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豊川に架かる豊橋から御油宿へ向かう。9/26(木) 11:23豊川に架かる豊橋の上から、吉田城「鉄櫓」手前の橋は現在の吉田大橋豊橋を渡り「とよばし北交差点」11:26とよばし北交差点を左折して、旧東海道(県道496号線)を進むと豊川稲荷 遥拜所遥拜所と大鳥居について江戸末期文久2年(1862)、この頃になると豊川稲荷への参拝者が増加し豊川稲荷への道筋が分かりにくく行き過ぎたり早く曲がりすぎたりで道に迷う人が多く、参拝者の利便と東海道を往来する人々や信者への道案内として、遥拜所と鳥居を東海道での最寄りの曲がり角とされていた。下地と御津の二ヶ所に有志信者の人々が力を合わせて目印の遥拜所と大鳥居が奉納されました。遥拜所とは、豊川稲荷にはお参りできずとも、この場でお参りすれば同じご利益がもらえるものです昭和5年までこの地に建てられていた大鳥居も、豊川稲荷大本殿の完成を祝ったご開帳の時、総門から入って最初の一の鳥居として移転した。高さ7.6m、足まわり2.5mの大鳥居である。二の鳥居は御津の遥拜所に一の鳥居より9年ほど早い嘉永6年(1853)に建立されたものです。その鳥居も大本殿ご開帳の昭和5年に移転されました。高さ7.0m、足まわり2.1mで一の鳥居よりやや小さい鳥居です。一の鳥居、二の鳥居とも昭和5年に移転されたが、廃仏毀釈の影響などもあり同年一旦之を倒し境内に保管されていましたが、戦後再び復興され現在の状態になりました11:28旧東海道(県道496号線)を進み北側に寺院真宗高田派 真光寺当寺の創立年代は不詳です。かつては、聖眼寺の塔頭でありましたが、明治9年寺院制度変更によって専修寺直末となり、昭和17年旧称真光坊を現在の寺号、真光寺に改めました豊橋市指定有形文化財「木造阿弥陀如来立像」立像は、像高102cm、杉材に黒漆を塗り、さらに金箔を押したもので、衣文の襞などにはまだ金箔が残っています。この仏像は、顔や両肩、胴などにボリューム感があり、顔が鎌倉の大仏によく似ていると言われています。製作年代と作者については明らかではありませんが、室町時代の作と推定されています。なお、昭和20年の空襲では全身に火の粉を浴びましたが、漆や金箔もほとんどとけず現在では「災厄除の阿弥陀」として多くの人々の信仰を集めています11:30聖眼寺(しょうげんじ)の山門所在地:愛知県豊橋市下地町3丁目3山門前の標石には「寺院に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」とあります。また、山門右に「親鸞聖人御舊跡」の石柱山門の扁額「聖霊山」平安時代初期の慈覚大師が創建。その後、浄土宗に改宗しこの地へ移る真宗高田派 聖眼寺本堂左側に2基の芭蕉碑が立っている。境内右側には三宝保育園があり、元気な園児の声がしてきた豊橋市指定史跡「松葉塚 3基」尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50周忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の憤土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました境内隅に「蚊除けようの器具」幼稚園を併設しているので園児用に数台設置していた。昨年四国遍路の時もある寺院で見かけたが、ボンベがあり何となく危険を感じるが!Made in the USA11:38旧東海道(県道496号線)に「下地一里塚跡」の石柱を見つける江戸日本橋より七四里11:42㈱ヤマサン所在地:愛知県豊橋市下地町豊麻27番地創業:元禄16年(1703) 創業310余年 の老舗事業内容大豆、食用油、米穀、豆腐関連資材、和・洋・中華食材・冷凍食品飼料、計量証明事業、産業廃棄物収集処理 と幅が広い従業員も150名で、営業分野を模索しているようだ11:44ようやくコンビニがあり休憩で「FamilyMart 豊橋下地店」へ立ち寄る弥次さん「SACRE レモン」私は暑くのどが渇き、氷アイスを食べる12:04街道沿いにある、コーヒーハウス「さざなみ」NPO運営のお店のため、非常にリーズナブルな価格設定で、ドリンク付でワンコインのランチが食べれると。ただし限定8食12:08旧東海道(県道496号線)を進むと、街道沿いにきれいな花が造花ではないようですが、花の名前は?12:12旧東海道(県道496号線)の北側に「瓜郷遺跡(うりごういせき)」の案内板瓜郷遺跡、北へ120m瓜郷遺蹟は、豊橋市瓜郷町寄道・前川に広がる弥生時代を中心とした遺跡である。昭和11年の道路拡張工事の際に貝塚が発見され、出土した土器から弥生時代の遺跡であることが知られるようになった瓜郷遺蹟所在地:愛知県豊橋市瓜郷町寄道史跡 瓜郷遺蹟瓜郷遺蹟この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期(2,000年~1,700年前)にかけての集落の跡です。昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。瓜郷遺蹟は唐古遺蹟(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などと共に弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なものです。出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されている復元住居弥生時代の竪穴住居(復元)この復元家屋は、昭和22年~27年の発掘調査で見つかった竪穴住居の遺構をもとに故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。時代は今からおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります12:19旧東海道(県道496号線)を進むと国指定史跡 瓜郷遺蹟「文化財保護用地」の札と囲いまだ未発掘の遺跡があるようだ12:26旧東海道を進むと南側に「豊橋魚市場」所在地:愛知県豊橋市下五井町青木110この先から豊川市に入る、反対の北側に食堂もあったが先を急ぐので・・・・・魚市場が内陸部にありビックリ!「いつでも誰でも買うことができる魚介の新鮮市場」マグロの解体ショーもやっていると名鉄名古屋本線12:32高橋(たかばし)からの南方面高橋(たかばし)上から豊川放水路右前方に、ニチレイ・ロジスティクス 東海 豊橋物流センター12:35名鉄名古屋本線、下流側に東海道本線、飯田線12:37豊川放水路を渡り緩い坂下にある石碑子だが橋所在地:愛知県豊川市小坂井町道地子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ1,000年前菟足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋のことを、子だが橋と呼ぶようになったということである。現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている 二川宿から御油宿-続く
2019.10.25
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吉田城がある豊橋公園から御油宿へ向かう。9/26(木) 10:27国道1号線の「西八町交差点」、江戸日本橋から296.5kmの標識。直進するとここから国道23号線で蒲郡方面、国道1号線は右折市役所前から「札木」へ向かう10:29旧東海道へ戻る、左は「豊橋鉄道の札木」旧東海道は左右に走っている札木辺りに「吉田宿本陣跡」の標示所在地:愛知県豊橋市札木町50吉田宿の本陣は、享和2年(1802)の書上によると、宿の中心部にあたり、東海道筋で最もにぎわった札木町のこの地に清須屋与右衛門と江戸屋新右衛門の二軒が並んであった10:33吉田宿問屋場跡を探しに札木交差点に戻る弥次さんが背の低い「吉田宿問屋場跡」を見つける。目線での表札がないので、一人だと見落とす宿駅には、必ず道中奉行所支配の問屋場が設けられ、ここで人馬継立の業務が行われた。吉田宿の問屋場は、札木町のこの地に置かれ、人足百人、馬百疋が貨客のために用意され、問屋を筆頭に、年寄、帳付などの問屋場役人によって差配された豊橋鉄道の札木停留所前の市内案内板10:35国道259号線を走る豊橋鉄道東田本線「札木」。旧東海道はこの交差点を横切り左方向へ旧東海道を進む10:37旧東海道の反対側に標識を見つける店先に「吉田宿本陣跡」の案内板ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和2年(1802)の書上によると東海道吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、ここ札木あたりは宿の中心部として最もにぎわった店先に「べっぴん」語源発祥の店 丸よ明治初期に田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を掲げ鰻を売り出した所、大好評を得その言葉が全国に広がってゆき極上品はすべて「べっぴん」と呼ぶようになって、そのあとの明治中期には美しい女性(美人)にも使われるようになりました。丸よはその伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。食べてみたーい!!!10:39旧東海道の歩道の左側に石柱吉田宿脇本陣跡の石柱でした10:50手筒花火発祥の地「吉田神社」所在地:愛知県豊橋市関屋町2国道247号線の西側に位置し「あいち情報専門学校」に面している右側に「あいち情報専門学校」のフェンス鳥居に大きな扁額?「一位吉田神社」東海道五十三次吉田宿「豊川橋」吉田神社に残る記録「吉田神社略記」に「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ、1558年(永禄元年)今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ムトアリ、云々」・・・・・とあります参道への真ん中に「影降石(ようごうせき)」(天降石)影降石(天降石)社史に「延宝元年(1763)6月9日吉田城主小笠原長矩鳥居を建つ。寛永17年(1640)水野忠清が建つる所のもの風災に罹りたるを以てなり、今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方に六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御鬮による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後、影向石として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)それより百五十年以上を経て、豊橋上伝馬の金物商夏目可敬が編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり、実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり、いつの頃には空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降しかば影降石と号す」と記されています参道横に「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」吉田神社の例祭は「豊橋祇園祭」の名で親しまれ、七月第三金曜日より三日間盛大に執り行われます。・・・・・・・・・大筒練込み豊橋駅のコンコースに飾ってあったものの類似品吉田神社拝殿牛頭天皇信仰に基づいて天治元年(1124)に創建されたと伝わるがほかにも諸説がありはっきりしない。今橋城の築城以来、吉田城の鎮守だった。今川氏の保護を受け、家康は寺領三十石を寄進。江戸時代には吉田天王社、牛頭天王社と呼ばれ祇園祭と花火が盛んだった。宵祭りには手筒花火・煙火大筒が揚げられる。三河地方独特の手筒花火発祥の地として有名拝殿前から石鳥居を望む弥次さんが御朱印を頂く11:00モール化された国道23号線(蒲郡街道)を旧東海道へ向かう。交差点手前に「吉田城西惣門跡」吉田城西惣門跡所在地:愛知県豊橋市湊町157この惣門も東惣門と同じようなミニチュアが建てられている吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄せの空き地十七坪がありました西惣門跡から東方向11:03旧東海道へ11:05道路標識からここの交差点を渡り左方向へ進む11:09湊神明社原田圭岳筆「老松図」屏風があると11:10この船町交差点を右折して旧東海道(県道496号線)へ11:12船町と高札場【船町】 その昔、この辺りは四ツ家(四ッ屋)と称され、数軒の家屋がまばらにある河原同 然の土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは、浅井与次右衛門( 浅井長政の重臣)とその一門80名程の人々と言われています。その後、天正18年 (1590)に吉田城主池田照政(輝政)より定住を許され、庄屋役を命じられ、以後 船町と改めて町の開発を行ったようです。 近世初頭に開かれた吉田湊は、豊川舟運の終点として、また伊勢や江戸への航路 の起点として栄え、当時、三河における最大の湊でした。船町はこの湊での船役 を命じられ、地子(賦課した地代)免除の特典が与えられるなど、吉田24町の中で 独自の立場であったようです。【高札場】 寛永13年(1636)幕府の命により、橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより70m 程下流)に高札場が設けられました。この高札場には、河川の取締り、橋の保護な ど極めて重要な取り決めが、板に書かれて掲げられていました江戸時代後期の船町のようす(「三河国吉田名蹝綜録」より)11:13豊川の下流の左側に「吉田大橋跡と吉田湊跡」の碑11:16吉田大橋跡、後方に豊橋豊川に架かっていた江戸時代の吉田大橋は現・豊橋から150mほど下流にあった。長さ120間(約220m)、幅4間(約7.3m)の吉田大橋は当時から有名で、東海道三大大橋のひとつだった(ほかに岡﨑の矢作橋、瀬田の唐橋)吉田湊は吉田大橋の南詰にあり、豊川河口から4km上流だが、満潮時は三河湾から大型帆船が入港でき、伊勢に行く航路と豊川上流の奥三河の物資を江戸各地に送る航路の起点で、三河最大の湊だった豊橋側面図この橋はいつごろまであったのか説明がなく不明旧豊橋の部材か、説明がなく 二川宿から御油宿-続く今日午後から、いつもの旅友と「秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間」へ、スペイン仲間の女性と併せて4名で参加してきます。ブログは引き続きアップしておりますのでよろしくお願いします 追ーEND
2019.10.24
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豊橋公園を散策し、続日本百名城の吉田城のスタンプをもらう。9/26(木) 9:43豊橋公園内の石碑冠木門跡この石碑は「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」歩兵第118連隊はこの地で編成された創設:1941年、廃止:1944年吉田城内9:46三の丸会館御抹茶立札席 午前十時から午後四時豊橋公園の北側に回る豊川の上流カワウが羽を広げて乾かしていた干潮で水位が下がっているのか豊川の下流に国道247号線の吉田大橋鉄櫓(くろがね)を見上げる吉田城から北方向豊川から石段を登る「北御多門跡」北御多門跡9:53鉄 櫓続日本百名のスタンプがあるのだが開館時間は:10時からと豊橋市役所東館13階手筒花火体験パークでは、8時からとあったが鉄櫓そばの「武具所跡」でしばし待機することに 吉田城は、永正2年(1505)に今川氏親が牧野古白に命じて築いた今橋城が前身とされる。その後、周辺勢力による城の争奪戦が繰り返されたが、氏親の子の義元の代には今川氏の城となった義元の死後、今川氏が衰えると徳川家康が奪い、酒井忠次を城主に配する。徳川氏の関東移封後は、池田輝政が十五万二千石で入城し、今橋城から吉田城と改名。拡張整備、城下町の町割りと建設が行われた豊川と朝倉川を北背後に、本丸を基点として二の丸、三の丸を配した。後堅固と呼ばれる梯郭式の縄張であった続日本百名城のNO.151「吉田城」工事中の吉田城当時の作業の足場が解る鉄櫓の左にイスノキとよはしの巨木・名木100選の「豊橋公園のイスノキ」本市のイスノキの中ではもっとも大きい。枝張りが素晴らしい。葉には虫こぶができやすい幹 周:360cm、高 さ:15.8m、枝張り:16m×18m、推定樹齢:300年以上10:07南御多門跡城の石垣刻印とは室町時代から江戸初期ごろに築城されたお城の石垣には、刻印(家紋・名前・文字・記号等)が施してあることがあります。刻印は城の築城或いは石垣の採石時に何らかの意思表示のため、彫られたものと考えられています。・・・・・・・・石垣の中に刻印された石が混じっている名前?記号?刻印のある石に矢印がある吉田城略史江戸時代は譜代大名が城主(吉田藩主)となり九家二十二代が明治まで続いた。石高は三~八万石で小録だったが、老中、若年寄など幕府要職を務める城主が多かったため浜松城と同様に出世城といわれた。天守代わりだった本丸北西の鉄櫓址に昭和29年(1954)模擬の櫓が再建された。石垣と刻印本丸南側以外の石垣は名古屋城天下普請で余った石材を転用したとされ、石に刻印が確認できる石垣冠木門跡10:12歩いていると頭上で「コツコツ」と聞こえ、見上げると野鳥が10:15カトリック豊橋教会クリスマスの時期はイルミネーションがきれいだと。後方に豊橋市役所10:19豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂木造銅板葺1階建、建築面積 182.03㎡この聖堂は、豊橋ハリストス正教昇天教会が大正2年に建築したものです。西を正面とし、吹き出しのポーチをおき、続く玄関はその上に八角形の鐘塔をのせ階段室を兼ねています。東西方向の軸線として、ポーチに続いて玄関、啓蒙所、聖所の三つの部屋を、規模を拡大させながら東に向かって一列に配置しており、聖堂の東端に至聖所を配置する形式となっています。さらに、聖所の南北にもポーチが配置されていますこの聖堂は装飾の少ない簡素な建築ですが、保存状態は良好で、明治大正期の木造形式による代表的なハリストス正教会聖堂として高い評価を受けています10:24豊橋市公会堂を陸橋から見る国道1号線の岡崎方面東方面の、東八町交差点 二川宿から御油宿-続く
2019.10.23
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吉田宿周りを散策し、続日本百名城の吉田城へ向かった。9/26(木) 8:58龍拈寺(りゅうねんじ)山門所在地:愛知県豊橋市新吉町15山門は、元禄6年(1693)住持となった法運義官和尚の代に建立され、その後、宝永の大地震により傾いていたものを修復したと伝え(吉田山龍拈寺記)、昭和の戦火にも類焼を免れた当寺院唯一の江戸時代の遺構です山門から龍拈寺この山門は、単層・切妻造・桟瓦萱の四脚門で、軸組に欅材を用いた唐様(禅宗様)を主に、随所に配した絵様、繰形の一部には天笠様(大仏様)の手法も折衷されており、構造や意匠の奇抜さに特色が見られる市内でも数少ない、江戸時代の建造物として貴重なものです龍拈寺山門 1棟山門を入り右側に、悟慶院龍拈寺の江戸時代の伽藍は、本堂・御影堂・大庫裏・小庫裏・鐘楼・山門等の堂宇の他に多くの塔頭を擁していました。これらの諸堂宇は宝永4年(1707)の大地震で傾倒したのち再建・修復されましたが、第二次大戦中の空襲で山門だけを残して全焼した曹洞宗吉田山 龍拈寺(りゅうねんじ)所在地:愛知県豊橋市新吉町3昭和20年(1945)の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、唯一残った山門が豊橋市の有形文化財に指定されている石柱は「吉田山 龍拈禅寺」山号は吉田山(きちでんさん)、本尊は十一面観音。当寺は、16世紀前半、吉田城主の牧野信成が亡き父・古白の23回忌追善のため、休屋宗官(きゅうおくそうかん)和尚により創建されたとされる。江戸時代には隆盛を誇り、神宮寺と悟真寺と共に吉田藩を代表する「吉田3ケ寺」に数えられた龍拈寺の指定文化財 【華陽婦人画像】 一幅 【牧野古白母堂画像】 一幅吉田山の灯籠開山五百回大遠忌 記念灯籠龍拈寺は平成29年3月8日に開山五百回を迎え、その記念事業として灯籠の再建を発願致しました。以前の灯籠は金属製であったため、戦争で供出され、台座のみが山門の横に残っていた状態でした。新しい灯籠は当時の形を模し、且つ昔の台座も一部加工されて残されています。又、再建にあたっては檀信徒、護持会の皆様のご協力のもと、貴重な浄財で完成に至りました9:05旧東海道への戻りに「金刀比羅神社」街道沿いの店先に、花園幼稚園児の絵「孫の日」9:11吉田城大手門跡9:12国道1号線の北側に「豊橋市公会堂」豊橋市のマンホールのデザインは「豊橋市公会堂と路面電車」9:15国道1号線を走る路面電車の豊橋鉄道東田本線9:19安久美 神戸 神明社所在地:愛知県豊橋市八町通3丁目17国指定 重要無形民俗文化財「鬼まつり」が2月10、11日に開催される。これからは七五三で、10月~12月に毎日受付、御祈祷受付は朝9時~夕方4時国道1号線の北側に位置する「安久美 神戸 神明社」国指定 重要無形民俗文化財「豊橋神明社の鬼祭り」安久美 神戸 神明社は、天慶3年(940)の創建です。「平将門の乱」鎮定を祈願した朝廷は、伊勢神宮へのお礼として三河国飽海郷を神領として寄進しました。これを飽海新神戸といい、この時に当社が創建されたと伝えられています。この神領の安泰と繁栄を祈願して始まったのが鬼祭りの起源です豊橋鬼祭りの由来この祭りは日本建国神話の田楽の舞、豊年と厄除の祭りとして約千年前から毎年行なわれた尊い神事であります。暴ぶる神の赤鬼が悪戯をするので武神天狗が懲らしめようと両者が神前で秘術を盡して闘い最後に和解して赤鬼が罪の?に厄除のタンキリ飴をまきながら嵐のように境外へ飛び去ります。この飴を食べると厄除となり健康になると古来云い伝えられ・・・・・・・・・・拝 殿早朝で神主さんが境内を掃除拝殿前のこのステージは?秋祭限定 八幡神社ご朱印秋祭期日:令和元年十月十四日(月・祝日)かつて吉田城内には武家の崇敬篤い「八幡神社」(城内八幡宮)が祀られておりました。明治維新後、社地を城内より東八町に奉遷し「赤門の八幡様」と親しまれておりましたが、戦災により社殿消失し、ご神体を「安久美神戸神明社」に配祀し今日に至っております。この「八幡神社」で毎年秋に執り行われてきた「例祭」は、現在「安久美神戸神明社の秋祭」として継承されています弥次さんが頂いた御朱印御朱印巡り安久美神戸神明社→普門寺→吉田神社→赤岩寺源頼朝公、今川義元公、徳川家康公から庇護を受けた豊橋を代表する寺社仏閣を巡る安久美神戸神明社の由緒当神社は天慶3年平の将門の乱鎮定の報寶として朝廷より伊勢大神宮へ寄進せられし神領地に創立せられた古社にして安久美神戸の総社と齋い奉る拝殿前から鳥居を東照宮(家康公)御腰掛松社伝によれば徳川家康公は天文23年、未だ竹千代君と称し吉田城内に居られた折、正月14日の祭礼(鬼祭)に当神明社を御参拝になり、御社前の松樹の下に腰を掛けて鬼祭を興味深く御覧になられた。その後慶長8年家康公は征夷大将軍に任ぜられ、伏見城に当社神主司守信を召され、御朱印を以て神領を御寄進になられた。その時家康公は「久敷うおじゃる今も神式にちんばの真似をするか」と御下問があり、それ以来例祭鬼祭の司天師田楽を俗に「ちんば踊り」と云う。現在松は時代を経て新たな松が植えられ、根元の大石は旧社地より神明社へと移された安久美神戸神明社本殿 始め 5棟神楽殿と拝殿9:31国道1号線へ戻り9:33公会堂の横に2羽の鷲ここに建つ2羽の鷲は、昭和6年公会堂建設当時のもので、ずっと豊橋の街を見守り続けてきました。鷲たちの翼を広げる雄々しいその姿を公会堂のシンボルとして残していくものでありますプレミアム付商品券「申請窓口」そういえば、低所得者の我が家にも来ていた豊橋市公会堂所在地:愛知県豊橋市八町通2丁目22豊橋市公会堂は、豊橋市制25周年を記念して昭和6年(1931)に建てられました。鉄筋コンクリート造3階建で、玄関には巨大なコリント式の列柱を並べ、その両脇には四方に羽ばたく大鷲の彫刻で飾った半球ドーム屋根の階段室を置いており、堂々とした正面の構えに特徴があります。正面入口列柱上の半円アーチ、3階の2連アーチ窓、丸窓に用いられるステンドグラスなどから、全体にロマネスク様式(城郭風)を感じさせますが、半球ドーム屋根はモザイクタイルを用いており、中近東風の建物を思わせます。建築面積は1,202㎡で、設計者は静岡市庁舎本館や静岡銀行本店などを手がけた、浜松市出身の中村與資平です。なお、建物は平成12年に外壁等の補修を受けています9:36豊橋公園所在地:愛知県豊橋市今橋町公園内には、陸上競技場、野球場、テニスコート、美術博物館等がある豊橋公園の西に豊橋市役所がある。ここへは二度目の訪問である豊橋公園内の案内吉田城案内図豊川対岸からの吉田城:明治初年に撮影大手門:明治初年に撮影歩兵第十八聯隊(豊橋市今橋町・豊橋公園)歩兵第十八聯隊は、明治17年(1884)6月に名古屋で新設され、吉田城址に兵舎の建設が進められました。明治18年4月には大半が出来上がり、明治20年(1887)5月までには移駐が完了しました。現在の豊橋公園、豊城中学校、豊橋市役所のあたりがその場所になります。戦後、施設の多くは取り壊されましたが、門や哨舎・弾薬庫・灰捨場・碑などにわずかに往時をしのぶことができます。実 績:日露戦争、日中戦争、日清戦争、済南事件、マリアナ・パラオ諸島の戦い、 長城戦役9:42公園内の石碑「中村道太 碑」下に、小泉信三の名があったが、小泉信三は、経済学者で1933~1946年まで慶應義塾長。父は慶応義塾長や横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉。また、信三は、戦後直後から天皇の”教育係”を務めた中村道太 碑三河吉田藩士の出身。大政奉還後、藩命により江戸詰めを命じられて穂積清軒に従事し行動を共にする。やがて江戸屋敷の上屋敷に移り、公用人に挙げられた。江戸奉行で上府し幕臣となる。ここで勝海舟や外国方翻訳局の福澤諭吉を知り、築地鉄炮洲の慶應義塾に学ぶ。戊辰戦争で藩の大参事となり、豊橋で好問社を創立し、女子教育を始める。・・・・・・・・ 二川宿から御油宿-続く
2019.10.22
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落花生は後数株残っている昨日10/20(日)に収穫した落花生一株落花生は花が咲き芽が地面に入り実が付く。夜は、ゆでピーで酒のつまみに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩屋観音から国道1号線 → 旧東海道に戻り吉田宿へ向かう。この辺りは名勝地もなく吉田宿に向ってひたすら歩いた。9/26(木) 7:39国道1号線の岩西歩道橋南交差点から右方向へ進み旧東海道を進む7:40旧東海道の南側を国道1号線が並行して走っている。街道には「東海道」の標識がある7:47国道1号線が並行しているので車の交通量は少ない7:55国道1号線と合流する「殿田橋交差点」柳生川に架かる殿田橋この日はこの後御油宿まで歩いたが、豊橋のホテルからの帰路「大池通り」を走りこの交差点を右折して国道1号線へと進んだ7:57殿田橋を過ぎここから旧東海道(国道1号線)へ、電柱の下に「飯村一里塚跡」の石柱先の道路脇に「mont・bell」の看板モンベル豊橋店所在地:愛知県豊橋市飯村町西山7-645時間帯によっては、マクドナルドもあり変則的な交差点のため渋滞すると電柱の脇に「飯村一里塚跡」の石柱立札がないので見落としやすい街道に弥次さん7:59殿田橋交差点を振り返る。吉田宿は、江戸日本橋から34番目の宿場である。吉田は今の豊橋のことで、戦国末期に池田輝政の入城により吉田と改めた。吉田は古東海道からの宿駅で渥美半島を経由し伊勢神宮との結びつきが強く、また豊川と朝倉川が合流し、飯田や信州へ通じる別所街道が交わる要衝の地だった8:04旧東海道(国道1号線)の山中橋東交差点。豊川に架かる吉田大橋のたもとには三河最大の吉田湊があり、豊川の舟運と伊勢や江戸への航路が開かれていた。18世紀の中頃には伊勢神宮へ年間4~5千人が渡航した。吉田は海陸物流の拠点でもあり、宿場は城下町と湊町として大いににぎわった8:17国道1号線と県道502号線との交差点「瓦町交差点」。また茶屋や娼家が多く飯盛女も大勢いて、当時の唄に「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」と唄われ、錦絵にも描かれている。川柳には「二階から招くとはうそ、しがみつき」とあるように、かなり艷めいた宿場だったようだ。名物は火口(火打石の火を移しとるもの)や農具の吉田鎌だった8:19瓦町交差点にある「鶴松山 壽泉寺」所在地:愛知県豊橋市瓦町通2丁目80臨済宗妙心寺派 壽泉寺本 堂本堂裏には幼稚園もある扁額の「鶴松山」境内に立つ三重塔が立派である8:22鶴松山 壽泉寺前の瓦町交差点直進すると県道502号線の伊良湖岬方面8:25旧東海道(国道1号線)を進み「瓦町不動院」ここも境内に幼稚園があった旧東海道(国道1号線)を振り返る、南方向に「市民文化会館」瓦町不動院由来記本尊不動明王、宗派:高野山真言宗江戸時代に入り、時の吉田藩主小笠原候が仁連木村に菩薩寺臨済寺を建立することとなり、境内を確保するため20軒の農民が移転することとなり、吉田宿の東の隣接する瓦町に新しい村づくりが始まりました。新しい村づくりの中心に、心の拠り所として不動院が安置され、不動院は仁連木村(豊橋市御園町)から瓦町へ移ることとなりました不動院前にあったこの箱の中は、境内から拾った銀杏が。新居宿の紅葉寺跡でも拾ったが、ビニール袋を出し頂いたが小ぶりであった8:30瓦町不動院の先に「真宗高田派 願成寺」左側には「孤独とは 仏を見い出す 準備」と願成寺本堂豊橋市のマンホール豊橋市公会堂と路面電車のデザインよく見かける豊橋のマンホール豊川に架かる吉田大橋のたもとに三河最大の吉田湊があり、海陸物流の拠点であったことからのデザインか8:40旧東海道(国道1号線)を進む豊橋市西新町に高架橋があり、旧東海道は左折するので登ることに吉田城周りの旧跡東惣門あたりから街道が複雑になっている交通の要衝地で五差路の「東八町交差点」高架橋の上から、北東方向の県道4号線を走る「豊橋鉄道東田本線」道路標識は、湖西まで17km直進は国道1号線で、豊橋鉄道東田本線が走る。右側の角に秋葉山常夜灯国道1号線と県道4号線の分かれ道に「秋葉山常夜灯」所在地:愛知県豊橋市旭本町5丁目高架橋上から東方向を望み、直進は県道4号線、右は国道1号線西方向の国道1号線路面電車の豊橋鉄道東田本線の豊橋公園前、市役所前の停留所がある8:43高架橋の南西にある「八町もちや」の前にある「東惣門」所在地:愛知県豊橋市八町通 5丁目73番地惣門のミニチュアが建てられている東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。門の傍らには12畳の上番所、8畳の下番所、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。惣門は朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました東惣門からすぐに旧東海道は右折する8:45住宅街に入り旧街道は直線ではなく、南に折れすぐ折れ直進と、複雑になっている。弥次さんが iPhoneで道案内してくれるので道を間違わないが、案内が不十分!8:51木の左下に「吉田宿 江戸 七十四里」と。東海道の標識の下に石柱があるが未確認豊橋鉄道東田本線の豊橋公園前から南下。この近くに「曲尺手門跡碑」があるのだが彼岸花が発芽し、あと一週間で満開か?8:53旧東海道の曲尺手町を進む人通りの少ない旧東海道8:58龍拈寺へ到着 二川宿から御油宿-続く
2019.10.21
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今日も昨日に引き続いて二川宿から御油宿を目指す。なお、今日が延べ21回目の弥次喜多道中である。明治天皇は明治元年(1868)9月20日に、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発して、10月13日に東京に到着した。所要日数は23日であったと。9/26(木) 6:27ホテルで朝食本来は6:30であったが早めにオープンしてくれた6:37早々に朝食を終え、前日乗り遅れた6:48に乗るべく豊橋駅へ急ぐ。昨日 33,000歩歩き今日の体調が心配であったがJR豊橋駅二階へのエスカレーター前に「きつね?」近距離きっぷ運賃表二川駅まで一駅で 200円6:55上り興津行きの電車に乗車、豊橋から一駅のJR二川駅へ到着二川駅の東京方面、隣接して走る東海道新幹線6:58JR二川駅前に降り立つ。服装は昨日と同じショートパンツ、上着は一枚であったが、朝はひんやりして気持ちが良かった。旧東海道(県道404号線)は、二川駅前交差点を左折して吉田宿へ向かう7:04旧東海道(県道404号線)と県道3号線が交差する「火打坂交差点」旧東海道は右のバスの方向だが「岩屋観音」へ立ち寄るので左方向へ進む立岩街道沿いの「ヤマナカ二川店」所在地:愛知県豊橋市大岩町久保田9-1食品、衣料品、日用品、薬品、¥100ショップから軽食までそろっている。このようなモールが郊外にあるとますます街道の店はさびれる立岩街道7:10立岩街道から東海道岩屋山古道の緩い坂道へこの辺りは「岩屋緑地休憩所」所在地:愛知県豊橋市大岩町火打坂東海道岩屋山古道の緩い坂道で岩屋観音へ向かう桜並木で、早朝からの散歩をする人とすれ違う右に岩屋観音の石柱、山の上に展望台(岩屋山)があり散歩コースになっている岩屋山の展望台写真はネットから引用7:12緩い坂道の右側に「玉糸の元祖 小渕志ち 銅像」小渕志ち(1847~1929)の銅像群馬県で糸繰り技術を身に着けた小渕志ちが、たまたま豊橋二川町に宿泊した折り、この地の人々に製糸の技術を教え、そのまま住みつき明治18年(1885)製糸工場を起こした。その後、玉糸製糸の技術を工夫し、明治25年(1892)から製糸専業の「糸徳製糸工場」へと転換した。これが機となって、この地方が製糸地帯として大きな発展をみることとなった。明治21年(1888)には大林宇吉が志ちの工場で玉糸繰糸の伝習を受けた工女6名を雇って座繰玉糸の工場を起こし、明治34年(1901)には、大林宇吉等の尽力により、三遠玉糸製造同業組合(現三州玉糸共同組合)が設立された7:15岩屋観音下の駐車場行基菩薩開創 岩屋観音所在地:愛知県豊橋市大岩町火打坂境内に咲くハギの花岩屋観音は伝承によると天平2年(730)行基が1尺2寸の千手観音を刻んで岩穴に安置したのが始まり。その後堂内に祀られた。現在の岩屋観音堂は文政8年(1825)の再建。観音堂脇の岩山頂上に聖観音像がある。宝暦4年(1754)幕府から、吉田大橋の架け替え工事を請け負った江戸下谷の大工茂平と善右衛門があまりの難工事に困り果て、7日間この岩屋観音堂に参籠し架橋成就を祈願した。橋は無事完成したので、下谷講中が明和2年(1765)山頂に建立した。像は大戦で供出されたが、当時の台座に昭和25年(1950)観音像を再建した鯖弘法大師と右に弘法堂弘法堂鐘 楼観音堂脇の岩山頂上に聖観音像聖観音像大戦で供出されたが昭和25年(1950)に再建された。東海道線、東海道新幹線の車窓から山の上に見えると境内に鎮座する石仏岩屋観音堂と右に岩屋岩屋観音堂堂の天井岩屋観音堂江戸時代には、街道を行き交う人々から多くの信仰を集め、ことに備前岡山藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688~1710)にかけて、観音経・黄金燈籠・絵馬などを寄進しました。山上に立つ聖観音像は、・・・・・・・・・岩 屋岩屋観音堂から南方面。当堂を詠んだ和歌、俳句は多く、香川景樹、古市木朶等の歌俳は有名であり、また歌川広重の東海道写生画の中に、当山を描いたものが数点あります。当堂は古来より真言宗の寺院でありましたが、明治維新後は大岩寺の境外仏堂となっていますとよはしの巨木・名木100選「岩屋堂のスギ」幹周:403cm、高さ:24.1m、枝張り:15.5m×10.8m、推定樹齢:300年以上 弘法堂・鐘楼鯖弘法大師鯖大師(八坂八浜)遍路の始まりに海辺を巡ることだったといいます。波打ち際を歩くのですが、波がよせて通れない場所は、山越えの道を行きます。急坂をよじ登りまた下りて浜辺を歩いた。それが八坂八浜というところです。鯖大師に向かう道で、お大師さんが馬の背に乗せた塩鯖を運ぶ馬方に鯖を一つくれないかと頼みました。馬方はことわってさっさと行ってしまいます。ところが馬引きが坂まで来た所で、馬が腹痛を起こして歩かなくなってしまいます。弱り果てた馬方がお大師さんに薬をくれと頼みました。お大師さんのお加持の奇蹟で馬に飲ませたところたちまちなおってしまいました7:26岩屋観音堂への石段の下から聖観音像7:30国道一号線を歩き吉田宿へ向かう。しばらく名勝地がないのでひたすら歩くことに 二川宿から御油宿-続く
2019.10.20
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二川宿本陣資料館からJR二川駅へ向かう。9/25(水) 15:50二川宿本陣資料館所在地:愛知県豊橋市二川町中町65無料駐車場があるが、今回は歩きのため・・・・・・。ここへは平成21年と22年の11月に2度訪問している二川宿本陣資料館受付文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を務めた馬場家の遺構。敷地面積、建坪で宿内一の建物。殿様専用区域と本陣家族や使用人の居住区は通り土間を挟んで分かれている。また、本陣の隣には江戸時代後期の寛政年間(1789~1801)に開業した旅籠清明屋が修築保存されている 資料館の駐車場内に立っている「高札場復元」本陣の土蔵二川宿本陣の間取り図開館時間・入館料平成22年(2010)11月20日(土)に訪れた時の写真旅姿、殿様、お姫さんの衣装が揃えてあり無料で着れる15:55本陣を振り返る本陣の前にも旅籠国登録有形文化財「西駒屋」登録有形文化財西駒屋は、二川町字新橋町に所在する商家「駒屋」から分家した東駒屋よりさらに分家し、明治42年(1909)に味噌・醤油の醸造業を創業した。明治時代後期に建築された主屋は、切妻造平入りの三州瓦葺きで、この地域特有の商家のたたずまいを有している。主屋の背後にある土蔵は、平入り二階建てで、近隣のものより一回り大きな建物である15:57和菓子司 中原屋中原屋菓子店所在地:愛知県豊橋市二川町中町87旧東海道(県道404号線)を進む秋葉山常夜燈15:57古美術15:59西問屋場跡16:04大岩神明宮所在地:愛知県豊橋市大岩町東郷内14御祭神:天照大御神文武天皇2年に創建。大岩村の鎮守で、大岩村の三度の移転とともに遷座し、正保元年(1644)現在地に鎮座。武将の崇敬厚く、織田信長も戦勝を期して陣太鼓を奉納したという。境内に寛延4年(1751)建立の灯籠、文化4年(1807)建立の秋葉山常夜燈、文政6年(1823)建立の手水鉢がある大岩神明宮社伝によれば、文武天皇2年(698)岩屋山南に勧請したのが最初で、のち保延元年(1135)大岩村が本郷に移ったときに遷宮し、天正11年(1583)元屋敷に移り、さらに正保元年(1644)、大岩村が現在地に移村したのとともに移りました。江戸時代には、黑印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。現在では大岩の氏神となっています石鳥居と拝殿拝 殿御神木の後方に、末社が並ぶ16:11豊橋のマンホールデザインは吉田城と手筒花火豊川を走る船か16:13大岩町郷蔵跡16:18立場茶屋跡16:23旧東海道(県道404号線)の「二川駅前交差点」JR二川駅へ到着東海道 二川宿の案内古来より交通の要衝であった二川は、慶長6年(1601)、江戸幕府による街道整備にともなって宿駅として設置されました。開設当時は二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務を行っていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川村と加宿大岩となり、東海道53次中33番目の宿駅として業務を行うことになりました。天保14年(1843)には、本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1,468人で、家数は328軒でした。現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています街道沿いの案内図16:27JR二川駅の改札を入るここまでの歩行数は、32,000歩。16:30発の豊橋行き電車に乗ることに、乗車賃は200円ホームで電車を待つ向かい側のホームに上り電車が到着豊橋行きの電車が入線16:39豊橋駅改札口駅のコンコースに「羽田八幡宮」の手筒花火羽田八幡宮例大祭「羽田祭」夜空を焦がす800本の手筒花火。日本一の火柱で令和の幕開けを祝う。10月5日(土)、6日(日)羽田祭 大筒台花火豊橋駅の「近距離きっぷ運賃表」明日は、隣駅のJR二川駅へ向かう今夜の夕食は疲れたので、買い出しして部屋でとることに。豊橋は練り物が有名であるので、酒のつまみに購入トーストに小豆16:47豊橋駅北口豊鉄市内線17:00コンビニで酒等を購入してホテルへ到着18:33シャワーを浴び、ベッドの上に広げて質素に夕食兼宴会今夜のアルコールの取得量、弥次さんは飲み終えると疲れから熟睡状態に今日一日の歩行数は、33,123歩でした。明後日から「二川宿から御油宿」をアップします。 新居宿から二川宿ーEND
2019.10.18
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二川宿は江戸日本橋から33番目の宿場である。今まで、二川宿は香嵐渓の紅葉狩りの時二度来ており今回が三回目となる。9/25(水) 14:48二川一里塚跡一里塚から旧東海道(県道404号線)を進み右側にある「妙泉寺」参道横の料理店「とりつきや」午後二時過ぎで休憩中二川 八幡神社例大祭 のポスター豊橋で唯一の「からくり」のある山車祭り開催日:10月12日、13日の土日 妙泉寺山門所在地:愛知県豊橋市二川町東町101-1日蓮宗 妙泉寺山門からの本堂日蓮宗の寺院で、前身は貞和年間(1345~1350)に日台上人が建てた小庵でした。その後、衰微していたのを寛永から明暦(1624~1658)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、信龍山妙泉寺と改称したうえ、身延山から離れて遠州吉美村の妙立寺末となり、さらに万治3年(1660)旧地今田中より現在地に移転して、山号を延龍山に改めたといわれます。江戸時代には黑印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。また、寺小屋をひらいたり、大通行の際の休泊所にもなっていました紫陽花塚句碑は「阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷」と刻む。元禄7年(1694)、江戸深川で詠んだ句である。寛政10年(1798)に建立された芭蕉句碑である石柱に「春乙桜(はるおとさくら)」境内から山門を見る当寺所蔵の鰐口は、永享5年(1433)につくられ、後に半面が慶長2年(1597)に再鋳された珍しいもので、豊橋市指定有形文化財に指定されている境内の道路に咲き始めた彼岸花14:56旧東海道(県道404号線)に戻り二川宿本陣へ進む 古い屋敷が続いていたが14:58旧東海道沿いにある「旬菜和食 江戸屋長左エ門」所在地:愛知県豊橋市二川町字 東町1-6旧東海道(県道404号線)に立つ、二川宿案内板 → 二川宿本陣資料館 350m → 商家「駒屋」 80m八幡神社(はちまんじんじゃ)八幡神社境内へ進む社伝によれば、永仁3年(1195)鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられます。毎年8月10日に行われていた例祭の湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で境内は混雑を極めたといわれます。この例祭は現在では10月10日に、神輿渡御の神事がおこなわれています。江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。現在では二川の氏神になっています。境内にある秋葉山常夜燈は、かって二川新橋町の街道桝形南にあったもので、文化6年(1809)に建立されたものです。また、二川宿の人々の寄進による燈籠二対が今に伝わっています朱色の鳥居どの鳥居かわからなかったが、鳥居の脇に逆桜と呼ばれる桜があると。昭和15年(1940)に紀元2600年の奉祝記念に榊を植樹し、周りの柵に桜の杭を使用したところ、一本の杭から芽生え、たくましく育ったと境内に入り三の鳥居由 緒手水舎の手前に「悠仁親王殿下御誕生日記念」拝殿右奥に並ぶ、「二川八幡神社の末社」護国神社、津島神社、三峯神社、稲荷神社、若宮神社拝殿と湯立の井戸その昔、この八幡神社にも「湯立て神事」がありました。境内に湯釜を据え付け、この井戸から厳かに汲み上げられた水を沸かしました。この湯の周りで神主さまが祝詞を一心に唱えました。白装束姿の地区の長老がこの清められた湯を授かり、神殿や境内の各所、それぞれの町内に向って湯を振り掛ける所作を十三回、繰り返したとか。「この湯を飲むと身も心も清めることができる」と集まった人々に釜の湯を配っていた。この神事は、四年に一度の閏年に町内の平穏を願って行われました拝殿前の鳥居左に八幡神社の石盤15:08旧東海道(県道404号線)に戻る古民家が並ぶ、街道はこの先で左に曲がる15:09商家「駒屋」所在地:愛知県豊橋市二川町字新橋町21江戸時代に二川宿で米穀商・質屋を営むかたわら、問屋役や名主などの宿村役人を勤めた田村家の遺構である。主屋・離れ座敷・脇門・茶室・南土蔵・中土蔵・北土蔵・北倉の8棟の建物からなり、宿場町の商家の一般的な形式をよく残していることから、平成15年(2003)5月に豊橋市の有形文化財に指定されました街道沿いの主屋から奥へ開館時間:9:00~17:00、休館日:毎週月曜日、入館料:無料平成24年~26年にかけて改修復元工事を行い、江戸時代後期から大正時代にかけての姿によみがえった主 屋建築年代:文化11年(1814)、安政2年(1855) 修繕構 造:木造平屋建て一部二階建て解 説:商家「駒屋」は、江戸時代に米穀商・質屋を営みました。この建物は 間口九間、奥行き七間の大きさで、東側にミセニワ、オクニワ、中通りに ミセ、ナカミセ、ダイドコロ、西側に、オクミセ、ブツマ、オクノマの各 部屋が並んでいます南土蔵ギャラリーで「ニッポンの前掛け展」購入できるが3,000~4,000円現在の弥次さんスタイル田村家は、元禄4年(1691)に医者として遠州から二川宿へ移転しました。商家としての駒屋は、明和5年(1768)頃に棒手振りとして創業し、同7年に現在地に店を構えて米穀の小売りを始めました。安永3年(1774)に土蔵を新築して質屋も始めました。米穀商と質屋の兼業で経営規模を拡大した駒屋は、幕末期には金7,000両以上の金融資産を保有するまでに成長した中土蔵建築年代:安政3年(1856)構 造:土蔵造二階建て解 説:大きさは二間半×五間で、平側に出入口が付いています。南土蔵と同様に 離れ座敷を建てる際に現在地へ曳き屋されました南土蔵建築年代:安永3年(1774) または天明元年(1781)構 造:土蔵造二階建て解 説:大きさは二間×五間で、妻側に出入口が付いています。もとは主屋のすぐ 北側にありましたが、離れ座敷を建てる際に現在地へ曳き屋されました茶 室15:44商家「駒屋」の前に建つ「令和館 NPO法人 二川宿」15:46交差点にある「まちなか公園」二川宿「まちなか公園」人通りの無い、旧東海道を二川宿本陣へ向かう。街道沿いに石柱を見つける東問屋場跡の石柱15:47旧東海道(県道404号線)を進む旧東海道沿いの民家には江戸時代の名称の名札が貼られていた二川宿は、離れていた大岩と二川の二つの村を、現在地に移転させて二川宿が成立した。宿駅業務のほかは農業主体の暮らしだった。寛永20年(1643)人馬継立ての負担に耐えかね窮乏を訴えたため、吉田藩領から幕府領に支配変えとなった二川宿の本陣は、後藤家 → 紅林家 → 馬場家と三度も替わっている。後藤、紅林家はともに火災で困窮し再起できなかった。馬場家は酒造業、米屋、金融業で財を成し、多くの田畑を持つ有力者だったが本陣を引き受けるのを断った。しかし、代官所の命令で引き受けることになる馬場家は自宅を本陣に替えるため、門、玄関、書院、板の間などの増築で多額の借金をした。しかし本陣の利用が少ない上に、休憩ばかりで収入は少なく、馬場家は田畑を売って借金を返済。本業に加えて副業にも力を入れ、経営安定に努力したので明治維新まで本陣を存続させることができた15:49約100mの間に旅籠屋の名札が多かった脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たしました。その格式は本陣に次ぐものであり、本陣と同様にその経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は、松坂家がつとめていました。文化4年(1807)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣がありましたが、文化4年本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の南側にあった脇本陣はこの地に移りました。脇本陣の建物は間口7間(約13m)、奥行19間(約35m)、屋敷は93畳でした旅籠屋が二軒並んで15:50二川宿本陣資料館 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.17
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白須賀宿から二川宿へ向けて歩く。長い静岡県からようやく愛知県へ入る県境へ向かう。9/25(水) 12:47法華宗久松山 成林寺所在地:静岡県湖西市境宿2212時を過ぎるが白須賀宿には大衆食堂もなく寺院へ到着ここのベンチに座りしばし休憩、持参していたバナナを食べる成林寺の近くに「高札建場跡」の石柱立札がないので見落とすところだ12:59旧東海道(県道173号線)と国道42号線(旧国道1号線)の交差点手前が「これより白須賀宿」、右側が二川宿まで 5.8km13:00旧東海道(県道173号線)の南側にある「笠子神社」祭礼には古風で優雅なお神楽が奉納される。かつては、笠子大明神と呼ばれていたそうです。神仏分離前の名称か?。こちらの社も津波による影響で移転をかさねてこの地に移ってきた13:05旧東海道(県道173号線)を二川宿へ進む、愛知県との県境が近くなる旧東海道(県道173号線)の南側の汐見バイパス(国道1号線)の高架13:07境川と猿ヶ馬場白須賀宿の西外れの境川は、遠江国と三河国の境だった。江戸時代には長さ3間(約5.4m)、幅2間(約3.6m)の板橋が架かっていた。白須賀宿の西外れにあったとされる猿ヶ馬場(番場とも)には次のようないわれがある。天正18年(1590)秀吉が小田原攻めに行く途中、老夫婦が餡を入れ柏の葉で包んだ餅を売る茶屋に寄った。老夫婦は餅を差し出し「後醍醐天皇の武将は腹持ちが良いと戦場に持って行った」と話すと秀吉は「めでたい餅だ。合戦に買ったら褒美をやろう」と約束。小田原合戦に勝った秀吉は帰りに寄り、顔が猿によく似た老婆の夫婦に褒美を与え「今後はこの餅を猿が姿の勝和餅と申せ」と言った。その後「猿が姿」が「猿ヶ馬場」となり「勝和餅」が「柏餅」に。以来、柏餅は白須賀の名物となった境川に架かる境橋を渡り、後数十メートルで愛知県豊橋市へ現在の境川&境橋は川幅が狭くわかりずらかった旧東海道(県道173号線)の北側、東海道新幹線が走る。田んぼの稲も実り13:09旧東海道はこの先で国道1号線に合流して、右方面へ進む。左方向は、国道1号線の静岡・浜松だが、国道23号の標示もキャベツ畑の中に何故か石像が立っている13:11国道一号線の「一里山東交差点」一里山東交差点から、登ってきた旧東海道(県道173号線)を振り返る13:15旧東海道(国道1号線)を進む、道路標識は豊川 21km、岡﨑 44km13:17旧東海道(国道1号線)の一里山交差点13:20一里山(下細谷)一里塚日本橋から71里目の一里塚。塚は、東西11m、南北14m、高さ3mあり、幕府の標準の塚より大きいので「化物塚」とも呼ばれ「一里山」の地名となった。ここから二川宿まで約1里(3.9km)の道は見事な松並木だった。人家もなく、女性の旅人には不安な場所だったが、女性の旅人を口説くには絶好の場所だった一里塚を振り返る、右は旧東海道(国道1号線)の浜松方面。弥次さんが祠を見るために登った時滑り負傷13:27旧東海道(国道1号線)の二川宿方面旧東海道沿いの畑にはキャベツ畑が続くキャベツは畝を作り植えていたが小石がたくさんあり13:35北側方面には風力発電の風車が林立していたが民間企業?13:38街道横に「再生可能エネルギー発電事業の認定発電設備」発電出力:352.5kw 発電事業者:株式会社 サハラ発電開始:2014年3月28日太陽光パネルが並んでいた台風に対する強度はあるのか?最近の強風では飛ばされるのではないか13:43三ッ坂交差点ビニールハウスがあるが何を栽培しているのか?13:45畑でキャベツを植えつけていたのでしばし立ち止まって見学。ここでも畑には小石が散らばっていた何か肥料を撒いて耕運機で二畝を作る奥さんが植付用の苗を、これも機械で植付は一作ごとに13:49今回出かける前に弥次さんからキャベツの苗をもらったので参考になる13:50旧東海道の「豊清町茶屋ノ下交差点」14:00旧東海道(国道1号線)沿いの「FamilyMart 豊橋豊清町店」所在地:愛知県豊橋市豊清町字籠田23番ここまでの歩行数は、25,500歩疲れたので店内のイートインコーナーで20分程休憩弥次さんが「一里山一里塚」で滑って負傷、店でテープを借り自分で手当14:30旧東海道(国道1号線)の三弥町交差点旧東海道も東海道新幹線に接する左は「SINFONIA TECHNOLOGY」豊橋製作所所在地:愛知県豊橋市三弥町元屋敷150主要生産品目:産業用電気設備、公共用電気設備、コージェネレーションシステム 金属熱加工装置、半導体製造関連装置、振動搬送装置 他14:36旧東海道は、国道1号線(二川ガード南交差点)とわかれ東海道新幹線のガードくぐる新幹線のガードをくぐると国道1号線(二川ガード南交差点)東海道新幹線の東京方面旧東海道を進む14:39梅田川のすじかい橋筋違橋を渡り14:43東海道本線踏切上り貨物列車14:46二川宿の東口右側に「二川一里塚跡」の石柱二川のマンホ-ルデザインは、船と??? 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.16
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おんやど白須賀から白須賀宿へ向かう。9/25(水) 11:54潮見坂上の石碑群明治天皇御遺蹟地記念碑をはじめ、夏目甕麿、加納諸平、藤屋五平、義僕平八郎の顕彰碑や元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興に尽くした石川榮五郎の碑、そして忠魂碑がある白須賀宿(しろすかじゅく)白須賀とは白い砂浜という意。江戸時代の中期までは潮見坂下の遠州灘の海岸沿い近くにあったが、宝永4年(1707)のM8.4の大地震と高さ8mの津波により、宿場は壊壊した。翌年、幕府から1万340両(およそ10億円)の援助を受け、潮見坂上の現在地に移転し再建した。旧宿場町は元白須賀と呼ばれ、立場茶屋や70里目の元白須賀一里塚があった11:56湖西市立白須賀中学校11:57東海道夢舞台「潮見坂公園跡 白須賀宿」新居宿 宿境まで、5.3km二川宿 宿境まで、7.6km潮見坂公園跡と石碑群天正10年(1582)織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張へ帰るとき、徳川家康が茶亭を新築して、信長をもてなした場所が、ここ潮見坂上です。明治元年(1868)10月1日、明治天皇が東京へ行幸する際に東海道を通り、初めて太平洋をご覧になった場所でもあります。これを記念して大正13年(1924)4月、町民の勤労奉仕により公園が造られた。大正14年(1925)4月には明治天皇遺蹟地記念碑が建てられた。また、白須賀出身の国学者夏目甕麿と息子の加納諸平、藤屋五平、義僕平八郎の顕彰碑や忠魂碑が建てられており、ここから旧道百メートルほどの所には元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興に尽くした石川榮五郎らの石碑も建てられている故木戸孝允の字による「明治天皇御遺蹟地記念碑」遠江八景「潮見晴嵐」室町時代の「富士御覧日記」などにも記されている東海道の旧道で、歌川広重の浮世絵をはじめ多くの絵画に、坂を進む大名行列や坂上から見た遠州灘の風景が描かれている。東海道を東に向かってきた旅人が、初めて海を目の当たりにするのがここ潮見坂上で、富士を眺望できたのもこの地であった。明治天皇が初めて東京に行幸されたとき、この潮見坂の上で休憩されたことでも知られている潮見坂公園跡からの遠州灘潮見バイパスの「道の駅 潮見坂」次回(予定では10月14日)の岡崎への移動日に立ち寄るか?12:01おんやど方向を振り返る12:05旧東海道沿いに「明るい笑顔 明るいあいさつ」隣接する、白須賀小学校&白須賀中学校弥次さんと潮見坂を上ってきて、坂下の子供たちはここへ通学するのかと・・・・・12:08旧東海道(県道173号線)沿いの小さな神社白須賀宿の町並みの長さは14町19間(約1.5km)で道幅2間(約3.6m)、名物は柏餅だった。新居の関所や今切渡船を控えてにぎわったが、明治2年の関所廃止、明治5年の伝馬制度廃止で打撃を受け、、さらに明治21年の東海道線が白須賀を大きく迂回して開通したため、近代化からすっかり取り残されてしまった以前は、連子格子の古民家も多かったが、最近は古民家も取り壊され、宿内道路の両側にある水路も蓋がされ、江戸時代の面影はほとんどなくなった振り返ると緩い下り坂になっていた12:14曲尺手(かねんて)曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、宿場の出入り口などに造られました。敵の侵入を阻む軍事的な役割を持つほか、参勤交代の際に大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割を持っていました。江戸時代、格式の違う大名がすれ違う時は、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斤候と呼ばれる下見役に曲尺手の先を下見させ行列がかち合いそうな時は、格式の低い方の大名一行は休憩を装い、最寄りのお寺に急遽立ち寄りました旧東海道(県道173号線)の曲尺手を振り返る12:15白須賀宿は古民家も取り壊され、このような立札が12:18大村本陣跡の石柱と説明板大村家は、江戸時代を通じて白須賀宿の本陣として栄え、その主人は代々庄左衛門を襲名し、白須賀宿の名主のほとんどの期間を務めた家です。この本陣は、明治元年(1868)の行幸と還幸、翌2年(1869)の再幸ときに明治天皇が休憩された所でもあります本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人などの身分の高い者が旅の途中に宿泊・休憩した施設です。参勤交代制度の確立に伴って整備されました。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物でした。ここは、本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪183坪、畳数231畳、板敷51畳とあります。なお、白須賀宿には、本陣が1軒、脇本陣が1軒あった12:19脇本陣跡の石柱脇本陣跡の近くに東海道夢舞台「問屋場跡 白須賀宿」新居宿 宿境まで、6.2km二川宿 宿境まで、6.7km脇本陣 旅館「桐屋」の跡でもある県道332号線との交差点「白須賀交番前」「銭屋」の立札両替屋 質屋「銭屋」酒屋「澤瀉屋」12:22県道332号線との交差点「白須賀交番前」白須賀交番前角に、夏目甕麿邸跡、加納諸平生誕地の石柱。ここからJR新所原へ四キロ石柱の横に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸跡」白須賀生まれの国学者 夏目甕麿は通称嘉右ェ門、萩園と号した。酒造を業とし国学を内山真龍に学び、のちに本居宣長の門に名を連ねた加茂真淵の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜」等数編がある。文政5年(1822)没。子供の加納諸平は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平のもとに寄寓。乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。安政3年(1856)没酒屋「酒小」飛脚問屋「三度屋」12:24神明宮所在地:静岡県湖西市白須賀4167石段を登り神明宮の境内へ不漁で困った漁師に集めた上納金を融資し期限過ぎても漁がなく、困惑する漁師一同に代わって自害し、住民を救った代官の話がある手水舎と拝殿境内から石段下の鳥居12:32旧東海道に戻り、料理屋「常盤屋」先導する弥次さん、交通量の少ない旧東海道12:33白須賀宿の火防(火防の槙)東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永5年(1708)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはこの為である。宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬季に西風が強く、たびたび大災が発生し、然も大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根がわら葺きであったことにもよる。そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。火防の広さは、間口二間(3.6m)、奥行、4間半(8.2m)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点六場所の火防が有った白須賀宿の火防の手前に、両替商「近江屋」12:35旧東海道の古い民家群12:38庚申堂三猿の像があり、尼僧がいたが今は無住と。60日に一度訪れる庚申(かのえさる)の晩には三尸と呼ばれる体内虫が、人間の体から抜け出して、その人の悪事を天帝に伝えると信じられており、これを防ぐために夜通し眠らずに過ごすことを庚申待ちと呼びます。江戸時代に大流行し日本各地に庚申信仰の名残りを見ることができる庚申の「申」から猿田彦神と集合し、猿は神の使いとして信仰のシンボルになった。故に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が庚申信仰にはつきもの白須賀の庚申堂には、四匹目が居るのは面白いところだと。これは「せざる」(男女の同衾を控える)に通じるもので、庚申信仰に通じる戒めを意味しているのでは12:41更に白須賀宿を進むと「火除け地跡」の石柱地主「三枡屋」町医者「玄斉堂」民家の軒下に咲く花12:45東海道夢舞台「白須賀宿加宿 境宿」白須賀宿 →二川宿 宿境まで、5.9kmここまでの歩行数は、19,900歩白須賀宿を振り返る 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.15
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火鎮神社(ほずめじんじゃ)から、潮見坂を登り「おんやど白須賀」へ。9/25(水) 10:41白須賀宿 散策マップ東海道夢舞台「火鎮神社 白須賀宿」新居宿 宿境まで、3.0km二川宿 宿境まで、10.1km浜名旧街道沿いの畑に植えられているキャベツ畝には大きな石が混じって10:49山の上に風力発電の風車が風車に「浜名湖カントリークラブ」街道沿いの民家の雨戸は銅製の板金この一基でゴルフ場の電力をまかなっているのか10:53浜名旧街道を進む弥次さんは、iPhonで名勝、街道を確認しながら10:56内宮神明神社所在地:静岡県湖西市白須賀石段を登って拝殿へ行くのだがここで引き返す11:07神明神社から戻り、右下に新旧の石柱高札建場跡と(元白須賀)一里塚跡 おんやど白須賀のパンフレットには立て札の説明があるが一里塚は、江戸日本橋から70里目11:10自販機の値段が100円と安い。日本のサイダー、チェリオ(メロン)があるがどんな味11:12左側の民家の軒先で休憩させていただく11:14旧東海殿沿いに、蔵法寺(ぞうほうじ)・潮見観音への入口11:16蔵法寺・潮見観音所在地:静岡県湖西市白須賀5350-1慶長3年(1598)に曹洞宗の寺院として開山。慶長8年(1603)に家康の御小休み所として使われた寺院。観音像が、遠州灘の潮を山の上から見ていることから、その名が付いた山門の扁額「龍谷山」蔵法寺本堂潮見観音承応3年(1654)3月10日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より漁師の網にかかって御出現せられた観音様で、お丈けは一尺九寸(57.6cm)でその後堂内に安置され毎年ご供用されて居りました潮見観音縁起宝永4年(1707)10月4日遠州灘一円に大地震がありその時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く波に呑まれ大被害を受けました。その時坂の上に逃れその地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。その前夜、参勤の帰りに白須賀宿本陣に宿泊していた岡山藩主・池田綱政は、夢枕に観音様が立ち「この地に大災難が起こる。すぐに立ち去れ」というお告げを聞いて難を逃れたという。綱政公は観音様の御加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り子々孫々現在の池田牧場まで続いて居ります。また同地の長泉寺にも白須賀観音として御分身が祀られて居ります水子地蔵尊六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)で苦しむ衆正を教化、救済されたり、流産または堕胎した胎児や、幼なくして亡くなった子供が、賽の河原で苦しんでいるのを救われる子供を守る菩薩さまで、慈悲の相をされた阿弥陀如来の分身であられる安産 子安地蔵尊、子育て 三十三観音本堂11:23蔵法寺辺りは海抜8.6mまた、静岡県知事から「急斜面地崩壊危険個所」に指定されている11:24潮見坂へ東海道夢舞台「潮見坂下 白須賀宿」新居宿 宿境まで、4.5km二川宿 宿境まで、8.4km昼前で暑くなった中、潮見坂へ向かう潮見坂の連子格子の古民家白須賀宿の東端にある汐見坂は、浮世絵や和歌、道中記などに東海道の名所として広く紹介されている。街道沿いには彼岸花が満開潮見坂は、長さは6町(約650m)あまり。京都方面から来るとはじめて眼下に遠州灘を望む景勝地なので「潮見坂」と名が付けられた。また、坂を上った先が宝永5年(1708)に移転した白須賀宿の町並みとなる11:32山の間から遠州灘がひらける国道1号線の潮見バイパス、手前に国道42号線潮見坂潮見坂は、汐見坂・塩見坂・観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されている。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山をみることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地でした。永享4年(1432)には、富士遊覧に出かけた室町幕府六代将軍足利義教がこの地で休息をとり、公卿の飛鳥井雅世らとともに歌会を開きました。江戸時代には、浮世絵師の歌川広重も遠州灘を背景に、その一帯風景を鮮やかに描いている歌川広重「東海道五拾三次之内 白須賀 汐見阪図」11:38潮見坂を登り「おんやど白須賀」所在地:静岡県湖西市白須賀900番地白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」は、東海道宿駅開設400年を記念し白須賀宿の歴史と文化に関する知識を広め、資料の保存と活用を図るため設置された。なお、館内には展示室、休憩室があり無料で休憩できる展示品の「関札」関札とは、大名や旗本、公家などが宿泊・休憩する際に、利用月日、名前・官職名、休泊の別を墨書きし、本陣門前や宿場の出入口などに掲げた木製の札のこと。左:閏三月四日 尾張中納言休右:三月廿六日 松平出羽守休鎧 兜浜名湖、遠州灘の地図スズメ蜂の捕獲器11:50館内で冷たいお茶を頂いたが食べ物の販売はなかったのが残念。開館時間:午前10時 ~ 午後4時休 館 日 :毎週月曜日 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.14
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新居宿の棒鼻跡から浜名街道を歩き白須賀(しらすか)宿を目指す。9/25(水) 9:25旧東海道(県道417号線)の東海道夢舞台「新居宿加宿 橋本」新居宿 宿境まで、0.1km白須賀宿 宿境まで、3.5km旧東海道(県道417号線)を進む9:27旧東海道(県道417号線)の橋本西交差点国道一号線で日本橋から275.8kmとあるが、現在は浜名バイパスができ県道417号線となっている現在は個人の所有地内にある『風炉の井』この石積み井戸は、深さ2メートル、口径は最大1.8メートルあり、以前はもっと深かった。言い伝えによると、建久元年(1190)源頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる9:29県道417号線の橋本西交差点の北側に位置する「教恩寺」所在地:静岡県湖西市新居町浜名1126門前には寺院名の石柱もなく、ネットで調べる境内には「歴史の道 すたんぷぽいんと」とあるが9:31旧東海道はこの橋本西交差点を右方向へ進む民家の庭先に咲く花?オクラのように背丈が高いこの実は「唐胡麻の実か?」街道沿いに咲く花、フヨウ彼岸花の群生もようやく9時を過ぎると気温も上がり街道の花は目を癒してくれる9:39浜名旧街道の松並木9:41紅葉寺跡の立て札旧東海道(県道417号線)の東海道夢舞台「湖西市 紅葉寺跡」新居宿 宿境まで、0.9km白須賀宿 宿境まで、2.8km紅葉寺跡の石段を登る所在地:静岡県湖西市新居町浜名紅葉寺跡(もみじでらあと)この寺は、紅葉山本学寺といい、室町幕府六代目将軍 足利義教永享4年(1432)富士遊覧のときに立ち寄って紅葉を鑑賞したので、紅葉寺といわれている。建久元年(1190)の源頼朝上洛のおり、橋本に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘が、のちに出家して妙相と名のり、高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺といわれている小高い境内に座り休憩ここまでの歩数は8,400歩、足元に銀杏が落ちておりお土産に拾う境内にある石仏石碑に歌が刻まれているが10:04浜名旧街道へ戻り西へ向かう街道沿いの花壇に咲く、ポーチュラカ西洋ミツバチが盛んに蜜を採取していた10:09浜名旧街道を白須賀宿へ向かう10:14左前方に石碑が弥次さんがチェック前大納言為家、阿佛尼の歌碑が二句10:19左に「大倉戸立場跡」旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯れ歌を詠んだという話が残っている弥次さんも立場跡を後にして進む10:21立場跡のすぐ先にある「東新寺」臨済宗方広寺派 松林山東新寺所在地:静岡県湖西市新居町浜名2660東新寺本堂本堂横に稲荷さん境内の水鉢にホテイアオイ10:25浜名旧街道へ戻る白須賀新居鷲津線のバス停「大倉戸」10:27秋葉山の常夜燈10:31明治天皇御野立所址明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した。その際、明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かう際に休憩した所である。明治天皇はその後、新居宿の飯田本陣に宿泊、10月13日に東京に到着した10:33途中この辺りは「急斜面地崩壊危険個所」の静岡県知事指定の立て札があったが。土砂崩れの現場山の裾野に民家があるが浜名旧街道10:35南側には国道一号線の潮見バイパス10:36浜名旧街道沿いの民家は空き家10:37火鎮神社(ほずめじんじゃ)所在地:静岡県湖西市白須賀5942本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永以来海瀟及安永年間社家火災のため、古文書散失し、由緒を詳に能はざるも、徳川家康の崇敬厚く除地壱町四方余、丸太船壱双の御墨附を賜り、地方一般の崇敬を蒐めて御隆盛を極む。大正14年1月9日村社に列せられ同年同月14日神饌幣帛料供進神社に指定せらる祭神は品陀和気命、火之迦具土神、徳川家康の三柱。海岸沿いにある神社の宿命か、度重なる津波で古文書が失われ詳しい縁起は明らかでないと境内に咲いていた彼岸花 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.13
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新居宿から白須賀宿へ向かう。9/25(水) 8:33旧東海道(国道301号線)の泉町交差点、右折すると新居関所、直進するとJR鷲津駅旧東海道沿いに「寄馬跡」の石柱江戸時代の宿場には公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百匹の馬を用意した。しかし、交通量が多い時には助郷制度といって、近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。この場所は、寄せ集められた人馬の溜り場になったところであるスーパーの店先に「湖西市産 三方原ばれいしょ \298」店先に座っていたおばさんに聞くとほくほくして美味しいと8:44諏訪神社へ石碑は「日露戦役紀念碑」諏訪神社鳥居とケヤキ所在地:静岡県湖西市新居町新居1379当社は景行天皇19年(約1900年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永5年(1708)現在地に遷座となる。現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り込み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった諏訪神社のケヤキ諏訪神社は建御名方命を祭神とし、奉納手筒花火でしられている。この神社は、たびかさなる災害を受け、宝永5年(1708)に現在地に遷座した。このケヤキは、諏訪神社の御神木といわれ、樹齢は450年を経過する。根廻り7.5m目通り5.5m、樹高16mの巨木である諏訪神社の丘から「サンマリンブリッジ」諏訪神社の境内へ諏訪神社拝殿拝殿前から8:52諏訪神社の左手にある「東湖山 龍谷寺」臨済宗妙心寺派 龍谷寺山 門本堂と鐘楼龍谷寺の扁額「東湖山」子安弘法大師、延命地蔵菩薩8:56龍谷寺の山門に貼られたお願い最近では墓地での花殻の焼却も厳しい8:59旧東海道に戻り「常夜燈」9:01夫婦井戸所在地:静岡県湖西市新居町新居手押し式の井戸ポンプが2基あるこの地点は五差路に位置することから周辺の多くの人に利用された。また、流し場があることからも利用者の多くいたことがわかる。そのために一つでは足りないことで、二つの井戸必要とした。現在は、水質検査が行われていないので飲み水としては不適夫婦井戸の場所は五差路五差路には公園があり、時計が設置されている9:03新築の家で植栽若い奥さんが業者に指示して植えつけていた9:05旧東海道沿いに「池田神社」池田神社由緒天正12年(1584)小牧・長久手の戦いにおいて戦死した池田信輝(別名、恒興)の首を、家康の家臣であった長田伝八郎(永井伝八郎直勝)が浜松城の家康のもとに首実検のために赴く途中に、慈意の笹瀬弥三郎家に逗留し、無事首実検を終えた後に弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称して首塚を築かせた。その後、永井伝八郎が祠を建立し、笹瀬家にこれを祀るように命じたのが池田神社の始まりである平成30年の台風24号による社、鳥居とも倒壊したその後、社、木製鳥居が岡山の池田厚子氏の要請により、令和元年に地元関係者により再築された。池田厚子氏は、日本の元皇族で昭和天皇と香淳皇后の第4皇女子。旧岡山藩主池田家第16代当主池田隆政の夫人。伊勢神宮祭主再築された、社、木製鳥居9:10曹洞禅宗天正山 鷲栖院(じゅせいいん)所在地:静岡県湖西市新居町新居1739山門から本堂佐橋甚平衛の墓佐橋甚兵衛吉次は、今切関所が幕府直轄時代の正保4年(1647)から明暦3年(1657)まで関所奉行を務めた。明暦3年、74歳で没し、初め自らが開基となった祐念寺に葬られたが、廃寺後ここ鷲栖院に移された本堂の扁額「鷲栖院」境内に咲いていたジンジャーの花9:17若宮八幡宮9:19一里塚跡日本橋から69里目の一里塚9:21旧東海道の案内図9:22民家の前に「棒鼻跡(ぼうばなあと)」の石柱ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て桝形をなしていた。棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったいわれている棒鼻跡から振り返る。新居宿西境の見附を棒鼻と呼んだ 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.12
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今回は新居関所からのスタート。前回散策(5月24日)のブログは「新居関所からの帰路(2/2)」へリンク願います。9/25(水) 7:52安政地震で倒壊、直後に建て替えられた面番所と復元された渡船場右は新居関所資料館大御門から左に面番所、右は旧東海道(国道301号線)復元された「大御門」大御門は、明六ツ(午前六時頃)に開き、暮六ツ(午後六時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱の門です新居関所周辺事業現在「女改之長屋 復元中」女改め幕府は各地方の大名のクーデターを恐れて、大名の妻子を人質状態として江戸に住まわせていた。大名の妻子が地方に逃げ帰るのを防ぐため、厳しく目を光らせていて、女性の取り調べは、庶民に対しても広く行われた。女性が関所を通る際には、目的や行き先、その女性の人相や素性など身体的特徴が記されていた女手形を提出させていた。改め女は、関所足軽の妻や母が勤めていた新居の関所では、江戸から下る「出女」だけでなく、江戸へ向かう「入女」も厳しく取り調べを行っていた。男性の往来は容易で、無手形でも関所を通過することができた整備工事の看板復元中の「女改之長屋」内 部ひとつ棟を細長く建てた家で、ひとつ屋根の下に壁で仕切った各区画に人が居住できるようになっていた街道北側にある「北屋敷跡」へ向かう。東海道新幹線の天頭山橋りょう 東京から二五五粁五〇四米8:02旧東海道から山側へ数百メートル入り「北屋敷跡」疲れてくると立ち寄らないがまだ出始めのため立ち寄る関所が幕府直轄時代の元禄9年(1696)、それまで篠原村(浜松市)にあった関所役人の役宅がこの一帯に移され、与力・同心が居住した。元禄15年(1702)に関所の管理が幕府から吉田藩(豊橋市)に移ると、吉田から派遣された関所役人が住み、「北屋敷」といった。北屋敷には、関所番頭の役宅など32軒と足軽長屋が2軒あったマンホールは、関所、鳥、松のイメージ8:09旧東海道(国道301号線)沿いの「旅籠 紀伊国屋」所在地:静岡県湖西市新居町新居1280-1主は紀州の出身で、江戸初期に新居に移り込み茶屋を営んだといわれます。のち、代々疋田弥左衛門を名乗り、昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり旅館業を続けた街道を振り返る、大御門前に名物の「あと引せんべい」俳優の三宅裕司が、2019年春にBS日本の「ふるさと探訪」で湖西市を歩き回り紹介した。この時、関所コロッケ等も紹介していたが時間が早くて食べれず旅籠屋(船割宿)「肥後屋 作右衛門」新居の旅籠の中で最も畳数が多かった肥後屋、全部で115畳ありました。大店らしく家業を継ぐものへの家訓も書き残してある井桁屋 清太郎慶応3年、本陣武兵衛に続きここ井桁屋にも「お札降り」があり、「ええじゃないか」騒動は遠州以東へも伝播していきました8:11旧東海道はここ泉町交差点を左折する正面に「飯田武兵衛本陣跡」、左に隣接して「疋田八郎兵衛本陣跡」がある泉町交差点を中に入り「新福寺」へ8:12曹洞宗瑞龍山 新福寺所在地:静岡県湖西市新居町新居1341本尊:釈迦牟尼如来 創建:年号不詳当山は往古天台宗の寺で、真達公の開創と伝えられている。天正元年(1573)直傳龍察和尚がこの地に至り、曹洞宗に改め、草創開山となった山門からの本堂山門の両側に、百観音(石仏)が安置さている鐘 楼本堂と鐘楼本日の旅姿、本堂前で扁額「瑞龍山」8:20新福寺の南に位置する曹洞宗新居山 隣海院所在地:静岡県湖西市新居町新居1353-1三宅裕司が、2019年春にBS日本の「ふるさと探訪」で「ジキジキ様」を探して訪れたお寺である。この辺りは「寺道」と言われ、山裾に七寺社が立ち並ぶ趣きある通りである本尊:薬師如来 創建:永享8年(1436)永享8年(1436)真達将公和尚が日ケ崎村に隣海庵を開創し、慶安元年(1648)曹洞宗に改宗するとともに進外能迪和尚を迎え、日ケ崎山隣海院となる山門は火災を免れ、最も古い建物として残り「ジキジキ像」が祭られている。三宅裕司が探したジキジキ様だが地元の人もあまり知らなかった山門を入り本堂へ本堂の前には大きな蘇鉄が境内に咲くハギの花位牌堂には山岡鉄舟の額、鐘楼堂東には歌碑、観音堂には三十三観音像があるこの蘇鉄の樹齢は?鐘 楼帰りに後ろから「ジキジキ様」をどういういわれがあるのか?8:28隣海院の南に位置する法華宗正興山 本果寺所在地:静岡県湖西市新居町新居1362-1左下には近隣の寺の案内標識本尊:十界互具 大曼荼羅 創建:元中7年(1390) 開山:日才大徳もとは真言宗のお寺であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、法華宗に改修した。宝永4年(1707)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置している山門の扁額「正興山」鐘 楼8:31本 殿 新居宿から二川宿-続く
2019.10.11
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前夜18:30頃に豊橋の東横INN豊橋駅東口に到着。車は一泊500円で預ける。夕食はホテル近くの居酒屋へ。9/24(火) 19:00 ~ 21:00 三代目網元「さかなや道場」手羽先のから揚げ、磯風味サラダ @690、黒豚と国産野菜の餃子 @430左は餃子だが秋刀魚塩焼き @590美味しそうだが手羽先のから揚げ 一本@120×4本甘辛の味で美味しかった。ビール、焼酎を飲みホテルへ帰る東海道53次の秋のシリーズ再開は、5月24日(金)に新居宿のJR新居町駅まで来ていたので新居町駅から再スタートした。なお、今日が延べ20回目の弥次喜多道中である。9/25(水) 6:28宿泊ホテル東横INN前からJR豊橋駅方向6:30からホテル内で朝食6:44朝食を終え豊橋駅へ向かう、朝の気温はひんやりしていたが昼間は暑くなるとのことで服装は、短ズボンに上着は半袖シャツ一枚宿泊ホテルの東横INN豊橋駅東口今回もツインルームで連泊消火栓のマンホールは「手筒花火」JR豊橋駅エスカレーターで2階へ6:47朝早いため人通りも少ない6:55豊橋駅ホーム6:48発があったようだがきっぷの購入に手間がかかり乗り遅れる。SUICAで入ればよかったのだが、次の列車は7:11発でしばらくホームで待機7:39新居町駅へ到着、豊橋から4番目の駅で所要時間18分7:40久しぶりに降り立った新居町駅前新居宿の観光案内旧東海道を歩き新居関所まで 0.5km浜名街道浜名街道水のまんなかの道がまっすぐ 種田山頭火新居関所への旧東海道(国道301号線)を歩き浜名橋へ浜名橋からのJR東海道本線浜名橋に埋め込まれたプレート当時の景色が浮世絵で新居関所と富士山関所の船溜まり浜名橋を渡り新居関所が見えてくる7:52新居関所の駐車場へ到着右側の関所資料館はまだ時間が早く閉館中(開館:9時から、休館日:月曜日)関所と資料館の入館料は 310円新居関所正式には「今切関所」といい、慶長5年(1600)に設置されて元禄15年(1702)からは、 吉田藩が運営した。新居関所は「入り鉄砲」と「出女」は無論、「入女」も厳しく取 り締まり、箱根と同様、改め女(人見女)がいた。改め女による厳しい検査と船渡しの 危険を避け、さらに「今切」の言葉に縁起を担いで、多くの女性は浜名湖の北岸を迂 回する脇街道の「本坂道」を利用した。そのため本坂道を「姫街道」とも呼んだ。 明治2年(1869)関所は廃止された新居宿は、今年の5月24日(金)にJR浜松駅からJR新居町駅まで歩いており、この時隣の駅の鷲津のホテルへ帰り車に乗り自宅への帰路途中散策している。その時のブログは、既に公開しておりますので「帰路に新居関所(1/2)」へリンク願います。 新居宿から二川宿ー続く
2019.10.10
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続日本百名城の諏訪原城址へ向かうが、途中丸子宿にある誓願寺、吐月峰柴屋寺を訪れていなかったので立ち寄る。ここは今年3月20日(水)にJR安倍川駅から岡部宿へ向かって歩いたが、旧東海道沿いから離れているので訪れなかった場所である。9/24(火) 10:25国道一号線から北側に入り「誓願寺」へ誓願寺前の案内板丸子城跡 ~ 歓昌院坂 ハイキングコースのご案内戦国時代「今川」「武田」の山城、『丸子城跡』この丸子城は、今川、武田戦国大名によって標高???米の三角山を中心に尾根沿いに南北に約500米にわたって多くの曲輪を階段状に築いてある大鑪山 誓願寺所在地:静岡県静岡市駿河区丸子5665誓願寺の山門巨木の枝を切り落とし誓願寺(大鑪山 誓願寺)建久年間(1190~1199)に、源頼朝の両親追善のため建立されたが、天文年間(1532~1555)の丸子城の戦火で類焼した。しかし、永禄11年(1568)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものである。この寺はまた、大坂冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところである。慶長19年(1614)、豊臣家の重臣で賤ヶ岳七本槍の勇士でもあった片桐且元は、京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について、駿府城の徳川家康に申し開きのため、この寺に滞在していた。有名な方広寺大仏鐘銘事件である。また本堂右側にある古池には、珍しい産卵法で知られる「モリアオガエル」が棲息しており、五月から七月にかけて、その産卵風景を見ることができる山門右手前にある「地蔵尊」此の地蔵尊は天明8年(1788)の建立なり。誓願寺第十三世達源和尚の徒弟禅粛首?は太鼓坊と云われる太鼓打ちの名主然し病弱で若くして此の世を去った。達源和尚は首?を不憫に思い世の人々が三悪趣を離れ百病根を断ち長壽であるようにと願いをこめて首?の故郷の方向に向かって建立せしものなり誓願寺本堂山門を入り左側に鎮座する「だるま大師」七転八起「だるま大師」元気に喝ツ 平和祈願頑張るぞ!!本堂前から山門を望む本堂の先代の大きな鬼瓦お彼岸で飾られた献花にアゲハチョウが飛来片桐且元公の墓(向って左側)境内の本堂裏には、且元の子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる片桐且元公の墓近藤勇之墓とあり立ち止まるがよくみると「故海軍々属勲八等 近藤勇之墓」であった本堂内弥次さんが御朱印を頂く花の実10:45手入れの行き届いた松10:50誓願寺から、街道を戻り駿府匠宿入口から山側に入り吐月峰柴屋寺の駐車場駐車場の前に「月秀寺跡地」吐月峰柴屋寺(とげっぼうさいおくじ)今川六代当主義忠と七代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が、永世元年(1504)55歳で草庵を結び余生をおくったところである。この頃は、禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしていたという名勝史跡「吐月峰柴屋寺」所在地:静岡県静岡市駿河区丸子3316名勝及び史跡「柴屋寺庭園」の石碑国指定名勝及史蹟庭園で月の名勝拝観料300円を支払い吐月峰柴屋寺永世元年(1504)今川氏親に仕えた連歌師・宗長が宇津山の麓に庵を結んで柴屋軒と称したのが始まり。宗長の死後、寺に改め宗長寺ともいった。この柴屋寺は当時の丸子城の一部だった弥次さんが御朱印を頂く吐月峰柴屋寺 略由来本堂に入り住職の奥様?から説明を受ける。本堂からの正面(南)に、丸子富士が見える。庭の西方に天柱山、東に吐月峰を借景にした枯山水庭園は国の名勝に指定されている。宗長が植えた竹を使った竹細工は当時から名物で、煙草の灰落とし(灰吹)に「吐月峰」とかいて「はいふき」と読ませた本堂からの正面(南)に、丸子富士が見える西側の庭園ここに座って月を見たという「月見石」徳川家康が植えた松茶室の裏にある庭園には滝もある天柱山を借景にしているつつじの時期も良いのか撮影禁止であったが、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜わった芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されている11:1020分程の滞在で後にする11:17吐月峰柴屋寺の奥にある「曹洞宗天柱山 歓昌院」所在地:静岡県静岡市駿河区丸子2904参道横に急な山を登る「モノラック」今は使用されていないのかアメリカ芙蓉山門手前に五百羅漢?六地蔵には倒木石段を登り本堂へ11:22本堂から山門をを見下ろす歓昌院の参拝を終え、続日本百名城の諏訪原城址へ向かう。 東海道53次の豊橋へー続く
2019.10.04
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新居宿の幕末期泉町通り(東海道)の軒割5/24(金) 14:49新居関所近くの「旅籠 紀伊国屋」へ。旅籠屋(船割宿) 西の新家「紀伊国屋 弥左衛門」所在地:静岡県湖西市新居町新居1280-1主は紀州の出身で、江戸初期に新居に移り込み茶屋を営んだといわれます。のち、代々疋田弥左衛門を名乗り、昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり旅館業を続けた1、2階の平面図。江戸時代後期の紀伊国屋は、間口五間(約九メートル)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、総畳数63と、25軒前後あった新居宿の旅籠の中で最大規模を誇っていた。明治7年(1874)の大火により焼失、二階建てに建て替えられ一部増築された2階に上がる。各部屋は襖で仕切られており、今のような完全個室ではない部屋割りである使用されていた「角まくら」。各部屋は綺麗に整理されていた。今でも旅籠として利用できるのではと。四国の巡礼は宿坊があるが、東海道道中の旅籠に開放したらと思うが、管理維持が大変なのであろう14:54紀伊国屋の裏側にある『芸妓置屋 小松楼』へ。所在地:静岡県湖西市新居町新居1190-3 入館料:無料小松楼まちづくり交流館として開放しており、お茶サービス、トイレ、観光パンフレットがあり休憩できる。浜松で新聞屋を営んでいた松井米吉が、明治34年頃、旅籠屋紀伊国屋の裏手にあった建物を買収して置屋を開業し、大正初期に現在地に移築した。平屋建てから二階建てに改築後、置屋兼小料理屋として営業を再開し、二階部分は御座敷として遊べる構造としました館内、写真が暗くてすみません!一階は食事場所やイベント会場、壁面は市民ギャラリーとして有料で貸し出している。「芸妓(げいぎ・げいこ)」は三味線や舞いなどで、酒宴の座に興を添えることを業とする女性です。地域によっては芸者や芸子とも呼ばれています。「芸妓」は技芸と教養を併せ持つ洗練された女性として敬意を払う意味が込められた呼称となります最盛期には芸妓置屋が11軒、カフェやバーなどもあり、芸妓も50~80人が居たといわれ、周辺は養鰻、製糸業などの産業も盛んで、漁師町でもあったため漁師や網元らも多数出入りしたと言われています。二階はベンガラ壁、ガラス障子など、大正初期のまま残っており、芸妓道具類、鏡台、オルガンや当時の芸妓たちの写真などが展示されている二階の窓側の廊下芸妓たちの写真などを展示二階の出窓。ここからきれいどころが顔を出して、街道の馴染みを呼び込み?弥次さん喜多さんは江戸時代のため、ここは訪れていないのだ15:04国道301号線の「泉町交差点」を挟んで本陣が所在旧東海道、東海道夢舞台「湖西市 新居宿」 飯田武兵衛本陣跡白須賀宿 4.5km、舞坂宿 5.3km泉町交差点の南側に「疋田八郎兵衛本陣跡」の石碑新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた泉町交差点から白須賀宿方面、空き地の隅に「疋田八郎兵衛本陣跡」の石碑15:06泉町交差点に「飯田武兵衛本陣跡」飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり同年の還幸、翌2年の再興、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治18年(1885)、奥山方広寺に移築された15:07泉町交差点から「旅籠 紀伊国屋」15:09復元された「大御門」大御門は、明六ツ(午前六時頃)に開き、暮六ツ(午後六時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱の門です新居関所の左から「浦高札」「宿高札」「大御門」。新居宿の高札場は、新居関所の大御門の西側の桝形に所在し、新居宿の関係で宿高札場と今切湊の関係で蒲高札場がありました。復元した高札場については、高札場本体の大きさをはじめ、掲示されていた高札の内容や大きさについても、江戸時代の記録をもとに整備されている面番所余談ですが、先日6/25(火)に、BS日本の「三宅裕司の”ふるさと探訪”」で湖西市新居宿を放映しておりましたので、次の場所を訪れてみたいものです。 ①あと引き製菓「あと引き煎餅」、②やまへい「遠州灘しらす、うなぎのしろやき」 ③村田精肉店「関所コロッケ」、 ④臨海院の「ジキジキ様」、⑤どうまん蟹。15:15新居関所周辺を見学後車で帰路に着く。帰路も一般道路優先で高速道路は利用せず、浜松宿から歩いてきた道を逆走しながら江戸方面へ向かう。16:40 国道一号線の日坂宿にある『掛川 道の駅』で夕食を。所在地:静岡県掛川市八坂882-1ごはんと豚汁やみそ汁を中心に、和食中心のおいしい物が一皿ずつ売られている道の駅での夕食後は、今日の疲れで眠くなり弥次さんに運転を交代願う。17:02国道一号線(日坂バイパス)を走り、廻りは茶畑が広がる17:38国道一号(藤枝バイパス)を走るがこの辺りも茶畑が広がる。原トンネルへ。5月も下旬に入っているので一番茶は刈り取り済か?この辺りは3月下旬に歩いた原トンネル(藤枝市):700m17:40国道一号(藤枝バイパス)の「時ケ谷トンネル」。竹が山を占領する17:47国道一号(藤枝バイパス)を走る。この辺りは岡部宿から丸子宿であろうか17:49駿河区 宇津ノ谷(逆川)17:52この辺りは丸子宿、道路標識に「吐月峰柴屋寺」。次回立ち寄りたいものです18:38興津宿を過ぎ、国道一号線(富士由比バイパス)を走り、左の山には『薩埵峠』。前方に富士が見えたので思わずカメラを弥次さんが運転しているので助手席から撮影18:39高架橋は東名高速道路。夕焼けに染まる富士山18:40この辺りは左に東海道本線、右に東名高速道路18:51国道一号線(富士由比バイパス)の蒲原辺りからの富士山18:52新富士川橋からの富士山弥次さんは運転で撮影できず、失礼しました18:52国道一号線(富士由比バイパス)からの富士山を楽しんだ約15分間でした。次回はこの区間は私が運転をします。この後、箱根三島口で運転を代わり、わが家には20:50に到着した。車での全走行距離は、490kmでした今回の弥次喜多道中は、一日目は車で途中旧東海道から離れていて訪れなかった所を訪問浜松まで行き、翌日の二日目は電車で磐田駅まで移動、見付宿から浜松宿まで歩いた。その日は湖西市の鷲津へ宿泊。三日目は鷲津から浜松まで電車で移動、浜松駅から新居宿のJR新居町駅まで歩いた、二泊三日の道中記でした。今回でようやく浜名湖も越え新居宿までたどりつき、静岡県下とももう少しでお別れ。さて次回はいつ? 浜松宿から新居宿ーEND
2019.07.18
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5/24(金) 新居宿の新居町駅から電車で鷲津駅に戻り、時間が早かったので愛車で新居関所へ立ち寄る。13:46JR鷲津駅へ帰り、宿泊した「くれたけイン浜名湖」へ。ホテルの駐車場へ止めていた愛車で新居関所へ向かう14:02新居関所正式には「今切関所」といい、慶長5年(1600)に設置されて元禄15年(1702)からは、吉田藩が運営した。新居関所は「入り鉄砲」と「出女」は無論、「入女」も厳しく取り締まり、箱根と同様、改め女(人見女)がいた。改め女による厳しい検査と船渡しの危険を避け、さらに「今切」の言葉に縁起を担いで、多くの女性は浜名湖の北岸を迂回する脇街道の「本坂道」を利用した。そのため本坂道を「姫街道」とも呼んだ。明治2年(1869)関所は廃止された新居関所&関所資料館へ入館入館料金:大人\310特別史跡「新居関跡」、「新居宿 旅籠 紀伊国屋資料館」の共通券を購入関所構内と面番所関所面番所。この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永7年(1854)の地震により倒壊したため、翌、安政2年(1855)に建て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間、奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)、中の部屋を上番所(二十畳)、左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。明治2年の関所廃止令後、明治6年から大正5年まで小学校として、その後、昭和26年まで新居町役場庁舎として使用されました。全国で唯一現存する関所建物として昭和30年に国の特別史跡に指定された面番所の上番所(二十畳)。右は「番頭 五味六郎左衛門」書かれている文字は小女・・・・播州赤穂江戸・・・・相通・・・・・・・天和・・・正月今切 女改中面番所の下番所(二十五畳)。右は「下改 神田栄次郎」一体は出張中?(修理)で不在下番所から上番所、上の間手入れされた裏庭関所役人。新居関所創設(1600)より元禄15年(1702)までは幕府直轄として関所奉行が任務にあたっていましたが、元禄15年以降、関所の管理は三河国吉田藩へ移管されました。吉田藩管理下としての関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計40人前後が交代制で任務にあたっていた。旅人の関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮六ツ(十八時頃)までで、原則として夜間は通行できませんでした面番所の上番所(二十畳)。左は「給人 石原幸正」、後方壁に関所常備武具関所常備武具。常備武具は、関所役人の所定の取り調べに従わない通行人の不法行為を未然に防止する対策として備えられていましたが、幕藩制社会の確立に伴い、関所の権威を通行者に誇示するという役割、いわゆる飾り用として関所に常備されていました。時代によって数量は異なりますが、基本的には次の武具が置かれていました。弓:二十五張 鉄砲:二十五挺 矢箱:二荷玉薬箱:二荷 長柄:十本江戸時代の新居関所廻り。舞坂宿から今切の渡しで新居関へ14:32新居関所資料館へ(撮影禁止のため、パンフレットから)。新居関所資料館は新居関所や新居宿に関する資料、江戸時代の交通資料などを収集・展示しています資料館の入口ホールにあった「諏訪神社奉納煙火」。新居では、江戸時代より奉納後の手筒花火は家内安全・商売繁盛などを願い、厄除けとして玄関などに飾っている新居諏訪神社で奉納「遠州新居手筒煙火」。そう言えば、掛川宿?以降か玄関先に飾られた手筒花火をよく見かけた1Fは、「街道と関所」、「海の関所新居」をテーマに、新居関所の変遷と役割などを実物の資料でわかりやすく紹介している2Fは、「旅と宿場」をテーマに、旅に関する資料や浮世絵版画、近世新居宿の資料を展示紹介している。また特別展・企画展を随時開催している面番所と正面奥に大御門高札と左に荷物石高札「覚」一 関所を出入輩乗物の戸をひらかせ笠頭巾をとらせて通すへき事一 往来の女つふさに証文引合せて通すへき事 附 乗物にて出女は番所之女を差出して相改へき事一 手負死人并不審なるもの証文なくして通へからさる事一 相定る証文なき鉄砲は通すへからさる事一 堂上の人々諸大名の往来かねてより其聞にあるは沙汰に及はす若不審の事あるに おゐてハ誰人によらす改むへき事右之条々厳密に可相守者也仍如件正徳元年五月 日 奉行 これは旅人が関所で取り調べを受けている時に荷物を置いた石です。当時は、二つの荷物石が面番所の西側に並んで置かれていました面番所の左奥に「女改之長屋」西方面からの面番所14:38安政地震で倒壊、直後に建て替えられた面番所と復元された渡船場国道301号線を歩き。電柱はモール化され江戸時代の情景に。右手に新居関所がありこれより西が新居の宿場で、本陣・旅籠があった東海道三十一番目の「新居宿」。東海道は江戸日本橋より大阪高麗橋までです。大津宿追分を右に行き、京都三条までは東海道五十三次。大津宿追分より左に行くと、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿、大阪高麗橋までが東海道五十七宿となります。さて今回の道中はどちらへ?無人島漂流者「不屈精神を伝える」江戸期 新居人 鳥島に生きた二十一年 享保4年(1719)~元文4年(1739)。生存:三人 死亡:九人江戸時代中期に遭難して無人島の「鳥島」に漂着、21年間生き延びて救出された事を説明している14:42新居関所の復元された「大御門」、左に「浦高札」「宿高札」紀伊国屋 平兵衛疋田弥五助(本陣)の分家で西の新家(紀伊国屋弥左衛門)、東の新家(紀伊国屋平兵衛)と呼ばれていました。髪結い 時五郎関所に程近いこの場所にある髪結いでは関所改めを受けた女性たちの髪を結い直したとも云われています14:43新居関所から旧東海道(国道301号線)の右側に「旅籠 紀伊国屋」新居宿 旅籠 紀伊国屋所在地:静岡県湖西市新居町新居1280-1旅籠紀伊国屋が新居宿で営業を始めた時期ははっきりしません。記録では、元禄16年(1703)に徳川御三家のひとつ紀州藩の御用宿となっており、これは新居宿・新居関所の現在地への「惣町移転」の前ですから、宿内の老舗であったことは確かです。正徳6年(享保元年・1716)に「紀伊国屋」の屋号を掲げた。その後、延享2年(1745)までに帯刀、五人扶持を認められ、御用宿としての地位を固めた。敷地内に紀州藩七里飛脚の役所を置いたこともあります旅籠屋(船割宿) 西の新家「紀伊国屋 弥左衛門」新居名物のうなぎの蒲焼きの味が評判でした。昭和30年代まで旅館業を営み、新居宿と共に歴史を刻んだ旅籠です入り口横に「泊休 き伊国や」の看板旅籠 紀伊国屋資料館のチケットで中に入る。正徳6年(1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、新居宿の大旅籠として昭和期まで営業。江戸時代の旅籠様式を随所に残しており往時の宿場文化を伝える資料を展示している座敷から奥の庭を懐かしい火鉢14:48一階の片隅に「風呂場」水戸黄門のロケで「由美かおる」も? 写真が飾られていた 帰路に新居関所へー続く
2019.07.17
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静岡県下の旧東海道を歩きようやく浜名湖へ達した。5/24(金) 12:17赤い欄干の弁天橋を渡る。右側の鉄橋を東海道新幹線が走る弁天橋上から、この時は、干潮であり海に向かって流れる湖水。 正面が「今切」の所で、遠州灘とつながっている。上を国道一号線(浜名バイパス)の『浜名大橋』が「今切」を越えて行くのであった。次回はこの橋を走りたいが、ただし、無料なら!干潮の時間で鳥居の基礎もあらわれていた現在NHKで放送中の大河ドラマ「いだてん」主人公の一人「田畑政治」ゆかりの地 No.5『田畑家の弁天島別荘跡』。明治の中頃になると、海水浴が病気の治療に効果があるとされ注目を集めた。明治22年(1889)に東海道鉄道が全通すると、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を持つようになり、田畑家も弁天橋のたもとに別荘を造った。政治は小学校へ行く前から、この別荘で夏と冬の休みを過ごしていたため、目の前の浜名湖で小さい時から自然に泳ぎを覚え、水泳に高い関心を持つようになった。政治の水泳の原点は、当時、水泳訓練が非常に盛んであった浜名湖の弁天島に所在した別荘にあったといっても過言ではない弁天橋の北側にある国道301号線12:21国道301号線に合流する左手にあったのが『辨天神社』。辨天神社は、江戸時代の宝永6年(1708)今切の渡しの安全を祈願して創建されたと弁天島と天女。昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(ハクサセイショウ)「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、 ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。 それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に辨天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人々に信仰されています朱色の『弁天神社拝殿』境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があった正岡子規 句碑『天の川 濱名の橋の 十文字』松島十湖 句碑『月や風や夏しら波の海と湖』12:23さらに東海道本線に沿った国道301号線を進む。信号は「弁天島駅前交差点」弁天島駅前交差点に、日本橋から271㎞のキロポスト。右側に弁天島駅、浜松から3番目の駅、ここは浜松市西区舞阪町鳥居の向こうに国道一号線(浜名バイパス)の『浜名大橋』を望む12:29弁天島海浜公園駐車場浜名大橋の下に点検車弁天島海浜公園では、潮干狩りもできるようだ再度、鳥居をズームアップ。鳥居には舞阪町観光シンボルタワーとあるが?12:36中浜名橋東からJR東海道本線、新幹線の線路を見る。現役時代は新幹線で通過していたが今日は歩いて中浜名橋従来の中浜名橋を歩行者専用にしているのかそして中浜名橋を渡ると、浜松市から湖西市に入る12:40橋を渡り終わると、右手にキャンピングカーの大きな展示場・フジカーズジャパン 浜松店がありしばし散策、豪華なものから軽四の型まで。これから先の弥次喜多道中の宿泊手段として欲しいのであったが。我が家の予算審議会で承認されず、廃案に!!!所在地:静岡県湖西市新居町新居3285-1心残りの中引き上げる12:46引き続き国道を歩くと、右手にあったのが小さな『新弁天神社』。神社の後方を東海道新幹線、東海道本線が走る12:48日本橋から272㎞のキロポスト、新居町新居と標示12:53そして3つ目の橋『西浜名橋』の銘板が見えて来た新しい橋を架け、旧橋はこちらも専用歩道橋としていた専用歩道橋を歩く列車を待ち、東海道本線には貨物列車が13:01西浜名橋を渡り終え「つり船・東京屋」の駐車場から振り返る。所在地:静岡県湖西市新居町新居3444-2後方の東方向には「浜名湖」の標識道路は国道301号線(以前は国道一号線であった)。この辺りは見る所もなく、浜名湖&新幹線を見ながら昼を過ぎたが今日も昼食もとらず、ひたすら今日のゴール点「新居町駅」を目指して歩く13:02国道301号線の右側に、現在は廃城?13:03日本橋から273㎞のキロポスト、ここも新居町新居と標示。ここまでの1㎞は、15分を要した前方に浜名湖競艇場への立体交差立体交差手前右側にある『ファミリーロッジ 旅籠屋 浜名湖店』所在地:静岡県湖西市新居町新居3444浜名湖店とあるので他にもあるのか、今後利用したいものだ旅籠屋から国道を振り返る。ご家族は勿論、グループやひとり旅、ビジネスにもどうぞ!1部屋全体の1泊料金(税込み)、2名宿泊:¥8,000(平日など)全室ツインベッド(クイーンサイズ)・TV・バス・トイレ付き、朝軽食無料サービス13:08国道の左側に看板看板をズームアップ「海と関所のまち 湖西市」新居関所まで1.5㎞13:13直線の国道をさらに進むと「向島西交差点」その先の左側にあった「静岡県警察 湖西警察署」日本橋から274㎞のキロポスト、ここも新居町新居と標示。ここまでの1㎞は、12分を要した、ゴールが近いので最後の力を絞って道路標識は、左:県道417号線、右:国道301号線。ゴール点まであと約100mとなる13:20今日のゴール点「新居町駅」前ロータリーへ到着。ここまでの今日の歩行数は、28,900歩昼食をとっていなかったので、ドリンク&塩パンを13:30この先には「新居関所」。次回はJR新居町駅から「白須賀宿」へ向けて歩く予定新居町界隈MAPJR新居町駅駅舎改札を入る新居町駅の向こうに、サンマリンブリッジ13:40鷲津駅行き13:40発の電車が入線JR新居町駅からJR鷲津駅へ電車で帰り、ホテルへ駐車している愛車ジュークを受け取り帰路に着く。時間がまだ早いので、新居関所へ立ち寄ることにする。 浜松宿から新居宿ーEND
2019.07.16
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舞坂宿は、江戸から30番目の宿場である。浜名湖はもとは陸に囲まれた淡水湖で、鎌倉時代には湖から遠州灘に流れ出す川に浜名橋が架かっていた。ところが明応7年(1498)8月25日に起きた大地震と大津波によって、浜名湖の海岸沿いの陸地が切れ、海水が流れ込み汽水湖に変わってしまった。この海水の流入口に「今切」という名が付いた。5/24(金) 11:14江戸方見附石垣。街並みは見附石垣から宿の突き当りにあった今切渡船場まで、6町あまり(約700m)。文政3年(1820)江戸大森から海苔の養殖技術が伝えられ、舞坂海苔として全国に知られるようになった旧東海道の両側に石垣を積み史跡 見付石垣。この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(1709)の古地図には既に存在している。 見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である見付石垣の先に『一里塚跡』手前には『新町 常夜燈』江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年) 主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9km)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞阪の一里塚は、日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていた舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞坂宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。 常夜燈の竿石の四面には、両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている街道の向かい側に『東海道舞坂宿一里塚』の石碑文久二年 東海道舞坂宿 宿内軒別 書絵図面11:19旧東海道を西へ進む。街道には、のり、しらす、海産物の店が立ち並び浜名湖が街道の先に見えてくる。道路標識は、直進すると「脇本陣」「北雁木」「舞阪魚市場」11:23宝珠院前に立つ『仲町常夜灯』、「波切不動尊出現之霊地」の石柱所在地:静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1927仲町常夜灯文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。 火防(ヒブセ)の山、秋葉信仰の高まりと共に仲町の願により、4年後の文化10年5月吉日にこの常夜灯が建立されました。両皇大神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7mあります。 なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみに、ここ宝珠院は、明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です寶珠院の山門11:25街道の南側に『養泉寺』所在地:静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1907-1養泉寺本堂 伝承によれば寛永年間(1624~43)の開創という。延宝年間(1673~81)の検地帳に所載されていることから、信憑性は高そうだ。18世紀中ごろ編纂の『遠江國風土記傳』には「曹洞宗、入野村宗源院末、在天派」。文久2年(1862)の『宿内軒別畳数坪数絵図面』によれば、当時の規模は本堂7間×5間5尺、庫裡4間半×11間。 総畳数71畳、総坪数は77坪8分5厘だったと11:33旧街道の左側の民家の塀に『岐佐神社』のプレート街道から南側に100m岐佐神社(きさじんじゃ)所在地:静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1973神社の名はキサガイ(あか貝)に由来する岐佐神社 御由緒 平安時代に書かれた「延喜式神名帳」に遠江六十二座、敷智郡六座の一社と記される式内社です。千年以上の古社である。明応7年(1498)の地震津波により、浜名湖の湖口が大きく切れて「今切」となり、舞澤(舞坂)の郷は、人家と共に水中に埋没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の根本に「岐佐大明神」の小祠を見つけ、住民は社殿を建立して祀った。これが現在の御鎮座の地である。無事難を逃れた住民は、付近の松原に部落を作り、現在の舞坂待ちのもとをなした。これを「三十六屋敷」という。天正2年(1574)以来、数次の本殿・拝殿再建の棟札を保存している。慶長6年(1601)伊奈忠次公より、御神領3石、慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により、神領5石を奉献され明治維新に至る。明治6年(1873)郷社に列し、大正9年(1920)神饌幣帛供進社となる。現在の社殿は大正元年(1912)の造営である岐佐神社社殿社殿前から鳥居を赤猪石(アカガイシ)赤猪石の御由来古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。大国主命は兄弟達と恋争いの末、八上比売と結婚の約束をします。恋に破れた兄弟達は、大国主命を手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕らえろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石を、転がり落としました。この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命を落としました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神に命乞いをされます。 神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である「蚶貝比売命・蛤貝比売命」に言いつけて大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は貝殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。 出雲神話と岐佐神社とは、このようなかかわりがあり、ここに「赤いし」が祀られています。御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の神であると共に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています 11:44右側に『本陣跡』2軒の本陣のうち、歴史的にも規模の上でも優位にあったのが、宮崎伝左衛門家。 文久2年の「宿内絵図」によると、「間口11間2尺、奥行き20間3尺、建坪130坪、 畳敷160畳、板敷23坪5分、土間18坪6分、御本陣伝左衛門」とある。 宿村大概帳には「本陣西町凡建坪158坪、門構、玄関付」と記している。 江戸時代多くの諸侯が宿泊し、明治初年明治天皇が4回にわたって小休している。 文化年間の火災で母屋焼失、その後再建されたが、明治期に入り本陣家の瓦解に伴い、土地建物の大半を売却。昭和10年頃までは一部残存していたが、現在は遺構・建物など全くない11:45東海道舞坂宿脇本陣所在地:静岡県浜松市西区舞阪町舞阪2091舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、 江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・戸数265戸でした。また本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。 建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。 現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。 平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました舞坂宿脇本陣利用案内入場無料とのことで、受付で記帳の上脇本陣へ入る座敷から坪庭を舞坂宿の模型前庭間口五間・奥行十五間殿様専用の『上段の間』五十三次 舞坂急な階段を昇った二階は広間が二部屋あり。駕籠の展示二階から入口の見事な檜皮葺の唐破風を見下ろす大正時代の脇本陣撮影:大正2(1913)年10月31日12:06突き当りの交差点手前左側に、東海道夢舞台「舞坂宿」新居宿 宿境まで一里十町(約5km)浜松宿 宿境まで三里(11.7km)舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が 秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化十年に建立されたことがわかる。 舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に 大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている道路を渡った左側にあった『舞坂宿の渡船場、本雁木跡』。江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった脇本陣方向を振り返る旧東海道はここを右折して真っ直ぐ浜名湖湖岸沿いに延びていた。浜名湖が海と繋がったため、舞坂と対岸の新居のあいだは船で渡ることになった。慶長5年(1600)家康によって、新居に設置された東海道の関所に繋がる渡船場として、舞坂は重要な宿となった。しかし、渡船の営業権は新居宿が握っており、舞坂宿には渡船収入はなかった舞阪魚市場入口から見た、国道一号線(浜名バイパス)に架かる『浜名大橋』舞阪漁港。浜名湖、遠州灘からいろんな魚貝類が陸揚げされ賑わっている岸壁を進むと左手に『史跡 北雁木』と『常夜灯』が。ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約十八メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。現在は北雁木のみが残っているそして再び旧東海道を進むと、『弁天橋』手前左にも『常夜燈』が。 台座下部に「京に五拾七里ニ拾六町 舞坂宿」 のプレートが貼られていた赤い欄干の『弁天橋』12:15弁天橋舞坂から赤い弁天橋を渡ると弁天島である。そこは、温泉や海水浴、つり、潮干狩りなどが楽しめるリゾート地であるちなみに、弥次さんからの情報で、琵琶湖は京都に近いから「近江(おうみ)」、浜名湖は京都から遠いので「遠江(とおとうみ)」なのですと。 浜松宿から新居宿ー続く
2019.07.15
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旧東海道の県道316号線を西に進む。5/24(金) 10:13稲荷神社所在地:静岡県浜松市西区坪井町稲荷神社 由緒案内。由緒の概要 ●永享十二年(1440)伏見稲荷より勧請したと言われる。 ●天正十六年(1588)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると言い伝えられている。 ●現在の拝殿は大正十一年に建てられた。境内の森の木が建築材として利用された。 村内の大工数名が建築に携わった。境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。 ●慶安元年(1648)時の幕府から朱印五石が禄(与えられる)された。 ●境内に入ると立灯篭が左右に見える。文化年間と刻字されている。 ●両部鳥居と稲荷鳥居が続いている。 両部鳥居は朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼 ばれる控柱で支えられている。稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816)11月 吉日遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。 ●稲荷の名のごとく、元来農耕神であるが、中世以降から漁業神また産業神、商売神 として崇められ、近郷からの参詣者も訪れるようになった 稲荷神社社殿10:17旧東海道沿いに『坪井村 高札場跡』一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。 高札には親孝行・忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。 近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が永年保存されていました10:21バス停『坪井西』を過ぎ暫く進むと、再び右手のここにも常夜燈が10:22引佐山大悲院本尊観世音由来。この地に永く安置されていた観世音菩薩は、引佐細江の観世音と言い、高さ一尺二寸五分(約38センチ)の立像で、定朝法橋上人の真作であると伝えられる。 第68代後一条天皇の治安元年(1021)定朝上人諸国巡行の途中山住神社(水窪町)に山籠もりされた時神託を感じ、引佐細江の里に行き老杉の元で一心不乱に大悲十句の秘文を唱え祈りつづけられた。七日七夜の三更(午前0時前後)老杉の頂が光り輝き、忽然として聖観世音菩薩が応現された。その慈悲に感激し、ありがたさの万分の一をも残そうと老杉を伐り、聖観世音菩薩の尊像を一刀三礼して彫り上げ、国下安民五穀豊饒のため引佐の地に堂宇を建てて、安置し奉った。 ・・・・・・・・・。10:23バス停『馬郡観音堂』10:26バス停『馬郡東』付近の旧東海道馬郡村 高札場跡。立て札には同じような説明文が書かれていた。 このすぐ近くには「札木さ」と呼ばれている家があります 馬郡村馬郡町自主防災隊倉庫の横の鞘堂にも秋葉燈籠が納まっていた10:30旧東海道に『日蓮宗 東本徳寺』の看板所在地:静岡県浜松市西区馬郡町1383入口に『髭題目碑』と『清正公三百年祭記念碑』が立っていた。槇に囲まれた参道を進む山門と本堂5月のことば逆境を嘆くことなかれ、強敵に磨かれ 人は鍛えられる10:35東本徳寺の西側にある『日蓮宗 西本徳寺』。所在地:静岡県浜松市西区馬郡町1557入口に『髭題目碑』と『海中出現 釈迦牟尼佛安置碑』が立っていた西本徳寺 本堂。 海中出現の釈尊の立像が祀られている。 寺伝によると、鎌倉時代の仁治2年(1241)4月8日、遠州灘の浜において漁師の網に かかって引き上げられたという本堂の見事な彫刻10:40旧東海道(県道316号線)の「馬郡跨線橋南交差点』を進む。 交差点の先に大きな石灯籠が見えた旧東海道はここまでが県道316号線、これ以降は、直進して県道49号線へ10:41馬郡弧線橋南交差点を渡り右に位置する『春日神社、津島神社』所在地:静岡県浜松市西区馬郡町永徳元年(1381)、甲州身延山第11世沙門律師日朝上人が、諸国行脚の折、村民と共に建立した。奈良の春日大明神より勧請したと言われ、拝殿の前に、大明神神使である鹿2基が設置されている石鳥居と拝殿春日神社 由緒。往昔永徳元年(1381)秋、甲州行脚の沙門律師日朝当地へ廻国の折、神仏深理と悟し民族挙って一社を建立を願ふに依りて、後小松天皇の御年應永二甲戊年(1395)8月15日春日大明神の神札を奉祀勧請す後天正12年(1584)以来数度の改築あり慶安元年(1648)10月24日徳川三代将軍より朱印六石下賜あり代々拝領す明治6年(1873)3月村社に列す仝7年末社を合祀す。昭和8年(1933)7月18日本殿、拝殿、幣殿改築遷宮以後現在にいたる春日神社拝殿拝殿の前に、大明神神使である鹿2基が設置されている応永2年(1395)奈良の春日大社より祭神を勧請し建立された春日神社。狛犬に代わり雌雄の狛鹿を置く。いかにも春日社らしい。 右は『雄の狛鹿』 左は『雌の狛鹿』春日神社の御神木『柊(ひいらぎ)の木』。昭和7年から始まった氏子を中心とした郷土の一大事業で本殿、拝殿、神池等が新築・造営された。本殿新築工事と同時に神前に生存していた・・・・・・・・・・・10:54旧東海道(県道49号線)の「舞阪駅南入口交差点」、先に松並木が見える跨線橋南交差点から県道49号線に入り、舞阪駅南入口交差点を過ぎるとすぐ、700mにわたる舞坂のみごとな松並木が始まった10:56松並木が始まる所に、夢舞台東海道「松並木」の標柱が立っていた。舞坂宿 宿境まで八町(0.9km)浜松宿 宿境まで二里二十町(10km)旧東海道(県道49号線)を歩き約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っているのだと。よく整備されており、これまでで最高の松並木汚水マンホール蓋もひたすら『松』暑かったが、松並木の街道はさわやかな風が疲れを癒してくれた東海道松並木の石碑。この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡境まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。 その後、寿命や台風で倒れる一方、そのつど補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際、堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった現在700m、株数約330本に東海道の面影をよく残している一方通行に11:04松並木の途中にあった『舞阪橋跡』。ここには江戸時代、舞坂宿唯一の橋である舞坂橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水が流れていました。 天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。 字 舞坂橋 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立 弐組 是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛にて御普請これあり、この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり、もっとも土橋のため保持に 難あり宿役で板橋に掛換えをした松並木を振り返る約700mの松並木には東海道五十三次の宿場レリーフと十二支の石像が並び、街道沿いには名産の玉葱畑も見られる松並木の先に舞坂宿 松並木公園が11:07旧東海道 舞坂宿 松並木公園所在地:静岡県浜松市西区舞阪町浜田松並木公園に座る「浪小僧」むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚が取れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。 遠州七不思議よりMAISAKA(舞坂) MAP公衆トイレもあり小休憩できる場十二支の石像『亥(い)』。亥の刻:午後九時から午後十一時まで国道301号線(旧国道1号線)の「新町交差点」。旧東海道は左を直進新町交差点から振り返る、左が旧東海道(県道49号線)の松並木。右方向は旧国道1号線で、昨夕ここを車で走り宿泊した鷲津へ向かった11:10舞坂宿へ入る 浜松宿から新居宿ー続く
2019.07.14
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二日連続の道中で少々疲れ気味。5/24(金) 8:41旧東海道(国道257号線)を振り返る8:44増楽町の『秋葉常夜燈籠』天正二年(1574)、家康公は「火の神」アキバ神社を浜松高町に建てた。一方、春野の深山に通ずる諸街道を秋葉街道と名付け、旅人の安全を祈願し、街道の要所に常夜燈の設置を奨励した。このとき、建てられた常夜燈が現在に残る秋葉燈籠の始まりである。はじめのころの灯籠は、旅人の脚下を照らすための素朴なものだったが、火を尊ぶ心から木燈籠、そして石燈籠と造り替えられ、現在のようなりっぱな燈籠になった。 現在、増楽町に残る常夜灯籠だけが、可美地区に残る唯一の秋葉灯籠である8:46村社 熊野神社所在地:静岡県浜松市南区増楽町村社 熊野神社の石鳥居熊野神社(旧名伊豆権現)。由緒 当社は大正15年4月1日火災に罹り、社殿等焼失したればその由緒詳かならず。伝ふる所に依れば、名門出身紀伊國熊野神社の神官故ありて諸国遍歴の砌当地に足を止め居を定め、祭神を奉祀したるに始まると云う。古来熊野三社大権現と称したれども、明治2年六所神社と改称、同7年熊野神社と改め、同12年村社に列せらる8:49旧東海道(国道257号線)沿いに『領地境界の標柱』江戸時代、宝永2年(1702)に高塚(当時は高塚村)は堀江領になったが、増楽(増楽村)以東は浜松領であった。これはその領地の境を示すために建てられた標柱である。かつてはここより西側にあったようだが、国道拡幅により現在の地になった。堀江領側にも傍示石と称する境界の標柱があったようである8:58麦飯長者跡昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がおり、明治維新(1868)のころまで、誰彼の区別なく、街道を行き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を食べさせ ていた。いつとなく、麦飯をくださる長者さまということで「麦飯長者」といわれるようになった。 五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が許され、村役人、庄屋を務めた。そのため、小野田家は代々、五郎兵衛を名乗ってその歴史を今に伝えている9:00さらに旧東海道(国道257号線)を進む。舞阪まで7kmの表示が先ほどの歩道橋の下、右手にあったのが『郷社 熊野神社』旧東海道から少し入った『郷社 熊野神社』所在地:静岡県浜松市南区高塚町4708当社は、後三条天皇の延久年間に創建されたと口伝され、紀州和歌山の熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられた。ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげた。その後「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出たが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えらる。 又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源) 高い墓を築いたと。大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚~高塚と呼ぶようになり、地名になったと伝えられる熊野神社の由来社殿社殿の横にある御神木雲竜椎(うんりゅうしい)樹齢500年(推定)位の椎で、当熊野神社の歴史をじっと見守ってきたとことが考えられます。丁度雲に坐って昇天する龍の面影を留め骨と皮で尚神殿をお守りする様相が偲ばれる処から、御神木として本年度より登記致しました 9:12熊野神社の入り口にある『源十道路』 この道路の名前の由来は、現在、道の東に住んでいる高橋登氏と西に住んでいる 高橋みち氏の「ひおじいさん」(三代前)の高橋源十氏の名前をもらって、名付けられたものといわれている。とあったが、歴史的な意味は??9:13高塚駅入口交差点の北側に位置する『高蔵寺』。 所在地:浜松市南区高塚町4706-5高蔵寺本堂。 臨済宗方広寺派の寺で扁額には山号の『如法山』 9:16旧東海道(国道257号線)の高塚駅入口交差点。この交差点を南方向に2kmほど進むと海岸に出る沿道に咲くスイレン9:27旧東海道(国道257号線)を進むと分岐点、旧東海道(県道316号線)は右側へ進む9:30分岐の中央にあったのが、東海道夢舞台道標『浜松市 篠原』。浜松宿 宿境まで一里十三町、舞阪宿 宿境まで一里十五町9:32国道257号線と別れて旧東海道(県道316号線)を進む。この辺りは東海道本線を右手にひたすら歩く9:35立場跡真新しい『立場跡』案内板。立場は、慶長六年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられました。 ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(1868)に明治天皇が御小休されたという記録「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。筋向かいには、道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。現在この辺りの字名は立場といいます9:37次に右手の『神明宮』を訪ねた格式ある「神明造り」の『拝殿』神明宮の由緒 当神社は、「伊勢神鳳抄」に記される。「篠原村神戸九町三反」に当たり建暦二年(1212)浜名湖中ノ島の小島神明島に鎮祀せられたが、地震津波等により永正年間(1504~12)に当地に遷座された。徳川幕府により御朱印五石を拝受、村民の崇敬を得て今日に至る。天正八年(1580)の棟札が現存9:44篠原一里塚跡篠原一里塚跡(日本橋より六十七里)徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・中山・北陸の三街道に方五間(五間四方)の一里塚を築くことを諸大名に命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎の街道の両側に一里塚が築かれました。 東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されています。左側とは南・右側とは北を指す。当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。我々は一日約20キロです!9:50両側に住宅街が続く旧東海道(県道316号線)。交通量が少ないので、おばあさんものんびり道を渡る。右側に『高札場跡』の札高札場跡。藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または目立つ場所に高札場を設けた。高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがあった。高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている9:50クレーン車で庭の手入れ9:55 道路脇に小さな社が。(この後も同じような社をいくつか見掛けた)9:56旧東海道(県道316号線)をひたすらゴールに向けて歩く旧東海道の県道316号線(舞阪竜洋線)、浜松市篠原町9:58長里橋を渡る。この辺りの民家の植木は槙、松が多く手入れが行き届いていた10:01前方右手に現れたのが『愛宕神社』旧東海道の右側に『愛宕神社』の石柱と石鳥居。所在地:静岡県浜松市西区坪井町1-6愛宕神社の由緒。当社の創立は文禄元壬辰年(1592)、坪井郷新田村開発当時に、氏神として京都愛宕神社から御分霊を奉斎し、慶長六辛丑年(1601)二月、徳川家康公が鷹狩りの折、御祈願をしたとの古老の言い伝えがあり、武将の崇敬が厚かった。坪井郷の内、新田の氏神として崇敬され由緒不詳ながら、神社宝物として棟札八枚が現存する10:02愛宕神社西側にある『臨済宗妙心寺派 愛宕山光雲寺』庭先の槇も見事に手入れがされていた10:08旧東海道(県道316号線)の「坪井町北交差点」坪井町北交差点に立つ『明治天皇御東幸野立所跡』。明治元年(1868)9月20日、明治天皇は岩倉具視以下三千余人を従え京都を出発し、二十三日間を懸けて東海道を下り東京へ進みました。行列は十月ニ日に、新居から舞坂へ船で渡り、坪井村の松並木の中のこの辺りで歩を止めて短い休憩(野立と言う)されました。 当日は今の暦では十一月十五日にあたり、記録によれば天気は快晴でした。 行列はこの先の篠原村立場本陣で小休され、浜松へ向かいました旧東海道と交差する県道65号線の「坪井町北交差点」10:10坪井町北交差点の右前方に「パークウッド ロクイチバーガー」。所在地:静岡県浜松市西区坪井町580 浜松宿から新居宿ー続く
2019.07.13
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延べ19日目の東海道53次。昨日に続いての弥次喜多道中です。二日連続で3万歩以上歩くのは今回が初めてであるため膝が心配。5/24(金) 4:49ホテルの11Fの部屋からの浜名湖に昇る日の出浜名湖には既に多くの漁船が4:50湖面も赤く染まり4:51富士山も見えるのか6:22ホテルの前からJR鷲津駅。六時半からホテルの朝食(無料)を食べる。昨夜は中国からの団体が宿泊、彼らの朝食が七時からのため早めに食べる6:52鷲津駅からの運賃表。浜松駅までは5個目で、320円『ようこそ「技術立国発祥の地」湖西市へ』が鷲津駅前に。 湖西市は豊田佐吉・喜一郎がうまれたまち。 豊田佐吉は豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業、トヨタグループの創始者である。 豊田喜一郎は豊田佐吉の長男でトヨタ自動車創業者。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)第二代社長、第二代社団法人自動車技術会会長などを歴任した。トヨタグループ創業者豊田佐吉の誕生120年を記念して、佐吉の誕生の地に1988年10月にオープンした『豊田佐吉記念館』がある7:087時4分発の興津行き電車に乗り浜松へ向かう。車窓からのサンマリンブリッジ(ボートレース浜名湖へ渡る)7:26今日歩く工程をわずか19分でJR浜松駅に到着7:28JR浜松駅北口へ降り立ち昨日は花は植えられていなかったが、きれいに飾られていた花壇歩道面に『出世街道』、私にとって訪れるのが遅かった!浜松市の「げすいどうマンホール」。 出世大名 家康くん と出世法師 直虎ちゃん7:38旧東海道へ向かって歩く、浜松駅を振り返る。右側の高架は東海道本線7:41国道257号線の成子交差点付近には『西番所』があったとのことであるが、石碑や案内板等は見つけることが出来なかった。旧東海道はここを斜め左方向に進む旧東海道(国道257号線)を歩く7:45東海道本線のガード下をくぐり西方向へ進む7:47浜松方面を振り返る、浜松アクトタワーが見える。左は東海道本線の高架、右に東海道新幹線の高架がある7:54旧東海道(国道257号線)を歩き、前方に東海道新幹線の高架。舞阪まで11kmの標示東海道新幹線の森田架動橋、東京から240粁721米の標示新幹線のガードを抜けると八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれる、まっすぐな道が八丁(約800m)程続く。松並木が続く美しい所だったのだそうだが現在は?8:01バス停「よろい橋」8:03堀留川に架かる鎧橋鎧橋(よろいばし)。平安時代末期(八百年~九百年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺(かもえじ)を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧(よろい)を着て、この橋の守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。 その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと 伝えられている鎧橋と書かれた木柱と堀留川8:07若林一里塚跡。 鎧橋の先の左側にある「若林一塚跡」ここは江戸より六十六里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁縄手)、榎は街道を行く旅人の道標でした8:10旧東海道(国道257号線)の「東若林交差点」先の両側にあったのが『二つ御堂』。右手にあったのが二つ御堂の内の北堂・『阿弥陀堂』。堂は愛妾が秀衡が京で病気の為亡くなったとの誤報を受けて建立したもので、境内には二つ御堂解説と馬頭観音・弘法大師像・高札場跡標柱が建っており、御堂の西側には秀衡の松がある。現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が祭られている南堂は、昭和12年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている奥州平泉の藤原秀衡公と、その愛妾によって天治年間(112年頃)創建されたと伝えられている。京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。毎年十二月十四日、供養が行われている二つ御堂、高札場跡、馬場観音の案内板が並んでいた。北堂・『阿弥陀堂』の横にあったのが『村社 八幡神社』の石柱 高札場跡。この付近に柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。 村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。 明治三年(1870)ごろ廃止されました。 馬頭観音。宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした三面八臂の観世音菩薩である。交通運搬、農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して、江戸時代の庶民の信仰を集めた村社 八幡神社の鳥居。所在地:静岡県浜松市南区東若林町ご祭神は品陀和気命(応神天皇)松に囲まれた拝殿8:15道路を渡り、南堂・『薬師堂』、左には『明治天皇御野立所記念碑』が北堂・『阿弥陀堂』阿弥陀堂の扁額8:18丸亀製麺 浜松東若松店所在地:静岡県浜松市南区東若松町1220-1開店前で店内には、純正小麦粉の袋メニュー8:20旧東海道(国道257号線)を進む。二日連続の道中だがどうにか右膝は・・・・・8:23街道脇には『名残松』。 街道の左側に東海道の松並木標柱があり、前後にまばらに『名残松』が立っている。 写真は、振り返って撮影したもの8:25旧東海道(国道257号線)の前方に浜松市若林町の歩道橋、舞阪まで9㎞の標示8:26旧東海道の右手には『可美小学校跡』の木柱。 可美市民サービスセンターの場所が可美小学校の旧地 『天皇皇后両陛下行幸啓記念』碑も8:33可美小学校東交差点8:38旧東海道(国道257号線)沿いの入り口に『みたらしの池』の木柱と案内板。手入れされた槇の木の生垣の奥に忠魂碑みたらしの池水神様をおまつりした人工の池が、現在の可美小学校が建設される昭和22年(1947)1月ごろまで、「みたらしの池」といわれ可美小学校の運動場の南西のあたりにあった。池が埋め立てられてしまったので、たいへん信心深い、土地持ちの丸山森三郎氏が、新しく水神様をおまつりする池を現在の不動尊(威徳寺)の南側に造った。しかし、現在はその池も埋め立てられてしまい、今ではその面影はない。 当時、可美小学校の校内運動会の時に雨が降ると、みたらしの池を埋めたせいなどともいわれたみたらしの池のすぐ先にある「諏訪神社」所在地:静岡県浜松市若林町諏訪神社(旧名諏訪明神)。 若林町西端に鎮座する諏訪神社。大永4年(1524)内田六郎兵衛なる者が、長野・上諏訪社より勧請して建立、明治中期頃まで内田家が代々神主を務めた。 当初の社名は諏訪明神8:39境内の鳥居 浜松宿から新居宿ー続く
2019.07.12
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毎日梅雨空ですっきりしませんが。最近よく道端で見かける『アガパンサス』単子葉植物の属の一つで、南アフリカ原産。日本では園芸用に球根が販売されている梅雨時期から夏にかけて花開くアガパンサスは、青紫色や白の清涼感ある花色が印象的な植物である玄関先で咲くアサガオ7/7(日) 雑草との戦いbeforeafterかぼちゃも順調に育ち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浜松宿まで歩いた後、浜松市の中田島砂丘を訪れ鷲津駅前のホテルヘ向かう。5/23(木) 14:50JR浜松駅北口と浜松アクトタワー明日の朝、湖西市のJR鷲津駅からここまで来るので路線を確認。JR鷲津駅までは5個目で、320円駅の中央通路には、『リニア中央新幹線の開業に向けて』のパネル展示が。 品川から名古屋まで最速40分と。しかし、未だ名古屋以降のルートは未決定リニアは浜松を走らないが経済効果があるのか14:58花を植付前の花壇翌日の24日(金) 7:30撮影昨日の夕方に植えつけたのかきれいになっていた15:00今朝6時半にここ浜松駅から出発、磐田駅から昼食もとらず8時間半ひたすら歩いた15:10 浜松駅南の駐車場へ、ここまで今日の歩行数は、35,123歩。24時間契約の駐車場から車を受け取り、時間が早かったので「中田島砂丘」へ向かう。15:31浜松市内の遠州灘に面した『中田島砂丘』を訪ねた。 馬込川河口にある『風車公園』の無料駐車場に車を駐める。所在地:静岡県浜松市南区中田島町1313新・浜松の自然100選『遠州灘海浜公園』浜松のロケ地、人気ナンバーワン『中田島砂丘』砂漠や荒野にも見える広大な砂丘の向こうには大海原が広がっています。映画、ドラマ、CM、PV、写真集など多ジャンルの撮影が行われる観光スポットそしてこの『中田島砂丘』は、夏にはアカウミガメが産卵のために上陸すると。 産んだ卵は囲いに入れられ、孵化したら人によって放流されるのだと。 およそ『中田島砂丘』12kmが文化財(天然記念物)に指定されているのだ。また砂丘という環境からハマヒルガオやコウボウムギといった海浜植物が多く見られる疲れた膝を励ましながら砂丘を上っていくが、途中でカメラの電池がなくなり急遽、駐車場まで戻ることに。中田島砂丘は、東西4km、南北600mにわたり日本三大砂丘のひとつである。ネットで調べると、日本三大砂丘の明確な決まりごとはないが、条件が必要と、その条件としては、①砂丘の姿を維持していること ②誰でも見ることができる。その条件を考えると 1,鳥取県の「鳥取砂丘」・・・・最も有名 2,鹿児島県の「吹上砂丘」・・・砂で作った雄大な芸術作品を楽しめる 3,静岡県の「中田島砂丘」・・・砂で描かれた「風紋」、アオウミガメの産卵地砂丘の頂上に立つ弥次さん15:51砂丘の頂上に上り、浜松市街地を望む。ここ中田島砂丘には、写真のごとく『堆砂垣(タイサガキ)』と呼ばれる施設があった。これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設であり、これが砂に埋まりそうになった時は上部に増やしていく。この堆砂垣は近隣の静岡県立浜松江之島高等学校や、市内の郵便局、ボランティア団体等が毎年設置していると浜松アクトタワーがそびえる遠州灘の東方向に『浜松市 南部清掃工場』。砂丘頂上から海岸までは行かずこの上で引返す西方向砂丘を越えるとどこまでも続く太平洋が広がり、水平線に沈む夕陽はカメラマンのビューポイントである再度、市街地を望む、二時の方向に駐車場がある 遠州灘から吹く強い風によって生み出される「風紋」は一見の価値ありと 中田島砂丘は、遠州灘に沿っている砂丘であり、砂に描かれる「風紋」の美しさで知られている場所とのこと連続するやわらかな曲線は、まさに風の芸術である砂丘から駐車場へ引き返す16:02駐車場の奥に回転はしていなかったが、大きな風車中島田砂丘から明日歩くであろう旧東海道を車で走り、今夜の宿泊地のJR鷲津駅前のホテル「くれたけイン浜名湖」へ向かった。17:15くれたけイン浜名湖。所在地:静岡県湖西市鷲津1266-1今夜もツインルームへ宿泊だが、部屋は狭かった。車は明日の夕方に受け取るが、それまでの駐車料金は無料とのことで助かる。ホテルの部屋から浜名湖を望む、下はJR鷲津駅18:12宿泊したしたホテル。今日は??回目の我が誕生日であるので祝いを兼ねて夕食に出かける18:30駅前の居酒屋『浜焼太郎 浜名湖店』へ入る。所在地:静岡県湖西市鷲津5353 アネストこでまり1F tel:053-569-1293この日は料理&ホールを、女店長?の「はなさん」が一人で切り盛りテーブルの上にはコンロがあり、魚貝類を焼いて食べる。ビール飲み放題が\1000?があったが、発泡酒とのことで酎ハイに店内の天井は簡易な構造、天井裏のダクトも見れシンプルだ店長のはなさんと記念写真(網掛けしなくてもOKと言われたが)誕生日を祝って「太郎レモンサワー」を一杯サービス願ったイカの丸焼き ¥490 をオーダー弥次さんはラインでの連絡に夢中だ!イカは焼いた後、トングとはさみで切る。この後、店長にカットしてもらう20:05仕上げは「ミニ浜焼海鮮丼」 ¥59020:20食事を終え店先で記念写真20:23一人で切り盛りする女店長さん「がんばって!」今日一日の歩行数は、38,397歩。明日は、JR鷲津駅から浜松駅へ戻り、浜松宿から新居宿を目指して歩くが、二日連続の道中は足腰が大丈夫か心配。 見付宿から浜松宿ーEND
2019.07.11
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浜松城から降り立ち、今日のゴール点のJR浜松駅へ向かう5/23(木) 13:28 浜松城の天守閣と天守門(右側)13:37国道152号線沿いにある「浜松城大手門跡」この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。 南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺きの建物で、つねに武器を備え、出入が厳しく取り締られていました13:39連尺交差点を過ぎ国道257号線に「高札場跡」この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。 城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を 高札とか制札といいます13:41佐藤本陣跡。大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松の本陣6ヶ所の内のひとつ、佐藤家の本陣跡で。 建坪がおよそ225坪(約745㎡)ありました佐藤本陣跡の直ぐ先にあったのが『江馬殿小路跡』江馬殿小路跡の説明板。 今の連尺町・伝馬町・肴町の町境にあった小路で、幅は一間半(約2.7m)あった。 肴町に魚市場があった頃は大八車の往来が盛んで、両側には飲食店を扱う店があり、一名”うまいもの小路”ともいわれていた。 映画監督木下恵介氏の生家尾張屋もこの小路中程の南側にあった 古文書「曳駒拾遺」によると、飯尾豊前守連龍が曳馬城にて浜松を治めていた永禄の頃、家老の一人江馬安芸守泰顕の屋敷が今の五社小路の下あたりにあったことから、この屋敷の脇道を江馬殿小路と呼ぶようになったという。また、江馬殿小路は俗称沼殿小路とも呼ばれた。終戦後の区画整理で住宅が南によったためになくなってしまったが、ここにあった老舗の中で肴町の桝形、弁いち、伝馬町の柳川亭、千歳町の井口堂、高町の久の秀などは今も伝統の味を伝えている 国道257号線の「伝馬町交差点」13:45伝馬町交差点に「川口本陣跡」大名・公家・幕府高官など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも新しくできた川口家の本陣跡で、建坪は163坪(約540㎡)あったといいます13:46浜松信用金庫伝馬町支店前にあったのが『杉浦本陣跡』。 杉浦家は元亀元年(1570)家康入城と共に名主役に、慶長6年(1601)伝馬制が定められた時、問屋役を命じられた。室町後期から続く古い家柄杉浦本陣跡。大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。 ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡です。 建坪がおよそ272坪(約900㎡)ありましたこの後、伝馬町交差点を西に向かう13:53右手にあったのが『金山神社』所在地:静岡県浜松市中区栄町金山神社 沿革。 美濃の南宮大社は記紀時代よりなる、重要文化財にもなっている有名な神社で、御祭神の金山彦神・金山姫神は 鉱山の神様。鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神である。当然この金山神社の御祭神も同じ金山彦神・金山姫神である 13:55道路の反対側に白き建物がの『木下惠介記念館』所在地:静岡県浜松市中区栄町3-1木下惠介が浜松市出身の映画監督であることから、同市に設置されている。記念館は、浜松市指定有形文化財「旧浜松銀行協会」に設置されている13:58浜松市公会堂・児童会館跡浜松市公会堂は、昭和2年2月に完成しました。五角形の屋根や4本の巨大な円柱を正面に配した独創的な建物でした。昭和20年6月の戦災後復旧され浜松唯一のホールとして市民に親しまれました。昭和37年児童会館として改装されましたが、老朽化により昭和61年3月閉館に至りました。建設以来57年間にわたり、浜松の文化の殿堂として大きな役割を果たしました14:00五社神社・諏訪神社。所在地:静岡県浜松市中区利町302-5隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社とが、昭和35年(1960)に法人格を一つとして五社神社・諏訪神社と称したものである。合併の後に神社本庁の別表神社に加列された。現社殿は昭和57年(1982)の再建である。両社ともに徳川秀忠の産土神とされたことから、子守り、子育ての神として人々の崇敬を集めていると五社神社。曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。 後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(1579)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(1580)遷座す。 寛永11年(1634)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(1641)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。 諏訪神社 延暦10年(791)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。・・・・・・光海霊神(うなでりのみたま)の碑賀茂真淵大人がその師、五社神社神主森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。森暉昌大人は諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。この碑は明和4年5月建立せらる。惜しむらくは、昭和20年6月18日戦火により上部損壊せしも、真淵大人の本意はここに歴然として存す拝殿。 五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。 後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した慶長15年(1610)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634)の家光上洛の際、 東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。明治6年(1873)に県社に列格した。 かつての社殿は寛永18年(1641)に家光の命で再建されたもので、大正3年(1914)に 特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年(1945) 6月18日に第二次世界大戦の戦災(浜松空襲)により全焼した。 焼失した社殿は、拝殿・石の間・本殿が一体となった権現造であった拝殿前から、狛犬私は昭和??年生まれのため「平成31年八方塞」社務所と鳥居弥次さんが御朱印を頂く令和元年五月二十三日 この日は私の誕生日だ!14:11五社神社・諏訪神社の斜め前に『浜松復興紀念館』。浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶはげしい空襲を受け、 市街地の大部分が焦土と化しました。 戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業も、昭和58年3月中央工区の換地処分を 最後に長期間にわたる事業が終了いたしました。 浜松復興記念館は、この事業の完成を記念して昭和63年に開館しました14:16国道257号線に戻り川口本陣跡の対角線方向、伝馬町交差点の角には『梅屋本陣跡』。立て札、本陣跡の石柱は移動されたのか基礎が出ていた梅屋本陣跡。大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松六本陣の内梅屋家の本陣跡で、建坪は180坪(約600㎡)でした。国学者賀茂真淵(本名庄助)は梅屋敷の婿養子でしたJR浜松駅まで、650m14:17旧東海道(国道257号線)の、舞阪方面。明日はこの方向へ歩くのだ井伊直虎は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候14:22暑かったので、ザザシティ浜松の隣のトルコサンドウィッチ「ケバブ」の専門店『Mega Kebab』で一休み店内のケバブ伸び~~る伸び~~るトルコアイスクリームを楽しむ14:44JR浜松駅に着き「浜松アクトタワー」が大きく見える浜松駅北口前をエスカレーターで地下に降りると、階段の左:西側は、滝と噴水のあるサンクンガーデンになっていたエスカレーターで地下へ蓮田修吾郎(金沢/1915-2010)作の巨大なモニュメント『伸びゆく浜松』時間的に人が少なかったが浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」のモザイカルチャーのある噴水前14:50JR浜松駅浜松駅前のビジネスホテルに宿泊して、今朝6:39の電車で見付宿の磐田駅へ向かい7時前に歩き始め、天竜川を渡りひたすら歩いて浜松駅へようやく到着した。今日のここまでの歩行数は、約35,000歩でした。このあと、愛車に乗り浜松市の「中田島砂丘」を訪れ、今夜の宿泊地湖西市のJR鷲津駅前の「くれたけイン浜名湖」へ向かった。明日の朝は、JR鷲津駅からここまで電車で! 見付宿から浜松宿ーEND
2019.07.10
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馬込川に架かる馬込橋を渡り浜松宿へ入る。浜松宿は日本橋から数えて29番目の宿場。5/23(木) 12:30 ビルの間にあったのが『新組 新町屋台置場』。 浜松まつりで引き回される御殿屋台の倉庫であろう夢告地蔵の堂。 TBSの日曜ドラマ「仁」にも登場した、安政5年のコレラの大流行で死んだ人たちを 供養するために建立された地蔵尊で遺族の香華が絶えなかったというこの地蔵様は江戸時代末期のものだが、廃仏毀釈で地中に埋められてしまった。 ところが「助けてー、助けてー」と町民の夢枕に。 かわいそうにと掘り起こされてこの地に安置されたのだと12:34旧東海道(国道152号線)を進む旧東海道(国道152号線)の板屋町交差点、左折するとJR浜松駅12:38右の高架は遠州電車12:41旧東海道を右折して路地を進む。 そして右手にあったのが『徳川家康家臣 本多忠勝屋敷推定地』。 『稲荷通り』と書かれた石柱も本田忠勝(天文十七年~慶長十五年 1548~1610)は酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王。江戸時代に編纂された「曳駒拾遺」に「本多平八郎忠勝は分器稲荷社の西の家也と云へり」と記されているその先にあった『遠江分器稲荷神社』に立ち寄る永禄禄11年(1568)創建と伝えられている。旧境内850坪余り。 分器宇賀大神とも号し約1500年前、22代清寧天皇の御代に天竜河原開墾の為、鎮座。 徳川家康公が三河から浜松に入った時に倉稲魂神を祭神として社が構えられたという説や、昔この辺りが伊勢神宮の神領であった頃に創建され、坂上田村麻呂が東征の際勝利を祈願したとの説も伝わっているそう。 明治7年には三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年に再興が許されています。戦火前の社殿は徳川家康公の命により慶長9年(1604)に建てられましたが昭和20年6月18日の空襲で消失しました。現在の社殿は戦後に再建されたもの。 浜松まつりの田町の凧絵柄は、分器稲荷の神紋である宝珠から生まれたものなのだそうです遠江分器稲荷神社拝殿12:48池町交差点を右折12:52霜垂口(しもだれくち、下垂口)。古城(引間城)の東側の城門でしたが、浜松城の増築以後も浜松城の北東の城門として維持されてきました。浜松城の天守台の向きからも、当初はこちら側が城の正面にあたっていたと想像されます。なお、道路の食い違いは、浜松城下で唯一現存する貴重な防御上の遺構です12:54前方に『浜松城の天守閣』が姿を現したが、疲れたのかカメラも傾き12:55東照宮の鳥居と社殿をズームで。境内には徳川家康・豊臣秀吉の像がある道路脇に「家康の散歩道」13:00国道152号線を歩き市役所手前で右折して緩い坂を上り「浜松城公園ご案内」浜松城は二度目の訪問鉄門(くろがねもん) 浜松城の要となる門。鉄門は、文字通り扉や柱などの門の一部に鉄製の部材を使っていた門であったと考えられます。本丸への正面出入口として重要な門であり、天守門と同様に門の上部に櫓を有する櫓門でした。江戸時代前半の絵図(左上)には、門の内側に枡形(四角形)の虎口(侵攻してきた敵を前後左右から攻撃できるようにした空間)が描かれ、高い防御機能を持っていたことがうかがえます。明治5年(1872)まで鉄門は存在していましたが、その後の払い下げ等により失われています。なお、鉄門の推定位置については、東側の歩道路面にあるプレートにより確認する事ができます若き日の徳川家康公の銅像天守門へ登る。 浜松城の中枢にあたる天守曲輪(てんしゅくるわ)の入口に建つ天守門は明治6年 (1873)に解体されましたが 市により 櫓が載る建物である天守門の再建を行い2013〜2014年に掛けて天守門が原位置に復元されています門脇の鏡石。天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられている。 この巨石を鏡石と呼ぶことがある。かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。巨石を用いた部分は算木積(石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。 また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある門下の排水溝。平成21年度からの発掘調査で、門下に瓦を用いた排水溝が発見された。 丸瓦を使用して排水溝を狭くしている部分があることから、かつて礎石が存在していた時点には、排水溝が造られていたと考えられる。土層断面から、瓦の排水溝埋没後に礎石の抜き取りがあったことがうかがえる。 排水溝は西側の雨落溝から屈曲し、南側の石垣に沿って配列されている。 排水溝に使用された瓦は、江戸前期までの古い特徴をもつもので構成されているが、 この排水溝がいつの時代に造られたものかは、正確には特定できていない 天守門の礎石。浜松市では平成21年度から天守門跡の発掘調査を行い、建物の痕跡を確認した。安政元年(1854)浜松城絵図の天守門が描かれている場所からは、長軸1.0〜1.4m、 短軸0.9〜0.7mほどの扁平な礎石が4箇所と、礎石の抜取穴2箇所が発見され、門柱の配置や門扉の大きさが確認された。 また、建物の屋根瓦や鯱瓦(しゃちがわら)の一部、土塀の瓦も多数確認された。 門の両脇の石垣上部からは、壁から剥がれ落ちた漆喰の痕跡も見つかっており、 江戸時代の天守門の姿を明らかにする際の参考にした。 礎石に載る門柱6本は、不整形な両脇の石垣の開きに沿うように配置される。 このような柱の配置は、桃山時代から江戸時代初期の櫓門にみられることから、 天守門は、幕末まで古式な城門の特徴を継承していたことがわかる。 天守門の復元工事では、本来の礎石配置を忠実に再現し、地下の礎石のほぼ真上に、 新しい礎石と門柱を配置した。 石は築城時の石垣に用いられたものと同じ浜名湖北部産の珪岩(けいがん)である浜松城跡。浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。東西600m南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。 ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。 石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている浜松城の石垣(野面(のずら)積み)。浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、400年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。 この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596~1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1~1.5mほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。 石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。 浜松城は、特に天守台と天守門趾付近の石組みが硬く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。 石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが 見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の 湖西市知波田付近で切り出され、左鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。 この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、 二代城主堀尾吉晴の頃(1590年)と考えられていますこれは、約400年前の築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。登ったり、石を引き抜くことは絶対にしないで下さい天守台。浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、 現在は復興天守閣への入口として利用されている。 浜松城の天守は第二代城主堀尾吉春の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。昭和33年(1958)に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。 かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる天守前広場にある「井戸」この井戸は銀明水と呼ばれていたという。 浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は、天守閣の地下室にある。直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない浜松城は徳川家康公が29歳から17年間も在城していた城。後には、この浜松城主になることが幕閣への登竜門とさえ言われていたとされており別名出世城と呼ばれる。天守閣は三層四階構造で、昭和33年の再建である天守曲輪。曲輪というのは、城や砦を石や土で囲んだ所をいう。ここは丘陵の西のはしの最も高い所にあり北東と南東の方向にはり出した菱型(東西56m・南北68m)に近い形をしている。 周囲は低い土塁(土でつくったへい)があり、その下に石垣をめぐらしている。 東に天守門、西に埋門(うずみもん)があり、内部は広場となっていた 天守門。 浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。 絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる天守閣と天守門天守閣への入場は有料であったが、70歳以上無料スタンプは天守閣内にあり、入城して続日本百名城のスタンプを頂く八幡台。 天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高く、面積はおよそ40㎡(12坪)あり、浜松城の中で最も高い所(419.9m)であります。 城を守る神社(多分、八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれてます。 八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された 天守閣と天守門を見上げる二の丸。本丸の東に位置して土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治をおこなう政庁であり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ5,000㎡(1,500坪)、主な建物は表御殿(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり多くの部屋があった。現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている本 丸。天守閣が城の象徴なら、本丸は本拠。普通の城は天守閣を囲むように本丸が配置されているが、浜松城は、斜面を階段のように利用したため、天守閣と本丸が東西に線上に並んでいる。本丸は、天守閣の東、天守台より約17m下に設けられた。南面に鉄門がある。ここには富士見櫓と菱櫓があり、鉄門の西の石垣には多門が設けられ厳重な構えになっていた家康在城時の浜松城Ⅲ。家康在城期の浜松城は、石垣や瓦葺き建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと考えられています。イメージでは・・・・・・・浜松城公園の本丸南広場より浜松城の勇姿を見るズームアップ13:28鎧掛松。元亀3年(1572)家康が三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、この名が付けられました。 この松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.09
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浜松宿の東番所は馬込橋に、西番所は西成子坂にあり、両番所間の街並みの長さは23町15間あまり(約2.5km)だった。本陣六軒は箱根宿と並び東海道の宿のなかで一番多い。宿場の通りは荷車がすれ違えないほど人通りが多かった。家康が兵糧とした塩辛納豆の「遠州浜納豆」が名物。妙恩寺から旧東海道(県道312号線)に戻り。5/23(木) 11:00 次に『法橋のマツ』を訪ねた。所在地:静岡県浜松市東区天竜川町321この松は、天竜川町日蓮宗妙恩寺の開基 金原法橋(左近将監)遺愛の松で、 広大なその前庭にあったものであると伝えられている。 地上2mの幹廻りは約5m。 往時の枝張は東南より西北まで約18m、東西約12mである。 樹高はおよそ14mである。樹齢は700年以上といわれている樹齢が700年以上のため添木も幹の枯れた所には養生も。『金原法橋庭前之松』と刻まれた石碑いつまでも・・・・・・・と祈り、後にする11:04旧東海道へ戻ると足元に小さな『法橋の松』の案内板11:06またひたすら旧東海道(県道312号線)を西に歩く。浜松市街まではまだ4km街道にはタチアオイ(葵)の花が11:10和田町バス停11:13旧東海道(県道312号線)をさらに西に向けて歩く街道沿いに『東海道』と刻まれた石碑11:18旧東海道の右手に『浜松アリーナ』。 浜松アリーナは、各種スポーツ大会の会場、国際的な競技大会や各種文化イベントにも利用可能な多目的ホールである11:20更に旧東海道を進むと交差点右手前方に老舗の佇まいの建物が元祖 六軒京本舗。所在地:静岡県浜松市東区大浦町83-11 tel:053-461-3677 店のHPには 東海道は天竜川の渡しを西に越え、浜松宿に入る手前に、蒲畷(かんまなわて) 十六丁の松並木があり、この地を六軒といいました。幕末の頃この地に元祖京次郎の妻まつが茶店を出し、夏の副食品として紫蘇巻を作り売り出したところ、東海道を往来する旅人に大変喜ばれ、以来六軒京の紫蘇巻として当地の名物となるに至りました。現在は、紫蘇巻の他に小菊巻・銘茶・椎茸等の副食品を中心として、幅広く皆様から喜ばれますよう努力しております。と。 道路沿いの赤紫蘇色(あかじそいろ)の塀が和を感じる美しさであった。弥次さん、次回車で京へ上洛する時お土産に購入したいものですネ!11:26前方に「子安交差点」11:28子安交差点の手前を左手に折れ「子安神社」。所在地:静岡県浜松市東区子安町子安神社は、この地の庄屋伊藤家の祖先が、寛永12年(1635)浅間神社の分霊を祭り、 家の守護神としたことに始まるが、伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した 話が残されている。11:30旧東海道が国道152号線に合流する子安交差点の左側に、東海道夢舞台「植松原」。今日のここまでの歩行数は、21,300歩。 植松から永田(現浜松市東区和田町)にかけての旧東海道は蒲畷(カバナワテ、カンマナワテ) と呼ばれる松並木の畷道であったとのこと同交差点から振り返る。右側が旧東海道(県道312号線)旧東海道(国道152号線)を西に向かう11:35子安交差点から100m程先の、二級河川「芳川」芳川に架かる「琵琶橋」11:36國道擴幅記念の碑。この道は、美しい松並木の東海道でした。そして50年まえ、軽便鉄道が敷かれて8mの巾となった(明治41年)。そののち軽便はバスとかわり、日ましに激しくなる交通は道巾を狭くした(昭和12年)。いま、多くの人々の努力によって20mの國道一号線が完成した 昭和33年6月11:38旧東海道(国道152号線)を進むと、右手に『蒲神明宮(カバシンメイグウ)』の一の鳥居が。社殿はここから700m程先にあった。 蒲神明宮は、藤原鎌足の子孫である越後守藤原静並公が伊勢大神のご神託を受け、蒲の生い茂るこの地一帯を開発し、大同元年(806)この地に伊勢神宮の御神体を分霊して創建した浜松市最古の神社である。 境内には、厳島神社・五社稲荷神社・天王社など多くの境内社があると一の鳥居をくぐり県道312号線を渡り蒲神明宮へ進む。直進すると歩いてきた旧東海道の県道312号線へ11:40蒲神明宮へ向かうが700mもあるので途中で引返し「一の鳥居」へ戻る11:55旧東海道(国道152号線)に戻ると、前方に高層の『浜松アクトタワー』11:56臨済宗妙心寺派北野山 龍梅寺所在地:静岡県浜松市中区天神町3-43臨済宗妙心寺派北野山 龍梅禅寺と刻まれた寺標とその先に「山門」龍梅寺の創建年代は不詳であるが、承応年間(1652-54)に創建されたと言われ、境内には、焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという。 「焼餅地蔵菩薩」、東海道を通行中に急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘光の墓もあると。山門の扁額は「北野山」本堂内の扁額は「龍梅寺」焼餅地蔵菩薩12:10龍梅寺を旧東海道にでると右手に『浜松酒造㈱』があった(振り返った写真)。裏に工場があった。明治4年(1871年))、現在地で、中村家が酒造業を興した。 平成10年(1998)、南部杜氏で修行した増井美和が入社、平成21年(2009)浜松酒造で静岡県初の女性の杜氏が就任した。 平成27年(2015)経営権が中村家から戸塚家へ譲渡され、現在当主・戸塚敦雄が、 「出世城(しゅっせじょう)」、「葵御紋(あおいごもん)」ブランドの日本酒と、 銘柄「出世城」の焼酎を醸造販売する老舗酒造メーカーである。所在地:静岡県浜松市中区天神町3-57 tel:053-461-6145店先で酒樽を@500円で販売していた12:12旧東海道(国道152号線)の「天神町交差点」12:17さらに西方向へ進む12:19街道に咲くタチアオイ(葵)12:23浜松アクトタワーが旧東海道の左方向に見える浜松アクトタワーが左手方向に大きく見える。 案内板に『浜松城』まで2.2kmとの表示が12:24馬込川に架かる「馬込橋」二級河川 馬込川の上流側を見る12:26旧東海道(国道152号線)の『松江交差点』を渡る12:28JR浜松駅に近くなり『浜松アクトタワー』が大きく見える 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.08
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旧東海道(県道314号線)を歩き西へ進む。浜松宿は、特に江戸初期の寛永年間(1624~1644)に藩主の高力忠房の時代に本格的な町割りが行われた。540軒の武家屋敷は浜松城周辺に配置され、町屋のうち、伝馬・人足を負担する御役町は東海道沿いに並べ、無役の職人町は東海道の裏側の脇通りに配置された。5/23(木) 9:42明善(アキヨシ)生家・記念館所在地:静岡県浜松市東区安間町1今日のここまでの歩行数は、14,200歩入館案内明善は明治時代に、私財をなげうって水害で悩む天竜川流域の治水に尽力した人物現在は、一般財団法人『金原治山治水財団』が明善記念館を運営している。名善から5代目の方が館長で丁寧に説明してもらった館内では金原明善の遺品や資料を展示し、彼の業績を紹介していた金原 明善(天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)は、明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。明善記念館は、その偉業を顕彰するために、1960年、生家の前を通る旧東海道を隔てた南側に、建築家十代田三郎(そしろだ さぶろう:1894-1966)の設計で建てられたものです。記念館には、治山治水や植林事業で使った測量器具、地図、請願書、公文書私信、遺墨などが多数収蔵・展示され、当時の難事業の様子を知ることができます。展示室は1階と2階回廊部分に分かれ、1階には天竜川流域の治山治水、植林事業の計画書や申請書、実際に測量や植林に使用したさまざまな道具類や愛用したカバン、91才の最後の山林視察で使った籠などを見ることができた。2階の回廊には、親交のあった多くの著名人からの手紙や、明善直筆の遺墨などが展示されていた弥次さんも座敷に座り約10分間ビデオ鑑賞記念館内の大きな和室には、名善自筆の屏風、豊富な資料が所狭しと展示明治10年、昭憲皇太后に拝謁し歌を賜ったと。 昭憲皇太后の紹介文も昭和の天竜川橋(鉄橋)懐かしい井戸、消防車の姿も10:10約30分ほどの滞在であったが明治の偉人『金原明善』を知ることができた時間でした10:13旧東海道(県道314号線)に戻り、本坂通りを西に向かう。右側に『本坂通(姫街道)安間起点』案内板がこの地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳来寺」と記された 道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。この道標は、 現在は百五十メートル西にある天竜公民館の敷地に移されている。 この起点の西には、江戸から六十四番目の東海道 安間一里塚 が東海道の両脇にあった。この一里塚 は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存しない。 「東海道宿村大概帳」には、安間新田地内 壱里塚 左右之塚共木立榎」と榎が 植えられていたことが記されている 10:15県道312号線と合流する交差点で振り返る。右側が旧東海道(県道314号線)左側は県道312号線で、旧東海道方面は案内板が、路面には木柱も10:16旧東海道の安間川(あんまがわ)に架かる『柏木橋』を渡り。高架は国道1号線と国道152号線の高架橋10:20前方の国道1号線(浜松バイパス)の下を潜る、昨日はここを車で走ったのか?10:21旧東海道(県道312号線)の松並木を進む10:23県道312号線の『東海道の松並木』。現在は道路の拡幅、沿線の開発などの事情で松並木は減少している旧萱場村から植松村まで、東海道筋のうち町家が並ぶ場所以外には、松並木が整備された。江戸時代を通じて、沿線の村々によって維持されていた薔薇も咲き、疲れた心を癒してくれる、江戸時代もそうであったのか10:25さらに進行方向左手のみに松並木が続く、昨日は車から見た感だが10:26立場跡。宿場と宿場の間に設置された休憩所、旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。多くの場合茶屋があって土地の名物を販売していた。ここは、見付宿と浜松宿の間に置かれた。藤棚があって旅人を楽しませたと伝わる立場跡を振り返る旧東海道(県道312号線)の前方に「天竜川駅入口交差点」が見えて来た10:34旧東海道(県道312号線)と県道296号線が交差する「天竜川駅入口交差点」。交差点の向かい側に、ここにも「六所神社」交差点の隅に『東海道案内板 ようこそ浜松「東区」へ』 『金原明善生家』『金原明供養塔』『法橋の松』『蒲新明宮』が紹介されていたJR天竜川駅は、ここから県道296号線を400m南下する六所神社。所在地:静岡県浜松市東区天竜川町18 浜松市内にはこの『六所神社』が20箇所以上あるのだと境内にあった『秋葉山常夜燈の建屋』正面に「社殿」六所神社の創建年代は、永禄年間(1558-69)であるが、その後、慶安元年(1648)に再建された境内には、「お宮の松」 と呼ばれる直径3m、樹高17m、推定樹齢260年前後の黒松があったが、昭和54年(1979)10月19日の台風20号による被害のため伐採されたと。 静岡県内には「お宮の松」 が熱海にもあったが10:43旧東海道から天竜川駅に向かって歩き、『妙恩寺』を訪ねた。 左手に『黨山草創六百年紀念』と刻まれた石碑と『山門』日蓮宗長光山 妙恩寺所在地:静岡県浜松市東区天竜川町179蓮宗の古刹。応長元年(1311)開創。東海道沿いの寺道に妙号石碑がある。かっては周辺まで塔頭(タッチュウ)寺院が並んでいた。今川家・武田信玄・徳川家康にかかわる寺宝がある。また、境内には、金原明善の供養塔などがある妙音寺由来。 妙恩寺は、鎌倉時代の応長元年(1311)日蓮大聖人の孫弟子日像菩薩を開山とし、 金原法橋左近将藍を開祖として出来た、遠州最初の法ヶ道場である。 妙恩寺には、三方原の戦いに負けた家康が逃げ込んできたという伝説がある。 境内には、清正堂・開山堂のほか金原善明の供養塔がある鐘楼と本堂本 堂清正堂(せいしょうどう)。 家康公お手植えの柘植の木が右手に妙恩寺の12代目の住職が加藤清正の子であった縁で、清正公が祀られている扁額の『清正公』10:50金原善明の供養塔。 金原明善は江戸時代の名主の家の出身であるが、金原氏は江戸時代以前はこの地の豪族であった。ここ妙恩寺は明善の先祖である金原左近将監、法号法橋が開基である 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.07
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新天竜川橋を渡りようやく浜松宿の中野町へ入る。浜松宿は古くは引馬の宿といい、天竜川の渡船場の宿として誕生したが、天竜川の川筋が東に移り、東海道の宿駅に変わった。江戸時代の浜松宿は、浜松藩五万石の浜松城下町のなかに包み込まれるように発展した。家康はじめ、初期の浜松城主は城下の町造りに力を注いだ。5/23(木) 9:03「東海道」江戸と京のどまんなか 浜松市東区 中野町マップ現在、浜松の東の玄関口となっている。ここ中野町は「天竜川」と「東海道」の交差点にあたります。江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ東海道五十三次は全長約500kmの道のりですが、中野町はそのちょうど中間点にあるところから、江戸と京都の真ん中の町「なかのまち」と名付けられたのです。この北に「池田の渡し」い、・・・・県道261号線に架かる『天竜川橋』を浜松市側から見る県道261号線の浜松方向9:06中野町マップに従い、堤防の下の砂利道を進む9:09六所神社所在地:静岡県浜松市東区中野町1423御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す。その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に遷座せし上下神社を合祀大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月社殿他皆改築す舟橋 木橋 跡江戸時代の天竜川には江戸防衛の理由から橋が架けられていませんでした。 東海道の往来は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。 明治元年、天皇御東幸の際には、舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられました。その後同7年には本流の舟橋と州の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成し、街道の往来は格段に便利になりました。 しかし舟橋は洪水により度々流されたので同9年に完全な木橋に架け替えられました。 この「天竜橋」は昭和8年に現在の鉄橋ができるまで使用されました六所神社の境内に入り。社殿には三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祀られている堤防上を走る県道314号線からかっての『天竜橋』があった方向の天竜川を見る堤防上の道・県道314号線の下流側。右側の木柱は「天竜川木橋跡」「舟橋跡」道路下に『明治大帝御聖蹟』明治天皇が明治11年11月1日に、北陸東海御巡幸の際、当所で御休憩された。御座所は金原明善の設立に係わる治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された。当時の建物は、明治25年10月焼失し建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した県道に上がり、天竜川の上流側を見る、トラス橋の天竜川橋看板には「これは川の水位を目で観測するための量水標です」と賀陽宮(カヤノミヤ)殿下参拝祈念』碑。 賀陽宮は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である 六所神社の前のT字路には様々な石碑、案内板が設置されていたここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。 十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわいの場とする人々で活気があふれていました足元にある標石は「道路元標」と呼ばれ、市町村の道路の起終点を示したものです。 大正九年施行の旧道路法により、各市町村に一箇所の設置が定められた。 ここにある「中ノ町道路元標」は中ノ町村の起点を示すもので、当時の規格に忠実に作らています。 市町村の数と同じ12,244基が設置されたが、全国に現存すものは1600基ほどと言われ、静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものですと9:17六所神社を背に、真っ直ぐ延びる旧東海道(県道314号線)を西に向かう民家の窓際に9:18振り返ると空き地に案内板が中野町銀行 跡。中野町は、江戸時代には東海道筋の川越しの集落として、多くの旅人たちで賑わいました。また、明治から大正時代には、天竜川の船運を利用した木材や鉱石の流通基地として隆盛を極めました。明治15年、この場所で「竜西社」が結成され2年後に「中野町銀行」が誕生した。 その後、西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収された。昭和49年まで建物があり、現在は地面に埋もれたレンガに、かすかに当時の面影を見ることができますと旧東海道(県道314号線)の右手に大きな『天竜川橋紀功碑』が天竜川橋紀功碑。 天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。 浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に船橋を架けて安全な渡河に 功績を残したほか、明治7年には船橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。石碑は明治27年に建てられた 9:20旧東海道(県道314号線)の左手に『伊豆石の蔵』この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵です。 江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていました。 伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われました。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えています。 この蔵の壁の石は、流れるような縞模様や海を思わせる緑色が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも大変秀逸で貴重なものです9:23さらに旧東海道(県道314号線)を進むと『東橋』と書かれた木柱のある交差点へ東橋跡。 かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。 明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。 この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです9:27さらに、旧東海道を西に向かって進むと『石垣清一郎 生家』の案内板が左手に。明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社「明星」に参加した浪漫派歌人で、「秋の風 都へ帰る学友の 待合室のトランクに吹く」の叙情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。清廉にして豪快、篤実な村長として人々に親しまれた。嵐山光三郎は昭和17年、中野町の石垣家に生まれ、清一郎より文学の薫陶を受けて少年時代をすごした。嵐山の作品には天龍川や清一郎がしばしば登場する。中野町は嵐山のワンダーランドなのである。 嵐山光三郎 記9:28軽便鉄道軌道跡旧東海道(県道314号線)を横切り、北方面へ進む軌道跡は現在は道路になっている。軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設されたと。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で、限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い。日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする。広義には軌間1067mm未満の森林鉄道・殖民軌道・鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる軽便鉄道は明治42年から、浜松~中野町の11駅間を走っていました。馬込川沿いの木戸から東海道の南側を走り、この地点で道を北側に横切り、道沿いの家屋の裏側を通って終点(今の中ノ町自治会館)へ着きました。「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車一輛を引いて、家並の軒先すれすれを、のんびり走っていました。 昭和3年以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年に廃線となるまで、沿線住民の足として愛されました『馬込川を渡る軽便鉄道』の往時の写真街道沿いに咲くカンゾウ。9:30そして右手に、白塀に囲まれた大きな寺院が姿を表した鶴翁山 松林寺。所在地:静岡県浜松市東区中野町331松林寺は奥山方広寺の開山である無文元選禅師(後醍醐天皇の息子)が天竜川に近い この地に足を運んだ折に、草庵を建てて禅師を迎えたとされ、その草庵がやがて松林寺になったといわれている臨済宗方広寺派の禅刹である。 寺は江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)と享保年間(1716〜1736年)の2度火災に遭い伽藍とともに古記録、古文書類が焼失したため正確な寺史は明らかではないが、 歴代の徳川家将軍から朱印を受けていたということである。 ご本尊は地蔵菩薩で、この他、薬師如来が祀られており、「寅薬師」として地域の人々の厚い信仰を受けている。ご利益は諸病全快である。 また、境内にある弁財天に手をあわせると商売繁盛、習い事の上達にご利益があるそうだ臨済宗方廣寺派に属する名刹で、 江戸時代には中ノ町村に属していた。 境内の薬師堂は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させたものと伝えられている。 この寺は、元禄、 享保の二度にわたって炎上してい るが、薬師堂は焼失をまぬがれて現在に至っているといわれている。 また、境内には奥山大権現や、「航空兵顕彰碑」なども所在する松林寺 山門山門の床には、かわいらしいお地蔵様が座り手水舎と本堂薬師堂(医王堂) ご本尊は薬師瑠璃光如来 その両脇には日光菩薩、月光菩薩 十二神将が祀られており一千余年前の名僧行基菩薩の御作といわれ心身の健康の守護のみ仏であり万病即快の現世利益の如来さまです。 徳川三代将軍家光公は時の浜松代官に命じて別堂(現在の薬師堂)を建立させ、代々の将軍自ら信仰し御朱印(ふち米・お守料)を授け遠州一円の住民の家内安全無病息災を祈願なさしめられた。 江戸時代に2回の火災に遭っているが薬師堂だけは焼失をまぬがれているのだと本堂と薬師堂(左側)庚申堂 十王堂合祀 庚申堂 十王堂。庚申様 昔村人の願いにより祖順和尚により建立(271年前)され病魔悪鬼を除き五穀豊穣を願う守護神とされている 十王像 閻魔様を中心として冥界にある亡者の罪業を裁断する十人の主であって、当山十三世乾堂和尚(143年前)により発願建立一般には木像が多いが当山は石像であり稀に見るあらたかな十王様である百度石の石柱半僧坊堂(右側)当山の鎮守様であり、方広寺の開山無文元選禅師が中国から帰国するとき、海がひどく荒れ無文元選禅師の乗った船を守護された神です。住民の厄難消除、海上安全、商売繁盛、所願成就の権現として霊験あらたかです旧東海道をはさんだ少林寺の向かい側に「かやんば高札場跡」9:39旧東海道を振り返る 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.06
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新天竜川橋より北側は、前日(5/22)に訪れておりましたのでその一部の写真を追加しております。5/22(水) 16:12池田の渡し歴史風景館。館内には、徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどが展示され、池田の渡船の歴史が入館無料で分かりやすく紹介されていた歴史風景館内に飾られていた。東海道五拾三次之内見付 天竜川図 歌川広重歌川広重 隷書東海道 「見附・天竜川渡舟」歌川広重 蔦屋版東海道「見附」16:17池田の渡し歴史風景館を後にし、天竜川に向かって歩く。天竜川堤防手前の道路角にあったのが『池田橋の跡』碑堤防下にあったのが『家康の天竜池田渡船場の許可証』堤防上の道路・県道343号線(上野部豊田竜洋線)に上がる。下流側には国道1号線(浜松バイパス)、その奥に県道261号線の天竜川橋天竜川の上流側には、東名高速道路。堤防下には、豊田池田の渡し公園天竜川の堤防下の遊歩道にある碑。『天竜川を上り下りした帆かけ舟』。江戸後期から明治に入り、渡船がなくなった後、帆掛け船等により、天衆側上流部へ生活物資(米など)を送り、上流部からは木材・鉱石(銅など)を陸揚げし、人車軌道(トロッコ)にて中泉駅(現磐田駅)まで運搬するための中継点として活躍しました。しかし、昭和になり、道路の整備やトラック運送が発達し、川にはダムが出来て、今までの船で物資を輸送することもなくなり、それと共に見かけなくなりました『有料だった池田橋』。 時代が江戸から明治へと変わり世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。旧豊田町でも天竜橋・池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋はこの付近にかけられました。 この橋は木橋で『橋銭』をとる有料橋であり、大人三銭、小人二銭でした。 昭和八年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより、廃止されました『江戸時代の天竜池田渡船』。 江戸時代に入ると、大きな川には政治的な理由等により、橋をかけませんでした。 渡船賃は、武士等の特別な人を除き一人当たり十二文かかったそうです。 天竜川は、渡船による川越でしたが、水位が七尺(約2.1m)を超えると川留になり、その間旅人で旅籠屋がにぎわったそうです16:22堤防下にあった「常夜燈」16:25再び行興寺16:27遍照山西法寺(ヘンジョウサンサイホウジ)跡ここには『遍照山西法寺』という寺院がありました。 西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232)に創立された真言寺院で、 本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。 真言宗は平安時代に空海(弘法大師)によって開かれたもので、遠州では袋井市の法多山、油山寺、磐田市の医王寺、浜北市の岩水寺、浜松市の鴨江寺、龍禅寺。三ヶ日町の摩訶耶寺などがあり、いずれも古い時代より続く大きな寺院です。 豊田町の寺院も多くは真言宗により創立されました。しかし、鎌倉時代に広がった新仏教は、奈良・平安時代以来の貴族中心の信仰から庶民信仰の仏教へと大きく変化し、その流れの中で、町内寺院もほとんどが曹洞宗と時宗に改宗されました。 江戸時代に書かれた『遠淡海地志(トウトウミチシ)』によれば、この時代の町内四二ヵ寺のうち、曹洞宗三九、時宗二で、真言宗は西法寺の一ヵ寺のみとなっています。おそらく、西法寺は、鎌倉時代に広がった庶民仏教とは一線を画し、武士層など比較的経済的に恵まれた人々の信仰を集めていた寺院だったのではないでしょうか、現在では、お寺は浜松市に移り、五戸の檀家衆のうち豊田町内三戸の檀家衆によって法灯が守られています最盛期の写真豊田熊野記念公園の藤棚記念公園内にある『磐田市熊野伝統芸能舘の能舞台』。 謡曲『熊野』は名高く、藤棚を借景とした屋外型の能楽堂。所在地:静岡県磐田市池田332-3大きな藤棚、古木と若木のフジ西法寺大師堂咲き終わったフジが花後は豆になり磐田市の下水マンホール。熊野の藤に因んだ、フジの花のデザインか16:42火の見櫓の前に『粒見堂観音』、脇の道を入ると『天白神社』へ粒見堂観音。 永享6年(1434)妙法寺二代目僧侶が天竜川に聖観観音の尊像が浮かぶ夢を見て、その通り尊像が発見されたという。当時の村人らが穀物(粒)の喜捨を乞い「粒見堂」を 建立した天白神社脇入口所在地:静岡県磐田市池田天白神社の石鳥居創建は孝謙天皇の御代勧請するとある。旧池田村は、古来三村(船方・地方・新屋)の三階級に分かれていたが、天白神社は池田村全部の鎮守であった。昔より祭典の余興として池田荘内の若者が集まり、天竜川を境にして東西に分かれ競技角力をした。これが喧嘩角力と言われて世に有名であり、その風習現在も祭典の式角力にとどめ毎年行われている。古文書に昔は池田宿大明神と呼ばれたともある天白神社の社殿16:49天竜川堤防の下に石碑が。 ここが『中の渡船場』だったようだ『天龍川渡船場跡碑』16:54常夜燈16:55国道一号線へ戻り浜松駅前のホテルへ向かうここからの写真は、5/23(木)です。8:42堤防に上がり、県道343号線(上野部豊田竜洋線)を歩くと前方に天竜川に架かる、県道261号線(磐田細江線)『天竜川橋』が見える県営事業の一つとして昭和8(1933)年6月に架けられた全長919.5m、幅員7.3mの ワーレントラス橋。道路橋としては日本で3番目に長いトラス橋であり、橋台の取り付け護岸は架設当時のままの石積が残っている。 現在の天竜川橋が架けられるよりずっと昔の明治7年(1874)、船を横に並べてつなぎ、 その上に板を渡して橋とした船橋が天竜川に架けられた。 その後、明治9年(1876)に全長646間(約1,175m)、幅員2間(約3.6m)の木橋が 賃取橋として架けられており、天竜川橋の前身となっている。 ワーレントラス橋とは橋桁にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋で、斜めに入れられた部材の向きが交互になっているものをいう8:46天竜川治水紀念公園。この公園は「あばれ天竜」といわれたように、しばしば氾濫をおこした天竜川の治水に貢献した多くの先覚の苦労を偲び、あわせて天竜川が平和な恵みの多い流れであることを祈って昭和40年に記念碑が建てられ、公園として整備された。その後、記念碑は平成14年国道一号新天竜川橋の架橋に伴いその姿を消したが、公園を再整備し、当時の関係市町村による天竜川治水の想いを継承するものである8:47左側の天竜川橋は昭和42年(1967)まで国道1号線として東西交通を支え、その後は県道261号線(磐田細江線)として、現在でも多くの人に利用されている。右側が国道一号線(浜松バイパス)で歩行者はこちらを渡る8:48国道一号線の新天竜川橋を渡り始める。諏訪湖を源に発し、佐久間ダムを経て遠州灘に注ぐ。天竜川の名は河畔にあった天竜寺から付けられたという。昔は別名「あばれ天竜」といい、たびたび洪水を起こしていた天竜川に架かる橋としては、最下流から6番目の位置にある。国道1号の新天竜川橋付近は近隣の地域でも屈指の渋滞ポイントであり、渋滞が慢性的に発生し、問題となっていた。また、新天竜川橋には歩道(自転車歩行者道)が無かったため、天竜川を横断するためには路側帯を通行するしかなく、非常に危険な状態であった。この2点の解消を主な目的として、新天竜川橋の拡幅工事が平成7年(1995)に開始された。総事業費は約460億円。平成7年(1995)より、従来の片側2車線の計4車線道路から片側4車線の計8車線道路への拡幅工事(新天拡幅)を行い、下り専用橋として供用を開始した。橋長は912 m8:49この日は風もなく、橋を渡るが、片側4車線の車道の橋は日本では珍しいのでは8:50はるか遠くに今日のゴール点近くの「浜松アクトタワー」が見える浜松アクトタワーをズームアップ。静岡県内で地上高のもっとも高いビルである「アクトタワー」を擁しており、外観は、音楽の町・浜松を意識して、ハーモニカをモチーフにしている。 地上高212.77m、地上45階、地下2階、塔屋1階の高層建築物で平成6年(1994)8月に開業した8:54県道261号線(磐田細江線)の天竜川橋JR東海道本線、その向こうに東海道新幹線8:55ここまでが、「磐田警察署管轄」の標識今日の歩行数はここまでで11,300歩。9:01日本橋から250km地点、ここは浜松市東区中野町。京まではようやく半分か?、しかしまだ静岡県内いつになったら愛知県下へ入るのか9:02新天竜川橋を渡り終え中野町へ 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.05
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万能橋から旧東海道(県道261号線)を天竜川に向って歩く。5/23(木) 7:46 旧東海道(県道261号線)の松並木を歩く7:47旧東海道の右側の小路に『宮之一色一里塚』復元された『宮之一色一里塚』江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになった。一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、江戸日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものである。当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます 7:50下万能バス停、磐田駅方面を振り返る7:54旧東海道(県道261号線)の前方左に「常夜灯」が『宮之一色秋葉山常夜燈』。この常夜燈(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政11年(1828)に建てられたものとわかりました。竜の彫り物があるので「竜燈」と呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるように格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。 毎年自治会の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇敬されています。旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯籠のある宮之一色へようこそ。よい日・よい旅を・・・7:58旧東海道から左折して『松向寺』を訪ねた曹洞宗 神宮山 松向山の『山門』。所在地:静岡県磐田市宮之一色413門前で土地の人としばし談笑、「旧東海道を歩いているのです」に対し「優雅ですね」と言われ、最後に「旅の安全を」松向寺は、元和5年(1619)の創建で、現在の本堂は元禄14年(1701)に建立された。 境内には子育地蔵尊・延命地蔵尊などがある8:05旧東海道に戻り浜松宿へ向かう。街道の右側に、『うなぎ 一心太助』の看板が。まだ時間も早く、一度は本場のうなぎ食べたいものですネ!所在地:静岡県磐田市宮之一色31-2 tel:0538-35-06048:08街道脇に案内碑旧東海道の名残り松8:10旧東海道(県道261号線)、磐田市森下にある歩道橋8:12旧東海道を数百メートル歩き森下の交差点へ。旧東海道はどちらへ行ったらよいのか、弥次さんのiPhoneを頼りに左側へ進む旧東海道は県道261号線から左側の「森下南交差点」を進む8:16案内碑と案内図案内板には「東海道と歴史の道ー森下起点案内」。 この道は昔の東海道です。ここから東の方を見ると、かつて この道沿いに植えられていた松並木の名残りがおわかりになるでしょう。磐田市ではここを起点に現在の県道413号一言坂付近までの約3キロの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつかのサインを設置しました。途中には江戸時代に東海道を旅する人たちの休憩地となった「一里塚」もあります。どうか、時間を超えて歴史の空気の中をゆっくり歩いて下さい案内碑には「藤と香りの道」「豊田駅」「宮之一色一里塚」8:18郷社 若宮八幡宮の石鳥居所在地:静岡県磐田市森下699境内にある土俵郷社 若宮八幡宮の駐車場へ境内に、「藤と香りの道」として「郷社ポケットパーク」の碑があり、下記の話が書かれていた。第三場(出会いの場)。熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕ぐれ、そばを通った若い侍がこの宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした参道左手の広場の小さな丘には『西之島学校跡』と刻まれた石碑。 明治3年(1870)西之島の豪農、熊谷三郎馬は静岡藩士大久保侗を招いて私塾を開いた。初めは自分の家で、次は近くの徳蔵寺、そして西之島学校へと発展した。 当時は授業料は受益者負担であった。「いい学校を作ろう」を合言葉にして「縄ない資金」を奨励し、寄付を願って森本の大工斎藤源平衛を東京、大阪へ派遣して学ばせ、洋風三階建の本館を建設した8:26郷社 若宮八幡宮から旧東海道に出ると3人ずれの男性三人と出会う。私と同じ本をもち京に向けて?今日はどこまで行くのであろうか?8:31三人ずれはひたすら旧東海道を歩いていた8:32東海道夢舞台道標『豊田町 長森立場』長森立場(たてば)。江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。 明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋をかね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。長森かうやく。「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。 山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ一・四メートル、幅七三センチメートル、厚さ三・五センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。 こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたとつたえられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。昔の歌に 「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」と詠まれています。右膝が痛いので購入したかったが今では製造していないとのこと、残念!豊田町 防火水槽マンホール8:37ここまでの道は弥次さんのiPhoneによる道案内でたどり継ぐ。天竜橋跡碑天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行をしていたが、明治六年(1873)架橋の第一段階として船橋の計画が中野町村側から出され、翌明治七年二月源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治九年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。全長六四六間(1163m)巾二間(3.6m)、天竜橋も池田橋と同じように長い間「はしぜに」を徴収していた。昭和八年、国道に現在の鉄橋が完成したので、池田橋とともに名物の木橋は廃止され、取り除かれた。この橋の位置を末長くとどめるため、昭和四十八年三月、教育委員会はこの碑を建てた。なお、天竜川船橋の記念碑は橋の西側の中野町に建てられているここからの写真は、昨日車で訪れた時の写真です。『熊野(ユヤ)の長藤』は、旧東海道から北側へ1.5km北上するので時間的制約があり、車で訪れた。5/22(水) 16:00~行興寺の駐車場に車を留め謡曲「熊野(ユヤ)」で有名な熊野御前(ユヤゴゼン)の墓がある『行興寺』入口。ここに国と県指定の天然記念物のフジが合わせて6本ある行興寺・熊野の長藤所在地:静岡県磐田市池田330本堂前から本堂脇の『熊野の墓』。謡曲「熊野」と行興寺の説明板向かって右:ゆやの母の墓(銀だみ石)、左:ゆやの墓(紫金石) 700年前のもの。熊野御前の墓に参拝した方は熊野が守本尊十一面観世音の妙智力をかりてその諸願望成就さすこと疑いなし。特に女人の病苦悩み赤白等の糸布は、願が叶った時お礼に奉納したものです県指定天然記念物 熊野の長藤(計5本) 指定:昭和47年9月26日指定 樹齢:約300年(推定) 樹勢:根廻 2.4m 樹高 2.5m特徴:花房の長さ 最長1.5m、平均90cm 花色:紫歌碑「天竜の 川風熊野の 藤揺らす ひろこ」生まれ故郷がここ池田である『大橋葉蘭』の句を刻んだ句碑が、熊野の藤の前に、高さ173㎝、幅100㎝で立つ国指定天然記念物の「熊野の藤 1本」は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて多支幹となっていた。 指定:昭和7年7月25日 樹齢:約850年(推定) 樹勢:根廻 2.9m 樹高 2.5m特徴:花房の長さ 最長1.5mにも及び、花の咲き終わった後に葉が繁るのが特徴根と苔のコラボ、管理が行き届いていた幹は根元より分かれて多支幹となっている 既に花も終わり、管理人が手入れをしていた満開時の熊野の藤満開時は藤棚の下で一、当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野御前の旧 跡であります。一、当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)、熊野御前とそ の母、侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。一、毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。一、境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房 五尺以上に垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年文化庁より「熊野の長藤」と して天然記念物に指定されました。見頃は、年により相違があるが平年四月下旬 から5月上旬であります。一、謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。熊野の長フジ 国指定天然記念物 一本 県指定天然記念物 五本 国指定は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれてニ支幹となっている。 根元で約1.8mもある。 本堂前の境内にある五本のフジは県指定であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。 花房が1m以上にも伸びて、紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終りごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する、親孝行で有名な美女である16:10行興寺を後にする。フジが咲く時期に来たいものです 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.04
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前日にJR浜松駅近くのホテルへ宿泊して、弥次さんと磐田市の見付宿から浜松宿を目指した。5/23(木) 6:03早朝のホテル部屋から南方面6:34当初8時ごろの電車に乗る予定であったが、暑くなるので早めにホテルを出発。JR浜松駅とアクトシティ浜松 アクトシティ浜松は市有施設と民有施設によって構成される複合施設群である。 2009年(平成21年)現在、静岡県内で地上高のもっとも高いビルであるアクトタワーを擁している。外観は、音楽の町・浜松を意識して、ハーモニカをモチーフにしている。地上高:212.77m、地上:45階、地下:2階、塔屋:1階の高層建築物で、1994年(平成6年)8月に開業した浜松駅新幹線改札口浜松駅 6:39発の興津行きに乗車して磐田駅へ向かう。6:46 天竜川を渡る6:53JR磐田駅に到着、4月9日以来の訪問である磐田市イメージキャラクターの『しっぺい』。平成23年に、磐田市を広くPRするためのイメージキャラクターを公募し、全国から 1,210点もの作品が集まり、その中から市内に伝わる霊犬伝説「悉平太郎(シッペイタロー)」をモチーフにした「しっぺい」が市のキャラクターに選ばれた6:55駅前ロータリーと磐田駅舎。ここから今日のゴール点『浜松宿」へ向けて出発6:58磐田駅北口にある『満徳寺』へ向かう。真宗大谷派(東本願寺)光恩寺 満徳寺所在地:静岡県磐田市中泉1-4-7鐘楼がある大門(二重門)の前に立つが、時間が早く扉は閉まっていた光恩寺 満徳寺の塀沿いに歩く満徳寺の近くにある『大乗院 三仭坊(ダイジョウイン ミヒロボウ)』へ向かう 7:00大乗院 三仭坊所在地:静岡県磐田市中泉1-10-6真言宗醍醐派の寺院で、また修験道(山伏)の祈祷道場でもある境内に入り石段の途中で咲いていた「ヤマボウシ(山法師、山帽子)」約220年前建築の『大乗院本堂(庚申堂)』。室町期の作と伝えられる本尊庚申様、脇仏として、役行者、理源大師、弘法大師などを安置している睡蓮の花が咲いていた境内の隅に植えられた『本家帰りの蘇鉄』寺伝によると家康公も戦勝祈願に訪れ、見事勝利をおさめた。喜ばれた家康公は、記念に自らの手で蘇鉄を二株境内に植樹された。昭和の時代、その二株の蘇鉄は当山より市に寄付され、市庁舎の西側に、もう一つは西小学校に植えられた。平成18年に都市計画による当山の境内竣工を記念に、市庁舎の蘇鉄の小株を譲り受けここに植えた。故に「本家帰りの蘇鉄」と呼ばれている7:10弘誓山 西願寺所在地:静岡県磐田市中泉250-1左の石柱は「弘誓山 西願寺」。右側は「真宗大谷派 東本願寺末」西願寺本堂弘誓山と書かれた扁額西願寺の山門旧中泉御殿 裏門 市指定文化財。西願寺の山門は、旧中泉御殿の裏門を移築したものである。旧中泉御殿は、徳川家康が浜松城市であった天正12年(1584)に現磐田駅南の地域に別荘として建築され、以後約30年間使用され、寛文年間に廃止された。この間、家康が鷹狩りを兼ねて休養に来磐している。後に主殿と裏門は西願寺に移され、主殿は本堂として使用されていたが改築され現存しない。平成17年11月21日、市指定文化財として指定されている山門前にある石碑7:13西願寺を後にする7:18中泉歴史公園所在地:静岡県磐田市中泉1335-167徳川家康と中泉御殿。徳川家康の鷹(たか)狩り好きは良く知られているが、JR磐田駅南側に「御殿遺跡公園」がある。天正15年(1587)年頃、家康は中泉府八幡宮神主の秋鹿(アイカ)氏から献上されたこの地に鷹狩りの際に使う中泉御殿を築いた。天正18年になると、家康は豊臣秀吉の命で関東への国替えとなるが、中泉の1千石は、その後も「在京賄料地」として安堵され同御殿も廃止をまぬがれた。本拠の江戸と大坂を結ぶ東海道のルートを、中泉御殿を経由するように変更。鷹狩りの休憩・宿所としての使用だけではなく、秀吉死後の関ケ原の戦いでは同御殿から出陣、大坂冬の陣でも軍議が開かれるなど、軍事的に活用されたことが指摘されている当該地は平成4、5年に発掘調査を実施し、大規模な堀と土塁が発見された。 古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地は、まさしく城郭構えであることが分かる。「御殿」は家康没後に廃止され、建物は近隣の寺院などに払い下げられた。 その表門が同市見付の西光寺に移築され、主殿と裏門は同市中泉の西願寺などに移築されたと。遠江国は幕府幕府直轄領となった。家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地には、「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所が造営されている 二代将軍 徳川秀忠公は、大阪冬の陣を終えて帰還する元和元年二月七日、此処秋鹿屋敷に本陣を置き父家康公と対面した場所7:19公園内には鮮やかな新緑が拡がっていた7:23旧東海道に戻り浜松宿に向かって歩くと「弘法大師堂」の石柱旧街道から北側に入ると小さな弘法大師堂広場の片隅に『お弘法さま』と刻まれた石碑7:26弘法大師堂跡は解体されたのか今は駐車場に?7:28旧街道に戻り進むと右手に『中泉交流センター』所在地:静岡県磐田市中泉2404-1旧街道沿いの交流センター前に立つ「大正時代の中泉」江戸時代の中泉絵図夢舞台東海道道標『磐田市 中泉』 豊田町まで 0.5km 見付宿 宿境まで 二十三町(2.5km)7:36旧東海道をさらに進む7:37旧東海道を歩き進むと、県道261号線との合流点に位置する『くろん坊様』、『大乗院坂界隈』くろん坊様。 黒坊大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約百米(現磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年11月3日が縁日とされています大乗院坂界隈。 旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。 大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、 この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。 磐田の「煉瓦発祥の地」である。この北側の道(細江線)は、開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。 昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。現在地の東20米の位置に推定樹齢約200年、樹高23米、目通周3.65米の黒松の「大松」があったが、昭和27年に伐採された7:38同場所から振り返る、右側が旧東海道、左が県道261号線(磐田細江線)7:39旧東海道(県道261号線)を進む、左手に「磐田化学工業㈱」7:40旧東海道の祝川に架かる『一言橋』を渡る。川を挟んで「磐田化学工業㈱」「高砂香料㈱」がある7:42旧街道の南側に高砂香料㈱7:43旧東海道(県道261号線)の万能橋交差点 見付宿から浜松宿ー続く
2019.07.03
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志太郡衙跡(しだぐんがあと)から、旧東海道(県道381号線)島田金谷線を走り浜松のホテルへ向かう。5/22(水) 13:04途中前回 3/27に見落とした記念プレートを確認に「JR六合駅」へ立ち寄る駅舎下に『クモヤ93000狭軌最高記録 175km/h達成プレート1960年11月21日 六合 ~ 藤枝間(上り線 202k547m ~ 203k877m)において175km/hの狭軌最高記録を達成した13:11県道381号線の島田金谷線を走る。前方に「大井神社」の道路標識、左折して600m13:16県道381号線の「大井川橋東」交差点13:26ここも前回(3/27)に訪れなかった『旧東海道 金谷宿 川越し場跡』所在地:静岡県島田市金谷東2丁目3482-7夢舞台東海道道標「金谷宿 八軒屋橋」。日坂宿 宿境まで 一里三十五町(7.9km)島田宿 宿境まで 十八町(2km)金谷宿 川越し場跡大井川の堤を望む新堀川に架かる「八軒屋橋」義人 仲田源蔵 経歴。源蔵は、天保12年(1841)醤油屋三代目として金谷宿八軒屋に生まれ、26歳で家督を継ぐ。明治3年(1870)5月に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、島田、金谷合せてで1200名の川越人足が失業し困窮を極め、見かねた源蔵は私財を投じて援助しますが限りがありました。・・・中略・・・・・・明治4年6月金谷方人足百人を率いて入植し、牧之原大茶園の基礎となった。その後、向坂弥平治(焼津)と大井川木橋の架橋に専念し、明治16年4月、全長720間(1300m)、巾2間(3.6m)の木橋を開通させた。明治22年2月、享年48歳で没し、丸尾原霊園に永眠する13:33ここに旧家 加藤家がありました。ここに平成16年まで江戸時代に建てられた加藤家が残っていました。地元ではしとみ戸などを含め昔の姿の復元をめざしています。 金谷・川越し・街道の会秋葉神社13:37大井川鐡道 大井川本線「新金谷駅」SLを運転して人気があるが、今日は水曜日で空席がある駅舎前に「SLポスト」改札の向こうにはトーマス号の絵駅舎横に花の終わった藤棚転車台のⅭ12新金谷駅改札から駅構内を東南へ約250メートル進むと、そこには平成23年(2011)に設置された転車台が。新金谷駅から出発したトーマス号やSLは、終点の千頭駅で方向転換をし、こちらに戻ります。 そして往復の運行を終えると次の出発に向け、ここでもくるっと方向転換。この日は、『C12164』が転車台にC12形タンク式蒸気機関車「Ⅽ12・164」 C12形タンク式蒸気機関車は、昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造されました。Ⅽ12・164は、昭和12年に日本車両で製造され、現役時代は岡山や長野を走行し、中央本線・木曽福島機関区で現役を退きました。昭和61年、現在の公益財団法人日本ナショナルトラストが鉄道車両を産業遺産と位置づけ、我が国初めて市民の募金により取得・修復を行い、昭和63年から、大井川鐡道にてトラストトレインとして大いに活躍しましたSL転車台完成記念の碑平成23年(2011)10月7日13:45新金谷駅構内のSL客車この後、続日本百名城に認定された『高天神城跡』を目指す。大井川鐡道の新金谷駅から、国道473号線を走りJR金谷駅前の坂を上る。13:52JR金谷駅から坂を上り、国道473号線沿いの食事処『多賀弥』。所在地:静岡県島田市金谷富士見町1703-1-3茶畑の下は金谷宿、遠くに大井川。天気がよいと富士山も見える絶景ポイント国道473号線、ここまでの途中に旧東海道石畳(金谷坂)があり、又、この坂を上ると牧之原台地には「静岡空港(富士山静岡空港)」がある大井川に架かる大井川橋も見える14:26高天神城址の案内板14:31標高132メートルの鶴翁山の北麓に到着。所在地:静岡県掛川市上土方嶺向 ここは高天神城の搦手側にあたり、ここから整備された登山道が山頂まで通じていた。鶴翁山の裾野に在った大きすぎる駐車場に車を駐め散策開始。 搦め手門跡には『高天神城想像図』が二つの峰を真ん中で繋いでいた。 「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。 戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた決戦場で、東海一の堅塁を誇った山城。標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。兵(つわもの)どもが夢の跡。 平成29年4月6日に「続日本100名城」に認定された『郷社高天神社(たかてんじんじゃ)』石碑。高天神社は、静岡県掛川市下土方嶺向にある神社。高天神山の山頂付近に立地する県の鳥 日本三名鳥史跡 高天神城跡へ登る『高天神社境内案内図』高天神保健休養林案内図。 高天神城は、東峰に本丸、西峰に西の丸(高天神社があります)があり、鞍部(中央の低い部分)に矩(かね)曲輪がある「一城別郭」「連郭式山城」急な石段を上って来ると『三ケ月井戸』の木碑が。パンフレットには『三日月井戸』とあるが?三日月井戸。城内に存在する二つの井戸のうちの一つ。礫層を浸み通って出た雨水がポタポタと滴り落ちて三日月に溜まったことからついた名称で、井戸として使った上方から見下ろすとなるほど『三日月井戸』。 岸壁に沿うように造られた井戸で、誰が入れたのか金魚が何匹か泳いでいた14:42急な坂を上り切り振り返り、高天神社境内入り口の狛犬高天神社長い石段を上り『高天神社』へ14:48高天神社 社殿横から遠州灘を望むズームアップすると風力発電?高天神社。城が廃城となるまで城中守護の神社でした。約290年前に御前曲輪跡から現在の場所に移された神社から降り、右に尾白稲荷、左に、かな井戸 井戸曲輪跡最後の戦い(天正9年)の後に城山に『白い大きな動物がいるらしい』という情報が入った。城主の叔父に当たる小笠原氏義が武士をやめ農民になっていた(帰農)が弓矢の名人であった。この事から、その者が射ると白い尾の狐だった。それを家康に報告した所、以後『尾白と名乗れと言われた。』と言い伝えられている。その後、御子孫が先祖の供養のため祀っておられる高天神城跡略図14:57高天神城から下り駐車場へ続日本100名城スタンプラリー設置場所案内図15:09大東北公民館所在地:静岡県掛川市下土方267-1ここでスタンプを頂くこの後、旧東海道から離れている『行興寺・熊野(ユヤ)の長藤』『池田渡船場跡』を訪れた後、今夜のホテル、浜松駅南口へ向かった。なお『行興寺・熊野(ユヤ)の長藤』『池田渡船場跡』は、見付宿~浜松宿で公開します。16:55行興寺・熊野(ユヤ)の長藤から県道262号線を南下して国道一号線の高架下へ。この先を右折して、天竜川橋へ17:30浜松駅南口の『コートホテル浜松』へ到着チェックイン後、車を駐車場へ。駐車料金はホテルの契約で700円/24hr17:50ホテルはツインルーム18:49夕食はホテルの隣の居酒屋へ。藤枝市の「青島酒造㈱」が生産する『喜久酔』が目に入る早速お願いし2杯飲んだのですこの後、小腹が空いたのでコンビニでおにぎりと明日の朝食を購入。この日の移動は車が主でしたので、歩行数は4,700歩。いよいよ明日は、JR浜松駅からJR磐田駅へ戻り、見付宿から浜松宿を目指す。 浜松宿へーEND
2019.06.30
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東海道53次も今までは、青春18きっぷを使用して京へ向かって日帰り道中をしてきたが、片道3時間を要するようになり、これからどうするか検討。その結果 ①愛車を利用して目的近くのホテルに宿泊 → 翌日、目的の宿へ電車移動。 ②この際、高速道路は高いので一般道を優先して走り、見落としたところを訪問。 ③ホテルも割安にするためにツインルームで予約。 ④駐車料金はホテルと交渉する。 ⑤基本的に二泊三日の道中(足腰が大丈夫か不安だが) 等で弥次・喜多で合意。その一段で、天気がよいとのことで、5/22(水)に決行となった。弥次さんが我が家に来て、7:30に茅ヶ崎を出発した。朝の渋滞を考え有料道路だが湘南バイパスを利用して、箱根新道から三島宿へ。弥次さんはいつものように助手席で写真撮影に夢中。この日、最初に向かったのが『駿州 興国寺城跡』9:03国道一号線の沼津市沢田9:08国道一号線「西椎路(にししいじ)交差点」を右折9:11国道一号線から北上して「西椎路北交差点」を左折して県道22号線へ9:21県道22号線を右折した小高い所に『駿州興国寺城跡』平成29年(2017)4月6日に「続日本百名城」に指定された。所在地:静岡県沼津市根古屋428ここは、東海道に続く竹田道と根本街道が交差する交通の要所でもあり、もともとは興国寺という寺院があったようだが、これを鳥谷に移転させ、その跡に築城したのだと。お城は連郭式平山城で、根小屋城、杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城とも呼ばれている。興国寺城敷地内には穂見神社が存在する北條早雲の旗揚げの城。早雲は長亨2年(1488)頃、今川氏親より富士郡下方十二郷を与えられ、興国寺城主となった。その後、戦国大名の争いの中で、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の属城となる。慶長6年(1601)徳川家家臣の天野三郎兵衛康景が一万石を領し城主となるが、罪を犯した家臣の引き渡しを拒み小田原西念寺に蟄居したため、慶長12年(1607)廃城になった穂見神社、その右側に徳川時代の『興国寺城主 天野康景碑』一番右に『初代城主北条早雲碑』が並んでいた続日本百名城のスタンプを頂く天野三郎兵衛康景。天野三郎兵衛康景は元の名を景能(かげよし)といい、天文6年(1537)三河国に生まれ、徳川家康に仕えました。 岡崎三奉行の一人に任ぜられ、「彼是偏無(どちへんな)しの三郎兵衛」と評される公平な人物でした。後に家康の「康」の字を拝領し康景と称し、慶長6年(1601)関ヶ原の合戦後一万石を与えられ、興国寺城主となりました。 伝えられるところでは、慶長12年(1607)、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次の争いになりました。家康の側近本田上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましてしまいました。このため康景は改易になり、興国寺城は廃城となりました。 その後、康景は慶長18年(1613)、相模国沼田村 (神奈川県南足柄市沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺(さいねんじ)にあります根古屋高尾山穂見神社の由来。 興国寺城跡本丸北側の天守台下には穂見神社があり札には「安政四歳巳正月奉勧請高尾大明神」と書かれている。 伝聞によると、安政4年巳正月に施主15人が山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祀したとされている。安政の大地震が発生し、大津波のため塩害により凶作が続き五穀豊穣を願い、農業神である「高尾山穂見神社」を建立したとされる近くの住民が朝散歩で訪れ木陰で談笑していたが、日課か?本丸跡は発掘調査後に埋め戻され広場になっていた。遠くに駿河湾の松並が見え、旧東海道はここから南に約2km穂見神社裏の『伝天守台』に向けて細い坂道を登る。正面に『伝天守台石垣』の野面積みの石垣が伝天守台跡。2棟の礎石建物跡が残されていたが、発掘調査では瓦等が発見されなかったことから、一般的な城のイメージにある「天守閣」ではなかったと考えられるが、ここから城の南を通る根方街道やさらに南の東海道を監視していたと思われると伝天守台の後ろには深い空堀が。空堀の規模:幅約13メートル、本丸側の深さ7メートル、二の丸側の深さ3メートル伝天守台からは原の市街と駿河湾の景色を遠望、下の屋根は穂見神社土塁の上を歩き、← 天守台、→ 大空堀の案内板。空堀の北側を東海道新幹線が走っていた9:50 興国寺城跡を後にする9:53次の目的地は藤枝市の『藤枝宿 田中城跡』。興国寺城跡から南下して、国道一号線の「原町東交差点」。ここを右折して浜松方面へ向かうが、旧東海道はまだ南下する10:19国道一号線の蒲原辺りからの薩埵山、左に日本平更に一般道を走り、由比宿、興津宿、国道一号線の「静清バイパス」を走り丸子宿へと走る。11:05国道一号線と県道81号線の「広幡I/C交差点」を左折して南下11:08県道81号線の焼津森線を数百メートル走り「仮宿交差点」を右折して旧東海道へ。ここの交差点は3/20(水)に歩いており、その時は陸橋の上から撮影した11:14藤枝警察署 広幡交番を斜め左折して旧東海道(県道208号線)を入り、民家の片隅にあった。前回私は見逃した「史跡 鬼島一里塚跡」。江戸日本橋より四十九里(196km)11:25前回は歩いた旧東海道を車で走り『藤枝宿 田中城跡』。西益津小学校の前に駐車して界隈を散策県道224号線を進むと、右手に「大手二之門跡」の木柱。木橋の太鼓橋とその先に掘があった田中城 ニ之掘。戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。二之掘は、本丸から二重目の掘りで、幅12.7~21.8m、深さ2.1~2.9mでした。この付近は、大手二之門の入口にあたり、掘りを渡るために長さ5.3m、幅3.6mの大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました在りし日の「田中城」。本丸を中心に、直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ。また、二の丸及び三の丸外に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田氏流城郭の特徴を示している。本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ設けられ、遺構の保存状況は必ずしも良くないが、一部の水堀及び土塁が残る。また、不浄門が旭傳院山門として、長楽寺に村郷蔵が、それぞれ移築され現存する西益津小学校の生徒通用門。所在地:静岡県藤枝市田中1丁目7-20西益津小学校の沿革。西益津小学校は、1872年に田中城本丸跡に創立された歴史と伝統のある小学校。地域の高い教育力に支えられ、音楽の世界では『月の砂漠』を作詞した加藤まさを、サッカーの世界では名波浩など、多くの著名な人を育てて来たと。 「学ぶ喜びと自信をもって進む子」を学校教育目標とし、「自ら進んでよりよい判断・実行」を重点目標にして実践。歴史と伝統を支えるために、毎年亀城祭を催し、大名行列などを行っている と西益津小学校・校門前に「田中城本丸跡」の木柱が立っていた。今は、藤枝市立西益津小学校の敷地となっている本丸跡。田中城は、ここを中心として同心円状に三重の堀を巡らした平城校門前に掲示『亀城ッ子宣言』。私たち亀城ッ子は一、人をいたわります。二、「ありがとう」「ごめんなさい」を言います。三、がまんします。四、ひきょうなふるまいをしません。五、田中のお城にほこりをもち、年長者をいたわります。六、夢に向かってがんばります。私たち亀城ッ子は 悪いことや、うそを言ってはなりませぬ。 勉強をし、努力せねばなりませぬ。 ならぬことはならぬのです 田中藩校日知館の小学生本丸跡に建つ西益津小学校内にある田中城の模型。わりとよくできている。ミニチュア系の模擬天守があるのも楽しい。しかし、実際にはこのような天守は存在してはいなかったと11:40車に乗り田中城(小・中学校)の周囲を巡ると『田中城 三之堀』。田中城の跡で一番残っている遺構です。高い土塁や広い水堀に徳川家康が攻めあぐねた堅固さがうかがえるこの三之堀付近は三之丸西にある御館(おたて)のちょうど西側にあたり、この堀に面した四之曲輪には家老らの屋敷が立ち並んでいたと云う。 四之曲輪は、江戸時代の初めに駿河田中藩・初代藩主である酒井忠利が実施した改修で追加され、最終的に田中城は四重の堀で囲まれる縄張となった。『藤枝市指定史跡 田中城 三之掘』。戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。三之掘は、本丸から三重目の掘りで、幅18~27m、深さ1.7~4.2m、土塁の高さは、水面からおよそ5mです。堀の北側からは今でもきれこの掘りに面した四之曲輪には藩士たちの屋敷が並んでいました11:49田中城の南東隅にある『田中城下屋敷』へ。所在地:静岡県藤枝市田中3丁目14-1ここは一色氏やその後裔の屋敷跡と伝われ、江戸後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、茶屋や庭園(築山、泉水)、稲荷社が設けられていたと史跡・田中城下屋敷案内図。静岡県藤枝市では平成8(1996)年に、この下屋敷跡の庭園を復元するとともに、田中城にゆかりの本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、そして長楽寺村郷蔵などを移築・復元したとのこと。但し、時代が経過して宅地化が進むとともに南側にあった庭園の一部(築山や泉水)などが埋め立てられて畑となった。なお入場料は無料だった駐車場に車を留めて入場田中城本丸櫓。櫓は田中城の本丸にあったもので、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていた。往時と同様に復元された石垣の上に移築されていた本丸櫓は木造で二層二階、屋根は銅板葺きであるから江戸後期のものと推測されている藤枝市指定有形文化財(平成5年4月指定)○構造 木造・2階建て銅板葺○規模 桁行3間・梁間2間(京間・46.57m2)この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれてます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物のあったことが記録にみえ、これに該当するもののようです。明治維新によって、田中城には高橋伊勢守(泥舟)が入りました。村上氏はその配下にあり、しかも泥舟の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住宅としました。また、泥舟はこの建物を「光風霽月楼」と名付け扁額を掲げています。屋根はもと柿葺であったようです。田中城より移築した建築物の中で、昔から最も著名な建物です田中城本丸櫓の上から、冠木門(かぶきもん)幕府の要職に出世した田中藩主。関ヶ原の戦い以前に徳川氏に従った武士のうち、1万石以上の大名となった者は譜代大名と呼ばれた。 幕府の要職者は譜代大名が多く、田中藩主も譜代大名が多く、藩主になった後に出世していくケースが多かった信玄・信長・秀吉・家康も宿泊した田中城2階の田中城の資料の展示場下屋敷内にあったとされる『茶室』明治38年頃、千歳の村松家にあったものを、上伝馬の奥野氏が譲り受け屋敷内に移築したとされます。もとは田中城家老の茶室であったとされ、数寄屋建築で西側に4畳半の茶室、東側には給仕口の付いた6畳の待合がつながっています 江戸時代後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、築山・泉水・茶屋などを設けて四季の景色を楽しんだ仲間部屋(ちゅうげん・べや)の横にあった、厩(うまや)古くから、大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてぎましたが、調査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだと分かりました。 仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には、城主・本多家の家紋(立葵紋)が刻まれていました。また、解体にあたって、「安政六年」(1859)と書かれた板材が見出されており、建築年代もその頃と推定されます12:10田中城下屋敷を後にする田中城跡を訪ねた後は、藤枝市南駿河台にある古代駿河国志太郡の郡家(郡衙)の遺跡志太郡衙跡(しだぐんがあと)を訪ねた。12:30国指定史跡・志太郡衙(しだぐんが)跡。所在地:静岡県藤枝市南駿河台1丁目12今からおよそ1300年前の奈良・平安時代の郡役所跡であると。 別名を「御子ヶ谷遺跡(みこがやいせき)」。国の史跡に指定されている青島北地区交流センター駐車場に車を留め水路沿いを歩き『志太郡衙跡』へ昭和52年(1977)に団地造営のための区画整備を行っている際に発見され、その後の発掘調査によって掘立柱建物30棟をはじめ、門や板塀、井戸・道路などの遺構が次々と発見され、古代郡衙の構造を示すものとされた。さらに出土した260点余りの墨書土器から、「志太」という地名と大領・少領・主帳などの郡司の官職名が確認され、志太郡の郡衙跡と判明した。このため、当該区域での団地造営は中止され、史跡公園として整備された 正門と板塀この門は、志太郡衙へ入る正門で巾が2m、高さが2.5mあります。2本の円柱の上に 切妻造りの屋根がのる形の門で棟門(むねもん)といいます。 両側についている板塀は、高さ1.8m、長さは右3.6m、左は3m、柱は径24cmあります。この正門を入って右側に曲がって正面にある大きな建物が郡衙の主な建物です。 正門の南側は、三方を山に囲まれている沼地となっており、ここから墨書土器や木簡を書き込んだもので「志太領」、「志太少額」、「主帳」、「志厨」など260点余りが出土しています。木簡は木を薄く短冊状にして墨で文字を書いたもので、上が貴重な時代には文書、机札(つくえふだ、荷札)などに使用されました。出土した10点の木簡はほとんど読めなくなっていますが、「女召 付里正 丈夫麻:呂」、「安人」「友足」、「申進上夫事 小長谷浄成」などの文字が書かれています。沼地で発見された木製品には大足、シロカキ、エブリなどの農機具、曲物、下駄、箸、斎串、杓などがあります石敷道路と板塀正門前から、石敷道路と板塀正門を入ると復元された掘立柱建物が中心に堀立柱建物(A)堀立柱建物(B)、井戸掘立柱建物(B)と一部復元された掘立柱建物(C)堀立柱建物(Ⅽ)、12:42志太郡衙跡を一番奥から見る 浜松宿へー続
2019.06.29
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西光寺から今日のゴール点「JR磐田駅」へ向かう。既に3万歩を歩き、少々疲れ気味になりブログ取材も手抜きに!4/9(火) 16:48再び旧東海道に戻ると、西光寺入口には『西木戸』の表示が見付西大通から県道413号の「加茂川交差点」。今日のゴール「JR磐田駅」は南下して県道56号線(天平通り)へ16:50旧東海道(県道56号線)をJR磐田駅へ16:53旧東海道(県道56号線)である天平通りをJR磐田駅に向けて歩く16:54右手にあったのが遠江国分寺跡。遠江国分寺跡の東側面を入口とする『参慶山 国分寺』参道。所在地:静岡県磐田市見付3220-1遠江四十九薬師霊場御案内 磐田地区地図。九薬師霊場は享保年間に開創され、300年の間広く人々に信仰され、生きる力と光を与えて今日に至り、遠江最古の霊場であります。(中略)薬師如来の霊験利益は昔から普く人の知る所でります。聖武天皇勅願のここ国分寺を第一番として、東は袋井地区より北遠に及び中部は磐田地区に、西部は浜松地区、各霊場四十九カ所に奉安されてありますので、皆様の参詣巡拝を念願申し上げます文化財の道しるべ 遠江国分寺跡。奈良時代の中泉と見付には、遠江国府や遠江国分寺、国分尼寺、大宝院廃寺などが 置かれました。 天平13(741)年、全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建設が計画されました。隣接する府八幡宮は遠江国分寺と同じ頃、創建されたと伝えられています。 遠江国分寺・国分尼寺は、古代「大之浦」を臨む景勝地に両寺の金堂・講堂の建物中心線を同一にして、国分寺の北側釣200mに国分尼寺を配しました。 遠江国分寺は、金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊など(伽藍)を築地塀などによって囲み、その範囲は東西180m、南北250mに達し、また、周囲にも関連した施設がいくつか建てられていたものと考えられます。現在、七重塔の跡や金堂跡には礎石が残っています。 中世になると国分寺は衰退しますが、その後国分寺の一隅に薬師堂が建てられました。 遠江国分寺跡は昭和26(1951)年に発掘調査され、昭和27年に国の特別史跡に指定されました手洗石。薬師堂脇にある手洗石。もとは国分寺の礎石だったという。この手水石は今から1250年前の奈良時代に聖武天皇の勅願で建立された国分寺の礎石をくり抜いて作られたものです。金堂跡の礎石にも同じ材質のものがあります金堂及び石段跡基壇は間口33.6m、奥行21.3m、高さ50cmの規模を測り金堂の基礎となる。金堂は礎石及び根石から間口27.6m、奥行14.4mの重層入母屋瓦葺きであったと推定される。本尊を安置した主要な仏殿。石段は正面中央に幅4.5mで7段のうち3段が残されていたが、今は埋め戻してある中門跡。中門は金堂から54mほど南に位置している。 基壇は間口16.5m、奥行10.8mの規模と推定される。 基壇の上に中門が建てられていたが、門の大きさや構造は不明である遠江国分寺跡。国分寺は今から1250年前の奈良時代(西暦741年)に、聖武天皇の命令によって日本国内60数ヶ所に建てられました。仏教文化を代表する寺院です。僧寺と尼寺が一対となって建てられました。・・・・・・・・・遠江国分寺内を歩き南大門跡。南大門は中門から17.4mほど南に位置している。 この付近は開墾により、基壇まで破壊されているため、規模は不明。 瓦が特に多く出土することから、南大門の位置と推定する特別史跡 遠江国分寺跡。調査 昭和26年に発掘調査され、金堂、講堂、塔、中門、回廊、南大門、土塁跡(後に築地塀と判明)の位置及び規模が明らかになった。 しかし、まだ多くの未調査の部分が残されている時間に追われ『特別史跡 遠江国分寺跡』は、約6分間の駆け足見学でしたので再度じっくり見学に来たいものです17:00遠江国分寺の向かい側にある『府八幡宮』所在地:静岡県磐田市中泉112-1府八幡宮。八幡宮は、奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任したとき、国内がよく治まるようにと、建立したと伝えられています。《静岡県指定文化財》 楼門(江戸時代) 昭和30年指定 寛永12年(1635)に建立された記録があります。入母屋造りで、建物全体に深みと美しさのある純和様建築の随身門です。昭和58年に建立当時の杮葺きの屋根に吹き替えられ、平成26年から平成27年に部材の劣化に伴い、大規模な保存修復弘治を実施。《磐田市指定文化財》 中門(江戸時代) 平成17年指定 寛永12年に建立され、その後文化年間(1804~1818)に再建された記録があります。楼門は純和様建築ですが、中門は禅宗様式であり対照的です。江戸時代の建物群の中では新しい技法を残す門です。なお、この他に、ふだんは公開されていませんが、磐田市指定文化財に、瑞花鳳鸞八稜鏡(奈良時代)・僧形八幡像(平安時代)・女神像(平安時代)・秋鹿朝重奉納絵馬(江戸時代)内田重貞奉納絵馬(江戸時代)があります 右側に手水舎府八幡宮 見取図左に『楼門(隨身門)』、右に『社務所』楼門(ろうもん)。 寛永12年(1635年)に建立され静岡県の文化財に指定されている。 本来ならば江戸時代初期制作の木造随身像2体が楼門左右に鎮座されているのだが、解体修理中?のためかお姿はなかった中 門。 拝殿前にある中門は楼門と同時期の建設だが、文化年間(1804年~1818年)再建の記録があるのだと府八幡宮『拝殿』。 寛永12年(1635年)の建立で、現建物は正徳4年(1714年)の再建。 拝殿最奥にある本殿が元和3年(1617年)の建立で、府八幡宮で最古のようだボケ封じの宮(武内社)の御案内武内社。 八幡様の忠臣、武内宿禰命を祀っている 中央の末社左側の末社17:07社務所前にある神宮寺の『築地塀』。 社務所辺りに明治元年(1868年)に廃寺となった神宮寺跡。 この築地塀だけが残されているのだと17:09旧東海道(県道56号線)の天平通りへ戻り。遠江国分寺跡の案内標識、0.1km17:16JR磐田駅への旧東海道(県道56号線)の歩道に、Jリーグジュビロ磐田の選手であった多くの人物のものが次々に。『高原直泰選手』のサインと足跡のプレート17:18JR磐田駅への道だが人通りは少なく17:19『中山雅史選手』のサインと足跡のプレート。多くのファンが乗り割れたのか17:21『天平の泉』のモニュメント。ようやく正面にJR磐田駅が見えてきたJリーグ・ジュビロ磐田のマスコット『ジュビロくん』歴史の街をイメージしたJR磐田駅 『福西崇史選手』のサインと足跡のプレート。この選手も多くのファンが乗り割れたのか17:24ようやくJR磐田駅へ到着陽が沈むJR磐田駅前には巨木が立ち巨木の手前には、磐田市イメージキャラクター『しっぺい』。 市内に伝わる霊犬伝説「悉平太郎(しっぺいたろう)」をモチーフにしたのだと善導寺大楠。所在地:静岡県磐田市中泉642この大クスは、かってこの地にあった善導寺境内にあったもので、樹齢は700年と推定されています。大きさは樹高18.3m、根周は二段に盛り上がり、地面と接する部分で32.9m、胸高直径は2.87mを測ります大クスノキの石碑大クスノキの向こうにJR磐田駅JR磐田駅前一杯やりたいが、約3時間を要するので階段を上る改札口手前にも、Jリーグ・ジュビロ磐田のマスコット『ジュビロくん』17:31青春18きっぷで、磐田駅改札を入る。ここまでの歩行数は、36,100歩でした。弥次さんがビールを購入にコンビニへ走る陽が沈むホームに降り立ち磐田市の名所案内。次回は『熊野(ゆや)の長藤』JR磐田駅。次回はどこから来て降り立つのか。17:42発の熱海行きに乗り帰路に着くが、到着予定は21時で所要時間は約三時間半乗車と同時にビールを飲み、今日のスタート掛川駅には17:56に到着、電車で14分。18:06陽が沈み今日一日の歩数は、37,182歩、5時間15分でした。次回は電車を利用するのか、交通手段を検討する必要がある。 掛川宿から見付宿ーEND
2019.06.28
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淡海國玉神社の後、旧見付学校へ、ここまでの歩行数は31,000歩。4/9(火) 16:10旧見付学校。所在地:静岡県磐田市見付2452旧東海道とは歴史が異なるが磐田市の観光名所の『旧見付学校』。 旧見付学校は明治5年(1872)の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校したと入館案内。 入館料は無料であり月曜日が休館日。開館時間:9:00 ~ 16:30旧見付学校。「旧見付学校」は、明治5年(1872)の学制発布後まもない明治8年(1875)8月7日に 落成した。現存する日本最古の擬洋風木造小学校の校舎です。 当初は4階建てでしたが、就学児童の増加に伴い、明治16年(1883)に3階部分を増築し、今の5階建てとなりました。5階は太鼓楼で、早朝の登校の合図や正午の時報が打ち鳴らされていたといわれています。 見付学校は大正11年(1922)3月に閉校し、小学校としての役割を終えましたが、その後は裁縫女学校や教員養成所、病院等、さまざまな施設として利用されました。 昭和44年(1969)に、北側にある磐田文庫とともに国指定史跡となり、現在は教育関係の史料等を展示しています史跡旧見付学校。見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。 基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。 明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりましたエントランス。 入口が男女別に2つあったのだと。初代浜松県令の林厚徳から贈られた扁額であるとのこと。『木縄受即直金礪就則利』 木縄(きなわ)を受くれば則ち直く(なおく)、金礪(きんれい)に就けば(つけば)則ち利し(するどし)。 中国の「荀子」(じゅんし)勧学編の文中の一説で、「曲がった木も墨縄を当てて切ればまっすぐに切れ、金物も砥石で磨けば切れるようになる」という意味。 教育の重要性、方法論を説いているのであろうか旧見付学校教室内部を再現 教室は文房具も含め再現されています各自の机には小さな黒板が帳面替りなのか?4階には伝酒井の太鼓が。開校時には最上階に「伝酒井の太鼓」が置かれ、時を告げていたのだと。伝酒井の太鼓とは、三方原の合戦の際に浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる太鼓と勉強机は親から子へ、兄弟、姉妹へと受け続かれたものだそうです。 机以外に蓄音機、火鉢、草履等の懐かしい品物がたくさん展示されていた入場が16時過ぎで、閉館が16:30のため係員から「最上階から見て下さい」と『5階は太鼓楼です』。太鼓当番の上級生が叩いていたと。五階からの、先程訪ねた愛宕神社をズームで遠江總社 淡海國玉神社満開の桜も南方向の磐田駅方面?4階は何に使われたか。4階は応接室や校長室であったと言われていますが、詳しい記録は残っていません。時代によっていろいろに使われていたようです。新築当時は3階であり、窓から屋根の上に出ることができました。1階に屋根に人が乗った写真があります2階の展示は、民族資料館という感じ手筒花火の筒多くの農機具も16:22旧見付学校を後にする16:22旧東海道(見付宿場通り)に戻り。見付十七小路『宮小路』。小路の奥手に淡海(おうみ)国王神社があることから宮小路といいます。また、小路西側の旧見付学校は、木造として現存する日本最古の学校(国指定文化財)です16:24旧見付学校の先に置かれている立派な門は、かつて宿場時代にここ見付の脇本陣を務めた 『大三河屋門』。 もともと三河屋は旅籠だったようですが、文化2年(1805)に脇本陣になっていると市指定文化財『旧見付宿脇本陣大三河屋門』。江戸時代、宿場には街道を往来する大名や公家が宿泊する施設として、本陣が決められていました。脇本陣は、本陣を補うための宿泊施設で、本陣に次ぐ規模、格式を持っていました。大三河屋は、はじめ旅籠屋でしたが、文化2年(1805)に脇本陣となりました。 この門は、2本の本柱上に冠木をわたし、その上に梁と切妻屋根を載せています。武家や商家の屋敷の門には棟門が使われますが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門の形をした門です。 屋根は桟瓦葺きの切妻造りで、大棟の両先端には小型の鯱を配置し、大棟両端から降棟が付けられ、その先端部には獅子を表した飾り瓦である留蓋が置かれています。降棟によって、重厚で落ち着きのある印象を与え、由緒ある脇本陣の格式と伝統をかもし出しています。 かつて見付から中泉の中津川家に移築され同家の門として使用されていましたが、平成17年、市に寄贈され、平成19年に移築復元しました16:25脇本陣大三河屋門の右手奥にあった『日蓮宗 本山 本立山 玄妙寺』山門日蓮宗の由緒寺院本山で、日什上人により、南北朝時代の元中2年(1385)に開創されました。当時の名は、日什上人の改名前の名前・玄妙に由来しています。本堂に祀られている日蓮上人像は、江戸時代の元和9年(1624)の作です玄妙寺本堂国の登録有形文化財の『玄妙寺 経蔵(きょうぞう)』枝垂桜も咲き終え16:27玄妙寺の右奥に位置する『慈恩寺』山門の薬医門には『遠江四十九薬師霊場』と書かれた札が。組物、冠木が装飾のきれいな虹梁であった。右側は「玄妙寺」臨済宗 慈恩寺室町時代の応永年間(1394~1428)の開創と伝えられています。その後、一時途絶えていましたが、戦国時代の天文年間(1532~1555)に中興され、さらに、江戸時代の寛永11年(1634)に再中興され諸堂が整備されました。また、江戸時代末から明治時代初め頃には、当寺で寺小屋教育が行われていました入母屋造りの本堂。 本尊は聖観世音菩薩。その他に、元瑠璃光寺(明治2年の梅屋火事で焼失し、慈恩寺に合併)の本尊・薬師如来、多聞寺(明治初年の廃仏毀釈で廃寺)の毘沙門天を祀り、 遠江四十九薬師第四十九番札所になっているのだ境内に咲き始めたフジ16:32見付十七小路『玄妙小路』。少路の東側に玄妙寺(お命講)があることから玄妙少路といいます。少路の奥手には京都妙心寺末寺の慈恩寺があり、寺の雲板は市の文化財に指定されています16:35見付十七小路『多門小路』。小路の先に多門寺の入口跡があることから「多門小路」とよばれています。 この名称は「多聞寺」及び「多聞小路」と記される場合もありますJubilo のポスター16:36東海道・見付宿の地図西坂の梅塚見付東坂町、西坂町にそれぞれ一本の梅の木があり、通称東坂の梅の木・西坂の梅の木と呼ばれている。これを梅塚という。 この梅塚は、昔、陰暦八月始めに、一筋の白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番と申し、娘を怪物の犠牲に備えた家の前にそのしるしとして植えたものだといい伝えている。そして西坂梅塚はその最後のものであったという。矢奈比売(やなひめ)神社例大祭神事 「御斯葉下し」(みしばおろし)には、町内一三箇所に榊立を行ない、洗米を献じ神官が祝詞を奏上するが、東坂・西坂両方の梅塚もこの一三箇所内にあり、同じように神事を行っている16:37見付十七小路『梅屋小路』。この小路は梅屋町に通じる道で、昔梅屋敷があったあら梅屋小路と呼ばれています。また小路入口には西坂の梅塚、小路奥手には土蔵が立ち並んでいますきょうのゴール「JR磐田駅」まで1.7km16:38旧東海道(見付宿場通り)を振り返る。ここから「見付西大通り」と呼ばれる旧東海道でJR磐田駅方面に南下する『これより 姫街道』。 宿内の距離がわずか1キロしかありませんので、見付の宿場はまもなく西の端に行き着く。旧街道はこの先で鋭角的に左へと大きく折れ曲がっていた。 その折れ曲がった角から細い道筋が延びていた。 この道筋が「姫街道」と呼ばれる東海道の脇往還道。 姫街道とは浜名湖の今切渡と新居の関所を嫌う者が、見付または浜松から浜名湖の北岸を迂回して本坂峠を越え、御油または吉田に出た東海道の脇往還(約60キロ)の一つ。なぜ新居の関所を嫌ったかというと幕府の出鉄砲、入り女の政策により女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避け、ここから本坂越えの脇往還を通ったのだと。 そしてこの脇往還が「姫街道」と呼ばれるようになったのだと16:40暫く歩くと右手に在ったのが『遠州 見付宿 木戸跡』 木戸とは、古代~中世では、柵・城郭といった防御施設の門をいう。 戦国期の京都では、町を防御するため町境の道路上に設けられた。 近世になると、各地の都市で両側町の道路の両端に設置された。 木戸には番屋が付属し木戸番が居住した。 木戸の機能は第一に治安維持であり、夜間と打ち壊しのような緊急時には閉ざされた。 重要な町共同体施設のため、町入用によって維持された旧東海道の見付西大通り(県道56号線)を南下すると『加茂川橋』遠江四十八番札所『西光寺』日限地蔵尊、薬師如来坐像16:41加茂川橋の先を右に入ると、山門を構える西光寺。所在地:静岡県磐田市見付3353-1この表門手前には大きな看板が置かれていた。 看板には「平成24年 NHK大河ドラマ第五十一作「平清盛」平家ゆかりの地」と 「中宮 東福門院源和子(まさこ)献納 遺愛ゆかりの寺宝」と書かれていた。 「中宮東福門院源和子(まさこ)」は徳川二代将軍秀忠公とお江との間に生まれた 五女で時の後水尾天皇の后となった中宮で上洛の折に阿弥陀三尊と共に日限地蔵尊を当寺に奉納したのであると西光寺の表門(薬医門)。薬医門(桃山時代の1580~1590年代に始まった、もともとは城門の一種)といわれる総ケヤキ造りで、素朴な建築美をたたえ、市内に残る代表的な江戸時代(1603~1867)の門として、昭和57年11月、市の文化財に指定された加茂川をわたり、まず目を引くのがこの表門です。これは徳川家康公が「別荘」として中泉村(現在の磐田駅南側、御殿・二之宮周辺)に築かせた中泉御殿(のち中泉代官所)の表門を移築したものと伝えられています表門を振り返る寛政元年(1789)建立『鐘楼堂(山門)』 山門であるが、鐘楼堂と一緒になった作りで、真下から見上げると、頭上には鐘があり、鐘の音が上から降ってくる感じがしそうなのであった 鐘楼堂(山門)からの本堂。東福山西光寺由来略縁起。この寺は東福山西光寺といい、阿弥陀如来をご本尊とする時宗の古刹。文永2年(1265)真言宗の傾木和尚によって創建、建治・弘安年間(1280年前後)この地を訪れた時宗の開祖証誠大師一遍上人(1239~89)を迎えて改宗、時宗の修業道場となる西光寺の大楠、見付の名木「クスノキ」。寛政元年(1789)建立の鐘楼堂(山門)をくぐると、右側にクスノキの巨木が見えます。樹高18m、根回り13.7m、胴回り7.5m、推定樹齢500年という老大樹です。隣り合っているナギの大樹と一緒に、昭和57年(1982)11月、磐田市の天然記念物に指定されたパワースポットで広く有名、西光寺の霊験あらたかな日限地蔵尊、平重盛公ゆかり、平安時代作の薬師如来坐像は、本堂の中、向かって左側のお堂にそれぞれ安置されております。・・・・・・・・・鐘楼堂(山門)右側に、宗祖一遍上人御像16:45鐘楼堂横で咲く枝垂桜 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.27
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見付東坂を下り『愛宕神社』へ。4/9(火) 15:40『見付宿』西に天竜川を控える見付宿は、川越え宿場として繁昌した。ただ、暴れ川であったこの川は豪雨のたびに洪水をおこしたので、地元住民を悩ませていた。船賃は武士階級が無料、町民・農民は一人六文(132円)である。京都方面から東へ向かう旅人が、はじめて富士山を目にした(見つけた)場所であったため「見付」と名付けられたという。町並み長さは11町40間(約1.3km)で、名物はスッポンと鰻である。奈良時代には国府や国分寺が置かれ、遠江国の政治の中心だった。鎌倉幕府を倒した新田義貞軍が、建武の新政に反旗を翻した足利尊氏軍と戦った地でもある。見付宿からは、浜名湖を迂回して御油に至る姫街道が分岐していた。左側が下ってきた見付東坂。『愛宕神社』と『阿多古山一里塚跡』見付の文化財。見付の語源は、”うみつけのち” が転訛した(なまった)ものとか、西から東に向かう旅人が初めて富士山を見た場所であるとか諸説がありますが、はっきりしたことはわかりません。見付は、平安時代には遠江国の国府が置かれ、その後遠江国の中心地としての役割を果たしました。江戸時代には東海道の宿場町として栄え、交通の要衝として多くの物資が集められた結果、多くの蔵が建てられました。寺院や神社が多く点在していることも特徴です。小路にみられる名称から、かつての面影をしのぶこともできます。東西約1kmの宿場町であった範囲には、多くの文化財が点在しています『愛宕神社』と『阿多古山一里塚跡』への階段を登る。ここの左側の坂下には宿場の東の出入口にあたる木戸が置かれました東海道と愛宕山の案内板。見付宿を一望できる愛宕山には、愛宕神社が鎮座し火防の神として人々の信仰を集めました見付宿と阿多古山一里塚。見付宿は、江戸日本橋から数えて28番目、京都三条大橋から26番目を数える。・・・・・・・・・字が読みずらく木戸風モニュメント。木戸とは、江戸時代の都市において隣り合う二町の境界、武家町・町人町の境界または町と在との境に設けられた保安用の門のことです。二本の親柱の間に門扉を付けたもので、昼間は扉を開いており通行自由でありましたが、非常の場合や夜にはこの扉を閉じて通行を停止していました。見付宿では、東と西の入り口に木戸が設けられていました愛宕神社の石鳥居愛宕神社社殿。社殿の左側、山の上に石碑が見えたので更に道なき斜面を登る愛宕神社裏の高台に磐田市指定史跡 『阿多古山一里塚』関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、東海道の整備を進め、慶長9年(1604)には1里毎に距離の目安として小山(塚)を築きました。これが一里塚で、磐田市内には宮之一色と見付にありました。見付の一里塚は、愛宕神社が鎮座する愛宕山にあったことから、愛宕神社の旧名から「阿多古山一里塚」と呼ばれます。一里塚は5間(9m)四方の土台に高さ2~3mの円形の小山を築き、塚の上には榎や松などを植えました。明治時代になり多くは壊されてしまいましたが、阿多古山一里塚は見付地区の財産として、街道の両側に残され、昭和42年11月3日に旧磐田市の史跡に指定されました。阿多古山一里塚は、江戸から62番目にあたり、北の一里塚には椎、南の一里塚には松が植えられたと言われています阿多古山一里塚跡の石碑。現在の見付東坂はこの丘より低いが、江戸時代の旧街道はこの高さであったのだろうか。明治以降に削られたのか?阿多古山一里塚跡から見付宿を望む愛宕神社の境内からは、見付宿の宿場町を眼下に見る満開の桜の向こうに見付宿の宿場町を見る15:48愛宕神社から下り、旧東海道の「見付宿場通り」を進む”祈 幸せをもたらす元号でありますように” と店の窓に早くも『令和』の元号が15:52見付十七小路『裁判小路』という表示も歩道路面に。 寺院・神社・史跡等の位置が記されており、史跡巡りには便利であろう。小路の奥に明治中頃にできた浜松市始審裁判所見付出張所(後の法務局)があったことから小路の名称となりました。現在は住宅地となり、その面影はありませんJA遠州中央 見付支店の前に『東海道・見付宿』の現在の地図東海道分間絵図。 道中図(どうちゅうず)は、江戸時代に作成された陸路や海路を記した絵地図で、 今日の道路地図と観光案内を組み合わせた要素を持つ。 元禄3年(1690)に遠近道印(おちこちどういん)が「見返り美人図」で知られる 菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)と共に製作した「東海道分間絵図」は、代表的な道中図のひとつであり、1/12,000の実測図上に河川や橋梁・宿場町・一里塚名所旧跡などが師宣の絵によって詳細に描かれている。 江戸時代に描かれた見付宿:東京国立博物館所蔵15:53天神の木 東坂梅塚。 梅塚というのは、見付天神の祭りの夜、怪物に娘をさしだした家の前にそのしるしとして植えたものだといわれていると。鎌倉時代の話であると 丸中 大橋商店。 屋号丸中は江戸時代に浜松にて中兵衛という米屋を営んでいたことに由来。 明治10年(1877)に酒屋を始め、現在は四代目15:54見付十七小路『地蔵小路』。小路の奥手には延命地蔵をご本尊とする宣光寺があります。昔からお地蔵ご開帳の日には大変なにぎわいを見せていたことから地蔵小路とよばれてきました曹洞宗 宣光寺。 地蔵堂内には日本三代地蔵の一つとされる高さ1.4mもある平安時代作の木彫り座像「延命地蔵菩薩」があると。この地蔵は、徳川家康が追っ手から逃れるために見付の街に火を放った時、幼児の姿になって、やけどを負いながらも火を消して回ったという言い伝えがあり、身がわり地蔵さんとも呼ばれていると。そのほか、境内には、徳川家康寄進の梵鐘もあると15:55旧東海道の見付宿場通りの『今之浦川』。 川の奥の塔は火の見櫓であろう。鉄骨造 (アングル)、櫓型、4本脚、むくり屋根銅板葺きの火の見 櫓の頭頂部とユニークな形状今之浦川に架かる『中川橋』15:55旧東海道沿いに『大見寺』の案内板と『東海道見付宿』石碑そばに『旧 寺小路』と刻まれた石碑右側に見事な灯籠と大見寺山門大見寺山門所在地:静岡県磐田市見付2510-1山門から本堂大見寺の文化財。 「見付端城(みつけはじょう) 中世には、境内に今川氏によって築かれた城がありました。江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれています。現在もこの土塁の一部が西と南にわずかに残っています。「良純法親王供養塔(墓)法親王は、107代後陽成天皇の第八皇子で、万治2年(1659)頃縁あって見付に滞在しました。弟子だった大見寺第11代住職によって供養塔が建てられた。「鳥人・幸吉の墓」岡山県出身で江戸時代中頃に、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛びました。晩年、見付で暮らしたといわれている大見寺本堂と桜ズームアップするとまだ満開ではない?日照山 光明院 大見寺。 『日照山』と書かれた扁額2024年は浄土宗開宗850年のポスター16:01見付十七小路 『寺小路』。大見寺に通じることが小路名称の由来です。又大見寺境内には、三代将軍徳川家光の休憩所「御茶屋御殿」があったことから「御殿小路」ともよばれていました 静岡銀行前に『問屋場跡』。 残念ながら説明案内板は見当たらなかった旧東海道(見付宿場通り)を更に歩く御証文屋敷、安間平治弥邸跡。平次弥は本名弥平次。名は禮、字は伯啓、号は九渕と称し、漢字の素質があって詩文もよくした。徳川家康から代官に任命され、甲州武田軍を退去させた功績で家康に平次弥と改名させられ、名字帯刀を許されて、見付に住むように申しつけられた。 庭には清水が湧出し年中枯れる事が無く、之を家康に薦めたので「御清水」というようになった。家康の休息場として利用されたといい、今も清水が中川に流れ込んでいる。町名もこれにあやかって、清水町という。 安間家には代官からの証文が残され、「御証文屋敷」と呼ばれていた 16:02遠州見付宿 脇本陣跡青山リフォーム16:03街角にこんな幕を掲げて何を抗議しているのか!県道86号線「JR磐田駅」県道86号線の北方面、東名、国道一号線のバイパスへ見付十七小路『北井上小路』。旧地名の見付町北井上が小路名称の由来です。現在では小路の面影はなく、中央幹線(県道横川ー磐田線)として東名高速道路へのアクセス道路になっています遠州見付宿 北本陣跡前方に美しい姿の旧見付学校が姿を表した16:06遠江總社 淡海國玉神社(おおみくにたまじんじゃ)。所在地:静岡県磐田市見付2452-2見付宿の中央に位置することから「中の宮」とも呼ばれていると。手水舎と拝殿遠江總社 淡海國玉神社拝殿。左甚五郎の流れをくむ立川流の建築士「昌敬」の遺作として有名で、特に「子持ち龍」「ふり向き獅子」、「十二支」の彫物が見事です。また、遠江国の「総社」として多くの方々が参拝に訪れると。拝殿前の石像が狛犬でなく、主神が大国主命なので兎。見付天神祭では神輿がここに渡御します拝殿横の桜は満開大国主命と兎。数ある神話の中でも有名な「因幡の白兎」。話の中では兎はサメを騙した悪者ですが一説には大国主命の奥さんの八上姫が、兎を使者として結婚相手を探したともいわれています。自分の身体を傷つけて大勢いる兄弟神様の中から清い心の持ち主の大国主命を見つけ出す役目をした訳です。この兎のお陰で大国主命と八上姫はめでたく結婚されたので、縁結びの神様としても慕われています『淡海国玉神社』案内板 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.26
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許禰(コマ)神社から見付宿へ向けて歩く4/9(火) 14:40旧東海道(県道413号線)に戻り進むと狭い水路の上で袋井市から磐田市にはいる 灌漑用水路にこの付近は田園地帯が拡がっていた街道筋に咲く八重桜14:43旧東海道(県道413号線)の西島交差点14:47酉島交差点の先、右側にあったのが『曹洞宗 廣福山 全海寺』所在地:静岡県磐田市西島452廣福山 全海寺下馬地蔵当山は天文11年(1542)家康公の父広忠が曹洞宗天龍院末寺として草創開山する。全海寺の御本尊は延命地蔵菩薩を祀り、また境内に阿弥陀如来が安置されている。寛永3年(1626)8月徳川家光公が将軍職冠位を受けるため、大軍を率いて上洛の途中全海寺の石地蔵の前を通過しようとした家光公の馬が突然暴れだして制止もきかず、落馬したが幸いに怪我もなかった。馬にも籠にも乗れず止む無く家臣と同じ服装で歩いて京を目指します。・・・・・・・・・六地蔵尊全海寺本堂14:52旧東海道(県道413号線)を歩き太田川太田川に架かる三ヶ野橋(ミカノバシ)、右は国道一号線の袋井バイパス国道一号線の「三ヶ野高架橋」。旧東海道はこの先を左折14:56国道一号線の横には菜の花畑が拡がっていた菜の花と桜のコラボが良いので訪ねて撮影したかったが、先を急ぐので諦める14:58旧東海道松並木の説明板と夢舞台東海道道標『三ヶ野』 東海道は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として、主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化し、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。 東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ケ野地内までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。 おねがい 交通規則を守って、自己防止にご協力下さい夢舞台東海道道標『三ヶ野』見付宿 宿境まで 三十一町(3.4km)。袋井宿 宿境まで 三十一町(3.4km)旧東海道の松並木ここを左折すると『鎌倉時代の古道』。 この場所にはいくつもの道筋が穿かれ、磐田(見付)へとつづいていた。 その道筋も旧東海道が整備される以前の鎌倉古道を始め、江戸時代の古道、明治の道、大正時代の道、更には「質道」、そして昭和の道、平成の道と全部で7本の道が集中していることから「三ヶ野七つ道(ミカノザカナナツドウ)」と呼ばれているのだと15:01『明治の道(緑のトンネル)』碑。旧街道を進んで行くと急な坂が始まった。 これが『大日堂・三ヶ野七つ道』の始まりこの三ヶ野一帯は戦国時代の元亀3年(1572)に甲斐の武田信玄の遠州侵攻の戦いの舞台となった場所で家康軍との小競り合いが起こった場所として知られています。 この時の武田軍は3万の兵、一方、家康軍はその半分の1万の兵ということで、家康はいちはやく撤退を決意します。しかし武田軍は執拗に家康軍を追撃してきます。 家康軍は浜松へ戻るため三方ヶ原を辿るのですが、家康の生涯の中で最悪の敗戦と 言われている戦いこそが「三方ヶ原の戦い」。 ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康は、この戦で死の恐怖を味わったと言われているのだ。さらに上り坂を登って行った。すると突然坂道の左側にかなりの急勾配の坂道の入口が現れた。ここが『江戸の古道』入口15:03急な坂の途中にホテル15:06坂を登り終えた五差路に『従是鎌田山薬師道碑』が。 この角から南に約1.5kmの所に「鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん) 醫王寺(いおうじ)」と称される、天平時代に聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が山内の名木で薬師如来の尊像を敬刻され、ご本尊として祀ったのが始まりと伝えらる醫王寺があり、この角はその参道入口だったとのこと。 見付宿はここを右折。逆に左に曲がると『江戸の道』であると右手に『三ヶ野立場跡』15:08旧東海道を左に折れ『二子塚古墳』を訪ねた15:10二子塚古墳所在地:静岡県磐田市三ケ野台10公園の敷地内にある古墳二子塚古墳5世紀後半に造られた前方後円墳で、三ケ野台地にあり、出土品は馬形埴輪・人物埴輪で埴輪と実物がセットで発見された珍しい例だそうで、銅鏡も見つかっている。公園の脇の前方後円墳。長さ55m、後円部の径30m、墳丘3mと結構な大きさ15:15旧東海道は左側へ、丘から下ることに磐田市の汚水マンホールの蓋。 デザインは、磐田市岩井にある桶ヶ谷沼に生息するベッコウトンボ15:23旧東海道を進む15:24左手に進むと『緑ヶ丘霊園』、『善導寺』へ旧東海道を左に入ると『金刀比羅様』、『北向き地蔵』松並木を歩く15:25従是西見付宿。ようやく見付宿に到達したが見付宿西に天竜川を控える見付宿は、川越え宿場として繁昌した。ただ、暴れ川であったこの川は豪雨のたびに洪水をおこしたので、地元住民を悩ませていた。船賃は武士階級が無料、町民・農民は一人六文(132円)である。京都方面から東へ向かう旅人が、はじめて富士山を目にした(見つけた)場所であったため「見付」と名付けられたという。町並み長さは11町40間(約1.3km)で、名物はスッポンと鰻である。奈良時代には国府や国分寺が置かれ、遠江国の政治の中心だった。鎌倉幕府を倒した新田義貞軍が、建武の新政に反旗を翻した足利尊氏軍と戦った地でもある。見付宿からは、浜名湖を迂回して御油に至る姫街道が分岐していた。東大久保の東海道榜示杭とは!。榜示杭は、街道に沿った村や宿の境を示す標柱です。 ここは見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界でした。 文化三年(1806)に発行された東海道分間延絵図(おおくぼ)に【御料榜示杭】の表示があり、その下に境界を表す記号赤丸印があります。江戸時代分間絵図に画かれた街道、榜示杭も画かれていた15:26旧東海道『行人坂』、右側に県道413号線『「行人坂」のいわれ』行人坂:愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり、・・・意訳しますとここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂と言うようになった。この資料は井原西鶴が晩年に執筆し元禄の初めに発行され度々再版された「一目玉鉾」の見付の処に書かれた文です。東京目黒の行人坂は有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂は急勾配で、江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした『行人坂』を登り終わると、旧東海道は県道413号線に合流した。磐田市富士見の歩道橋15:27歩道橋上から見付宿方面同歩道橋上から、右側が登ってきた『行人坂』、左が県道413号線15:29遠州 鈴ヶ森所在地:静岡県磐田市富士見町1丁目白い立て札には、此処は刑場跡ではない。見附形状跡は、昭和31年(1956)国道一号線改良工事により 道路傍下に埋没された。此処は、見付府内に刑場が在った事を記すため、史跡碑建立の場として所有者玄妙寺が管理しているものである。 見付 本立山妙源寺ここが『「鈴ヶ森の刑場跡(三本松刑場跡)』らしいが・・・・。 この刑場を有名にしたのは、あの大盗賊である日本左衛門の首がここで晒されたこと。遠州金谷の生れで美濃から相模の八か国で、五十人~六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、といわれる大盗賊でしたが、江戸の火付盗賊改方に捕えられて、江戸で斬首されこの地に運ばれ晒し首になったといいます。 遠州の鈴ヶ森という名前がついている刑場跡ですが、江戸の品川宿のはずれにも鈴ヶ森刑場があり以前弥次喜多道中で訪ねた。どちらが先に鈴ヶ森という名前を使ったかというと、江戸の品川の鈴ヶ森と。 江戸の鈴ヶ森刑場が設けられたのは、あの慶安の乱(由比正雪の乱)が起こった 慶安4年(1651)に、共謀者である丸橋忠弥を処刑するために設けられたのが江戸の鈴ヶ森の始まり。ということは日本左衛門が活躍したのが延享の時代ですから、慶安の乱からおよそ100年後のこと。おそらく遠州鈴ヶ森という名は、江戸の刑場を代表する鈴ヶ森の名前を拝借したのではと 15:30旧東海道はここから右斜め方向へ、道路標識は左折すると「JR磐田駅」15:31建物は『磐田市消防団 見付方面隊第一分団』旧東海道は、県道277号線(天竜・山梨方面)を横切り『三本松御旅所』。御旅所は神輿巡航の際、神輿が休む場所です。見付天神裸祭や祇園祭の神輿はこの御旅所まで渡御し、御神酒の献上や祝詞の奏上が行われます。また裸祭の道中練りもここで折り返します。 」15:33『三本松橋 別名なみだ橋』かつてこの先の街道筋に遠州鈴ヶ森(三本松)刑場があり、罪人を見送る縁者がここで涙を流し見送ったのであろう15:36見付東坂上にある『秋葉山 常夜燈』秋葉灯籠遠州地方では古くから秋葉信仰が盛んで、各村や町には必ず秋葉灯籠が建てられ、常夜灯として絶やすことなく火が焚かれました。この富士見町の秋葉石灯籠は大正4年に建てられたもので、毎年12月に例祭・秋葉神社祭りが行われます15:38見付東坂を下る急な見付東坂を下る15:40遠州見付宿『木戸跡』 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.25
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袋井宿の西のはずれにある『本町宿場公園』から見付宿へ向けて歩く。4/9(火) 13:45沖之川に架かる御幸橋の両側に常夜燈が立つ 御幸橋は木橋風の橋で、手前の『本町宿場公園』とともに、歴史的風情をかたちづくっている御幸橋から上流の桜並木この先で正面からの宇刈川と右側からの沖之川が合流して沖之川に13:46旧東海道(県道253号線)沿いの『榊原こうじ屋』所在地:静岡県袋井市袋井82軒先の木札に「甘酒・味噌・金山寺・各種大豆」「みそ委託加工所」宅急便で全国配送13:47街道脇に『御料牓示杭跡(ゴリョウボウジグイアト)』従是西掛川藩領川井村、従是東天領袋井宿。万葉歌碑(袋井中学校正門内)旧東海道の左に、故小野千代子様から寄付された用地への感謝の『記念碑』その向かいにあったのが『法多山道』と刻まれた石碑と『法多山 尊永寺 川井別院』 厄除観音・法多山尊永寺はおよそ1290年ほど昔、神亀2年(725)聖武天皇の勅により行基上人が開山した高野山真言宗別格本山である法多山は、勅願定額寺の列に偶せられ、朝廷、武将の篤信を受け信仰、文化の殿堂として栄えている法多山 尊永寺(はったさん そんえいじ) 川井別院。 法多山尊永寺は、静岡県袋井市にある高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。遠州三山の1つ。 本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)13:48その横の十字路の先、右手にあったのが『春興五十三駄之内 袋井』と 左手が『東海道五十三次之内 袋井之図』。13:50川井地区史跡案内13:51旧東海道(県道253号線)の袋井中学校北旧東海道は「袋井中学校北交差点」を横切る旧東海道(県道253号線)を進む13:53ここも『東海道どまん中西小学校』、正式名は『袋井市立袋井西小学校』小学校の隣、左手に洋館造りの白一色の瀟洒な2階建ての建物があった。袋井市指定文化財 旧澤野医院。所在地:静岡県袋井市川井444-1 旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。 澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。13:57旧東海道の右手にあった『寺沢家長屋門』を振り返って。 明治元年(1868)に建てられたと伝えられる東海道沿いには珍しい長屋門である 13:58旧東海道(253号線)と県道413号線の合流「川井交差点」川井交差点手前に、夢舞台東海道道標。ここまでの歩行数は、21,300歩川井交差点手前に、夢舞台東海道道標「袋井市 川井」見付宿 宿境まで 一里十一町(5.15km)。袋井宿 宿境まで 八町(0.85km)14:00右は「狂歌入り東海道 袋井」(初代歌川広重)天保年間。左が「諸国名所百景 遠州秋葉遠景 袋井凧」(二代広重)江戸時代末14:02旧東海道(県道413号線)を歩く14:05旧東海道(県道413号線)を更に歩く途中、街道沿いのコンビニで休憩、弥次さんはカップヌードルを食べる。14:21旧東海道(県道413号線)からの、右に入り14:21夢舞台東海道道標「袋井市 木原松橋」見付宿 宿境まで 一里六町(4.55km)。袋井宿 宿境まで 十三町(1.4km)14:22蔦屋版東海道。松の枝に吊した茶釜で湯を沸かす出茶屋の女主人、キセルをくゆらし、しょざいなく高札を見入る駕籠かき、床几に腰掛け、茶をすする職人風の二人づれ、馬子はいないが、荷物と女性を乗せた馬は軽尻であろうか。街道は遠くの村々へと続き、夕日にはえる山並みとともに、袋井市域のおだやかな夕暮れを思わせます袋井市の防火水槽マンホール蓋14:24街道沿いの右手に『木原一里塚跡』碑。 昔はこの場所に一里塚があったとのことだが、見落としそうな場所にある。ここまでの歩数は、22,500歩14:26『木原一里塚跡』碑から60m先に進むと左手に復元された一里塚が木原一里塚は、江戸から数えて61里目の一里塚です。「東海道宿村大概帳」 (逓信総合博物館蔵)には 「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。木立松。 但、左右之塚共木原村地内」と記され、「東海道分間延絵図」(東京国立博物館蔵) や 「東海道分間絵図」(東京国立博物館蔵) などには 塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません木原一里塚を振り返る14:28許禰(コネ)神社(木原権現社)。所在地:静岡県袋井市木原279神社入口左にあったのが『古戦場 木原畷』と刻まれた石碑と『徳川家康公腰掛石』 神社附近は木原畷といって元亀三年(1572)に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦が行われた地であると徳川家康公腰掛石。関ヶ原の戦の勝利祈願のため、当社を訪れた折、腰掛けたと言われています許禰神社(木原権現社)案内板。遠江では平治元年(1159)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことがわかっています。木原の許禰神社は、かっては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。・・・・・・・・御神木末社 厳島神社(弁天様)。許禰神社境内にある摂社で弁天様をお祭りしている社許禰神社社殿扁額には『許禰神社』と八幡宮と隣に稲荷大神本殿から街道を許禰神社社殿大きなガマガエルの石像古戦場 木原畷(キワラナワテ)元亀3年(1572)秋、武田信玄 は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城・飯田城・各和城を次々に攻め落としました。 信玄は鷲巣の久野城を攻めた後、東海道を西進してここ木原付近に布陣しました。 これに対峙する徳川家康の家臣、内藤信成は磐田の三箇野台から偵察の兵を出したので、木原の集落付近で戦闘となりました。この戦いが「木原畷の戦い」です。 その後、徳川勢は三箇野川、見附宿、一言坂と信玄から追撃を受けましたが、しんがりをつとめた本多忠勝の奮戦があって浜松城へ撤退できたと伝えられています14:36許禰神社前の旧東海道。電柱の下に『長命寺・笹田源吾供養塔』の案内長命寺・笹田源吾供養塔まで80mと。那智山長命寺の境内には、木原大念仏の起源となった笹田源吾の供養塔がある14:37夢舞台東海道道標「袋井市 木原」見付宿 宿境まで 一里二町(4.1km)。袋井宿 宿境まで 十七町(1.8km)道標の横に、袋井市指定無形民族文化財『木原大念仏』案内板。「木原大念仏」は 静岡県西部(遠州地方)の各地に残る「遠州大念仏」の一つ。武田信玄と徳川家康が戦った“三方ヶ原の戦い”の犠牲者を供養する目的で始まった念仏踊りで現在は宗教色は薄れて娯楽性の強い行事となっている。現在各地に70ほどの“組”があり、8月のお盆の時期に新盆の家々をめぐり, 横笛や太鼓などに合わせて念仏を唱えながら踊り死者の霊を弔う14:38県道413号線合流地点手前まで進む。左手に案内板が姿を現す。木原は、元亀3年(1572)に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地としてしられています。 また、武田勝頼軍の斥候(せっこう)笹田源吾 に由来する「木原大念仏」(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。 地区内には、原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(武内許禰(コネ)神社) 長命寺笹田源吾の墓や供養塔、徳川家康腰掛石など多くの歴史遺産が残っています 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.24
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袋井宿は品川から27番目、53次であればちょうどまん中の宿になる。東海道に伝馬制が敷かれた慶長6年(1601)には宿駅でなかったが、掛川宿と見付宿との距離が3里34町(15.6km)もあったので、15年後の元和2年(1616)に宿駅となった。宿の長さは東西5町15間(570m)しかなく、東海道の宿場の中でもっとも短い街並みで、人口も843人という小さな宿場だった。4/9(火) 12:48右側が歩いてきた旧東海道(県道253号線)、ここで県道413号線(旧国道一号線)と合流夢舞台東海道道標「袋井市 東新屋」袋井宿 宿境まで 六町(0.7km)。掛川宿 宿境まで 二里六町(8.4km) 12:49旧東海道(県道413号線)の新屋交差点。旧東海道はここを左折12:50新屋交差点に立つ、夢舞台東海道道標「袋井市 西新屋」 袋井宿 宿境まで 五町(0.55km)。掛川宿 宿境まで 二里七町(8.55km) 新屋の交差点を左折すると直ぐ右手に『旧東海道』の黄色で目立つ案内板が。この様な案内板が旧東海道沿いに充実することを願う12:50新屋 旧東海道マップ。ここから袋井市役所近くの『どまん中茶屋』へ向けて歩く12:52案内に沿って進むと右手に『新屋の秋葉山常夜燈』全周に渡り透かし彫りの彫刻が見事に彫刻が見事新屋の秋葉山常夜燈。火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう12:57夢舞台東海道道標「袋井市 市役所前」 袋井宿 宿境まで 二町(0.2km)。掛川宿 宿境まで 二里十町(8.9km)12:58袋井市役所南交差点、旧東海道はここを右折袋井市役所南交差点からの広岡排水路沿いの桜広岡排水路越えに『どまん中茶屋』と『天橋』桜の花びらが排水路に昔の道標をイメージした新しい道標の石柱『これより袋井宿』袋井宿と天橋。袋井宿は元和2年(1616)に設置された。いわゆる東海道53次でいえば、品川から数えて27番目の宿駅にあたる。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入り口にかかっていた土橋です。天保14年(1843)の調査によれば、宿内の町並みは西端の中川まで5町15間(570m)、人口は843人、家数は本陣3軒、旅籠屋の50軒を含め195軒でした13:03どまん中茶屋。袋井宿の東西に掛川、見付と大きな宿場があったので、おもに休憩に利用された。また遠州三山の可睡斎、油山寺、法多山(尊永寺)という三つの名刹の起点で、参拝客で賑わった。ここまでの歩行数は、18,900歩どまん中茶屋の前に、夢舞台東海道道標「袋井市 袋井宿」見付宿 宿境まで 一里二十四町(6.55km)。掛川宿 宿境まで 二里十二町(9.1km)東海道どまん中茶屋。東海道五十三次のどまん中・袋井宿をアピールし、初代広重の描いた「袋井出茶屋之図」をモチーフに建てられ観光案内所。所在地:静岡県袋井市袋井339 tel:0538-44-8595開業時間:am 9:00 ~ pm 16:00 定休日:月曜日、年末年始袋井 出茶屋ノ図この版画は袋井宿の東の入口を写したものと思われる。宿近くの田んぼの中に建つ出茶屋の風景に、のどかな庶民の旅の姿が感じられる袋井市観光協会が運営する店か?茶屋は小さいが、暖房が効いてとても暖かい、いやこの日には暖かすぎたか?ボランティアのオバチャンがお茶を入れてくれたので、談笑しながらしばしの休憩。ここには、食事提供の機能はなく頂いたお茶を楽しみながら、持っていたオニギリを食べる。茶屋内の囲炉裏端を囲んで一服すれば、話に花が咲きますと、パンフレットに!袋井宿の名物は丸凧と「玉子ふわふわ」という料理だったが、どんな料理だったのか研究試作中と聞く。今は往時の面影はなく「東海道ど真ん中宿」を町興しのキーワードとしている13:26茶屋の前の小さな広場、約30分間ボランティアのオバチャンと談笑東海道の順路13:27『食処 坂口屋』と書かれた木札が掲げられていたが、店は長い間閉店中であるとこれもオバチャンから、トタン屋根も壊れ13:29右手に『秋葉山 常夜燈』13:30旧街道沿いに『白髭神社(しらひげじんじゃ)』の石柱白髭神社の鳥居所在地:静岡県袋井市袋井道路を渡り白髭神社境内へ本堂。祭神は猿田毘古神(さるたびこのかみ)。五穀豊穣を祝い、無病息災を願い行われる大祭・袋井祭りでが、白髭神社を始め、十二所神社、七ツ森神社、赤尾渋垂郡辺神社の四社の例祭として行われると13:33旧東海道まで戻り、次の細道入口に埋め込まれていた『秋葉線軌道跡』。弥次さんが帰宅して調べてみると、静岡鉄道の路面電車跡。袋井駅から北上して遠州森駅まで通っていたのだと。開業は明治35年で、当時はお茶や野菜を袋井まで運ぶ馬車鉄道であったと。その後景気が良くなり電車になり、太平洋戦争の頃は町の人が農家へ買出しに行く電車になって、客が屋根の上にも乗るほど賑わったのだと。しかし車社会になって昭和37年に廃止になってバス路線に代わってしまったのだと13:33旧街道を歩き、その先の右手にあったのが『袋井宿東本陣(田代壱番御本陣)跡』所在地:静岡県袋井市袋井39袋井宿東本陣(田代壱番御本陣)跡袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。 田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の 最高責任者である問屋も勤めています。 本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられて いたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、 間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれますこの場所は平成3年度に発掘調査が行われ、建物の一部が発見されました。 現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。 発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。 この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井がなかったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました13:35東本陣の直ぐ先、左手にあった『袋井宿場公園』。この先は県道253号線の静橋北交差点で、左折して南下するとJR東海道本線の袋井駅此処はどまん中袋井宿 案内図 東本陣の向かい側にある『袋井宿場公園』公園に隣接する建物の壁にも袋井宿の絵が公園の見事な噴水ノズルの形状、水圧に興味津々。北斎漫画 絵手本としての「北斎漫画 袋井」には、石積みのある土塁の間を進む二人の旅人が描かれています。水害にみまわれることの多かった袋井宿は、こうした土塁(土手)に囲まれていたのでしょう。末広五十三次 天橋を越え、東へ向かう大名行列の姿を描いています。 沿道には松並木、宿内から茅葺き屋根の家並みが続き、天橋は高欄付きの板橋です歴史の道 東海道 袋井宿』袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。 「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」 これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。 徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長6年(1601)、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。 袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和2年(1616)年に 開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて27番目、ちょうど 東海道の真ん中に位置しています13:39静橋北交差点を渡り、旧東海道(県道253号線)を歩く13:40東海道袋井の宿『時空を越える道との対話 名所旧跡案内絵図13:40袋井宿西本陣跡13:43旧東海道(県道253号線)沿いにあった、『どまん中 丸凧ギャラリー』13:44旧東海道(県道253号線)を歩き、沖之川の手前左にある『本町宿場公園』。そしてここが袋井宿の西の外れ。本町宿場公園の中に『従是袋井宿』の木柱と『秋葉山常夜燈』この公園にも「土塁」「高札場」など「東海道袋井宿」に因んだものが秋葉山常夜燈。火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道北側にあり、南側約3メートルの円信寺跡には、寛政12年(1800)に建立された常夜灯が今も残っています高札場』幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、正徳元年(1711)以降に整えられました。 高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました土手(土塁)。いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2メートルをこえる土手が写っています。土手の内側には枡形(宿の警護所)がありました。袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両脇に土手を再現しました 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.23
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冨士浅間宮赤鳥居から、旧東海道(県道253号線)を歩く。4/9(火) 12:02旧東海道沿いに『オレンジカフェ 惣菜おにぎり ありがとう』。昼時であったが、残念ながら今日は定休日だ!営業時間:10:30 ~ 14:30、17:00 ~ 19:00定 休 日 :火・水・(週一不定休1日有)12:04旧東海道(県道253号線)沿いの左側の妙日寺参道入口に、日蓮聖人の先祖古跡を示す石碑が建っていた。ここまでの朝からの歩行数は、14,900歩日蓮聖人父母顕彰の寺。日蓮の父貫名重忠は、源平の合戦において平氏に味方したため鎌倉幕府から安房国小湊へ流され、その地で貞応元年(1222)に日蓮が生まれ、父重忠は正嘉2年(1258)にそのまま生涯を閉じました日蓮宗 妙日寺への参道所在地:静岡県袋井市広岡2340-1貫名山 妙日寺(ぬきなさんみょうにちじ)妙日寺入口である『孝養門』。境内東側には日蓮と父母(妙日、妙蓮)の木像が安置されている思親殿が建つ。重忠夫妻の墓は柳生但馬守の建立と伝えられている扁額『孝養門』妙日寺本堂。正慶元年(1332)身延山・久遠寺4世・日善を開山として、貫名次郎重忠の邸宅跡に創建された本堂隣にある堂は、思親殿。この堂の裏側に日蓮聖人の両親の供養塔が配置されているので、拝殿的な役割か。こちらには日像上人ご親刻の、日蓮聖人と両親のご尊像が安置されているとのこと貫名家廟入口妙日・妙蓮両尊儀五輪塔。伝承によると日蓮宗の開祖日蓮上人の両親の供養塔で、正保3年(1646)に柳生但馬守宗矩(むねのり・大和柳生藩主)が寄進した五輪塔である山号は「貫名山(ぬきなさん)」。日蓮の父の法名「貫名山」を寺名としているのだと。井伊家5代目当主・盛直の三男・政直が、遠江国山名郡貫名郷に所領を得て、貫名氏初代になったと境内には多くの慰霊碑、忠魂碑他の石碑が並んでいた正面『孝養門』の右側にふじ棚があったが、開花にはまだ早々であったのが残念孝養門境内には遠州七不思議のひとつ「片葉の葦」がある12:13久津部(クツベ)一里塚が妙日寺の直ぐ先の左手に。徳川幕府は慶長9年2月(昭和47年より368年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時、本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治10年に伐るまでは老松がそびえていて、旅人のよい目じるしになっていたとのことである久津部一里塚の説明板。説明板の右手にあるのが、小ぶりな復元一里塚だが、塚上に松を植えてそれらしいたたずまいである東海道久津部一里塚。一里塚とは、街道両側の一里(約4km)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎や桧がその上に植えられていました。 久津部一里塚は江戸からちょうど六十里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。昭和47年には袋井東小学校創立百年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。 ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました小学校の校門には『東海道五十三次 どまん中 東小学校』の大きな木の看板が掲げられていた。正式には、『袋井市立袋井東小学校』という。袋井宿は東海道の日本橋・京都両方から27番目の宿にあるので『どまん中』と言っているのだ12:16袋井市立袋井東小学校から、旧東海道(県道253号線)を進む12:18旧東海道のこの辺りには道標が多く、大抵の道路分岐点に何らかの道標を見ることが確認でき右側にも油山寺道標と石碑。以前参拝したことがある油山寺は、ここから3.3Kmほど北へ行ったところにある寺で、1300年前に建てられた古刹である12:20秋葉山常夜燈があり、「村中安全」の文字も刻まれていた。そばの木柱に、昭和28年(1953)に久津部地区内の「村中安全」を祈って建てられたと秋葉山常夜燈を振り返る12:21大正4年(1915)に建立された『村松・宇刈道標』道路の向かいには『八幡社入口』の石碑袋井近代教育発祥地『用行義塾跡』の案内、ここから50m村松・宇刈道標の石碑がある所を右折してすぐ右側に『用行義塾跡』。所在地:静岡県袋井市国本2087用行義塾は、「学制」が発布される一年前、明治5年(1872)に民間の有志が共同出資して設立した、袋井で最初の近代教育を行う郷学校と言われた学校です。袋井東小学校に残る用行義塾版木に刻まれた設立趣意書には、福沢諭吉の「学問ノススメ」に強く影響され、広く世界に目を見開き、教育の重要性を認識していたことが記されてい ます用行義塾跡から旧東海道(県道253号線)へ戻る12:25法多山道標と石碑12:28油山寺道標久津部に残る明治37年(1904)の油山寺道標。「あぶら山ミち二十七丁」と刻む12:30旧東海道(県道253号線)を進む12:31『隷書東海道五十三次 袋井 初代歌川広重 嘉永2年(1849)』12:34旧東海道(県道253号線)の松並木を進む12:35街道沿いの『七ツ森神社』所在地:静岡県袋井市国本2568七ツ森は 田圃(タンボ)の真中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩主高力猿猴庵が天明6年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれてい ます。その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社ですこの七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺には久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます七ツ森神社の由緒。創建年代不詳、往古の郡辺神社と云う。大化の改新前久努国あり、印幡足尼を国造となす。国造は世々に久努に住す。為に国造の遺霊を郡辺村に祀り祭神となす。927年完成した延喜式神名帳に「遠江国山名郡式内郡辺神社」と所載す。後世神社は原野谷川の大洪水にて宝物古文書等全てを流失。社は高部村に漂着し村人により厚く祀られ明治34年渋垂神社に合祀さる。流失年代不詳。以来当神社の社名は世々に於いて変り久努神社、賀茂神社に偲ぶ事か出来る。徳川時代は朱印高七石、明治6年村社に列格し昭和20年宗教法人「七ッ森神社」の認証を受け静岡県十三等級社となる。平成5年3月放火により社殿を焼失す。社殿は同年10月再建したるものなり左奥に『社殿』、右側に『七ツ森稲荷大明神』の朱の鳥居神社奥にある神木の「袋井の名木古木 七ツ森久努神社のシイノキ」。樹高 15m、目通り幹囲 6.7m、推定樹齢 200~299年鳥居の手前に、「久野城見ゆ 1.1km」本堂裏から戦国時代の城跡、久野城がとてもきれいに見えますと境内裏からの久野城。久野城は明応年間(1492~1501)に、今川氏が遠江(静岡県西部地方)へ攻め込む拠点として築城されたとして伝えられています。城址は、舌状に張り出した丘陵の先端を利用した戦国時代の平山城の様子をとどめています12:40七ッ森神社を後にし、旧東海道を進むと直ぐ左手にあったのが 『双筆五十三次 袋井』の浮世絵が。 「双筆東海道五十三次 袋井」は、歌川国貞が人物を描き、歌川広重が風景を描くという、当時浮世絵界の大御所と言われた2人の合作の東海道五十三次ですここ袋井市の道のいたるところに、東海道五十三次のポスターなどが貼られており街道の風情や佇まいに思いを馳せることが出来るのであった江戸幕府が整備させたと言われる松並木の一本道は、広大な田園風景とともに当時の面影を残していた12:43東海道松並木。主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。 「信長公記」 には天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」 と記され、慶長9年(1604)には徳川秀忠が 「諸国街道一里毎に、候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」 と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが 「徳川実紀」 に記されています。 江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を 減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、 江戸時代の面影を今に伝えています。また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。 入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています初代歌川広重作山田屋版『行書東海道五十三次之内 袋井』12:44旧東海道沿いに『是より可睡三尺坊道』。これは曹洞宗の寺院 「可睡斎」 への道標である。応永年間(1394~1428)道元の法孫・如仲天誾和尚が草庵を結び、後東陽軒と称したのが可睡斎の始まりで、江戸時代、徳川家康の帰依を得て、駿河・遠江・伊豆・三河4ヶ国の僧録司の職を与えられ、寺号を可睡斎と改めた12:45新しいタイプの道路標識← 掛川市境まで 3.0km 磐田市境まで 4.0km →冨士浅間宮赤鳥居近くからここまでの2kmに約50分を要した 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.22
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沢田I/C南から旧東海道(県道253号線)の単純な松並木をひたすら歩く。4/9(火) 11:02沢田I/C南交差点の右手公園の奥にある『高松神社』所在地:静岡県掛川市沢田左手の「高松神社」を振り返る、正面が旧東海道11:05現国道一号線・掛川バイパスを潜り、旧東海道(県道253号線)はバイパスを左手に見ながら進む右斜め方向へ進む。後方の交差点で、掛川バイパスと県道415号線が合流している旧東海道、県道253号線は「掛川袋井線」11:08東名高速道路の高架旧東海道を偲ばせる松が残る。左手は、浜松運輸 掛川営業所、大和鍛工の工場東名高速の下を潜り、前方に見えてきたのが垂木川(タルキガワ)に架かる『善光寺橋』11:12垂木川に架かる「善光寺橋」善光寺橋から旧東海道を振り返る、垂木川の上流方向と東名高速道路の高架垂木川の下流、国道一号線の橋旧東海道(県道253号線)を進み、右手に「善光寺・仲道寺」11:14善光寺・仲道寺(チュウドウジ)入口所在地:静岡県掛川市岡津331仲道寺は、江戸と京都のちょうど真ん中にあることから仲道寺と寺号が付けられたと左が『善光寺』の『如来堂(阿弥陀堂)』。 信州の名刹善光寺と同名の寺が何故ここにあるのか沿革がはっきりしないが、 阿弥陀堂に祀る阿弥陀仏は平安時代の武官、坂上田村麻呂の守り本尊と伝わると。右に『仲道寺山門』仲道寺本堂 享保18年(1733)善光寺境内に堂を建て、正法寺(掛川市高御所)の和尚を招き開かれたのが仲道寺とのこと、つまり先に善光寺がここにあったらしい仲道寺本堂前から山門。御朱印を頂くために列をなしているとの投稿が街道沿いにある説明板11:19旧東海道(県道253号線)の松並木を進む『原川松並木』。善光寺、仲道寺を過ぎると袋井宿の新屋までのあいだ、断続的に松林が続いていた。また石碑もたくさん現れて来た江戸時代の松から何代目になるのか整備されていた松並木廻りの田園風景、数百年前の旅人も見たのであろう11:24旧東海道松並木 岡津~原川 の案内板官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後、江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです夢舞台東海道道標「原川松並木」。 袋井宿 宿境まで??町(??km) 掛川宿 宿境まで??町(??km)11:25旧東海道左手に、掛川市領家にある原川薬師こと『金西寺』所在地:静岡県掛川市領家原川松並木周辺案内図曹洞宗 南泉山 金西寺本堂当寺は、薬師瑠璃光如来を本尊とする。門前には薬師餅を売る茶店や酒屋等が軒を連ね、行き交う旅人で賑わったという桜も満開で我々を出迎えてくれた境内右手奥に石仏の祠が並ぶ金西寺の手前には『間の宿原川』の解説板が立っていた。宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。原川は掛川宿まで一里十八町(約6km)、袋井宿まで三十三町(約3.6km)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四十六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました11:28旧東海道(県道253号線)沿いの左手に、寿司・仕出し・宴会を楽しめる『片浜屋』。所在地:静岡県掛川市原川27向う隣には、『割烹旅館 椎の木』、旧東海道はこの先を左折して「同心橋東交差点」11:31国道一号線の同心橋東交差点直進は掛川方面、右方向は「JR愛野駅」、後方が袋井宿方面11:32同心橋東交差点で旧東海道が現国道一号線に合流して進むと、日本橋から234kmのキロポスト標示、掛川方面北側を東名高速道路が走る11:33旧東海道(国道一号線)の原野谷川に架かる『同心橋』からの上流側11:34同心橋を渡り終え、左に袋井市と掛川市の境原野谷川の堤下に咲く桜。この辺りで旧東海道は南に折れる11:38しばしiPhoneで旧東海道を確認、国道一号線は交通量も多く横断歩道がなかったので原野谷川の堤を下り、国道一号線のカルバートをくぐり旧東海道へ進むカルバートをくぐるとすぐに、「原野谷川やすらぎの小道 同心橋」の道標そこに、桜が満開の『花茣蓙公園(ナグリハナゴザコウエン)』所在地:静岡県袋井市国本江戸時代には茶屋があり旅人が一服したところ東海道五十三次之内 袋井宿 出茶屋ノ図掛川から9.7キロ。この絵は宿外れの一風景で、出茶屋とは街道のよしず張りの簡単な休み所のこと。旅人はこうした茶屋で足を休め、喉の渇きを潤していました。うっそうと茂る大樹の枝からやかんを吊るして火加減を見る茶見世の女、立ちのぼる薪の煙、実にのどかな風景です。左手に絵をよせ、右手は取り入れの済んだ野面と村落、草むらの立札で画面のバランスをとっています。立札にとまっているのは燕公園の後方は国道一号線(旧東海道)11:44旧東海道(県道253号線)進むと左手に、「名栗の花茣蓙」の駕籠(カゴ)風看板が迎えてくれた。横の壁面には「袋井丸凧」の絵が描かれていたこの駕籠の如き小屋は自治会で使用するゴミの保管庫のようであったがあいうえお運転旧東海道(県道253号線)の松並木11:46東海道松並木案内板が左手に。江戸時代の東海道沿線の村々を記録した「東海道宿村大概帳」には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。 東海道の松並木は、慶長9年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と「徳川実紀」は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。 明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました『東海名所改正五十三驛 東海名所改正道中記 袋井 見附迄一り二十丁』三代 広重作とのこと松並木に桜も満開11:47歩道は一段下がり、東海道の松並木がいまなお残されていた『歴史の道 東海道検定』案内11:49童とともに凧あげを見上げる旅人を描いている。四角凧は大人が二人掛りであげている。その隣には袋井丸凧も上げられている。 その後、一旦は丸凧の伝承は消えて、凧上げの風習もなくなっていたが、昭和62年、市内の、有志の尽力により郷土に伝わる丸凧の文化が再現されたと 11:52両脇の工場群の花壇も手入れが行き届いていた11:54『東海道五十三次之内 袋井 歌川芳員』 歌川派の多くの浮世絵師が東海道五十三次シリーズを描いていますが、芳員が描いたこのシリーズは、各宿場にまつわる伝説や逸話を面白おかしく紹介しています。 全般的に横小判の絵の中にはユーモラスな図柄が多いとも言われます。 振り分け荷物と菅笠を放り出し、両手を合わせて命乞い。 農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手は 「案山子(カカシ)」、早とちりな旅人に農夫もあきれ顔です。 ユーモラスな場面の背後には松並木が続きます。東海道袋井宿近くの夕暮れです11:54冨士浅間宮赤鳥居鳥居縄手・冨士浅間宮本殿まで800mと所在地:静岡県袋井市国本冨士浅間宮赤鳥居。 赤鳥居と呼ばれ親しまれているこの鳥居は、東海道分間延絵図にもその姿が描かれ、 重要文化財で木花開耶姫命を祀る冨士浅間宮本殿までの参道の入口に建っています。 現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、周辺には多くの工場が 立ち並んでいるために、鳥居だけが取り残されたように見えますが、江戸時代には 東海道から木々の間に社殿を見渡すことが出来たようです旧東海道(県道253号線)を歩いてくると、右手に大きな朱の鳥居が立てられていた。扁額には『富士浅間宮』、掛川宿方向鳥居の後ろに立つ石柱11:56新しいタイプの道路標識← 掛川市境まで 1.0km 磐田市境まで 6.0km →まだ今日のゴールまで6.0kmだ! 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.21
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松ヶ岡(旧山崎家住宅)から、快晴の桜満開の街道を歩く。4/9(火) 9:59松ヶ岡(旧山﨑家住宅)を後にし、旧東海道に戻り進み右手に曲がるとカーブの正面に常夜燈と松の木が十九首塚史跡公園 周辺案内図東光寺の奥には天慶3年(940年) 天慶(てんぎょう)の乱で没した平将門をはじめとする19人の首級(しゅきゅう)を祀る首塚がある案内図を拡大かけがわ おすいマンホール。掛川城天守と市花キキョウがデザインされていた10:00ここは『東光寺』の山門境内に咲いていた花東光寺本堂。当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました本堂の『扁額』その後、兵火により焼失した、慶応3年(1867)玉澗観嶺和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っている10:04十九首(じゅうくしょ)公民館前の桜が満開10:06平将門十九首塚平将門とその一門19名の首級を祀る首塚。平将門を討った藤原秀郷が、首級を携え上京。掛川宿で勅使の検視を受検後、「逆臣なりとも滅びた後は屍に鞭打つは非礼」と首を埋葬し懇ろに供養したと伝わっていると。将門の大きな五輪塔を取り囲むようにして18基の首塚がここは「平将門」の首級を祀る十九首塚 です。人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に桓武天皇の五代の孫で相馬小太郎将門という武将がおりました。承平五年(935年)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3年(940)2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております廻りには民家が建ち並び。十九人全ての人物の名前が墓碑に刻まれていた逆川(サカサガワ)に架かる『将門橋』この辺りの逆川の堤は「緑の精神回廊」と言われ、秋には彼岸花が咲く逆川の堤から、十九首塚史跡公園の『平将門十九首塚』所在地:静岡県掛川市大池逆川の堤にある案内板逆川に架かる「将門橋」水源橋10:10逆川の堤の桜は満開、秋には彼岸花が咲く『緑の精神回廊』逆川の上流側にある『将門橋』、右前方下に『平将門十九首塚』満開の桜静岡県下の桜は、今年は何故か1週間遅い開花か?河川に咲く菜の花逆川遊歩道の桜を楽しみながら歩く前方に「逆川橋」10:15桜が満開の「逆川遊歩道」もここで終わり旧東海道へ10:16逆川の堤を歩き逆川橋で旧東海道と合流。この先の「二瀬川交差点」を左折して旧東海道(県道415号線)、日坂八坂線へ道路脇に国道一号線、日本橋から230.1kmとあるが。掛川バイパスが完成してから、この国道一号線は県道415号線に・・・・・10:23旧東海道(県道415号線)を歩き、大池橋へ二級河川太田川水系「倉真川」に架かる「大池橋」広重の『東海道五拾三次の内 掛川 秋葉山遠望 広重画』に描かれている橋はこの『大池橋』であると橋を渡ると「曹洞宗 殊勝寺」の石柱。倉真川の上流、大池橋下で逆川と合流して下流は逆川に大池橋を渡ると五叉路になっていて旧東海道は南に折れるが、北西の道は火防の神として知られた秋葉山へ通じる道。秋葉道入口には明和6年(1769年)建立の常夜灯2基、安永9年(1780)建立の青銅製鳥居があり、多くの参詣者が往来し賑わった。嘉永7年(1854)常夜灯と鳥居が大地震により倒壊、後に木製の鳥居に建て替えられ、明治24年(1891)掛川森往還の開通に伴い移転、昭和8年(1933)道路拡幅により撤去されたと。現在は入口近くの右側に小さな鳥居が建てられていた。平成21年本宮御鎮座千三百年記念事業として秋葉神社掛川遥斎所の社殿が改築されたと。更に鳥居町という名前が今でも残っているとのこと。ちなみに、江戸時代の大池橋は土橋だったのだと。交差点の右奥の駐車場には『秋葉山 本宮』の大きな案内板が2枚直進は日坂八坂線の県道415号線、旧東海道はここを左折して県道253号線を南下『大池橋』の道標と『大池橋と秋葉街道』案内板夢舞台東海道道標「大池橋」。袋井宿 宿境まで一里三十五町(7.7km)、掛川宿 宿境まで十三町(1.4km)大池橋と秋葉街道。大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.8m)余りの土橋と記されています。東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから9里(約35㎞)余りの道のりです。常夜灯は、明和6年(1769)に、鳥居は安永9年(1780)に建てられたものです。この鳥居と常夜灯は、嘉永7年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。東海道は、鳥居の手前で左に折れます10:27旧東海道は県道253号線を南下10:29『芭蕉天神』の石碑10:31鳥居町交差点と前方は天竜浜名湖鉄道の高架天竜浜名湖鉄道「西掛川駅」10:32天竜浜名湖鉄道のガード下を歩き。静岡県掛川市の掛川駅から浜松市天竜区の天竜二俣駅を経て、湖西市の新所原駅に至る天竜浜名湖鉄道が運営する鉄道路線。 東海道本線から分岐して内陸部に入り、浜名湖の北岸を巡って、再び東海道本線に合流しており、掛川 - 豊橋間の北回りバイパス線ともなっている路線である天竜浜名湖鉄道に咲く桜10:37旧東海道(県道253号線)、上矢山中黒田線を歩き。街道を右に曲がり進むと道路の先に『白山神社』。所在地:静岡県掛川市大池10:40日蓮宗 大光山 宗心寺所在地:静岡県掛川市大池896旧東海道(県道253号線)の右側にある「宗心寺 山門」宗心寺 本堂。五十九代宇多天皇寛平6年(894)頃の創建と云われている。 元は法多山尊永寺の末と伝えられ、現在は日蓮宗だが昔は真言宗であった。 創建以後三百八十年経ち、文永年間鎌倉の大光山本圀寺の好堅院日教聖人が、当地に布教し、当時宗心寺住職中道院阿闍梨法師と法輪の末、阿闍梨法師は日教聖人に折伏され当寺を日蓮宗に改宗した。聖人より大光山の山号を頂き、大光山宗心寺と山寺号を改めた。中道院阿闍梨法師は日教聖人の弟子となり中道院日法と改め、日教聖人を当寺の開山とし日法聖人が二世となる。掛川では最も古いお寺のひとつと云われる10:48蓮祐寺の門前にある『大池一里塚跡』の道標。 北塚は大池村内、南塚が長谷村地内に存在した一里塚だが両塚とも現存せず。 江戸日本橋から59里目(約232km)、京三条大橋からは59番目で実測約285km地点。ここまでの歩数は、8,100歩日蓮宗 蓮祐寺所在地:静岡県掛川市長谷225-1 日蓮宗、釈迦牟尼如来を本尊とする蓮祐寺の『本堂』 慶長20年(1615)大阪夏の陣落城のおり、服部又一郎が供をつれ京より下り、当地に移り住む事と成った。時代は変わり明治の世となり、服部一族は貫名山妙日寺に帰依し、蓮成院日淨上人にお願いをして、当地へ法華経を広める為に布教所を創立したのが当寺の始まりであると伝えられる旧東海道(県道253号線)沿いにある、「日蓮宗 蓮祐寺」10:52更に旧東海道を進むと『大池の名残松』が姿を現す10:53逆川に近づき緩い坂に弥次さんも元気に10:54道路を掘り下げたのか?松の根が上がり11:00旧東海道(県道253号線)沿いにあるこの建物は???高い煙突があるが廃業しているのか11:02旧東海道(県道253号線)を歩き、正面に現国道一号線・掛川バイパスの高架橋。交差点は、沢田I/C南 掛川宿から見付宿ー続く
2019.06.20
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青春18きっぷを利用しての最後五回目の4/9(火)の弥次喜多道中記です。この日もいつもの電車(茅ヶ崎発:6:15)でJR掛川駅へ向けて出発。今年の静岡県下の桜の開花は遅れていたので満開の桜を期待して。有効期間が4月10日でどうにか期限内に利用できた青春18きっぷを利用しての差益は『14,850円』でした。天竜川以西は移動時間が片道3時間以上になるので、これからの移動をどうするか?4/9(火) 7:53三島駅で静岡行き電車に乗換、先頭車両に乗り込み撮り鉄に挑戦(富士駅手前)7:57 富士川鉄橋を渡る8:03 蒲原駅手前蒲原宿で食べた『桜えびの黄金丼』が美味しかった沿線の桜も満開に8:05 由比駅手前の東名高速道路の高架橋8:07 由比駅構内から正面の山に「薩埵峠」のある薩埵山由比駅を出て、薩埵峠への道が見える8:10 この辺りは平地がなくJR東海道本線、東名高速道路、国道一号線がある交通の要衝東名高速道路の高架橋8:12 興津駅手前の興津川を渡る8:14 興津駅を出て、左側に4月3日(水)に訪れた清見寺への坂道、桜が満開清見寺の跨線橋、右上に清見寺がある8:17 清水駅舎8:25 東静岡駅手前東静岡駅舎8:28 静岡駅手前8:29 静岡駅、ここで浜松行きに乗換9:17 掛川駅へ到着左は東海道新幹線ホーム9:20JR掛川駅前広場掛川駅からは「天竜浜名湖鉄道・天浜線」が出る今日は、袋井宿、見付宿のJR磐田駅まで歩く。『掛川宿』。葛川一里塚から、東海道53次の26番目の宿場「掛川宿」へ入る。掛川宿は、秀吉の時代に掛川城城主となった山内一豊は、町割りや川の改修などを行い城下町の礎を築いた。その城下町の中心を成した、掛川宿の町並みは長さ東西8町(870m)で、短い割に人口は約3400人もあった。掛川の特産は葛布とお茶があり、他に足袋、藍鮫(刀の柄に巻くサメ皮)があった。葛布は葛の蔓の繊維を横糸に、綿、麻、絹を縦糸に織ったもので、水を弾くため合羽や裃、袴などに使われた。太田南畝(ナンポ)は「小田原や駿府の城下町にはなかった書店がある」と感心し、また「この宿は飯盛り、遊女なし」と記しており、お堅い宿であった9:27 掛川駅から北へ向かい、旧東海道(県道37号線)の連雀西交差点を右折。直進すると「掛川城」へ9:28旧東海道(県道37号線)は、この日も早朝なのかシャッター街。右前方に、老舗『伊藤菓子舗』所在地:静岡県掛川市中町3-17旧東海道沿いにある老舗『伊藤菓子舗』で、創業は明治25年から和菓子づくり一筋の店。なかでもオススメは「本かすてら」と「黒黄金(クロガネ)どらやき」であると9:30旧東海道(県道37号線)の中町交差点中町交差点角にあった『清水銀行掛川支店』建物の外観はどうみても銀行ではなく歴史資料館のたたずまい清水銀行の外壁にあった、千代と駿馬に乗る山ノ内一豊のレリーフ天正18年(1590)、掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。 若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。 後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った中町交差点にある、明治22年創業の老舗『甲州屋仏具店』9:32旧東海道(県道37号線)、掛川浜岡線の中町交差点にある『清水銀行』旧東海道(県道37号線)を振り返り菊川方面9:35旧東海道(県道37号線)沿いにある『田村畳屋』街道を歩いていると何処の宿場へ行っても畳屋が一軒はある畳店の横にある『掛川城蕗(フキ)の門』奥に「円満寺本堂」この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。 廃城後の明治5年(1872)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。その時に、柱の下を二尺五寸(約七十六センチ)切り取って山門にしたといわれている 門の扁額には『冨貴門』の文字9:40円満寺から西へ100mほど進み、左手に『徳雲寺』の石柱路地の奥に『徳雲寺』の墓地があり桜が満開曹洞宗 紅玉山 徳雲寺天正19年(1591年)時の掛川城主山内一豊の名により城北土田窪(ドタンクボ)より現在地西町に移る。元真言宗であり、草創年代等一切不詳なれど、真如寺二世巨山聚鯨和尚に請じて開山となると伝えられる。曹洞宗になってからの開山を慈門供公和尚境内には『お掃除小僧』9:44桜が満開の道を歩き、『平将門十九首塚』を探す9:45市指定建造物『松ヶ岡(旧山崎家住宅)』&明治天皇掛川行在所。『長屋門』松ヶ岡は、十王区にある江戸時代末期に建てられた掛川藩の御用商人山﨑家の住宅で、厳選された建築材料と丁寧な加工が施されているのだと。 庭園には池(堀)や多くの灯籠、沓脱の鞍馬石のほかに、「松ヶ岡」の名の由来となった多くの赤松が残っていた建物の入り口に貼られた、一般公開は、毎月第4土曜日で午前10時から午後3時まで。次回公開は4月27日(土)ですとあきらめて帰ろうとしたがタイミングよく市関係者の方がおられ、「短時間なら見学してください」と言われ開門案内していただく。松ヶ岡は江戸末期の豪商の屋敷構をほぼ原形のまま残しており、明治天皇の行在所という、歴史上の出来事のあった場でもあることから、大きな建築史的な意義を持っている建物である庭に咲いていたアヤメこの「松ヶ岡」(旧山﨑家住宅)は、江戸時代後期に掛川藩の御用達を務めた、豪商山﨑家が安政3年(1856年)に建築。2019年でちょうど築163年になると。 江戸時代の屋敷構えを良く残すと共に、明治以降の増改築による近代和風建築の格式高い空間も併せ持つ文化財的価値が高い建物であった松ヶ岡に住んでいた山﨑家の人々の活躍は多方面に及びました。 例えば、8代目 山﨑千三郎は郷土の発展のため「掛川銀行」の設立や、大井川疎水計画、東海道鉄道の誘致などに多くの私財を投じ、インフラを整備しました。 初代掛川町長にも就任し、掛川市の基礎を作り上げた人物といえます。また、千三郎の甥・覚次郎は東京帝国大学教授として「金融論」「貨幣論」の先駆的な研究をしました。銀行や貨幣の役割や金融の理論を紹介し、日本の金融論の基礎を築いた研究者となりました平成24年12月、所有者が松ヶ岡を処分するという意向を示した。しかし、市民から取り壊しを惜しむ声が上がり、市が購入することになり現在に至ると。元所有者は、現在「茅ヶ崎で動物病院を開業している」とのこと奥には逆川から水を導いていたという堀跡も9:50市関係者の好意で約5分間の見学ができた。ここ松ヶ岡は約160余年前の建築としては、良好な状態を保っているが、屋根等の 傷みが進んでいる部分も多々あると。このままだと、傷んだ部分から崩壊していく 恐れがあるため修復は喫緊の課題だが、文化財建造物の修復には多額の費用が掛かり、市の予算のみでは大変厳しい状況であると。 松ヶ岡という素晴らしい財産を後世に残し伝えていくため、寄附を募っているのだと、係の方から説明を受ける 掛川宿から見付宿ー続く今日から、中国の東北地方(旧満州)へ行ってきます。ツアー参加者は申込時はキャンセル待ちであったが、最終的には何故か11名とのこと。今回の旅が天気の良いことをまた何もないことを祈ります。今回の旅の動線は(成田から)哈爾浜(ハルビン)→ 長春 → 瀋陽 → 丹東 → 大連 → 203 高地 → 大連因みに、哈爾浜の北緯は日本の稚内、大連は仙台の北辺りご安全に!! END
2019.06.19
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掛川城周辺を散策後帰路に着く。4/3(水) 15:56本丸広場からの天守閣天守閣今年の桜の開花は遅かったようだ本丸広場の「太鼓櫓」太鼓櫓。掛川城の太鼓櫓は、城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた櫓で、何度かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から荒和布(アラメ)櫓のあった現在の位置に改築の上、移築されました。なお、当時使われた大太鼓は二の丸御殿の広間に展示されています16:03四足門と太鼓櫓二の丸御殿つつじと二の丸御殿16:05掛川城周辺案内16:07大日本報徳社の大講堂(国指定重要文化財)仰徳学寮掛川の大日本報徳社は、二宮尊徳(金次郎)が農村の救済を実践する中で提唱した『報徳の思想』を普及する活動拠点です。その敷地内には、明治17年(1884)に東京の霞ヶ関に建てられた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)邸の建物の一部である、仰徳(こうとく)記念館と仰徳学寮があります。両建物は、昭和13年(1938)に宮内庁から下賜(かし:授けられること)され移築したもので、現存する宮家の建築として貴重な建物で、掛川市指定文化財となっています仰徳学寮16:10ステンドグラス美術館掛川市ステンドグラス美術館。当美術館は、市内の医師鈴木政昭氏から、展示施設と長年収集されたステンドグラスを寄贈していただき、平成27年(2015)に開館した。鈴木氏は半世紀前、訪欧時に教会で見たステンドグラスの美しさに魅了され、以来19世紀のイギリス、フランスのステンドグラスを中心に長年に亘り数多くの作品を収集されてきた。弥次さんは入館したが私は他の場所へ16:12竹の丸周辺案内図竹の丸いつ頃から竹の丸と呼ばれていたのか明らかではないが、18世紀初頭に描かれた「遠州懸河城郭図」には、「竹ノ丸」という表記が見られるのだと。江戸時代より続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が本宅として建築した建物。「葛布」とは、山野に自生する葛の繊維を織り上げた布のこと。掛川の葛布は、なんともいえない優雅さと、絹や麻にないやさしい、落ち着いた渋みのある光沢を兼ね備えているのだと。江戸時代には、公家の直垂、狩衣、武士の陣羽織、裃、火事羽織、道中着などに用いられ、遠州掛川がその特産地として有名であったと。明治維新後は武士や公家による需要が無くなり、代わって輸出用の壁紙を生産するようになった。戦後は外貨獲得の輸出産業として、掛川地区を中心に発展したのだと主屋は明治36年に建造され、桁行10間、梁間7間半の平屋建寄棟造。離れは大正末期から昭和初期にかけて、平屋建から二階建に増築されたと。昭和11年、邸宅は当時の掛川町に寄贈され、現在も掛川市で管理しているのだと周辺案内図竹の丸周辺からの掛川城天守閣16:21(公社)大日本報徳社大日本報徳社は二宮金次郎(尊徳)の報徳思想(日本人の心)を伝承する大本山(本社)。敷地内には、明治初期の木造建造物群がある。「大講堂(国指定重要文化財)」と右に「仰徳学寮・事務室(静岡県指定文化財)」淡山翁記念報徳図書館(静岡県指定文化財)「仰徳記念館(静岡県指定文化財)」と正面奥に「淡山翁記念報徳図書館」16:26大日本報徳社正門(静岡県指定文化財) 16:31陽が下がり、天守を後にする掛川城大手門、右に『大手門番所』が向かい合うように建っている。大手門は掛川城の正門。本来の位置は50mほど南にあり、現在の建物は平成7年(1995)に復元されたもの。楼門造りの櫓門は、木造瓦葺き入母屋造りになっている。大手門を入ったところに大手門警備の侍の詰め所である江戸時代の大手門番所がある大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、場内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。 明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩主谷庄右衛門が居住用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。 大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。 発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた 正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました 掛川城大手門の復元について。 この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。 天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。 建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7m)、奥行は三間(約5.4m)、棟までの 高さは三十八尺五寸(約11.6m)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に一間巾(約1.2m、高さ約2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。 鏡柱は二尺二寸(約66cm)に一尺五寸(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て 大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政5年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。 元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十m北側に創建当時の姿に復元しました。 この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。 大手門から見る天守が一番美しいといわれます。 この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください16:33大手門16:35大手門から100mほどの道路沿いに「ゲイスベルト・ヘンミィの墓」鎖国時の江戸時代では、貿易のための窓口である長崎の出島から江戸城へ、 将軍に拝謁して献上品を送り貿易通商の御礼言上をしに 年に1回、時に4年に1回 出向くのが習わしであった。 寛政10年(1798年) オランダの使節団の一人 ゲイスベルト・ヘンミィが将軍に謁見し帰路途中、掛川で投宿時に持病が悪化し、亡くなり、ここ天然寺に葬られた道路沿いのこちらにも多くの墓石が天然寺山門所在地:静岡県掛川市仁藤町浄土宗泉洞山 天然寺天然寺本堂16:38ゲイスベルト・ヘンミィの墓と墓石。かまぼこ型の墓の表面には、オランダ語でその由来が書かれている16:39帰路に再度、大手門、天守閣を大手門前の交差点より見る。この辺りからの天守閣の眺めが一番だと!JR掛川駅方面から大手門を振り返る16:41JR掛川駅へ向かう、ビルはホテルドーミイン掛川16:44正面にJR掛川駅JR掛川駅に向かう途中の歩道にあった像「たかいたかい」駅前にて、弥次さんと「暁光」の像16:47JR掛川駅前この像は「仰」二宮金次郎の像と掛川駅舎『スローライフの街 掛川』とのことだが、・・・・・16:53掛川駅までの歩数は、30,600歩16:54掛川駅改札口弥次さんがビールを購入に駅前のコンビニへ走る16:58JR掛川駅ホーム16:5917:03発の熱海行きに乗車することに新幹線ホームへの連絡道17:00我々は青春18きっぷを利用して普通電車で帰る17:04熱海行きの電車が来る。これから3時間かけて茅ヶ崎へ!青春18きっぷの有効期間が4月10日であるため、来週の天気をみて再度掛川駅へ向かう予定。今日一日の歩行数は、31,914歩でした。 金谷宿から掛川宿ーEND
2019.06.14
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掛川宿葛川一里塚から、東海道53次の26番目の宿場「掛川宿」へ入る。掛川宿は、秀吉の時代に掛川城城主となった山内一豊は、町割りや川の改修などを行い城下町の礎を築いた。その城下町の中心を成した、掛川宿の町並みは長さ東西8町(870m)で、短い割に人口は約3400人もあった。掛川の特産は葛布とお茶があり、他に足袋、藍鮫(刀の柄に巻くサメ皮)があった。葛布は葛の蔓の繊維を横糸に、綿、麻、絹を縦糸に織ったもので、水を弾くため合羽や裃、袴などに使われた。太田南畝(ナンポ)は「小田原や駿府の城下町にはなかった書店がある」と感心し、また「この宿は飯盛り、遊女なし」と記しており、お堅い宿であった。4/3(水) 15:12葛川一里塚、日本橋から58番目の一里塚。所在地:静岡県掛川市葛川掛川市内案内図掛川は東海道53次の26番目の宿場です。「掛川」という地名は、市の中心部を流れる「太田川」の支流「逆川」が、両岸に懸崖が多いので、古くは「懸河(カケガワ)」と言っていたところかららしい夢舞台東海道道標「馬喰橋一里塚跡」。← 掛川宿、日坂宿 →15:13逆川に架かる馬喰橋(バクロバシ)を振り返る。旧東海道沿いに立つ「掛川名物 振袖餅」の看板敷地内にあった「掛川宿名物 振袖餅」「もちや」の石碑。 「もちや」は江戸時代後期創業の老舗和菓子店。名物の振袖餅は、当初の平たい形から着物の振袖に見立ててその名が付いたとされる15:14残念ながらこの日・水曜日は休業日のため現代の振袖餅は買えず食べれず。菓子処 もちや所在地:静岡県掛川市葛川228-1生憎水曜日で休み掛川市の汚水マンホール蓋。もちろん掛川城をデザイン15:18旧東海道はこの先を左手に曲がると『七曲』のスタート地点だが、解りずらかった旧東海道の七曲の標識がなく、最初左側の道へ行き引き返す旧東海道は左側へ進み東海道線に向かって歩く15:21JR東海道線に向って歩き、この先を右折15:23正面に『秋葉常夜燈』、これが左折への目安15:26『塩の道』碑。 静岡県の西部地域は古来遠州とよばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、 神社仏閣に詣でる道が、各地にできていたこの中でも、秋葉街道と重なる「塩の道」や太平洋岸の「横須賀街道」は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。「御前崎」方面への道が示されていたそして「かぎの手(クランク)」に入って行った夢舞台東海道道標「掛川宿東番所跡」。掛川宿 宿境まで??町、日坂宿 宿境まで??町七曲りの案内板。葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲は、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲の終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。 新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和6年(1620)町として認められました15:28七曲の案内板が左側に小さく15:29そしてこの先の駐車場の角を今度は右折旧東海道を県道37号線に向って歩く15:30ここを左折して県道37号線へ、ここで「七曲」を完歩。弥次さんのナビがなければ間違っていた15:31旧東海道(県道37号線)の掛川浜岡線、「仁藤町交差点」。ビルは、ホテル「ドーミーイン掛川」15:32道の向こう側に『桝忠』が。 八代目升屋忠次が営んでいる老舗呉服店「ます忠」だが、ここもこの日は休業 旧東海道(県道37号線)連雀通り沿いの老舗呉服店「ます忠」前を進む15:33旧東海道(県道37号線)連雀通り、ここもシャッター街で人影も少なく15:35大手門通り旧東海道(県道37号線)の標識15:36掛川宿沢野本陣跡「本陣通り」という名前の屋台村になっているところが、沢野本陣跡であると本陣通り(屋台村)の「三つの約束」。時間が早く店は準備中で人影もなく15:37さらに70m程行くと連雀西交差点旧東海道(県道37号線)を右折して掛川城の天守閣へ15:39掛川城・天守閣(左)と太鼓櫓(右)。日本百名城のスタンプラリーを始めた2013年(平成25)11月24日以来の登城15:40緑橋から逆川を見る。 掛川の旧名「懸河(かけがわ)」をケンガと音読みすれば、「勢いよく流れる川」という意味。逆川が城山に当たり崖を成していたこの周辺を、鎌倉時代から懸河と呼ぶようになったそうです15:42緑橋を渡ると左手交差点角にあったのが『懸河旧阯』。 掛川城公園前の休憩所になっているようであった。ここまでの歩行数は、26,380歩掛川城公園整備15:43四足門(ヨツアシモン)調査では、門の跡は見つからなかったが、正保城絵図を元に復元された。門の内側には、入城者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした天守閣を見上げる所在地:静岡県掛川市掛川1138-24山内一豊により、天正19年(1591)から6年かけて完成したもので、自身は城主として10年間在城。美しい外観から「東海の名城」と謳われた。天守閣は入り口の付櫓や東西の張り出しによって、外観を大きく複雑に見せている。現在の天守は、平成6年4月に日本で初めて本格木造天守として復元されたもの十露盤堀(ソロンバンボリ)と四足門(左)と太鼓櫓(右)本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられる15:46四足門と太鼓櫓貴族的な外観を持つ掛川城天守の美しさは「東海の名城」といわれたが、嘉永7年(1854)の東海大地震で城の建物の大半が損壊した。天守は再建されることなく明治維新を迎え、明治2年に廃城となった城内の桜の一部はほぼ満開に15:53掛川城 二の丸御殿御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校市庁舎などに転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存整理され、国の重要文化財に指定された15:54掛川城の天守閣はどの方向が一番きれいに見えるのか。のんびりと城周辺を巡りたいが・・・・・・ 金谷宿から掛川宿ー続
2019.06.13
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事任八幡宮前で昼食をとり掛川宿に向けて歩くが、葛川一里塚までは何もなくひたすら歩く事に。4/3(水) 13:23事任八幡宮境内では、結婚式の記念撮影が行われていた。この日は平成31年(2019)4月3日(水)の大安の日。婚前前の撮影なのか、いろんなところで撮影。「いつまでも仲良く、お幸せに!」と声をかける「ありがとうございます」の返答八幡宮を後にする13:25事任八幡宮門前のカフェ・喫茶の『開運占い&縁結びカフェ 言の葉のカフェ』に立ち寄り遅い昼食をとる山菜そば(800円)を食べる13:50旧東海道(県道415号線)沿いに立つ『東山口 みどころ たずねところ マップ』東山口村は静岡県の西部、佐野郡・小笠郡に属していた村である13:51旧東海道(県道415号線)を進み「道の駅掛川」の案内板足元を見るとチューリップが咲き旧東海道(県道415号線)、日坂八坂線を振り返ると「事任八幡宮」13:54国道一号線沿いにある「道の駅 掛川」ズームアップすると花桃がきれいに咲いていた13:59旧東海道(県道415号線)は、国道一号線と交差「八坂I/C」14:03国道一号線の高架橋の下を潜り更に進む日本橋から223.2km地点(国道一号線)14:04ここを左折すると「菊川C.C」。昔よく行ったゴルフ場だ。旧東海道はこの先の分岐を左方向へ14:05旧東海道はここを左方向の県道250号線へ、右側は県道415号線14:09旧東海道(県道250号線)沿いにある『俳人伊藤嵐牛翁出生地』の石碑。 江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛柿園 嵐牛 翁 (寛政10年~明治9年)、(1798~1876)。文学と言われるものは江戸時代・・・・・・・・、嵐牛は伊達方の石川依平のもとで国学・和歌を学び始めた。嵐牛はそれらの学問に飽き足らず、俳句に興味を持った。松尾芭蕉が和歌の五七五七七の短歌をもとに、もっとも少ない言葉で表現する俳句の形式を、確固たるものにした。芭蕉死後、俳諧の世界は色々な変遷を経て、内容も種々多様となり、形式も自由で季語がない川柳もできたそんな中、嵐牛は文政8年(1825)28歳の時に、芭蕉の流れを汲み当時俳壇の雄であった、三河の俳人 鶴田卓池に入門した。遠い三河の師に教えを乞うため、飛脚を利用した。作品は師に飛脚が届け、師が添削した後又飛脚が嵐牛に送り届けるという方法で長い間教えを乞うた・・・・・・東海道 文人・墨客の足跡。嵐牛俳諧資料館。美術館は子孫の方が開設運営しているようであった旧東海道(県道250号線)を振り返る14:11車の往来が少ない旧東海道を進む、この先に「伊達方一里塚」旧東海道(県道250号線)右側に「伊達方一里塚」所在地:静岡県掛川市伊達方江戸日本橋から京都まで125里(約500km)。掛川市内には小夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚が設けられていた。 ここ伊達方一里塚は、江戸より57番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・荻田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。 当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治33年頃 取り壊れたという大頭龍大権現(左)・福天大権現参道標(右)。 この道しるべは、大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている14:14一里塚から旧東海道(県道250号線)を更に歩き、街道沿いの逆川に咲く桜満開の桜を撮影しながら進む14:15一里塚のすぐ先、県道415号線(日坂八坂線)に合流する手前右側に 『歌人石川依平翁出生地』の石碑が立っていた。 石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。 後に多くの著書を残し多くの門弟を抱え活躍した。先程の柿園 嵐牛も師事した石川依平生家の碑脇にある道を隔てた西側に、『慶雲寺道標』があった。 碑には「慶雲寺道従是五丁」(※一丁=109m強)と刻まれてあり、ここから県道415号線を横切って600mほど北進すると、名刹慶雲寺があると。 旧東海道は、ここから再び県道415号線と合流した14:18国道一号線のキロポストがあるが、現在は掛川バイパスが出来たたため県道415号線(旧東海道)になっている。日本橋から224km14:19この先再び旧東海道が左に分岐する場所の左手にあったのが『諏訪神社』諏訪神社鳥居諏訪神社 社殿逆川右岸にある諏訪神社。社伝によれば貞観16年(874)諏訪大社より祭神を勧請したことに起源があるという。相殿に祀る須佐之男命は牛頭村(現 掛川市逆川)の天王森にあったが、その祠前を通る旅人に不慮の事故が起こることから、元和元年(1615)ここに合祀されたと伝わる14:25再び県道415号線に合流する場所に、夢舞台東海道道標「掛川市 本所」。掛川宿 宿境まで??、日坂宿宿境まで二十三町14:26旧東海道は右側で左が県道415号線(日坂八坂線)14:29逆川に合流する小川に架かる岩橋を渡る上記場所から南方向の逆川14:32この日の交通量は比較的少なかった旧東海道(県道415号線)14:33この間100mを見るものもなくひたすら1分間で歩く。キロポストは日本橋より225km地点で掛川市千羽。 ここからは旧東海道(県道415号線)を約20分「千羽」「薗ヶ谷」「成滝」「本村橋」まで西に向かって歩く。国道一号線のマークの上にテープを貼ってあったが剥がれ!14:38キロポストは日本橋より225.2km千羽交差点手前の左手民家に在った立派な門。門の中央に太い柱が。何も説明文はなく・・・・・・14:41旧東海道(県道415号線)の千羽交差点。ここまでの歩数は 20,700歩14:43逆川に合流する小川、この辺りの桜はまだ開花前?14:49更にひたすら歩き、キロポストは日本橋から226km「掛川市薗ケ谷」14:53旧東海道(県道415号線)の本村橋交差点で旧東海道は左折する。ここまでの歩行数は 22,100歩14:54本村交差点を左折してすぐにある、夢舞台東海道道標「成滝」。掛川宿 宿境まで二十町(2.2km)、日坂宿 宿境まで??町15:03旧東海道を歩くと、弥次さんが旧街道に立ち止まり何を撮影?大頭龍大権現・福天権大現参道道標。昔は各所に道案内として主な街道には、道標(道しるべ)が建てられてあった。 そして其の道を往来する人達の案内役を果たしていたが、最近は時代と共に次第に 見受けられなくなってきている。 西山口農協支所西角にある道標は、郷土の文化遺産として、昔の時代を知る手掛りとなる貴重な存在である。いつ頃建立したものか年号が刻んでいないので解らないが、東山口地区伊達方にある道標が、当地のものとよく類似している。それには寛保二壬戌年と深く刻んであるので、およそ同年代に程近いものではないかと思われる。いづれにしても二百数十余年の歳月が過ぎていることは確かである「告」この道しるべは大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている15:07住宅の片隅に『秋葉常夜燈』15:10逆川に架かる馬喰橋(バクロバシ)国道一号線の掛川バイパス方向15:11逆川の橋を渡り「葛川一里塚」。馬喰橋を渡った左側に「葛川一里塚石碑」と「常夜灯」があった。日本橋から58番目の一里塚、いよいよ掛川宿へ東海道53次の26番目の宿場でようやく半分事任八幡神社を参拝後、神社前で遅い昼食をとり、「葛川一里塚」へ約一時間半ひたすら歩いた弥次喜多道中でした。 金谷宿から掛川宿ー続く
2019.06.12
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日坂宿を散策しながら事任(コトノママ)八幡宮へ向かう。4/3(水) 12:31日坂宿の「萬屋」小夜の中山峠の西の麓にあり、鎌倉時代にはすでに宿場だった。宿場はU字にカーブした東西6町半(700m)の町並みで人口は750人ほど。東海道では坂下、由比に次ぎ三番目に小さな山間の宿場だったので、人馬継ぎ立ての負担は重かった。また三度にわたる宿の大半が焼けるほどの大火や、安政の東海大地震で大きな被害に遭い、宿は困窮した。それでも大井川の川留時や参勤交代の時期には大いににぎわった江戸時代末期の旅籠。嘉永五年(1852)日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な資料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙辰正月・・・」から考えて安政年間(1854~1859)のしかも早い時期かと思われます。同じ宿内で、筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした街道から右手奥にあった「真言宗 大谷派 法讃寺(ホウサンジ)」を訪ねた正面に『山門』と『本堂』。所在地:静岡県掛川市日坂933山門前に「お掃除小僧」法讃寺本堂。 寛永三年(1626)誓玄和尚によって創建される。寛永十年(1641)五月に本願寺法主より、本尊の阿弥陀如来と寺号を賜る本堂と鐘楼山門横に立つ宗祖親鸞聖人像山門の横に『千の風になって』の歌詞が刻まれている石碑が。 「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」川坂屋。 内部は目を見張るほど立派に復元された旅籠屋であると。 見学できるが、開館日:土・日・祝日のみ 開館時間:10:00 ~ 16:00入館料:無料 右奥に国道一号線(日坂バイパス)の高架日坂宿旅籠「川坂屋」石碑と説明板大坂の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七朗源重吉は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。 旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。 現在の建物は宿場の殆んどが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。 また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられたことは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。 その後、平成五年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。 敷地は三百坪ありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で分断され、その後、 平成七年のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した 「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。 茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました12:40川坂屋』の先、右手にあったのが相伝寺境内の『秋葉常夜燈』。日坂宿にある常夜燈三つの内の一つである左横には『日限延命地蔵尊』と『馬頭観世音菩薩』日坂宿の山側を走る国道一号線(日坂バイパス)相傅寺の寺号標所在地:静岡県掛川市日坂928弥次さんが御朱印を頂いている間、境内でしばし休憩(持参の果物を食べる)12:58日坂宿の高札場が、逆川に架かる古宮橋手前右手に復元されていた高札場は、幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。 高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。 高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き換えがありました。ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。 高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によりました江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入り口には木戸が設けられていました。 大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。 古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。 また、宿役人の管理下にあった高札場が、木戸の機能を果たしておったという説もあります 逆川に架かる古宮橋を渡り、日坂宿を振り返るこちらは無塗装の駕籠を担ぐ集排用汚水マンホール「日坂」13:00糀 屋 13:01三河屋の前にあったのが『成瀬大域出生地碑』賜硯堂成瀬大域出生の地。 書家・成瀬大域(成瀬温)は文政十年(1827)古宮のこの地で生まれました。42才の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。 宮内省に奉職していた明治12年(1879)、王義之の聖教序を臨書するとともに、諸葛孔明の出師表を楷書と草書の二幅に書き、併せて明治天皇に献上しました。天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成、愛用と伝わる古い硯を賜りました。このことから庵と自らを「賜硯堂」と称しました。明治35年(1902)没。76歳でした。なお、川坂屋襖に大域の書、法讃寺境内には大域が筆を執られた暁心翁之碑があります。また、この古硯は平成14年(2002)遺族の方より、十体の書が書かれた面扇とともに掛川市二の丸美術館に寄贈されました庭先の花桃が鮮やかに満開13:02三叉路を直進。右手に行くと「粟ヶ岳」、「駿遠変電所」方面へ13:04三叉路の右手にあったのが、『秋葉常夜燈』。 日坂宿に入って、三基目の『秋葉常夜燈』13:06村境の石碑。石碑には、次のように刻まれていました。 右上に「日坂村」、左上に「東山口村」、真中に大きく「村境」、右下に「日坂村青年会」、左下に「東山口村青年会」、左横に「大正四年一月建設」旧東海道を歩き、県道415号線と合流13:07夢舞台東海道道標「日坂宿 宿場入口」。掛川宿 宿境まで一里二十六町、これより日坂宿日坂宿を振り返る街道右手に石鳥居が。本宮(奥社)のある本宮山入口の鳥居。本宮入口があり「これより271段」とのことで本宮行きは諦めた旧東海道は県道415号線(日坂八坂線)と合流県道415号線に架かる歩道橋を渡り「事任八幡宮」13:10遠江國一之宮 事任八幡宮(コトノママハチマングウ)の鳥居所在地:静岡県掛川市八坂642ここまでの歩数は、16,000歩金刀比羅神社の鳥居夫婦杉「夫婦杉」の根株。数百年の昔より境内の真ん中に寄り添うように立っていた一対の杉、その間から「むすぶの神」が遥拝でき、長い間夫婦の杉、当社のシンボルとして親しまれてきました。惜しくも平成30年の24号台風により倒木いたしましたが、境内稲荷神社の鳥居等の建造物を避け、鎮守の杜の未来を託すべき若い木々を守るかのように、2本の木の間に抱きつつ倒れました。それはまさに深い神慮の賜物であり、さらに新たなる導きを願いその根株を残し、ここにおさめられる事になりました創建年代は不明だが、成務天皇の御代(131 ~ 190年頃)には創建されていたという記録がある。大同2年(807)、坂上田村麻呂によってこの地に再興したと伝わる。朝廷や全国から「願い、事のまま叶う」として崇拝された。清少納言は枕草子に「ことのまま明神、いとたのもし」と書いている。康平5年(1062)源頼義が石清水八幡を勧請してから八幡を名乗った。徳川幕府の保護を受け、朱印地百石を寄進された『境内案内図』市指定天然記念物『事任八幡宮のクスノキ』クスノキ(クスノキ科)は、本州の関東地方以西から九州、沖縄、そして台湾、中国南部、インドシナと広く分布する常緑樹高木です。生長がさかんで、長命で、高さ30m程の大木になるので、古くから神社や寺院に植えられ、巨樹、名木になっています。 春に新芽が伸び出すと、間もなく古い葉は落ち、若葉は淡紅色、橙黄色などから淡緑色の美しい色に変わります。花と果実がつきますが、あまり目立ちません。 クスノキは、木全体に芳香があって、耐久性が高いことから、内装材、社寺建築、建具、家具、楽器などの用材に使われ、古代には丸木舟にも使われていました。また、クスノキの葉や幹、根などを蒸留して、固形に仕上げた樟脳は、防虫剤として使われています。 事任八幡宮のクスノキは、高さ31m、目通り6m、根回り19.3mの大きさで、県内でも大木に含められます。樹勢は良好で、枝は北側をのぞいた三方に大きく広がり、見上げる人を温かく包み込むような、雄大でとても優しい姿をみることができます拝殿と参籠所の間の奥に『御神木』の杉事任八幡宮の大スギ。スギ(スギ科)は日本固有の木で、青森県以南の日本各地に分布する常緑針葉樹です。どんな土質でも良く育つ木ですが、一番良く育つ場所は、西日の当たらない谷間や北及び北東に面した山谷、山腹で、土壌がよく肥え、適度の湿気がある所を好みます。 スギは生長がとても早く、まっすぐに伸びて巨樹になることや、スギの名の由来が「すぐ木(真っすぐな木)」からきているように、幹は真っすぐで枝振り全体でいうと 円錐形状のシルエットとなります。 スギ材は、縦に加わる力に対して強く、乾燥が早く、加工がしやすいため、建築用材として柱などに適しています。さらに、水や虫にも比較的強いので外壁や雨戸にも使用されます。こうしたことから、日本人とスギとの関わりは古く、中でも弥生時代の「登呂遺跡」の水田跡では、数多くのスギ材の矢板が使われています事任八幡宮の大スギは、高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2mの巨樹です。樹勢は良好で、枝振りもよく、たくましさのみなぎる木で、昔から「八幡宮の大杉さん」と親しまれ、また、本殿の東奥にあることから、御神木として「東の宮様」と敬われています拝殿と奥に本殿参籠所内に奉納されていた巨大な『大笛』。昭和29年(1954)に竹友会(笛を吹いている人達の会)の会員が全員(20人位)で、 2日掛かりで制作に当たったという竹笛は、長さが八尺(2m40cm位)もあります。 倉真の杉山勝美さん(現竹友会会長)宅の裏山にある一番太い竹を伐採して作ったもので、口を当てる穴は片方の足がスッポリ入ってしまう程大きい。また、指で押さえる部分も腕がスッポリ入ってしまうそうです。未だかつてこの笛を吹いた人は一人も居ません。そして、この笛はすぐに事任八幡宮に寄贈され、現在も奉納してあります綺麗な神輿も事任八幡宮の鳥居と拝殿境内の桜は満開13:23 金谷宿から掛川宿ー続
2019.06.11
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小夜の中山の「涼みの松」から西の沓掛(二の曲り)の急勾配を下り日坂宿へ向かう。4/3(水) 11:57こちらも、野ざらし紀行の『松尾芭蕉句碑』『馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 』早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く、残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端にかかり、日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている12:00夜泣石跡。 死んだ妊婦の魂が移り夜毎に泣いたという石があった場所。 明治元年(1868)まで道の中央にあった夜泣石が、明治天皇御東幸の際に道脇に寄せられ、後に久延寺の所有となって転転としたという、あの変な展開をした石のあったところだと妊婦の霊魂が移りないたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。 その後、明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る 近くで桜がきれいに咲いていた12:02夜泣石跡の近くに石碑。広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保永堂版 東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの 「東海道もの」を発表した。 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」 「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。 これらの続き絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう『広重版画絵碑』この先に広重の東海道五十三次の日坂宿「小夜之中山峠」の絵碑が。 山中を通る坂道の真ん中に丸い大きな夜泣石が描かれていた12:04前方遠くに『中部電力㈱駿遠変電所』が見えた。 駿遠変電所(静岡県掛川市)は、中部電力㈱最大容量の変電所(615万kVA)で、 敷地面積は東京ドーム5個分に該当すると12:06しばらく平坦な道を歩き、茶畑が終り集落にたどり着いたが廃家が多い12:07集落を過ぎると、急な下り坂が始まった斜面に花桃が咲き12:11急な下り坂が続く12:12九十九折りの急な坂道に、転ばないよう足元を注意しながら下る二の曲りと沓掛。「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を山の神に手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています箱根の三島口の「こわめし坂」に比べると、角度とカーブは急だが、長さが短いのが救いであったが坂の途中に『歌碑』と『沓掛の説明板』があった『甲斐が嶺を さやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山』読人不知、古今和歌集。甲斐の白根をはっきり見たいよ、人の気を知らぬげに寝そべっている佐夜の中山よ どいてはくれまいか二の曲りの奥に「日乃坂神社」12:15二の曲りを降りたら眼下に、国道一号線(日坂バイパス)が見えてきた浮世絵版画『東海道五拾三次 日阪 安藤広重作 狂歌入東海道 』東海道五拾三次 日阪 浮世絵版画 安藤広重作 狂歌入東海道 倭園琴桜 あたらしく 今朝(けさ)にこにこと わらび餅をかしな春の 立場なるらん江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。この浮世絵は、広重が天保3年(1832)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保13年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である12:17下ってきた二の曲りそして国道一号線の下を潜る12:19旧東海道が県道415号線に交差する手前に「安全ルート」県道415号線12:20安全ルートの歩道橋が遠いので、車の来ないタイミングに急いで県道を渡る。ここが『日坂宿(にっさかしゅく、にっさかじゅく) 』東入口。日坂宿は、東海道五十三次の25番目の宿場である街道沿いの家々には屋号の木札が『紀伊国屋』ガラスに映る弥次喜多駕籠を担ぐカラーの集排用汚水マンホール「日坂」12:22右手にあったのが『秋葉常夜燈』日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくりました。 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などの一目につきやすい場所に建てられました。 日坂宿にはここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基建っておりました。ここの常夜燈は安政三年(1856)の建立でしたが、老朽化が進みましたので平成十年(1998)に撤去し、改めて復元いたしました。 秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう12:23夢舞台東海道道標「日坂宿 本陣跡」。掛川宿 宿境まで一里三十一町(7.2km)金谷宿 宿境まで一里二十三町(6.4km)ここは宿場町「日坂の駅」、「日坂宿」東海道五十三次品川宿から数えて、二十五番目の宿「日坂(にっさか )」。江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所 の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。 「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。 慶長六年(1601)徳川家康による、東海道 の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在にな りました。助郷四十三村の協力で、 伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。 天保十四年(1843)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。 大井川の川止めや、大名の参勤交代などでは、小さな宿場町ではありましたがかなりの賑わいであったと思われます。 宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700メートル)、町並みの形態は現在もあまり変わっていません日坂宿片岡本陣扇屋跡所在地:静岡県掛川市日坂57本陣跡。江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の、旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地はおよそ三百五十坪、建坪二百二十坪、門構・玄関付きの建物でした。 嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。その後の学制領布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません公園の隅には石碑が平和への道標12:26問屋場(といやば)跡宿駅々伝の継立の事務を取扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。日坂宿の問屋場はかつてこの場所にありました。 問屋は宿内で最も大切な役職でした。「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋一人・年寄四人・請払二人・帳附五人・馬指三人・人足割三人・同下役六人で、 問屋場へは問屋・年寄の外、宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行の際には全員で業務に携わったとのことです。当時の建物、その他の遺物は現存しません人影がない旧東海道に立つ弥次さん池田屋。「東海道二十五次目 旅人御宿 日坂宿」の暖簾がかかっている古い宿屋で、現在でも「末広亭」として旅館を営業しているようである。1階も2階も窓や手すりは細かい格子になっており実に雰囲気のある建物であった12:28脇本陣「黒田屋」跡。日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。また、明治天皇が街道巡幸の際、明治二年三月二十一日と明治十一年十一月二日の 二回にわたりここ脇本陣で小休止されました12時を過ぎ食堂を探すがなく、自動販売機はあるがコンビニはなく12:29日坂銀行跡。 株式会社 日坂銀行 設立 明治三十一年二月二十四日 頭取 本目 藤十氏創立 ねむの木学園理事長・園長・学校長の宮城まり子さんは、本目籐十氏の姪に当るのだと日坂宿の唯一の?商店・『宮嶋酒店』、やはりお酒だけは必需品!東海道五十三次 日坂 佐夜ノ中山』12:31伊藤文七邸藤文・・・日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸 商家で屋号は藤文。 伊藤文七(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶應三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。 維新後の明治四年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。 その間、幕府の長州征討に五十両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として二百両を寄付しております。 明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。日本最初の郵便局の一つと言われています。 その孫、伊藤文一郎氏は明治三十七年(1904)から三十九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。 明治九年(1876)十一月には昭憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで御休憩なされました。 この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。 この土地・家屋は平成十年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました 金谷宿から掛川宿ー続く
2019.06.10
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久延寺からの旧東海道「小夜の中山」は、中山峠から先の3kmほどのだらだら下りの尾根道を指し、箱根峠・鈴鹿峠と並び東海道三大難所のひとつ。また歌碑・句碑の道で知られ、和歌・俳句の名所でもあった。4/3(水) 11:18旧街道沿いに「小夜の中山公園」小夜の中山峠周辺案内図。「小夜の中山」を詠み込んだ和歌は、勅撰集だけでも四十余首。このほか多くの歌集、句集、紀行文にとりあげられ、歌枕として古くから人々に親しまれ愛されてきました。代表的な和歌や俳句の碑が、この峠の道沿いに建てられています。遠い昔に想いを馳せながら、ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうかと掛川・菊川・金谷を結ぶ「自然と歴史と伝説のさんぽ道」桜が満開の「中山公園 西行法師の歌碑」。西行法師が69歳で峠越えした際に詠んだ「年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山」の歌で有名となった場所石碑には「東のかたへあい知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたりける思ひ出でられて」 西行法師この歌碑は、円位という西行の別名を、力強いがまろやかな性格を、大木の幹の姿に重ねた年輪を、背割り切り口の鋭さに明晰さを、たて積みの煉瓦に北面の武士の鎧を、時々陽光に輝やく真鍮の文字に歌人の心を、池水に映る影に再び越える気分を、池を囲む玉石に数珠を、いぶした煉瓦の色は黒染めを、そして笠を外してひと休みする西行を造形したものです ほぼ満開に近い桜小夜の中山峠箱根と並び称される東海道の難所。古くから多くの旅人達が、この峠に苦しめられながらも、数々のうたや伝説を伝えてきた景勝の地です桜が満開の「小夜の中山公園」”光の庭園” 小夜の中山公園案内図先を急ぐので公園内には入らず小夜の中山公園、火剣山への道標。 小夜の中山ハイキングコース、街道を進むと「日坂宿」、引き返すと「諏訪原城跡」電柱電線が桜の木を囲い北の方角に『粟ヶ岳の茶文字』が再び見えてきた11:24中山茶業組合が左手に。 第48回農林水産祭天皇杯受賞工場であると 11:26佐夜鹿一里塚。 この一里塚は江戸より五十四里。「東海道宿村大概帳」によると、当時は街道の両側にあり「松」と「榎」が植えられており道幅は三間あったと云う猫がベンチに佐夜鹿(小夜の中山)一里塚。 徳川家康は慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道に宿駅を設置しました。 その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里(三十六町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約九㍍)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里程を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里と言う説があります。 また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里に相当すると思われます。 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したと言う記録はありません。 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などによっておおよその道程の目安になっていたことと思われます11:27街道沿いの民家に咲く花桃更に両側の茶畑を楽しみながら進むと歌碑が 11:29『蓮生法師』続後選和歌集の歌碑が『甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山』 遙か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月(十月)、時雨の中、さやの中山を 越えることだ11:29街道沿いに『神明神社』の石鳥居が佐夜鹿神明神社の『社殿』更に両側の茶畑を見ながら下る、沓掛日坂方面11:33林に中に一里塚の如き『鎧塚』建武2年(1335)、北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり京へ上がろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる11:35『記友則』古今和歌集の歌碑『東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ』東国へ行く人がきっと通るのが佐夜の中山である。中山のなかといえばなかなかに(なまじっか)どうしてあの人に思いを掛けたのであろう11:36街道沿いの民家の前には花が開花、『ハナカイドウ(花海棠)』ミツバツツジ(三つ葉躑躅) ボケ(木瓜)しばし庭先でおばさんと談義、『シャクナゲ(石楠花、石南花)』そして更に茶畑に囲まれた旧東海道を下る『藤原家隆朝臣』新古今和歌集の歌碑『ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れね人を さやの中山』旅に出て耳にするここ佐夜の中山の山風の音は、都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都もとおざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ11:43芽吹き前の茶11:44『 松尾芭蕉』野ざらし紀行の句碑『道のべの 木槿(むくげ)は馬に くはれけり 』 道端の木槿の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ11:44振り返る、句碑、歌碑が約100mおきに建っている11:45この日は天気がよく暑かったが、風が爽やかで気持ちがよかった11:46旧東海道の右手に『白山神社』由来や詳細は不明だが、遠州では福田町の白山神社が古くから人々の信仰を集めていたから、ここはその末社ではと。白山は、修験道の三聖地として山伏僧兵が集まるところとなり、霊峰白山を信仰する山岳信仰の代表核として栄えた。 日本海を航行する船は現在の石川県の沖合いを通過するとき、帆を下ろして白山を 遥拝する習わしになっていたといい、海運によって全国に勢力を広げて行った。 特に江戸時代から歯痛止めの神として庶民から信仰された神様でもあるのだと。神社前に、夢舞台東海道道標「白山神社」。日坂宿 宿境まで??町(??km)、金谷宿 宿境まで??里(??km)11:48『壬生忠岑』新古今和歌集の歌碑『東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に世をや尽くさん』東国の道中の佐夜の中山よ、はるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか 11:48白山神社から300mほど先で道がふたつに別れていた。 左が旧東海道、右の急な坂道は国道一号線へと通じる道で、中央に道標が立てられていた。東海道の道先を指す板には、「この先1.5km車両通行不可」と表示されていた。国道一号線に抜ける道は、茶畑が広がる斜面をくねくねと下っていくと、小夜中山隧道の西側と日坂との間あたりに出るのだ11:51卵形の石碑・『馬頭観音』は、白山神社から200mほど下った左手にあった。 「往来歩行人馬 為御祈祷建之」と刻まれていて、旅人の安全を祈願したもの。 この馬頭観音は、伝説『邪身鳥物語』に出てくる三位良政卿が、京から下向してきた折に乗ってきた愛馬を葬った所と伝えられているのだと。 馬頭観世音菩薩とは六観音のひとつ。本来は3つの顔と8本の腕を持ち宝冠の上に馬頭を載せていて、いっさいの魔性や煩悩(ぼんのう)を打ち払う仏です(ヒンドゥー教に由来)。日本各地に見られる馬頭観音は、馬頭を頂いた観音様の姿から、馬とともに生活する人々の間に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれたともいわれます。力尽きた馬の供養や、道中の安全祈願の意味も込められ、駅路の急な坂道などに建てられました。また、馬頭観音信仰は、武士が天下の政権を握った鎌倉時代に、戦いに馬を使うことの多い武士の間に流行したといわれます。馬頭観世音。従来の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身退治の物語が 言い伝えられています。この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、 三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています 11:53『妊婦の墓(三界萬霊塔)』。 こちらも茶畑の一角に墓石があった松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生まれた子)を葬った所で、墓碑には 「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」 と刻してあります 11:54涼み松広場の碑。 夜泣石があった場所の北に大きな松があり延宝4年(1676)芭蕉が伊賀上野に2度目の帰郷をした旅の帰りの夏の日に松の下で詠んだと言います。今は若い松が植えられており休憩できる広場として整備されています。ここまでの歩数は 12,000歩、JR金谷駅から約3時間この広場内に芭蕉句碑もあった。 『命なりわづかの笠の下涼み 松尾芭蕉涼み松小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で 「命なりわずかの笠の下涼み」 と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作として記されています 金谷宿から掛川宿ー続く
2019.06.09
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