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「維新の道」二年坂を北に抜けると、東側に向けて上り坂があります。「維新の道」と書かれた碑がありますが、個人的には「維新坂」と呼んでもいいのではないかと思うような坂道です。この坂の先には、「霊山護国神社」と「霊山歴史館」があります。霊山護国神社明治元年(1868年)、太政官布告(別の資料では、明治天皇の「詔(みことのり)」あるいは「勅旨」と説明するものもあるようです)によって、嘉永6年(1853年、ペリー来航の年)以降の国事殉難者と伏見戦争以降の戦死者を京都東山に祀ることになり、「霊山官祭招魂社」が建立されました。昭和14年(1939年)には、「京都霊山護国神社」と改称されます。戦前までは国費で祭祀が行われていたようです。坂本龍馬や中岡慎太郎の墓も戦後はかなり荒廃していましたが、明治百年にあたる昭和43年(1968年)に創設された「霊山顕彰会」(現在は公益財団法人)の手で整備され、現在に至っています。秋季例大祭が10月14日に行われます。慶応3年の10月14日(旧暦)(1867年11月9日)に、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した日だそうです。11月15日には竜馬祭があります。この日(旧暦)は、坂本龍馬の誕生日であり命日でもあるそうです。霊山歴史館京都霊山護国神社の南側にあるのが「霊山歴史館」で、幕末から明治維新にかけての歴史を総合的に研究するために、昭和45年(1970年)に開館しました。この時代の歴史を「倒幕派」「佐幕派」それぞれの視点で見ることができるとか。「勝てば官軍」で済ませずに、明治維新を客観的に見直してみるのもいいかもしれません。
2015年09月24日
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法観寺五重塔(八坂の塔)京都市東山区清水八坂上町京阪・祇園四条駅より南西へ徒歩約12分京阪・清水五条駅より北東へ徒歩約15分「八坂の塔」という名前で有名ですが、正式名称は法観寺(ほうかんじ)です。もともとは大きなお寺だったそうですが、現在は五重塔と太子堂、薬師堂のみが残っています。法観寺は聖徳太子の創建と伝えられ、少なくとも平安時代以前から存在していたようです。延喜式には「八坂寺」として記されています。五重塔は、治承3年(1179年)、正応4年(1291年)、永享8年(1436年)と焼失した後、同12年(1440年)に室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)の援助によって再建され、現在に至っています。高さは49mで、木造の塔としては京都・東寺の五重塔(54.8m)、奈良・興福寺の五重塔(50.1m)に次ぐ高さです。重要文化財に指定されています。民家に囲まれるようにして建つ「八坂の塔」の姿は、京都らしくて印象的ですね。八坂の塔が見えているので、路地に迷い込む人がいるのでしょうね。「この路地は行き止まりどすぇ」と書かれた案内板が、ちょっと微笑ましく思えました。「京の坂みち 一念坂」の碑二年坂に面した路地の入口に「一念坂」の碑がありました。聞くところによると、平成になって整備された道だそうで、坂とはいうものの、平坦な石畳の道です。
2015年09月22日
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「竹久夢二 寓居の跡」の碑二年坂の途中に、このような石碑が建っています。竹久夢二(明治17年(1884年)~昭和9年(1934年))は、詩人であり画家として知られており、とくに独特なタッチの美人画は有名です。大正3年、東京日本橋の紙問屋の一人娘、笠井彦乃と出会い、恋に落ちますが、彦乃の父親に反対されます。大正5年、夢二が京都に逃れて住んだのがここ、二年坂だということです。数か月後、彦乃が後を追ってきて、二人は高台寺近くで暮らしたそうです。大正7年、彦乃は九州旅行中に別府温泉で結核を発症し、父親によって東京に連れ戻されます。大正9年、彦乃は25歳で病没しました。
2015年09月19日
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二年坂産寧坂に続いて、二年坂です。大同2年(807年)に整備された坂だということでこの名が付けられたという説や、清水寺の子安観音に参る道筋からいえば産寧坂の手前だということで「二寧坂」となったという説もあるようです。ちなみに、「ここでつまずいて転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えはよく聞きます。「石段や坂道に気を付けて」という警句が語り伝えられたものだと言われますが、気持ちのいいものではありませんね。幸いにして転ぶことはありませんでしたが(笑)。
2015年09月17日
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明保野亭跡の碑元治元年(1864年)、長州や土佐の尊王攘夷派を新選組が襲撃した事件(池田屋事件)のあと、新選組に会津藩士が加わって、残党を探していました。事件から5日後、浪士が潜伏しているとの情報を得て、料亭「明保野亭(あけぼのてい)」に踏み込みました。座敷にいた武士が名乗らずに逃げようとしたので、会津藩士の一人が追いかけて傷を負わせたのですが、その後、逃げた者は浪士ではなく土佐藩士だったことがわかり、その場で解放されました。翌日、逃げた土佐藩士は、「後ろ傷を負った」ことを咎められ、藩に切腹を命じられます。一方、傷を負わせた会津藩士に対して会津藩は、正当な職務だとしてお咎めがありませんでした。このことで土佐藩内では会津藩に対する不満が高まり、藩内の強硬派を抑えきれなくなってきました。結局、事態収拾のため、この会津藩士は「自主的に」切腹し、その結果、両藩の衝突は回避されたということです。職務を忠実に遂行していたにもかかわらず、死をもって償わなければならなくなったとは、なんとも後味の悪い話です。石碑には「維新 明保野亭跡」と書かれていますが、実際の明保野亭の旧地は、ここより少し北東方向のところにあるそうです。
2015年09月16日
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産寧坂(三年坂)清水坂(松原通)が五条坂と交わる付近に、高台寺方面へと向かう下り坂があります。石畳の階段になっており、「産寧坂」とか「三年坂」と呼ばれています。清水寺創建の際、大同3年(808年)に道が開かれたことから、三年坂の名があるといわれています。また、安産を祈願するために清水寺の子安観音へ参る途中にある坂なので「産寧坂」と呼ばれるようになったという説も有力です。北政所(豊臣秀吉の正妻、ねね)が、子どもの誕生を念じて清水寺にお参りしていたことから「産念坂」と呼ばれるようになったとか、「ねね(寧々)」にちなんで「産寧坂」となったとする説もあります。この付近は、昭和51年(1976年)、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。
2015年09月15日
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京都陶磁器会館京都市東山区東大路五条上る京阪本線・清水五条駅より東へ徒歩約10分写真の建物は、平成16年(2004年)に「くるる五条坂」としてオープンしました。旧・陶磁器会館が取り壊されたのに合わせ、平成24年(2012年)にリニューアルされ、名前も「京都陶磁器会館」として現在に至っています。企画展示コーナーでは、定期的に作家の個展や企画展などが催されています。常設展示コーナーでは、京都で活躍している作家や窯元の作品が展示・販売されています。入館は無料だそうですので、ふらりと立ち寄ってみてはいかがでしょう。
2015年09月14日
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別府ロープウエイこの日は暑い一日でした。別府ロープウエイは、別府市にある「鶴見岳」の山麓と山頂を結んでいます。山麓の「高原駅」は標高500m、山頂の「山上駅」の標高は1300mで、800mの高低差を約10分かけて上っていきます。ゴンドラの定員は101人乗りです。でも、ほんとうに101人も乗ったらラッシュ時並みになりそうな気がします。山麓駅から山頂駅を見上げる山頂駅山上駅山上駅です。日差しは強いものの、山麓からの風が心地よく感じました。別府市街山上駅の標高は1300m。100m高くなると気温が0.6度下がると聞いたことがあります。市街地より7~8度低いということですから、日中の気温が33度なら山頂は26~27度。エアコン無しでも過ごせそうですね。
2015年09月11日
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油屋熊八の像別府駅の駅舎を背に、「別府観光の父 油屋熊八」と書かれた像が建っています。なぜか、ひょうきんなおじさんがバンザイしています。服になにかぶら下がってますね。油屋熊八氏(1863年~1935年)は、別府の老舗、亀の井ホテルの前身、亀の井旅館を建てた人です。別府を観光地にしようと、この旅館のバス事業部として設立されたのが現在の亀の井バスで、「別府地獄めぐり」の観光バス事業を始めました。なんでも日本で最初に女性バスガイドを導入したとか。この像は、別府市の信用金庫の依頼で制作されました。製作者によると「天国から舞い降りてきた熊八が『やあ!』と呼び掛けているイメージ」だということです。服にぶら下がっているのは、別府の「地獄めぐり」にちなんだ「小鬼」なんだそうです。
2015年09月07日
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写真がまだ残っているので、もう少し別府の話を続けさせてください。883系 ソニック別府駅に停車中の883系特急「ソニック」です。JR九州初の振り子式の車両で、平成7年(1995年)から運用が開始されました。特徴的なデザインで話題を集めましたが、もう20年が経つのですね。883系の車内このヘッドレストが特徴的ですね。前方に見えているのがデッキです。頭上には「網棚」ではなく飛行機のような「収納棚」(ハットラックというそうですね)があります。ただし、大きな旅行カバンだとフタが閉まらないかも。885系 ソニックこちらは、885系特急「ソニック」です。平成12年(2000年)に運用が始まった当初は特急「かもめ」用でした。883系と同じく振り子式です。登場の翌年からは「ソニック」にも使われましたが、「かもめ」編成とは区別されていました。現在は、当初の「かもめ」仕様の編成も「ソニック」に使われています。車体のエンブレムこの日見かけたのは第2編成(SM2)でした。当初は「かもめ」として使われていた編成で、車体にはまだ、カモメのエンブレムが残されています。ヘッドレスト部分車窓の下にも「KAMOME」のロゴが
2015年09月06日
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