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壱男語録:朝保育園の50メートル手間でお友達を発見。「おはようございます、ってご挨拶しておいでよ。」と私。転げるように走っていく壱男。そして走りながらものすごい大声で、「○ちゃん、おはよーございます。壱男ちゃん来ましたよー!。」。こういう離れた距離から見る壱男は可愛い。今朝は壱男が私と二人で登園したいというので、弐女ちゃんは寝かせたまま出かけた。最近弐女ちゃんが成長してきて、とってもかわいくなってきて、そして誰もが弐女ちゃんに注目するようになって、壱男は少し寂しいのだ。社宅の敷地を出てすぐの信号で、同じ社宅に住むヒラリンさんとであった。ヒラリンさんもまた一人娘のお嬢さんを、ママチャリに載せて登園途中。お嬢さんはそろそろ就学間近な年齢。そしてこの人は働く母。「おはようございます。」とお互い朝の挨拶。「保育園行っているの?。」とヒラリンさん。「うん。」と私。「働いてるの?。」。「いいえ働いてないの。 私子育て出来ないの。」と私。私は専業主婦で長女の弐女ちゃんの出産前後だけ、長男の壱男を保育園に預けるはずだったのが、今に至るまで続いている。私の答えに一瞬ぎょっとするヒラリンさん。たいして親しくもない人から突然打ち明け話されたような、しかも相当深刻な問題を持ち込まれたときのような、そんな表情をヒラリンさんはした。さすがに私もこれはまずかろうと思って、「子供が二人になるといろいろと大変なんだ。」。ヒラリンさんちょっと納得。そして今度は、「あれ赤ちゃんは?。」。「寝てるから置いてきちゃった。」。「そんな事して平気なの?。」。と責め責めモード。これはちょっと痛いジョブだったから、「うん、よく寝る子なんだ。」とかわしたつもり。とここまで話して信号が変わってヒラリンさんは、自転車を飛ばして行ってしまった。自己弁護するワケじゃないけど、子供が一人、しかも割りに育てやすいというオンナの子だったりすると、私の事情は理解しにくいと思う。子供が二人になってくると、いろいろと事情が折り重なってきて、世間で言う正しい子育て、良い子育てが出来ない場合ある。いろいろ割切らなければならないということ。私は私の子育てをすることを選択、というよりそうすることを余儀なくされた。まあ、わかってくれと言わないけど、せめて責めないで欲しいなあというところ。今日で壱男のいる1歳児クラス「ぷりん組」はお終い。来週からは「うさぎ組」。去年の5月の連休明けから登園させていて、ほぼ一年間通った。その間の夏に私は弐女ちゃんを産んだ。出産の前後だけの登園のつもりだったけど、弐女ちゃんを産んでからの、壱男の子育ては正直困難の連続だった。それは今も変わらない。赤ちゃん返りと2歳児特有の反抗期、それと好奇心旺盛といえばいいけど、しゃべりすぎる壱男に、私は心もカラダも疲れ、すっかり手を焼いてしまい、保育園を辞めることが出来なくなってしまった。それが「私、子育て出来ないの。」、という先の会話につながっている。昔なじみのおばあちゃん的存在のヨス子さんをして、「こんないい子ちゃんいないよ。」、保育園でパートをする高校の同級生のグラをして、「riccaちゃん、これで育てづらいなんて言ったら、一体どーなちゃうの。」、というくらい壱男の評判はいい。私自身もいい子だと思う。でも私は苦しい。壱男が可愛いと思えない。壱男のいない世界に行けるものなら行ってしまいたい、こう何度思っていることか。公園で遊んでいる壱男を置いて行ってしまおうと、なんど試みたか!。一度だけだけどカッとなって、壱男の首を絞めたこともある。これも一度だけだけど、風呂に沈めたこともある。どれも殺意は勿論なくて持って行き場のない高揚した感情が爆発する時、私はこういう恐ろしいことをする。それでも壱男は「riccaちゃんが好き。」と言う。これがこれでさらに私を苦しめる。こんな事つまり虐待を受けてもなお、母親の私が好きだと言う。ここに愛おしさを感じれば、私も救われたものなんだけど、なんと私はここに苛立ちを感じる。壱男は楽天的というか自分を責めない。私が怒っていることも、私がぶってしまうことも、自分が悪い子だからとは考えない。だからイジイジした所がない。それはそれで長所なんだけど、これに私は時折苛立ちを感じる。もっと私を怖れろと思ってしまう。そんな風に私には心の闇がある。心の闇は苦しい。いったい心の闇はいつまで続くのだろうか。壱男を再び赤ちゃんの時のように、とまではいかないまでも、かわいいと胸のうちから、腹の底から思える日が来るのだろうか。あ~来て欲しい。願わくば「この子を授かって良かった」、と自分自身に涙を流せる日が、一日も早くやってくることを、願って止まないというのが、「ぷりん組」最後の日に思うことなんだ。
2006年03月31日
壱男語録:「ねえriccaちゃん、お手拭タオル忘れないでよぉ!。」と壱男。たまに私はお手拭タオルを壱男に持たせるのを忘れる。そうすると壱男はお友達のを借りる。その時にお友達に「人の使わないでよー。」、などといわれて嫌な思いをしているらしい。「はい、どうもすいません。気をつけます。」と私。でもうやっぱりたまに忘れる。今朝は保育園の玄関で園長先生が出迎えてくれた。「おはようございます。さあ、壱男ちゃん靴ぬいで!。」、と園長先生が促す。保育園は既に登園している子供たちの騒ぐ声で、壱男は靴に全然集中できない。それでなくても2歳児は集中なんか出来やしない。靴も靴下もなかなか脱げない壱男に、ふーっと私はため息が漏れてしまった。それをしっかり園長先生に見つかってしまった。「お母さん、ため息なんかついちゃ駄目!。自分の子供なんだから。」。「はあ、もうここに朝来るだけで、一日の精力の大半を使い尽くしちゃう感じがなんです。」と私。毎朝6時半に起きて、亭主に手伝ってもらいながら、子供を着替えさせて、トイレに行かせて、朝ごはんを一緒に食べて、連絡帳を書いて、歯を磨かせて、耳を掃除して、体温を測って、園での着替えを用意して、自分の支度もして、弐女ちゃんの支度もして、食事の後片付けをして、洗濯機のスイッチを入れて、壱男が遊んだおもちゃの片づけを促して、壱男にお出掛けの支度を促して、壱男に靴下履くように促して、ってたっぷり2時間は掛る。この促してっていうのは、正確には壱男を早く、早くと追い立てている。おもちゃの片づけから、壱男のお支度に至るまで、全部取り上げて私がやってしまうのが一番早くて楽、でもそれじゃあ意味がない、というところに毎朝の葛藤がある。そして「もう、遅すぎ!」、「早くしなさい」と朝から怒鳴る毎日。これって壱男によくないんじゃないかと、考えると止め処もなく考えが進んでいってしまって、保育園を止めようというところに至ってしまう。しかしここにきてやっと割切ることが出来た。予定では来年壱男は幼稚園に入園する。その情報収集のために社宅の母に幼稚園の話を聞く機会があった。その母は言った。「のびのび出来る幼稚園を家の子供には捜しました。」。のびのびかあ、あれのびのびってなんだっけ?、とストレス過多な私は思ってしまった。「カリキュラム進行重視な幼稚園じゃあ、子供がのびのび育たないと思って、○幼稚園に決めたんです。」と言う。あ~、制限時間内にいろんな課題をこなすこと中心じゃない、っていうことがこの人ののびのびってことなのかあ!、とここでやっと気がついた。。「でもねえ。ないものねだりっていうか、のびのびしたのはいいけど、お勉強がイマイチでねえ。入学前に公文にいかせているの。」と母。のびのびだけじゃあ、やっぱりまずいってことなのね。ここから私の朝の葛藤は上手い具合にほどけていった。何をしてのびのびかっていうのは別として、のびのびを誰にもせかされない、自由でのんびりした時間として、カリキュラムをこなすのを、制限時間内に課題をこなす時間ってすると、どっちもコインの両面と同じで、必要不可欠ってことなんだなって拡大解釈した。だから朝の追いたて追いまくられっていう時間も、壱男にとっては大切な経験なんじゃないかと解釈した。子供を時間に間に合わせるのってとっても大変なことで、それは私にとっても試練で、こんな小さいうちからなにもっていう意見もあるけど、どんな子供もいずれは学校に入って、一生涯時間との戦いはある。それでいい。よくいつでも時間はたっぷりある、っていうひといるけど、現実はたっぷり寝て、たっぷり遊んで、たっぷりしゃべって、たっぷり食事して、なんていう時間はないんだよ。一日は24時間でこの中で、割切ってやりくりしていくのが、この地球に生まれた人の学びであり、そこに知恵と経験が生まれると思うから。ただいろんなトラウマで、たっぷり時間がないと、身につかないとか、理解できないとか、楽しめない、とかそういう事で時間がないというのは思い込み違いで、またこのトラウマから自分を解き放つのも、その人の学びだと思う。余談だけど壱男の幼稚園は文武両道のところを選ぶ。なにしろ読み書きそろばんはしっかりやらせなきゃあ。話は保育園の朝に戻る。「毎朝ここに来るまでに子供を追い立てまくっているんですが、これはこれでいいと思っているんです。」と私。「そうよ。時間に間に合うっていうことは、子供にとっても大事なことなんだから。」と園長。私達は生まれ落ちたそのときから、時間と縁が切れることは、死ぬまでない。それが地球に日本人に生まれるということ。
2006年03月30日
月曜に買った「江原啓之への質問状」を、読み終えた。これは丸山あかねさんとの対談集で、丸山さんが実に下卑た、しかし誰しも聞いてみたい、という遠慮も減った暮れもない、というところで突っ込みを入れたもの。前編を通じて江原さんの言う言葉は厳しい。それを江原さんはわかっている。言ったところでアタマにしか入っていないも、それすら無理な場合もあることも、暖簾に腕押し、柳に風みたいなやりきれなさを感じながらも、それでも使命に燃えている。私達は江原さんの言う所の「物質主義的価値観」に、囚われてここからしか物事が判断できなくなっているという。「物質主義的価値観」っていうのは、いい結婚、損得勘定、金を儲けた人が成功者、お金のいっぱい掛った暮らしがいい暮らし、まあそんなところ。みんなこれだけが大事じゃないことは重々承知。でも実際得している人、いい条件の結婚相手と結婚した人、お金をいっぱい持って成功談を語る人、高価で素敵な物に囲まれた暮らしをしている人、が目の前でキラキラ輝いていたら、ここに惹かれたとしてもおかしくもなんともない。私には私の幸せがある、なんて心静かになれなくてもおかしくない。それはそれでいいじゃないの。ここに江原さんは厳しい。これではいかんと!。もっと自分の魂を磨く、それは悲しい、うれしい、悔しい、美しい、といった感情の経験をつむことだという。そして誰しも乗り越えられない試練はないという。人としての一番の幸せは恐れがなくなることだという。私見をはさませていただければ、この物質主義的価値観に一度埋没するのも、ひとつの学びでないかと思う。物質世界の地球に人として生まれたとうことは、物質を通して魂を磨く、それは沢山の物質に囲まれることではなさそうで、きっとその対岸にあるだろうことは、私でなくとも誰しも感じている事だと思う。私は江原さんとは同級生だし、江原さんも早くに親を失くしたから、いろいろ共感出来る部分は沢山ある。僭越ながら江原さんのこれからの課題は、江原さんのスピリチュアル論を、聞き手のアタマではなく胸に落とすことだと思うんだ。それでかしらないけど、飯田史彦さんも江原さんも、最近歌っている。えっ、うたぁ!って感じなんだけど、多分音楽にお二人のメッセージを載せたほうが、人の胸に響かせられるんじゃないかって、そういうアイディアかなって思っている。聞き手の丸山さんは別に下品な人でもなんでもなくて、ごく普通の人。ごく普通の私達の代表者。二人の会話から、江原さんはこの対談の疲れを隠せない。何度も丸山さんに、「何度も言っているけど!。」とか、「それが物質主義的価値観なの!。」、とかキレ気味な場面も。これでヨシなんじゃないかと思う。っていうかもっと江原さん自身をさらけ出した方が、いいと思うんだ。江原さんのいう立派な正しい言葉が、江原さん自身だと勘違いしている人がきっと多いから。江原さんの言葉の奥、beyond what it is、これが理解できる人は少ないだろうから。江原とスピリチュアルは同一じゃないこと、江原もまたスピリチュアルな道の実践者に過ぎない、っていうことを表現してもいいと思うんだ。自分自身をさらけ出すことによってね。でないと斎藤澪奈子さんのときのように、澪奈子さんは完璧、澪奈子さんのお姿に触れていたい!、なんていう甘えた人を増やすだけになっちゃうから。まあ江原さんよぉ、お互い40代じゃん、まだまだ不惑に程遠いけど、頑張っていこうよぉ!。煩悩多すぎなアタシ。
2006年03月29日
壱男語録ミナスナマチ:南砂町ヤマノトセン:山手線私「鬼ってなあに?。」壱男「豆がこわいの。」長いこと姑さんと舅さんからの頂き物に、素直に有難いと思えない自分に悩んでいたが、やっと割り切るに至った。姑さんはよく子供衣料とおもちゃを、買ってくれる。それも困っちゃうくらいに大量に。衣料品はジャスコと西松屋がご専門。私も家の近所に両方ともあるから、どーしてもかぶる。これも困る。それとバーゲン時期のバーゲン品を、大量に送って来られるのも非常に困る。季節は終わりつつあって、次の季節にそのサイズが着れるかどーかなん極めてあやしい。壱男がようやく歩き出したとき、姑さんから「初めてのお靴は買わせてね。」、と言われて楽しみしていたら、西松屋の1足300円の靴をサイズ違いで3足買ってきた。理由は「安い買ったから。」。いい物いただける気がしていたからがっかり。なんか違うんだよねえ。一緒に行って買うならまだしも、安いから買っちゃったっていうのがねえ。これってプレゼントのつもりでしょ!、と言えるものなら言いたい。でも買っていただいたと思えば、文句付けるのもなんだしと、複雑な心持になっちゃう。おもちゃにしても、旅先の土産物屋に置いてある、その土地と全然関係ない雑貨とかおもちゃとかあるでしょ。ああいうのを買って来る。それとかこの前はサンリオのグリーティングカードで、ひな祭り用の物で開けると音楽が鳴るやつ。「かわいいから買っちゃった。」って。カードにメッセージが書いてあるワケでもないから、弐女ちゃんにカードを頂いたワケでもないし、年に1回しか使わない物だから、来年誰かに書いて送れということなのか!。こういうもらってもとってもおいても使わないし、かといって速攻捨てるってワケにもいかんもんを、ご専門に買っていただいている。私から見るとアタマの悪いお買い物って感じなんだよね。だからいつもこのお二人が来ると、大量の子供衣料と雑貨と、途中のドライブインで仕入れた大量の食品に翻弄される。お菓子は保育園の先生にあげて、こっちは近所に配って、そしてあれは・・・なんて風に。で気分よくそれをやっているかっていうと、まずそんなことはなく、大抵は怒っている。だって仕事が増えるじゃないの!!!。そうやって怒りながらも、只でくれる人はそういないから、有難いと思わなきゃあって自分に言い聞かせている。でもこれはアタマで思っていて、胸にも落ちていないし、当然腹にも落ちていないから、有難いなんて思えるはずがない、っていうのが正直な事実。そして私もこれでも真面目なオンナだから、こういう事に素直に感謝できない自分に、業を煮やしていたというのも正直な事実。と長い間自分の中でぐるぐるとやっていたんだけど、ある事に気がついて、冒頭に書いたように割り切るに至った。それはこの日記で有名な私の「自己満」理論ですな。どういう事かっていうと、姑さんと舅さんたちのやっていることは、自己満なんですワ。孫が可愛い、孫に着せたい、孫に履かせたいと言いつつ、自分達が一番かわいいくて、自分達が買うことで満足して、自分達の財布の中身を減らさないことが大事なこと、ってなっているんだよね。これに気がついて、この人達の自己満の後始末を私はやっているんだ!、って思い始めて割り切れたんだよね。キツイ言い方をすれば、姑さんたちは私達親子に自己満を押し付けているんだよね。だから押し付けられた方はなんか苦しくて、でもそれは孫が可愛いという善意からきているから、もっともっと苦しくて、クソ真面目な私を長いこと悩ます種になっていた。「お二人のなさっていることはただの自己満です!。」、なんて言っても理解されないし、それにやっぱり自己満の動機は孫への愛情だもんね。でもやっぱり自己満から来た愛は、押し付けがましいというか、取り扱いに手間が掛るというか、後始末を他人に要するんだよね。そうかといって、完全な他己満っていうのもないだろうし、他己満ってやっぱしアタマも気も使うもんだし、お互いのコミュニケーションもいるしで、そういう事考えるとあの二人にそれを要求するのは無理な話。だから許す。そして割り切って要らない物は、ドンドン人にあげて処分することにした。幸いなことに姑さんたちは、物に執着がないんだ。悪く言うと物を全然大切にしない。まあそういう性質だから、自分達が買ってきた衣料を子供が着てなくても、気がつかないし、気にもしていない。まあそうかといって、平然と二人を傷つける勇気も私にはないから、サイズのでか過ぎるもの、趣味の合わないもの、我が家で食べない物なんかは、手を付けないでバザーに出すか、よそにあげちゃう。おもちゃに至っては、子供に見せる前によそに出す。善意の自己満の押し付けっていう言い方も、かなり厳しい言い方で恐縮なんだけど、自己満と他己満のバランスって難しい。完全な他己満を目指す必要はないけど、やっぱり自己を満足しつつ、他人を思いやるっていう想像力は大切だね。完璧には出来ないけど、だからこそここにも割り切りはいるんだけど、やる価値はあるよね。それが愛ってやつなんじゃないかと思うよ。
2006年03月28日
焼肉を食べに行く男女っていうのは、すでにセックスした関係である確立が高い、ってどこかで読んだ記憶がある。確かに自分に置き換えてみても、残業の帰りに、あるいは出張先で、オトコの上司と夜差し向かいで、初めて知り合ったオトコと二人で、焼肉するなんてちょっと想像出来ない。オンナ同士二人の焼肉もある。別に深い仲でもなんでもない。普通のお友達。自分の分の肉を焼きながら、人によっては相手の肉の世話もしつつ、しゃべりながら食べる。まあ鍋だの焼肉なんて深刻な話題の時には、ちょっと忙しい食べ物ではある。だからこういう食べ物の時は、大抵は付き合っているオトコの話だの、職場の話とかのたわいのない話題で、食欲を満たすことに主眼が置かれる。オトコ同志の場合の焼肉っていうのもある。どーも自分の分しか焼かないらしい。人の肉の世話なんてしないようだ。話は何を話しているかなんて知らないけど、まあ想像はつく。でもここでも深刻な話はしないだろうね。で最近は一人焼肉もある。焼肉は音がするから、例え一人でも、しんみりとはならないだろうね。で最近ちょっとカルチャーショックを覚えた焼肉がある。亭主の焼肉。仕事帰りに上司と二人焼肉に行っている。これってどういうこと?。この二人何をやっているの?。オトコ同士っていったって、上記の単純なオトコ同士とも違って上司なんだから、亭主はやっぱり上司の肉の世話なんかしているのだろうか。だって普通に上司と飲みにいったって、上司が手酌っつーワケにいかないから、やっぱ部下が注ぐもんでしょ。それと一緒でやっぱり焼肉の場合も、部下が上司の肉の世話をしてもおかしくもなんともない。でもそういう亭主の姿を想像すると、なんだか滑稽で笑いがこみ上げる。「ロース焦げないうちにどうぞ。」、「タン塩いい感じッス。」、「あっカルビ燃えちゃった!。」とか。「生焼けは嫌いだからもっと焼いて。」、「タン塩は片面だけ焼いてね。」なんて。やっぱりどこか変。「上司と二人焼肉行くなんて、少しおかしいよ。」と私。どうにも解せない私であった。それでオトコ友達のフィレちゃんにも聞いてみた。「自分の部下と二人焼肉とかありなの?。」と私。「ロース焼けました、どうぞ。カルビもうちょいですねぇ。とか二人でやってんの?!。なんか傍目に変だよ。」。亭主とフィレちゃんは変な顔をする。そして「ありだよ。」とフィレちゃん。「夜遅くなって酒よりメシっていう時に、必ず開いているのが焼肉店なんだよ。だからありなの。」。ふうん、そうなんだ。「riccaが想像するような変な焼肉してないよ。自分の分を自分で焼くだけなの。」。なんだか焼肉に自由に行けない私が、自由に行ける二人に絡んでいるような様相になってきた。別にそういうわけじゃあないけどさ。オトコとオンナ、オンナ同士、オトコ同士、組み合わせは別にして、焼肉ってしっとりする場所とは違う。なんかガツガツする場所。食欲まるだしでそれを思い切り満たす場所、って感じがする。確かにセックスした男女、つまりお互いの恥ずかしい部分を見せ合った男女が行く、というのはワカルなあ。多分なにかの同志と行く所なんだろうなあ。
2006年03月27日
日曜の朝、弐女ちゃんのお寝巻きを買う為に、4人で川沿いのイトーヨーカドーに車で移動中。亭主の携帯がなった。電話の主はシングルファーザーのフィレちゃん。ものすごいガラガラ声だった。先週はずっと沖縄出張で最近帰ってきたらしい。私達は毎週末近所の公園で、子供たちを一緒に遊ばせている。今日はヨーカドーでフィレちゃん親子を待つことにした。買い物を済ませて一緒にランチをすることにしたから。日曜の昼だからどこも混んでいて、随分と待たされたけどなんとかピザとパスタのランチを、終えることが出来た。壱男はここのところ成長目覚しい弐女ちゃんに、みんなの注目がいっているのが、大変に面白くなく、そして寂しいらしく、どういうわけかそれをフィレちゃんにぶつけていて、ずっとフィレちゃんに抱っこされていた。疲れているのにゴメン。ご飯の後は恒例の公園。今日はポニーのいる公園。子供たちが喜ぶだろうーなんて大人は思って行ったけど、肝心の子供たちは興味なし。滑り台とかのほうが良いんだって。そして子供たちを遊ばせながら大人たちはおしゃべり。で今日はフィレちゃんに随分と笑わせてもらった。フィレちゃんはマッサージ好きで、というよりかなりな全身凝り性で、出張するとホテルにマッサージを必ず呼ぶ。住まいの近くでもあちこちいっているらしく、とにかくマッサージについてはかなりうるさい。それで今回の沖縄出張でも夜マッサージを呼んだという。来たのはオバサンマッサージ師で、やってもらったのはいいけど、揉みが弱くて納得いかなくて、「交通費払うからオトコに代わってください。」、って言ったそうな。そしたらオバサンが「それは私の実力不足だから、頂きません。」と言って帰った。こういうマッサージってホテルのフロント通すから、こういう時はフィレちゃん本人がフロントに直に電話する。で自分で電話しながら、チェンジ、オトコがいい、もっと強い刺激が欲しい、なんつーフレーズを口にしながら、段々恥ずかしくなってきたんだって。そりゃあそうだよ。まるでホテルに電話してオンナの子を呼ぶシステムに、なんだか酷似しているから。「なんかオレ、怪しい人みたい。」。うん、怪しいよ。この夜のマッサージは国内出張だけじゃなくて、海外でもやっているらしい。(今度私達も連れて行ってね。)どーもバンコクがお気に入りらしい。フィレちゃんのカラダは、もうハンドマッサージじゃ効かないみたいで、天井にバーが取り付けてあって、それにつかまりながらお客の体に全体重を掛けて乗る、バンコクのあのマッサージしか効かないらしい。バンコク以外の東南アジアに行くときは、必ず夜現地ガイドに、「怪しくないマッサージ紹介して。」って言うんだって。ここまで聞いて亭主と二人で大笑いしながら、フィレちゃんにいろいろ突っ込みを入れた。そして極めつけはこれ。「オレさあ、マッサージチェアを2台ぶっ壊しているんだよ。」。亭主と私は笑いが止まらない。「なんだよ、アンタ。マッサージチェアを壊すほどカラダなのか!。」。マッサージチェアってさあ、30万円とか50万円とか高いじゃん。あれを壊すとは鋼鉄のカラダ。どうにかなっちゃってってじゃないのお!。「でもさあ、マッサージチェアって寿命が4年なんだってさ。」、とフィレちゃん。そういう問題じゃないじゃんよ。アンタぁ!。でも人事だから笑いが止まらない。
2006年03月26日
昨日買った江原啓之の対談を少し読んだ。私と江原さんは同級生にあたるし、江原さんも私も人生の早いうちに親を失くしているから、いろいろと共感出来るところがある。何冊も江原さんの著作を読んだことはないけど、今回は読みきれないなあって言う感じがした。対談相手の丸山さんが欲丸出しで、かぶりつきって感じで、江原さんに食い下がっているのに。理由は江原さんの言っている事が、正論なんだけど、今の私には厳しすぎるから。それと胸に響いてこないから。江原さんはやっぱり小我をものすごく戒めているの。小我っていわゆるエゴのことで、よく私が言う「自己満なだけの人生」のこと。これがなんか厳しいなあって思う。江原さんは自分の為だけに使うお金は、戻ってこないという。そして人のために使ったお金は戻ってくるという。こういうのを聞いちゃうと、「ヴィトンが欲しい」だの、「マンションが欲しい」だの、って思っている人はなんだか心がぞわぞわしちゃう。そこで対談相手の丸山さんが突っ込む。江原さん自体ブランド服だったり、ブランド時計だったりじゃないの!、って。それに江原さんは、「私は文化にお金を払っているんです。ブランドだから買っているんじゃないんです。」、と答える。そして「お金を使う動機が大切なんです。」とも言う。まあ確かにそうなんでしょう。でもなんか江原さんおリコウさんなんだよね。まあお立場からすると、スピリチュアルカウンセラーなんて怪しい職業だから、だからこそキチンとわきまえていらっしゃるんだろうけど、なんか厳しい気がする。正しすぎる。どーも共感できない。つまりアタマにしか入らない。胸に入ってこないんだ。江原さんは早くに親を失くして、霊感のせいでいろいろご苦労もされて、実際随分とお金にも苦労されたのは、佐藤愛子との対談「あの世の話」で知っている。ど貧乏を経験したから、お金のないことで何度悔しい思いをしたことか、お金があればって何度思ったことか、親がそろっていてくれたらって何度思ったことか、っていう辺りをもっと出してくれてのいいと思うの。今はお金があってうれしいとかね。私はそこに同情したいワケじゃなくて、きっと共感を覚えるから。「アンタも随分と苦労したけど、それを乗り越えてここまできたんだね。」ってね。同志のような物を感じるから。それを「文化に金払っている」なんて、ちょっとおリコウ過ぎ。私もそういうところあるから理解できるけどね。きっと江原さんなりのお考えがあるんでしょうけどさ。でもなんか胸に来ないよ。俺も実はブランド好きなんだよね、くらいぶっちゃけて欲しい。「別れた相手に感謝なさい。」、なんて辺りもあるんだけど、これもおリコウ過ぎ。何年もたってから出来る日もくるだろうけど、お金の貸し借りがあったり、そこに暴力があったり、別のオンナが絡んできたり、なんて別れ方したオンナには、早々簡単に「別れた相手に感謝」なんて無理。やっぱり恨みつらみに埋没する日があって、そこから立ち直っていくには、かなりな時間が普通は必要。それを小我といってしまうのは厳しい気がするし、やっぱりなんか胸に響かない。もし仮にそういわれてそれを受け入れられるオンナがいたら、逆に「いい人するのはやめなさい。」、と私は言いたい。前に石倉三郎とコンビ組んでいた、レオナルド熊っていうオトコがいた。よくビートたけしが熊をして、「悪い事し過ぎて、熊さんはいい人になちゃった。」って言った。これは20年前に聞いて当時は笑って済ませたんだけど、今はそうかもしれんって思い出している。断っておくけど,決して江原批判をここでしたいワケじゃないんだ。江原さんは霊的見地から見た正しい導きを、私達にしてくれていると思うんだ。でもその正しさゆえに、それと江原さん自身が自分に対する厳しさゆえに、その導きには厳しさが伴い、そしてどこか胸に響くというより、アタマで理解するような感じのものになっていると思うんだ。だから対談相手の丸山さんが非常に下卑た質問、でも、でもと食い下がるような、欲望丸出しの質問に駆られてしまうんだと思うんだ。決して丸山さん自身の品性だけの問題じゃないよ。アタマで理論として入っても、胸に響かなければ気持ちにおつりがきちゃう。そこで熊さんの話なんだけど、熊さんは前に書いた「本来の自分」がきっと「悪」、なんだと思う。その悪をやりつくして、人に迷惑をかけ、自己嫌悪にさいなまれ、悪の振り子が振り切れて、いい人になるしかないところまできて、いつしかいい人って呼ばれる様になったんではないかと、推測するんだ。「悪」がまずいこと、いけないこと、なんてみんなアタマにしっかり入っているさ。でも出来ないのはアタマだけじゃ駄目ってことじゃないのかな。自分自身が「悪」だけじゃやっていけない、このやり方じゃあ生きていけない、って所まで来て、そこで初めて方向転換出来るってもんじゃないかと思うんだ。だから今だらしのない人(かつての私)、今意地悪な人(今の私)、今物欲まみれな人(今の私)、自分のことしか考えられない人(かつての私)、これはこれでいいじゃないの。これでずっと心地よく快適には生きていけそうにないのは、なんとなく感じていることでしょう!。折り返し地点まで行かないと、きっと折り返せないんだよ。だとしたら無理していい人になる必要はないよ。確かに江原さんのような正論は存在する。それはあくまで指針だよ。胸に響いて自分が変われるならいいけど、そうじゃないならアタマにしか入ってないってことだよ。でもそいつを覚えておいて、自分自身をやりつくす。「本来の自分」をやりつくす。そしてある日涙を自分の為に流す日がやってくると思うんだ。っていうか私にはそういう経験がある。だらしないのもやりつくせば、今の私のように「几帳面な人」になれるよ。だから金に執着して金を欲しがって、金で豊かさの尺度を計る私をやりつくす。そしてそこで初めて「金だけじゃない」って、胸のそこから湧いてくると思うんだ。そこまでやってみるよ。
2006年03月25日
本を買った。「江原啓之の質問状」丸山あかね著。最近テレビ露出も増えた江原啓之に、直接つっこみを入れた本。丸山さんが結構下品で私好み。購入動機は目次にあるように、「結局世の中お金がすべてではないのか?」、というスピリチュアル解釈のお金の話が読みたかったから。読んでいろいろ考えた。私はよく金持ちになりたい、ってここに書くけど、私のいう金持ちっていうのは、貯金を沢山持つこととは違う。普通は皆さんそういう金持ちになりたいそうなんだけど、私はちょっと違う。私は金を銀行にたっくさん貯金して、預金通帳を眺めるのも嫌いじゃないけど、なんてったって金を使うのが好き。よく若い頃は占いに行くと必ずこう聞いた。「将来金持ちになれますか?。」、答えは必ずこう、「使っちゃうからねえ。」。占い師の答えでは私は金持ちにはなれない、っていうこと。でもこれでいいんだよ。使わない、使えない金をいくら持っていても、全然楽しくないから。金なんて使ってなんぼのもんじゃないの!?。私の言う金持ちっていうのは、使う金に不自由しないっていうこと。そういう金持ちになりたいワケ。これって強欲だろうし、物欲マニアみたいな感じがするけど、全くその通り。否定しないよ。私は物質社会に生きているんだから、物欲あって当たり前、ここが私が何かを学ぶ入り口なのだから、否定してしまっては学ぶものも学べない。江原啓之はお金を自分の為だけに使うのは、小我だって言う。まずこの小我の意味がイマイチなんだけど、エゴとか自己満のみってことかいな。そして沢山お金を稼いで、それを世の中に還元することが大切っていう。人の役に立つような金の使い方をすることを、生き金って呼ぶ。まあ小我は小我でいいんじゃないスかって思う。小我あっての大我でしょ!。細木数子もよくこの生き金って言葉をよく使う。この言葉がやっぱしイマイチ理解に乏しいんだけど、金を生かした使い道ってことかいな。で自分はどういう金の使い方を今現在しているかっていうと、小我な使い方は勿論している。自分の化粧品買ったり、パンツ買ったり、洋服買ったりとかさ、これって小我以外の何者でもないよ。でも意識してやっていることは、小我な買い物をして不用品となったものは、なるべくバザーに無償提供していること。不用衣類はシーズンごとに授産所で行われるバザーに送っている。ここにはブランド品もシルクもなんでも入れちゃう。不要雑貨は近所の保育園のバザーに提供する。それとなるたけ食品に関しては、手の掛るスローな生産の仕方で作られたもの、有機野菜とか、手作り味噌醤油とか、そういうものを買う。これはこういうものがカラダにいい、面白い、興味があるっていうのもあるけど、一番はこのスローな生産方法に、文化を見るから。今この文化が私達の社会からどんどん消え去りつつある。それを買い支えているつもりがある。野菜や米なんかも農薬や肥料をバンバン使えば、美味しく早く安く大量に生産出来る。味噌や醤油といった発酵食品も、どんどん科学的に発酵促進させて、美味しく早く安く大量に生産できる。これはこれで結構だけど、これでは私達の祖先が伝えてきた文化が、立ち消えになってしまう。スローに生産されたものは値段が高い。はっきり言ってぜいたく品ですよ。高いから買わないでは、いつしか私達は伝統として培ってきた文化をなくしてしまう。文化が博物館の中のショーケースに入ってしまったら、もうそれは文化ではなくて、遺跡でしかない。鯨の食文化も私達が食べたい、食べよう、文化を残そうとしなければ、いずれは文化が遺跡になってしまうのだ。今の世の中では、文化には金がかかるんだよね。私はこういう文化が好きなんだ。だから食に限らず文化に金を使いたいんだ。それは何でもかんでも買い集めるっていうのとは違うけど、買ってその文化を味わったら、バザーとかそういうところに流す。これも江原さんのいう還元なんじゃないかと思うんだ。こういう金の使い方を、生き金と呼ぶかどうかはわからないけど、これをもっと大きなスケールでやりたいんだよね。だからもっともっと金がいるし、仲間もいる。これが事業規模にでもなったらすごく面白いと思うんだ。さっきから文化、文化っていっているけど、何も伝統とか歴史がなくたっていいんだよ。私は勝手にいろんなところに文化を見ちゃう。例えば最近減ってしまった果物屋さんや魚屋さんとかの個人専門商店。ここには旬の美味しい魚屋果物の見分け方や食べ方、利用の仕方とか文化の宝庫なんだよ。ワイシャツの仕立てとか、手仕事クリーニングとか、ここにも文化があるよ。歴史と伝統はないけど職人そのものが文化なんだよ。またちょっと文化?、って感じもするけど文化って呼んでいるものもある。ティファニーでこういうアクセサリーを売っている。ペンダント。チェーンじゃなくて京の絹紐。輪島塗のペンダントトップ。その形はティファニーのビーンズなんだ。私はこれを見てこりゃあすごいって思って即購入。だって面白すぎるよ。ティファニー特許のビーンズを和の素材と製法で作るんだから。この発想が面白いよ。そうこれも文化。今はデザイナーが変わっちゃってもう買わないけど、あのプリーツのイッセイミヤケにも文化を見る。薄いペラペラのポリの布地にあの細かいプリーツを付けると、まるでプリーツが建築の構造材のような働きをして、布地がまるで建築化しちゃう。そして実際着てみると、プリーツの構造材によって、洋服の中に新たな空間が生じるんだ!!!。面白すぎるぞ!。このアイディアに文化を見ないで何をみる!。こういういろんな文化に金を使って、博物館行きにさせない、(イッセイミヤケはロンドンの博物館に収容されている。)っていうのが今の私の金の使い方だし、これからもそうかな。江原さんどうかな。
2006年03月24日
長男壱男の保育園のお迎えの時、「あれ、弐女ちゃんはどうしたの?。」と、園長が聞いてきた。「風邪引いているので置いてきました。丁度お昼寝しています。」と私。最近の私は雨の日や、自分の気分で、弐女ちゃんは家で寝かせたまま、壱男の保育園の登園降園をする。「仕方がないね。子供が一人なら何とかできるけど、二人になると手を抜かざる負えないね。壱男ちゃんよかったね。今日はママと二人きりだよ。」と園長。まったく園長の言うとおり。帰りは壱男を二人でドトールでお茶して帰った。子供が二人になって、随分と家事は手抜きをするように心がけてきた。買い物は週2回の宅配だし、食器洗い機だし、無洗米食べているし。家事に関しては、これ以上手を尽くしても手は抜けないところにきている。子育ても壱男は昼間保育園に行かせていて、こっちだってこれ以上手は抜けないところにきている。それなのに子育てストレス大爆発だし、私自身ぶっ壊れだしている。それは私が肝心なことに気がついていなかったからだった。つまり手は抜いたけど、気を抜いていなかった。つまりくそ真面目にやり過ぎていたのだ。サボらなくちゃなのだ。そこに気がついて、最近子供たちが昼寝をしたら、ちょっと買い物に行ったり、一人でお茶飲んだり、ふらっと本屋に立ち寄ったり、なんて事をやっている。子供を置いて私が家を開けることは、防犯上も良くなし、世間体も良くないことは重々承知。でもしょうがないんだよ。今の私は子供と離れて独りにならないと、休まらないから。子供を前に一人、後ろに一人、そして自分の背中に一人、そして前籠には買い物、なんてママチャリさん達がここには一杯いる。これって結構危ないよね。動いているときはバランス取れるけど、止まると結構きつい。以前はこういう光景って、軽蔑していて、なんでこんな危ないことするのかなあ、って思っていたけど、しょうがないんだよね。こうでもしなくちゃあ、生きていかれない時期なんだよね。必要悪に近いね。今の私もこれだなあ。根がクソ真面目で、慎重な性格だと、どうしてもサボりきれない所があって、日常の中でストレスを溜めるものの、現状で有効なストレス発散の対策が打ちにくい場合、やっぱりサボるのが一番有効かいなと思う。どういうことかというと、今日は壱男と一緒にドトールでお茶したけど、壱男がジュースこぼしそうになるし、隣のお客さんに迷惑掛けそうだし、いろいろ見ていて冷や冷やするしで、全然こっちがお茶を楽しめない。一緒にいてストレス溜まるばっかりで、ストレス発散でお茶しているのに、全然意味がない。これじゃあやっぱしだめで、子育てをさぼって、一人抜け出して、一人でお茶をしなくては意味がないのだ。一番いいのは友達と馬鹿話を存分にすることだけど。真面目に生きていくことはいいことだけど、それだけじゃあ人間生きてはいけない。真面目と不真面目、この相反する両極を揃い合わせなくては、調和がとれないらしい。41年も生きていて先は長いなあ、って思うこのごろだよ。第3の目なんて開くんだろうかねえ。開いたらいい事あるんでしょうかあ。
2006年03月23日
今日最後の夜の洗濯は、外が雨なので洗濯機で乾燥させることにした。今までは外が雨の時、気温が低すぎる時は部屋干ししていた。そして今冬恐ろしい現実を発見してしまった。部屋干しした翌朝は決まって、窓の結露が著しい。冬の窓の結露なんていつもの事じゃん、って見過ごしていたら、ここにホコリがたまって、これにカビが生えて型板ガラスに黒い点々があ!。建築環境工学で、結露については勉強していたけど、あくまでそれは机上のお勉強で、実際結露被害に合わなきゃあ、わかんなかったのね。今の日本は空前絶後に冬季の室内温度が高いんだよね。足利義明の頃だって、この人将軍なのに冬季は、襟巻きに手かざし用の火鉢のみだよ。日本の暖房の基本はこの局所暖房なんだよ。部屋の空気を暖めるような暖房って、農家のいろり以外では、日本には現代までなかったんだよ。(いろりも局所暖房の一部だけど。)だから部屋の空気全部を暖めちゃう今の暖房に対して、先人の知恵を日本人は持ち得ないんだよ。だから冬に暖房すると、最近のサッシの気密性能も高いもんだから、窓や角部屋の隅なんかには結露が発生して、カビが大発生する。それが大きな大前提にあるんだけど、その対策は「換気しましょう。」、これだけでしょう。この換気って家中の窓を開け放して、寒い日にゴウゴウと風を入れるって事なんだよね。部屋の窓1個開けたってだめよ。一番の対策は、湯気みたいな水分を空気中に放出しないことだな。そうはいっても冬の空気は乾いて、肌も乾くしのどが痛い。でも加湿も気をつけないと結露につながる。のどが痛かったらマスクだな。洗濯物の部屋干しは絶対避けた方が無難。やるなら乾燥機で生乾きにしてからだなあ。私は実際目の当たりにしてないけど、机上のお勉強ではこういう事になっている。冬にがんがん暖房していると、外部に面する壁のコンクリートの壁面上に、びっしりカビが生えるんだと。普通はコンクリートの壁に、外部に面するところは、発砲ウレタンっていう吹きつけ式の断熱を施してから、GLボンドっていうのりで、石膏ボードを張ってその上にビニルクロスを張る。その発砲ウレタンを飛び越して、コンクリートの壁面にカビが生えるんだそうな。(本当かなあっと疑問に思っている。)アトピーだのアレルギーだのっていうのは、このカビのせいだっていう説もある。それで外断熱工法を売りにしている建物もあるよね。それだと今度はコストが高くつく、それから雨仕舞いがうまくいかない、っていう欠点があるんだよね。私が子供の頃は、冬の朝は布団から出たくなかったし、布団の中から顔を出すと、吐く息が白いなんて普通だったけど、今じゃあ寝室暖房なんて当たり前だし、それがなきゃあ快適じゃないもんね。快適を上げていくことはいいんだけど、そうすればしたで、自然からちゃんとおつりがくるっていうのかな、新しい宿題を頂いちゃうんもんなんだなあ、って思ったよ。
2006年03月22日
先週から洗濯機がぶっ壊れ。昨晩から壱男が発熱して一部ぶっ壊れ。でも一番のぶっ壊れはこのアタシ。まず花粉のせいで鼻がぶっ壊れ。ついでに食欲中枢がぶっ壊れ。とにかく腹がいっぱいでもなんでも食べていたい。食べるものは甘いものでなくてなんでもいい。もひとつついでもアタマもぶっ壊れ。とにかく物忘れがひどい。用事があって行った隣の部屋に行く途中で、用事を忘れてしまう。一体どーなっちゃうんだよ~。午前中に昨日買った洗濯機が来ると思うと、とっても朝からうれしいアタシ。ホクホクしてたらある現実が目に飛び込んで来た。洗面所を片付けなくては!、これではぶっ壊れ洗濯機を出すことも、新しい洗濯機を入れることも出来やしない。いや~ん、今日は亭主は出勤でアタシ一人じゃん。しかも壱男はお熱で具合悪くて機嫌も悪い。どーしましょ!。悩んでいても何事も進まないから、片づけを始めると、やっぱり壱男が好奇心満々でやってくる。私が片付けたそばから、壱男に「これ何?」攻撃を受ける。そしていつものように私は、段々攻撃が効いてきてイライラしてくる。「なんだっていいじゃねーか!。」、言えるもんなら言ってしまいたい。そして新品の洗濯機はやってきた。当然のように壱男は好奇心満々で、お仕事に来たオトコの人たちのお邪魔をしないように、押さえつけておくのがやっとのことだった。「本当におとなしくしてろよな!。」、言ってわかってもらえるものなら言いたい私であった。粗方設置が終わってあっさりとお仕事のオトコの人達は、引き上げていった。「あれ?、使い方とか説明してくんないの?。」、昔は必ず取り説ってもんをしてくれてたじゃないの?!。しかたがないから弐女ちゃんにおっぱいをあげながら、一人で取り説を読む。多機能な洗濯機だからもうコースが多彩なんだよね。これじゃあ据付時に間単に使い方を説明しきらんなあ、ってあっさり引き上げていったオトコ達を思った。早速試運転開始。最速10分コースでたまった洗濯物を一気に片付ける。1時間で5回転させて全部干し終えた。いや~、片付くって気持ちいい!。洗濯物ためるのが大嫌いな私はこう思う。文明ってすごい。その後昼食をとって、もうへとへとな私は子供と夕方までお昼寝。ここで寝とかなきゃあ夜までもちゃあしない。今日は子供が二人いるし、しかも具合も機嫌も悪いときている。でもなかでも一番ぶっ壊れているのは、私なんだけどね。あ~だから洗濯機もぶっ壊れちゃったのかなあ。まあでも10年選手だから寿命でしょ。
2006年03月21日
日曜の夜はフィレちゃん一家と楽しく過ごして、家に戻って子供たちを風呂に入れて、私も久しぶりに一人で風呂に入った。そして一日の最後の洗濯に取り掛かった。あ~これで今日もお終い、日記でも書いて寝ようなんて気分。まあやれやお疲れ。なんてやっぱり問屋が卸してはくれなかった。ガビーン!。やっぱり洗濯機壊れてる~!。洗濯できたけどすすぎと脱水が出来ない~。もう深夜11時過ぎだよ~。翌朝目覚めた時には私の腹は決まっていた。「今日絶対に洗濯機こうてやる!。」もうこれしかない。私は燃えていた。壱男を保育園に連れて行って戻ると、ネットでコジマ及びヤマダ電機のサイトを調べる。通販で買ったら安いんじゃないかと思ったのだ。確かに安いかもしれない、しかし手元に届くのに1週間から10日掛っては意味がない。洗濯難民の私にはそんな時間はないのだ。でも少しでも安く買いたい。う~んとアタマをひねると、もしかしたら今日ってジャスコの5%引きの日じゃあ、って思いついた。即効ジャスコに電話して確かめると、確かに5%引きで、なおかつ在庫のある洗濯機なら2時までに買い物終了したら、確実に翌日配送してくるという。このとき既に1時過ぎ、もう行くしかないでしょ。それにしても、私の知らないところで洗濯機は確実に進化していたのね。新婚当初はドラム式乾燥機付洗濯機は30万円以上はしていたのに、今は半額以下。でもっと驚いたのは、普通の全自動洗濯機に乾燥機能がついていること。ここ3年近くまともにテレビ観てないから、こういうニュースって全然しらなかった。余談だけど、私は長いことテレビを観ないっていうことに、「なんてアタシはエライ子ちゃんでしょう!。子供にも当然観してません。えへん。」って思っていた。でもこれもどーかなあ。情報の更新っていう観点からすると、テレビもアリでしょう!。windows xpに変えてから、マックにない情報の自動更新機能ってやつにエライ驚かされたわけ。私にはこの情報の自動更新機能ってやつがないから、意識して情報収集して更新せにゃあかんのよ。それにはテレビもひとつの手段なのよ。で洗濯機は乾燥機能付全自動洗濯機を購入。当然翌日配送。やったね。やれやれ上手くいったワイ、なんて思っていたらまだまだ問屋が卸してくれなかった。その晩から壱男が発熱。なんだよ~。
2006年03月20日
今日は3月になって初めて亭主のお休み。建設業って結構こういうのってあり。せっかくのお休みなんだけど、洗濯機ぶっこわれ事件の余波で、亭主には8時のコインランドリーオープンと同時に、家中の洗濯物を運んでもらわなならん。そして8時過ぎになんとか予定通りコインランドリーにて洗濯着手。さあ次はコジマはヤマダ電機辺りに、肝心の洗濯機を買いに行こうと思った矢先、脱衣所の方向、つまり洗濯機のあるところから、私を呼ぶ声がする。「なんだ!、洗濯機使えるよ。」と亭主。「なに!?。」と私。確かに洗濯、すすぎ、脱水と働き出している。なあんだ!、ぶっこわれは、一時のきまぐれってことか!、なんて思って気が抜けた。洗濯機購入は先送りになった。そしてせっかく出掛ける用意もして、気合十分だったから、このまま家にいるのももったいないんで、みんなで車に乗ってお出掛けすることにした。行先は東京駅地下街のトミカショップ。壱男はハタ車(働く車)に目がない。トミカのラインナップはなかなかマニアックなんだ。ラーメン屋台の車とか、コカコーラの運搬車両コレクションとかあったり、引越しのサカイのトラックなんかもある。こういうモデルのピックアップでどーやってんだろ、なんて考えると結構面白い。そして夜はフィレちゃん達と合流。今晩は外でみんなでお夕飯。近所の豆腐料理の店といっても、豆腐料理で1杯やる店に出掛けた。正直言って壱男を産んでから、こういう店に来たのは初めて。もっというと、妊娠中も行ってないから、3年以上足が遠のいていた。勿論飲酒自体も今の私には非日常なこと。以前から「酒なんて飲んだって。」、なんてよくもっともらしいこと言っていたけど、そう硬いこと言う事もないんだよね。亭主も休みなしで働いて疲れているし、私もストレス過多だし、こういう時は酒でも飲んで楽しんじゃった方がいい。料理も酒も美味しくて、子供たちにも美味しかったみたいで、大人も久しぶりに楽しめた。途中で気がつくと、赤ちゃん連れのグループが店に来ていて、赤ちゃんが泣いていた。以前ならこういう所を見たり聞いたりすると、「こんな所に赤ちゃん連れて来ちゃってからに。」、なんて小姑かましてたけど、子育てストレスをここまで溜める前に、一見子連れに似つかわしい場所だとしても、子連れでやって来ちゃって、息を抜かなくっちゃって思うよ。そうやんないと生き抜けないってことなんだよ。これも必要悪。ストレスとか慢性的な疲労ってさあ、人をぶっ壊すよ。だからそうなる前に何とかした方がいいさ。。そして常識とか世間体とかの御体裁、は取っ払った方がいいよね。
2006年03月19日
今朝は朝から気合が入っていた。昨夜洗濯機が突然ぶっこわれて、洗濯もを一日に3.5回はする量の多い我が家としたら、一日たりとも洗濯に手を抜けないもんで、コインランドリーにいざ出陣と気をはっていた。朝食が終わって「弐女ちゃん起きたよ~。」と壱男。寝室に行ってみれば、なにやら弐女ちゃんは壱男に両足を持って引っ張られて、移動したような形跡が!。まあほほえましいと思おうか、注意をしようかと思案していたら、もっとすごい現実に気がついた。壱男に引きづられた弐女ちゃんは、オムツがずれて半ケツ状態になったらしい。その後私がここにくるまでにタイムラグがあって、その間にうんちをなさったらしい。そう半ケツ状態でうんちをなさった。これはどういうことを意味するかというと、シーツと肌着とスリーパーがうんちまみれになったということ。0歳児のうんちのついた汚れは、はなかなか落ちにくいのよ。昨夜についでまたもや一人パニック。いや~。とにかくこの状況が悪化しないうちに対応しなきゃあ、ってあせりだすと、この原因をつくった壱男が「何なに!?。」、ってやってくる。こいつが来ると絶対状況が悪化して被害が増える。つまり私の仕事が増える。半分怒鳴りながら壱男を部屋から追い出して、一人弐女ちゃんの着替え及びうんちの始末をする。今日はコインランドリーに行くから、シーツは洗わないつもりでいたのに、急に洗濯物が増えたじゃないかあ!。イライラ発生中。大急ぎでやる事を済ませて、コインランドリーへ急行。全く予想外の展開で家を出るのが遅れてしまったのが、やっぱりひびいていて、洗濯機はどれも使用中。ひえ~!。こんな重い荷物を持って再び戻る気力はないし、かといって子供たちを家に置いてきたから、ここでのんびり順番を待つなんてことも出来ない。ここは思案のしどころ。で一計を案じて、社宅と同じ敷地にある独身寮の洗濯機を借りることを思いつき、すぐさま行動開始。管理人さんになんとか頼み倒して洗濯開始。大急ぎで戻って今度はお昼の仕度して、壱男ととも大急ぎで食べる。そして再び独身寮に戻って洗濯物を引き取る。この時点で12時半。ここで一日のエネルギーの大半を使い果たした。弐女ちゃんのおっぱいしながら、眠くて眠くて寝てしまった。気がついたら3時過ぎ。あ~あ!。夜になって亭主が戻ってきた。帰りにお酒を買ってきてもらって、飲みながら亭主に絡んだ。私は普段は酒の始末はすごくいいんだけど、ここのところの子育てストレスで、今日の私は大いに亭主に絡む。そして言った。「アンタに絡まないで、一体世間の誰に絡めばいいって言うのよ。」。でしつこくしつこく絡んでやった。子育てストレスと洗濯機ストレスで、飲まずにいられず、絡まずにいられないriccaであった。
2006年03月18日
今晩の夕飯は豚の角煮。出汁をとった昆布を一緒に入れて、下煮した豚と一緒に土鍋で炊いて、それからホットクックへ。夕飯の頃にはすっかり味がしみて、お肉もほろほろになって、2歳の壱男も「美味しい」の連発。一緒に煮た昆布は後日煮汁とともに、ご飯に炊き込む。これが美味しいんだあ。1回で2度美味しいってやつ。なあんて幸せな金曜の夜に突発事故発生。キャ~、突然な洗濯機のぶっこわれ!!!。しかも洗濯途中のぶっこわれで、脱水完了しないままにぶっこわれちゃった。手絞りしなくちゃあ~、っと泣きたい気持ちでいたら、カ~壱男が泣いて起きてきた。急に「耳が痛いよ~!。」。ほんっとうにこういう時は、なんだって今頃耳がイテ~んだよー!、って思っちまう。こっちだって大変な事態発生中なんだよ~。しかも熱とかなら冷やせばいいけど、耳が痛いなんてこんな深夜にどーしたらいい!。一人パニック。壱男には耳痛のレメディを飲ませて、布団に追い立てる。こちとら洗濯の方が優先順位が高いのよ。だって耳は専門外だもん。明日医者にいくしかないじゃん。う~ん、この週末どうなる。
2006年03月17日
ホメオパシーの中に、「本来の自分に戻る」というのがある。病気や怪我のときに、薬で症状を抑えてしまったり、流すべきときに涙をこらえてしまったり、発散すべきときに感情を抑えてしまったり、そういうことが自分自身を、本来の自分から遠ざけてしまうらしい。そして現代人は自分自身からも遠ざかり、なおかつ自分自身を分裂させて、一体自分は何なのかわからない、というような状況にあるらしい。「本来の自分戻る」などというと、なにやらシャンプーのコマーシャルのように、なにか本来の美しさを取り戻すようなイメージが湧くけど、私は最近違うイメージを持ち始めている。あれこれお金のことを考えてみたり、ヴィトンを買ってみたりして、「本来の自分」っていうのは、どーも豊かさの尺度を金で計り、人から羨ましいと思われたいと思っていて、よくいうと美学があり、悪く言うとええ格好しーな存在なんじゃないかって、思っている。このあんまり体裁のよくない「本来の自分」を、当然認めたくなかったというのは、まあ当然の成り行きで、これを隠す為に、豊かさは金だけじゃないとか、6畳一間に住みながらヴィトンなんか持つなとか、なんか小姑みたいなことを、長い間言っていたような感じがする。ここんところ、子育てストレスも相まって、なんか自分自身も行き詰っていて、もう居直り強盗みたいに開き直っちゃっていたけど、そんな辺りから段々見えてきた感じ。これは決して自分を過小評価しているとかじゃなくて、ここいらあたりに自分の根っこがあるんだなあ、って思っているだけ。豊かさに関しては、本当に心底金で計っているなあ、って最近はつくづく自分のことがわかってきた。人の持ち物とか、住んでいる家とか、その人の背景(学歴とか出身とか)、そういうところに関心があるんだよねえ。人格なんか2の次、3の次だもんねえ。まず他人の人格に興味ないもんね。でもこれを口に出しちゃうと、やっぱし体裁が悪い。格好悪い、ひどい人みたい、なんて思っちゃう辺りが、人目を気にしているんだよねえ。まあ当たり前か!。それで「豊かさは金では計れません。」、なんて言ったり、聞いたりすると、ふんふんその通りなんて思っちゃうんだけど、実際これからの人生ずっとユニクロだけで満足出来ないし、ちふれ化粧品なんかじゃあ絶対納得できない性分なんだよ。これが「本来の自分」ということなんでしょう!。そうは言っても、45億円を儲けた株のデイトレーダーのオトコは、画面から観るだけだけど、決して豊かとはいえないんだよね。まずその孤独が豊かさから遠いよ。そして毎日の昼食がカップラーメンなんだって、満腹になるとアタマが働かないのと、pcの前から離れられないからだってさ。これも豊かさから遠いのよ。金の多さが豊かさを作ると限らないってことなんだよ。こういう風に書くと、なんだわかってんじゃん!、って感じなんだけど、私の中では乖離っていうのかなあ、違和感あって自分の中に収まりきってないのよ。これが簡単にわかっちゃうと、「本来の自分じゃないのよ。でもこれがわかることが、「本来の自分」の目指すところなんじゃないかと思うんだ。だからまずどーにも体裁の悪い、「本来の自分」に戻りきるのが、最初にやるべきことなんじゃないかと思うんだよ。その為に子供に接して、自分の闇をしかと見なければいけなかったり、私の人生的には予想外の展開というべき、専業主婦になってみたりして、人から評価されない、(評価されたくてしょうがない。)人から尊敬されない、(尊敬されたくてしょうがない。)いくらがんばっても金にならない、(金はいくらでも欲しい。)という反対の状況になっているんじゃないかと思う。もうひとつ本来の自分として、人に勝ちたい、人に負けたくない、っていうのがあって、これに関してはかなり昇華したんだ。この勝ちたい負けたくない、っていうのが一心になったのが、私の大学院留学だよ。ここまで勝ち負けに徹して、外国まで行っちゃったら、かなり「本来の自分」に戻ったんだと思うよ。最初は勝ち負けの相手は他人だったんだけど、最後は相手は自分自身なのよ。これは本当に苦しい闘いでしたよ。もう少しわかりやすく書くと、「本来の自分」は物事は人との勝ち負け、だったんだけど、これの目指す所は、相手は他人じゃなくて自分なんだと気づくこと。さらに欲をかいて上を目指すと、勝っても負けても楽しい自分なんだろうなあ。負け上手を目指すとでもいうかな。私の「本来の自分」かなりやばそーで、見るのが怖いくらいだよ。
2006年03月16日
ホットクックなる保温調理カバーを前から持っていて、なかなか使いこなせなくてr、もてあまし気味だった。同じような機能を持った、でも高性能なシャトルシェフの方が、使いかってがよくて、こっちばかり使っていた。あるとき大地のカタログで、ズボラ料理の奥園さんが、豆を土鍋で煮て、それを毛布でくるむ、っていうやり方を載せていた。(お粗末!地味滋味クッキングの豆参照。)なんかそれ見て閃く物があって、土鍋とこのホットクックの組み合わせを思いついた。これが私的大ヒット。出来た料理が旨い。調理時間が短くて(火の前にいる時間)が楽。それから鍋料理以外で出番のなかった土鍋が、毎日のように大活躍。例えば牛筋なんか土鍋で煮て、ホットクックに入れる。忘れた頃取り出して、水を替えて再び同じ事を繰り返す。これを日に3回くらいやると、すっかり油の抜けた、コラーゲンの塊になっちゃう。これでハヤシライスを作ったら、牛筋がトロントロンで旨いことこの上なし。同じ事をシャトルシェフでやることも可能なんだけど、家のシャトルシェフはちとでかい。だから少量のときは土鍋&ホットクックの方が、断然使い勝手がいい。それでいろいろ気をよくして、豆は勿論のこと、煮物とか煮魚もやってみて、どれも美味しく出来た。特に戻した豆を煮ることに関しては、これで完璧って感じで、豆は思い切って5キロ程各種取り混ぜて買っちゃった。豆って美味しいのね。白花豆(白いんげん豆)に夢中。おならが出るのが玉に瑕なんだけどね。そんでもって豆の煮汁がこれまた美味しい。スープの素なんていらないよ。出汁と一緒にして味噌汁にしてもOK。汁気の少ない炒め煮みたいなものも結構いける。私的ヒットは豆とトマトの炒め煮。土鍋ににんにくと油をいれて香りが出たら、塩漬け豚肉(お粗末!地味滋味クッキングの豆参照)を炒めて、戻して煮た豆を入れて、刻んだローズマリーとトマトのざく切をいれる。トマトの水気が出てきたら、よく混ぜ合わせて蓋をして鍋の中の圧力を高めて、火からおろしてホットクックに投入。私は毎日料理は1時頃やるんだけど、夕方6時過ぎに食べる頃には、豆がトマトの汁気と肉の汁気を含んで、ほろほろになって最高。壱男にもヒット。肉をベーコンに変えても、トマトを白菜やキャベツに変えてもOK。野菜から出た汁は麩に吸わせるといいよ。そんでもって、今日は豚バラブロックで、豚の角煮を料理中。中というのは今日と明日は下煮して、あさってが一日掛けて味をしみこませようと計画。このとき一緒に出汁をとった時の昆布を一緒に煮る予定。豚肉と昆布って甘辛味にすると相性抜群。そんでもって味のしみた昆布と角煮の切れ端で、ご飯と一緒に炊き込むとこれが最高。美味しく出来るといいなあ。
2006年03月15日
保育園の帰りに公園に寄った。壱男はそこでお砂遊び。5時過ぎになって、子供たちが一人二人と帰っていった。だいぶ日がのびたけど、まだまだ5時はお家に帰る時間。カラダの大きなホームレスが公園に来た。お約束のように大きな袋を持ち、でもそんなに身なりは悪くはない。この辺は結構こういうオトコが多い。オトコは茂みや物陰にをうろうろして、なにやら物色中。実は既に公園には何度か見掛けているホームレスが一人いる。いつも酒に酔っている。別に二人で何かやらかそうという感じじゃないけど、こういう人達が近寄ってくるだけで、とっても怖い。特に子供が一緒だと。何が怖いのかって、私と同じ思考形態してないから、(同じ思考形態ならホームレスやってない。)予想外の展開が怖い。「壱男ちゃん、帰ろうよ。」と声を掛ける。当然「いや」っていう返事。う~ん、困ったなあ。でもまさか「怪しいおじさんがいるから、帰ろうよ。」なんて本人目の前にして口に出せない。それこそ予想外の展開を招いてしまいそう。でしょうがないから、「鬼が来たから帰ろうよ。」と言った。「鬼どこ?」。「隠れちゃったよ。」。「壱男ちゃん豆もっている?。」。「豆持ってないの。」。「じゃあ鬼が来ちゃうから早く帰ろう。」。2月の節分のとき、保育園に鬼が来てそのとき壱男は豆撒きした。だから鬼が着たら豆撒きすれば、鬼は帰ると思ってくれている。それでなんとか公園を後にした。なんかかわいいけど、いつまでこういうファンタジーが通用するのかなあ。
2006年03月14日
トレーシー・ホッグ著「赤ちゃん語がわかる魔法の育児書」、って本があって著者はアメリカでも有名なカリスマシッター。壱男がまだ赤ちゃんの時に亭主が買ってきて読んだ。壱男は抱っこしてないと泣いてばっかりで、昼寝も夜も一緒じゃないと寝てくれない子だった。当然私のストレスも疲れも相当で、壱男は育てにくい子供の部類だったと思う。この本を読んだ時は、なんだ全然役に立ちゃしない、なんて思った。アメリカと日本の文化の違いもあるし、ホッグの言う赤ちゃんの泣き声を聞き分ける、っつーのが全然わかんなかったから。ホッグは赤ちゃんの泣き声をいくつかに分類していて、お腹が空いたりオムツが汚れた時みたいに緊急の泣き声、ちょっとだっこしてほしいような泣き声、眠い時の泣き声、これを母親に聞き分けるように書いていた。緊急の泣き声は別として、それ以外は母親が簡単にあやして、赤ちゃんが自分で自分の機嫌を戻していくように、ホッグは薦めていた。そしてここが文化の違いなんだけど、アメリカは赤ちゃんでも一人寝をさせる。当然赤ちゃんはそんなこと出来ないから、泣いちゃう。でもすぐに母親が飛んでいかないようにホッグは言う。ここで泣き声を聞き分けなくてはいけない。そして最終的には赤ちゃんは少し泣いて、でも自分ひとりで寝る習慣を身につけることを目指す。この壱男の時に出来なかった泣き声の聞き分けが、二人目にしてやっと出来るようになった。それもこれも子供が二人になって、弐女ちゃんはどーしてもかまってあげられなくて、泣きっぱなしっていうことが多かったんだけど、ここにきてその沢山の泣き声を聞いた成果が、今ここに現れたかのように、まあ少し泣かせておいてもいいかなっていう泣き声と、これはまずいっていう泣き声がわかるようになった。これがわかるようになって、弐女ちゃんも自分で泣いた後、自分でご機嫌回復することが多くなった。私は元々親に機嫌とってもらった事がないから、どーしても子供の機嫌もとりようがないところがある。それがいいか悪いかわかんないけど、今も壱男をしかって散々泣いた後でも放っておくと、自然に回復して歌を歌っていたりする。それで2月に入ってから、本格的に夜は子供たちだけで寝るようにした。前からたまにしていたけど、暗闇を怖がる子供を放っておくなんて、いけないことじゃないかって考えていた。でも亭主が連日深夜帰宅で、家事がたまってたまって止む無く、私は寝かしつけを割り切ることにした。2歳の壱男には「おやすみ」を言って、自分で布団に入らせて、8ヶ月の弐女ちゃんはおっぱいして、やっぱり同じように「おやすみ」を言って、布団に入れる。壱男はふざけて寝ないことも結構ある。弐女ちゃんはちょっと泣くこともある。でもそれは眠くて泣いている泣き声で、そのうち静かになって二人して寝てしまう。決して激しく泣いて泣きつかれて寝る、という感じではない。昼寝も同様にやっている。最近では布団に入って二人でなにやら、笑っていたりする。いったい何をしているのか知らないけど、二人してふざけてなかなか寝ない日もある。寝かしつけを割り切って止めて、夜は随分と楽になった。テレビを見ながら一日の最後の洗濯を干して、昼間干した洗濯物を畳む。亭主がいたら応援頼むところなんだけど、ここんところずっと深夜帰宅だから頼めない。そういう昼間やりきれない家事、でも誰も肩代わりしてくれない家事を、子供が寝てしまってからする。これが寝かしつけを止めてずっと楽になった。そしてわずかだけど、自分の時間も持てるようになった。まあそれでも昼間の子育てストレスから開放されてはいないけど。母親としてはルーキーじゃないけど、まだまだ3年目。始まったばかり。先は長いんだよなあ。
2006年03月13日
昨日今日、つまり土曜、日曜と亭主は仕事。去年の暮れから平日は深夜帰宅。子育てストレスの原因はここにもある。でも平日に亭主に頼れないのは慣れたかな。最近自分のストレスを自覚して、少し変わってきた。ストレスも悪くない。だって私を強くしてくれるから。私は自分の中にある心の闇を否定しない。私の中にも憎い、殺してしまいたい、そんな闇はある。私の中に闇があるから、優しさとか、慈悲慈愛の心とか、光がある。自分の中にあるジェラシーも否定しない。ジェラシーをよく覗いてみると、自分の進みたい方向を教えてくれている。今の私はお気楽に贅沢したがっている。だからお気楽な人、贅沢している人にジェラシーを感じる。そしてなんといってもジェラシーは、ひとつのエネルギーだ。何かを成し遂げる起爆剤になる。自分の中にある高すぎるプライドも否定しない。高すぎるプライドは取り扱い要注意で、面倒至極なもんだけど、これがあるから私はどんな時も崩れていかない。一種のブレーキのようなもの。そしてこれもひとつの大きなエネルギーだ。やっぱりこれも起爆剤になり得る。金に執着しすぎる自分も否定しない。今は金を持つことで何かを学ぶ時期にあるんだと思う。だから大金を手にしてみようと思う。それと引換えに孤独を得ようとも。そのときはそれが次の転機に違いないから。ブランドが好きで結局派手好みな自分も否定しない。アタマをまるめ、法衣をまとい、仏門に帰依した瀬戸内寂聴の枯れ方に、とても正解を見るんだけど、私はああいうタイプではなさそう。どうあがいても、でっかい宝石を着けて、ブランド服を着た、細木数子か美輪明宏路線。それも仕方あるまい。私は決して生き方上手とはいえない。でも自分に正直には生きている。それがいいかどうかはわからないけど、これしか出来ない。そしてそれが何にどうつながっていくのかもわからない。毎日思考錯誤して、哲学して、これがいったい何になるのかわからない。それでも生き方上手になってない。私が生物として生きるって言うことは、酸素を消費して二酸化炭素を排出し、熱を放射し、し尿を排出し、地球の資源を毎日使い、少なくとも私の存在自体が地球の為に何一つなっていないのは、よくわかっている。私がここに正直に自分をさらすのは、この地球に何の役にもたっていない自分を、せめて人の役に立たせたいから。そういう意味でここは私の仕事。私自身を表現する場であると同時に仕事場。ここに書かれたことは、ある情報企業家からしたら、小冊子物なのかもしれないけど、私は敢えて小冊子化しない。情報くらいで金を取ろうなんて考えられない。みんなの役に立つ情報なら、どんどん流した方がいいに違いない。今の私は正直苦しい。春が来たけど毎日楽しくない。全然お気楽になれない。今回のトンネルはどーも長いらしい。
2006年03月12日
設計部に勤めていたころは、結婚退職とか、子供が出来て退職なんて一切考えてなかった。実際結婚して、30代に入って、建築部に移動になって現場監督になってから、このままでいいんだろうかって、思うようになった。それは勤務時間も勤務そのものも、設計部以上にきつかったから。現場監督しているころから、ここの社宅には住んでいて、月1回の土曜の社宅の一斉清掃なんて、当然滅多に出席出来ないし、御当番なんて何にも出来なくて、一緒に組んだ人に押し付けまくっていた。それも当時は随分と心の負担で、申し訳ないなあと思うと同時に、なんでこんな前時代的ことやってんだよ、なんて怒ってもいた。でこの頃社宅は圧倒的に専業主婦が多くて、家みたいなディンクス(当時は流行ったなあ)なんていなかった。ほんの10年前のことだよ。私は自分の廻りの主婦をこう眺めていた。「自分の好きなようにお金とか使えないんだろうなあ。」、「ずっと家にいて面白いのかなあ。」、「自分の将来のことなんて考えていないのかな。」、「結局自分の人生なんて考えていないから、結婚して主婦になるっていう、既成概念を受け入れちゃうんだろうなあ。」、なんてつまり主婦を大馬鹿にしてた。その止めを刺したのが、月一の社宅の一斉清掃の後の集まり。ここでいろんな決め事をしたりって話し合いをするんだけど、これが非効率的で、古い年長のオバが幅利かせちゃって、中学時代の女子バレー部の反省会みたいに、(練習休む人を先輩が怒るんだけど、本当に怒られるべき人はやっぱりその場に来てないのよ。)感じ悪いもんだったんだ。当然この頃社宅に知り合いはいないし、いつも「働いているからって何様だと思ってんだよ~。」、なんて年長のオバに突っ込まれんじゃないかって、ビクビクもしてたんだ。だってだって着ているもんだって、持っているもんだって、出掛ける所だって、なんだってなんだってオバより派手だったから。(金掛けてるっていうただそれだけのこと。)まあ端的に言っちゃうと、金銭的に可処分所得が圧倒的に少ないこと、自分の人生についてなんも考えてない人、効率とか能率みたいなことで物事進めてない馬鹿っぽさ、みたいな所で主婦を低くみてたんだ。で十年たって私は専業主婦。自分が放った矢は自分を貫くのよ。働く主婦がかつて自分が主婦を見たように、自分を見ているんじゃないかって、恐れちゃっているんだよ。私はフランシスさんの書き込みに答えたように、負けず嫌いの傾向がある。負けるのが下手で、負ける事に耐えられない。でもいつでも勝てないのが現実。カラダも弱いし、運動神経も0だし、実は結構気も弱かったりする。(批評批判に耐えられない。)働く主婦もしくは、働くオンナが私を低く見るのは、プライドが許せないのよ。これが本音。なんとかこういうオンナに勝ちたいっていうのも本音。くだらない勝負の土俵に上がっちゃあいけないって、よく自分を普段から戒めているんだけど。何が今日の本題かって言うと、私から見た主婦対働く主婦(オンナもいれるかな)っていう2元対立には、まずひとつは経済の差、そしてもうひとつはうまく表現できないけど、働いているとどんどん変わる時代の変化に、情報の更新をしながらついていくけど、専業主婦でいると時間も変化も遅いから、人によっては情報の更新0でも生きていける、そういう差。知性の差というほどではないけど、専業主婦=イケテナイ、 時代についていってない、 ダサい、みたいな所に見る優越感情、または見られることへの恐れの感情。どっちが上かっていうこと。(自分で書いててくだらないって思うよ。)こういうもんがあるんじゃないかと思う。今の自分のことを言うと、情報の更新はかなり遅いけど、自分が生きていくに必要な程度には更新してる。でも働いているオンナからすると、遅すぎなんだろうけど、この部分では勝負するつもりはない。あと馬鹿なんじゃないかって、働くオンナ及び世間一般に見られていることは、実際プライドが許さないところではあるけど、自分の馬鹿さ加減と、自分の思考への信頼性は自分が一番知るところだし、人と比較するもんでもないので、プライドが実際疼きはするけど、勝負するつもはないっていうところで落ち着いている。経済については、私は、負けず嫌いで負けるの下手で、そのくせ人と争うのが嫌いだから、建設業にもどっても、争い回避しながら、人に勝とうなんて面倒なことに仕事以上に神経使って、疲れるのがまず嫌。でも「riccaちゃんて主婦だからお金なさそう。」、なんて友人から見られるのもプライドが許せない。私の場合人にどう自分がみられるのかって、いうことが結構大きな問題だったりする。もうひとつ言うと、この「仕事はしたくないんだなあ」、っていうのが働くオンナ達の持っている金への、ジェラシーにつながっている。私だって結構お金使っているし、実際お金も持っているんだけど、それでも他人の金にジェラシー感じている。仕事したくないけど金は欲しい、っていうのが私の本音なんだ。私は金に執着があって好きなのよ。このことは、不労所得で金だけを稼ぐことにしたから、まあそのうち解決すると思う。ここまで書いてきて私の中で主婦であることのもやもやの大半は、高すぎるプライドによることがわかった。でもここまでプライドあがっちゃうと、そうそう降ろせないよなあ。到底悟りの境地にはいけない。自分の大馬鹿さ加減も知っているけどさあ。だからしょうがないから、プライドをひとつ原動力にして、(いつもそうしてたかもしれんなあ。)、ジェラシーも原動力と羅針盤として、ひとつ自分を変えて、自分の納得できる専業主婦になってやろうかと思う。それが新しい風になれば面白いじゃん。
2006年03月11日
仕事についてはだいぶ前からいろいろ書いている。でもここにきて仕事と金儲けは別、って言う考えに至った背景は、去年の暮れの社宅のお当番の時に、感じた憤りにある。(2005.12.13参照)社宅は自主管理だから、御当番制で共益費の徴収、外部との各種調整とか、連絡事項等の回覧とか、一斉清掃の開催とか、持ち回りでやんなきゃなんないのね。これを「お金払ってすむもんなら、永久御当番免除にしてほしい。」、なんて一緒に組んだイチジャキさんに言われたんだ。聞き流しちゃえば済む事なんだろうけど、イチジャキさんはお仕事してて、壱男と同級生のお子さんもいて大変なのはわかるけど、そうそう御当番の仕事も馬鹿にしないで欲しい、って憤ったんだ。こういう社宅に市価の2割程度の家賃で住めるのは、ここがボロなのと自主管理だからなんだよ。自分の好きな銭になる仕事はするけど、その仕事をじゃまにしたり、銭にならないような仕事はしたくない、なんて品性低すぎ。憤ったと同時になんか悔しかったんだよ。なんか負けてる気がしたんだ。イチジャキさんとは仕事の分担はしたけど、どうしたって昼間在宅の私の方が仕事が多い。私も赤ちゃんいるから正直きついんだ。私がその分を請負っている間、イチジャキさんは仕事してお金稼いでいる。そして「どーもお世話掛けます」いうのなら聞き流せたけど、あのキメ台詞だもんね。私は損している。イチジャキさんは得している。ここに負けを感じて私のプライドが刺激された。もう少しばらすと、ヨレヨレの格好でプラダを持つイチジャキさんに、なんかここでも損して負けている感じがして、年始に私はヴィトンを買っちまったんだな。バカでしょう!!!。振返りはここまでにして、このときも起きていて、いつでもどこでも起きている、2元対立、勝ちと負け、損と得、専業主婦と働く主婦、オトコとオンナとか、そういう絶対収束することのない対立、私はこれを終焉させたい。そのために多元化を提案したい。いろいろあり、なんでもありで、みんな自己責任で選択するような感じ。で手始めに身近なところで、主婦対働く主婦って言う対立を多元化したい。これが冒頭で書いたように、この考え進めたことから、「仕事と金儲けは違う」っていう考えが生まれたんだ。具体的にどう多元化されるかっていうと、思いつく所を書くと、専業主婦、ちょい働き主婦、報酬ありがっちり働き主婦、報酬ありリゲイン働き主婦、働いてないけどちょい金儲け主婦、働いてないけどかなり金儲け主婦、無報酬だけど仕事している主婦、とかさあ自分にあった道を選んで、納得して生きていけばいいんだよ。金が好きな人は、ダイレクトに金儲けだけしたらいい。仕事が好きな人は仕事したらいい。仕事してなくても金は儲けられるし、金もらってなくてもいい仕事は出来るよ。金儲けするのにも、いい仕事するのにも、勉強と努力は欠かせないよ。そしてどちらにもリスクはあるよ。そして金に関して損得勘定が働いちゃう、私のような人は、端的に言って金がすきなんだよ。と同時に好きな金を自分が納得するだけ、稼いでないっていう現実なんだよ。だから金稼いでいる人をみるとジェラシーを感じるんだよ。そういう人こそ、陰で指くわえて人の悪口言ってないで、自分のジェラシーを昇華させて、金儲けを存分にやったらいい。仕事なんかしなくていい。金儲けのことだけに時間も体力も集中させればいいのさ。「仕事はしたくないけど金は欲しい」、これがこの人達の全ての始まりなんだよ。思うとおりやったらいい、そういう時代が来ているよ。「仕事と金儲けは違う。」に始まって、主婦対働く主婦っていう2元対立から、自由な自己責任による多元化への道、これを新しい風として吹かせてみたい。手始めに私から。といってもこのブログ44人しか来てないんだけどなあ。
2006年03月10日
先日テレビで株の個人デイトレーダーのことをやっていた。20代オトコ。大学時代から株をやり始めて、今までに45億儲けたという。勿論就職はしていない。市場が開いてから閉まるまで、一日中パソコンの画面に向かっている。45億も儲けたのに、株の売買がやめられないという。面白いからやっているのとは違うという。こういうオトコはさ、仕事つまり、誰かの役に立つ(他己満)ような働きはしていないくて、金を儲けるっていう自己満をやっているんだよね。私はこのオトコを非難するつもりは0。これはこれでいいじゃん。オトコをみててさあ、終始感じるのは孤独。まさに孤独と向き合わない為に株のトレードやっている感じ。自分をキレイにするとか、オタクの萌え~、とかいろんな自己満があるけど、これほど孤独な自己満って初めて見たなあ。そしてこのオトコの孤独を通して、仕事がまた見えてきた。私のいう仕事っていうのは、必ずしも金銭の授受は問題じゃなくて、他人に満足してもらえるような働きをしている、っていうことを仕事って呼んでいるんだ。私のいう仕事って必ず相手がいる。動物の場合もあるだろうけど、大抵は相手は人。ダイレクトに仕事の評価をもらえる仕事なら、相手に喜んでもらったらやりがい感じるよね。逆にお叱りを頂いたら、凹むけどそこを勉強してがんばればいいんだもんね。そして一人でする仕事もあるだろうけど、大抵はチームで仕事したり、職場なら仲間がいる。仕事の出来不出来を分かち合ったり、一緒に問題解決したりとかって。嫌なやつも必ず入っているんだけどさ。こういう人との関わりっていうのが、仕事するっていうことの価値のひとつなんだと思う。まあ現実はわずらわしかったりっていうのもあるけどね。うまくいえないけど、仕事を通して人の輪につながっていく、っていう感じかな。ちょっと話題はそれるけど、専業主婦って結構孤独だよね。ついでに言うと、子育ても結構孤独ですよ。毎日公園でママ友と騒いじゃって何が孤独???、って見えるかもしんないけど、夫とのこと、子供のトイレトレーニングとか、子供を叱ることとか、子供をしつけていくこと、なんてまさに孤独な作業。ママ友と一緒になんて出来ないよ。ついでに子供のことで悩むのも一人だもん。母親の子供への虐待、母親の子殺しはこの孤独からくると思うよ。専業主婦が子育てが落ち着いてから働く、あるいは落ち着く前に子供を預けて、働き出すっていうのは、お金だけの問題じゃないよ。やっぱり人の輪につながっていきたい、っていうなにか人間の本能に近い所からの、欲求なんじゃないかな。話は戻ってさっきのオトコはこの先どーすんだろ?。もう30歳近いから就職するなら今のうちだし、でも45億もあっていまさら就職もないよね。このオトコはさあ、金の稼ぎ方、つまり金の生み出し方は天才的なんだから、今度は金の使い方を学べばいいと思うんだ。人とつながっていくような、人を生かしていくような役立つ金の使い方、これを仕事にすればいいんだよ。これこそ公共事業だよ。私的公共事業かな。最近ね、仕事をしたいとか、自己実現云々とかじゃなくて、人の中に入ろうって思うんだよね。私にしたらこんなこと思う自分にびっくりなんだけど。でもこうやって人とつながって、人の輪に自分をつなげることが、生き方上手なんじゃないかって思うんだよ。なんか随分と年寄りクサイんだけど。
2006年03月09日
建設会社に勤めていたときに、こんな事を聞いた。ある入社数年の事務系女子職員のボーナスが、彼女の10年先輩より多いと。その金額の開きの出来たワケは、有給休暇を使ったかどうかの差だという。入社数年の女子職員は有給休暇が毎年未消化、ということが評価されてボーナスの査定に結果が出た。う~ん、まっこと馬鹿馬鹿しい。こういう仕事の中に金儲けが込みこまれていない、名誉職(3月3日参照)っつーのは、こういうことでも仕事の評価をしないとなんないもんかなあ。こういうことで職員を競争あるさせるもんかね。でもこういう事は結構とおもうんだよね。特に子供の教育の場面なんかでね。私は教師じゃないから、学校の実態は知らないけど、教師なんてまさに評価しようないのところがある。と同時に教師同志の競争なんかもっと難しい。それでも上司は評価して給与の反映させている。もしこれが子供に影響あるなら親として嫌だよね。今壱男が通う保育園でもそういうものを感じている。先月の個人面談の時ファイルを担任から見せられた。1ヶ月単位で毎月の壱男の生活、遊び、食事の目標と、壱男が達成できたかどうかの評価が、それぞれ書いてあった。これは保育園の担任としての業務なんだろうけど、2歳児が一月、二月で担任の求める目標を、そうやすやすと達成出来るとは私には思えない。担任は私にこういった。「もう何ヶ月も壱男ちゃんは、食事のときに口に詰め込みすぎるのが、直ってないんです。」。確かに何ヶ月も同じ目標が掲げられている。生活のところにも同じように、トイレのことが何ヶ月も同じ目標になっている。これをして担任は壱男のトイレが遅れていると、言っているのだ。でもさっき書いたように、2歳児が一月、二月で担任の求める目標を、そうやすやすと達成出来るとは私には思えない。特に子供は親の言うことは聞かないもんだ。子供の成長のレンジは、月単位じゃなくて、半年とか一年単位なんじゃないかと思うんだ。話は大分それちゃったけど、こういう保育園の業務なんかが、職員の給与査定と関係していると思うのは、私の勘ぐり過ぎだろうか。変な能力主義があって、業務を普通にこなすだけじゃなくて、ここに競争の風潮がありやしないか。例えば今の保育園を例にとれば、オムツのとれた子供の数を競うとか、目標達成度を競うとか。「ぷりん組(壱男のクラス)さんは、園で一番残飯が少ないんです。」、という誇らしげに言う担任の言葉に、何か私は裏を感じずにはいられない。名誉職の仕事の評価っていうのは、非常に難しい。単純に職員同志を競争させればいいってもんじゃない。名実ともにあの人に任せれば大丈夫、って言う人が評価されるのは簡単なんだけど、世の中優秀な人ばっかりじゃない。っていうかさあ、名誉職はもう生涯安定雇用とか、生涯転勤なしとかさ、安定っつーところで納得していただいて、名誉職の中に競争とかっつーのは、なしにしたらどーかと思うんだよ。多少の評価はあるにしても、それは相対評価というよりは絶対評価で、給与以外のところに反映された方がいいと思うんだ。名誉職についた人も、自分は競争よりも安定っツーところで、就職したっつーことを自覚していただいて、金儲けは別んところで考える。投資とかそういうことでね。そして先生とか、看護士さんとか、公務員さんとか、まずご自分の業務に勤しんで頂きたいのよ。その方が世の中うまく廻るんじゃないのかな。
2006年03月08日
子育てストレス最高潮。夕方壱男と弐女ちゃんにおっぱいするんだけど、それも2人同時にだよ、ここのところ左のおっぱいが出てないらしんだ。左を飲んだ壱男が「こっちのおっぱい空。」、なんて言う。子育てストレスでおっぱいも出なくなったかあ!。最近つくづく廻りから責められている感じがする。現実は誰も責めてはいないんだよ。これもストレス過多のせいか!。ホメオパシーの先生からのメール、「ホメオパシーを何年もやっているわりに、効きが遅すぎると思います。甘いものの食べすぎとか・・・。」。あ~食べているよ。きっと食べ過ぎているよ。だってこの大きすぎるストレスを手軽に解消するには、食べるに限んのよお。わかって~。保育園で。壱男はここで担任に「食事中口に物を詰め込みすぎる。」、って言われてて、家でも注意して欲しいっていわれちょる。それで壱男にはお箸を使わせるようにしたら、家ではこの詰め込みすぎて、オエ~ってなるのは激減。きっと保育園でもうまくいっているんだろうと思ったら、「お箸にしたら、食べこぼしが増えました。口に詰め込みすぎはまだやっています。」。だってさ。まだワシの努力が足りんと言うのかあ!。さらにストレス増加!。今年は花粉症ってよりも、敏感鼻になっちゃって、雨降っても温度差、湿度差で鼻炎が爆発しちゃう。っていっても去年の花粉症より軽いけど。これもストレスが原因だぞ。鼻は調子悪いし、おっぱいは枯れてきちゃうし、信頼しているホメオパスにも言われちゃうし、保育園はなんか厳しいし、ついでにマックがぶっ壊れてこの日記の過去ロゴ失くしそーだし、もうアタシは身の置き所がないぞお!。こんなとき子育て支援でアロマのルームスプレーつくっても、絶対ストレス解消しない。今の私に必要なのは子育て相談なんだよ。壱男みたいに私が気が狂いそうになるほど、話しかけてくる子供への対処法とか、あまり年がはなれていない兄弟を持つ親の、上の子供のトイレトレーニング法とか、食べるのが下手な子供への上手な食べ方へのアプローチとか、そういうアドバイスが欲しいのよ。そうじゃないと、子供を叱ってばっかりになっちゃう。ご飯のときなんか、「手を使わない。。」、「おしゃべりしない。」、「ひじをつかない。」、もう叱って注意しっぱなしで、自分も何を食べたのかわかんないくらい。そこまでやっても保育園のハードルは高くて、子供はその水準に達する事は出来ない。こうやって子供を叱っても子供は何を叱られたかわかるには、相当年齢いかないとわかんないよ。あんまり叱ってもこっちが疲れるだけで、問題自体の進展がないんだよお。それよりアプローチショットのコツ。これが知りたいんだよ。というワケで大枚払っている保育園に相談の嵐を吹かせている。主に園長先生に。でもなんだかうまくかわされている様な気がする。今日は食事の事を話したら「担任に相談します。」、って言った。あんまし真剣に聞いてくれる素振がなければ、退園してやるとも思っている。まあ保育園は子育て相談請負所じゃないけど、一緒に協力して子育てしているチームなんだからね。きっと嫌な父兄なんだろーなあ、って思うけど私だって真剣に生きているから、目の前のストレスが解消するには、子供の事をなんとか収めなけりゃいかんワケさ。子供育てるのって大変なことだねえ。(つくづくそしてしみじみと。)あ~神様助けて~。
2006年03月07日
ここの所子育てストレスは最高潮に達している。子供二人保育園に預けて、私が外に働きに出た方が、気分が変わっていいんじゃないかって、思うときがあるほど。2月はこんな事があった。今年のひな祭りは弐女ちゃんにとって初節句。雛人形を買わなきゃって思っていたら、亭主の実家で買ってくれると。ああいうお飾り物って結構お高いから助かるなあ、って思っていたら、「高いのは買わない。」とかグチャグチャ言ってきた。こういった亭主の実家とのやりとりはもう随分前から、私は加わらない。亭主にやってもらっている。そしたらあるとき亭主が「雛人形は家で買いたい。」。って言い出した。どーも実家から難癖つけられてたらしく、亭主曰く「孫には金がかかり過ぎた。」、って将来的に言われかねない感じがするって言う。姑さんと舅さんてこういうこと言いかねない人ではあるんだ。まあ亭主はめんどーくさくなったわけだ。さて困った。というのは雛人形を家で買うことにはなんら問題はないんだけど、「私達で買います。」なんて言っちゃうと、絶対姑さんと舅さんが「可愛くない」とか言い出すのは必須で、今度はこっちの方が収拾つかなくなる。これをなんとかうまく回避しなくちゃ。そんで友人なんかから情報収集して、一計を案じることに。どーも亭主の実家のほうでは、オトコの子の物は夫の実家で、オンナの子の物は妻の実家で用意するもんなんだそうな。で私の両親は既に他界しているからそうはいかない。そこで私の大阪の父方の兄つまり伯父さんに買ってもらう、ということにして自分達で買うことにした。これで姑さんも舅さんもすっかり満足。トホホホ。そして2月の最終日曜に姑さんと舅さんがやってきた。そして早速一応の私からご挨拶。「差し出がましいようですが、雛人形は伯父が申し出てくれて、伯父に買ってもらいました。お父さん、おかあさんのお申し出をお断りすることになって、申し訳ございませんでした。」。まあこういうときの私はかなり丁重。理由はめんどくせーから。そしたら姑さんはこういったさあ。「オンナの子の物はあなたの実家で用意するもの。あなたの実家がないことは知っているから、かわいそうだと思って家で用意しなきゃいけないかと思った。でも伯父さんが買ってくれて助かった。これからも伯父さんに買ってもらってください。」だと。久しぶりに実家がないことで悔しい思いをした。それと弐女ちゃんが憐れに思えた。2番目に生まれたこと、オンナの子に生まれたこと、それだけで自分のおじいちゃん、おばあちゃんから、軽く扱われて差別されている。亭主の実家は男尊女卑激しい所なんだ。壱男の節句のときなんか、この姑さんと舅さんなんか目の色変えてやってきて、五月飾りを買ってくれたのに。だからこれから先の弐女ちゃんのお支度は、亭主と私でしっかりやってやろうと心に誓った。実家がないということで、こんなに惨めな思いをして、いろいろ気を揉んで、感情のやり場に困っていたら、宅急便が届いた。明けたら九州の父の兄つまり伯父さんから、初節句のお祝いが届いた。開けた見たらごく普通のお菓子だけど、このときの私にはすごくうれしかった。だって私にも初節句を祝ってくれる両親はいないけど、覚えてくれていてわざわざ贈り物をしてくれる、伯父さんがいるんだって!。しかも遠方の九州からだよ。箱を開けて中身のお菓子を出して、袋にそれを入れて、姑さんと舅さんのおもたせにした。普段の私は自分の親戚とかをひけらかすなんて事はしないけど、このときばかりは誇らしかった。「九州からもお祝いが届きました。ほんの少しですが、どうぞお持ち帰りくださいって。」ね。九州に縁のない人達だから珍しがってくれた。翌日九州の伯父に電話。電話に出たのは小母さんだった。正直に贈り物がうれしかったこと、雛人形のいきさつなんかを話した。「雛人形のことは九州で用意しようかとも思うとったよ。でも差し出がましいかと思って言わなかった。」。これもうれしくて久々に涙が出た。私のことを心配してくれた人がいる。私にはただただお礼を言うだけで、もう言葉は出なかった。「これもみんなriccaちゃんのご両親さんが、生前兄弟の恩に報いていたからなんだよ。今のriccaちゃんがしなくちゃけないことは、家族全員が健康でいることだけなんだよ。」。もうこれで私の胸は一杯。「でも私は両親の死後、奥さん(父の再婚相手)とも弟とも、伯父さん達が私に期待するようないい関係を作れてないんです。」。弟と仲の悪い私にとっては「兄弟の恩」は私の急所。「そんなことはいいの。今は出来なくてももっと年をとったら出来るから。」。小母さんはどこまでどこまでも深く優しい。この時流した涙は随分心を洗ってくれた。電話を終えてこう思った。近いうちに九州に行ってこなくては、と。80歳の高齢なんだ。私がこの人達に出来る事は、子供を健康に育てて、その成長振りを時々報告して、出来ることなら会わせてあげることなんだ。九州の伯父さん、小母さんには子供が出来なかったから。そして翌日再び宅急便が届いた。九州の伯父さんからお祝いのお酒。「お祝い」ののしがついていた。一升瓶にはちょっとびっくりしたけど、もうこの気持ちだけでうれしい。私は両親が生きているときは、親孝行なんて考えたこともなくて、死後もそのことを悔やむなんてこともなかったけど、実は今もそうなんだけど、私の周りの優しい伯父さん、小母さん、ヨス子さんも含めて、ちょっと亭主の両親は入れられないけど、孝行したいって思った。なんか私らしくないけどさ。そして思ったのは、九州の小母さんが言ったことが本当なら、生前の両親の行いが、今回の私のピンチを救ってくれた、ってことなんだよね。これにはちょっと参ったなって思いがある。やっぱり一人で生きていないっていうか、両親とは死んでも繋がっているというのかな、そういう事を思い知った。だから出来ることなら、子供たちの伯父さん、叔母さんに当る人達への礼を尽くすこと、これは欠かせないって考えた。どういう形でめぐりめぐって返ってくるかわからないもの。そうはいっても盆暮れ正月の挨拶しか出来ないけどね。
2006年03月06日
壱男語録「鬼が来たらどうするの?」と私。「豆撒くの。」と壱男。「いつも豆もってないから鬼に捕まっちゃうね。」と私。「riccaちゃん豆持ってないの?」、「お料理に使っちゃって無いよ。」。2月1日に亭主。3日に私。6日に壱男。それぞれ具合が悪くなり始めた日。家は全員インフルエンザだったと思う。 ホメオパシー療法/やっている関係で、タミフル使わないで治した。で同じ時期に友人のフィレちゃん所の長男のチャカも、インフルエンザになって、タミフル飲んで軽くすんだみたいで、「えっ、タミフルを子供に飲ませなかったの?」、ってまるで野蛮人かのように言われた。結局壱男は8日近く保育園を休んで、その間昼間はいいんだけど夜になると熱が出る、って言う状態が続いた。ホメオパスに相談しながら、子供にはレメディを与えたんだけど、一向に症状が変わる気配がなかった。自然治癒っていうとなんだか有難い感じがするんだけど、1週間近く毎晩子供が高熱を出し続けるっていうのは、親としてどーしたもんかって思うよ。幸い壱男は体力があるほうだけど。でも家にいた間ずっとひどい甘えん坊になっちゃって、私が参ったなあ。症状が停滞してしまって、ホメオパスから「カシノシン」っていうレメディ3日分処方された。これを子供に与えるとまず咳がひどくなった。熱は相変わらず夜なると出る。何も変らんジャン。私の中でホメオパシーももはやこれまでか、っていうところまできた時、ホメオパスが言った。「カシノシンには症状をはっきりさせる作用がある。3日分飲ませてから電話してください。」。全然回復したとはいえない状況で、処方された3日分を終えてホメオパスに連絡した。確かに咳、、鼻水、熱とどれも際立ってきた。ホメオパスは言う。「子供にこういってみてください。ずーっとこの先保育園に行けないとしたらどーする?って。」。言われたとおり壱男に尋ねたら、「いいの。」とあっさり言う。え~、これじゃあ私が困るってんで質問を変えて、「この先ずーっと公園に行けなくてもいいの。?」。今度は「いやあ、行きたい。」だってさ。不思議なんだけどこの会話を境に夜の熱は終わった。咳も鼻水も終わった。ホメオパス曰く、「最後の方の熱は甘えで、熱があって具合の悪い間は母親に甘えられる。」、「子供が自分で熱を下げると決めたら、熱は下がる。」んだそうな。え~な話なんだけどなんか納得出来るワケ。そんでもって翌日から保育園に行ったワケさ。後日報告も兼ねてホメオパスと話したんだけど、その時ホメオパスはやっぱりホメオパシーの立場から、「タミフルなんか使っちゃダメ。」って言った。今回はなんとなくそれが自然に受け止められた。子供の病気って、症状が無くなればそれでヨシってもんでもないなあって。壱男の甘えみたいに、症状の裏に感情の部分が大きく起因していると思った。私は子供に甘えられるのが正直苦手なんだ。まあ今回私が壱男の甘えたさに十分答えられたかどうかは別として、壱男がズルズルと保育園を休んで、家に篭って甘えん坊でいたいという感情については、満たせたんじゃないかと思った。タミフル使うと一変に症状は軽くなっちゃうけど、症状の裏にある感情の部分が、満たされないまま置いてけぼりになっちゃうのかもしれない。でもこれは壱男が体力あるから出来た事で、体力のない子供は無理だと思うよ。私はホメオパスにこういった。「子供の病気に付き合うのって、私が働いてないから出来ることなんですよね。」。そうなんだよ。これが仕事でもしていたら、タミフルだし座薬だし抗生物質飲ませて、無理矢理治すしかないよ。そしてフィレちゃん曰く、「インフルエンザになったら最低5日は休まなくちゃいけない。その5日間は菌を撒き散らしちゃうから。」。タミフル飲んでも5日は掛かるらしい。私は闇だらけで、全然いい母親なんかじゃないけど、仕事していないから、こういう時だけなら子供に付き合える。まあ正直に言っちゃえば、しかたがないって処が多分にあるんだけどね。それと恐れ多くて普通なら言えないだろうけど、やっぱし病児保育は反対。シングルの人の為には必要だと思うけど。仕事していて普段も忙しくて子供との時間とれないなら、病気の時だけでも付き合ってやってほしいかな。どーも子供って、カラダだけが病気なワケじゃなくて、そういう時は心も調子悪いみたいだから。まあ、こんな事はアタシが言うことじゃないか!。なんてたって闇闇だから。
2006年03月05日
今日は社宅の掃除の日。自主管理なもんで月1で各種連絡をかねて、全員で敷地を掃除する。正直面倒だなあって思うよ。今日は比較的早く終わって、壱男と同じ位の歳の」子供を持つ母達とおしゃべり。話題は社宅のボロさ加減。耐震強度偽装とか世の中騒いでいるけど、ここじゃあ本来コンクリートに隠れているはずの、鉄筋丸見えな箇所もあったりして、そんぐらいボロイ。言いたい放題話して、久々に笑った。そう1月から絶対アタシ笑っていない。2月に入って壱男の子育てが苦しい。っていうか去年の暮れから亭主の仕事が忙しくて、土日も出勤だったり、そんでもって旗日も出勤したりで、私の負担は大きい。それでも年明けまでなんとか頑張ってきたけど、2月に入って家中風邪の猛威にさらされたりして、なんか積もりに積もった物が爆発寸前って感じだった。自分の中の違和感っていうか、つまり育児ストレスの自覚はあった。でもこれを解消する術が思い当たらなかった。だっていつだって子供はそばにいて、そうなると息をつく暇がない。例えばご飯のとき疲れているからボーっとしたいけど、壱男は終始話しかけるし、食べ方の注意はしなきゃならんしで、ボーっとなんか出来やしない。なんか趣味でもなんて思ったけど、壱男が保育園にいっている間って、結構忙しい。それに送り迎えに要する時間って結構掛かる。だって弐女ちゃん連れて行かなきゃだし。結局自分の時間なんてほとんどないのよ。それでストレス爆発の導火線に火をつけたのは、壱男の通う保育園の個人面談。ここで言われたのは、*トイレトレーニングが遅れている。*食事の時口に詰め込みすぎる。*お友達にちょっかい出して、それがトラブルになる。担任はこの3点それぞれに対して、「お家でどーされてますか。」って聞いてきた。どーされてますか、ってねえ・・・・・。トイレトレーニングは今年の春からでいいやって思ってたし、現実問題保育園から戻って寝るまでの間に、食事、入浴、弐女ちゃんのおっぱい、後片付け、で精一杯で手が廻んないよ。それに保育園からのお便りで「2歳児は12~13時間睡眠」、ってあったから夕飯食べて2時間で布団に入れなきゃで、それにてんてこ舞いだったよ。口に詰め込み過ぎちゃうのは、私も知っている。「だめだよ」って注意はしている。壱男は性格的に少ししつこい所があって、弐女ちゃんにもちょっかいだして、よく泣かしちゃう。これだって「だめだよ」って注意はしている。それこそ毎日注意している。一日一緒だと小言の連続だし怒ってばっかりだよ。担任の言う「お家でどーされてますか。」、っていうのに私は物凄い憤りを感じたよ。だって早く子供を寝かせろって保健指導しながら、トイレトレーニングもやれとか、2時間でそんなにやれないよ。後の事でも子供に注意はしているけど、話してすんなりわかるんなら子育てに苦労しないよ。話す他に手があるんかいと聞き返したいよ。なんか「お家でちゃんとやってないから、園でも出来ないんです。」、なんて言われちゃったような感じ。事実は違うけど。とまあ私のストレスは徐々に高まって、ある時爆発。私は切れて壱男を叱って、こういう時は勿論手も出ちゃって、自分自身も疲れちゃって、嫌になっちゃって。私の中の闇がどっと放出されちゃった。私の闇は陰険なんだ。闇が表に出てしまった夜、亭主には正直に全部話した。亭主は何も言わなかった。受け止めてくれた。そして話していてひとつ気がついた。子供をかわいがるなら誰でも出来る。子供を躾けていく事こそ難しい。亭主は子供をかわいがってくれるけど、躾けてくれてはいない。こここそ手伝って欲しいし、一緒にやって欲しいって。これを亭主に伝えた。それとこれに付随して最近弐女ちゃんのほうが、かわいく思える理由がわかった。赤ちゃん自体かわいいっつーのはあるけど、赤ちゃんは躾けなくていいからなんだよ。この躾けるっていうのかなあ、社会のルールを子供に教えることの難儀さ、これ困難さが我が子をして可愛いと思えなくなる程、もっと言っちゃうと、「壱男なんかどっか行って消えて欲しい。」、とまで思う時があるのよ。で冷静になってね、担任に言われた事なんて、2歳児なら当たり前のことなんだよね。格別壱男が不出来なワケじゃないのよ。むしろ2歳にして評価されちゃってカワイソー。そしてよーくわかったのは、子供を怒って叱っても、ついでになぐっても、事態は変わらないの。子供は叱られた理由なんか理解しないの。ただ怒っている母ちゃんが怖いだけ。殴られて怖くて痛いだけなの。ねえ、誰か言って頂戴よ。特に権威のある大学教授さん達。子供は可愛がるだけでちゃんと育つって。躾けなくっていいって。そしたら世の中の母達の苦労って減るし、もっと子供産みたいって思うオンナは増えるよ。
2006年03月04日
お待たせしました。オモロイ日記再開。今日は仕事と金儲け。まず私の考える仕事の定義。*他人の役に立つこと。*他人を満足させる事。(上記をまとめて他己満)こういう働きを仕事って思っている。なんでこういう風に考えるようになったかって言うと、あまりに自己満な仕事振りに出会ったから。まあ過去の自分も含めてね。例えばさあ、宅配の姉ちゃんにさ、「配達大変だから注文減らしてくれ。」、って遠まわしに言われたりさ。配達料は無料で1個からOKが売りの冷凍食品の、やっぱり配達のオバに、「注文が少ないと手間だから、もっとまとまったら注文してください。」、なあんて言われちゃったり。自分の都合のいいように、自分のやりいいように、こういう働き方を自己満な仕事って思うんだよね。若いころの私の仕事もこれです。仕事の定義をもう少しすると、報酬はどーでもいいと考えている。無償労働も他己満な働きなら立派な仕事だし、主婦業だって他己満な視点でやったら、結構大変だしいい仕事出来るよ。子育てなんて他己満以外の何者でもないから、これだって仕事だよ。毎朝家の前をきれいに掃除するのだって仕事。私から見ると、金もらっているからって、会社に勤めているからって、格好いい仕事、格好いい会社にいるからって、仕事しているとは限んないの。金もらってないからってテキトーかますのは、もってのほかだけど。世の中あまたの仕事があるけど、仕事と金儲けがセットじゃない事って多い。これって面白い。そんでこういう仕事を「名誉職」って呼んでいる。例えば会社の受付。受付の仕事は来客と社内の人を連絡する事。応接室の掃除とかお茶だしなんかもあるよね。じゃあ受付の金儲けは?。今日は1000人受付けたとかそういう事じゃないよね。この仕事には金儲けは最初からセットされてないんだよ。教師、看護士、公務員一般、事務職、なんかもそうだよね。それとは対照的に金儲けがセットされてる仕事っつーのがある。わかり易い所でホスト。ホストの仕事は客を気分よくもてなす事。他己満の真髄みたいなもん。ホストの金儲けは客にボトル入れさせる事。客と同伴する事。つまり客にお金を使わせる事。そうするとホストの収入に反映するワケ。こういう金儲けがセットされている仕事は、確かに収入はいいよ。そして名誉職の方は生きていかれる程度の収入だよ。名誉職って呼ぶからにはわけがあって、どこかちょっと世の中でいいポジションなんだ。教師なんて「先生」って呼ばれちゃって、ちょっと格上だし、看護士だって資格持っているし、専門性あるし、まず看護士やる人は立派な人っつーのはあるよ。事務職はさあ、「アタシなんてフツーのOLだよ。」、なんていうかもしんないけど、建設業なんか一般事務で入社出来るのはコネのあるオンナの子だけ。一般入社はかなり厳しいんだよ。だから十分名誉職なんだ。内情はそれぞれ別にあるとは思うけど。こういう名誉職の人は誉があるから、金儲けみたいな薄汚いもんから遠ざかっていたほうが、いいのかもしんない。誉があって金儲けがセットされているのが公認なのが、政治家じゃん。あと怒られちゃいそうだけど医学部の教授。だってさあ、不正入試とか新聞出すぎなんだよ、あんた達さ。あと不要な検査したり高い新薬ばっかり使ってそうな医者。私はこういう連中のずるさを言いたいワケじゃない。世の中の仕事をよくかんがみて、仕事の部分と金儲けの部分を分けてみるのは、オモロイ事だとおもうんだよね。ここから何かアイディア沸きそうだし、主婦対働くオンナとか、勝ち組対負け組みみたいな、2元対立論争を終焉させられそうな気がするんだよ。そして新しい時代、多元化の時代をイメージ出来そうなのさ。じゃあ、また。
2006年03月03日
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