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大瀬崎の散策を続ける。2月15日(木) 13:30大瀬神社拝殿現在の社殿は火災により昭和十四年(1939)に再建された。拝殿の右側に赤いフンドシが奉納されていた。海上安全を願う人々が赤いフンドシを奉納する風習があり、また漁船の進水式に関連してその漁船の縮尺模型を海上安全と豊漁を祈願して奉納する風習もあった。昭和十四年(1939)の建築であるので匠の技を感じる。至る所に精巧な彫り物が。右側の海老虹梁の彫り物は龍であろうか。拝殿右側の脇障子にも。左側の海老虹梁。右側と同じ彫り物なのか。拝殿左側の脇障子。拝殿にも精巧な彫り物が施されている。拝殿左側に建つ ”御守札授与所” 。社殿は火災により昭和十四年(1939)に再建されたとあったが、その後修復されているのでは。柏槇館古木展示館でこの日はシャッターが下りていた。天気が気になったが ”神池”、”大瀬灯台” へ向かうことに。伊豆七ふしぎの一つ大瀬の神池神池には約三万匹の淡水魚が棲息中!!出札所より神池まで約50m、灯台まで100m。 〃 より神木夫婦びゃくしんまで約150m。 〃 より岬一周約1,000m、ごゆっくりどうぞ。三差路に ”神池” への案内板。パワースポットの神池海から距離が15メートルにもかかわらず、淡水池でありコイやフナなどの淡水魚が多数生息している。表札には「神池」と。池の中には人慣れした鯉が餌を求めて口を開けて待っていたが。餌の自動販売機があったが時間がないのでスルー、鯉さんすみません!。上空からの神池(写真はネットから)。神池の遊歩道脇に社があったが説明板がなく詳細は不詳。池明神(水波之売神)であろうか。大瀬神池此の神池は岬角の末端より内に少々五十米謂はば〇皮に包まる饅頭の如く面積六千六百平方米の霊池にして緑には葦アブラガヤ多数繁茂し鯉・鮒・鯰等の淡水魚数多く群棲す海に近い観念を一変して奥深き山湖を偲ばしめる誠に神池といふ相応しき光景である。海浜僅か五十米に隔つる自然の淡水池を見るは実に奇異と云わざるを得ず、潮の気配聊かもなく伊豆七不思議の一つに数えられ池には池明神(水波之売神)を祀り諸人等の信仰篤く今も尚池及魚に依って種々の心願を掛け若し池に入り魚を害するときは神罰賣面と云われ昔より今に此の不成文の禁を犯したる者か或は死し或は精神喪失その他不虜の危難に遭遇したる実例を云え相誡めて居る。依って今尚池水の深淺底壁の組織の如き実地調査したる人無く伝説によって、この神池は保護されている。岬には神木と云はるゝびゃくしんあり、相並びて不思議のこの池あり、これ等大瀬岬の荘厳と絶勝とを添え敬神上保勝上学術研究上之を永遠に保存するものなり。 大瀬神社鈴木繁伴館跡建武の頃、今より六百四十年前元弘三年鈴木繁伴なる武人(水軍)紀州熊野藤日を出船この地に来り引率の郎党三十余人とともにこゝに立てこもる。観応二年足利直義に属し駿州薩埵山にて敗戦し伊豆江梨の山中に隠れ、其の後貞治六年繁伴関東管領足利氏満に招かれ伊豆・相模領国の船大将を命ぜらる神を尊敬する志篤く神社の破壊したるを見て財を惜まずこれの修理を為しやがて北條早雲に従ひ小田原北條氏と運命を共にしこの地より姿を消している。昔の面影を偲ひこれを永く史積として保存する。 大瀬神社 鈴木繁伴館跡は上記説明板のみでわからなかった。神池の遊歩道から外海への遊歩道は工事中で立入禁止になっていた。神池の北側から南側を振り返る。与謝野鉄幹歌碑所在地:静岡県沼津市西浦江梨 331湾側にある歌碑の前には誰が始めたのか石を積み上げ塔を作っていた。御利益は?。歌碑には『船を捨て 異国の磯のここちして 大樹の栢の 陰を踏むかな』。歌碑の左側に「碑文」。昭和七年国の天然記念物の指定を受けたビャクシン樹林を、翌、昭和八年一月与謝野鉄幹が当地に遊んだ折りこの風景に感動され詩った。 平成五年三月 大瀬神社 氏子一同 建之 大瀬灯台に向けて進む。松の木もあったが枝が根元辺りから。ビャクシン樹林には消火栓も設置されていた。大瀬崎ビャクシン樹林は、古来より有名で「伊豆日記」「豆州志稿」「伊豆志」等の古い文献にも、老大木がたくさんあると特筆されています。また漢字では、百槇・栢心・白心・白身・括とも書かれています。 沼津市教育委員会遊歩道脇に元気な老木が聳えたつ。幹の根元をよく見るといろんな表情があるように見えるが。さて皆さんには?更に進むと玉石に囲まれ石祠と御神木が現れた。御神木大瀬岬一帯に繁茂している壱百三拾本余りのびゃくしん樹が御神木であり、中でもこの巨大なる周囲七米、推定樹令壱千五百年以上、岬随一の大木である、一名夫婦(めおと)びゃくしんが大瀬神社の御神木として、引手力命の分霊をここに祀る。この岬を航海する船人の海上安全と普く諸人等を守護し、湾内住民の崇敬尊信篤き御神木として保護されている。 大瀬神社御神木の根元に”引手力命”の分霊を祀る石祠であろう。御神木を見上げる。13:45外海側にある ”伊豆大瀬埼灯台”。駐車場から途中大瀬神社へ立寄りながらここまで約33分を要した。天気が良ければ対岸に沼津市、富士が見えたのであろうが残念ながらこの日は。ズームアップ伊豆大瀬埼灯台からの外海側の遊歩道は工事中で立入禁止。ビャクシンは陽あたりが良くないと育たないため、林の中では後継樹が育ちません。そこで沼津市では国と県の補助を受け昭和56・57年度に計60本の補植を行い、地元のみなさんとともに大切に育てています。 沼津市教育委員会駿河湾越しに富士市辺りであろうか。伊豆大瀬埼灯台からビャクシン樹林を引き返す。この巨木の一部は枯れたのであろうか、幹が白くなっていた。大瀬海水浴場方向を望む。雨も激しくならず助かる。遊歩道脇にはところどころにベンチが置かれていた。国指定天然記念物 大瀬崎のビャクシン樹林 指定 昭和七年七月二十五日大瀬崎のビャクシン樹林は、ビャクシンの樹林としては日本の最北端に位置するものです。自然のままこのように群生しているところは他に例がなく、現在百三十本が自生しています。しかも、樹齢千年を越すと思われる老樹が多く見られることは、我国では珍しく非常に貴重なものです。この大瀬崎は、天然記念物ビャクシン樹林の指定地となっています。大切なビャクシンを保護するため、次のことを守ってください。 一、ビャクシンの幹や枝にキズをつけたり枝を折ったりしないこと。 一、指定地内で、たき火やキャンプをしないこと。 一、動物や植物を採集しないこと。 一、空カン、空ビンなどのゴミは持ち帰ること。 一、その他、ビャクシンの生育に影響を及ぼすような行為をしないこと。 平成九年二月 沼津市教育委員会ビャクシャクは枯れた後も幻想的な樹形を保っている。ビャクシンの下から第一鳥居を望む。ビャクシャク樹林の中に玉石に囲まれた石碑。石碑には「大正天皇行幸記念之碑 昭和五十四年四月四日 建之」と。大瀬神社参道下へ戻る。駐車料金は1時間まで300円と思いながら引返すが歩く速度が遅くなったと。大瀬海水浴場にはダイバーの姿が。大瀬崎はダイバーのメッカであると。14:10駐車場から大瀬崎の岬方向を振り返る。散策は1時間以内の57分であったので、駐車料金は1時間前で300円であった。食事をとるとその分時間が伸びるがサービスがあるのか。次の目的地は今日最後の「井田の河津桜」。 ー 続く ー
2024.02.27
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今日の目的地の一つ”大瀬崎”へ向かう。2月15日(木) 13:05”富士山ビュースポット・西浦江梨” から直ぐに県道17号線(沼津土肥線)から分岐して海岸へ。大瀬 有料駐車場所在地:静岡県沼津市西浦江梨 大瀬岬大瀬海水浴場に一番近い駐車場である。ここには半世紀前に来たことがあり二度目か。海水浴場越しに富士が望め絶好のビュースポットである。ダイビングも初心者から上級者まで1つのスポットで違った海を楽しめると。 駐車場ゲート。大瀬駐車場ご利用のお客様へ料金表 最初の1時間 300円 2時間目から1時間につき 300円 4時間以上8時間以内 1100円 8時間目から2時間につき 100円岬の大瀬神社、神池までの所要時間がわからなかったがとりあえず行くことに。1時間を超えるといくらになるのかと?。大瀬神社への遊歩道沿いに”大瀬崎マリンサービス”、”海プラザ”があったが臨時休業中。この寒い時期にはお客さんも少ないのであろう。駿河湾へ大きく突き出た日本最北端のビャクシン群生地。空が怪しくなってきた。ダイビングショップの扉にポスター。大瀬神社例祭 大瀬まつり2024年4/4 (木) 祭典 7:30 ~ 例祭 10:0 0~大漁旗で飾り立てた踊り船に乗り、にぎやかに囃子に合わせて勇み踊り、若者衆は女物の襦袢に顔は白塗り、駿河湾に春の訪れを告げる天下の奇祭。アニメのポスターも。右から、NUMAZU CITY 100th Anniversary きらり沼津。次の100年へ ようこそ!沼津へ!! 沼津まちあるきスタンス DIVER ラブライブ! サンシャイン雨がぱらついて来たが激しそうでなかったので先へ進む。昔は小走りで進んだものだが・・・・・。遊歩道脇に説明板。大瀬崎ビャクシン樹林図◎ 目通り直径15cm以上 129本◉ 目通り直径15cm以上(立枯) 10本 〇 目通り直径15cm未満 85本 ● 昭和56、57年度補植樹 59本 平成9年3月 沼 津 市 沼津市教育委員会 国指定天然記念物 大瀬崎のビャクシン樹林ビャクシンはヒノキ科の植物で、生垣に用いられるカイズガイブキと同種です。漢字では柏槇と書きます。常緑の高木で本州、九州、朝鮮半島及び中国大陸にかけて分布しています。大瀬崎のビャクシン樹林は、現在百三十本あまりが自生し、群落を形成しています。直径1メートルをこえる巨木、樹齢千年以上といわれる老樹も多いことで知られ、国の天然記念物に指定されています。ビャクシンの開花期には四月頃ですが、毬果(きゅうか)が成熟するのは翌年の秋から冬にかけてです。また、その種子が発芽するには、二年かかると言われています。しかもビャクシンは耐陰性が弱く、成長するのに強い陽光が必要です。そのため若木のほとんどは二~三年で消滅すると考えられ、後継樹がなかなか育たないものです。この貴重な文化財である大瀬崎のビャクシン樹林を私たちの子孫に伝えるため、大切に守りましょう。 平成十五年 九月 沼 津 市 沼津市教育委員会西伊豆歩道(大瀬崎コース)案内図← 県道17号 1.0km、大瀬海水浴場 0.3km、大瀬崎 0.15km →この地域での釣りはご遠慮ください沼津市の条例により防波堤、突堤、護岸への立ち入りは禁止されております。また、大瀬神社境内は一部の釣り人のマナーの悪さ(敷地内に於いて無断で施設設置、トイレ以外での排便、タバコの吸殻やゴミの海への投機等)により立ち入りが禁止となりました。この地域の店舗は、ダイバーの受け入れを生業にしており海域を漁業協同組合より管理委託されております。潜水中のダイバーが釣り糸に絡まり危険な目に遭遇しています。また、ソフトコーラル等(写真確認)も釣り糸が絡まり死滅が確認され魚の隠れる場所が減少傾向です。よってこの地域での釣り行為はご遠慮ください。大瀬崎の外海は大瀬神社の敷地が含まれている為、釣り行為をする者は立ち入り禁止です。ダイバーにおいては、潮流が非常に速く危険な為、スキンダイビング(素潜り)は禁止されております。また、全ての魚介類の採捕、生物の移動は禁じられており、このような行為を目撃した場合は、沼津警察署、清水海上保安部へ通報いたします。 大瀬海兵商業組合/大瀬潜水協会/内浦漁業協同組合/大瀬神社ダイブハウス オスパー所在地:静岡県沼津市西浦江梨大瀬崎 334食事もとれるダイビングショップである。ビャクシンの下のテラスで富士を見ながらの食事もいいと。外海の駿河湾の南方向。海岸線を南下すると井田海岸へ。複雑な樹形を見せるビャクシン。外海の北方向。遊歩道の両側には玉石が転がる。正面上に”大瀬神社”。森の中に大瀬神社の社殿をズームアップ。西伊豆歩道(大瀬崎コース)と書かれた矢羽根に、「← 井田海岸 5.55km、大瀬崎 0.05km →」。外海側から内浦に廻る途中に、なまこ壁で造られた公衆トイレ。樹齢何年になるのか根元から分岐しているビャクシン。芸術的な幹を違う方向から追う。大瀬神社 (おせじんじゃ)所在地:静岡県沼津市西浦江梨 329駿河湾漁民の信仰の象徴である大瀬神社は、海の守護神として知られていて、船を新造する時には、必ずこの神社に参詣し、海上の安全を祈願したと言われている。鳥居の扁額「大瀬神社」。鳥居を潜ると左側に ”斎館” 。延喜式内 引手力命神社一、当神社は延長五年(927)延喜式神名帳に全国2861社の一つで正四位上御明神と記され宮中 にて祭祀が行われた宮社であり由緒ある神社である。一、海の守護神一、家 (企業) 復興の神 お札一、海上安全一、海上安全大漁満足一、家内安全 商売繁盛一、交通安全一、家内安全諸災祓除一、肌守水難守護 (ダイビング関係者)鳥居を振り返る、右側に”斎館” 。二の鳥居の手前左に ”社務所” 。大瀬神社祭祀 延喜式内社 御祭神 引手力命一、歳旦祭 一月一日一、日ノ出祭 一月十九日一、祈年祭 二月十七日一、例 祭 四月四日一、大祓 夏越の祓 六月三十日一、新穀感謝祭 十一月廿三日 一、大 祓 十二月三十日二の鳥居であろうか。鳥居の手前のビャクシンの枝におみくじがぶら下がっていた。葉はとがっている針葉。カイズガイブキと同種だけに我家でもカイズカイブキを刈りこむと、触ると痛い針葉になる。ビャクシンの葉には、針のようにとがった針葉と、先の丸い触れても痛くない鱗片葉(りんぺんよう)とがあります。若い枝には針葉が多く大きな枝にはほとんど鱗片葉です。気をつけてみて下さい。 沼津市教育委員会石柱に「天然紀年物 大瀬崎 柏槇樹林 田方郡西浦村」と。参道の左側に社があったが。右側の石碑には寄進碑。石碑には「天然記念物 大瀬崎びゃくしん樹林」と。手水舎、出札所、柏槇館 (左奥)。雨が降り出し急ぎ足で参拝することに。絵馬殿前に説明板。大瀬神社之記祭神 引手力命(ひきてちからのみこと) 一、例祭 四月四日一、当神社は白鳳十三年(684)大地震が起き土佐国で多くの土地が海中に没した反面突然三百 余丈も盛り上り島が誕生したとある又土佐国から土地を引いてきて島を造った云う伝説も ありその神霊を感じて引手力命として祭ったとされる。一、当社は古来から力技射術の霊験があるといわれ源為朝、頼朝が源氏再興を祈願し弓・矢・ かぶと・宗近の銘刀、政子御前が御神鏡を奉納されたとある他、各時代の武将御太刀を 奉納されており源氏の再興もかなえられ再三参拝されたと記されている。一、建武年間(室町時代)熊野より水軍の武将鈴木繁伴一族が近江を領し祭祀にいそしむとある がその後の地震津波により社弓矢など皆失われてしまった。しかし金銅尊躰を砂中で発見 再建、海の守護神として駿河湾一円の漁民の崇敬尊信篤く今日に至る。一、現在の社殿は火災により昭和十四年に建造されました。一、先端には燈台、樹令千数百年以上の幹囲り六米以上のびゃくしん御神木をはじめ、天然記 念物びゃくしん百三十本余り樹令一千年以上の木も多数あり古木館大正天皇参拝記念碑あ り。一、周囲300米 海の干満との関係する底なしの池とされながら真水で数万匹の鯉、鮒、なま づ等の淡水魚が元気に泳いであり神秘的で人々のみそぎの池であり伊豆の七不思議の一つ である。引手力命神社 (大瀬神社) 絵馬殿扁額には「絵馬殿」。大瀬神社の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。石碑には「延喜式内 引手力命神社」と。大瀬神社への参道は階段に。階段両側には石祠。赤く塗られた石祠。階段途中に建つ石鳥居。拝殿前にも狛犬、右側の阿形像。13:30左側の狛犬、吽形像。 ー 続く ー
2024.02.26
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萬行山航浦院 (まんぎょうさんこうほいん) から県道17号線(沼津土肥線)の海岸線を西へ走る。海岸線には ”みかん直売所” を多く見かけたが既に購入しているのでスルー。2月15日(木) 12:45県道17号線(沼津土肥線)の海岸線に石灯籠。対岸は沼津市であろうか。天気が良ければ右遠方には富士があるのであろう。12:50来ル海の河津桜所在地:静岡県沼津市西浦江梨県道17号線(沼津土肥線)を”大瀬崎”へ向けて走りカーブを曲がると突然面前に桜並木。県道17号線の旧道路に入り路肩に駐車。案内板が無かったのでGoogleマップで調べここが目的地の”来ル海の河津桜”であると確認。県道のこのカーブ部分に河津桜が植えられておりちょうど満開であった。県道の海側の斜面に植えられている。河津桜はピンクが濃く華やかである。枝の中には多くのメジロが蜜を求め飛びまわっていた。満開の河津桜をズームアップ。河津桜の手前に「営業中」の幟旗があり戻って確認すると、”来ル海海岸海水浴場” の入口であった。海岸へはここから急な坂道を下るようだったが有料と。この場所は富士山や駿河湾をバックに河津桜が咲いている絶景ポイントであると。Googleマップには載っているが道路沿いに案内板がないので通り抜けるのでは。メジロが飛びまわっていたのでしばし追うことに。メジロが蜜を求めて。動きが早いのでシャッターチャンスが難しい。満開と同時に葉芽も出てきている。枝にぶら下がるメジロ。道路からの海側の斜面に植栽されている河津桜。ズームアップ。飛び立つメジロ (右下)。飛ぶメジロをズームアップ。ズームアップすると画面がピンク一色に染まる。県道17号線の交通量は少なく、サクラを観賞しているのは私だけであった。北方向の駿河湾を望む。枝先にもメジロが止まっていたが。遠くに沼津市街地。天気が良ければこのような写真が撮れたのだが(写真はネットから引用)。大瀬崎側から振り返る。急斜面に植栽されている河津桜。”来ル海の河津桜” は50~100本植えられているのか。13:00河津桜以外は見る所もないので約10分の滞在で後にした。富士山ビュースポット・西浦江梨所在地:静岡県沼津市西浦江梨”来ル海の河津桜” から数分で到着した展望台。富士山ビュースポット・西浦江梨駿河湾越しの富士山を望む絶景スポットです。手前に駿河湾へ大きく突き出た日本最北端のビャクシン群生地として知られる大瀬崎が見え、独特の景観をつくりあげています。夕焼けから夕闇にかけての時間帯の風景もおすすめです。三の浦総合案内所の前の ”三の浦周辺観光マップ” に記載されていたビュースポットである。上記マップの右下の写真をズームアップ。いつか県道17号線(沼津土肥線)を走りこの様な写真を撮影したいものだが。展望台には石製のベンチ。右側には”CYCLIST FRIENDLY AREA” と書かれた石製のサイクルラック。展望台から見下ろす ”大瀬崎:神秘の自然と信仰の岬” 。大瀬崎:神秘の自然と信仰の岬駿河湾に突き出した大瀬崎は、海岸沿いの海流によって運ばれた岩や土砂が帯状にたまって出来た「砂嘴」という地形です。砂嘴に守られた穏やかな海では、マリンレジャーもさかんです。岬の中の荒れた岩場には、自然の群生地としては日本最北端にあたるビャクシン樹林がひろがっています。なかには推定樹齢1000年を超える巨木もあり、厳しい自然環境や何度もの津波に耐えてきました。岬の先端にある神池は、海に囲まれた海抜1mの淡水地 (海水でなく真水の池) です。伊豆の七不思議にも数えられるこの池に、なぜ淡水がたまっているのかはわかっていません。駿河湾の漁師の象徴である大瀬神社は海の守護神として知られています。毎年4月4日には、大漁・航海安全を祈願し「大瀬まつり」が行われ、女装した青年たちが踊り船の上で「勇み踊り」を繰り広げます。大瀬神社、ビャクシン樹林、神池を見下ろす。石製のサイクルラック。13:05次の目的地 ”大瀬崎” へ行くことに。道路標識をズームアップ。 ー 続く ー
2024.02.25
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久連神社を後にし次の目的地 ”来ル海の河津桜”、”大瀬崎”、”井田の河津桜” に向けて県道17号線(沼津土肥線)を走る。2月15日(木) 12:10天気が良ければ右側の車窓に富士山が望めるのだが。この日は雲の中。気になる寺社もあったが一人旅では・・・。県道17号線(沼津土肥線)を走っていると車窓左側に満開の河津桜が目に入り停車。我が茅ヶ崎市ではまだ開花前であったが、伊豆半島は気温が高いのか満開に。路面には散った花びらが少ないので満開。県道沿いに「萬行山航浦院 200m」の案内板を見つけ山側へ入る。左折するがカーナビにセットしていなかったので神社前を通り抜け駐車。路肩に車を停めてまず神社へ向かった。石垣に埋め込まれた銘板。農林水産省国庫補助事業 誰もが住んでみたい村に農業農村整備事業名 畑地帯総合整備事業 西浦みかん江梨地区路線名 内浦・西浦燦々(さんさん)みかん街道 西の起点事業者 静岡県東部農林事務所管理者 沼津市12:25江梨 神明八幡神社所在地:静岡県沼津市西浦江梨 77門前に河津桜が咲いていた。本来の目的地の ”萬行山航浦院” は右側の道をはいるようだったが、案内板が無かったので左側へ進んだ。参道入口に神明造の鳥居。社号標石には「村社 神明八幡 神社」と。当社は、式内社・文梨神社の論社の一つ。鎮座地の江梨を「えなし」と書き、「え」と「文」の文字の類似から文梨と記されたとする説があり、江梨の産土社である当社が論社となっている。ただし、伊豆国神階帳には「ちちなし」と書かれており、文梨は「父梨」の誤記とする説もあると。鳥居を潜ると階段の参道脇にいろんな社が建っていた。社名から神明神社と八幡神社を合祀した神社。タオルが掛けられた手水舎。奉納された石燈籠も建つ。杉林に囲まれた階段の上に社殿。この前に参拝した”久連神社”は階段が急であったが、ここは急でなかったので怖さを感じなかったが手摺が設置されていた。住民も高齢化し手摺が設けられたのであろう。御祭神:天照大神、櫲樟日命、品陀和氣命。社殿の周りには末社が祀られていた。境内左の境内社。石祠も。境内右側の境内社。拝殿前から北方向(海側)を見下ろす。境内には杉が聳えるが境内からは、対岸に富士山が良く見えると。小さいが銅板葺きの立派な手水舎。12:30臨済宗円覚寺派 萬行山航浦院 (まんぎょうさんこうほいん)所在地:静岡県沼津市西浦江梨 149神明八幡神社の右側を入り百メートルほどにあった古刹である。苔むした門前に「航浦禅院」その奥に「伊豆國八十八所 八番霊場」の石柱が並ぶ。八番霊場の石柱には『瑠璃のいる 江梨の浦に 輝きて 誓いの網を 引くぞうれしき』と。寺号標石の「航浦禅院」。和歌山からこの地に来た一族が菩提のために建立した寺院。平成31年4月24日より、寺院の都合で別格第八番だったが正式な第八十五番札所に。臨済宗の石柱が建つ参道。参道の左側には「水子観音像」であろうか。参道を上ると右側に建物があり入口に「豆州八十八所 八十五番霊場」と。建物の扁額「○○○」と。境内の左側に本堂。寺の由緒創建は1336年(建武3年)頃に航浦院を建立されたものと記されている。和歌山からこの地に来た一族が菩提のために建立した寺院。開基の杉本左京大夫繁郷は沼津市西浦江梨を根拠地にした伊豆水軍の雄であった。鈴木氏は紀州から西浦地区に移住し、約二百数十年間にわたってこの地の西浦一帯を治めた。石碑には『衆生本来佛なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に佛なし』と。本堂山 号 萬行山 近くに萬行寺という山があり、その事から名付けられたと言われている。本 尊 薬師瑠璃如来開 山 業堂寿(ごうどうじゅ)和尚大禅師開 基 杉本左京大夫繁郷「航浦院殿江巖道海大居士」。薬師如来の正式名を薬師瑠璃光如来という。病気を治し、安楽を得させる仏。治病の仏として広く信仰された。薬壺を持つ像が多い。本堂の扁額「萬行山」。本堂に、「伊豆國八十八所 八番霊場」。現在は第八十五番札所。ご詠歌『瑠璃のいる 江梨の浦に 輝きて 誓いの網を 引くぞうれしき』境内に建つ慈母観音?。台座には、「人は此の世でその光を失○○星になるという 君もあの空の星の一つになってしまったのだろうか 僕達は生まれ そして 育った土地も眠る君のことを そして君と生きた 高知の地を 時を忘れない いつまでもこの心の中で光る星として 高知大学友人一同」と。亡き友を思い奉納した像であろうか。側面にも彫られていたが。ガードレールに止まる ”イソヒヨドリ” 。イソヒヨドリは、スズメ目ヒタキ科に分類される鳥の一種。アフリカとユーラシア大陸に広く分布し、和名どおり海岸や岩山などで多く見られる。 磯や岩場に多く生息し、外見がヒヨドリに似ていることからこの和名がついているが、鳥類学上ではヒヨドリ科ではなくヒタキ科に分類されており、まったく別の鳥であると。最近では磯を離れ内陸部で子育ちをしていると。本堂裏に咲いていた ”杏子” の花であったか。ズームアップ。ウメにしては蕾が大きかった。航浦院の裏山に広がる墓地。墓地への階段には手摺が設置され上には枝垂れ桜。こちらにはウメが咲いていた。階段入口に立つ地蔵。12:40墓地への入口には六地蔵が並んでいた。 ー 続く ー
2024.02.24
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内浦長浜地区の散策を続ける。この辺りの寺社の境内からは、駿河湾越しに富士山の絶景がみれる。2月15日(木) 11:35住本寺から下り、三の浦総合案内所へ戻る。工事中であったが、案内所の裏側(東)にあった「富士見広場」の石碑。富士見広場に河津桜が数本植えられており満開であった。残念ながら青空でなかった。ピンクに染まる満開の河津桜をズームアップ。数日後には散り始めるのであろう。時宗 安養寺 (あんようじ)所在地:静岡県沼津市内浦長浜 162法然上人が開祖の浄土宗の系統で、一遍上人が開いた「時宗」 という宗派であり、700有余年つづく由緒あるお寺である。本山は神奈川県藤沢市の遊行寺である。入口から見た本堂と地蔵堂 (左側)。門柱には「時宗光照山 安養寺」。石碑の裏面には、「施主 菊長家 菊地吉左エ門 八十才 昭和五十三年十一月吉日 当山三十九世起阿達一代」と。本堂の扁額「安養寺」。本堂の左手に社。社の横に石碑「菊地波勝翁之碑」。本堂前左側に建つ「地蔵堂」。地蔵堂の扁額「地蔵堂」。地蔵堂の左側にも社が建っていた「天満宮」。天満宮の扁額「天満宮」。地蔵堂と天満宮の間に並ぶ石像群。白髪神社所在地:静岡県沼津市内浦長浜長浜地区の村社で、住本寺と安養寺の間に鎮座する神社である。鳥居を潜り石燈籠の先に社殿。手水舎の上にはタオルが吊り下げてあり地元の方々が日々参拝しておられるのであろう。境内の隅には石祠も並べられていた。社殿前に聳えるイチョウの木。閉ざされた社殿。社殿左に建つ社。社には「天王社」と。拝殿前から境内を見下ろす。11:50内浦長浜地区の散策を終え、県道17号線(沼津土肥線)を西へ向かう。この後の目的地はGoogleマップで調べていた、”来ル海の河津桜”、”大瀬崎”、”井田の河津桜”。正面に ”長浜城跡” の高台。本因坊丈和 出生の地の碑所在地:静岡県沼津市西浦木負県道17号線(沼津土肥線)沿いに建つ碑で、十二世本因坊丈和の出身地と言われる沼津市西浦木負に、2017年に生誕230年を記念して碑が建立された。場所は駿河湾を臨み、富士山を前にした風光明媚な場所である。11:55久連(くづら)神社所在地:静岡県沼津市西浦久連1鳥居は、県道から内陸に入ったところにある。社号標石には「神嶋鎮坐 久連神社」。鳥居の左に社。覗き込むと石仏。県道17号線(沼津土肥線)を挟み海側にある神社。右方向に急な階段が見える。沼津市のマンホール蓋市の花「はまゆう」、木「まつ」を手前に配し、その奥に沼津の海岸線から望む「駿河湾」、「愛鷹山」、「富士山」をデザインしたもの。「まつ」の絵は、歌人・若山牧水に愛され、日本百景にも選ばれた「千本松原」をモデルにしている。鳥居の前に一対の狛犬。鳥居の扁額「久連神社」。市指定天然記念物久連神社社叢 (くずらじんじゃしゃそう) 指 定 昭和五十二年十二月二十二日 面 積 4,178平方メートル久連神社社叢は、そのほとんどが照葉樹で占められています。目通り1.7メートルのモッコクや、1.1メートルのウバメガシの巨木をはじめ、ヤマモモ、タイミンタチバナ、ネジキなど暖地性の植物が、およそ四十数種認められています。樹林の保存状態は極めて良好で、植栽されたビャクシン、コウヤマキなどの数種を除くとほとんど人工の影は見られません。この社叢には特別珍しい植物はありませんが、暖地における植物相を知る上で、また自然生態を最も良くとどめている樹林としても貴重なものです。 平成九年二月 沼津市教育委員会鳥居の先の森の中には急な階段。急な階段だが新しい手摺が設置されていた。途中に踊場が無かった。階段を上ると正面に拝殿。石碑には「久連神社造営之記」。字が刻まれていたが風化して判読できなかった。拝殿前には植栽されたビャクシン、コウヤマキが聳える。拝殿の扁額は読みづらかったが「○○○○○○」と。また多くの「千社札」が貼られていた。社殿の右奥に神輿殿が立っていた。扁額の「神輿殿」。本殿植栽されたビャクシンの大木。社殿の周りを廻り拝殿前へ。境内には苔が生えていた。12:05急な階段で途中に踊場がないので安全上手摺が設置されたようだ。転ばないよう手摺を持ち階段を下りる。 ー 続く ー
2024.02.23
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長浜城跡の登城を終え折角であるので近郊の寺社史蹟を訪れることに。2月15日(木) 10:50まず近くにある”光明寺”へは、ここから約百メートル。県道17号線(沼津土肥線)を山側へ入る。削られた場所に墓石が立っていた。墓石は削られた斜面を養生し簡易な階段状の上にある。何故このような場所に設置されているのか。石碑には「西國 四國 奉納○○○」と。サカキが供えられておりまだ近隣の方がお参りをしておられるようだ。時宗 光明寺 (こうみょうじ)所在地:静岡県沼津市内浦重須 22鎌倉時代、時宗の開祖一遍上人は、日本各地をめぐり念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅をしていました。上人の遊行の旅に従っていた弟子の通岩和尚は、この地(重須郷おもすのごう:現在の沼津市内浦重須)にとどまり、今から約700年前の正応3年(1290年)、草庵を結び念仏を勧められました。これが当寺のはじまりであると。安政の大津波安政元年 (1854) 11月4日午前10時頃、伊豆地方をおそった大地震により大津波が打ち寄せ、重須村55戸のうち42戸が流失し、一面河原となりました。光明寺の本堂は床上3尺 (約0.9m)、庫裏は床上4尺 (約1.2m) まで浸水し、各所が壊れ、仏具など大切なものが流されましたが、幸いなことに倒壊をまぬがれた。本堂の右側に寺務所。石碑には「念ずれば花ひらく 坂村真民」と。本堂の扁額「東髙山」。御本尊は舟形光背阿弥陀如来立像である。本堂右側の一段高いところに六地蔵、墓石が立っていた。お揃いの衣装を着た六地蔵。歴史を感じさせる苔むした墓石、地蔵が立っていた。歴代の住職の墓石の先に本堂。忠魂碑であろうか二十名の氏名が刻まれていたが。判読できず。光明寺の高台からこのような光景が見えると。光明寺の西側を流れる陰野川から光明寺を望む。陰野川の下流側。光明寺の裏山を整備しているようだが。県道17号線(沼津土肥線)に戻りここを右折して、”三の浦総合案内所” へ行くことに。11:10セブン-イレブン 伊豆三津シーパラダイス前店前にあった ”石像群” 。ここから再度引き返し西方向へ進む。説明板等が無く詳細は不詳。11:15三の浦総合案内所所在地:静岡県沼津市内浦長浜 83-124観光客へ沼津市内の三の浦地区を中心とした観光スポットやバスの乗り方、お土産物など観光に関するすべての事をご案内をいたします。アニメの聖地となっていることから、大勢のファンが訪れている。三の浦総合案内所の前の ”富士見広場” にキッチンカー。中高年の男性、若い女性が訪れ購入していたが。車体に、「浦女」「浦の星女学院」と。ブログ作成時に調べると ”アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」に登場するアニメ聖地” と。内容は、静岡県沼津市の海辺の町、内浦にある私立浦の星女学院。駿河湾のかたすみにある小さな高校で2年生の高海千歌を中心とした9人の少女たちが、大きな夢を抱いて立ち上がる。それは、キラキラと輝く“スクールアイドル”になること!諦めなければきっと夢は叶う――。いまはただ輝きを目指して、がむしゃらに駆け抜けていこう!ここから彼女たちの「みんなで叶える物語」スクールアイドルプロジェクトが始まった! 。三の浦周辺観光マップ1⃣ 発端丈山 内浦、三津にそびえたつ発端丈山は、標高410メートルの山で、伊豆の国市の葛城山と隣 接しています。展望台があり、駿河湾に浮かぶ淡島と富士山という特徴的な景色が楽しめ ます。益山峠から南へ分岐すると、天然記念物の大カエデと大いちょうがある益山寺に、 東に分岐すると葛城山に着きます。 初心者でも登ることができ、展望台からは駿河湾に浮かぶ淡島と、はるか彼方に南アルプ スを控えた富士山を望む絶好の写真撮影ポイントとして有名です。2⃣ 長浜城跡 この日既に訪問したので説明文はカット3⃣ らららサンビーチ らららサンビーチは、海水浴と磯遊びが一緒にできる、他には類を見ない新しい人工の海 浜施設です。白い砂浜は、遠浅で水質もよく、正面に広がる海越しの富士山の眺望は絶景 です。シャワー、トイレ、更衣室なども完備され、お子様連れのご家族でも安心して楽し めます。4⃣ 富士山ビュースポット・西浦江梨 駿河湾越しの富士山を望む絶景スポットです。手前に駿河湾へ大きく突き出た日本最北端 のビャクシン群生地として知られる大瀬崎が見え、独特の景観をつくりあげています。 夕焼けから夕闇にかけての時間帯の風景もおすすめです。5⃣ 大瀬崎 この日この後訪問するので説明文はカットこの後走る ”大瀬崎から戸田” へのルート。三の浦総合案内所の入口には、アニメ!ここは ”アニメ 「ラブライブ!サンシャイン!! 」” に登場するアニメ聖地であると。私はアニメを見ることがないので???。入口には貸出し用の自転車が多く置かれていた。中に入るといろんなアニメが飾られていたが・・・・・。アニメファンにはたまらないのであろうが。他にもいろんなものが飾られていたが・・・・・。お人形を一つ買えばよかった!車を富士見広場に置き、この後、近くにある寺社巡りに。大川家長屋門所在地:静岡県沼津市内浦長浜 142三の浦総合案内所の南側に古い建物があった。ここも ”アニメ 「ラブライブ!サンシャイン!! 」” に登場するアニメ聖地である。住まわれているようで「立入禁止・撮影禁止」になっていた。沼津市指定有形文化財 (建造物) 大川家長屋門 指定 平成二十年一月十七日この長屋門は内浦長浜の津元大川家の表門で、江戸時代後期に建てられたとされています。木造平屋建てで、屋根は寄棟造、瓦葺きです。建築面積は54.39平方メートル(増築部分を除く)床面積は37.95平方メートル(増築部分を除く)軒高3.63メートル、高さ5.43メートルです。門扉は観音扉内開きで、一枚の大きさは高さ2.195メートル、幅1.22メートルです。また、門扉の右脇には内開きの小さな扉があります。・・・中略・・・天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めの際、長浜城に籠城を命ぜられた大川兵庫助の後裔と伝えられる津元大川家の威容を示すにふさわしい長屋門です。・・・中略・・・この重要かつ膨大な古文書からは、日本の漁民史・漁業史の詳細な内容が明らかになり、江戸時代から近代まで続いた津元の存在意義を示す建造物ととらえることができます。 平成二十一年四月 沼津市教育委員会撮影禁止のため外から門前を撮影。日蓮宗 住本寺 (じゅうほんじ)所在地:静岡県沼津市内浦長浜 94富士山が臨める風光明媚なお寺。元享元年 (1321) の開山で、680年の歴史を持つ日蓮宗でも古いお寺である。参道の階段の左に立つ石碑、 「長峯山 ・・・・・・ 住本寺」。同右側にも石碑があったが苔むして判読できなかったが「〇難〇供養・・・」と。住本寺縁起当山は、長峰山住本寺と称し、元享元年 (1321) の創設なり。もとは、真言宗根源の道場であったが、時の別当長律師は鎌倉往復の砌、浜の法華寺に立ち寄り六老僧の一人日昭聖人と法談の末、本化の教門に服し、名を昭住院日喜と改む。日昭聖人より、中老僧日法聖人作の宗祖尊像を賜った日喜上人は、この地に戻るや自坊を日蓮宗に改宗し、当山の開祖となる。文禄四年 (1595) 玉沢第十四世日苞上人自ら当山に下向し、第七世日受上人との間に、本山末寺関係を結ぶ。・・・中略・・・明治の世となり第二十五世日忠上人は、本山玉沢妙法華寺より、六老僧日朗聖人ご自作の宗祖尊像を拝領し、寺宝となす。現在も、当山は法華信徒渇仰の道場として信仰を集めている。木の幹に”サルノコシカケ”。掲示板に今月の聖語「利根と通力とにはよるべからず」。現在の本堂は、宝暦八年に建立されたもので、ご本尊は、久遠実成のお釈迦様。このお寺は、漁業町として栄えたこの地の法華道場として、海上安全・家内安泰・大漁満足を願う地域の人たちからの厚い信仰を集めてきた。境内からの眺めは素晴らしく、眼下には駿河湾、其のむこうには霊峰富士の山を仰ぐ風光明媚な処にある。本堂の扁額「長峯山」。本堂の前にも舎。11:30本堂の廻り廊下から駿河湾に浮かぶ淡島を望む。天気が良ければ富士山が見えるのであろう。 ー 続く ー
2024.02.22
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長浜城跡の ”重須(おもす)側” から ”海側(北側)” へ廻る。2月15日(木) 10:20海側には第一曲輪から海に向かって北東に延びる尾根上に、地形に合わせて大小4つの曲輪が階段状に設けられている。案内柱← 重須側ガイダンス第二曲輪 →腰曲輪 B ~ Ⅾ ↑ この後、海側へ下り腰曲輪へ。腰曲輪 (こしぐるわ) A~D第一曲輪から海に向かって北東に延びる尾根上には地形に合わせて大小4つの曲輪が階段状に、そして直線的に配置されています。第一曲輪に附属する施設とみなされることから、「腰曲輪」と呼んでおり、第一曲輪に近い方から便宜的に腰曲輪A、B、C、Dという名称をつけてあります。現在地は腰曲輪Bとなり、いずれの曲輪も、尾根を削る、土を盛るなどの大規模な土木工事を行うことで広い面積を作り出していました。発掘調査では、柱の跡は見つかったものの、遺物の出土がきわめて少量で、曲輪の性格を断定するための証拠を得ることはできませんでした。とはいえ、長浜城は水軍同士の戦いを支える「海城」という性格をもっていたため、海に突き出たこれら曲輪群は海側から城内に攻め込もうとする敵を撃退する役目を持っていたのだろうと考えられます。この案内板は腰曲輪Bに立っている。長浜城跡の曲輪配置図腰曲輪 A~D (赤色部分)海側に向かって階段状に下る。各場所に曲輪の名札が欲しかったが。途中からロープが張られていた。曲輪下の岩場を見下ろす。この撮影場所が腰曲輪の「D」辺りであったのか。草むらを抜け岩場を注意しながら海岸線へ下りる。目の前は ”長浜ヨットハーバー” で多くのヨットが係留されていた。車を停めている ”長浜釣堀観光センター” 方向。長浜城跡下の海岸から西方向を望む。磯から岩場を登り、腰曲輪D~Aを見上げる。腰曲輪Cから、B、A、櫓を見上げる。腰曲輪AからB~Dを見下ろす。残念ながら北の方向は雲が厚かった。手前に長井崎、遠くには沼津市街地、雲がかかる愛鷹山。第一曲輪から、”腰曲輪 A~D” を見下ろす長浜城跡からの三枚橋城(沼津城)方向。赤印が三枚橋城、下の黄色矢印が長浜城。因みに三枚橋城までは海岸線を14キロ北上する。この後のスケジュールは、長浜城跡から県道17号線(沼津土肥線)の海岸線を走り「大瀬崎」へ。腰曲輪Aを後にし、第一、第二曲輪を抜け虎口(出入口)から第四曲輪へと下りる。第四曲輪堀切から階段を上り第四曲輪へ、面積は147平方メートルの曲輪。第四曲輪第四曲輪は長浜城の中でも小規模の曲輪ですが、この位置から尾根伝いに登ってこようとする敵をここで撃退する役目を担っていたと考えられています。第一曲輪から第三曲輪までは比較的短い距離で並んでいますが、第四曲輪は、やや大きめの「堀切」を挟んで、第三曲輪と離れて築かれており、第三曲輪よりも8mほど低い位置にあります。他の曲輪と異なっている特徴として、この曲輪の土塁は単に土を盛るだけではなく、凝灰岩の岩盤を削り残すことで土塁としており、かつての土塁の幅は約5.5m、曲輪中央部との高さの差が約1.5mもあったと考えられます。狭い第四曲輪において、全体の面積に占める土塁の割合が非常に高く、生活よりも防御に重点があったようです。土塁の頂部に1基だけですが柱穴が確認されており、これは、何らかの防御施設の痕跡を示しているのかもしれません。第四曲輪辺りの曲輪群。第四曲輪から ”魚見櫓” へ下りる。10:35訪れた時は駐車場には車はなかったが、帰る時には5台近く駐車していた。駐車場から県道17号線(沼津土肥線)へ出て近くにある ”ガイダンス広場” へ行くため右折。長浜城墓石・長濱城址碑所在地:静岡県沼津市内浦長浜176説明板には、ここは、戦国時代末期に後北条氏の水軍の基地があった長浜城跡です。貴重な遺跡として国の史跡に指定された土地ですので、現状の保存にご注意ください(許可なく現状を変えることはできません。) 文 化 庁 静岡県教育委員会 沼津市教育委員会長浜城跡の駐車場出入口から西側数十メートルの所にある遺跡。長浜城北条水軍の名も残らず、倒れた方々のお墓であると。重須(おもす)側ガイダンス広場所在地:静岡県沼津市内浦重須広場には、北条水軍が使用していた安宅船が原寸大で展示されている。先程上から見下ろした。広場の西側を流れる「二級河川 陰野川」。県道17号線(沼津土肥線)の海側にある広場にはいろんなパネルが掲示されていた。広場には駐車場がなかったので向かい側に停めさせていただく。重須側ガイダンス広場このガイダンス広場がある重須地区は、江戸時代に書かれた『北条五代記』によると「伊豆重須の湊に兵船ことごとくかけをく」とされる場所でした。発掘調査によって戦国時代に造られた石積みの護岸遺構が広場の内側で見つかったことや、江戸時代に書かれた絵図などを合わせて考えると、左図のように海岸線は現在よりも内陸に入り込んでいたと考えられます。今よりも広い入り江であった重須湊は、安定して波が穏やかであり、大型軍船を係留しておくには適していました。また北条水軍の船大将であった梶原備前守景宗も武田水軍との決戦に備えて、その他の将兵とともに重須地区(上條、中條、下條など)に居住していたと伝えられています。こうしたことから、この広場を軍船のガイダンス広場と位置づけ、当時の主力軍船であった安宅船の実寸の大きさを示した平面表示や護岸遺構の復元を行っています。江戸時代に書かれた絵図などを合わせて考えると、下図のように海岸線は現在より内陸に。安宅船原寸大模型広場には干しイカの如くに展示されていた。安宅船原寸大模型戦国時代の軍船である安宅船を原寸大で表示しました。 長さ:24m、最大幅:9.8m安宅船 (あたけぶね)発掘調査で見つかった石積み陰野川沿いにあり、一段目だけをレプリカで再現していると。発掘調査で見つかった石積みこの場所では、発掘調査によって堤防と考えられる石積みが見つかりました。石積みの石は、川石をそのまま使ったと考えられます。実物はここより2m下に現地保存されていますが、整備では一段目だけをレプリカで再現しました。ガイダンス広場。海側のパネル安宅船(あたけぶね)安宅船は、戦国時代に伊勢から瀬戸内にかけての海で使われ始めた大型軍船です。戦国時代後半には東国の大名の間でも使われるようになり、甲板を全周する楯板(装甲板)の強固な防御力や、前面に設置した大筒(大砲)などの大火力は、それまで東国で使われていた軍船を圧倒しました。安定感のある船体も特徴で、矢や鉄砲を放つため狭間(窓)や櫓の存在から、後世には「海上の城」とも呼ばれました。安宅船の構造安宅船は「船倉」と「甲板」という二層構造になっています。『北条五代記』は、1艘の安宅船につき、船倉に漕ぎ手が50人、甲板に戦闘員が50人乗り込んでいたと伝えています。また船倉の下は水密区画を設けて、一部に穴が空いても全体が浸水しない構造になっていました。この広場に設置した安宅船の模型は、漕ぎ手が乗り込んだ船倉の様子を平面で示しています。北条水軍の安宅船武田軍との戦が近づくと、長浜城の港には北条水軍の主力が集結してきました。全体の戦力は不明ですが、安宅船だけでも10艘もあったと伝えられています。北条水軍の安宅船は、全長は推定で25m前後もある巨大な軍船でした。この大きさを体感してもらうために、ガイダンス広場には安宅船の大きさを表示した原寸大模型を設置してあります。帆と艪(ろ)安宅船は帆と艪によって動きました。順風時には帆を張り風を受けて動きましたが、速度や進行方向の細かな制御は難しかったため、海戦時や港に入る時には、写真のように帆柱をしまって、艪を漕いで船を動かしました。何艘もの安宅船や小早船によって構成される戦国時代の水軍には多くの訓練された水夫が必要で、その優劣が戦いの勝敗を大きく左右したこともあったのでしょう。舵 (かじ)船の動きを制御するために、船尾には巨大な舵が取り付けられました。また河口の港など、水深の浅いところに出入りする際に、海底に接触して舵が破損しないように、取り外し可能な吊り下げ式になっていました。小早船 (こばやぶね)安宅船は安定性が重視された構造となっていたため、速度では他の船に劣っています。この弱点を補うために、安宅船の周りには小早船が配置されました。小早船はその名のとおり、10人乗り程度の小さな船で、素早く相手に近づいて敵船に乗り込んだり、相手を船から落としたりする役割を担っていました。道路側のパネル安宅船からの攻撃安宅船の側面には、矢や鉄砲を放つための「狭間」と呼ばれる小窓が備えられていました。また前方に張り出した船首には大筒(大砲)が置かれ、狭間からの攻撃も加えると、どの方向の敵にも立ち向かうことができるように造られています。安宅船の形は、当時の小形船に比べると横幅があり、横波を受けても船が安定する造りになっていました。横幅を広げると船の速度を上げにくくなりますが、動力性能を犠牲にしても、矢や鉄砲を正確に放つことを優先した構造を採用したのでしょう。安宅船の防御安宅船は遠くから鉄砲を撃たれても、簡単には穴が空かないように、椋の木で造った「楯板」と呼ばれる厚い装甲板で覆われていました。この楯板は下端が蝶番で留められていて、写真のように開閉することができました。敵の水軍との接近戦では、楯板は外に向かって倒され、他の船に乗り込む「橋」の役割も果たしたと考えられています。長浜城と北条水軍発掘調査の結果、長浜城が使われ始めたのは15世紀末のころであったと考えられます。しかし本格的な水軍の城となったのは、天正七年 (1579) に武田氏が狩野川河口に三枚橋城を築き、北条氏をけん制した時でした。北条氏は韮山城を守るため、徳倉や大平などの狩野川沿いの城を築城・改修しました。さらに江浦湾や内浦湾から韮山城に攻め込まれないように、獅子浜城と長浜城を整備し、長浜城には北条水軍の主力を集結させました。天正八年(1850年)ごろの城郭分布図北条氏城郭と武田氏城郭北条水軍の大将 梶原景宗北条水軍の大将である梶原景宗は、元は紀伊国(現在の和歌山県)を本拠とする海賊衆で、その手腕を買われて北条氏に雇われた武将でした。彼はそれまで東国になかった大型軍船の建造と運用の専門家で、江戸湾(東京湾)内における里見水軍との戦いで戦果を挙げていました。北条氏はその功績を評価し、武田水軍への対抗策として、景宗を長浜城に配置しました。駿河湾海戦『北条五代記』によると、天正八年 (1580年) 春、武田水軍は長浜城付近まで攻め込み、北条水軍がそれに応戦したことで駿河湾海戦が始まったとされています。北条水軍の反撃に武田水軍は退却しましたが、北条方はその後を追い、両軍の戦いは日が暮れるまで続きました。両水軍は翌年まで繰り返し戦いましたが、両軍ともに味方の働きをほめたたえる文書が残ることから、どちらが戦いを有利に進めていたか、はっきりしていません。絵は、「重須裏合戦 (『北条五代記』挿絵)」。ガイダンス広場近くの東海バスのバス停留所「長浜城跡」。日本語、英語、中国語で案内。近郊の案内板この後、三浦観光案内所、光明寺、住本寺、白髭神社、安養寺へ行くことに。10:50JAふじ伊豆OH!MOS (オーモス)所在地:静岡県沼津市内浦重須14-10車を停めていただいたので、ミカンが安かったのでお土産に購入した。青島みかん 200×2袋 400円黄金柑 1袋 400円 と安かった。 ー 続く ー
2024.02.21
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”長浜城跡”は、戦国時代に関東一円を治めた後北条氏の水軍の拠点とされた城跡である。1988年5月13日に国の史跡となり、その後発掘調査が行われ、4つの曲輪と15の小曲輪で構成された連郭式の城郭跡だったことがわかった。平成27年度(2015)に史跡整備が完了した。2月15日(木) 10:00階段デッキに「頂上までは約5分」とあり整備された木道を上ることに。入場料は無料。階段の上に”魚見櫓”。魚見櫓にあったパネル。長浜城跡周辺の漁業史料駿河湾には湾の奥深くまでマグロなどの大型回遊魚入ってきて、長浜城跡のすぐ下の入江は、日本でも有数のマグロ漁場でした。そのマグロ漁はすでに戦国時代には行われ、城跡の東にある長浜の大川家は、昔この漁をまとめていた代表的な「津元(つもと)」の家でした。この家には戦国時代から近代までの数百年の漁の記録が残されていました。渋沢敬三により『豆州内浦漁民史料』として紹介され、日本の漁業とこの土地の歴史を知るための重要な史料となりました。この磯でマグロの大群がとらえられた最後の漁は、大正時代はじめでした。左の写真は、昭和初期の長浜大川家の長屋門(平成20年に沼津市指定文化財に指定された)。建切網漁(たちきりあみりょう)についてこの海岸で行われたマグロ漁は建切網漁と呼ばれ、入り組んだ地形が利用されました。廃城後も城山にはミネと呼ばれた魚見の松や櫓が数か所もうけられ、長浜の裏山の高い所にあったオオミネの小屋で魚群を発見すると大きなメガホンで、このデッキ下にあった小屋に知らせが入ります。待ちかまえていた漁師たちが船をこぎだし、藁縄の大網を張りまわして、魚群を入江になん重にも囲い、最後は裸で海に入って魚をとらえました。すぐ前にあった「沖の島」には高さ15mほどのコミネと呼ばれた魚見櫓がありました。この階段デッキは、こうしたマグロ漁のころの魚見櫓にちなんでつくられました。魚見櫓があった階段デッキからかつてのマグロ漁場所を見下ろす。魚見櫓から上り分岐点。長浜城跡左の陸側を県道17号線(沼津土肥線)が走る。以下写真2枚はネットから。海側からの長浜城。弁天社順路は第四曲輪からであったが弁天社を先に巡った。第三曲輪の一角にある。第三曲輪第三曲輪は、弁天社の祠の南側に見える掘削痕から、大部分が削り取られていると推測されています。当時の地形で残っているのは、この説明板が立つ南側の一部だけで、戦国時代の第三曲輪の平面は祠が建っている高さではなく、現在地の場所の高さで生活が営まれていました。曲輪の内部からは、直径約50㎝の掘立柱の柱穴が並んで発見されており、掘立柱建物もしくは柵が存在していたようです。この曲輪も他の曲輪と同様に重須(おもす)側にのみ土塁がめぐっています。特にこの説明板が立つ地点からは、土塁や柵で身を守りながら、大手口へ登ってくる敵を上から見下ろして、側面攻撃を浴びせる仕組みをとっています。この側面攻撃の仕組みは、「横矢」と呼ばれ、北条氏の城郭で盛んに用いられた方式であり、第三曲輪、虎口(出入口)、第二曲輪の三地点を組み合わせて、防御機能を果たしていました。下左:横矢の仕組み下右:発掘調査で見つかった柱穴列南側の土塁の上から弁天社を見下ろす。弁天社の裏に立つ案内柱。第三曲輪 →← 第二曲輪土塁の下に虎口(出入口)。L字形をなす3本の柱穴が残る虎口。跳ね橋と虎口(出入口)戦国時代の山城には、尾根伝いに攻めてくる敵を食い止めるために尾根と直交する形で掘られた大きな堀、「堀切」という施設がみられます。長浜城が築城されてから間もなく、この場所には第二曲輪と第三曲輪とを切り離す「堀切」が設けられ、これは第三曲輪と第四曲輪との間に残っている「堀切」と同じく、岩盤を深く掘り込んだ大きなものでした。発掘調査によって、第二曲輪側の壁には堀底から約1.3mの高さに岩盤を掘り残した幅約1.2mの段が確認され、さらにこの段には土塁に沿って約2.1m間隔で、固い岩盤を丁寧に丸く掘った径約0.8m、深さ約1.3mの柱穴が2つ見つかりました。太く高い2本の柱が立てられていたことがわかり、跳ね橋の主柱だったのではないかと推定されました(イラスト1)。しかしながら、この「堀切」はのちに埋められ、幅を狭くして虎口(出入口)に改造されました。かつて跳ね橋のあった位置に門が建てられ(イラスト2)、跳ね橋の柱穴の一つが再利用されて門柱の一方となり、第三曲輪側約2.2mの位置にもう一方の門柱が設けられました。この様にして、時期の異なる二つの建物が存在した結果、この場所にL字形をなす3本の柱穴を残ることになりました。現状は、門へ登ってくる道の正面に第二曲輪の高い土塁がそびえ、側面上方には第三曲輪の土塁が迫る、長浜城の最終段階における堅固な防衛態勢の姿をとどめています。改造される以前も、跳ね橋と推定される橋が設けられていた場所であり、ここは城全体の防衛上、常に大切な地点でありつづけたのだろうと考えられています。左から、イラスト1、2、虎口周辺平面図、岩盤をくりぬいて掘られた柱の穴。虎口から第二曲輪を見上げる。第二曲輪の土塁に聳える古木。根回りは数メートルになるのでは。長浜城跡で一番の大木を見上げる。第二曲輪面積は665平方メートル。長浜城跡で一番広い曲輪で、南北30メートル、東西15メートルの長方形の南側と西側に幅35メートルの土塁が築かれている。第二曲輪:土塁戦国時代の山城には、敵の侵入を防ぐために地面を掘った「堀」と、土を積み上げて作った堤である「土塁」をめぐらせたものがたくさんあります。長浜城も他の山城と同様に、第一曲輪から第四曲輪まで土塁が設けられていました。後の時代に削られたり流失したりしてしまったため、当時の高さはわかりませんが、現存する土塁底部の幅から考えると第二曲輪の周囲には1m以上の高さの土塁が巡らされていたと考えられます。特にこの説明板のある地点の土塁は非常に高く作られており、下に見える虎口に攻め登ってくる敵を上から狙い撃ちするために、とりわけ入念に設計されたものだったと推定されています。長浜城跡の土塁は重須側(陸側)だけにあり、長浜側(海側)には造られていません。防御施設の配置と「安宅船」が重須に繋留されていたという伝承からみると、城を造った人たちは、重須に攻め込んだ敵が上陸して長浜城を襲うのだと想定していたのかもしれません。イラストは「曲輪・土塁・空堀の仕組み」。第二曲輪の土塁上から虎口(出入口)を見下ろす。奥に弁天社、第三曲輪の説明板。第二曲輪の海側。天気が良ければ富士山が見えるのであろうがこの日は雲の中。多くの柱穴の跡が残されている。正面の淡島をズームアップ第二曲輪の掘立柱建物跡第二曲輪:掘立柱建物跡第二曲輪は長浜城のなかで最も広い平面で、発掘調査によって180基ほどの穴が発見されました。ここには掘立柱の建物が建っていたと考えられます。柱穴の痕跡は第二曲輪全面に広がるのではなく、西側よりにかけて一部密集しながら、細長く広がっていました。このことから、建物は少しずつ位置をずらしながら何回も繰り返し建て替えられたと考えられ、さらに柱穴の配置から南北軸にする建物と、それに直交する東西軸で建てられた建物があったと推定されました。ここでは、最大の大きさである第1号建物とそれに直交する第6号建物の柱を復元表示しています。建てられていた時期や建物の性格を推測できる遺物の出土が少ないため、正確なことはわかりませんが、兵舎や食料庫などの建物であったと考えられます。第二曲輪:堀第二曲輪西側北端では、第一曲輪の裾に沿う形で設けられた堀が見つかりました。当初、この堀は重須側の斜面に設けられている竪堀に直接繋がっていると考えられていましたが、発掘によって2つの堀の接続部に畝状の掘り残しがあったことがわかりました。斜面に設けられた竪堀をのぼってきた敵は、仕切になっている畝状の掘り残しに阻まれてこの堀に入ることができず、第二曲輪には容易に進入できない仕組みになっていたのです。この堀は第二曲輪の中だけで完結する「池」のような構造になっており、長さは約8.0m、上幅で約3.0m、下幅で約2.0m、深さは約1.6mの箱型で、安山岩を削り込んで作るという手のこんだ構造になっています。畝を乗り越えてようやく第二曲輪に侵入できたとしても、この堀があるために、敵兵は第一曲輪へ登る斜面に容易にとりつくことができない仕組みになっていました。この堀は、北側の櫓と組み合わせて第一曲輪を守る施設であったようです。下の写真は、発掘調査によって見つかった堀。発掘調査によって見つかった堀第二曲輪:櫓第一曲輪への階段が急であった。第二曲輪:櫓第二曲輪北東隅の第一曲輪と接する場所に、半地下式の構造を持つ長辺4.6m、短辺4.3mの2間四方9本柱の掘立柱建物跡が確認されました。この建物跡は、約1.8mの間隔で岩盤をくり抜いた柱穴と溝状の堀込みを持っており、海側から曲輪の内側に向かって少しずつ柱の位置を替えて、3回の建て直しがされています。海側へ見通しがきくことや岩盤をくり抜くという困難な作業を同じ場所に繰り返し行って建て替えていることから、この建物は、この場所になくてはならない、とりわけ重要で象徴的な意味を持つ建物であったことが考えられます。また第一曲輪への登り口と想定した地点に見つかったのはこの建物跡だけで、第一曲輪への通路口は発見できませんでした。断定するための明確な証拠は得られていませんが、この建物跡は、海側を見張る役割と第一曲輪と第二曲輪を連結する登り口の役割の両方を兼ね備えていた「櫓」であったと推定されます。おそらくこの建物は南側の堀と組み合わせて用いられ、第一曲輪に攻め込もうとする敵を防ぐ役目を果たしていたのでしょう。復元した櫓は、発掘調査で発見された柱穴の上に正確に建てられており、角度が急で幅の狭い階段や半地下式の構造も当時の状況を推定して再現したものです。第二曲輪櫓前から重須の陸側を望む。第二曲輪の櫓の上から、第二曲輪の堀を見下ろす。第一曲輪標高34メートルの最高所にある。面積は591.01平方メートル。北西ー南ー南東側に土塁がある。第一曲輪:土塁と塀長浜城の中で最も高いところに位置する第一曲輪からは、北条氏の敵城である三枚橋城がよく見えます。ここでは、三枚橋城の監視や水軍の指揮が行われていたのでしょう。第一曲輪には西側から北側にかけて、土塁が「L」字状に設けられています。また発掘調査によって、東側に岩盤の安山岩を掘り込んだ90cmほどの大形の柱穴が2基と、南側から西側にかけて「L」字状に延びる小形の柱穴列が発見されており、大形の柱穴は「門」、小形の柱穴列は「塀」と推定されました。この2つの組み合わせによって、第一曲輪の中には周りからは見えないように囲われた特別な空間が設けられていたと考えられます。城兵や水軍に対して命令を出す人物が第一曲輪にいたのかもしれません。第一曲輪の海側矢印辺りが敵城武田氏の「三枚橋城」。所在地:静岡県沼津市大手町4丁目3-2以前訪れたブログ「沼津宿の沼津城跡」👈 をクリック願います。伊豆国長浜城から見える駿河国よく晴れた日には、ここから富士山と愛鷹山を背景として沼津市街が広がる様子を見渡すことができます。戦国時代、長浜城が北条氏の海城であった頃にも、この場所から狩野川の河口あたりがよく見えたはずです。天正7年(1579)、この狩野川河口に北条氏の敵である武田氏が三枚橋城を築いて水軍を配置しました。北条水軍はこれに対抗するため、梶原備前守景宗を大将として、ここ長浜城に特別な軍船隊を置きました。梶原景宗は伊勢の出身で、当時西国で発達していた「安宅船」と呼ばれる大型軍船の運用を得意としていました。長浜城は梶原景宗の指揮する「安宅船」船隊の基地として整備され、武田水軍に対して有利に戦いを進めるための足場になったのです。第一曲輪と第二曲輪を結ぶ櫓。長浜城跡の海側には、長浜ヨットハーバーがある。晴れた日にはこのような光景になる絶景ポイントである。狩野川放水路の口野放水路方向。第一曲輪第一曲輪から海側へ下り、左側の ”重須(おもす)側” へ進む。案内柱← 重須側ガイダンス第二曲輪 →腰曲輪 B ~ Ⅾ ↑陸側の ”重須(おもす)側” ヘ進む。古木の根元に豆蔦(マメヅタ)。豆蔦(まめづた)東北地方南部〜九州に分布。岩上やや樹皮上に生育し、細い匍匐茎からまばらに葉を付ける。葉は丸い栄養葉と細長くてへら形の立ち上がった胞子葉がある。栄養葉は長さ1〜2cm、胞子葉は長さ2〜4cm、厚みがある。ソーラスは線形で中肋の両側に1列につくが、熟すと葉身一面に広がる。ウラボシ科マメヅタ属長浜城跡の南側に廻る。第一曲輪、第二曲輪の南面になる断崖。下を県道17号線(沼津土肥線)が走る。道路沿いの広場には ”ガイダンス広場” 。川は陰野川。安宅船原寸大模型下のガイダンス広場では、長浜城にあったとされる軍船「安宅船」を原寸大で表示しています。長浜城跡の南側は断崖になっている。突き当りに説明板が立つ。ガイダンス広場へは、こちら側からは急な斜面を下るので後ほど行くことに。竪 堀戦国時代の山城は、地面を掘って敵の侵入を防いだ堀を備えました。堀の種類には、尾根を登って来た敵を防いだ「堀切」、山の斜面を横に進んで来た敵を防いだ「竪堀」などがありました。ここに見えるくぼみは竪堀で、今は土がたまって浅くなっていますが、本来は岩盤を削ってつくった深いものでした。竪堀は第一曲輪を守る掘と位置を合わせて斜面につくられ、敵が向かって右側の第二曲輪の南斜面から横に移動して、向かって左側にある第一曲輪に近づくのを、この竪堀が防いだのです。また竪堀と第一曲輪を守る掘が接した部分には、畝状の掘り残しがあり、敵がこの竪堀の底を通って、第一曲輪を守る堀に登れないようにもしています。このように長浜城の陸側は、城の中心部に敵が簡単には接近できない守りの工夫をしていたのです。10:20第一曲輪へ引き返すことに。斜面には石垣らしきものも見られたが。 ー 続く ー
2024.02.20
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石徳高神社 (豆塚神社) から、県道134号線(いちご街道)を西へ走る。2月15日(木) 9:25江間インタ交差点。県道134号線は ”いちご街道” だけにいちご狩りの看板が多く見られた。橋の上に停車、車窓からの下流側。同場所からの上流側。長塚橋交差点カーナビの案内はここを右折。道路脇に看板「かの川ほうすいろ」。車窓からの上・下流のトンネルが気になったので道路脇に停車して撮影しようとしたが見えず。”狩野川放水路”は、狩野川流域の水害を防止する治水事業の一環として造られた放水路で、静岡県伊豆の国市墹之上の狩野川左岸と沼津市口野の江浦湾を結ぶ。トンネルを抜けると、県道17号線(沼津土肥線) 大瀬崎、三津浜の案内。口野放水路交差点の先に江浦湾が見えてきた。県道17号線(沼津土肥線)の道路脇に車を停め振り返る。車を出ると湘南海岸とは違う磯の香りが漂っていた。狩野川放水路の口野放水路に架かる口野橋をズームアップ。山の窪地は”榎木ヶ洞山切通し”。江浦湾の先には駿河湾県道沿いにはダイビングショップ、干物屋があったが。県道沿いに鳥居があり停車。石鳥居の扁額は「金櫻神社」と。階段を上り進むが目的地でないので途中で引返すことに。県道17号線(沼津土肥線)の三津三差路交差点。ここを左折すると県道130号線(伊豆長岡三津線)でお世話になった順天堂病院へ。帰路はこの道を走ることに。伊豆・三津(みと)シーパラダイス所在地:静岡県沼津市内浦長浜3-1ペンギン、セイウチ、駿河湾の魚を見られる水族館。イルカやアシカのショーを毎日開催。西武グループの伊豆箱根鉄道が運営している。1930年に中之島水族館として開業した。1941年に三津天然水族館に改称。1977年に現在の伊豆・三津シーパラダイスとなった。 2015年現在、日本で2番目に歴史の長い水族館であると。東海バスのバス停留所「伊豆三津(みと)シーパラダイス」。9:50長浜城跡入口へ到着。カーナビをセットしていたのだが通り過ぎこの看板を見つけ引返す。予定では8時半に到着予定であったが途中予定外の立ち寄りを行ったので遅れた。釣堀センターの建屋。所在地:静岡県沼津市内浦長浜174-6カーナビは自宅を出発時にここ「長浜釣堀観光センター 055-941-3658」をセット。長浜ヨットハーバーには多くのヨットが係留されていた。左側は釣堀になっている。長浜城跡の無料駐車場。多くのヨットが地上に係留されていた。スクリューの大きさは直径30~50センチであったか。長浜城跡所在地:静岡県沼津市内浦長浜176駐車場脇にはトイレ、休憩所が設けられ説明パネルも。休憩所の壁面には「国指定史跡 長浜城跡」。長浜城跡模型長浜城跡模型長浜城跡は、発端丈(ほったんじょう)山から北東に延びる尾根先端部にあり、敵の攻撃から重須湊を守るために築かれた城です。城の南側を除く三方は、急傾斜でけわしい深い海に接しており、戦国時代の軍艦である安宅船など大型船の停泊にも適していました。また、城の周囲も崖となっており、水軍城として絶好の立地条件にあったといえます。模型は、地形測量や発掘調査の成果を基に城の地形や敷地などを表示しています。なお、表示した城周辺の海岸線や道などは、現在では埋め立てが進み地形も大きく変化しているため明治20年の旧陸軍による測量図を参考にしています。まだ重須には山越え道が続いており、戦国時代から大きな変化がなかったものと考えられます。縮尺は、垂直縮尺200分の1、水平縮尺300分の1として、やや高さを強調しています。長浜城跡の位置長浜城跡は、伊豆半島の西側の根元に位置し、深く入り込んだ内浦湾に面しています。この城は、関東地方を治めていた北条氏が武田水軍との戦いに備えるために築かれたと考えられています。それは、内浦湾の沖に淡島があるので、攻められにくく、周りの水深が深いため、軍船が泊められる絶好の場所だったためです。長浜城跡周辺の地形長浜城跡の周りは、岬と入り江が複雑に入り組んだ海岸線が東西に続いています。また、長浜城跡の西側には、陰野川が流れています。この川から西側は、長井崎などの平らな台地や比較的なだらかな山が続き、その地形を利用してみかん栽培なども行われています。一方で、東側は、険しい山々が海岸まで迫っています。上段:長浜城跡の周りの地形下段:長浜城跡の周りの地形(拡大)国指定史跡 長浜城跡 昭和63年5月13日指定 文化庁 静岡県教育委員会 沼津市教育委員会下段:戦国期長浜城 推定縄張図 (長浜側)いろんなパネルが貼られていた。長浜城跡周辺の道現在、長浜城跡の南には県道がありますが、明治時代の地図では、長浜側も重須側もその道より北側は海でした。また、長浜城跡から見て北西にある弁天島も陸続きになっていませんでした。そのため、他の地域へ行く方法は、船や海岸沿いの道だけではなく、陰野川沿いに山を越えて伊豆半島の中央へ行くなどの山道を利用していました。これらの道を、干物などの商品を背負ってお客へ売りに行く行商が、盛んに行き来をしていました。長浜城跡周辺の海と風景長浜城跡は、北側にある内浦湾へ突き出た岬の地形を利用した城跡です。内浦湾は、海底が急に深くなっているので、その地形を利用して、昔から漁業が行われ、ヨットやボートも数多く泊まっています。ここからは、北側の対岸に千本松原や愛鷹山、さらにその奥には、富士山が見えます。また、北東側には、淡島、その奥に沼津アルプスの山並みが見えるなど、内浦湾と共に美しい風景を楽しむことができます。右上:長浜城が作られたときの北条氏の勢力範囲図右下:五代 北条氏直像左側:北条氏系図北条(後北条)氏と長浜城北条氏は戦国時代に活躍した大名で、鎌倉時代にいた北条氏と区別するために、後北条氏とも呼ばれています。北条氏の祖となる北条早雲は、駿河(静岡県)の今川氏のもめ事を治めたことで、沼津市内根古屋にある興国寺城の城主となりました。そこから相模(神奈川県)へと勢力を広げ、三代目の氏康のころには関東の西半分まで支配しました。しかし、五代目にあたる氏直の時代に、甲斐(山梨県)の武田氏が駿河へ攻めてきたので、対抗するために長浜城は築かれました。こちらのコーナーにも4枚のパネル。長浜城のはじまりと終わり長浜城が城として使われたのは、戦国時代の終わりの天正7年(1579)~天正18年(1590)頃と考えられています。天正7年の記録では、城の建設に関する内容が書かれており、また、北条水軍の責任者が長浜に配置されています。一方、天正18年の記録からは、最終的にはこの地の土豪(有力者)が、武将として城に立てこもり、敵に備えたことがわかっています。しかし、豊臣秀吉の攻撃によって、三島市にある山中城が落城するなど、その影響で長浜城も廃城になったと考えられます。長浜城略史永禄11年 1568 武田信玄、三国(甲斐・相模・駿河)同盟を捨てて駿河へ侵攻する。永禄12年 1569 今川氏真が北条氏直に駿河国(今の静岡県)をわたす。天正7年 1579 武田勝頼が三枚橋城を築く。 武田勝頼が黄瀬川に出陣し、北條氏政と戦う。 11月7日 北条氏が長浜に軍船を治める港をつくる。 12月19日 北条氏が長浜に北条水軍の将である梶原氏を配置する。天正8年 1580 武田勝頼が浮島原に出陣し、対抗して北条方も出陣する。 3月15日 北条氏と武田氏が駿河湾海戦をする。天正9年 1581 武田氏の水軍の将である小浜伊勢守が○○津(今の○○)で北条水軍と 戦う。天正10年 1582 3月 武田氏が滅ぶ。6月 本能寺の変。天正17年 1589 11月24日 豊臣秀吉が北条氏直に宣戦布告する。 12月19日 北条氏が韮山城を守っていた大藤与七に足軽80人で長浜城 を守ることを命ずる。天正18年 1590 2月27日 豊臣水軍が清水(今の清水港)に到着する。 2月28日 北条氏政が大川氏が長浜城に立てこもることを認める。 3月29日 豊臣軍が山中城・韮山城を攻める。 4月1日 豊臣水軍が下田城を攻める。 6月 韮山城が開城。7月 北条氏直が降伏する。 安宅船(あたけぶね)模型 ※ 戦国時代の軍船はこのような形であったと考えられています。戦国時代の山城の構造 曲輪・土塁・空堀の仕組み戦国時代に築かれた城の多くは山城です。山城では、野山を削り、またその土を積んで曲輪と呼ばれる平場をつくります。曲輪は複数つくられ、その間に堀と土塁をつくります。堀は、地面を掘り込んだ空堀で、土塁は堀を掘った土を積み上げた土手です。空堀と土塁はセットになっており、敵の侵入を防ぐために大きな効果があります。複数ある曲輪は、最も重要な曲輪を守るように配置されています。長浜城の構造と見所戦国時代の水軍の拠点の多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城で、海側と陸側で見所が異なります。海側には、最も高いところにある第一曲輪を中心に、海と山に向かって曲輪がL字のように配置されているなど、北条氏の城の特徴を見ることができます。一方、陸側には、敵の侵入に備えて、山城の特徴である多数の土塁や、空堀、尾根を切断するようにつくられた堀切も見ることができます。長浜城跡の入口に朱色の鳥居。石柱には「国指定史跡 長浜城跡」。立札に、ここは、戦国時代末期に後北条氏の水軍の基地があった長浜城跡です。貴重な遺跡として国の史跡に指定された土地ですので、現状の保存にご注意ください。(許可なく現状を変えることはできません。) 文 化 庁 静岡県教育委員会 沼津市教育委員会10:00長浜城跡への登り口の階段デッキに「頂上まで約5分」と。 ー 続く ー
2024.02.19
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何度も走っている国道1号の三島側を下る。2月15日(木) 8:15富士見平ドライブイン所在地:静岡県三島市谷田2304-76弥次喜多道中の「東海道五十三次」で、平成30年(2018)12月18日(火)に箱根関所から三島宿があるJR三島駅まで単独で歩いた。この時の歩行数は42,000歩と健脚であったが。その時はここから上る国道1号の ”山中城口交差点” までのルートは工事中であった。平成30年時は、富士見平ドライブインの裏手(東側)を走るバイパスは未完成で交通量が多かく、食事をとる大型トラックも多く駐車していた。この時のブログは「山中城跡からこわめし坂」👈 をクリック願います。今はさびれた国道1号沿いの大衆食堂。路肩に車を停め散策。国道1号下から富士を望む。富士の頂上に笠雲。天気は下り坂になるのであろうが気温は15℃位であったか。富士見平ドライブインは閉ざされていたが高齢のご夫婦が出て来られた。他の方のブログ(2023年7月23日)からまだ営業はされているようだが、肉料理が美味しいと。【営業時間】10:30~21:00【定休日】日曜日 常連客のドライバーが立ち寄るのであろうか。駐車場脇には ”旧東海道” に関する石碑、案内板が立っていた。駐車場にはトラロープが張られていた。左側の石碑は、芭蕉句碑。右側には「箱根サバイバルゲームフィールド 山中合戦場 駐車場」の看板。芭蕉句碑「霧しぐれ 冨士を見ぬ日そ 面白き 芭蕉」貞享元年(1684) 旧暦8月、『野ざらし紀行』で箱根越えをした時に詠んだ句。芭蕉が歩いた時は、霧時雨で富士山が見えなかったようだ。国道沿いに建つ説明版。静岡県下でよく見た案内柱。『夢舞台 東海道 ← 三島宿 山中新田 富士見平』。右側の案内板には「← 横断歩道迂回路、山中城跡 →」と。横断歩道迂回路の意味は?。国指定史跡 箱根旧街道 浅間平地区の石畳復元・整備箱根旧街道は、慶長九年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高846m箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間です。旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木を作り、一里塚の上には旅人の目印になるように木を植えました。また、ローム層の土で滑りやすい道なので、その道に竹が敷かれましたが、延宝八年(1680)頃には石畳の道に改修されました。三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「浅間平区間」約330mの区間を、平成八年度(1996)に復元・整備しました。発掘調査の結果石畳は幅二間(約3.6m)を基本として、道の両側の縁石には比較的大きな石材を直線的に並ぶように配置し、内側にはやや小型の石材を敷き詰めていることが分かりました。また一部の区間では小石混じりのローム質土を基礎材として、その上に石畳を敷設してことが確認されました。浅間平地区では発掘調査の成果を基に、次の三種類の手法で整備を行いました。現状維持・部分補修 (約43m)石畳がほぼ完全に残っている範囲は、全体をそのままの状態で保存し、石材がわずかに抜けている箇所には神奈川県根府川で採石した安山岩を補填しました。部分下部基礎整備(約135m)石畳が残っている範囲はそのままの状態で石畳を保存し、石が抜けている箇所は下部基礎を設けて、その上に安山岩を敷設しました。下部基礎整備(約152m)石畳が残っていなかったため、全面に下部基礎を設けて、その上に安山岩を敷設しました。 令和五年九月 三島市教育委員会 この石畳を上ると国道1号の ”山中城口交差点” に至る。まだ歩いていない区間のため、歩きずらかったが途中まで上ることに。バイパスの下り方面。同上り方面。旧国道はこの先を右側へ入る。真っ直ぐ数百メートルで ”山中城口交差点” に至る旧東海道。貯水槽越しに富士を望む。バイパス工事で山の斜面を削っているので水が溜まるのであろうか。まだ顔を出していた富士をズームアップ。途中から石畳を下る。旧東海道は旧国道を横切り三島宿へと下る。芭蕉句碑の側面には「昭和五十三年八月吉日 発起者 三島市長 奥田𠮷朗」と。芭蕉句碑が凛として建つが、交通量も減り。反対側の側面には、「建碑者 東京都台東区北上野二丁目二十 東京家具センター 倉島延三」と。旧東海道はこの階段を下り「上長坂・三島宿」方面へと下るが急坂である。ここへ約10分近く滞在したがバイパスができたため車の通過は一台も無かった。バイパス入口。国道1号の上は旧東海道の石畳。国道1号を下り、国道沿いに建つ「三島スカイウォーク」の案内板。かつてはここを右方向へ進み三島スカイウォーク前を下ったが、バイパスが完成したため直進。トンネルの上は旧東海道の石畳(上長坂地区)。曲がりくねった新道を下ると大曲交差点、かつての国道1号はここを右方向へ。三島スカイウォークへは右側の旧国道1号の坂道を上る。ズームアップすると正面に ”杉崎商店(酒店)”。大曲交差点から更に下り、道路脇に「やさしく走ろう 史蹟の三島」と。カーナビの案内はここ三島塚原交差点を左折。カーナビの案内は”伊豆縦貫自動車道”は渋滞中と。このため本線に入らず側道から一般道へルート変更することに。目的地方向の天気が怪しくなっていた。県道142号線から国道1号の谷田交差点へ戻る。ここを左折。国道1号に戻り沼津方面へ進む。この先の”南二日町IC交差点”を左折して国道136号を伊豆市方面へ。南二日町IC交差点国道136号を伊豆市方面へ南下右側に ”伊豆・村の駅” 。所在地:静岡県三島市安久322-1地元野菜や名産品、お惣菜も含めてとにかく品揃え豊富で物も良い。珍しいものも売っている。隣のまぐろ道場は中で食べるところもあったり、こちらも美味しく楽しいと。三島市から函南町へ入る。前方の高架は渋滞していて走らなかった伊豆縦貫自動車道。カーナビの案内はここ”大場川南交差点”を右折して有料道路へ。交差点の上を伊豆縦貫自動車道が走っている。直進すると有料道路の”伊豆中央道”へ。わずかな距離であるのでこの先を左折して一般道へ。 9:10LAWSON 伊豆の国江間店所在地:静岡県伊豆の国市北江間4-1県道129号線(韮山伊豆長岡修善寺線)と134号線(いちご街道)の交差点角にあるコンビニ。2年前に訪れているが、当時はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で賑わっていた。石徳高神社 (豆塚神社)所在地:静岡県伊豆の国市北江間3境内には「北条義時ゆかりの地」と書かれた幟旗が立っていた。2年前の令和4年3月14日(月)に訪れているので今回は時間の関係上スルーすることに。その時のブログ「北條氏ゆかりの伊豆の地」👈 をクリック願います。9:20LAWSONでおにぎりを購入、しばし休憩して目的地へ出発。 ー 続く ー
2024.02.18
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妻も37日間の入院を終え14日(水)に退院したので、かつてから行きたかった北条水軍の拠点”長浜城跡” へ登城することに。併せてこの時期、同地区で早咲きの河津桜が咲いているとのことでGoogleマップで調べ愛車のノートで訪れた。2月15日(木) 7:00七時前に自宅を出発、国道1号(旧東海道)を西へ向かう。この辺りは電線電柱はモール化され自転車専用道路が設けられている。ルートは事前の調査では西湘バイパス、箱根新道、伊豆縦貫自動車道を利用。走行距離、所要時間は、74.9km、1時間25分。西湘バイパスを利用するため、国道1号の鳥井戸橋交差点を左折し左富士通りへ。正面に、頂上に雲がかかった富士が見えていた。途中から鉄砲道を西へ走りこの先で国道134号と合流。左側のフェンス内は2年後にオープンする ”道の駅「湘南ちがさき」”。右側は ”柳島スポーツ公園”。柳島交差点から国道134号を走り”平塚市”に入り ”トラスコ湘南大橋”。只今の天気は「8℃」。天気予報では今日の天気は20℃近くに上昇すると。右前方に富士が見えていたが、静岡ではどうか。この時間帯は上り車線は渋滞していたが下り線は順調に走る。国道1号の唐ヶ原(Togahara)交差点ここは正月の大学箱根駅伝の往路4区、復路8区の中継点になっている。箱根駅伝はこの交差点を右方向へ走る。国道134号は大磯町に入る。上り車線は渋滞。西湘バイパスの大磯東インタ、ここから自動車専用道路。平塚へ勤務中に免許証を取得したが、この道路は仮免で走ったコースである仮免時のコースは、大磯ロングビーチ近く(大磯西)のインタから入りこの上り線を走った。コースはS字になっており時速70キロ近くで走った。大磯漁港上の高架の正面には富士が見えていた。大磯ロングビーチに建つ”大磯プリンスホテル”の右側に富士。この辺りの海岸線は台風などの高波で度々侵食され交通止めになっている。この日も何かの工事で片側車線になっていたが渋滞もなく通過。橘インタ。ETCゲートに入り利用料金は270円。国府津 松田方面出口。この先にサービスエリアが完成していたので立ち寄ることに。7:30西湘PA (下り) 展望台所在地:神奈川県小田原市国府津1丁目7-9NEXCO中日本 東京支社は、2019年10月の台風19号による高波で被災したE84 西湘バイパス西湘パーキングエリア(下り)の災害復旧工事完了に伴い、2023年4月29日(土)午前0時に災害に強いPAとしてリニューアルオープンした。西湘PA早朝の出発で何か食べるものをと思って立寄ったがトイレ施設のみであった。いろんな自動販売機が設置されていた。早朝から管理の方が掃除をしておられ、ゴミも分別収集。西湘PAから東側の森戸川の河口、平塚、茅ヶ崎方面を振り返る。国府津インタをズームアップ。津波避難場所案内西湘PAはトイレ施設のみであったが売店も欲しかった、これも人手不足か。建物は一部休憩エリア、トイレ施設があったがオーバースペックでは。世界一きれいなトイレ施設である。手洗いも!今回の工事で西湘PA全体の地盤の高さを約2m盤上げするとともに、海側にあったトイレなどの施設を本線側(内陸側)へ移設した。早川出口。西湘バイパスから箱根新道方面へ進む。小田原厚木道路、箱根新道の案内板。箱根町へ入る。箱根新道を上る。カーナビでは「チェーン帯同」の放送が流れる。自分は持っていないので心配に。道路沿いに除雪された雪が残っていた。富士が見えていたので大観山へ立ち寄ることも考えたが・・・。車内の気温計で車外は「14℃」とあったので路面の凍結も心配がなく箱根峠へ向かう。数日前は大変であったのではと思いながら走る。大観山への立ち寄りは積雪が心配で諦める。箱根峠手前この手前で交通事故があり、警察が検証中であった。箱根峠峠は標高846mあり、この先から「静岡県函南町」になる。箱根峠から下り坂になり直ぐに警察官がいて停止を求められる。カーナビでも放送していたのでチェーンを帯同していなかったので心配に。国道1号を下り三島市に入る。この先を左折すると、日本100名城の ”山中城” に。山並みは山中城跡の一部になる。城跡の北側にバイパスが完成し直進。バイパスの下り線は1車線で、富士が見えていたので狭いパーキングエリアに停車。上り線は2車線になっており、キロポストは日本橋から108キロ。上り線越えに富士。富士の頂上に笠雲であろうか。この後の天気が気になる。バイパスを下ると、”山中城口交差点” 。かつての国道1号はここを左折していた。8:10これから訪れる南西方向を見下ろす。山並みの向こうには駿河湾が見えていた。 ー 続く ー
2024.02.17
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市内の知り合いの「熟成肉工房ジロー (㈲ ハム工房ジロー)」からメンバーズに対する試食会の案内があり愛車のリンちゃんで訪れた。併せて河津桜の開花時期になり、いつもの「小出川の河津桜」の開花状況をチェックに訪れた。2月10日(土) 12:00出かける前に姪が飼っている愛犬の「ショコラ」を撮影。可愛い衣装を着せられ散歩。始めてカメラを向けたので落ち着きがなく動き回る。我が家のウメも2分咲きに。枝の中をメジロが動き回っていた。昨年は豊作であったがさて今年の収穫は。ズームアップ。13:25目的地の「熟成肉工房ジロー」へ向かった。熟成肉工房ジローは、一里塚北通り沿いにある。旧ハム工房ジローは ”㈱茅ヶ崎青果地方卸売市場” の一角にある。道路沿いの看板には「ハム・ソーセージ専門店 熟成肉工房ジロー」と。駐車場にあるのは ”熟成肉工房ジロー” のキッチンカー。㈱茅ヶ崎青果地方卸売市場当市場は茅ヶ崎の地に根付いて100年以上が経ちました。以来地場野菜を中心に全国から商品が入荷しております。当市場で取り扱っている地場野菜は地元茅ヶ崎の野菜・果物を取り扱っております。「茅産茅消」を掲げ、地元の食品を地元の方々に手に取って頂けるよう地元の八百屋などに数多く卸しております。地域密着型の地方市場として、茅ヶ崎市を中心に鮮度の良い商品、安心安全な商品の提供を目指しておりますと。茅ヶ崎青果地方卸売市場事務所。かつては義父も野菜等を卸していたが、最近は茅ヶ崎の田畑も宅地化され減少しているようで、佐川急便が一部を借り配送センターに利用。熟成肉工房ジロー (㈲ ハム工房ジロー)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田5丁目2-26 茅ヶ崎青果市場内熟成肉工房ジローはドイツ製法手造りハムのお店である。先代が100年前に出会った添加物に頼らない製法で造り続けていると。建屋は茅ヶ崎青果地方卸売市場の一部を借りている。他に ”逗子店:神奈川県逗子市逗子1-6-7” でハム・ソーセージを販売。店先の塀には「ハム工房ジロー」と。「熟成肉のうまみを味わう会」のお知らせこの度、地方独立行政法人 神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)様より弊社製品の長期熟成による”うまみ成分”3倍上昇の調査結果を受け皆様へのご報告の会を開催いたします。熟成肉で造る弊社製品をあらためてご紹介します。当日はささやかではございますが、ご試食をご用意しておりますので、皆様お誘い合わせの上、ご参加いただけますようお待ち申し上げます。 日 時 2月10日(土)・11日(日.祝)・12日(月) 11時~15時 ※雨天決行 場 所 熟成肉工房ジロー茅ヶ崎店 内 容 立食でのご案内 お買い物ポイント3倍 (茅ヶ崎店に限ります) メンバーズカード店先にチョークアートで、本日のおすすめ「熟成肉のうまみを味わう会」 2/10(土) ~ 2/12(月) 11:00 ~ 15:00案内され試食会場へ。室内にはいろんなパネルが飾られ、立食用のテーブルが4つ用意されていた。テレビではNHKの月曜日12時15分から放映される見慣れた俳優が。 スタッフの方に聴くと「2年前に放映された」と。ハム・ソーセージ専門店熟成肉工房ジロー Method百年続くドイツ製法 まぼろしの熟成肉ハムハム工房ジロー100年の歴史 代々受け継がれてきたのは、本物の味とハムへの熱い想いです。出会いは大正3年、第一次世界大戦の最中、習志野収容所に収容され捕虜だったドイツ兵の中には、様々な職人や技師もおり、農商務省の要請を受け、ドイツのソーセージ作りの秘伝が講習会を通じて全国の食肉加工業者に広がるきっかけとなりました。解放された後もソーセージ職人のカール・ブッチングハウス氏が日本に残り、東京・目黒にソーセージ工場を作りました。先代の矢島八郎は、大正14年に横浜の本牧で精肉店を営んでおり、カール・ブッチングハウス氏が経営する目黒の工場に豚肉を納めていました。当時はまだ日本人には馴染みが薄く、敬遠されがちだったハム・ソーセージでしたが、見た瞬間にドイツ製法のハムづくりを始めようと思い立ち、試行錯誤を繰り返し、カール・ブッチングハウス氏から直接アドバイスをもらうようになり、その技術を直伝されるまでになりました。カール氏と言えば、同姓で函館でハム・ソーセージを製造販売した「カール・レイモン氏」の歴史展示館があったが。その時のブログ「函館の旅」👈 をクリック願います。Method① 国産肉を使用② 冷蔵肉 (フレッシュ) を使用 国産肉で熟成ハム・ソーセージ・ベーコン造りに適した肉質を厳選しています。冷蔵肉(フ レッシュ)は張りのある弾力性に優れた原料になる為、肉が本来持つ自然な結着力も活かさ れます。鮮度はとても重要です。③ 原料は肉100% 一般の製法は、肉と肉以外の原料で、必要以上の水分を加えます。 ジローでは肉100%で製造しています。④ 岩塩・三温糖・セロリパウダーのみ使用 ジローではハム造りに不必要な添加物に頼らず、肉のうまみを引き出す「岩塩」、肉質を 柔らかくコクが出せる「三温糖」、天然成分由来の発色剤「セロリパウダー」のみで造っ ています。⑤ 長期熟成 100年前から受け継がれている製法の一つ、便利になった世の中で1~2日で終わらせてし まう添加物に頼る一般製法と違い、重さの異なる2種類の重石で漬け込む昔ながらの熟成 法です。長期熟成は、肉に含まれている動物性タンパク質をうまみ成分に変える働きが あり、余計な添加物に頼ることなく美味しいハムやソーセージを造ることができます。⑥ 直火式スモーク 桜のチップを使用し、ハム・ソーセージなどをぶら下げて真下で炊いて煙を出します。 日本には四季があるように、昨日、今日と毎日気温も違います。温度管理をし、乾燥、 燻製の時間を見極めたり、チップを足したりと常に目をかけなくてはなりません。何より 直火式は「香り」が格段に異なり、商品を開封した瞬間は、燻製の香りに衝撃を受けます。⑦ 特殊冷凍 (瞬間冷凍) ジローのハムは鮮度が命。添加物に頼らないハム造りのため賞味期限が短い。そこで液体 急速凍結機を使用し、アルコール液で急速凍結させます。肉の細胞の水分が小さい氷の結 晶のため、解凍後もドリップがでず、味・香りも保持できます。それまでの製法では不可 能であった長期保存も可能になり、添加物に頼らない製品造りを続けていきます。熟成ハムの「味」の見える化 長期熟成ハムのおいしさが見えてきた総アミノ酸量の変化 ハムの遊離アミノ酸含量は浸漬10日目頃から増加し始め、浸漬28日にはもとの 豚肉(浸漬0日目)の2倍以上になりました。 うま味を持つグルタミン酸、アスパラギン酸が増加しただけでなく、他のアミノ 酸も増加しており、味に深みが出ると考えられます。脂質の融点変化 脂質の融点は、直接、味に影響しませんが、舌触りや口溶け、なめらかさ、コク などの食味に影響すると考えられています。 浸漬14日目から脂質の融点が低下しました。コクとして味の濃厚感などが出ると 考えられます。 ベーコン等の脂がねっとり・クリーミーなのはこの変化によるものである。熟成ハムの「味」の見える化こだわりの製法ドイツソーセージ職人カール・ブッチングハウス直伝の技。100年前から私たちは守り続けています。人口添加物が存在していない時代(100年前)のハムは、現在のハムに比べて著しく水分量が少ない。Method ① 国産肉を使用 ② 冷蔵肉 (フレッシュ) を使用 ③ 原料は肉100% ④ 岩塩・三温糖・セロリパウダーのみ使用 ⑤ 長期熟成 ⑥ 直火式スモーク ⑦ 特殊冷凍水分量の変化 一般的には調味液を肉に注入し、保水をさせて加熱する事でハムの水分量は増加 しますが、弊社は自然塩漬と加熱だけの為、ハムの水分量は減少します。 浸漬21日目からハムの水分量が減少しました。ハムの水分が抜けることで、ハム のうま味成分が凝縮され、しっかりとした味のハムになると考えられます。 熟成ハムの「味」の見える化開発商品の概要 近年ハムを製造する際、通常1~2日から数日間の塩漬に対し、当社はドイツ伝統 製法の長期熟成(塩漬時間 約25日間)を特徴とした熟成ハムを製造しております。 当社は美味しいハムを造り出すために、化学調味料や不必要な添加物に頼らずに 品質を追求してきました。そして今、独自の商品価値をより高めるために、どの ようにして長期熟成製法が美味しさを引き出しているのか?を裏付ける必要があ りました (「味」の見える化)。試験方法 おいしい「味」の指標となる うま味、塩味、食感を見える化するため ・遊離アミノ酸、核酸類の定量分析 ・塩分、水分量の測定 ・脂質の融点変化、遊離脂肪酸量の測定 を行いました。主な結果 うま味を持つグルタミン酸は塩漬中に増加し塩漬28日目には、もとの豚肉(塩漬 0日目)の3倍以上になりました。 同じくうま味を持つアスパラギン酸は、浸漬21日目以降に生成し始めました。試食品の案内で写真が2枚「うまみ3倍セット」「本日のうまみ」。うまみ3倍セット熟成時間が特に長い商品。当店選りすぐりの内容です。 ボンレスハムスライス 150g ロースハムスライス 130g ベーコンスライス 100g 黒毛和牛コンビーフ 130g 税込 5,400円【5,937円相当】 ※ うまみを味わう会のみでの販売です出てきた試食品(左上から)ロースハム、黒毛和牛コンビーフ、レーゲンスヴルガー ボロニアソーセージ、ベーコン、熟成ロールシンケン約15分ほどの試食会で談笑後、右側が店舗へ。工場はシャッターを入った中にある。今夜の酒のつまみでロースハムを購入。熟成肉工房ジローの向かい側に建つ「もんじゃ焼き 華よし」。定休日月曜日、まだ訪れていないのでいつか。14:40走るルートを頭に描きながら、西方向へ進み小出川へ。萩園橋から小出川を下り浜園橋の工事現場へ工事状況を見に立ち寄る。浜園橋の工事現場を左岸(東)の上流側から撮影。前回1月31日(水)に訪れているが、10日を経ても同じ状況であった。小出川の鶴嶺橋までのウメ並木はピークを過ぎていたようだ。ズームアップするが散策中の人がスマホで撮影。浜園橋から ”小出川の河津桜” への途中、農耕地の農道脇に石碑。萩園南土地改良完成記念碑本 番場向田地区面積6.33ヘクタールの耕地全域田圃であり農業振興地域である。古来未整地地形最悪の状況下土地改良することが念願であった。今回相鉄興産㈱、相模興業㈱二社により土地改良を前提とした砂利採取に地権者の賛同を得て平成九年十月県の認可、十一月土地改良区設立、県市土地連合会関係機関の指導協力の基に工事着工県市の補助により整備することが出来ました。地権者皆様の理解ある協力をいただき約九年間の歳月をかけいろいろな困難を乗り越えて萩園の歴史にのこる願望の土地改良事業が完成しここに記念碑を建立します。 萩園南土地改良区 平成十二年二月吉日前方に新鮮野菜、焼き芋の販売をしている ”あぶさんふぁーむ” 。小出川の河津桜会場菜の花は満開になっていたが河津桜はまだ蕾が膨らんだ状態。2024年 第15回 小出川桜まつり 各日 10時 ~ 14時まで 2月23日(祝) 24日(土) 25日(日) 3月2日(土) 3日(日) ※ 式典は2月24日」 ※ 雨、雪の場合は中止 ※ 開花状況によって開催期日を変更する場合があります。当日は、模擬店、キッチンカーが勢揃いする。式典会場辺りの河津桜はまだ膨らんだ状態。”小出川桜まつり” は2週間後の2月23日(祝)から開催されるが丁度良いのか。ローアングルから撮影。式典会場から上流側へ進む。下流側より蕾が膨らんでいた。既に咲いている河津桜があったので追う。桜まつり時には上流側はピークになっているのでは。一週間後には満開であろう。この日の走行距離は往復10数キロの散策であった。 END
2024.02.16
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令和4年(2022) 2月2日に、旅行先の伊豆の国市長岡で ”急性心筋梗塞” になり救急車で運ばれ順天堂大学医学部附属静岡病院へ緊急入院。入院時の経過観察で ”睡眠時無呼吸症候群の疑い” があるとのことで、退院後地元の市立病院へ一泊二日(5月19日)の検査入院の結果 ”夜間のマウスピース生活” に。その後の経過を確認していなかったので今回検査入院のため再度一泊二日の検査入院。自宅での簡易検査器もあるようだが故障しているとのことで宿泊に。余談ですが、市立病院には大腸のポリープ除去(2回)で入院しており通算4日目になる。2月8日(木) 15:0015時に市立病院へ入院、手続きを行い病室へ。受付で病室は5階とのことでエレベーターで上がり、北側に ”オクトス湘南” 。このフロワーには妻が入院しているのでまさかと思いながら看護師さんを待つ。しばし待ち看護師さんから入院の説明を受ける。終夜睡眠ポリグラフ検査 (PSG) を受ける患者さんへ(Ⅱ)● 本日は夕食(18:00)までにシャワーを浴び洗髪しておいてください。 (自宅で入浴してきた場合でも必ずシャワー・洗髪して頂く)● 18:30より検査機器の装着を行います。装着に約1時間かかります。 (検査機器の装着をおこなうまでは睡眠をとらないようにして頂く)● 明日の7:00に目覚まし時計が鳴ります。 起床し、ご自身で指のセンサー・胸と腹のバンド・右肩の左わき腹の電極・首 のセンサー・あれば足の電極 (つけていないこともあります) を外して下さい。 ネーザル CPAP をつけて検査した方はネーザル CPAP も外してください。● 頭部のネットと電極は看護師がお手伝いして外しますので、ナースコールして 下さい。● 外し終わりましたら、朝食やシャワーなどを済ませて退院の用意をしておいて ください。外した電極などのケーブルはそのまま点滴棒に掛けて置いて下さい。 茅ヶ崎市立病院 耳鼻咽喉科 (5E)看護師さんから渡された「入院診療計画書」。病室 511号まさかの予想が当たり、隣の512号は妻が入院している4人部屋。案内された個室の511号。私は検査器具を装着しての検査のため、前回も個室。早速部屋をチェック。部屋は南向きで食事つきのため旅気分に!湘南海岸が見えれば最高だが。部屋はビジネスホテルより広い感じであった。妻の4人部屋はテレビは有料であったが、個室のため見放題と。シャワー室を予約したが、個室のためシャワー付きであった。部屋からの南東方向、七階の食堂からだと江の島が望めれるのだが。面会時間が15時からのため、隣の部屋へ行き妻に「入院は隣」と伝える。早速、我が部屋に来て隣を気にせずに談笑。緩い坂道を上ると国道1号(旧東海道)の ”市立病院入口交差点”。いつも動き回っている道路を見下ろす。突き当りは ”市立病院入口交差点”、右の森は ”海前寺”。海前寺をズームアップするが廻りには民家が増えた。南西方向にある ”本村八王子神社” をズームアップ。南東方向をズームアップ。松並木は国道1号(旧東海道)の、TOTO茅ヶ崎工場、県立茅ヶ崎高校辺り。TOTO茅ヶ崎工場をズームアップ。住宅街の中に松が聳える。新しく分譲する場所も。遺産相続の関係で売却したのか?。18:00夕食魚は骨をとってあり食べやすかった。我が家でもこうあって欲しいものだが。夕食のメニュー主食の米飯は200g。因みに急性心筋梗塞で入院した時は50~150gであった。看護師さんが来られ、19時頃から検査機器を装着。ケーブルが何本もあったが手慣れたもので胸の発信機に接続。記念写真を撮影してもらいました。20:00最後に頭からネットを被りハサミで手際よく顔面、耳部分をカット。約1時間で接続が完了。この後、接続の確認を終え検査開始。部屋の隅に置かれたパソコンに胸の発信機から電波で送信。心電図のような線がいくつも流れていた。寝床中はいつものようにマウスピースを取り付けて検査。体に何本ものセンサーが取り付けられているので寝づらかった。2月9日(金) 6:50朝日が昇るが曇り空。目覚まし時計が予定の7時に鳴る。この後、看護師さんの手で検査機器を取り外した後シャワーを浴びる。8:00朝食も質素で、メインは玉子焼きか。朝食のメニュー主食の米飯は200g。副菜のひとつとして夕食は ”たいみそ”、朝食は ”かつお節みそ” が付いていた。朝食の後、夜の部の看護師、会計担当、昼の部の看護師さんと来られ退院を待った。予定の10時になり隣の妻に退院を伝え病院を後にした。今回の検査結果は、3月1日(金)に通院して聞くことに。さてどうなっているか?。 END
2024.02.15
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今日最後の目的地「龍藏神社」へ。1月24日(水) 14:05庫裡橋の手前から、小鮎川の下流側を望む。朱色の庫裡橋を渡ると、県道60号線(厚木清川線)の ”飯山観音入口交差点” 。橋の袂に ”庫裡橋 (くりはし)” の石柱。庫裡橋古くは華厳山金剛寺の庫裡(くり)に向って架かっていたもので、このことから庫裡橋と呼んだと言われている。石碑には「農道改修紀念」と刻まれ。他にも「昭和二十九年壱月竣工 橘場生産組合」と。左側には古い石碑、双体道祖神も。健康・交流のみち ウォーキングマップ小鮎川沿いの名所が案内されている。庫裡川から小鮎川に沿って下ると前方に新しい玉垣に囲まれた神社。玉垣の下に「龍藏神社」と刻まれた社号標石。護岸の左側に「飯山の七不思議」。下流側に ”七不思議のイラスト” が描かれた七枚のプレート。飯山の七不思議~ 弘法の米とぎ水 ~飯山の地名の起源とされた金剛寺後方の飯盛山から流れ出す水は、弘法大師が托鉢でもらった米を毎日山麓の庵でといだので白く濁っていた。そのため、弘法の米とぎ水と呼ばれていたという。~ 亀甲の松 ~飯山観音には亀甲の松と呼ばれた松があって、木肌が亀の甲羅のような模様になっていたという。~ 久保の万年橋 ~飯山に来た行基が光福寺の前の小川に橋を架けた。その橋が一度も架け替えられたことがなかったため「万年橋」と呼ばれていたという。~ 千ヶ沢の貝殻石 ~白山から小鮎川に流れ込む沢の中で、貝の化石紋の入った石が見つかるのは千ヶ沢だけだという。化石はいまでも見つかるという。~ 弘徳寺の袈裟掛けの松 ~千頭にある弘徳寺には、親鸞が関東布教の際に植えたという松に関する伝説がある。この松は、親鸞の願いにより通常二葉ある葉が一葉であったので「一葉の松」と呼ばれていた。後に覚如が袈裟を掛けたことから「袈裟掛けの松」とも呼ばれた。~ 恩曽川の片葉の葦 ~むかし恩曽川で川遊びをしていた子どもたちが河童によって水死させられた。怒った住民が川をせき止め、河童を捕まえて問いただすと、「もうやらないので、自分たちの住まいである片葉の葦の場所の河童権を認めて欲しい」といったという。~ 白山池の霊水(白龍伝説)~むかし旱(ひでり)が続いたので、農民達は雨乞いの行事をして、白山山頂の白水池の水を空にしたという。すると白龍が現れ、三日三晩雨を降らせたと伝えられている。小鮎川に架かる庫裡橋。庫裡橋をズームアップ。小鮎川は三峰山、辺室山付近を水源としており、谷太郎川、柿ノ木平川、法論堂川とその他複数の沢の湧水などが集まり小鮎川を形成し南東に向かい厚木市北部で荻野川を合わせ、中津川とともに相模川に合流する。 愛甲郡清川村の伊勢原津久井線64号線に架かる中川橋から相模川合流地点までの13.75キロメートルである。龍藏神社 (りゅうぞうじんじゃ)所在地:神奈川県厚木市飯山5526龍蔵神社は神亀2年(725年)僧行基が勧請したと伝えられます。古来より地元飯山の氏神様として崇められてきた神社です。古称、井山神社龍蔵大権現。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。龍藏神社の社殿は工事中であった。龍藏神社は1751年(宝暦元年)に拝殿を再建、1833年(天保4年)に本殿を再建した。昭和34年に覆殿、拝殿を修復した。例際日は8月第1日曜日で「祈雨祭神事」がある。龍藏神社御由緒祭 神 級長津彦命 (しなつひこのみこと) 級長戸辺命 (しなとべのみこと)例祭日 八月一日 現在は八月第一日曜日社 殿 本殿(流造柿葺)、覆殿(神明造)、拝殿(入母屋造亜鉛葺)、神楽殿(寄棟亜鉛葺)、手水舎由緒沿革 神亀二乙丑年(725) 僧行基勧請すると云伝えられる。古昔は井山神社龍蔵大権現と称した。 治承四年(1180)鎌倉頼朝公の願により、神祇官(白川殿)奉幣の相模国六十一社の内に入り 社領も旧来の寄附地と天正十九年(1591)徳川家康公より社領高二石の朱印がある。宝暦元 年(1751)拝殿を再建、天保四年(1833)本殿も再建した。 明治二年朱印地上地となり、明治六年七月三十日足柄県に於いて村社に列格、明治四十年 四月三十日神饌幣帛料供進の神社に指定された。 昭和三十四年覆殿、拝殿を改築した。特殊神事 祈雨祭(旱魃に際し行われる神事である)。当日社頭に集合し、祈雨祭を執行する。前の川原 に下りて水垢離を取り、それから筧ヶ沢、通称、白山の池の水を浚うのが古例となっている。宝 物 古瓶 二個、古鏡 二個手水舎。作業員の方がおられ聞くと、自分たちは足場業者であると。この後屋根を銅板葺きに替えるとのこと。拝殿の扁額「龍藏神社」。拝殿前から東方向に鳥居。道路の先に小鮎川が流れている。社殿の右側に建つ神楽殿。境内の隅の木の根元に石仏が並んでいた。社殿の右側から。後方に駐車場がある。境内を振り返る。龍藏神社の本殿裏(西側)の駐車場から。駐車場は十台ほどのスペースがあり、脇には竹林があった。サクラの木を見上げると野鳥が飛来していた。ズームアップするが野鳥の名は?である。龍藏神社から庫裡橋へ戻る。ここは「飯山トレイルランニングのスタート・ゴール」地点になっている。庫裡橋の西側に ”中飯山自治会館” が建つ。入口に ”中飯山自治会館” の看板。自治会館は地域交流や観光案内の拠点として活用されている。飯山花の里花が咲き誇る時期にも訪れたいものです。ステージに書かれた「ようこそ!! あつぎ飯山花の里へ」。”飯山花の里” に植えられていたこの苗はポピーであろうか。昨年秋に咲いたざる菊の残骸であろう。金剛寺への参道にはサクラの木が聳える。車は右側奥に停めた。金剛寺参道右側の石碑には「禁葷酒入門」と。駐車場脇にあった簡易トイレ。金剛寺を遠望。金剛寺の参道。14:30老朽化した ”金剛寺大師堂” 。サクラの咲く時期に再度訪れたいと思いつつ帰路につく。県道60号線(厚木清川線)を厚木に向かって走る。懐かしい車輛が走る。国道412号と合流する及川中原交差点。この交差点を右折して厚木市街地へ。国道246号から国道129号に入り平塚方面へ南下。上は東名高速道路の高架橋。東名高速道路厚木インタ入口。新東名高速道路厚木南インタ入口。厚木南インタ入口。ここを入り圏央道の寒川南インタまでのルートがあったが一般道を走る。15:00国道129号を平塚に向け南下、県道22号線(横浜伊勢原線)との立体交差、戸田交差点を潜る。かつては渋滞箇所であったが。自宅には15時40分に到着、走行距離は約55キロであった。今日の歩行数は山道を約7,300歩。 END
2024.02.14
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飯山観音 長谷寺を後にし、巡礼道を下る。1月24日(水) 13:40巡礼道入口。両脇にはサクラの古木が聳える。門建立寄附者御芳名一金 参拾萬圓也 小島正一一金 拾萬圓也 本杉良三一金 七拾萬圓也 長 谷 寺 協力者御芳名 森住慶市 内山喜久治 田中美代治 森住規市市 施工者 菊地工務店昭和五十二年十月 現住 隆應正面奥に ”仁王門” 。左側はバス駐車場で1日、1,000円と。仁王門をズームアップ。サクラの枝が広がっている。順礼道に立つ古い石碑には「弘法大師道○○」と刻まれているのか。一輪のツバキが咲いていた。順礼道から左方向(北側)に先程訪れた ”厚木ロウバイの丘” を見上げる。順礼道を下ると門。古木の梅が満開に。門を潜り振り返る。左側の道は新しく有料駐車場へ。右側の道は民家?への道である。巡礼道を下ると道路脇でミカンの無人販売。一袋200円と割安であったので購入と考えたが釣銭がなく。丁度来ておられたご婦人も両替ができないとのことで、「販売元へ行ったら」と。両替をするために坂を上ると ”冠木門” の立派な家へ。門前にぶら下がっていた札には、「厚木市飯山5474 5526 飯谷・神社関係」。ネットで調べるとこの後参拝した「龍藏神社」の社務所であった。玄関先の呼び鈴を鳴らし中へ入り両替を依頼。土間にはいろんなものが飾られていた。壁には、”龍藏神社” のお守り、ご朱印が置かれていた。大女将さんに聞くと息子が ”龍藏神社” の宮司をしていると。天井からは釣り飾りも。売ってくれないかと尋ねるが不買品だと。絵葉書大女将さんが気に入っているという絵葉書。ミカンの試食をし、二袋購入して帰路につく。順礼道を振り返る。駐車場への道は川を挟んだ左上を上る。飯山観音入口方向を見る。自動車道は右側のガードレール。この辺りもサクラ並木になっている。飯山案内板 ウキウキNAP下る左側に ”稲荷社” が建っていた。社は開けられていたが説明板はなく。社殿は真新しい注連縄と紙垂で飾られていた。中を覗くと多くの狐が並んでいた。順礼道に戻り振り返る。道路脇に庭園の如くに石組みがされ水が流れていた。石の上には鯱。石碑には「飯山名水」と。句であろうか「〇湧きし ふるさとの〇 蝉しぐれ」。その中に一本の木が聳えていた。枝には看板がぶら下がり、「10月桜 10月桜は10月に咲き始めて中旬に満開となります。その後には花数は少なくなりますが 翌年の2月上旬までぽつぽつと咲き続けてとても長く楽しめます。」と。順礼道を振り返り ”飯山観音参道” を見る。厚木に春の訪れを告げる約3000本の飯山のサクラ。庫裡橋から飯山白山森林公園へと続く約600メートルの飯山観音参道には、満開のサクラが咲き乱れると。この時期、サクラの葉は散り殺風景である。飯山花の里この先にもサクラ並木。ミカンを買った大女将さんが仲間とここの整備をしていると。順礼道を下ってくると、保険医療機関 MED AGRI CLINIC あつぎ所在地:神奈川県厚木市飯山5547令和3年(2021)6月にオープンした。医師と看護師らによる、良質なチーム医療を提供します。おひとりで通院されるのが大変な方や、介護を受けておられる方、訪問診療(在宅医療)を是非ご利用ください。医師・看護師が定期的にお宅に伺い、しっかりと診察・治療いたします。緊急事態には24時間体制で迅速に医師と看護師が対応します。介護事業者の方々とも協力しながら、患者様の安全かつ快適な生活をサポートします。健康のこと、医療のこと、生活のことお気軽にご相談くださいと。入口の掲示板には、「閉館のお知らせ 当館は令和元年12月30日をもって閉館いたしました。 毎度のお引き立て誠に有難う御座いました。 ふるさとの宿」。"旧 ふるさとの宿" の駐車場。かつては日帰り温泉客、宿泊者の車が・・・。”旧 ふるさとの宿” の庭先に「高松宮御来館記念碑」が建っていた。側面には、昭和三十年六月六日と。”ふるさとの宿” は閉館したようだが、庭はそのまま保存されているようだ。”飯山花の里” の先に ”金剛寺大師堂” が建つ。14:05順礼道を下り庫裡橋手前に建つ門には「飯山白山森林公園へまたどうぞ」と。 ー 続く ー
2024.02.13
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観音堂(本堂)の周りには ”坂東三十三観音様” が祀られている。観音様は階段を上って来て観音堂に向かって左側から時計周りに ”坂東第一番" から始まっている。1月24日(水) 13:15飯山観音長谷寺の境内左側。入口に「三十三観音参拝順路」の案内板。大きな石の上に ”坂東 第一番” 。石碑には、坂東第一番大蔵山杉本寺” たのみあるしるべなりけりすぎもとの ちかひはすえのよにもかはらじ ” 相模国鎌倉鎌倉の杉本寺は「鎌倉の古刹の梅」👈 をクリック願います。観音堂(本堂)を左側から望む。本堂左側の木組み。本堂の扁額。三十三観音参拝路脇に立つ案内板。白山森林公園 ハイキングコース白山展望台・男坂(15分)・女坂(25分)トイレは普通車駐車場にございます。”坂東 第二番” 背面には大きな木が聳え、急傾斜になっていた。”坂東 第三番”更に進み、三十三観音が立ち並んでいた。”坂東 第八番”台座の側面には七名の名が刻まれていたが奉納者であろうか。本堂の左奥の階段入口に「栄光への坂道」と刻まれた石柱が立っていた。坂道の両側に ”坂東 第十番” 、”坂東 第十一番” の観音様。また「男坂」と。石柱には、「チーム厚木の選手達が頂を目指し トレーニングに励む場所です。 令和六年一月 厚木市」と。本堂裏に並ぶ観音様 ”坂東 第十二番” 。手前には ”坂東 第十五番” 、奥の傾斜地には ”坂東 第十三番” 、”坂東 第十四番” が並ぶ。右側には ”坂東 第十六番” の観音様。三十三観音参拝順路を時計回りに巡り、本堂の右奥から。本堂前の石燈籠をズームアップ。更にズームアップすると海老名駅廻りの高層ビルであろうか。北側に建つ ”厚木市戦没者慰霊堂” を見下ろす。大きな木の根元には ”坂東 第二十番” の傾いた観音様。こちらの石碑は、「一九八三年十月 蜜蜂供養塔 神奈川県養蜂組合 神奈川県知事 長洲一二」と。サクラの木の下に ”坂東 第二十二番” の観音様。本堂右奥の木組み。”飯山トレイレ・ランニング” の案内板。あやめコース、もみじコース。山の中腹に石碑、階段下には社が建っていた。社の前にはミカンが供えられていたが説明板がなく。階段下の広場の片隅に石碑がありここにもミカンが供えられていた。動物慰霊碑この碑は長い間人間の愛玩動物として親しまれてきた犬や猫の霊を慰めるとともに動物愛護の精神を高揚する目的で建立したものです。 昭和五十五年三月吉日建立 厚木市階段を上ると正面に「聖観○○○○」と刻まれていたが。これが ”動物慰霊碑” かと思ったが。観音堂(本堂)を見上げる。広い広場の上に新しいお堂が建っている。石柱には「厚木市戦没者慰霊堂」と。慰霊堂像建立記念碑祖国の栄光と平和を願いつつ、明治以来幾多の戦役に、若く尊い生命を捧げられた、厚木市1400余柱の御霊のとこしえに安らかならんことを祈念し、併せて悲惨な戦争なき平和をこい願って、ここ飯山の霊地に戦没者慰霊堂像を建立いたしました。堂宇内安置の釈尊像は、市内妻田に在住の日展会員、難波孫次郎氏に依頼し、氏が一刀三拝の礼意をつくして造顕されたものであります。願わくば、この功徳をもって、人類永遠の平和と郷土の繁栄が成就されますよう、御霊のご照覧を仰ぐ次第であります。 昭和49年11月29日 撰文並びに書 厚木市長 石井忠重 厚木市戦没者慰霊堂飯山観音の駐車場の奥、一段登った場所に建立されている。建物はRC・鉄筋コンクリート造で面積35㎡。参道に立つ案内板。”厚木市戦没者慰霊堂” を見上げる。山道脇に立っていた「馬頭観世音」。廻りにはサクラの木が植えられているので開花時も楽しみだ。あつぎ飯山温泉郷ハイキングコース白山・猪久保・白山順礼峠ハイキングコースの所要時間が記されている。公衆トイレと手前に飯山観光協会管理棟。13:35駐車場出口の精算機。右上は ”長谷寺の仁王門” 。次回参拝する時はここの駐車所を利用することにし、巡礼道を下山する。 ー 続く ー
2024.02.12
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”飯山観音長谷寺” の駐車場から階段を上り2段目のエリアを散策。1月24日(水) 12:55持仏殿前に聳える、かながわの名木100選に選定されている ”飯山観音のイヌマキ”。飯山観音のイヌマキの下には、地蔵像、手水舎、句碑が建っていた。句碑と地蔵。句碑には「犬槇の・・・・・・ 白○」 。句碑の裏面には、白〇(はくぼう) 姓は前島、名は幸視、大正二年埼玉県に生まれる。戦後、東京池袋に出版業国文社を創立。俳誌「河原」同人、俳人協会会員。彫句は第三句集「観無量寿経変相図」所出のものである。この句は天然記念物に指定されている犬槇の裏側、すなわち暗い北側から眼下に広がる満開の花の海を見下ろしている作品である。句の眼目は、その花の海が鮮明に見えるところにある。ここのところをたしかめて読誦していただければ幸甚である。 昭和六十一年十月吉日 河原主宰 川島彷〇子 同人 辛崎 修羅 〃 本杉 桃林 〃 阿部 弘子 現住 陸應 代地蔵は小さな社で囲われていた。前には4つの大きなミカンが供えられていた。六地蔵が並ぶ。右奥は有料駐車場からの道であるが寺関係者のみの道路である。サクラのつぼみが膨らんでいたが河津桜であろうか。あと数日で開花するのでは。観音堂への最後の階段。階段の両側には奉納された多くの石燈籠が立っている。階段右下の小さな池と五重塔、観音様。ここにもミカンが供えられていた。天国への階段の如くに・・・。階段を上ると正面に「観音堂」。長谷寺は、神奈川県厚木市飯山にある高野山真言宗の寺院。山号は飯上山。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場第六番札所、東国花の寺百ヶ寺神奈川六番札所である。飯山観音とも称される。階段を上ると右側に、「銅鐘」。銅鐘は、神奈川県指定重要文化財に指定されている。神奈川県指定重要文化財 銅鐘(嘉吉二年) 一基 平成二年二月十三日指定本銅鐘は室町時代の嘉吉二年(1442)の年紀を有し、刻銘には銅鐘製作の経緯が細かく記されています。それによりますと、毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春、火災により焼失したため、新堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いから、麓の金剛寺住僧であった誾勝が、多くの信者から寄付を募り、同年の四月五日に完成したといいます。焼失から短期間のうちに再建がはかられたことは、観音堂、新長谷寺、金剛寺の力が大きなものであったことを示しています。鐘を製作したのは、飯山の鋳工大和権守清原國光、銘は建長寺の心林によるものです。『新編相模国風土記稿』の飯山村観音堂の項には、観音堂は長谷の観音といい、飯山寺と号し、別当は長谷寺であると記されています。中世飯山の寺院に係る信仰活動や飯山の鋳物師の様相を知ることができる貴重な銅鐘であるといえます。 総高 一四一センチ 口径 八一センチ 平成二十二年三月 厚木市教育委員会階段上から振り返える。常香炉仏様にお香を供え、その煙を浴びることで心身を清めることができる場です。体の悪いところにその煙をかけると悪い部分が治ると言われております。線香の束に火をつけ手で払い、なるべく煙が上がったらそのまま常香炉に刺して身を清めましょうと。もう何度も行っているのだが今だ・・・。信仰心が薄いからか・・・。観音堂 (本堂)観音堂の建築年代は18世紀中期と推定され、昭和37年4月に厚木市有形文化財に指定された。御本尊は、木造十一面観世音菩薩立像。屋根は宝形造の銅板葺であるが、当初は茅葺であった。厚木市指定有形文化財 長谷寺観音堂 昭和三十七年四月二十日指定当山は飯山観音の通称で親しまれ、坂東三十三観音霊場第六番の札所です。この観音堂(本堂)は江戸時代に建立されたものと推定されます。正方形平面で、屋根は宝形造の銅板葺ですが、当初は茅葺でした。向拝(ごはい)は当初からのものとみられますが、軒唐破風(のきからはふ)はのちに付加されたものと推定されています。四周には木口縁を巡らし、擬宝珠高欄をまわしています。観音堂の正面中央間とその両脇間は両折桟唐戸(もろおれさんからど)、両隅間は連子窓という古風な構えを見せ、側面も前一間を両折桟唐戸としています。いわゆる「密教本堂形式」と呼ばれる仏堂の形式で、堂内は内陣と外陣が格子戸によって結界されています。内陣は仏様の空間で一般の人は立ち入ることができません。各地の観音霊場寺院などに多く見られる形式です。外陣は、桟唐戸や連子窓を用いて地方仏堂らしい一面も見せています。内陣には寛文十二年(1672)に飯山村の大工・西海半右衛門によって建立された一間厨子が安置され、その中に本尊の木造十一面観世音菩薩立像が納められています。 令和二年九月 厚木市教育委員会観音堂前から境内を振り返る。中央に常香炉、両側には石燈籠が並ぶ。左奥に銅鐘。向拝は当初からのものとみられるが、軒唐破風はのちに付加されたものであると。向拝の彫り物。右側の木鼻。観音堂には二枚の扁額「飯山寺」「長谷寺」が掲げられている。本堂左側の木組み。まさに匠の業である。右側も対称に。立ち並ぶ石燈籠。石燈籠建立記念碑当山境内及び参道に建立されております石灯籠は観音堂屋根葺替工事資金調達の一事業としてご協力を頂いたものであります。浄業完遂に大きく寄与されたものであります。ここにご奉納各家のご繁栄を心よりご祈念申し上げます。 合掌 平成元年十一月三日 現住 隆應代 観音堂(本堂)の周りに ”坂東三十三観音様” が祀られている。階段を上って来ると観音堂に向かって左側から時計周りに ”坂東第一番" から始まっている。境内の東側には ”坂東 第三十三番"。台座の横面に何か刻まれていたのだが。坂東 第三十二番観音堂に向かって右側に石碑。石碑には「頌徳 安藤覚先生之碑 厚生大臣 園田直 謹書」安藤覚先生 略歴先生は飯山5051番地に憲三氏の四男として明治丗二年六月十六日誕生。大正十一年四月日大文学部宗教科夜間部に入学 仝十四年三月卒業。昭和十二年六月讀賣新聞社に入社政治部長編輯局次長として活躍其手腕を認められ十七年翼賛政治体制〇議会推薦神奈川県第三区より衆議院議員選挙に立候補當選し大日本翼賛会連絡部長内閣参與内務省委員に就任 翌年内閣行政委員に補せらる。昭和廿一年五月公職追放令により追放廿六年六月解除其間悠々自適農耕に又社会教化の為め活躍。昭和廿八年自由党に入党同党公認にて衆議院選挙に立候補当選農林水産委員に。翌年十一月三木武吉氏を中心に日本自由党結成八人の侍の一人として清廉潔白・・・・・・・・中略・・・・・本國と韓國との条約並に一般協定に関する特別委員会委員長に就任十二月韓國京城で行われた日韓条約批准書交換式典特派大使顧問にて出席無事任務を果して帰朝。昭和四十二年十一月廿七日午前五時十二分肝臓癌のため六十八歳を一期として逝去痛恨に不堪。同日特〇を以て正四位に叙せられ勲二等旭日重光章を追〇された。昭和四十二年十二月厚木市葬を以て遇せらる。 法号 大本山総持寺顧問廣廣徳寺十六世大心覚堂大和尚禅師境内にはいろんな石碑が建っていた。"坂東 第三十一番”左側に石碑が建っていたが風化して判読できなかった。左側の句碑には「松風の 桜並木に とどきけり」。作者の名は「泉山」? である。右側の碑も「浄〇碑」。漢字のみが刻まれていたがこちらも風化して判読できなかった。折角なら説明文でも欲しいものだが。クスノキの大木であったか根元から ”銅鐘” を望むが廻りにはいろんな石碑が建っている。後方(観音堂の右側)には、”坂東 第三十番 ~ ” が並んでいる。こちらにも二つの石碑があったが。境内の右側から観音堂を見る。観音堂への参道の左側へ廻る。背丈2メートル以上の宝篋印塔が建っていた。箸観音厚木市・飯山の恒例「箸供養」。毎年、多くの人が訪れこの行事が実施される。かつては十一月三日に行われていたようだが。箸観音像建立の主旨凡そ生命を維持する衣食住のうち食を司る箸、ある時は慶び、ある時は悲しみの箸となって、太古より今日までその姿、形を変えることなく日々恵みを受けて参りました。ここに、箸観音像を建立し、納めの箸をご供養申しあげ食生活の安泰を祈念するものであります。 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮 乃至法界 平等普遍 平成二年十一月三日白壁で囲まれた中にミカンが供えられた墓碑が並んでいたが説明板がなく不詳。13:15畜霊供養塔 厚木市畜産会会長 石井忠重書左後方には「鶏魂供養塔」の碑も建っていた。 ー 続く ー
2024.02.11
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飯山観音 長谷寺(ちょうこくじ)へ参拝。すれ違った方の会話で「はせでらはない!」と。1月24日(水) 12:40飯上山 長谷寺所在地:神奈川県厚木市飯山5605階段の上に近年改築されたようで新しい ”仁王門” が建っていた。飯山観音前バス停から巡礼道を歩いてここまで650メートルで約12分を要する。寺号標石には、「坂東第六番霊場 飯上山 長谷寺 飯山観音」⇐ 参拝順路 坂東六番丹沢三山 飯山観音 長谷寺 白山ハイキングコース 白山展望台・男坂・女坂方面 階段脇にいろんな石碑が建ち並んでいた。坂東第六番霊場 飯山観世音 長谷寺厚木市戦没者慰霊堂句碑には、「梵鐘の 余韻若葉の 峡渡る」 昭和四十五年四月 岩崎春星森林セラピーロードマップマップには現在地から、県立七沢森林公園までのコースが書かれていた。森林セラピーとは、森林の生命力などを五感を通して感じたり、森林環境を効果的に活用することで、心と身体の健康維持・増進に活用していく取り組みの総称です。森林セラピーロード 白山順礼峠ハイキングコース 約3.4km/約2時間かつて信仰のために開かれた順礼峠は、七沢地区と飯山地区にある飯山観音を結ぶ尾根の縦走コースです。順礼峠では、大きな石仏が訪れる人を迎えてくれます。丹沢大山山塊を間近に一望でき、快晴時には白山展望台から、相模湾、東京湾まで見渡せます。”順礼峠” は以前アップの「七沢森林公園」👈 をクリック願います。今朝の寒さで法面に霜柱。ズームアップ。こちらの石碑には「かながわの景勝50選 飯山観音」と。階段を上り南側の高台から ”仁王門” を見下ろす。仁王門は三間一戸八脚門で寄棟造。旧茅葺で前面両脇間に金剛柵を立てて仁王像を置く。全体に簡素な造りで、大振りの舟肘木や彫刻の施された細部が全くないことなど、古風で中世の建築とみられる。仁王像は、宝永年間(1704~1711)に飯山村の安西金左衛門が願主となり造立したものである。現在の仁王門は大規模な修繕が行われ、令和2年(2020)11月3日に落成された。捨身飼虎 (しゃしんしこ)お釈迦様の前世の物語の一つ。薩埵王子(さったおうじ)(お釈迦様の前世)が、飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食べさせ、虎の母子を救う話。慈悲と布施の心を表している。仁王像宝永六年(1709年)、飯山村の安西金左衛門が願主となり造立された金剛力士像(仁王像)を安置している。慶派仏師の作。山門は令和二年(2020年)に大規模改修が行われたが、接ぎ木を行うことで、敷居や柱には、当時の材木が残されている。捨身飼虎 (しゃしんしこ) の彫り物。左側:衣服を脱ぎ崖の上に立つ 右側:崖から身を投じる下段の彫り物は「虎にその身を与える」。右側の「阿形像」。怒りの表情ではなくなんとなく笑っているように見える。左側の「吽形像」穏やかなお顔に見える。二つの像は昔の像であるのか。仁王門の左上の丘から見下ろす。落葉したサクラの木が聳え、中央下は ”飯山観音前バス停” から巡礼道を上ってきた終点である。ここまで約650メートルで、歩いて約12分を要する。林越しのゴルフ場は「厚木国際カントリー俱楽部」である。厚木国際カントリー俱楽部をズームアップ。更にズームアップすると遠くに横浜の高層ビルが見えた。斜面に白いスイセンが咲いていた。先日ラジオで今の時期咲くのは白いスイセンで、この後は黄色のスイセンが咲くと言っていたが。仁王門の上から見下ろす。鴟尾 (しび)(沓形ともよばれる)鴟尾は棟飾りの一つ。魔除けや火除けの目的から付けられたもので、飛鳥時代に瓦と共に中国から伝わった。棟飾りとしては最古の形式のもので、これが後に鬼瓦や鯱などに発展していった。形の意味は魚が水面から尻尾を出している様子とされる。新しい ”鴟尾” をズームアップ。 階段の途中から歌碑を見る。駐車場の位置から階段を二つ上り、仁王門を見下ろす。階段の両側にスイセンが咲き乱れていた。階段を上ると石碑、石灯籠が建っていた。持仏殿門の手前に、「受付 ← 持仏殿 (本坊) ご朱印・お守り・お札 受付時間 8時30分 ~ 16時30分」。 持仏殿門持仏殿門の表札には「坂東第六番 飯山観世音長谷寺執務所」と。持仏殿門の扁額「○○○」。持仏殿門を潜ると左側に「弘法大師像」。持仏殿門、弘法大師像を見る。飯山観世音長谷寺執務所前から、駐車場の上2段目のエリア。飯山観世音長谷寺執務所前から横浜市街地のビル群を望む。手水舎水屋建立者御芳名 一金 五拾萬圓也 住所 氏名 ・・・・・ ・・・・・ 昭和五十二年十二月吉日 水子地蔵であったか。かながわの名木100選 昭和59年12月選定飯山観音のイヌマキ 和名:イヌマキ (マキ科)室山時代末期ごろ、多くの巡礼者の無事や、参拝者の長寿を祈願して植樹されたと伝えられている古木である。厚木市の天然記念物に指定されている。 樹高 17メートル 胸高周囲 2.8メートル 樹齢 約400年 (伝承)イヌマキは、関東南部から沖縄の照葉林帯に分布する常緑高木で、沿岸地域では庭木として植えられることが多い。樹高20メートル、胸高周囲7メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。マ キ マキ科暖かい地方に生える樹木です。イヌマキとラカンマキの2種類があり、庭木や生垣としてよく植えられます。イヌマキの下に幼い弘法大師のお姿。大きなミカンが供えられていた。この石碑は歌碑であろうか、「山鳥の・・・・・・・・・」。12:55かながわの名木100選 ”飯山観音のイヌマキ" が聳える。 ー 続く ー
2024.02.10
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”厚木ロウバイの丘” を後にし坂を上り「花の広場」へ。1月24日(水) 12:15”厚木ロウバイの丘” の脇に遊歩道。遊歩道脇の標識には、 「飯山トレイル・ランニング あやめコース ▼ 0.5km」。ロウバイを見上げる。逆光を浴びるロウバイ。ロウバイの枝には黒い種子がぶら下がる。ここのロウバイの樹高は2メートル程であったか。行歩道から ”厚木ロウバイの丘” を見下ろす。”松田町寄ロウバイ園” に比べスケールは小さいがまた違った趣がある。ズームアップ。熊野神社所在地:神奈川県厚木市飯山5472飯山トレイル・ランニング沿いに建つ神社で鬱蒼とした森の中にある。木製の鳥居に「熊野宮」と書かれた扁額。緩い坂道を上ると木の下に社が建っていた。社の傍には木が聳える。石垣の上に社が建っていたが詳細は説明板がなく不詳。社の中には石祠が鎮座していた。社の前から遊歩道を見下ろす。左が上って来た ”厚木ロウバイの丘” 、この後右方向へ進む。桜の広場入口に立っていた道案内板「金剛寺 500m、飯山観音バス停 700m」と。桜の広場”あつぎ飯山桜まつり” で有名な飯山白山森林公園の「桜の広場」が、リニューアルオープン。桜の広場は、飯山観音長谷寺と共にサクラの名所として知られており、リニューアルされた広場には、ソメイヨシノやヒガンザクラなどをはじめ、アジサイやモミジなどが植栽されている。また、広場内を散策すると歩道があるほか、子ども向け遊具や健康遊具、ベンチ・テーブル、イベント用のステージなども設置されている。また、スマホ用の撮影スタンドが用意されていた。スマホの自撮りで記念写真を始めて撮影。桜の広場には「夫婦松」が聳えていた。夫婦松夫婦松は、飯山観音の亀甲松に次ぐ名松で周囲は一丈有余を誇り、楕円形馬場中央部の東側に男松、西側に女松があり、勇壮な男松とさながら女性にも似た枝振りの女松は、夫婦松として親しまれ愛された。縁結びの観音様と象徴するかのようなこの松も今はなく、高く盛り上がった円形の土のみが往時の思いをとどめている。飯山花音頭 作詞 西海利雄 作曲 藤沢和光一、ハーー ニ、ハーー 飯山飯山に咲く花は 飯山飯山に咲く花は 男心を見るように 女心を知るように パッと開いてパッと散る ソッと開いてソッと散る ソレ春の飯山の夕暮は ソレ観音様よお願いね 霧がつつんだ・・・エー夫婦松 主と二人の・・・エー縁結び三、ハーー 飯山飯山に咲く花は 君の幸せ呼ぶように 若い二人が指切の ソレ影を映した花明り ほんのり浮かぶ・・・エー庫裡橋に桜の広場の西側には有料駐車場。駐車場脇にトイレ、飯山観光協会管理棟が建っており後方の法面はシートで養生していた。桜の広場の木柱には、「桜の広場リニューアル記念 樹木名「シダレザクラ」と。西側から ”桜の広場” を見る。飯山白山森林公園「桜の広場」は、令和4年(2022) 3月9日に、リニューアルオープンした。桜の広場には遊歩道。広場にはサクラや、ツツジ、アジサイなどの花木が植樹されている。公衆トイレと手前に飯山観光協会管理棟。トイレは新しく数も多く綺麗であった。飯山観光協会管理棟この日はシャッターが下り閉鎖されていた。あつぎの文化財獨案内板 ~ ふるさと時空探訪モデルコース ~近郊のマップ① 長谷寺(ちょうこくじ) 飯上山如意輪院長谷寺と号する。宗派は真言宗、惣持院(海老名市)末である。 『新編相模国風土記稿』によれば、開山は行基、中典僧蔵海(明徳元年<1390> 8月15日卒)であるという。 ● 銅鐘(県指定重要文化財) ● 石造物 ● 観音堂(市指定有形文化財) ● 仁王門 ● イヌマキ(市指定天然記念物) ② 金剛寺(こんごうじ)と文化財 山号は華厳山、宗派は曹洞宗、本寺は清源院(市内三田)である。本尊釈迦如 来。開山は天文年間(1532~1554)中興の忠洲芳恕(現宗派に改宗)、開基は 空海と伝える。 金剛寺の名が初めて記録に登場するのは『吾妻鏡』の養和2年(1182)5月25 日に、金剛寺の僧が源頼朝に提出した訴状である。この中の寺に係る記述か ら、寺の開創は平安時代末頃と考えられる。その後、この寺は金沢称名寺・ 鎌倉覚園寺・京都泉涌寺(せんにゅうじ)と深い関わりを持つとともに、飯山 観音堂とも密接な関係を有し、中世における相模国の律宗の中心寺院となっ たのである。 ● 木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財) ● 石造物● 弘法大師堂● 山門● 木造地蔵菩薩坐像(県指定重要文化財)この説明板は、大師堂の前に欲しかった。桜の広場で紅梅が咲いていた。ズームアップ。更にズームアップ。歴史を感じる古い石碑に「坂東六番○○○寺」と。駐車場出口の精算機。右上は ”長谷寺の仁王門” 。新しい看板には、「飯山白山森林公園 桜の広場」。桜の広場に立つ句碑。句碑には「四つ五番もさぞ飯山の花見には」と。裏面には、”白水会” のメンバー15名の名が刻まれていた。老人亭宝水は 武州玉川の辺に住して 飯山白地蔵堂菴主初代つぶね房とは よき俳諧の友であった。文政六年より天保六年六月までの間 つぶね房 宝水の両吟には 心中躍如たるものを 見る事が出来るのでございます。その頃宝水よりつぶね房に「相模の國飯山に庵を結ばれしときく」” 四つ五番もさぞ飯山の花見には ” と花の便りが寄せられたのでございますこの句を見るとき 今から約二百年前より飯山の春の優雅さが しみじみと偲ばれるのです 昭和五十二年四月二日 白水会建之駐車場を振り返る。12:40有料駐車場入口。本来はここへ駐車するのであったか。駐車場は6:00~18:00まで営業。駐車料金は1日500円。 ー 続く ー
2024.02.09
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宮山駅から帰路につき、午後の節分祭へ急ぐ。2月3日(土) 12:15目久尻川に架かる旧道の ”宮山橋” 。左側は上流の新しい道路の ”寒川大橋” 。宮山橋上から目久尻川の下流側を望む。欄干に趣があるが寒川神社に関係。橋の袂にはかつての「宮山橋の親柱」であろうかコンクリート製の柱。寒川神社への旧道は渋滞状態になっていた。寒川大橋そばの道祖神・庚申塔・馬頭観世音所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3812-2近所の方の努力でいつもきれいに整備されている史跡である。地蔵堂の社が建ち、廻りには多くの石塔が建っていた。縁 起地 蔵堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神ともいわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あつ木・ハ王子」と刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病息災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いたといい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平成五年一月現在、六十戸を数えるようになった。 (昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グループ・皆川起司・金子潔之輔氏作成 の文章をもとに作成した。)左は旧道の「宮山橋」、右は新道の「寒川大橋」。12:35寒川町から茅ヶ崎市みずき地区へ戻る。”せせらぎ公園” のヤシの木。駒寄川に架かる ”新駒寄橋” から上流側を望む。この道は国道1号の本村交差点から大岡越前通りのみずき交差点まで伸びる道路である。前方左に ”プレンティーズ ミルク&チーズファクトリー” 。2023年8月8日オープンの湘南茅ヶ崎にある牛乳製造所である。すぐ近くにある茅ヶ崎の牧場からしぼりたての生乳を直送して、新鮮な乳製品を製造・販売している。Googleマップではまだ古いものになっている。12:40プレンティーズの南の森は ”スリーハンドレッドクラブのコース” 。何番ホールのグリーンか旗が立っている。13:00昼食をとる時間がないのでこの後途中で弁当を購入して帰宅。帰宅時のバッテリー残量、走行可能距離は、50%、38kmであったので今日の走行距離は21km。13:50本村八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目13-40茅ヶ崎市本村の鎮守で、節分祭の為、交通安全協会の方が交通整理に参加。本村八王子神社に於いて節分祭日時 2月3日 豆まき時間 → 午後2時00分境内には既に多くの方が参拝しておられた。手水舎拝殿に紅白の幕があり、その通路から豆撒き。八王子神社の境内には浜降祭に参加する八坂神社がありその神輿蔵がある。この日は節分祭で神輿蔵のシャッターが開けられていた。神輿蔵には大小の神輿が収納されていた。近年に修復された大人神輿。鳳凰が取り外され収納されていた。豆撒きの会場へ。危険防止の為、豆撒きは三つのグループに分けて行われる。 ① 小学校の低学年 1~ 3年生 ② 小学校の高学年 4~ 6年生 ③ 大人の部豆撒きの時間も近くなり神社の役員が登壇。境内には千人近い人が集まったのでは。14時になりそろそろ豆撒き開始に。小学校の低学年がロープの中に。予定時間に神社3役の豆撒き開始。下からの要求で近くに投げる三役。年男年女に替わり、下も小学校の高学年に入れ替わる。鬼は外、福は内と叫びながら投げる年男年女の方々。投げ終える。14:10下はいよいよ大人になり、人が多いので分かれてロープ内に。持っておられる枡の大きさは五合枡?。若い年男年女が壇上から豆撒き。小学生が豆撒きを行い下には大人が。子供達も良い思い出になるのでは。既に豆撒きを始めてから20分。下に落ちた豆を一袋ゲット。この後景品と交換しカレーを頂いた。景品と交換し自転車置場へ。まだ境内では豆撒きを行っていた。寒川神社では参拝者が多いのに10分程度の豆撒きで終了したのだが。参拝者も少なくなっていたので再度参加することに。14:30既に30分が経っていたが「これが最後です」とアナウンス。最後に参加し今回も一袋をゲットした。地元鎮守の本村八王子神社の節分祭は盛大で、この後の景品交換に20分を要したのであった。私は二度参加して2個であったが、多い人は10~20数個と、どのような手段で拾っていたのか交換景品はキッチン関係の物が多かったが、カレーを2箱頂きました。子ども会の主婦が係をやっておられたがご苦労様でした。かつては我妻もやっていたようだが、寒川神社に比べ時間も長く、良かった。この後、節分の豆を持ち病院へと・・・。撮影した写真で楽しんだのであった。 END
2024.02.08
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寒川神社の節分祭の後、本殿へ参拝。2月3日(土) 11:35午前の部の豆撒きが終了し本殿へ。神門の ”迎春ねぶた” 。寒川神社の正月の風物詩である迎春ねぶたは、本年で24回目を迎えた。今年のねぶたは「甲辰 ~ 八大龍王 ~」(きのえたつ はちだいりゅうおう) 制作者:諏訪慎氏。右側の狛犬 阿形像。コロナも落ち着きマスクは取り外されていた。左側の狛犬 吽形像。神門下から節分祭の会場を見下ろす。多くの参拝者が午前の節分祭を終え帰路に。神門下から本殿。左側の列は豆撒きの景品交換の列であったが。本殿へ参拝。今年の家内安全を祈りました。本殿前から石畳の境内を見下ろす。景品交換の方が多く並ばれていた。新しいお札を購入しました。破魔矢の多くは売り切れになっていた。いつもの ”破魔矢、車用の交通お守り、お守り袋" を購入。多くの方々が参拝、マスク装着率は50%ぐらいか。狛犬と神門、今年の ”ねぶた” を見納める。節分祭のステージには、豆撒き 午前十一時、午後二時。お子様並びにご高齢の方は神門内で福豆をお受け下さい。社務所前からのステージ上り口。繰り返し使用するので組み立て式のステージ。豆撒き時には紅白の幕の前には警備員が並んでいた。南門から第1駐車場までの通路には露天商が立ち並んでいた。屋台には、”元祖 きせつのくだもの屋さん”。しあわせになるキャンディー、はねつきキャンディー、「ふるーつあめ」と。栃木県産 ”とちあいか” の箱が多く置かれていた。ストロベリーキャンディイチゴに飴をからませているのか。食べたことがないけど ”甘そー”こちらでは ”りんご飴”、500円、400円とあったが。隣では ”チョコバナナ 300円”。五平餅もいろんな種類があり、一本 500円であったか。500円コインの絵が入った ”・・・・・韓流グルメ!”。屋台に ”あげもんじゃ”パリパリトロトロ揚げたてだします!!”横須賀 あげもんじゃ” 600円であったか。第1駐車場脇にあったポスター、”神嶽山神苑(かんたけやましんえん)” 【御本殿の奥庭】 ※ 茶屋「和楽亭(わらくてい)」、方徳資料館 併設 ご祈祷を受けられた方のみ、ご入苑できます。 開苑期間:三月上旬 ~ 十二月中旬12:00参道の東側にある第1駐車場から南門への通路。露天商が立ち並んでいた。寒川神社の第1駐車場から昨年末新しくなった寒川神社最寄りの駅 ”宮山駅” へ行くことに。参集殿(寒川神社)前から旧道を北上 ”宮山駅前交差点”。信号の手前に駐輪場があったがかつては ”柿畑” であったのか。交差点脇の道路沿いに立っていた「寒川町観光案内」。旧道から狭い道を入り、JR宮山駅所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山単式ホーム1面1線の地上駅。かつて、ホームから階段を降りた所に木造の旧駅舎が置かれていた。駅舎には多機能券売機が設置されている。2014年12月26日まで営業していた出札窓口では、長距離乗車券なども発売していた。2016年2月21日より茅ヶ崎駅の遠隔管理の下で無人化された。昨年(令和5年)12月17日に駅舎が新しくなったとタウンニュースで知る。この日は節分祭で乗降客が多かった。新しい駅だけにバリアフリー化されホームへは緩いスロープになっていた。当駅は相模國一之宮である寒川神社の最寄駅であるため、初詣シーズンには貸し出しプレハブの臨時出札窓口が駅の周りに複数設置され、駅員が多数派遣されている。後方は圏央道の高架橋で、北側には ”寒川北インタ” がある。JR宮山駅 構内案内図新しくなった駅舎で無人駅である。右奥は寒川北インタの高架橋。データは古いが利用状況は、2014年度(平成26年)の1日平均乗車人員は2,210人である。かつての ”宮山駅”写真は昨年6月10日(土)に撮影。さむかわの観光 ようこそ 寒川町へ下り橋本行きの電車が到着。地元八王子神社の節分祭が14時からの為、引き返すことに。12:15宮山駅から戻る途中、台畑第二踏切近くにあった社。相模線 6K987M 幅員 2.1M。 ー 続く ー
2024.02.07
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今日から ”三日間季節のブログ” をアップします。この日は ”節分祭” で寒川神社の今年の ”迎春ねぶた” をまだ見ていなかったので、天気がよく暖かったので訪れることに。寒川神社までのアクセスは自宅から約8キロで、車で行くと渋滞、駐車場の心配があるので自転車で約30分とのGoogleマップ情報から愛車のリンちゃんで訪れた。ネット検索で ”寒川神社の節分祭” は11時、14時の2回とあり、地元の節分祭(14時)にも行くので自宅を10時に出発した。尚、寒川神社の節分祭は始めてである。2月3日(土) 10:15自宅出発時のバッテリー残量は70%、走行可能距離は59kmであった。寒川神社までは愛車のリンちゃんで何度も参拝しているので、頭の中でルートを選択。県立茅ヶ崎北陵高等高校のグランドから富士を望む。大岡越前通りの小出川に架かる寺尾橋手前からの富士。 10:20JR相模線寒川駅北口ロータリーこの日は土曜日であったが駅前は閑散としていた。JR相模線大門踏切鳥居は、寒川神社一之鳥居一之鳥居からの参道は木々が聳える。寒川神社大鳥居 (二之鳥居)一之鳥居からここまでに信号が2カ所ありいつもストレートで走れない。寒川神社前交差点の先に ”三之鳥居” 。予想通りこの手前辺りから渋滞していた。三之鳥居の手前に太鼓橋の神池橋。自転車はここを右折して東側の第1駐車場(無料)へ。10:30第1駐車場は「満車」であったが自転車は容易に駐輪できた。節分開始までまだ30分あった。ここから先の南門に ”おふだ納め所” があるので持参した古いおふだを納めることに。社務所の前に設置された ”おふだ納め所” 。祈祷依頼者が長い列をなしていた。節分会場は神門前に設置されていた。寒川神社の豆撒きは、午前十一時、午後二時の二回行われる。地元茅ヶ崎の八王子神社の豆撒きが二時からのため寒川神社には午前の部に訪れた。既に多くの人がステージ前に集まっていた。豆撒きは、午前十一時、午後二時。神門に設置されている ”迎春ねぶた” 。設置期間は、12月20日(水)から令和6年2月26日(月)まで。※ 点灯時間は日没より午後10時まで夜間点灯(三が日は常時点灯)。手水舎まだコロナ禍の影響で柄杓は使用されていなかった。手水舎の前に、小学生低学年までのお子様には危険回避の為午前十時四十五分・午後一時四十五分から神門の内側にお並び頂き福豆をお渡しします。安全確保の為、豆撒き神事にご参加される方の人数制限を行う場合がございます。制限後は豆撒き神事にご参加いただけません。予めご了承いただき、皆様の安全確保の為にご理解・ご協力をお願い致します。 寒川神社社務所手水舎前からの豆撒き会場。神門を正面からの ”神門ねぶた” 。今年のねぶたは「甲辰 ~ 八大龍王 ~」(きのえたつ はちだいりゅうおう) 制作者:諏訪慎氏寒川神社の正月の風物詩である迎春ねぶたは、本年で24回目を迎えた。第1回から第12回は「干支」を題材に、第13回からは古事記や日本書紀などの「神話」を題材に制作している。左側の ”難陀龍王(なんだりゅうおう)” は八大龍王の1つでその中でも最も優れた龍王とされる。右側の ”跋難陀龍王(うぱなんだりゅうおう)” は難陀の弟になる。古くより神仏を守護してきた八大龍王は、家内安全と商売繁盛など多くの御神徳がありますと。境内の東側に建つ社務所。左側に祈祷受付所。社務所の壁面に、令和六年節分祭 福物協賛社芳名 敬称略・順不同。多くの ”福物協賛社芳名” 。年男年女芳名 敬称略・順不同。多くの ”年男年女芳名” 。境内の東側に聳える木は。11:03進行係の神職が登壇「11時から式典が行われているので豆撒きは11時20分頃になります」と。神職をズームアップ。8回に分けて豆撒きを行う。また、豆撒き時の注意事項を伝達「危険行為があると即中止」と。社務所の2階からの撮影はベストポイントだが。ステージの廻りには多くの参拝者が集まるが人数制限はされたのか。11:18予定どうり年男年女の方々が登壇。登壇者は年配者の方が多かった。相模の国一之宮だけに有名人の登壇を期待したが紹介もなく。半数の方がマスクを装着。私は後方に立っていたので年配者だけに豆は届かず。豆撒きを終え次のグループに交代。前の方も手を挙げて待つが、ステージの廻りには千人以上はいたか。太鼓の音と共に豆撒きを行うが私の廻りには飛んでこず。豆を拾うと中に番号札があり粗品と交換できると。登壇者の交代の度に「こちらにも投げて」の要求が進行係にあったが。11:30わずか10分ほどの豆撒きで終了した。やはりステージ下にいないと確保できないようだ。寒川神社の豆撒きは初めて訪れたが、「有名人の登壇もなく寒川神社にしてはスケールが小さく期待したほどのものでなかった」と感じたのは私だけか。 ー 続く ー
2024.02.06
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今日の目的地の「厚木ロウバイの丘」へスマホのGoogleマップで進む。1月24日(水) 11:40曹洞宗 華巌山金剛寺 (こんごうじ)所在地:神奈川県厚木市飯山5456山門を潜り参道を進むと正面に ”金剛寺”。大同年間 (806~810)、弘法大師空海によって開山された。その後、寺運衰微したが、天文年間(1532 ~ 1554) に忠州によって中興された。その際に真言宗から曹洞宗に転宗した。参道左側に建っていたのは「収蔵庫」であろうか。であれば、安達盛長の「法名盛長院三空道無大居士安達籐九郎」と銘記された位牌が残されているのだが。金剛寺本堂現在の本尊は十一面観音であるが、かつては阿弥陀如来であった。この阿弥陀如来像は国の重要文化財に指定されているもので、台座や光背は江戸期のものであるが、仏像本体は平安時代中期のもので、定朝様の様式である。杉?の木の根本に地蔵。金剛寺の概要曹洞宗寺院の金剛寺は、華巌山遍照院と号す。金剛寺は、大同二年 (807) に弘法大師が開基、飯山観音堂の別当寺を長年勤めてきた。南北朝時代の混乱により衰微していたのを天文年間(1532~1555) 清源院四世忠州 (天文15年卒) が当寺を再建、曹洞宗に改めた。徳川家康が関東入国した際には天正十九年 (1591) 寺領5石の御朱印状を受領している。境内隅に立っていた手前の座には「道六」と。本堂前から大師堂方向を見る。~『吾妻鏡』と厚木の養蚕 ~鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』の1182年(養和2年)の条には、金剛寺の僧侶が、寺に対して山狩りや蚕養(こかい)などの公事を課していた近藤太能成を訴えたことが記されている。かつて、養蚕は、厚木の主産業であり、明治期には日本を支えた基幹産業として発展した。『吾妻鏡』の記載から、飯山では鎌倉時代にすでに養蚕が行われていたと考えられ、古くから厚木の主産業であったことが想像できると。本堂前に道案内板← 桜の広場 500m、ロウバイの里 300m訪れる人が一人もいなかったので🐻除け鈴をつける。竹林の中を進むが・・・。両側には竹林が広がっている。柵の中の竹林は綺麗に整備されていたが春先には ”タケノコ” が芽を出すのであろう。柵には「ここは私有地です」の札。緩い階段下に地蔵が並んでいた。後方から人声がし一安心しながら進む。歴史を感じさせる石仏が並んでいた。字が刻まれていたが風化して判読できなかった。5,6人の女性群が片手にコーヒーを持ち上って来られた。「始めて来ました」と。坂を上り終えると南側が開け ”ロウバイ” の花。満開になっていた。ズームアップするが。ローバイの丘所在地:神奈川県厚木市飯山厚木市飯山ロウバイの丘には、2種類のロウバイ(蝋梅)約1,000本が植えられている。右側には募金箱が設置されており、「ロウバイの管理 ボランティアで育てています。会員のお茶代に協力金にご協力ください」と。ローバイの丘みどりと清流のふるさと創造委員会。南側の斜面には太陽光パネルが設置されていたが個人用か。花が少ない冬にそっと咲かせる姿から「奥ゆかしさ」「慈しみ」といった花言葉があるロウバイ。蝋を塗ったかのようにツヤがあり、甘い香りを放つ黄色い花である。1月18日(木)に行った ”松田町寄ロウバイ園” は約20,000本植えられていた。タウンニュースによると、松田町寄ロウバイ園は2月3日頃満開になったと。また平日の1日の来場者も700人で、昨年の300人前後を上回っていると。ロウバイの種子が枝に多く残っていた。ここのロウバイは2種類植えられており濃いのと薄いのがあるようだ。可憐な花で鼻を近づけ匂いをかぎ、かすかに甘い香りを放っていた。ロウバイロウバイ科は、クスノキ目に属する植物の科である。クロンキスト体系では双子葉植物綱に属する。東アジアとアメリカ合衆国に4属12種が分布する。落葉または常緑の低木または小高木で、葉は単葉で対生し、花は花弁とおしべが螺旋状に配列する。花に香りがある物が多い。 漢字で蝋梅と書くが、バラ科のウメとは無関係。 ロウバイ (蝋梅) の種類素心蝋梅 (ソシンロウバイ) : ロウバイの定番品種。 全体が黄色で、他の品種より香りは強い。満月蝋梅(マンゲツロウバイ):他の品種より花が大きめで花弁が丸目。 早咲きで花色が濃い。和蝋梅 (ワロウバイ) :ロウバイの基本種で花の中心が暗い赤紫色で花弁は細め 。ロウバイのトンネル。"厚木ロウバイの丘" には四阿がありベンチに座り見下ろせる。厚木ロウバイの丘は無料で入れる。この太陽光パネルは枚数からして地域で設置しているのか。ロウバイの木に名札がないので品種はわからず。ロウバイの甘い香りがしていたのであろうが。四阿を見上げる。種子を頂き家へ持ち帰り植えることに。果たして芽が出るか。ロウバイとソシンロウバイの違いは、両者の違いは花に見られ、ロウバイは花の中心部が暗紫色でその周囲が黄色だが、ソシンロウバイは花全体が黄色。ソシンロウバイはロウバイから生まれた栽培品種である。果たしてこの品種は。ズームアップするが。四阿から南斜面を見下ろす。訪れる人はまばらであったが四阿でのんびりするのも。ロウバイは数メートル間隔で植えられている。12:15厚木ロウバイの丘の廻りには ”粗目の金網柵” が設置されている。看板には「鳥獣被害対策として柵を設置しています。 厚木市」。 ー 続く ー
2024.02.05
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”飯山花の里” の脇に車を停め散策開始。1月24日(水) 11:30金剛寺 (こんごうじ) への参道脇にはサクラの木が聳えていた。車は右側奥に停めた。参道入口左側に建つ ”地蔵”。後方は、”飯山花の里” の一部であるようだが花が咲き終わり荒れていた。金剛寺への参道入口。参道右側の石碑には「禁葷酒入門」と。禁葷酒(きんくんしゅ)。「酒の匂いをさせて山門を潜るべからず」という意味。 葷(くん)とは、酒や、ニラ、葱の様に強い香りのするものを意味しており、 今の場合、普通は、「くん酒 山門に入るべからず」と漢語では読む。主に禅寺の山門の戒壇石に刻まれている。いつもは「不許葷酒入山門」の石柱だが。国指定重要文化財 昭和三十六年六月三十日指定 木造阿弥陀如来坐像 神奈川県指定重要文化財 昭和三十三年六月十七日指定 木造地蔵菩薩坐像 木造阿弥陀如来坐像は、像高一三九・三cm、檜材を使った寄木造りで、彫眼・白毫・肉髻珠には水晶をはめこんでます。細かく彫りだされた螺髪や丸みのある面や身体など、平安時代後期に全国的に流行した定朝様式の特徴を示し、関東地方における同様式の代表作といえます。像内各所の墨書から、永享年間(一四二九-一四四〇)以降に数度の修理が行われたことがわかります。もとは金剛寺境内にあった阿弥陀堂に安置されていたと思われます。木造地蔵菩薩坐像は、像高八四・二cm、頭体部を檜材の割矧ぎ法によって彫成されています。像内の銘により、正安元年(一二九九)に院慶とみられる仏師により造られたことがわかります。年代、作者がわかる鎌倉時代の貴重な作例です。別名「身代わり地蔵」や「黒地蔵」ともいわれ、もとは庫裡橋のそばにあった黒地蔵堂に安置されていました。現在両像は、金剛寺の収蔵庫及び本堂内に安置されています。 平成十八年三月 厚木市教育委員会厚木市指定有形文化財 金剛寺銅製品 平成二十三年六月十五日指定一 布薩形水瓶 (ふさつがたすいびょう) 一口 鋳銅製 鎌倉時代 布薩会 ※ に用いられる水瓶。形態は、ややしもぶくれの胴部、肩からすぼまる頸部、朝顔 形に開く口縁、注口の基部には蓮座がつき、胴部・肩部・頸部にそれぞれ一条の紐帯が巡る。 全体にバランスがよく、鋳上がり後の器面は轆轤(ろくろ)で丁寧に仕上げられている。 高さ24.6センチメートル 胴径12.9センチメートル ※ 布薩会 僧が集まり、自己の罪過を反省し懺悔する儀式。一 信貴山形水瓶(しぎさんがたすいびょう) 一口 鋳銅製 鎌倉時代 幅広筒型の胴部、水平に切り落とし有段とした肩部、緩やかにすぼまり中位に紐帯が巡るや や太めの頸部とし、口縁は朝顔形に開く。注口の基部は菊座とし、把手が付き、蓋の痕跡が 残る。器面はあまり平滑ではなく、注口は後補の可能性がある。信貴山形 ※ 水瓶は全国的 にも希少であり、西日本に偏在しているので当地に遺存する意義は大きい。 高さ23.7センチメートル 胴径13.2センチメートル ※ 信貴山形 信貴山(奈良県)山頂近くにある寺に伝承する水瓶の形。一 錫杖頭(しゃくじょうとう) ※ 一口 鋳銅製 鎌倉時代 柄頭(つかがしら)は五輪塔とし、輪の下部に三個の遊環を付ける。柄下部は台形状、下端は 柄状とし目針穴を設ける。全体に鋳上がりの整形が不十分であり、洗練された仕上がりとは いえないが、素朴な地方鋳物師の作例であることを感じさせ貴重である。 高さ25.1センチメートル 幅16.0センチメートル ※ 錫杖頭 僧侶や修験僧が持つ杖の頂部。一 銅鋺(どうわん) 一口 鋳銅製鍍金 鎌倉時代 三点とも内外面に轆轤挽きによる整形痕が見られる。各々異なる大きさと形態を有するが、 工芸技術の高さを示しており、時代と希少性において貴重な文化財であるといえる。 高さ5.3センチメートル 口径14.4センチメートル 高さ4.3センチメートル 口径13.6センチメートル 高さ6.3センチメートル 口径15.6センチメートル本例は金剛寺に伝世した工芸的に優れた銅製品であり、国指定の阿弥陀如来坐像、県指定の地蔵菩薩坐像とともに古代から中世にかけて飯山が仏教文化隆盛の一大中心地であったことを伝える貴重な資料である。 平成三十年二月 厚木市教育委員会参道の両脇はサクラの古木。参道奥正面に金剛寺の山門。石碑には「曹洞禅宗 金剛寺」と。金剛寺大師堂所在地:神奈川県厚木市飯山5510方三間の正方形平面を持つ中世密教本堂形式の堂である。伝承によれば明和七年(1770)の建立で、全体の雰囲気が、18世紀中ごろの建築とみられる飯山観音堂と類似し、二寺の関係が伺われる。しかし大師堂は少々荒れていた。大師堂の前には大きな木が聳えていた。幹に ”琉球杉” と書かれた名札。和名はコウヨウザンで、ヒノキ科の常緑高木で樹高は30mに達する。樹皮は褐色で、縦に剥がれる。幼木の枝は輪生もしくは対生しほぼ水平に伸びる。葉は長さ3 ~ 6cm程度で、線状の披針形、表面には光沢がある。葉の先端は尖るが葉質は柔らかい。わが国には江戸時代に渡来。見上げるが琉球杉の樹高は30メートルに達すると。樹齢は何年になるのか。金剛寺大師堂大師堂は、大同年間 (806~809) の創建とされ、寺伝によると安置されているのは弘法大師が34歳のときの自作の尊像であるという。写真はネットから引用。この右奥に、NHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」にも登場した「安達盛長」にまつわる場所がある。金剛寺大師堂の屋根は波鉄板。寺紋であろうかズームアップ。古い建物だけに匠の技を感じる。頭貫の両側に木鼻。天井には千社札がたくさん貼られていた。扁額があったのであろうが・・・。大師堂の周りには、石造の百体地蔵が奉納されているが、廃寺の如くになっている。かつては他の場所にあったのか。奥に入り振り返る。手前の座には「元文〇申七月十四日」と。軒下に出た彫り物。寺社の建物の部材にはいろんな呼び方があるが・・・。落下したのか濡れ縁に「木鼻」が置かれていた。伝統建築の魅力を感じる構造である。右側を見るが荒れている。右側の軒下を見上げるが、匠の技を感じる構造である。大師堂の前には石造物があるが説明板がなく不詳。そろそろ修復時期になっているようだがその計画があるのか。安達藤九郎盛長の墓と称する宝篋印塔、五輪塔。金剛寺山門の手前左奥 (金剛寺大師堂の右奥) にある石造物であるが、説明板もなく鉄鎖で囲まれていたが荒れ放題になっていた。飯山観音長谷寺の駐車場脇にあった説明板。● 石造物 金剛寺の山門脇に安達藤九郎盛長の墓と称する宝篋印塔、五輪塔が数基あるが、 全体に各部の寄せ集めである。南北朝期から室町末期のものとみられる。安達藤九郎盛長(1153~1200)安達盛長は、源頼朝が伊豆 (蛭ヶ小島) に配流されていた時代から側近として頼朝に仕えていた。頼朝の乳母・比企尼の娘を妻に迎えるなど信頼が厚かったようで、また、京都にも知り合いが多く、朝廷の情報を頼朝に伝え、頼朝と北条政子の間を取り持った。官職には就かず、頼家時代に十三人の合議制に参加していた。晩年は剃髪して蓮西と号し、正治二年六十六歳で亡くなった。宝篋印塔、五輪塔は傾いており「立入禁止」の注意も欲しいものだが。倒れるのが怖いので近寄れなかったが文化財として保存して欲しいものだが。せめて説明板だけでも、他の場所に記載されているので。大師堂前には琉球杉、イチョウの木が聳え、秋にはイチョウの葉が散り黄色の絨毯になる。金剛寺の山門。山門右前に建つのは中央部に「寶篋塔」と刻まれている。苔むした「寶篋塔」を見上げるが倒壊の恐れはないのか。字が刻まれていたが判読できなかった。金剛寺山門一間一戸四脚門。切妻造(きりづまづくり)。元は扉が付いていた。17世紀後半、元禄期(1688~ 1704)ころの建築である。山門前に新しい地蔵が立っていた。11:40金剛寺山門も修復時期になっているようだが。 ー 続く ー
2024.02.04
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1月18日(木)に「松田町寄ロウバイ園」を訪れたが、その時ネットで「神奈川県のロウバイ」で検索した時、「厚木ロウバイの丘」がヒット、自宅から約30キロ、40分と近いためこの日は天気が良かったので愛車のノートででかけた。1月24日(水) 10:35自宅を10時15分と遅い時間に出発した。県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋辺りから見る富士。高架橋は圏央道。高架橋は一本足であるが耐震構造になっているのであろうか。正面に富士が見える。茅ヶ崎市から寒川町へ。寒川南インタへの案内。この先を左折し寒川南料金所へ。遅い出発であったため有料道路を利用することに。圏央道寒川南料金所海老名南JCT圏央道を北上、左方向は先週走った”新東名高速道路”方向。今回は直進し”八王子”方面へ。海老名JCTの道路標識海老名JCT東名高速道路の「東京 名古屋」方面は左方向へ。カーナビでは左方向へ進み厚木インタを出ることを案内していたが無視して北上。東名高速道路からの車両と合流。ここから八王子までは大型トラックの交通量が多い。道路標識には、32 圏央厚木 3km33 相模原愛川 8km中央道八王子JCT 24km圏央厚木インタを出ることに。路肩に車が止まっていたがトラックの前後に車があり事故を起こしたようであった。この辺りはカーブになっており路肩も広い。圏央厚木インタまで 2km。道路標識厚木PAまで3kmで圏央厚木インタの先にある。32 圏央厚木出口圏央厚木出口の立体交差。32 圏央厚木料金所圏央厚木料金所を出て、国道129号(厚相バイパス)の交差点。カーナビの案内は北上し過ぎているので交差点を左折して南下。交差点の向かい側には「遺跡の発掘調査をしています」の看板。調査期間は令和6年3月31日まで。カーナビの案内はここ「金田陸橋交差点」を右折して国道246号へ。国道246号と合流、厚木方面へ南下。国道246号の先に ”大山” が聳える。富士は雲の中のようだ。国道246号の”厚木市立病院前交差点”を右折して県道60号線、国道412号を北上。カーナビの案内はこの先の”及川中原交差点”を左折し県道63号線へ。11:10県道60号線と合流する”千頭橋際交差点”。橋は小鮎川に架かる”千頭橋”。千頭橋際 (Senzubashi)千頭橋際交差点を右折し、県道60号線(厚木清川線)を北上。道路脇に”飯山温泉郷”の看板が建つ。県道60号線(厚木清川線)は宮ケ瀬湖へ行く時度々走った道である。前方に朱色橋が見えてきた。道路脇には目的地の「飯山観音 長谷寺 (ちょうこくじ)」の看板。11:20交差点は ”飯山観音入口” 。この交差点を左折し朱色の ”庫裡橋(くりはし)” を渡る。庫裡橋を渡ると正面に”中飯山自治会館”。目的地を「飯山観音無料駐輪場」にしていたのでカーナビは左側を案内。自治会館の前に「P」の標示、右側には「→ トイレ」の看板。坂道を上ると正面に、P の看板があり、「↑ 250m先 普通車 500円/日、バス 1,000円/日、駐輪 無料」。カーナビで検索した時「無料駐車場」と勘違い「駐輪場」であった。石碑には「上水道通水記念碑 小鮎水道組合」と。左側にも文字があったが判読できなかった。道路の右側には長谷寺への参道。車を停めた横には「桜とたにしの飯山の里」の看板。下にも駐車場があったのでここで引返すことに。下る途中にあった観光マップ飯山温泉郷観光マップ観光地が細かく書かれていた。庫裡橋手前に建つ門には「飯山白山森林公園へまたどうぞ」と。橋の手前を左折。飯山花の里所在地:神奈川県厚木市飯山駐車場らしきものがあり駐車して散策開始したが、トイレも仮設であった。地元のボランティアの方が整備されており春先にはポピー、ネモフィラなどが綺麗に咲く。簡易展望台があり看板には「ようこそあつぎ飯山 花の里へ」。看板には ”ざる菊” の絵。道路脇には刈り取られた「酔芙蓉」の木。酔芙蓉 アオイ科 落葉低木夏を代表する花木で、美しい大輪の花を咲かせるフヨウです。朝に白い花が咲いて徐々にピンク色に染まり、夕方には酒に酔ったように紅色に変化します。最盛期は新しい花を次々とさかせます。11:30”飯山花の里” の先に庫裡橋。現在はポピーが植えられているようだ。 ー 続く ー
2024.02.03
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小出川の新鶴嶺橋(赤橋)から上流の梅観賞を終え、更に上流へ進む。1月31日(水) 14:15仮設浜園橋上から下流側の梅並木を望む。左側は ”浜之郷樋門”。今年の梅の開花状況は例年に比べ早いようだ!浜園橋橋りょう整備工事(上部工)工 期 令和6年8月30日まで発注者 茅ヶ崎市 建設部 道路建設課施行者 宇野重工㈱神奈川営業所浜園橋は下部の基礎部分の工事は昨年終了、上部の橋梁部分の入札を昨年行ったようだ。工事看板には、浜園橋架替事業橋の設置工事を行っています令和 6年 8月30日まで作業時間帯 9:00 ~ 17:00浜園橋橋りょう整備工事(上部工) 請負代金額 \402,333,800 発注者 茅ヶ崎市 建設部 道路建設課 電話 0467-81-7193 施行者 宇野重工株式会社 神奈川営業所 電話 045-500-6963 施行図面が貼りだされていた。送出しステップ図(その1)橋梁部分を小出川の上に送り出す計画図。浜園橋の東側から小出川の上にあるのは ”送り出す” ための仮設であろうか。小出川の上流側から望む。上部は新湘南バイパスの高架橋。新設の橋梁は仮設の下部の基礎部分に設置。作業員の方とすれ違い時に「良い写真が撮れましたか」と。安全帯を付け作業「御安全に!」。下部が橋梁の設置個所になる。浜園橋の仮設橋梁の西側から。満開の紅梅をズームアップ。左側が本設の橋梁であろうか。浜園橋の工事現場の西側上流側から望む。西側から送り出される本設の橋梁であろう。送り出す日がいつの日か?。工事現場には仮設トイレも設置。工事現場の上を走る新湘南バイパスの ”下町屋高架橋”。浜園橋橋りょう整備工事(上部工)の発注額 \402,333,800 は高いなーと思いながら。現役時代は入札物件を扱っていたが発注額が細かく(1円まで)何となく疑問に!。小出川の上流側を望む。河川敷には草が生い茂っている、治水対策で浚渫が必要ではと。対岸のケヤキ?をズームアップ。小出川堤下の ”向田緑地” から南を望む。向田緑地の傍にある「あぶさんふぁーむ」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園ネギ等を頼むと裏の畑で自分でとる農業体験ができると。新鮮野菜、焼き芋の販売をしていたが、焼き芋の匂いがしていなかったので既に品切れか。支払いは”キャッシュレス決済”も可能であったが。値段表から少々高い感がしたが。この辺りは〟”生産緑地” になっているのか畑が広がり温室、ブルーベリー畑がある。後方を小出川、新湘南バイパス。向田緑地のサクラはまだ硬いつぼみ。上流に ”萩園橋”。萩園橋を過ぎ上流側へ進む。北側には ”茅ヶ崎JCT” の高架橋。堤上には川面を見つめる人が立ち止まり。川面には多くの野鳥がいたのでしばし観察。カモであろうか。シラサギも飛ぶ。砂地を歩きまわるカモの家族であろうか。小魚が多くいるのであろう。悠々と泳ぐカモ。小出川の河津桜会場河津桜の下では菜の花が満開であった。この辺りの河津桜はまだ硬いつぼみであった。掲示板の中にポスター「2024年 第15回 小出川桜まつり 各日 10時 ~ 14時まで 2月23日(祝) 24日(土) 25日(日) 3月2日(土) 3日(日) ※ 式典は2月24日」 ※ 雨、雪の場合は中止 ※ 開花状況によって開催期日を変更する場合があります。当日は、模擬店、キッチンカーが勢揃いする。 枝先のつぼみをズームアップ。掲示板の場所から上流に進む。上流側の方がつぼみが膨らんでいた。一部咲いた花も。赤い花びらが今か今かと出を待っている。伊豆河津町の「第34回 河津桜まつり」の開催は、2月1日(木) ~ 29日(木)。県道44号線(伊勢原藤沢線)の藤沢方向。圏央道の橋脚に「茅ヶ崎 JCT Dランプ橋 DP10 D-840」と。西久保橋上から西方向を望む。富士山が見えるのだがこの日は雲の中であった。茅ヶ崎 JCT を見上げる。ここ西久保橋上から小出川の下流を望む。あと1~2週間で右側のサクラ並木が満開になる。西久保橋のネームプレート。西久保橋上から ”茅ヶ崎 JCT” を見上げる。西久保橋上から小出川の上流の ”大曲橋” を望む。大曲橋の右側には、民話「河童徳利」伝承の「河童徳利ひろば」がある。旧跡 懐島山(ふところじまやま)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保附近日蓮宗の法性山妙運寺裏手(西側)の新湘南バイパス高架下にある史蹟。旧跡 懐島山の碑この地一帯は、中世、懐島郷といわれ、懐島氏を称し、源頼朝の家臣であった大庭景能の支配した所として知られ、鎌倉幕府との関連などが、「吾妻鏡」や「新編相模国風土記稿」の書物にも記録され、地名や伝承が残っています。この碑の立つところは俗に「えな塚」といわれ、次のような話が言い伝えられています。源頼朝の側室、丹後局は源頼朝の子を身ごもりますが、正室の北条政子に知られ、大庭景能の邸に身を隠しました。やがて、西久保の桜屋敷に移った局は、男の子を生みました。その子は三郎と名付けられ、三郎の(胎盤)を納めたところがえな塚と言われています。三郎は、成長した後に島津忠久と名乗り、九州の島津氏の祖となりました。この碑は近くの宝生寺が所有しており、この西久保地区が辿ってきた歴史を語る重要なものとなっています。碑の文中にある阿弥陀三尊は国指定重要文化財としてこの宝生寺に安置されています。 平成二十七年三月 茅 ヶ 崎 市 茅ヶ崎市教育委員会高架橋は、首都圏中央連絡自動車道の茅ヶ崎JCT旧跡 懐嶋山新編相模風土記日 懐嶋山 松四五株立てる小丘也 赤池川 四方萩園村境を流れる 宝生寺 懐嶋山と号す本尊大日を安んす因ミニ源頼朝ノ妾比企氏丹後局懐妊ヲ政子ノ方ノ知ル処トナルニ及ビ兄能員ニ命ジテ密カニ当地大庭庄懐島景能ノ邸ニ預ケ次デ桜屋敷ニ移ッテ男子ヲ安産。三郎ト名付ケラレタ。文治元年六月十五日三郎七才ノ折鎌倉八幡宮ニテ頼朝ト親子ノ対面アリ忠久ト名乗リ島津氏ヲ称シタ。三郎ノえなヲ埋メタ塚上ニ松樹ヲ植エソノ古株ハ今モ地中ニ存スル。塚ノ東方一帯ヲ小字観音堂ト呼ビ阿弥陀三尊ヲ安置シタ御守堂ガアッタ。 以上 懐嶋山ノ伝承ヲ記ス裏面には、撰文 茅ヶ崎市文化財保存会 昭和四十五年 ○○○・・・ 以下判読できなかった。この後、宝生寺を訪れることに。石井稲荷大明神宝生寺への道を間違え、畑の中に大木がありその下に朱色の鳥居を見つける。廻りは2段の石積みで整備されていたが入口は不明確であった。石鳥居には「正一位 石井稲荷大明神」と。朱色の社の中に小さな社があった。石井稲荷大明神の詳細も説明板がなく不祥。北側から望むが、個人宅のものであろうか。社の後方には大きなクスノキが聳えていた。クスノキの根回りは3メートルはあるのでは。木の幹に「令和3年4月1日 茅ヶ崎市指定 保存樹木 3-4 クスノキ」と。15:25高野山真言宗 宝生寺 (ほうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保546寺の詳細は以前アップしている「宝生寺の阿弥陀三尊御開帳」👈 をクリック願います。本 堂既に何度も参拝しているのでスルーして帰路に。15:40中華 のんち既に本日の営業を終え閉店していた。さて今夜のメニューは何にするか・・・。 END
2024.02.02
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今日から今年も早2月に!2月は和風月名で「如月(きさらぎ)」。由来は、衣更着(きさらぎ)とも言う。まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。また、故事には「二月は逃げて走る」と。元旦の夕刻に「令和6年能登半島地震」の甚大な地震が発生、正月の家族のひと時も一変!それから早一か月、今だ不自由な生活を送られている方々に安らぎの日が早く訪れることを祈ります。昔訪れた能登半島の景勝地を思いながら・・・。我が家の裏庭の梅も開花(撮影日1月31日)。良い香りがしていたのでどこからかミツバチも「ブンブン」と飛来。我が家には梅の木が二本あり玄関先の木は遅咲き。昨年は豊作であったがさて今年は・・・。昨年も訪れたが、この時期 ”小出川沿いの梅” が綺麗に咲いており、この日は天気が良かったので愛車のリンちゃんで訪れ、”鶴嶺通り” 沿いを散策した。1月31日(水) 13:15北茅ヶ崎駅近くの「中華 のんち」。昨年の6月にテレビで放映されて以来訪れる人が絶えない、茅ヶ崎市内で2番目の人気店である。以前は ”夜の部” もあったが現在は昼間のみの営業になっている。隣接して中華店があるのだが。第一カッターきいろ公園の北東部入口で咲いていた梅。紅白の梅が満開になっていた。第一カッターきいろ公園の北側を走り、”鶴嶺通り”へ。糀屋 米の花所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑201鶴嶺通りの北側に古民家風の建物があったので立ち寄る。茅ヶ崎で糀・塩糀・甘糀をあつかう「糀屋」として、2019年4月にオープン。糀や甘酒の販売のほか、味噌づくりも体験できます。入口に立っていた看板には、米の花御品書 お持ち帰り 糀 五百グラム 八百円 塩糀 三百グラム 五百円 甘糀 三百グラム 五百円御品書 店内 糀色々 甘糀四種飲み比べ 五百円営業時間 火曜日 木曜日 土曜日 午前十時から午後五時鶴嶺通りに戻り西へ向かう。この道を車で走っていていつも気になっている「大衆食堂 鳥嶺」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑212-1ネットで調べると、鶏肉を推している大衆食堂鳥嶺は、ランチからディナータイムまで営業しており、地元の人々からも愛されていますと。鶴嶺通りを更に西へ向かう。年末に行列をなしていたので気になっていたお店である。生憎この日は休日であった。暖簾に「三崎魚問屋 徳多屋」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑403-1ネットで調べると、わざわざ三崎に行かなくても美味しいマグロが買え、お刺身も三浦の野菜もある店であると。鶴嶺八幡宮前交差点鶴嶺通りに立つ、社号標の「郷社 鶴嶺八幡宮」。鶴嶺通り沿いにある鶴嶺八幡宮の太鼓橋。鶴嶺八幡宮前交差点、太鼓橋前から国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋交差点までの松並木。西側から”太鼓橋”を望む。鶴嶺八幡宮 二之鳥居狛犬の阿形像 (右側)台座には「神域につき生き物を採らない事 宮司」と。狛犬の吽形像 (左側)二之鳥居前から南を望む。太鼓橋の幅は一間(約1.8m)も無く急勾配である。参道脇には「鳥居再建 昭和三十四年一月十日」と刻まれていた。小さい石柱には「奉納 大鳥居一基 亀井土建株式會社 竣功 昭和五十年四月二十七日 亀井文夫」と。参道は松並木で、両側には奉納された石燈籠が立っていた。100~200メートルの参道を進み振り返る。鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462既に何度も参拝しているので今回はスルー。以前のブログ「源頼朝ゆかりの地」👈 をクリック願います。境内には、県指定天然記念物の「鶴嶺八幡のイチョウ」が聳える。鶴嶺通りに戻り西へ進み、前方に小出川に架かる”新鶴嶺橋 (赤橋) ”。右側の上流側に今日の目的地 ”梅並木” がある。橋には「しんつるみねばし」と。新鶴嶺橋(赤橋)から上流の ”浜園橋” までの400メートルに梅が植えられている。梅の木にはメジロが多く飛来していた。紅白の梅が既に満開になっていた。新鶴嶺橋(赤橋)を振り返る。右側は”新湘南バイパス”の高架。新鶴嶺橋(赤橋)の東詰。近隣の方の散歩コースになっている。梅の花が終るとドウダンツツジが咲く。数年前に大きく剪定されていたがまた元の状態になっているようだ。梅にまつわる諺の一つとして「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」。紅梅はそろそろピークを過ぎるようだ。白梅にピントを合わせ。枯れたような古木があったが。梅の木は生命力が旺盛で新芽が成長、花芽を付けていた。小出川には、コガモ、鵜が飛来。鵜 (う) をズームアップ。小魚を追っているのか。飛び去る鵜。梅の木の下草は刈り取られ整備されていた。多くの方が散歩がてら鑑賞に。スイセンも咲いていた。夫婦連れの方はスマホで記念写真。新湘南バイパスの道路標識。紅白の梅をズームアップ。下流側を振り返る。愛車のリンちゃんを押して散策した。上流側の浜園橋。親水護岸 (しんすいごがん)親水護岸 (しんすいごがん)この堤防はみなさんが水辺に親しむ場所として造られました。事故のないよう(特に下のことに)注意して下さい。 (1) 小さい子供だけで遊ばないようにしよう。 (2) 川の水が多いときは下に降りないようにしよう。 (3) 危険な遊びをしないようにしよう。 (4) 川をきれいにしよう。 神奈川県藤沢土木事務所14:15小出川の下流側を振り返る。 ー 続く ー
2024.02.01
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山北町の”香集寺”の後は15時を過ぎたので最後に帰路にある”宝寿院”へ立ち寄ることに。1月18日(木) 15:30国道246号を東方向へ進む。国道246号の左側に ”宝寿院” がありこの先の ”桜観音前交差点” を左折することに。この道は、最明寺史跡公園への入口になる。ハイキングコースになっており約3.0km、車で11分、徒歩で約60分。広場は宝寿院の臨時駐車場。最明寺跡 昭和四十六年四月一日 松田町重要文化財史跡指定最明寺は、松田山頂附近の海抜五三○米位の平坦地に承久三年七月(1221)浄蓮上人(源延)が、信州善光寺の一光三尊の仏を模写 松田山頂に安置し創建、西明寺と(最明寺)号した。鎌倉時代には、五歩に一楼、十歩に一閣といわれるほど盛大となったが室町時代兵乱相続きおとろえる。文明二年(1470)鎌倉の八正寺の尊賢親王が再建を計ったがならず、寺を金子郷に移転された。最明寺跡には今日も大門跡、日中坂、本堂跡、護摩堂跡、鐘突堂跡等の地名や石碑・石仏等が安置されている。また最明寺史跡公園内にからさわ古代瓦焼がま跡(のぼり窯)が移築されております。 ここより徒歩○○○ 松田町教育委員会肝心な「ここより徒歩○○○」と判読できず残念。宝寿院 臨時駐車場向かい側の畑のウメが開花しはじめていた。枝からぶら下がるカラスウリの実。松田町マンホール蓋。松田町無形重要文化財である「松田大名行列」をデザインした汚水マンホール蓋。国道246号の”桜観音前交差点”。長谷観音寺 (桜観音)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子1035臨時駐車場から戻り桜観音前交差点を右折すると直ぐに階段があり正面にある。桜観音の名のいわれは、前を通る国道246号線沿いにみごとな桜並木があった名残りで、いつ頃からか地域の人々にそう呼ばれている。海老虹梁をズームアップ。本尊は ”十一面観音菩薩立像” で平安の昔に作られ高さ135cm、頭部に11の仏面をいただいたものであり、堂内の欄間の彫刻は飛天と雲中供養菩薩の見事なものであると。本堂の扁額「観音堂」。長谷観音寺 (桜観音) 昭和四十六年四月一日 松田町文化財指定十一面観音菩薩立像 平安時代の一木造り 高さ一三四・五糎一般に深彫りで特に衣の褶(ひだ)の部分は深彫りで彫痕が強く全体の風格に誠心美がある。この十一面観音菩薩城は大和の長谷観音寺と鎌倉の長谷観音寺にある十一面観音菩薩像と共に一本の木を三分して作られたもので行基の作であると言い伝えられている。 松田町教育委員会社殿前から国道246号の道路標識を見下ろす。国道246号沿いのサクラ並木が良いと。境内の東側に建つ六地蔵と、地蔵。西側にも石碑群。左から、「西国坂東秩父百観世音 西国八拾八ケ所○○○ 供養塔」。中央の石碑には、「天下泰平 南無阿弥陀佛」と。左側の石碑にも「供養塔」と。国道沿いには、左から「墓石、堅牢地神、木食〇正」と刻まれている。境内の西側から、”長谷観音寺 (桜観音)” を振り返る。桜観音の通称で親しまれている長谷観音寺の十一面観世音菩薩。観音菩薩像は古来より地元の松田庶子の人びとにより大切に守られてきたもので、1970年代から自治会会員の減少などにより護持していくのが難しくなり、隣り合う宝寿院(藤井宏映住職)に管理が移譲されている。長谷観音寺 (桜観音) に隣接して西側に建つ「宝寿院」。真言宗 深澤山 宝寿院 (ほうじゅいん)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子1035国道246号線を山北方面に行く途中の右側高台に見えるお寺で、国道沿いに建つ寺号標石には「真言宗 深澤山 宝寿院」と。新しい宝寿院本堂。東名高速道路の拡幅工事に伴い再建されたのであろうか。長谷観音寺(桜観音堂)と隣り合う真言宗のお寺で、本尊は大日如来である。本堂の扁額も新しく「宝寿院」。本堂の西側から。境内の庭園には多彩な植栽が施され、長谷観音寺の桜とあいまって四季折々の彩りを添えています。庭園内の階段をのぼると、東屋があり周囲の樹木を眺めることができますと。本堂の東側に珍しい二人乗りの三輪車。メーカーはどこであったか。右は国道246号。道路脇のキロポストには「246 三宅坂まで 76km」と。一段高いところに「真言宗 宝寿院」と刻まれた寺号標石。15:45信号は国道246号の桜観音前交差点。この辺りはJR御殿場線が並行している。臨時駐車場に戻り一般道路優先で帰宅することに。16:00曽我梅林辺りであったか南の空の雲が綺麗であった。雲が夕陽に染まればどのように。16:20国道1号を走り橘インタから西湘バイパスへ。まだ時間が早くスムーズに来れた。西湘バイパスを東へ向けて走る。16:20二宮 秦野インタ出口。自宅へは16時50分に到着。近場にもいろんな良いところがあることを知ったドライブであった。3月末から4月にサクラを求めて再度訪れたいものです。今日の歩行数は約10,000であった。 END
2024.01.31
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曹洞宗 能安寺 (のうあんじ)の隣に大きなお寺があったので立ち寄る。1月18日(木) 15:10曹洞宗 香集寺 (こうしゅうじ)所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原2501曹洞宗寺院の香集寺は、如意山と号します。香集寺は、僧永相(長享元年1487年寂)が当地にあった観音堂に応仁元年(1467)寄宿、幽邃を愛でて一滴庵と号して創建・開山、その後僧宗孝(天文2年1533年寂)が末寺を配置し、当寺を香集寺と改号したといいます。広い駐車場から山門を見上げる。中央の石碑に字が刻まれていたが判読できなかった。大きな石燈籠が一基。後方には富士を望む ”交通安全観世音菩薩"。後方のしだれ桜とのコラボも。階段下の左側には社の中に”六地蔵と大師像”か。駐車場の北側に先程参拝した”能安寺”。因みにブログ取材で各地のお寺を参拝しているが、2023年11月21日時点において、全国には76,660ヵ寺(337ヵ寺は登記閉鎖等)の寺院があります。神奈川県には1,905ヵ寺の寺院があります。神奈川県足柄上郡山北町には18ヵ寺の寺院がありますと。階段途中の左側に”萬霊塔”。右側には ”不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)” の石柱。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。西側の富士を望む ”交通安全観世音菩薩”。台座に”交通安全観世音菩薩”と。交通安全観世音菩薩の視線の先には富士。この場所からはダイヤモンド富士も見えるのであろう。階段を上り山門前から東名高速道路の西方向を望む。山門下から広い境内を望む。砂利を敷かれた境内の先に本堂。本尊は釈迦牟尼佛。本堂の扁額「如意山 (にょいざん)」。本堂の ”花頭窓 (かとうまど)”。火灯窓・花頭窓は、おもに日本の、寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形または、花形に造った特殊な窓である。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。また、石山寺の「源氏の間」に見られることより通称「源氏窓」ともいうと。本堂前右側に「太子堂」が建っている。太子堂裏を東名高速道路が走っている。本堂前右側に”寺務所”。かわいい地蔵が建っていた。境内の樹々は綺麗に整姿されていた。寺専属の園芸店が整備しているのであろう。落慶記念碑落慶記念碑西来の祖道此地に建つ。月に釣り雲に耕して古風を慕う。世俗の紅塵飛んで到らず如意香集の中。浄法界の見出没無し、大悲の願力去来を示現す。本尊 釈迦牟尼仏 当寺は、大雄山最乗寺開山了庵恵明禅師の法孫忠室宗孝大和尚の開山になる。以来、幾多の変遷を経て五百有余年、祖風を相承して、現住廿八世大哉秀胤大和尚に至る。此の度、東名高速道路拡幅整備工事に当り境内地並びに墓地の大部分が其の路面下に掛り、香集寺の法灯を後世に伝える為には全面移転の他に方途なきを諦観するや、住持俱に檀信諸氏と議ること二百余年、以来、一意専心、其の再建の為一同総力を挙げて是に努め平成元年十月に至り、八年間の長きに亘る移転工事の竣工をみる。此処に、用地提供者、日本道路公団、関係諸官庁並びに其の関係者の篤き三宝護持の念を頂戴したことを記し、当山檀信徒各家先祖代々の諸精霊に回向し、信心の善男善女人の家内安全、諸災消除、子孫長久、諸縁吉祥ならんことを〇い、落慶をトして此の碑を建立する者也。 維時 平成元年十月廿四日 香集廿八世 大哉秀胤 叟代境内からの富士もビュースポットである。笠雲がかかる富士をズームアップ。明日の天気は・・・。太子堂。背面には東名高速道路のフェンス。太子堂の扁額「〇子〇」。境内の北側には”石仏群”。ここも背面には東名高速道路のフェンスがあり境界地である。境内にはふじ棚もあり、サクラの蕾も膨らんでいたが河津桜であろうか。隣町の松田町では河津桜の ”まつだ桜まつり” が今年2月3日(土)から開催される。境内には石碑が多くあったが東名高速道路の拡幅整備工事に伴い移動したのであろう。右側の石碑は「○○○」。○○如意山香集寺○○記説明板もなく、字が風化して判読できなかったが、 明治三十八年四月 勅持揚性海慈〇禅師○○○○○○ 左側の石碑は「○○」如意山震災復興記大正癸亥ノ大震災ハ文籍ニ載セ口碑ニ傳ヘ當時周ク知ルナシ特ニ當山ノ惨害ハ甚大ナリ山林ノ崩壊十数町ニ過ギ砂防工事〇町ニ越ヘ為ニ懸賞数千円テ消〇セリ租堂之〇ガ為ニ北方ニ曳〇スルコト三間廻廊延長同ジク三間庫院曳・・・以下判読できず。境内の北側を望む。南西方向のJR御殿場線 ”東山北駅” に国府津行き電車が入線。東山北駅の南200メートル程の所に ”県立山北高等学校” があるので多くの生徒が乗車。15:20山門から西方向を望む。 ー 続く ー
2024.01.30
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最明寺史跡公園の次の目的地は「松田城跡」。1月18日(木) 14:25カーナビをセットし、最明寺史跡公園駐車場から右折し”松田駅”方面へ下る。道路は一車線で狭く道路には落ち葉、枯れ枝が積もっていた。登ってくる車もなく道幅が狭いので注意しながら運転。道路標識には「← 最明寺史跡公園」、「自然館 →」。ユー字カーブ点に、「林道 最明寺線 幅員 3.0m、延長 2,018m 松田町」と。地蔵も立っていた。台座には「施主 ?」とあったが。時光窯所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子林道最明寺線を下り”時光窯”の右手に富士が見えていたので道路脇に車を停める。傾斜地には農作業用のモノレールのレールも。廻りにはミカン畑が広がっているようだ。この辺りからの富士も絶景。今年は積雪は少ないようだ。絶景の富士をズームアップ。直進か右折か迷ったが右折して ”大林農道” を下る。直進は中央農道で、 ● 松田山ハーブガーデン ● JR松田駅 ● 小田急新松田駅この後農道だけに道は狭かった。赤矢印から”大林農道”になる。最明寺史跡公園から選択した松田城跡までの東側コースは 4km、車で16分。西側のコースは、2.9km、車で11分、徒歩50分でカーブが少なかったようだ。大林農道を下り東名高速道路の上り線沿いを西に走り道案内板。カーナビの案内で坂道を登り道路脇に車を停める。眼下には東名高速道路、酒匂川、西には富士。富士をズームアップ。酒匂川沿いの白い建物は「神奈川柑橘果工株式会社」。同場所から酒匂川の下流方向を望む。遠く相模湾が望める。新十文字橋、十文字橋、小田急線の橋梁、その下流には足柄大橋、足柄紫水大橋。手前の新十文字橋の広場は ”まつだ桜まつり” 開催時には臨時駐車場に。14:45松田城跡所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子松田城は鎌倉時代に松田氏によって築城された。ここからの見晴らしは素晴らしく、足柄平野や相模湾が一望できる。瓢箪形をした敷地(現在はみかん畑)の最北端、海抜約180mの場所に本陣居城址、その前後の低地に空堀りがあったとされ、南に広がる平地にて石畳や馬具等が出土した。近くに城山地区という地名があり、近隣の地名にもその名残りをとどめている。写真はネットから引用。説明板の前に車が数台止めれるスペースがある。松田城跡(松田町指定) 昭和四十六年四月指定松田城跡は旗矢沢、天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した典型的な連郭式山城である。東名高速道路の拡幅工事時に記録保存され、上・下段腰曲輪、掘立柱遺構・柵列・井戸・溝状遺構・地下式壙・堀切が確認され、炭化穀物類・陶磁器類・カワラケ・鉄釘・古銭等多数が出土している。城郭として使用していた時期は十五世紀中葉から十六世紀後半頃で、秦野盆地から来た波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の頃である。松田憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城はその弟新次郎康隆の持城であったとの記録が残っている。 松田町教育委員会松田城跡想定図説明板から北側に、前曲輪2、前曲輪1、本曲輪2、本曲輪1、後曲輪、搦手と連なる。説明板から北側の前曲輪2、前曲輪1へと進むが説明板が見つからなかった。右側の下が前曲輪であったのか。松田山を見上げると、先程走った”松明の由来碑”辺りであろうか。更に奥に進むと農作業用の小屋が建っていた。人の気配がなくイノシシの出没が怖い!。畑には鳥獣対策の線が張られていた。松田城跡関係の説明板も見つからずイノシシが怖いので引き返すことに。引返し南側の足柄平野を望む。ここも畑の廻りに鳥獣対策用の線が張られていた。JR御殿場線が国府津へ向けその先に相模湾。手前は松田の市街地。中央のかまぼこ型の屋根は、松田町立松田中学校の体育館。左側のビルは、”元・第一生命ビル" で現在は ”BIOTOPIA (ビオトピア)”。松田城跡から東名高速道路の側道に下りる。次の目的地を山北町の「能安寺」にし、ここを大きく右折し西方向へ進む。同場所から東名高速道路の上り線(三車線)を振り返る。東名高速道路沿いを西方向へ進みカーナビの案内はここを右折。道路脇に立っていたのは「三界萬霊塔」。三界萬霊塔から東名高速の上り線、下り線の高架下を抜けると道路沿いに石碑。向かい側にお寺があったので道路脇に駐車。東名高速道路の橋脚に「寺沢橋」。15:05曹洞宗 能安寺 (のうあんじ)所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原2499曹洞宗寺院の能安寺は、通永山と号します。能安寺は、元亀3年(1572)に創建、香集寺5世行翁(慶長6年1601年寂)が開山したといいます。昭和44年に計画された三保ダム造成に伴い、当地へ移転しています。世附の百万遍念仏は、三保村(旧世附村)で毎年行われていた仏事で、当地へ移転後も続けられ、神奈川県無形民俗文化財に指定されています。道路沿いに ”六地蔵” が並んでいた。道路沿いの垣根越しに説明板。垣根内には梅が咲き、上は東名高速道路の下り線の高架橋。神奈川県指定無形民俗文化財 世附の百万遍念仏(よづくのひゃくまんべんねんぶつ) 昭和五十三年六月二十三日指定世附の百万遍念仏は六〇〇年以前から伝承されたもので、毎年二月十五日から十七日まで能安寺で行われていたが、三保ダム建設で能安寺が水没し向原に移築され、今は毎年二月の中旬の土・日曜日に行われている。道場(二間四方の板間)の奥正面に大滑車が作りかけられこの滑車に大数珠の綱がかけられる。念仏衆の念仏声にあわせて、若衆が交替で豪快に数珠を廻し一年間の無病息災を祈るという。この大数珠の大回転が特色であり、中心行事である。念仏が終わると、伊勢大神楽系の次の神楽が奉納される。一、剣の舞 二、姫の舞 三、幣の舞 四、狂いの舞 五、二上りの舞 六、おかめの舞 七、鳥刺しの舞以上で他に類を見ない多くの特色を持ち、郷土の貴重な民俗文化財として保護するものである。 平成十七年三月 神奈川県教育委員会”百万遍念仏”といえば善男善女が寺院の本堂に円座して中央に導師を迎え大数珠を繰りながら念仏を唱える京都知恩寺型百万遍念仏を指しますが、世附の百万遍念仏は大数珠を巨大な滑車に取り付け、数珠を回転させる全国的にも珍しい行法ですと。今年は4年ぶりの令和6年2月17日(土) ~ 18日(日)に開催される。山門を入ると右側に石碑。能安寺本堂東名高速道路の高架橋下に位置するお寺である。本堂の扁額「能安寺」。本堂前から東名高速道路の西方向を望む。能安寺境内から出て西側に立つ石碑。石碑には字が刻まれていたが句碑、歌碑であろうか。道路を挟んで社があったが以前はここに六地蔵があったのか。左側は「供養塔 足柄上郡○○會」、右側は説明であろうか字が判読できなかった。15:10説明板がなく詳細は不詳。 ー 続く ー
2024.01.29
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松田町寄地区の”龍王寺”から次の目的地”最明寺史跡公園”へ行くため県道710号線(神縄神山線)を南下、国道246号の寄(やどりき)入口交差点角にあるセブンーイレブンで昼食を購入。1月18日(木) 13:35寄(やどりき)入口交差点から国道246号を西へ向かう。交差点を渡ると秦野市から松田町に入る。カーナビによると ”最明寺史跡公園” へのルートは二つあったが、”チェックメイト・カントリークラブ” 経由の道を選ぶ。頭上の道路標識に「最明寺史跡公園 → 7km」。信号のないT字路を右折。入口にゴルフ場 ”チェックメイト・カントリークラブ” の案内板があったか。13:40国道246号から九十九折の山道を登り東の方向が開けたので駐車。途中ゴルフ帰りの方であろうか数台すれ違ったが道が狭かった。東方向には ”大山”、”塔ノ沢” が見えていた。手前の山にはゴルフ場が連なる。 大山から東方向をズームアップ。手前には秦野市街地が広がる。新東名高速道路の新秦野料金所から出、国道246号との立体交差をズームアップ。右側は小田急小田原線が走る。新東名高速道路の新秦野インタをズームアップ。ゴルフ場は ”太平洋クラブ 相模コース” 。サクラ並木の山道を登り ”チェックメイト・カントリークラブ” 入口へ。ここのゴルフ場ではプレーをした事がないが山の上で眺望がよさそうであった。目的地は左方向へ進み「最明寺史跡公園 ← 入口 2km」。チェックメイト・カントリークラブ入口からの山道はフラットになり右側はゴルフ場。西の方向を見ると頂上部に雲がかかった富士が見えていた。眼下には酒匂川が流れ山北町が広がる。右側の山の上には電子機器メーカーの”トヤマ”。富士が見え「関東の富士見百景」に指定されてもおかしくないビュースポットであるが。富士をズームアップ。右側に ”富士スピードウェイ” が見えていた。道路脇に松明の台が十台近く並んでいた。酒匂川の下流側を望む。酒匂川の西側は南足柄市、足柄上郡の町、下流には小田原市街地。足柄平野が見下ろせる絶景である。夜景も見事では。酒匂川に架かる橋をズームアップ。上流側から新十文字橋、十文字橋、小田急線の橋梁、更に下流に足柄大橋。”まつだ桜まつり” 時には、新十文字橋の上下流は会場へのシャトルバス発着場になっている。ゴルフ場沿いの道を振り返る。フェンス内はゴルフ場。ゴルフ場のフェンス沿いに立って石碑。松明の由来碑所在地:神奈川県足柄上郡松田町松明の由来は、松田城主と家臣が落城のときに農民が道案内に送り火を炊いたとか、害虫を山頂に誘い五穀豊穣の祈りを捧げた等と伝えられていると。右側の石碑には「寄附者芳名」が刻まれていた。金額は金拾万円から。松明の由来松田庶子六夜会石碑には松明の絵が刻まれていた。石碑には雲の峯が崩れ、夏も終わりに近づく頃、松田山の頂きに夜空を焦がして108体の松明が灯される。いつの頃、誰れが、どういう理由で始めたかそれは定かではない。松田城主と家臣が落城のとき、農民が道案内に送り火を炊いたとか。害虫を山頂に集め、西郡 (今の足柄平野一帯) 四万石の五穀の豊穣を願う農民の素朴な祈りが籠められていたとか。度重なる酒匂川の出水による犠牲者慰霊のためとか。いづれにせよ108という数が仏教の108煩悩に関連し、八月二十六日の晩景に彩りを添える。「六夜の松明」には、人々の心の奥にものの哀れを訴え茲にはおかないものがあります。私達は今日まで長い間に亘り、この美しき伝統を松田の誇りとして、・・・(以降略)松明の由来碑からゴルフ場に沿って進み、杉林の中を下り最明寺史跡公園へ到着。14:00最明寺跡公園 (さいめいじしせきこうえん)?所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。アクセスは、車で、東名高速道路「大井松田インタ」から約20分。徒歩で、小田急線「新松田駅」、JR御殿場線「松田駅」より約2時間。最明寺史跡公園 管理事務所管理事務所は閉ざされていた。門前には公衆電話が設置されていた。最明寺史跡公園 花マップネットから引用管理事務所前に貼られていた写真クマが目撃されました!令和3年12月に松田山において、熊の目撃情報が複数、寄せられています。クマに出会わないために ① 廃棄野菜や廃棄果実を野外に放置しないようにしましょう。 ② クマ除け鈴、ラジオなど音の出るものを携帯しましょう。クマと遭遇してしまったら・・・ ① 刺激しないように、慌てないで静かに立ち去りましょう。 ② クマから目を離さず、ゆっくりと後ずさりしましょう。 ③ 走って逃げない(クマは逃げるものを追いかける習性があります)。 松田町役場 観光経済課 ☎ 0465 (83) 1228この日は平日で人影もなく静寂であったので🐻除け鈴をリュックに付け散策することに。山の斜面に何か構造物が。からさわ古窯跡群 古代瓦焼窯跡これは、今から千二百年位前(奈良時代)の屋根瓦を焼いた松田町庶子にあった、”からさわののぼり窯”です。昭和四十三年東名高速道路新設工事の際発見されましたが、再び五十七年より、上り三車線の高速道路拡張工事のため取りこわされることになりました。こののぼり窯は町の指定文化財であるので再調査したところ四基発掘されました。神奈川県内でも大変珍しいのぼり窯であり永く保存したいという願いから道路公団の協力を得て第三号窯を移築したものです。一番下の所は焚口で燃料を燃やすところです(おそらく松の木が多く使われたと思われます)。奥の方は階段になっていて、九段あり、そこに瓦を置いて焼いたわけです。中央の天井の部分は、自然にくずれ落ちたものですが、中が見えるように修復はいたしません。一番上には穴があり煙突の役目を果たしたと思われます。全体の長さは約七メートル幅は約二メートルです。のぼっていく角度は四十五度位あります。窯の規模からして一回に屋根瓦を百五十枚から二百枚位は焼くことが出来たと思われます。この窯跡から発見された瓦と同じ瓦がここから約八キロメートル離れた小田原市千代の奈良時代に建てられたという廃寺の跡から発見されているので、その寺をつくる時の屋根瓦をからさわで焼いたことがわかります。運搬するには舟で酒匂川を利用したと思われます。 発掘された遺物は松田町教育委員会に保存されています。 昭和六十二年八月 松田町教育委員会 東海自動車道改築 松田町内遺跡調査会一番下の焚口窯の全体の長さは約七メートル、幅は約二メートルで、のぼっていく角度は四十五度位ある。最明寺史跡公園案内図■ 最明寺跡 人里はなれた山中で、密教の奥義を追求した真言宗の名刹として、鎌倉時代の承久三年(西 暦1221年) 松田郷を治めていた大庭平太景義がこの地に招いた源延という僧侶が、現在地 に建立したものである(当時は西明寺)。 その後、文明元年(西暦1469年) となりの大井町金子に移転しており(現最明寺)なぜ移転し たかなど謎も多い。 毎年4月10日には、庶子地区の信徒により「施餓鬼会(せがきえ)」(供養の行事) が盛大に 行なわれ、極めて仏縁の深い地である。最明寺史跡公園この日は誰もいなかったが、春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはサクラの木に囲まれ、水面を草花や樹木が彩る場である。現在は落葉していたが、毎年4月上旬になると「ソメイヨシノ」や「花桃」などたくさんの春の花が咲き乱れる、知る人ぞ知る花見の名所であると。野鳥がさえずる散策路を歩き池をひとめぐりすれば、心が解き放たれるような不思議さを覚えます。斜面を上がって行くと富士山や相模湾も見渡せますと。池の左側の一段高いところに石碑が建っていた。広場の隅に木柱が立っていた。池の周りにはいろんなサクラがありまた訪れたい地である。木柱には「最明寺護摩堂跡」。四阿の下に石碑。法要の営まれる4月はサクラが見頃を迎え、毎年4月10日に「最明寺例祭」が行われる。最 (西) 明寺跡の由来伊豆山の別当浄蓮上人源延は、夢のお告げを受け、信州善光寺の一光三尊善光寺如来の尊像を模写して越前の仏師海縄にたのんで金銅の仏像を鋳造して承久三年(1221)松田の郷庶子山に安置し、寺を西明寺といった。源延は源頼朝の重臣加藤左衛門尉実長斎といい、出家して、天台の澄憲の門に学び、のちに伊豆山の別当となって活躍した。第二位覚阿上人円浄の時に最明寺入道北条時頼は、善光寺如来を深く信仰し、寺領一千五百石を寄進したので、この時寺門は隆盛であったと伝える。応仁・文明の戦乱のため、最明寺は次第に衰えた。文明年間、鎌倉八正寺宮尊賢親王は、弟子の賢昌を住持として寺の復興を計ったが、山道険しく、人ともに困難であるため、寺を金子の郷に移した。庶子山西明寺の田地は、庶子村の信徒にまもられ、数百年の間、毎年四月十日の 施餓鬼会と善光寺如来の戸ごとの巡行供養が行われてきた。その後、松田町庶子戸主会、現在の庶子自治会が継承して昭和の今日に至っている。 昭和六十三年十月吉日 松田町教育委員会一段高いところに石仏が並んでいた。正面からズームアップ。池の西側奥には「鐘楼跡」があるのだが誰もいないので今回はスルー。池の周りにはいろんなサクラが植えられており「鬱金 (うこん)」と。池の西側から管理事務所を望む。登山道入口に建つ説明板には ”松田町地域水源林整備事業”神奈川県全体の水源となっている酒匂川水域を保全するため、その上流域に位置する松田町松田惣領・松田庶子地区及び寄地区の町有林を整備しました。当町の将来目指す人工林の姿は、神奈川県の進めている「かながわ森林再生50年構想」との足並みをそろえながら、林道等から近い森林については木材循環を考慮した健全な人工林に、林道等から遠い森林については、針広混交林へ導いていきます。また、広葉樹林については、地域特性を活かし、里山の再生をめざした森林の整備を実施していきます。松田町寄自然休養村案内板松田町ではこの案内板がいたるところで立っている。ヤマビル注意の看板ヤマビルには毒はありませんが、血が止まりにくくなることがあります。塩や虫除けスプレーなどで対策をしましょう。 松田町観光経済課右上に上っていくと先程行った「田代橋」へと至る。池の水は渇水期に。早咲きのサクラが一部咲いていた。ズームアップ。更にズームアップするがサクラの名は。河津桜であろうか。名札があったが「○○桜」。蕾が膨らんでいた。2月にはいろんな花が咲くのではと思いながら。14:15春の花が咲く時期に再度訪れたいものです。 ー 続く ー
2024.01.28
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曹洞宗 福昌院へ参拝後、寄地区の南地域にある庚申塔、道祖神を巡ることに。1月18日(木) 12:10県道710号線(神縄神山線)を南下、バス停「田代向」を右折。石碑があったので道路脇に車を停めた。石碑には「祈交通安全」と。県道710号線(神縄神山線)の、バス停「田代向」を振り返る。こちらの石碑には「寄賛歌 作詞 山本博」一、ふきの芽ふ吹く西丹沢 鳥風涼しわらび狩り 目高住む里中津川 休養村はこゝに在り二、ます捕って水あじ面白く 濃紺のもと○○○ 遊び楽しむ時は今 田代向いは夢多し三、夕陽は映える山○○ 入相・・・・・・・四、木枯し去って○○の ・・・・・・五、人生乃うち四十〇 寄と共に栄えたり ・・・・・・・昭和五十七年五月五日 山本博 建之この後訪れる ”寺社史蹟巡り” 。右側の矢印(黄色)から西へ進み、赤星の”道祖神”、左側の赤丸の”龍王寺”を訪れる。中津川にかかる”田代橋”を渡るといろんな案内板が立っていた。この後訪れる道祖神はカーナビでは右側の道を案内。道案内で右方向に、・最明寺史跡公園ハイキングコース・・・・・この地区の散策後行くことに、私は車だが。・宮地山ハイキングコース・シダンゴ山ハイキングコース・丹沢学舎松田町寄自然休養村案内板現在地は中央下の赤矢印。田代公衆トイレ所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄田代橋を渡るとある公衆トイレ。ハイキングコースが多々あるのでハイカーのために設置か。田代橋の上流側の親柱(西側)の側面には「たしろばし」。中津川の上流には ”松田町寄ロウバイ園” が見えていた。親柱の上面には「町の木 ナンテン」。下流側には「町の花 コスモス」。田代橋から坂道を上ると直ぐ右側に”高根神社”。裏側に駐車場があり駐車。高根神社所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄一間四方の小さな神社であったが説明板がなく詳細は不詳。社の扁額「高根神社」。隙間から内陣を望む。内部には椅子等が置かれていた。寄宮地下単身道祖神・庚申塔所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄5240道路脇に建っており正月明けであったためか綺麗に整備されていた。三猿の彫り物も。田代橋の袂に ”聖心丹沢学舎” の道案内があり狭い道を登り訪れたが。所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄5910途中にも ”丹沢学舎” の案内板があったが学舎らしきものはなくこの碑のみ。門扉らしきものに「聖心丹沢学舎」と。帰宅後ネットで調べると「2020年4月末をもちまして聖心丹沢学舎を閉館いたします。」と。丹沢学舎は平成3年(1991)3月に丹沢山系の豊かな自然の中で、聖心姉妹校の児童・生徒・学生が、オリエンテーション、校外学習、自然教室、各種研修、ゼミナール合宿、クラブ活動などを仲間と共に過ごし学ぶ場として、開設された。聖心丹沢学舎から狭い道を折り返し次に訪れたのが ”双体道祖神”。カーナビで進み道祖神は道路下にあった。途中でユーターンして道路脇に駐車。寄宮地上双体道祖神(道祖神の祠)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄5088登って来た道を振り返る。民家は傾斜地に建っており玉石で土留めされていた。道祖神は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。後には縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどがある。ここの双体道祖神廻りも綺麗に整備されていた。他にも石像があったが説明板がないので詳細は不祥。社の中に双体道祖神。沢の下から見上げる。道祖神傍の玉石の石垣には「宮地山、シダンゴ山」の道案内。次に訪れたのが、聖心丹沢学舎傍にあった ”堅牢地神と祠”。カーナビの案内で祠前を通り過ぎ道路脇に駐車。ここから100メートル程戻ると”聖心丹沢学舎跡”がある。堅牢地神と祠所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄83道路整備の際に移転されたのであろう石垣の上に祀られていた。石碑には「堅牢地神」と刻まれ、祠は風化していた。次の目的地は「龍王寺」。前方は ”タケ山” でタケ山展望台があり、真鶴半島、大島、江の島、富士山が眺望できると。カーナビの案内で山道を進み石垣に目的地の「曹洞宗 龍王寺」。12:55この右側の坂道を上り龍王寺の境内へ駐車。曹洞宗 日向山 龍王寺所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄6410地名は寄(やどりき)だが、かつては「虫沢(むしざわ)地区」。龍王寺本堂へは歴史を感じさせる石段を上る。階段横には石祠。消火栓も。階段の右側に苔むした大きな石碑があった。文字が刻まれていたが判読できなかった。右側には「南無阿彌陀佛」と刻まれ、左側には「仏が刻まれ、文字」も。龍王寺本堂ここへ来る前に参拝した”曹洞宗少林山福昌院”の末寺である。福昌院の由緒に書かれていた。本堂の扁額「龍王禅寺」。本堂前から境内を見下ろす。本堂に向かって六地蔵が立つ。境内に聳えるコウヤマキ。後方の山はハイキングコースの ”宮地山” 、”タコチバ山” であろうか。コウヤマツをズームアップ。手水舎、石碑には「龍王寺御和讃」。龍王寺御和讃 作詞 古谷 勇 作曲 平賀康雄 ”福昌院の第29世住職” では。一、観音坂を下りきて 堂の坂をば登りなば 迎えたもうは六地蔵 日向の山の龍王寺二、雨風耐えて幾年や 情は深き里人の 集い語らう道場ぞ 古き御寺の龍王寺三、八坂長坂長寿橋 湧きいずる水清らかに 蛙飛び交い蛍舞う 美峰の里の龍王寺 平成四年一月吉日 施主 沖 古谷勇この辺りの観光地は他に ”五大しだれ桜” がある。虫沢のしだれ桜 (五大しだれ桜)龍王寺から徒歩20分ほどの高台の民家の庭にある大きなしだれ桜で、廻りは畑等に囲まれており、のどかな春の風情を満喫できる(写真等はネットから)。13:05寄地区の史蹟巡りはここで一応終わり、まだ時間があり次の目的地をスマホで検索。ヒットした目的地は、約15キロ離れ、所要時間30分の「最明寺史跡公園」。カーナビの案内は、一旦、国道246号へ戻り大廻りして再度山道を登るルート。健脚者にはハイキングコースになっている。寄(やどりき)地区には他にも多くの道祖神、馬頭観世音があったようだが。次回サクラの時期に訪れたい。 ー 続く ー
2024.01.27
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寄神社(弥勒神社)から県道710号線(神縄神山線)を南下して次の目的地へ。1月18日(木) 11:50県道710号線(神縄神山線)沿いに建つ案内板には「曹洞宗 少林山 福昌院」。曹洞宗 福昌院 (ふくしょういん)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄1781福昌院は約480年前の戦国時代に開山された曹洞宗(禅宗)の寺院である。門前には歴史を感じさせる石碑が並んでいた。苔むしていて判読できなかったが。入口の石柱には「不許葷酒入山門」と。座禅会の案内も「一月二十一日(日)午後二時」。参道の先に石段、山門が見えていた。車は参道を下り境内へ駐車。掲示板には ”ご自由にお寺の境内を散策して下さい。「今日もまた 喜びの心で ときめく心で 感謝の心で 思いやりの心で 過ごしていよう いいこと必ず 起きてくる」。参道脇に蘇鉄の雄であろうかむっくりと。河戸川(かわどがわ)に架かる少林橋。山門下から西方向の県道を望む。苔むした石段の先に山門。右側に入ると駐車場があった。歴史を感じさせる苔むした階段。鎌倉では立入禁止のお寺もあるが。銅板葺きに改修された山門江戸時代中期に建立された山門は寄地区で現存する最古の木造建築といわれている。山門の下にはベンチが数台置かれていた。山門の扁額「少林山」。山門には「曹洞宗 福昌院」の表札。山門を入ると正面奥に本堂福昌院は江戸末期には寺子屋、明治初期には寄小学校の前身としての役割も担い、昭和の戦時中には多くの疎開児童も受入れる等、寄の地域社会とあゆみを共にしてきた。丁寧に掃き清められた境内に立つと、長い歴史を深く感じると。本堂前の掲示板には、これからの人生に参考になるお言葉が、人は「もう遅い」と。仏教徒の日々の四つの誓い「四弘誓願」衆生無辺誓願度 全ての人々の苦しみ悩みが解消され幸せになりますように煩悩無尽誓願断 尽きることのない欲望が断ち切れますように法門無量誓願学 人生で知るべきことをできるだけ学べますように仏道無上誓願成 この上無い真実の道を達成できますように手水は銅製の龍の口から。ズームアップ。新しい台座の上には、庚申塔、石仏が並んでいた。山門を振り返る。本堂の扁額「少林山」本堂の引戸を開け内陣を見る。左奥にも祭壇。本堂前に聳えていたコウヤマキ (高野槇)。コウヤマキを見上げる。本堂に隣接して右側に「寺務所」。入口上には「一〇居」。少林山福昌院由緒当山は今を去る約四百五十年前、戦国時代の天文年間に、波多野庄大住郡堀山下村の蔵林寺第二世、天宥宗高大和尚によって開山された禅刹である (蔵林寺の末寺十四ヵ寺中、第二番目の創建)。宗旨は曹洞宗、ご本尊は聖観世音菩薩であるが相模国風土記稿によれば、江戸時代後期においては十一面観世音菩薩であったという。いつ頃いまのものに変わったかは不明である。開基 (寺建立の発願及び出資者) は廣徳院霊山全海大姉並びに祖岳實雄尼首座という女性であって、詳細は不明であるが近隣の豪族の内室および息女であろうと推察される。本堂は寛政七年に当山十七世活山禅長大和尚によって再建、その後何度か改修され現在に至る。又、延享年間に建立された山門は、当寄地区最古の木造建築である。江戸末期には寺小屋、更に明治初期には寄小学校の前身、旧柳川村の誠意館支校としての役割も担った。また昭和の戦時中には横浜の疎開児童を受け入れ、寄に宿泊施設の無かった近時には外部からの公務職員等の下宿所ともなり当寺は地域社会とあゆみを共にしてきた。往時に境内にあったという薬師堂内の厨子 (中に薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将を奉安) は現在本堂内にうつされておりさらに、江戸末期に当寺に合併された旧大寺村の大慈院本尊、馬頭観世音菩薩、そして釈迦如来、阿弥陀如来他の諸仏が安置されている。末寺に秋田県大館市の源守院、虫沢の龍王寺の二寺がある。尚、当山では年間を通じて諸行事を行うが、古来からのものとしては、毎年十一月十六日の宵に火伏の守護神、秋葉三尺坊大権現の例祭を厳修している。 平成元年五月吉日 当山二十九世黙應康雄誌す境内に建つ「聖観世音菩薩像」。後方には丹沢の山並み。観音様の功徳観音経に「観音妙智力 能救世間苦」「十方諸国土 無刹不現身」とある様に、観音様はいつでも、どんな所でも人々の願いに応じて三十三身 (様々な形) に身を変えて現れ、我々衆生を救って下さいます。また別名、施無畏 (おそれ無きを施す) 菩薩とも呼ばれる様に、無心、切実な気持で祈る人々の、心の中の不安や恐怖の念をすみやかに取り除き、生きる喜び、元気、勇気を与えて下さいます。まず今ある幸せにあらためて感謝し、あとは全てを観音様にお任せし、無心に南無観世音菩薩と唱えてお参り下さい。 当山廿九世住持 黙應康雄 謹白奉安 大慈悲聖観世音菩薩世界平和とみんなの幸せを祈願する 十句観音経百遍読経会のお知らせ今、世界中のいたるところで戦争や地震、洪水、干ばつ等自然大災害がひん発し、他、様々な不幸により多くの人々が悲惨で不安な生活状況にあります。この様な時、世界平和及び人々の幸せを真剣に祈ることが私達各人にとって、ますます必要な時代となっています。切実な祈りや言葉というのは決して無力ではなく、悪い状況を良い方向に変える力を確実に持っています。当山では、毎月十八日午前九時より、境内安置の大慈悲聖観世音菩薩 (ありがとう観音) の前で「世界平和とみんなの幸せを祈願する十句観音経百遍読経会」を行なっています。是非多くの方々のご参加をいただきたくお知らせ申し上げます。 福昌院住職 平賀康雄 合掌本堂左側 (北方向) に墓地。本堂裏に鳥居秋葉大権現下社本殿秋葉大権現下社本殿建立経緯詳らかには秋葉三尺坊威徳大権現と称する。静岡県袋井市の可睡斎を秋葉総本殿として仰ぎ、特に火伏せ (火災防止)、又家内安全、病苦消滅、生業満足等の霊験あらたかな権現 (仏の化身) として全国規模の信仰を集めている。当山においては江戸時代の享和三年 (1803)、十七世活山大和尚が少林山中腹に石祠を建立、勧請し、以後連綿として有縁日十一月十六日の宵に、地元弥勒寺地区のお日持ちとして例祭が行われてきた。ただ石祠は急峻な山中にあって一般人が参拝するには、はなはだ困難をきたした事から、以前より境内地への社殿建立が切望されていた。この度ようやく機が熟し、寄内各地区他の篤信者の積極的な浄財寄進により、山の麓のお参りしやすい此の地を選んで新たに下社本殿として建立がなされ、旧来の石祠は奥の院として祀られる事となった次第である。これを機に、今後はより多方面の人々の帰依参拝がなされ、その功徳が広く満ち渡る事を念願するものである。 平成十八年九月吉祥日 当山廿九世住持 黙應康雄 謹白鳥居の扁額「秋葉大権現」。秋葉大権現下社本殿を正面から。秋葉大権現下社本殿の後方から西方向を望む。秋葉大権現下社本殿の傍の建屋の軒下に、直径が50センチはあったかスズメバチの巣。この時期ハチは飛びまわってはいなかったが。境内の奥には竹林が広がっていた。塀際に ”六地蔵”。境内に山茶花が咲いていた。境内の隅に新しい石碑。寄小学校発祥の地「寄小学校発祥の地」記念碑建立の経緯と沿革 (建立の経緯)当福昌院には江戸時代後期より庶民の教育機関である寺小屋が開かれており、そのなごりの学習用の小机や筆子塚 (寺小屋師匠の為の供養塔) も現存している。明治五年に学制が発布され、全国に小学校の設置が義務づけられるとその旧来の寺小屋を受け継ぐようにして、明治六年福昌院内に第106番誠意館支校が開設された。その後寄村立小学校寄学校と改称してから数年後には校舎を現在の地に新設して移転がなされ、以降幾多の学制改革や校名改称等の変遷を経て、今日の寄小学校に至る。小学校が開設されてから偶々百四十年の星霜を数える本年、それらの記憶、記録の散逸することを危惧し、ここに当福昌院の寄の地に於ける近代教育の出発点の地、即ち寄小学校発祥の地なることを永く人々の記憶に留むべく、この碑を建立するものである。 維時 平成二十五年十二月吉日 当山二十九世 黙應康雄 代 (沿 革)(当福昌院に於ける沿革)・文政 四年 (1821年) 寺小屋師匠、禅山徳牛(福昌院十八世住職)没 ・ (中略)・明治十五年 (1882年) 寄村立小学校寄学校と改称(現在地へ移転以降の沿革)・明治十八年 (1885年) 現在の小学校の地に弥勒神社(現寄神社)の武徳殿の舞台を移転して 新たな校舎(間口八間ほど)を建築 ・ (中略) ・昭和二十三年(1948年) 新制寄村立小中学校(六・三制)発足・昭和三十年 (1955年) 松田町立寄小中学校と改称 寄進者 田中光代殿境内には手水舎、聖観世音菩薩像、本堂、コウヤマキが聳える。現住職のご尽力であろうか境内は説明板も設置され綺麗に整備されていた。境内の南側には庭園も整備。12:05境内の石碑には ”二十九世黙應(平賀)康雄” の名が多くあったが現在の住職であろうか。この後は、寄地区の南地域にある庚申塔、道祖神を巡ることに。 ー 続く ー
2024.01.26
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"松田町寄(やどりき)ロウバイまつり" 会場の駐車場(無理)に車を置き散策。1月18日(木) 11:00寄自然休養村管理センター所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄3415電車・バスでのアクセスは小田急線「新松田駅」またはJR御殿場線「松田駅」下車、小田急線「新松田駅」前より富士急行湘南バス「寄(やどりき)」行きで終点「寄」下車、徒歩1分。パンフレットを頂きに管理センターへ立ち寄ることに。寄自然休養村管理センター前にあるオブジェ。寄自然休養村管理センター受付管理センターは寄地区の観光に関するパンフレットを扱うほか、「寄テニスコート」「みやま運動公園」などのスポーツ施設の予約、手続き、受付を行っている。また、宿泊施設と食堂が併設されており、地元のとれたて野菜や手作り品などの販売も行っている。2階が宿泊施設になっている。壁面に飾られていた「寄五大しだれ桜」の写真。今年はこれらの撮影に訪れたい。土佐原のしだれ桜ショーケースの中には「松田町特産品」「農とアート」。”松田町特産品” のショーケースの中には、パネルで紹介。① 丹沢大山茶② 松みどり 創業約200年の老舗の酒蔵である中沢酒造では、昔ながらの麹造りから始まり、・・・。③ やどりき 森のおにく 関東最大級のドッグラン「寄七つ星ドッグラン」に併設したカフェで人気のワンちゃん メニューです。④ とん漬 昭和2年創業、3代続く伝統の味、厳選されたこだわりの国産豚ロース肉。⑤ さくら鱒の燻製 寄清流マス釣り場において養殖された身がピンク色のさくら鱒を燻製にした。⑥ おひるねみかんジュース 松田山の耕作放棄地を”おひるね”していると見立て、その農地で育てた農薬不使用のみかん を利用して作る果汁100%ジュースです。⑦ 乾燥きくらげ 丹沢山地の南麓、松田町。その中でも自然豊かな寄地域で丁寧に栽培しています。寄自然休養村管理センターの前庭では ”みつまた” が咲いていた。みつまたみつまた(三椏・三又)ジンチョウゲ科の落葉低木。中国原産。繊維植物として日本の暖地に栽培。高さ約2メートル、枝は三つに分かれる。葉は長楕円形。晩秋、落葉して枝ごとに一団の蕾をつけ、春、葉に先だって匂いのある黄色の筒型小花を総状につける。樹の靭皮繊維をとって和紙の原料とする。漢名、黄端香。 令和2年1月吉日 総状(そうじょう)・・・ふさのかたち。ふさの状態。 靭皮(じんぴ) ・・・茎の周辺からとれる繊維。 松田町観光経済課観光推進係 虫沢古道を守る会 春、葉に先だって匂いのある黄色の筒型小花を総状につけるとあったがまだ白い。匂いがしていたか?11:20寄自然休養村管理センター前駐車場約3時間の寄ロウバイ周辺の散策を終え、Googleマップで調べていた下流側の寺社史蹟巡りへ。カーナビを近くにある「寄神社」に。県道710号線(神縄神山線)を南下、駐車場がわからず行きすぎて折り返す。正面にひときわ目立つ「かながわの名木100選 ”寄神社の大スギ”」が聳えている。寄神社 (弥勒神社)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄2537寄神社(やどりきじんじゃ)は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれた禅刹。1192年(建久3年)8月9日、源頼朝は相模国の神社仏閣27ヶ所に妻北条政子の安産祈願のため、弥勒寺に神馬を奉納している。江戸時代には弥勒堂と呼ばれ、総鎮守の格式を誇っていた。明治の神仏分離により弥勒神社と改称。その後、寄村内各社の祭神を合祀し、文字通りの総鎮守となった。3月の例祭に行われる「祭囃子」は、松田町の無形文化財に指定されている。県道710号線沿いには「弥勒寺(みろくじ)」と書かれた道路標識が立っていた。地名の弥勒寺は明治時代に近隣7村が合併して寄村になった。道路沿いの銅製の鳥居を潜り境内へ。鳥居の扁額「寄神社」。境内に車を停め振り返る。神社前から南下する県道710号線(神縄神山線)。大スギの下には石碑、説明板が立っていた。神奈川県かながわの名木100選 昭和59年12月選定 寄神社の大スギ 和名:スギ(スギ科)いくつかの太い枝が四方に大きく広がり、典型的な スギの樹形とはやや異なった姿をしている古木である。 松田町の天然記念物に指定されている 樹高 30メートル 胸高周囲 6.4メートル 樹齢 約500年(推定)スギは、本州から九州に広く分布する常緑高木で、神社などに植えられるほか、造林樹林として多く用いられる。樹高60メートル、胸高周囲15メートル、樹齢約3000年するものもあると言われている。こちらの傾いた石碑には「堅牢地神 (けんろうじしん)」と。大 杉 昭和四十六年四月一日 松田町文化財指定寄神社社頭にあり目通り周囲5.87m、樹高約33.0m、推定樹令550年、地上12mのところでいくつかの太枝に分岐し四方に大きく広がっている姿は、堂々として迫力があり、昭和六十二年に神奈川の名木100選に選ばれた。昔は現診療所際のカヤの木と神社石段、左側の欅と、この大杉とを宮下三大木と称せられた。残存の一本とは言え、千年のみどりをたたえ、樹勢ますます旺盛なところにあやかって寄小学校、中学校校歌及び応援歌の一節に歌われる名木である。 松田町教育委員会神社入口はバス停で「富士急 支所前 新松田駅方面」。バス停前にふたつの石碑。右側の石碑には「招忠魂」と。足柄上郡寄村中津川〇由五郎○○氏明治廿八年征清之役應召集入・・・・・以下苔むして判読できず。 明治三十四年四月左側の石碑には「忠魂碑」と。鳥居を潜り山門下へ。右奥に石碑。右奥に石碑。右側は寄小学校裏。こちらの石碑も風化等で判読できなかった。山門に納められていた「わら」。ロープが張られ「令和六年 (2024) しめ縄用 寄神社」と。山門から鳥居を見下ろす。山門から境内を望む。境内の社殿前左側には頂部が新芽のイチョウの木。社殿は前身が弥勒寺であるためか、窓が花頭窓(かとうまど)である。拝殿の扁額には「奉納 寄神社 昭和十年三月五日 和田治三郎」と。拝殿内の壁面にはいろんな彫刻が彫られ飾られていた。また、小さなお神輿も置かれていた。拝殿内の扁額は「弥勒神社」。扁額の下の彫刻は波に亀であった。拝殿の奥内陣を望む。そこにも「弥勒神社」と書かれた扁額。祭りの時の写真も飾られていた。拝殿前から境内を見下ろす。提灯には「平成三十年度 寄贈 寄自治会長会」と。境内の右側から社殿を見る。拝殿前右側にあった石碑には、寄神社由緒等が刻まれているようだが判読が困難。多くの御祭神が刻まれているようだ。弥勒大神(みろくのおおかみ) 保食神(うけもちのかみ)稲倉魂命(うかのみたまのみこと) 大山祇命(おおやまつみのみこと)子大神(ねのおおかみ) 御嶽大神(おんたけおおかみ)猿田彦神(さだひこのかみ) 大物主神(おおものぬしのかみ)天照大日・命(あまてらすおおひるめのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)素盞嗚命(すさのおのみこと) 日本武命(やまとたけるのみこと)速玉男命(はやたまおのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと)菅原道真(すがわらみちざね) 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)天之常立命(あめのとこたちのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと)以下は判読不可能でスルー。頂部が枯れた大銀杏。大銀杏の根本には「安産祈願」と。枯れた木の祠の中には双体道祖神。安産祈願で缶ビールが供えられていたが。大銀杏 目通り周囲 6.25m、樹高 5m、推定樹齢約 七百年。建久三年(1192年)八月九日、時の鎌倉幕府将軍源頼朝の正室政子御台所安産祈願の為、相模の二十数社寺に特使を参拝させた(歴史書吾妻鏡に記載)とあるが、当寄神社(当時は弥勒寺という寺院であった)もその中に含まれる。その折、記念の為本銀杏を植樹されたもの(樹齢からして疑問もあるが)と古来伝えられる。江戸時代後期の文政六年(1823年)、旅人の焚火による堂宇焼失の際、本銀杏も一部類焼失したが、再び樹勢を取り戻し、神木としての威容を保っていた。しかしながら、惜しくも平成二十五年(2013年)十月、台風二十六号の強風、強雨により根元より倒木した。倒木前は、樹高30m、枝張12mほどもあり、古き歴史を物語る地域のシンボルであった。この由緒ある巨木を失うことは忍びがたく、地域の多くの人々の大銀杏再生の願いにより、直ちに幹の上部を大幅に切りつめ、根本に適正な処置を施し、元の場所に植え直された。その後は何とか枝葉の緑も保たれ、現在に至っている。 松田町教育委員会後方から御神木の大銀杏。二度の災難にもめげず旺盛に成長している。境内から坂を下り車を停めている鳥居前へ。この先左上に ”松田町立寄小学校” があるので立ち寄ることに。紙垂がぶら下がる大スギの先を左折して坂を上り ”松田町立寄小学校” の正門へ。フェンスの横断幕には、「輝く歴史と伝統のある寄小学校! 未来に はばたく寄っこ! 祝 創立150周年 寄小学校 明治6(1873) 年7月15日開校 寄贈 寄地○○○」。我もまた住まはやとしもおもふかな みやまのおくのやとりきのさと 昭和五十四年八月十八日 文部大臣内藤誉三郎書 明治二十六年五月初旬、時の文部大臣井上毅氏は交通極めて不便であった寄村を巡視され、 寄木村は戸数二百八十 一村挙りて親族のごとく村長をば 親父と呼び 吉凶相訪ひ 忠難 相齋ひ訴訟なく盗賊なく はた租に不納なくさながら太古の民のごとし。村長安東氏は、 また村民を視ること我が子のごとく 村の利益を視ること我が家の利益よりも篤く。名主 と呼びし時より今日に至るまで四十余年一日のごとく上下相忘るゝありさまは 真に自治 の村とぞいうべき (梧陰存稿より)といたく感嘆されてこのように詠じられた。爾来幾星霜昭和四十八年寄地区が国より自然休養村の指定を受け豊かな大自然の景観を活かした発展を期して進むべき時往時を偲び人間性豊かな地区づくりを念じてこの碑を建立するものである。 昭和五十五年三月吉日 寄地区振興協議会 建之松田町立寄小学校所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄2540寄神社前から坂を上ると左側の門柱に「松田町立寄小学校」、右側に「松田町立寄中学校」と。校庭には小学生が動き回っていた。校庭の南側の校舎には「松田町立寄中学校」と。ネットで見ると閉校とあったが。11:45校庭の北側の校舎は「松田町立寄小学校」。 ー 続く ー
2024.01.25
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松田町寄ロウバイ園の散策を終え、休憩がてら”豚汁”を食べに。1月18日(木) 10:10やどりきかあさんの店地域のみなさんが営業しているのか店名が良い。おふくろの味か・・・。まだ時間が早いのかメニューでは準備中のものも。オーダーは『寄野菜たっぷり豚汁』。限定10食!500円は準備中。最初のお客さんであったのか待つこと10分。豚汁 500円 6年前はお椀で300円であったが、また量も多かった。店内ではコロナの関係もあり屋外で頂いたが、できればロウバイの下にテーブルが欲しかった。お母さんとの話しで「昨年のまつりの来場者は2万人だった」と。6年前に比べ倍増!地元の農産物や加工品、お土産等を扱うお店が出店していた。ロウバイ染めの黄色いハンカチもあった。松田町寄ロウバイ園の順路起点。13 松田町寄ロウバイ園 Matsudamachi Yadoriki Roubaien"やどりきかあさんの店" の横から見下ろす。歩いて下山しようとしたがちょうど送迎車が来たので乗ることに。この日は天気が良く穏やかで多くの方が乗って来られた。送迎車のボデーには「寄ロウバイまつり 無料送迎車」と。テント下ではロウバイを一束500円で販売しておられた。ロウバイ園 入園料金大人(16歳以上) 一般 500円 団体(20名以上)300円狭く急な坂道を下る。寄自然休養村管理センター横のバス停送迎車は ”寄自然休養村管理センター” 横のバス停まで。今回の主目的「寄ロウバイ」の観賞を終えたのでこの後は、事前にGoogleマップで調べていた「足柄上郡の寺社史蹟巡り」へ行くことに。道路標識「県道 710 神奈川」「松田町寄」。宇津茂/大寺のしだれ桜 (寄五大しだれ桜)大寺橋から中津川の下流側を望む。ここから下流の中津川沿いには220本のしだれ桜が咲き誇る遊歩道になっている。大寺橋 (おおてらばし)橋の欄干には童謡「お馬」の鉄琴がはめ込んであり、順番に鳴らすと歌のメロディになり、童心にかえって歌を口ずさみたくなるような楽しい場所です。橋脚には町の花であるコスモスのイラストも描かれている。大寺橋は「かながわの橋100選」のひとつでもありますと。横には「平成元年二月竣工」と。橋の袂に植えられている ”宇津茂/大寺のしだれ桜”環境庁認定 ホタルの里 寄 (やどりき)・この川にはホタルがすんでいます。・ホタルやカワニナなどをとらないで下さい。・川をきれいに自然を守りましょう。・ホタルをみんなで育てましょう。寄自然休養村「ホタルを育てる会」河川標識には「二級河川 なかつ川 神奈川県」と。少々疲れた説明板には、寄ビオトープ案内図このビオトープ(自然生物園)には、寄に自生している植物が自然に近いかたちで生育しています。水辺にはトンボ、ホタルなどの幼虫のほか、いろいろな水棲生物が自然のまま生息できるように保全されています。ゲンジボタルとヘイケボタルの違い ゲンジボタル ヘイケボタル大 き さ オス 約15cm 約8cm メス 約20cm 約10cm光 り 方 ゆっくり点滅する チカチカ点滅する住 む 場 所 流れのある水路や小川 水田や池、沼見れる時期 5月~6月 6月~8月特 徴 群れをなして一斉に光る ゲンジボタルより広い環境に適応対岸に「ホタルの里」があり遊歩道が設置されていた。下流側から大寺橋を望む。護岸に ”宇津茂/大寺のしだれ桜”。右側に「魚道 (ぎょどう)」が設けられている。魚道 (ぎょどう)魚の遡行が妨げられる箇所で、遡行を助けるために川に設ける工作物である。河川の水量が少ないので水はすべて漁道に流れていた。宇津茂/大寺のしだれ桜 (寄五大しだれ桜)樹齢はまだ十数年か?説明板がなかったのが残念だが。大寺橋から下流を望む。左側のフェンス内は臨時駐車場の ”みやま運動広場”。橋を渡り事前にGoogleマップで調べていた「大寺観音堂」へ行くことに。東方向の傾斜地に”松田町寄ロウバイ園”を見上げる。大寺南中組双体道祖神所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄4615大寺橋の西側にある道祖神。道路脇に「大寺観音堂 180M」の案内板。電柱には「シダンゴ山」への案内板。シダンゴ山 (758.1m)シダンゴ山は頂上手前が少し急な登りですが、山頂からは素晴らしい眺望が広がります。360度開けており、丹沢の山々、富士山、相模湾を見渡せます。案内板もしっかりとあり、登山道も整備されていますと。10:46大寺地域集会施設屋根には太陽光パネルが設置されていた。入口に「大寺地域集会施設」の看板。時間は10時46分。大寺橋から坂道を上り民家の玉垣に「シダンゴ山 1時間10分」の案内板。 更に進むと「← 大寺観音堂 この先」、直進「シダンゴ山」と。先程の案内板から坂道を上ると、大寺観音堂所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄4590約200年前に再建された馬頭観音堂です。ご本尊の「馬頭観世音菩薩立像」は現在、福昌院に安置されています。毎年8月9日に四万八千日(しまんはっせんにち)という観音様の行事があり、50~60年前までは観音様に奉納する相撲大会が催され、遠方から見物客が大勢集まるとあって出店が並ぶ盛大なお祭りでした。今は行事を引き継いではいるものの、あいにく当時程の見物客はありません。それでもなお、観音堂は地元の人々のくらしに溶け込み、愛され親しまれていますと。坂を上って来たが民家の敷地にあるような感じであった。観音堂の横には湧水であろうか水がとうとうと流れていた。近くにはペットポトルも。能登半島にはこのような所はと思いながら・・・。拝殿の海老虹梁右側の木鼻の龍社殿の右奥から。そろそろ社殿は建て替え時期なっているようだったが。大寺観音堂を後にしたが、扁額、由来等の説明板はなかった。民家の庭先に咲いていたロウバイは満開。坂を下り大寺橋へ。11:00大寺橋を渡り東詰へ。次回はこのしだれ桜が咲く時期に訪れたいものだが。 ー 続く ー
2024.01.24
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”松田町寄ロウバイ園” から東側にある ”土佐原のしだれ桜” へ下りる。1月18日(木) 9:20寄展望台の東側谷あいにある”土佐原のしだれ桜”へ。ここから階段を下りしだれ桜へ。降り口に立つ案内板には、「土佐原しだれ桜 しだれ桜の星コース ⑭」。しだれ桜を見下ろす。階段を下ると小路に黄色いボール?見上げるとカリンの木。枝にはカリンの実が数個残っていた。9:25土佐原のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄3571宇津茂農道側に建つ民家の庭先に見事な桜の木がある。樹齢約250年とも言われる寄を代表する大きなしだれ桜である。斜面には茶畑。ロウバイとしだれ桜。ロウバイをズームアップ。寄(やどりき)しだれ桜まつり3月下旬から4月上旬にかけて開催される、寄地区の風物詩。毎年この時期は多くの花見客でに賑わう。主役は「寄五大しだれ桜」のひとつ、樹齢約250年とも言われる民家の庭先に聳える「土佐原のしだれ桜 (みやま淡彩桜)」。しだれ桜の根本には祠。満開時の写真 ”土佐原のしだれ桜”寄自然休養村管理センターに掲示されていた写真。”土佐原のしだれ桜”(写真はネットから)。土佐原のしだれ桜から下ると竹林。急な脇道沿いに竹林が広がっていた。土佐原のしだれ桜から階段を上り見下ろす。今年は松田町へ電話を入れ開花状況を確認して訪れたいものです。寄展望台近くのカーブミラーに映るオジン。9:35寄展望台へ戻る。ここからは富士は見えない。寄展望台から東方向の集落。山道を進むと「土佐原休憩施設」がありサクラが植えられている広場がある。寄展望台から見下ろすとロウバイの中で愛犬の写真撮影中。寄展望台から下山することに。前方の傾斜地は ”宝くじ桜植栽地” でサクラ開花時期が楽しみだが。下山のルートはロウバイ樹林の中を下ることに。この辺りのロウバイは見頃になっていた。ロウバイは部屋に飾ると、部屋中にしっかりとした甘い香りが広がります。見た目の美しさはもちろんのこと、アロマがわりとしても楽しめる、数少ない花の一つであると。花の咲き方がウメのごとし。以前6年前に来た時ロウバイの種子を持ち帰り庭に蒔いたが芽が出なかった。スタッフの方に聞くと「芽が出るまで6年はかかる」と。ロウバイの下の落ち葉はロウバイであろうか。ロウバイの根本が球形になっており新芽が徒長枝のようになっていた。別の木も球形に。ネットで調べると病気?。ロウバイの樹高は4メートル程で背をかがめてトンネルを下る。ローアングルから撮影。ロウバイの花言葉は、「慈愛」、「ゆかしさ」、「優しい心」、「先見」、「先導」です。雪が降るような寒い時期に咲く姿が奥ゆかしく、凛と古風な様に由来すると言われています。1月2日、1月21日の誕生花です。ここにも小学校の小さな椅子が並べられていた。ロウバイの木の中にウメの木。ウメの花も咲き始めていた。ウメの花をズームアップ。ロウバイを剪定するのに適した時期は11月〜3月にかけて。葉っぱが落ちてきたタイミングで、剪定をするとよい。基本的に葉枯れた枝や伸び過ぎた枝を切る程度でかまわないと。傾斜地を下るとロウバイの開花が遅れている。蝋梅と梅とのコラボ。ロウバイをズームアップ。ピントを奥のロウバイにあわせる。透き通るような花をズームアップ。みかんも食べ頃に。この辺りは入口エリアで5分咲き。松田町寄ロウバイ園入口に聳えるサクラ。ロウバイの増やし方は、種まきや挿し木で株を増やすことができます。種まきは最初から成長を楽しむことができ、挿し木は剪定した枝を再利用することができます。スタッフの方は「種を蒔いて6年」と。ロウバイの枝先。枝先をズームアップ。ズームアップ。枝には黒い種子が残る。10:10青空に映えるロウバイ。 ー 続く ー
2024.01.23
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"松田町寄(やどりき)ロウバイまつり" は、平成29年 (2017)、平成30年 (2018)に続いて6年ぶり3度目の訪問である。前回平成30年の時の「寄ロウバイ」👈 をクリック願います。ロウバイは漢字で「蠟梅」と書きます。名前の由来は中国名である「蝋梅(らーめい)」を日本語読みにしたという説や、色が蜜蝋に似ており花の香りが梅に似ているからという説などがありますと。1月18日(木) 8:40時間が早く送迎バスが運行されていなかったので急坂を歩いて会場へ。傾斜地には茶畑が広がっていた。北方向には丹沢の山並み。西方向の山並みはハイカーのハイキングコースになっている。茶畑に沿ってロウバイが植えられている。この辺りは ”入口エリア” で3分咲き。薄黄色のローバイをズームアップ。ロウバイはほのかな香りがするようだが、私の鼻には・・・。紅白の幕、のぼり旗が立つ、”松田町寄ロウバイ園”。右側に駐車場があったが、一般車両は進入禁止?。松田町寄ロウバイ園は平成17年(2005)に、寄中学校の卒業生が250本のロウバイを記念植樹したのが始まりで以降、地元の方々や、代々の卒業生が植樹して、現在は20,00本を超える。敷地面積 13,000㎡以上の日本最大級のロウバイ園である。会場入口には地元の人が運営する食堂、土産物店、地元野菜の販売をしている。以前来た時、豚汁300円を食べて美味しかったので後食することに。まだ準備中であった。のぼり旗には「さくら鱒 燻製」と。受付で入園料 500円を自販機で購入。ロウバイ園にはトイレ施設、仮設トイレもあった。6年前はロウバイまつりの訪問者は1万人と聞いていたが、昨年は2万人であったと。松田町寄ロウバイ園このロウバイ園は、寄地区の有志が荒廃地の再生を願い、改めて開墾した土地にナタネなどを播種していた場所に、平成17年度寄中学校卒業生が250本のロウバイを記念植樹したのが始まりです。その後、町立の施設として神奈川県の助成を受け、園内の整備を図るとともに、地元の方々や、代々の卒業生がロウバイを植樹してきました。現在は、ロウバイが1,500本を超えており、例年1月中旬から宇津茂ロウバイ部会が中心となって「寄ロウバイまつり」が開催されています。なお、この施設を整備することができましたことは、用地を無償で貸与されている地権者のご協力の賜物と深く感謝しております。 松田町園内の「→ 順路」案内に従って散策することに。パンフレットには約20,000本のロウバイの木が黄色い花を咲かせると。ロウバイは、クスノキ目ロウバイ科ロウバイ属に属する中国原産の落葉低木樹である。ロウバイの特徴ロウバイはまるでロウ細工のような黄色い花を咲かせ、開花期以外はあまり目立ちませんが、新春に香り高い花を咲かせる貴重な存在です。中国では、ウメ、スイセン、ツバキとともに、「雪中の四花」として尊ばれています。江戸時代初期に日本へ渡来し、ほかの花木に先駆けて咲く香りのよい花が愛され、生け花や茶花、庭木として利用されてきました。だが私の鼻には香りは・・・。和風、洋風どちらにも合い、同時期に開花するクリスマスローズを株元に植えたり、冬咲きのクレマチスと組み合わせたりして、冬の庭を楽しむことができますと。花の大きさは15ミリほどで枝に多くの花を持っている。ロウバイの花は内側の花弁が茶褐色ですが、一般に出回っているのは、すべての花弁が黄色の、ソシンロウバイやその園芸品種ですと。中津川沿いに ”みやま運動広場”、介護施設の ”特別養護老人ホーム レストフルヴィレッジ” を見下ろす。ズームアップ。サクラの咲く時期には中津川沿いのサクラ並木が素晴らしいのではと。イノシシ対策の金網も設置されていた。🐻は出るのか?。リュックに🐻除けの鈴を付け散策。散策路にはベンチも設置されていた。この辺りはまだ3分咲き。黒い実は種子。ロウバイは咲き終わるとツバキのようにポツンと落下していた。散策路には小学校の使用済みの椅子であろうか置かれていた。散策路は落葉で養生されていた。青空に映えるロウバイ。種子は落ちずに枝にぶら下がる。ニワトリの卵の如く連なるロウバイの花。ロウバイの樹高は4メートル程である。逆光を浴びるロウバイ。この辺りのロウバイは満開に。青空に映えるロウバイ。花の色が淡い黄色のため絨毯のようには。ズームアップ。更にズームアップ。散策路に掲示されていた看板には「ここは有料の寄ロウバイ園です」と。散策路に「← 寄展望台」「順路 →」。散策路のサクラ (河津桜?) の蕾が膨らんでいた。山の斜面を見上げるとサクラの木が植えられていた。坂道を上ると山の斜面に ”宝くじ桜植栽地” 。サクラの種類はソメイヨシノであろうか。サクラの木の根元に「平成十七年度 宝くじ桜植栽地」の石柱。見下ろすと ”みやま運動広場”、”特別養護老人ホーム レストフルヴィレッジ”。坂道を上ると「← 鍋割山方面」「土佐原のしだれ →」の案内板。9:15松田町寄ロウバイ園の最上部 ”寄展望台” へ到着。ロウバイ園の入口から約20分で展望台へ。広場にはベンチがひとつ置かれていた。寄展望台の横にはしだれ桜が植えられていた。右側は上って来た遊歩道で「← 鍋割山方面」の案内板があった。展望台から西側の ”松田町寄ロウバイ園” を見下ろす。松田町寄ロウバイ園の入口辺りをズームアップ。北西方向の斜面に広がるロウバイ。正面の山は標高758メートルの ”シダンゴ山” であろうか。南方向の斜面にはしだれ桜も植えられている。9:20寄展望台から見下ろすのんびりしたい空間である。右から、タコチバ山、宮地山であろうか。 ー 続く ー
2024.01.22
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新東名高速道路の新秦野料金所からカーナビに従って国道246号を西へ向かう。1月18日(木) 7:35新秦野料金所から国道246号へ向かって更に下る。この先は国道246号との立体交差工事で大変であったと。Googleマップから、中央上部が ”新秦野インタ” 、下の赤星印が ”新秦野料金所” 。左方向は、伊勢原方面、直進は ”松田 E1 東名” 方面。国道246号の上り線は渋滞中。左側下を小田急小田原線が走る。7:40カーナビの案内はここ ”寄 (やどりき) 入口交差点” を右折。寄(やどりき)入口交差点の先は”松田町”に。交差点の角にセブンーイレブン秦野菖蒲店があり、秦野市菖蒲。寄入口交差点から県道710号線(神縄神山線)の山道を北上。道路脇に「新東名高速道路をつくっています」の看板があり道路脇に停車。7:45新東名高速道路 松田事業PR館【予約制】所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄萱沼入口高松トンネルと中津川橋の工事について、建設現場を間近に見ながら解説をして頂ける。パネル展示や爆薬の模造品、トンネル部の岩石標本や橋梁建設のVR映像などもある。ただし、タイトル画像と入口の画像以外はネット掲載不可とのこと。見学時間は約1時間で、お土産にキーホルダーや缶バッジもいただきましたと。右側は県道710号線(神縄神山線)。”ようこそ 松田事業PR館へ”西側の山北町側にはもう1か所、”山北事業PR館” があり、一度訪れたい。建設中の新秦野IC─新御殿場ICの約25kmが完成すると、新東名は全線開通になります。新秦野IC─新御殿場ICの間には山北スマートIC、小山PA・小山スマートICを設置。秦野工事事務所の建設区間は、丹沢山地を抜けるため非常に急峻かつ狭隘な地形になっている。橋梁の数は12、トンネルは18。建設区間約23.9kmのうち、トンネルの総延長は約14.2km、橋梁約4.0km、土工約5.7kmで、約8割がトンネルおよび橋梁の構造物で構成されている。現在地は黄色丸の「松田事業PR館」。中津川橋の完成予想図 資料:NEXCO中日本橋長は上り線約268m、下り線約278mとなっており、右側が東京側。右側が県道710号線(神縄神山線)で以下の写真を赤星印から撮影。松田事業PR館の真下には、「高松トンネル」「中津川橋」の工事が展開されている。下り側の高松トンネル坑口が上り側のそれに比べて大きくなっている。中津川橋の本来の橋脚の基礎を施工するはずの岩盤が、破砕地盤で複数の非常にもろい地質によって構成されていたことが判明し、やむなく橋脚の基礎の位置を安定強固な位置へずらした結果、トンネルの中に橋台を設置する必要が出て、トンネルの開口部を大きくすることになったとのこと。新東名高速道路 中津川橋工事松田事業PR館は中津川東岸の渓谷を望む崖の上にあり、川を跨ぐ建設中の「中津川橋」と、対岸の山を貫く「高松トンネル」の工事現場を望むことができる。この未開通区間の開通見通しは、2020年度、2023年度、そして現在は2027年度と何度も繰り延べられてきたが、その主な要因だといえるのが高松トンネルの工事。関係者は、この区間が建設中の「最難関」と口を揃えます。2027年度中に開通の目処がたっていますと。松田事業PR館から県道710号線(神縄神山線)を更に北上。道路脇に「寄ロウバイまつり」の看板、道案内は「萱沼入口」、「小田原GC」。県道710号線(神縄神山線)を更に北上、正面に杉の木が聳えていた。寄神社(弥勒神社)前に聳える「かながわの名木100選 寄神社の大すぎ」。説明板があったので帰路に立ち寄ることに。 7:55松田町寄ロウバイまつり駐車場へ到着。寄自然休養村管理センター所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄3415管理センターは寄地区の観光に関するパンフレットを扱うほか、「寄テニスコート」「みやま運動公園」などのスポーツ施設の予約、手続き、受付を行っています。また、宿泊施設と食堂が併設されており、地元のとれたて野菜や手作り品などの販売も行っている。駐車場入口に「開 8:30 閉 16:00 最終入庫 15時30分」と。県道710号線(神縄神山線)を挟んで南側に駐車場がある。開門前でまだ閉鎖。駐車場の受付には、寄ロウバイ園 開花状況(1/16 時点)5分咲き・入口エリア 3分咲き・第2エリア 見頃臨時駐車場になっている「みやま運動広場」。遅い朝日が昇る、入り口に「16:00 完全閉鎖」と。第12回 松田町寄ロウバイまつり2024年1.13 (土) ▶ 2.12 (月・祝)開園時間:午前9時 ~ 午後4時 期間内無休場 所:松田町寄ロウバイ園 カーナビは「寄自然休養村管理センター」 神奈川県足柄上郡松田町寄3415 ☎ 0465-89-2960入 園 料 :大人(16歳以上)500円、団体割引(20人以上)300円お問合せ:松田町観光経済課 TEL 0465-83-1228駐車場・無料:最終入庫 15時30分(完全閉鎖 16時)スタッフの方に言われ、道路脇に車を停め開門を待つことに。2台目であった。案内板に「無料送迎車 乗り場」。松田町寄自然休養村案内板ここを拠点にハイキングコースがある。中津川沿いにはサクラが植えられており今年は訪れたい。中津川に架かる”大寺橋(おおてらばし)”。鹿猪之供養塔所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄3141大寺橋の東側に建っている供養塔で、鹿と猪のお墓である。丹沢の自然の奥深さが感じられる。鹿猪之供養塔大寺橋から ”松田町寄ロウバイ園” を見上げる。日本最大級2万本のロウバイ園である。松田町寄ロウバイ園をズームアップ。ロウバイは薄い黄色であるので、竹林の葉が目立つ。スタッフの方に聞くとここから坂道を歩いて10~15分であると。中津川の上流側。県道710号線(神縄神山線)を更に北上すると山道を抜け昨年11月に訪れた丹沢湖へと至る。奥の山は”鍋割山”であろうか。寄地区の中心を流れる「中津川」は、鍋割山を水源とする清流です。山のめぐみをたっぷりと含むせせらぎなど、豊かな自然が手つかずのまま残る場所としてファミリーに人気がある。下流側の大寺橋。春のさくら、夏の水遊び、秋の紅葉等、どの季節に訪れても気持ちのよい風景が楽しめ、とりわけ大寺橋から下流の春のさくらが見頃を迎える季節がおすすめですと。8:358時30分ちょうどに駐車場が開き駐車。無料送迎バスの運行がまだであったので歩いて登ることに。”松田町寄ロウバイ園”へはここから坂道を登る。道路脇に石碑と、社の中には壊れた石仏?。石碑には「町道拡巾記念碑」と。名 称 松田町道第6号線全 長 211M ?巾 員 4M起工年度 昭和46年度竣工年度 昭和48年度 3ヶ年継続事業下部には人名が刻まれていた。石碑の前から駐車場を見下ろす。県道から生活道路に入り急な坂道を登る。案内板には「徒歩の方はこの看板を目印に」と。民家の庭先に紅葉した葉。道を間違えないように角々に看板が立っていた。民家は急斜面に建てられているので土留めは玉石で。道幅が狭くところどころにすれ違い用のスペースが設けられている。この道を送迎用のマイクロバスが走る。のぼり旗には「松田町寄ロウバイまつり 松田町寄 宇津茂ロウバイ部会」。8:40更に坂道を登るとナンテンの実。アジサイの花もそのままでドライフラワーに。 ー 続く ー
2024.01.21
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天気予報でこの日の天気は良く温かいとのことで、”松田町寄(やどりぎ)のロウバイ” を主目的に、併せて”足柄上郡の寺社史蹟巡り”に愛車のノートで出かけた。”足柄上郡”は、神奈川県(相模国)の郡である。 人口 64,732人、面積 303.28km²、人口密度 213人/km²(2023年12月1日、推計人口)。現在は以下の5町で構成されている。 中井町 大井町 松田町 山北町 開成町。1月18日(木) 7:00久しぶりに早く起床し、自宅を6時45分に出発。いつもは湘南海岸を走るのだが、今回は高速道路を利用圏央道の寒川南インタから入ることに。新湘南バイパスの高架下を走る県道44号線(伊勢原藤沢線)を西へ向かう。圏央道の高架の先に笠雲の富士山が見えていた。7:10圏央道寒川南料金所新しく開通している新東名の伊勢原JCTから新秦野インタまで、まだ走っていないので今回利用することに。前日の天気予報では関西は天気が悪いが関東地方は晴れると。明日は天気が悪いのか富士には笠雲がかかっていた。残念ながらピンボケに。寒川南インタから北上、海老名南JCTの案内板。新東名高速道路新東名高速道路は海老名南JCT ~ 豊田東JCT間を結ぶ、延長約253kmの自動車専用道路。現在までに海老名南JCT ~ 新秦野IC間 (約21km)、新御殿場IC ~ 豊田東JCT間 (約207km)が開通済みで、残す工事現場は、新秦野IC ~ 新御殿場ICの約25kmである。当初は2020年度に全線開通の予定だったが、高松トンネルの工事などが難航し令和9年度 (2027年度) の開通を目指していると。新東名高速道路に入り馬入川上から右前方に笠雲がかかる富士山。左側には「厚木南 平塚 出口 1km」の道路標識。箱根の山並みもはっきりと。新東名の前方に富士。道路標識は「厚木南 平塚 出口」。厚木南インタからの高架橋。右前方には ”大山”。新東名の静岡県下は片側3車線になっているが神奈川県下は2車線と狭い。左側は厚木南インタからの車線。カーナビの案内は、伊勢原JCTから新東名高速道路を案内。伊勢原JCT左側は「東名高速道路 秦野中井 名古屋」方面。前方に大山が聳える。伊勢原JCTから先へ行くのは今回が初めてである。道路標識には「3⃣ 伊勢原大山 2km」と。" 3⃣ 伊勢原大山インタ” は、大山阿部利神社への大山ケーブル駅、日向薬師への拠点になる。道路標識には、ETC出口「3⃣-1 秦野丹沢 9km」 10分 「4⃣ 新秦野 12km」 15分前方は「高取山トンネル 3855m」。高取山トンネルの内部は片側2車線となっていた。トンネルは高取山を抜けており”東京カントリー俱楽部”がある。ネットで調べると完成時片側3車線とあったが計画変更か。高取山トンネルは上り線 (東京方面):3,855m、下り線 (名古屋方面):3,902m。高取山トンネルを出ると”秦野市”。道路標識には、ETC出口「秦野丹沢 4km」。前方は”羽根トンネル 2906m”。羽根トンネルの上には”秦野カントリークラブ”がある。前方は「羽根トンネル 2906m」。道路標識には「羽根トンネル 長さ 2906m」と。羽根トンネルも片側2車線。天井には「出口 1.4km」と照射。羽根トンネルの先には山並み。トンネルを出ると、”秦野丹沢スマートインタ” がある。トンネルを出た道路標識には、「1km先 秦野丹沢 3⃣-1 ETC出口」と。左側の車線は ”秦野丹沢スマートインタ” のETC出口。新東名高速道路が完成時には ”秦野丹沢サービスエリア” ができるようだ。前方は、新東名高速道路を横切る ”押立橋”。左側に”秦野丹沢スマートインタのETC出口”がある。この辺りの情報は以前訪れた時のブログ「秦野市の散策」👈 をクリック願います。左側は ”秦野丹沢スマートインタ” からの車線。橋に掛けられた横断幕には「ようこそ表丹沢へ」と。この辺りを水無川が流れており、上流に ”県立 秦野戸川公園” がある。戸川公園のランドマークである、高さ35m、長さ267mの「風の吊り橋」が見えた。前方は、丹沢公園松原町線(県道706号線)の”堀山下橋”。堀山下橋を右側へ進むと表丹沢、県立秦野戸川公園へ。スマートインタができたので便利に。道路標識には終点の「4⃣ 新秦野 2km」。この先の山には ”太平洋クラブ 相模コース” がある。トンネル手前の道路標識には「新秦野 松田 4⃣ 1.3km先」。道路標識には「小原トンネル 長さ 666m」。トンネル出口は車線が減少している。新秦野インタ出口。この先は令和9年度 (2027年度) の開通を目指していると。この先の山あいには ”小田原ゴルフ俱楽部 松田コース” がある。インタチェンジを出ると直ぐに料金所があるのだが、ここ新秦野インタは国道246号沿いにあるので山間部を約1.6km程南下する。新秦野インタからは長い坂になっている。冬場の気温が下がった時の道路凍結が怖い。7:35新秦野料金所所在地:神奈川県秦野市菖蒲寒川南インタからの料金は、930円であった。休日は720円と割安。料金所の南側を国道246号、小田急小田原線が走っている。 ー 続く ー
2024.01.20
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茅ヶ崎FMで ”第一カッターきいろ公園” でイベントが行われているとのことで、天気が良かったので昼食後愛車のリンちゃんで出かけた。1月13日(土) 13:20第一カッターきいろ公園(中央公園)公園の中央に、大きな湘南ベルマーレのマスコットとダーツの的。キングベルI世 (キングベルいっせい)。Jリーグチーム湘南ベルマーレのマスコットで湘南海岸をイメージし、海を司る神、ポセイドンがモチーフ。力強さに、戦略に長けた老獪さをプラスして敵のフォーメーションを粉砕する。 頭の冠は湘南に打ち寄せる波をかたどっている。茅ヶ崎FMで、朝からこの日の13時から公園前の向かい側の茅ヶ崎市民文化会館で湘南ベルマーレの ”2024シーズン新体制発表会” が開催されるとのことでその一環であろうか。巨大なダーツの前には子供達。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキ。このデッキには5人の手形モニュメントがある。関連ブログ「加山雄三さんの展示会」👈 をクリック願います。デッキのエメロード側から東方向を望む。大正末期の茅ヶ崎駅周辺之図① 駅前にあった厳島神社の境内は広く、ミニ公園的に活用され、出征兵士の武運祈願、防災訓 練なども行われた。駅から東海道に抜ける道を作るため、昭和25年に現在地に移転した。② 南口駅開設は大正12年7月。9月の関東大地震で倒壊するが再建され、後に改良される。③ 純粋館の敷地面積は39,600㎡とされているが、この紫色の部分は30,000㎡程しかない。 残る9,600㎡は、一体どこだったのだろう・・・。④ 明治41年10月1日の、茅ヶ崎・鶴嶺・松林三村の合併を期に村役場を梅田に新設する予定で あったが、県の意向と異なったために遅れ、明治44年8月1日金剛院から新町に移転した。⑤ 1972年(昭和47年)3月、開かずの大踏切には跨線橋が設置されたが、なんと斜めに掛けられ、 大きく揺れるので誰も渡らない!。1983年、本誌岩本が提案した高架化が1990年8月に完成 し、ようやく南北の自由通過を獲得した!⑥ 1950年3月、湘南電車が登場。「車両は焦茶」の常識を破り、ミカンをイメージさせるツー トンカラーが異彩を放った。本誌とは ”茅ヶ崎の人と情景 ひだりふじ” 発行:八松颯文舎上記 ① ~ ⑤ は”茅ヶ崎の人と情景 ひだりふじ ⑰” から引用。茅ヶ崎停車場 明治31年開業停車場前から西への道は ”停車場通り(明治30年に着工し明治35年に完成)。13:45厳島神社(いつくしまじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町2-14昭和初期に茅ヶ崎駅北口からこの地に遷し祀られた。道路を挟んで駐車場がある。嚴島神社 心やすらぎの社 交通安全 家内安全 商売繁昌 知育向上 七五三詣 厄祓 出張祭典 諸祈願受付致します。 0467-85-4672銅製の鳥居を見上げる。鳥居の扁額「嚴島神社 宗像大社 宮司神島定数 書」。どんど焼きについて令和6年1月14日日曜日 10時から15時まで 境内にて開催予定当神社頒布のお守り・縁起物等を1月13日までにお納め下さい。どんど焼きについておいてお願いダイオキシン等の問題があるため写真の様に金属プラスチック部分を外して返還をお願い致します。ぬいぐるみ・人形・セトモノ・ガラス製品は持ち込まないよう、また入れてきた袋等はお持ち帰りください。どんど焼きを続けていくためにご協力よろしくお願い致します。嚴島神社石碑には「嚴島神社玉垣完成記念碑」。掲示板の中にも、どんど焼きに対するお願い。社務所入口。由 緒御祭神 市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと ) 田心姫命 ( たごりひめのみこと ) 湍津姫命 ( たぎつひめのみこと ) 記紀に示すが如く天照大神の御子神にましまし、天孫降臨に先立ち「天孫を助け奉りて天孫 にいつかれよ」との神勅を奉じて 北九州と朝鮮半島を結ぶ海上要路の福岡県宗像に奉鎮さ れ 別の名を「道主貴」(ミチヌシノムチ)「宗像三柱神」と称し、皇室守護・国家鎮護・国 民道の祖神として朝野を上げて厚い尊崇を受けました。 安芸の宮島嚴島神社を始めとして 全国六千余の神社にて奉斎されております。御神徳 皇室守護・国家鎮護はもとより海外国内の交通安全守護 家運隆昌 商売繁盛 音楽芸能の 神として 神威が迎がれております。御祭儀 一月一日 歳旦祭 七月海の日 浜降祭 十四日 どんど祭 十一月 七五三詣 五月五日 例大祭 十二月大晦日 大 祓 除夜祭 六月晦日 大 祓 毎月五日 月次祭 諸祭儀 初宮詣を始め商売繁盛 諸祈願の社頭祈願祭、地鎮祭を始め出張諸祭については、ご予約下 さればご奉仕致します。 お問い合わせは 0467-82-2384(宮司本務社)まで 嚴島神社社務所 鳥居の左側に「明治百年 植樹造園記念碑」の石碑。鳥居を潜り右側に社務所。七月の浜降祭の時はこの社務所に神輿が置かれる。手水舎。コロナも落ち着き通常に戻っている。境内には明日の ”どんど焼き” の場が設けられていた。参道の西側に、社殿が建つ。境内の南側に古い ”納札所” が設置されていた。拝殿前の右側にマスクが取り除かれ狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。本殿は昭和九年(1934)建築、拝殿は昭和四十八年(1973)に建設された。拝殿の扁額「嚴島神社」令和6年 厄年一覧拝殿の右側に鎮座する末社「石神弁天社」。石神弁天社由緒この祠は、葦の密生する湿地であった所へ、明治中期に着工された茅ヶ崎駅開設用地に、人知れず弁天様と呼ばれ祀られておりました。工事開始とともに移転を余儀なくされた祠は、移転を繰り返し周辺に祀られておりました。明治三十一年六月十五日に茅ヶ崎駅が開設とともに周辺には、人家商家の進出が始まり、その人々により人心の安寧と商売繁盛、地域の発展が祈願され、報恩の祭も賑やかに行なわれておりました。昭和初期になり、旧新町(現新栄町・元町・共恵・幸町)の発展に大きな力を尽くした旧新町下一丁目の水澤家に勧請され、手厚く祀られておりました。昭和六十年四月十九日に南北自由通路を含めた駅舎駅ビルの完成開店により、茅ヶ崎市の玄関口が一新したことを機会として、駅周辺の発展を守り導き下さった弁天様を、古来より鎮座なされた地の字名に因んで石神弁天社と尊称することとし、広大無辺な加護を、多くの氏子崇敬者にお頒ち下さるよう祈念し昭和六十年五月四日大安吉日を以て此の地に勧請いたしました。 昭和六十年五月四日 嚴島神社役員一同拝殿の右側から本殿を望む。昭和九年(1934)に建築された本殿。拝殿前から、東方向の社務所、手水舎、鳥居を望む。拝殿の左側にあったこれは?木板に、「二臂(にっび) 辨財天 弁財天祭日は六月十七日 弁財天御真言 オンソラソバティエイ〇〇」。サルスベリの下に「拝殿建設碑」の石碑。拝殿建設碑嚴島神社は・・・・・以下判読できず。 昭和四十八年三月二日社殿の左側に「妙音弁財天像」妙音弁財天像は八角形の池に配置している。池の中には小銭が投げ込まれていたが、1円が主流であった。八角形の池の中央に「青銅製の弁財天裸像」。琵琶を持つ弁財天裸像。妙音弁財天像建立記念碑弁天さまとして 土地の人々に親しまれ その願いごとを受けてこられた 厳島神社は 古く西石神(現新栄町)に弁天社として建立せられ 大正七年に駅前に奉遷され 更に昭和二十三年現在地に移られた後 本殿の修復 拝殿 其の他の建立をみましたが 弁天さまに縁りのある 池も改修に迫られたので 此度青銅製弁財天裸像を中央に安置申上げ 周囲に八角形の池をお造りすることになりました。弁財天は 別称弁天さま 妙音弁財天 美音弁財天ともいわれ昔から 家内安全 幸運 財宝を招き 音楽を始め 技芸上達の功徳を持つ水の神として 其の霊験があらたかなので 広く世に知られています。よって御神徳の御加護により氏子の皆様の安泰を祈願し 昭和五拾六年五月拾弐日 時の役員参集のもとに弁財天裸像建立奉告祭を行い 同年拾壱月参日 入魂除幕の式典を行いました。南側から厳島神社の拝殿を望む。駐車場脇に、関東大震災?で倒壊した古い石鳥居が置かれていた。14:15家系 ヌードルワークス所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町1-13 トレゾアノール1F東海道本線を渡るツインウエーブ入口にあるラーメン屋でいつも列をなしている。 END
2024.01.19
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私のスマホに「加山雄三さんの銅像設置場所が決定!」と。用事があり愛車のリンちゃんで出かけ、茅ヶ崎市役所へ立ち寄る。1月6日(土) 13:30市役所入口にある掲示板。姉妹都市の「岡崎市」、「加山雄三氏関係」のコーナーがある。掲示板の中に、「加山雄三様 2023年9月1日 47年ぶり ”名誉市民” に決定」と。首都圏ニュース加山雄三さん銅像 茅ヶ崎市役所前に 87歳誕生日の4月11日お披露目 2024年1月11日 12時08分神奈川県茅ヶ崎市出身で、名誉市民の歌手加山雄三さん (86) の銅像が4月11日、茅ヶ崎市役所前広場に設置されることになった。銅像の制作は、茅ヶ崎商工会議所が中心になって進めている、茅ヶ崎発祥の「湘南サウンド」を後世に受け継ぐ取り組みの一環。2022年12月から昨年2月までのクラウドファンディングでは目標額の1500万円を達成。そのほか、全国のファンからも寄付があり、571の個人・法人から寄せられた約1938万円を制作費に充てた。銅像は、ギターを持って立つ加山さんの姿がモデルとなり、ほぼ等身大。当初は昨年秋ごろ、茅ヶ崎の海沿いに設置する計画だったが、波や風による劣化が懸念されたため、設置する場所と時期を再検討していた。お披露目されるのは加山さんの87回目の誕生日。当日行なわれる除幕式には本人も出席する予定だ。(砂上麻子)制作中の加山雄三さんの銅像。茅ヶ崎市役所前広場銅像が設置されると新しい撮影スポットに。将来は”桑田佳祐”の銅像も。茅ヶ崎市役所の北側(裏側)にある”茅ヶ崎市民文化会館”の正面玄関。2月25日(日)に開催される、SHONAN PHILHARMONIC ORCHESTRAの「第42回コンサート」のチケット購入に訪れた。正面玄関を入ると右側の壁面に今までの名誉市民4名の肖像画が飾られている。手前から、添田 良信 (そえだよしのぶ) (昭和51年3月26日議決) 茅ヶ崎町議会議員、茅ヶ崎町長、初代市長 (就任:昭和22年10月1日)を務めた。小山 敬三 (こやまけいぞう) (昭和51年3月26日議決) 昭和4年から茅ヶ崎に在住され、世界的な画家として広く活躍。日展への出品をは じめ精力的な創作活動。昭和50年文化勲章を受章 かつて茅ヶ崎には”純粋館製糸工場”があったが、その社長小山房全氏の奥様の弟が小山敬三 画伯である。磯崎 貞序 (いそざきていじょ) (昭和51年3月26日議決) 茅ヶ崎町議会、神奈川県議会、衆議院議員として、町政・県政・国政の分野に貢献。牧野 英一 (まきのえいいち) (昭和41年3月11日議決) 刑法学者として広く活躍し、昭和25年に文化勲章を受章加山 雄三 (かやまゆうぞう) (令和5年9月1日議決) 幼少期から30年以上にわたり茅ヶ崎で過ごされ、1960年にデビュー。以後60年以上もの間、 湘南サウンドを代表する音楽活動をはじめ、幅広い分野でのご活躍を通して、多くの方々に 影響を与えるとともに茅ヶ崎の名を全国に大いに広めていただきました。 肖像画の位置をどこにするのかと係の方に聞くが検討中であると。14:30イトーヨーカドー 茅ヶ崎店所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町11-8正面入口前に法被を着、纏(まとい)、梯子を持った集団、何をするのか。何も予告がなく不明であったが。茅ヶ崎駅北口ロータリー。上部はペデストリアンデッキ。集団から外れてタバコを吸う人に尋ねると「そろそろ梯子乗り」をすると。”梯子乗り”は伝統芸能の一つで、真っ直ぐに立てた梯子の上で曲芸を行うこと。演技が始まるのか梯子を垂直に。梯子乗りは江戸の昔より庶民に親しまれ、現代でも東京の正月の風物誌として人気を博している伝統技術ですが、決してサーカス的曲芸ではありませんと。テレビ等で見たことがあるが生で見るのは始めてである。何の説明もなく演技が始まった。梯子乗りをネットで調べると、① 頂上技:梯子の先端で行う演技で、遠見・八艘・鯱・背亀・腹亀・肝つぶしなどがあります。② 途中技:梯子の途中で行う演技で、膝掛け・谷覗き・吹き流し・横大の字といった技があり ます。③ わっぱ:この技は「わっぱ」と呼ばれる長さ約1.3mの紐を輪にして梯子に掛けこれに足首等 を絡ませて行う技で、吹き流し・邯鄲・逆大の字・子亀つるし等がありますと。手前では纏を回す。梯子乗りの技は大きく3種類に分けられ、これを細分すると48種類にものぼる。これは”途中技” であろうか。梯子乗りは鳶職人。もともと鳶職人は、はしごを使用して作業を行っていました。また、彼らは高所で危険な作業をするため常に機敏さと慎重さ、そして勇敢さが要求される。火消の仕事もまた同じことが求められます。こうしたことから鳶であり、かつ、火消でもある彼等は、そのための訓練として梯子を採り入れたといわれています。演技者はイトーヨーカドーのビルに向かって演技。梯子乗りに使われる梯子は高さ6.5m、横さんが15本の甲(足をのせる横木)からなり、真新しい青竹で作られています。この梯子を僅か12本の鳶口にて支えて安定を保つためには、揺れ動く梯子での演技者と下で梯子を支える者との技術プラス呼吸が決め手となり、結束の固さが妙技を生み出す秘訣といえるでしょうと。この演技は”頂上技”であろうか。頂上技は梯子の先端で行う演技で、遠見・八艘・鯱・背亀・腹亀・肝つぶしなどがあるが。説明がなく残念!演技を終え三番手に。3人目の演技も”頂上技”のようだ。この技は?次の技?逆立ちをして次の技へ。開脚をしバランス?。これは”灰吹き”であろうか。左手を竹の上から被せるようにつかんだら右肩を竹に密着させ右手はしっかり伸ばし倒立する。ズームアップ。頂上技の?。演技を終え。演技を終え梯子を下りる演技者。3名の演技であった。3名で約5分ほどの演技であったが技の説明が欲しかった。14:40演技を終え次の場所へ移動。商店街を廻り決められたところで披露しているようだ。第一カッターきいろ公園(中央公園)の紅梅が開花していた。ズームアップ。メジロが飛来していた。 END
2024.01.18
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日蓮宗蓮妙寺から最後の7番目「善谷寺 福禄寿」へ。1月7日(日) 13:55曹洞宗 善谷寺 (ぜんこくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137参道の両側には整姿されたカイヅカイブキ、赤い幟には「奉納 南無観世音菩薩」と。善谷寺の周辺マップ。参道入口に「曹洞宗 善谷禅寺」と刻まれた寺号標石。掲示板には、なるほどと!『人生には定年はありません 老後も余生もないのです 死を迎えるその一瞬まで 人生の現役です人生の現役とは 自らの人生を悔いなく 生ききる人のことです』と、気になるお言葉が。雲が厚く薄暗くなった境内。参道を登ると右側に、庚申塔と地蔵。左側の庚申塔には「寛文十年」と、西暦1670年に奉納されたもの。左側の社の中に六地蔵。正月を迎え花も供えられ衣装も新しくなっていた。正面に銅板葺きの本堂。恵日山善谷寺、曹洞宗の寺院。『新編相摸国風土記稿』には「恵日山と号す、曹洞宗獺郷村東陽院末、本尊釈迦」と記載されています。開山は藤沢市獺郷東陽院の三世、茅ヶ崎市行谷宝蔵寺の二世を務めた心翁宗伝和尚。寺伝では天正六年(1578年)の創建と伝えられている。銅板葺きの本堂。本堂の扁額「善谷寺」。恵日山 善谷寺 曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来大 本 山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師 伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風とし て開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師 によって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し脚下照顧して己の足下を見つめ自然 (宇宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する。 本堂のご本尊に先ず合掌本堂前には平成二年 (1990) の春に建立された金銅の「恵日観音」が建つ。手前には常香炉があり、着火器が置かれていた。本堂前の右方向に”七福神のお堂”。本堂手前左側に七福神のお堂と、右側には”延命地蔵尊像”。お堂は開放され、左に善谷寺の御朱印が置かれていた。福禄寿【知恵財運】杖を持ち短身で頭が長く豊かな髭をたくわえた姿で、中国では仙人と称され日本に迎えられた神様です。寿老人とともに中国道教で祀る星「カノープス」の化身とされています。今年も”相州小出七福神巡り”のスタンプを全て頂きました。奮発したが『神の御加護があらんことを!』。善谷寺の御朱印相州小出七福神スタンプラリー2024 対象店舗情報期間中に専用台紙にスタンプを集め対象店舗で買い物したレシート(税込500円以上)と台紙を茅ヶ崎市観光案内所に持参すると開運グッズ「鈴つき干支のお守り」が進呈される。昨年は先着400名であったが今年は500名に!。本堂の裏手(西側)に墓地があるが、その入口から境内を見る。イチョウの木は枝が整姿されていた。本堂前に建つ金銅の”恵日観音像”、常香炉。境内から石段の参道を下りる。道路を挟んだ向かい側に”石柱” (黄色丸内) を見つける。白壁の下に石柱。説明板はなかったが「延命子育地蔵堂跡」と。14:10道路の西側高台に”善谷寺”。善谷寺を後にし、県立茅ヶ崎里山公園へ向かうことに。愛車のバッテリー残量が少なくなる。前方から”コミュニティバスえぼし号”。道路沿いに庚申塔が二基立っていた。後方の石碑に「供養」とあったが、読めなかった。県立茅ヶ崎里山公園の建設の際に移設されたのであろう。庚申塔台座には三猿、側面には字が彫られていたが・・・。県立茅ヶ崎里山公園所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢1030里山公園パークセンターの前では”小出地区まちぢから協議会”のスタッフが受付中。受付をズームアップ。かつての ”お江戸道” 沿いのここ ”谷戸の庭” の現状を見に訪れた。昨年紅葉を見に何度も訪れた。紅葉も既に終わり葉は散っていた。中庭のモミジも既に散っていた。14:20里山公園を後にし、スタートした”妙伝寺”へ行くことに。県道47号線(小出中央通り)沿いの市立小出小学校前から旧道を下るが急坂であった。バッテリー残量が少なくなったので下り坂、平坦地は電動アシストをOFFにして人力でペダルを踏んだが重かった。アシスト自転車に、車と同じように下り坂での発電をバックチャージする機能が欲しいものだが。14:30日蓮宗 妙伝寺 (みょうでんじ)七福神巡りのアンケートを出し、缶バッチを頂きました。右側が今年の缶バッチ。左側は昨年の缶バッチ(2023.1.7)。キッチンカーの営業が15時までのため、”ぜんざい” 200円を購入。小さい餅がふたつ入っており疲れた体に美味しかった。キッチンカーが3台出店していた。創作 たいやき TAIYAKISAN本日のたい焼き :あんこクリーム 300円、チョコ 300円、肉まんたいやき 350円、 和栗 300円、ポテサラ&ハム 350円。 ドリンクメニュー :ホットレモン 200円、ホットコーヒー 250円 洋食一筋20年の旨さ単 品 :かまくらビーフシチユー 900円、小さいビーフシチュー 700円、 塩レモンからあげ 600円、ジャークチキン 600円 お弁当 :かまくらビーフシチユー 1000円、塩レモンからあげ 800円、 ジャークチキン 800円、合い盛り 1000円14:45かき揚げそば 600円。うどんもあります。ちくわ磯辺揚げ、ビールの販売。妙伝寺から下り坂、平坦地は電動アシストをOFFにし重いペダルを踏み自宅へ15時に到着。自宅到着時のバッテリー残量は10%、走行可能距離は9km。この日の走行距離は、43ー9=34kmだが途中から電動アシストをOFFにしたので?。歩行数は3,500歩であった。さて”神の御加護は”どうであろうか。 END
2024.01.17
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浄土宗来迎寺から6番目の「蓮妙寺 弁財天」へ。1月7日(日) 13:25途中道路脇に、蓮妙寺の石碑が建ち「南無妙法蓮華経」と刻まれていた。生活道路の先に”蓮妙寺”。左側は柿畑。正面に蓮妙寺の入口に建つ「芹澤久組自治会館」。蓮妙寺の周辺マップ。日蓮宗 蓮妙寺 (れんみょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472腰掛神社の西方約400mにあるお寺で、元亀三年 (1572) 小田原にあった蓮成寺を当地に移して、現在の名称に改めたという。江戸時代には芹沢を領した旗本戸田氏の庇護を受け、境内には最後の領主、戸田隆之助勝信の墓も残されています。山門右側に石碑「蓮妙寺縁起」。当山の山号は弁財山、寺号を蓮妙寺と称します。開山は日殿上人にして、上人は静岡県富士宮市北山、大本山富士山重須本門寺根源第十世歴代上人なり。よって当山は本門寺の末寺にして、本門寺を常に本山と称しております。本山の御開山は、日蓮大聖人第三番目の御弟子、白蓮阿闍梨日興上人の開創せられた寺であります。当山の開山日殿上人は、大永六年(1526)に誕生せられましたが、その生国と姓氏ともに詳らかではありません。永禄十三年(1570)八月十三日、時の駿河守護職今川氏より寺号をたまわり小田原の城外に蓮成寺を建立されたのでありますが、元亀三年(1572)三月十五日、その蓮成寺を現在地芹沢久保山に移して弁財山蓮妙寺と改称されたのであります。よって当山の建立年月日を元亀三年三月十五日と定める。御開山日殿上人は、天正十年(1582)二月五日、御年五十七才でなくなられております。尚、当山には弁財天女尊神、鬼子母尊神の両母尊神様が勧請なされております。平成七年八月八日当山施餓鬼会砌建立為 諦道院法成日亀居士 浄心日妙大姉 両親追菩提 施主 矢野福徳 辨財山蓮妙寺第三十八世随祥代山門を入ると正面に本堂。本堂の扁額「辨財山」。辨財山蓮妙寺抑モ当弁財山蓮妙寺ハ富士重須大本山本門寺第十世日殿上人ノ開創シ給ウ所ナリ 日殿上人ハ大永六年御誕生 初メ富士小泉久遠寺日我上人ノ門ニ入リ 兵部郷日義ト称シガ(後略)。本堂手前右側に建つ「鬼子母神堂」。お堂の左側では住職さん?か木の枝を伐採しておられた。お堂も年月が経ちそろそろ建替時期。お堂の扁額「鬼子母神」。”鬼子母神堂”の前に「妙法 無縁法界萬霊塔」碑。山門を入ると右側の池の中に「辨財天」のお堂。いつもは門扉、お堂の扉も閉められているがこの日は開かれお堂前へ。お堂前に立つ赤い幟には「弁財天 相州小出七福神 蓮妙寺」。七福神のスタンプは本堂前で頂いた。池の中に設けられたスペースにお堂がある。お堂の扁額「辨財天」昭和四十己巳十月八日落慶 當山第三十八世随祥。弁財天【芸能財福】七福神唯一の女性です。「弁天さん」の呼称で人々に親しまれ、白色の美顔で頭に宝冠、琵琶を弾いている神様です。もとはインドの水の神様で、水の流れる音から音楽の神としても信仰されました。更にズームアップ。お堂の裏に建つ石碑には「辨財天女神」と。石碑の前から東方向の本堂を望む。かつては草が生い茂っていたが書き込み等で批評があったので整備されているようだ。本堂を振り返り”蓮妙寺”を後にする。東の空は雲が厚くなる。七福神巡りの「蓮妙寺」への案内板。北方向の大山、天気が悪く富士は見えなかった。腰掛神社の前を通り最後の”善谷寺”へ向かう。南の空も雲が厚くなり怪しくなる。県立茅ヶ崎里山公園の北駐車場。今まで有料と思っていたが「この駐車場は終日無料です。9:00 ~ 18:00」の立札。野菜直売所ネギが欲しかったが2本で150円でイオンと変わらず、1本75円は高い!隣では焼き芋をやっていたのだが「完売」と。県立茅ヶ崎里山公園の南からの道路。その昔”日本武尊”が御東征の際に通った道であろう。旗を持った団体ツアーであろうか!前方右上の丘には四阿があり「関東の富士見100景」に指定されている。左側では「ギャラリー 木の実」がありコーヒの販売も。関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり 地点名 茅ヶ崎市からの富士 平成16年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈(社)関東建設弘済会腰掛神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169腰掛神社の境内には、日本武尊が御東征の際に腰掛けたと伝わる石がある。一の鳥居、二の鳥居が連続して建つ。当神社は「日本武尊ゆかりの腰掛神社」👈 をクリック願います。13:50県立茅ヶ崎里山公園の北側の生活道路を抜ける。 ー 続く ー
2024.01.16
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曹洞宗宝蔵寺から5番目の「来迎寺 恵比寿神」へ。1月7日(日) 13:05相模川左岸用水路沿いにある”追出地蔵”。所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢4238-1地蔵前から西に向かうと小出川に架かる”追出橋”がある。昔、この橋の辺りで稲につく害虫を追い出す虫送りの行事を行っていたので、この名がついたといわれる。左の庚申塔の座には「西三谷講中」と、石像の右側は首がないがいつも地元の人の手で赤い丹前が着せられている。西側の寒川町の「相模川左岸用水路大蔵サイフォン」を望む。水田の中を小出川が流れ、左側に”追出橋”が架かる。こちら側が相模川左岸用水路の下流側で小出川の地下を潜ってくる。同場所から北東方向を望む。左側の森の中に次の目的地「来迎寺」がある。浄土宗 来迎寺 (らいこうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291左側に駐車場があり、参道の両側にはアジサイが植えられているがまだその時期には。来迎寺の周辺マップ。階段下の寺号標石には「浄土宗 芹澤山 耒迎寺」。境内には「恵比寿神 相州小出七福神 来迎寺」の幟が多く立っていた。本堂前には大きな石燈籠。本堂の扁額「芹澤山」。七福神は本堂の中に置かれていた「恵比寿神」。スタンプ台に七福神の場所が記されていなかったので見落としやすいのではと。恵比寿神【福富繁栄】風折烏帽子をかぶり、鯛を釣り上げる姿で七福神唯一の日本の神様です。「エビス顔」といわれるように、笑顔愛嬌、和顔愛語の福徳を人々に授けてきました。本堂前から境内を見下ろす。参道右側に新しい「延命地蔵尊」。参道左側の石碑には、「芹澤山 来迎寺 本堂新築落慶記念碑」と。境内の南側に”歴代住職の墓地”。墓碑には、「初代 元亀三年十二月二十九日 為來迎院澤誉源泉居士 開基 俗名 後藤源七郎」と。歴代住職の墓地の後方に本堂が建つ。参道の右側には社におさめられた六地蔵。六地蔵能化縁起供養誌六道の衛、五濁悪世の闇を輝らし衆々の厄難を済い訶伊の種子は醍醐を証らしめん。六道に輪廻する衆生を救済する菩薩にして本願圣に曰く諸々の厄難を取り除いて地道を司祭し道をあやまらないようにと見守る菩薩であります。 六地蔵尊の名称と持物と役割 一、大定智悲地蔵菩薩 香炉 地獄道教主 一、大徳清浄地蔵菩薩 宝珠 餓鬼道教主 一、大光明地蔵菩薩 合掌 畜生道教主 一、大清浄無垢地蔵菩薩 旌旗 修羅道教主 一、大清浄地蔵菩薩 錫杖 人間道教主 一、大堅固地蔵菩薩 念珠 天上道教主六地蔵尊は今から二百五十五年前、寛延三年(1746)に建立されました。今回柏木明氏の浄財喜捨によって修復再建がなされました。 平成十三年五月吉日 當山二十三世 宝譽昇道 代本堂への参道。参道右側の一番西側にあった、光照山 普門寺「普門寺供養塔」。右側の墓碑には「普門寺歴代上人誌」と刻まれていた。”普門寺供養塔”の前に建つ塔。曇り空の中にイチョウの木を見上げる。天気が怪しくなる。13:20秋には黄葉し銀杏も!。天気が怪しくなってきたので急いで次の「日蓮宗蓮妙寺 弁財天」へ。 ー 続く ー
2024.01.15
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曹洞宗白峰寺から4番目の「宝蔵寺 大黒天」へ。1月7日(日) 12:40相模川左岸用水路から右折して、宝蔵寺の駐車場へ。宝蔵寺の周辺マップ。曹洞宗 宝蔵寺(ほうぞうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市行谷318山門前には「大黒天 相州小出七福神 宝蔵寺」の幟が多く立っていた。新しい石段の上に山門。山門手前右側に、新しいタイプの石に彫られた六地蔵。右から、延命地蔵、宝手地蔵、宝処地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、堅固意地蔵。葉ボタンに囲まれて古い庚申塔であろうか。十八臂の千手観音、文化十四年五月の銘。聖観音菩薩像山門の扁額「金峰山」。本 堂天正八年 (1539) ごろの創建といわれ、本堂は昭和四十五年 (1970) 再建。明治六年この寺に「時習学舎」という学校が設けられました。学校制度を整えるという明治政府の指針により、建てられた公立学校で、現在の小出小学校のルーツとなったと。本堂の扁額「宝蔵寺」。本堂前から山門を望む。本堂前に建つ右側の石碑には「震災記念 聨芳塔」と。中央には「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」廻りには、廿三世までの住職の名が刻まれていた。左側のお堂には「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」と。本堂の左側にある七福神の社には「大黒天」と。社の中に七福神の「大黒天」。本堂左側に並ぶ、「十二支地蔵尊」。十二支地蔵尊今年の干支は「甲辰 (きのえたつ)」で浄財が一番多かった。南無水子供養地蔵尊南無水子供養地蔵尊台座には、”水子地蔵御和讃”浮かびて小さき泡一つ はかなく水に消えゆきぬ面かげさえもありなしの 追うに術なきあわれさよ育ちてあればほほえみて 母とし呼びて縋り来んその名を呼べば顔あげて 聲も明るく駆け寄らんむねには迫るなげきあり 母にははゝのなみだありこの世の縁は 浅くとも 深くちぎらん つぎの世に南無や能化の地蔵尊 南無や能化の地蔵尊南無水子供養地蔵尊水子とは、不幸にしてこの世に生命を授かる事の出来なかった胎児の事を言います。悲しき水子の霊魂を供養し、更には子育子安地蔵尊として奉安されました。何卒万人の回向により無辺の功徳を得られん事を祈念致します。尚、特別回向御希望の方は寺の方に御申し出下さい。境内の隅でスイセンが綺麗に咲いていた。先日、連れ合いが不在のため冷蔵庫から「ニラ」を取り出しレシピを見ながら「ニラ玉」を作ったが、最近のニラは長さが20~30センチあり、スイセンの葉と間違える人も多いようだが。左上が私が作った「ニラ玉」、玉子を四個使用美味しかったです。紅梅も咲く時期に。ズームアップ。震災記念 聨芳塔。境内の東から本堂を望む。”震災記念 聨芳塔”の裏面には、大正十二年九月一日突如・・・と刻まれていたが判読困難。境内の右隅に朱色の鳥居の後方に”稲荷社”。山肌にもお堂。稲荷社の後方には赤い実がたわわについたピラカンサの木。お堂をズームアップ。扁額には「身代延命地蔵堂」と。境内には新しい石像が奉納されていた。13:00曹洞宗宝蔵寺の参拝を終え後にすることに。宝蔵寺の東側に、金山神社への参道入口に並ぶ「金山神社の庚申塔」。金山神社の庚申塔 平成十八年ニ月十四日 神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応四年(一六五五)の年号が見える。元はここから東の芹沢境にあったと伝える。四臂(うで)でニ猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域 (茅ヶ崎三、平塚ニ、寒川一、藤沢一) に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。 茅ヶ崎市教育委員会金山神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市行谷317宝蔵寺の東側山斜面にある神社である。右上には「身代延命地蔵堂」があるが、私のスマホのGoogleマップでは出てこない。 ー 続く ー
2024.01.14
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文教大学 湘南キャンパスから県道47号線(小出中央通り)を西へ向かい「寿老人の白峰寺」へ。1月7日(日) 12:25県道47号線(小出中央通り)を西に向かうと右側に”相州小出七福神”の赤い幟。寺号標石には「景徳山 白峰寺」。白峰寺の周辺マップ。JR相模線香川駅から近い。曹洞宗 白峰寺 (はくほうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1551天文十三年(1544)ごろの創建といわれ、本堂は大正十四年(1925)火災で焼失、昭和二年に復興され、以後増改築が行われ寺要が整いました。天明元年(1781)に江戸から白衣観音が移され、子育て観音として信仰されてきました。今ではこの寺は、犬猫などのペットを葬る寺として知られ、動物愛護協会による動物慰霊祭も行われています。左側の建物はペット関係の受付。境内の掲示板に貼りだされていたポスター。本堂前に「寿老人 相州小出七福神 白峰寺」の幟が立つ。七福神巡りで親子連れの家族の姿。七福神の「寿老人」の社。社の内部に鎮座している「寿老人」。白峰寺本堂本堂の縁側にはいつもお茶が用意されている。境内の奥に、白い観音堂。境内から南方向を見下ろす。本堂と回廊でつながる隨雲殿。小さな社の中に七福神の「寿老人」が鎮座。12:35白峰寺本堂の裏手の丘には墓地が広がる。白峰寺から県道47号線(小出中央通り)を更に西に向かい途中山側へ右折振り返る。赤い幟の下に立っていた案内板。次に向かうのは「宝蔵寺」。県道47号線(小出中央通り)から案内に従って北上。右側のフェンス内は”相模川左岸用水路”。相州小出七福神の幟が立つ”相模川左岸用水路”に沿って北上。12:40目的地の「宝蔵寺」はこの先を右折するため関係者が立っておられた。「宝蔵寺」の次の目的地「来迎寺」は左折する。 ー 続く ー
2024.01.13
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妙伝寺から2番目の「正覚院 布袋尊」へ向かう。1月7日(日) 11:55堤 仲谷の石仏群所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3412-3大岡越前通りの北側の旧道を進むと道路脇にある石仏群。右から「馬頭観世音」「庚申塔」「角柱文字道祖神」「石祠。馬頭観世音には「馬持中」の銘があり「馬を所持している人々の集まり」であると。石洞の左には「八幡神社舊趾」と刻まれた石柱。八坂神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3655-1”堤 仲谷の石仏群”の右側から急な坂を上ると直ぐにある小さな神社。浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつで建物は”神輿殿”。旧道に下りると、七福神巡りの女性達。正覚院辺りマップ大岡越前通り沿いにある正覚院 (しょうがくいん)。寺号標石には、右側に「曹洞宗」、左側に「堤源山 正覚院」。曹洞宗 正覚院 (しょうがくいん)所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3681山門前の幟には「布袋尊 相州小出七福神 正覚院」、大きな石像が立つ。山門の扁額「堤源山」。山門の右側に、新しい「布袋尊」。布袋さまは不老長寿と無病息災の神様である。山門の左側には、こちらも新しい「延命地蔵尊」。山門を入ると正面に正覚院の本堂。右側には、六地蔵が並んでいる。左から、地持地蔵、雛兜地蔵、寶印地蔵、賢陵地蔵、陀羅尼地蔵、法性地蔵。左側の墓地の手前に「嗚呼九月一日」と刻まれたの石碑と石仏。大正十二年九月一日 11時58分、相模湾沖を震源として、大きな地震があった。ここ茅ヶ崎も、関東大震災で大変大きな被害を受けた。この石碑は、ここ堤の「正覚院」にある十三回忌の供養碑である。本堂前には係員の方がおられスタンプ捺印の手助け。係員の方が「今日は観光バスで40名近くが参拝される」と。本堂には正月飾りと扁額「正覚院」。本堂前にスタンプと共に置かれていた七福神の布袋尊。布袋尊【福寿財宝】容貌は福々しく肥大、満面の笑みを浮かべ、半裸身に粗末な衣装の神様です。七福神で唯一実在した中国後梁の禅僧で布袋和尚と呼ばれ、寺を持たず悠々自適に過ごしていたと言われています。本堂前右側に「水子地蔵尊」。穏やかなお顔をズームアップ。本堂前から山門を見下ろす。正覚院を後にし次の神社へ移動。大岡越前通りを西へ向かい、落葉したメタセコイア。メタセコイアの後方には茅ヶ崎市博物館、富士は雲の中であった。大岡越前通り沿いにある建彦神社への案内板。ここを北側に入り建彦神社へ。案内板は”建彦神社境内”を歩くことを推奨している。建彦神社への参道脇は竹林に覆われ急坂で電動アシストでも登れず途中から下りて押す。急坂を登りきると”石鳥居”。建彦神社社殿とイチョウの木。二本のイチョウの木は落葉していた。建彦神社を通り抜け。建彦神社から鬱蒼とした小道を上り県道47号線(小出中央通り)に立つ案内板。茅ヶ崎FM電波塔がここの東側の”文教大学湘南キャンパス”にあるので立ち寄ることに。建彦神社案内板の下に”相州小出七福神”の道案内正覚院 800m → 妙伝寺 1700m →文教大学 湘南キャンパス前に建つ「文教大学」石碑。石碑の側面には「昭和六十二年四月吉日建之」と。12:20文教大学のバスターミナル。植込みの中に新しい電波塔が建っていた。電波塔の高さは十数メートルであったか。ズームアップ。フェンスに囲まれた施設。ちがさきエフエム JOZZ3DCーFM自立式三角鉄塔 (iD鉄塔)型 式 iD 17-1 型製造番号 第 0782 号製造年月 2023年9月製 造 株式会社 加藤電気工業所 ー 続く ー
2024.01.12
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令和6年度(2024)の相州小出七福神巡りが、1月4日(木)から31日(水)まで行われるとのことで愛車のリンちゃんで向かった。期間中で1月7日(日)は係員の方が道案内に出、妙伝寺ではキッチンカーが並ぶほか、地場野菜の販売も行われるとのことで、昨年に続いて訪れた。なお、”相州小出七福神巡り”は、令和3年、5年に続いて3回目の七福神巡りである。今回は連れ合いが 9日(火)から入院するので”無事退院できる”ことを目的に巡った。タウンニュース 茅ヶ崎版 2024年(令和6年)元旦号。今回は、自宅から一番近い「妙伝寺」をスタート起点にし、時計回りに巡った。相州小出七福神紹介妙伝寺 (みょうでんじ) :日蓮宗・歓照山 毘沙門天【勇気授福】正覚院 (しょうがくいん) :曹洞宗・堤源山 布袋尊 【福寿財宝】白峰寺 (はくほうじ) :曹洞宗・景徳山 寿老人 【延命長寿】宝蔵寺 (ほうぞうじ) :曹洞宗・金峰山 大黒天 【有福蓄財】来迎寺 (らいこうじ) :浄土宗・芹沢山 恵比寿神【福富繁栄】蓮妙寺 (れんみょうじ) :日蓮宗・弁財山 弁財天 【芸能財福】善谷寺 (ぜんこくじ) :曹洞宗・恵日山 福禄寿 【知恵財運】1月7日(日) 11:00相州小出七福神は茅ヶ崎の北部に位置しており、自宅出発時の愛車のリンちゃんのバッテリー残量は50%、走行可能距離は43kmであった。高田緑地”高田緑地”は名前の通り、茅ヶ崎市高田にあります。自然環境と景観を守るために作られた都市公園として整備されました。県道404号線(小出県道)を北上、県道沿いの畑から富士山を望む。富士の方向をズームアップするが富士の頂上は雲の中であった。最初の目的地「妙伝寺」へ向かうため、県道404号線(小出県道)の堤坂下交差点の先を右折して旧道を東へ向かう。妙伝寺は県道から600メートルと。ご利益をいただくため自転車を押して向かった。相州小出七福神 周辺マップ 令和4 (2022) 年12月現在今回は、妙伝寺で受付後時計回りに巡ることに。全行程は約10キロ、約3時間で回れるコースである。田んぼの先に妙伝寺。愛車のリンちゃんを歩いて押したがアシスト自転車のため重かった。道路は小出県道の堤坂下交差点からの大岡越前通り。道路脇に案内図。昨年も使用されていた案内図。バス停への案内。南側には妙伝寺沿いを走る大岡越前通り。妙伝寺前の広場ではキッチンカーが並ぶほか、地場野菜の販売も行われていると。11:30日蓮宗 妙伝寺 (みょうでんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤1032山門前には「毘沙門天 相州小出七福神 妙伝寺」の幟が並び立っていた。2本のイチョウの木も落葉。相州小出 七福神スタンプラリー 2024 令和6年1月4日から31日まで◉ 相州小出七福神のスタンプを集めよう! ◉ 1、無料のスタンプ台帳を入手(観光案内所・各寺院で配布) ※ 観光案内所では有料のスタンプ台帳も販売します 2、相州小出七福神の7つのスタンプを集める 3、対象店舗で税込500円以上利用する 4、完成したスタンプ台帳とレシートをもって茅ヶ崎市観光案内所へ行く ⇓ 鈴つき干支のお守りプレゼント! ※ 先着 500名様 無くなり次第、配布終了です昨年は400名様であったが今年は数量アップ。妙伝寺前の広場ではキッチンカーが3台並び、クッキーのマルシェ、焼き芋を販売していた。手前では受付があり、スタンプ台帳をいただいた。タウンニュースでは地場野菜の販売も行われているとあったが未販売であった。参拝の後、焼き芋を一本 (中:200円) 購入しました。山門前に建つ寺号標には「歓照山 妙傳寺」。側面には「南無妙法蓮華経 萬霊塔」。山門前に建つ寺号標には「歓照山 妙傳寺」。山門への階段には手摺が取り付けられていた。山門の扁額「妙伝寺」。山門から本堂を望む。妙伝寺は文禄元年 (1592) に、日安を開山として草創されたと伝えられている。山門の右側に鐘楼。本堂前に建つ、日蓮聖人像。赤い幟には「毘沙門天 相州小出七福神 妙伝寺」と。本堂の扁額は寺号の「歓照山」。七福神のスタンプは本堂に上がり頂いた。祭壇の左側に「毘沙門天」が祀られていた。豪華な祭壇をズームアップ。七福神の「毘沙門天」。ズームアップ。本堂から西方向を見下ろす。境内の隅で「ロウバイ」が咲いていた。ロウバイは、クスノキ目ロウバイ科ロウバイ属に属する中国原産の落葉樹である。11:45妙伝寺前の大岡越前通り沿いに生える形のよい木は?。この後、二番目の「正覚院 (しょうがくいん) 」へ向かったが右足のことを考え愛車で移動。 ー 続く ー
2024.01.11
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三保ダムから戻り丹沢湖記念館へ。11月20日(月) 14:45三保ダムの駐車場へ戻る。駐車場脇のモミジが西日を浴び綺麗に紅葉していた。ヤマモミジ東北や北陸地方の日本海側の山に生えるモミジで、オオモミジとは鋸歯の形がちがいます。秋に美しく紅葉します。(カエデ科)ヤマモミジをズームアップ。三保ダムの天端道路を望む。西日を浴びるヤマモミジ。14:50丹沢湖記念館 (会議場)所在地:神奈川県足柄上郡山北町神尾田 759-2一週間後の11月26日(日)にはこの辺りで「第45回丹沢湖マラソン」が開催された。道路の向かい側に”落合館”。落合館は丹沢の絶景と手打ちそばの宿である。三保(みほ)の家丹沢湖記念館に併設する「三保の家」は、湖底に水没した世附 (よづく) 地区にあった江戸時代末期の民家を移転復元したものです。当時の生活用具や写真が展示され、無料で見学ができる。入口の軒先に「三保乃家」。茅葺屋根の平屋建て。廻りには懐かしい昔の農機具が置かれていた。戸を潜ると、土間があり昔の品物が陳列されていた。座敷は東西に続く畳部屋が、南北にあった。こちらは陽の当たる南の間。北側の間は三間続き手前には囲炉裏。平成元年度選定 かながわ建築物100選三保の家 (旧渡辺家住宅) ● 竣工年:江戸時代末期丹沢湖の湖底に水没した、世附地区にあった民家を移築、復元した。江戸時代末期の建築。小屋裏で養蚕が行えるよう、採光や通風のために妻側屋根を切り上げる、いわゆる「かぶと造」の典型例である。丹沢湖記念館へ移動。三保の家の入口にふたつのモニュメント。入口の右側に、ロンドンオリンピック 女子マラソン出場 2012年8月5日 尾崎好美選手の靴型 靴型のモニュメントは少々汚れていたが、「○○○は第35回丹沢湖マラソンゲスト出場の際使用の靴」と。同左側のモニュメント「水車ランナー」。水車ランナーこの水車ランナーは、三保ダム建設により水没した東京電力落合発電所のもので、横軸ペルトン水車に使われたランナーです。 出力 3210KW丹沢湖記念館 (会議場)営業時間:6月~9月=8:30~17:00 (4月・5月・10月・11月=16:30まで、12月~翌3月=16:00まで)定 休 日 : 水曜日昭和53年(1978)に、三保ダムの建設によって誕生した丹沢湖を記念して建てられた多目的施設。1階には、丹沢湖の歴史をはじめ、周辺に生息する動物類の剥製や発掘された縄文時代中期の土器、昔の農機具や生活用品、観光写真などが展示され、お土産品コーナーや休憩スペースも。また屋上には、かながわの橋100選に選ばれている永歳橋や、周囲の山々が一望できる展望台もあります。自転車やボートの貸し出しもあり、四季ごとに変化する山々の表情や湖を眺めながら、非日常の時間を楽しめます。館内に入りダムカードをいただきました。館内には、尾崎好美選手のサインと靴丹沢湖商店振興会様 ロンドンオリンピックでは沢山の応援ありがとうございました!! 尾崎好美 2012.9.26第35回丹沢湖マラソンゲスト出場した際の靴丹沢湖の水の流れ酒匂川から遠く、川崎市へ供給されるのか。尾崎遺跡 (おさきいせき)この遺跡は、西丹沢山北町で発見された縄文時代中期の集落跡で、三保ダム建設にともない昭和48年10月と同50年4月から5月にかけての2回にわたって事前に発掘調査をおこないました。遺跡は、酒匂川上流の河内川と世附川の合流点をみおろす平坦な段丘上にあって厚い火山灰層でおおわれていました。調査の結果、竪穴住居跡30軒と敷石住居跡5軒などが発見され、そこからは狩りと草や木の実などの採集生活に用いた石器類の出土とともにここで磨製石斧を製作していたと推定できる遺物 (石斧の未成品、破片、砥石、ハンマーストンなど) が発見され注目されました。いろんな ”尾崎遺跡の遺物” が陳列されていた。丹沢湖周辺総合案内図15:05丹沢湖記念館内には土産物店があり、山梨名物の”ほうとう”を買いました。いい時間になり帰路につくことに、丹沢湖記念館を後にする。15:15道の駅 山北所在地:神奈川県足柄上郡山北町湯触 317県道76号線 (山北藤野線) を下り、再度新東名高速道路の工事現場前の道の駅に立ち寄る。国道246号が渋滞していると多くの人が立ち寄る道の駅である。ようこそ山北・丹沢湖 湖畔からは富士山の眺望、春の桜、秋の紅葉など四季折々の自然が楽しめます。 8月10日の「丹沢湖花火大会」、11月最終日曜日の「丹沢湖マラソン大会」、12月の 「クリスマス IN 丹沢湖」など1年を通じて賑わう人気スポットです。・中川温泉 今から約400年前に武田信玄が北条氏康との合戦で負傷した将兵を入浴療養させたという 伝説も伝わっていることから、「信玄の隠し湯」という別名もあります。 泉質はアルカリ単純泉でPHが高く、温泉効果のほか美容効果も高いとされ、お肌がつる つるになる「美人の湯」としても広く知られています。 日帰り温泉 ぶなの湯・箒杉 (ほうきすぎ) 樹齢2000年といわれる古代杉です。高さ45m、根回り18mで全国名木百選に選ばれてい ます。・日本の滝百選 泗水(しすい)の滝 落差が69m、16m、29mという三段からなる豪快な滝で、その水は「全国名水百選」にも 選ばれている名瀑です。・河村城跡 平安時代末期に築城された山城で、山北駅南側の小高い山が城跡です。 昨今調査発掘が行われ、畝堀や郭、お姫井戸などが保存されています。山北町周辺観光マップ 河内川 (こうちがわ) 橋の架橋工事現場。河内川橋の高さは道路面が水面から120m、およそ30階建てのビルぐらいになると。令和9年度 (2027年度) の開通を目指している河内川橋をズームアップ。15:25道の駅で干柿用の渋柿を二袋購入。道の駅山北から県道727号線(川西線)を走り、頭上に東名高速道路の酒匂川橋を見上げる。この後、国道246号、曽我梅林横、国道1号の橘インタから西湘バイパスを走る。16:45地元茅ヶ崎に戻り、鉄砲道、左富士通りを北上。国道1号の鳥井戸橋交差点手前の石原橋上からの富士。まさに”左富士”である。国道1号の鳥井戸橋交差点。正面は”鶴嶺八幡宮一之鳥居”。ここを右折して国道1号を走り帰宅。自宅へは17時に到着。二日目の歩行数は、8,000歩であったが急な坂道も登りきつかった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11月22日(水)帰宅後、道の駅で購入した渋柿を干柿にするためネットで調べ作業開始。道の駅 山北で購入した渋柿 430円×2袋皮を包丁、ピーラーで剝くと37個。吾輩は包丁で皮を剥いたが、何十年ぶりの作業であったか。子どもの頃は一個剥くといくらかもらったものだ。渋柿をカビ防止のために熱湯の中を潜らせる。数秒で鍋から取り上げる。昔は縄にとめて干した。12月2日(日)妻が先日固いものを食したら少し渋かったと。干してから10日を経たので取入れる。ワラの間に入れ段ボール箱で保存。しかし妻がネットで調べ冷蔵庫へ保存。12月中旬から食したが一応干柿になり美味しく食べれたが種(6個)が多かった。来年もまた柿の種類を変え挑戦したい。 END
2024.01.10
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千代の沢園地から、丹沢湖の三保ダムへ。11月20日(月) 13:30昼食をとるため丹沢湖記念館の駐車場に車を停める。箒杉へ向かう時営業していた永歳橋の手前にある「落合館」。丹沢湖に架かる、湖のシンボル的存在の鋼斜張橋の永歳橋。岩には「三保ダム関連道路建設之碑」と刻まれている。旧永歳橋は小規模なつり橋であったが、新しい永歳橋は単塔2面吊りの堂々たる2径間連続鋼斜張橋で、橋長は235mある。主塔は49mで昭和52年に竣工した。落合館でソバを食べようとしたが既に営業は終わっていた。店先に立つ大きな根っこ。落合館の『丹こぶ栂(つが)』この古木は『日本栂』と申す。南アルプスの産で、五百年以上は経ているそうじゃ。長年の風雪に耐えて出来た『こぶ』は大変珍しい現象で自然の成せる正に神業である。縁結び・子宝・安産など、皆それぞれ勝手に祈願しておる。昭和六十三年七月、この古木に一目惚れせし二代目石田左近、この地に運び建てる。丹沢湖畔ゆえ『丹こぶ栂』と命名す。屋根付きの社に置かれている。丹沢湖周辺イラストマップ落合館が営業を終了していたので昼食場所を探す。県道76号線 (山北藤野線) を振り返る。13:40丹沢湖レストハウス所在地:神奈川県足柄上郡山北町神尾田 759-9店先に幟、看板が立ち照明がついていたのでここで昼食をとることに。店内は喫茶店風で多くのお客さんがいた。寒いのか既に石油ストーブも。店内に飾られていた写真。「紅葉とシカ」。ワカサギフライ定食 1,250円値段もリーズナブルでワカサギの量が多くタルタルソースで美味しかった。14:15美味しく食べお腹も満腹に。”三保ダムカレー”はライスを堤に模していた。丹沢湖レストハウスの直ぐ傍にある三保ダム中継所へ。駐車料金は無料でトイレ施設もあった。三保ダム 神奈川県知事 長洲一二裏面には「三保ダムの大要」が刻まれていたが判読が・・・。丹沢湖周辺レクリェーションマップバルーンの中には、丹沢湖周辺の、かながわ50・100選景 勝 50選 ・丹沢湖名 木 100選 ・中川の箒杉、頼政神社のトチノ木建築物 100選 ・三保の家橋 100選 ・永歳橋、松ケ山橋、世附大橋探鳥地 50選 ・丹沢湖車は進入禁止のため歩いて天端(てんば)道路を三保ダムへ。三保ダムのあらまし建設の目的 水道用水供給・こう水調節・水力発電 ダムの型式 土質しゃ水壁型ロックフィルダム 高さ 95.0メートル 貯水池名称 丹沢湖 長さ 587.7メートル 満水位標高 321.5メートル 底幅 587.0メートル 湖の面積 2.18平方キロメートル 体積 581万6千 立方メートル 有効貯水量 5450万立方メートルダム頂高さ 325.0メートル 集水面積 158.5平方キロメートル着工・完成年月 昭和49年5月 ~ 昭和53年7月 水没移転 223世帯事業者 神奈川県 神奈川県内広域水道企業団 東京発電株式会社工事執行者 神奈川県企業庁丹沢湖河内川(かわうちがわ)の下流側。ロックの斜面にジグザクの道があったが。この道路の利用についてこの道路を通って、ダム広場まで下ることができます。なお、ダム管理用道路ですので、ご利用にあたっては、次のことに注意してください。・利用できるのは歩行者のみです。自転車、オートバイなどは利用できません。・ダム管理用車両が通行する場合がありますので、ご注意ください。その場合は車両通行の妨 げにならないようにしてください。なお、ダム管理上、利用を禁止することがあります。・ここは、ダムに造った道路ですので、この道路以外には立ち入らないで下さい。・皆さんが気持ちよくご利用できるよう、ゴミの投げ捨てや、ペットの糞の持ち帰りなど、マ ナーを守ってご利用ください。ダム下流法面道路諸元延 長:1.0km有効幅員:3.2m下り勾配:6.2 ~ 9.7%高 低 差 :76mダム広場までの所要時間:約12分ダム広場までの法面道路は1キロあり所要時間は約12分。ダムの下流側。ダムの上流側にある永歳橋。丹沢湖のシンボル的存在の鋼斜張橋の永歳橋。ダム広場を見下ろす。天端道路にプレート。ダム湖百選 『丹沢湖』 平成17年3月 財団法人 ダム水源地環境整備センターダム湖百選丹沢湖は、四季を通じて美しい景観を見せたり、水や自然の学習と上下流交流の場となるなど多くの人々にさまざまな恩恵をもたらしています。ダム湖百選は、全国の中で、地域にとってかけがえのないダム湖を選定、顕彰することによって、より一層地域に親しまれ、地域の活性化に役立つことを願って (財) ダム水源地環境整備センターにより認定されたものです。三保ダムの上流側には ”ダムにおける網場 (あば)” が設置されていた。網場をズームアップ。台風などによる出水や、平常時の取水口へ向かって生じる流れは流木や木っ端、ごみなどを引き寄せる。こうした漂着物が取水施設の機能を損なわないよう、ダム管理者の手により取水口の前を網場で囲うことが行われ、漂着物の回収、産業廃棄物として処理することが行われる。三保ダムの洪水吐ゲートを望む。天端道路の南側に「三保ダム洪水吐ゲート」。三保ダム洪水吐ゲート要 目 1号~4号 5号門扉型式 ラジアルゲート、フラップ付シェル構造ローラーゲート縦径門×扉高 〇m×13.128m 9.0m×6.062m (半径 3.5m) (上段扉 2.0m、下段扉 4.062m)開閉速度 0.3m/min. 0.3m/min.扉体重量 30.0t 40.0t製作年月 昭和53年3月製 作 三菱重工業株式会社洪水吐ゲートの上流側。丹沢湖は満水状態か。網場、永歳橋。洪水吐ゲートの下流側。河内川は下流で鮎沢川と合流し酒匂(さかわ)川に。洪水吐ゲートは6門あったか?。下流側を見下ろすが足元が「ゾッ」と。いつか訪れたい場所である。神奈川県の橋100選に選ばれている”松ケ山橋”をズームアップ。三保ダムの余水吐ぎの下流に架けられたダム管理用のコンクリート橋である。橋長96.5mのPC斜張橋で、わが国で初めての張り出し架設を行ったPC斜張橋として知られている。この橋の建設に対しては、昭和54年度の土木学会田中賞が授与された。三保ダムは”土質しゃ水壁型ロックフィルダム”である。北方向の丹沢の山並みが青空に映える。天端道路に設けられていた方位計。手前が「南側」。備えられたボタンを押すと小学生の声でダムについての説明が流れてきた。14:40天端道路からダム広場へ下る”ダム下流法面道路”。 ー 続く ー
2024.01.09
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