとなっている。唐子車は、天保年間(1830~44)に知多内海で造られたものを、明治8年(1875)に中町が購入した。昭和48年(1973)、市の文化財に指定された。毎年10月第1日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる松柏苑ディサービス 松柏苑中舛竹田荘中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な街並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。老朽化が進み建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ所有者である竹田家と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現しました革絞り専門店「くくる」10:26革絞り専門店「くくる」の店先に掲示された案内板【まちの成り立ち】 慶長13年(1608)有松は東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿の間に尾張藩によって開かれ ました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、 以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。【町並みの特徴】 東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ絞商の主屋や門・塀が数多く見 られます。また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられ、全体 的にゆったりとした印象の町並みとなっています。 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.25
コメント(0)
延べ日数24日目の弥次喜多道中記。桶狭間古戦場から、間の宿の「有松」へ向かう。11/23(土) 9:09ボランティアの人が数人おられ幟を立てて準備をしていた。ガイドの方から弥次さんに「説明しましょうか」と、弥次さん「お願いします」と年配のガイドの方は、今川方から見た桶狭間について説明弔古碑文化6年(1809)5月津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られているこの石碑の前で、字を読みながら内容について丁寧に説明される弔古碑文章は尾張藩の儒学者泰賢(号は滄浪、字は士鉉)碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。石工河内屋孫右衛門の手により刻まれたものであるまた、いろんなチラシ&パネルで説明。チラシから上記チラシの上図尾張名所図会「桶狭間陣中 今川義元酒宴の図」国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地『戦人塚』上記チラシの下図、旧東海道の途中にあったが、今回は立寄っていない。戦人塚は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いとの関連から、桶狭間古戦場伝説地と共に昭和12年12月21日に国の指定史跡にされています。今川軍の戦死者2,500余人を曹源寺二世快翁龍喜和尚が供養した塚といわれ、また一説には、織田信長が部下に今川軍の死者を検分させ、その遺骸を集めさせた塚であるとも伝えられています。塚の上には高さ1.05mの石碑があり、南面に「戦人塚」、東面に「永禄3年庚申5月19日」、西面に、「南無阿弥陀仏佛」と記されています。天文4年(1739)、この塚で180回忌の供養が営まれた際に建碑されたといわれています。この度、平成30年10月より進めていました戦人塚整備工事が平成31年3月8日をもって完了しました。前面に芝が張られ、高台に位置する塚の上からは桶狭間古戦場伝説地方面を広く見渡すことができますパネルも立て、過去の「桶狭間山」の写真今川 義元 公 生誕五百年 記念パネルボランティアの方が丁寧に説明されたが、我々は先を急ぐので途中で弥次さんも逃げ去り、私のみが残り断って早々に後にする9:25道路を挟んだ、桶狭間古戦場の西側の斜面、北方向は「中京競馬場前駅」左:高徳院初代住職の墓、右:おばけ地蔵斜面の一番手前に「今川義元 仏式の墓」今川義元仏式の墓碑桶狭間長福寺が義元300回忌法要をここで行っていて、その翌年の万延元年(1860)に建てられた。正面には戒名がある。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれているおばけ地蔵古戦場に戦死者の亡霊が現われる噂があって、嘉永6年(1853)に尾張藩士が建立した。この地蔵尊により、以後亡霊は現われなくなったという9:27高徳院(こうとくいん)所在地:愛知県豊明市栄町南舘3-2桶狭間古戦場の南側の高台に位置する高徳院の絵図高徳院 永代供養塔『瑜祇塔(ゆぎとう)』 香華山 高徳院の石柱明治27年(1894)に高野山から桶狭間古戦場隣地へ移転。敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っています。毎年7月の「土用の丑の日」には、高徳院きゅうり祭りが開かれます。身代わりのきゅうりに名前と住所を書き奉納することで、1年間の「無病息災」「家内安全」を願います。事務所で販売されているきゅうりのお守りも人気!山門の扁額「金剛生門」山門の仁王像:右山門の仁王像:左山門を入ると正面にタブの木本堂へ向かう本堂前の右の松は「三笠宮殿下 御手植」、他にも皇族の御手植の木があった高徳院本堂右手前に「芭蕉句碑」 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」山県有朋 来訪地 の石柱も本堂内本堂南側の竹林他にも多くの皇族の御手植の木があった鐘 楼 明治39年10月 皇太子殿下(大正天皇)ご来山の折、奥保陸軍大将が記念植樹された大木。本堂横に下馬記念の建碑がなされた。資料館には山縣有朋他の記念の揮毫が展示されている山門を入り右側へ進み、永代供養塔『瑜祇塔』の方向にある、「松井宗信の墓」。遠州二俣城主松井宗信の墓で、明治9年山口正義によって建てられた。 正面 松井兵部少輔宗信墓 桶狭間七石表二号碑明和8年(1771)、尾張藩士の人見弥右衛門黍・赤林孫七郎信之が建立した。この場所は、今川義元の重臣松井宗信の戦死の地と伝えられる瑜祇塔塀に囲まれて中には入れず竹林の下に「桶狭間古戦場」がある本堂前に戻り桶狭間古戦場「跡とへは昔の時のこゑたてて 松にこたふる かせの悲しき」 文政元年2月23日 香川景樹 9:42高徳院から降り立ち、桶狭間古戦場入口9:45国道1号線に戻り、名鉄「中京競馬場前駅」構内。大正12年までこの場所に松があり、信長が桶狭間の戦いの後休むために鎧を掛けたという「よろいかけ松の旧地」9:46国道1号線から南方向の「桶狭間古戦場」、右上は「高徳院墓地」9:50国道1号線の南側の旧東海道を数百メートル歩き国道1号線に合流旧東海道(国道1号線)を歩く。この夜18時過ぎに、豊明駅から桑名に向けて走ったが渋滞!9:55旧東海道は、国道1号線の「大将ヶ根交差点」を横切り斜め右へ進む交差点角に地蔵所在地:愛知県名古屋市緑区境松1丁目いつの間にか豊明市から名古屋市に入っていた。中京競馬場は豊明市国道1号線の「大将ヶ根交差点」を振り返る国道1号線を左に見ながら旧東海道を進む旧東海道の北側(Le・abbollire)の軒先に石碑。 たちならぶ 花にしきと家ごとに かけ渡したる くくり深いかな 離屋鈴木朖旧東海道の別れ道9:59左方向へ進むが車は一方通行で入れず橋の名前は「まつのねはし」豊明駅から桑名に向けて走ったが、渋滞のため国道1号線を右折して入りここを左方向へ進んだ名古屋のマンホールこのデザインは ? 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.24
コメント(1)
延べ日数24日目の弥次喜多道中記。阿野一里塚から旧東海道(けやき通り)を進む。11/23(土) 8:09国指定史跡「阿野一里塚」の碑8:13豊明市立「豊明小学校」豊明小学校の校門近くに掲げられていた『豊明市民憲章』1,郷土を愛し、住みよい緑のまちをつくりましょう1,勤労を尊び、健康で豊かなまちをつくりましょう1,教養を高め、スポーツに親しみ、明るいまちをつくりましょう1,きまりを守り、秩序ある平和なまちをつくりましょう1,健全な若い力のそだつ、伸びゆくまちをつくりましょう 市の木「けやき」 市の花「ひまわり」旧東海道(けやき通り)の「天野畳店」旧東海道を歩いていると畳店が多い8:17坂部善光寺、右に坂部区公民館坂部善光寺は、地元の三田家十一世医師三田柳庵氏が明治5年に善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像をお受けし、開眼供養したことから始まる坂部善光寺の由来明治28年には三田柳庵氏から同寺建設用地を提供され、地元有志によりお堂を完成させ、併せて善光寺別当大勧進に寄進された。それとともに地元信徒の賛同を得て、善光寺講を結成し、戦後の混乱期まで法燈を守ってきた。昭和22年、本堂の痛みも激しく、一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を仮安置した状態が続いていたが、昭和61年、本堂跡に建てられていた坂部公民館改築、同時に老人憩いの家建設の計画を機に、仮安置のままであった坂部善光寺本堂の再建とともに坂部善光寺の再組織が図られた8:19民家の庭先にあった「これは何ですか」と家の前にいたおばさんに聞くと「ネコ除けです」と8:21真宗大谷派 上宮山 西雲寺所在地:愛知県豊明市前後町善江1649山門から本堂鐘楼と本堂8:22旧東海道の「前後駅前交差点」8:23旧東海道から、前後駅北口の像駅前から北側を望む「朝」 名鉄「前後駅」きのっぴい8:31旧東海道(けやき通り)を進む。電柱に「国指定史跡 戦人塚」の看板。戦人塚には桶狭間の戦いで敗れた今川軍の兵士が葬られていると石碑は「野村平吉君殉職之碑」とあるが、どんな人か?ネットで調べると「熱田の踏切事故で責任をとって川に身を投げた」人とか8:33常夜燈と神明社の石柱神明社へ向かうため右の路地へ国道1号線の向こうに「前後神明社」所在地:愛知県豊明市前後町宮前前後神明社境内境内にある手水舎末社の「山神社」「秋葉社」「津島社」末社は金の柵で囲まれていた厄年会とは?840国道1号線の「螺貝(ほらがい)交差点」8:43旧東海道(けやき通り)に戻り進むカフェ、モーニングコーヒーが飲みたかったがいつも先を急ぐのでスルーズームアップ旧東海道に平行して南側を走る名鉄名古屋本線8:50旧東海道から国道1号線に合流「競馬場入口交差点」馬のひずめの上に馬の像。中京競馬場所在地:愛知県豊明市間米町敷田1225大きな馬の像日本橋から348km地点8:53ガードを潜り「桶狭間古戦場」の案内板ここの交差点を左折して100m桶狭間の戦い・日本三大古戦場「桶狭間古戦場まつり」 6月第1 土・日曜日開催緩い坂を南下8:54史跡 桶狭間古戦場所在地:愛知県豊明市栄町南舘11古戦場この地は、永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは館狭間と呼ばれた。今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)七石表が建てられた。文化6年(1809)には、桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある七石表(一号碑)桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。明和8年(1771)、尾張藩士人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之により建てられた。北面「今川上総介義元戦死所」、東面「桶狭七石表之一」、南面「明和八年辛卯十二月十八日造」と刻まれている桶狭七石表一、戦後68年後の1628年に斎藤徳元が書いた『関東下向道記』に江戸へ向かう道中、 「有松を出て道より馬手(南)にあたりて小高き古塚有・・・(中略)・・・義基(義元) たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なり」とある。二、1705年天野信景が書いた『塩尻』の中に描かれている。「桶狭間古戦場之図」( 下図)の中央付近に七つの塚が描かれている。三、1771年人見弥右衛門沗が書いた『遊桶狭記』に「その頃の田楽狭間の古戦場は 暗く寂しい所で、帰名後友人と相談し、古戦場にある塚(下図)の上に、石柱(七石 表)を作らせた」とある今川治部大輔義元の墓今川治部大輔義元の墓駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月にこの墓を建てた桶狭間古戦場 石碑配置図現在の地面は約3m地上げされているとのこと石碑には、景樹の歌碑あと問えば昔のときのこゑたてて 松に答ふる風のかなしさ 景樹桂園派の巨匠。香川景樹が己の歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府したが、迎えられず失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年(1560)5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持ちをくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首で「尾張名所図会」に載っている進軍ルートボランティアの方に説明して頂く赤:織田方、緑:今川方赤:織田方の城・砦、緑:今川方の城・砦城・砦の配置は、大高城、鳴海城の今川方のお城を、織田方の砦が取り囲んでいる9:06桶狭間といえば山間の場所かと思っていたが、意外と山は丘程度であった。説明を聞くと当時よりは3m程地上げをしている様であったが。西側にある高徳院方向 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.23
コメント(1)
昨夜は旧東海道の伝馬通りのホテルへ宿泊、予定ではホテルに愛車を夕刻まで止め名鉄で豊明駅へ移動する予定であった。酒を飲み早く寝たので早くから頭がさえ、ベッドの中で考え豊明駅前の駐車場料金が一日でも500円であることを確認、車で豊明駅前まで行った方が後の工程を考えるとこの方がベターと考え予定を変更、車で豊明駅へ行くことに。'19/11/23(土) 6:17朝食は6時半から、ホテル前の伝馬通り「伝馬交差点」昨夜来の雨も上がり霧に包まれた伝馬通りホテル前の伝馬通り「伝馬交差点」ホテルの朝食7:216時50分にホテルを出発。前回10月16日(水)に訪れたが、未確認の墓があったので再度立ち寄る。曹洞宗 今岡山 洞隣寺(とうりんじ)所在地:愛知県刈谷市今岡町日向14曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。前回確認できなかった墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる「豊前国(大分県)中津藩士の墓」がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれる「めったいくやしいの墓」がある洞隣寺右側は、本堂で再建中ご案内『中津藩士の墓』と『めったいくやしいの墓』前回これを見落としていた境内の東側の墓地その一角にあるのが『豊前国(大分県)中津藩士の墓』豊前国(大分県)中津藩士の墓何度直しても反対側に傾くといわれる墓である7:36名城パーキング 豊明駅前入庫後24時間「500円」と割安豊明駅北口から近い駐車場、高架橋は伊勢湾岸自動車の阿野跨線橋ご利用方法の看板7:37駐車場から宮宿に向けてスタート。今日は延べ日数24日目の弥次喜多道中。旧東海道(国道1号線)の豊明駅東交差点駐車場を振り返る、夕刻に帰って来る豊明駅舎今夕は何時ごろ降り立つのか土曜日で時間も早く人通りも少ない7:42国道1号線の「豊明駅前交差点」7:44旧東海道北側に位置する「むつみ保育園」むつみ保育園の北側に隣接する「西蓮寺」所在地:愛知県豊明市阿野町林ノ内21時間も早く門は閉められたままで中に入れず真宗大谷派 西蓮寺、真宗 怡雲山7:51弥次さんが旧東海道(国道1号線)から北側に道を逸れ進むネットは「ジョイランドゴルフ豊明」早朝から練習で訪れオープンを待っている人が何人もいた旧東海道(国道1号線)を振り返るシラサギが飛ぶ7:55琵琶ケ池水辺公園石碑には東屋治平の歌碑水島の友呼つれておもしろや 松が琴弾ひわか池かな 東屋琵琶に合せて松が琴弾く風情のおもしろさに水鳥も仲間入り。嘉永元年(1848)画工小田切春江によって刊行された。「名区小景」に載る。詠み手は知多半田、東屋治平である桜の紅葉工場は、フジパン 豊明工場琵琶ケ池水辺公園この広場は大雨の時、阿野川の異常洪水を取り込むように計画されています8:00旧東海道へ戻るこの先は国道1号線の「池下交差点」、高架は県道57号線旧東海道はこの先を右折旧東海道(けやき通り)を進むとよあけしの「おすいマンホール」デザインは、二頭の騎馬と一人の兵士8:06旧東海道沿いに木立が見える木立が旧東海道の両側に阿野一里塚植えられている木は、榎、桜国指定史跡「阿野一里塚」徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。県内の東海道には、十八の一里塚があったが、現存するのは四か所。そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。昭和11年12月に指定を受けた石碑には森市雪の歌碑春風や 坂をのぼりに 馬の鈴 市雪東海道の阿野一里塚から「前後」に向って坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる」の意である。この句は、愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の「名区小景」に載る8:08石柱には「阿野一里塚」 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.22
コメント(0)
旧東海道を歩き今日のゴール点名鉄豊明駅へ向けて歩く。10/16(水) 15:02旧東海道を進むと左手に名鉄名古屋本線富士松駅前刈谷市のカラーのおすいマンホールデザインは市の花・カキツバタと周囲にKARIYAと書かれている。隣の知立市の市花も同じカキツバタである。刈谷市の小堤西池(刈谷市北部)、知立市の無量寿寺(知立市北部)がカキツバタの群生地として有名、また愛知県の県花もカキツバタである15:05国道1号線を進み、日本橋から343.3km地点15:05国道1号線の今川町東交差点歩道を渡り左に折れて旧東海道へ15:09旧東海道沿いに地蔵堂15:10国道1号線の今川町交差点。本来旧東海道は国道を横断して向かい側だが、我々は国道1号線に沿って歩く15:11国道1号線を進み、日本橋から343.7km地点国道1号線の南側に名鉄名古屋本線15:15国道1号線を進み、日本橋から344km地点。先のキロポストから4分間で300m歩く国道1号線の道路標識この先を左方向へ進むと国道23号線の津・四日市方面、名古屋高速・伊勢湾岸道国道1号線は直進して名古屋へ15:17豊明市へ入る刈谷市と豊明市の境を流れる境川。本来の旧東海道は上流側であったようだ名鉄名古屋本線境川の下流側を名鉄名古屋本線が走る15:19交通の要衝地で、西方面から一般道を走るとここを通過する。旧東海道は左下へ下りる15:21高架は伊勢湾岸自動車道の阿野高架橋伊勢湾岸自動車道の阿野高架橋下をくぐると左前方に豊明駅左手に今日のゴール点「豊明駅」15:25駅前には「豊明秋まつり」の旗、開催日11月3日(日)と。次回の弥次喜多道中はここを起点にするがさて何時になるか。今日の歩行数は、38,400歩二階の改札口へ向かうが、乗客がおらず寂しい限り名鉄線系統図豊明から東岡崎までの運賃、410円東岡崎行き(15:44)へ乗車、普通電車のため途中で特急へ乗換15:28ホームで到着を待つ豊明駅北口ロータリー知立で乗換て特急 or 快速特急15:41普通電車が到着先程歩いた境川15:48豊明駅の隣駅「富士松駅」へ到着。歩くと23分要したが、電車だとわずか3分で到着16:00知立駅で特急電車に乗換える16:08朝6:50に岡崎サンホテルを出発してから約9時間で東岡崎駅へ到着した。二日連続での四万歩近く歩いたがどうにかたどり着いた。16:09東岡崎駅前にある「家康公手形」1984年4月とあるが誰の手形なのか東岡崎駅前車を置いている岡崎サンホテルへ向かう名鉄東岡崎駅舎、もう築何年か16:12駅前からの県道477号線を乙川の明代橋方面へ進む県道477号線(別名:モダン道路)の明代橋北交差点16:17国道1号線の島町交差点近くにある「スーパーホテル岡崎」所在地:愛知県岡崎市祐金町113-1島町交差点を渡り緩い坂道を登る真宗大谷派 本徳山 專福寺伝馬交差点近くに貼られたポスター「岡崎の二十七曲り」と田中吉政の都市改革16:27岡崎サンホテル前にある「備前屋」に立ち寄り岡崎名物のお土産を購入。各種あわ雪豆腐黒糖饅頭、酒元饅頭、八丁みそ饅頭、かぼちゃ饅頭お土産で購入した「あわ雪豆腐」江戸時代、東海道は岡崎宿の茶屋に「あわ雪豆腐」という参州名物があり、街道をゆく旅人に親しまれておりました。それはあんかけ豆腐のようなものであったと言われています。備前屋の「あわ雪豆腐」は有機大豆のお菓子です。ほんのり甘酸っぱい「いちごソース」をかけてお召し上がり下さい備前屋で購入した後、岡崎サンホテルへ戻り車を引き取って帰路につく。駐車料金は宿泊費に含まれており無料であった。 17:02御油宿から岡崎宿へ向かっている時気になった、名鉄名古屋本線の本宿駅へ立ち寄る本宿駅の由来と歴史本宿駅は大正15年(1926)4月、愛電(現名鉄)が東岡崎から小坂井まで開通したとき誕生した。昭和9年(1934)1月、念願の鉢地坂トンネル竣工。本宿と蒲郡を結ぶ県道が開通した。風光明媚、箱根に似ているところから「新箱根観光道路」と命名され、一躍東海の新名所として脚光を浴びた旧本宿駅のモニュメント当初駅舎は、木造平屋建てセメント瓦葺きであったが、昭和9年秋、蒲郡ホテルの屋塔に似せ主屋に八角屋根、銅板葺の塔楼を載せたモダンな駅舎に改装された。この駅舎も平成4年(1992)10月24日、国道一号拡幅のため、地域の人々利用者に惜しまれながらその姿を消した。ここに旧駅舎の姿をとどめるため、三分の一の大きさをもって再現される。三分の一は?19:29いつもの道の駅「掛川」へ立ち寄る今回もまともな昼食をとっていなかったので「かつ丼」をオーダー。人気メニューのようで多くの人が注文していた。たまご焼+で740円道の駅「掛川」で、昼食兼夕食を食べ一般道で帰る。順調に走り箱根越えに向かったが、国道1号線の三島塚原インタを登ったあたりで緊急工事のため『通行止め』。このため来た道をユーターンして、長泉インタから国道246号線を走り御殿場経由松田から国道1号線へ戻る。また国道1号線ではJR二宮駅前で交通事故で渋滞、このため自宅へは23:45に到着。箱根路の緊急通行止めは台風19号の影響で土砂崩れ?今日一日の歩数は40,054歩で二日連続四万歩越えであった。次回はいつにするか、来年三月末までに京都三条大橋へたどり着きたいものです。 岡崎宿から池鯉鮒宿へーEND
2019.11.26
コメント(0)
池鯉鮒宿の知立神社で休憩して今日のゴール点へ進む。10/16(水) 13:36知立神社拝殿参拝者休憩所の裏にある「芭蕉句碑」不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市元禄5年(1692) 秋9月、江戸深川で詠まれた松尾芭蕉の句である。池鯉鮒の馬市は歌川広重の浮世絵に描かれて有名であるが、それと並び木綿市も年間を通じて行われ、賑やかであったことがうかがわれる。池鯉鮒宿蕉門の俳人井村祖風が、寛政5年(1793)この句が作られて百年目にあったのを記念し、同好の士15名に働きかけて建立されたものでその名は碑陰に刻まれている13:42参拝者休憩所でこの日も昼食をとらずに歩いており、旅友から差し入れの「あんまき」を昼食代わりに頂く。餡もさることながら生地がもちもちしていて美味しかった。今日は既に30,400歩歩いており、しばし休憩弥次さんが頂いた御朱印知立まつり(本祭)の勇壮な山車知立神社に貼られていた「御大礼」13:55知立神社から旧東海道に戻り、西へ向かい街道の左側に総持寺所在地:愛知県知立市西町新川48天合寺門宗 流汗不動「総持寺」この寺は大正15年に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。徳川家康側室お万の方の誕生地である山門を入り本堂へ本 堂三河新四国 第一番・総持寺三河三不動第一番霊場本堂内本堂の扁額本堂前から手水舎&山門観音堂観音堂扁額一願出世不動左に「四国お砂踏霊場」、中央に「おもかる抱き地蔵」、右奥に裏門おもかる抱き地蔵内部弥次さんが御朱印を頂く14:07流汗不動 総持寺の裏門「三河 新四国 三不動 一番札所霊場」の石柱14:10逢妻川に架かる旧東海道の逢妻橋旧東海道は右側から上ってきた。上流の橋は国道1号線の逢妻大橋逢妻橋の欄干のデザインは、かきつばた・知立神社の多宝塔14:12旧東海道(県道51号線)を進み国道1号線の逢妻町交差点へ14:15旧東海道は国道1号線の逢妻町交差点で合流して西へ向かう14:16刈谷市へ入る次の信号を左折して1kmで「三河新四国 2番 西福寺」14:18旧東海道の沿いの南側に「住友建機教習所 愛知教習センター」愛知労働局長登録教習機関住友建機販売株式会社所在地:愛知県刈谷市一里山町深田1-1フォークリフト技能講習、クレーン、玉掛け特別教育等を実技しながら説明講義してくれ、様々な資格を取得できるこの先で(一ツ木)一里塚跡を探すがわからず。14:36旧東海道(国道1号線)の工業団地入口交差点14:40国道1号線を振り返る旧東海道は国道1号線から別れて左方向へ進む刈谷市のおすいマンホール、デザインはかきつばた14:43旧東海道沿いに「洞隣寺(とうりんじ)」所在地:愛知県刈谷市今岡町日向14ここまでの今日の歩行数は34,600歩でどうにか・・・・・曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入り口にある常夜燈は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある洞隣寺界隈の旧東海道洞隣寺の境内本堂は建て替え中なのか東側から14:49旧東海道脇の足元に説明板いもかわうどん江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現在に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ14:52旧東海道をさらに進む14:53天林山 乗願寺所在地:愛知県刈谷市今岡町西畑61天正15年(1587)の創建ではじめ地蔵寺といった。当初は真宗を内に表向きは浄土宗としていたが、のち真宗木辺派に改めた。本堂に刈谷城主の位牌が祀られている乗願寺 本堂天林山 乗願寺真宗木辺派 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.25
コメント(0)
岡崎の旅友と池鯉鮒宿の知立神社へ向かう。10/16(水) 13:02左側へ行くと名鉄知立駅へ330m、旧東海道は直進。岡崎の旅友もしばし同行して散策知立市観光交流センター「かきつばたまつり」「花しょうぶまつり」 のポスター知立市のカラーのマンホール(逆さまで失礼!)伊勢物語「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」13:03旧東海道沿いの南側にある慶仏事贈答用和菓子 池鯉鮒銘菓 都築屋美廣所在地:愛知県知立市本町本41明治8年創業の都築屋菓子舗で、現在は5代目。江戸末期に建てられた旅籠をお店にしており、当時の帳場や格子もそのままに。伝統を守る季節の生菓子を今も作り続けている池鯉鮒宿「見て歩きマップ」13:07旧東海道から少し南側に入ったところにある池鯉鮒宿本陣跡所在地:愛知県知立市本町本49-2品川から数えて三十九番目の宿駅である東海道池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣が対応できない時の予備の宿)が各一軒置かれていた。本陣職は、当初嶺家が勤めていたが、寛文7年(1667)頃からは永田家によって引き継がれた。敷地3千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していた。明治となり宿駅制度が廃止され、二百年以上続いた本陣も明治8年(1875)に取り壊された明治天皇行在所聖蹟の石柱と灯籠旧東海道沿いの北側に「料亭:岐阜屋」所在地:愛知県知立市本町本16旧東海道筋に残る知立でただ一つの料亭だそうで、明治から150年続く老舗13:10山車の蔵岡崎の旅友と10/24からルーマニア・ブルガリヤへ同行13:12左に知立古城跡と奥に了運寺公園の真ん中に立つ「知立古城址」の石柱江戸時代前期の様子を伝える屏風に描かれた御殿と知立神社知立古城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代の初めには将軍の休泊用の御殿となっていた13:13了運寺所在地:愛知県知立市西町西84-1山門脇には「タイ国渡来釈迦牟尼像安置」の石碑が立つ本 堂13:16了運寺の西側の旧東海道沿いに。看板が「銃砲 小松屋」とあるが「小松屋本家」所在地:愛知県知立市西町西83知立といえば「大あんまき」、その元祖、小松屋本家は現在5代目が経営。当初は茶店だった。ここは知立神社参道への入口に当たり、弘化4年と刻んだ常夜燈が今も立つ。池鯉鮒大明神常夜燈、旧東海道はここを直進する元祖 あんまき生地を二つ折りにして焼いていた菓子の中に餡を入れて、餡巻きにしたのが始まりこのあと、知立神社で食したが(昼食代わり)。餡もさることながら生地がもちもちしていて美味しかった。次回、弥次喜多道中時に立ち寄り購入したいものです先ほどの小松屋本家前で旅友と別れ、弥次さんがiPhoneでチエック13:19緩い坂を下り国道155号線とぶつかり地下道を潜り向かい側へ13:20旧東海道の道筋に「総持寺跡大イチョウ」イチョウ科の落葉喬木で雌木である。イチョウは、病虫害が少なく火にも強い為ため、神社寺院に植えられて巨木となって残る例が多くこの木もその一つである。樹齢二百余年を経た今も樹勢いまだ衰えていない。総持寺は、嘉祥年中(845~851)に創建されたと伝えられ、知立神社の神宮寺と考えられてきた。戦国時代に焼失したが、学頭玉泉坊がここに再建され、承応2年(1653)寛永寺末寺となり総持寺に改められた。明治5年(1872)廃寺となったが、総持寺はその後大正15年(1926)に西町新川に再建され、現在に至っている13:24旧東海道から知立神社への入口に常夜燈奥に知立神社多宝塔が見える知立神社への途中、左手前に「明治神宮御分譲 知立花菖蒲苑」鳥居の奥に、吉備武彦命を御祭神とする土御前社(つちのごぜんしゃ)。知立公園内に造営されている知立公園の花菖蒲について当公園の花菖蒲は昭和30年、仝32年、仝35年の三回に亘って明治神宮から特に御下賜いただいたものであって明治天皇並びに昭憲皇太后御遺愛の名品種約60種類が年々其の?を競い5月の八橋の杜若と共に当知立市に於ける名花の双璧と謳われている。花の見頃は6月の5日から18日頃までの間である13:27知立神社所在地:愛知県知立市西町神田12ここまでの今日の歩行数は、30,400歩。知立神社は、三河の二の宮で、まむし除け・雨乞い・安産の神として信仰され、隔年に行われる5月3日の知立まつり本祭には、山車文楽とからくり人形芝居が上演されます。また、知立神社の御手洗池には、娘の目が治るようにと毎日神社にお祈りしたところ片目が治り、それから御手洗池の鯉が片目になったという昔話『片目の鯉』が語りつがれています知立神社の境内に「知立神社と知立公園案内図」・知立神社(112年創建) 東海道屈指の名社であり、霊験もあらたかである。文化財には、多宝塔、古額 舞楽面などがあり保存されています。例祭(5月3日)には、山車文楽や山車から くりなどが奉納されます。・花菖蒲園 明治神宮より特別下賜された数十種の花菖蒲が6月上旬に美しく咲き誇りますユネスコ無形文化遺産「知立の山車文楽とからくり」知立神社の祭礼(知立まつり)は毎年5月2、3日に行われ、本祭りと間祭りが一年交互に開催されます。本祭りでは5台の山車が宮入りし、山町・中新町・本町・宝町の四町の山車で文楽(人間浄瑠璃)が、西町の山車でからくり人間芝居が上演されます。からくり人形が山車の上でただ動くだけでなく、浄瑠璃に合わせて物語を演じたり、山車の上で人間浄瑠璃が演じられることは、全国的にも珍しいものです。山車の奉納がいつ始まったか定かではありませんが、承応2年(1653)に行われたとの記録が残っています。江戸時代の中頃には山車の上でからくりや人形浄瑠璃が演じられるようになったと伝えられます。平成28年12月1日(日本時間)、「知立の山車文楽とからくり」を含む33件が「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された国道155号線「知立神社南交差点」左側には国道1号線が走る知立神社の鳥居知立神社由緒当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第12代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路、此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い。御帰途奉寶のため創建あらせられしと云う。・・・・・・・・・知立神社多宝塔正面の鳥居を過ぎると右手に国指定重要文化財の多宝塔がある嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を創立したと言われます。その後天文16年(1547)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます相輪先端までの高さは約14.5m、屋根は杮葺、四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、大正9年(1920)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです知立神社石橋と拝殿この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、高さ1.68mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」と刻まれている。『東海道名所図会』には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある知立神社石橋と社務所境内には末社の「秋葉社」馬 神 末社の「小山天神社」御祭神 少名毘古那命末社の「合祀殿」摂社の「親母神社(うばがみしゃ)」祭神は鸕鶿草葺不合尊(本殿主神)の母。社殿は一間社流造で朱塗で彩られ、屋根は檜皮葺である。明治期の造営で、摂社としては規模の大きいものになる。この社殿は国の登録有形文化財に登録されている13:35社務所前から多宝塔、左に神楽殿 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.24
コメント(0)
旧東海道の「知立松並木」から池鯉鮒宿へ。名鉄の踏切を渡ったあたりに江戸方見附が、知立神社との別れ道に京方見附があり、このあいだの町並の長さは12町35間(約1.4km)。住民の大部分は農業を兼ねていて、宿場の裏には畑や田んぼが広がっていた。10/16(水) 12:25衣浦豊田道路高架下の歩道橋(新田北交差点)からの「知立松並木」。旧東海道は歩道橋を渡り西側へ進む知立松並木石柱には「旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒」「江戸日本橋 八拾四里拾七町」池鯉鮒では古くから三河産の「木綿市」や木綿を運送するための「馬市」が開かれ、にぎわった。馬市には四百頭~五百頭の馬が集まり、談合松と呼ばれる大松の下で馬の値段を決めていた。広重の保永堂版『東海道五拾三次 池鯉鮒』は馬市の様子を描いている。池鯉鮒は衣浦湾を挟み知多半島をを控え、挙母・吉良・刈谷へ至る道の分岐点でもあった旅の途中 遠藤 透知立は「池鯉鮒」と呼ばれ、東海道三十九番目の宿場である。旅人は、この町で疲れた体と心を癒し、再び旅立ったのだろう。東海道松並木は昔の旅人を彷彿させる場所である。また旅をしよう知立松並木の左側に「路傍の道祖神」新日本歩く道紀行100選 文化の道「東海道宿場散歩みち」全長:5.6km 所要時間:2時間平成27年11月に、無量壽寺~知立神社を結ぶ、全長5.6㎞のルートが「新日本歩く道紀行100選 文化の道 東海道宿場散歩みち」に選定されました。新日本歩く道紀行100選とは、全国のウォーキングルートから10のテーマでそれぞれ100ルートが選定されたものです。選定されたルートは、魅力あるウォーキングルートとして全国のウォーカーに紹介されます。今回は、「文化の道」のテーマで選定されており、歴史や文化を感じる見どころが多くあります。皆さん是非歩いてみてください明治用水:現在の明治用水西井筋ここの遊歩道の下には明治用水西井筋が流れています。埋められているパイプは直径150センチで、農地のかんがいに必要な水を下流に送っていますかきつばた姫かきつばた姫 永井 はな子伊勢物語に想いを馳せながら、古代から凛として咲き誇るかきつばたの精神性を、昔ながらの宿場から近代的な町へと移り変わっていく知立と重ねあわせて、かきつばたが美しく成長していく様子を表現しました八橋のかきつばたは、平安の歌人在原業平が伊勢物語で「かきつばた」を折り込んで歌を詠んだといわれ有名です。また、江戸時代尾形光琳が描いた国宝『燕子花図屏風』は、伊勢物語九段「八橋」の場面を描いたとされています。かきつばたは知立市の花として親しまれており、八橋町にある「八橋かきつばた園」では、4月末から5月末までの間、かきつばたが咲き誇る ”かきつばたまつり” が開催されます12:30しばらく続く松並木には3基の句碑・歌碑があり、最初の句碑は「小林一茶」小林一茶の句碑「はつゆきや ちりうの市の 銭叺(ぜにかます)」池鯉鮒昔、ちりゅうは知立・智立などと書かれていました。知立神社にはお祭りの際に神輿を洗う御手洗池と呼ばれる池があり、池には鯉や鮒が多くいたので「池鯉鮒」となったとも伝えられています。隔年5月3日の知立まつりで上演される山車文楽とからくりは全国的に有名で、国の重要無形民族文化財に指定されています知立神社と片目の鯉知立神社は、三河の二の宮で、まむし除け・雨乞い・安産の神として信仰され、隔年に行われる5月3日の知立まつり本祭には、山車文楽とからくり人形芝居が上演されます。正面の鳥居を過ぎると右手に国指定重要文化財の多宝塔があります。また、知立神社の御手洗池には、娘の目が治るようにと毎日神社にお祈りしたところ片目が治り、それから御手洗池の鯉が片目になったという昔話『片目の鯉』が語りつがれています片目の鯉 宇納 一公池鯉鮒の昔話に、両親が娘さんの目が治るように願をかけた『片目の鯉』のお話があります。祈りの造形として、この作品をいつまでも愛して下さることを願っています知立松並木近年まで約1kmにわたる松並木が続き、かつては「並木八丁」と呼ばれた。住宅の増加に伴い、現在は約450mほどになった。並木の両側に側道があるのが特徴で、江戸時代の馬市のときには側道に馬が繋がれた。老松は昭和34年の伊勢湾台風で大半が倒れて枯れてしまい、昭和45年から158本を補植した。大木は樹齢200~250年知立の昔話より 鬼頭 正信知立の昔話には動物たちが登場します。カキツバタの花びらに見立てた3面にその中から選んだ3匹を表しました。さて、どのお話に出て来るでしょう鎌倉街道江戸時代東海道が開かれる以前、人々は鎌倉街道を行き来しました。伊勢物語の中で、平安の歌人、在原業平がかきつばたの五文字を折句して詠んだ八橋には業平を偲ばせる史跡が今も多く残っています。また、鎌倉街道沿いの地域では多くの民話が残されており、現在に語り継がれています。そこには狐や狸など、可愛らしい動物たちが登場します知立松並木にはいろんなモニュメントが立ち並ぶ馬市之跡の碑三河特産の三河木綿の輸送に馬が使われたので、知立(池鯉鮒)に馬市が立った。知立は鎌倉時代から馬市の盛んなところで、宿場ができると、馬市場は慈眼寺の東の野原にあてられた。馬市は陰暦4月25日から5月5日まで10日間開かれた。馬は多い時には400~500頭集まり、野原の大きな松の木の下で馬の値段を決めたので、この松を「談合松」と呼んだ知立松並木この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている12:39左に「万葉歌碑」、右に「馬市の跡碑」万葉の歌碑 「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」馬市句碑 「かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく 蝶つばめ 馬市たてし あととめて」 麦人 歌川広重が描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。鎌倉時代の初期に書かれた『海道記』に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる歌川広重 天保3~4年(1832~1833)頃 「池鯉鮒 首夏馬市」12:40旧東海道と国道1号線の合流点「御林(おはやし)交差点」知立松並木を振り返る。右は国道1号線の静岡、豊橋方面、静岡まで158km、豊橋42km御林交差点の知立松並木の入口にある「地蔵」イズモ葬祭 知立所在地:愛知県知立市山町四組7-34昔は結婚式場であったが現在は葬儀場になっていると旧東海道は国道1号線を横切るので地下道へ地下道の壁面に貼られた旧東海道説明12:43地下道を上がり、「東海道 池鯉鮒宿」の石柱旧東海道は左側を直進知立市のマンホールには、伊勢物語「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」御林交差点を振り返る「FUJI 本社ビル」国道1号線沿いに建つ、教会のような「イズモ葬祭 知立」旧東海道を進む知立市のマンホールは市の花「かきつばた」名鉄三河線の踏切を渡り、更に旧東海道を西へ進む電柱に「東海道」旧東海道の案内図が電柱に知立市観光協会12:58知立中町交差点旧東海道(県道285号線)が県道51号線に合流、100m程で中町交差点へ。旧東海道はこの交差点を渡り正面の小道へ。ここを左へ曲がると吉良道。中町交差点の角に「ゑびすや」所在地:愛知県知立市中町中39ここの手前で岡崎の旅友Kさんが応援に来ていただく。 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.23
コメント(1)
安城市から知立市の池鯉鮒(ちりゅう)宿に向かって進む。江戸期以前は知立や智立と表していたが、江戸時代には「池鯉鮒」と書くことが多かった。町の入り口に御手洗池と呼ばれる大きな池があり、鯉や鮒が多くいたので地名の由来となった。明治になって元の「知立」に戻った。10/16(水) 11:43旧東海道を進み、猿渡川を渡り知立市へ入る。川の前方右に、ミック三河支店 物流業所在地:愛知県知立市来迎寺町下り戸28ー6猿渡川の橋の手前に工事の看板。看板には「河川の草刈を行っています」令和元年11月29日まで 時間帯 8:00~17:00施行者 中一建設工業株式会社草刈業務委託は、安城市 維持管理課猿渡川の下流側に豊臣機工㈱猿渡川の下流にシラサギ猿渡橋の欄干には松並木11:45来迎寺(らいこおじ)公園東交差点を進む来迎寺公園東交差点を渡り緩い坂を上ると右手に石碑御鍬神社(おくわじんじゃ)所在地:愛知県知立市来迎寺町西中畑16入口の伊勢鳥居と社号標入母屋造りの拝殿、左に鞘堂御鍬神社祭 神:豊受比賣命由 緒: 江戸時代来迎寺村を初め、近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、 大浜茶屋村の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し各村輪番にて御鍬祭を 奉仕し豊作を祈願してきたが、明和年中(1764~71)この輪番が当村で終わること になったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。明治5年、村社に 列各となり同6年現在の拝殿が造営され同時に字西中畑に鎮座の山神社と字石田( 現在の安城市今本町地内)の鎮座の秋葉社と弁天社を境内に遷された。 その後、本殿は大正3年に神明造を忠実に守って屋根は切妻造の杉皮葺、平入り 素木造、一重の繁垂木そりなし、棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度 伊勢神宮(外宮)の二分の一の大きさに造営された御鍬神社境内には、末社と祭神 ・秋葉社 火産霊命 ・弁天社 市杵嶋姫命 ・山神社 大山衹命来迎寺町ご案内 - 町内会 -11:52旧東海道の、来迎寺町交差点右隅に「八橋山無量寺」の石柱が立つ同交差点から振り返る、手前の石柱の字は解読できず同交差点下に「元禄の道標」の説明板。道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた展示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸所にこの様な道標が建てられていた。 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白と記されており、これは、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量壽寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄12年の道標が残されている。無量壽寺へは片道約1km北上するので、次回車で訪れたい11:56来迎寺一里塚所在地:愛知県知立市来迎寺町足軽35江戸から数えて84里目の一里塚で、塚がきちんと残っている貴重な例である。ここまでの歩行数は、23,600歩なりひらくん 『東海道 見て歩きマップ』 かきつ姫ちゃん ①馬市の碑 ②松並木 ③元禄の道標 ④来迎寺の一里塚来迎寺一里塚県指定文化財(史跡) 昭和36年7月8日指定慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き・・・・・・・一里毎に築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。この塚のように両側とも完全に遺されているのは、大変珍しい。県下ではほかに豊明市の阿野一里塚などがある石碑には「来迎寺一里塚」と刻まれている旧東海道南側の一里塚一里塚には一般的に「榎」が植えられている。何故「榎」なのかは、家康が一里塚構築を行った大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言ったのをエノキ(榎)を植えよと聞き間違いしてしまったのだとか北側の一里塚一里塚は左右とも当時の塚が現存している11:59来迎寺一里塚から北側に入り真宗大谷派 古城山源心寺所在地:愛知県知立市来迎寺町古城28源心寺本堂源心寺の北側に隣接する臨済宗妙心寺派 紫雲山来迎寺所在地:愛知県知立市来迎寺町古城31来迎寺本堂来迎寺の隅に「今崎城址」の石碑今崎城に関する文献は見当たらないが、来迎寺町の地名に古城、足軽等があり、往昔の俤をとどめている。八橋町の葦香城と同時代にあった城のようで、古刹来迎寺の守護に任じていたと思われる12:02来迎寺から源心寺前に戻り「来迎寺一里塚」一里塚で街道の両脇に残る一対の一里塚は珍しいが北側の住宅が・・・・・・12:05旧東海道を進む12:10単調な街道を更に約500~700m進み左側に「西教寺」の案内真宗大谷派(東本願寺) 西教寺所在地:愛知県知立市牛田町西屋敷114西教寺の本堂本堂旧鬼瓦享和三癸亥年(1803)再建平成二庚午年(1990)落慶本堂の鬼瓦立派な鐘楼鐘楼の下に石のプレート蓮如上人五百年、御遠忌法要記念事業で平成?3年5月完成12:14西教寺の外から鐘楼と本堂12:22西教寺から旧街道を約800m進む街道脇に石碑御室御所御直末 重原村???弘法大師 従是12:23有料道路「衣浦豊田道路」牛田I.C → の案内旧東海道はこの先の道を横断できないので歩道橋を渡る必要がある明治用水西井筋緑道水環境整備事業明治用水地区管路化された明治用水西井筋の上部を有効に利用し、「農村と都市のふれあう緑あふれる用水の道」として、遊歩道・流水帯・休憩施設・植栽帯などを設置しています。延長は14.3kmで、豊田市、安城市、知立市(6.3km)、刈谷市にまたがっています衣浦豊田道路の牛田料金所← 豊田方面 → 高浜方面国道1号線の道路標識12:25新田北交差点 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.22
コメント(0)
永安寺の「雲竜の松」から旧街道を進み、明治用水碑へ。10/16(水) 10:41旧東海道の「明治川神社交差点」明治川神社の鳥居交差点の角に、明治用水碑明治用水開渠記念碑明治用水は、愛知県のほぼ中央にあたる安城市を中心に岡崎、豊田、知立、刈谷、高浜碧南、西尾の8市にまたがり、豊田市水源町地内の矢作川および岡﨑市細川町の巴川を水源として、矢作川右岸の約7千haを灌漑している。東南は矢作川、北は逢妻川、西は衣浦湾に臨む一帯で南北22km、東西13kmである石鳥居の前に明治川神社の大きな石柱。北参道入口北参道入口から境内までおよそ150m手水舎石の神橋と拝殿、左に神楽殿。境内の入口には明治用水を引き入れた神池が作られ、この池にかけられた神橋を渡って境内に入ります。社殿左側には上倉池の開拓や北野用水、鹿乗川の開さく改修に功労のあった人達が神として祀られる伊佐雄社が鎮座している明治川神社神池明治用水の守護神を奉斎する明治川神社の神池は、明治本流が菅水路になった昭和49年から明治用水の流れを引き入れている。しかし、経年により引き込み管路が老朽化したので、これの改修と排水施設の新設を行い、また「簑笠を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメントを設置した。この事業は、明治用水通水120年記念事業として、明治用水の悠久の流れと五穀豊穣地域の発展を祈念して施工した 平成11年4月18日境内に入り境内正面には拝殿と周囲を回廊で囲まれた中に本殿が建立されている。拝殿前には名石工として名高い酒井孫兵衛によって作られた岡崎狛犬がある拝殿の奥に、長廊下と本殿明治川神社の東参道入口に立つ伊勢鳥居所在地:愛知県安城市6丁目25-1右手前に「明治用水」碑社 記一、神社名:明治川神社(水神社)一、例 祭:四月十八日一、祭 神:大水上祖神、都築弥厚命、岡本兵松命一、由 緒:文化5年(1808)頃、都築弥厚翁が碧南台地の開発を計画されてより、70 余年の歳月を経た明治13年(1880)4月18日松方正義内務郷参列のもとに 用水路竣工の式(水源)と、祝賀の宴(現地)が盛大に挙行された。 その時の一同の歓喜と・・・・・・・・・・・・。一、神社名:伊佐雄社(いさおしゃ)一、例 祭:十月十八日一、祭 神:田中甚七郎命、本多勘三郎命、加藤太兵衛命、・・・・・・・一、由 緒:当社は、本社の左側に鎮座ましまして、功労者を奉祀する神社である。 もとは明治14年(1881)上倉池の小島の上に発起者並びに出資者を奉祀 し開拓小作のため移住した人々と共に・・・・・・・・10:49東参道入口に立つ伊勢鳥居から県道76号線の南方向10:52旧東海道に戻り池鯉鮒宿へ向かって進む街道に立つ「白山比賣神社」に書かれた「三伏も遠き日となる秋の空 五男」旧東海道の松並木を進む10:54邨社 日𠮷神社所在地:愛知県安城市10:59旧東海道を進む今日も昨日と同様風もなく穏やかで快適11:05安城市の「あめマンホール」おすいマンホールと同じデザイン11:07旧東海道の左手にローソン所在地:愛知県安城市東栄町4丁目14-1旧東海道の「里町4丁目東交差点」今日の歩行数はここまでで、20,100歩11:11弥次さんが前方右側で何かの石碑を青麻神社と右に地蔵尊所在地:愛知県安城市里町4丁目石碑に囲まれた青麻神社鳥居から落ちた扁額森林平之碑大嶽門左衛門、武蔵川百右衛門と刻まれた石碑。この人物像は? 旅友よりの情報より、この碑を立てた発起人の力士で、年寄りになっていた武庫川と大嶽の名前ですと神社の片隅に明治時代初期に活躍した力士、濱碇(清見潟・又一)の像。安城市の出身で、巡業中にけがをして廃業、その後、薬売りで財をなしあちらこちらに地蔵を寄付した人・・・・・・らしい11:16旧東海殿向かい側からの青麻神社青麻神社の前にあるバス停「野池」乗車賃は、大人・子ども共に 1乗車100円一ケ月定期券 1,000円 と安い11:18里町4丁目西交差点。この交差点を左折して約700m程で名鉄名古屋本線の新安城駅に達する。前方から爆竹の音が聞こえてくる前方をズームアップしてみると、赤いはっぴを着た集団が数十人の集団秋祭りなのか? 民家の前に集まり爆竹を鳴らしていた民家の当主の前でサンサン七拍子で手打ち当主が御祝儀を出し、返礼として爆竹11:20軽自動車で移動していたが荷台にはビール、酒類があり積まれていた。幟には、「還暦 今村亥子会」11:30旧東海道を進む11:31今本町4丁目交差点松並木を進む11:37猿渡川の支流石田川に架かる石田橋。橋の右前方に「うなぎ かねぶん」の看板。山側の白い線は伊勢湾岸自動車道高架、昼前だが今回も・・・・・・・。11:38小さな神社の前に常夜燈11:42アイチポンプ興業㈱ 安城工場所在地:愛知県安城市今本町石田35-2会社の現役時代、ポンプの購入で引き合いをしたメーカーで懐かしい会社名である。旧東海道から振り返る 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.21
コメント(2)
安城市に入り旧東海道を進む。10/16(水) 9:51旧東海道沿いに立つ工事看板。 ・下水道管の新設を行っています 令和2年1月30日まで ・水道管の入替をおこなっています 令和2年1月27日まで9:53車はこの先から進入禁止9:54東高根用水 記念碑9:55熊野神社の杜所在地:愛知県安城市熊野神社の街道沿いに「予科練之碑」此処は第一岡﨑海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり自らの若き命を楯として祖国を守らんと、全国より志願し選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり。生涯を祖国に捧げんと此の地に集い、実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく、血涙をのんだ終戦爾來28年吾等相寄り相語り茲に亡き戦友の慰霊を兼ね「予科練の碑」を建立するものである 昭和48年5月15日第一岡空若桜会本日は遠路わざわざ予科練之碑にお立ち寄り下さいました。有難く感謝申し上げます。よろしければ名刺受に名刺などお受け致します旧東海道の北側に、(尾崎)一里塚と案内板石碑は、(尾崎)一里塚跡鎌倉街道跡建久3年(1192)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅六十三ヵ所が設置された。尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右に曲がり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されている熊野神社の鳥居境内へ進む参道両サイドには桜並木手水舎と拝殿池にはネットが張られ熊野神社拝殿、右側に秋葉神社秋葉神社をズームアップ熊野神社拝殿の前にイチョウの木ここでは銀杏は落ちていなかった10:03熊野神社前のバス停 あんくるバス「熊野神社」10:04作業員が道路に座り込み作業どんな作業かと思いきや?下水道管埋設工事の後、道路舗装でマンホールの絵に入り込んだアスファルトを除去していたのであった。アスファルト敷設前に養生の良い策はないものかと・・・・・工費の削減になるのだが旧東海道を進む10:07旧東海道の、宇頭茶屋交差点南方向300mに国道1号線宇頭茶屋(うとちゃや)民家の軒先に新設されたばかりのちいさな「おすいマンホール」10:11旧東海道沿いの南側に「法華宗法喜山 妙教寺」所在地:愛知県安城市法華宗法喜山 妙教寺と稲荷神社写真撮影に夢中な弥次さん石柱に「祭神喜徳真天鎮座」10:13旧東海道の山側に鎮座する「内外神明社」所在地:愛知県安城市幟が立っていたので参拝することに参道に、奉献内外神明社の幟石鳥居を入り境内へ。境内では今夜祭りがあるとのことで、町内の人達が祭りの準備をしていた。地元の人に聞くと、神主さんが忙しく平日でないと予約できないのだと。また縁日も自分たちで開店するとのこと。祭に参加したかったがまだ時間も早くあきらめて西へ向かう拝殿ではお供えのお神酒が10:18内外神明社を後にする10:23明治天皇御駐蹕之所バス停は「宇頭茶屋説教所」10:27旧東海道の山側に「本然山 永安寺」所在地:愛知県安城市浜屋町北屋敷17県指定天然記念物「永安寺の雲竜の松」永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。大浜茶屋村の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場駅へ必要に応じて人馬を提供する助郷役を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たと伝えられます。領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し助郷役の免除は幕末まで続きました。村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡は草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山 永安寺」と名づけられました一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツの高さ1.5mのところから、北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます厄除・子安 地蔵尊 願主八十三才女本堂への参道に枝が地上1.5mで分岐している。幹周囲:4.4m、樹高:4.8m、枝張り:東西 17.9m、南北 24.7m樹齢、推定350年鐘楼と本堂鐘楼には倒壊の恐れがあるのか補強材が取り付けられていた境内の地蔵尊参拝者の方々へ新年を迎え本年も宜しくお願い申し上げます。予定行事 予定 ・八月十八日(日) 十七時頃・・・地蔵盆法要(どなたでもご参拝下さい)~ お知らせ ~ ・当山(ホール等)での葬儀・法事 ・納骨、法要(先祖・動物・水子) ・精入れ・精抜き(墓・仏壇等) ・永代供養・納骨・預かり等 ・各祈祷(身体・交通・厄除け等)も要予約にて受付けております当山では、特に宗旨は問いませんので、どなたでもご相談ください10:36本堂前から眺めると、マツの見事な枝振りを堪能できる10:38電柱の下に「防犯カメラ作動中」カメラはどこに設置してあるのか 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.20
コメント(1)
誓願寺から一路、旧東海道を進み池鯉鮒宿へ向かう。岡崎宿の名物はほかに、奥の山で産する御影石(花崗岩)を利用した石製品のほかに鍛冶物、八丁味噌や三河木綿などが名産品。三河木綿は16世紀はじめには京と奈良に出荷されていたが、家康が江戸に入国すると江戸へ販路を拡大した。これらの産物は矢作川の舟運により出荷された。城下町、宿場町そして湊町として岡崎は栄えた。10/16(水) 8:50旧東海道の右側に「竊樹(ひそこ)神社」所在地:愛知県岡崎市矢作町字祇園106境内には遊具がある街中の小さな神社である8:53旧街道を進むと左側に「真宗大谷派 福万寺」の看板所在地:愛知県岡崎市矢作町西河原12-2国道1号線と旧東海道の間に位置する寺院である中興之祖碑吉田英生・澄子夫妻は共に福万寺門徒として崇敬の念厚く、本堂修復をはじめ納骨堂建立・内陣仏具の整備等々の御寄進を賜り、寺門の興隆に誠にご尽力いただきました。依って茲に開基同様、中興之祖として記念の碑を建て後世にその御功績を伝え、世世に法要を勤修致します。 平成22年 福万寺住職 戸松憲仁本堂と手前に太子堂本堂の扁額「福萬寺」8:55国道1号線の安城街道入口交差点交差点角に位置する「赤ちゃんデパート 水谷 岡崎店」所在地:愛知県岡崎市矢作町西河原41-1旧東海道はここで国道1号線と合流し西へ進むここまでの歩数は、9,600歩9:05国道1号線の下り線に位置する「暮戸教会」所在地:愛知県岡崎市暮戸町霞野6石柱は、暮戸教会と真宗大谷派とあるが旧東海道(国道1号線)の暮戸東交差点9:07交通量の多い旧東海道(国道1号線)の暮戸交差点県道26号線と交差しており、右折して豊田、左折して西尾へ暮戸(くれど)交差点9:16暮戸交差点から国道1号線に沿って旧東海道を約1km進む鹿乗橋東交差点旧東海道(国道1号線)の鹿乗橋東(かのりばしひがし)交差点所在地:愛知県岡崎市宇頭町井ノ上交差点を進み小さな鹿乗川を渡る9:20江戸日本橋から331.3km地点この先を左に入るそこには「聖善寺」所在地:愛知県岡崎市宇頭町東側40-1門前にある「岡崎市指定文化財、聖善寺」・木造孝養太子像 一躰 寄木造、太子16歳で、両手で柄香炉を持つ形をとる。首部背面に墨書の銘があ り、慶長4年(1597)に再興したと記されている、かつてあった像が何かの故に 滅失して、新しく制作したと思われる。・聖善寺のしだれ桜 一本 孝養太子像の制作とほぼ同時期、今から400年程前に植えられたものと察せら れる老樹である聖善寺の本堂本 堂岡崎市指定文化財、聖善寺・木造孝養太子像 一躰・聖善寺のしだれ桜 一本 ヒガンザクラの一種エドヒガンの枝垂れ品である。かつては胸高囲2.4m、高さ 10m、枝張り15mにも及び、枝先が山門まで届く程であったが、伊勢湾台風に より主幹が折れて樹勢が衰えた聖善寺山門右側の広告版に『風車(かぜぐるま)風が吹くまで昼寝かな 広田弘毅』広田弘毅とのこの寺との関係は?9:22聖善寺から旧東海道へ戻ると、対向車線の北側に位置する「薬王寺」国道1号線の南側(下り線)から北側への地下道がある9:24山門があるが???9:25国道1号線の地下道を潜り北側(上り線)へ。和志王山薬王寺所在地:愛知県岡崎市宇頭北町1丁目2-3和志王山薬王寺(わしおうざんやくおうじ)奈良時代に創建されたと伝えられる由緒あるお寺です。ご本尊の薬師瑠璃光如来は、17年に一度御開帳される秘仏として本堂に納められています。この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は、和銅年間(708~715、奈良時代初)に、(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御立笠取の池から光を放ってこの世に現れになった。この地に住んだ・・・・・・・・・・三河国 薬王寺刀匠鍛刀造址の石碑。この辺りに、室町後期の刀鍛冶集団の三河国薬王寺刀派の刀工が住んでいたという薬王寺本堂境内にある地蔵堂本堂を東方向から本堂の瓦には「和志王山」と9:28薬王寺を旧東海道(国道1号線)から振り返る9:31弥次さんが旧東海道からそれ北側の住宅街へ入いる。荒子古墳所在地:愛知県岡崎市宇頭北町1丁目6住宅街の中に公園として残っており、草を刈り取り整備されていたが説明板がなく幟は、ごみ出しに関しての注意勧告、看板は「防犯カメラ作動中」そして住宅街を西へ向かい隣接する「北浦古墳&北裏古墳」所在地:愛知県岡崎市宇頭北町2丁目13-11矢作古墳群の一つで公園として整備している。ここにも説明板がなく、石碑は「岡崎宇頭土地区画整理事業 完成記念」9:36大塚公園、午後には子供たちが来るのであろう9:42旧東海道(国道1号線)に戻り、数百メートル歩き安城市へ入る。安城市は子どもの頃、地理で「日本の丁抹(デンマーク)」と教わった。大正時代末期から昭和時代初期にかけて、安城を中心とした碧南部は、「日本の丁抹(デンマーク)」と呼ばれた。当時世界的な農業国であったデンマークの名が冠せられたのは、単に農業経営が多角的で教育・指導期間が充実し、組合組織が発達していたこと等、農業のあり方が先進的であったことだけではありませんでした。安城市歴史博物館があり、碧南部の人々が農業・農村振興にどう取り組んだかを、デンマークの農業と共に紹介している国道1号線の尾崎東交差点。旧東海道はここを右方向に直進して「尾崎の松並木」へ進む愛知トヨタ自動車株式会社 宇頭営業所 太陽光発電システム太陽電池モジュール40枚(総面積 約38.5㎡ 8直列×5並列)只今の発電電力:0.?KW、積算発電電力量:???KWH9:44旧東海道には松並木が立ち並ぶ9:48旧東海道を進むと下水道工事中安城市のおすいマンホール。デザインは安城市発祥の三河万歳の扇と桶胴太鼓(大締太鼓)下水道工事を終えたエリア 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.19
コメント(2)
岡崎城下二十七曲りから矢作川に架かる矢作橋へ進む。10/16(水) 7:54旧東海道(八帖往還通り)を進む玩具花火専業問屋「株式会社 稲垣屋」株式会社 まるや八丁味噌 本社所在地:愛知県岡崎市八帖町往還通52八丁味噌蔵岡崎城から西へ八丁(約870m)離れた八丁村で作られた味噌なので「八丁味噌」と呼ばれている。江戸時代からの岡崎の名産物。この地の味噌作りは室町時代に始まったが、八丁味噌の製法は明暦元年(1655)朝鮮通信使が宿泊したとき、使節より伝えられたと伝承され、生産量の四分の一が江戸で消費された。今でも早川家の「カクキュウ」と太田家の「まるや」が独占製造販売し、味噌蔵が並ぶ旧東海道(八帖往還通り)駐車場があり、見学時間は9:00~16:15 無休【岡崎の地場産業「八丁味噌」】大豆そのものを麴化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡﨑を代表する名産です。矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。【歌にみる八丁味噌】7:56旧東海道(八帖往還通り)から北側への八丁蔵通り八丁蔵通りの角に、純情きらり手形の道「宮崎あおい」の手形。「純情きらり」は平成18年(2006)年度上半期におけるNHK朝の連続テレビ小説で八丁味噌の老舗メーカーである「カクキュー」と「まるや」が舞台になった。ドラマの舞台となったロケ地に出演者10人の手形モニュメントが設置されている有森(松井)桜子役の宮崎あおい旧東海道(八帖往還通り)を矢作川に進む8:00旧東海道(八帖往還通り)の矢作川との突当り。江戸時代はこのまま直進して矢作川へ進んでいたが現在は橋がない突当りに石柱があり「左 江戸」「右 西京」八帖往還通りを北上して矢作橋へ弥次さんが南下して「八帖地蔵堂」へ向かう。高架は、名鉄名古屋本線八帖往還通りを北上する8:06旧東海道は国道1号線と合流矢作川に架かる矢作橋矢作橋上からの名鉄名古屋本線鉄橋。矢作橋・矢作川の舟運。江戸時代はじめはこの鉄橋の手前に土橋があったが、寛永11年(1634)家光の上洛時に本格的な板橋になったといわれている。長さ208間(約378m)もあり、東海道で最長の橋、また日本一長い橋だった。矢作川の舟運は三河の重要な運送ルートで、江戸時代はじめから昭和2年(1927)まで320年もの長いあいだ、川舟による輸送が続けられた。最盛期には三百艘が行き交っていた矢作橋上から岡崎城方面8:10通勤時間帯で渋滞の国道1号線の矢作橋を渡り終える矢作橋の北側に像?旧東海道はここを北上するのだが8:15国道1号線の下にトンネルがあり北上して上り線へ上がる像は、「出合乃像(蜂須賀小六と日吉丸の像)」所在地:愛知県岡崎市矢作町市場日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(今の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、八歳のころから奉公にだされましたが、十二歳の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝てしまいましたここに海東郡蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は「頭をけり、ひと言の挨拶をしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内に入り扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるときに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます出合之像と明治天皇御駐蹕の碑旧笹屋こと寺田又次郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。明治元年9月28日及び12月16日の二回、明治天皇がここで御休憩されました。この石碑は、紀元(皇紀)2600年記念に建てられたものです8:20旧東海道沿いに「勝蓮寺(しょうれんじ)」所在地:愛知県岡崎市矢作町宝珠庵16岡﨑市指定文化財絵画 絹本著色蓮如上人像 一幅絵画 絹本著色徳川信康像 一幅 徳川家康の嫡男信康が淡い朱色の狩衣に褐色の袴をつけ右手に扇子を持って 畳に座る姿を描く。信康唯一の肖像画で、17~18世紀制作工芸 獅子牡丹文鎌倉彫香合 一合 柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞聖人と柳堂、布教の記事が見られます。また、十七代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像をはじめ多くの遺品が残されています山門を入り弥次さん山門を入り広い境内矢作川側に鐘楼本 堂8:26旧東海道を西へ進む御菓子司 近江屋本舗旧東海道にある老舗の和菓子屋で「抹茶味の夢大福」が美々だと8:31弥五騰神社所在地:愛知県岡崎市矢作町羽城岡崎市立矢作東小学校の木柱の下に東海道の石碑弥五騰神社の境内へ入る拝 殿弥五騰神社の西に「岡﨑市指定文化財 三区 山車蔵」8:36誓願寺所在地:愛知県岡崎市矢作町馬場4矢作保育園の看板の方が目立つ誓願寺。旧東海道を振り返る、石柱には十王誓願寺とあるが門が施錠されており参拝は駄目かと思われたが。山門の前にアンパンマン。今日ここまでの歩行数は8,800歩誓願寺の東側に隣接する十王堂中から職員の方がこられ施錠を開けてもらうゲートを入り右側奥に浄瑠璃姫と矢作長者兼高の墓がある。中央:浄瑠璃姫の墓 宝篋(ほうきょう)印塔左端:兼高長者の墓 五輪塔当寺は、義経と浄瑠璃姫の悲恋物語ゆかりの寺である。兼高の娘で16歳の浄瑠璃姫は、矢作に立ち寄った同年代の義経と恋に落ちたが、奥州へ旅立ってしまった義経との添うに添われぬ恋に悲しみ乙川(菅生川)に身を投げた。兼高は誓願寺に姫を葬り十王堂を建立した浄瑠璃姫縁起年老いて子供のなかった矢作の里の長者 兼高夫婦が、日頃から信仰していた鳳来寺の薬師瑠璃光如来にお願いして授かった子といわれる。そのため、浄瑠璃姫と名付けられたいそう美しく育った誓願寺本堂と境内には保育園の遊具本 堂保育園の方に了承を得、しばし銀杏を拾う8:50銀杏をリュックのポケットに入れ旧東海道を西へ向かう 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.18
コメント(1)
岡崎城から二十七曲へ進む。10/16(水) 7:26岡崎城内の芭蕉の句碑木のもとに 汁も鱠(なます)も 佐久良哉(さくらかな) 芭蕉元禄3年3月2日伊賀の小川風麦亭において、風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である 内田不賢の書アラモの碑大正三年七月に建立された石碑アラモの碑この碑は、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昻氏が建立されたものです。志賀重昻氏は、テキサス独立戦争アラモの戦いと日本の三州長篠城の戦いがよく似ていることに深い関心を寄せられました。アラモの砦から援兵を求め友軍の下に走った青年ボナムと長篠城を脱出し、岡崎城の家康公に危急を知らせた鳥居強右衛門の両者の「強い使命感に東西の別はない」と感動し建碑を思い立ち、岡崎の石と長篠の石を使って、自作の漢詩を彫刻し、大正3年(1914)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。また、同時にここ岡崎公園の地にもアラモの碑を建立されたものです本 丸岡崎城の中心部で、松平清康(家康の祖父)が城主の時に八幡社が建てられていたことから「八幡曲輪」とも呼ばれます。城から北東方向の甲山から延びる丘陵の先端に位置し、西は矢作川、南は菅生川(現在の乙川)に囲まれた天然の要害となっています。江戸時代には天守のほか、月見櫓や辰巳櫓など多くの建物が建っていました縣社 龍城神社(たつきじんじゃ)七五三まいりの受付岡崎城天守閣日本100名城の45番目の「岡崎城」で、平成26年(2014)4月12日の登城している東照公遺訓碑、左に家康公遺言東照公遺訓碑には、人の一生は重荷を負で遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり 慶長8年正月15日人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな家康公遺言わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安しされども将軍の政道その理にかなはず、億兆の民・・・・・・・・・・・・7:30天守前の広場には朝散歩で訪れた市民天守前から南側の龍城(たつき)堀の赤い神橋龍城神社松が大きくて天守閣の全体が撮影できず7:31天守閣を後にして旧街道へ向かう本丸埋門石垣(ほんまるうずみもんいしがき)本丸埋門石垣本丸には四箇所ある虎口(出入口)の一つ「本丸埋門」は、門の外側にも桝形があり、二重の桝形に守られた厳重な構造でした。現在のスロープ部分は階段であったと考えられます。埋門は石垣の間に埋もれるように門が構築され、石垣には門の横木が架け渡されていたことを示す痕跡が残るほか、「卍」や「#」の刻印もみられます五月にはさつきが咲くのか?龍城堀の赤い神橋7:33岡崎城の周りに「純情きらり手形の道」のプレートが点在している。有森(杉)笛子役の「寺島しのぶ」の手形は、竹千代橋麓にある有森(杉)笛子役の「寺島しのぶ」の手形が石柱の上にある。地図には手形設置場所を ☆印表示岡崎公園の南に位置する「五万石藤」藤の咲く時期には見応えがある大きな藤棚である左に龍城堀、右に五万石藤岡崎城の西側を流れる伊賀川7:35岡崎城の西側からの天守閣松が大きくなり天守が全貌できない7:38新田白山神社所在地:愛知県岡崎市康生町345-1新田白山神社の大くす岡崎城のすぐ西を流れる伊賀川を渡った住宅地の中に新田白山神社がある。神社の鳥居をくぐると立派な社殿があり向かって右側に堂々としたクスノキが立っている。その木はかなり老体のようで、あちこち修復が施されていて、広がる大きな枝にはノキシノブが着生しておりその面持ちは深い歴史を感じさせる。この神社はもともと岡崎城内にあったが、1566年に厄除け開運祈願の為、家康により上州新田(群馬県)より勧請(神仏の分霊を移し祭る)されたと伝えられている。祭神は白山姫命と新田義重で、上州新田は皇族と血縁の深い源氏一族の新田氏ゆかりの地である新田白山神社主要建物:本殿、覆殿、拝殿、社務所、手水舎御 祭 神 :白山姫命、新田義重公例 祭 日 :十月十七日岡崎観光文化百選「白山神社」社殿と右にクスノキ社殿の扁額「新田白山神社」岡崎市指定文化財「天然記念物 白山神社の大くす」家康と新田氏の関係には様々な見解があるが、家康はこの頃より征夷大将軍まで上り詰める志を抱いていたようだ。樹齢600年以上のクスノキは家康が生まれる前からこの地で根をはり、その行く末を見守ってきたのであろう胸高囲:7.7m、根囲:9.4m、樹高:12.5mのクスノキの古木。老樹であるが、樹勢なお衰えず、枝張りは東西に22m、南北に14.5mにおよぶ。主幹が高さ2mの位置で二烈し、幹にはノキシノブの着生もみられる。樹形もよく、市街地の中心部にある巨樹として価値が高い。神木として信仰の対象とされ、6月30日には輪くぐり神事がこの前で行われる。白山神社は永禄9年(1566)に徳川家康が厄除け開運祈願のため上野国新田から勧請したとつたえ、岡崎城主の産土神(うぶすながみ)とされていた7:44新田白山神社から「岡崎城下二十七曲り」へ板屋稲荷神社商売繁盛・開運・厄除の神社である。位置する板屋町界隈は旧東海道の遊郭があったエリア。今も当時の面影を残す古い建物が点在している7:49旧東海道の二十七曲りを進む、この先は国道248号線「中岡﨑町交差点」7:50松葉総門跡に立つ、金のわらじ案内柱「た」ここから西に向かって『これより八帖町突当り角まで』400m右下に「松葉総門跡」の石柱国道248号線中岡崎町交差点にある「松葉総門跡」と『金のわらじ案内柱「た」』松葉総門は岡崎城下の西出入口国道248号線中岡崎町交差点を振り返る7:52旧東海道(松葉通り)を進むと、高架は愛知環状鉄道松葉通りの道標。左側に中岡崎駅がある。高架の向こう側に「カクキュー 八丁味噌の郷」工場見学受付の看板7:53愛知環状鉄道の高架をくぐり、右方向にある「カクキュー 八丁味噌の郷」所在地:愛知県岡崎市八帖町字往還通り69駐車場があり、見学時間は9:00~17:00 無休岡崎城下二十七曲り「れ」の道標。八帖村の石柱の横に「純情きらり手形の道」沖田徳治郎役の八名信夫の手形純情きらり手形の道「純情きらり」は平成18年(2006)年度上半期におけるNHK朝の連続テレビ小説で八丁味噌の老舗メーカーである「カクキュー」と「まるや」が舞台になった。ドラマの舞台となったロケ地に出演者10人の手形モニュメントが設置されている 岡崎宿から池鯉鮒宿へー続く
2019.11.17
コメント(0)
昨日今回の道中記で最高の46,250歩を歩いていたので足腰が心配であったが、朝起きても痛みがなく出発することに、途中でリタイアしないよう!今日10/16(水)は、岡崎宿から池鯉鮒宿への弥次喜多道中記です。なお、今回が延べ日数23日目の道中記です。10/16(水) 6:30ホテル前の旧東海道(伝馬通り)、伝馬交差点6:50朝食は6:30からで早々に食事をとり出発、伝馬交差点を南側へ渡り、備前屋前から伝馬通りの南歩道の「伝馬歴史プロムナード」へ。伝馬交差点から伝馬通り1丁目の交差点にかけて、伝馬通りの南北両歩道に並ぶ20基の石彫が伝馬の歴史を語っている。昨夜北側歩道を歩いたので南側を歩く今回の宿泊した「岡崎サンホテル」南歩道に並ぶ石彫については「岡崎城二十七曲り(1/2)」で一部公開しておりますのでこの日は未公開分のみをアップします。お茶壷道中寛永9年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壷道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせた。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていた。行程の都合で岡崎伝馬宿ではではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。御馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っているあわ雪茶屋江戸時代の岡崎宿の名物といえば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などが挙げられるが、名物の食べ物といえば「淡雪豆腐」が挙げられる。当時、あわ雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、岡崎宿を通行する旅人に親しまれていた時間が早く開店前の「備前屋」所在地:愛知県岡崎市伝馬通2丁目17創業天明2年創業の「備前屋藤右衛門」は、初代が伝馬町で菓子屋を始めて、八代目という歴史を刻む。中でも江戸時代に東海道名物であった「あわ雪豆腐」の名を菓子に残し創作した「あわ雪」は三河を代表する銘菓。また、二十七曲りせんべいも旅の土産にぴったりである岡崎宿の名物は淡雪豆腐という名で宿の茶屋で売られていたあんかけ豆腐。葛や山芋をベースに醤油味のあんを豆腐にかけた一品で、天保13年(1842)の記録では茶飯、おしんこ、淡雪豆腐のセットが十八文で旅人に人気だった朝鮮通信使江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全十二回の使節の派遣をした。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均五百人からなる大使節団であったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は一大行事であった6:54昨日行かなかった「東本陣跡」を探しに東側へ行くがわからず。伝馬交差点の「備前屋藤右衛門」6:59伝馬通りの南歩道の「伝馬歴史プロムナード」へ戻り。㈱永田屋本店所在地:愛知県岡崎市伝馬通2丁目10創業百余年の松坂肉取り扱い専門店。職人の目利きで選ばれた選りすぐりの精肉をお値打ちに提供。揚げたての牛肉コロッケやハムカツなどが散策時の食べ歩きに人気だが時間が早く開店前7:13伝馬通り、東康生通り、西康生通りを歩き、岡崎城へ。国道1号線の岡崎公園前交差点の歩道橋上から東方面、右が国道1号線岡崎公園前交差点の歩道橋上から西方面、岡崎城の大手門。国道1号線は渋滞日本百名城の岡崎城がある岡崎公園所在地:愛知県岡崎市康生町5611再建された16世紀の城、風光明媚な公園の中に、武士の暮らしを紹介する博物館がある。春には美しい桜を楽しめる公園である岡崎城大手門この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として建設したものです。本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200メートル)にありました。江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間、梁行二間四尺」でした大手門前に「東海道二十七曲り」岡崎城の周りに「純情きらり手形の道」のプレートが点在している。有森マサ役「竹下景子」の手形が石柱の上にある。地図には手形設置場所を ☆印で表示「純情きらり」は平成18年(2006)年度上半期におけるNHK朝の連続テレビ小説で八丁味噌の老舗メーカーである「カクキュー」と「まるや」が舞台になった。ドラマの舞台となったロケ地に出演者10人の手形モニュメントが設置されている。竹下景子の手形、自分の手を合わせたが冷たかった手入れの行き届いた松7:17大手門を入り、公衆電話もお城型岡崎公園案内図広場でいろんな展示会、これからの展示予定。三河の菊まつり 10月25日~11月3日三河のさつきまつり 11月7日~11月10日 11月14日~11月17日二の丸井戸跡二の丸井戸跡の中三河武士のやかた家康館7:19からくり時計岡崎公園時計塔この時計塔は、徳川家康公のふるさと岡﨑にふさわしい和風のからくり時計で、定刻になりますと、家康公のからくり人形が現われて、照明と音響の演出で能を舞います本多平八郎忠勝公銅像本多忠勝公が現在の岡崎市西蔵前町出身で、末裔が江戸時代中後期に岡崎藩を治めた。昭和57年11月、岡﨑ライオンズクラブ創立20周年記念に寄贈して建立されたしかみ像しかみ像世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です???門門をズームアップ松平元康の像徳川家康公銅像家康公は、天文11年(1542)12月26日岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道を歩き、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ケ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以後持ち前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年(1616)4月17日 75歳でこの世を去った。この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものであるからくり時計と本多平八郎忠勝公銅像7:23清海堀を見ながら岡崎城天守閣へ進む天下人家康公 出世ベンチ徳川家康公はここ岡崎城で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。このベンチは「石都岡﨑」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。家康公とこのベンチに座り天下人を生んだ岡崎の魂を感じてください岡崎城天守閣清海堀と石垣を見ながら天守へ岡崎公園散策マップ早朝から岡崎公園内を清掃する人が(ボランティア?)清海濠(せいかいぼり)本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀です。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」に因み名付けられました。城内でも古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀です。本丸側は急斜面の土塁のままですが、対面側は後の改修により石垣が築かれたもので、築城の変遷がみられます 岡崎宿から池鯉鮒宿ー続く
2019.11.16
コメント(1)
今日の未明に我がブログへのアクセス数がようやく30万に到達。わが友は既に一桁違いの300万と聞いておりますが、一昨年の2017年11月27日から連続アップしての到達です。旅友から「継続は力なり」と励まされ、毎日アップしてここまでやってきました。これからもブログ取材をしながら、連続更新を目標に頑張りますので今後ともよろしくお願い申し上げます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡崎城二十七曲りの後半です。今日の歩行数は既に40,000歩を過ぎており、どこまで行くのかと思いながら弥次さんの後を追う。10/15(火) 16:29竹田屋漆器店16:34旧東海道の「連尺通り」を進む16:35金のわらじ案内柱「と」ここを右折すると『これより次の材木町口角「ち」まで』80m16:36岡崎城対面?前角16:37材木町口木戸前16:37金のわらじ案内柱「ち」ここを直進して『これより次の材木町角「り」まで』100m16:39材木町1丁目交差点金のわらじ案内柱「り」ここから北上して『これより次の材木町角「ぬ」まで』150m16:40旧東海道の「木まち通り」を進むこの辺りが岡崎城から北側で一番離れている材木町の石柱16:41金のわらじ案内柱「ぬ」ここを左方向(西)へ直進して『これより次の柿田橋角「る」まで』350m16:46木まち通りから南側に入り「白山神社」所在地:愛知県岡崎市魚町石鳥居と拝殿境内にはふるさとの名木「白山神社の大むく」神社前に立つ常夜燈16:48前方は柿田橋西旧東海道の木まち通りに建つ古民家唐弓弦(とうゆみづる)の看板唐弓弦の看板かつては岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、この辺りには三河木綿に関する職人や商店が多く存在したそうです。「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを扱っていた店の看板が当家に現存しており、当時の面影が残る看板です16:49柿田橋手前に立つ、金のわらじ案内柱「る」ここを伊賀川に沿って南下『これより次の三清橋角「を」まで』190m案内柱の位置が示されている16:50伊賀川に沿って桜並木を南方面へ進む。ここからはようやく岡崎城方面へ向かう、以前の石柱「材木町より???」小高い所に先ほど訪れた白山神社巨木は「白山神社の大むく」か?16:53伊賀川を振り返る三清橋(さんせいばし)岡崎城の天守の一角が見える16:54三清橋を渡り金のわらじ案内柱「を」『これより次の「わ」まで』45m、電柱の左側に岡崎城の天守が見える田町北角の石柱、この先を左折して旧東海道へ16:55目立つ二十七曲り案内板「わ」の位置における「を」への案内16:59旧東海道の二十七曲りが国道1号線に突き当たり「田町角」の石柱。弥次さんがようやく「今日はここまでに」と告げる17時になり西の空を見ると夕焼けに17:04龍城(たつき)橋西交差点国道1号線をホテルへ向かって引き返す、前方に岡崎城日本100名城の岡崎城龍城橋から伊賀川の上流、遊歩道になっている国道1号線に沿った「龍城通り」前方に岡崎公園前交差点と歩道橋17:09振り返ると夕陽が17:11国道1号線の岡崎公園前交差点の歩道橋上から左側に岡崎城の大手門17:16西康生通りを伝馬通りへ向かいホテルへ店頭に「オカザえもん」岡崎市の非公式キャラクターで身長180cmサインは本人が、2014.1.3117:25ホテル近くの伝馬通りにたどり着いたが、今日の歩行数は46,000歩で弥次喜多道中では最高の歩行数。このため今夜の夕食はホテルの部屋ですることとし、コンビニで宴会用食料を購入。17:36コンビニの敷地内に建つ「西本陣跡」石柱コンビニ前からホテルまでは、「伝馬歴史プロムナード」。ホテルまでの伝馬通りの北側歩道に並ぶ20基の内の石彫をたどる。本陣・脇本陣の石彫参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。伝馬の本陣は正徳3年(1713)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の二軒であったが、後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の三軒が本陣・脇本陣は・・・・・・・・・。岡崎東本陣(服部家)は現在の伝馬通り二丁目交差点辺りにあり建坪・・・・・・・駒牽朱印二十七曲東海道の中でも三番目に規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれ、屈折の多いその街並の長さでも有名であった。二十七曲がりは欠町、両町、伝馬通りから籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す碑が現在の町並にもいくつか置かれている矢作橋矢作橋は公儀普請の重要な橋であり、岡崎宿を行く旅人にとっても、まだ見ぬ岡崎を思い浮かべる人々にとっても街道一の規模を誇るこの橋の勇壮さは関心の高いものであった。広重の東海道五十三次「岡崎」にも描かれ、東海道を行く当時の紀行文や道中日記には必ずといっていいほど矢作橋が登場する。ドイツ人ケンペルは「江戸参府紀行」で、スウェーデン人ウィルマンは「日本旅行記」の中で矢作橋の大きさを記述し、岡崎宿を訪れた朝鮮通信使の日記にも登場するなど外国人にとっても印象深いものであった17:38向かい側の老舗㈱永田屋本店にも灯がともるあわ雪茶屋江戸時代の岡崎宿の名物といえば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などが挙げられるが、名物の食べ物といえば「淡雪豆腐」が挙げられる。当時、あわ雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、岡崎宿を通行する旅人に親しまれていた作法触れ勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくると宿場全体に、町奉行から出迎えのための通達が出た。「作法触れ」とは街道や宿場内での諸注意で、道路に盛り砂を行う事、手桶、箒を出しておくこと、決められた場所に提灯を出すこと、ほら貝、鐘、太鼓、拍子木など鳴らさないこと、街道では通行の前日から田畑などで下肥を施したり、ごみ焼をしないこと。通行に際し土下座をすることなど細かい点まで指示された。また、応接接待の作法についての「御馳走触れ」も出され、出迎え支度は大変なものであった往来手形江戸時代、街道、橋、宿場などが公用旅行者向けに整備されたが、物資の流通や庶民の旅行もそれによって発展していった。一般庶民の旅行では通行許可証となる往来(通行)手形を発行してもらわなければならなかったが、信仰のための旅ならば往来手形を容易に受けられたので、庶民の間には伊勢参りなど、娯楽的要素も加えた寺院神社参詣の旅が広まった。斡旋業者も現われ、旅行のための積立をする「講」と呼ばれる組織ができるなど、旅行は徐々に民衆のものになってゆき、観光旅行の原点となった一里塚徳川秀忠は家康の発案により、東海道・中山道・北陸道の三街道に一里(約四キロ)ごとに工程の目印となる、一里塚を設けた岡崎の一里塚は東より本宿、藤川、大平、矢作にあったが、現在、大平に南側の一里塚が残っていて国指定史跡となっている。他の一里塚同様、大平の一里塚にも榎が植えられており、この榎は、家康が総監督大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言った言葉を「えのき」と聞き違えたという話が残っている。参勤交代で大名の通過があると藩の使者が送迎の礼をした場所でもあったとされる市隠亭17:41宿泊ホテル前の石彫「旅籠屋」今日一日の歩行数は46,250歩、歩行距離:32.37km、歩行速度:5.0km/h、所要時間:6:28 で昨年から始めた弥次喜多道中では最高歩数。弥次さんと、コンビニで買ったビール・酎ハイを飲みながら部屋で反省会。その後、明日は池鯉鮒宿へ向けて歩くが、足腰は大丈夫か心配しながら疲れから爆睡。 御油宿から岡崎宿ーEND
2019.11.13
コメント(0)
旧東海道を歩き、岡崎城二十七曲りへむかう。岡崎宿は品川宿から38番目の宿で、徳川家康が誕生した岡崎城の城下町であり、家康と先祖・松平家の史跡が多く残る。岡崎宿の町並みの長さは36町51間(約4km)と長く人口約6,500人、旅籠が110軒もある大きな宿場だった。岡崎宿は「岡崎女郎衆はよい女郎衆」と唄われ、飯盛女が多くいた。10/15(火) 15:23街道脇に東海道の石柱15:29一澤山 法光寺所在地:愛知県岡崎市欠町中通31本 堂手水舎と山門に鐘楼ほかのお寺でもあったがここでもこのような貼り紙が。お供えした花は持ち帰ってくださいと15:35二十七曲りの碑・冠木門東海道二十七曲りの東のスタート地点で、石碑を見ると当時の曲がり角の多さが解る。冠木門は要所にあったという木戸が再現されている。ここまでの今日の歩数は、38,000歩二十七曲りの碑石碑に弥次喜多が写り込み、見ずらくて失礼!二十七曲りは天正18年(1590)岡崎城に入城した田中吉政は城下防衛のため、外敵と城までの距離を長くし、守る側は間道を利用して防衛できるように城下の東海道を曲がり角の多い道に造った。この付近には岡崎名物の淡雪豆腐を売る茶店が並んでいた。二十七曲りの終わりは矢作川の土手に突き当たるところ15:40若宮町2丁目左下に最初の曲がり角「い」の標示岡崎城下二十七曲(欠町より投町角) 岡崎城東入口の石柱江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられています金のわらじ案内柱「い」統一的なルート案内として平成19年に設置が開始された二十七曲りコースの案内柱。柱の上にある「金のわらじ」が目印。案内柱には、『これより次の両町角「は」まで』650mと分かりやすい15:44曹洞宗 根石寺所在地:愛知県岡崎市若宮町1丁目11岡崎西國 第十番札所根石観音堂根石寺(旧根石観音堂)の由来当寺本尊聖観世音菩薩は行基菩薩の作といわれる。和銅元年(708)天下に悪病が流行し世の人々の苦しみは燈とか田出なかった。時の天皇43代元明天皇も大変心を悩まされ、直ちに行基法師を召され悪疫を絶やしてほしいと念願された。そこで法師は自ら六体の観音像を彫りその内の二体を根石の森に勧請し17日間祈祷を続けられたところ果たして霊験あらわれ、はやり病も治まり世人の喜こびは大変なものであったまた、岡崎三郎信康公も天正元年(1573)の初陣の折、この観音像を祈願し軍功をあげて以来開運の守り本尊としてもあがめられ、この二体の観音像を町の人達が協力してここに堂宇を建立し、壇上の厨子に安置したのである15:46真宗大谷派 法圓寺本 堂本堂の扁額「法圓寺」15:52金のわらじ案内柱「は」ここを右折して『これより次の伝馬町角「に」まで』80mそばに石柱も立っている15:53常夜燈がケースの中に常夜燈の由緒この常夜燈(仏式)は、旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として、今より182年前寛政二庚戌年12月(1790)に建てられたもの。其の後昭和20年7月20日未明の空襲で災禍にあいましたが、昭和47年10月22日までその原型を留めていた。追日の痛みもひどく危険になったので取り壊し、其の一部「宝珠」を残しこれを安置保存したと。岡崎では最も古い由緒ある常夜燈15:54金のわらじ案内柱「に」ここを直進して『これより次の伝馬通一丁目角「ほ」まで』660m15:56伝馬通5丁目交差点、緑地は南北に走る「太陽緑道」ここを左折すると岡崎市役所 東庁舎へ伝馬通5丁目交差点を渡り北方向、緑地は太陽緑道15:58伝馬通4丁目交差点、この交差点を左へそれ何かを探しに?16:02街道からそれた所にある「町内安全秋葉山大権現常夜灯」光格天皇の御代11代将軍家斉公時代今を去る161年前伝馬町下中之切188番地3銘座東北の角に石工嘉兵ェ氏作によりこれを建立。昭和20年7月20日未明、第二次世界大戦の本土空襲により市内の大半は焦土と化し、当町も戦災のため全焼するも常夜灯は災禍を免れ昔時のまま現存する16:11旧東海道に戻り伝馬通りを進み、「伝馬歴史プロムナード」へ。伝馬交差点から伝馬通り1丁目の交差点にかけて、伝馬通りの南北両歩道に並ぶ20基の石彫が伝馬の歴史を語っている。東海道の中でも3番目の規模を誇った岡崎宿の宿場町伝馬ストーリーを伝えている今回の弥次喜多道中で宿泊した「岡崎サンホテル」助 郷大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄7年(1694)に正式に実施されている。人馬を供出するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったものの、やがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった飯盛女飯盛女(飯売女と表わすこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りを披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(1644~51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯盛女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなど、その繁盛ぶりが全国に届くことになった田中吉政吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった甥秀次の付家老として天正18年(1590)に岡崎に入城し、以降10年間、新しい城下町づくりを行った。関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った㈱永田屋本店所在地:愛知県岡崎市伝馬通2丁目10創業百余年の松坂肉取り扱い専門店。職人の目利きで選ばれた選りすぐりの精肉をお値打ちに提供。揚げたての牛肉コロッケやハムカツなどが散策時の食べ歩きに人気人馬継立旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。公用旅行者は無料・半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150kg)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや旅籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる三度飛脚伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった通信書状などを入れた箱をかつぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。こうした逓信業務を行う人間が何人か住んでいるところはいかにも宿場らしい。飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、、寛文3年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた塩 座塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せかえられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草株などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた御馳走屋敷現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政9年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。ご馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壷、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重にあいさつしたという二十七曲りの石碑。赤い線が二十七曲りのルートである籠田惣門田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北へ曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく、岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである16:15金のわらじ案内柱「ほ」ここを左折して『これより次の六地蔵下り口「へ」まで』60m西本陣前角の石柱16:16金のわらじ案内柱「へ」の六地蔵下り口金のわらじ案内柱「へ」ここを矢印方向へ戻ると『これより次の伝馬通一丁目角「ほ」まで』60m石柱の横に建つ道標、岡崎宿東海道二十七曲り「道標」歩道面には「籠田総門」と16:18建物は国登録有形文化財に指定されている「岡崎信用金庫資料館」。所在地:愛知県岡崎市伝馬通1丁目58赤レンガと地元産御影石を組み合わせた印象的な建物は、本格的なルネッサンス様式を取り入れた鈴木禎次氏が手掛けた建築。館内には世界の貨幣など「お金」にまつわる様々な展示コーナーを設けている残念ながら 免震化工事中で休館中16:20籠田総門跡旧東海道はここを直進して連尺通方面へ田中吉政公の像岡崎城主(1590~1600)、当時菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど城下町の整備を行った16:23籠田公園16:26籠田総門角常夜燈天正18年(1590)徳川家康の関東移封により、・・・・・・・・・、寛文10年(1670)籠田総門が設けられる。時は徳川泰平の世に移り町並みはさらに整備され町内旅人のため要所に常夜燈が建立された今日の歩行数は40,000歩を過ぎ、引き続き岡崎城二十七曲がりを散策するが、まるで迷路のようで岡崎城へは行けず。心なしかうんざり! 御油宿から岡﨑宿ー続く
2019.11.12
コメント(3)
藤川宿から岡崎宿へ入る。10/15(火) 14:16旧東海道を進む14:20街道脇に東海道の石柱14:21乙川に突き当たりここを右方向の国道1号線へ進むが、弥次さんが視界から消える。旧東海道は直進となっているが橋(旧大平橋)がないので国道1号線へ14:23国道1号線と合流左方向へ進み大平橋を渡る本来旧東海道は大平橋を渡ったら左に折れるのだが、道がなく国道1号線に沿って直進した。また、弥次さんも視界からいなくなる慌てる14:28大平町東交差点の隅にあった、藤川宿、岡崎宿、池鯉鮒宿の案内板国道1号線の大平町東交差点。進む方向を迷ったが、向かい側の角に「東海道」の標識と石柱を見つけ交差点を渡る14:31大平町東交差点に位置する「東光山 藥師寺」所在地:愛知県岡崎市大平町字上下り18本 堂昼食をとっていないのでバナナを食べ、ここでしばし休憩弥次さんを待つ14:40男川小学校西交差点を進む14:42岡崎大平郵便局前ここを右折すると90mで「西大平藩陣屋跡&大岡稲荷社」14:43上野山 専光寺所在地:愛知県岡崎市大平町西上野74手水舎と本堂本堂に掲げられた扁額「上野山」鐘 楼駐車場から14:46専光寺の裏にある「西大平藩陣屋跡&大岡稲荷社」所在地:愛知県岡崎市大平町西上野95西大平藩陣屋跡大岡越前守陣屋跡「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声が上がり、大岡家別邸として復活しました西大平藩西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まります。安永元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、大部分が三河国内に所在していました西大平藩陣屋地図はは三河国額田郡大平村地図大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋がおかれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宜が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした大岡越前守忠相【延宝5年(1677)~宝暦元年(1751)】「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相は旗本の家柄に生まれ、徳川八代将軍吉宗の下で江戸奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。著名なものに、相対済し令・目安箱・小石川養生所設置、・・・・・・・・・・・・・・・忠相公は宝暦元年に75歳で没し、相模国堤村(現神奈川県茅ケ崎市)の浄見寺に葬られました。大岡家はもともと三河の出身で徳川家康に仕え、2代忠政が家康の関東移封に伴い現在の茅ヶ崎市に知行地を与えられた。このため茅ヶ崎市には大岡家の菩提寺浄見寺があり歴代の墓がある。この縁で、昭和58年(1983)7月1日に茅ケ崎市と岡崎市は姉妹都市になっている西大平藩陣屋内にある「大岡稲荷社」大岡稲荷社寛延元年(1748)一万石の譜代大名になられた大岡越前守忠相公は、西大平藩主として三河国額田郡西大平村(現在地)に陣屋を置いた。忠相公は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊「だ枳尼眞天(だきにしんてん)」を厚く信仰した。江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、ここ西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川だ枳尼尊天」を本尊として祀った。現社殿は、忠相公没後250周年の記念事業として平成14年(2002)に再築されたもので大岡家の守り本尊として代々引き継がれ守られている。なお、毎年4月には大岡稲荷奉賛会が中心となり例大祭が行われている西大平藩陣屋内大岡越前守忠相公は、紀州藩と伊勢神宮の境界問題を解決したことを当時の紀州藩主吉宗に評価され、後に江戸町奉行に抜擢された。町奉行を19年間務め、さらに寺社奉行を務め、四千石を加増され六千石の旗本になった。寛永元年(1748)に四千八十石を加増され一万石の大名となり、西大平藩を立藩した大岡稲荷社鳥鳥居14:52西大平藩陣屋から旧東海道へ14:57国指定文化財「史跡 大平一里塚」大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から80里にあたこのように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い現在の大平一里塚は、昭和3年(1928)に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和20年の台風で倒木したために新たに植えられたものである現在の榎は、昭和20年の台風で倒木したために新たに植えられたものである15:00旧東海道の大平西町バス停15:01左方向へ行くと東岡崎駅方面15:03左の先は国道一号線右側の常夜燈を入り、村社 八幡宮へ祭礼が近いのか幟用のアルミ製ポールが立つ八幡宮鎮座地:岡崎市大平町字天神前42番地右側に、第61回 式年遷宮記念碑拝 殿拝殿の左側に広場がありその奥にいくつかの祠が筆神社他にも、天神社(祭神:菅原道真公)、大森社、神明社、三姫社15:15八幡宮から旧東海道(国道1号線)へ戻り、右方向へ進む15:17東名高速道路の岡崎インタへの高架下をくぐる15:18街道脇に案内板があるがここまでの途中には見つからず、高速道路のインタ整備でこの辺りの旧東海道は複雑で弥次さんのiPhoneがなければ道を迷う旧東海道の松並木の先には国道1号線15:20国道1号線を振り返ると東名高速道路の岡崎インタ入口15:22国道1号線の岡崎インタ西交差点高架は県道26号線 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.11
コメント(0)
藤川宿脇本陣跡から岡崎宿へ向かう。10/15(火) 13:17藤川宿脇本陣跡所在地:愛知県岡崎市藤川町中町北6-1脇本陣跡に作られた資料展示館。藤川宿に関する資料や高札、駒曳朱印状、宿場の模型が展示されており、宿場の歴史をわかりやすく紹介している岡崎市指定文化財「史跡 藤川宿脇本陣跡」現存する門は、関ケ原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されているが、昔日の名残りをよく留めている藤川宿の脇本陣跡本陣の西側にある脇本陣跡には石垣や享保4年(1719)に建築された門が残っており、岡崎市の史跡に指定されています。現在は藤川宿資料館が建ち、藤川宿に関する資料が展示されています藤川宿の名産は「むらさき麦」と、からむし細工のかんざしやからむし製の網袋、縄など。からむし(芋)とは、桑によく似た麻の一種の植物繊維を紡いだもの藤川宿脇本陣跡を振り返る13:20旧東海道の右側に常夜燈関山神社への入り口常夜燈と石柱13:22伝誓寺(でんせいじ)本堂所在地:愛知県岡崎市藤川町西町南51本堂らしくないが?鐘楼と地蔵浄土真宗大谷派 松音山伝誓寺寺の由来は、昔「大蓮坊(だいれんぼう)」といって天台宗の寺であったが、室町時代の中頃、蓮如上人の教えに帰依改宗して浄土真宗の寺となった。その後、江戸時代にこの地に移り現在の建物は、昭和45年に改築されたものである。本堂内には、須弥壇(しゅみだん)の宮殿に、「阿弥陀如来立像」が安置されその右の脇壇には「親鸞聖人画像」(厨子入)、左の脇壇、「彰如上人画像」(巻軸)があり、その左の余間には、寺の中興に力を尽くした、「村井三十郎」の位牌も残っている。伝説として、「泥棒と水晶」の仏頭や、左甚五郎が彫ったと伝える「彫りの竜馬」も欄間に掛けられている13:24岡崎市のおすいマンホールのデザインは岡崎城と花火13:27旧東海道(県道327号線)を進むと岡崎市立藤川小学校前の松並木下には西棒鼻跡が再現されている西棒鼻西棒鼻跡宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は東棒鼻を描いたものである石碑は歌川広重の師、歌川豊広の狂歌が刻まれている。「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西裏、吉良から持ってきたうでだこを売っており、たこのあしがぶらさがっている13:31十王堂【延命守護・安全祈願】所在地:愛知県岡崎市藤川町一里山南25「十王」とは閻魔大王を筆頭とする冥途で死者の罪を裁く十人の裁判官である仏の総称で、それらを祀る十王信仰と結界鎮護の意味も考えられる。創建は定かでないが、貴重な建物である景観重要建造物「十王堂」堂内の中央には地蔵菩薩、その両脇には人間の死後、極楽に行くか地獄に堕ちるかを裁く、閻魔王をはじめとする十人の王が祀られ、地元の人は「十王さん」と親しみを込めて呼んでいる。堂の創建は、江戸時代中期の元禄年間(1688~1704)頃と伝えられているが、この建物は昭和12年に撮られた写真を基に、平成29年12月に復原されたものである藤川の十王堂十王堂は十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは冥途にいて、亡者の罪を裁く十人の判官をいう。 泰広王・初江王・宗帝王・五官王・閻魔王・変成王・平等王・太山王・都市王 五道転輪王 の総称である。また地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている芭蕉句碑「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」芭蕉句碑「芭蕉句碑」は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を石を刻んで建てたものである。高さ1.65m、幅1.07m、厚さ約0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている句碑の表右下に、高さ0.9m、幅0.5mほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑は元、別な場所にあったが、大正初期に現在地に移された句碑の裏側建立した年月等が刻み込まれているが?寛政五歳次癸丑冬十月 当国雪門月亭其雄弁連中 以高隆山川之石再建と、建碑の書誌的事項が彫られている13:35藤川宿の一里塚藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃には南側はすでになくなり、北側の榎は昭和初期には枯れてなくなった13:37旧東海道(県道327号線)を進む。藤川のまつ並木まで400m街道の松並木藤川の松並木までは数百メートル13:41吉良道道標左方向:県道327号線、右側直進:旧東海道、藤川の松並木入口吉良道道標文化11年(1814)建立された道標で吉良町への脇街道との分岐にある。吉良町は忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の領地。三河湾沿岸の海産物や塩を運ぶ重要な道だった。道標の先、約1.0kmにわたって約90本の黒松の並木が続く名鉄名古屋本線の踏切を渡り、藤川の松並木へ岡崎市指定文化財「天然記念物 藤川のまつ並木」慶長9年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。この松並木はその名残りをとどめるもので、現在は藤川町の西端約1.0kmの間の90本あまりからなり、クロマツが植えられている。松並木は旅人には夏の木陰を提供し、冬は防風林となった藤川宿方向を振り返る13:45東海道の旅の風情を感じられる見事な松並木。およそ約1.0km続く約90本のクロマツの中には高さ約30mの巨木もあり、昭和38年に岡崎市の天然記念物にも指定されている松の木の葉が飛び散っていたが市の清掃担当が掃除をしていた。思えば、子どもの頃よく山へ行き松の木の葉を集めたものだ、火力が強く風呂の火に13:50国道1号線の藤川町西交差点旧東海道はここから国道1号線に沿って歩くここから東が藤川宿13:52日本橋から321km地点13:58岡町神馬崎(おかちょうかんばさき)交差点13:59異香山 阿弥陀寺所在地:愛知県岡崎市岡町西神馬崎南側2山門前に「本堂落成 慶讃大法要」令和元年11月4日新装なった本堂本堂再建築御寄付御芳名最高額:100万円、中間:5万円から1万円、最低:5千円14:03旧東海道は国道1号線から左方向へ下る14:05乙川の支流竜泉寺川に架かる坂下橋から下流方向。先ほどまで歩いてきた国道1号線同橋から竜泉寺川の上流旧東海道の松並木を進む松並木を歩いていると、路面が松の根元から下がっているが江戸時代に比べて地盤が下がったのか14:10美合新町(みあいしんまち)交差点左折すると名鉄名古屋本線の「美合駅」ここまでの歩行数は、31,200歩でそろそろ疲れてきた 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.10
コメント(0)
藤川宿東棒鼻から藤川宿へ入る。宿の西外れには三河湾へ至る塩の道だった吉良道との追分があり、鎌倉時代から交通の要所で古い宿場町だった。かつては宇治川といわれていたが、藤の花が多かったことから藤川と改名したという由来話がある。10/15(火) 12:25東棒鼻跡棒鼻とは、宿場の出入口のことで東にあることから「東棒鼻」と呼んでいる。旧東海道は左方向へ進む東棒鼻藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ、棒鼻が藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いたからである絵の中には、八朔(8月1日)の御馬進献の行列がちょうど藤川宿の棒鼻に差しかかるところで、辺りに境界を示す牓示杭、道の両側に石垣を積んで、土を盛った宿囲石垣を描いている。最近、明治20年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。とにかく、現在、藤川宿と言えば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている東棒鼻跡広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである藤川宿から京へ四十六里二十七丁、岡崎へ一里半赤坂へ二里九丁、江戸へ七十八里二十九丁東棒鼻跡から江戸方面是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町 ・秋葉山常夜灯 ・商家「銭屋」 ・脇本陣跡(藤川宿資料館) ・十王堂(芭蕉句碑) ・棒鼻跡 ・道標(吉良道) ・藤川の松並木 等々12:28むらさき麦栽培地今から三百年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます東棒鼻跡を振り返る我が畑も気になるが、風よけ虫よけ?12:30藤川宿の「曲手(かねんて)」地元の人たちは、この辺りを「曲手」と呼んでいる。曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。別名「桝形」とも言われている。藤川宿の曲手は、慶安元年(1648)に、三河代官が藤川宿の東端に、約500mほどの街道を造り、地割をして市場村の人々を移転させ、加宿市場村を設けたときに、その東はずれを意識的に道を曲げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から宿場町を守るためとか、道を曲げることによって、街道の長さをふやし、そこに住む人をふやしたとも言われている12:31旧東海道(県道327号線)を進む市場町格子造りの屋並藤川宿でも往時を偲ぶ町屋造りは市場町が一番です。格子造りの静かな佇まい、そして町民が町を愛する気持ちが伝わる町、総代始め町民が一体となり日本の歴史の足跡を残す町として現在も、何軒か残っております。・・・・・・・・・12:34津島神社入口の常夜燈津島神社は国道1号線より北側にあるのであきらめる。左側に「市場公民館」市場町公民館(旧市場公会堂)建設竣工は大正6年7月、当時額田岡﨑地区では、現市の文化財である朝日町の公会堂が大正4年建設され、それにつぐ公会堂として百戸弱の町内で造ったことで評判となり絵葉書として残っています。当時としては小屋組みが合掌工法と云う近代工法を駆使した建物で町内に住する堂宮大工山田許一氏が主となり完成、百年後の現在も長い風雨に耐え、正確無比を誇る完全木造で津島神社の境内にあり社務所も兼ね町民の和と長い歴史を育んできた公民館です12:36藤川宿駐車場祝日の翌日で休みなのか施錠されていた東海道の宿駅設定にあたり、人口が少ないため幕府は近隣の集落を移住させ細長い宿場町を造った。宿の町並みの長さは9町20間(約1km)に人口1,200人ほどの宿場だった。宿場に特徴がなく、宿泊客は両隣の赤坂、岡崎宿に取られていた。『東海道中膝栗毛』では宿の東西の棒鼻付近の茶屋の様子を「棒鼻の茶屋軒ごとに生き肴をつるし、大平皿、鉢を店先に並べたて旅人の足をとどむ」と紹介している。弥次さんはゆで蛸を食べた12:39徳性寺名鉄名古屋本線、国道1号線の北側に位置する寺院である12:41明星院(俗称 ほうえんさん)所在地:愛知県岡崎市市場町元神山16現在は真言宗醍醐派。ここまでの歩行数は、25,700歩元々明星院は愛称ほうえんさんで親しまれ、元来、方位学・易学等を主とする密教系寺院で創建は不明であり、市場と共に加宿市場に来たと伝えられている。ただ、幕末から明治初頭にかけて寺小屋を営み、日本の近代化に先がけ藤川学区の教育の芯をなした学問処であり、今も筆子塚等の足跡が見られ、それにまつわる文書等も現存している。醍醐派に転宗は歴史的に新しく、明治以来建学の精神が受け継がれている本 堂片目の不動尊本尊の片目不動尊にはこんな逸話がある。永禄5年(1562)、戦況が劣勢になった家康の背後から白衣の武者が現れて次々敵を倒してゆくので、誰かと考えていると敵の矢が白衣の武者の片目に刺さり、武者は消えた。戦さに勝利し、帰りに明星院に参拝したら、本尊の不動尊の目に矢が刺さっていた。家康は先の白衣の武者が不動尊とわかって、以来崇拝したという岡崎市指定文化財 ・絵画 那智参詣曼荼羅 一幅 ・工芸 蔵王権現懸仏開運招福の大黒さま渓流釣りに行った村人が中洲に埋もれていた大黒さまを見つけ、大切にお守りしたところ、村人はいつも思いが叶い幸せに暮らすことができた。「幸せをひとり占めにしてはいけない」と思い、明星院に納め開運招福の大黒さまとして祀られている開運招福の大黒さま寺子屋跡寺子屋は平屋造りで八畳一間と一間幅の廊下があった。 ・午前は七・八歳から十歳まで ・午後は十歳から十二・三歳まで の四百人ほどが学んでいた夫婦槙山中城の裾野から不動明王と一緒にこの地に移植された。樹齢は四百年余と言われ、この木に手を当て、元気の「気」を頂く人々がいる大聖殿行者堂筆子の塔と大聖殿行者堂明星院の寺子屋で学んだ子どもたちが大人になりお師匠様を偲んで建立した。二代目のお師匠様の塔には百八十名の子どもたちの名前が刻まれている12:57藤川宿高札場跡この高札場跡は藤川宿と市場町との境にあり明治21年新政府地積作成に当たり、本来三間四方あり、大きな高札場であった。加宿後、棒鼻は移動したと思われるが高札場はそのまま幕末を迎えたと思われる。ことに特異なことは地積公園を作るに当たり、藤川と市場との字界(境界線)設定につき、地元両町にて高札場を二つに割り、・・・12:58人形処 穂洲作 栗生人形所在地:愛知県岡崎市市場町東町1伝統的な雛人形や五月人形をはじめとした手作り品を今に伝える老舗人形工房。小物や千支人形作りなどの教室も行っており、初心者でも基本から教えてくれる。人形教室・講義料無料(材料費1,800円~)13:00旧東海道(県道327号線)を進と「称名寺」の案内板と石柱称名寺所在地:愛知県岡崎市藤川町中町南15愛知県指定文化財「彫刻 木造阿弥陀如来坐像」本堂に本尊として安置されている阿弥陀如来坐像で、木造、寄木造り、像高は87cm鐘 楼天気は最高、気温も20数℃13:03問屋場跡藤川宿の問屋場藤川宿の問屋場はここにあった13:06景観重要建造物「旧野村家住宅(米屋)」天保年間(1830~1843)頃の建築。幾度かの改修を経ているが、内部の堅牢な柱や梁は現存する。旧東海道に面する北側の店と南側の居住部に分かれた間取りや外壁の一部にある、なまこ壁、木組格子、瓦屋根下の垂木の大きな木割などは、米穀業を営んでいた頃の町家建築の面影を伝え、旧東海道の37番目の宿場として栄えた藤川宿のくらしを偲ぶことができる13:12銭 屋銭屋を振り返る13:13本陣跡にある本陣跡広場所在地:愛知県岡崎市藤川町中町北7慶長6年(1601)に整備された藤川宿は、品川宿から数えて37番目の宿駅でした。藤川宿には当初二軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣の役割を果たしていました。しかし、藤川宿は東海道の中でも規模の小さい宿であった事西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。そのため、本陣、脇本陣の経営者は退転と交代を繰り返しました本陣は現在の藤川駐在所等の隣地を含めた長方形の土地に建っていました。本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。井戸は二カ所あり中庭に面した座敷がありました。北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を望む眺望は江戸時代のままです。本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。明治に入り、廃藩置県が行われ、本陣と脇本陣はその役目を終えました。その際に本陣を営んでいたのは森川家でした。平成21年、その御子孫である森川武氏から、岡崎市へ土地が寄附され、平成26年に藤川宿本陣跡広場として整備されました東海道と藤川宿中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定される。東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる加宿措置がとられました。藤川宿の負担は重いものでした藤川宿天保14年(1843)の「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の総人口は1,213人、家数は302軒となっています。これは東海道53次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました藤川宿本陣跡広場からの眺望は、江戸時代のままである高札場藤川宿の高札場は、問屋場の東に設置されていましたが、本陣跡広場の整備に伴いここに復元されました。高札の文面は、民衆への周知のために、簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられた高札場は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などに掲げ、民衆に周知させるための場所として設置されていた。代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。その内容は ①藤川よりの駄賃並人足賃 ②駄賃並人足荷物次第 ③親子兄弟夫婦みな親しく ④切支丹禁制 ⑤毒薬にせ薬種売買の事禁制 ⑥火付け用心むらさき麦栽培地地元藤川小学校の児童が毎年大事に育てている。今年もこれから種をまくのか肥料が畑の隅に置いてあった 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.09
コメント(1)
国道1号線の舞木町東交差点を南側に入る。本来の旧東海道は名鉄名古屋本線側にあるようだが。10/15(火) 11:39真宗大谷派法隆山 順念寺所在地:愛知県岡崎市舞木町阿形37-2境内の鐘楼と先代の鬼瓦順念寺本堂本堂前の赤い車から住職の女性が降り立つ11:44国道一号線沿いに小さな地蔵、前方に赤い鳥居が。田の中の赤い鳥居が目立つズームアップ11:47国道1号線の「山中八幡宮入口」、『舞木町西交差点」山中八幡宮交差点に、「御開運御身隠山」石碑11:49常夜燈と山中八幡宮鳥居山中八幡宮への農道から「名古屋鉄道 舞木検査場」を望む。この光景を見て、先日の台風19号で被害を受けたJR東日本の長野車両基地の浸水被害をより考えさせられた。被害当時、浸水状態の報道を見て思っていたが、車両基地は高台に設けるべきではと11:50山中八幡宮所在地:愛知県岡崎市舞木町宮下家康公の父・廣忠が再興したといわれ、家康公初陣の際に必勝祈願した神社。ここまでの歩行数は22,800歩山中八幡宮家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。例年正月三日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます石橋を渡り境内へ山中八幡宮のクスノキ胸高囲6.6m、根囲10.8mの巨樹である。樹勢旺盛、樹形も整い樹高21mと壮大な姿を見せるクスノキとして、市内第二の大きさを誇るばかりか、県下でも稀有な存在である。国道1号線や名鉄電車内からも望見できる巨樹として、本市の東部をシンボライズする名木である山中八幡宮の岡崎市指定文化財無形民俗文化財「デンデンガッサリ」天然記念物「山中八幡宮のクスノキ 一本」工芸品「乱舞面 一面」薄暗い石段を登り境内へ石段下のクスノキ石段を登り本殿下薄暗い石段を振り返る拝殿と手水舎11:57拝 殿山中八幡宮は文武天皇3年創建。家康の先祖である松平氏初代・親氏や父・廣忠(松平八代目)も信仰した。社殿左手の山中には「鳩ヶ窟」と呼ばれる小さな岩穴がある岡崎市指定文化財天然記念物「山中八幡宮のヒメハルゼミ生息地」拝殿本殿裏の小さな祠愛知県山中八幡宮自然環境保全地域 特別地域この地域内では野生の動植物を採取することができません。また、現状変更行為(木竹の伐採、工作物の新改築、土地の開墾など)を行う場合は知事の許可が必要です鳩ヶ窟を探しに拝殿・本殿裏へ12:00家康が隠れたという「鳩ヶ窟」を探すが「奥宮 神籬」山中八幡宮(奥宮 神籬)弥次さんがiPhoneで調べようやく「鳩ヶ窟」を見つける鳩ヶ窟は家康の三大危機の一つといわれ、永禄6年(1563)の三河一向一揆で門徒に追われた家康が身を隠し難を避けた場所。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます徳川家康公御開運の鳩ヶ窟石段下の石灯籠の左下に「鳩ヶ窟」の案内板があったが見落とした12:13山中八幡宮から降り立ち12:15名古屋鉄道 舞木検査場。名鉄名古屋本線は低地を走っているが、舞木検査場は一段と高い所に旧東海道へ向かう12:19登り口の「山中八幡宮案内板」旧山中郷の郷社であります。山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われまた古墳の跡とも云われています。元来、市場町は本氏子として八幡宮の東麓に住したが、藤川宿へ加宿以来、徐々に粗縁となり現在に至っています。残念に思います。そして、その証として立派な神輿、郷蔵も移築以来、市場町で管理しています。そして、三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名です12:21国道1号線の市場町交差点12:23左に、ローソン岡崎市場町店道の駅「藤川宿 1km」の案内板、旧東海道はこの先を左斜め方向へ進む株式会社ジェイテクト 岡崎工場所在地:愛知県岡崎市市場町字 桐山8番地工場の排水処理設備旧東海道沿いにぶら下がるひょうたん?12:25東棒鼻(ひがしぼうばな)藤川宿の東の入口へ到着。棒鼻とは宿場の出入口を指す 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.08
コメント(4)
法蔵寺のあと旧東海道を進む。10/15(火) 10:39前方右側にカメラを向ける弥次さん民家の片隅にある「不動院」10:40本宿古城(もとじゅくふるじろ)本宿古城(古くは山中古城ともいう)は鉢地川沿いに築かれた東西約76m南北86mの平城であった。城主の松平権兵衛重弘が岡崎城主松平廣忠(家康公の父)に背いたため天文16年(1547)11月廣忠軍の攻撃を受け、激しい戦いの末落城。城跡は名鉄、国道一号、東名の工事により形を留めず往時を偲ぶのみである旧東海道を進むと、この先80mを左折して「本宿旧代官屋敷」10:43旧東海道のここを左折して「本宿旧代官屋敷」10:44左折して100m程進むと目の前に石垣が小高い丘の上に「本宿旧代官屋敷」旗本柴田氏知行所の代官冨田家の屋敷朝早いのか人が少なく同敷地内に、冨田病院があり、同病院は明治36年開業の歴史ある病院で、地元ではとても信頼されていると本宿旧代官屋敷を後にして旧東海道へ戻る岡崎市のおすいマンホールのデザインは「岡崎城とやはぎはし」10:52旧東海道沿いに建つ「日本レトルトフーズ株式会社」所在地:愛知県岡崎市本宿町南中町45昔は二階で味噌をつくっていたと岡崎市都市景観環境賞を受賞し景観重要建造物に指定されている。「神谷合名會社」「日本レトルトフーズ株式会社」本宿村道路元標旧道路法(大正9年4月1日施行)によって、各市町村に一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました本宿東海道めぐりMAP参勤交代の大名も下乗して参拝した法蔵寺旧東海道を振り返る十王堂跡街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。玄関ガラス扉から十王像がのぞけます。本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和62年岡崎市文化財に指定された(非公開)10:55浄土宗西山深草派 林光山欣浄寺所在地:愛知県岡崎市本宿町東木竹この辺りは浄土宗西山深草派が多い感本堂の扁額「欣浄寺」境内の地蔵本堂西側のもみじ岡崎市指定文化財「彫刻 木造地蔵菩薩坐像 一躯」かつては、東海道沿いにあった十王堂の本尊として安置されていた11:03名鉄名古屋本線の本宿駅(もとじゅくえき)手前を国道1号線が走る岡崎市方面名鉄本宿駅は1992年国道1号拡張のため立体駅に改築された本宿駅前にある旧本宿駅舎のモニュメント蒲郡観光の玄関口として蒲郡ホテルのデザインを取り入れた駅舎。1/3模型が駅前に展示されている。撮影に行きたかったが国道1号線がありズームアップ11:06旧東海道本宿一里塚跡ここまでの今日の歩行数は18,200歩11:08旧東海道を進むと左手に薬王山 揚珠院、薬師如来石柱のみなのか?11:09民家の庭先に手入れの良い松が味処「通りゃんせ」11:12宇都野龍碩邸跡と長屋門(現存)本宿村医家宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751~63)三代立碩(りっせき)が当地において開業したのが始まりといわれている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。安政年間 当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している蘭方医宇都野龍碩屋敷跡に長屋門が残る。旧東海道の松並木が見える11:14旧東海道沿いの南側の建物に垂れ幕11:15是より東 本宿村 赤坂宿へ壱里九丁。所在地:愛知県岡崎市本宿西2丁目本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並みが形成された。鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえるこの辺りは、山綱村との村境であり、往古の駅家はこの付近といわれている。南の山裾平五沢では荻野流、高島流の砲術家でもある代官冨田牧太庸秋が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集をしたと記述されている11:15江戸方面に向かって「左:国道一号、右:東海道」の石柱11:16西の入口(沢渡)国道1号線と国道473号線の本宿町沢渡交差点。目印は2本の松、この交差点から西に鎌倉街道の山綱駅があったと伝わる。旧東海道はここを横切って北側へ進むべきであったが、国道1号線沿いを歩く11:18山綱町下中野交差点、日本橋から316km地点11:29山中小学校東交差点11:30旧東海道(国道1号線)を歩き、日本橋から317km地点。先ほどのキロポストから1kmに、12分を要した。314~315kmの1kmは13分を要しているので順調に歩いているのか昼も近くなりそろそろお腹も空腹になったが、今日も昼飯なしか?街道沿いの畑に咲くコスモス今日は既に20,000歩近く歩き、花は疲れた体を癒してくれる 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.07
コメント(0)
赤坂宿から間の宿本宿経由藤川宿へ向けて歩く。10/15(火) 9:40旧東海道(国道一号線)を進む、関屋交差点からしばらく国道1号線沿いに歩く右側には名鉄名古屋本線も走るこの奇怪な木9:46日本橋から313km地点、片側二車線の幹線道路(国道1号線)名鉄名古屋本線であるので運行本数も多い9:55このあたりが分水嶺になるのか9:59日本橋から314km地点。先ほどのキロポストから1kmに、13分を要した旧東海道(国道一号線)を振り返るがようやく緩い坂を登りきったようだ10:00豊川市から岡崎市へ入る。この先の交差点は「本宿町深田」本宿町深田交差点にある「本宿(もとじゅく)」の石碑是より西「本宿村」 藤川宿へ壱里本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に街並みが形成された。鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り、鉢地から宮路山中へと続いていた。近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数121軒、村内往還道19丁余、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた江戸時代の町並み本宿の東の入口(深田)冠木門があり、ここから旧東海道が再び始まる。この辺りは旧東海道、国道1号線、名鉄名古屋本線、右側には東名高速道路と交通の要衝地である国道1号線に沿った脇道、民家の屋根も落ち新箱根入口交差点ここから南下すると蒲郡へ行くが、箱根のような山道を登るので新箱根の由来となる10:07旧道分岐点標柱には、左:東海道、右:国道一号ここまでの歩数は15,200歩旧道分岐点の案内板本宿の歴史と文化をたずねて ・法蔵寺(二村山浄土宗西山深草派) ・寺内史跡 ①六角堂 ②東照宮 ③その他 ④近藤勇首塚 ・本宿陣屋跡 ・一里塚跡 ・その他史跡10:11旧東海道を進み左上に、三河新四国、35番 法蔵寺、36番 勝徳寺手前の街道沿いに無人販売所「草創園芸」tel:0564-48-2539マコモダケ 100円 とは?ネットで調べるとマコモダケはマコモの根元にできる肥大した茎の部分を指す。このマコモはイネ科マコモ属の多年草で別名「ハナガツミ」とも呼ばれ、東アジアや東南アジアに広く分布し、日本でも全国の河川や湖沼の水辺に群生している。マコモはさながら巨大なイネといった様子で、草丈は2~2.5mにもなりますどのように食べるのかネットで調べるとマコモダケはさっと素焼きにして塩や醤油、田楽味噌や辛味噌又は塩+オリーブオイルなどで食べると非常に美味しいですと。炭火で焼くのがベスト、みそ汁にも10:13法蔵寺(ほうぞうじ)所在地:愛知県岡崎市本宿町寺山1701年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、1387年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。桶狭間の合戦以後家康は、法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。また、境内には新選組で有名な、近藤勇の首塚も祀られている御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだといわれる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。代々受け継がれてきたが、平成17年8月虫害により枯れた。その後、平成18年3月、四代目の松が植樹された。周囲の石柵は、文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である法蔵寺前の鉢地川に架かる来迎橋法蔵寺山門へ、手前左に大きな地蔵法蔵寺浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号し、本尊は阿弥陀如来像。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参拝者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。家康が幼児この寺で勉学したとされ徳川家ゆかりの宝物が多く残されている山門に掲げられた「浄土宗西山深草派 大神光 二村山 法蔵寺」山門を入って右側にある「三河新四国 第36番札所 浄土宗西山深草派勝徳寺」境内に洗濯物が干してあり山門の外から撮影境内に咲く花は?法蔵寺境内案内図本堂と鐘楼門本 堂本殿内、本尊:阿弥陀如来三河新四国、第35番 法蔵寺六角堂、右側手前にふじ棚、裏山に東照宮。六角堂には、六観音立像 弘法大師。空海が造立したと伝わる堂宇が起源。観音様が祀られている裏山へ上る「新選組隊長 近藤勇首塚」の案内登り右に折れると「新選組隊長 近藤勇首塚」新選組と親交のあった京都誓願寺の住職が、法蔵寺に移った縁でこの地に埋葬されていると伝わるが近藤勇首塚東京板橋で斬首された近藤勇の首は京都で晒されましたが、何者かによってこの地に運ばれ供養されたとも松平家御廟家康公が父の廣忠公(慈光院)をここに内葬し、のちに大樹寺に本葬。また、家康公により三方ヶ原の戦いの戦没者もここに祀られている松平家並び御親縁様方御霊廟(十基)三方ヶ原の合戦忠死者の墓(十八基)法蔵寺境内を望む東照宮家康公が戦勝祈願した境内の神社を起源とし、旗本の寄進により修復された本 殿入母屋:銅板葺 唐破風 極彩色文政3年(1820) 修復される文政4年(1821) 御遷座平成11年(1999) 大修覆された東照宮前の石段を下り本堂からの鐘楼門本堂と天然記念物 法蔵寺のイヌマキ胸高囲 2.44m、根囲 4.67m、樹高 12mに達する。行基菩薩が開山の際に植えたという伝承があり「行基開山の槙」と称されている岡﨑市指定文化財 天然記念物 法蔵寺のイヌマキ 天然記念物 法蔵寺の桜庫裡(朱印所)前から東照宮を見上げる本堂と天然記念物 法蔵寺の桜幼少の頃に法蔵寺で読み書きを学んだ「家康公お手植えの桜」と伝わるヤマザクラ。根周り 4m程ある幹の腐食跡が地面に残っており、往時は偉大な桜であったと思われる。現在はその腐食跡から生じた若枝が樹勢を形成している庫裡(朱印所)天上の骨組み弥次さんが御朱印を頂く法蔵寺境内から山門法蔵寺団子の由来この団子は、法蔵寺前の茶店で売られていたことから法蔵寺団子と呼ばれるようになった。現在では道の駅「藤川」で販売している法蔵寺名物は「捕り縄と団子」10:37旧東海道へ戻り鉢地川に架かる大正9年10月架橋の法蔵寺橋を渡る 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.06
コメント(0)
杉森八幡社の「赤坂の舞台」から岡崎市の藤川宿を目指して歩くが、約一里何もなくまた誰ともあわない街道をひたすら歩く。10/16(火) 8:51旧東海道(県道374号線)を進むと、左側の電柱に沿うように案内木柱が建つ。宮路山パーキングまで、3.2km木柱の上に「地蔵菩薩像(向称寺所蔵)秋葉山常夜燈が建つ8:55学校のグランドが見えてくる祝日翌日の登校日だが校舎は静かであった豊川市立音羽中学校8:58旧東海道(県道374号線)を更に進む右側に「除病 招福 開運毘沙門天王尊」の石柱連子格子の古民家だが表札がない9:00朝は寒かったが陽も上がり気温も上昇街道を先に進む9:03旧街道を歩いていると「大永山 榮善寺」と書かれた石柱大永山 榮善寺所在地:愛知県豊川市長沢町御城山弥次さんが石段の下まで行くが参道が荒れていたので引き返してくる。ネットで調べると大永山 榮善寺は、文永9年(1272)創建の浄土宗の寺院。弘法大師ゆかりのお寺で、盲いた子供の眼を直したという伝承が残っています。石段も急で、登った先もあまり整備されている感じがしないので、十分に注意をして参拝することをお勧めしますと9:06更に進むと「八王子神社」の石柱新旧の石柱があるが、電柱が邪魔だ!街道から南に100m程入ると、神社の石鳥居が見える。石鳥居の扁額は「八王子神社」閉鎖中なのか鳥居の手前に進入禁止のフェンスがあり、あきらめて引き返した。帰宅後ネットで調べると、このフェンスは猪対策の柵扉で中へ入れ、車で上まで行けるとのこと9:12民家の屋根越しに見える道路標識前方の高架は、東名高速道路「音羽蒲郡IC」からの三河湾オレンジロード9:13豊川市コミュニティバスの「八王子橋停留所 音羽線」乗車賃は100円で、1か月の定期券は1,000円と割安だ!9:14高架をくぐり、国道1号線の「音羽蒲郡インタ交差点」名鉄名古屋本線、東名高速道路も走り交通の要衝地か?このあたり「名電長沢駅」のMAP9:15旧東海道(県道374号線)を進む。住民のいない民家が並ぶ9:16街道左側に案内の木柱があり弥次さんが盛んに撮影長沢一里塚跡所在地:愛知県豊川市長沢町向屋敷木柱の上の絵図江戸から数えて77番目の一里塚である。道標のみで当時の痕跡はない9:19左側は音羽川9:20豊川市立長沢小学校所在地:愛知県豊川市長沢町午新88長沢城跡長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。東海道を挟んで南(御城山山頂)に?略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の前面を土塁や二重の堀が巡り、南側に出入り口があった。現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。また、寛永11年(1634)家光上洛のときに休憩所として建てられたといわれる御殿が長沢小学校敷地内にあった長沢城址の図 元禄12年街道を振り返る9:25旧東海道(県道374号線)の角に小さな地蔵が建つ9:26街道の先に誓林寺豊川市コミュニティバスの「誓林寺前停留所 音羽線」誓林寺横の駐車場で咲く「???桜」十月桜か?浄土真宗本願寺派 誓林寺の山門所在地:愛知県豊川市長沢町下市3誓林寺の本堂9:29旧東海道沿いに建つ石柱村社 巓神社の石柱と秋葉山常夜燈9:32旧東海道の緩い坂を上る。道路の制限速度は30km古民家がチラホラと9:36観世音菩薩の石柱があるが説明文がなく白い石柱と横に「磯丸の歌碑」か?秋葉山常夜燈と一対の祠祠の中に石仏9:39旧東海道(県道374号線)から国道1号線の関屋交差点ここで国道1号線と合流、この後1号線沿いに歩く御油、豊橋方面 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.05
コメント(1)
赤坂宿は御油宿と同じく小規模であるのに旅籠が62軒もあり、しかもほとんどが飯盛旅籠だったので、色街の風情が強い宿場だった。太田南畝は「改元紀行」で「御油より赤坂までは16丁にして一宿のごとし。宿に遊女多し。同じ宿なれども、御油は賤しく赤坂はよろし」と記している。10/15(火) 8:21旧東海道(県道374号線)の「赤坂紅里交差点」から振り返る8:23旧東海道を進む御油宿と近かったため宿泊客の争奪が激しく、飯盛女が留女となって通りに出て「泊まらせられい。座敷もきれい、相部屋もござらぬ。これから先に良い宿はないに、のう、のう」と旅人の袖を引いたむこうから女性二人の旅人が!往時の赤坂宿は夜遅くまで三味線と太鼓の音や女の嬌声が聞こえ騒がしかったので、宿内の向称寺で毎夜決まった時刻に鐘を撞いて騒ぎを止めるよう合図をした。広重の保永堂版『東海道53次赤坂』は飯盛旅篭の夕方の様子を見事に描いている。三河の幕府領(天領)を支配する代官所(赤坂陣屋)が置かれていた8:24旅篭・大橋屋(旧旅篭鯉屋)、西側に脇本陣跡所在地:愛知県豊川市赤坂町紅里旧東海道沿いで2015年まで営業していました。創業江戸中期とされる宿で、当時の旅籠の佇まいを残しています。現在は市が整備をしており、平成31年度から一般公開されているが、この日は時間が早く見学できなかった。開館時間:10:00~16:00入 館 料 :無 料 休館日:月曜日(国民の祝日は除く)、年末年始芭蕉も宿泊し句を詠んだと。歌川広重の浮世絵にも描かれている大橋屋(旧旅篭鯉屋)と脇本陣(輪違屋)大橋屋の江戸時代の屋号は「鯉屋」といい、一般の旅人が宿泊する旅籠屋を営んでいた。現存する主屋は、文化6年(1809)の赤坂宿の大火以降に建てられたと考えられている。大橋屋に残されていた間取り図によると、間口が狭く奥行の長い宿場町特有の敷地に、主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が並んで建っていた。明治11年(1878)の東海北陸巡幸のときには、明治天皇の行在所にもなった。鯉屋の西隣には脇本陣「輪違屋」があった。脇本陣は、大名や公家などの宿泊施設である本陣での宿泊が重なったときなどに利用された歌川広重「東海道五十三次 隷書東海道 赤坂」鯉屋の西隣にある「赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡」脇本陣跡に建つ「東海道『赤坂宿・御油宿』案内図」近くには名電赤坂駅大橋屋(旧旅篭鯉屋)の南側大橋屋(旧旅篭鯉屋)の間取り大橋屋建物は、文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられている。その後何度も改修され、間口6間1尺(約11.2m)、奥行7間(約12.7m)の主屋だけが現存する。大橋屋が所有していた間取り図によると、かつては間口8間7尺(約16.6m)奥行23間3尺(約42.7m)の敷地に主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が建っていた大橋屋(旧旅篭鯉屋)の南側に「赤坂代官所(陣屋)跡」天和3年(1683)代官国領半兵衛重次のとき、赤坂の大藪地内(よらまい館東)に代官所が設置され、三河国内の幕府領の大半を赤坂代官が支配するようになった。元禄2年(1689)、正法寺と浄泉寺の間(現赤坂保育園)に移され、寛政12年(1800)からは代官所の統合により、遠江国中泉(静岡県磐田市)代官所配下の赤坂出張陣屋となった脇本陣跡から旧東海道へ進む8:28脇本陣跡から西へ100m程歩き聖徳太子・見真大師「御蕉跡」の石柱ゲートボールをする人が集まり8:30正法寺(しょうほうじ)所在地:愛知県豊川市赤坂町西裏69真宗大谷派の寺院で創建は816年と伝わる古い寺である正法寺の文化財絵 画:六 幅彫 刻:二 躯工 芸:一 領、一 柄書 籍:八 幅天然記念物:ワビスケ 一樹、イヌマキ(雌雄) 二樹 本堂と鐘楼本堂の扁額「正法寺」正法寺のウラクツバキ(有楽椿)正法寺の山門御休処 よらまいかん8:34旧東海道(県道374号線)沿いにある「御休処 よらまいかん」所在地:愛知県豊川市赤坂町紅里140-1開所時間前だったが、係のおばさんに開けて頂くご案内東海道宿駅・伝馬制度 制定400年記念事業 平成13年 音羽町 の石柱赤坂陣屋跡(三河県役所跡)陣屋(じんや)とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが元禄2年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治2年(1869)再び大藪地内へ新築移転された。廃藩置県後、明治5年に廃止となったおとわ おすいマンホールに色付きなし8:43旧東海道(県道374号線)を進み、右側に石鳥居「郷社 八幡社」。この路地を入ると杉森八幡社へ通じる。左側に宮路山への案内表示:秋には「宮路山もみじまつり」 山腹に数千本ものコアブラツツジが自生しており、晩秋には山肌を真紅に染めま す。まつり当日には餅つきなどのイベントも行われます鳥居の足元に「赤坂の舞台」杉森八幡社の鳥居所在地:愛知県豊川市赤坂町西縄手15天照大神、誉田別尊を祀る大宝2年(702)創建の古い神社。舞殿の横に赤坂の舞台と呼ばれる芝居用の大きな建物がある。明治初年に建造された皿回し式回り舞台で、平成12年に改修復元された。本殿前に夫婦楠と呼ばれる楠がある。根株がひとつに見えることからその名が付いた。昔は神社の境内で相撲や歌舞伎などの興業が行われた郷社八幡社杉森八幡社の楠(夫婦楠)と拝殿推定樹齢約1000年と考えられる「杉森八幡社の夫婦楠」杉森八幡社境内・拝殿に向って左側前に、根株が一本化し二本に成長している楠。目通り6メートル、高さ約20メートル境内奥にある農村舞台明治5年に建てられた農村舞台が復元され、年1回、歌舞伎の公演が行われている拝殿右側の農村舞台の前に建設中の観客席豊川市伝統芸能支援事業『赤坂の舞台・伝統芸能公演のポスター』 開演:令和元年10月27日(日)午後0時30分 小雨決行 演目:みのり太鼓 (赤坂小学校5年生児童) 清元 申酉 (歌舞伎舞踊 さつき流) 弁天娘女男白浪ー稲瀬川勢揃の場ー (一宮南部小学校歌舞伎クラブ) 勧進帳 (金沢歌舞伎) 入場料は無料で、会場では豊川いなり寿司等販売公演に合わせて、農村舞台の前に「小屋掛け」と呼ばれる竹ドームの屋根が付いた伝統の観客席が再現される。当日この席で観たいものだが、生憎この日は私は海外旅行中、天気がよいことを祈る孟宗竹を組み合わせて観客席を工事中。これも伝統の技か!!!夫婦楠が巨木で境内が薄暗い別の入口の赤鳥居8:49旧東海道側の石鳥居 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.04
コメント(1)
国指定天然記念物に指定されている「御油の松並木」から、日本橋から36番目の宿の赤坂宿へ向かう。10/15(火) 7:52御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ東海道53次の35番目の宿場として繁栄しました。ここから東(既に歩いてきた所)の、かつては上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、今でも宿場町の面影を残す旧家が見られる。また、この御油町と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています天然記念物「御油ノ松並木」この松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。当初、600本以上あった松は、長い歳月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは、昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となりました松の木の葉が落ちており、電線が邪魔をしている松並木の左側に旧東海道(県道374号線)。国道1号線の渋滞から逃げて走る車が多く、狭いので怖い松並木の手前に「寛文元年11月21日 松平丹波守宿」、「御関札立掛場」。御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休先)となる宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入り口に縦三尺半(約1メートル)横一尺半(約45センチ)の板に宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長さ三間半(約6メートル)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言います十王堂十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことです。仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて次に生まれてくる所が定まるとされています十王堂の扁額この考えは平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広まりました。この十王とは、泰広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔大王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王のことで、十王が冠をつけ、道服を着て笏を持ち、忿怒の姿を示すのは道教の影響が強いことを表しています。この建物は明治の中頃に火災にあい再建されたもので、十王堂の創立年は定かではないが、江戸時代に描かれた絵図に印されていることから、古くからこの地にあった事は確かです7:55豊川市コミュニティバス「松並木東 音羽線 停留所」登校時間帯で先の歩道に、交通整理をする親たちが立つ先の台風19号で松の木の葉がたくさん落ちていた家康の命を受けた奉行・大久保長安により、亀の甲のような樹皮が特徴の三河黒松が植樹された枯れた松の古株、新しく植樹された若木。樹齢何年の松であろうか?コスモスも咲き矢次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木江戸時代後期の享和2年(1802)に十返舎一九が刊行した「東海道中膝栗毛」の舞台になっている御油の松並木である。東海道中膝栗毛では弥次さんが、喜多さんが御油の松並木の狐に化けて現れたと勘違いした場面があるが、明治のはじめごろまでは両側には竹藪があり、昼なお薄暗いところで狸や狐が出没し、夜はとても歩けなかったという御油宿から赤坂宿までの約600mにわたって、約300本の松の大木が並んでいます松並木沿い「御油松並木公園」赤坂宿へ8:03松並木の西側へたどり着く。松の巨木の下に石柱が立つ西側の松並木の入り口に「天王川」に架かる「一ノ橋」8:04御油の松並木の西の入口赤坂宿江戸方見附跡見附とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった『赤坂旧事記』によれば、寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。明治7年(1874)に取り壊された赤坂宿色付けられた「おとわのおすいマンホール」デザインは飯盛り女と蘇鉄8:07旧東海道沿いに「関川神社」所在地:愛知県豊川市赤坂町関川111火曜日はゴミを出す日なのか神社前には多くのビニール袋江戸方見附の先にある関川神社は長保3年(1001)の創建と伝わるが、由来・沿革はわかっていない境内にある、宝暦元年(1751)建立の芭蕉句碑。「夏の月 御油より出て 赤坂や」と詠んだ関川神社の楠この木は、楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29メートル、高さ25.7メートルあり推定樹齢は約800年であるといわれている。また、根元の空洞は慶長9年(1609)に宿の火事の際の飛び火で焼けた穴と伝わる旧東海道(県道374号線)を進む弥次さんは次の訪れる所をチェック8:13街道の南側にある「長福寺」所在地:愛知県豊川市赤坂町西裏99右の石柱には「信州善光寺出張所」と山門の扁額「三頭山」青空をバックに鐘楼長福寺本堂毎年8月に「豊川雨乞まつり」、歌舞伎役者の化粧をする寺本堂の扁額愛知県指定文化財「彫刻 観音立像」この像は、三河の国司であった大江定基が、愛人力寿姫の死を悲しみ、その菩提を弔うために寄進したとされる聖観世音菩薩です。平安時代の11世紀後半から12世紀前半に作られたといわれ、恵心僧都の作と伝えられています。像高190cmのヒノキの寄木造りで、当初は鮮やかな彩色が施されていましたが、現在ではほとんどの彩色も落ち、素木造りの様相を呈しています長福寺のヤマザクラこの木は、推定樹齢約300年で、幹の周りは目通り約3.3mあり町内で一番大きなサクラの古木です。この木について、幕末の頃、赤坂の代官所に努めていた役人の手紙の中に「長福寺の桜も満開になったでしょう。昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します」と記されています8:18旧東海道にもどり右側に「赤坂宿問屋場(傳馬所)跡」のポール赤坂宿問屋場は、間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)。瓦葺きの事務所は、慶長5年、徳川幕府の命令によって設けられた。人馬の継立、即ち、伝馬事務を取り扱い、問屋取締・年寄・帳付・馬差・飛脚役などの役人を置き、人足30人ほど・馬数10頭をつないで、即時の用に供した8:20旧東海道(県道374号線)の「赤坂紅里交差点」街角に観光案内板赤坂宿のまつり【大名行列】 杉森八幡社の祭礼は、現在は、十月の第二日曜日に行われている。 近年では小若連の子供たちによる子供大名行列も行われるように・・・・・【雨乞い祭り】 宮道天神社は、かつて嶽大明神といい、昔から雨乞いの社として知られています本陣跡本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。赤坂宿の本陣は宝永8年(1711)の町並図によると、四軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派なものであった赤坂宿の町割り高札場跡 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.03
コメント(0)
前夜は岡崎の旅友と英気を養い、今日は御油宿から岡崎宿を目指すが20km強の距離を歩く。今回が延べ日数22日目の道中記です。10/15(火) 5:34ホテルの窓から朝陽6:43ホテルで6時半から朝食を取り早々に出発。乗車予定が6:53のため急いで名鉄東岡﨑駅へ向かう。朝はひんやりとしていたが二人供短ズボンの半そで姿乙川に架かる明代橋の「明代橋北交差点」6:45明代橋から下流を望む、岡崎城が小さく見える「ようこそ、岡崎へ」の大きな看板6:48予定の電車に乗り遅れると30分後になるので急いで歩いた。名鉄線普通旅客運賃表名鉄は愛知県と岐阜県を基盤とする大手私鉄で、民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。営業距離数(JRを除いて)は、2000年以降赤字路線を廃止して、平成17年(2005)4月以降は近鉄・東部に続く3位である、駅数では近鉄に注ぐ2位となっている東岡崎駅から8駅先の「御油駅」までの切符を購入。消費税が上がる前までは400円であったが、410円に値上がり名鉄名古屋本線の豊橋・豊川稲荷方面の「普通 伊奈」6:53へ乗車御油駅は普通電車のみが停車。今日はこの後この区間を歩くのだが次の電車は7:21までない7:09車内は学生が多かった7:20 名鉄御油駅へ到着前回9/26にここまで来ていたので、今日はここから岡崎宿へ向けて歩く御油駅前の「御油宿・赤坂宿観光案内」豊川市観光案内7:26旧東海道へ向けて移動するが、まだ時間が早く人通りが少ない前方に県道374号線7:28県道374号線の音羽川に架かる新御油橋橋の高欄に銅板の浮世絵「東海道53次 御油」音羽川の上流側、左側に「御油の松並木資料館」、青戸橋新御油橋二級河川の音羽川当時は木造の橋で川岸に大きな木があるが音羽川の下流側の旧東海道に架かる御油橋豊川市の「あめ用マンホール」デザインは、かわいい傘とてるてる坊主おすい用マンホールデザインは、松並木、東海道膝栗毛に登場する狐7:37御油宿の説明板この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、わずか十六町(約1.7km)と東海道の宿場間では最も短い距離です。当初、両宿で一宿分の役割を果たしていた時期もあったようです。天保14年(1843)頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2軒は天保4年の火事で焼失)、脇本陣はなく、旅籠屋は62軒でした7:38旧東海道(県道374号線)を進むと「イチビキ株式会社 第一工場」所在地:愛知県豊川市御油町美世賜210名古屋市熱田区に本社を置く調味料メーカー事業内容:みそ、即席みそ汁、しょうゆ、たまり、夏つゆ、鍋つゆ、おこわ、釜めし の素、惣菜等の製造・販売工場の片隅にある???7:40旧東海道(県道374号線)に東林寺の案内表示 ← 50m旧東海道から南側に入り東林寺(とうりんじ)所在地:愛知県豊川市御油町今斉28浄土宗 東林寺室町時代の創建で、本尊の阿弥陀如来など多くの文化財があります。また、宿場の繁昌のかげで働いた飯盛り女たちの墓もある本堂の扁額「普益?」東林寺は、室町時代の中頃の永享年間(1429~1441)に龍月日蔵和尚によって創建され、当初「洞元庵」と呼ばれていました。本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されています。言い伝えによれば、この如来像は奥州に下る牛若丸(義経)と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏で、龍月日蔵和尚が当寺に移し、本尊として祀ったとされています。この寺には、徳川家康が二度も立寄っています。また、芝増上寺の管長祐天大僧正がたびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます本堂の鬼瓦7:45東林路の東側にある「清海寺」所在地:愛知県豊川市御油町河原畑15西国三十三所観音、九番札所 千手観音曹洞宗龍雲山清海寺本 堂清海寺から東林寺東林寺の白壁7:50旧東海道(県道374号線)に戻り、連子格子の古民家。街道の先に「御油の松並木」が見えてくる。北側を国道1号線が並行して走っており渋滞を逃れて、この狭い街道に車が多く入る7:52御油の松並木手前にある「十王堂」 御油宿から岡崎宿ー続く
2019.11.02
コメント(0)
姫街道の気賀関所から、前回の道中記で参拝できなかった「菟足神社」へ立ち寄り岡崎のホテルへ向かう。10/14(月) 15:27天竜浜名湖鉄道の気賀駅舎所在地:静岡県浜松市北区細江町気賀おんな城主井伊直虎に因んで赤色の天幕を張り、中華屋も営業しているのか15:30地震の神様として有名な「郷社 細江神社」隣接して「藺草(いぐさ)神社」があるが、藺草産業が気賀の町を救ったことに感謝して建てられた15:32姫街道(国道362号線)の「気賀四ツ角交差点」にある「史跡 気賀関趾」史跡 気賀関趾の石柱気賀は、天正15年(1587)本多作左衛門によって街道の宿と定められました。山手に土塁、南は堀川、東に関所と萱垣、西に石垣と矢来と枡形があり、その中に本陣、問屋場、旅籠をはじめ民家約百軒が町並みをつくっていました。気賀関所は気賀宿の東の入り口にあり慶長6年(1601)徳川家康により東海道本坂道の往来の取り締まりのために創建されたといわれます。関所の本番所は、はじめ茅葺でしたが、寛政元年(1789)に杮葺・切妻破風造り、狐格子・瓦棟に改築されました。嘉永7年(1854)に大地震で壊れたため葺きかえられ、昭和35年まで残されていました。現在の建物は関屋の正面に向って左の部分三分の一で下の間・勝手の間の部分です。屋根の切妻破風造り、狐格子が残されています。本番所の正面、街道をはさんで向番所と二層の望楼があり、周囲には堀と石垣、矢来が設けられていました15:40堀川城址 古戦場所在地:静岡県浜松市北区細江町気賀今川義元が桶狭間で戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦い落城した道路脇の手前の石柱には「首塚」とある井伊家ゆかりの地気賀駅近くに「おんな城主直虎大河ドラマ館」がある。なお、大河ドラマは平成30年1月14日に終了している15:43国道362号線の浜名湖岸を走り「菟足神社」へ向かう。遠くに東名高速道路が見えた16:00国道362号線の「東天王町交差点」を左折して豊川方面へ向かう16:24国道362号線と国道151号線の交差する「馬場町交差点」を左折して国道151号線へ16:33国道151号線沿いにある「五社稲荷社の大鳥居」国道151号の「宮下東交差点」ここを右折すると大鳥居をくぐり「五社稲荷社」へ。所在地:愛知県豊川市小坂井町欠山216:41国道151号の「宮下交差点」を右折して100m程先の左側に位置する目的地。菟足神社(うたりじんじゃ)所在地:愛知県豊川市小坂井町宮脇2-1式内 菟足神社(うたりじんじゃ)御祭神:菟上足尼命 創立:白鳳15年(686)穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく当地へ御遷座になった。当社の大般若経(585巻)は、国の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書(1176~1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた(弁慶が東下りのおり洪水のため渡河できず、滞在7日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた)なお、応安3年(1370)の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河国名所図絵に出ている菟足神社案内図菟足神社の祭神は「菟上足尼命」で無病息災・延命息災にご利益があると言いわれ、また八幡社は応神天皇で武勇の神として、武家から守護神として信仰され、徳川家康吉田城主からも篤く崇敬されました。また、当社地域内には五神が祀られていて、多くの人の信仰を集めています菟足神社の石鳥居菟足神社と徐福伝説今から2,200年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬蔡など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬蔡の島に向かわせた。しかし、出発してからその後の徐福一行の動向はわかっていない。ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。 一、熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り込み、その子孫が秦氏を名乗 っている。 二、菟足神社の創設者は「秦氏」ともいわれている。 三、菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる菟足神社貝塚この貝塚は、神社境内及び隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。故川出直吉氏は明治30年代から貝塚を発掘し、遺物の採集に努めていた。このため平井稲荷山貝塚とともに早くから学界の注目を集め、大正11年には京都帝国大学の故清野謙次博士が発掘調査をされた。また、最近では平成2年に町教育委員会が調査を行っている。出土遺物はほとんどが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の「押型文土器」と呼ばれる土器の破片である。・・・・・・・・・・拝殿と手水舎神楽殿拝 殿拝殿の右奥にある別宮八幡社三社:山住神社、金比羅宮、津島神社万福招来生木:お多福ズームアップ境内右奥にある宝庫大般若経(内版本九巻)五百八十五巻の重要文化財を収蔵する重要文化財指定書「大般若経(内版本九巻)五百八十五巻」4月例祭の「風まつり」三河手筒花火、仕掛け花火の発祥の地と言われています。悲しい伝説もあり、徳川家康の天下御免の話や武蔵坊弁慶の写経書など、いろいろな話のある神社です弥次さんが御朱印を頂くが、拝殿前に置かれたものを受け取ったため日付けがない(参拝日は9/26)駐車場から先日(9/26)に歩いた、旧東海道の才ノ木交差点方向を望む菟足神社の史跡と伝説【石の鳥居】 第一鳥居は、元禄4年(1691)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。 高さ4.5m、明神形【宿中島太神楽奉納 石燈籠 二基】【弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」】16:53旧東海道(県道496号線)に面した石鳥居。前回は弥次さんに遅れたと思いここまでで参拝せず菟足神社参拝後、車に乗り旧東海道(県道496号線)を車で岡崎へ向かう。16:54JR飯田線の小坂井踏切前回の道中(9/26)で横切った踏切である豊橋行きの電車が通過17:02旧東海道は国道1号線と並行して走り、途中で1国と合流「京次西交差点」へ。前方の高架橋は東三河環状線17:15国道一号線を岡﨑へ進む。到着後、岡崎の旅友との宴会を18時半で予約予定どうりホテルへ到着するが、予約が入っていないとのことで一悶着。予約してあるホテルが解り移動。18:23岡崎サンホテル所在地:愛知県岡崎市伝馬通り2丁目22ホテルのロビーに飾られていた刺繍の「岡崎城」今回はシングルルームを使用、一泊朝食付きで 5,000円到着後急いで準備し宴会場へ向かうがホテルから歩いて約10分。18:47岡崎に来るとよく飲む「世界の山ちゃん」所在地:愛知県岡崎市明大寺本町4丁目11二階に上がり18時から予約していたので、先に岡崎の旅友が待っていたビール、ほうじ茶をオーダーして再開に乾杯。10月24日から行く「ブルガリア・ルーマニア」の待合場所等の打ち合わせ。岡崎ではお決まりの「幼の手羽先」を二人前注文、一人前5本で480円×2手羽先のおいしい食べ方味噌味で美味しい「どて煮」も二人前注文、390円×2うずら玉子フライ途中コンビニで明日の昼のおにぎりとパンを買いホテルへ向かい、早々に寝る。21:30乙川に架かる明代橋の上からライトアップされた岡崎城を望むズームアップするが、手前にビルがあり明日から『御油宿から岡崎宿へ』をアップします。 岡崎へーEND
2019.11.01
コメント(0)
今回の目的地の一つである秋葉山本宮 秋葉神社を参拝後、豊川市にある菟足神社へ立ち寄り岡崎へ向かう。10/14(月) 13:58秋葉山本宮 秋葉神社上社から林道を下る。直進して国道152号線へ向かう、前方の橋は天竜川に架かる橋14:01国道152号線の「横山町交差点」を左に曲がり横山川&天竜川の橋を渡る 14:06国道152号線沿いの「道の駅 花桃の里」所在地:静岡県浜松市天竜区相津天竜川に架かる赤い橋の名は「夢の橋」14:13船明ダム所在地:静岡県浜松市天竜区船明国道152号線から船明ダムの堰を渡り、県道360号線へ台風19号線の豪雨で濁水に、撮影に夢中の弥次さん船明ダムは、天竜川の川下に位置するダムです。山間部のダムと違い堰堤の高さも24.5mと低くほぼ巨大な水門で堰止められている感じである。放流落差はないが、低く真っすぐ伸びた流れに迫力があるゴーゴーと勢いよく天竜川の下流側を望む14:16県道297号線の塩見渡橋の橋脚に『天竜川の源(すわ湖)よりここまで185kmです』と14:22国道362号線の天竜川に架かる「鹿島橋」所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島 秋葉街道14:49国道362号線を左折して豊川・三ヶ日方面へ進む。右折して県道320号線を北上すると以前行った奥山の方広寺へ14:52ここを右折して三ヶ日方面へ14:58豊川市にある菟足神社へ向かっていると、車窓から道路脇に「東海道三大関所 気賀御関所」の看板を見つける。岡﨑への到着予定に余裕があるので立ち寄ることにする「ようこそ 浜名湖へ」の案内板拡大すると。①方広寺 ②龍潭寺 ③竜ヶ岩洞 とあり、以前訪れた場所である気賀関所跡所在地:静岡県浜松市北区細江町気賀4577気賀関所は慶長6年(1601)に徳川家康によって創設されたといわれている。敷地は547坪(約1805㎡)で裏に竹藪117坪(約396㎡)、東側に冠木門、この門を入り正面となる北側に旅人を調べる本番所、南側に相対して牢屋が設けられていた向番所、さらにその南に遠見に使用された遠見番所、西側は町木戸門で気賀宿と接していた通行手形販売処(入所料)入 所 料 :大人 150円だが、70歳以上は無料開所時間:9:00 ~ 16:30 入所日:年中無休関所配置図冠木門(かぶきもん)この門は東御門又は大門と呼ばれ関所の出入口にあったもので毎日明け六ツ(午前6時)開門し暮れ六ツ(午後6時)に閉門した冠木門を入ると右側に「本番所」江戸時代細江町を東から西に横切っていた街道を東海道本坂越又は本坂道姫街道などと呼んでいました。姫街道の要衝であった気賀の地に徳川家康は早くから関所を設けて入鉄砲と出女の監視を中心に通行する人や荷物の取調べを行った。その後、箱根にも関所が設けられ気賀関所は、箱根関所、今切(新居)関所とともに東海道三大関所といわれ明治2年まで続いた本番所の中の間気賀関所の関守は、元和5年(1619)から明治2年の関所廃止まで、旗本近藤家が代々拝命した。番頭2名、平番4~5名が交代で取調べにあたった中央に番頭、両脇に平番本番所の東側の間近藤家の家紋のついた陣笠(丸之内抱鹿角)本番所には新居関所と同じような等身大の人形が座る御制札場と本番所気賀関所 制札制札とは関所取締りの原則を揚げたものであり以下のようなことが書かれていた。 ー 定 -一、通行人は関所の前で笠 頭巾をぬぐべきこと一、乗り物に乗ったまま通るものは乗り物の戸を開くこと一、鉄砲は定められた証文と照らし合わせて通すこと冠木門の右手前にある向番所向番所の女改め女改めとは女性を調べることで関所の役人が女手形に記されている、本人の年齢や姿が一致しているかを入念に改め特にあやしい女は体にふれて検査を行った天水桶(てんすいおけ)防火用に雨水をためておく桶御制札場と本番所、冠木門向番所の女改めの間から本番所向番所に設けられている牢屋遠見に使用された遠見番所から西方向の「町木戸御門」遠見番所から東方向雪隠(せっちん)雪隠に座る弥次さん姫様館全景姫様館:浜松市気賀関所資料館江戸期の乗り物(駕籠)、姫様道中などを表わした版画、中村本陣の宿札、手形など関所、宿場に関連した資料を展示しているこの乗り物(駕籠)は、姫様道中の姫様の駕籠として昭和62年(36回目)に新しく作ったものです。28年間使用してきて、傷みがめだつようになったので平成27年3月に化粧直しをしました。駕籠の重さは、およそ70kg。描かれている紋は、細江町?「みをつくし」ですこの乗り物(駕籠)は江戸期のもので、僧侶が使用したものです。細江町では、第一回目の姫様道中(昭和27年)から姫様の駕籠として使用していましたが、底が抜けて使用できなくなりましたこの乗り物(駕籠)は江戸期のもので、御典医(御殿医者)が使用した駕籠です。 *御典医 → 江戸時代、将軍や大名のお抱えの医者気賀宿の食事享保3年(1718)時の将軍徳川吉宗の生母浄円院が紀州和歌山から江戸へ向かう道中に気賀宿にも一泊しました。これはその時のお付きの役人たちに出されたと考えられる夕膳と朝膳を再現したものです夕膳と朝膳夕膳、二の膳、一の膳朝膳の、二の膳、一の膳御要害堀(ごようがいぼり)この堀は御関所警護の設備で、長さは390間(約700米)、この内作場通いの渡り場が二カ所ありこれ以外は一切立入を厳禁させられていた。ここを通るには定められた舟提札を持って出入りした。また、この堀では網打等殺生を禁じられていた町木戸御門この門は気賀御関所の西の入口にあり町木戸御門と呼ばれ、これより西に気賀宿の町家が続いていた町木戸御門前(西側)の土産店&休憩所気賀関所の石碑平成元年度ふるさと創生事業として、現存する史料を調査して、寛政元年(1789)初めて瓦葺に改築された気賀関所を冠木門、本番所、向番所、遠見番所、制札場、雪隠三ツ道具立、槍立、矢来などで再建し、等身大の人形を配置して当時を再現した冠木門を出る左に遠見番所、右に冠木門遠見番所気賀関所の東方向15:25気賀関所の冠木門を出る姫街道の気賀関所は予想外の訪問であった。 岡崎へー続く
2019.10.31
コメント(0)
秋葉山本宮秋葉神社下社から、気田川沿いの県道286号線を走り上社へ移動。10/14(月) 12:41気田川沿いの県道286号線12:44ここを右折して秋葉山本宮 上社へ天竜スーパー林道を7.5km登るが、観光バスはここから進入禁止13:02秋葉山本宮 秋葉神社上社の大鳥居所在地:静岡県浜松市天竜区春野町領家841大鳥居の前に大きな狛犬大鳥居に掲げられた「正一位秋葉神社」の扁額駐車場横にある案内板全国的に有名な秋葉山には秋葉神社と秋葉寺があり『火伏せの神』として全国から多くの信者が参拝に訪れる。秋葉神社は山頂にある上社と山里にある下社からなる。また、秋葉寺は秋葉山中腹にあり、ともに毎年12月15、16日に行われる「秋葉の火祭り」は多くの参拝者が訪れる秋葉山本宮秋葉神社(上社境内案内)13:05霧雨が降る中、石段を登り本殿へ向かう空撮の秋葉神社上社秋葉山境内でみられる野鳥(1)秋葉山境内でみられる野鳥(2)コジュケイ斜面には奉納されたモミジの木秋葉杉遠江を見はるかす秋葉山(海抜866m)は、千古の杉・桧がうっ蒼と生い繁り、上古より俗塵を離れ、神の鎮ります霊山と崇められてきました。この神域の大杉は、天然林を始め、古くは文明年間(1469~1487)より植林により育てられたものであり、秋葉杉と呼ばれています参道には常夜燈が立ち並ぶ正面に「西の神門」13:11神門手前の左側に樹齢650年の秋葉杉神門手前の左側に秋葉杉樹齢650年の秋葉杉は枯れているが根元から新芽が育っていた私たちは、古来より自然の恵みのなかで生活を行ってきました。あらゆる自然の営みのなかに神域を感じとり、自然への感謝を抱き、その自然との共生を願ってきました。・・・(中略)・・・・・ここ秋葉山では文明年間(1467~1487)より育林事業が行われ、この神門は古くから当地方で植林された杉だけを用いて造営されたものであり、古儀に倣い木の根と梢を大神に献り、御神恩に感謝申し上げ、更なる御神威の発揚を冀い、茲に西の闇の神門を建立するものであります西の神門神門の彫刻左側右側神門から神門をくぐり右側に左側に神門の左側神門の右側石段を登り本堂へ、左側に休憩処&秋葉茶屋神門を見下ろす秋葉茶屋&社務所右側の小屋の中では巫女さんがお札を販売手水舎手水舎手水舎から石段を登り幸福の鳥居昔 秋葉山に正一位の勅額を掲げた金銅の鳥居が建っていた。秋葉大神は火難を始め諸厄諸病の難を免れて幸福を恵む厄除開運の神徳がある。神徳は神意に沿った行為によって授かると信ぜられた。幸福を象徴する黄金で造った鳥居奉納して神にあやかり人々に幸福が与えられるよう冀ったのである。混迷の世に、人々の幸福を望み、昔に傚い黄金の幸福の鳥居を建てたのである右奥に神楽殿左上に本殿、右に神楽殿13:20本 殿本殿の彫り物展望台、ここの標高は866m天気が悪く眺望は今一であったが、雲海の上になる場合もあると展望台から天竜川(白色部分)袋井市の「エコパアリーナ」が見える本殿前から幸福の鳥居幸福の鳥居から降りる天狗みくじ(皿投げ) 500円天狗の皿投げ秋葉山には、むかし むかし 天狗が住んでいて皿を投げては願力を競っていたと云われます。あなたの願いを皿に書き幸運を開きましょう天狗皿投げみくじ初穂料は500円で、お皿三枚とおみくじ一枚お取りくださいとお皿にお願い事を書き、下の的に願いを込めて投げる的をズームアップ御朱印を頂く休憩処には食堂、お土産店がある13:45駐車場へ向かう 岡崎へ-続く
2019.10.30
コメント(0)
前回(9/24~9/26)に引き続き、東海道53次で岡崎へ出向いた。今回も、車を利用して岡﨑のホテルへ2連泊、御油宿から池鯉鮒(ちりゅう)宿を目指す行程を弥次さんに計画願った。10/14(月)の朝7時に弥次さんが自宅へ到着。西湘バイパスは台風19号の影響で全面交通止めになっていたので国道1号線を走る。岡崎への途中、静岡県&愛知県下でよく目にする秋葉山常夜燈の「秋葉山下社」へ参拝するためカーナビをセットする。8:10小田原市街地自宅を出た時は曇っていたが箱根に近づくにつれて雲が怪しくなる8:15国道1号線の「地球博物館前交差点」小雨が降って来る8:16この先を斜め左へ進行して箱根新道へ8:27箱根新道に入ると雨も激しくなる8:31箱根峠が近くなる箱根地区は先日の台風19号で、約1,000mm強のゲリラ豪雨がありほうぼうで被害が発生。箱根登山鉄道でも土砂崩れ等で復旧は年内以降だとのことだが、早期復旧を!8:32箱根峠を越え三島方面へ下るが、雨量が多いと通行止めになる。16日(水)の帰路は、登り途中で「緊急通行止め」になり御殿場へ迂回した8:38山中城址の北側(山中城バイパス)を下り、前方に駿河湾が見える。この辺りにパーキングがあると天気がよいと富士山もきれいに見れるのだが8:39国道1号線の山中城入口交差点、以前はこの交差点を左折して上る山中城入口交差点を通過すると、函南市街地ここも台風19号で甚大な被害が発生していたのだ駿河湾がきれいに見える8:41三島スカイウォークの塔9:12国道1号線の三島塚原ICから伊豆循環自動車道へ入り、長泉ICを降り国道246号線へ。この区間は無料区間でカーナビが案内。国道246号線の沼津IC南交差点を直進して進み、国道1号線との共栄交差点を右折9:54国道1号線の由比海岸辺りからの薩埵山9:55薩埵峠下の東海道本線と国道1号線10:48国道1号線(島田金谷バイパス)の大井川に架かる新大井川橋台風19号で水位が上がっているかと思ったが新大井川橋から北西方向の山斜面に「茶」の文字11:21国道1号線を進む11:27国道1号線(掛川バイパス)の西郷ICを降り北上、新東名高速道路の森・掛川IC前を通り森川橋西交差点を右折して県道58号線を北上11:50県道58号線沿いにある「春野いきいき天狗村」所在地:静岡県浜松市天竜区春野町堀之内1451-1昼前になり昼食も考えたが。猪・鹿の味付肉販売、当店自慢のソフトクリーム、どら焼き等々の幟お客さんは少なかったが、店内では郷土の産物等を販売していた魔除け秋葉の天狗 \2,750(税込み)ぬりえの紙があったので孫のために頂く昼食代わりに「春野名物 緑茶入り 生どら焼」を一個食べる店内に大きな「くまの親子」12:06県道58号線から国道362号線の若身橋交差点を左折して秋葉山本宮へ向かう12:12国道362号線から右折して、県道286号線に入り気田川を渡るとすぐに。秋葉山本宮 秋葉神社下社駐車場天竜奥三河国定公園「秋葉山麓」秋葉山本宮 秋葉神社下社所在地:静岡県浜松市天竜区春野町領家328-1『火伏せの神』として全国的に有名な秋葉山には秋葉神社と秋葉寺があり全国から多くの信者が参拝に訪れます。秋葉神社は山頂にある上社と山里にある下社からなる遠鉄 秋葉神社バス停一日に数本運行しているようだ秋葉山本宮秋葉神社 参拝案内図天竜川の上流に位置する神社で、新東名高速の浜松浜北IC、森・掛川ICからそれぞれ約30分から40分かかるズームアップ観光バスで参拝者が【御祭神】 火之迦具土大神 伊弉諾、伊弉冉二柱の神の御子で火の主宰神である【創 建】 秋葉山は、赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川の上流に位置し、山頂 に秋葉山本宮秋葉神社がを祀る。上古より火の神様の鎮ります御神体山として崇 敬され、初めて御社殿が建ったのは和銅2年(709)元明天皇の御製によるものと伝 えられる上社本殿の写真年中行事境内入り口から参道階段境内の奥に社殿境内の右に手水舎観光バスで多くの人が参拝社 殿社殿前から境内いつものように弥次さんが御朱印を頂く境内から参道へ火防霊場「秋葉山秋葉寺」案内図 (秋葉三尺坊大権現安置)秋葉寺まで 20km、車で45分、徒歩20分とは車では大回り?表参道を上ると徒歩で60分とあるが、意味が?12:23時間もあり折角ここまで来たのだから、秋葉山本宮の上社へ行こうかと。社務所で聞くと台風19号の影響もなく道も大丈夫で、約40分でたどり着くとのこと。もう二度と来ることがないので急遽、上社へ行くことに予定変更。秋葉神社上社には、この道(県道286号線)を約20km走る東海自然歩道県道286号を北へ上ると「秋葉寺(三尺坊)」「秋葉神社上社」に向います。美しく整備された集落の石畳を抜けて急勾配の山道となる参道を進みますが、滑りやすい個所があるので足元に注意と 岡崎へー続く
2019.10.29
コメント(0)
御油宿へ到着後、名鉄御油駅から豊橋駅の宿泊ホテルへ戻り、マイカーで自宅へ。9/26(木) 15:10二級河川音羽川に架かる御油橋。桜の時期に見たいものです御油橋の上から音羽川の上流を望む県道374号線に架かる「新御油橋」河川敷には彼岸花が咲き御油橋を渡ると旧東海道の片隅に「若宮八幡社」直進して「御油のマツ並木」へ1km、右に折れると「御油の松並木資料館」へ220m若宮八幡社所在地:愛知県豊川市御油町木ノ下57御油宿の入り口にある八幡さま15:15旧東海道は手前に進むズームアップすると「高札場跡」高札場とは、江戸時代に幕府や領主の法令・禁令などを墨書した板札を掲示した施設で、城下町や宿場など人目につきやすい場所に設置されました。御油宿の高札場は、この場所にありました分岐点の手前に「花・ベルツゆかりの地」花・ベルツ(1864~1937)は、明治政府がドイツから招いた医師ベルツの妻となった女性です。日本での近代医学の普及に尽力したベルツを支え、明治38年(1905)に任期を終えたベルツと共にドイツに渡りました。国際結婚の先駆けとして、ベルツ死後もドイツに残りましたが、第一次世界大戦の勃発などがあり大正11年(1922)に帰国しました。当地は、花の父親熊吉の生家で江戸時代に旅籠屋を営んでいた戸田屋のあった場所です。戸田家の菩提寺である西明寺(八幡町)には、花が建てたベルツの供養塔があります分岐点の隅に案内ポール直進すると「御油のマツ並木」へ700m戻ると550mで「御油の追分」「名鉄国府駅」へは1.4km分岐点から振り返ると左に「花・ベルツゆかりの地」今回の道中記はここまでとして、名鉄御油駅へ向かう。15:17旧東海道から名鉄御油駅の途中、県道374号線に道案内御油宿は、東海道五十三次の三十五番目の宿。江戸日本橋より七十六里(約300km)京都三条大橋まで五十里(約200km)県道374号線の表示板御油駅への途中にある「松並木資料館」へ向かう15:18御油の松並木資料館所在地:愛知県豊川市御油町美世賜183入館無料の一部屋だけのこじんまりした資料館で、入口に大きな松の切株がある開 館:10:00~16:00 休館日:月曜日・年末年始 入館料:無料東海道御油宿と松並木御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。ここから西の、かつての上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通り沿いには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され「日本の名松百選」にも選ばれています館内へ入り御油の松並木御油宿高札、右側に手筒花火江戸時代の赤坂宿のジオラマ江戸時代の御油宿のジオラマ文政年間医者の往診用駕15:28御油の松並木資料館前から、音羽川の青戸橋二級河川 音羽川青戸橋から下流の県道374号線に架かる「新御油橋」。河川敷に駐車場があり車が止めてあるが、最近の台風19号による堤防決壊等があり今後問題視されるか?堤防間は広いが、水の流れる川幅が狭い15:32御油駅の手前を走る国道1号線15:34名鉄御油駅ここまでの歩行数は38,000歩名鉄線普通旅客運賃表(大人・片道)豊橋駅まで300円、名鉄名古屋まで980円。次回は、東岡﨑から来るが400円、10月以降は消費税が上がるので値段はアップ?名鉄名古屋・東岡崎方面豊橋方面御油駅には普通電車しか停車せず、一時間に2本停車15:41新岐阜行きの特急が通過15:43急行電車も通過名電赤坂 ← 御油 → 国府(こう)15:47伊奈行きの普通電車が到着。乗車して隣の国府駅で乗り換えて豊橋へ15:50国府駅で特急豊橋行き電車に乗車特急電車が到着16:07豊橋駅から宿泊ホテルの東横インへ16:15ホテルへ到着、駐車料金は一時間100円であったが、追加駐車料金600円を支払い帰路につく。17:00国道1号線の浜名バイパスを走る。浜名バイパスは浜松市西区から湖西市を結ぶ、全線4車線の国道1号バイパスである。浜松:16km、静岡:93km、沼津:147kmの表示板弁天島赤鳥居かつては有料道路であったが、2005年に無料開放された。自動車専用道路のため、歩行者・自転車・原動機付自転車・125cc以下の二輪車及びマイクロカーは通行禁止となっている。弁天橋今年5月24日に舞坂宿から新居宿まで歩いた橋17:02自動車専用道路の法定速度は、100km/h17:29夕陽が沈み弥次さんが助手席から撮影浜松辺りの西の空途中国道1号線沿いの道の駅「掛川」で前回と同じように夕食をとる。自宅へは、一般道路を走り21:55に到着。今回の車の移動距離は560kmでした。さて次回はいつにするか。 二川宿から御油宿ーEND
2019.10.28
コメント(0)
のどが渇きセブンイレブンでビールを飲み、歩けるかどうか心配であったが?引き続き゚旧東海道(県道496号線)を歩き御油宿へ向かう。9/26(木) 14:10旧東海道(県道496号線)を横切る、二級河川の西古瀬川下流の左に白鳥生コン河川敷の草を刈っていたが、良い機械があるものだ上流側はこれからの作業になるのか台風シーズンに、このように雑草が河川敷を塞いでいると、より氾濫しやすいのではないかと心配になるが。河川敷には彼岸花も咲きSUMITOMO製のショベルが放置されていた14:19この先で東三河環状線に突き当たるので左へ迂回の表示板14:22弥次さんは右側に折れ、国道1号線の京次西交差点へ進む。この交差点を渡り御油宿方面へ進む。高架橋は東三河環状線14:25国道1号線を歩くが、この先で旧東海道に突き当たる国道脇の「道祖神」豊川警察署14:28旧東海道は左側の県道496号線から国道1号線の白鳥5丁目西交差点で合流する14:29国道1号線はここから岡﨑まで22km。次回はこの道を車で岡崎へ向かうのか14:30名鉄名古屋本線の白鳥跨線橋東。東三河ふるさと公園まで3km新東名、東名高速のインタ案内国道1号線の道路標識は江戸日本橋から305km地点白鳥跨線橋東下を名鉄が通過。このあと御油宿へ到着後、名鉄御油駅から豊橋駅へ乗車する跨線橋の上から実った稲穂を見る14:37旧東海道(国道1号線)の白鳥交差点を進む。国道1号線は道路脇に100m毎の標識があるので、100mの歩数をチェック。三万歩以上歩いていたが、100m/150歩≒67cm/歩であったが所要時間は?14:41旧東海道は、国道1号線の国府町薮下交差点を左折して県道374号線へ進む14:43国府天神&半僧坊大権現所在地:愛知県豊川市国府町薮下半僧坊大権現前から旧東海道(県道374号線)を進む14:44旧東海道の右側に秋葉山常夜燈形式は御中埾、高さ205糎、造上 寛政12庚申(1800)。秋葉三尺坊大権現はその昔、越後国蔵山より白狐に乗って遠州の秋葉山に飛来したいといわれ火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝廷、大名、庶民に至るまで、奥深い信仰をあつめられ、国府村民等も村内を火災より守るため、秋葉山常夜燈を造りました14:46旧東海道沿いに立つ「薬師堂瑠璃殿」所在地:愛知県豊川市国府町流霞97二子寺薬師堂。母親を亡くして悲嘆にくれる娘に、たまたまこの地を訪れていた行基上人が仏像を彫り上げて授けたことが縁起となって建立されたと伝わっています。しかし、お堂はありますがお寺は見当たりません三河国府中二子寺・薬師如来畧縁記お堂内豊川のマンホールのデザインは、松並と狐14:56旧東海道沿いの古民家の格子八平次記念館「八の蔵」旧東海道の先の「大社神社」の森が現れる御油宿の地名の由来は、持統天皇が近くの宮路山に行幸された際、村民が灯火用の油を献上したとの言い伝えによる。隣の赤坂宿までは16町(約1.8km)しか離れておらず東海道で一番短い宿場間である。宿の町並みの長さは9町32間(約1.0km)、人口1,300人ほどの宿場で女性のほうが3割も多かった。また小さな宿場にしては旅籠が62軒と多く、本陣が3軒もあった。本坂道(姫街道)の追分宿として繁盛したと言われるが、本当の理由は飯盛女が大勢いたからである14:57大社神社(おおやしろじんじゃ)所在地:愛知県豊川市国府町流霞5鳥居をくぐり大社神社へ宮司が常駐しており夏になれば数多くの手筒花火が奉納される由緒ある神社かつて、この付近に三河国府が置かれた。天元・永観のころに国司だった大江定基によって三河国の安泰を祈念して大国主命と三河国中の諸社の神々が祀られている徳川14代将軍の家茂が長州征伐に際して、慶応元年(1865)5月8日に戦勝祈願と短刀の奉納をした。左手にある社務所は寛政6年(1794)相良藩・田沼陣屋から移築された。裏手に第二次世界大戦で息子を亡くした夫婦が建てた戦死息子の碑がある15:00弥次さんも疲れたのか早々に大社神社を後にして旧東海道を進む15:02右側の電柱の下に石柱。旧東海道はこの先を直進するが、県道374号線は右斜めに進む電柱の下にある「御油 一里塚跡」江戸日本橋ヨリ七六里15:05右前方に「御油追分」所在地:愛知県豊川市御油町行力御油姫街道追分道標江戸から京に向かって右に分岐する道が「本坂道」。浜名湖北岸を迂回する脇往還で通称「姫街道」である。姫街道はここから豊川~嵩山~本坂峠~三ヶ日~気賀関所~市野~見付宿まで15里(約60km)の道程宝永4年(1707)の大地震と津波で今切渡しが中断したときは、姫街道に旅人が殺到し大混雑した。二基の道標と大きな秋葉山常夜燈が建っている15:06反対側の角に建つ現在の道標には「御油のマツ並木」 1.2km街道沿いの懐かしい「たばこ店」15:09旧東海道をさらに進む。天保年間に備前国で流行った歌に「御油に赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」とある。参勤交代の武士たちが、飯盛女が多くいたこれらの宿に宿泊するのをどれほど楽しみにしていたかがわかる俗謡である。名物は甘酒や白酒だったこの石柱は「???」15:10二級河川の音羽川に架かる「御油橋」 二川宿から御油宿-続く
2019.10.27
コメント(0)
豊川放水路を渡り御油宿へ入る。9/26(木) 12:43御油宿手前の旧東海道(県道496号線)を進む。才ノ木交差点辺りで、先を進む弥次さんの姿が見えなくなり、急遽電話をして位置を確認。直進しているとのことで先に進む才ノ木交差点の先の右側に鳥居があり。菟足神社(うたりじんじゃ)所在地:愛知県豊川市小坂井町宮脇2-1菟足神社の史跡と伝説【石の鳥居】 第一鳥居は、元禄4年(1691)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。 高さ4.5m、明神形【宿中島太神楽奉納 石燈籠 二基】【弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」】弥次さんを見失ったので境内には入らず、ここで旧東海道へ戻り街道を進む。後で確認したら弥次さんは既にこの奥へ進んでいたのだと12:49急いで旧東海道(県道496号線)を進む。JR飯田線の踏切、左方向は小坂井駅12:51急いで進んできたが前方に弥次さんを発見できず、再度電話をして位置を確認兎足神社にいるとのことでしばしここで待機することに13:06旧東海道(県道496号線)の宿西交差点この辺りは北西方面へ直線的に進み御油宿へ向かう13:08街道沿いの常夜燈旧東海道の南側に位置する浄土宗諏訪山 明光寺所在地:愛知県豊川市宿町光道寺46山門の扁額「諏訪山」本堂横の地蔵群13:09地境争いと五輪塔これは五輪塔の下の部分です。現在の小坂井町大字宿と豊川市蔵子とが、昔野川の川筋のことについて、たびたび争いがありました。当時、その地境に五輪塔があり、両方で奪い合ったという。現在、塔の上の部分は、豊川市蔵子にあります13:11古民家カフェ「もくせいの花」13:19伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)石碑は柵で囲われているが、電柱が趣を損なう1,茶屋の地名 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名 ができた。2,加藤家と良香散(りょうこうさん) 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では「良香散」という腹薬が 売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの 古井戸(南西30m)一つ残すのみとなった。3,明治天皇御旧跡 東京遷都の時、明治天皇はこの加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用さ れた箸が、牧野真一氏宅に保存されている。 4,俳人烏巣(うそう) 烏巣は加藤家の生まれで謙斎といい、芭蕉と親交があり京都で医者を務めていた5,芭蕉句碑 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」6,烏巣句碑 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」13:20迦貝土神社所在地:愛知県豊川市伊奈町茶屋旧東海道の北側に位置する神社である豊川の「おすいマンホール」マンホールが一回り小さい感ありあめのマンホール下水は分流式になっている13:25旧東海道(県道496号線)を進み「山本太鼓店」の看板諸太鼓製造販売・和楽器太鼓店のポール下に「伊奈一里塚跡」の石柱山本太鼓店所在地:愛知県豊川市伊奈町新町2休憩を兼ねて店内へ入る。大小の和太鼓が展示されていた手前のもので約10万円と高価店内から六代目の店主が出てきてパンフレットを頂く。慶応年間創業の弊店に受け継がれた伝統技術。さらに磨きをかけた技と厳選された材料に魂を込めた和太鼓は、伝統ある祭りや演奏活動にも、その響きは人々の心をゆさぶります。音、響きにこだわり続けて六代目となりますと胴長太鼓正面の太鼓は径が2メートル岡﨑市のある祭りでは、醤油樽にこれを張り付けて太鼓にすると13:34店先にある「伊奈一里塚跡」の石柱江戸日本橋より七五里13:36速須佐之男神社所在地:愛知県豊川市伊奈町新町鳥居から拝殿13:47旧東海道(県道496号線)を進み右に「冷泉為村郷の歌碑」この奥にありますと若宮白鳥神社遥拝所の石柱の右に「冷泉為村郷の歌碑」13:53名鉄名古屋本線「小田渕駅」、街道から400m13:54庭先の鳥は「天草大王」オスは鮮やかな色天草大王は熊本県内でのみ飼育生産されている肉用地鶏だがメスの鳥13:55朝から三万歩以上歩き、変化もなく疲れ&のどが渇いた13:56セブンイレブン 豊川桜町店へ飛び込み14:03弥次さんに了解を得、早速水代わりにビールをオーダー、店内にイートインコーナーがない為、店先で一気にビールを飲む。久しぶりにビールのおいしさを感じたが、これから歩けるかが心配 二川宿から御油宿-続く
2019.10.26
コメント(0)
全309件 (309件中 101-150件目)