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大野小学校前から街道を進む。2/22(土) 10:17小学校から数百メートル先の左側(南)に『浄土宗 明鏡山 長圓寺』の石柱長圓寺山門所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原77山門を入り本堂へ長圓寺本堂庫裡「竣工記念碑」長圓寺の由来はじめ長圓寺は禅宗にして明鏡山と号す。文明の頃、兵火に罹り堂宇消失す。其の頃伊勢参宮の僧之を見て悲しみ村民を集めて再建を謀り遂に一堂を建つ。天正7年(1579)禅宗を改め浄土宗となり安土浄厳院の末寺となり近世水口大徳寺の末寺に転ず。安政5年(1858)11月14日の夜火災のため堂宇消失す(甲賀郡史による)。その後再建され現在に至るまで約150年風雨風雪に耐えてきたが頓に危機感を憶える程に老朽化が進み護寺は甚だ難しく、檀信徒の願いをかなえるべく・・・・本堂の扁額「長圓寺」10:22右側の民家の庭先に石柱旅篭 吉野家跡街道左側には屋号『指物屋』東海道大野村 指物屋10:27旧東海道を進むと左側に『三軒家集会所』同じ敷地内に新しい社が建つ旧東海道をはさんで『三軒家集会所』の北側にある『大野公民館』中央に『鴨長明の歌碑』 「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらさきへ渡る 布引の山」布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。・・・・・・・・公民館の前に建つ「あいの土山観光案内図」はお疲れ気味街道沿いに建つ碑は『眞風軒(しんぷうけん)の漢詩』漢詩は『過土山即興』土山を過ぎて即興する。採茶の時節、事匁忙す。緑髄の青芽壮なり 僻郷に清風あり。一瀹、君知るや否や、遠きに到る。紅洋黒漠として香し。眞風軒(しんぷうけん)という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります赤茶色の旧東海道を進む旅籠 井筒屋左側に石柱旅籠 中屋 跡左側の民家の格子は新しい最近の格子は木製、アルミ製があった旅籠 日野屋 跡江戸時代の街道筋は旅籠が立ち並んでいたようだが、土山宿では飯盛女はいなかったと明治天皇聖蹟10:36安井酒造場所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原225お土産に購入したかったが、持ち歩くのであきらめる小さな酒蔵で直売している、酒は「蔵元 地酒 初桜」街道の向かい側(北側)にも『安井酒造場』、敷地内に『旅籠 金屋 跡』旅籠 田畑屋 跡10:38国道1号線に突き当たる右側に石碑がある石碑は『三好赤甫先生をしのびて』 師の訓を 座右の 銘とし 汗に生く三好赤甫旧跡三好赤甫(みよしせきほ)(1798~1873)は、待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。生家は代々魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嶬峨上田村の宍戸霞洲に就いて教えを請うた。その後、家業を子に譲って京都へ上がり、東福寺法主虚白禅師に就いて十年余り研鑽を深めた。その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。俳著に『窓あかり』がある。明治5年10月19日、75歳で没し、ここから北側の「若王寺」に葬られている。 碑銘「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく」三好赤甫の子孫が経営しているのか、『会席料理 みよし 赤甫亭』の看板。かなりの老舗であると、またいつの日か田舎への帰途に立ち寄るか!所在地:滋賀県甲賀市土山町大野2175交差点の角に地蔵像があり、石碑が石碑には「布引山・・・・・・」と刻まれていたが。素朴な大日如来の石仏?交差点に『若王寺』の案内板交差点から旧東海道を振り返る10:40国道1号線の大野交差点道路標識は、大津:43km、甲賀市街:7km、今日は後約7km程歩くのだ。旧東海道はこの交差点を渡り北側へ進む 土山宿~水口宿-続く
2020.04.23
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街道を進み土山宿の大野地域から岩上地域へ向かう。2/22(土) 9:50旧東海道南側に『諏訪神社』所在地:滋賀県甲賀市土山町市場146諏訪神社の参道綺麗に掃除跡が残っていた天気が怪しいのでここも入口だけでスルー参道横に咲いていた紅梅街道の角にミラー市場区 住宅案内図少々疲れ気味の案内図です街道右側に『浄土宗 長泉寺』『市場児童遊園地』9:53浄土宗 長泉寺(ちょうせんじ)所在地:滋賀県甲賀市土山町市場185山門前の左側に石碑『子安延命地蔵尊』長泉寺本堂本堂の扁額「光??」本堂前の観音堂?旧街道に戻る、この辺りも赤茶色の舗装道路10:00右側に『大野市場一里塚跡』の石柱ホテルを出てからここまでの歩行数は、9,500歩土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている一里塚を振り返る旧東海道を進む、前方に大日川に架かる大日川橋大日川橋の手前右側に『大日川堀割』の石柱前方に松並木大日川大日川橋橋を渡った左側に建つ『東海道 反野畷』の古い石柱大日川(堀切川)堀割往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。元禄12年(1699)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し領主堀田豊前守に願い出て許可を受け頓宮村境より延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703)に完成した大日川を渡ると『反野畷(そりのなわて)・松並木』へ寛永年間、幕命により東海道沿線に松が植栽されたが、明治21年、県庁より松と堤の処分法が発令され、この時多く伐採されている。畷とは、あぜ道のこと。国道1号線に「東海道松並木」の標識があったが本数は少なかった石柱には「従是東淀領」10:08街道の左側の石柱は『東海道 反野畷』街道を進む野洲川の下流方向小学校のグランドで子どもたちの声が。今日は土曜日で、野球の練習西の空は雲も厚くなり今にも雨が降りそうだが、どうにかもっている屋号は、東海道徳原村『ひょうたん屋 跡』街道右側に『花枝(はなえ)神社』花枝神社の祭神は大変多いが、往古から八王子権現、十禅師権現とも言われ歴史は古い。起源は平安時代後期の漢学者であった大江匡房が書いた本に、嘉祥3年(850)4月に喜多兵官という人が、坂本の日吉神社の八王子社、日吉十禅寺の分霊を勧請して二社の社殿を建立し、江染寺の名木を移植した。その名木の花の美しさから花木堂と名付けられた。社殿は天正6年(1578)と延享2年(1745)に再建されている。花枝神社の社名は明治26年(1893)からである。祭事は神輿の渡御で、山本神社まで巡行する小学校の前の広場に『シーボルトとトキの剥製』シーボルトはオランダ商館医として文政6年(1823)に長崎に赴任し、医師として活動する傍ら西洋医学を始めとする蘭学を日本人に教えた。当時オランダ商館長は四年に一度、江戸に赴き将軍に拝謁する義務があり、文政9年(1826)の江戸参府にはシーボルトも随行した。日本に関心が高かったシーボルトは道中で植物や動物を採集し、また日本人絵師に生物や風景なども写生させていた。3月26日には土山に宿泊したが、その途中の大野村でトキの剥製を買い求めた。また鈴鹿峠ではサンショウウオも買ったと記されている。2年後に発覚したシーボルト事件では幕府の禁制に反したとしてシーボルトは国外退去させられるが、トキの剥製などの収集品はオランダに送られた。現在もこの剥製はライデン市の自然史博物館で展示されているが、日本を代表する鳥だということで大英博物館からニッポニア・ニッポンという学名がつけられている10:14甲賀市立 大野小学校所在地:滋賀県甲賀市土山町大野949明治6年(1873)に崇道学校と敬業学校として開校し、後に大野西と大野東の尋常小学校となる。明治42年(1909)に合併し、校舎を新築し大野尋常高等小学校となった。その後、校舎整備が行われ、4列の校舎が、東西に平行して並んでいた。また、同窓会館は昭和3年(1928)に建築された。南から3列目の校舎であり、昭和52年(1977)の校舎改築時に曳き屋され、現在の位置となった小学校の隅に「昔の気分をあじわいませんか、心安らぐ東海道」10:17小学校から数百メートル先の左側(南)に『浄土宗 明鏡山 長圓寺』の石柱 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.22
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瀧樹神社をスルーして旧東海道を進む。2/22(土) 9:26瀧樹神社入口から前方右側にある社赤茶色の旧東海道を進むこの古民家の屋号は東海道 前野村 『聴松園茶舗』S カーブの街道を進む街道沿いの民家の梅が満開9:32瀧樹神社の石柱が再度建つ入口が二カ所あるようで、こちらには駐車場があったので、こちら側が表参道か瀧樹神社の由来この神社の由来は、約2000年前からの神聖なる地として知られている神社である。倭姫命が巡行された時、この場所に朝夕の調膳の殿舎を建立された所であり、さらには斎王群行の斎王が禊をされた川が近くにある。平安時代の仁和元年(885)に伊勢国、瀧原宮の長由介の宮の御祭神、速秋津比古之命・速秋津比咩之命の御分霊を勧請して本社の主祭神としている神社である。室町時代の文明2年(1470)には、当時の領主であった岩室主馬頭家俊と云う人が京都北野天満宮の御祭神で学問の神と云われている菅原道真の御分霊を勧請しそれを本社に遷宮され、並宮として祭祀されている。また延徳元年(1489)には現在国の選択無形民俗文化財に指定されているケンケト踊りがはじめて奉納され今日に至っている本殿まではここより200m先。平成17年(2005)には本殿・拝殿が大改修新築され同時に境内の全面的な整備がなされ、神社の一層の荘厳さを増している(写真から)街道を進む、屋号は『油屋 佐右衛門』9:35街道右側に『福慧山 地安禅寺(ぢあんぜんじ)』所在地:滋賀県甲賀市土山町前野529-1禅宗の黄檗宗で、総本山は京都宇治の万福寺。往古聖徳太子が建立したが兵火にあい焼失。江戸前期に日野の正明寺住職により再興された 築約280年の鐘楼門林丘寺宮御植栽の茶後水尾法皇の木像が納められている御影堂が境内に建てられた頃、この鐘楼門前の参道両側には林丘寺宮が茶の木を植栽され、毎年一、五、十月にはここで収穫された茶葉が鈴渓茶・仁泉茶の銘で林丘寺に献納されていた。この茶畑は昭和の初めまで栽培されていたが、現在ではここにある一樹のみが記念として残されている地安寺と後水尾法皇後水尾法皇(1596~1680)は地安寺を開山した龍渓和尚に深く帰依され、その関わりから崩御の後、皇女の照山元遥尼(1634~1727・出家前の名は朱宮光子内親王)から法皇の木像と位牌が地安寺に下附された。また地安寺には特に金毛院という院号が授けられ、法皇の三回忌には尼直筆の観音経が納められた。法皇は京都の修学院離宮を造営され、その隣には光子内親王の山荘が建てられていたが、法皇崩御の後に林丘寺という尼寺に改められ、内親王は出家された。林丘寺は尼門跡寺院として後には音羽御所とも呼ばれた。またその寺名から照山元遥尼は林丘寺宮とも呼ばれ、和歌と画に長けた方であった手水舎、本堂左に御影堂、正面に本堂御影堂前野の地安寺には、後水尾法皇の御影御位牌が安置されている。後水尾法皇は慶長元年(1596)、後陽成天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16歳の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で天皇になられたが寛永6年(1629)、明正天皇に皇位を譲られ、34歳で上皇になられた翌年、御生母中和門院が56歳で崩ぜられ、この頃から法皇と禅僧のかかわりあいは一層深くなられた。特に地安寺開山の龍渓禅師への帰依は深く、宇治黄檗開山にあたっては、龍渓和尚を通じ、地位も名誉も放棄して大事業に邁進された。遂には龍渓和尚の禅法をつがれたが、延宝8年、85歳の高齢で逝去された。元禄11年(1698)、普明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、その安置所として宝永5年(1708)地安寺境内に建立された。*説明板は「御水尾法皇」「御陽成天皇」とあったが「後・・・」の間違いでは?本堂から鐘楼門を望む本堂前の『子安地蔵尊』本堂の扁額9:39雨がパラパラと落ち始める、地安寺を後にする民家の軒先では風に揺られて街道を進むが、右側の古民家は住民不在か一部屋根が壊れている屋号は『米屋』この辺りの住所は、東海道頓宮村(現 土山町頓宮)道路標識は ← 長泉寺 0.5km、地安寺 0.2km → 国道1号線の頓宮(TONGU)交差点旧東海道の北側を国道1号線が並行している民家の匠の技旧東海道を進む街道沿いの民家の庭古民家街道脇に『御場泉(おんばせん) 入口』の案内板自然エネルギー活用事業小水力発電装置設置場所 大野地域自治振興会所在地:滋賀県甲賀市土山町前野420旧東海道から南側へ坂を下ると『御場泉』滋賀県の代表的な湧水で、天照大神の御神霊に供えられ、また倭姫命の飲用水として献上したと。現在はこの湧水を利用して、地元自治振興会が小水力発電としてる御場泉の湧水幅30cm程の小型の水力発電水の流れで羽を回して発電、照明用のLEDを点灯している街道脇のネットの中はブルーベリーの栽培か?9:47左に『垂水頓宮御殿跡』の石柱垂水頓宮御殿跡伊勢神宮に伝わる『倭姫命世紀』によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる 土山宿~水口宿-続く
2020.04.21
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今にも雨が降りそうな中、水口宿へ進む。2/22(土) 8:43国道1号線沿いに建つ、『御代参道(ごだいさんみち)道標』、水口方面。土山宿を横切る国道1号線の脇に二基の道標が建っている。「高埜世継観音道」と刻み、天明8年(1788)設置された。高埜世継観音とは近江の多賀大社へ行く途中の永源寺観音堂のこと。もう一基は「右北国 たが街道ひの八まんみち」と刻み、文化4年(1807)に日野の豪商が設置した。皇族が派遣した代参の使者が通ったので「御代参道」の名が付いたこの道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還である。この道は中世においても重要な間道であったが、正式な脇街道として整備されたのは17世紀のことである。寛永17年(1640)三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった(この案内板の設置場所から、最初の左、右は反対になります)国道1号線から北側の御代参街道へ少し入ると『見性庵廃寺跡』の石柱8:48旧東海道は国道1号線の北側を進み案内板。『ようこそ「歴史の道」東海道へ』ここは土山町滝町です。これより東海道は、往時、野洲川を横切っておりましたが、現在は通行できません。図に示すとおり、国道1号へ迂回いただき、「歌声橋」をお渡り下さい。土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りいたします8:55旧東海道が寸断されているため国道1号線へ戻る。この先を横断して斜め左方向へ8:57右側は国道1号線旧東海道の迂回路に親切な目立つ案内板、この先へ、足進めれば歌声橋、のんびり歩こう旧東海道。これより三キロ先に松並木前方に歌声喫茶ならぬ『歌声橋』9:00人と自転車のみが通れる『歌声橋』国道1号線の上流側に架かる白川橋。 上流にはロックフィル式の『青土ダム』があり「世界でも例のない形をした洪水吐」は必見と!野洲川の下流側は渓谷美。歌声橋の下流側の直ぐ左から、田村川が合流する9:05国道1号線の交差点を横切り、迂回路から旧東海道へ進む、廻りは土山茶畑道路脇に石柱があり何か刻んであったが9:07この先の右下が『松尾の渡し場跡』この下が野洲川の『松尾の渡し場跡』松尾の渡し場跡から坂を登ると左側に碑。碑には鈴鹿馬子唄が刻まれていた。「坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山雨がふる」坂道を上り旧東海道を進むあいの土山マラソン街道を進むと茶畑の中から鳥の声、しばし立ち止まり撮影「ホオジロ」?9:14甲可日雲宮(かふかひくものみや) 東の宮倭姫命が諸国巡行された時、この地に4年間滞在。数百人の随行員が長期間生活するのに最適な場所だったと思われる。郡内各所へ足を運び、田村神社にも関っていたと思われる先程渡った歌声橋方向9:17史跡 垂水頓宮址所在地:滋賀県甲賀市土山町頓宮静かな杉林を進む前方に小さな社が現れる伊勢神宮遥拝処右側の立札には「賜 伊勢神宮遷宮古材」世にふれは 又も越えけり鈴鹿山 廿日の今になるにや あるらむ右は醍醐天皇の第四皇子重明親王の長女斎王徴子(きし)女御の歌である。(注) 徴子女御は斎王として天慶20年(938)に僅か9才で伊勢へ下向されたこの時、ここ垂水頓宮に 御宿泊なされ、又貞元2年(977)に斎王に卜定された娘である村上天皇の第四皇女規子内親王 に母として付添い49歳のときに再び伊勢群行に同行され、ここ垂水頓宮に二回目の宿泊をな された節にこの歌を詠ぜられた斎王垂水頓宮址ここ垂水斎王頓宮跡は、斎王が群行でお泊まりになられたところである。斎王制度は、今から約1300年前制定されたもので、歴代天皇がご即位されるたびに、未婚の皇女または女王の中から占いで選び出された『斎王』を天皇のご名代・天照大神の御杖代として多くの神々をお祭りする制度であった。平安時代仁和2年(885)京都から伊勢を結ぶ大道『阿須波道』ができ、翌886年平安京から五泊六日の群行となった。近江の国は勢多・甲賀・垂水、伊勢の国は鈴鹿・壱志の五ヵ所である。ここ垂水頓宮には378年間に31人の斎王が泊まられたという記録が残されている。斎王が宿泊されたところを『頓宮』といい、仮の宮とか、にわかの宮を意味する。群行が行われるたびに建造され、終わるとすぐに解体されたので遺構が残らず所在地の限定に困難をきわめた。この垂水頓宮跡は、昭和10年に当時の内務省から派遣された学者たちが現地調査した結果、頓宮跡地であることが実証され、昭和19年には文部省より唯一の国史跡として指定された。現在は周りを囲う土手・井戸跡が残っている。また、平成10年から『あいの土山斎王群行』として群行を再現し、顕彰に努めているここ垂水の頓宮建立跡地は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約380年間31人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖である天照大神の御神霊の御杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった9:21国道1号線沿いに建つ『史跡 垂水頓宮跡』9:22国道1号線の前野交差点この交差点を左へ進むと、新名神高速道路「甲賀土山I.C」へ至る前野交差点を振り返る、右の森は「垂水斎王頓宮跡」赤茶色の旧街道を進む9:25瀧樹(たぎ)神社所在地:滋賀県甲賀市土山町前野155鳥居の扁額は「瀧樹神社」この神社には、次の二つの宮が祭祀されている。 一、瀧樹大明神宮 一、天満宮この神社の祭礼日は、毎年5月3日で当日は、国の選択文化財に指定されているケンケト踊りをはじめ花奪神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭である。平成17年に本殿・拝殿が新築され同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している 天気も悪く境内まで時間を要するので参拝せず 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.20
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土山宿本陣跡から町並みを今日のゴール水口宿へ進む。2/22(土) 8:21国道1号線の土山支所交差点から南(一の松通り)にある『大黒屋公園』大黒屋公園にある句碑「土山や 唄にもうたう はっしぐれ 蘭更」 作者 高桑蘭更(たかくわらんこう) 俳人 亨保11年(1726)~寛政10年(1798)加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。生家は屋号釣瓶屋という商家。本名忠保(または正保)、通称は長次郎。俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献、後年医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績を上げた。俳風は温和高?。門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する旧東海道の北側にある大黒屋公園には、『大黒屋本陣 跡』『土山宿問屋場 跡』の石柱が立つ大黒屋本陣土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。土山本陣は、寛永11年(1634)三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施工以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる明治天皇聖蹟の石柱奥に神社の座大黒屋公園に西側には『巖稲荷神社 跡』『巖稲荷神社 跡』の石柱旧東海道に左側に『土山宿陣屋跡』陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。ここ土山宿の陣屋は、天和3年(1683)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛のときに建造されており、瀬古川の東崖にあり、東西25間、南北30間の広さがあったといわれる。以降代官は入れ替わったが、宝永3年(1706)からは多羅尾四郎右衛門に、そして、明和8年(1771)より岩出陣右衛門らに引き継がれ、天明2年(1782)より、再び多羅尾氏に引き継がれていたが、寛政12年(1800)の土山宿の大火災で屋敷は類焼し、以後再建されず、120年の屋敷の歴史を閉じた。以来、陣屋は信楽に移り、多羅尾氏の子孫が世襲し、明治維新に至っている旧東海道を進み前方の両側に白い塀らしきものがズームアップすると撮影に夢中の弥次さん吉川に架かる「大黒橋」であった鈴鹿馬子唄「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」鈴鹿馬子唄「鈴鹿山には 霞がかかる 可愛いい娘にや 目がかかる」8:26左側の民家の壁に「 ← 臨済宗 常明寺 約100mの所に寺の門があります」の案内板旧東海道から南側へ進む石柱には『開基元明天皇 國寶大般若經 常明禅寺』8:28南側から『常明寺』所在地:滋賀県甲賀市土山町常明寺臨済宗東福寺派の寺院。和銅年間の建立と伝えられ、貞和5年(1349)鈍翁了愚が九条経教の命を受け中興した。一時兵火により焼失したが、延宝年間(1673~1681)に再建された。当時の住持であった松堂慧喬(号虚白)(1773~1847)は俳人としても活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。境内には芭蕉の句碑「さみだれに 鳰(にほ)のうき巣を 見にゆかむ」がある。寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている山門の左手に建つ石碑禅俳僧虚白住寺跡 他禅俳僧虚白住寺跡虚白は、僧名を松堂慧喬といい、安永2年(1773)、京都の神官の子として生まれ、少年時代を常明寺で過ごした後、京都や鎌倉で雲水生活を送りました。この修業時代に俳諧を志し、京都で芭蕉堂を営む高桑蘭更の門人となり、桜井梅室らと交流しました。文化4年(1807)、常明寺十五代住持職となり、寺門の興隆と檀家の強化に意を注ぐかたわら、俳人として活動し「浮巣社(うきずしゃ)」を主宰、三好赤甫など多くの門人の指導にあたりました。また、南土山の五瀬に草庵を結び「煨芋軒(わいうけん)」と名付けて隠遁生活を送り、禅俳一如の境地に至りました。後、天保6年(1835)に東福寺、天保14年(1843)に南禅寺の住持職に任ぜられ、紫衣を赦されるまでになり、弘化4年(1847)74歳で東福寺にて亡くなりました。辞世句 「おほけなき 床の綿や 散り紅葉」森鴎外と常明寺鴎外の祖父白仙は、石見国津和野藩主の参勤交代に従って江戸へ出たが、帰国の際に発病し、ここ土山で病死した。万延元年(1860)11月7日である。鴎外が土山を訪れたのは、明治33年3月2日、祖父白仙の墓参のためである。遺骸は常明寺の墓地に葬られた。鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、明治33年軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、常明寺を訪れた。荒れ果てた墓を探し当てた鴎外は住職の固道に願い出て、墓を境内に修した。明治39年に祖母きよが、大正5年には母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。鴎外は祖父母と母の遺跡に心を尽くし「維時大正7年3月新添 施主東京森林太郎」と墨書きされた錦の緞帳を寄贈している。昭和28年、三人の墓は津和野の永明寺へ移されたが、今は昭和63年に鴎外の子孫により建立された供養塔が立っている鐘 楼常明寺本堂常明寺由緒山 号 : 瑞宝山 常明寺宗 派 : 臨済宗 東福寺派本 尊 : 阿弥陀如来沿 革 : 43代女帝元明天皇が、先帝文武天皇の菩提の為に建立、和銅7年完成。鎌倉期を経て正平4年 (1349)東福寺聖一国師の法孫鈍翁了愚禅師が関白九条経教の請により五瀬の地より現在地に 移転。禅師は茶の製法を伝え土山茶の茶祖と云われる。・・・・・・・・・ 8:33旧東海道へ戻る。土山宿の旧東海道は赤茶色に舗装されている屋号は『灰屋 跡』何の商売であったのか、灰に係わる?炭屋でもないし屋号『千切屋 跡』上には、株式会社 水谷実商店 カワサキ製茶機械・シズオカ乾燥機・フルタ防霜システム・水道配管工事・土山茶製造販売 とお茶に関する機械を販売している。東海道五十三次は静岡県下を歩いてきたがお茶どころが多かった相変わらず人通りが少ない町並み情緒ある街路灯現在地は土山宿の右で、間もなく土山宿も終わり右側に『旅籠 常盤屋』の石柱8:40国道1号線の南土山交差点から街道を振り返る、左は国道1号線角に常夜燈(万人講)と松が植えられており立札が東海道土山宿土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第49番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた国道1号線の南土山交差点同交差点からの水口方面は曇り空、今にも雨が降りそうだ。前方右側に『御代参道道標』が建つ同場所から、鈴鹿峠方面を振り返る 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.19
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延べ日数29日目の弥次喜多道中記です。今日は午後から天気が崩れるとのことで雨具を用意して出かけることに。2/22(土) 6:24グリーンヒルサントピア所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1朝食前に外へ出ると多少肌寒かった6時半から朝食、7時10分にJR貴生川駅までのタクシーを依頼する朝から酒のつまみか?朝食後、愛車をホテルへ預けタクシーでJR貴生川駅へ。愛車の施錠を忘れたことに気づきグリーンヒルサントピアへ電話、係の方に施錠をお願いする。7:15JR貴生川駅前のバス停、昨夕もここへ降り立った7:30発のバスに乗車、今日は土曜日で休日乗客も少なく近江土山駅ターミナルへ7:59バスは国道1号線を鈴鹿峠方面へ、またこの道を歩いて帰ってくるのだと思いながら進む、昨夜JR関駅から車で走った道でもある国道1号線の土山支所前交差点にある『平成万人灯』自然石の石灯籠では日本一の大きさで、国道を往来する人々の安全を願っている。石種:白御影石、高さ:9.33m(基礎上)、重さ:156.8トン土山支所前交差点平成万人灯は、夜間は火袋が点灯すると同時にライトアップされ、街道を往来する車や人達の道しるべとなっている8:03近江土山駅バスターミナルへ到着8:07伝馬館から旧東海道へ開店の店の屋号は『八百屋』で今でも八百屋大きな金魚も8:08右側は家がないが屋号は『平野屋 善右衛門跡』『大内屋跡』右手前の『平野屋 善右衛門跡』右手二番目の『大内屋跡』しっかり修復保存されている屋号の『油左』間口が広い古民家何を扱っていたのか屋号の『油左』の西側に『問屋宅跡』の石柱が立つ土山宿問屋宅跡近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものであった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした修復中の建物の前に石柱は『土山宿本陣跡』土山家本陣跡土山宿は東海道49番目の宿場で、起点の江戸日本橋より約110里、終点の京三条大橋まで約15里の位置にある。土山家本陣は寛永11年(1634)徳川三代将軍家光が上洛する際に設けられた。現存する土山家文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代は甲賀武士土山鹿之助であり。三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めた。本陣は当時の大名、・・・・・中略・・・・・・、当家には当時使用されていた道具や宿帳など、貴重なものが今も数多く保存され、特に宿帳は江戸時代前期から連綿と書き記されており重要な資料である。幕末から明治初期にかけては、宮家が東西の往来の途次、土山宿に休泊されることもあり、なかでも明治元年9月の明治天皇行幸の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、近代日本としては初めての天長節が祝われた。この時には土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。幕末期に参勤交代がなくなり、さらに明治3年(1870)には本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役目を終えた今でも「土山」の表札土山宿に二軒あった本陣のひとつ土山本陣は、東海道に現存する三本陣のなかで、子孫が住んでいる唯一の本陣である8:11土山本陣の西側に『明治天皇聖跡』石碑には漢詩(明治天皇誕生日祝いに関する)が刻まれている漢詩の読み石碑の漢詩は、大正3年佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年9月22日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである街道左側には『旅籠 俵屋 跡』の石柱続いて『山形屋 跡』の石柱、右前方にも石柱は『旅籠 近江屋 跡』旅籠が多いが飯盛女はいなかったと土山中央公民館・お茶のみホール所在地:滋賀県甲賀市土山町南土山甲406旗を上げて撮影の弥次さん『旅籠 山田屋 跡』8:17土山中央公民館前の『林羅山の漢詩』石碑の説明板作者、林羅山は徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者で、号を道春という。家康没後の元和2年(1616)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行文『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある館内の展示品土山中央公民館を出て8:19土山宿町並み案内図現在地は、黄色の矢印『大黒屋公園』手前東海道五拾三次 土山 春の雨日野屋石柱は『旅籠 中嶋屋 跡』8:20古民家は『岩田屋 跡』 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.18
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引き続き伝馬館で管理のおばさんと雑談、今日のゴール「土山宿伝馬館」近くのバスターミナルへ行きバスでJR貴生川駅へ。2/21(金) 15:42東海道 伝馬館所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山1570開館時間昨年来ているので係のおばさんと談笑。弥次さんは二階へ土山名物の『かにが坂飴』お土産に一個購入 450円あいの土山 ~ 峠を越えて ~土山を称した言葉に「あいの土山」があります。 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に唄われるこの言葉にはさまざまな解釈があります。鈴鹿峠をはさみ、坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)という説、「あいのう」が北伊勢地方の方言で「まもなく」という意味があるので「まもなく土山は雨が降る」という意味、また坂は野洲川西岸の松尾坂で、鈴鹿峠との間の土山という説など、いずれも土山を訪れた人々が親しみを込めてよんだ言葉かもしれません東海道の土山宿土山は、古くから近江国と伊勢国とを結ぶ交通の要衝として機能していました。「土山」という地名は、中世の紀行文の中に見え、室町時代応永31年(1424)の「室町殿伊勢参宮記」には「つち山と申所をこえ侍るに・・・・・」との記述があり、その頃から街道筋に集落を形作っていたと考えられます。また、室町時代後期の記録には、保内商人が・・・・・・・・伝馬館内に飾られていた『お雛さんの段飾り』土山小唄伝馬館の二階には東海道の各宿の名物品を飾っている東海道の各宿の浮世絵と名物の饅頭 等々こちらの部屋にも東海道五十三次の盆景展示が飾られていた16:02伝馬館の裏(北側)にある国道1号線沿いの「近江土山駅」。明日の行程を考えるとここ土山宿に宿泊したいのだが、旅館・ホテルがないため今夜のホテルは甲賀市水口町に確保している。この辺りは鉄道によるアクセスがないためバス利用だけ。初めての土地でもあり弥次さんに事前に検討願ったまだ新しい「近江土山駅ターミナル内」あいくるバス 運行予定時刻表、路線図当初の予定ではここへは17時過ぎに到着、17:30のJR草津線「寺庄駅」へ行く予定であったが、早めに到着したので時間を早めることにする。16時代は寺庄行きがないため係の女性に相談し、貴生川行きの16:23に乗車することに変更利用料金は大人250円近江土山駅のバス停。国道1号線の鈴鹿峠、JR関駅方面、バスは三重県との県境の田村神社までしか運航していない。このため、JRの草津線、関西本線を利用して関駅へ。ここからヒッチハイクも考えたが16:12JR関駅へ戻り、再度鈴鹿峠を越えてこの道(国道1号線)を走って来るのだ17:04JR貴生川駅へ到着。明日はまたこのバス停から「近江土山駅」へ向かう貴生川駅から乗車する、柘植(つげ)行き電車を確認。柘植行きは、17:20、46 とあるが、柘植駅での乗換えを考えると46分でも同じになるので一本後の17:46に乗車することに 貴生川駅改札口時間があるので、珈琲でも飲んで時間を過ごすことにする貴生川駅北口駅前のロータリーの像17:39駅前の看板「ようこそ忍びの里へ」近江鉄道、米原方面へJR草津線、三雲・草津方面17:43JR貴生川駅改札口信楽高原鐡道は改札を出ずに3番のりばへ貴生川駅3番のりばの信楽高原鐡道、列車のボデーにはスカーレットの絵17:46定刻に柘植行きが到着夕陽が映えるここへ来るまではこの字が読めなかった車内も空いてくる18:05JR関西本線、柘植駅へ到着柘植(つげ)駅所在地:三重県伊賀市柘植町折り返しの草津行き電車柘植駅のホームに掲げられた「いがまち観光案内図」18:08亀山行き列車が到着二両編成で、「後乗り・前降り」亀山行き車中18:29JR関駅へ到着スイカが使えないので現金払い、車掌からスイカの乗車記録を消すための証明書をもらう関駅前の駐車場へ戻る今日('20/2/21)の弥次喜多道中の動線。今朝JR関駅前の駐車場を、7:00 出発して、土山宿まで歩き、バスでJR貴生川駅へ移動。その後JR草津線、関西本線を利用してここ関駅へ戻る。これから愛車で水口の宿泊ホテル(グリーンヒルサントピア)へ向かうJR関駅前の駐車場から今日歩いた旧東海道の一部を走る、きつかった鈴鹿峠を越え近江土山駅を過ぎ、途中フレンドマート土山で今夜の食料品とアルコール類を購入。19:30水口町の「グリーンヒルサントピア」へ到着所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1駒大苫小牧高校の野球部のペナントがフロントに飾られていた。聞くと甲子園出場前にここで合宿したとのこと久しぶりに和室のホテルへ宿泊、風呂は大風呂夕食は部屋で弥次さんと宴会。明日のスケジュールを確認して疲れとアルコールで爆睡した。明日の天気は昼過ぎから悪いとの天気予報。今日の総歩数は、34,482歩であったが、鈴鹿峠がきつかった。 関宿~土山宿ーEND
2020.04.17
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今日のゴール点、土山宿が近くなる。2/21(金) 15:11来見橋を渡り緩い坂を登ると左側に、白川神社入口の立て札祭神は速須佐之男尊、天照大御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭天王社・祇園社などと呼ばれていた。寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し、現在の場所に遷座する。本殿は、文久3年(1863)に造営された旧東海道から、南側に入ると白川神社の石鳥居白川まつり8月1日に近い土曜日に花傘神事、みこし宮出しがあり、その前日の宵宮には子供相撲や夏越神楽で賑わう15:14白川神社鳥居古くは牛頭天王社や祇園社と呼ばれた。江戸初期に焼失しこの地に遷座した。土山宿の鎮守である。鳥居のすぐ先左手に「内侍所奉安所跡」と刻した石碑がある。明治元年、明治天皇が東京へ行幸のときに携行していた三種の神器「八咫(やた)の鏡」を一時安置したことを記した碑である悠紀齊田之碑歴代天皇御即位のとき齋行される大嘗祭の重儀に御料の新設を供する悠紀齊田としてわが土山の里が、御三代にわたりト定されたことは大きな誇りである。よって抜穂の稲こなしが行われた。當神社旧称祇園牛頭天王社の境内に、齊田の所在を明示する碑を建ててその栄誉を、永世に傳えるものである鳥居を潜り境内に入ると、手水舎、拝殿、土俵。天明7年(1787)に光格天皇の、嘉永元年(1848)に孝明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀齊田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦9月22日、明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内侍所奉安所にあてられた境内の中央にモッコク白川神社のモッコク拝殿には補強用のつっかえ棒拝殿の扁額「白川神社」本 殿本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている本殿の扁額「白川神社」7月第三日曜日に行われる「土山祇園祭花傘神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山14組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民俗文化財になっている15:24旧東海道へ戻る旧東海道へ戻り『旅籠 木屋 跡』の石柱石柱は『旅籠 海老屋 跡』左側には『旅籠 山本屋 跡』、右前方にも石柱右前方の石柱は『旅籠 簾屋 跡』右の電柱下に『旅籠 江戸屋 跡』どこの宿も旅籠屋が多く往時の街道筋の賑わいを感じる。旅籠前は提灯であったのだろうか屋号は『油屋 平蔵』街道沿いに三つの石柱が並ぶここも旅籠が三軒ならんでいたのだ『釣瓶屋 跡』『大工屋』『柏屋』15:29弥次さんは立札の前でめずらしく若者が自転車で往来立札は『森白仙終焉の地』【井筒屋跡】森鴎外の祖父で津和野藩亀井家の典医だった森白仙が、参勤交代に従って江戸より旅の途中病のためここで息をひきとった街道沿いに石柱が立ち並ぶ15:30左側は『旅籠 木綿屋 跡』、右前方にも石柱と立札があり撮影に夢中の弥次さん石柱は『旅籠 平野屋』であった森鴎外が泊まった平野屋平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。乃ち金を贈りて明日来り観んことを約して去る。寺を出づるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり」 小倉日記民芸・茶屋『うかい屋』二階にミニギャラリーがあり、俳句や広重の版画(写真)が見られるこのような検定も「第12回 歴史の道 東海道検定」左側の石柱は『二階屋本陣 跡』堤家(二階屋)本陣跡本陣とは江戸時代に大名・旗本・幕府公用人・勅使・公家・門跡などが、宿駅での休泊に利用した公認の宿舎である。土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の二軒があった。堤家本陣はその屋号から「二階屋本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。史料上の初見は江戸時代前期の延宝8年(1680)で、以後土山家本陣とともに本陣職を務めた。本陣は一般に150~200坪程度の建物があり、門構えや玄関、上段の間を設けたが、天保14年(1843)当時、門構えと玄関を持っていた。建坪は196坪と、土山家本陣の325坪よりは小規模であった。堤家本陣は幕末には衰微し、これより約250メートル西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋がその代替として利用された15:33街道の右側に『東海道 伝馬館』の石柱左下に『問屋場・成道学校 跡』の石柱土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された15:35東海道 伝馬館所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山1570土山宿や東海道についての展示や特産品販売、体験工房のある資料館。「伝馬制度」とは、幕府の公用などで宿から宿へ人馬の継ぎ立てをおこなうことをいう。昨年8月に田舎へ帰る途中、立寄っているので今回が二度目の訪問である伝馬館入口の前に『文豪森鴎外来訪の地』の石碑二日。天陰れり。午前六時大阪に至り、車を換ふ。九時草津に至り、又車を換ふ。十時三雲に至り、車を下る。雨中人力車を倩ひて出づ。午時土山常明寺に至る 小倉日記森鴎外と土山鴎外が土山を訪れたのは、明治33年3月2日、祖父白仙の墓参のためである。白仙は、石見国津和野の藩医であった。万延元年(1860)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。翌年5月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。途中11月7日、土山宿井筒屋にて急死した。遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。鴎外が生まれたのはその翌年である。鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。寺を出て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て東京へ向かった。明治39年祖母きよが、大正5年母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。昭和28年三人の墓は津和野永明寺へ移された。現在常明寺境内には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っている開館時間伝馬館裏の庭園参勤交代と大名行列。長さ10メートル位の大名行列の模型が陳列されていたが、これほどの物は今まで見たことがない宿場へ向かう大名行列を京人形で再現している。大名行列の先頭部分。江戸時代、幕府は大名を統制するために定めた、寛永12年(1635)の「武家諸法度」の中で、大名を一定期間江戸に在府させる参勤交代を制度化しました。そのため、大名たちは自分の領地と江戸を行列を組んで往復しなければならず、一般には一年おきの交代でしたが、関東の大名は半年ごと、遠方の対島の宗氏は3年・蝦夷の松前氏は6年ごととし、幕府の要職に就いたものは、江戸に留まるよう定められていました大名行列の中間部分。この参勤交代などの時に、大名たちが調える行列のことを大名行列といいます。もとは、戦時用の行軍形式をとっていましたが、やがて形式化し、華美なものになっていきました。行列の規模や調度品などは石高や格式によって差がありましたが、大名にとって、江戸での生活や国元との往復には多大な費用がかさみ、藩の財政には大きな負担となりました大名行列の後方部分。しかし、参勤交代制度の確立によって、交通網や宿が整備され、経済活動の発達や各地との文化交流を生み出しました。東海道は参勤交代の大名たちが通る主要街道として発達し、宿では行き交う旅人たちでにぎわっていました。土山宿でも、土山本陣の宿帳に多くの大名の宿泊記録が残されています。なかでも熊本藩細川家との関係は深く、細川家ゆかりの調度品が伝わっています人 馬 関宿~土山宿-続く
2020.04.16
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土山宿は鈴鹿峠を控え、中世にはすでに宿場があった。江戸時代は幕府天領で代官が治めたので、宿内に役所の陣屋が設けられていた。宿の町並みは、東は田村川橋(現=海道橋)から西は松尾川(現=野洲川)まで、22町55間(約2.5km)の細長い宿場だった。近江の多賀大社への御代参道が分岐し、近江商人の物資の流通でにぎわったが、飯盛女はいなかった。2/21(金) 14:02田村神社の前を国道1号線が走る。ここから大津まで、49kmの標示、向こう側に「道の駅 あいの土山」道の駅から、海道橋→蟹坂への旧東海道案内板国道1号線との角に「大阪の味 たこやき」14:05道路を横断し「道の駅 あいの土山」へ所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山2900ここまでの今日の歩行数は、28,800歩ぐるっと甲賀(KOKA)市甲賀市は、「伊賀市(いがし)」に対して「こうがし」と思っていたが「こうかし」が正解この町のマスコット『チャチャ』、1990年生まれ。東海道土山宿を「屋号看板」と「旅籠石碑」を目にとめながら歩いて下さいと店内に入るとNHKの連続朝ドラで放映中の『スカーレット』のポスターお腹がすき、休憩しながらコロッケとおにぎりを食べる。後日3月23日(月)に三条大橋まで完歩後にも立寄り、土産で「御茶ウイロー」を購入したが美味しかった!14:41左側の石碑には「東海道 土山宿」土山宿は東海道49番目の宿場町。二軒あった本陣のひとつ土山本陣は、東海道に現存する三本陣のなかで、子孫が住んでいる唯一の本陣である。寛永11年(1634)家光が上洛する際に当家の土山喜左衛門が本陣職を務めて以来、明治3年まで続いた。熊本藩が多く利用したため、細川家との関係が深かった土山宿の町並み(下側が北)従って左側(東)から右側(西)へ向かって歩く。ポイントごとに細かく説明されており、先程の道の駅ではレンタサイクルもあると茶畑の中にある「この木はなんの木」、そばに老婆がいたが!土山宿の名物は、蟹が坂飴、お六櫛、そば、土山茶だった。土山茶は明治時代には早くも輸出され今でも甲賀市の特産品である土山宿は、今は古い民家も少ない静かな町並みだ当時の屋号や旅籠の標識が建っている、屋号は「車屋」街道沿いの社の左に道標があり「右・・里、左・・里」屋号は「お六櫛商 三日月屋」お六櫛を商っていたのであろうか14:49生里野地蔵公園の『上島鬼貫の句碑』「吹かば吹け櫛を買たに秋の風 鬼貫」上島鬼貫は、伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句であるお六櫛は江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京へと旅立つことができました。その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく再度土山を訪れました。この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました土山宿の町並みへ入る14:54古い民家、屋号が「扇屋」。連子格子の大きな入口引き戸と二階には虫籠窓(むしこまど)。また、塗籠造(ぬりごめづくり):壁と軒裏を漆喰で塗り固める工法「本家櫛所 扇屋」扇屋伝承文化館「扇屋伝承文化館」は江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地域の住民が購入し平成21年に改修したものです。地域の良き、古き文化を後世に伝える拠点とともに、旧東海道を散策する人の憩いの場になることを願っております館内を覗く閑散とした街並みを進む街道沿いに『地蔵堂』地蔵堂には着色された2体の『地蔵尊』と『重軽石(おもかるいし)』と思われる2つの丸石が安置されていた左の電柱の下に「旅籠 大槌屋跡」の石柱屋号「かじ屋 徳兵衛」14:57右側に『土山一里塚跡』の石柱ここまでの歩数は、亀山のホテルから30,200歩甲賀市土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先と大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのも、この一里塚に起因している。塚の規模は、およそ高さ2.4米、周囲12米の大きさであったらしい。この近くで塚の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚のみで、塚の上には椋が植えられている屋号は『お六櫛商 三日月屋』民家の隅に『旅籠 車屋』何を営んでいたのかこれがアップされる頃は終了しているが、町興しになったか?屋号は『油屋 権右衛門』旧東海道を進む民家の前に『旅籠 寿し屋跡』の石柱ネコちゃんが17:08来見川に架かる来見橋来見橋に描かれた座り込んで撮影する弥次さん土山茶もみ唄お茶をもめもめ 揉まねばならぬ もめば古?(茶)も 粉茶となる土山茶もみ唄お茶を 摘めつめ しっかり摘みやれ 唄いすぎては 手がお留守江戸時代当時の「旅篭 平野屋」の前 関宿~土山宿-続く
2020.04.15
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蟹坂交差点から国道1号線の北側にある旧東海道を土山宿へ向かう。2/21(金) 13:29大きな石碑は「山中地区圃場整備 竣工記念碑」その左側の小さな石柱には『蟹坂古戦場跡』天文11年(1542)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた蟹坂古戦場跡から、土山宿へ向かう。前方の杜は「田村神社」で土山宿の入口13:35旧東海道を歩き田村川に架かる『海道橋』手前の高札ー 定 ー「この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである。(旧暦には、閏月があり、この年は12月が二回続く)この橋を渡るとき、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡るときは無料である。また、付近に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても、馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである」と書かれている安永4年閏12月 道中奉行高札の解説についてこの高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。この田村川橋ができるまでは、この橋から約600メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり旅人を困らせていました。そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました新しく架けられた『かいどうはし』 平成17年5月海道橋江戸時代の安永4年(1775)に架けられた田村永代板橋を復元した橋です。往時の橋は、幅2間1尺5寸(約4.1米)、長さ20間3尺(約37.3米)、高さ0.3米の低い欄干が付いた当時としては画期的な橋でした。安藤広重の「土山宿・春の雨」は、この橋を渡る大名行列の様子を東側から描いたものです。橋の右の方には、橋番所、橋のたもとには高札が架っていたといわれています。それ以前は、現在の国道より約50米下流の辺りを徒歩によって渡っていたといわれています田村川の上流何故か女性が、河川敷に同下流側の国道1号線橋を渡ると右側に立つ説明板は見ずらい。「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」 士郎その下には石碑が 「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」 井上士郎 句橋を渡り、左側にある説明板には、歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向っている風景であると言われている。土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている歌川広重の保永堂版『土山 春の雨』旧東海道の海道橋を振り返る13:39田村神社入口説明板と共に「高札場跡」の石柱が立つ。今日のここまでの歩行数は、既に24,700歩、鈴鹿峠を越え疲れ気味このあたりの道案内土山宿の規模(江戸後期)は、・22町55間(約2.5km)・本陣:2 脇本陣:1 ・人口:1505人 戸数:351戸 ・旅籠:44軒田村神社の鳥居田村神社境内へ境内には2月19日まで厄除大祭があったので、露天商のテントが立っていた田村神社は弘仁3年(812)の創建で坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇と倭姫命をも祀っている。坂上田村麻呂公(758~811)は平安時代の武人で延暦16年(797)には桓武天皇より征夷大将軍に任じられ、二度にわたって蝦夷平定の遠征に出た。また鈴鹿山の悪鬼退治も伝えられ、田村麻呂公の薨去後、嵯峨天皇の勅命によりこの地に田村神社が創建され、厄除大祈祷が斎行された。本殿は銅板葺き三間社流造で御鎮座1200年を記念して平成23年に造替された。本殿の前を流れる御手洗川に年齢の数だけ節分豆を落として祈念すれば災厄から逃れられると伝えられている。年間多くの神事が行われるが、2月17日から19日にかけての厄除大祭と、7月25日から27日にかけての万燈祭がと徳に有名で、多くの参詣者が訪れる田村神社案内図市中に貼られていた今年の「田村まつり」ポスター21日に訪れたので丁度終わった後であった、例年は10~20万人が訪れ賑わうとのことであったが今年は、新型コロナウイルスの影響で少なかったと田村神社拝殿拝殿の扁額「大名?宇宙」拝殿の右側を通り本殿・拝殿へ手水舎、石鳥居を潜り本殿へ厄落しの由来田村大神ある夜夢の中に悪しき年に當るとも諸々の災難を除かんは、社殿前を流る御手洗川に節分の福豆を年の数だけ東に向い祈念をこめて流さば禍は流れ去る。之より厄落しとして己が厄災を袚う事が慣例となる厄落とし 福豆授与 初穂料 二百円石橋を渡り本殿へ向かう本殿への参道に献燈が立ち並ぶ令和の御大禮記念事業石灯篭の新設(奉納数限定・先着順) 石灯篭一基(境内を通る旧東海道を境) 北区域 25万円(80基) 南区域 20万円(40基)石灯篭建立場所は神社に御一任をお願い申し上げます本 殿商売繁昌の神様「吉崎稲荷神社」本殿前から西側へ進む左前方に『矢竹』矢竹(厄除矢)の由来御祭神坂上田村麻呂公が、勅を奉じて鈴鹿山中に跋扈し旅人等を悩ます悪鬼(俗に云う山賊)を言向け平定された際、御弓矢を張り給いて申された「今や悪鬼も無し、これより此の矢の功徳を以て万民の災を除かん、此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斎き祀れ」放たれた矢は、ここ本殿前に落ち不思議なことに青々と芽が出て育ち、現在の矢竹となったと伝えられています。爾来、田村大神の御心を心として神矢を奉製し、矢の功徳を以て御崇敬者の厄災を祓い開運恵方を導く深き信仰となったのであります本殿を振り返る本殿西側に立つ、左に「祝谷神社」、右側に「天満神社」祝谷(いわいだに)神社元は田村神社境内地の森の中に鎮座していましたが、令和の御大禮記念事業としてこの場所に新たにお社を建立し遷座しました天満神社令和の御大禮記念事業により、学問の神様として全国より崇敬を集める北野天満宮(京都市)より御分霊を勧請し創建しました天満神社前から森の中の本殿を望む令和2年「厄年年齢表」年寿(算賀)の祈祷八方塞がりとは、その年一年間は四方八方塞がっていて、何につけても運気が好転しにくい年に当たります。是非とも八方除のご祈祷を受けていただき運気を開いて幸運をお受けください。今年(令和2年)の八方塞がりは、七赤金星生まれの方です手水舎弥次さんが御朱印をもらいました14:01田村神社を後にする鳥居の扁額「正一位田村大明神」 関宿~土山宿-続く
2020.04.14
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山中一里塚公園から旧東海道(国道1号線)を進む。2/21(金) 12:34山中一里塚公園中央に『櫟野(いちの)観音道(大原道)道標』山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は古くから東海道と神村(甲賀町大字神)櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道ともよばれていた。当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ・・・・・・・山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』 文部大臣 小杉 隆 書 山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』馬子の像一里塚緑地に立つ「第二名神」滋賀県起工の地のモニュメント12:36山中一里塚公園を後にする12:39国道1号線沿いの旧東海道を進む道路標識は「道の駅 あいの土山 2km」コミュニティバスが来るコミュニティバス「あいくる EXPRESS」の大河原行き12:42キロポストは東京日本橋から、437km、先に「猪鼻交差点」が見えてくる県道507号線で三重県の湯の山温泉へ、鈴鹿スカイラインへ、17km12:45国道1号線の猪鼻交差点、旧東海道はこの交差点を右に折れ、猪鼻村へ進む石柱は『若宮神社』旧東海道はこの交差点を折れ猪鼻村に入り直ぐ西へ進む12:47猪鼻交差点を曲り100m程で西へ向かう。大きな石碑には『東海道 猪鼻村』甲賀市で置いているのか街道脇に、塩化カルシウムの融雪剤東海道 猪鼻村猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道は賑わしていた。土山宿から坂下宿間の立場(休息所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、53石余「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ俳句の句碑が、淨福寺の門前に残る。また、井上士朗の『幣袋』に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・・」とある。寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は17世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる12:49醫王山淨福寺所在地:滋賀県甲賀市土山町猪鼻 中島淨福寺の山門前にある石碑には、赤穂浪士の大高源吾(俳号子葉)が江戸へ向かう途中、猪鼻村立場で休みながら詠んだ歌である『いの花や 早稲のもまるる 山おろし』が刻まれている淨福寺本堂と鐘楼淨福寺は、天正年間(1573~1591)に、僧洞成禅照大禅師が開基し寺号は醫王山、臨済宗東福寺派に属する。本尊は、薬師如来座像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏と伝わっている。木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち脇侍には左に日光菩薩、右に月光菩薩。更に眷属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。薬師如来は十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊である。淨福寺の御詠歌 「まいりきてめぐみをうけよ淨福の 薬師の利やくあらたなりけり」民家の壁には屋号の「ちょうちん屋」淨福寺を過ぎ街道右側の民家の中に『明治天皇聖蹟碑』同じ庭の手前に『旅籠 中屋跡』猪鼻立場猪鼻集落は東海道土山宿から東へ約3kmの位置にあり、江戸時代には立場として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪鼻峠があって旅人を難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。明治元年(1868)の明治天皇御東幸の折、旧暦9月23日に旅籠中屋を御少憩や中食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている近江屋12:57猪鼻村の京側の急な坂を登る12:59数百メートルの急な坂を登り国道1号線と合流国道1号線の向かい側の高台に『金比羅神社』13:00旧東海道(国道1号線)を進むが、この辺りが猪鼻峠であったのだろうか。往時はもっと険しい峠であったと。国道のキロポストは、東京日本橋から437.5km地点13:07峠から約1キロの下りをひたすら歩くと、街道の左側に『蟹塚』の案内板案内板におよその距離がない中、沢へ下りてゆく。この時期、長いものもおらず、蛭(ひる)もいないので安心して歩ける沢を渡ったりして進むと、沢の小高い所に石柱で囲んだ『蟹塚』があった。春から秋にかけての鈴鹿峠は蛭が多いとの情報があったが、今回は安心して歩けたのが幸いであった石柱で囲まれた中に『蟹塚』13:10国道1号線から300メートルほど下ったところにあるが訪れる人がいるのか、説明板があった木の木陰にひっそりと『蟹塚』蟹塚には、名前にちなんだ話が伝えられている。昔、鈴鹿の山に大蟹が住み着き旅人や村民を苦しめていたところ、観音様の命をうけた都の高僧が鈴鹿に訪れ大蟹にお経を唱えると、大蟹の甲羅が八つに裂けたという。塚はその大蟹の甲羅を葬ったものであるといわれている。またこの話には、蟹が盗賊であったり、高僧が武士である場合もあり、街道の名物であった「かにが坂飴」もこの「カニ」伝承を由来として伝えられてきた土山宿にある、東海道伝馬館で購入した「かにが坂飴」 450円。味は・・・・・・であった沢には小魚が泳いでいた13:15蟹塚から国道1号線へ戻り、危険な行為で国道を横切り旧東海道へ国道を横切ると、” ようこそ 「歴史の道 東海道」へ ”ここは、土山町蟹ヶ坂です。これより、往時も東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りします。さきほどの『蟹塚』の案内が描かれていた榎島神社(白川神社の末社)右側の木は、椎の木で樹齢約400年の御神木白川神社御旅所の石柱御神木の横に遊戯施設現在地から「田村神社」への案内板。土山宿へ800m、鈴鹿峠へ4.5km。田村神社は、蟹坂古戦場跡を過ぎ海道橋(1775年架橋の田村永代板橋を復元した橋)へ進む。猪鼻村からこの手の案内板(土山町)で、ステンレスの板にポンチか?で刻んでいるので、光って見ずらいです、申し訳ありません13:19街道沿いに、交通安全の石仏 関宿~土山宿-続く
2020.04.13
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旧東海道(国道1号線)は鈴鹿峠を越え緩い坂を下り土山宿へ向かう。2/21(金) 11:49旧東海道(国道1号線)山中交差点の南側に『熊野神社鳥居』所在地:滋賀県甲賀市土山町山中194献灯と献灯に、珍しいしめ飾り脱穀した稲穂をぶら下げ鬱蒼とした境内に入り綺麗に整備されていた拝殿の扁額「熊野神社」拝殿左に小さな「津島神社」「愛宕神社」稲荷神社も11:59旧東海道(国道1号線)に戻り進む、キロポストは東京(日本橋)より435km、大津まで50km12:01前方に集落が見えてくる田んぼの隅に小さな石の祠、しめ縄をしているので五穀豊穣でも願っているのか春も近づき小さな花が田んぼの畦道に咲く野獣除けの一部?田植え後は田んぼのまわりに柵をつくるのか12:07旧東海道(国道1号線)を進むと前方に新名神高速道路の高架橋が見える12:07浄土宗十楽寺(じゅうらくじ)所在地:滋賀県甲賀市土山町山中351入口角に「甲賀西國四十三番目」の石柱国道の向かい側に石灯籠甲賀四十三番観音札所 十楽寺鈴鹿峠方面の国道1号線十楽寺の境内に入り、鐘楼と本堂十楽寺の文化財東海道の鈴鹿峠をひかえた山中の浄土宗十楽寺には、古代より交通の要地として知られた場所柄から多くの古像が伝えられている。 ■甲賀市指定文化財 木造阿弥陀如来坐像 平安時代 ■甲賀市指定文化財 木造十一面観音立像 平安時代 ■甲賀市指定文化財 木造摩耶夫人立像 室町時代鐘楼の手前に歴代住職の墓標か12:13十楽寺の先にある『山中城址』の石碑山中城址の石碑山中城址碑の下にあった、しめ縄で囲んだ石碑石碑には「山神」と刻まれている旧東海道(国道1号線)の前方を見ると、新名神高速道路の高架橋が大きく見える。旧東海道はこの先を右側へ12:18国道1号線の山中西交差点の右側にある公園石灯籠国道沿いに「東海道土山宿散策図」各名所への距離を書かれているが、今日のゴール点土山宿の「東海道伝馬館」までは4.5kmあいの土山観光案内図あいの土山3大イベント 3月下旬 あいの土山斎王群行 6月中旬 鈴鹿馬子唄全国大会 11月上旬 あいの土山マラソンまだ新しく整備されたようだ。石碑には、鈴鹿馬子唄が刻まれている石碑をズームアップ鈴鹿馬子唄坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、二つの国を行き来するには必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道は鈴鹿峠を越えていたが、「東の箱根、西の鈴鹿」と言われるように旅人には非常な難所であった。そのためにこの峠を人や荷が越えるのには馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。彼らの間で自然発生的に唄われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりした調子で哀愁を帯びた節で唄われる。歌詞は七・七・七・五の甚句形式で、主に関宿や坂下宿のことが唄われている。冒頭に掲げたのは一番の歌詞であるが「あいの土山」の解釈には諸説があり判然としないものの、その中の一つには「あいのう雨が降る」即ち「間もなく雨が降る」と解釈する説もある。しかし今日では意味を問うことなく「あいの土山」として三音節ながら土山の枕詞のように使われ多くの人々に親しまれている12:20鈴鹿峠が分水嶺となりこの辺りは山中川、この先は野洲川と合流して琵琶湖へ流れる。前方に、新名神高速道路の高架橋、私は既に何度も走っている高速道路である公園を振り返る12:24旧東海道沿いに『地蔵大菩薩』民家の玄関先には信楽焼のタヌキ新名神高速道路の東京方面新名神高速道路の京都方面左上は国道1号線高さが20m位ある高架橋を見上げる旧東海道は高架橋を潜り12:30山中一里塚公園へモニュメントは「第二名神」滋賀県起工の地平成7年(1995)12月18日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の滋賀県での最初の工事として着工されました。当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に栄えてきた ”あいの土山” の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します 滋賀県土山町山中一里塚公園所在地:滋賀県甲賀市土山町山中ここまでの歩数は、22,700歩山中一里塚公園の石柱石碑は「山中地区圃場整備 竣工記念碑」 関宿~土山宿-続く
2020.04.12
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久しぶりに心拍数を挙げながら、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く坂道を登る。2/21(金) 10:32先行する弥次さんが橋脚の下で休憩、暑くなったので上着を一枚脱ぎ小休止十数分休憩して国道1号線の高架下を潜り坂を登る10:42片山神社からちょうど中間点か国道1号線沿いの広場へ到着、道路は上り線10:43ここから最後の坂を登る。ベンチに座り休憩の弥次さん斜め左方向が「東海道鈴鹿峠」の道標。このベンチは令和2年に贈呈と!鈴鹿国定公園 東海道自然歩道案内鈴鹿峠 三重県と滋賀県の県境にあり、「鈴鹿馬子唄」で名高い峠で、文化庁の「歴史の道百選」に 選定されています。東の箱根とともに東海道の難所でしたが、今は国道1号線が通り、自動車 で楽に越すことができます。峠の頂上近く自然歩道沿いに昔、山賊が道を通る旅人の姿を岩 肌に写して危害を加えたという、県の天然記念物に指定されている奇岩「鏡岩」がありますベンチから上るとすぐに『峠道芭蕉句碑』がある。元禄4年(1691)に刊行された、松尾芭蕉の句集『猿蓑』に詠まれた、「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」の句が刻まれている芭蕉句碑の横に説明板があったが少々汚れ、これをきれいにすると犯罪?鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886)に開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲り道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆくわが身なるなむ」と詠まれている。また、江戸時代の俳人、松尾芭蕉も先の句を詠んでいる芭蕉句碑の横の坂の上り口に『馬の水のみ場跡』横に刻まれた「馬の水のみ鉢」下にも刻まれていたが判読できず、綺麗に整形されているがいつ頃の製作なのか10:52険しい坂道を上る10:54鈴鹿峠山頂の『峠の茶屋跡』芭蕉句碑下の休憩所から約10分程で登ってきたがきつかった。鈴鹿峠山頂の伊勢と近江の国境には、松葉屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋、堺屋、山崎屋の六軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人々でにぎわっていました。現在でも当時の茶屋の石垣が残されています。道標には、田村神社跡:10m、鏡岩:150m とあったが山頂の左側に『田村神社舊跡』の石柱。峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡がありこれらは峠祭祀に関わるものと考えられる。ここで引返し『鏡岩』へは行かず鈴鹿峠伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っています。都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和2年(886)近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。山賊に関する逸話がいくつもある。また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている10:57伊勢国から近江国へ峠の茶屋跡を過ぎると、伊勢と近江の国境です。ここからは急峻な峠道とは対照的ななだらかな茶園が広がっています。その先に、18世紀前半頃に坂下宿と甲賀郡の人々によって建立された巨大な万人講常夜灯があります。ここから田村神社を経て土山宿までおおよそ一里です石柱は『界 右:滋賀県 近江の国 左:三重県 伊勢の国』 側面に「是より江戸まで百九里」10:58峠の茶屋跡を振り返り、左方向は三子山へ、石柱には「是より京まで十七里」いろんな立札が登山者の方へ現在地:滋賀県甲賀市土山町山中(鈴鹿峠)最後の難所を越え元気になる、近江に入り茶畑が広がる11:00万人講灯籠 常夜燈所在地:滋賀県甲賀市土山町山中ここまでの歩数は、17,000歩折から京から来る人とすれ違い撮影願った万人講常夜燈万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの構中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38トン、高さ5m44cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう「金毘羅大権現」と刻まれている、座には「万人構」金毘羅大権現 永代常夜燈地震の震度はどのくらいまでこの姿を保持できるのか万人講常夜燈を振り返る、常夜燈を後にして、旧東海道を進む11:21万人講常夜燈の下を国道1号線が走り、この辺りは上下線は分離。この先から、滋賀県甲賀市土山町の「農排 マンホール」デザインは土山町のシンボル、杉、キジ、茶旧東海道の坂道から、国道1号線を振り返る鈴鹿トンネル 長さ 276m11:25ここを右に廻り、すぐに国道1号線と合流国道1号線の下り線から鈴鹿トンネル方面、下は上り線。右上に「万人講常夜燈」11:34旧東海道(国道1号線)を進む、東京日本橋から、434kmキロポスト11:37旧東海道(国道1号線)を進み、反対側に鳥居があったので危険な行為で横切る石灯籠に字が刻んであったが???鳥居の扁額もなく、嵩上げされたのか座は埋まっていた旧東海道に戻り、振り返ると道路標識は、四日市 39km、亀山 17km11:41旧東海道(国道1号線:鈴鹿峠バイパス)の緩やかな坂を下る、前方左側に建物。屋根には「山賊茶屋」の看板建物の前には、「鈴鹿峠の馬子たちの俚謡」のぼりくだりの おつづら馬 さても見事な 手綱染かいな 鈴をたよりに 小諸節板は照る照る 鈴鹿は曇る 間の土山 雨が降るまだ修復すれば営業再開できそうだが、それにしても国道1号線の通行量が少ない11:45前方は国道1号線の山中交差点、県道187号線との三叉路ここまでの歩数は、19,100歩山中交差点の手前の草むらに、地蔵11:47あいくるバスのバス停「熊野神社」あいくるバス運行路線図時刻表:(下り)貴生川駅行 7:36のみ、近江土山行、(上り)大河原行今日はこの後、近江土山からこのバスを利用してJR草津線の寺庄駅まで利用予定 関宿~土山宿ー続く
2020.04.11
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坂下宿を後にし、最後の難所鈴鹿峠へ向かう。2/21(金) 9:48旧東海道の街道脇に祠がめずらしく地元のおばさんとすれ違うこの地蔵は『身代わり地蔵尊』と呼ばれ、大名行列を横切った子供の身代わりになったと。地元の人が毎日参拝しているのか綺麗であった9:51緩い坂を登ってきて、坂下宿を振り返る。道幅が広いのは、一時国道1号線であったのだろう上乃橋(如来堂橋)を渡り、街道沿いに夫婦の像が説明板がなく誰なのか9:55岩屋観音『岩屋十一面観世音菩薩』の石柱所在地:三重県亀山市関町坂下旧街道から数段下がったところに扉があり開錠して中へ入る左側の石碑に何か刻まれていたが解読できず岩屋観音高さ18mの巨岩に穿たれた岩窟に、万治年間(1658~1660)に実参和尚によって道中の安全祈願のために阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体の石仏が安置されました。毎月3日、18日のみ開扉、岩窟内の写真撮影はお断りします堂の隣にある清滝とあわせて「清滝観音」として広く世に知られ、葛飾北斎の『諸国滝めぐり』にも取り上げられています霊験あらたかな観音霊場として現在も信仰を集めています入口方向岩屋観音の近くには御馳走場があり、ここが坂下宿の西の出入り口だった。岩屋観音前を過ぎると旧東海道はすぐに国道1号線(上り線)と合流。この辺りの国道1号線は上り下りが別ルートになっており、この道は上り線。右の道案内は、鈴鹿峠 ⇔ 坂下宿10:00国道1号線の上り線(東京方面)、下り線は別ルート左方向へ直進すると坂下宿で、左側にすぐ『岩屋観音』がある。この辺りは冬場に雪が多いので融雪設備スプレーノズル旧東海道は国道1号線(上り線)に沿って進むが緩やかな坂である。高速道路を使用しているのか通行量が少ない、我々は今後この道を利用する10:05看板は、「お食事・ご宿泊 鈴鹿峠」ご宿泊料金 ・一泊二食付 8,200 ・素泊まり(朝食付) 5,000円営業しているのか?10:08弥次さんがなぜかこの石段を上る石碑は墓か?「南無阿陀佛」国道1号線を見下ろす弥次さんは杉林の中を進む坂道は急になり道も狭くなる。滑り落ちないよう足元に注意しながら坂を登る10:12この先で道を間違えていることに気が付き引き返す。この道標を見ても逆だが10:18国道1号線に戻り進む、旧東海道は右上に進む。お食事・ご宿泊の「鈴鹿峠」は左方向になっている片山神社石碑から鈴鹿峠国道1号線からそれて旧東海道を登ると「片山神社の石柱」この辺りの登り坂もまだ緩やかである10:20旧東海道下に、小さな社があるが『琴の橋(桐の橋)』か?かつて天皇家の秘宝のひとつに和琴の「鈴鹿」がありました。この琴は鈴鹿川にかかる桐の橋板から作られたことからこの名があり『平家物語』にも登場しています。藤原俊成が「鈴鹿川桐の古木の丸木橋これもや琴の音に通うらん」と詠んだこの橋は、古町にかかる小橋のこととする説があります説明板があったが判読できず坂がきつくなってくる10:23廻りは杉林で、道路が舗装されているので登りやすいがきつくなる10:25片山神社下に到着。片山神社の由来が古代にさかのぼる延喜式内社で、鎌倉時代には現在の場所に鎮座したと伝えられます。また、斎王群行の際に皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡ともいわれています。江戸時代には鈴鹿権現とよばれ、往来する多くの人々の信仰を集めました片山神社 『伊勢参宮名所図会』より片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された(『片山神社縁起』)とされる。明治以前は「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」等と呼ばれ、『室町殿伊勢参宮記』応永31年(1424)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。東海道は、このあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く平成11年(1999)に本殿などを焼失し、現在は神楽殿のみとなり、高い石垣などにかつての面影をとどめている片山神社と峠道入口、急な石段を登ることに10:28急な石段を上ってきたが、建物はなく。昭和53年に市史跡に指定されましたが、平成11年に本殿などを焼失し、現在は神楽殿のみとなりました。現在は高い石垣などにかつての面影をとどめています後方を国道1号線が走る隅にあるこの建物は?急な石段を下りることに。転ばないよう注意しながら石段を降りる10:29灯籠坂片山神社から先の急な上り坂には、街道に灯籠が並んで設けられており、灯籠坂と呼ばれていた。石柱は「鈴鹿流薙刀術?生之地」鈴鹿峠への旧東海道の案内板ここにきて一気にジグザグな急な坂道になる上って来た道を振り返る10:32国道1号線が見える。片山神社からわずか5分ぐらいであったが心拍数が上がった上ってきた坂を振り返る。まだ「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の半分か、国道1号線の下で暑くなり、小休止 関宿~土山宿
2020.04.10
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沓掛のまちなみを過ぎ、だらだらと坂を登り、坂下宿へ進む。2/21(金) 9:04鈴鹿峠の山はどこだろうかと思案しながら進む。西の空は快晴9:07街道右側の斜面に「庚申堂」まだ新しい庚申堂で、周りも整備されていた9:09坂下簡易郵便局を過ぎるが、閑散とした集落にも郵便局はあるがコンビニはない。民家の建物も住民がいなくなったのか、廃家に右は温室用骨組み、右前方には「鈴鹿峠自然の家」9:12コミュニティバスのバス停、西部ルート「鈴鹿馬子唄会館前」旧東海道はこの道を進む反対側から鈴鹿馬子唄会館へ坂下地区コミュニティセンター・鈴鹿馬子唄会館入口鈴鹿馬子唄会館ホールや研修室、展示コーナーをもつ地域文化創造施設として平成7年に建築されました。鈴鹿馬子唄と鈴鹿峠の歴史文化について常設展示されています。入館料:無料 休館日:月曜日・年末年始 tel:0595-96-2001所在地:三重県亀山市関町沓掛234東海道五十三次 阪之下 筆捨山上り下りの旅人で賑わっていた。江戸時代は大きな旅籠が軒を並べ、本陣、脇本陣の規模は街道一ともいわれた。往時戸数三百余りと栄えた9:17鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)所在地:三重県亀山市関町沓掛123昭和13年(1938)に坂下尋常小学校として建築されました。昭和54年に廃校となり、現在は青少年のための研修施設として使われています。平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財に登録されましたネットで見ると、月一回の天体望遠鏡の無料開放日があると国登録有形文化財『鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)』鈴鹿峠自然の家は、・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・。校地は、山の西側斜面を整地して造られており、南側に校庭をとり、校舎は北側に寄せて建てられている。外観は、切妻平入形式の瓦葺で、正面玄関に切妻妻入形式で洋風の意匠を施した車寄が突き出ている。外壁はペンキ塗りの洋風下見板張りである。校舎は南北の2棟に分かれ、中央に中庭をとり、東西に廊下を設けて両棟をつないだロの字形の平面である。校庭に面した南棟は、中央に玄関をとり、西側には教室一室と職員室・校長室を、東側には教室一室と和室を設け、北側に廊下をとっている。また、北棟は、講堂と教室二室を設け、北側に廊下をとっている旧東海道沿いに立つ、各宿の名前が書かれた石柱9:19旧東海道(左側)を振り返る9:21杉林の中、旧東海道を進む。坂下宿は鈴鹿峠のふもとにあるので坂下宿と呼ばれた。室町時代には峠越えのため、すでに宿場があった。江戸時代初期の慶安3年(1650)の大洪水で宿場は壊滅し、約1km東の現在地に移転した。難所の鈴鹿峠を控え、多くの旅人や参勤交代の大名が宿泊したAGF ブレンディの森 入口関係者以外は立ち入らないでください。何があるのか????梅の花は五分咲きか9:26河原谷橋(かわらだにはし)この橋は鈴鹿川の支流に架かる橋で、左側を鈴鹿川が流れる河原谷橋(かわらだにはし)9:27河原谷橋を渡ると坂下宿。町並みの長さ5町56間(約650m)に人口560人ほどの小規模な宿場にも関わらず、鈴鹿峠を控えていたので本陣が3軒もあった。宿の入り口の小さな川に架かる河原谷橋の近くに大名など本陣宿泊者を送迎した御馳走場があり、その先に松屋本陣があった。松屋本陣の玄関は明治になって、法安寺の庫裏玄関として移築され、現在も残る。家数の三分の一は旅籠で飯盛女はいなかったが、宿泊業のほか、旅人の荷物を運んだり、飛脚業などの往還稼ぎが主な収入だった下乃橋とも呼ばれている、河原谷橋坂下宿は緩い坂沿いにある。坂下宿は、難所の鈴鹿峠を控え、江戸時代後期には大竹屋・松屋・梅屋の本陣、小竹屋脇本陣がありました。特に大竹屋は、間口13間半(約24m)、奥行25間(約45m)もあり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹小竹、宿がとりたや小竹に」と唄われたように、数多くの大名家も休泊する東海道随一の大店として世に知られていました。大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、往来する公家や文化人によって歌に詠まれています。これほどまでの賑わいをみせたこれらの建物は明治以降にすべて取り壊され、現在は跡地に石碑を残すのみとなりました9:30坂下宿の緩い坂道の町並みを鈴鹿峠に向けて進む9:30横断歩道横に『松屋本陣跡』の石碑ここまでの歩数は、12,000歩コミュニティバスのバス停、西部ルートの「伊勢坂下」亀山市の運行はここまでで、鈴鹿峠は越えない。坂下宿より鈴鹿峠の頂上まで約3.0km鈴鹿峠の頂上より土山宿まで約6.8km 今日のゴール土山宿までこれからまだ約10km歩く坂下宿の案内東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である。貞和2年・・・・・・・中略・・・・・・。 少なくとも室町時代には宿として機能していた。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。江戸時代には、東海道五十三次のうち48番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。しかし、明治23年(1890)関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた坂下宿 『伊勢参宮名所図会』よりなお、坂下宿は「坂下」「坂ノ下」「阪之下」などの表記方法がみられますが、江戸時代の公用では「坂下」を用いることが多かったようです。 歌川広重の保永堂版より大竹屋本陣跡明治政府はどういう目的ですべての建物を取り壊したのか?日本百名城もそうだが。もったいない話だが維持費がかかると判断したのか中乃橋とも呼ばれている、中の橋この辺りの道路は広く、近年まで国道1号線として使用していたのであろう。現在の国道1号線は左側(南西側)を走っている9:35中乃橋手前右側にある『法安寺』所在地:三重県亀山市関町曹洞宗鈴鹿山 法安寺山門から本堂山門の寺標山門左側の地蔵尊地蔵尊法安寺本堂本堂の扁額「??山」この鈴鹿山法安寺庫裡の玄関は、江戸時代繁栄を極めた坂下の宿場で諸大名の休泊所となった松屋本陣の玄関であったのを、明治15年5月大字坂下79番地に坂下小学校舎改築の際校舎玄関に移築され、昭和13年4月沓掛地内に坂下村尋常高等小学校が移転新築される迄、旧校舎の玄関として保全されてきました。この玄関は、文化財として稀少価値があり昭和35年10月法安寺庫裡玄関に、転用移築したもので昭和57年7月本堂改築に当たり屋根瓦の葺替えを実施しました山門から旧東海道を望む9:43法安寺を後にして旧東海道を進む中の橋を渡るとすぐ右手に『小竹屋脇本陣跡』9:47右手の山に石垣があったが、『金蔵院跡』か?鈴鹿山護国寺ともよばれ、その開基は仁寿年間(851~853)と伝えられる古刹です。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられており、上洛途中の徳川家康や家光が休息しています。参勤交代の大名は山門前では駕籠から降りることを通例としていたと伝えられます。慶安3年(1650)の洪水後に古町から現在の位置に移りましたが、明治に入り廃寺となり、現在は石垣だけが往時を偲ばせています鈴鹿馬子唄鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか歌われ始め、近松門左衛門の浄瑠璃などにより広く全国に知れ渡ってゆきました。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 坂下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」 抜粋 関宿~土山宿ー続く
2020.04.09
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関宿を出て、国道1号線と並行して旧東海道を進む。2/21(土) 8:16国道1号線の市瀬交差点を過ぎ、日本橋からのキロポストは、425.8km梅の花も満開国道1号線の鈴鹿川に架かるいちせ橋の手前を右に曲がり、旧東海道を進んで坂下宿へ。鈴鹿川もこの辺りになると川幅が狭くなっている8:19鈴鹿峠に向けて緩い坂になり、畑の梅の花も咲き始めていた鈴鹿川に架かる「市瀬橋」を渡る鈴鹿川の上流側同下流側小集落に入る8:22国道1号線を横切る国道1号線を横切るとすぐ左側にある『浄土真宗 本願寺派 西願寺』所在地:三重県亀山市関町市瀬589山門からの本堂山門の扁額「龍玉山」西願寺本堂境内に咲いていた椿8:25旧東海道に戻ると、「せき おすいマンホール」。亀山市と鈴鹿郡関町が合併する前のマンホールであろう関では他のデザインもあったが、鹿が初めて登場旧東海道を歩き再度国道1号線に沿って歩く。箱根越えに比べてだらだらと緩い坂を登る、風もなく快適に進む8:35東京日本橋から、427kmのキロポスト。道路標識はこの先からカーブが続くと注意勧告下り(京方面)のバス停、西部ルート「筆捨山」亀山市のコミュニティバスが運行している8:39上り(関駅方面)のバス停、西部ルート「筆捨山」西部ルート時刻表亀山市名勝「筆捨山(ふですてやま)」東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高289mの山である。もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪ノ下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝はなく、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである8:42旧東海道は国道1号線に沿って進む、右側は鈴鹿川8:45国道1号線沿いの「1号弁天橋」手前に石碑石碑は「國道改良記念碑」1号弁天橋にプレート「一般国道 1号弁天橋歩道橋(上り)」点検履歴板業 務 名:平成26年度 四日市管内南部橋梁点検業務点検年月日:平成26年10月10日 8:46旧東海道(国道1号線)を振り返る、鈴鹿川に架かる1号弁天橋市瀬一里塚跡日本橋から107番目の一里塚この二枚の写真は2/21に見落としたため、3/20の最後の道中移動日に撮影したものです8:47一里塚を過ぎ旧東海道は、鈴鹿川に架かるこの橋の手前を右に入る旧東海道に入ると電柱に「旧東海道 これより沓掛(くつかけ)」沓掛から坂下宿・鈴鹿峠へ沓掛の集落を進む集落に咲く紅梅8:49コミュニティバスのバス停「楢(ナラ)の木」鈴鹿川方向8:52旧東海道の緩い坂を登ると左前方に施設が農業集落排水事業 沓掛地区浄化センター所在地:三重県亀山市関町沓掛施設のフローシートをズームアップ「沓掛地区浄化センター 汚水処理施設図」所 在 地 :三重県鈴鹿郡関町大字沓掛588-1 亀山市との合併前の設備併用開始:平成14年(2002)3月計画対象人口:170人 日平均汚水量:45.9m3/日仕事柄興味を持ってみる計画対象人口は170人で、坂下宿界隈の集落の生活排水を処理して鈴鹿川へ放流している8:54観音山歩道案内図この歩道は、観音山公園内の国民宿舎関ロッジを起点に、新地及び羽黒山、筆捨山の奇岩怪石の山景を展望しつつ、関町沓掛で東海自然歩道に連絡する自然探勝歩道です8:59旧東海道の緩い坂道を更に進み『真宗大谷派 超泉寺』所在地:三重県亀山市関町沓掛41超泉寺の山門から本堂本堂の扁額「超泉寺」山門寄進者 平成十年九月竣工9:01コミュニティバスのバス停「沓掛」超泉寺、沓掛公民館の前にある沓掛のまちなみを進む 関宿~土山宿ー続く
2020.04.08
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関宿の西の追分へ向かう。関宿の名物は火縄で、火縄銃に用いたほか火種の保存にも多く使われた。大名からの需要のほか、旅人が煙草用に買い求めた。もう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である。2/21(土) 7:34誓正寺山門所在地:三重県亀山市関町誓正寺本堂本堂の彫り物灯籠型の法瑞筆子冢「正定院筆子中」誓正寺の筆子塚この燈篭は高さ2メートル40センチあり「正定院筆子中」と刻まれています。「筆子中」とは寺子屋で教育を受けた門下生たちのことです。誓正寺の筆子塚は住職であった正定院法瑞を先生とする教え子たちが学恩に感謝し、慶応4年(1868)に建立したものです。竿石の裏面には法瑞先生のプロフィールが記されています。法瑞先生は文化10年(1813)長野村(津市美里町)清芳寺に生まれ、天保9年(1838)に誓正寺住職となり寺を再興し、子供たちに習字などを教えお酒が好きで、慶応2年(1866)に住職を引退したとあります。幼いときの学恩を忘れず慕いつづけ筆子塚を建立した教え子たちと、お酒が大好きな先生との間の人間味あふれた深い絆は、今日の社会でも求められている大切なことではないでしょうか 合掌境内には咲き始めの梅米穀登録販売店の看板も旧東海道へ出て、懐かしい米屋の看板7:40旧東海道の右側に『福生山 長徳寺』所在地:三重県亀山市関町新所1712山門の横に御朱印の自動販売機自販売機は初めて見た御朱印のご案内令和2年4月1日より参拝記念として御朱印をはじめることになりました。当院の御朱印の絵柄は日本の伝統工芸の伊勢型紙を使用しております。何枚かの伊勢型紙を用いて一つの絵柄を完成させる技法と伊勢型紙の彫の技法を用いて、独特の柄を表現しています。・・・・・・・略・・・・。これらの絵柄があるのか?長徳寺本堂7:42雲一つない街道を進む、風もなく絶好の天気、気温も10℃近い民家の壁に南天と松ぼっくりこちらの民家はコットンで二階部分が高く昭和に入ってからの建物か新所の町並み、二階がなく7:48街道沿いに建つ『観音院』所在地:三重県亀山市関町新所1639観音院 略由朝日を浴びてうまく撮影できず・・・・・観音院の裏(北側)にある『金光教 関教会』民家の漆喰に飾られた彫刻関宿の町屋の細部意匠南禅寺 井口家井口家は屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理を名物とする料亭であった。当時、西追分は宿屋が建ち並び、旅人がひきもきらず賑わったという。同家は、文久の頃の建物といわれ道路に面して連子格子、塗りごめの中二階があり、料亭の面影をよく残している。関宿かるた「名物は 火縄餅菓子 豆腐料理」関神社御旅所所在地:三重県亀山市関町新所1537平成25年に建て替えられたとのこと。関宿祇園夏祭りの「神輿の渡御」に係わる大切な場所で1年に1回だけ、神輿の宿所として使われる建物であると西の追分が近くなる7:55関宿 西の追分 休憩施設施設内には、鈴鹿関跡の調査成果がパネル展示してあるとのことだが時間が早く閉鎖。ここまでの歩数は、3,300歩関宿周辺案内図西追分駐車場この先で国道1号線(25号線)と合流する西の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定める際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋などが整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた、東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。関宿かるた「加太へは 西の追分 大和道」石柱には「亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区」と関宿の西の入口にあたる西追分は、東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。石柱には「南無妙法蓮華経」「ひたりハいか やまとみち」休憩所には、関宿かるた「愛発 不破 鈴鹿で結ぶ 古代関」絵は、まだ明けやらぬ早朝、伊藤本陣を出立する大名行列8:00旧東海道はここで国道1号線と合流、東海道関宿西交差点。ここを左折すると国道25号線で伊賀へ、東海道と大和・伊賀街道の分岐点関宿西の追分から、加太宿(かぶとじゅく)へ向かう旧東海道(国道1号線)の、東海道関宿西交差点ここまで、国道1号線と25号線が併記されていたが、ここで25号線は伊賀(大和街道)へ向かう坂下宿への道案内東海道関宿西交差点を過ぎ、旧東海道は国道1号線をしばらく進む。道路標識は、大津 63km、草津 48km、甲賀 27km。ここの左は「焼肉 びっくりや」があり広い駐車場がある。トラック運転手等が立ち寄っておりテレビでよく紹介されるとのこと街道沿いに「東海道 三宿のまち亀山市」亀山市には大和街道を含むと4つの宿があり、それぞれ同じようなパンフレットが用意されているのでわかりやすい。このパンフレットの作成機関は、「亀山市市民文化部 文化振興局 まちなみ文化財室」弥次さんが「町長の像」があるとのことで、市瀬交差点を南へ進む。鈴鹿川に架かる「ふれあい橋」。奥に進むと「関B&G海洋センター」の屋内プール、運動施設があるふれあい橋ふれあい橋のこのデザインは「キジと石楠花」町長の像とのことだが「躍動」ズームアップ8:14旧東海道(国道1号線)に戻り、国道沿いの会社の駐車場に『転び石』転び石は『東海道名所図会』などにも描かれている。直径2メートルのこの大きな石は、「弁慶ころがし」とも言われ、言い伝えによると付近の山から転がり落ちてきたもので、夜な夜な山に戻りたいとうなり声を出して人々をおそれさせたが、通りがかった弘法大師がこの大きな石を供養したところ、石は静かになったと伝えられている 関宿~土山宿ー続く
2020.04.07
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昨日は移動日で、東海道の七里の渡しの脇街道である佐屋街道を車で走り、亀山のホテルへ宿泊。今日は、東海道延べ日数28日目の弥次喜多道中で、最後の難所鈴鹿峠を越える。2/21(金) 6:50ホテルエコノ亀山所在地:三重県亀山市東御幸町59今日の天気は快晴7:04JR関駅前の駐車場へ留める。一日の駐車料金は300円、係員がいないので袋に入れて関駅舎内のボックスへ投入今日の旅姿は?弥次喜多道中ですのでこちらは幕府の幕臣か 上記2枚の写真は亀山市のパンフレットから引用7:06駅前から国道1号線を横切る。前方左は「道の駅 関宿」、まだ時間が早く閉店状態国道1号線の関駅前交差点から、北方向の関宿の町並みへ進む。予告 通行止「関宿ひなまつり市」 2月29日(土) 9:45 ~ 15:30 区間:アールグレイ ~ 聖石屋 この先の交差点から西方向が通行禁止に!10周年記念 東海道のおひなさま 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)国道1号線の関駅前交差点を振り返る、正面はJR関駅7:11一休庵とアールグレイの間を行くと関駅。関宿の町並み「関宿重要伝統的建造物群保存地区」へ入る。喫茶 アールグレイはまだ時間が早く「準備中」中町の町並みを西へ向かう昨夕はここを車で走っており、もう三回目になるがいつも人が少ない閑散とした中、弥次さんも足を進める昼間は「ひなまつり」で人が多いのか左側に『岩木屋』明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治頃の商家の構えである岩木屋 吉澤家同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒倉から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた右側に『川北本陣跡』石柱の先の建物は、町並文化センタ百六里庭・眺関亭百六里庭:午前8時から午後5時まで開いています。午後5時からはカギをかけます。2階にある展望台から関宿のまちなみが一望できるが、前回上がっているので今回はスルー。関宿かるた「日本橋 関宿からは 百六里」旧東海道五十三次 四十七番目「関宿」西の追分(右側)から東の追分の1.8kmは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。百六里庭(ひゃくろくりてい)とは、東海道の宿場町「関宿」は江戸から106里2丁のところにあったところから名付けました。1里とはおよそ、3.93kmです左前方は『伊藤本陣址』関宿には、川北本陣、伊藤本陣の二軒の本陣がありました。本陣は、参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店部分にあたります。亀山市指定文化財『関の山車』” 関の山車(せきのやま) ” 語源発祥の地 上台がクルクル廻せる関の山車は元禄年間(1688~1703)頃に始まったと言われており、関町史によると文化年間(1801~1817)頃には16台あったとされ、江戸時代、大阪天神祭、京都祇園祭り、近江長浜祭、飛騨高山祭と共に関西五大祭の1つに数えられている。江戸時代に、この狭い街道に16台もの山車がひしめき、この町では大きさ、台数とも、これ以上は無理、精一杯と言う意味で ”関の山車” と言う語源がこの街・この山車から生まれました。そしてこの関の山の特徴は、16台もが繰り出し、街道が狭く追い抜けないため、下台から上の部分だけ廻して方向転換できると言う今では大変全国的にも珍しいタイプの山車となっています。現在山車は、4台のみとなっておりますが、祭礼時には各町で引き廻され、その後4台が一堂に集まり、提灯に灯をともし、一斉に威勢よく、勇壮に上台を廻す様は、絢爛・豪華・幽玄の世界を味わえます。この祇園夏祭りは7月の20日以降の土日に両日に行われますいつもこの車はここへ駐車していた車の中におひなさんが飾られていた関の戸 深川屋陸奥大掾の『庵看板(いおりかんばん)』所在地:三重県亀山市関町中町387関宿のもう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である。赤小豆の漉し餡を求肥餅で包み、阿波の和三盆をまぶした上品な餅菓子である。いつか土産で購入したいものです!深川屋陸奥大掾の向かい側にある『関郵便局』昨夜も見たが建屋内の「おひなさん」街道を進む「旅館 魚藤」の看板があるが東亜足袋店名物 志ら玉ここも時間が早く開店前関宿銘菓(果実入り焼き菓子) 「関の小萬物語」白玉屋 三宅家菓子舗、こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から、赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子を「志ら玉」と名付けて、関の戸と並んで人気があった。二階は手摺の付いた中二階ががある餡はこし餡の、餅菓子「志ら玉」片岡かじや明治末から山林伐採用の打刃物やくわ・すき等の農具の??を営む。明治そのままの・・・・・・・・解読できず・・・・地蔵門前町の風物詩として親しまれてきた地蔵院本堂地蔵院前にある『川音 尾崎家』尾崎家は、関の地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から、屋号をとって川音と称した。同家は、文久頃の建物といわれる、間口7間半、通り庭をはさんで左手に座敷・右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。今は、尾崎酒店になっているが地蔵院本堂所在地:三重県亀山市関町新所1173-2地蔵院の手水舎に、関宿かるた「一休が 開眼供養の 地蔵院」地蔵院(国重要文化財)天平13年(741)行基により開かれたと伝わる。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院。地蔵菩薩が本尊で日本最古の地蔵尊とされている。五代将軍・綱吉の母・桂昌院が関の地蔵尊を信仰し、そのお陰で綱吉が誕生したといわれる。境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています7:30地蔵院門前の町並み、「あいづや」「会津屋」は関宿を代表する旅籠のひとつです。もとは山田屋と言い、お萬が育ったことで知られています。二階に洋風意匠の窓がついた「洋館屋」、米をつく水車の音から名付けられたという、「川音」、伝統のある鍛冶屋など、特色のある町屋が並んでいます会津屋 森元氏宅会津屋は鶴屋、玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である道路にここから、「西の追分 800米」のタイル。ここから先は初めての道中となるかめやま せきの、かわいい「おすいマンホール」はカラー。旧関町(亀山市との合併前)のキャラクター「アスレ」をえがいた蓋。 「アスレ」の名前の由来は「ア(明るく)ス(住みよい)レ(歴史の街)」で「アスレ」だと地蔵院を振り返る7:32旧田中家住宅亀山市指定有形文化財(建造物)「旧田中家住宅」関宿かるた「関宿を つなぐ今人 未来人」 関宿~土山宿ー続く
2020.04.06
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関宿の町並みを散策、地蔵院で今日の道中記を終えJR関駅へ向かう。東の追分から地蔵院まで散策。関宿町並み(黄色の線が歩いた方向)1/21(火) 15:11地蔵院本堂と右側は西追分方向。次回はこの方向へ進む。ここまでの今日の歩数は、38,000歩でした。所在地:三重県亀山市関町新所1173-2地蔵院門前の町並み「会津屋」は関宿を代表する旅籠のひとつです。もとは山田屋と言い、お萬が育ったことで知られています。二階に洋風意匠の窓がついた「洋館屋」、米をつく水車の音から名付けられたという、「川音」、伝統のある鍛冶屋など、特色のある町屋が並んでいますポスト「書状集箱」地蔵院(国重要文化財)天平13年(741)行基により開かれたと伝わる。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院。地蔵菩薩が本尊で日本最古の地蔵尊とされている。五代将軍・綱吉の母・桂昌院が関の地蔵尊を信仰し、そのお陰で綱吉が誕生したといわれる。境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています本堂の扁額「地蔵堂」本堂の欄間に飾られた彫り物竜を中心に地蔵院鐘楼、明治天皇関行在所の石柱地蔵院鐘楼(国指定重要文化財)鐘楼建立:寛永21年(1644)、同移築:元禄13年(1700)、梵鐘鋳造:寛文11年(1671)本堂の左側に、重要文化財「愛染堂」地蔵院の境内の角に、歴史の道の石碑左の石柱は「停車場道」明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備されました。「ステーシッョン道」と呼ばれていたそうです15:19地蔵院を後に、緩い坂を下りJR関駅へ向かう15:25国道1号線の、地蔵院口交差点地蔵院口交差点にある、「関地蔵堂エ 二町」の石柱。案内板は「関宿重要伝統的建造物群保存地区」これより西へ450Mそれにしても長い地区名だ!街道 おんな唄・・・・・・前略・・・・・・・・。坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山 雨の春 負けないは きっと咲く花はつぼみよ関の宿 うす陽も こぼれる石畳江戸日本橋まで、423.8kmのキロポスト地蔵院口交差点とJR関駅の間にある「道の駅 関宿」所在地:三重県亀山市関町新所674-8ここの食堂の、味噌焼きうどん、トンテキが美味しいと!営業時間:9:00 ~ 18:00関駅前交差点の道路標識は、名古屋まで、73km、四日市まで、29km。これから列車で近鉄平田町駅まで戻り、ホテルから愛車で神奈川湘南まで帰るのだ。交差点角に「寿司 鈴鹿亭」15:33関駅前交差点の南に位置する「JR関駅」ここまでの今日の歩数は、39,100歩でした関町観光案内図国道1号線の関駅前交差点この時間帯は、一時間に一本運行、15:59に乗車し、加佐登駅へ帰る関西線(亀山方面) 加佐登駅まで、240円無人駅であったが、売店&観光案内所があった。駅構内の待合室にポスターお土産に「志ら玉」を購入餡は、こし餡観光雑誌で話題の関宿名物「鈴鹿亭の巻寿司」 1本 500円。「厳選素材を歴史ある秘伝の味付けで、心を込めて優しく巻き上げました」をみて、巻寿司が好きな私は欲しくなり、売店へ注文したが既に時間がなくあきらめたが、売店のおばさんから出発時間まで5分あればOKと言われオーダー。おばさんは電話をかけて注文、店へ駆けつけて持ち帰ってくれた。聞くと店は駅前にある寿司屋だった。自宅へ帰宅して深夜に食べたが美味しかった!駅舎内で亀山城のスタンプを捺印出発時間まで時間があり駅舎内の観光案内所で次回の宿泊場所等を聴く。今までは旧東海道沿いに、JR or 私鉄があったが土山宿には宿泊場所、鉄道が無いのでバス利用。JR関駅横にある駐車場1日300円とのことで次回はここへ駐車して、坂下宿、土山宿へ向かうことに15:58JR関西本線「関駅」無人駅でキップを買えずそのまま乗車、15:59発の列車に乗車して亀山へ亀山駅で、16:23発の名古屋行きに乗り換える16:31列車の中から今朝 8:50頃旧東海道を歩いている時、安楽川の和泉橋から見た飛行機。鈴鹿市西冨田町の中古建設機械販店の中にそびえ立っている16:37加佐登駅へ到着。下車の際、車掌と清算したがSUICAが使用できず現金払いJR加佐登駅から愛車を置いているホテルのある近鉄平田町駅まで約3キロあるので、駅前にはタクシーもなく、16:50発のバスを利用することにJRの普通運賃表17:10近鉄平田町駅前へ到着、乗車した鈴鹿市コミュニティバス近鉄平田町駅近鉄普通運賃表大阪難波、奈良、京都、名古屋、鳥羽・賢島 等17:20近鉄平田町駅前からホテルキャッスルイン鈴鹿へ戻り、愛車を受け取り帰路に付く。カーナビは、一般道優先で走り走行距離350km、到着時間は深夜の2時と標示。国道25号線(国1号)から国道23号線を走り蒲郡I.Cを出て、国道1号線へ合流。箱根越えの気温は、-1℃であったがカーナビの予定より早く、0:45に我が家へ到着した。東海道を歩く延べ26、27日目の道中記でした。次回は最後の難関、鈴鹿越えです。 庄野宿から関宿ーEND
2020.03.30
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関宿の「中町の町並み」を進む。1/21(火) 14:51左手前は『関宿体験工房 彩花里 -アカリー 』所在地:三重県亀山市関町中町478関まちなみ資料館入 館 料 :大人=300円、小人=200円 3館共通券:大人:500円、小人=300円開館時間:AM9:00~PM4:30休 館 日 :月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)関宿かるた「夕暮れに 閉める蔀戸(しとみど) すりあげ戸」鶴屋脇本陣 波多野家関宿かるた「泊まるなら 鶴屋か玉屋 会津屋か」鶴屋脇本陣 波多野家脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊まることができた。鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である街道右側に『問屋場跡』岩木屋 吉澤家同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒倉から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。明治17年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治頃の商家の構えである右側に『川北本陣跡』先の建物は、町並文化センター14:54百六里庭・眺関亭百六里庭:午前8時から午後5時まで開いています。午後5時からはカギをかけます。2階にある展望台から関宿のまちなみが一望できます。関宿かるた「日本橋 関宿からは 百六里」無料とのことで二階の展望台へ上る鈴鹿峠方面江戸方面を振り返る再度京方面には、地蔵院が見える旧東海道五十三次 四十七番目「関宿」西の追分(右側)から東の追分の1.8kmは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。百六里庭(ひゃくろくりてい)とは、東海道の宿場町「関宿」は江戸から106里2丁のところにあったところから名付けました。1里とはおよそ、3.93kmです関宿内の名所の案内旧東海道の先を望む。左の石柱は「重要伝統的建造物群保存地区 昭和59年12月10日選定」14:57左手前が『伊藤本陣址』関宿には、川北本陣、伊藤本陣の二軒の本陣がありました。本陣は、参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店部分にあたります。関宿かるた「本陣を 歌川広重 浮世絵に」伊藤本陣は、間口 11間余、建坪 69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である伊藤本陣の右前方にある『橋爪家』同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち大阪のこうの池家と並び称せられる豪商であった。江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入り建であるが、これは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった橋爪家のこの建物は、街道に面して三角形の屋根を見せる、関宿ではめずらしいものです。関宿かるた「丸みある 屋根の形は 起り屋根」めずらしく観光客が現れた。東海道関宿 旅人宿「石垣屋」の、のれんが店先に、旅籠か?三重の古民家ゲストハウス 旅人宿 石垣屋。ネットで見ると、国の伝統的建造物に登録されている町家造りの風格のあるゲストハウス。男女別の布団敷きの和室の相部屋を提供する。無料Wi-Fiを完備と14:59関の戸 深川屋陸奥大掾の『庵看板(いおりかんばん)』所在地:三重県亀山市関町中町387関宿のもう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である。赤小豆の漉し餡を求肥餅で包み、阿波の和三盆をまぶした上品な餅菓子である。いつか土産で購入したいものです!関の戸本舗深川屋(服部家)の『庵看板』瓦屋根のついた立派な看板。看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっています。旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われています町屋の細部意匠関の戸 深川屋陸奥大掾の向かい側にある『関郵便局』関宿のほぼ中心にある関郵便局は、江戸時代には高札場があったところです。右側の案内板の下に『関町道路元標』の石柱このポストは、文化財保護法により選定された関宿重要伝統的建造物群保存地区の街並みとの調和を保ちつつ、みなさんに利用していただけるようにした特別なポストで、京都大阪に設置され現在は東京の逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したものです。日本の郵便ポストは明治5年(1871)の郵便創始あたり、東京に12ヶ所、京都に5ヶ所、大阪に8ヶ所のほか、東海道の各宿駅に62ヶ所設置したのがはじまりです。当時のポストは江戸時代の「目安箱」に似た木製の箱で「書状集め箱」と呼ばれていました関郵便局の前にある『関宿高札場』関宿高札場関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にりました。当時この敷地は「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。関宿高札場はこの御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました15:00町並みを振り返ると、初めて見る観光客が地元ボランティアの説明で『関宿旅篭玉屋』の前に。阪急かクラブツーリズムのツアーであった。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋。またも泊まるなら会津屋か」と伊勢詣の旅人が唄った大旅籠の玉屋(村山家)は歴史資料館として公開されている。江戸後期の玉屋の旅籠賃は一泊二食付きで宿賃202文に茶料48文、合計250文だった(当時の東海道筋の旅籠賃は、200 ~ 300文)旧東海道を進む、前方に今日のゴール点『地蔵院』が見えてくる左前方に「志ら玉屋 前田屋製菓 関店」所在地:三重県亀山市関町中町407志ら玉団子や草餅、みたらし団子も美味しいこしあんの和菓子「志ら玉」店先で弥次さんに一個御馳走になる15:04街道から鐘楼門が見える『織田信孝郷菩提所 天台真盛宗 福蔵寺』天台真盛宗 福蔵寺鐘楼門 所在地:三重県亀山市関町木崎417鐘楼門右にある『薬師堂』御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されております。鐘楼門を入り、福蔵寺本堂、左に観音堂清浄山 福蔵寺のご案内当山は、天台真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本 西教寺)に属します。創建は天正11年 織田信長郷三男信孝公の菩提寺として創建されました。本堂の御本尊は阿弥陀如来です。本堂左のお堂は観音堂で、馬頭観世音菩薩不動明王 元三大師をお祀りし道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております。表門横のお堂は薬師堂で御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されております。裏門横には仇討烈女、関の小萬の墓と碑があります。客殿奥には英照皇太后(孝明天皇后)がご宿泊された書院が現存します(非公開)福蔵寺本堂福蔵寺の創建と織田信孝公織田信長の三男信孝公は本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、神戸の住人旧臣大塚俄左エ門長政に命じこの寺の建立にかかりました。しかし信孝公は羽柴(豊臣)秀吉との後継をめぐる争いに敗れ天正11年尾張の国野間に於いて自害させられましたので長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。この墓は信孝公の墓石不詳のため(事由は不明)四百年忌を迎えた時、菩提を弔うため建立したものです。本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています本堂左に観音堂馬頭観世音菩薩不動明王 元三大師をお祀りし、道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております天台真盛宗 福蔵寺を後にする旧東海道に戻り、関宿かるた「おとら川 主人を逃す 琴の橋」15:10いっぷく亭 地蔵町(関宿散策拠点施設)にあった関宿案内板関宿重要伝統的建造物群保存地区の航空写真上側が京方向15:11地蔵院前にある『川音 尾崎家』尾崎家は、関の地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から、屋号をとって川音と称した。同家は、文久頃の建物といわれる、間口7間半、通り庭をはさんで左手に座敷・右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。今は、尾崎酒店になっているが 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.29
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関宿の散策を続けるが、人通りが少ない。関宿の町並みは、江戸から数えて47番目の宿場町。江戸から明治にかけて建てられて200軒あまりの古い町家が今も残り風情ある雰囲気をかもしだしている。1/21(火) 14:25関宿の町並みの進行方向は緩い坂に同じ場所から振り返るズームアップ弥次さんが街道右側の路地を入いる。左下の道標には「不動尊 弘善寺」、道路面にも「弘善寺 60米」14:29露地を入ると『弘善寺山門』所在地:三重県亀山市弘善寺本堂街道に出て振り返る(東追分方向)と、角にフランス料理の「Cercle セルクル」ネットではランチが美味しいとCercle セルクルの向かい側に、案内板には『御馳走場』御馳走場は関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所。関宿には四カ所の御馳走場がありました。関宿かるた「うち揃い 殿様迎える 御馳走場場」手づくり郷土賞 建設大臣 野田 毅 歴史をいかした町並み 三十選 平成元年七月鮮魚青果物商 遊快亭昔は、この店と手前(一部のみ)の家が『開雲楼と松鶴楼』この二軒は関を代表する芸妓置店でした。東側の開雲楼を見ると、表の竪繁格子や弁柄塗りの鴨居や柱、こった意匠の二階手摺りや格子窓などにその面影を残しています関宿町並みの北側に位置する「大井家」街道方向を見る、左側に「大井家」大井家は、代々玄庵を名乗り医家であった。明治初年には西洋医学を学び種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。「本草網目」など医学書の他、江戸末期の往診用の駕籠、医療機器などの一部が遺されている14:34関神社所在地:三重県亀山市関町木崎675関神社について明治5年頃、この神社は熊野皇大神社と呼ばれていた。昔関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、境内の梛(なぎ)の木は、それに縁があるものと思われる。江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれた境内に入り二の鳥居関神社拝殿拝殿の扁額「関神社」関神社入口にある「木崎町(こざきちょう)山車倉」関宿の山車は、最盛期には十六基あったが、現在は四台の山車が残り四カ所に山車庫が残っている木崎町山車木崎町は関宿の東側の地域で、江戸時代には、神事構・宮構の二基の山車があり、各町の山車を宮の前(関神社)へ曳き込む際の先達を交互につとめていましたが、明治時代に二基とも廃止され、現在の木崎町山車にまとめられました。山車は、滋賀県水口町から購入したものと伝えられています。山車前部には、参加する町内各組の名前が書き込まれた提灯が並べられ、山車の周囲を飾る紅提灯には、「五七の桐」の図柄が用いられています。見送り幕は、風景をあしらったものと、「がま仙人」の図柄の二種類があり「がま仙人」の見送り幕を用いると雨が降ると伝えられています木崎町山車は、現存する四基の中でも最も規模が大きく、四つの御所車の上に囃手が座る囃場があり、その上に天場が乗る二層露天式といわれる構造形式です旧東海道に戻り街道の南側に「関の山車会館」所在地:三重県亀山市関町中町531関の曳山は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)から伝わるお祭りです。最盛期には、16基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾り付けて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味が用いられる「関の山」という言葉の語録になりました。現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭りは毎年7月下旬の土・日曜日に開催されています関の山車会館山車庫には巨大な山車や関連のものが展示してある入館料: 関の山車会館単独入館料 大人=300円、小人=200円 関宿旅籠玉屋歴史資料館・関まちなみ資料館・関の山車会館3館共通入館料 大人=500円、小人=300円開館時間: AM 9:00 ~ PM 4:30 休 館 日 :月曜日(月曜日が休日の場合は翌日) 百五銀行町並みに配慮した意匠の銀行。平成9年度、三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞した百五銀行 関支店所在地:三重県亀山市関町木崎588和洋レストラン 山石所在地:三重県亀山市関町中町521 百五銀行関支店前??・明治・大正・昭和の雰囲気の中での???いかがですか!!美味しそうな幟「名物 亀山みそ焼きうどん」いい雰囲気であったが、生憎玄関先に「忌中」の貼り紙。いつか国道1号線を走るとき立ち寄りたいものです、”9”の付く日はステーキ定食が半額!営業時間:8:00 ~ 21:00 で、無休?店の角に道標南:関駅、東:江戸、西:京都関町 関宿 の案内石が左下に関町 関宿国選定 重要伝統的建造物群保存地区10周年記念 東海道のおひなさま 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)馬つなぎの環金具(わかなぐ)玄関の柱に打ち付けられた馬をつないだ環金具。土台などの低い位置にあるものは、牛をつないだものです。関宿かるた「環金具に 手綱つながれ 馬や牛」中町の町並みを進む幟がたっており、人通りはないが商売はしているようだ14:47曹洞宗 瑞光寺所在地:三重県亀山市関町木崎799権現柿関宿かるた「瑞光寺 今も実りの 権現柿」瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、三河国(現在の愛知県)宝飯郡に生まれ、幼少の頃徳川家康と親交があった。永隆の弟子隆眞が、元和元年(1615)に記録した「開山和尚伝」によると、家康は、上洛の際当寺永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから、後世、この柿を「権現柿」と呼ぶようになった。瑞光寺は、応永4年(1371)の創立といわれ、小野川の上流にあったが、兵火により焼失した。その後、永禄~天正年中(1558~1591)に、当時の亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として現在の地に移し再興したと言われている瑞光寺本堂本堂の扁額「瑞光禅寺」観音堂鬼瓦関宿かるた「平家の血 関氏家紋 揚羽蝶」鐘 楼手前に石柱があるが判読できず14:49観音堂と本堂(右)観音堂の扁額 庄野宿~関宿-続く
2020.03.28
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世の中、新型コロナウイルスで騒いでいる中、東海道五十三次のゴール三条大橋への道中を計画、天気予報から3月20日(金)に三泊四日で、弥次さんと車で甲賀市の水口宿へ移動。一日目は、水口宿の水口石橋から草津宿手前のJR手原駅まで歩く、一日の歩数は40,563歩。二日目は、JR手原駅から大津宿のJR大津駅まで歩く、一日の歩数は41,010歩。三日目は、JR大津駅から三条大橋へ歩き13時にゴール、ここまでの歩数は25,700歩。2018年2月15日(木) に江戸日本橋をスタートしてから25か月、延べ日数32日目での達成。なお、今回の延べ日数30~32日目の道中記は後日アップします。三日目(3/23)の朝6:09 ホテル部屋からの日の出3/23(月) 13:00快晴の三条大橋交差点へ到着三条大橋交差点から振り返る鴨川に架かる三条大橋新型コロナウイルス問題前の人出を知らないが観光客が少ない感じ弥次さんと記念写真通りがかりの人に依頼して撮影願う。タオルは弥次さんが袋井宿で購入して準備していた。江戸日本橋から、約2年間(25カ月)、延べ日数32日で完歩したツアーに参加すると、「完歩証」、「トロフィー」がもらえるのだが弥次さんが作成してくれた「完歩証」著作権で削除しました。三条大橋を渡り、橋の西側にある「弥次さん喜多さん像」へ鴨川の上流側三連休後の月曜日であったが、河川敷には多くの若者が同下流側河岸には、柳が芽をふき、桜も一部咲き三条大橋この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造を もつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは、天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった弥次さん喜多さん像の前で記念写真弥次さん喜多さん像旅友のKさんは私を、「女性好き、喧嘩が強く、豪放磊落な性質」と言うが。延べ日数32日で完歩したが、弥次さんとの道中記は28.5日であった京阪電車 三条駅ビル乾杯したかったがこの後、大津市の瀬田のホテルへ戻り運転をして帰るので飲めず歌川広重の『東海道五拾三次 京師 三条大橋』二日目の昼過ぎから左ひざの古傷に傷みが発生、三日目の朝はどうなるかと思ったが、どうにか完歩できた。 ENⅮ
2020.03.27
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太岡寺畷(たいこうじなわて)を西へ進む。鈴鹿川の左岸(北堤)約2kmの太岡寺畷は東海道で二番目に長い。当時の道は松並木だった。現在は一部に桜並木が残る。1/21(火) 13:46鈴鹿川の西方向名阪国道(国道25号線)のカルバート下に描かれた、歌川広重三重県下七つの宿上の高架橋は、東名阪自動車道、右は名阪国道(国道25号線)鈴鹿川に架かる、左は名阪国道(国道25号線)、右は東名阪自動車道太岡寺畷橋太岡寺畷橋から、旧東海道を振り返る鈴鹿川の上流の鈴鹿山脈太岡寺畷をひたすら進む、前方には鈴鹿山脈の山並み、天気がよければ最高であったであろう前方に何もなく旧東海道を振り返る、青空が出ている。東名阪自動車道の高架橋農村集落排水処理場か?田んぼの中には「小野地区土地改良事業 竣工記念碑」鈴鹿川 河口より 26km太岡寺畷もようやく終了、右前方にJR関西本線の踏切が見えてくる鈴鹿川の堤防に「河川の維持管理を行っています」14:00JR関西本線の小野踏切同踏切から亀山方面を望む、高架は東名阪自動車道国道1号線の小野川橋東詰交差点鈴鹿川の支流、小野川を渡る。日本橋から422.4kmのキロポスト14:05小野川を渡り右へ進み関宿へ入る。国道1号線の右側に「東海道五十三次 関宿」の看板。ここまでの歩数は、33,800歩になっていた亀山ライオンズクラブ 45周年記念事業 2011廻りの山々が描かれている関宿総合観光案内図関宿は東追分から、木崎の町並み、中町の町並み、新所の町並み、西追分と西方向へ歩く右側に『関の小萬(こまん)のもたれ松』現在は松は枯れているが関の小萬(こまん)のもたれ松江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿・一女小萬を産んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。 「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」 (鈴鹿馬子唄)旧東海道の木崎の町並みを進むせきのおすいマンホールこのデザインは関宿を歩く旅姿がかわいい関宿は天武天皇の命により飛鳥の都を守るために設けられた日本三関のひとつ、鈴鹿関は延暦8年(789)廃止されたが、鎌倉時代に再び関所が設置され、地名の由来となった。室町時代中期には宿場の機能を有し、中世には地蔵院の門前町として発展した。関所はその後、織田信長によって再び廃止。東の追分は伊勢別街道、西の追分は奈良へ通じる大和街道との分岐点として重要な宿場でった。城下町の亀山宿での宿泊を避けた大名や伊勢参詣の旅人が多く宿泊し「関は千軒、女郎屋は沽券、女郎屋なくして関たたぬ」と歌われたほど、旅籠のほとんどは飯盛旅籠だった14:14東の追分、伊勢神宮の鳥居、関一里塚ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています木の根元に一里塚の石柱関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめてで、これが地名の由来ともなっています。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅としてまた伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。関宿かるた「暗い道 ほのかに照らす 常夜灯」、「のんびりと 旅人休む 一里塚」関宿の名物は火縄で火縄銃に用いたほか、火種の保存にも多く使われた。大名からの需要のほか旅人が煙草用に買い求めた。もう一つの名物、深川屋の餅菓子「関の戸」は、江戸時代を通じて朝廷に献上された銘菓で、今でも関の名物である町並みは「亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区」 昭和59年12月10日 選定されている木崎の町並みを進むが人通りがなく木崎の町並み観光客も少ないのか14:20いっぷく亭 木崎 関宿散策拠点施設 となっていたが閉まっていた関宿かるた「盛信が 天正年間 町づくり」タクシーを呼べる場所のようだ隣からの侵入防止か?昼間というのに人がいない緩い坂を登る14:23宝林寺山門所在地:三重県亀山市関宝林寺本堂春には本堂前の桜が綺麗に咲く 庄野宿~関宿-続く
2020.03.27
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旧東海道の野村一里塚から関宿へ進む。1/21(火) 13:03野村一里塚を振り返る13:08旧東海度を進むが、新築された民家も格子戸大工の匠の技が継承されているのだと一安心するこちらの家も、一階の屋根裏があるのか13:10街道の左側に杭が亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡打田家は江戸時代初め頃近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。打田権四郎昌克(1641~1758)は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を編さんした大庄屋跡を振り返る、バス停は「野尻」小雨の中旧東海道を進み、街道はこの先を右方向へ13:12街道角に東海道の案内板毘沙門天所在地:三重県亀山市布気町毘沙門天前から街道を振り返る旧東海道を進む、雨が心配だが街道の左側に鬱蒼とした森があり、石鳥居13:15布氣皇舘太神社(ふけこうたつだい)所在地:三重県亀山市布気町1663拝殿までは百メートルほどありそうだ、既に弥次さんは参道の先に布氣皇舘太神社延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。・・・・・・・・・・・・布氣皇舘太神社拝殿南側から上ってきた鳥居本殿横の境内社布氣皇舘太神社本殿北側にある旧東海道へ戻る13:23旧東海道を進み、右側に古民家があり庭に石があるが?旧東海道を振り返る「神辺簡易郵便局」所在地:三重県亀山市布気町16213:25旧東海道の坂を下る前の左側に『昼寝観音』入口に「????翁頌徳碑」昼寝観音堂の前から『地蔵堂』、旧東海道昼寝観音から坂を下る坂を下ったところに案内板左側から下ってきた13:32旧東海道の案内板県道565号線、JR関西本線を越える陸橋を登る陸橋の下は、県道565号線、JR関西本線、関方面前方の高架橋は関バイパス(国道1、25号線)陸橋から降り、太岡寺畷(たいこうじなわて)へ向かう前方の高架橋は、関バイパス(国道1、25号線)。右下は県道565号線の布気交差点13:40太岡寺畷は、鈴鹿川の北堤に約2km続く東海道一の長畷。春は桜が満開に咲き誇る鈴鹿川の流れ。鈴鹿川沿いの太岡寺畷を西へ進む太岡寺畷(たいこうじなわて)のいわれ畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。太岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹透し」と詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。かつては、「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり」と謡われたほどの松並木で、大田南畝(蜀上人)が享和元年(1801)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり此間18町にて太岡寺縄手といふ」とあります。なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられます伊勢ノ国 亀山まほろば街道保存のための協賛企業一覧太岡寺畷における桜の名所づくり春になると桜の名所になる太岡寺畷を振り返る13:46名阪国道(国道25号線)のカルバートを振り返るカルバート下には『東海道五十三次と歌川広重』の三重県下の七つの宿の絵が描かれていた。掲示されているこの作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました東海道五十三次『桑名』東海道五十三次『四日市』東海道五十三次『石薬師』東海道五十三次『庄野』東海道五十三次『亀山』東海道五十三次『関』東海道五十三次『坂之下』 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.26
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亀山城京口門・梅巌寺から坂を下り、今日のゴール点関宿へ向かうが、JR関駅まではまだ一里強ある(約5km)。1/21(火) 12:32旧東海道の京口坂から、梅巌寺を振り返る旧東海道の京口坂を下り、竜川に架かる京口坂橋から北側を望む下の川は、竜川京口坂橋京口坂を下りる。旧東海道は色分けしているので進行方向がわかりやすい。坂の下の左側に休憩所があり、トイレも完備していた京口坂の右下にある『日蓮宗 妙亀山 照光寺』山門前にある『東海道五拾三次 亀山 雪晴』当山、東下の竜川よりのぞむ、京口門の勝景。旧東海道の京口坂は、大正時代半までその面影を留めていた。亀山宿12:36日蓮宗 妙亀山 照光寺所在地:三重県亀山市野村3丁目1-4照光寺本堂左端は『史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑』赤堀水之助(源五右衛門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右衛門の許に身を寄せ、その推挙によって禄150石を賜り、馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄14年(1701)5月9日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟に父兄の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が29年目にようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の仇討ち」として著名になり、仇討ちが行われた石坂門跡には、昭和7年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が立てられた照光寺の文化財妙亀山照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公(在任 元禄元年~宝永6年)の養母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。境内西にある墓地には、「赤堀水之助墓」、及び「山本善太墓」があり、いずれも市史跡に指定されている。山本善太は、阿波(現徳島県)の生まれで、天保2年(1831)32歳のとき亀山藩主石川総安公(在任文政3年 ~ 天保4年)に儒学者として召抱えられた。藩校明倫舎の教授となり「海内医林伝」など多くの著書を残したが、天保8年(1837)7月、38歳の若さで病没し、ここ照光寺に葬られた。その子一学(退職)、孫三省も明倫舎の教授を引き継ぎ、親子三代で石川家の儒臣として仕えた亀山における谷口一族関連資料は、京都の町人で法華信徒であった谷口長右衛門自榮(法悦)及びその一族が全国の街道沿いや寺院などに行った寄進活動のうち、亀山市域における状況を示す資料群である。照光寺に所在する谷口一族関連資料は次の四点である。 一、照光寺蔵谷口一族寄進題目塔 一、照光寺蔵谷口一族寄進紙本著色涅槃図 一、照光寺蔵谷口一族寄進軸装涅槃図裏面墨書 一、照光寺蔵谷口一族寄進断簡涅槃図裏面墨書 ・・・・・・・・・・・・・。旧東海道に戻り、照光寺を振り返る街道沿いの民家の土蔵12:41一休処骨董カフェ所在地:三重県亀山市野村3丁目2-11営業時間:11:00 ~ 17:00名物 伊勢うどんの幟があったが森家住宅 主屋一棟 国の有形文化財(平成23年) 亀山宿・関宿間の野村集落に所在。旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である切妻造桟瓦葺で正面に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。妻を漆喰で塗り込め、正面は上屋を黒漆喰真壁、下屋に格子を設けるなど町屋的な表構えを見せる元旦を過ぎているが、玄関先のしめ飾り「笑門」旧東海道を左側に入り直ぐに小さな『心光寺』心光寺本堂本堂手前のこの碑は『彫刻 心光寺 十一面観音坐像』12:46旧東海道を進むと右手に『光明寺』所在地:三重県亀山市野村3丁目5-51浄土真宗 本願寺派 光明寺本堂前から山門を望む旧東海道を進む、この辺りは野村三丁目古民家の連子格子が続く12:50旧東海道左側に『浄土宗 亀鶴山無量院 慈恩寺』所在地:三重県亀山市野村3丁目18-1山門の右側に「阿弥陀如来」の石柱が立つ山門横に立つ「木造阿弥陀如来立像」慈恩寺本尊の阿弥陀如来立像は、亀山市はもとより三重県を代表する優品である。現在は浄土宗寺院の本尊として信仰されているが、薬師如来の可能性も指摘されている。伝来については、近在の忍山神社の神宮寺であった神福寺の本尊と伝えられるが、不明な点が多く詳しいことはわからない。像高161.9cm、蓮華座上に両足をそろえ、胸をそらすように・・・・・・・・・・。山門を入り境内へ本堂の扁額「亀鶴山}鐘 楼「慈恩寺縁起」によると本寺は神亀5年(728)聖武天皇の勅願によって、僧行基が野村に創建した薬師寺(長福寺)に自作の薬師如来を安置したことに始まると伝えられる。文明4年(1472)兵火により焼失。永正8年(1511)寺観を整え、天正3年(1575)には法相宗から浄土宗に改宗したが、その際、薬師如来を阿弥陀如来に改作したといわれる。天正11年(1583)羽柴秀吉の亀山攻撃で再び焼失。正徳6年(1716)に至り長福寺を慈恩寺と改称した。文化2年(1805)本堂が全焼したが、本尊は焼失を免れ現在に至る12:55鈴鹿亀山 まちかど博物館「亀山っ子」市民宣言展示場に匠の技、「忍山神社の傘鉾」、いろんな竹細工を展示12:56野村一里塚休憩所の向かい側にある「焼肉長治郎」に掲げられた説明板。『明治天皇御召替所跡:内池家主屋』明治13年5月、明治天皇は東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝されました。東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸されました。亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままのようすを見分するため、野村の高平(高飛山のことか)で、5月11日、12日に勢揃いを御覧になりました。その折、当家で御休みになり、御茶料として三円を下されました。現在・「焼肉長治郎」所在地:三重県亀山市野村3丁目17-23野村一里塚休憩所にあった近場の説明板前方右側に大きな木が現われる13:00野村一里塚ここまでの今日の歩数は、28,000歩に。所在地:三重県亀山市野村26町737-1史跡 野村一里塚の石柱説明の石碑があったが、よく見ると、一里塚は、江戸時代・・・・・中略・・・・・・・その上に樹木を植えた。この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5メートル、高さ20メートルの椋(ムク)の木がある。本県における旧東海道においては、桑名宿から坂の下宿の間に12か所の一里塚が設置されていたが、今、残るものはこの一里塚だけであり、わが国交通史上貴重な遺跡として、昭和9年1月22日国の史跡として指定された。別の説明場がなく苦慮しました樹齢400年の椋(むく)の木野村一里塚を後にするが電柱電線が景観を失っている旧東海道を振り返る13:03国の史跡としては、一考を! 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.25
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亀山城址から旧東海道に戻り亀山城京口門へ進む。1/21(火) 11:45亀山城帯曲輪・二之丸広場亀山城二之丸・帯曲輪亀山城楠門跡二之丸から本丸へ通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した山嵜雪柳翁遺剱之碑山崎雪柳軒は、文政11年(1828)の生まれ。利右衛門と称し、雪柳軒は雅号。槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫、さらに伊庭軍兵衛に心形刀流を学んで免許皆伝を得慶応元年(1865)、亀山に演武場を開いた。・・・・・・・・・・12:02石坂の左側にある『石井兄弟敵討の碑』、工事現場の中にあり分かりずらかった。延宝元年(1673)に信濃小諸藩、青山宗俊の家臣、石井宇右衛門宗春が、同僚の赤堀源五右衛門に殺された。宗春の長男・三之丞と次男・彦七は仇討をすべく、出奔した源五右衛門を追うが八年後、三之丞は返り討ちになり、次男は・彦七は海で遭難死してしまう。残った14歳の三男・源蔵と11歳の四男・半蔵が仇討をすることになった。二人は源五右衛門が水之助と名を変えて亀山藩に抱えられていることを突き止め、藩士の奉公人になり城内に入った。父を殺されてから29年目の元禄14年(1701)5月9日朝、下城してくる源五右衛門を待ち受け、石坂門を出たこの坂で討ち取った石井兄弟敵討の碑を振り返る亀山城の外堀左に先ほどの土蔵のあるお屋敷と右に蔦が生い茂る町家石坂(県道302号線)から、この先の坂を右に行くと旧東海道(県道647号線)。弥次さんが進む角に「東海道亀山宿の碑」がある12:07西町問屋場跡から、北方向の亀山城多門櫓を望む西町問屋場跡東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋9が、十日あるいは二十日程の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当していた。・・・・・中略・・・・・・・・。なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている旧東海道(県道647号線)を西方向へ進む軒先には「東海道亀山宿 西町 ひのや(日野家)跡」岡田屋本店前で記念写真玄関先には「東海道亀山宿 西町 おかだや(岡田屋)跡」12:10旧東海道の左側に道標左:停車場道、右:東海道道停車場道とは、明治23年四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通したとき、亀山停車場への道として整備されました。「ステーション道」と呼ばれていたそうです反対側の道標は、左:東海道、右:郡役所東海道と亀山城西之丸へ向かう分岐点に石標が立っていた。西之丸には、亀山藩の家老を努めた加藤家の屋敷跡が残っている加藤家の屋敷跡へ至る道は、わざと鍵の手に曲げる、いわゆる「枡形」と呼ばれる形態をとっており、城下町特有の防衛上の痕跡を見ることができる二階の構造をズームアップ枡形の隅に「青木門跡」亀山城の搦手門で、亀山城に泊まった徳川家康がこの門を通るときに、門一帯にアオキが茂っていることを称賛したことから青木門と呼ばれるようになったと伝えられます12:12旧東海道から北側に入り『加藤家屋敷跡』所在地:三重県亀山市西丸町545-1白と黒の対比が美しいなまこ壁を施した土蔵や長屋門など、武家屋敷の姿を今に伝える建物が残されています加藤内膳家は亀山藩主・石川家の石高600石の家老で、亀山城西の丸に屋敷を構えた。文化9年(1812)、二の丸御殿が焼けたとき、殿様の仮御殿となったほどの大きな屋敷だった。明治以降に母屋はじめほかの建物は移築されたが、屋敷地と長屋門、土塀、土蔵が残った。現存の長屋門は、亀山市により幕末の姿に修復された亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡、加藤家長屋門及び土蔵開館日時のご案内 開館日:土・日・祝 開館時間:9:00 ~ 16:30 入館料:無料 訪問した日は休日で見学できず加藤家屋敷の西側にある「西之丸庭園」所在地:三重県亀山市西丸町556-612:16旧街道に戻り進むと、左手に『旧舘家(たちけ)住宅(枡屋)』枡屋は幕末から大正にかけて呉服屋を営んでいた大店で、現在の主屋は明治6年(1873)に建てられました。亀山宿を代表する商家建築として平成19年に市指定文化財(建造物)に指定された。西側に立派な土蔵がある格子に「東海道亀山宿 西町 ますや(枡家)跡」見学可能だが、ここも開館日は、土・日・祝 で見学できず旧東海道の南側に『善導寺』があるが見忘れたので、3月20日(金)水口宿に車での移動日に、再度立ち寄り撮影しました。浄土宗 善導寺所在地:三重県亀山市西町327元は亀山城本丸付近にあり、岡本宗憲が築城するにあたって現在地に移転したと伝えられる古刹です山門から本堂梵鐘の無い鐘楼太平洋戦争で供出したのか裏門からの境内12:17旧東海道を右に曲がり北上する旧東海道を振り返る(南方向)12:18亀山城西之丸外堀弥次さんを見失い携帯電話で所在を確認してしばし待機。東方向は先程行った、亀山市城西地区コミュニティーセンター・西之丸庭園、加藤家屋敷亀山城西之丸と外堀亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体とし、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からなり、天守もあげられていたとされます。寛永13年(1636)本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷他のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。・・・・・・・・・12:20西之丸外堀築造技術今回の西之丸外堀復元に伴い平成21年度に行った発掘調査で、外堀の基礎とみられる構造体が確認されました。また、同年実施の亀山中学校改築工事に伴う西之丸発掘調査においても、同様の外堀基礎構造体が確認され、外堀の築造方法が明らかになりました。ここでは、比較的遺り具合のよかった亀山中学校内で確認された例をもとに説明します。写真は左:出土した外堀の基礎構造体、右:③の割竹の編み込み12:27旧東海道を進む塀に「東海道亀山宿 西新町 しおや(塩屋)跡」旧東海道の緩い坂を下る、弥次さんが右側へ12:30京口門跡亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。「九々五集」によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。大正3年(1914)、京口橋が架けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった歌川広重「東海道五十三次」のうち「雪晴」をはじめとする風景画の舞台として著名である 歌川広重 東海道五拾三次内亀山『雪晴』(保永堂版)京口門跡近くにある『梅巌寺』所在地:三重県亀山市市ヶ坂町671境内へ入る弥次さん雪景色亀山城は広重の画に見るがごと石垣高し 伊藤宜之浄土宗 純一山常壽院 梅巌寺 山門梅巌寺 本堂亀山藩主石川家菩提寺亀山城付近には、亀山藩主石川家菩提寺である、梅巌寺、本宗寺、本久寺があります。これらの寺はもともと亀山にあった寺ではなく、石川家の転封にともない移転や創設されたものです。石川家歴代藩主の墓は大部分が江戸の大久寺にあり、亀山にはありません。なお、本宗寺本堂は、亀山城三重櫓の旧部材を使って建立されたものです境内の梅梅巌寺『鬼瓦』梅巌寺『鬼瓦』縁起明治45年(1912)5月本堂が全焼。その後、大正2年(1913)7月再建された当時の鬼瓦である。昭和59年(1984)5月、屋根葺き替えにより役目を終え、境内に安置される。亀山藩主 石川家の菩提寺であるため、瓦に「笹竜胆」の家紋がおかれている。遍照寺の鬼瓦にも笹竜胆の家紋があった 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.24
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遍照寺の住職のお母さんか奥さんから軽い説明を受ける。1/21(火) 11:18遍照寺本堂本堂は、天保14年(1843)7月に火災で采皆鳥有に帰した。十八世圓明上人代(明治6年)、豪商佐川源治氏の発起により、亀山藩二之丸御殿の式台と玄関が移築された。現在の本堂は、その面影を留めている唯一の建造物である。正面玄関には、石川藩の笹龍胆(ささりんどう)の家門がそのまま残され、千鳥破風の下り棟には、上り亀と下り亀の装飾瓦が対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を寿いでいる。破風の三角形の頂点に、欅造りの懸魚が下がっている本堂の上には、石川藩の笹龍胆の家門欅造りの懸魚 ?千鳥破風の下り棟には、上り亀装飾瓦下り亀の装飾瓦が対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を寿いでいる本堂屋根に鯱本堂柱に「本尊 阿弥陀三尊 鎌倉時代」本尊の阿弥陀如来立像は、快慶の弟子の行快の作とみられます。脇侍の勢至菩薩立像は慶長4年(1252)院春、観音菩薩坐像は、同年、院寛の作です。いずれも県下のみならず全国的にも貴重な鎌倉時代彫刻の作例として、本尊は平成11年に、両脇侍は平成14年に三重県指定文化財(彫刻)に指定されています本堂前の境内には、弘法大師二十一像、無縁納骨塔、慈母観世音菩薩像が並ぶ境内から坂を登り鐘楼門へ鐘楼門と街道の間に遍照寺の鐘楼門を振り返る。天台真盛宗 延寿山地蔵院 遍照寺旧街道を下り軒先には「東海道亀山宿 万町 だいさく家(大作家)跡」カラーの亀山市のおすいマンホールのデザインは亀山城とハナショウブ旧東海道を進むと左側に『真宗高田派 梅照山 誓昌院』所在地:三重県亀山市西町544境内へ入り本堂鐘 楼鐘の撞き棒はヤシの木本堂前から鐘楼、山門街道を下りきった所に、大きな屋敷があったが悲しい姿に、今にも塀が倒れそうだ。屋敷内には大きな土蔵が建つ昔は「東海道亀山宿 万町 あらものや(荒物屋)跡」であったようだが街道を進むと、蔦のツルの枯れた町家右側は、かつて亀山城の外濠だったところで前方に亀山城の多門櫓。亀山城へ立ち寄ることに、県道302号線を北上するが工事は何をやるのか?県道302号線の西側に、天然記念物『池の側松並木』亀山城石坂門から池の側(外濠)に沿って植えられた松並木で、昭和26年市天然記念物に指定された伊勢国亀山藩主板倉・石川氏の交替。伊勢亀山藩主板倉勝澄が、延享元年(1744)備中松山(岡山県高梁市)へ移った。板倉氏は重常が初めて入城した寛文9年(1669)以来五代に及ぶ亀山領有が終わり、石川総慶が備中松山から、亀山に替わった。石川氏は、昌勝(憲之)の時代に慶安4年(1651)から、寛文9年まで亀山に在職したので75年ぶりに旧領に戻った。板倉氏とは、二度目の交替になる。延享以後、板倉・石川両家中とも松山・亀山に、126年間の長きに渡り定着し、明治4年(1871)の廃藩置県に至った。総慶は、亀山に替わったときに、備中に一万石(十三ヶ村)の飛地領を残し、備中中津井村(岡山県上房郡北房町)の陣屋には、代官所が置かれていた。領界を示す「従是東北伊勢国亀山領」の石柱が、現在も陣屋跡に保存されている。この案内板は、姉妹提携を結んでいる亀山、高梁両ライオンズクラブより贈られたものである昭和56年2月 亀山・高梁 両クラブ姉妹提携記念 平成元年3月 建立県道302号線を北上すると左手(西方向)に、亀山市立亀山中学校道路脇に融雪剤の、ロードクリーン「塩化カルシウム(粒状)」伊勢亀山城の多門櫓飯沼慾斎生誕之地の石柱慾斎(1783~1865)は、亀山西町で西村守安の次男として生まれました。12歳で美濃大垣の飯沼長顕のもとに身を寄せ、後に飯沼家に養子に入りました。京都で漢方医学と本草学を学び、さらに江戸に出て蘭学を修め、大垣で医者を開業しました。50歳で引退後、研究に没頭しわが国で初めてリンネ分類法による植物の分類を行い、『草木図説前篇』を著しました。旧来の本草学を科学的に立証された植物学へと転化させ、また、火薬調合や写真撮影法の研究を行うなど、わが国の近代科学の礎を築いたひとりです11:34史跡 亀山城址所在地:三重県亀山市本丸町575-2今回も続日本100名城に入らなかった『亀山城』ここまでの歩数は、23,600歩伊勢亀山城は、鎌倉時代の文永2年(1265)に関実忠により築城された。江戸時代初期の寛永9年(1632)、丹波の亀山城の天守の解体を命ぜられた堀尾忠晴が伊勢亀山城と勘違いし、天守が取り壊された。城主三宅康盛は一万二千石に過ぎなかったため、「天主は贅沢だ」と取り壊されたと思ったという話が残る伊勢亀山城伊勢亀山城は、鎌倉時代の文永2年(1265)、若山(亀岡市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末頃の空堀が確認されている。天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体・・・・・・・・・・・・。寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、・・・・・・・・・・・・・・。城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎えることとなる旧亀山城多門櫓と手前に「与助井戸」多門櫓は見学できるが、開館日:土・日・祝 10:00~16:00 無料訪問日は火曜日で休館亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓与助井戸亀山城本丸で使用されてきた井戸です。天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際、この場所にあった民家「与助鍛冶」を城外へ移したとの伝承から「与助井戸」と呼びならわされてきました。場外への抜穴伝説がありますが、確認されていません亀山城及び城下の歴史まちづくり案内亀山神社所在地:三重県亀山市西丸町570二の鳥居へ江戸時代中期の延享元年(1744)、備中国松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが当社の創始。以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂神社として崇敬された。石川氏の祖である源義家と、六男の源義時、石川義純、石川家成が御祭神。明治4年(1871)、城北の若山の地に遷座し、明治9年(1876)に再び城内の本丸跡に遷座、村社に列し、明治14年(1881)に郷社に昇格しました亀山神社拝殿亀山神社拝殿の右側に「出世稲荷」亀山神社の南側にある、市指定有形文化財建造物『大久保神宮家棟門』門を入ると「亀山演武場」の石柱門に「第43回 日本古武道演武大会」のポスター 開催日2月2日(日)宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎部宝篋印塔基礎部この宝筐印塔基礎部は、この地にあった善導寺が西町へ移転された時に残されたものとされ、昭和26年の西小学校運動場拡張工事の際、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔などと共に発見された。石材は花崗岩を用い、高さ53.1センチ、幅76センチの基礎と、二段の塔身を受ける部分からなる。基礎の四面はいずれも素面であり、輪郭や格狭間はない。銘文は・・・・11:42亀山公園 案内図昼前になりコンビニで購入したパン・おにぎりを食べ休憩ますみ公園に面してある機関車C58359号の概要この機関車は昭和19年1月27日に川崎車両神戸工場において製造され戦時から戦後の復興期を経て今日に至る26有余年雨の日も風の日も力強く走り続けてまいりました。そして機関車が果たした功績は、まことに輝かしいものがあります。しかるに時代の変せんと国鉄近代化計画によりなじみ深い姿を鉄路から消すことになりました。・・・・・・・・・・・・綺麗に塗装されていたが、定期的にメンテしているのか。展示するためにここへの輸送費がどのくらいかかったかと思いを巡らせ・・・・・。機関車の製造年、機番 庄野宿~関宿-続く
2020.03.23
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亀山宿は、いつごろ町が立てられたかは定かではありませんが、文明14年(1482)の文書に「亀山」とあることから、15世紀の終わりには町が成立していたとみられ、発掘調査の結果もこれを裏付けています。16世紀中頃には亀山城が築かれ、以後は関氏の城下として発展したことがうかがえます。江戸時代には東海道53次の江戸から数えて46番目の宿場町として、露心庵から京口門までの約2.5kmにもおよぶ宿となります。宿の置かれた亀山町は東町・西町からなり、さらにその中が9つの町に分けられていました。1/21(火) 10:44屋号札の掲示された亀山宿の東新町へ入る。軒先には「東海道亀山宿 東新町 まつばや(松葉屋)跡」新しく建替えられたと思われるこの町家も、伝統様式を踏襲されています軒先には屋号札の「東海道亀山宿 東新町 まつばや跡」亀山城下と併せた町の規模は大きいのですが、本陣・脇本陣は各一軒しかなく、江戸後期の段階で旅籠も21軒と多くありません。伊勢参拝の経路からは外れているため、紀行文などでは「さびしき城下」と表現されていることもあります。本陣や高札場など宿の主要な施設は失われていますが、宿内の随所にかつての面影を留めています。軒先には「東海道亀山宿 東新町 なべや(鍋屋)跡」、「東新町 かみゆいや(髪結屋)跡」新しい建物の壁に「東海道亀山宿 東新町 まつながや(松永屋)跡」、「東新町 かごや(籠屋)跡」格子戸・戸袋10:46旧東海道は県道566号線と合流右方向へ進む。右角に「第三銀行 亀山支店」、左側に「江戸口門跡」第三銀行の向かい側に「江戸口門跡」の案内板県立亀山高等学校、亀山東小学校延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。東西120メートル、南北70メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残りをとどめている江戸口門跡から西方向の亀山城へ進む。ここのアーケード街も閑散としていた、先の交差点は「東町」向かい側のレストラン松阪牛の幟アーケード街に「とびだし注意!」東町交差点を通り過ぎ右側に入り「福泉寺」松風山 福泉寺所在地:三重県亀山市東町1丁目10-16-1福泉寺山門福泉寺はこの地域有数の古刹で、往古は天台宗であったが十五世紀後半に真宗高田派に改宗した。この門は、正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一間一戸の楼門で、棟札などから寛政7年(1795)の築造であることが明らかとなっている。このため、江戸時代後期における地方有力寺院の建築様式を顕著に示す貴重な例である。平成8年に市指定文化財(建造物)に指定されている福泉寺の本土、鐘楼亀山愛児園が併設されており、境内では園児が元気よく動き回っていた福泉寺の西側に隣接した「真宗大谷派 法因寺(ほういんじ)」山門前に「天然記念物 法因寺の左巻カヤ」「黒田孝富墓」の案内真宗大谷派 法因寺の山門所在地:三重県亀山市東町1丁目10-14法因寺本堂法因寺本堂の裏に回ると「天然記念物 法因寺の左巻カヤ」推定樹齢300年の巨樹で、実に見られる竪筋が左巻きとなる珍しいカヤの木です。昭和26年に市天然記念物に指定された「天然記念物 法因寺の左巻カヤ」と「黒田孝富墓」天然記念物の左巻カヤは倒れ防止の養生。鉄棒に挟まれた、黒田孝富の墓。黒田孝富(1834~1868)は幕末の武士で、京の勤皇派とのつながりが強く、郡代奉行に抜擢され藩政の改革を行った。明治元年、反対派により斬殺された。墓は本堂裏、左巻きカヤの樹下にある本堂前から、鐘楼と山門法因寺の山門を出る樋口本陣跡所在地:三重県亀山市東町1丁目2旧東海道(県道565号線)のアーケード街左側にある。手前に「脇本陣椿屋跡」もあったのだが見落とす 写真はウイキペディアから引用11:01旧東海道(県道565号線)はこの「江ヶ室交番前交差点」を左折する。直進すると亀山城へ至る高札場跡亀山城大手門前一帯は、宿の中心的な位置となり、高札場・本陣・脇本陣などの主要施設が集中していました。大手門から高札場にかけては広場となっており、城主在城時に諸大名が亀山宿を通過する際は、「御馳走」と称して出迎えの儀式を行うならわしとなっていました。立札が見ずらい江戸時代のこの場所は、大手門前で東海道が直角に折れて広場となっており、亀山宿の高札場はここに設けられていました。ここから江戸まで百四里、庄野宿まで二里、関宿まで一里半11:02江ヶ室交番前交差点を左折して旧東海道を進む。問屋場は宿の両端の東町と西町に一軒ずつあり、交代で人馬継ぎ立てを行った。宿場はひなびていて、にぎわいはなかったようで、旅人は美しい亀山城を見上げながら街道を往来した。現在は道路の拡幅や家の建て替えが進み、古い町屋は少なくなったが、家々に江戸時代の屋号が掲げられているので、往時を想像しながら歩くことができるこの辺りの街道は防御のため桝形になっている。町家の案内板を見る弥二さん、この辺りの街道は色分けされていた玄関横に「東海道亀山宿 横町 しろこや(白子屋)跡」に映る我が姿も疲れ気味(足に痛みがあり)弥次さんが見ていた案内板は『屋号札の掲示』 宿場のにぎわい復活プロジェクト亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です・・・・。同じ案内板が、能褒野神社の二の鳥居の下にもあった旧東海道を下る曲がりくねった旧東海道を下り、振り返る11:05街道の坂道の左側に『天台真盛宗 延寿山地蔵院 遍照寺(へんじょうじ)』所在地:三重県亀山市西町524室町末期の創建と伝わる。天台真盛宗で亀山有数の古刹。本堂は天保14年(1843)に焼失。明治5年(1872)、伊勢亀山城二の丸御殿の大書院と玄関式台部を移築し本堂とした。ここまでの今日の歩数は、22,000歩で右足が痛くなる遍照寺は、少なくとも17世紀初頭には所在していることがうかがえるものの、その開基や由来は明らかではない。しかしながら、寺に伝来する数多くの文化財からは古くからこの地に所在したことが想定できる街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています由緒ある遍照寺「頭で鐘つく遍照寺」と市民から親しまれた天台真盛宗の古刹で、津市の別格本山西来寺の四末頭に数えられている。本堂は、天保14年(1843)7月に火災で采皆鳥有に帰した。・・・・遍照寺本堂本堂柱に「本尊 阿弥陀三尊 鎌倉時代」本堂の扁額「延寿山」弥次さんが二枚の御朱印を頂くが、紙に書いたものを貼り付ける折り鶴が貼られた御朱印本堂左側にある『宝珠丸(真盛上人幼名)』の像開祖 真盛上人(1443~1495)は、三重県津市一志町大字大仰にお生まれになり、紀貫之の一族です。男子の出生を願い、母が地蔵菩薩に願ったところ、宝珠を授かる夢をみて、上人を身ごもったので、幼名を宝珠丸と言われ、地蔵菩薩の化身と仰がれました宝珠丸(真盛上人幼名)説明の字が判読できず、資料から記載。幼い時から優秀で7歳で寺に預けられ、14歳で出家し、19歳で比叡山に上り、20年間天台の学問を究められました。当時は応仁、文明の乱が続く乱れた時代でしたので、社会秩序を正し世人に安心立命を与えるには、念仏以外にも救えないということを悟られ、西教寺にて天台真盛宗を広められました。宮中や公家・女官・守護の他、貴賤を問わず無欲と慈悲を説かれた。その足跡は、江州、越前、伊賀、伊勢を中心に広がり民衆の信仰を集めるところとなりました。室町時代明応4年(1459)に病に倒れられ、遷化なさいました本堂より左下に小さな「六地蔵」があった。立札には「頭で鐘つく遍照寺 鐘の音を聞いて 亡き父母を思います」 11:17一段低い境内から鐘楼門を見上げる 庄野宿~関宿-続く
2020.03.22
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亀山宿へ向けて歩く。1/21(火) 9:58石上寺の裏の高台にある、熊野三社を祀る『拝殿』所在地:三重県亀山市和田町1185高台にある鐘楼からは亀山市内の南方向が一望できる本堂・納経所へ下る鐘楼を見上げる六地蔵の前を通り裏の駐車場へ旧東海道の北側にある道路『石上密寺』と刻まれた寺標10:05旧東海道を進むと右前方に一里塚和田一里塚所在地:三重県亀山市和田町1488-154ここまでの今日の歩行数は、17,400歩亀山宿・江戸の道(旧東海道)亀山市は、江戸と京、大阪を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものである和田一里塚跡野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで摸式復元したものである旧東海道を進むと「銘菓 ともしびの里」 休業日であった街道を進むと国道306号線と交差栄町交差点にコンビニがあるので立ち寄ることに10:12旧東海道は直進する最近はコンビニの敷地内に「EV QUICK」のEV 充電スポットがある10:22約10分の休憩で、パン・おにぎりを購入。この先、ローソク工場がある10:27旧東海道を進み「能褒野(のぼの)神社の二の鳥居」街道に網をかぶった弥次さん道案内板三本松、石上寺、能褒野神社屋号札の掲示 宿場のにぎわい復活プロジェクト亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し、路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂えた「きらめき亀山21町並み保存分科会」では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして、屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことを始めました。・・・・・・・・・・・・・・。 【注記】 屋号は文久3年(1883)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。平成十三年十月 きらめき亀山21町並み保存分科会(現在は宿場の賑わい復活一座とと改名) 能褒野神社の二の鳥居を振り返る露心庵(ろしんあん)跡天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。この仏庵が露心庵で、本来の名称は友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。明治に至り廃寺となった。この庵から西が亀山宿となる露心庵から西が亀山宿となる。亀山は伊勢亀山城の城下町で、江戸時代中期から明治維新まで石川氏六万石の藩だった。宿場は城下町のなかに設けられた。街道沿いに立つ能褒野神社の二の鳥居の先にある露心庵跡のあたりが宿の江戸方の出入り口。その先の亀山城江戸口門から城域を迂回しながら亀山城京口門まで宿の町並みの長さは、21町59間(約2.5km)あまりだった。亀山藩の領内に幕府支配地の宿場が飛び地のように入り込む形だったので、参勤交代の大名たちは亀山での宿泊をできるだけ避けた。玄関脇に「東海道亀山宿 茶屋町 たたみや(畳屋)跡」亀山宿の町屋建築亀山の街道沿いには、古い町家が点在しています。その前面意匠は、一階が出格子戸・格子戸などを並べ、建てられた当時の「すり上げ戸」が残っているものもあります。二階には化粧貫を見せた黒漆喰壁や格子戸・戸袋などが並びます。軒は一階庇、二階軒ともに、梁を建物から突き出して桁を受ける「出桁造り」と呼ばれる形式です。亀山宿の町家の代表的な例が旧舘家住宅です人通りの無い街道を進む、人が住んでおられるのか間の家は撤去されたのか、壁面を修理していた玄関脇に「東海道亀山宿 茶屋町 ふじや(藤屋)跡」何をやっていたかの説明板はなく、旅籠か?軒先に「東海道亀山宿 茶屋町 さかくらや(坂倉屋)跡」住民がおられるのであろう10:35本町広場のバス停は「三本松」軒先に「東海道亀山宿 茶屋町 どうぐや(道具屋)跡」本町広場にある「巡見道」巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる旧東海道を進むが、古い民家、建て替え中の建物と店先に「東海道亀山宿 茶屋町 こめや(米屋)跡」、現在は「そば」とあるが営業は?店先に自動販売機があるがほとんどの民家が締め切った状態。「きらめき亀山21町並み保存分科会」が歴史的なまちのたたずまいを保存すべき活動しているが現状は厳しい感がするが、どの様な町おこしがあるか・・・・・・・・左手前に「きねや(木挽屋)跡」の木札軒先に「東海道亀山宿 茶屋町 きねや跡」何をやっていたのか?右前方は「米川時計店」宿場町の時代には、あり得なかったお店ですね米川時計店の軒先には「東海道亀山宿 茶屋町 はなや(花屋)跡」一階建ての整然とした格子が印象的な古民家10:40亀山宿 鍋町へ入る。軒先には「東海道亀山宿 鍋町 じんべえ(仁兵衛)家跡」二階の窓脇の構造は侵入防止?軒先には「東海道亀山宿 鍋町 じんべえ家跡」軒先には「東海道亀山宿 鍋町 はまだや(浜田屋)跡」玄関脇に二つの木札10:42「東海道亀山宿 鍋町 みかわや(三河屋)跡」「東海道亀山宿 鍋町 きりや(桐や)跡」 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.21
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旧東海道は、JR井田川駅前の井田川踏切から亀山市に入る。1/21(火) 9:22 井田川駅前にある案内図と二宮尊徳の像と石柱亀山宿・江戸の道(旧東海道)亀山市は、江戸と京、大阪を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものであるこれからの街道をネットから旧東海道は、井田川駅前から南西方面へ進む国道1号線の川合町北交差点へ横断歩道が無く歩道橋を渡る京方面を望む。京へ向けて車移動時に一般道を走っているが、今後何度この道を走るか歩道橋上にあったタイルは「亀とローソク」ローソクといえば亀山というように、その生産量・品質ともに高い評価を受けている。亀も、京都府の亀岡市との言われがあるようだが?????歩道橋を渡り左方向へ進む東海道の案内柱左方向は「法悦題目塔」カラーのマンホール、亀山城9:31真宗高田派 廻向山 西信寺所在地:三重県亀山市川合町119街道から本堂を古民家が建つ旧東海道を進む9:35旧東海道を進むと椋川、前方の高架橋は亀山バイパスの国道1号線(25号線)椋川の河川敷の整備をしているが、土砂の除去もして本来の川にもどすべきだズームアップ治水費用も大変だが、日頃の整備が大切、6人ぐらいで整備椋川を渡り振り返る、下流は鈴鹿川へ旧東海道は、亀山バイパスの国道1号線(25号線)の高架橋下へ高架橋の接続部分耐震構造なのか旧東海道を進む、民家の塀に「大小のひょうたん」が飾られていた谷口法悦供養塔かつてこの辺りは刑場であり、この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。谷口法悦が受刑者の供養のため元禄年間(1688~1704)に供養塔を建てた谷口法悦は京の人で熱心な法華信者だった。十七世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている旧東海道を進む道路脇に案内板があるが、もう少しわかりやすい所に掲示してほしいが9:43左前方に案内板「和田道標」、弥次さんは既に先へ所在地:三重県亀山市和田町422亀山市指定有形民俗文化財「和田道標」元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三午庚年正月吉辰施主度会益保」と刻まれている。『東海道分間延絵図』(文化年間・19世紀初頭)には、「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点であった。県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである道標を振り返るが、道標の汚れ風化が進んでいる街道脇の道案内街道はこの先で分かれているが弥次さんはどの方向へ行ったのか?道路標識でどうにかわかり一安心鮮魚・仕出し・お料理懐かしい火の見櫓が建つ左の絵は「広重画 東海道五十三次之内亀山」この絵は、歌川広重の描いた東海道亀山の1つで、この場面は和田の坂道を描いたものといわれています。ここより西へ300mです。右は「和田町のご案内」考古学的調査によると和田周辺で集落ができたのは、弥生時代後期まで溯り(柴戸、山城遺跡)これらの集落は十四世紀まで存続していました。・・・・・・・・・・・・・・。和田町公民館9:49旧東海道から南側の路地に入り「幸福寺」真宗高田派 當修山 幸福寺幸福寺から旧東海道へ戻る旧東海道の幸福寺の反対側にある「天台真盛宗 多宝山 福善寺」所在地:三重県亀山市和田町164310:00那智山 松寿院 石上寺(せきじょうじ)所在地:三重県亀山市和田町1185地元の方達からは「いしがみさん」と親しまれているここまでの今日の歩行数は16,800歩急な坂を登り境内へ紙本墨書石上寺文書 昭和28年5月7日 三重県有形文化財指定石上寺は、延暦15年(796)、大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍」により勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。鎌倉時代には将軍家祈祷書となるなど手厚い保護を受け広大な伽藍寺領を誇ったが、織田信長の伊勢進攻による兵火で、伽藍等を失い衰微したと伝えられる。 現在は、後村上天皇綸旨や畠山高国袖判禁制、歳末巻数返事、管領畠山持国室町幕府下知状、正平元年某袖判寄進状など、鎌倉から室町時代の古文書20通(21点)が残されている。これらの文書群は、県下でも数少ない中世文書群であり、当時の石上寺と社会との関係を示す貴重な史料である左は本堂、右に地蔵堂高野山真言宗で本尊は子安延命地蔵菩薩弘法大師像、南無大師遍照金剛の幟一段高い境内の隅に鐘楼現在の堂宇は明和3年(1766)に再建され、250年ほどたっている境内の奥へ進む 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.20
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庄野宿から亀山宿へ向かう。1/21(火) 8:35常念寺を振り返る、まだ天気が悪く今日はこのまま回復しないのか?旧東海道の沿いの民家の塀にユニークな飾り、名古屋コーチン?浄土真宗高田派 金光山 福萬寺本堂屋根の・・・・・に鳥が止まり旧東海道を進むと街道脇の石柱に「ひろせ道」8:43安楽川の堤防下にある「川俣神社(西冨田)」所在地:三重県鈴鹿市西冨田町709境内へ入るが、川俣神社は、庄野町、中冨田町、西冨田町と3社あった拝 殿毎年10月の始めに秋の大祭で獅子舞を続けています。川俣神社の中でも唯一獅子舞保存会が300年以上引き継いで来ました。土、日の二日間やっています、舞の後に獅子に噛んでもらうと、きっと良いことがありますと!拝殿の扁額「延喜式内 川俣神社」境内の隅に、いづみはしの親柱 昭和十年六月 竣功 とあるが安楽川の堤防へ上がり、川俣神社を見下ろす安楽川に架かる和泉橋(いづみはし)旧東海道を歩き安楽川の和泉橋から見える光景。三重県鈴鹿市内の国道1号線を走っていると目に飛び込んでくるのがこの飛行機で、西冨田町の中古建設機械販店の中にそびえ立っているが、移動費・据付費で相当費用が掛かっているのではなかろうか、費用対効果は?。弥次さんの情報から、この会社の社長がバラバラになっていたものを組み立てたと安楽川の河川敷河川敷に竹林があり川幅の半分を占めている最近のゲリラ豪雨を考えると治水対策では除去すべきではなかろうか。安楽川の上流側は鈴鹿の山々に雲、下流は400 ~ 500m先で鈴鹿川と合流する和泉橋を渡り旧東海道を進む旧東海道を振り返る、元の東海道はこの辺りから安楽川を渡っていた。平水時は土橋、出水時は徒歩渡しであったと井田川小学校の避難場所まで255m、ここの地面は標高31.1m8:56和泉町公民館旧東海道を進む街道脇に御堂が見えてきた屋根が一部壊れているが『地蔵堂』バス停は「和泉西」飛び出し注意のボーヤ街道には犬散歩の主婦と弥次さんの姿右上に忠魂碑9:04極楽山 地福寺所在地:三重県鈴鹿市小田町635-1街道脇に石灯籠が立つ小田町寺社の由来鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修行せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。永禄11年(1568)織田信長の戦火に遭い消失、観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶5年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江戸の鈴木市郎エ門が東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔うために、元禄12年(1699)に西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され、東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、また毎月17日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。毎年8月17日は盛大に盆おどりを行い、近郷より人出も多く現在もにぎわっている。毘沙門堂は身丈1メートル60センチの青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける、七福神の一つとしても信仰を集めている毘沙門堂と本堂地福寺を振り返るが、この辺りの旧東海道は道標もなく迷路となっている田んぼの中を歩き、JR関西本線の井田川踏切へJR井田川駅方向、旧東海道は線路沿いを進む四日市方向井田川踏切を渡り亀山市に入る。亀山市のおすいマンホールのデザインは「亀山城多門櫓」と亀山市の花「ハナショウブ」旧東海道を進む、街道脇の祠は「観音堂」。ここを右に入ると曹洞宗の海善寺があるが先を急ぐので通り過ごす旧東海道沿いに、売り出し中の中古住宅立派な家だが売り出し価格は9:18旧東海道を進み、JR井田川駅前の案内板JR井田川駅所在地:三重県亀山市井田川町駅舎は新しいが無人駅である井田川駅の近くに立つ「日本武尊像」庄野周辺は日本武尊伝説が残る地で、東海道の北側には江戸時代に日本武尊の墓といわれた白鳥塚古墳がある大和タチバナ記念植樹石碑は「国偲歌」「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるは」ヤマトタケルとオトタチバナヒメの家系図ヤマトタケルは「日本書紀」「古事記」に登場する伝説上の人物で、景行天皇の皇子オウスがその人である。天皇の命により九州や東国に赴き、天皇に従わない者と戦った。東国からの帰路、伊吹山(岐阜県)の荒ぶる神を倒すため山に入るが、その怒りにふれ病となり下山する。故郷大和国(奈良県)へ向かう途中「ノボノ」(亀山市北東部周辺)で亡くなり、陵墓が造られた。ここから北西へ約2kmの地にある能褒野王塚古墳(亀山市田村)がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁が管理している。ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメは、・・・・・・・・・、海中に身を投げたとされる。オトタチバナヒメの死を悼んだヤマトタケルは東国を離れる際に「吾妻はや」(ああ、我が妻よ)と嘆いたことから、関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったとされる駅前の案内板に、日本武尊御墓(矢印)。ここから約2km圏内(徒歩約25分)にあるJR井田川駅舎 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.19
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小雨の中、庄野宿を進む。1/21(火) 7:50延喜式内 川俣神社所在地:三重県鈴鹿市庄野町12-27境内にある「スダジイ 椎の木」樹齢推定・三百年 昭和44年県天然記念物指定川俣神社のスダジイ川俣神社のスダジイスダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒でかたい。この樹は高さ約11メートル、地上の幹周り約5メートルの巨木である石鳥居と拝殿街道脇に、「東海道 庄野宿」の石柱旧東海道を振り返る7:57旧東海道の現在地(矢印)国道1号線で街道が分断されているので、真新しい東海道案内図地下道を潜る必要がある昨夜御馳走になった「焼肉 一升びん 鈴鹿店」の看板。美味しかった、ありがとうございました!国道1号線の地下道を潜り、畑には太陽光パネル前方は国道1号線8:03国道1号線で分断された旧東海道を渡り旧東海道を振り返る、高架は県道637号線、高架下は国道1号線の汲川原町交差点。右側のガードレールに先ほどの案内板が立つ鈴鹿市の農業集落排水事業用(おすい)マンホールトンボが二匹、綺麗な水辺を飛んでいる街道脇に「平野道」。← いぼとり地蔵 この奥50m汲川原のいぼとり地蔵所在地:三重県鈴鹿市汲川原町221左側は、鈴鹿川、安楽川の堤防汲川原のいぼとり地蔵この地蔵菩薩像がいつ頃、どの様にして祭られるようになったかは不明である。古来、鈴鹿川左岸堤防南側の平野道で、道標の「お地蔵さん」として露天に立っていたものを、この地に移され地蔵堂が作られたと伝えられている。昔より、いぼと眼病に効くと伝えられ、地域の信仰を集めており、今も遠方よりお参りに来る人も多い。毎年8月には、地区で地蔵盆が行われている8:14旧東海道を進むと左手の奥にある「浄土真宗本願寺派 富田山 真福寺」所在地:三重県鈴鹿市汲川原町240真福寺山門と鐘楼山門を入り右手に本堂、本堂前には大きな蘇鉄8:15神戸領傍示杭(かんべりょうぼうじくい)街道の両脇に神戸藩領を示す傍示杭が建つ。神戸城二万石の城主・滝川雄利が関ヶ原で西軍に属したため改易され、慶長6年(1601)一柳直盛が五万石で入城し神戸藩が成立。寛永13年(1636)に一柳氏が転封してから一時的に幕府領になり、神戸城は破却された。慶安4年(1651)近江国膳所藩の石川氏が分家して一万石で神戸藩を再興、その後二万石に加増された。享保17年(1732)本多忠統が一万石で入府。その後、五千石加増された。忠統は若年寄りに就任し、築城を許され、神戸城を再建した。以後本多氏が一万五千石で明治維新まで続いた旧東海道を振り返る神戸領傍示杭には「従是東神戸領」女人堤防の石碑と神戸領傍示杭女人堤防碑文この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、完全な堤防がないため、毎年夏季の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人命を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の祈願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に堪え難く、如可なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり、既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ 昭和33年4月女人堤防の石碑と神戸領傍示杭を振り返る8:25旧東海道の先に大きな巨木が式内 川俣神社(中冨田)所在地:三重県鈴鹿市中冨田町5中冨田一里塚享和3年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家である。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている中冨田一里塚中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。享和3年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中冨田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている川俣神社の拝殿境内の奥に小さな祠拝殿と巨木は榎木?旧東海道へ、弥次さんは既に100メートル先を進む街道の先にお寺が8:30富光山 常念寺所在地:三重県鈴鹿市中冨田町640天台真盛宗総本山西教寺末寺承応年間(1652~54)智詮和尚の開基とされ、本尊は阿弥陀如来である。当時は、現在地にはなく別の場所にあったが、安政元年(1818)の大地震により倒壊した。その結果、同じ村内にあって倒壊をまぬがれた平建寺をを買収して現在地へ移転した。平建寺は山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺であった。本尊は延命地蔵尊であり中冨田町の氏仏として信仰され、地蔵堂に祀られている。毎年地蔵盆には町民が集い、初盆灯籠焼供養など盛大な会式が執行されている常念寺本堂地蔵堂(延命地蔵尊)と本堂鐘には「正覚大音響流十方」 一切の生きとし 生けるものは 幸福であれ 安穏であれ 安楽であれかねつき堂かねつき堂再建記念碑明治33年当時の方々の篤い願いによりかねつき堂が建てられました。その後、昭和18年第二次世界大戦のため国の要請により梵鐘が供出されました。昭和19年には東南海地震によりかねつき堂が倒壊し長い年月の間礎石だけが残っていました。月日は流れ平成の世も20年が過ぎた頃、再び時を告げる梵鐘を鳴らし止まっていた時を刻むことで先人の方々今生きている私達、そして後世の方々との絆を結ぼうという声が高まり悲願であったかねつき堂の再建という大事業が成し遂げられました旧鐘楼堂四本柱礎石昭和18年太平洋戦争のため梵鐘供出す常念寺のかねつき堂、地蔵堂、本堂を振り返る 庄野宿~関宿ー続く
2020.03.18
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今日は延べ日数27日目の道中記で、庄野宿→亀山宿→関宿と長い。このため、昨夜は松阪牛で英気を養った。今日は当所天気は晴れであったが小雨の中、関宿へ向けて出発した。1/21(火) 6:36ホテルの朝食ホテルキャッスルイン鈴鹿所在地:三重県鈴鹿市算所3丁目6-12愛車をホテルへ預け出発、駐車料金は無料。外は小雨旧東海道は近鉄平田町駅から約3キロ離れているがアクセスがなく歩くことに。近鉄平田町駅前鈴鹿市のおすいマンホール色が黒いですがデザインは、鈴鹿の峰々から湧き出た清水が川となって緑の野を流れ、白砂青松の伊勢湾まで注ぐ様を表している早朝7時前の近鉄平田町駅前7:16小雨の中、鈴鹿川の庄野橋へ到着朝の通勤で渋滞の庄野橋この辺りは鈴鹿川の河口から13km県道643号線の庄野橋東詰交差点東の空は明るいが交差点を渡り鈴鹿川の下流方向、東の空は明るいがこの辺りは小雨鈴鹿川の上流側は曇り空、この方向へ歩くのだが庄野橋を渡り国道1号線へ7:24旧東海道へ向かって歩いていると「妙法禅寺」所在地:三重県鈴鹿市庄野町22-1妙法禅寺山門鐘楼と本堂臨済宗東福寺派の「妙法寺」境内、鬼瓦?お寺の説明板がなく妙法寺の創建年代等は不詳であるが、境内には五輪塔の一部などの石像物があると。 また、毎週日曜日の朝に座禅会が行われているという7:32旧東海道の庄野町西交差点庄野宿の入口で、ホテルからここまでで既に4,500歩。JR加佐登駅はこの交差点を右方向へ進む交差点に、東海道庄野宿の案内板旧東海道はこの手前まで国道1号線に沿って歩き、西側へ入り、これより左方向へ進む庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く、寛永元年(1624)といわれ五十七の宿場中もっとも遅い。この宿は「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ七十戸で宿立てをした、南北八丁で宿入口の加茂町・中町・上町からなる。宿の町並みの長さは8町(約872m)で旅籠は十五軒しかなかった。石薬師宿と同じく、地理的な理由で宿泊や伊勢詣の客もなく、宿の経営は困窮を極め、宿場の不振を理由に伝馬の百人百匹を、文化12年(1815)に五十人五十匹に半減された旧東海道 庄野宿 ~ 石薬師宿石薬師宿から25町(約3km)しか離れておらず、宿間が御油~赤坂間(16町=1.8km)に次いで短い小雨の庄野宿を進む旧東海道の左側に「善照寺」所在地:三重県鈴鹿市庄野町28-2善照寺本堂本堂の扁額「善照寺」本堂の彫刻境内に咲くロウバイ鈴鹿市指定建造物 旧小林家住宅。現在は、庄野宿資料館。庄野宿の名物は握りこぶしほどの大きさの俵に焼き米が入っている「俵の焼米」。また、庄野周辺は日本武尊伝説が残る地で、東海道の北側には江戸時代に日本武尊の墓といわれた白鳥塚古墳がある庄野宿資料館の軒下に直轄領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一・旅籠十五軒、五十三ある宿場のうち最も遅かった。「草分け三十六戸、宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。この歌川広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている旧小林家住宅を振り返る小雨の中通学の中学生とすれ違う問屋場跡問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。問屋二名、年寄四名書記(帳付)馬差各四・五名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村村への人場の割当て賃銭、会計であった旧東海道を進む静寂な旧東海道7:44右の建物は「庄野町集会所」建物前に「距津市元標九里十九町」「庄野宿本陣跡」の石柱。旧東海道を進むと右側に「高札場跡」庄野町集会所の隣にある「高札場跡」高札場は、法度・掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。庄野宿資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が提示されている庄野町集会所を振り返る脇本陣跡脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の、楠与兵衛家が脇本陣であった。 (文久3年庄野宿軒別図)小雨の中旧東海道を進む二階部分をズームアップ旧東海道を進むが古い建物も7:47旧東海道から西側に入り「常楽寺」山門に「常楽寺」の扁額所在地:三重県鈴鹿市庄野町1670真宗佛光寺派 常楽寺本堂本堂前から鐘楼、山門 庄野宿~関宿-続く
2020.03.17
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今日のゴール点は、庄野宿の入口にあるJR加佐登駅へ向かう。1/20(月) 12:57JR関西本線県道27号線の高架橋正面に旧東海道の案内板があり、ここを左方向へ進む踏切はJR関西本線国道1号線へ合流旧東海道を振り返る、道路は国道1号線と県道27号線の上野町交差点先行する弥次さんが標識を見ている先程弥次さんが見ていた案内板旧東海道は国道1号線と合流13:05旧東海道(国道1号線)を振り返る日本橋から407.5kmのキロポストJR関西本線方向の西側13:10旧東海道は国道1号線に沿って歩くが、この加佐登町交差点を右方向へ向かい、今日のゴール点JR加佐登駅へ加佐登町交差点脇に408kmのキロポスト、京都三条大橋まで495kmで約82%達成道路脇の民家の庭に咲いていた秋バラJR関西本線の加佐登駅13:20JR加佐登駅へ到着、時間的に早かったが今日はここまで。ここまでの歩数は28,600歩無人駅の加佐登駅所在地:三重県鈴鹿市加佐登1丁目1昼間の時間帯は一時間一本の運行で、次の列車は13:34この辺りの名所案内加佐登駅の東側13:33定刻に上り、名古屋行きが来る次は「河曲駅(かわのえき)」13:50南四日市駅13:52車窓からの「四日市市 日永浄化センター」鹿化川と天白川の間に挟まれた下水処理場現役時代の仕事であったのでついカメラが向く13:55JR四日市へ到着出口へJR四日市駅構内若い時、排水処理設備の試運転で来てこの辺りへ3か月下宿をした懐かしい場所である。計算をすると50年前のことで半世紀前になるのだ!改札口四日市には旧東海道沿いに近鉄の駅もありそちらの方が賑わっており、JR側は50年前も駅前はさびれていたJR四日市駅舎ここから近鉄四日市駅までは西方向へ1.1km。愛車は近鉄駅近くのホテルへおいている。本来は歩くのだが弥次さんが疲れたとのことで、バスで近鉄四日市駅へ行くことにこの辺りの案内図みなとまち歩きスポット末広橋梁平成10年(1998)に国指定重要文化財(建造物 近代化遺産)になっている。四日市港の千歳運河に架かる跳開式の橋で昭和6年(1931)に製作された。全長58m、幅4m、中央の桁部分16.6mを橋脚上に立つ高さ15.6mの鉄塔頂部からワイヤで巻き取り80度に跳ね上がり船を通過させていた。2019年から停止している 写真はウィキペディアより14:09近鉄四日市駅前に到着、昨夜夜景を撮影した駅前14:20四日市アーバンホテルで駐車していた愛車を受け取る。14:30時間が早かったので、現役時代に付き合っていた某会社へ立ち寄り、会長と営業部長と面談。工場内を見学させて頂く下期に入り仕事量が多くなっていると工場の外では塗装中懐かしい製品がズラリと15:30工場見学後、鈴鹿市の平田町駅近くにある「ホテルキャッスルイン鈴鹿」へ向かう。16時半にホテルへ到着、今夜は一緒に夕食とのことでしばしホテルで待つ。17:04焼肉「一升びん 鈴鹿店」へ所在地:三重県鈴鹿市庄野羽山3丁目9ー3焼肉一升びんは三重県下のチェーン店で、地元のお客様をはじめ、全国各地からもたくさんお越し頂いておりますとまだ早い時間で店内は空いていた松阪肉牛協會員 指定第88号 の認定証贅沢な松阪牛を頂く松阪牛カルビ、ロース、ホルモンなどセットメニューとして、焼肉セット3,500円、松阪牛A4セット4,500円、松阪牛A5セット5,500円で、特に松阪牛のセットメニューはいろいろな部位をリーズナブルに食べることができる18:16最後の仕上げは私にとってはやはり「冷麺」松阪牛の焼き肉を食べ、明日の鋭気を頂く。この後、ホテルまで送って頂き疲れと酔いから爆睡した。今日の歩行数は、30,500歩でした。明日はいよいよ鈴鹿峠の麓の関宿まで歩く!我々の弥次喜多道中は、個人旅行で歩いているが、旅行会社の東海道五十三次ツアーに参加して完歩すると、ツアー会社から ①五十三次の楯 ②表彰状 ③くす玉 がもらえるとのこと。我々も最後だけ参加してこれがもらえるかどうか?個人的に五十三次の楯を購入して、エビデンスを残すか? 四日市宿から庄野宿ーEND
2020.03.16
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石薬師寺の山門から東へ進む。1/20(月) 12:29蒲冠者範頼之社(御曹子社)所在地:三重県鈴鹿市石薬師町40御曹子社(おんぞうししゃ)蒲冠者範頼を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問にすぐれていたので、それらの願望成就の神様といわれている。昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。神社の南約60mのところに範頼ゆかりの蒲桜(県指定文化財)がある神社正面に大きな石柱蒲冠者範頼之社から西側の石薬師寺の山門蒲冠者範頼之社から南へ進み振り返る住宅地の中に『石薬師の蒲ザクラ』開花時には多くの人が訪れるのであろう、説明板があったが少々お疲れ・・・・・県指定文化財・天然記念物『石薬師の蒲ザクラ』この桜は、ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は一重の五弁、直径5cm白色から淡紅色で、開花時は見事である。伝説によれば、寿永の頃(1182~1184)、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。そのため、俗に「逆桜」とも言われている石碑には信綱の歌碑「ますらをの 其名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春に」枯れたのか一部切断された木もあったここも再度上洛の際寄ってみたいものですネ!ネットから(2枚)の開花時花と葉が同時に出るのか12:37旧東海道へ戻る、「石薬師の蒲桜」「蒲冠者範頼之社」の案内41、どっちにある こっちといへば 片頬笑み ひらく掌の 赤きさくらんぼ イラストは掌にサクランボが一つ42、花さき みのらむは知らず いつくしみ 猶もちいつく 夢の木実を民家の庭先に咲く、ロウバイ43、春ここに 生るる朝の 日をうけて 山河草木 みな光あり44、ますらをの 其の名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春に45、かぜにゆらぐ 凌霄花 ゆらゆらと 花ちる門に 庭鳥あそぶ46、道とへば ふるさと人は ねもころなり 光太夫の碑に 案内せむといふ47、六つに越え 九つにして 鈴鹿山 ふたたび今日は のぼりけるかな(八歳作)48、投げし麩の 一つを囲み かたまり寄り おしこりおしもみ 鯉の上に鯉12:41旧東海道を振り返る、この間にかるたが8枚あった49、呼べど呼べど 遠山彦の かそかなる 声はこたへて 人かへりこず旧東海道を南下し、才石川に架かる蒲川橋橋のたもとに石薬師一里塚址旧東海道は蒲川橋を渡ったら左に曲がる橋の上からJR関西本線を望む。才石川はこの先で椎山川と合流し鈴鹿川へと流れる12:44石薬師の一里塚址日本橋から102番目の一里塚石薬師の一里塚址信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。[一町は約109m]家忠日記には、慶長9年2月(1640)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。 (江戸時代の川柳) くたびれたやつが見つける一里塚歴史と文化のまち石薬師石薬師は、元和2年(1616)に東海道44番目の宿駅となり、村名も高富村から石薬師村と改名された。旧東海道の石薬師宿は南に向って進むこれより北 石薬師宿 信綱かるた道1.8キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜・浄福寺(引綱記念碑、幸綱歌碑)、佐佐木信綱記念館、本陣址、地蔵堂などがある石薬師の一里塚の前にある、最後の短歌50、生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川をウィキペディアより引用最初にこの配置が頭に入っていなかったので探し求めた道中記でした橋を渡り、左に曲がり坂を下る一里塚を振り返るJR関西本線の下を潜るJR関西本線の下から12:47ここからしばらくは田んぼの中を歩く。旧東海道の案内板今日のゴール点JR加佐登駅まで約2.0km上は国道1号線石薬師宿、庄野宿の道案内ださい川柳 「街道の ミラーに映る 我が姿」12:55旧東海道を振り返る。 第2作 「何もなく ただ歩くのみ 疲れきる」 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.15
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石薬師宿の信綱かるた道を進む。かるたは、旧東海道の両側に数十メートルおきに立っている。1/20(月) 12:0830、天にいます わが父のみは きこしめさむ 我がうたふ歌 調ひくくとも31、み空仰げ 八重棚雲を おしひらき 赫々として 初日はのぼる32、山黙し 水かたらひて 我に教へ 我をみちびく この山と水と33、人の世は めでたし朝の 日をうけて すきとほる葉の 青きかがやき34、山の上に たてりて 久し吾もまた 一本の木の 心地するかも35、ものぐさの あるじ信綱 あさなさな 庭におり立つ 石楠花さけば36、幼きは 幼きどちの ものがたり 葡萄のかげに 月かたぶきぬ37、山辺の 御井にとくだる 山ぞひみち 遠松風の 音をすがしむ街道脇に咲いていたユリ旧東海道を南下する38、国をおもふ 心はも燃ゆ かたちこそ 痩せさらぼへる 老歌人も国道1号線を越える「瑠璃光橋」前方は石薬師寺の森国道1号線の亀山方面石薬師宿は小高い所にある高富山 石薬師寺の裏門へ到着2001年東海道街道400年祭 石薬師宿歌川広重の、東海道五十三次 石薬師 石薬師寺石薬師 三重の山並みと、杉木立、日暮れのわびしさが流れる。寺の創建は奈良朝 神亀年間(724~28)12:15高富山瑠璃光院 石薬師寺の裏門から入る西国薬師第三十三番霊場所在地:三重県鈴鹿市石薬師町1国道1号線の瑠璃光橋裏門から入り、境内の奥にある「天満宮」石薬師寺本堂石薬師寺薬師堂、石仏寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永六己巳(つちのとみ)年(1629)再建された。建物の規模は桁行3間、梁間4間の寄棟造。本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。石仏は花崗岩で像高190cm 寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆかたで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、12月20日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作本堂に向って左側にある石碑には歌碑「無病にと頼みすゑける石薬師 かたき祈願を忘れ給ふな 岩佐又兵衛」 本堂の扁額「薬師堂」高富山 石薬師寺由来聖武天皇の御宇神亀年間(726)高僧泰澄大徳が、森の中に霊光を放つ巨石あるを認め、これ金輪際より御出現の霊彿なりと一宇の草堂を覆い置き給う。その後、弘仁3年(812)弘法大師自ら薬師尊像を彫刻し開眼供養せられしより、霊験いよいよあらたかにし時の帝嵯峨天皇の叡聞に達し、勅願所となし寺領を寄せられ西福寺と称せられしたが天正年間(1575)の頃兵乱に会い悉く焼失した。因より本尊は光明赫赫として灰燼の中に立たれた。・・・・・・・・・・・・・境内の梅が咲き始めていた鐘楼と本堂参道両側に「永代常夜燈」が立つ境内の木々は芽吹き前参道に百度石参道の右側に、佐佐木信綱の歌碑 NO.39 で裏門近くにあった「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも」39、蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも地蔵堂内陣には延命子安地蔵尊が祀られている西側を国道1号線が走る境内には春に咲く木々があり、京方面への移動時に再度立ち寄ろうかと次回は木々も芽吹いてまた違う光景が待っているのであろうか弥次さんが御朱印を頂きました街道沿いの山門山門には、「東寺真言宗」、「高富山瑠璃光院 石薬師密寺」。正式には高富山瑠璃光院石薬師寺という真言宗の寺院山門左側に立つ40、鈴鹿川 八十瀬のながれ 帯にして すずか並山 あき風に立つ歌川広重が描いた「石薬師」山門前の道から石薬師寺方向を見た風景である山門前から旧東海道を振り返る東海道宿場 伝馬制度制定400周年記念事業石薬師寺の東に、蒲神社(御曹子社)、蒲桜がある石薬師寺の鐘楼真っ赤なナンテンの実この辺りの野鳥は冬場も食べるものが多いいのであろうか、わが家のナンテンの実は食べられて12:28石薬師寺の山門前から東へ進み、蒲神社(御曹子社)へアロエの花が綺麗に咲いていた 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.14
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石薬師宿の信綱かるた道を進む。1/20(月) 11:50小澤本陣跡小澤本陣址碑東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され、宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。大名の泊まる宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようです。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の浅野内匠頭や大岡越前守が泊まっている。国学者萱生由章(1717~1775)もこの家の出である17、障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく(五歳作)18、むすべば 手にここちよし 清き水の 今もわきいづる わが産湯の井小澤本陣跡隣の家の前にも本陣の説明板、左に、NO.19の歌碑。表札が「小澤」さんでしたので現在まで続く旧家です小澤本陣跡東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立された。この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。石薬師宿は小高い台地にあり小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」ともいわれていたという。宿帳によると元禄元年(1688)から22年間に、145回の宿泊と433回の休憩の休憩しかなかった。細川家から拝領した太刀や各地の大名から下賜された陶器など多数が保存されている19、ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を11:52奥の入口の上に「天野記念館」と天野修一翁はこの記念館を昭和39年(1964)ふるさと・石薬師町本町のために建てられました。天野翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者です。前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫です。また、天野翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげられています20、願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはばや21、天地の あるじとなるも 何かせむ いかでまさらむ 此のゑひ心地鈴鹿市立石薬師小学校小学校の角に「石薬師文庫」22、これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために11:53小学校の校門の南側に「石薬師文庫」石薬師文庫昭和7年、佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの判本や写本などを含む貴重な書類が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。現在、地域の図書館としてボランティアにより運営され、親しまれている広場の奥の石碑に歌碑歌碑は「これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために」NO.22 と同じ歌碑。信綱が石薬師文庫を寄贈するに当たり詠んだ歌であり、歌碑は没後二年祭(昭和40年)を期して郷人によって建てられた石薬師文庫開館日(毎週土曜日) 午後1時 ~ 午後4時 次の開館は 1月25日竹柏(なぎ)由来弘綱は「竹柏園」と号し、信綱はこの号を継ぐとともに創設した短歌結社を「竹柏会」と名付けた。昭和24年信綱から送られてきた種による竹柏の樹が平成19年枯れたので、その兄弟樹から生まれたものを同年後継樹として植え替えた。本樹は、昭和19年度石薬師小学校卒業生寄贈により植樹したものである左:佐佐木幸綱(信綱の孫)の歌碑 「傾けて バイクを駆ける 群が行く 鈴鹿の山は 父祖のふるさと」右:NO.19 の信綱の歌碑23、日本語 いく千万の 中にして なつかしきかも 「ふるさと」といふは石薬師文庫の南に隣接した「信綱の生家」。歌人で国文学者の佐佐木信綱は、弘綱を父として明治5年この家に生れ、石薬師で6歳まで過ごした。生家は父が明治元年(1868)に建てたもので、隣の小学校まで屋敷地だった。記念館には文化勲章などの遺品や遺稿二千点を収蔵、展示している景観重要建造物『佐佐木信綱 生家(主屋)』佐佐木信綱資料館当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士生誕の地に建設したものです。市では、今回の開館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」の主著三部作をはじめ、歌集「おもひ草」「山と水と」など多数を保管、展示しています 昭和61年5月佐佐木信綱記念館所在地:三重県鈴鹿市石薬師町1707-3月曜日でここも残念ながら休館中佐佐木信綱記念館当館は「佐佐木信綱資料館」「生家」「土蔵」「石薬師文庫」から成り立っています。佐佐木信綱は明治5年6月3日、この地に生れ、6歳まで石薬師で過ごしました。その後一家は松阪へ移り、信綱が11歳の時に東京へ移ります。この時「生家」は他家の所有となり、鈴鹿市和泉町に移築されました。昭和7年には信綱は還暦を記念して「石薬師文庫」を贈り、地域の図書館として現在でも多くの人々に親しまれています。そして、信綱は73歳から熱海へ移り、昭和38年12月2日、92歳でこの世を去りました。信綱の没後、昭和45年12月12日「生家」を再び現在の場所に移し、佐佐木信綱記念館が誕生しました。その後、昭和61年5月28日には、展示施設等を備えた「佐佐木信綱資料館」が開館し、今日に至っています 平成17年9月 鈴鹿市佐佐木信綱と卯の花の里:石薬師宿石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。弘化2年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約7割をしめており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中ほど西側には小澤本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松阪へ移住する明治10年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和63年から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている空木(うつぎ)・卯木(ユキノシタ科)『うのはな』夏は来ぬ伊勢や難波と遊ぶ間に 山ほととぎすつぼむ卯の花 信綱樹高は2~4mになりよく分枝する。樹皮は灰褐色で、新しい枝は赤褐色を帯び、星状毛が生える。葉の形は変化が多く、卵型、楕円形、卵状披針形になり、葉柄をもって対生する。花期は5~7月で枝先に円錐花序をつけ、多くの白い花を咲かせる11:59石薬師小学校南交差点旧東海道の東側を走る国道1号線(国道25号線)の石薬師町交差点。この辺りの名所の案内板24、なげくなかれ 悲しむなかれ 日輪は 人間の上を 照らしたまへり12:02石薬師小学校南交差点を渡り浄福寺の山門左側にある「佐佐木弘綱翁記念碑」手前は幸綱の歌碑「しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師 愛したる人 幸綱」佐佐木幸綱歌人・国文学者。紫綬褒章受章、日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授。1938年佐佐木治綱(学者歌人)と由幾(歌人)の長男として東京に生まれる。佐佐木信綱は祖父である。現代短歌界の重鎮であり、万葉集等の研究でも著名である。佐佐木信綱顕彰歌会には選者として招聘されている佐佐木弘綱(1828~1891)信綱の父。歌人・国学者。伊勢山田の国学者足代弘訓に師事した。53歳の時上京し、東京大学の講師となる。門人は全国にわたり1600名ともいわれる。古典の口語訳書、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は、百余に及ぶ。この碑は、1908年(明治41年)建立された。以後、毎年碑前祭がこの境内で行われていた。碑表には弘綱の矜持詠がある「和歌の浦に 老をやしなふ 葦田鶴は 雲の上をもよそに見るかな」25、いきいきと 目をかがやかし 幸綱が 高らかに歌ふ チューリップのうた真宗高田派 浄福寺宗派は真宗高田派、本尊は阿弥陀如来である。開基(創建)は室町時代の永正年中(1504~1520)と伝えられている。山門入口の左側には佐佐木弘綱翁(信綱の父)の記念碑がある。それは佐佐木家累代の菩提寺だからである山門を入り、鐘楼と本堂浄福寺本堂26、秋高き 鈴鹿の嶺の 朝の雲 はろかに見つつ わがこころすがし12:06街道の両側にかるたがあり、撮り忘れないようにNOを確認しながら進む。27、万葉の道の 一道生のきはみ 踏みもてゆかむ こころつつしみ28、今し成りぬ 五帙二十五冊を 前におき 喜びの涙 とどめあへなく街道脇の小さな石柱「上田加佐登」12:0829、ありがたし 今日の一日もわが命 めぐみたまへり 天と地と人と 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.13
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石薬師宿四日市宿と亀山宿のあいだが5里あまり(約22km)もあったため、元和2年(1616)に44番目の宿として石薬師寺の門前町に開設。その際、村名も高富村から石薬師村に改称された。宿の町並みの長さは9町42間(約1.0km)で、千人ほどの住人の大半が農家の小規模な宿場だった。十五軒の旅籠屋に飯盛女が少数いた。参勤の大名や旅人は四日市や亀山に泊まり、石薬師宿は休憩の利用が多かった。また伊勢詣の旅人は、江戸方面からは日永追分から伊勢へ、京大坂方面からは関宿東の追分から伊勢へ向かったので伊勢詣の客もなかった。そのため宿場の経営は苦しく、宿場の不振を理由に伝馬の百人百匹の業務を文化12年(1815)に五十人五十匹に半減、更に幕末には三十五人、四十匹に軽減された。1/20(月) 11:28石薬師宿入口の北町の地蔵堂から旧東海道の「信綱かるた道」を南下する。道路脇に「信綱かるた道」のタイル。現在は石薬師出身の歌人で国文学者の佐佐木信綱の歌碑を道沿いに立て、信綱をキーワードに町おこしを行っている『これより南 石薬師宿 信綱かるた道』1.8キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、本陣址、佐佐木信綱記念館、浄福寺(引綱記念碑、幸綱歌碑)、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜・一里塚などがあるウィキペディアより引用最初にこの配置が頭に入っていなかったので探し求めた1、四日市の時雨蛤 日永の長餅の 家土産まつと 父を待ちにき2、湯の宿の つんつるてんの かし浴衣 谷の夜風が 身にしみるなり 3、氷りたる 水田にうつる 枯木立 こころの影と 寂しうぞ見る4、白雲は 空に浮べり 谷川の 石みな石の おのづからなる5、夕風の さそふまにまに ちる花を ことありがほに 見る蛙かな11:30かるたの看板が道路の左右に立つ、ナンバーを追いながら撮影6、蕎麦の花に 百舌が訪ひ来て 語らへり 山のはざまの 秋風の家7、真白帆に よき風みてて 月の夜を 夜すがら越ゆる 洞庭の湖11:32株式会社 マルフク 鈴鹿工場所在地:三重県鈴鹿市石薬師町1472旧東海道を振り返るマルフクは漬物工場で漬物の味は美味しいと!商店のブラインドにも、広重の石薬師寺の山門を描いたものが8、一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり(十歳作)信綱かるた道9、ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌10、目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父11、まりが野に 遊びし童 今し斯く 翁さびて来つ 野の草は知るや12、ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲新出稲荷ここから東へまっすぐ国道1号線渡ってすぐ。ダキ尼天(ヒンドウ教由来)と稲荷信仰がいっしょになり、江戸時代では人を選ばず願いをきいてくれる神として遊女や博徒、被差別の人からも広く信仰されました。ダキニ天はインドの古代民間信仰(ヒンドウー教)に由来して、空海によって日本に入ってから平安時代中期には「剣と宝珠などを持った女神が白狐にまたがる姿」で表現されるようになった11:35式内大木神社所在地:三重県鈴鹿市石薬師町2139鳥居の横にあるかるたの看板を撮影する弥次さん13、名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を大木神社の境内へ川北元助翁頒徳碑川北元助翁頒徳碑翁は弘化3年6月12日鈴鹿郡石薬師村の農家に生まれた。当時村内大小の橋梁は木橋又は土橋であったので、朽ちたり洪水で流失したりして困難することが多かった。翁はこれらの橋を石橋にかけ替えて、永久に世人の難儀を除きたいと決意し明治42年より大正3年2月、上田通りの橋梁二ヶ所を完成するまで大小七十余ヶ所の橋梁をことごとく石橋にかけ替え、その徳行は永く後人を潤した境内へ進む大木神社の椎の森この椎の森は、当大木神社境内約1ヘクタールに巨木が群生しているもので、市内では他に類を見ることができない。この椎は、ブナ科のスダジイで樹皮に縦の裂け目があり秋にはたくさんの実をつける大木神社この神社は式内社といって由緒のあるお宮さんです。式内社とは延喜年間(901~922)の時代に、すでに存在していた神社のことです。正式には「延喜式内社」といいます。大木神社は地域の氏神(鎮守の神)であり、この地で生まれた人の土地の守り神(産土神)です。江戸時代頃から氏神も産土神も同じ意味に使われるようになりました。大木神社には天照大神ほか九柱の神様がおまつりされています二の鳥居を入る。境内は木々に覆われ鎮守の森である。約百種類の樹木や草木が混生し、その主体は椎の木である明治天皇御差遣 延喜式内 大木神社御由緒一、御祭神二、延喜式内社とは 第六十代醍醐天皇の御代延喜時代、今から1080年程前作られた神社台帳に記載されている 神社を云う。三、明治天皇勅使御参拝 明治天皇が都を京都から江戸(東京)へおうつりになり東海道を、お通りの際明治元年9月24 日勅使植松少将殿をお差し向けられ幣帛料を御献上遊ばれた名高いお宮。四、御曹子神社(鎌倉幕府を開いた源頼朝公の弟範頼公を祀る) 古来より病気平癒を祈るに霊験あらたかなので遠近からの参拝者多く自作の弓矢を御祈祷料 に添えて奉る拝殿の前の三の鳥居、大木神社拝殿拝殿前に「お伊勢さま、氏神さま の神札をおうけしましょう」山の神社御祭神は「大山袛神(おおやまずみのかみ)」狂い咲きのアヤメ?造花のようですが生でした11:44大木神社入口の左側に立つ「忠魂碑」日露戦争、太平洋戦争戦死者の忠魂碑11:47旧東海道に戻り、「東海道 石薬師宿」の札民家の塀に「東海道五十三次 四日市」 広重画の模写 この作品は石峰こちらも「東海道五十三次 石薬師」 広重画の模写 この作品は石峰 2001.414、月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり石やくし宿江戸時代の軒並図 弘化2年(1645)15、夕されば 近江境の 山みつつ 桐畑の隅に よく泣きゐしか16、やま百合の 幾千の花を 折りあつめ あつめし中に 一夜寝てしが 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.12
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松尾芭蕉が坂が急で落馬したといわれる杖衝坂を登り、旧東海道を進む。1/20(月) 10:30采女(うねめ)一里塚跡。東海道と国道1号線が交差するこのあたりに江戸から101番目の「采女の一里塚」があった。ここまでの今日の歩行数は、16,500歩江戸日本橋を起点に京三条大橋まで126里、間には124の一里塚が置かれた。采女一里塚は101番目にあたり、松が植えられていたことが天保の頃幕府が作成した「東海道宿村大概帳」に記されている。四日市市内には四ヶ所の一里塚が築かれていたがいずれも残っておらず、跡地には石碑が立てられている。采女一里塚はここから約100m西のガソリンスタンド傍に建てられている。なお、105番目の亀山市野村一里塚は現在も形が残り、国指定の史跡となっている下は国道1&25号線采女一里塚は、戦後しばらく土盛りした上に木柱が建っていたが、昭和30年代から40年代にかけて行われた国道1号線の拡張工事で姿を消した采女の一里塚跡石碑はもう少し先旧東海道は国道1号線に合流(国道25号線でもある)国道沿いにある「采女食堂」週替わりのランチの ”味噌カツ” が550円と安く美味しかったと!トラックが立ち寄っていて人気とのこと!国道1号線沿いにある「史跡 采女一里塚跡」。国道1号線の拡張工事で姿を消した采女一里塚を後世に残すため、昭和62年(1987)、「郷土の文化遺産を後世に残そう」という地元采女町の取り組みに、地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道1号線を挟んだ反対側のここに石碑が建てられている10:36豊富稲荷神社所在地:三重県四日市市采女町3267-3豊富稲荷神社境内国道1号線沿いの「軽食 采女」。この道は今後何度か通過する国道である10:45国道1号線(国道25号線)の采女南交差点手前のレストラン。この先の交差点を左折すると県道8号線で、鈴鹿市街地へ進む10:51四日市市から鈴鹿市へ入る。旧東海道は国分町交差点を左側へ国分町交差点を左方向に進みすぐにある手入れの行き届いた木が延命地蔵尊延命地蔵尊扁額の「単直庵」旧東海道を進む、立派な屋敷が空家となり撤去された屋敷跡も放置状態に民家の庭先に咲くロウバイめずらしく自転車に乗るおばさんと出会い挨拶を交わす昼前だが相変わらず人が少ない坂を下り国道1号線へ11:03旧東海道の説明板があるが撮影のみでよく読まず、先導する弥次さんに従って進む。国道1号線木田町大谷交差点の地下を潜り向かい側へ進むのだが地下道は潜らず国道1号線の左側を進む旧東海道は本来反対側だが、日本橋から404.9km地点11:07国道1号線を横断することができず折り返し、先程の木田町大谷交差点へ戻る国道1号線の右側を進む反対側は、スーパーマーケットの「オークワ鈴鹿木田店」浪瀬川水が白濁しているが、温泉?国道1号線の上り線側を歩く、旧東海道はこの先を斜め右方向へ進む11:13東海道 石薬師宿は右方向へ11:15北町の地蔵堂にある「東海道 石薬師宿の説明板」これより南 石薬師宿 信綱かるた道1.8キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、本陣址、佐佐木信綱記念館浄福寺(引綱記念碑、幸綱歌碑)、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜・一里塚などがある歴史と文化のまち石薬師石薬師は、元和2年(1616)に東海道44番目の宿駅となり、村名も高富村から石薬師村と改名された。旧東海道の石薬師宿は南に向って進む次の浮世絵は、広重が石薬師寺の山門を描いたものである北町の地蔵堂からの江戸方面への道案内。旧東海道は国道1号線の拡張工事で分断されている北町の地蔵堂所在地:三重県鈴鹿市石薬師町休憩用の東屋があり小休憩をした北町の地蔵堂は延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕がなされている。毎年8月24日は地蔵さんの会式である石薬師宿の旧東海道は国道1号線の西側を南下する北町の地蔵堂を振り返る11:27今日は既にここまでで、21,100歩、10分程の小休憩をして進む 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.11
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旧東海道を石薬師宿へ向けて南下する。1/20(月) 9:38左側に東海道の案内板、旧東海道は右へ曲がるカエデの実9:39先程右に折れて約百数十メートルで左に折れる街道がクランクになっている。正面奥にお寺の山門が9:40米田山 願誓寺所在地:三重県四日市市21山門右側の石碑には、黄金仏のことが刻まれている米田山願誓寺当山の縁起は、米田山珠寶法鎮寺に始まる。当寺の末弟法柳が、米田山願誓寺として現在の地に建立し、当初は真言宗であった。寛政年間(1460年代)、専修寺第十世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。当寺第十世義道(当寺では、中興上人と呼ばれている)の時に火災にあったが、同上人は建築、彫刻にも長じた人物であり、同上人の手により、現在の本堂と庫裏が、寛政4年(1792)に再興された山門からの、鐘楼、本堂境内に入り当寺の本尊である阿弥陀仏は、寺伝では聖徳太子の御作とあり、お顔の部分は後世の補修がうかがえるが、頭から下部は古いお姿をとどめている。また、黄金仏は、御丈5センチばかりの小さな仏で、義道上人が感得したニ仏と合わせて、三尊仏として厨子に祀られている。山門前にある石碑には、同上人によりその黄金仏のことが刻まれている9:48街道沿いのこの石碑は?9:51旧東海道は県道407号線(三畑四日市線)の小古曽三丁目交差点へ。電柱には「近鉄 内部駅 100m」の案内板四日市宿 → 日永 → 小古曽 → 采女 の道路標識には「現在地」と記載。采女町交差点まで約2.7km県道407号線の小古曽三丁目交差点を横切る弥次さん。四日市あすなろう鉄道内部線の終着駅「内部駅」は左側に位置する。旧東海道は前方右方面へ進む交差点角に東海道の石柱と案内板。旧東海道はここを右方向へ進む東海道 采女(うねめ)の杖衝坂 案内図9:57内部川につきあたり左方向へ進む。電柱前に東海道の道案内内部川の土手に上がり振り返る、旧東海道は右側から来た。内部川は鈴鹿川と合流して伊勢湾へ流れる国道25号線の内部橋北詰交差点10:00内部橋を渡り右下へ下りる内部橋の下にある案内板10:07旧東海道を進みこの先を右方向へ民家の窓に「東海道」の案内板、各家庭に掲げられていた10:09ここを左方向へ進むが、民家のフェンスに「東海道」の案内板があり間違わなかった右側の壁にも「東海道」の案内板。この先が杖衝坂杖衝坂下の左側にある「和食 ひがし川」杖突坂の上り口にある『金刀比羅宮』石段の手前に大きなごみ入れ現在は綺麗に舗装された「杖衝坂」10:11うつべ町かど博物館所在地:三重県四日市市采女町3473ここまでの今日の歩行数は15,700歩うつべ町かど博物館入館料:無 料開 館:毎週 水・土・日・祝祭日 9時 ~ 12時訪れた日は月曜日で生憎休館日であったどこかの建物の鬼瓦であろうか采女町内の和風平屋住宅をそのまま利用し、内部地区の「歴史と文化」に関する古代の埋蔵文化財や中世から現在に至る遺品や資料が展示・紹介されている杖衝坂東海道でも急な坂道の難所として知られる。倭建命(日本書紀では日本武尊)が東征からの帰路、足が痛くてこの坂道を上るのに、腰の剣をはずして杖にしたという伝承がある。この坂の所で「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」といわれ、これが三重県の県名の由来ともいわれる。杖衝坂の下から舗装されていたが急なため滑り止め用の丸い輪がうつべ町かど博物館を振り返る10:19杖衝坂の途中に芭蕉の句碑正面左に「大日の井戸」上から芭蕉句碑と井戸を見下ろす。この場所に二つの井戸があり右側(丸い蓋)の井戸を「弘法の井戸」左側(石柱の横にある)の井戸を「大日の井戸」といい、前者は、弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられている。後者は、坂の中腹にあった大日堂に供える閼伽水(仏に供える水)をくみ上げた井戸と伝承され、二つの井戸は大切に守られている。珍しい屋根付きの芭蕉の句碑(1756年建立)芭蕉の句碑について俳聖 松尾芭蕉が貞享4年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。その時に詠んだ季語のない有名な句である。宝暦6年(1756)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。明治の初期、坂の下采女西町 永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びこの地に移設したものである 昭和51年3月吉日杖衝坂と血塚社、二つの井戸東海道の中でも急な坂で、杖突坂とも書く。倭建命が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少し幸行ますに甚く疲れませるに因りて、御杖を衝きて、稍歩みたまひき。故、其地を号けて杖衝坂と謂う」(古事記)とあり、杖衝坂と称されるようになった。元禄元年(1688)芭蕉が旅の途中、馬に乗ってこの坂を越えようとして・・・・・・・・・・。急坂に落馬して詠んだ句「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」ほぼ坂を登り杖衝坂を振り返るが、坂も短く意外と楽であった10:25血塚社杖衝坂を登りきったところにある。鳥居の奥にある血塚の祠は倭建命(日本書紀では日本武尊)の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられている日本武尊御血塚血塚社を振り返る杖衝坂をのぼり旧東海道を進む10:29人が住んでいるのか、廃家も多い街道筋 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.10
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東海道名残りの一本松から旧東海道を南下する。1/20(月) 8:54旧東海道沿いに「近鉄泊駅」、西方向へ100m旧東海道の案内板現在地が表示してあり分かりやすい、日永の追分まで近い8:57伊勢藏㈱所在地:三重県四日市市泊町12-3以前は、武井醸造有限会社という名前で、昔から地元の人達に愛されている味噌醤油屋さん醤油と味噌を製造している。中央に展示桶、味噌&醤油の作り方を教えてくれる展示桶(三十石) 直 径:2,100ミリ 高 さ:1,940ミリ 味噌仕込み用 一回の仕込み量 約5,000キロ(三十万人分の味噌汁に相当)ここ旧東海道沿いにて、創業大正3年より三十石から四十五石の木桶を使用し、味噌・醤油を製造しております。創業当時より代々木桶に染め込んだ酵母・乳酸菌などが伊勢藏特有の蔵ぐせを生み出します旧東海道を振り返る。お土産を販売していたが重いのであきらめる9:00東海道日永郷土資料館所在地:三重県四日市市泊町13土蔵付きの商家の建物を整備し、「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地域にのこる歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料が時代別、テーマ別に展示されている。開館日:水、土、日祝(年末年始を除く) 開館時間:9:00~16:00この日は月曜日で休館日旧東海道を振り返る。建物の壁面には「日永郷土資料館」「伊勢藏の宣伝」9:01旧東海道はここで国道1号線と合流旧東海道(左方面)、国道1号線を振り返る。日本橋から399.3kmのキロポスト9:03旧東海道(国道1号線)の追分交差点。右前方は『日永追分』で東海道と伊勢道を分ける交差点の三角地帯。ここまでの今日の歩数は、10,400歩9:04この追分交差点で、旧東海道は右方向へ進む。左方向直進は国道1号線で数百メートル先の大治田一交差点を右折する。鳥居のある角地が『日永追分』所在地:三重県四日市市追分3丁目1-3013-1拝領 伊勢神宮別宮 伊雑宮鳥居 追分鳥居現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所がある道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分かれ道である。道路が拡張される前は、伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で、江戸に居た渡辺六兵衛という人が江戸から京都へ行く時、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合せて、二十年ごとに建て替えられることになっていた。今の鳥居は、平成28年(2016)に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第十次の鳥居となる。また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。「日永の追分」は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている旧東海道を振り返る東海道と伊勢参宮道の分岐点。伊勢神宮への二の鳥居、常夜燈、石の道標などが残っている。安永3年(1774)江戸の商家・渡辺六兵衛が伊勢神宮を遥拝するようにと、高さ7mの鳥居を建立した。大きな石の道標は嘉永2年(1849)に建立。江戸時代の鳥居周辺には茶屋や旅籠などが建ち並び、四日市宿と石薬師宿の間の宿として伊勢神宮参詣の人々でにぎわっていた三重県史跡「日永の追分」日永の追分の神宮遥拝鳥居は、安永3年現久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち、東海道を上下する度毎に参宮街道との分岐点日永の追分に鳥居のないのを遺憾として、江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として、江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買入れて鳥居を建設した。更に今後の改造費として、私財金壱百両を寄付されたので地元ではこれを基金として神宮式年毎に改造してきた。その後、地元民は勿論旅人からの崇敬の的となり・・・・・・・・・9:07旧東海道(県道407号線)を進み振り返る旧東海道を進むと日永の追分近くの右側の一段下にあった『日蓮宗 追分教会』所在地:三重県四日市市追分2丁目5-2一段下がった境内には、日蓮上人の像が立つ日蓮宗750年の秘法九識霊断法霊断法とは、あたかも霧の向こうのものを、レーダーが発見できるように人生の未知のものを予知します。日蓮大聖人の残された神秘の法術です。・・・・・・・・・・・・・9:13四日市あすなろう鉄道 内部線の踏切線路幅の狭い一回り小さい車両ワンマン列車で、四日市 ⇔ 内部 間を運転踏切の脇にプレートがあり「この踏切は、四日市あすなろう鉄道 内部線 泊 第6号踏切」「近鉄追分駅」とあるが、現在は四日市あすなろう鉄道 追分駅。四日市あすなろう鉄道は、平成27年(2015)4月1日に誕生した第三セクターの鉄道会社。もともとは、近鉄が運営していた内部(うつべ)線と八王子線(合せて内部・八王子線とも)ですが、バス転換を提案した近鉄に対し、四日市市が存続を要望。協議の結果、施設と車両を四日市市が保有し、新会社が運行する「公有民営方式」で存続させることになったものです。四日市市が第三種鉄道事業者、新会社が第二種鉄道事業者であす。新会社は、近鉄が75%、四日市市が25%を出資する第三セクター鉄道。社名の「あすなろう」は、内部線と八王子線がナローゲージ(軌間762mm)であることに掛けて、未来への希望を表したもの旧東海道は左方向へ進む民家の間の旧東海道を進むどこを歩いても人通りがなく9:22旧東海道の右手に、真宗 高田派 大蓮寺の石柱。所在地:三重県四日市市小古曽2丁目25-2米田山 大蓮寺当山の縁起は、当町南面に土岐代康が居城していたが、その跡地に八幡宮を勧請、その折願書を米田山珠寶法鎮寺と号したことに発する。当初は真言宗であった。その後、当時の末弟真蓮阿闍梨が、当町の北面に寺院を建立し、米田山大蓮寺と号した。戦国の世に寺院が焼失し仮堂のままとなったが、長禄年間(1457~1460)専修寺第十世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。寛政元年(1460)清順上人により、真宗高田派専修寺末寺米田山大蓮寺として開基された。その時、真慧上人により恵心僧都直筆の阿弥陀尊像一幅を賜ったとある山門からの本堂現在の本堂は、文化10年(1813)12月に再建され、本尊は第九世順察上人の記によると、快慶作の本尊阿弥陀如来立像御丈一尺五寸が安置されている鐘 楼山門前に駐車場9:25米田山大蓮寺のすぐ隣にある『観音寺』(右側)左奥には『延喜式内 小許曽神社』がある慈現山 観音寺禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。戦国時代、織田信長の兵火により焼失したが、村人たちが観音堂を建て、本尊千手観音像をお祀りしていた。その後、元文2年(1737)黄檗宗の僧鎮堂が旅の途中、四日市で一泊した折り、夢枕に現れた老人のお告げにより、この地に新しく寺を建て観音寺とした。村人たちによって兵火から守られた千手観音像は本堂に今も安置されており、頭体幹部は11世紀頃の制作であろうといわれている観音寺山門山門は四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「魔伽羅(マカラ)」(サンスクリット語で鰐)が飾られているが、これは黄檗宗特有のものである。黄檗宗大本山宇治萬福寺の諸堂にもこの「魔伽羅」が見られる。いつか訪問したいものです!山門の屋根の「魔伽羅」(サンスクリット語で鰐)。当観音寺の「魔伽羅」は、棟札(棟上げの時に工事の年月や由緒などを記して棟木に打ち付ける札)により、寛政12年(1800)に置かれたものであることがわかる。細部の絵様は本堂のものと一致山門の扁額観音寺本堂本堂の扁額9:31観音寺の左側通路を入り延喜式内 小許曽神社(おごそじんじゃ)境内に入り拝殿由来は遠く平安の昔、醍醐天皇の御代、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されている。伊勢の国には253の大社・中社・小社があり、そのうちの小社として選ばれた1100余年の歴史を有する式内神社である。祭神は天宇受売命、天照大日孁尊、布刀玉命のほか数神をお祀りしている。当神社の行事として、その年の作物の豊凶を占う粥試し神事など数多くの伝統行事が伝えられている先のどんど焼きで使用されたのか?境内から 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.09
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興正寺から旧東海道を南方向へ向かう。1/20(月) 8:10この坂は天白川を越えるために、この辺りは天井川が多く最近のゲリラ豪雨に対する対策はどうなっているのか天白川に架かる天白橋から東方向先程の興正寺を振り返る8:12天白川を渡るとすぐ右手に『林光山両聖寺(りんこうざんりょうしょ)』の石柱所在地:三重県四日市市日永3丁目6-7林光山両聖寺山門当山は昔、天台宗林光山西教院と称したが、住職の専阿上人が浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修業された縁で、宝治2年(1248)記主良忠禅師が当山で大いに浄土教を宣布された。それ以来当山は浄土宗となった。このため、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代とした。第三代道阿玄忍上人の時前記両聖人に因んで寺号を両聖寺と改めた。その後寺院は度重なる火災に遭い、本尊の阿弥陀如来も焼失し、幾多の災厄変遷を重ねてきた寛永2年(1625)に第十八世完誉月帚上人は阿弥陀三尊仏を寺に奉納し、開眼法要を営まれた。明治40年(1907)両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀された。今でも中の瀬古の獅子を八幡獅子と言うのはこのためである。また、盆踊りには寺の境内で市の無形民俗文化財の「日永つんつく踊り」が披露される山門を入り、鐘楼、本堂本堂の左に「開山 浄土宗第三祖記主良忠上人」の石柱境内の石仏、弘法大師8:17旧街道に出ると「つたえよう 日永つんつくおどり」 ~ 2020年 400年祭に向けて ~ 2014年7月20日今年の盆踊りは盛大に開催されるのだろう!四日市市指定無形民俗文化財『つんつくおどり』司馬江漢が「誠に田舎の踊りなり」刊行「西遊旅譚」と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合せて円陣をつくっていくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。その起源は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に村人が踊ったのが始まりともまた、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振り付けたものともいわれているが、定かではない。大正時代末頃までは、8月14日から17日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の四町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、四日ともに唄う唄が異なる上、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって8月第2土曜・日曜日に両聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が唄われている8:20更に旧東海道を南下すると右手に大きな鳥居が現われる。ここまでの今日の歩数は、7,600歩日永神社所在地:三重県四日市市日永4丁目5-7通勤前の参拝であろうか男女が鳥居を潜り、参拝後神社裏にあるあすなろう鉄道の南日永駅へ当社は伊勢の神宮で祀られる天照大御神をまつる。古くは南市場神明社・南神明社と呼ばれた。日永神社と単称されたのは明治40年からである。創祀・沿革の記録や文章も残されておらず、いつの年代に創祀されたのか不明である鳥居を潜り拝殿へ江戸時代には、神戸藩主本多家からの崇敬も篤く、また東海道に面して多くの人々が参拝された。明治40年には日吉神社・岡山白髭神社・山之神社、さらに天正10年(1582)に創祀されたと伝えられる追分神明社を合祀し、同44年には池鯉鮒社・稲荷社を合祀して現在に至っている。例祭は十月の体育の日である。以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたと言い伝えられているが、その木は今はない拝殿の扁額「日永神社」拝殿左の広場先日のどんど焼きがやられたのか黒く焼け跡が残っていた石柱は『追分道標』この石柱は昔、日永の追分の神宮遥拝鳥居の傍に立てられていた道標である。この道標には正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」そして裏面には「明暦二丙申三月吉日南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。この道標が立てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遥拝鳥居が建立されたときよりも約百二十年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味のあることである。嘉永2年(1849)神宮遥拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられたとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年に追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持ってこられたものと推定される8:26日永神社に隣接してある『長命山 薬師堂』長命山 薬師堂「長命山」の扁額がある。本像は檜材による寄木造りで右手を屈臂して掌を開いて施無畏印を結び、薬壺を載せた手を膝上に置いた薬師如来像である。肉髻・螺髪を表し、袈裟は左肩を覆って右肩に少しかかる。左足を外に組んで結跏趺坐する。胎内背面と底板には正保2年(1645)、正徳3年(1713)、慶応2年(1866)の銘を持つ墨書があり、3度にわたり補修を受けたことがわかる。像はこのような後世の補修のために、多少当初の姿を損なっているが、鎌倉時代中期の制作といわれている市指定有形文化財(彫刻)『薬師如来坐像』なお、本像は、もと伊勢安国寺の旧像で、天正年間(1573~1592)安国寺炎上の時、千種常陸介忠治が猛火の中から日永村実蓮寺に運び出し、境内に建てた小堂で代々内仏として信仰していたが、文化13年(1816)同志によって現在地に移したと伝えられる8:28人通りの少ない旧東海道を進む8:29四日市市立日永小学校所在地:三重県四日市市日永4丁目5-13フェンスの中に石灯籠と「忠魂碑」、「稲垣末吉翁頌徳碑」稲垣末吉氏は、地元出身の事業家で昭和4年(1929)に自費で水道管を敷設して日永の追分まで水を引いた東海道総合案内この辺りも神社仏閣が多い8:32石柱は『真宗高田派 西唱寺』所在地:三重県四日市市日永4丁目6-4雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)当山は浄土真宗高田派の寺院である。永禄2年(1559)僧玄聖の開創で、昔は安立院と称し、浄土宗の寺院であったが、江戸時代初期に住持の誓宅が専修寺第十四世堯秀上人に帰依して浄土真宗高田派に転じた。この折、堯秀上人から本尊を賜った。寛文元年(1661)寺号を西唱寺と改めた。正徳2年(1712)中川十兵衛尉が聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に請うて当山に留まり、享保2年(1717)当山にて没している当山には寺宝が多数あったが、昭和20年(1945)6月18日の空襲で爆撃を受け、本堂、庫裡、太子堂、書院等が全焼し、寺宝、古文書等がことごとく灰燼に帰した。戦後、昭和21年に庫裡、同24年に梵鐘、同26年に本堂、同35年に書院がそれぞれ再建され現在に至っている菩提樹ロウバイ白いワビスケ椿牡丹は、島根県の大根島から本堂右側のクスノキに彫られた仏所ジョージも見に来たとズームアップするが陽射しが邪魔に8:41日永一里塚跡旧東海道沿いに背の高い石柱があるが民家の間に有り見落としやすい。日本橋から100番目の一里塚である。ここまでの今日の歩数は、8,300歩日永一里塚跡は当初、天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。しかし、その後の考証により、日永5丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。この日永一里塚は、もとは5間四方で高さ2.5間の塚が東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが、明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消した8:47更に旧東海道を南下すると前方に大きな松が一本電柱が立ち並び電線も多く、どの方向からも電線が邪魔になる東海道名残りの一本松むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない8:49縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は3間(約5.5メートル)で現在も変わっていない 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.08
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赤堀駅から旧東海道を南下する。 1/20(月) 7:39旧東海道を進む、この時間になると国道1号線が渋滞しているのか車の量が多くなる前方は鹿化川(かばけがわ)、川底が高いので道は上って越える。ゲリラ豪雨時は床上浸水が心配なエリアである鹿化橋(かばけはし)と珍しい名前である鹿化川の下流現在地:鹿化川左岸鹿化川の歩道橋を渡る7:42橋を渡り下る7:44前方に神社の鳥居大宮神明社所在地:三重県四日市市日永1丁目12-86月30日の夏越しの大祓(輪くぐり神事)は大勢の参拝者と露店で賑わいます当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海であって、その海辺に舟付明神があった。垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)近くに遷ってきたのがこのお社である。例祭は十月の体育の日である。この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている足長オジサン御由緒当神社は岡山(現県立南高校)に鎌倉時代より奉斎されていたが永禄5年この地に遷る。祭神は伊勢の神宮とご同神を祀る。摂社二柱大神(大己貴命、少彦名命)は、古来諸国より病気平癒祈願のため参詣される一名永宮神社と云う大宮神明社拝殿、右側には摂社二柱大神社大宮神明社拝殿本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社二柱大神社(センキさんとも言う)があり病気を治す神様として有名である大宮神明社拝殿から東側を7:48神社の片隅には稲荷さんも7:52旧東海道沿いの「鮮魚仕出し 魚傳」、まだ営業しているのか旧街道に戻ると掲示板に「行けるはず まだ渡れるは もう危険」古民家が残る7:55弥次さんが、iPhone を見ながら右の「大聖院 50m」へ旧東海道を右に入ると石碑が石碑は「水沢道標」大正12年(1923)の水害まではこの横の道が水沢方面に通じる道路であった。このため、今から約二百年ほど前に大阪の古銭収集家の河村羽積という人が、東海道から水沢道が分かれる角に立てたのがこの道標である。水沢の楓谷は紅葉の名所であり、昔は菰野藩主の土方公が必ずこの紅葉を愛でられたと言うこの碑の表面には「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」裏面には「猿丸大夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」と彫られている。猿丸大夫の名歌とは「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」と詠まれたものである7:57旧東海道を西側に入ると前方に旧東海道を西側に入ると「大聖院の山門」所在地:三重県四日市市日永2丁目11-7無動山 大聖院当山は行基菩薩開創、平安時代には醍醐寺座主定海僧正御住坊であった。永禄8年(1565)松井親蔵法印が千種氏の庇護のもと、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ氏寺として寺院を再興された。元禄3年(1690)中興第四世海養法印は寺地を今の地に定め、寺号を大聖院と改めた。中興第七世快養法印は神戸藩内の寺社仏閣から選ばれて、延享3年(1746)神戸城地鎮祭の祈祷を執り行いし名僧であった。・・・・・・・・・・・・・・。本尊不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期の代表的尊像として、大正4年(1915)国宝(重要文化財)に指定されている三重県指定有形文化財(絵画)「絹本著色釈迦三尊十六善神像(秘仏)」無動山大聖院奉安の本図像は、縦111.7cm、横55.7cmの掛幅で、釈迦三尊像での裏彩色を施し表から金箔を押す丁寧な仕事ぶり、着衣の盛り上げ文様の手際などから、奈良・京都の中央の絵仏師による鎌倉時代中期の制作と考えられる。・・・・・・・・・・・・・重要文化財(彫刻)「木造不動明王立像(秘仏)」無動山大聖院本尊木造不動明王立像は、平安時代後期の柔和で優美な特徴をよくとらえた像高95cmの桧材一木造の彫像である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山門を入り、正面に本堂当山は、天平十年行基菩薩の開創にして、平安末期、醍醐寺座主定海僧正の御住坊なり。醍醐三寶院直末、神戸藩主の御祈願寺として信仰を集め、現在に至る。本尊の不動明王は、鎮守府将軍源頼義公の念持仏にして、源氏歴代の武将によって信奉され大正4年8月国宝に指定されし尊像なり境内の梅の蕾はまだ固い石柱には「國寶不動尊」8:00山門の鬼瓦?小さなお寺であった8:02旧東海道に戻り進む8:04中央を天白川が流れる、町割り8:05旧東海道を進むと右手に真宗高田派 日永山 興正寺所在地:三重県四日市市日永2丁目9-6当山は浄土真宗高田派で、創建は貞観6年(864)と言われている。登城山にあったときは天台宗であったが。文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立ち寄られたとき浄土真宗に改宗した。その後二百年くらいして、本山の第十世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。天文13年(1544)本山第十二世堯慧上人は、当寺で「日永千部」という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有力な末寺となった。天正2年(1574)現在地に移る堯慧(ぎょうえ)上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などを有している。また、徳川家もこの寺を保護するよう配慮した。天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたと言うことで、この堤を昔の人は滝川堤とも言った山門を入り左側に「鐘楼」と「??堂」本堂の背後を天白川が流れる8:10興正寺の鐘楼 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.07
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昨日は移動日で、愛知県知立市の無量寿寺、熱田神宮へ立ち寄り近鉄四日市駅近くの四日市アーバンホテルへ宿泊。今年初めての延べ26日目の弥次喜多道中記です。今日のゴールは庄野宿入口のJR加佐登駅。1/20(月) 6:35ホテルにてバイキングの朝食、一泊朝食付き6:53早々に食事を終え、車をホテルへ預けて出発。ここ四日市にも、手羽先の「世界の山ちゃん 四日市店」アーケード街を歩くと、観光案内所案内所の前の歩道面にタイルの絵お馴染みの、保永堂版 安藤広重の四日市汚水マンホールのデザインにも採用この浮世絵は、『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 四十四 五十三次 四日市 日永村追分 参宮道」三滝橋?アーケード街を進む6:59旧東海道は、左:JR四日市駅、右:近鉄四日市駅の中央通りを通り過ぎる左側(東)を国道1号線が並行して走る7:02旧東海道の左手に、「佛法山 崇顕精舎」「丹羽文雄生誕之地」の碑。所在地:三重県四日市市浜田町10-12崇顕寺は、真宗高田派の寺院。文化勲章受賞作家で、四日市市名誉市民の丹波文雄生誕の地である。「丹羽文雄生誕之地」と書かれた大きな石標に「崇顕精舎 文雄」と書かれた丹波文雄自筆の書が刻まれている。中に入れずフェンス越しに写真を撮る弥次さん、まるで不審者?扉には『崇顕寺・浜田保育園』。所在地:三重県四日市市浜田町9旧東海道から東側の国道1号線側へ移動。お寺が保育園に7:06旧東海道に戻る。右側の電柱には、東海道の案内板四日市宿から日永まで、天白橋 ⇔ 中央通り 約2.4km街道沿いに「東海道 四日市」の幟イメージキャラクターの「こにゅうどうくん」崇顕寺・東漸寺時間も早く人通りがない旧東海道7:09旧東海道の右側に「東漸寺山門」所在地:三重県四日市市中浜田町2-5東漸寺本堂鐘 楼街道を進むと古民家前方に近鉄名古屋線の高架7:14近鉄名古屋線の高架7:18街道の左側には東海道の幟もあり道を間違えない。近鉄の高架を越えた先の街道沿いに古民家が散見される。この辺りは、昔は干鰯(ほしか)(肥料)屋、材木屋、紙屋、餅を売る茶屋などが並びにぎわった旧東海道を南下する旧東海道を南下する民家の軒先に案内板があり助かる街道右側に新築の建物この辺りが『鈴木薬局』の跡地、新築の家の表札も鈴木鈴木薬局前から旧東海道を振り返る。二百六十年以上前の江戸中期から製薬業を営んでいた旧家で、母屋は嘉永5年(1852)の建築。寛延3年(1750)長崎で漢方を学んだ四代目・勘三郎が創業し、膏薬、萬金丹、真妙円などを製造販売した7:23旧東海道に案内板。ここを右に入ると350mで「八阪神社」へ向かう四日市あすなろう鉄道内部線の赤堀駅赤堀駅改札横にあった『赤堀城跡』当駅より徒歩約15分(北西へ約600m)。赤堀城は、田原(俵)藤太藤原秀郷の子孫、田原孫太郎景信が室町時代の応永年間(1394~1428)に上野国赤堀庄から伊勢国栗原に移り、ここに築城したもので、現在の「赤堀」という地名もこの時に改められたといわれています。景信は、後に肥前守と称し、次男秀宗に赤堀城を継がせ、長男盛宗を羽津城に、三男忠秀を浜田城に配し、赤堀三家としての基礎を築き、この地方を支配するようになりました。江戸時代の軍記物には、安土桃山時代の天正3年(1575)、織田信長の家臣滝川一益によって赤堀城は攻撃を受け落城したと伝えられますが、実際には織田信長の家臣団に組み込まれたようです。城跡は、現在、都市化のため記念碑があるだけですが、旧「三重郡赤堀村字城西・同城東・同新三郎縄」の地籍図には主郭の土塁や堀が認められ、かなり大きな城であったことがうかがえます駅前にあった案内板踏切を渡り振り返ると日の出赤堀駅を振り返る7:29八阪神社所在地:三重県四日市市赤堀2丁目9-8京都祇園八坂神社の分社。御祭神は、武速須佐之男命。日本神話で須佐之男命は、八俣大蛇(あらゆる災厄)を退治し地上に幸いをもたらした神とされ農神疫神として、信仰されている勧請年代は不詳であるが、もと牛頭天王八王子社と称し赤堀城の鎮守神として祀られていた。戦国時代、織田信長の北伊勢侵攻の際、赤堀城は落城するが、赤堀一族の忠保は助命され牛頭天王社の神官となり、以後社家として続いている明治2年(1869)八阪神社と改称。当社は、明和7年(1770)より豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の中重鳥居を拝領し、以来神宮式年遷宮ごとに中重鳥居の下附を受け、現在の鳥居は平成27年に建立したものである。昭和20年(1945)6月の大空襲により社殿は全焼したが、昭和30年伊勢神宮別宮の瀧原宮長由介神社の本殿の下附を受け現社殿を再建し、今日に至っている7:37四日市あすなろう鉄道内部線に戻る軽便鉄道のため線路幅が狭く、そのため車輛も一回り小さめ。この軌道の線路幅は、762mm、JRは、1,067mm。西桑名駅の南側の踏切では、三岐鉄道北勢線、JR、近鉄の三ツの線路幅が見れる何となく色合いが映える近鉄四日市駅への列車7:38旧東海道へ戻る。まだ時間が早く人通りも少ない 四日市宿~庄野宿ー続く
2020.03.06
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四日市宿資料館でしばし休憩後、今日のゴール点近鉄四日市から電車で桑名へ戻り愛車で岡崎へ向かう。11/24(日) 15:00四日市宿資料館を振り返る15:04柳通り(国道164号線)の、湯の山温泉方面先の交差点は、国道1号線の中部交差点柳通りを通り過ぎ旧東海道を直進。この先は右方向へ緩く曲がる15:05街道角に道標の石柱があり旧町名 南町道標には「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と刻まれており、さらに丸の中に人差し指で方向を示す手が彫られている。文化7年(1810)に建造された。本来は「江戸の辻」にあったものを複製したものであるかつては図のように東海道が通っていました。現在は住宅地になっている国道1号線に出る国道1号線の諏訪神社前交差点旧東海道はここを斜め左に進み右側の路地を入る国道1号線の諏訪神社前交差点を渡る15:10旧東海道はこの道を入る路地を入るとすぐ右手に『諏訪神社』所在地:三重県四日市市諏訪栄町22-3811月も下旬で「七五三まいり」境内入り口に、東海道五十三次「四日市 三重川」当諏訪神社は鎌倉時代の初め建仁2年(1202)信州諏訪神社の御分霊を此地に奉遷致しましたもので四日市開拓以来の氏神でありますカラーのマンホール上記浮世絵をモチーフに描かれている諏訪神社は、鎌倉時代はじめの建仁2年(1202)に信州の諏訪上下社から分霊し創建。「おすわさん」と呼ばれ、四日市開拓以来の氏神である。「えびす様」を祀るので漁業、商業の神として崇敬され、特に商売繁盛を願う商家の信仰が篤い神 馬境内社の正成稲荷大明神は「何事も正に成る」ということから、満願成就の神として信仰が篤い諏訪神社の拝殿前では家族で七五三の記念写真15:14諏訪神社の西側にある「諏訪公園」から、賑やかな音楽が流れて来る第15回 四日市よさこい祭り『やったろ舞』のポスター日 時:2019年11月24日(日) 10:00~17:30丁度この日は開催日で多くの踊り子が公園内にいたいろんなグループがタイムテーブルに従って踊っていた。会場は、「諏訪公園メイン会場」「駅前パレード会場」「ふれあいモール会場」 「アーケード会場」「市民公園会場」の5会場で「やったろ舞」を開催。各グループは4会場で舞を披露している? グループ「鳳」若い男女40、50人が舞う壇上では大きな幟を振り目の前で踊る子どもたちのグループも演舞グループの中から、17時に「金賞選出演舞」が選ばれる露天商もアーケード街を歩いて近鉄四日市駅へ15:20四日市市総合体育館にて『東京2020オリンピック カナダ体操チーム事前キャンプ開催!』一番街を歩く15:23駅前パレード会場近鉄四日市駅前の「ふれあいモール会場」近鉄四日市駅次の演舞を待つ「松阪笑舞連」の老若男女グループタイムテーブルにそって踊っているようだ15:26近鉄四日市駅の改札を入る。桑名のホテルからここまでの歩行数は、34,800歩。立ち食いそばを食べたかったが桑名から岡崎へ戻る必要があるので急いで乗車15:28 名古屋行きの急行へ乗車15:41近鉄桑名駅へ到着四日市駅から桑名まで今日歩いた区間を13分で到着16:00桑名パークホテルの駐車場から岡崎の岡崎サンホテルへ向けて出発。駐車場料金は無料。16:50国道23号線からの夕焼け岡崎サンホテルへ18時前に到着。18:26岡崎へ帰り、「ルーマニア・ブルガリアの旅」に同行された旅友K.さんと反省会。いつもは「世界の山ちゃん」だが今夜は「メリケン 東岡崎」鶏のモモ肉オムレツ21:45乙川の明代橋上からライトアップされた岡崎城だが、周りのビルが景観を損なっているズームアップするが今日一日の歩数は、38,755歩。明日は、恒例の小原の四季桜、紅葉の香嵐渓へ。 桑名宿~四日市宿-END
2020.02.18
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昨日も4万歩歩きいささか疲れた中、四日市宿に入り今日のゴール点近鉄四日市駅へ旧東海道を進む。11/24(日) 13:44光明寺を出て旧東海道を進む13:47宿の入り口には防御のため曲りを設けている13:48S字状に曲がり、国道1号線と合流13:50ばんこ焼卸「谷口商店」店先には、いろんな陶器を並べていた超特価 タヌキ、フクロ-、食器 売りつくし一番右のタヌキの値段は、\1,000、続いて \3,500旧東海道は数百メートル国道1号線に沿って歩く日本橋から 393kmのキロポストYOKKAICHI のオスイマンホールのデザインは、サルビア13:54旧東海道(国道1号線)の金場町交差点この交差点を左折すると現役時代に付き合った会社があり、富士電機 三重工場国道1号線に沿って南西方向へ進む13:58国道1号線沿いのなが餅土産店なが餅 笹井屋三ツ谷店所在地:三重県四日市市三ツ谷町12-26国道1号線の反対側に案内板を見つける「東海道はこちら」。旧東海道は海蔵川に架かる海蔵橋の手前を左斜め方向に進む横断歩道が無かかったため危険ななか道路を横切る。国道1号線を振り返る坂の下の左側に『多度神社』所在地:三重県四日市市三ツ谷町7-5国道1号線の海蔵橋の東側に鎮座する旧東海道に面し佇む御社が地元の人々の崇敬篤い三ツ谷の多度神社である。祭神:天津彦根命(あまつひこねみこと)多度神社の生い立ち明治18年1月4日、ご分霊拝載することを議決し同年1月6日多度本社に至り、承認証を受けて同年2月6日三重県庁へ出願しました。・・・・・・。と新しい神社?14:06多度神社の先にある『三ツ谷の一里塚跡』日本橋から99番目の一里塚東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之図」(元禄3年〈1690〉)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されている。そこで、東海道宿場・伝馬制度制定400周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにした海蔵川の桜並木海蔵川の下流方向、以前仕事で来た時、この桜並木を見たが見事であった海蔵川の上流側、近鉄名古屋線の鉄橋近鉄名古屋線下流側は護岸工事をしているのか海蔵橋を渡る下流側の、四日市火力変電所旧東海道は海蔵橋を渡り左へ曲り坂を下り、右へ進む14:12旧東海道はしばらく直進する街道脇に置かれた陶器民家の軒先にも、立派なお腹を出し旧東海道の先に『三滝橋』が見えるよっかいちしの、マンホール。サルビアもあったがまた違ったデザインのマンホール。近代のデザインで船からの陸揚14:22三滝川に架かる『三滝橋』三滝橋の親柱江戸時代は三重川と呼ばれた三滝川に架かる橋。江戸時代の橋は長さ35間(約63m)の土橋だった。三滝橋を渡った所から四日市宿に入る。広重の保永堂版「東海道五十三次四日市」は三滝橋周辺の場面を描く三滝川の上流の国道1号線四日市市街の中央部を東流する三滝川に架かる橋。江戸期は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替え、さらに大正13年6月、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改めました。近世までに何世紀にもわたって市の文化や生活の中心地でした橋の上の歩道面のタイル織姫星の社をかつぐ民衆か?牽牛の列三滝川下流のコンビナート14:25三滝橋を渡ると『なが餅 笹井屋本店』所在地:三重県四日市市北町5-13四日市宿の名物、なが餅は天文19年(1550)創業の笹井屋で製造販売している。なが餅には次のようないわれがある。藤堂高虎が与右衛門と名乗っていた若いころ、笹井屋に寄ったが、懐に銭はなく空腹に耐えかねて主人に出世払いの約束でなが餅を食べさせてもらった。餅の名前を聞いて与右衛門は「我、武運の永き餅を食うは幸先良し」と喜んだ。慶長11年(1606)津藩36万石の藩主に出世した高虎は、参勤交代の時には必ず笹井屋に立ち寄ったという14:27昨年(2019)6月1日にオープンした『東海道四日市宿資料館』所在地:三重県四日市市北町3-19会館日時:土・日・祝日(年末年始を除く) 9:00~16:00(入館は30分前) 無料時間ギリギリに入場したここは東海道四日市宿でこの場所に「問屋場」があった。四日市宿は東海道五十七次の43番目の宿場です。幕府直轄の天領であり、代官所(現:中部西小学校)が置かれていました。館内にはいろんなものが陳列されていたが「権門駕籠」中世(戦国時代)の鎧戦国時代・江戸時代・明治から昭和初期の各種資料、獅子舞いや演劇など芸能史、東海道の宿場町と港、岡田屋呉服店の歴史、図書・未病・交流談話コーナーのほか、2階にも企画展示・講座室などを設け、史・史料総数500点余りを展示しているボランティアの人達と記念写真協力金募金箱があり小銭を入れる四日市の100年史桑名の折り紙一枚での鶴一枚の折り紙で何羽もの鶴15:00資料館で約30分程談笑しながら休憩した。壁面には四日市宿内にある4カ所の一里塚。富田・三ツ谷・日永・采女一里塚跡。江戸日本橋から、それぞれ98、99、100、101里目いよいよ後わずかで今日のゴール点「近鉄四日市駅」 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.17
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四日市宿は、日本橋から43番目の宿場である。戦国期にはすでに毎月「四」の付く日に市が立った。それが名前の由来である。江戸時代は幕府の天領で、桑名と同様に湊を有する宿場だった。四日市から宮(熱田)には海上10里の船便があり、船賃は47文だったので桑名の七里の渡しからお客を奪うと、たびたび苦情がでた。11/24(日) 13:05街道脇の道標の石柱「左:四日市、右:いかるが」旧東海道を南下、格子造りの古民家。四日市宿の外れの日永には伊勢神宮への追分(日永追分)があり、人の往来と物資の集散でにぎわった。宿場の町並は三滝川を西へ渡った所から諏訪神社の手前まで6町20間(約690m)で、百軒も旅籠があった。オランダ東インド会社の医師ケンペルは「かなり大きな町である。海の入江に臨み、たくさんの良い旅籠があり、他国の者は望み通りのもてなしを受けることができる」と称賛した13:07茂福神社(もちぶくじんじゃ)所在地:三重県四日市市茂福町27-36街道から数百メートル西側へ入るので街道からズームアップ茂福神社の鳥居、拝殿茂福神社祭神:建速須佐男命ほか八柱応永28年(1421)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任すると、建速須佐男命と天照皇大神をお祀りした。祭祀を引き継いだ城主茂福掃部輔盈豊は、永禄10年(1567)伊勢長島城で謀殺され茂福城も落城した。その後、盈豊の遺志は受け継がれ祭祀が続けられてきて茂福の産土神となった。明治42年(1909)鳥出神社へ合祀となり、従来からの祭りの日には御神霊を神輿で奉迎し、現在の茂福神社を御旅所として祭りを行ってきた。昭和25年(1950)鳥出神社から分社、正式に茂福神社として再祀、祭神を旧社に奉還して現在に至る。境内には鳥居・石灯籠・狛犬・太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。・・・・・・・13:09旧東海道から西側へ330mで『史跡 茂福城跡』応永28年(1421)摂津守政平が当地に来て城を築き、戦国時代には、茂福合戦がありました。永禄10年(1567)城主茂福掃部輔盈豊は織田信長による伊勢攻めの折、信長家臣滝川一益により長島城で謀殺され、その翌年に茂福城も落城しました。城跡は近鉄富田駅・霞ヶ浦駅間の間に位置し、明治37年(1904)には記念碑が建立された。市指定記念物(史跡)は昭和49年10月23日旧東海道から西側へ330mで『史跡 茂福城跡』街道脇に「警告」どこの町にもモラルのない方が・・・・・・・・・13:11上の高架は、東名阪自動車道四日市東インタからの県道64号線八田三丁目西交差点旧東海道は、八田三丁目西交差点を横切る八田三丁目西交差点の東側は、国道1号線の八田三丁目交差点米洗川手前の大きな『八幡常夜燈』見上げるような八幡常夜燈米洗川の手前土手下にあった石碑『顕彰の由来』加藤茂雄君は今日の自動車業の情勢に深く関心を寄せられた結果北勢地区に車検場を設立し車両整備の万全を期することを希い・・・・・・・・。この場所は、北西自動車協会の奥にひっそりと建つ13:20米洗川の橋の上からの国道1号線旧東海道の進行方向、街道筋には畳店が意外と多い昼時をだいぶ過ぎお腹が空いたが、長崎ちゃんぽんの店弥次さんは既に前方車の当たりを歩く13:23八幡地蔵堂と旧八幡神社所在地:三重県四日市市八田2丁目2-33八幡地蔵堂此の地蔵尊は、金場の地蔵尊と同じ一つの石から造られた兄弟地蔵で羽津村の北入口に置かれた結界地蔵である。江戸時代には、旅人が道中の安全や延命を祈願していくようになり、いつしか延命地蔵と呼ばれるようになったこの地蔵は地蔵でありながら、頭は螺髪、手は来迎印を結ぶ阿弥陀如来の姿をしており、仏のことをよく知らない石工が刻んだものと言われている。かつては、米洗川北岸の常夜灯の向かい辺りにあったが、昭和4年(1929)に八幡神社址地である現在地に移設された。地蔵堂の前にある石碑は、堂守の真誉師の徳を偲んで建てられたものである。この地にあった八幡神社は、江戸時代の・・・・・・・・・・・・・・・羽津ふれあいマップ旧東海道の赤い線を下(南)へ進む13:29民家の軒先に置かれた陶器は「とうかいどう」旧東海道を南下13:30左側前方に一本の松がそびえる配線があるので夜はライトアップするのであろうか東海道「かわらずの松」東海道「かわらずの松」この松は、樹齢約200年で江戸時代より東海道を行き交う旅人を見守っていたことだろう。昭和13年国道1号線が出来るまでは、幹線道路として往来が激しく賑わった道路であった。戦前は、この付近の東海道沿いには多くの松が植えられていて、松並木の風景が見られたが、戦後は経済の発展に伴い道路の拡幅と松くい虫の被害を受けて東海道の松並木が姿を消した。現在四日市では往時の松が残っているのは、日永地区と、羽津地区の二本だけとなった。羽津地の松を、その昔この地域を「かわらず(川原須)」と呼ばれており、その地名を取って「かわらず」の松と命名し、いつまでも愛護していきたいと民家のフェンスに「東海道」の道案内遅咲きのアサガオ?今日の歩数も3万歩近くになり、曇り空の中ゴールを目指す。道路が狭いので、車道と歩道を色分けし所々にポール13:36街道沿いの「森医院」庭先の松が立派古い門構えの民家13:37志氐神社所在地:三重県四日市市大宮町14-6鳥居の横に、天下泰平、五穀成就の常夜燈近鉄名古屋線の霞ヶ浦駅の南西に有り、350m先のため今回はスルーする。石鳥居の下に大きな石が?NHKが放映している、火野正平の「こころ旅」2019年879日でお手紙を読んだ場所、2015年にも休憩で立ち寄ったと妋石(みよといし)かつて東海道は伊勢への参宮者の往来が多く東海道に面した、志氐神社 第一鳥居の辺りに、道を隔てて西側にも大きな石がありこの二つの石は『妋石(夫婦石)』と呼ばれています。志氐神社には、イザナギ・イザナミという、夫婦の神様がお祀りされており縁結び・夫婦円満のご神徳があります。そのことから、古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めました 大宮町 志氐神社格子造りの民家13:40浄土真宗本願寺派 初野山摂護殿 光明寺所在地:三重県四日市市羽津町7-26街道沿いに「八十御遺蹟」の石碑と並ぶ光明寺は、元々は大矢知村青木谷あったという。弘仁年間に空海が諸国を巡回した時に小堂を建てたのが始まりと伝えられている。寛政元年(1460)に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたとされる享禄年間(1528~1531)に、羽津城主赤堀左京太夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称した。天正年間(1573~1591)に京都興正寺の勧めにより高田派から本願寺派に転じたとされる境内の紅葉 本堂の旧鬼瓦寛文3年(1663)2月12日に、雷災により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明である。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所録の品々を下賜され保管していたが、戦災で焼失した慶長9年(1604)に顕如上人影像が、また寛永10年(1633)に上宮太子及び三朝七高僧が下付されており、寺院化したのは江戸時代に入ってからであろうという説もある 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.16
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富田は東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の中間にある間の宿として栄えた。11/24(日) 12:38四日市市 富田地区市民センター前の掲示板間の宿 富田 四日市宿 一里?、桑名七里の渡し 二里半東海道総合案内現在地から左側(南方向)へ進む四日市市掲示板の先に『四日市市立富田小学校』校門左側に中央(黒い)に『明治天皇御駐輦跡』の石碑 東海道400周年記念 平成13年建立 「東海道」石柱明治天皇御駐輦跡維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。明治元年(1868)9月20日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。24日には四日市に御駐輦、翌25日富田茶町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞味になられ、10月13日東京へ入られた。その年の12月8日、京都へ帰られる途中、19日に再度広瀬方に御少憩になられた。翌明治2年3月7日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都される時3月15日またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。明治13年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、7月3日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてであった。明治天皇御駐輦跡の碑は、侯爵近衛文麿の筆である12:43旧東海道を進むと十四橋十四川には桜並木(上流側)桜の葉の紅葉が綺麗であった十四川堤の桜並木富田の町を西から東に流れる十四川堤の両岸1.2kmに渡ってソメイヨシノが約800本植えられています。毎年見事な桜並木となり、満開のあとは桜吹雪となって散る姿にも味わいがあり、花見客で大変賑わいます十四川の下流側の左側にお寺。この桜の歴史は大正12年に地元製網業を営んでいた伊藤勘作氏ほか有志により植樹したのが始まりで、昭和53年には開花ぶりが良いと「日本さくらの会」より全国表彰を受賞しております。現在は桜の名所を守り育て後世に伝えていこうという願いから、富田地区住民により大切に管理しております12:45門前からの『成徳山善教寺』所在地:三重県四日市市南富田町7-3門前の石碑には、国宝 阿弥陀如来立像、真宗高田派 成徳山善教寺山門と鐘楼成徳山善教寺(じょうとくざんぜんきょうじ)昔、このあたりを海戸尻と呼んだ。そこに、地域の篤き願いの人々の信仰の場、海戸尻道場があった。成徳山善教寺の前身である。寛正のころ(1460~66)東海・北陸地方を布教中の真宗高田派十世真慧上人が当道場に名号・野袈裟と御書を授けられたと、伝えられている。残念ながら当時のものは現存しないが、慶長15年(1610)同高田派十三世堯真上人より新たなる名号・野袈裟が下付され、今も本堂に祀られている元和3年(1617)11月28日本山より「善教」の寺号、正徳元年(1711)8月12日「成徳」の山号が授与され、明和8年(1771)7月7日釣鐘が許可された。本堂は、三代目の堂宇(専修寺如来堂模倣)で、それまでの本堂が築約200年を経て老朽化したため、昭和10年(1935)再建、客殿(書院)を新築した境内西側の収蔵庫には、国指定重要文化財「阿弥陀如来像」が安置されている。木造阿弥陀如来立像像高79cmの桧材寄木造りで玉眼・漆箔が施されてあり、いわゆる安阿弥風(鎌倉時代初期の仏師快慶の穏やかで優美な作風)の来迎印を結ぶ通形の像である。昭和28年同像を修理したとき、胎内から般若経、阿弥陀経、尊勝陀羅尼、摺仏、作善願文、作善日誌が発見されました善教寺本堂12:50旧東海道を南下すると街道左に『常夜燈』常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味を持っている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている旧東海道沿いの民家の軒先旧東海道沿いに建つ『大東亜戦争殉?士 慰霊塔』『忠魂碑』薬師寺山門の右側にある12:52浄土宗 薬師寺山門所在地:三重県四日市市南富田町10-32浄土宗 薬師寺51代平城天皇の大同年間(806~10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疫病が流行し諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を掘り開眼した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建ててこの薬師如来を祀ったというその後、茂福城主朝倉下総守盈盛は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄10年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である薬師寺前の民家の紅葉ズームアップ12:54旧東海道を南下この辺りは、民主連合? 岡田かつや氏の地盤12:56浄土真宗本願寺派 光明山常照寺所在地:三重県四日市市茂福町31-34光明山常照寺(こうみょうざんじょうしょうじ)天文7年(1538)釈法導によって開山された。寛文年間(1661~73)に、それまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来400余年今日に至っている。境内左側小堂には千手観音像が祀られている。明治18年住職大忍のころ矯風会(茂福町内会)より預かったものであるが、百余年を経た今も毎年8月18日のお参りが続けられている光明山常照寺山門鐘楼と本堂本堂は明治42年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。平成7年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われた親鸞聖人御像大寺の 甍の反りや 秋の雲鐘楼の鐘は昭和27年(1952)3月、四日市大博覧会において「平和の鐘」として展示されたものを当寺が譲り受けたものであり、池の間には常口の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久にひびけと」が刻まれている12:59旧東海道をさらに進むと道路角に『新設用水道碑』の石柱新設用水道碑、力石新設用水道碑の由来明治35年(1902)頃より、大字茂福地内の耕地整理事業が行われ、十四川の改修工事に伴い茂福町へ流れる水路がなくなり、東茂福町の水田に水が入らなくなりました。そこで此の碑より北西に十四川の中間より760米(7町)の暗渠による水路を通じ各家々の敷地内に(マンボ)を設置して、明治37年(1904)8月完成より、大正・昭和中期まで、生活用水・防火用水として利用をしていました。しかし、東茂福の水田地帯に国道1号線の開通に伴い水田は埋め立てられ、その後昭和34年(1959)伊勢湾台風の水害により暗渠に土砂が流れ込み、また水源地の十四川の環境悪化のため、此の用水道は消滅しました力石の由来明治の中頃、この村にある二ヵ寺のお堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。その節、土台石の中よりこの石を運び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競いあったと伝えられている。その後、茂福地区の青年若衆が大正の終り頃までこの石で力比べをして競い合ったという。・・・・・・・・・・・既に弥次さんは先行して進んでいるこの角を南東方向へ曲がり、100~200m進んで南西方向へ進む13:01この先を右に曲がる角を曲がるとすぐ右手に浄土真宗 林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんじ)所在地:三重県四日市市茂福町18-26 證圓寺の山門林光山證圓寺当時は、天台宗であったが、天文(1532~55)のころ住職が浄土真宗本願寺の第十世證如上人に帰依して改宗したと伝えられている。その後、永禄10年(1567)、茂福掃部輔盈豊が滝川一益に謀殺され、茂福城が落城するや、臣林玄證は盈豊の遺子(当時2歳)を敵より隠し、ひそかに鍋坂の村中に逃れて養育し、成人の後、我が娘と娶わせて家督を譲った。遺子すなわち林三郎佐衛門盈景およびその末葉は茂福證圓寺住職になる。境内には、開法蔵があり、一切経を初め多くの経文が収蔵されている鐘楼と本堂境内には、仏足跡や親鸞上人像が見られる境内には古木多く、緑の松、黄色の銀杏、紅の紅葉と秋の彩りはみごとである13:04旧街道に出て林光山證圓寺を振り返る旧東海道はこの先を左から来た(北方向) 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.15
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宝性寺から出て旧東海道(県道66号線)を進む。11/24(日) 12:02旧東海道(県道66号線)12:03長明寺の山門所在地:三重県四日市市蒔田2丁目13-29お寺の廻りを堀で囲んでいる。この先は、先程参拝した宝性寺境内に至る朝明殿 長明寺(ちょうみょうじ)当寺は浄土真宗本願寺派の寺である。創立年代・開基など不明であるが、寺誌によれば、もと真言宗潮音寺と称し、近隣の豊田村(現三重郡川越町豊田)に字長恩寺があり、この地を当寺の旧地と伝える。文明17年(1485)画像本尊を下付されたというから、この頃に真宗に改宗したのであろう。下って、慶長9年(1604)現在の寺号を公称し、寛永元年(1624)に木仏の許可を得て寺院化したようである。のち慶安4年(1651)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり、翌年に寺基を移し今日に至っている。境内は濠と築塀がめぐり、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が建つ。山門をくぐると、正面中央に、昭和31年(1956)再建された入母屋造の大規模な本堂がある。山門左脇に立つ鐘楼は寺誌では延宝年間(1673~80)に建立したと伝える蒔田舘(城)寿永年間(1182~1185)に、伊勢平氏の一族の平家資が、富田館と同時期にこの地に築城。四方を素掘りの堀で囲み、外堀は南の鏡が池まであった。平氏が壇の浦で(1185年 山口県)で滅亡すると、源頼朝は各地の平氏掃討を行い、鎌倉幕府方の大内氏に攻められ富田館・蒔田館ともに落城するその後、この地は後白河院の領地となり、都より守護職として、藤原宗勝が蒔田に居館し、蒔田相模守宗勝と名乗る。宗勝は深く仏教に帰依し、この地にお堂を建立し長明寺の基となる。現在、宗勝のお墓は、西富田の三光寺本堂南側にある。戦国時代になると、蒔田城として萱生城の春日部氏の一族である春日部家春が城主となるが、永禄年間、織田信長の北勢侵攻で本家萱生城とともに降伏、帰順した長明寺本堂本堂の扁額「朝明殿」12:08旧東海道(県道66号線)と県道26号線との蒔田交差点。街道は交差点を渡り直進するが交差点の先で弥次さんが何かを撮影旧東海道の左側に『鏡ヶ池(笠取り池)』の説明板を発見鏡ヶ池(笠取り池)『続日本記』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740)に伊勢国を行幸になり、11月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、23日に朝明郡の頓宮に着かれたとある。その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる石柱には「鏡ヶ池」と12:11三岐鉄道三岐線 近鉄富田駅方向ここまでの歩数は、22,700歩上の高架線は、JR関西本線12:13旧東海道を進む、右側に石柱があり入る浄土真宗本願寺派 木下山三光寺所在地:三重県四日市市西富田町1134木下山三光寺当寺院は浄土真宗本願寺派の寺であり山号を木下山と称し、平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑のある寺として知られている。承久3年(1221)法名を祐善と号した宗勝が示寂し、時の富田郷木下にあった江戸報徳寺(真言宗)の分地に埋葬された。子々孫々その菩提を弔い、十一代正了の折、真宗八代門主蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが、この寺院の開基と伝わる三光寺本堂江戸徳川氏の御代(慶長11年)、長福寺の寺名をもって本願寺の末寺に列し現在地に寺院を建立するも、寺名が時の幕府に忌避され、享保2年(1717)三光寺と改名され、翌年に寺院御堂が建立された。130年後、安政大地震により破壊され、明治20年(1887)に再建されるも昭和37年(1962)の火災により焼失、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである本堂の左手(南側)の墓地の一角に「蒔田相模守宗勝墓」本堂からの鐘楼旧東海道を進む旧東海道を振り返る、三幸毛糸紡績手前から三岐鉄道三岐線、近鉄名古屋線の高架橋12:25右の石碑は『富田一里塚跡』富田の一里塚は織田信長が36町歩を一里(4km)として塚を建てた事が始まりで、江戸時代初期に整備されました。ここ富田三丁目(西町)の近鉄名古屋線高架下道路沿いの富田の一里塚には、かつて道路両脇の塚の一方には榎木と松が1本ずつもう一方には榎が1本植えられ、行き交う旅人の目印とされ休憩場所となっていました。所在地:三重県四日市市富田3丁目19-8史跡 富田の一里塚跡しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においてもその面影を見ることができなくなった。古地図や文献によると四日市には富田三ツ谷、日永、采女の四ヶ所にその跡が判明されており、これはその内の一つで日永の一里塚跡とともに県の史跡に指定されている富田から四日市宿への旧東海道は、右側から左(南方向)に向かう旧東海道は右方向へ南下12:30八幡神社祭神:誉田別尊(応神天皇)富田六郷氏神記に「八幡大菩薩は弘安2年(1279)2月15日、富田の地頭佐原豊前守政盛によって東冨田に勧請(神や仏の霊を移して祀ること)される」と記されているのが八幡神社の起こりです。境内には「力石」が残されています八幡神社の力石「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものがあるが、ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石にふれることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう明治42年(1909)鳥出神社に合祀され、社殿址に『八幡神社址』の石碑が建立された。昭和40年(1965)頃現在の社殿が再建され西町の産土神として戻された。昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。現在では当時をしのぶ面影はないが社殿西に数百年を経た椋木の古木が名残をとどめている八幡神社址の石碑、神社を振り返る12:31街道右側に『行啓記念道路の石柱』この碑は、大正天皇が皇太子時代にこの道路を通られたことを記念して建てられたものである(現在の石柱は昭和2年1月に再建されたものである)行啓記念道路明治43年(1910)11月16日、第三師団と第十五師団の対抗演習を見学のため西下された皇太子殿下は当時三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)にお立ち寄りになられた。・・・・・・・・・・・。行啓とは、皇后、皇太子等が外出されることを言います12:34街道を南下するがこの辺りの旧東海道は複雑で、電柱に「右 東海道」と。直進すると、鳥出神社?右に曲がると、街道脇に道標の石柱三重郡富田町津市元標へ拾里、四日市市大字四日市へ壱里八町ここを右折すると200mで「近鉄富田駅」富田にも「富田の石取祭」があり、8月お盆に富田西町・北村町・茂福町の三町の石取祭車がそろって富田地区内・鳥出神社を中心に練り巡行を行う祭りです街道脇に、サトウハチローの歌碑『わが家がある幸せよ』『わが家がある幸せよ』の歌碑平成14年12月5日 竣工愛知県蒲郡市の竹島にも石碑がある富田の焼蛤富田は東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の中間にある間の宿として栄え、西国大名参勤交代などで賑わっていました。「蛤の焼かれて鳴くや郭公(ほととぎす)」この句は江戸時代に蕉門十哲の一人、宝井其角が中町の旅籠尾張屋の店先で詠んだもので、その当時の句碑が富田浜に記念碑となって残っています。「東海道中膝栗毛」では、七里の渡しを渡った弥次さん喜多さんが「桑名につきたる悦びのあまり、めいぶつの焼蛤に酒くみかわして」とされています。実はこの焼蛤、小向(朝日町)と富田の名物でした。・・・・・・・・・・。富田が当時桑名藩領であったことから桑名の焼蛤となったようです12:37街道脇の石柱には右:富田一色、東洋紡績、川越村 道 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.14
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旧東海道を南下して四日市宿へ更に進む。11/24(日) 11:16右側の路地を入ると、JR関西本線の朝日駅があるここまでのホテルからの歩数は、18,900歩露地をズームアップすると「朝日駅」11:18旧東海道を進むと、標識が進行方向に向って折り曲げられている間違える人が多いいのか、親切な黄色の看板先程の曲がり角を振り返る11:23名所等が何もなくひたすら進み、振り返る街道脇の川には水がきれいなため「タニシ」が。昔、子どものころ川からとってきて湯がいて食べたものだ11:26旧東海道の西側をJR関西本線が走る街道には桜並木前方の高架は、伊勢湾岸自動車道、国道1号線の北勢バイパス旧東海道の左前方は、柿交差点。右側には常夜燈が建つ常夜燈をズームアップ11:30県道66号線の柿交差点旧東海道はこの下をくぐって進む。ここまでの歩数は、20,400歩柿交差点から常夜燈、後方にJR関西本線伊勢湾岸自動車道の高架下朝明川の上流側朝明川の下流側、四日市コンビナートの煙突朝明橋を渡ると四日市市に入る11:35松寺いこいの広場所在地:三重県四日市市松寺2丁目18-17朝明橋を渡り四日市に入り、南側にある公園。昼近くになり小休憩することに公園には、力石(ちからいし)この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店「橋南(はしみなみ)のつる」の主 大久保つるが後世に残したものである。石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100kg)と想像される、北勢地方で見かける力石はその多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されているものであるここから四日市『東海道 北玄関 松寺』シーボルトの説明があるが、四日市との関係は?歌川広重「東海道五十三次 四日市(43番目の宿場町)」昔の朝明橋(明治時代?)約10分ほど休憩して、旧東海道(県道66号線)を進む。11:47御厨神明社所在地:三重県四日市市松寺3丁目6-33路地を入り、御厨神明社奥に拝殿四日市のマンホールデザインは花の「サルビア」この汚水マンホールのデザインは?11:50旧東海道(県道66号線)を南下する。前方奥に『伊勢の蔵』㈱タカハシ酒造所在地:三重県四日市市松寺2丁目15-711:51松寺の立場跡東海道松寺の立場跡は、現在の高橋酒造㈱店のすぐ南側辺りであったと思われる。街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして杖を立て一休みした所をいう。公の休憩所のことで茶屋などがあり、立場茶屋と呼んでいた。当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は冨田の立場(冨田小学校付近)があった松寺の立場跡のすぐ近くにある『輝子頌徳記念碑』伊勢国三重郡大矢知村字松寺にて佐藤庄九郎の一女として生まれる。弘化3年(1846)4月4日生まれ。25歳の時に夫が他界。五十年一日の如し 輝子は教育・裁縫の教育をし門者千数百人に及ぶという(実際には三千人ほどの子弟がいたとも)。大正6年(1717)11月13日病気にて享年72歳で世を去る。翌年3月門人によって碑を建てる。輝子の父庄九郎は嘉永時代に庄屋を務めた11:52松栄山 蓮證寺(れんしょうじ)所在地:三重県四日市市松寺3丁目鐘楼は平成5年、山門は平成6年に再建された当山は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が安置されている。口伝によれば、400年位前に現在地にお堂があり、本堂も200年位前に建てられたと伝えられる古い寺である。昔の太平洋戦争中に供出された梵鐘も、地元の篤志家のご尽力により、立派に再建された。また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。山号は松栄山といい、松栄山蓮證寺と町名の松寺とは何か関係があるのではないかと思われる蓮證寺本堂11:55旧東海道へ戻り12:00旧東海道(県道66号線)を進むと「蒔田観音 龍王山 宝性寺」と「御厨神明神社」の二つの石柱四日市まで、7km 100分、桑名まで、7.5km 110分龍王山 宝性寺所在地:三重県四日市市蒔田2丁目12-26奈良時代聖武天皇が天平12年(740)朝明行宮の際、摩伊多の里に御野立された地で勅願により建立されたのが当寺の創建とされる。創建時は樹木が鬱蒼とした敷地8450坪坪の中に七堂伽藍の荘厳なお堂が立並んでいたと伝えられる。御本尊としては江州石山寺を開基した良弁僧正による一刀三礼の彫刻による十一面観世音菩薩像を安置して祀り、長く隆盛をみたしかし、永禄11年(1568)の織田信長の家臣滝川一益の長島一揆攻略の戦火に遭遇して焼失した。その後現在地に小堂を建立したが、正徳元年(1711)再度の火災により焼失、享保4年(1719)、第6代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂であり、御本尊とともに蒔田観音と愛称され、今日まで広く信仰されている手水舎、本堂宝性寺本堂伊勢西国三十三所観音、第二十八番霊場本尊は十一面観音菩薩像神明神社は、宝性寺本堂の右側にある。 桑名宿~四日市宿ー続く
2020.02.13
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