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ボクの一番の幸せな瞬間は小学校の門を出る時だった。ランドセルを背負って家路につく時ああもうボクは自由だ。学校が嫌いなわけではなかったが。7月下旬季節の中で一番大好きだった。もうしばらくは学校に行かなくて良い。でもたちまちにカレンダーはめくられあっという間に8月の半ば信じられない勢いで8月は進みくびきを負わされて曳かれる牛のように9月1日、新しい学期のへきとうに立つ。明日からは8月だがボクも子供時代ではない
2016年07月31日
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家の中ではすててこで過ごしているがそれでちょっと外出というわけにはいかない。外に出られる部屋着のズボンが欲しくて近くの衣料スーパーに自転車で行こうとした。妻に伝えると、風邪引きなんだから車で行ってね、と言う。近くへの一人での外出で車という習慣はなかったが(徒歩~自転車~バイクまで)妻に逆らわず、車で行くことにし夏用の薄い生地のズボンと靴下を買った。途中でコーヒーショップに寄りコーヒー豆も買った。
2016年07月26日
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ちょっと風邪を引いても家族に肩身の狭い思いをする。息子が外で枝切りを始めてもスワっと手伝えない。病妻がどんなに肩身の狭い思いで今日まで過ごしてきたか。それはきっと人生観を変えるほどだったのだろう。夏風邪もこのまま終熄してほしい。ぜったいに家族に移さないように、ぜったいに。明日の朝は、スッキリ!
2016年07月25日
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パソコンに向かっていてもポタリと鼻水が落ちるくしゃみが止まらない鏡を見ると顔が赤い涙目どこでもらったかな?人にはあげられないとにかく週報だけは作った
2016年07月23日
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ボクたちの群の聖会「関東夏期聖会」が開かれました。第50回の記念大会です。今回はボクたちの群を導かれた2人の先輩の教師がおもにお話しました。本当は3人でしたが、お一人は先年天にお帰りになったのです。目に見えてお年をとられたお二人の教師しかし講壇に上がられると「火炎放射器」のように語られます。若々しさにボクたちはしばし見とれる。やがて端正なそのメッセージに心奪われ、友人の一人は泣いていたようです。ボクたちは一様に喜びと満足感に充たされて、そこを後にしました。
2016年07月21日
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昨日の、妙義龍-稀勢里の取り組み軍配は妙義龍に上がったが、物言いがついてあっさり行司差し違えとなった。録画を見ると微妙で「取り直し」にしてもおかしくない。どちらかに上げねばならない行事泣かせだった。ボクはぴんと来たのだが審査員の皆さんは、稀勢の里に勝たせたいのだなと。観衆もそうだしテレビの解説者もアナウンサーも皆そうだ。そんな雰囲気いっぱいの中ではお相撲さんは稀勢の里とやりたくないのではなかろうか。稀勢の里としてはそんな周囲がわかるので余計固くなって負けやすくなるのだ。図体は大きいが気は小さい(そこがまたいいのだ)横綱はそろって外国人であり相撲のスタイルは日本古来の相撲と言うよりも格闘技に近い気がする。白鵬のかち上げに、何人も血祭りにされ骨折までさせられている。プロレスより怖いぞ。ボクの心に描く横綱はどんなときにもがっちりとうけとめ押して出す。上手投げうっちゃり!黙々と、堂々と。相手が飛んでいこうとする時にはまわしをつかんで怪我をしないように守る。そう! アスランのような横綱だ。そんな大関がいればもう大関でも横綱でもどうでもいい格闘技に負けても恥ずかしくはない。稀勢の里はそういう大関かな?
2016年07月16日
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「キリスト者の自由」~ルターテキストファイル化を終えた。岩波文庫で若い頃から所持していた。ページが黄色く変色したので裁断して、アクロバットでOCRをかけてスキャン読みながらOCRの誤認識を直していく。ページの変色のせいかアンダーラインを引いているせいか誤認識はなはだしく時間がかかる。でもこれをやっていると、変に気持ちが落ち着くのだ。テキストファイルだから、ワードでも一太郎でも他のソフトでも読み込むことができる。著作権期間発行後50年をとっくに過ぎているから「青空文庫」にだってあげられる。さて次は、この文庫後半所載の「聖書への序言」に取りかかるとしよう。「キリスト者はすべてものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。 キリスト者はすべてものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」 ルター『キリスト者の自由』より
2016年07月12日
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昨晩は開票速報を見ようとしてテレビをつけたら田園交響曲をやっていたのでそちらを見てしまった
2016年07月11日
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フランシスコ会訳新約聖書の通読を終えた。この訳本で3回連続通読。欄外の解説が役に立つので、ついこの聖書に手が届いてしまう。解説を読みながら読むのである。おかげで難解な聖書がよくわかる。新約聖書の最後の書「ヨハネの黙示録」は、天上の歌声と地上の戦いが交互に入れ替わる。こんな激しい書物が、ほかにあるだろうか。だれかこの書をアニメ化してくださらないかな。神の裁きがあからさまに記されているのは、「この書の預言の言葉を封じてはならない」と聖書記者ヨハネに言われているからだろう。世の終わりが近づいているので、開示しなくてはならないのだ。この書を真剣に読んだらなら卒倒する人もでるかもしれない。
2016年07月09日
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色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。是諸法空相。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。心無礙。無礙故。無有恐怖。「般若心経」という短い経文の中に、「空」「無」が出てくるフレーズがこれだけある。いろいろな存在や現象は実は「空」だから「無」。それを見極めて何が起こっても動ぜず平安であれ、という教えらしい。最後に呪文があるのは、その呪文がそういう悟りに入るためには必要なのだろう。「色即是空」を逆に読めば「空即是色」何もないのだから逆から読んでも同じ。波瀾万丈なボクたちの生涯に、一切は空、無、だから悟れといわれても無理かな?旧約聖書にも似ている思想があり、一切は空だけれど、神を畏れるのが一番いい、と結論づけている。だからボクは愛の神を信じる。興味ある人は日本聖書協会のHPから本文をダウンロードしてお読みください。以下は旧約聖書「コヘレトの言葉」(伝道の書)から自由引用(新共同訳聖書から) コヘレトは言う。なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。
2016年07月08日
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昨日は、神学校宿直で、今日は午前中いっぱい仕事してこようと思ったが妻との家庭礼拝を守りたく、9時過ぎに出てきた。彼女は午前の散歩を済ませてボクを待っていた。今日は出エジプト記3章モーセの召命モーセの生涯が始まっている。責任感、正義感の塊激情的な性格神と談判さえする。神からの召命を断ったが一転、従ってからは、もう脇目は振らない。人として、最も魅力ある人の一人だろう。心にとまった聖句をお互い読み合うのだが時に長々とした意見の交換となる。祈りの時間がなくなるよ。祈り終わったら正午だった。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ わたしがあなたを遣わすしるしである。」出3章12
2016年07月07日
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小池百合子さんは真っ先に声を出し揺がない。それが江戸っ子の心を揺り動かす。外の県で知事ができたから東京でもとそういう人を担ごうとしている人たちには江戸っ子の心がわからない。「おいらの都知事」とかつての美濃部さんやさきごろの石原慎太郎氏で溜飲を下ろした江戸っ子。イデオロギーや何かの都合とかみんなかなぐり捨てて小池百合子さんをみんなで推すのがいい。社民も共産党も「小池で行こう」と思い切って声を出してごらん。み~んなぶったまげて、すてきな東京都になるだろう。東京都よ平和都市のさぎがけとなれ。
2016年07月05日
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ボクの新約聖書通読もようやく「ヨハネの黙示録」にたどり着いた。始めに「7つの教会に宛てた手紙」が置かれている。それぞれの教会へのメッセージがある。このメッセージは難解なこの書の扉を押し開ける鍵なのだろうか?それぞれの手紙は「勝利を得るものには、」と結ばれている。勝利者キリスト。いたいけな赤子として、羊か山羊の洞窟小屋に生まれ置かれた主ではあったが十字架を通して、サタンに勝利し、ボクたちのために罪の赦しの完全な道を開かれた。復活なさって、十字架の勝利の上にさらに死を打ち破る完全な勝利を得られた。その勝利を堂々と生きるように、いつ何があっても堂々と生きるように終わりの戦いを前にして、キリストは7つの教会に求められていると思われる。キリストの勝利は、ボクたちの輝かしい未来だ。忍耐の期もあとわずかなのだろう。ぶれないで、そしてもう少し自分に厳しく生きよう。「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」(エフェソにある教会にあてた手紙)「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」(スミルナにある教会にあてた手紙)「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」(ペルガモンにある教会にあてた手紙)「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」(ティアティラにある教会にあてた手紙)「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」(サルディスにある教会にあてた手紙)「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。」(フィラデルフィアにある教会にあてた手紙)[勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」(ラオディキアにある教会にあてた手紙)
2016年07月04日
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