幕軍&松前えとせとら9,箱館戦争

箱館戦争,幕軍、松前えとせとらNo.9,資料編,幕末戊辰の人々,その後,みんなのエピソード,七重開墾条約破棄事件について,杉浦誠,井上石見,ガルトネル兄弟,他:飯沼貞吉(会津)の晩年北海道時代,伴百悦(会津),福澤諭吉,吉岡勇平, 勝海舟の『咸臨丸の大冒険』の時、異教に埋もれた水夫達,


幕軍&松前えとせとら

サイトTOP 幕末_WITH_LOVE玄関 _函館戦争の余波<幕軍&松前えとせとらVo.9
幕末戊辰の人々、その後,みんなのエピソード,ショートMEMO

「幕軍&松前えとせとら」は、色んな長編に対する補足&資料寄せ集め型。軽い系もあれば、小難しい
資料系も混在。一気に読もうとするとしんどいかもしれませんが色々。
◆現在頁Vo.9は、個別に特集する程の要領未満の「みんなのミニ談話」。今後ぼちぼち増えます。
関連:■ 幕末_WITH_LOVE玄関 、■ 人物名から追う 、■ 巨匠達悲劇と懊悩 :幕末関係無の「不遇のアーティスト、偉人」
幕末昂じてはひふへほ! (明治以降さらに引き摺った暗い戊辰の影:生き残りと次世代)

幕軍&松前えとせとらSERIESの目次 <・・・< Vol.8 Vol.9 現在の頁< Vol.10 ・・・
幕末戊辰の人々、その後,みんなのエピソード,ショートMEMO

  1. 七重開墾条約破棄事件 について
    ・下欄の杉浦、井上、ガルトネル
    全て関連

  2. 飯沼貞吉
    飯盛山の白虎隊士悲劇:唯一生き
    残った彼の壮年晩年
    ・・札幌彼の姿
  3. 杉浦誠
    幕府時代のラスト蝦夷奉行,
    兵庫頭
  4. 井上石見
    ・薩摩藩士。岩倉具視派。北海道
    開拓使スタート以前の官軍による
    蝦夷統括機関
    「箱館府」に於ける 判事。
    1868年8~9月:樺太~択捉視察中、
    謎の遭難死。

  1. ガルトネル兄弟
    リヒャルトガルトネル(兄)と
    七重開墾条約破棄事件で有名
  2. 伴百悦
    会津の死者埋葬に犠牲的尽力。
    新政府の非道に怒り天誅
  3. ヒトコマ「コラム」
    勝海舟の『咸臨丸の大冒険』の
    時、影に埋もれた小さな史実
  4. 福澤諭吉 (しゃぁ~ない話)
  5. 吉岡勇平と福澤諭吉仰天
  6. 異郷の土に眠る哀れ水夫達
  7. 柳田藤吉
    幕末明治の函館の商人



次の頁< Vol.10


人物名から追跡


現在頁は、各特集(長編)の
補足解説用内容の集合体につき、
五十音順ではありません。
詳しくは、各リンク先ご参照。
現在頁はちょこんとヒトコマ集結編:▼どっさり大勢のリンクはこちら
人物名から追う
1_ 飯沼貞吉 _会津藩
関連: 幕末のオーバーザレインボー のNo.2内項目有

飯沼貞吉 (明治の改名:貞雄):『白虎隊顛末記』著

■会津若松の飯盛山、白虎隊の悲劇(8/23)。少年達の集団自刃。たった一人奇跡的に生き残った彼。
■嘉永7/3/25(1854/4/22日)~ 昭和6(1931)2/12)■死亡:77歳
■維新後の改名(貞雄)、■逓信省、郵便局勤務。通信技師から札幌郵便局工務課長等。
■日清戦争(1894(明治27)7月~1895(明治28)3月)にも従軍歴有。その際、工兵大尉。
■晩年までの大活躍の地は、下記のとおり北海道であり、自宅は札幌。しかし、死亡期は、
どうやら、仙台市光禅寺通りの居宅。享年79歳。当時としてはメカに強い男だった。
■辞世の句:
  • 過ぎし世は夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそすれ

明治38年(1905)、札幌に赴任。この前の段階で、彼は仙台在住。
仙台から津軽海峡を渡り、札幌の地を踏んだ時、彼は50歳。札幌郵便局工務課長として栄転。
この後、北海道は、電信電話に係る普及が急務。道内電気通信の発展尽力。まる5年間それに専念。
現在の感覚で、郵便局と電話電信、別畑だが、この頃は関連バージョンだったのでしょうね。
通信技師時代の彼の知識と経験、フル活用。

ところが、広い北海道。スケールが異なる。一箇所繋ぐにせよ、いったい延々何キロ、何十キロ。
電信柱立てて繋ぐのやら。本数にしたらとんでもない!しかも運送手段は当時のこと。
でっかいトラックもクレーンもない!何にも無い!これをやってのけた。
地平線の彼方まで、柱、柱、柱!電信電話線の架設工事に、電話交換機の取り替え工事に的確な指示。
功績を讃え、碑がある。札幌市中央区南7 条西1 丁目≒山鼻。端整な住宅街。
かつて、彼の住居はここにあった。

関連:下バナー内:白虎隊士:石田和助とその兄、石田五助

石田和助,花色の羽織紐_淋しん坊の晩酌

白虎隊悲劇の裏事情


杉浦誠
  • 文政9/1/9(1826/2/15)~明治33(1900)5/30
    幕府時代のラスト蝦夷奉行、杉浦誠兵庫頭
    幼名:正一郎,幕府時代の官名:兵庫頭,号:梅潭
    恭順派:蝦夷統治権を無血で下記「清水谷公考チーム」に移行させた人物
    その為、明治の世、お咎め無で早期に開拓使函館支庁主任官となる。
    無血移譲の際、恭順を拒んだ部下が辞職を叩くは、ひとまず従った後に、
    反発暴挙発生等、裏幕には混乱有。・・・この時の箱館混乱の様子が解る頁▼
    蝦夷の地、逆クーデターへの流れ&関連

  • 「ガルトネル99年契約」にお手付き歴有_1865年 (江戸幕府時代のお手付き)
    • 当時杉浦兵庫頭は、江戸幕府の箱館奉行。蝦夷の激寒と独特の地質。いくら頑張っても
      本来の形では農耕に不向き。米は古来より何回も試作しては損金出して屈してばかり。
      つまりこの段階では、不可能だった。
      ご存知の黒船ペリー事件は1853年。翌年、日米和親条約の締結により 安政元年(1854 年)
      に箱館港開港 。文久元年(1861 年)、日本・プロイセン修好通商条約締結。
      1865年 、箱館に、プコンラート・ゲルトナー(ガルトネル弟)が、プロイセン副領事
      として登場。ここで、杉浦は、副領事コンラート・ゲルトナーに勧誘される。
      プロイセンは蝦夷に気候が似ている。農耕発達。そもそも根本的に、農耕手段が異なる。
      技術も、土地に適合した作物の選抜も、育て方も何から何まで学ばないとこのままでは、
      何ひとつ進展しないだろう。口先だけでなくて、見事立証してみせましょう。
      お手本農園試作と技術の伝播応援します。
      ■一方、 コンラートの兄であるリヒャルト・ゲルトナー (Richard Gaertner)は、
      文久3年(1863年)に来日 し、生糸貿易目的で箱館在住。この人物は農耕技術実績有。
      彼は実のところ、商社入社前アフリカでも農場経営歴有。
      弟コンラートが、杉浦に兄を紹介。
      慶応3年(1867):杉浦誠は、亀田村近郊の土地約1,500坪試作を許可。
(詳しくは、真下井上石見とガルトネル枠を経て、リンクバナーから
「ガルトネル兄弟と、 『七重開墾場契約』破棄」特集 へ。


別件:杉浦誠コーヒー事件: コーヒーを薬と思い込んで山盛買い込んだ蝦夷奉行

■3_ 井上石見 (読み:いわみ)

井上石見 (読み:いわみ)
  • 名:長秋,(1831(天保2)-1868)
    薩摩藩士。鹿児島諏訪神社の神職の子。兄:藤井良節。
    岩倉具視配下ブレーン。慶応4年(1868)新政府側組織内の参与の席,
    開拓使設立前、清水谷公考筆頭の一時短命的蝦夷統括機関「箱館府※」の
    判事に任命される。
    明治元年(慶応4年と同一年(1868年は途中で明治:7/22付(1868/9/8)元号は
    明治と改定。)):樺太サハリン~択捉視察中,8~9月謎の遭難死。享年38歳。

「ガルトネル99年契約」にお手付き歴有
_( 明治政府箱館裁判所時代 【短期存在していた清水谷公考時代の初期機関】としてのお手付き)
  • 上枠の「杉浦誠」による「 慶応3年(1867):土地約1,500坪試作」 状態からさらに発展。

    翌明治元年(1868)、 明治政府箱館裁判所の井上岩見箱館府判事は、
    ガルトネルに対して、耕地試作面積を70,000 坪に増やす契約
    を交わした。
    • この後、榎本武揚軍団の蝦夷奇襲に彼らは逃げ去る。
    • 明治2年(1869) 、ガルトネルはさらに決着を新規政府?の蝦夷嶋総裁榎本釜次郎に迫る。
      ここに「蝦夷地七重村開墾条約」成立。 300万坪の土地を99年間貸借 契約締結。
      (注)榎本は明治元年(1868)に蝦夷上陸しているが、この契約成立は1869年早々。
    • 同年、1869年5月には、榎本政権崩壊。再び明治政府。今度は開拓使。
      清水谷公考は実験剥奪されてこの組織には追放されたも同然。井上石見は死亡らしい。
      困ったガルトネルは、逆に契約破棄を明治政府に迫られる。
    • 明治3 年(1870 年)に賠償金62,500ドル 支払い条件のもと、条約破棄。
      失意のリヒャルト・ガルトネル(兄)は帰国。
    • 明治政府はやっと奪い返したものの、実際この農園を利用して試作行動に出るのは明治6年。
      七重官園と改めるところから、度々改称を経て今日に影響多大。(推移についてもリンク
      バナー先に表記)
      開拓使によるお雇い外国人の導入まで自力ではなんら方法が解らなかった。アメリカの
      技術者を呼んだつもりが、農耕技術分野は、不思議と結果は、アメリカ国籍のプロシア系
      大集合になった。いかに、寒冷地の農耕技術にはプロシアの知識が必要だったかがこれで解る。
      ルイス・ベーマー(Louis Boehmer)他みんなプロシア系。傑作。
(詳しくは、真下ガルトネル枠を経て、リンクバナーから
「ガルトネル兄弟と、 『七重開墾場契約』破棄」特集 へ。


ガルトネル兄弟 についてはこちらへ直行(現在頁その下に解説少々)

ガルトネル兄弟と、『七重開墾場契約』破棄


(初めに:上の「杉浦誠」枠、「井上石見」枠、双方関連につきご参照おすすめします。)

■(弟) コンラート・ゲルトナ ー (C.Gaertner)=ガルトネル(弟)
  • コンラート・ゲルトナ ー として明確に史実に立証し難いが、実は下記1862年より早く、
    長崎に居た可能性は高い。彼が所属していた会社 クニッフラー商会(L.Kniffler & Co.) は、

    安政6年(1859 )にバタビア(オランダ植民地インドネシアの首都: 現在のジャカルタ)から
    長崎に進出。横浜には文久元年(1861)に出店。
    (この会社についても、真下バナーSERIES後半に表記)
  • 文久2年(1862)、横浜支社代表として コンラート・ゲルトナ ー 来日。商用で箱館と横浜を
    往来。1862年以降の函館市の外国人居留記録として史実に残る。
  • コンラートは慶応元年 (1865)に在箱館プロイセン領事館の副領事 に任命され、
    貿易商と副領事の職を兼務
    蝦夷の農耕困難に頭を抱えていた当時の箱館奉行:杉浦誠に、農耕知識豊かな兄を紹介して、
    七重の地租借の発端を確立。
■(兄) リヒャルト・ゲルトナー (Richard Gaertner) =ガルトネル兄
  • 文久3年(1863)に来日 し、生糸貿易のために箱館在住。
    (上記弟と同様、史実として判然としないが実は、それ以前に長崎在住可能性は否定できないが)
  • 慶応3年(1867):弟、コンラートの紹介で、杉浦兵庫頭(誠)( 江戸幕府の箱館奉行)との間、
    交渉の上、亀田村近郊の土地約1,500坪試作を許可を得、早速実行。
    ■日本初の機械&農耕馬による新型農耕方法=プラウ農耕開始。
    ■リンゴ、サクランボ、ブドウなどの果樹栽培、ワインと自生種のホップ発見からビール試作他。
  • 上記杉浦枠、井上枠の経緯を経て、最終、明治3 年(1870 年)に賠償金62,500 ドル賠償金
    を引き換え条件に条約破棄。失意のリヒャルト・ガルトネル(兄)は帰国。
この続きは真上のリンクバナーからどうぞ。

■5_ 伴百悦

伴百悦
  • 会津藩士。家は歴代の鷹匠。父:伴佐太郎宗忠(500石)。左記の佐太郎宗忠の長男。
    文政10年(1827)~ 明治3年6月22日(1870/7/20)。
    放置された会津兵の屍を手厚く葬り、地位とプライドを捨て犠牲的な対応をした人物。
    新政府の非道に怒り、(詳細:下記)の福井藩士に天誅。後自刃。

    • 新政府の手先として会津に赴任した福井藩士久保村文四郎の非道(※)に怒り、天誅を
      見舞った(この事件: 束松事件 )後潜伏してたが、発覚。自刃。
      情深い人物であることは、この一件、死者の弔いの旨の他、戊辰の真っ最中、小栗忠順の
      部下、佐藤銀十郎らにも情けを見せている。小栗忠順に係る不義の惨殺事件の後、主君の
      仇、新政府に対して怒りに燃えた彼らは会津の群れに合流。その志に、伴百悦は涙ながらに
      厚く迎え入れ、深く小栗の無念に共感の意を述べた。この時の当該隊の会津小隊長は町野
      源之助だが、会津の為に勇敢に戦い命を落とした佐藤銀十郎を哀れみ、手厚く葬ったのは伴百悦。

    • 非道(※) とは:当時新政府の姿勢の一つ 「賊葬るべからず」 哀れに思い、屍を葬ると、
      その者は斬首される。これは、明治政府が初にやり始めたことではなくて、実は昔から。
      但し、『賊』とは本来、強盗殺人犯など惨忍かつ卑劣な者を指す。ところが、幕軍側は、明治
      政府に楯突いた以上、賊の扱い。そこで屍は放置されて、野獣の餌食、腐敗、烏が群がる。
      禁を侵して葬った吉田伊惣次が捉えられて糾問される。命は助かったが、もう一度掘り返して、
      山に捨てて来いと言われた。とはいえ、いつまでも約2000ともいわれる放置遺体を野ざらしに
      できない為、当時差別されていた人々が、その遺体処分の仕事を。彼らは新政府の命令に
      従って、乱暴に罪人塚にまとめて放り込む。いわば廃棄物の扱い。

    • 仏を、もう少し、まともに取り扱ってはくれぬかと依頼しようが、それは、掟故、彼らは、
      命がいくつあっても足りないという。密かに袖の下、手当ての金を作って手渡したのだが、
      現場の者には届かず、扱いになんら変化はなかった。
    • そこで、 伴百悦 は、仏を手厚く葬るには、自らをその差別身分に身を落として、彼らに
      直接加わり指示するしか手段はないと判断。プライドも身分も捨てた。具体的には、
      差別身分そのものになったわけではなかったのだが、本人は、それでもかまわないと
      判断した上の決断だった。

  • 鷹狩とは :古来より高貴なお殿様は皆、「狩猟、兼、武芸の稽古」の一種として、鷹狩」や
    「流鏑馬」のような現代感覚でいえば一種スポーツと儀式の混合体のような行事を行う。
    その為、よく訓練された優秀な鷹が必要。いうなれば狩の友。「鷹狩」といっても鷹を狩るので
    なくて、狩猟ターゲットは小動物もしくは別の鳥類。本当に鷹が獲物を捕らえてきて飼い主に
    運ぶかどうかは怪しい(半分迷信的)ながら、猛禽類特有の視力をもって獲物の所在を的確に
    捉える為に使われたのは事実。

  • 鷹匠とは :そのため、お殿様専用の鷹を育てるのも大切な仕事。専門家ならではの分野につき、
    これは完全に世襲。当時、上記のとおり、差別が存在したことから、士族は当然、一般民に於いても
    彼らとの接触、及び会話は厳禁。ところが、鷹匠の場合は、猛禽類が肉食であることから、獣肉
    を仕入れる都合上、特例的に彼らとの接点が許されている。

  • (余談私情ながら)彼は武芸に秀でる男。その為戦場で各所活躍。しかし上記のとおり、
    本来は、鷹匠という特殊な部門。言葉語れぬ動物が相手。城内で対人腹芸分野は無縁。
    いわばホームグランドは城中ではなく、大自然の野山であり、相手は鷹。結末からみても、
    さぞ純心な人物だったことだろう。
※ここに彼も登場します。▼

シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎

NEXT人物:現在枠のさらに下側に続きます。( 人物名から追跡大勢は別途こちらの頁
■6_ヒトコマ「コラム」
史実_その1(現在枠)
■7_大冒険って何?
史実_その2(下枠)
■8_仰天の福沢諭吉と吉岡勇平
史実_その3(下々枠)
■9_異郷の土に眠る水夫達

(?)史実_その1_勝海舟の大冒険って何?
  • (略答)万延元年遣米使節のポーハタン号の随伴船として追従の際、日本人だけで、
    船を巧みに操り、太平洋を横断。・・・ということになってるから大冒険。
  • ところが、海が荒れて、メンバーは、一部を除き、ほとんど全員病人状態。実際、船を
    動かしたのは、乗船させてやったアメリカ人ということになっているブルック船長他アメリカ人
    と、ジョン万次郎と、他に正真正銘の日本人といえば、「水夫、釜炊き」。
    勝は断固隠蔽していたが、ブルック船長が真実を喋ったから、今日、勝の大ホラとして有名。
    福沢諭吉も仕方なく勝に歩調をあわせ、日本人だけの力・・・と語っている。
  • この時、元気だったのは、ジョン万次郎、福沢諭吉、肥田浜五郎他のごく一部。みんな船酔い。
    下記に示す「 吉岡勇平 」も元気かどうかは知らないが行動しているから、倒れていない様子明確。
    (彼に関してこちらも関連:優秀な人なのに悲壮な結末: 吉岡勇平1 吉岡勇平2 」)
    船長の勝海舟は一番重症。倒れて寝ている。
    この時、福沢諭吉は海軍伝習所経験ないが、語学優秀の為、下記木村喜毅の従者という扱いで同行。
(?)ところで、勝海舟は、一体何しに行ったの?・・について
・・・▼(略答)万延元年遣米使節のポーハタン号の随伴船(護衛目的)として咸臨丸が追従
(?)万延元年遣米使節のポーハタン号・・について

■1860年派遣されたチーム。
・目的:上記の日米修好通商条約の批准書を交換する為(不平等条約の修復目的)
・アメリカ軍艦ポーハタン号にて(代表:正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順)、


各国条約調印への略あらまし・・彼らが派遣されるまでの情勢略メモ

■【1853年】
・浦賀にペリー:嘉永6年6月3日(1853/7/8)浦賀沖に来航。
・6月9日(7/14)に開国を求めるアメリカ大統領国書を提出
■【1854年】開国: 日米和親条約 :嘉永7年 3月3日 (1854/3/31)締結
  • 5港開港をアメリカは希望したが、幕府は、下田と箱館を承諾。
    この内、下田開港は同年を余儀なくされたが、箱館開港の約束は翌年1855年。
    しかし、ペリーは、この足で、実質開港前の調査と称して、1854年4月箱館に上陸。
    この時、箱館の管轄は幕府ではなく松前だった為、松前藩士、冷汗必死のドタバタ臨時対応。
    (松前の実力家老が応対): 松前勘解由1 松前勘解由2
■【1855年】
・箱館開港スタート:安政2年3月1日(1855/4/17)
(お約束は上記の期日だが、実際は、それよりも早く、入港例は複数。地元は、てんやわんや。

■1858年■ 日米修好通商条約 :安政5年6月19日(1858/7/29)締結
・日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約≒不平等条約。
  • 安政五ヶ国条約: 1858年アメリカに引き続き同年同様他4国=計5国
    (アメリカ:日米修好通商条約
    イギリス:日英修好通商条約、フランス:日仏修好通商条約、
    オランダ:日蘭修好通商条約、ロシア:日露修好通商条約)
    • 井伊直弼が殺害された「桜田門外の変」は、安政7年 3月3日(1860)
      これ、多分偶然でないと思います。犯人の皆さんとしては、日米和親条約嘉永7年 3月3日
      に、「憎しみスポット!記念日」として決行したと思われます。
      この時の様子が解る頁はこちら: 有村次左衛門(薩摩)桜田門外の変

■その後まだまだ続く!
  • 1860年_対ポルトガル。1861年_対プロシア、1864年_対スイス、
    1866年_対ベルギー、対イタリア、対デンマーク、
    ・・・▲ここまでは幕府。▼以下は明治政府
    1868年_対スペイン、スウェーデン・ノルウェー、
    1869年_対オーストリア、対ハンガリー

■8A_福澤諭吉・・・のしゃぁ~ない小話だけ!一口MEMO
■8B_吉岡勇平


吉岡勇平と福沢諭吉、仰天!大判小判の山事件

上記のとおり、随伴船、咸臨丸は荒れ狂う太平洋。ぐらぐら揺れまくって、みんな病人。船酔いマックス。
なんといっても艦長の勝海舟が最も重症だから話になんない。アメリカで撮影されたこの時の勝の写真、
ご存知の方は、是非もう一度ご覧になって見てください。頑張って平静装ってますが、
確かにふらふら状態。相当弱っています。(無理して微かに微笑むその姿、お気の毒。結構笑える。)

この時、福澤諭吉のお元気も有名。ジョン万次郎は勿論、海で鍛えた強靭な男だから、
これぐらいじゃ、へこたれないのは当然。ところが、この時、福澤は、皆がゲロゲロ状態の中、
「腹が減っては戦もできん!」とばかり、真横にその「ゲッ!光景」を見ながらも、ガツガツ食べていた。
彼は幼少時代の貧困から、かなり根性のある人物・・・なのは確かです。しかし、
強靭な体と精神=優秀な男と褒められるべきところ、あんまり元気なものだから、後々これは、
冷ややかに伝えられる場面多々。しかたなく、晩年、自分でボソッと語る。「私は生来丈夫らしい。」

それはさておき、仰天!小判の山事件発生!

船はぐらりぐらり。おかげで、あっちの棚も、こっちの棚も鍵なんて壊れて、ふっとんで、
荷物が、床に飛び散るありさま。点検の為、船内を徘徊していた福澤諭吉。とんでもないもの発見。
勝海舟は重症だから、船長室じゃなくて、恐らく医務室のような場所に移されていたのでしょう。

福澤が目撃したのは、勝海舟用の部屋の大惨状。
大判、小判、スゴい大金が、袋の口がやぶれて、飛び出し、床に散乱。

こういうものは、一人で触るわけにゆかない。大至急、公事事務係を務めていた吉岡勇平を呼ぶ。
この場合、これ以上余計な時間かけて、人目に触れさせるわけにいかない。
お互い証人になるから、とりあえず、必死で拾い集めて、適当にそこらの袋につっこんで、棚に戻して、
ガッチリ蓋をした。事後報告にはなるが、二人は、その旨、ダウン中の勝に報告。(褒められた。)

福澤は長生きしているから、後に、昔のこととして、さしさわりが無い頃になって、それを書いた。
幕府は、万が一に備えて、皆には内緒で、勝に相当の現金を手渡していたのが、これで解る。
ところが、賢い福澤、なんで為替使わないで日本の現金、海外にどっさり持ってゆくの?
呆れたワとぼやく。尚、彼は帰国途上の船の上、お土産に撮影した自分の写真を自慢気に皆に見せて
ゴキゲン。それは、写真屋の青い目の娘とツーショット写真。

諭吉は、この時の航海のみならず、幕府時代全3回海外へ。三度目の渡航の際、洋書買いまくり。
帰国後、お咎め食らって、暫し謹慎。哀れ、結末は「経費乱用!けしからん男!謹慎!」
  • (※尚、この洋書買いまくり謹慎事件は、ちょっと裏事情有り。小野友五郎と喧嘩したのも原因。この件、
    長いので割愛。後日別件でご案内。)
いつまでも謹慎中で哀れに思い、幕府にお許しを願い、彼を救出したのが「 中島三郎助 」。
後に、中島三郎助は、職員の手落ちによる倉庫火災事件。その責任を負わされ、惨めな謹慎期間発生。
その時、救ったのが、福澤諭吉。

箱館戦争で死んでしまった中島 に対して、長生きの福澤諭吉。その為、福澤諭吉が中島三郎助を
助けた上記話は伝わるものの、本を買いすぎて叱られた福澤の姿も、それを助けた中島の姿も、
一般的には伝わっていないが、つまるところ、現実の展開は上記のとおり。
中島を救った福澤の美談は、単なる恩返し。

尚、念のため、私は福澤諭吉を嫌っている者ではありません。

福澤諭吉のこの文章豪快!活写 。(開国、否鎖国!幕閣の焦り。ひしひしと伝わってきます。)
・その光景が鮮やかに浮かびます。やはり名文ですわ。
  • 「いよいよ今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守が
    ヒョイとその朝起きた 。日本の軍艦に乗って品川沖を出ていく。
    スルト英吉利の砲艦が 壱岐守の船の尾について走る。」
■真剣勝負!福澤諭吉の蜂の一刺し

偉い人、立派な人と習うとつまらないのが人の常。ところが、
この人物、結構チョイ悪な場面もあり、なかなか面白い人物・・・
と私的には感じてます。写真屋の娘と並んだ写真なんぞは、なかなか
楽しい。何食わぬ顔して、わざわざ腕組ポーズふてぶてしくやってま
すが、ニタッ!を噛み殺しているようにも見えぬでもない。


勝海舟_川に捨てた餅の話

■7B_吉岡勇平


咸臨丸が太平洋を横断した時、上記の福澤諭吉枠のとおり、床に散乱した大金を始末した功労者。
彼は、この航海中、強烈「正義の熱血漢」ぶりを発揮。

公事事務係を務める彼が咸臨丸の甲板を歩いていると、
同乗のアメリカ人水兵が甲板で水をザブザブ使って洗濯を。船に於いて水は貴重。
彼は、思わずアメリカ人水兵を殴り飛ばした。

この時の状況は、上記のとおり、艦長の勝海舟はじめ皆は完全ダウン。アメリカ人様のおかげで船は
無事、動いているわけだから(動かして頂いている有り難い方々・・・なのだが)、
この状況下、普通の人物ならば、米人を怒らせる真似は、堪えて絶対やらない。

しかし、彼は「正義の熱血漢」。理由も状況も関係ない。ならぬものはならぬ!
彼は、水兵を殴り飛ばした。関連: 吉岡勇平1 吉岡勇平2

上記だけ読むと短気に思えてしまいそうですが、やはり正義感の強い男。
断固、口を割らずに耐えて死んだ。

吉岡勇平は、勇敢な男。しかし、結末は、あまりにも無残。
戊辰の際、幕軍について、榎本艦隊が品川沖から、仙台へ目指す時転覆した咸臨丸の悲劇の一人。
だが潜伏していたのだが、明治3:1870/11/18 官軍(明治政府なんですが、感情的に官軍!)に斬首された。

出元は農家ながら、松岡正平の仲立ちで吉岡家の養子となり、江川塾で学んだ優秀な男。
斬首されねばならぬ程の罪とは?潜伏の罪にしては重くはないか?



彼らの悲劇については、上記「 勝海舟の『咸臨丸の大冒険』の時、影に埋もれた小さな史実 」から、
ご覧下さい。彼らが落命に至った訳は、そこにあります。



彼らこそ、真の英雄と讃えて欲しい。実は長い間、異郷の丘に虚しく埋もれていた。
水夫や釜炊きの死は、重要視されることなく、あまりにも可愛そう。

水夫達は、荒れ狂う太平洋、熱病と戦いながらも交代なんてない。ぶっ通し労働。
操縦そのものは、上記のとおり、アメリカ人がやってくれているわけだが、重労働分野は別。
水夫と釜炊きの過労死、病死が発生していた。

ブルック船長は、彼らの埋葬にも尽力してくれた、。それを後に発見して、埋もれていた彼らの
弔いを努めてくれた人物は、赤羽根忠右衛門(日系移民)。文倉平次(ニ・三)郎(福音会の人物)
尚、文倉平次郎は「幕末軍艦咸臨丸」を著した。

妙なところにポツンとみつかった日本人3名の墓。今はサンフランシスコ近郊のコルマ(Colma)内の
「日本人共同墓地」に移設されて、ちゃんと墓地に眠る。峯吉、源之助、富蔵。
  • 峯吉(長崎出身。37才)_釜焚き人夫。到着以前に船上で死亡。
  • 源之助(塩飽(香川県)の水夫。青木浦出身。25才)サンフランシスコ到着6日後死亡。
  • 富蔵(塩飽(香川県)の水夫。柳島出身。27才)源之助死亡のさらに、1週間後死亡。
■長崎は、長崎伝習所があったことから、同地方出身者は多い。また、塩飽の水夫は伝統。
江戸幕府と共にずっと。彼らも忠義報恩。その為、けっして人権無視で酷使してたわけではないのだが、
士官と水夫達の身分の差は歴然。現代の世なら問題になりそうな「過労死」は否定できない。
■箱館戦争の際まで、最後の最後まで、彼らは幕軍応援に参加した。
幕軍応援だから英雄というと、誤意になってしまうから、明治政府否定じゃないのですが、
損得よりも、報恩忠義で、裏切らなかったことに泣ける。
■官軍が優勢と知りつつ、塩飽では民が反乱を起こした。少数だからすぐ鎮圧されたが、
やはり、忠義の里の証。
■咸臨丸が無事日本海域に達した後、塩飽の里に立ち寄っている軌跡有り。史実として書き残さ
なかったにせよ、やはり配慮はしたのだろうと察する。

■(榎本艦隊、いざ箱館への時)
因みに、ここにも塩飽の男。この人物の場合も、病死というが、上記同様多分過労死といえる。
但し、この人物の場合は功労が高く評価されて、士分を授かっていた。お葬式も大々的に大勢が列席。
中井初次郎 :明治元年:10/6釜石で急死。開陽乗組員。



木村摂津守の従者は福澤諭吉のみならず。
従者長尾幸作も。その長尾氏のご子孫の著。先祖の手記に基づいて
水夫達のことも、友情の話も。ガチガチの資料じゃなくて、
別の角度、心系角度からも読める。


柳田藤吉(とうきち):1837年(天保8年12月8日)~1909(明治42)年
箱館の商人。豪商。盛岡六日町の下駄商人藤沢嘉兵衛の次男として出生。
箱館へは、約19歳の時。安政3年(1856)3月到着。やってきた理由は、箱館が開港になるから。
意欲満々。そもそもこの人物は商売センスがいい。閃きの達人。人脈にも恵まれる。
上記のとおり、もとの姓は藤沢。幼名は徳助。
ところが、箱館で彼を応援してくれた人物が、柳屋治郎右衛門(越前国(福井県)河野の人)
そのため、「柳屋」とは、屋号。名は藤吉と改めた。
屋号を「柳屋」と称し、名を藤吉と改め、 まずは小売商からスタート。
箱館で第位一号に貿易成功といえる。相手は英国人アストン。西洋秤を仕入れておいて、それを
用いて売った機転者。売れたのは大豆。アストンの番頭は、清国人の「陳玉松」。北海道産の昆布が
清国に随分高く売れた。

昆布が大きいので、ここまで成長するには歳月を要すると思われた様子。柳田が騙したわけでない。
ところが、後に、函館在住の中国人が、レンガだか、石だかを邪魔だから暫し、海に放り込んで
おいたら、あっという間に巨大な昆布がくっついているのを発見。けっして昆布は歳月を要するもの
でないと解り、そこから後は昆布価格暴落。ところが、柳屋の頃は、とんとん拍子。ラッキーボーイ。
ちなみに、これは二十代半ばの時。

1868~1869年(明治1~2)の箱館戦争の時、商人の倉庫は当然多かれ少なかれ皆被害を受けてるのだが、
この頃、この人物は、 ブラキストン に可愛がられていた為、荷物はまるごと、
ブラキストンの敷地に運び込ませてもらっており、被害ゼロ。

ブラキストンは彼に多額の資金を貸してやったり、かなり可愛がっているのだが、頭に来ると怖い人物。
ちなみにブラキストンは2メートル以上ある大男。一度は、ブラキストンにふっとばされて、海に落ちる
災難経験者。2メートル男の天狗の団扇のような手で、どっつかれたから、ぶっとんだ。北海の海!
それでも縁を切られないところは、柳田の人徳なのか、才能なのか。波に乗って、
転倒経験ほとんど無しの人生。

昆布はあんまり儲かるから、女工を千人以上雇う巨大なキザミ昆布工場まで開始。明治政府になると、
今度は天然水販売業も開始。北海の幸の宝庫、根室の漁場にも着手。

商売は幅広く手掛けており、外国人相手の一種新興産業ともいえる分野も手掛ける。
伝統の北前船を、ものともせず、彼自身も上記昆布など本州へ船で売り捌いて、利益を得る。
利益で、銀行業、牧畜業、倉庫業など多彩。北海道会議員、衆議院議員に当選。名誉の地位も獲得。

名声と財力を有した彼は、東京に「北門社新塾」も開設。
この実質運営を任せたのは「山東砥」。山東砥の元の名は、山東一郎(和歌山出身:山東昭子参議院
議員がその曾孫)であり、幕末箱館で、とロシアのニコライにロシア語を学び、新政府になった後、
清水谷公考の右腕として追従してきた岡本監輔の良き友。岡本と同様に清水谷について活躍後、
開拓使にも出仕。彼ら2人は早期に、「北門社」を結成して北辺の守りに興味を示すブレーン。
上記二人は開拓使を退任だが、柳田とコンダクトを得ていたのだろう。塾のスポンサーは、柳田。
  • 山東は、この後大活躍。教育、出版、牛乳販売、印刷、ホテル、クリーニング等財と文化普及。
    岡本も郷里、徳島方面で教育部門活躍。
晩年生涯を終えたのは根室。明治42年5月、享年73歳。商売の天才もついに天昇の時。
この人物が、屋号の「柳屋」から転じて、苗字として柳屋じゃなくて、「柳田」と改めて
名乗り出したのは明治4年から。柳田藤吉として、天の人になった。

この人物について、ひとつ異種な情報がある。
戊辰戦争の時、庄内藩の 本間耕曹 相手に「大量の銃弾&銃の販売」にタッチしている。
恐らく仲介リベートのみと思われるが、詳細不明。当時蝦夷に分領があった庄内藩。幕府が転び、
派遣されていた藩士がひきあげる際のこと。柳田藤吉の仲介を経て、 シュネル から、本間耕曹が
買い取った形で、本間耕曹の郷里、酒田港に運び入れている。この後の展開から、本間耕曹と、
シュネルの結びつきはその後にも及ぶのは明確。だが、柳田藤吉自身が、東軍(幕軍)を応援して
いたかどうかは不明。知らなかったのか、オンリービジネスと割り切っていたのか?ちなみに、
柳田藤吉の親分ともいえるブラキストンは、完全に官軍の味方。
知れれば、再び海に突き落とされそうな話。 柳田藤吉とブラキストン

本間耕曹 については、関連こちら。 シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎

next_car ■11_ガトリング砲
(人名じゃないですが、ついでなので、用語も必要に応じて思いついた順に・・・)
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文章解説(c)by rankten_@piyo、


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