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はじめまして。今日はいくきーと家の一員、フォード もんで男(アメリカ車10歳)が日記を書くことにしました。いくきーとがイタリアの免許を取ってから、ぼくは受難の日々です。とにかく彼女は荒いのです。先週は彼女、鍵の束をドアに挟んでぼくは切り傷を負いました。マルちゃんが慌てて黒チンを塗ってくれなかったら、そこから破傷風になっていたでしょう。年末のぼくの鼻を骨折、頭蓋骨陥没までの出来事はみなさんの記憶に新しいと思います。あれからマルちゃんが毎週末、ぼくを病院に連れて行ってくれたのですが、いつも待たされるだけ待たされて返されてしまい、いよいよ破傷風になりかけのころに、やっと入院、1週間できれいに完治して退院してきました。マルちゃんはいつもぼくに優しいから好きです。ちょっと汚れるとすぐ拭いてくれるし、いつも点検をおこたりません。先週の金曜もそうでした。1週間のマルちゃんの送り迎えで疲れ切ったぼくをお風呂センターに連れて行ってきれいに全身洗ってくれました。はあ、さっぱり!家に帰り、マンションの中のぼくの定位置に着くとマルちゃんは「もんで男、おやすみ~。」と言って家の中に入っていきました。そこからぼくはお隣りのヒュンダイ ゲッツさん(韓国車 2歳)と少しおしゃべりをしたあと、空に瞬く星をながめながら眠りにつきました。夜中。明るいライトに照らされて目が醒めました。時計を見ると3時半。ああ、斜め向かいのクライスラーさんか。こんな遅くまで、ディスコにでも行ってたのかな?ちょっとだけ、横目で見てぼくはまたすぐ眠りに着いたのです。そして未明。数人に身体を触られて、びっくりして目が醒めました。見ればジプシーです。なんと、さらに何人ものジプシーが高い門を乗り越えて次々にマンションに侵入してくるではありませんか!そして、なんとそのうちのひとりの男がハンマーを取り出し、ぼくの助手席側のガラスを「ガッチャーン」と破ったのです!!「ヒュンダイさん、助けて!!」なんと、ヒュンダイさんも破られてます。斜め向かいのクライスラーさんも、そのほか何台ものご近所さんがはがいじめにされ、ガラスを破られて中に侵入されてるじゃありませんか!!ぼくには、防犯装置があって、ドアを開けると「ウインウイン助けて~!」と叫べるのですが、こいつらそれを知っていて、決してドアに手をかけようとしません。ずるり、とひとりの女が窓から入ってきました。まるで生爪をはがすようにぼくのカーステのついている表面をナイフみたいなものと指とでうんうんはがそうとします。あまりの痛さに噛み付いてやりました。女は「ぎゃ!」と小さく叫んでちょっと手を離しました。指から血が出ています。ざまあみろ。でもぼくの表面にもちょっと血がついてしまいました。ああ~、いやっ。女はそこから腹いせにぼくの表面をむりやりはがしたので、ぼくに大きく裂き傷がついてしまいました。そして手馴れた様子でネジをはずし、カーステをぶちぶちともぎ取って、マルちゃんがイスの下に隠していたカーステの顔もあっというまに見つけ出して持って行ってしまいました。この地獄絵はしばらく他のクルマでも行われた後、やつらはまた門をよじ登って出て行ったのです。ぼくらはぼうぜんと朝を待ちました。そして出勤してきた門番さんに発見されたのです。門番さんはすぐ警察に電話して、マルちゃんにも知らせました。被害者の中で真っ先に飛んで来てくれたのはマルちゃん。うれしかった。でも、そこからすぐ病院に連れて行ってくれるかと思ったら、意地悪ないくきーとが「今日は大切な建築士との約束があるんだから、ちょっとぐらい我慢しなさい!」と窓にガムテープでクリーニングの袋をべたっと貼り付けてまずは新居に行かされたのです。あまりの彼女の思いやりのなさに腹が立ったので、高速に乗ったときにビニールをはがしてやりました。2人は寒さで震えてます。でも、ビニールが完全にはがれなくて、風で「びるるるるるるるるるるるるるるる」とすごい騒音、いや超音波を発して耳がおかしくなりました。新居に着いて、建築士との話も終わるとやっと近所のクルマのガラスの救急病院に連れて行ってもらえました。行くとそこは長蛇の列。他のどの患車もみんな同じように窓が破られて傷を負っています。聞けば、みんなぼくらと同じでここ2,3日中にジプシーにやられたクルマばかり。うちの近所はミラノに比べたら、だんぜんジプシーは少ないと思って安心していたのになあ。この日はとりあえず、強化プラスティックを窓に張ってもらって本物が出来上がるのを待つことになりました。でも窓には保険が効くけど、カーステと、その表面の壊されたカバーには効かないんだって。ガラスの救急病院の看護婦さんいわく、以前のいくきーとの会社の盗難事件同様、あの市場に行けば見つかる確率が高いらしい。マルちゃん「しかたがない、あの市場に買いに行こう。」自分が盗られたものをお金を払って買い戻すって。。。。汗。まあ、警察沙汰にするより簡単だけどね。。。。。**************もー、びっくりです!今朝は遅刻して会社に着き、あたふたとメールを開けたらおびただしいリンクのお知らせだし(新しくリンクしてくださったみなさま、数日中に遊びに行きますね!)、楽天の少数のお友達ぐらいしか見てくれないだろうな~、と思い込んで作った例の旅行日記もいっきにアクセス数が1000超えてるし。いったい何事?!と我がサイトを開けると、「めでたい、めでたい」のコメント続出。いや~ん、楽天 広場オブ ザ イヤー2004「審査員特別賞」なんていただいてしまって、いいんでしょうか!?恐縮すぎて今、これを打っている指も震えております。これも推薦してくださった匿名希望さん、いつも読んでくださっている皆さんのおかげです。この受賞の重みに押しつぶされないようにこれからも頑張って精進していきたいと思いますので、時々「へ?」な日記を書いても怒らず、暖かい目で見守って行ってください!!ここから追記:ところで受賞のお知らせ、楽天さんからメールで来ていたみたいなんですが、どうも迷惑メールに振り分けられてたみたいで「受賞?まーた変なメールが来たよ。」と開けもせずに捨ててしまったようです。で、受賞のバッチみたいなアイコンのHTMLも記入してあったみたいなんですが、回収できず。。。とほほ。すみません、楽天さん、これを読んでくださっていたらもう一度送りなおしてもらえますか?情けなや。ご迷惑おかけします。
2005.01.31
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10月3日午前はRABIDA島へ。 不思議な島だ。茶色の山には白い枯れた樹木が覆っている。 ジョージは冬だから樹は枯れているんだ、と言うけれど楽に30度を越す暑さだ。 ここではウチワサボテンの藪を歩いた。小さなガラパゴスにだけ住むうずらが足元をすり抜けていく。。。。写真つきで見たほうがいいです。こちらへ。
2005.01.28
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きのうはおっとにこっそり予告なしに抜き打ちで新居を見て来てもらった。古い壁も全部取り払われていて、家はまったくの「箱」になっていたらしい。階下の家の工事も始まっていた。今週末にまた現場にて配線の位置などの話し合いバトル第2弾である。ちなみにおっとが現場のおっちゃんたちに「ちゃんとぼくたちのリクエストどおり、やってもらってるよね?」と聞くと、おっちゃんたち「心配するな!ちゃんと見取り図どおり進めてるよ!!」と見せてくれたのは、我々が見ることもなかった建築士が以前に描いた古い見取り図だった。。。。。。まだ工事、始まったばかりなんですけど??涙やっぱりこの先不安だ(大汗)。**************さて、今日の本題写真つき日記はこちら!
2005.01.27
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いい気になって写真をいっぱい載せてたら、あっというまに最高限度の100枚を超えてしまった(楽天はせこいな)。なんで、今日からは文章だけで。。。。(写真付きでご覧になりたい方は例のまだ未完成の旅行HP、ここをぽちっとな)9月25日この日は待ち遠しかった両親の帰国日。わたしはぶーぶー文句ばっかり言っている母のお供はいい加減、切れかけていたのである。(しかも我が母が「うちの娘はエクアドル人なんかと結婚させるためにイタリアに出したんじゃないわよ!」と声を大に日本語でぼやけば(でもニュアンスでわかるっていうの)、義母が「うちの息子は勝手に家を飛び出してイタリアに行ったと思ったら、ガイジン女と結婚して帰ってくるしっ!」でバチバチと火花を散らすシーンなんかもあったし。本当にあった恐い余談)朝、両親はホテルをチェックアウトしておっとの実家にはじめての挨拶に来る。わたしたちは家を慌てて大掃除、新しいお皿を買いに走ったり、同居犬オダちゃんをお風呂に入れたり、昼ごはんに近所のおいしいセビチェ屋に仕出しを注文したり、バタバタである。実は義父(彼は我が母VS義母戦争を知らないので友好的)のアイデアでわたしたちは昼食時にあることを考えていて、次男がそのために外に出かけた。昼の12時ちょっと前に我が両親がやってきた。日本人は時間に正確である。しかし、まだ次男は帰ってこない(セビチェも奴が持ってくる)。それを待つために私たちはおっとの小さい頃のアルバムなどを引っ張り出し、我が両親にみせて時間稼ぎ。いい加減、話題もつき、テーブルの上の空のテーブルセッティングをうらめしそうに見ながら母が「ねえ、もう早いけど空港に行きましょう。」と言ったとたん、外で騒々しい音楽が鳴った。そう、次男がマリアッチの楽隊を家まで連れてきたのである(セビチェも)。マリアッチとは中南米の楽隊でメキシカンハットをかぶってギターやトランペットで曲を演奏する。目をまんまるにして、固まる我が両親。母はびっくりしてぽかんとしたまま眉をしかめて演奏を聞き、父は楽しそうに体を揺らしはじめた。それをみて義父が父を招いて音楽にあわせて踊りだし、ふたりが踊り終わったところで演奏は終わり、マリアッチは退場して、すっかり今までの緊張が解けて場がなごんだのであった(ああ、最後の最後にだよ。。。)。 そこからやっと昼食会。 すっかり仲良くなった父同士はテキーラに似たエクアドルの強いお酒で乾杯。 妹が飲み方を教えるなど楽しい昼食会になって、やれやれ。。。。 しかし昼食後、別れを惜しむ暇もなくすぐさま皆で空港へ。 涙もろい義母は泣いている。 そして私に「なんで泣かないの?あんたの両親が帰っちゃうのよ?」と聞いた。 そんなことで、泣かないよっていうか、お義母さん、よく泣けるねえ?わたしはかえってうれしいんだけど(ぼそっ)。 そして両親が帰るとわたしは急に緊張の糸がほどけ、その夜、高熱を出したにもかかわらず、おっとの友達たちとのカラオケに行った先で具合が悪くなって、タクシーで帰り、すぐに寝込んだのだった。次の日 9月26日。うるさい我が両親も帰ったのでこの日はおっとは安心して朝から歯医者。 兄弟たちは学校、仕事へと出かけて行き、家の中は私と義父母の3人となった。義母が熱が下がった私に「鶏とオレガノのスープはどう?」と聞いてきたがていねいに断った。(ガイジンの病人食にはこりているわたし。)そのままベッドに戻りたかったが、義父母が何か言いたそうだったので、紅茶だけお願いしてテーブルを囲んだ。 そしてはじめて彼らは待っていました、とばかり顔を見合わせて、おっとの通訳なしでいろいろと聞いてきたのである。歳はいくつか、日本のどこから来て何をしてるか、など。???普通、結婚する前に息子はどんな嫁だか語ったり、両親は嫁にたいして質問攻めにしないんだろうか? おっと、わたしについて何も話してないのか?質問はイタリア語に似てるからだいたいわかるのだが、スペイン語で答えれない。英語で答えると、彼らはまったく英語がわからない(このときは緊張していて「わたしがスペイン語がわかるんだから、彼らにもイタリア語で答えればちょっとはわかる。」ということも考え付かなかったのである)。困ってしまった。まるではじめての語学留学でホストファミリーと会話してるみたいだな、と思いつつやっとイタリア語をスペイン語なまりで話すことでなんとか通じたのだ。義父は「1つわかるのに3時間かかるな。」と言いながらも会話がとりあえずは成立することにちょっとうれしそうである。そのうち、おっとが帰ってきたので、ガラパゴスに行くツアーを探すため、2人で中心街へと出た。その前におっとが「みせたいものがあるから。」というので歯医者へ。「これ、日本の雑誌でしょ?」と待合室にあった雑誌を取り上げてみせる。「週間新潮」 やや?なんでこんなところに? すっかり黄ばんで古そうだ。日付をみると、昭和52年。 いったいいつからここにあるの?(そういえば今年は平成何年だっけ?) 誰が持ってきたの??謎は解明されないまま、そこから中心街へ行き、さっそく旅行代理店を廻った。国内なのにどこの代理店も海外旅行並みのお値段にびっくり。お金も時間もない私たちは学生向けのツアー会社で3泊4日の一番安いツアーを選んだ。正確な値段は忘れたけどエクアドル人価格と外国人価格があってなんと120ドルも差がある。おっと「僕たちは夫婦なんだけどどうにかならないかなあ?」と窓口のお姉さんに聞くと「結婚の証明書を提示してくださればいいですよ。」というではないか!?しかしそんなもの、エクアドルにまで持ってきていない。お姉さん「市役所にいけば、お急ぎなら1日で式が挙げられて、証明書も発行してくれますよ。」と教えてくれた。 ああ、エクアドルでも、もういちど結婚式?!一瞬にして世界はバラ色になった。これで、イタリアの結婚式に来れなかった義父母にも結婚式がみせられて一石二鳥ではないか!さっそく市役所に電話して問い合わせる。「出来ますよ、日本領事館指定の書類を持ってきてください。」そして日本領事館。「えーとですねえ、あれとこれと、あの書類を日本にいるご家族にでも揃えてもらって。。。」うぐ。これではまさにイタリアの挙式の前の地獄の書類揃え公式と一緒である。全部揃えるまで、どれだけの血を吐くような時間と苦労を要したことか。(でも、今考えてみたら日本のは早かったんだよねぇ。でも、そんな短い時間も待ってられなかった。) やはり、そう簡単に結婚式とは挙げられないということ。私たちはあきらめてしぶしぶ120ドル余計に払ったのだった。
2005.01.26
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9月24日(水曜日)この日はキトからクルマで南下3時間のところにきれいな温泉保養地があると聞いたのでそこに行こう、と決めていた。だが、おっとの友人に1ヶ月前にあった火山の噴火の灰のためにそこは未だきれいになっていない、と聞かされ、慌ててどこに行くか、という話になった。(結局、きれいだったらしいが) 我が父が「山はみたし、後は海と密林のバナナがみたい。」と言ったので、予定を変更、同じくクルマで3時間だが海沿いの村、サントドミンゴに決定。 サントドミンゴとは赤いおかっぱ髪のインディオの部族のいる村らしい。 キトからクルマで山を降りること1時間、常に薄ら寒かったキトやオタバロが嘘のようにだんだん蒸し暑くなっていく。 高度が変わったせいで耳の奥がキーンとおかしい。 あくびをしたりガムを噛んで解消しているうちにどんどん父の希望通りの密林、バナナの楽園へと景色は変わっていった。我が父「日本の山みたいだなあ。」そ、そう?お父さん?こんなところ、日本にもある??ブタをつるして売ってるし、岩壁にこんな彫刻まであるよ?そんな?景色を満喫しているうちにサントドミンゴに着いた。でも、そこは予想していたインディオの部族村ではなく、小さいのにキトの10倍は騒々しい汚い臭い、治安の悪そうな街だったのである。がっかりして給油だけしてすぐに退散する。あてもなく、車を走らせているうちにおっとが「「昔の暮らしを見せる村」って看板があるけど行ってみる?」というのでこのまま空振りで帰るのもなんだし行くことにした。大通りを曲がるともうそこはバナナ林が広がるのどかな村。 村の入り口でたむろっていたおっちゃんたちに「どこでも好きな家に行きな、見物させてもらえるから。」と聞いたのでさっそく1件「占い有り」と書かれた家におじゃますることにした。まるで日本の昔の田舎の家のよう。おっちゃんたち、ああは言ったけど、ほんとに家を見せてもらえるの?こわごわ、庭に入っていくと、わらぶきやねの粗末なつくりの小屋の前で2人のおっさんがたばこをスパスパ吸いながらビールを飲んでいた。見学を申し込む。「ちょっと待って。」とそのうちのひとりがフラフラと焦点の定まらない目で小屋の中に消えた。だ、大丈夫かよ~?待つこと数分、やがておっさんは民族衣装に着替え、頭に紙で作ったとしか思えないチャチな赤いかつらをかぶって小さな息子と一緒に出てきたのである。彼はまず「私はサンフランシスコの医学大学を卒業し、博士号を持っています。」と自慢話からはじめた。(なんで博士号持ってる人が、今頃飲んだくれてるんだ?!) 「どんどん写真を撮ってくださいね、いろいろ家をみせますから。」と絶対家の中はみせないが鶏や犬が遊ぶ庭をみせ、放置してあった木琴のような楽器をぽんぽんとかなでる。すっかり観光客慣れしているようだ。そして庭の隅にはほったて小屋があった。おじさん「ここは古代からの占いのための部屋です。私はこの占いの研究のために一生を捧げるつもりでやっております。どうですか、占ってみますか?」と聞く。どうみても、このおっさん、お酒臭いし、うさん臭いんだよね。。。?わたしが「NO!(日本人だけど言えるぞ)」という前に、「YES!!」と言ってしまった義母。「占い」に目がないらしい。あ~あ。小屋に入ると更に布で1段上がった台が囲むように仕切られ、そこに神棚?みたいなものがあって占いに使う道具や変な偶像が所狭しと並べられていた。おじさんは機関車トーマスのようにスパスパとたばこをふかすのをやめない。相変わらずたばこを口にくわえながら、義母を座らせ、背中をバナナの葉でなではじめ、あやしい呪文を唱えながら何かを祈りだした。それから「すみません、やっぱり気が散るのであなたがたは出て行ってください。」と言われてしかたなくわたしたちは義母を残し、外に出て小さな息子と写真を撮ったりしているうちに占いが終わって2人が出てきた。 義母に聞くと「うーん、当たってるような、当たってないような占いよ。」 やっぱりね。 おじさんは「本日はまことにありがとうございました。これでツアーは終わりです。おひとり家の見学料40ドル、それから写真1シャッターにつき20ドルいただきます。」 えええ!?なんだ、この法外な値段は?!それに 1シャッター、どうやって払うんだよ(爆笑)!?見学料40ドルって、あんたユニバーサルスタジオの1日パスと同じ値段じゃん!?決しておっさん、ユニバーサルスタジオよりおもしろくなかったぞ!義母はすかさず「あんた、さっき私から法外な占い料をとったばかりじゃない!」と叫んだ。2人きりになったのはそのためか。おっとも「ばかばかしい、払えるもんか!」と母子2人して詰め寄った。 おじさんはすぐ弱気になって「うちもこれだけで食べてるし、息子を学校に入れるのに金がいるんだよ。」と泣き落とし。大のおとなに泣かれるとねえ。。。しかたなく全員で40ドル払ってこの家を後にしたのだった。(今考えるとこれでも高すぎ!!)サントドミンゴの帰り道は別のルートをたどって帰った。キトに近いスカイラインはきちんと整備されていて色とりどりの花が咲き乱れている。 前日のおっとの友人から「ミンドのバタフライファームはいいぞ。」と聞かされていたので、まだ日も高いし、そこへ行くことにした。インディジョーンズにでも出てきそうな荒野の村を抜け、4駆でもなければ行けそうもない密林に入り込んでいく。とうとう泥でクルマが動かなくなったときに外に出て歩いた。 どこに、そんな「魅惑のバタフライファーム」があるんだよ。。。どこまで行ってもジャングルである。背丈より高いやぶの中をザクザク歩く。母はヒールが泥でグチョグチョになるわ、蒸し暑いわ、見たこともない虫はいっぱいいるわで、カンカンである。(っていうか未開の地に行くのにヒールもないと思うのだが。)そんな母をなだめながら、不安になって10分ほど突き進むと大きな木の看板に「バタフライファーム」と英語で書かれてある浮いたようにすばらしい庭をみつけた。日本の庭園造りに似て、自然の地形を生かした小川やあずまやがあり、いい感じである。ワクワクして入るとドイツ人のような品のいい女性が出てきた。「何か御用ですか?」蝶は見当たらない。どこかに囲ってるのかな?彼女が言うには蝶は放し飼いなのだが、活動時間は朝で、今は全部眠っているという。確かによくあたりを見渡すと2,3匹ひらひらと舞っている。あんなサントドミンゴに行ったなら朝からこちらにくればよかったなあ。。(今となってはこれも強烈な思い出となったが。)悔やみつつキトの郊外のパニシージョの丘へと向かったのだった。パニシージョとはパンの形に似ているところからつけられたらしい。しかし、運が悪いことに着いたとたんにひどい夕立。これだからエクアドルの気候って落ち着かなくてイヤになっちゃう。1日のうちに晴れ、曇り、雨、雷、そして冬のような朝の冷え込み、夏のような昼間の暑さ、全てがあって落ち着かない。(おっとの落ち着きがないのはそのためか?)ここは頂上のでかいマリア像だけみて、雨が収まるのを待って 「ミタデルモンド」という有名な赤道記念碑へ移動した。「エクアドル」とはスペイン語で「赤道」である。だから、当然赤道があって、赤道記念碑前には白い線が引かれていてそこが赤道だということを指していた。その上をふざけながら、なぞり歩いて記念館に入る。中にはエクアドルのインディオの歴史と人種が展示されていていた。めんどくさいんで説明はしないけど、やっとエクアドルにこれだけさまざまな人種がいる理由がわかったような気がする。晴れてきたのでキトの旧市街に行く。おっとはイタリアに来る前より治安があまりにもよくなってきれいになったのをみて驚いていた。それもそのはず、その後、入った蝋人形歴史博物館で聞くと2004年にミスユニバースがキトで開催されることが決まり、そのために急遽、整備されたとか(空港も拡大工事中だったし)。この時点でいいかげん、いろんなところを廻りすぎてヘトヘト。それもあるが、街しか出歩かない母が密林で「もう耐えられないわ!!」という文句を100回以上は叫ぶのを聞くのにもヘロヘロになった。更にこのあとは。。。。(まだ続くかよ、って?) この夜は待ちに待った私のミラノの学生時代のエクアドル人の旧友との食事会だったのである!(おっとと付き合うまで彼女がエク人だってことも忘れていたぐらいエク人離れした娘なんだけど。。。)彼女と、彼女が連れてきた友達はいちどヨーロッパにも旅行に来てうちにも泊まったのでおっととも顔見知り。(ライフスタイルもエク人じゃないでしょ?)私たち2人とこの友人たち、そしてその彼氏彼女たちとアメリカ系のファミレスで夕食に行った。フライドポテトやハンバーグの大きさはアメリカサイズ、並みじゃない。そして油でギトギト。う~、食べるのが苦しい。。。。 そのあと、どうなったかと言うと: わたしはおっとの実家に帰るなりトイレに駆け込み、夜中じゅう、腹痛に苦しんだのだった。正露丸よ、ありがとう。
2005.01.25
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イタリアでは45匹の厳しい訓練を受けたイヌのうち、1匹が麻薬犬としてデビューが出来ればいいほうだという。この困難な作業をこなせる犬が出てくる確率というのはかなり低いのだ。我がおっとも「ここに行こう!」とか「これをしよう!」の発言50回のうち、実現されるのは1回あるかないかである。困難な麻薬犬誕生より確率の低いおっとの口約束って。。。。。汗新しいお友達のturbo717さん、すみません。免疫がなかったばかりにあなたには、多大な期待を抱かせてしまいました。週末のマッターホルンのスキー計画、やっぱり口だけだった。。。っていうより行く気はあったみたいだけど、日本人から考えたら、どうやったって 無 理 ! !土曜の朝はベルガモの修理工場にワゴン車を取りに行って(まだ修理できてなかったけど)、土曜の夜にウイリアムの婚約者の誕生日パーティのあとに、前回服装チェックでおっとが入場できなかったマッジョーレ湖(ミラノとは別の州である。)にある、高級ディスコ「ジルダ」なんかに行ってたら、どうやったって日曜の朝早くから、スキーに行くなんて出来ると思う?おっとは「土曜のディスコ、早めに退散したら大丈夫。」とのたまわったが、わたしも、免疫がないはずのもうすぐ日本へ帰国する麻衣ちゃんでさえもこの時点ですっかり希望を失い、麻衣ちゃんのおニューのスキーウエア(これを買ってしまったことが免疫がないことを証明)を「また次回、イタリアに来たときにね。」と押入れにしまいこんだ。そしてわたしたちはあきらめて、念入りにお化粧をし、今度はおっともきちんとスーツを着込んでウィリアムの家へと向かったのだ。わたしと麻衣ちゃんはいつもウィリアムのお宅で行われるアメリカンスタイルな友達、親戚いっぱいで、風船やケーキの山にうずもれた誕生日パーティを想像していた。が、いたのはウィリアムと婚約者と、アメリカから娘の結婚式のために来た(結局結婚式は延期で未定だけど)婚約者のお母さんしかいなくて拍子抜け。この婚約者、ウィリアムの家族みたいにわいわいがやがやするのが嫌いなのかな?と麻衣ちゃんとふたりで解釈する。この後、まめな麻衣ちゃんは自らキッチンに立ち、つくってくれたチャーハンをみんなで食べて、おしゃべりをして場が和んだところでお母さんを除く5人でディスコに行くことになった。高級ディスコ「ジルダ」に着いたころには夜中の12時を廻っていた。毛皮のコートを身にまとったハイソなお姉さんなんかが入っていくので身を固くしたが、今度はおっともすんなりパス。しかし、12時過ぎてるのに、まだ早いのかガラガラで誰も踊る様子がない。そして踊れば暑くなることを予想して薄着で来たわたしたちは震えながら、しかも氷の入った冷たいカクテルを飲んでもう少し混み出すのを待った。12時半を過ぎるとやっと混みだしてきて少しずつ若い女の子から踊り始める。1時を廻るころにはあっという間に満員電車状態になり、押し合いへしあいしながら踊ることとなった。なにが、去年と違って素晴らしいかって、今年から公共の場、ディスコももちろん禁煙になったことである。空気が澄んでいる。これで、体中が煙臭くなることはなくなる!とこの状態を満喫していたのはつかの間で、ある重大な落とし穴に気付いたのである!!2時を廻るころには押し合いへしあいで踊っていたイタリア人たちの運動量が足りて汗をかき出した。そう。。。。。別の異臭に包まれることとなったのである!わきがの臭い、汗と混ざったきつい香水の臭い。夏の地下鉄現象である。これらのブレンドでディスコ全体がたばこではない生ごみのようなにおいで充満したのだった。たばこはこれらの臭いを中和させる働きをしていたのか。。。。わたしたちはすっかり気分が悪くなり、命からがら開いている寒い窓辺のベンチに腰をおろした。ちょっと気分も良くなってきた頃に踊りたくてたまらない婚約者が「踊りましょ!」とわたしと麻衣ちゃんの手を引くので踊ることに。しかし、ウィリアムが何か暗い。気になりながらもわたしたち女性群は男性群を残して踊りに出かけたのだった。すっかりわたしたち女性群が踊り疲れて帰ってきた頃もいまだウィリアムは暗い顔、おっとまでも暗い顔でベンチに座っている。おっと「もう、帰ろ。」びっくりして時計を見る。まだ3時にもなっていない。いつもなら閉店ぎりぎりまでいたがるのに。。。?冗談かと思ったら、このあと本当にウィリアムと婚約者を送り届けて帰途についたのだった。またもや下戸だというのに上手に飲まされてしまった麻衣ちゃんが後部座席で気を失ったように寝込んでしまうとおっとは重々しく、口を開いたのだった。これから下は暗くなりたくない方は読まないように!*************ウィリアムのことである。以前にも書いたが、彼の両親は彼が12歳のときに離婚し、それからというものお母さんが働きに出ている間、彼はまだ幼い2人の兄弟の面倒をみなければならなくなったのである。とりあえず中学は行ったが、働くために中退、今まで苦労を重ねた上にイタリアにデカセギ、生活が安定しだしたところでお母さんと兄弟、そして親戚を呼び寄せた。しかし、弟はまだ若いこともあってか、ひとつの仕事が長続きしなくて失業を繰り返しているうちに出来ちゃった結婚、妹は最近やっと高校を出てパートで働き始めたが低収入。お母さんも最近無理して家を買ったものだからお金がない。。。で、結局彼が稼ぎ頭となって、昼に運送業、夜中に新聞配送をして寝る間を惜しんで家族の面倒をみているのである。そんな彼にもやっと春が訪れもうすぐ結婚、というニュースを聞いて我々は祝福していたのだが、例の事件である。おっと伝えに聞いていたものだから、あんなふうに書いたけどよかったことにまだ税務署にはばれてないらしい。が、ここでばれると彼は本当に終わりである。というのは。あの派手な婚約者の両親も離婚しているというウィリアムとの共通点がある。境遇が一緒だから、恋に落ちたんだろうな、と想像する。しかし、派手な婚約者からもわかるように両親の暮らしっぷりも派手なのである。実(じつ)があってそうならいいのだが、本当は生活にも苦しいぐらいらしい。で、まず南イタリア在住のお義父さんは失業中でもうすぐ手持ちの労働滞在許可証が切れてしまうので自営業をしているウィリアムに「かかる費用は全部自分で払うから、架空で従業員としての手続きをしてほしい。」と頼んできた。ウイリアムはまさか未来のお義父さんの頼みを断るわけにもいかず、苦労して彼のためにお金を都合し、従業員にする手続きと滞在許可証の手続きをしたのである。そしてお義父さんはこのあいだ、めでたく滞在許可証を手にすることが出来た。ここまではよかった。しかしお義父さんがここからとった行動、というのは。それにかかった費用を返すこともなく、そのまま新しいコロンビア人の彼女とコロンビアに彼女の豊胸手術の旅行へ出かけてしまったのであった!!しんじられな~い!!!かたや未来のお義母さんはというと。今回、本当だったら彼らは去年の12月末に結婚の予定だったのでアメリカに住んでいるお義母さんを招待したのだ。「あなたたち、生活が大変みたいだし、あとで払うからチケットの手配をお願いね。」とウィリアムにイタリアまでの航空券を買わせて、返す様子がない。お金がなくて結婚が出来なくなったのでウイリアムは罪滅ぼしに、といろいろ一緒に外出したり、買い物に出かけるのだが、このお母さんと娘はビタ1文出さないのである。今の家の改装にも相当お金がかかったが、全て彼女がセレクトし、ウィリアムが支払った。。。という形。こんな婚約者もわたしたちには「仕事が忙しくて。。。」と言っていたのだが実は失業中。いろいろ仕事はあるのだが、お嬢様気質で育った彼女は全て気に入らないらしく断っているのだという。そりゃ、誕生日パーティを企画する気も失せるわ。。。つまり。ウイリアムはただでさえ、自分の家族を支えるのに精一杯なのに、いまや彼女の家族まで支なければならないのだ。苦労して育った彼はこれらを断るすべを知らない。なんでも背負い込んで頑張ってしまうのである。いくら好きだの、愛だの言ってもこれではこのふたりが続くわけがない。このまま続けたら、しかも税務署に何年も税金払ってないのがばれてここまで手とお金をかけた家を没収された日には、確実にショックアンド過労死するだろうな、こいつ。。。。わたしは今までおっと同様のいいかげんさに、憎しみまで感じていたウィリアムにはじめてすごく同情をしたのだった。麻衣ちゃんも後で話を聞いて、あまりのショックで青ざめていた。麻衣ちゃんいわく「次回イタリアに来るときは、ウィリアムに炊飯器(ずっと欲しがっていた)、持ってくることにするわ。」うんうん、そうしてちょうだい。彼の行き着く先が楽しみ。。。いやいや不安なわたしたちであった。
2005.01.24
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9月23日(火曜日)この日は我が両親、義母、おっととわたしでレンタカーを走らせ、キト近郊のインディオの部族の村オタバロへ行った。行く途中、エクアドルの最高峰コトパクシが見える。日本の富士山にちょっと似てるかも?雪をかぶったきれいな休火山である。山好きの父は何度も「あ~、おっとくん。ちょっとクルマを停めてくれ。」と何度も車を停めさせて写真を撮りまくった(おっとはこの日から完全に我が父のアッシーとなったのだ)。そして途中の湖のコテージ(おしゃれだったわ、名前忘れたけど。)でお茶をしたあと村へ。村に近づくにつれて、川が見えた。見れば、たくさんの背が低く浅黒いオタバロ族の女性がほとんど半ヌードの状態で足で衣類を踏みながら洗濯をしている。まるでタイムスリップしたようである。(写真はさすがに失礼なんでやめた)村に着いた。村は整備されている普通の「町」だったので、さっきの光景と比較して「??」になるわたし。。。たくさんのひとが今でも当たり前に民族衣装をつけて暮らしている。しかし、ここに来る前にガイドブックでみた村はお土産物屋で埋め尽くされていたのに、生鮮(?)市場があったためか、野菜や肉の異臭におえっぷ。市場は混んでいてオタバロのおばさんが野菜や動物までも背負って歩いているのにすれ違う。道にただござをひいただけの「店」先にブタの頭がどかんと置いてあったりしてすごすぎ。我が母を見ると、顔をそむけ、ハンカチを鼻にあてている。う~ん、わかる。日本でも「市場なんてに行ったこと、ないんざますの!」な母だしな。。。おっとのお母さんも付いてきたのだが、彼女は車からも降りなかった。(っていうか、わかってるんだったら、そんなところに連れて行かないでよ。)そうやってかなり予想(広場にトーテムかなんかあって、輪をつくって踊ったりしているイメージ)を裏切られて車に戻り、しばらく行くとやっとガイドブックどおりの広場に出ることができたのでここまで来た甲斐があった。そこはカラフルな手作りの服や置物でいっぱいである。こんな人形とか模様付ひょうたんとかピカチュウマラカスとか。独特の画風の小さな絵や十字架を売っている屋台をみつけた。何個か購入。売り子の少年は「お父さんの手描き」だという。とてもアーテイステイックなこの画風、こんな露天で売るのはもったいないな。。。でもエクアドルで芸術家はなかなか育たないか。(なんて思ってたらキトのお土産物屋にも同じような画風のものがいっぱいあって、オタバロ族の画法だって言われたんだけどね。)そのあと山間のコタカチ村へ行った。小さな村なのに皮の店がひしめき、しかも最新流行の型の服やかばんが安い。全部、プラダとかグッチの型のコピーっぽいけど、イタリアみたいに「PRABA」とか「GICCI」とか入ってないからいいよ。いろいろみたあげく、小豆色の皮のジャケットを購入。たった70ドルなり。安かった!我が父も感じのいいジャケットを見つけていたんだけど母に「安すぎて気持ち悪いわっ!!」と訳のわからないことを言われて結局買えなかったのである。 昼食は村のアメリカンカントリー風の可愛いレストランに行った(故郷ではプレイボーイであったというおっと(自称)。こんなむずかしい義母のためにいろいろと出発前にレストランをセレクトしていたようである。)しかし、そんなおっとの努力を打ち砕く行為をしてしまったわたし。だって、メニューの中に「クイのから揚げ」なんて見つけてしまった日には。。。。。(古いお友達の皆様、しつこくてゴメン。だってインパクトが強すぎて。。。)やっぱり挑戦するしかないでしょ!?ふふふ、ネットなんかで見て興味しんしんだったのだよ。しかし、臆病者のわたしはひとりで頼めなくて義母さまにお願いしたのである。クイとはまさに日本でペットとして飼われているモルモットの一種。というか、そのもの。 この国ではクイを重宝していて古代はクイを自分の体の悪い部分に押し当てて病気を吸い取ってもらったりと呪術療法にも使われたらしい。(きのうたまたまTVでエクアドルのドキュメンタリーをやっていて、今でも山岳地帯では普通にやってることが発覚!病気を吸い取った後のクイは、かわいそうにその陰の気のために死んじゃうんだよ~。)そして待つこと10分ほど。。。運ばれてきたのはクイの開きのからあげ。 「ひっ!!!!。。。」気絶寸前で固まってしまう我が母(予測済み)。 その前で義母は「私、頭が一番好きなのよね。」と上品に歯までついている頭からナイフでザクザク。 ナイス、お義母さん!(後からわかったことなのだが、わざとやったらしい。義母VS我が母! 双方、遠い国でよかったよ。。。汗)そして私にももも肉を切り分けてくれる。小さなつめと肉球がそのままの足をつかむ。肉球のぷにぷににふれて鳥肌が立つ。そっと口に運ぶ。少しだけかじった肉は鶏かブタのようなあっさりした味だった。悪くはなかったがこれ以上、肉球をつかみ続けることが出来ず、それよりも私の前で悪魔をみるように睨み付ける母の視線に耐えられず、肉を離した。 この後、「血の湖」と呼ばれる哀しい逸話の残るきれいな湖(どうってことのない湖だった)をみてホテルに帰る。 両親の部屋でシャワーを浴びた後、はじめておっとの家に帰宅。実はこのままホテルに滞在したかった。だっていつでもふかふかのきれいにベッドメイクされたベッド、素晴らしい朝食、熱いお湯の出るお風呂。。。これに全部おさらばしなければならないのだ。それにはっきり言って義父母の家なんて気を使いそうだしなー。 それにこの大家族、決して広くない家のどこに泊まれるのか?と心配していたら、義父母が部屋を私たちに譲ってくれて彼らは各兄弟たちの部屋に寝に行ったのだった。 おっとは「エクアドルではこういう歓迎の仕方はあたりまえだよ。」といったけど、申し訳なかったな。あと、洗面所に入ってとき、「エクアドルでは当たり前」なしょぼい水シャワーを目のあたりにしてホテルで熱いシャワーを浴びてきたことをつくづく正解、と思ったわたし。いやしかし。。。。こんな感じで出発前日に来たいとこ家族もうちに泊めなきゃいけなかったんだろうか??いやいや、やっぱりダメ。****************昨日、例の旅行HPに「世界一標高が高いのはボリビアのラパスです。」と書き込みがあり、調べたらそうでした(爆)。失礼しました。だって。。。おっとがそう言ってたんだもん(鵜呑みにするな、ってか?)
2005.01.21
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またもや、旅行記中断。というのは。イタリアの道路の舗装技術のレベルといったら、日本の30年前ぐらいであろうか?日本のアスファルトのように雨水を吸収して地下水に変える、なんてものはF1の競技場ぐらいにしかない。雨が降ればあっというまに道路わきは湖と化し、バス停でバスを待っていると意地の悪いクルマがわざと猛スピードで寄ってきて、津波をわたしたちにかぶせる。我が社は低地にあるらしく、ちょっとの大雨で会社の前は深海となりジャブジャブ靴の中を水でいっぱいにして演奏しながら歩かなければならない。おとといは昼過ぎごろから大雪が降った。会社の窓から見る大雪は向かいの州役所の並木に積もり、ホワイトクリスマスのようにきれいだ。そして退社時間になり、一歩会社を出たところで雪で滑って転びそうになった。おっと!すんでのところで慌てて姿勢を立て直す。そこから用心しいしいゆっくりと駅に向う。大通りも雪で真っ白でクルマたちもノロノロ進んでいる。ここからは地下鉄なんで、いつものように家に着くことは出来た。窓から降る雪を見ながら夕食の支度にかかる。いつもは夕食が出来るちょっと前に帰宅するおっとがまだ帰らない。まあ、雪だし渋滞が凄いんだろうな。。。と考えてると案の定、おっとから「じゅーたいが凄いんだよ~、仕事がまだ終われないよお。」と泣き声で電話があった。わたし「お気の毒に。もうちょっと食べるの待ってるから、なるべく早く帰りなよ。」とため息をついて麻衣ちゃんのパリ土産のチョコレートをつまみ食い。しばらくするとまたおっとから電話が。わたし「今どこ?仕事終わったの?」おっと「。。。。終わった。でも渋滞が凄くてまだ会社の前から100mも進めてないよ。」さらにおっと「あのさあ、明日銀行の残高、見に行って来てくれる?」え、どうして?おっと「ぼく、もうお終いだ。。。事故っちゃったよ!」えええええ???だ、大丈夫?!おっと「うん、ぼくは大丈夫なんだけど、仕事のワゴン車が大丈夫じゃない。」おっとの話によると道路が除雪もされない大雪のため、用心しながらゆっくり運転していたという。すれ違いにクルマが来たときもそうだった。。。。はずが、雪ですべってぶつかったらしい。わたし「相手のクルマじゃなくて、あんたがぶつかったの?!」おっと「うん。。。そう。」ガクッ。加害者かよ。。。保険効かないじゃん。前のへしゃげたうちのクルマもやっと修理が終わって先週600ユーロ払い終わったばっかりなのに!このあと、おっとは夜の11時ごろにしょげきって帰ってきた。うちのクルマの修理には1ヶ月以上の時間がかかった。というのは、最初に友達の友達だからって、エクアドル人なんかに修理を頼むからだよ。「まかしとけって! こんなの数時間でちょちょいだ!!」の言葉をおっとは信じ、なんど修理屋にクルマを運び、なんど未だ前がへしゃげたままのを引き取りに行ったか。。。「部品が揃わなくてダメだったんだよ。」「今日は教会のミサが長引いたから時間がなくてさあ。」わたしは「エクアドル人の修理屋」と聞いただけで簡単に予想をして付いても行かなかったけどね。結局、日本人妻を持ってしまったため、ほんのちょっっぴりメンタリティが日本人化してしまったおっと(単に辛抱強くないともいう)は堪忍袋の尾を切らせて普通の修理屋に持っていくこととなったのである。そして「まあ、150ユーロぐらいで修理してやるよ。」のエク人修理屋の言葉で予算を組んでいたものが600ユーロに跳ね上がり、大いに損をした気分にもなった。振り返れば、銀行は共同口座なんでお金の出所は一緒だけど、この物入りの時にこんな余計な出費についておっとに申し訳なく感じていたのだが、「150ユーロあればプレステ2が買えたのに。。。」とおっとが恩着せがましく言った時から、そんな申し訳ない気持ちが吹っ飛んでしまった。事故ったのはわたしだけど、あの狭い道に誘導したのはおっとじゃん? おっとが悪いんだよっ!!(開き直り)おっとの「プレステ2」への執着はすごい。もう2年ほど前から誕生日、クリスマス、記念日。。。なにかにつけて「プレステ2、買ってよ!」わたしはただでさえ、夜家に帰ってくるなりTVを大ボリュームでつけ、わたしも観ているのに落ち着きなくチャンネルを変えるおっとが許せないのである。こんな奴に「プレステ2」なんか与えたら?と思うとクラクラする。で、最近はどんなにごねてもわたしが許可をしないことで諦めをつけたらしい。しかし。前回、保険屋が我が家に来たとき。わたしが新規で保険の加入用紙にサインし終わったと同時に、勧誘員のお姉ちゃんは「マルちゃんさん、あとこれで2人になりましたね!」おっと、うれしそうに「はい!」わたし「???」お姉ちゃん「じゃ、他にも加入してもらえそうなお友達の若い夫婦とか教えてくださいますよね?」おっとはいそいそと携帯のアドレス帳をチェック、次々に友人たちの電話番号を教えてるではないか?!わたし「ちょ、ちょっと。何やってるの?」お姉ちゃん「実はですね、ただ今キャンペーン中でしてお客様からお友達をご紹介いただいて、契約が成立した人数にあわせてプレゼントを差し上げているんですよ!」おっと「3人、紹介者の中から契約が成立したら、プレステ2がもらえるんだよ!だから、あと2人。」わたし「なに~!!!!???」たかだかプレステ2のために、友達の個人情報、売るなよ!! わたしはここでまるで2束3文で売られたロバのような気分になったのである。そして別の日の土曜日。銀行の融資額とにらめっこをしながら、ついにわたしたちは7000ユーロもするキッチンセットを冷や汗をかきながら買った。前金の小切手を切って家具屋から出た頃には、他にもいろいろ薦めてくる押しの強い店員の攻撃を交わし終わった後でヘトヘトだった。キッチン以外はとうぶん何にも買えないな。これでひとつ仕事は終わった。あ~、しばらく家具は見たくない。。。。と思っているわたしを裏腹におっと「ソファ、買わなきゃ。ソファ屋さんに行こう!」わたし「え~、そんなの今すぐ必要ないじゃん?」おっと「そのうち、いるもんでしょ?やっぱり買わないと。」どこにそんな余分なお金があるんだよ?と思いつつもしぶしぶおっとと大きなチェーン店のソファ屋へ。たくさんのソファをじっくり見ていくおっと。でも、わたしはちっとも買う気がないのでやる気なしにおっとに付いて廻っていたのだが、ひとつ小さな黄色い革張りの可愛いソファを発見。あ、これだったら狭い我が家にも置けるな。そのうち考えよ。と、値段を見る。800ユーロである。わたし「ねえ、おっと。これならそのうち買ってもいいな。可愛いじゃない?」おっと、値段をみて「800ユーロ?ダメダメ、安すぎ。」わたし「?? いったいどういうこと?」おっと「今ならこのチェーン店のキャンペーンで1500ユーロ以上のソファを買うとプレステ2がもらえるんだよ! だから1500ユーロ以上のを選ばないと。。。」そんな基準でソファを見てたんかいっ!!ここまで執着がすごいと飽きれてものも言えなかったわたし。。。。買ってやるべきか?いや、しかしおっとがワゴン車を潰してしまった今、そんなお金はどこにもないのである!!!
2005.01.20
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9月21日(日曜日)朝早く家の近くのホテルに泊まった両親を迎えに行き(うちは狭いからねえ(涙))、一路空港へ。イベリア航空ミラノ発スペインのマドリッド乗換え、エクアドルのキト行き。乗り換えでは私たち親子はスムーズに日本のパスポートの表紙をみせるだけでコントロールを通り抜けられた。これはみなさんも当たり前だと思う。が、おっとは皆さんの予想通り、呼び止められ、100の詰問を受け、ようやく開放される。母は一言。「宿命ね、あなたもそうなるのよ。」あ~、嫌な感じだったな。わたしが最初に受けた差別視。しかも肉親からである。だけど、わたしは輝く日本のパスポートのおかげで結婚しようが今でも関係なく楽チンパスよ、お母さん。時差のおかげで同日夕方キト着。はじめての南米、はじめてのエクアドルである!うちの父は着陸前になって南米大陸が見えてくると「おっとくん、席を替わってくれたまえ。」と偉そうにおっとの座っていた窓際の席と替わってもらって子供のように張り付いて下を見ていた。わたしにだったらわがまま放題のおっとも、さすがに義父には頭が上がらず、席を替わったはいいものの、隙間から一生懸命下を見ていたのがおかしかった。空港に着く。前に広がる山々には雲が垂れ下がっていて手を伸ばせば届きそうなのにびっくり。それもそのはず、エクアドルの首都キトは世界一標高の高い首都。山のうえにあるのだ。標高2800m。イタリアなら夏でもスキーの出来る高さだが思ったほど寒くはない。おっとの家族がお義父さんのトラックの荷台に乗り込み迎えに来てくれた。はじめてのおっとの家族との対面!ハグ、涙の嵐のはずが。。。。空港前にはクルマが停められないと、注意されるお義父さん(ちゃんと駐車場に停めて来てよ~)。で、感動するまもなく慌しく家族は家にそのまま帰って行き、気が抜けたまま、わたしたちは両親に同行、新市街にあるシェラトンホテルに一緒に泊まったのである。何がうれしかったって、イタリアのぼろ借家にはない久しぶりの浴槽にお湯をはったお風呂がうれしかった!(これが後からエクアドルでは数少ないお風呂だとわかるのだが。。。)1泊81ドルなり。インターネット予約だと安いなあ。次の日(9月22日(月曜日))。この日はおっとは朝からさっそく歯医者へ行ってしまった。彼は短い滞在期間でやらなければならないことが山のようにある。ミリタリーの免除の証明書、不在選挙の罰金払い。Etc。そんなことは旅立ちの前に一言も言ってなかったおっと。言っててくれたら旅程ものばしたのに。。ブツブツ。わたしは両親とゆっくりバイキング式の朝食をとって、歯医者から帰ってきたおっとと2人で中心街にレンタカーを借りに行った。4ドアの普通車1週間850ドル。ちっとも綺麗なクルマじゃない。物価が安いと思い込んでいたのであまりの高さにびっくり。夕立、渋滞、ひどいスモッグ、カオスだ。まるで20年前の少し住んでいた台北の街を彷彿させる。台北に20年前にいたころも「まるで日本の20年前みたい。」と思っていたから40年ほど日本より遅れていることになる。考えたらすごすぎ。しかし、新市街には外資系の超高層ビルが立ち並ぶ。そのすきまを埋めるようにバラックがひしめいているのがなんとも妙。そこにはとうぜん住んでいるひとたちがいる。各交差点に貧しい子供が立っていて、お手玉や楽器引きなど、つたない芸をして小銭をもらっているのが痛々しい。そうと思うと、ボロをまとったインディオのおばあさんの横をスーツをまとったビジネスマンがさっそうと早足で追い抜いていく。そして中心街のアマゾン通りはまるで青山のようなおしゃれさがあり、気の利いた喫茶店、レストランや店がさりげなく立ち並んでいる。(夜に楽しむ店が多いけど)需要があるから供給があるんだよね。。。??このアンバランス、政治がやっぱり悪いんだなあ。いろいろな衝撃を受けたあと、夜はスイスホテルの近くにあるおっとのとっておきの素敵な石造りの郷土料理のレストランに行った。このレストランは中心から少しはずれているのだが、しゃれていてさりげない。この辺はアメリカ人居住区だそうだ。なるほど、納得。話は戻って、レストランにて全家族、初のゆっくりご対面。おっとはすでに歯医者に行く前に実家に寄ったらしく、ものすごい感動のシーンはない。ちょっとがっかり。みんなしてむっつりしていてカチコチである。しかし、するどい眼光で長男の嫁をつぶさに観察しているのが、痛いぐらい伝わってくる。日本人だったら、ここで愛想笑いでペコペコしながら「どーも、どーも、はじめまして!」なのにな。。。やせて色の浅黒いお父さんと色の白いふとった優しそうなお母さん、お母さんそっくりの妹、後ろから見れば見分けがつかないほど夫に似ている弟、そしてまだ小学生のわんぱくそうな末っ子の弟(おっとの幼少時代の写真と同じ顔)だった。この家族、女性は太っていて、男性がやせていて、中間がないのがおもしろい。お父さん以外はみんな色白である。そういえば、誰かがエクアドル人の55パーセントはヨーロッパ系って言ってたっけ?でも、インディアンっぽい顔なんだよね。混血なんだなあ、やっぱり。(プロフィールのおっとの顔参照)お互い言葉が通じないので彼らの言葉をおっとがわたしにイタリア語に訳し、わたしが両親のために日本語に訳す。そしてわたしが両親の言葉日本語でおっとに。。。。って、違うやん!!すっかりこんがらがったわたしたちだった。とにかく全員めちゃくちゃ緊張していて、その雰囲気にも飲まれて必要以上に疲れたわたし。。。。やがて。わたしは薄暗い店内でプリモピアットを口に運びかけた姿勢のまま寝込んでしまい、変なかたちでお開きとなったのだった。(今でも母が、「あの時、わたしはセコンドピアットも食べたかったのよ!」と恨みがましく言うが。。。)***************今回載せた写真はここから引用しました。営利目的じゃないからいいよね?http://www.worldcityphotos.org/Ecuador/
2005.01.19
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早くも旅行記を中断(苦笑)。今朝は先週のうちにアポを取った建築士と新しい家で待ち合わせた。当然、我々の言い分を内装に取り入れてもらうためである。おっとは職場から直接(クルマでたった10分)、わたしははじめて新しい家行きの電車に乗り込んだのだった。20分ほど2階建ての快適な近郊電車に揺られる。ひとつ前の駅までは都会の様相。それが過ぎると急にながめが果てしなく続く野原にかわり、霧が立ち込めてきた。うひゃ~、すごっと思っていると我が駅へと到着したのだった。まるで魔法の土地に迷い込んだようである。駅まで迎えに来るおっとを待って駅前を探検。。。。って何にもない。商店街のようなものはあるけれど、ただひとつのパン屋を置いて全部閉まっている。ほとんどすべてのシャッターに「売店舗」と書かれた紙が貼られていた。しかし、駅前駐車場は満車、路駐もすごくてひとの住んでいる気配は感じられる。みんな町の外に働きに行ってるんだな。おっとが迎えに来た。駅から家まではクルマで5分ほどだけど、それ以外の交通機関はいつ来るのか、どこに行くのかわからない田舎のバスのみだから、やっぱりクルマの運転の練習、再開しないとなあ。家に着いた。中を覗くと、工事はやっと始まっていて、床材が全部はがされている。現場のアルバニア人やルーマニア人の小僧たちがうさんくさげに「何の用?」と聞いてきた。わたしたち「建築士とアポを取ってるんだけど。。。」「ああ、あのひとなら親方とさっきBARに行ったよ。」こっちは仕事中に時間さいて来てるのに、待ち合わせの時間にコーヒー飲みに行くなよ!しかたがないので家の中をよく見ることにした。最初からちょっと小さいな、と思っていたが、改めて見るとやっぱり小さいなあ。面積の合計は大きいのだけど、昔の納屋なものだから外廊とか上の階の干草でも置いてあったのであろう屋根付だが外、の住めないスペースが大きいのである。やがて建築士と親方がやってきた。体中から建築士の匂いを漂わせたジャンカルロはいかにも真面目そうな男である。親方はいかにも南イタリア人な匂いを漂わせた背の小さいデブッちょである。そして家の中に入って我々の図面を広げる。そうやっているうちにレダおばさんも登場。先日書いたように勝手に話が進んでいた物だから、「一筋縄ではいかない業者」と決めつけて用心しながら話しをはじめた。が、意外にも柔軟に我々のリクエストを取り入れ、メモしていって、うやむやなところがあるとアドバイスまでしてくれたのだった。我々が考えていた階段の位置はちょっと難しそうだな、といいながらも後から図面を書き直してくれることに。素材は木製でステップ部分だけの差込式の方がコンクリートで塗りつぶしよりも見た目が軽くモダンで、場所もとらないと言われ、それに決定。しかし、小さい頃階段の隙間に足を滑らせてはまり込んでしまったわたしはこれが恐いので、ステップと直角にも木を取り付けて目隠ししてもらうことにした。フランスのシャトーの紅茶風味さんのお宅と同じく、我が家の屋根裏部屋も高いところで4mあるので冬に家が暖まらないのが目に見えている。で、古い暖炉跡を生かせて新しい暖炉をつけたかったが、煙突穴が古すぎるため使えないとのこと。付け直すなら一からどこにでも、という。親方「「暖炉セット」なんてホームセンターでも売ってるし、ちょっとした工事で後からでも取り付けられますぜ。」建築士「屋根の部分に断熱材をはさんでつくりますし、窓も2重窓なんでそんなに寒くはならないと思うんですよ。」とのことで少し考え直すことになった。わたしたちは屋根裏部屋の2つの窓が小さいので反対側と天井に窓を1つづつ取り付けたかった。そして小さなバスルームもつくりたかったが、市の決まりでこれが出来ないという。しかし親方「いちど、役所の人間がコントロールに来て、書類を作った後は好きに出来るってもんだ。計画だけしといて書類作成後にやりましょう。」と。で、窓はガラスをはめないで穴だけ開けておき、バスルームも排水設備だけつけたいところにつけておく、ということになったのだ。でもこれって、誰が見てもそのあと窓とバスルームが出来ることが丸わかりじゃん?しかし、親方はコントロールが来たとき完成さえしていなければ大丈夫だという。ほんとかよ??(後から同僚たちに本当だ、と言われたけど。。。)そして。家の中の改装は追加や特殊な注文をしない限り家の値段のうちである。しかし、家の外は自分たちの所有地でありながら全て自費。知ってはいたが、こうやって家の値段が自分たちの中でリアルになってくるにつれて重荷になってくる。なぜなら、この1870年代(日本なら江戸末期?)に建てられた納屋は(前回1600年代と書いたが不動産屋の嘘八百だった。)、アンティークといえば聞こえはいいが、外廊の味?のあるレンガはボロボロでところどころ、色の違うセメントで補正してあるのが美しくない。やっぱり張り替えないと。上の階の外の部分もしかりで、それに加えて屋根がボロボロで瓦がむきだし、穴だらけなので全部やりかえなければならない(つばめの巣とフンがすごいし)。わたし「とにかく全て、見積もりしてくださいね?」レダおばさん「そのあと、もう一度銀行の融資額を見直さなきゃね?」と女性2人して冷や汗ものであった。そして更に心配なのは、今日は調子よくいろいろなリクエストに聞く耳を持っていてくれたけど、次回(来週の土曜日)に行ったときに、彼らはそれらのどれだけ覚えていて、どれだけ忠実にしてくれるかって事だ。なんせ、イタリアだもんね。。。。
2005.01.18
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はじめにおことわり:このたび2003年の「苦節!エクアドル新婚旅行記」を何日かかけて日記にまとめることにしました。なんで、こんなことをするかというと、実はずーっと前から開設したままほっぱらかしにしていた旅行HP(まだ、未完成なのでアドレスは内緒。まあ、これと同じです)がありまして、それの作成と、楽天の古い記事のリニューアルも兼ねて、ということで。すでにこのコンテンツを読んでくださった方には内容が重複するところもありますが、ご了承ください。(読んでる方は少ないと都合のいい予想をしつつ。。。)***************2003年9月19日(金曜日) 私たちはミラノ近郊の街の市役所でささやかな式を挙げた。イタリアでは金曜日に結婚式を挙げる夫婦は貧乏になるという。しかし、わたしたちはガイジンだし関係ナイナイ。(おかげで貧乏真っ只中だけど。。。) 市役所と言っても元貴族の田舎の屋敷を再利用したもので、天井にはフレスコ画が描かれた素朴な可愛い建物である。私たちはそれでじゅうぶん満足、平日だというのにたくさんの同僚がかけつけてくれて、参列した招待客もニコニコ、皆で祝福してくれた。日本からも両親と何人かの友人が来てくれた。しかしおっと側の招待客は、というとほぼ全員で結婚式の開始より1時間半も遅れて到着。式には当然参列できず、写真にも写っていない(汗。このときに未来を予感すべきだった。。。)。日本人とエクアドル人という地球の裏側同士の外国人が、ほぼ中間に位置するイタリアで結婚することになろうとは、運命とは不思議なものだ。10年前には夢にも思わなかったことである。(そういえば、イタリア行きの決意に至ったあの忌まわしい阪神大震災から10年経ったのだ。)おかげで結婚式まではイタリアとエクアドルの2重の素晴らしい役所の働きのおかげで、血を吐くようなイライラ、脱力、ストレス、絶望を味わう羽目になった。何に時間がかかったって、おっとの戸籍謄本。わたしが母に電話をして戸籍謄本を頼み、イタリアに郵送されてきた時間全部を入れて10日間。おっともお母さんに電話して戸籍謄本を頼む。しかしおっとにここである事実が発覚することになる。。。おっとはわたしとの結婚式の数ヶ月前にエクアドルにて2人の子持ちの女性と結婚していたことになっていたのである!だが、ちょっと待って。3年エクアドルに帰ってないおとこがどうやって、数ヶ月前に結婚できるねん??!!いや、わたしには内緒でずっと前から恋仲だった女性と戸籍上の結婚だけでも、としてしまったのかもしれない。それか、2人の子供の認知を迫られ、しぶしぶ??ああ、今までつきあっていてちっとも気が付かなかったまぬけなわたし。。。じゃあ、わたしとなんで結婚するの?2重結婚じゃん??そんなことを考えたのはわたしだけではなく、戸籍謄本をおっとの替わりにエクアドルの役所まで取りに行き、誰よりも早くその事実を知ったお義母さんもである。お義母さんがこのことを誰にも相談できず、悩みに悩み抜いた長い無駄な時間、意を決しておっとに告白、そこからおっとがお義母さんとわたしにアタフタと誤解?を解いた時間、こいつも結構かかった(涙)。未だに真相は神のみぞ知るのだが、とにかくここからエクアドルの役所で戸籍を修正に3ヶ月、やっと送られてきた修正だらけの戸籍謄本をミラノのエクアドル大使館に持って行って怪しまれながらも翻訳してもらった1ヶ月。そこから、イタリアで揃えなきゃいけない書類を揃えて。。。。。思い出したくないぐらいすごい時間がかかったのである。しかし。「喉元過ぎれば熱さも忘れる。」とはこのことで、幸せの頂点だった。そして夜は近くの小さな田舎風レストランで皆で食べて唄って踊って、それは楽しかったが、身体は正直なもの、私たちの今まで貯めていた緊張と疲労の糸は切れかかっていたようだ。次の日(9月20日(土曜日))。 この日は一大行事も終わったというのに慌しかった。というのは次の日はもう、エクアドルに向けて新婚旅行に出発なのだ!しかも、うちの両親付き、おっとの家族の待つ実家往き。そう、私たちの新婚旅行に私の両親も同行することになってしまったのだ。イタリアの挙式に来れなかったあちらの両親に会いに。(そんなことしなくていいのに。。。)新婚旅行は蜜月と書いてハネムーンのはずでは?はじめての夫の祖国への新婚旅行。 きっとアマゾン、ガラパゴス。サバイバルな密林のメロメロの蜜月と思いきや、こんなに辛い状況の旅行となってしまったのである。まわりは「こんな機会でもないと遠く離れた国のお互いの両親が顔をあわせることなんてないんだから我慢、がまん。」と言っていたがわがまま娘のわたしはぜ~ったい嫌だったのである!!しかし、哀しいかな、強引な我が両親のお膳立てですっかりこの旅行は整えられてしまった。(切符やホテルの手配は全部わたしがやらされたけど。。ブツブツ)で、午前中は2人で結婚証明書をつくりに市役所に行った。しかし、その後彼はなんと2週間の新婚旅行の挨拶も兼ねて仕事に行ってしまったのである。おっと、出発前日にそんなことに時間を費やすなよ!!しかし私はそんなことを叫ぶ気力もなく、グテグテになりながら結婚式の衣装をクリーニングに出し、今まで結婚式のために我慢して伸ばしていた髪を切りに行って、家にやっとの思いで帰り、次の日からの荷造りをはじめた。あ~、さっさと済ませて早く寝たい。。。荷造りをする手は疲れのために思うように進まない。しばらくすると電話が鳴った。ジェノバの夫のいとこからだった。「今、もう高速道路に乗ったところ。1時間ほどでそっちに行くからねえ!」???今、なんておっしゃいました?今からこの我が家に???なんだと~~~~~~~~~~っ!!!!!!!私はかっと頭に血が上ってしまった。そう、彼らはいつもこうなのだ!!いつも予告なしにしかも大勢で押しかけてくる!!!!よりにもよって長期旅行の前日、結婚式直後。そしてきっかり1時間後彼らはドドッとやってきた(こんなときだけ時間に正確)。ちっともうれしくない顔で彼らを迎える。目をまわしながらビールをつぎ、苦しげに世間話もしてみる。それからはやることはやっちまおうと考え、狭い家の中で彼らのこどもたちが泣きわめき、走り回るのを無視しながら、荷物を詰めていた。そしてもう、切れて「出て行け~~っ!!」と叫びそうになる5秒前におっとが帰ってきたのである。 金曜日、仕事で結婚式に参加できなかった彼らは私たちをびっくりさせるつもりで来たらしい。が、私には史上最大の悪い冗談だった。しかもうちに泊まるつもりだった彼ら(すごっ)は私のあまりにも不機嫌な態度をみて、すごすごと夜遅く帰っていった。今、思えばはるばる来てくれたのにひどい仕打ちをしてしまったなあ。。。が,この時はそんなことを考える余裕もないぐらい疲れていたのだった。
2005.01.17
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昨日、診察も終わったので、家に帰ってやっと風邪薬を飲むことが出来た。洪水のようだった鼻水は小川のせせらぎに変わり、あれだけ腫れていた喉も痛みが治まってきた。薬の力は偉大だなあ。わたしがまだイタリア人のマーベルとアパートをシェアしていた頃。同じように風邪をこじらせて寝込んでしまった事がある。何か食べて体力をつけなければ、と思うのだが、弱っていてキッチンに立つ気力も無い。何かをつくってくれる家族もいない。ここが独り暮しの哀しいところ。しかし、こんな時、多忙でほとんど家にいなかったマーベルがめずらしくわたしのためにごはんを作りに早く家に帰って来てくれたのだ!マーベル「風邪の時は、暖かいおかゆを食べなきゃね。」と、キッチンに立つ彼女。ああ、幸せ。私はこの素敵なシェアメイトに感謝しながら、ベッドの中で待っていた。マーベル「おまちどうさま!これを食べて早く元気になってね。」と、お盆の上に載せられていたものは:おかゆ、である。しかしああ、イタリアンなおかゆ。おかゆはおかゆなんだけど、おかゆの上には梅干でも、卵でも海苔でもなく、パルメザンチーズが山のようにかかっていた。マーベルはご丁寧に上からオリーブオイルを醤油のようにまわしかけ、「これで体は温まるし、たんぱく質もたっぷりよ。さあ、どうぞ!!」う。。。胃も弱ってる時になんちゅう、重いおかゆ。。。。彼女はニコニコ見てるし、感謝の意を示さないわけにはいかない。ひきつった笑いを浮かべながらわたしは全てを平らげたのだった。そしてこの時からわたしはパルメザンチーズが嫌いになったのである。(あ、でも粉だけね、塊は好き。)そして、おっとが家に転がり込んできたときのこと。このときもわたし、ベッドの上だったんだよねえ。。。虚弱体質じゃないけどたまたま。食欲がちっともなくて、水すら飲めないぐらいに弱っていた。そのときおっとはまだ近所のレストランのコックだったから昼間はわたしの看病、夜は仕事にと出かけていた。つきっきりで看病をしてもらったおかげで徐々に水も飲めるようになり、水から砂糖水、そして最初に「味のついたスープが飲みたい。」とおっとに言ったときの彼のうれしそうな表情は忘れられない。「よし、わかった!すぐにスープをつくってあげるからね!」とキッチンに飛んでいき、ベッドに運んできたものは:オレガノてんこ盛りのレモン味の不思議なスープだった!これを見ていろんな意味で衝撃を受けてしまったわたし。。。「エクアドルでは病人にこのスープが一番なんだよ!」わたしは日本の香草とバジリコ以外はハーブがダメなわがままなやつなのである。しかもレモン味のスープなんてこの時はじめて味わったのだった。さすがにこれは辞退してしまった。そしてオレガノ、レモン抜きで(ぶっちゃけていうと、全部)普通のコンソメスープをつくりなおしてもらったのである。新婚旅行でエクアドルに行ったときもお腹を壊して苦しんでいたら、おっとのパパが同じ物をつくってくれたよな。さすがに断れなくて困っていたらおっとが「あ、彼女、オレガノがダメだから。」と助け舟を出してくれたのだ。そして今回。おとといベッドで昼間、うつらうつらしていると、おっとから「調子はどう?」と電話がかかってきた。わたし「うーん、しんどい。あのさ、今夜夕食はあんたがつくってくれる?」おっと「うん、わかった。何が食べたい?」わたし「消化のいい、軽いもの。」おっと「OK、じゃあ買い物して帰るわ。」夕方、おっとが帰ってきた。買ってきたものは、サラミに生ハム、出来合いの野菜サラダ。OK,確かに軽いよ。だけど、病人食じゃないだろ!!そういや、前もひとりでおつかい頼んだらお惣菜屋の冷めたタラのフライを買ってきたよな。(怨)これからは、ひとりで買い物に行かせる時にはリストを作らなければ。。。。********************あ、ところでちょっとアンケート。来週からそんなに読んでる人なんていないだろうと思ってフリーページにあった「苦節!エクアドル新婚旅行記」を編集、写真も新しくUPして日記に何日か連続で載せようと思っているのですが、どうでしょう?すでに読んでる方が多い場合はやめときます(最近増えてきたエクアドル関連のお友達は読んでしまったみたいですが)。読んでない方は今から読まないでねー。ではでは。いくきーと
2005.01.15
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わたしはおとといから大風邪を引いてしまった。高熱、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、咳に喉痛。こんな日記を書いている体力もあやしいのだが。。。。書かずにはおれなかった。ここまで風邪をこじらせてしまったのにはわけがある。今朝はあの病院で待ちに待った大先生による年に何度、あるかない診察日だったのである。いつもは風邪の引きはじめに薬を飲むのでたいしたことにはならないのだが、「もしかしたら血液検査なんかされて薬の反応が出るかもしれないし。。。」と何もしなかったのである。それに、この診察をパスすると、次はいったい何ヶ月後に予約を入れなおしてもらえるかわからない。ばばシャツ、セーター2枚重ね、厚手のマフラー、コートをコロコロに着込んでフラフラする頭のまま、出かけたのだった。わたしが通っているのは産婦人科。ちなみに妊娠ではない。初潮の頃からずーーーっとホルモンがアンバランスで日本でも、イタリアでも産婦人科にはおなじみさんなのである。いつも薬を続けた時には正常になるのだが、やめると元の木阿弥。首の老化現象が始まろうが、肌がしわくちゃになろうが、女にも、男?にもいつまでもなれないピーターパンなわたし。。。ホルモンってお脳にも影響を与えるのかしら?そんなわけで、用心深い私はいつものように予約の20分前には病院の窓口についていた。珍しく今日はわたしの他に背の高いお姉ちゃんしかいなくて、看護婦さんとおしゃべりをしながら待つ。このお姉ちゃんはサルデーニャ島出身でサラサラの赤い髪と大きな目が魅力的、そしてとてもフレンドリーである。胸は大きくないけど、お腹がぽっこり出ているところを見ると「ああ、妊婦さんなんだな。」と思いつつ「出産はいつなの?」と気軽に聞いてみた。すると、このお姉ちゃん、ドスの利いた声で高笑い。「なぁーに言ってるの、この娘ったら! わたし、お。と。こ。よん。」げ。では産婦人科に何をしに??「わかるでしょ?(ここから他の患者が来たのでひそひそ声で)手術の手続きに来たのよ。」というと、アレだろうか?切るの? いや、最近は切らないのがはやってるっていうし。女性ホルモンの投与?動揺を顔に出すまいと努力しているうちにわたしの診察の時間となった。この産婦人科には大先生が2人いて、今日はこの間と違う先生である。別の先生が書いたカルテを見ながら、今日しなければならないことを確かめていく先生。「ああー、今日は内診しなきゃいけないのね、トイレに行っておしっこしてきてください。」お腹を空にするためである。待合室にあるトイレにさっそく行くわたし。無用心に扉を開けると中で北アフリカ系の男が便器に向いてごそごそやっていたので超びっくりした!「ごめんなさいっ!!」バンッと扉を閉めてどきどきする胸をおさえる。ガマンしていた咳がゲホゲホとまらなくなった。なんで、こんなところに男がいるのっ?! なんで鍵、閉めないの?掃除のお兄さん??それともただの変態???すぐに申し訳なさそうに男が出てきた。男「君、トイレに行きたいの?」わたし「う、うん。」男「ぼく、時間がかかると思うんだ。」う◎こ?ちょっとやめてよ、わたしは急いでいるんだ!わたし「内診するから先生にトイレに行くように言われたのよ。先生待ってるんだけど。。。」男「ぼくも先生に言われて1時間近く、頑張って射精しようとしてるんだよ!(爆)でも、出ないんだ。もうちょっと待って。。。」1時間出なかったもんが、そう簡単に出るかーっ!人妻のわたしは、こんなセリフには動揺しない。わたし「わたしは1分以内でトイレから出てくる事を神明にかけて、あんたに誓うわ。だから先に行かせてちょうだい。」男に有無を言わせる暇も与えず、わたしはトイレに駆け込み用を足した。わたし「ありがと。じゃ、頑張ってね!(何を?)」と男の顔も見ずにトイレから出ようとすると、男「ちょっと待って!!」と悲鳴に近い声をあげた。な、何?なんか変なものでも落とした?と立ち止まる。男「君。。。今から時間、無いよね?」わたし「無いよ、先生が待ってるって言ったでしょ!」男「そ、そうか。。。ごめん。」わたしは慌てて診察室に戻り、内診を済ませて再び待合室へと出た。と、先ほどのお姉ちゃん、いやお兄ちゃん「さっきトイレから出てきた浅黒い彼、あなたのだんなさん?」とひじょーにHな目でわたしを見る。ああ、あの彼。出てきたってことは成功したのか。わたし「違うよ-。わたしは独りで来たんだよ。」お姉ちゃん、いやお兄ちゃん「あらーん、トイレで仲良く喋ってたからてっきりわたし。。。ふふふ。」ここではじめて気がついた。このお姉、いやお兄ちゃん、この男をわたしのおっとと思い込み、夫婦で精子の検査に来たと思った?そして更に、あの男、ちっとも出ないから、もしかしてわたしを呼び止めて手助けして欲しかった??そしてそして、このお姉、いやお兄ちゃん、わたしが手助けした、と思った???うぎゃーーーっ、いやいや!!じょーーーーっだんじゃありません!!(怒)!!(怒)!!(怒)!!(怒)!!(怒)例え熱でもうろうとしてようが、わたしはおっと以外にはもしもブラッドピットが聞いてくるなら一考の余地もあるけど(嘘ウソ)、手助けはごめんであります!!あ、くしゃみがとまらなくなってきた。ベッドに戻ろ。ちなみにまだまだ日記メンテナンスは終わってませんが、病み上がりに再開始ということで。。。(いろいろ計画だけはしてるんですが。)
2005.01.14
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昨日は日記にもなっていないつぶやき(通りすがりの一見さんへのイヤミをちょっと込めてたんですが)にたくさんのコメント、ありがとうございました!こんなに優しいお友達がたくさんいることに感激、これからも凹まないでやっていこうと思います。***************年始に不動産屋が夜逃げしてないか確認の電話をかけたとき「あー、今は年始だし工事のことは10日以降に話し合いましょう。」と言ったことを書いたのを覚えている方は多いはず。(あの日の日記が動かぬ証拠である。)電話をかけたとき、もちろんローンの事とか、工事がいつ始まるかとか、まとめて聞いたのだ。で、↑の返事である。イタリアはこの月曜10日から正常活動の開始。なんで、昨日は11日火曜なんで、もういいかげん何かがわかっているだろうと、おっとは不動産屋に再び電話をかけたのだった。おっと「あけましておめでとうございます。えと、僕らの家のことなんですが。。。。」不動産屋「ああ、ご心配なく!もう工事の準備ははじまっていて、きのう資材を運び入れて、作業をはじめているところです。」おっと「え?でもぼくたちまだ、家の見取り図も決めてないんですよ??」(きっと志垣太郎な笑顔をつくった)不動産屋「ああ、ご心配なく!こちらで全てやっておりますから!!」焦るおっと「ちょ、ちょっと待ってください!あなたたちが全部僕らで決められるって言ったから、妻と一緒に全部壁の位置から、階段の位置まで決めて、それにあわせて家具も手配したんですよ?!」(きっと舌打ちしている)不動産屋「え。。。でも、うちじゃもう建築士と話し合って全部決めちゃったんですよ。今日もそのとおりに工事は始まってるはずですし。。。」珍しく怒るおっと「困ります!第一、家の持ち主になるぼくたちに何の断りもなしじゃないですか!あなたがたがもう少ししたら話し合いましょう、と言うからぼくたち待ってたんですよ?!」(ごねるイヤな客だと思っている)不動産屋「。。。。わかりました。じゃあ、今日中にあなたがたが考えた見取り図をFAXで送ってください。明日建築士に見せますから。」(もうこいつを信用してない)おっと「ぼくたち、きちんと建築士と話し合いたいんです。家にも行って工事状況を確認したいんです。でも、これはぼくたちが言い出した事じゃなくてあなたがたが契約の時に言ってたことですから、都合してもらえますよね?」(きっと受話器をにらんで中指立てている)不動産屋「。。。。そう、、、言ってましたっけ?わかりました。今週か来週中にアポイントメントをつけましょう。」そしてほぼ退社しようとしてコンピューターを消したばかりのわたしのところにおっとは見取り図のFAXをするように電話をかけてきたのである。わたしは怒り狂って悪口雑言をわめきちらして電話を切り、慌ててコンピューターを起動しなおして保存してあるあのとき作った見取り図をプリントアウトして不動産屋にFAXで送ったのだ。そして我に帰って後ろを振り返ると新居にもうすぐ入居する予定のアンナが苦笑いをして立っていた。「ようこそ!あなたもわたしの仲間入りね!!」彼女は1年半前にわたしたちの納屋同様、改築アパートを買った。契約書に書かれた完成予定より1年遅れての完成である。そういえば、彼女も「放っておくと好き勝手に家を作られるぅ!!」といつも叫んでいたっけ。わたしたちもそうなるのか?契約書では完成予定は3月だけど、そうなると完成はいったいいつの日に。。。??***************アクセス数なんか、もう気にしない!と思いつつ。。。。ぽちっをお願いします!(笑)人気blogランキング
2005.01.12
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昨日からイタリアらしくちょこっとずつ、年始の日記整理をしております。リンクしていただいてる方々はお薦め新着がころころ変わるのでお見苦しいですがお許しのほどを。追記:今、アクセス数をみて驚いてます。700アクセス近いです。アクセス数とは日記の面白さに関係するのではなく、日記の更新回数でこんなにもあがるんだなあ。。。。(今、100件以上ある古い日記の編集をやってるので。)でも、アクセスしてくださってるのは知らない方ばかりなんですけど。今アクセスしてくださってる皆さん、ちゃんと日記、読んでくれてます??はあ、日々の努力がむなしい。でもいいや。少なくてもわたしのお友達はみんなステキな方々ばかりですから!!!ではでは。いくきーと
2005.01.11
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今日から今年初めての出社。通常ネット生活?に戻ってきました。家でごろごろしていた時間が多かったためか腰が痛いわ。スイミングスクールも今日からはじまるし、運動運動。ところでおっとはわたしと付き合う前は喫煙者だった。しかし、惚れてることをいいことに、以前住んでいた家に転がり込んできたときの同居の条件が「たばこをやめること」で合意させた。まあ、もともとつきあいたばこ程度にしか吸ってなかったおっとは結構簡単にやめられたようである。あ~、でも考えたらあのときからわたしの平和な生活が崩れたんだよね。同居人マーベルもわたしと同じ嫌煙者だったけど、新しい彼が猛烈なヘビースモーカーで(それが許せるとは恋は盲目だね。。。あたしゃ、ダメ。)、おっとがうちに転がり込んできたと同じぐらいに彼女も彼と同棲をはじめて家はすっかりタバコ臭くなった。それまでお行儀がよかった同居猫も反抗しはじめて、あちこちでおしっこするわ、なつかなくなるわ、すっかりこの家は住みにくくなって、わたしは慌ててそれまで快適だったミラノの中心にあるにもかかわらず(ドゥモまで歩いて行けるところだった)静かな家を離れ、おっとと共にこの片田舎に住むことになってしまったのである。それぐらいわたしはタバコが苦手なのだ。うれしいことにイタリアは今日の日付になると同時にいっせいに公共の場での喫煙が禁止になった。今まで大きく「禁煙」と書かれた場所でも平気でたばこを吸っていたイタリア人、そう簡単にやめれるわけないだろ、と思っていたら今度は罰金付きである。もしレストランなどで吸っているところが見つかれば27,5ユーロから270ユーロまでの罰金が科せられる。それが妊婦、子供の前だったら罰金が2倍になるらしい。しかし、笑えるのがレストランなどの店主は警察に通告するのはダメで、じかに喫煙するひとに注意しなければならないという。じゃあ、どうやって罰金を科すんだろうねえ。。。?なんか消化しきれてないなあ。以前の「犬の糞条例」みたいに隠れてだったら警察犬だって草むらでう◎こを放置してもOKみたいな法律にならなきゃいいんだけど。でもこれがちゃんと守られたらわたしのような嫌煙者には非常にうれしい条例だ。いつも不快だったラケ-レとマリーナのお決まりの昼食後のタバコもそばで我慢しなくてよくなるし、安心していつでもBARやレストランでゆっくりできるし、今まで行った後、服や髪がタバコくさくなるのが嫌で遠のいていたディスコにも安心して出かけられるものだ。TVニュースのインタビューでは喫煙者の「ディスコでタバコが吸えなくなるんだったらもう行かねえよ!」とか「すでにタバコをやめる努力をしてますが、苦しくて仕方がありません。」とか涙ながらに訴えるひとの愚痴しかやってないけど、こういう意見もあるのだよ。あ、TVニュースで思い出した。イタリアへの移民の比率が高いのはいつもモロッコやアルバニアなんだけど、「最近の傾向として中国人と日本人の移民が急激に増えて来てます。」と言っていた。中国人が世界に移民に行くのは当たり前だけど、日本人もそうなってきたか。。。。デカセギ?じゃないよね??******************************いやんっ!人気はまめに更新しないと上がらないのね。ぽちっとお願いします!人気blogランキング
2005.01.10
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とうとう半端に忙しかった連休も後半に差し迫ってきた。何をやっていたかというと、新しい家を見に行ったり(やっぱり何も手をつけてないままだった)、不動産屋が夜逃げしてないか確認したり(「あー、今は年始だし工事のことは10日以降に話し合いましょう。」と言われ、「夜逃げの為の時間稼ぎ?」と更に心配になったわたし。。。)、家もまだ手付かずなのに押しの強い家具屋に何度もラブコールを受け、簡単に気の弱いおっとがキッチンと寝室セットの手付金を払ってしまったり(まあ、気に入っていた家具なんでそのうち買うつもりではいたんだけど。。。)、銀行がちゃんと機能してるか確認に行ったら、積みたて型保険を勧められ、またもやおっとが簡単にサインしてしまったり、へたにバーゲン真っ只中の街に出て、財布が空どころか銀行が融資の為に大赤字なことを再認識させられ、気分が悪くなって帰って来たり、やっとイタリアではクリスマスから上映開始になった「シュレック2」をまたもや観てしまって「3回見てもやっぱりおっとはロバのドンキーに似てる!」と納得したり、(あ、ちなみにわたしはおっとのことをいつも「チュキーノ」と呼んでいます。イタリア在住者にはわかるかな?)麻衣ちゃんが2日間だけミラノに帰ってきたので1月6日の祝日にはウィリアムの兄弟いとこたちを招いてホームパーティしてみたり。。。。***1月6日の祝日はイタリアでは「べファナの日」といって正式にはキリスト生誕が公に公表された日らしいんだけど、サンタの奥さんの誕生日ともいって、この日も子供たちはお菓子やおもちゃがもらえる。悪い子には炭をあげるとか。この日が近づくと醜い魔女の人形付のキャンディやおもちゃセットが売りに出されるからイタリア人のセンスを疑ってしまう。そんなわけでスキーにはお金がないので行けずに(麻衣ちゃん、スキーウエアまで新調したのにごめんよ。)家で手巻き寿司パーティをすることにしたのだった。招待客は8人(わたしたちはウィリアムと彼女しか誘ってなかったのに?増えた。。。)ご飯は13カップ炊いた。具は薄切りハム各種、薄焼き卵、スライスチーズ、アボカドの薄切り、スティックサラダ、レタス、そしてサーモンの薄切り。付け合せに鶏と豚のからあげ /とうふとねぎ、カブの葉入りの味噌汁。昼食会の名目だったので約束は12時である。少し寝坊してしまったわたしたちは、慌てて麻衣ちゃんのソファベットをたたんで布団を押入れに押し込み、おっとは掃除、麻衣ちゃんは家中に広げてある彼女の荷物の整理、わたしは昼食づくりにかかる。最後は3人でひたすら具を切り、どんどん揚げ物を揚げていき、テーブルセッティングをして12時半には全てが整った。なのに、わかってたけどまだ彼らは来ない。3人で「お腹空いたねー。」といいながら麻衣ちゃんの煎れてくれたお茶を飲んでいるうちに1時になった。まだ来ない。わたし「おっと、ウィリアムに電話してみなよ。」おっとはまず携帯に電話する。電源が切れている。そして家に電話する。長いコールの後、やっとウィリアムが寝ぼけた声で「あー?今何時??え、もう1時なの?OK。あと30分後にそっちに着くわ。」嘘やーーーーーーんっ!!今起きて、支度して、別々の家に住んでいる兄弟いとこたちを迎えに行って、うちの近所に住んでるならともかくマルペンサ空港のそばから我が家まで時速140KMですっ飛ばしても30分はかかろうがっ!!!!おっとは「あと30分かぁ、ちょっと時間があるな。車の掃除してくるわ。」と外に出てしまった。麻衣ちゃんはトースターにスイッチを入れてトーストの準備をし始めた。わたし「ちょっと、ちょっと。お昼ご飯前にそんなの食べたらお腹いっぱいになるじゃない?」麻衣ちゃん「彼らは絶対3時ごろになるって! マルちゃんも出て行っちゃったし。そんなに待ってられないからわたしは食べる。あんたは?」わたし「ううーん(汗)。わたしは待つわ。」で、結局おっとが帰ってきたのは2時、彼らがうちに着いたのは2時半だった。おっとはお腹の空いた虎となっていて、彼らが来るなり「時間どおりに来てくれないと困るじゃないか!せっかくつくった料理が全部冷めちゃったよ!!」自分のことを棚にあげて平気でこういうことが言える奴なのである。ウィリアム「どこに冷める料理があるんだよ?」おっと「う。。。」言われてみれば全部冷めててOKな具ばかりである。おっと「から揚げとか、味噌汁とか。。。」ウイリアムのいとこ「味噌汁なんて温めなおせばいいんだろ?」麻衣ちゃん「日本のから揚げは冷めてもおいしいのが特徴です。」。。。フォローになってない。おっとはすっかりしゅんとなってしまい全員がテーブルに着いた。わたしがまず手巻き寿司の食べ方を説明した後、みんなでガツガツはじめたのだった。あっという間に肉系の具がなくなり、わたしはから揚げも1個もありつけないうちになくなった。慌てて麻衣ちゃんと冷蔵庫の残り物のウインナ-を焼いたり、ツナ缶を開けたりして具を足し、冷蔵庫の中がすっかり空になったころに彼らのお腹もやっと満足したのだった。あとは男性陣はウイリアムのいとこが持ってきたX-BOXに夢中になり、女性陣はトランプ。いつも片手にビールである。最初は赤ちゃんがいたので泣くは、おもらしするわ、おっとのマジンガ-コレクションの破壊を試みるわ、大変だったのだが赤ちゃんと両親が早々に引き上げた後、少し落ち着いた。下戸の麻衣ちゃんも相当飲まされてハイになっている。で、酔っ払ってるもんだから日本の「イッキ!」を彼女が調子のいい南米人たちに教えたあとはトランプで負けた後には「イッキ、イッキ、イッキ!」だし、何かにつけて「イッキ!」であった!こんな調子でわたしはすごい量を飲まされ最後のほうはつねられても何も感じなくなった。大学のコンパいらい、こんな量は飲んだことないぞ。ラテンミュージックにあわせて狭い家の中で踊ったり、過去の暴露話をしたりしているうちに夜中の12時になり、やっと彼らが帰っていった後は胃の中はビールで破裂しそうになっていた。そんなわけでこの状況、昨日すぐに報告したかったんだけどひどい2日酔いで何も出来ず。あしからず。来週からはやっと正常な日々のはじまりである。がっかりしたようなほっとしたような。。。。**********************************今日の日記はいかがでした?最近下降気味のランキングに救いのぽちっをお願いします!人気blogランキング
2005.01.08
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遅れ馳せながら、あけましておめでとうございます!わたしたちはただいま地味休のまっただなか。退屈するかと思いきや銀行に行ったり、車検の更新に行ったり、結構忙しく日々が過ぎています。あ、この場を借りて超合金ペンギン型ロボットいくきーとの素顔を知るお友達に告知させていただきますと:わたしは結婚しても苗字は変わりませんよーーー!ただでさえ結婚する手続きに山のような書類をつくり、果てしない時間を費やして灰になる寸前に結婚したというのに、そのあと日本大使館に「苗字を変えるにはこの書類と、あの書類とぺらぺらぺら。。。」と言われた日にゃ、変える気も無くしました。それに外国から日本に入国するには苗字も名前も日本製のほうが面倒くさくなくてすんなり入国出来そうだし。(エクアドル人は世界共通、どこの国に行くのも狭き門だからね。)なんで、安心して去年のクリスマスカードも、今年の年賀状も今からでも送って下さいねーーー!*****************************こほん、失礼しました。さてわたしたちがどう元旦を過ごしたかと言うと、話は12月31日大晦日にさかのぼる。今度こそ、この間のようなクリスマスダブルブッキングの悲劇が生じないように大晦日の午後に面倒くさがるおっとをせきたて、先日「大晦日にパーティするから。今度は絶対忘れるなよ。」と言った主催者のウィリアムに電話をかけさせた。ウィリアム「え?今夜?何にも計画してないよ。」あんたがほんの1週間ほど前にパーティすると言ったんだろうが!?ああ、まただよ。このパーティがあると思ったから何も食べるもの、用意してないよ。がっかりして時計を見る。午後4時。今から買い物に行って料理すれば、少なくとも年越し、元旦にインスタントラーメンは食べなくて済む。と、近くのスーパーに慌てて買い物に行った。この日はいつも21時まで開店のスーパーも18時閉店で、行くとすでに片付け始めていた。急いでスーパーを1周するが、ほとんどの食べ物が売りきれ。しかたなしに売れ残った箱のへしゃげたレトルトコテキーノ(トンソクの煮込み)とレンズ豆(年越しに縁起をかついで食べる)を買った。そこからすぐ電器屋にテレフォンカードを買いに(電器屋で領収書を発行してもらうとおっとの経費で落とせる)。電器屋の入り口には2、90ユーロ(約350円)均一のDVDの投売りをやっていた。うわー、こんなもの入り口に置くなっ!当然おっとは立ち止まって物色をはじめた。わたし「ちょっと。さっさとテレフォンカードを買って家に帰ろうよ!!」おっと「どうせ今夜はすることがなくなったんだ。これ買って家で観よう。」わたし「2、90ユーロなんてへぼDVDしかないに決まってるじゃん!?」そんなわたしをよそに、おっとはさんざん迷ったあげく、2本もへぼDVDを買ってしまった。これが5時半。家に帰るために車に乗り込むやいなや、携帯が鳴った。ウィリアムからだった。ウィリアム「やっぱり今夜はパーティやるわ。人形作ってくるの、忘れるなよ。」ぐぐぐ。あんたらどうしてこうもコロコロと予定を変えれるかな?どうしておっとがこんなへぼDVDを2本も買い終わったのを待ってたように電話してくるかな?もっと早く言って欲しかった(涙)。家に着くと6時。おっと「パーティはどうせ9時ごろからだし、人形はすぐ作れるから買ったDVDを観よう。」去年は等身大の人型に丸めた新聞紙に古着を着せたものをつくった。顔の部分だけわたしが担当、紙のお面で西部劇に出てくる「悪役メキシコ人」をイメージして描いたんだけど、その夜知り合ったウイリアムのお母さんの彼氏にそっくりな顔になってしまってまわりの笑いを取ったが、気まずかった。と、いうのはカウントダウンと同時にガソリンをぶっかけて豪快に燃やしてしまったからである。(エクアドルではこうやって新年になると同時に古い厄を払うのだ。)話はそれたが、こうやってわたしたちはベッドに寝転がってDVDをつけたのだった。しかし。やっぱりへぼDVDだった。わたしたちは退屈過ぎて、映画がはじまって5分とたたないうちに深い眠りに落ちていったのである。どれぐらいたっただろう?わたしは激しい爆竹と花火の騒音で目を覚ました。TVの画面を見ると、DVDはとっくに終わっていた。TVにチャンネルを切り替える。「2005年40秒前!39、38、37.。。。」とカウントダウンしているではないか!おっとを強くひっぱたく。「起きて!もうすぐ2005年だよ!!」「むにゃむにゃ。。。なに?」おっとの胸倉を掴んで強引に引き起こした。と、同時に「2、1、、、、0!!!あけましておめでとうございまーーーす!!」TVからファンファーレが鳴り、家の外は花火のパンパンパンッという騒音と隙間だらけの家に外からの煙が流れ込んできてむせかえった。と同時にわたしにはあちこちから携帯にお祝いメッセージが届き、おっとには酔っ払った声であちこちから「おい、なんで来ないんだよ!?」「待ってたんだぜ?!」と苦情の電話が。。。。。はあ。。。新年早々からこんな日となりました。こんなわたしたちですが、本年もよろしくお願いします。PS.大晦日に挨拶してくださった皆さん、ありがとうございました。新年のお年玉にぽちっとクリック、お願いします!人気blogランキング
2005.01.04
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