全5件 (5件中 1-5件目)
1
いつお会いしてもニコニコしている友がある。いつも一緒にいたい。一緒に仕事したい。ボクもそうありたい。真似はできないなぁ。
2018年01月24日
コメント(3)
荷物を届けようと、狭い路地に、大きな配達車が行き交う。待っている人がいると、懸命に車は走り荷物を取り出した人も玄関まで走る。うやうやしく手渡された人はいっそううやうやしく受け取ろう。この真冬にも、さわやかな風が吹くように。
2018年01月18日
コメント(2)
駅に向かう道で、保育園の子供たちとすれ違った。先頭近くの子が、ボクを指さして「おじいさん」と朗らかに言った。保母さんが困った顔をしてボクを見たので、ボクはほほえみを返した。はは~ん、典型的なおじいさんの顔なんだな。おじいさんになったおじいさんになった時は空しくたたずんでいるのではなく、また、無為にわたしたちの感覚を通り流れ去っていくのでもありません。時は魂の中で不思議な業をなします。そうです。時は日から日へやってきて、日から日へ去っていきます。来ては去って行きながら、わたしに別な希望と別の記憶を刻み込み、徐々にわたしを身近にある各種の快楽で再び満たしました。そして、あの先立つ悲しみはこれらの快楽によって消え去っていきました・・・・ アウグスチヌス「告白録」第4巻第8章より(宮谷宣史訳・教文館)
2018年01月13日
コメント(2)
旧年内に読み終えられなかったヨハネによる福音書を読み終えた。ヨハネによる福音書は三位一体の神ご自身の内部が開示されいるように思われる。神様の中に信徒が深く関わることが許されている。信徒は神様の中に包み込まれる。信徒がなぜこの世に置かれているのか、信徒が世に生き続ける霊的意味が示されている。年齢を重ねるほどに、ヨハネによる福音書の内側が心の中に開示されてくる。最後の章21章も心を揺すぶらずにはいられない。復活後の弟子たちは漁にでる。とりあえず元の漁師に戻ったと思われる。しかし何も獲れなかった。これは人生の営みのむなしさを表すのだろう。しかし復活後のキリストが来て、改めて漁を指示すると、大漁となり、弟子たちは慌てる。これは空しい人生にも、主が一緒におられる時に豊かな祝福が訪れる象徴なのだろう。長くなるのでこれ以上は書かないが、この場面に続くあと2つのエピソードがあり。
2018年01月09日
コメント(4)
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」 ヨハネによる福音書8章31節キリスト様の弟子になるなら、キリストのお言葉にとどまらなければならないのだな。温泉にじっと浸かっているように、キリストのお言葉にじっと浸かっている。ああ何というぬくもりだろう、キリストのお言葉は。「とどまる」って安らぎ。お言葉を聞き、心にとめ、やり過ごしてしまっては「とどまる」ことにならない。お言葉に腰を据える。いっそのこと、キリストのお言葉の上にわが家を建ててしまおうか。お言葉の「動力」に身を任さなければならない。愛のお言葉が心に響いてくるときに、ボクたちは立ち上がるだろう。いや立ち上がらせてくださるのだ。お言葉の力を信じよう。愛してくださったかたのお言葉だもの。愛するお方のお言葉だもの。
2018年01月01日
コメント(1)
全5件 (5件中 1-5件目)
1