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円山公園音楽堂京都市東山区円山町京阪本線・祇園四条駅より東へ徒歩約15分この日、丸山公園音楽堂では「龍馬よさこい15」が開催されていました。今年で8回目となる催しで、2日間にわたって6つの会場に分かれて、元気いっぱいの演舞を披露していました。円山公園音楽堂は、昭和2年(1927年)に建てられた野外施設で、2500人ほどを収容でき、音楽、文化事業、集会などに利用されています。室内とは違って、開放感のある会場ですが、これからの季節は防寒対策も必要ですね。
2015年11月25日
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円山公園のラジオ塔「ラジオ塔の由来」と書かれた銘板には「このラジオ塔は昭和7年 NHK京都放送局 開局の際 ラジオの普及のためつくられました」と記されていました。ラジオ塔の前でラジオ体操をしたり、野球放送を聞いたりしていたということです。かつて、TVがまだ普及していないころ、街中に「街頭TV」が置かれた時期があったようですが、ラジオにもそのような時期があったんですね。戦争中に資材を供出して機能を失ってしまいましたが、昭和57年(1982年)、「京都放送局開局50周年を機会に 音声合成など最新の技術によって古都にすさわしい姿で修復されました」と記されています。コールサインは「JOOK」JOOK(ジェイ・オー・オー・ケー)は、京都放送局のラジオ第一放送(621kHz)のコールサイン。今年(平成27年)2月に放送が終了しました(大阪の666kHzに統合)。しかし、音声合成の機能はもう失われてしまったのでしょうか。近づいても声がでるわけでもなさそうですし、ボタンがあるようにも見えませんでした。関西の某電機メーカーが音声合成に関する技術協力をしたと聞いていますが、どんな声が出ていたのでしょうね。
2015年11月23日
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円山公園京都市東山区円山町京阪本線・祇園四条駅より東へ徒歩約10分円山公園は、明治19年(1886年)に開設された京都市で最古の公園です。東山を背景に、回遊式日本庭園を中心として約8万6000平米の広さがあり、四季折々の風情があります。とくに桜の名所として有名ですが、秋には木々が色付き、多くの人の目を楽しませています。訪れたのは2週間ほど前で、まだ紅葉が見ごろとは言えませんでしたが、それでも鮮やかな赤や黄色が映えて、秋の京都を楽しむことができました。今週は紅葉が見ごろ、というところも多いのではないでしょうか。天気が良いといいですね。
2015年11月21日
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祇園甲部歌舞練場京都市東山区祇園町南側京阪本線・祇園四条駅より南東へ徒歩約5分明治2年(1869年)の東京遷都は、京都の人たちにとって衝撃的な「事件」でした。このままでは経済が衰退していくという危機感が高まりました。明治4年(1871年)、初代京都府知事の長谷信篤(ながたに・のぶあつ)らの働きかけにより、西本願寺の書院で博覧会が開催されました。これが日本における最初の博覧会といわれています。好評だったことから、勧業を目的とした博覧会が毎年1回行われることになりました。明治5年(1872年)の第1回京都博覧会の開催にあたり、「余興」として企画された中の一つが「都をどり」の起源です。当時としては画期的な振り付けで話題を呼んだそうです。今や京都の春を彩る代表的な催しです。明治6年(1873年)には、花見小路通の西側にあった寺院を歌舞練場にし、さらに大正2年(1913年)には現在の場所に移転し、現在に至っています(修繕のため、3年間は京都四條南座で上演されたこともあります)。弥栄会館この建物内の「ギオンコーナー」には、200名収容のスペースをもつ舞台があります。八坂倶楽部展示会、発表会や内見会などに利用できる空間(和室スペース)があります。
2015年11月16日
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高台寺京都市東山区高台寺下河原町京阪本線・祇園四条駅より南東へ徒歩約15分高台寺は臨済宗建仁寺派の寺院で、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が病死したあと、正室・北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立しました。このとき、徳川家康のバックアップが大きかったようです。慶長11年(1606年)の開山当初は曹洞宗でしたが、寛永元年(1624年)に臨済宗に改宗しました。ねねの道高台寺から丸山公園へと続く道は、かつては「高台寺道」といわれていました。平成10年(1998年)、石畳にして電線を地中化しました。そしてこの地で余生を送った北政所にちなんで「ねねの道」と名付けられました。「台所坂」ねねの道から高台寺の境内へと続く坂道を「台所坂」というそうです。秀吉の菩提を弔うために、北政所がここを行き来したのでしょうね。圓徳院高台寺の西側、ねねの道をはさんだ向かい側には、高台寺の塔頭「圓徳院」があります。ここが北政所の居所だったそうです。北政所の没後に寺院になりました。月真院(御陵衛士の屯所跡)ねねの道沿いにある高台寺塔頭「月真院」は、幕末の一時期、新選組から離脱した御陵衛士(ごりょうえじ)の屯所となったことがあります。屯所の場所にちなみ「高台寺党」と呼ばれることもありました。
2015年11月15日
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崇徳天皇御廟京都市東山区祇園町南側京阪本線・祇園四条駅より南東へ徒歩約7分保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、都に戻ることなく崩御されました。その後、都で異変が相次ぎ、崇徳上皇の祟りと恐れられ、慰霊のためのお堂や宮が建てられました。この「崇徳天皇御廟」の起源は、保元の乱の戦場となった場所(神宮丸太町駅の東付近)に建てられた粟田宮という神社だとか、寵愛を受けた阿波内侍(あわのないし)が自宅に建立したものだといった説があります。いくつか資料を当たりましたが、よくわかりませんでした。現在の御廟は、明応6年(1497年)に後土御門(ごつちみかど)天皇の命により建てられたものだそうです。その後、紆余曲折があったのですが、現在は安井金比羅宮が管理しているようです。崇徳天皇の怨霊にまつわる話は、「保元物語」のほか「平家物語」や「太平記」にも登場します。おそらく本当に恐れられていたのでしょうね。
2015年11月12日
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安井金比羅宮京都市東山区東大路松原上る京阪本線・祇園四条駅より南東へ徒歩約10分鳥居には、「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」と書かれています。なにやらありそうな雰囲気です。7世紀半ば、藤原鎌足が仏堂を建立し、藤を植えて藤寺と号したことが起源だそうです。久安2年(1146年)、藤寺の藤を好んだ崇徳(すとく)上皇は、ここを館に改修し、寵愛した阿波内侍(あわのないし、藤原信西の娘)を住ませ、たびたび通ったということです。崇徳上皇は、対立する後白河天皇との争い(保元の乱、1156年)に敗れて讃岐に流されました。このとき、阿波内侍の父・信西は後白河天皇の側近でした。崇徳上皇は都に戻ることなく、長寛2年(1164年)に崩御されます。阿波内侍は崇徳上皇の死を嘆いて出家します。上皇より賜った自筆の御尊影(遺髪との説もあり)を寺中の観音堂にお祀りして弔ったといいます。百人一首に崇徳院(崇徳上皇)の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」という歌があります。せつないですね。縁切り縁結び碑(いし)鳥居をくぐって境内を進むと、目に飛び込んできたのが、おびただしい紙に覆われた何やら怪しげな塊。「縁切り縁結び碑」です。願い事を書いた「形代(かたしろ)」(身代わりのおふだ)をもって、中央の穴をくぐって往復し、そのあと、形代を碑に貼り付けます。縁を切りたいと願って来ている人も多いのでしょうか(上の写真の人物とは無関係です)。神社のHPには「良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありません。更にお二人がより深くより強く結ばれる御利益をいただけますのでご安心を」と書かれていました。拝殿と本殿讃岐の地に流された崇徳上皇は、保元の乱を悔い、3年がかりで五部大乗経を写経し、戦死者の供養と反省の証にと朝廷に差し出したそうです。ところが「呪いが込められている」と疑って写本が送り返されてきたといいます。崇徳上皇は落胆と怒りで、経文に自らの血で呪いの言葉を書き付けたといいます。妖怪となって天皇家の権力を失墜させてやる、と。(なんとも恐ろしいことですね)崇徳上皇の死後、10年ほど経ったころ、都に大火や疫病、飢饉が立て続けに起きました。そして、それが崇徳上皇の怨霊の祟りだとうわさされるようになりました。ついには神として祀られるようになります。現在、安井金比羅宮には、崇徳天皇のほか、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公が祀られています。とくに主祭神の崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って写経に打ち込んだことから、「断ち物」を祈祷するところとして信仰されてきました。
2015年11月10日
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京都ゑびす神社(恵美須神社)京都市東山区大和大路通四条下る京阪本線・祇園四条駅より南へ徒歩約6分京都ゑびす神社は、建仁2年(1202年)に建立された建仁寺(けんにんじ)を鎮守するために建てられました。兵庫県西宮市の西宮神社、大阪市浪速区の今宮戎神社とともに、「日本三大ゑびす」と言われております。(三大ってだれが決めるのでしょうね。島根県松江市の美保神社を三大ゑびすに推す方もいらっしゃいましたが)商売繁盛の象徴でもある縁起物の笹(ささ)は、もともとは京都言葉の「ささ(酒)」に通じるもので、京都ゑびす神社独自のものだったということですが、全国に行商に出ていた近江商人の信仰を集め、各地に「笹」が広まっていったのだそうです。本殿の正面でお参りを済ませたら、本殿の左手に回って、横手の板を叩いてもう一度お参りするのが習わしだとか。どうやらゑびす様はお耳が遠いのだそうで、念押しのお願い、というところでしょうか。財布塚(左)と名刺塚境内には「財布塚」と「名刺塚」が並んで建っていました。さすがは商売繁盛の神様、商売には人脈も必要ということですね。財布塚には松下幸之助さんの署名が松下幸之助さんといえば、「商売の神様」とまで言われた方ですが、本家本元はゑびす様ですね。
2015年11月08日
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宮川町通(宮川筋2丁目付近)京阪本線・祇園四条駅の南、川端通と大和大路通の間を南北に走る狭い道が「宮川町通」です。かつての遊郭で、現在も、遊廓時代の建物が残っているそうです。「宮川」の名前は、目の前を流れる鴨川に由来します。八坂神社の神輿を洗うための水を汲んでいたということです。平成11年(1999年)に、一部が「祇園町南歴史的景観保全修景地区」に指定され、京都らしい風情ある街並みを維持する取り組みがなされています。学校法人 東山女子学園舞妓さんや芸妓さんのための教育施設です。昭和43年(1968年)創立だそうです。
2015年11月07日
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建仁寺(けんにんじ)(勅使門)京都市東山区大和大路通四条下る京阪本線・祇園四条駅より南東へ徒歩7分建仁寺は、建仁2年(1202年)に建立された歴史ある寺院です。元号がそのまま寺の名前になったんですね。鎌倉幕府の2代将軍・源頼家が土地を寄進し、栄西禅師が開山しました。栄西は、南宋に留学して日本に臨済宗を伝えた人ですが、創建当初から臨済宗のお寺だったわけではなく、当初は天台宗や真言宗と禅宗とが並立していたそうです。比叡山(天台宗)や高野山(真言宗)の力が強く、禅宗だけではやっていけなかったようです。室町幕府の時代には、中国にならって「京都五山」が制定され、その第3位となりました。応仁の乱などで、創建当時の建物は焼失してしまいましたが、天正年間(1573年~1592年)ごろから復興が始まり、徳川幕府の後ろ盾もあって整備されました。明治に入って臨済宗建仁寺派として独立し、大本山となりました。上の写真の「勅使門」は鎌倉時代後期のもので、もともとは平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館の門を移設したと言われております。三門(さんもん)「三門」は江戸時代末期の建物で、大正12年(1923年)に、静岡県の安寧寺から移設されたものだそうです。「望闕楼(ぼうけつろう)」と名付けられています。「闕」とは御所のことで、御所を望む楼閣という意味だそうです。法堂(はっとう)「法堂」は、明和2年(1765年)に建てられたものです。創建800年を記念して平成14年(2002年)に、小泉淳作画伯による「双龍図」が天井に描かれました。本坊本坊が、拝観の入口で、国宝の俵屋宗達作「風神雷神図屏風」(レプリカ)などがあります。方丈(ほうじょう)や庭園、法堂などを巡って拝観できます。「方丈」は、慶長4年(1599年)、安国寺恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移設したものです。重要文化財に指定されています。ちなみに、風神雷神図屏風の原本は、京都国立博物館に寄託されていて通常は見ることができません。しかしちょうどいま、特別展「琳派 京(みやこ)を彩る」が開催されており、3つの風神雷神図屏風(俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一)がそろって公開されています。(11月23日まで。休館日あり)
2015年11月01日
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