中島三郎助と同心,嵐吹く夕べ五部咲き桜

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幕末_WITH_LOVE玄関 嵐吹く夕べの五部咲き桜と蕾桜 (現在頁)
中島三郎助 ブレーンの中、■父子と■少年のキーワードにスポット
中島三郎助 (諱:永胤)文政4(1821) - 明治2/5/16(1869/6/25),幕臣,蝦夷では「箱館奉行並」,享年49





嵐吹く夕べの五部咲き桜と蕾桜
中島三郎助 ブレーンの中、■父子と、■浦賀同心の子他、少年にスポット
■中島恒太郎:中島の長男、■中島英次郎:中島の次男
■浦賀同心の子達を終焉に巻き添えにする罪滅ぼしに、中島が彼らの父母へ送った悲壮な詩
徳川終焉、殿(しんがり)の時


最期まで闘った。中島が撃たれた後、長男は抜刀して、
敵陣に突っ込んだ。果てると知りつつ突入して果てた。

次男も撃たれて散った。わずか十九歳。従者も従って果てた。
長男_恒太郎,次男_英次郎。

中島三郎助 隊は、烈死を遂げた。明治2年5月16日。
今ここに、徳川二百六十年が終焉を迎えた。徳川の殿(しんがり)はこの男が成し遂げ、散って果てた。
付き従った者は、皆若い。22歳と19歳の息子。従者も同様に清らかな若者。

中島は、五部咲き桜も、十代中端の蕾までも、散らしてしまったことになる。


十代中端の少年犠牲者は、近藤彦吉:16歳、
福西(田)脩(周)太郎 :16歳、(中島と血縁筋)
朝夷(朝比奈)三郎: 15歳、佐々木直次(三)郎・・・他。

その中島が、彼らの父母へ送った悲壮な詩をご案内します。
2.jpg
中島隊と少年達の終焉


新撰組の中島登が、中島親子の最期の様子、絵に残しています。(同じ姓ですが、
親戚ではありません。)中島登は、新撰組以外の者についても、描いています。
上記、親子については、父子三人。父は銃弾に倒れた二男、英二郎を片手で支えるようにして、
敵陣を睨みつける。兄の恒太郎も怪我を負いつつ、しっかと構え、その傍らに立つ。
・・・そんな悲壮な絵。

他、別途、当時の資料を読むと、やはり、「三郎助は、被弾して倒れた英二郎を片手で抱えつつ、
刀を振りかざし闘う・・・」の意を書かれたものもあります。

この時の状況には、他説あって、どれが本当か解りませんが、当時、十代半ばの少年は、現代と異なり、
明らかに大人より小さい為、ことによると、英二郎に限らず、浦賀同心の中、少年の誰かが怪我をして、
思わず駆け寄った瞬間があったのかもしれません。
中島登は、英二郎の姿を兄や父より、 一目瞭然少年と解る形、小さく 描いています。
  • 実際は、どう考えても、絵のごとく極端に小さい子ではなく19歳ですが、描いた中島登も、
    子を持つ一人の父。哀れに思うが故、思いが絵に表れたのでしょう。▼喘息持ちの中島は、このとおり極度痩身。
中島三郎助えとせとら


ここに幼い少年が散った悲哀が滲んでいます。夢も恋も、まだこれからという少年が皆散華。

中島は抜刀して勇戦するも、ついに銃弾に倒れ、亡骸は壕に転落。悲壮な最期。
官軍の中、手柄争いで、その首を討ち取ったのは己だ、否だと、なにやら延々、明治半ばまで、
尾を引きます。己が抜刀して一騎打ち真剣勝負で、自ら戦って斬り倒したでなく、既に果てた者の首。
・・(官軍さん側にとっては必死の言い分も有りますが、本件は敗者の立場で書いてます。読み流して下さい。)

天から、中島の怒りの声が聞こえてきそうです。
  • 「愚かどもめ!首など要らんわ。くれてやるわ!
    錦の御旗振りかざして、志たるや、その程度なのか!」

一般に、下枠の「ほととぎす」が辞世の句といわれますが、薩摩の 田島圭三(敬蔵) が、後日、
林董に語っています。田島は中島の亡骸を確認。 既に首が討ち取られ、血に染まったその亡骸に、
着物に縫い付けられた「辞世の句が書かれた書」を発見。 しかし、それは、水の溜まった壕に落ち、
読み取ることができなかったとのこと。
本物の辞世の句がなんか、ここに、あったようだ。 惜しい。


■また、中島隊の他にも、額兵隊など彼を応援して散った他隊の犠牲者も数多く、痛々しい。
共に散った犠牲者などについて この時共に散った浦賀同心一同 (表示先頁最下欄)

中島三郎助 が彼らの父母へ、罪滅ぼしに、送った悲壮な詩


あらし吹くゆうべの花ぞめでたけれ
ちらで過ぐべき世にしあらねば

いよいよ幕軍敗色濃厚の5月、子を預かる浦賀の同心に、
親への詫びとして送った句。同時に家にも送っているが、
家にははっきりと「死」の文字を書いてるに関わらず、流石に他人の家には
露骨に「多分お子さんも死ぬ」とは書いてない。(福西は死亡。直井は生存。)

宛先▼
■福西道助:福西(田)脩(周)太郎の父、■直井大八郎:直井友之助の父

誰しも、散らしたくない可憐な花の蕾。
・・・少年達の命。散らずにすむ世なれば・・・

祈りとも、呻きとも、聞こえる。窒息しそうだ。

中島三郎助 親子の歌


■1869(明治2)終焉の覚悟、千代ヶ岡の親子の詩

中島三郎助

一新の王事、朝儀みだす。
北戦西争してあやふし
只見よ関東高士の略。
無道を誅して君を立てる時を
  • 中島恒太郎
    • 力尽きし南軍所営無し、帰思頼りに切なる、
      いかんぞ、情に関わらん
      義旗連戦して中興を謀る。都下明年は花城に満たむ

  • 中島英次郎
    • 万事零落、平生思うべからず
      只余れるは酒中の趣、減ぜらるは少年時

中島三郎助

・あらし吹くゆうべの花ぞめでたけれ、ちらで過ぐべき世にしあらねば
・うつせみのからのころもをぬぎすてて、名をやのこさむ千代ヶ岡辺に
・ほととぎす、われも、血をはく思いかな

このうち、「あらし吹く」は、上枠のとおり、浦賀同心の家にも送った。



上記親子の詩で、さらさら読むと、流石、中島の子、勇ましい&しっかりしてる。
まさに武士の子・・・と、ふと安心してしまいそうですが、下枠各種と比較して、あらためて読み直してみます。
父とは哀れ!
中島三郎助 19歳時の詩_「おそざくら」より
二男、英二郎への呵責


朝の蝶 松の雫を こぼしけり

花に月 しばし余念は なかりけり
水際は わけて色よき もみぢかな
都合よき 雨のはしりや 田植詩


上記は、 中島三郎助 19歳の時に詠んだ句



眩朝の光に、胸をときめかせたあの頃。松の若葉から滴り落ちた朝露の一滴。それが、
蝶の羽を伝って、瞬時に煌いた。ほんの一瞬のでき事。

それを、鋭敏な若者の視線が自然に捕らえた。躍動感に満ちた、生の喜び。
これから生きて輝く若者ならではの感性だ。

今にもショパンの調べ”朝露”が聞こえてきそうな・・・そんな中島19歳時の詩。

<▲これから、生きてゆく爽やかな若者の輝きが伝わってくる。>


それに比較して、同じ19歳の倅は今・・・死に逝かなばならぬ。
英次郎の詩は、何度よんでも、泣けてくる。
生きたかったのだ・・!今だ大人になっていない己。
少年の時、自ら終止符を・・・。


上の詩は、今にもショパンの調べ”朝露”が聞こえてきそうな・・・そんな中島19歳時の詩。
対して、運命は・・・皮肉にも、同じ年齢、19歳の英次郎が、己の死を謳う悲しい結末。



万事零落、平生思うべからず
只余れるは酒中の趣、減ぜらるは少年時

19歳の少年、英二郎が、千代ヶ丘、この句を謳い散華の宿命。




中島三郎助 にとって、己は19歳の頃、生の喜びを詠んだ。
対して、愛する我が子には、「万事零落」を謳い、死を享受する宿命を負わす父、三郎助。

父とて抗う術が無い。蕾のまま、散らさねばならぬ。
徳川報恩。己に悔いは無し。されど、罪の父。

中島三郎助 19歳時の詩・・「天保10年発行俳誌:おそざくら」 :この俳誌には、合計26句が掲載されている。
若者らしい感性が絵画のように美しい色彩を捉え、生の煌きが鮮やか。俳誌名は偶然ながら、おそざくら。
北の大地に咲いて散ったおそざくらに終焉を見る己の結末など、この時、知るよしもない。


しかし、運命は・・・
動乱の世に生まれた英二郎は、
いわば、遅れて咲いて、まだ咲きかけたばかりの「遅桜」。
その「遅桜」は、見事な開花を見る前に、地に散る宿命を。

万事零落、平生思うべからず
只余れるは酒中の趣、減ぜらるは少年時


長男、恒太郎への呵責


あの忘れもしない事件。慶応2年、三郎之助46歳、恒太郎19歳の時だった。
中島は、持病の喘息が悪化。当時江戸に居た 中島三郎助 、つくづく、
己の限界を痛感した。後で思えば、確かにこの年、恐ろしい年となった。
同年7月、21歳の将軍家茂は他界。12月、孝明天皇も謎の死。

本来なら慎むところ、実は己自身、死の予感を否定できなかった。

実際、この頃、江戸に単身赴任する中島は、妻に悲壮な手紙を送って
いる。急がねば間に合わない! 鬼の目にも涙 思わず涙、勝海舟 :宿敵
ライバル中島ながら、疾病退職ともなれば話は別だ。

身辺整理を急いだ。倅の縁談話は、倅の為なればこそ、己が現職で体裁が
良いうちに完了させねばなるまい。躍起になって、自分で話をまとめあげた。
そして、式までに、与力を恒太郎に継承、倅に花を持たせ夫婦にさせたい
との思いである。

幸い、話は、とんとん拍子。浦賀奉行所与力_太田雄之丞の娘(15歳)との
話は好調に進んだ。年内暮れには嫁入りと決まった。話が決まるや否や、
この年の三月に中島は軍艦頭取出役の辞職願いを出した。
原因が病気である以上、許可された。それでいて、残務処理が膨大。
結局12月迄かかった。

同年12月、恒太郎が跡番代を拝命。どうにか予定をクリアした。


隠居とは束の間、すぐ幕府に呼び戻されるが、
本人はそのつもりだった。

晴れて恒太郎は立派な主の地位を得て、中島は元名誉職の隠居となった。
嫁入りは、予定より少し遅れたものの、翌年早々に、
目出度く、花嫁がやってきた。





しかし!突然の事件!!
・・・悲劇の恒太郎!!

19歳と16歳、可愛い夫婦が誕生した。

ところが、なんと!新妻は、
・・・輿入れ早々、数ヶ月後に不意の死亡。享年16歳。

あまりにも過酷な運命だった。


終焉時の恒太郎から母への手紙

shirorou.jpg
(内容概略)

女ばかりで大変でしょうね。
いつも気に掛かって胸が痛みます。

されど、どうか、与曾八(注2)を
立派な侍に育てて、どうぞ彼を頼りに、
お母様、達者でお過ごしくださいませ。

おばあ様(注1)は、さぞ嘆かれることでしょうが、
宜しくお伝え下さい。前世の因果、
罪障消滅と御あきらめくださるべく候。

(注1)おばあ様 :名=きた=中島三郎助にとっては実母でなく父の後妻
恒太郎の前に生まれた子はすぐ死亡。血が絶えるを恐れ、あわてて『お順』を養女として入れた。
その後生まれてくれたのが恒太郎。有り難い事に男児。その為、おばあ様は、さぞ、恒太郎の誕生を
歓喜したことだろう。自分が死なねばならぬ宿命よりも、嘆き悲しむ家族を心配している恒太郎の姿。

  • 若妻を失った恒太郎は、年齢以上に大人の視野がある。
    死に至る己よりも、『愛する家族を失う悲しみ』を背負う人々への気持ちが解るようだ。
    暖かな思いやりと共に、弟、与曾八に対して、兄の立場を超越して父のような思いが込められている。
    新妻が死なずにいてくれたら、恒太郎には今頃、与曾八と同じような赤ん坊が居たかもしれない。
    中島家は、先祖の代で、ひとたび急死の為、 家督が間に合わず、浪人となった痛手有 。子孫を
    絶やすは禁物。恒太郎にはきっと、呵責があったはずだ。50歳に手が届く父が替わりに与曾八を。
    尚のこと、恒太郎にとっての与曾八は、特別可愛い大切な存在。
(注2)与曾八とは: 中島与曾八 : 慶応4/2/19(1868.3.12) ~ 昭和4.10.6(1929)
三郎助の3男。実際は4男。長男の恒太郎の前の子は出生まもなく早世。三郎助
は48歳、妻も46歳最期の子。生まれたのは丁度、江戸で彰義隊が結集してる頃。
海軍人として日清戦争等にも活躍。機械工学を学び、大正4(1915)年工学博士。
父の顔も知らぬ子だが、やはり血筋だ。痛感する。軍艦他艦船の構造、エンジン開発等船と
機械に強い。まさに、父と同じだ。この人物は、老いて横死寸前の小柴長之助を助けたエピ
ソード有。小柴は晩年、静かに墓守の暮らしとなるが、上記のとおり悲痛な時期を体験している。


父から贈った特注の銘刀
▼下行はご参考:泣ける!父らしい 中島三郎助 のひとこま


1865年、勝海舟が罷免され、小栗がフランス式軍隊の編成と横須賀に製鉄所を創設するなど奔走中。
この時、 中島三郎助 は江戸へ召集されている。その時、浦賀から独立した英次郎への手紙。
父三郎之助45歳、英次郎15歳。一人前の恒太郎と異なり、やはり下の子は可愛くて心配な父の心。
(一時的に中島家は三人が立つ。老齢の中島の父、清司は引退したくも世が許さない。長男、恒太郎は、
中島三郎助の後継の身。幼少より、英二郎を世話する機会が多かった清司は、利発な少年、英二郎を
己側の後継として考慮。実践に移していた。その為、少年といえど、この段階では実家を出て一人屋敷を構え、
独立して、立派に任務を為している。そんな英二郎を忠実な同心達が黙々と後ろ盾、活躍。)



(英次郎15歳の時、父中島三郎助からの手紙_内容概略)

お前は、8歳からよく頑張ってるね。もう、添え番(=代理世話人)も無しで実力で立ったんだよね。
父に変わりないから、安心するが良い。 仲間に配慮を忘れるなよ。

みんなのおかげなんだよ。 父さんは多忙だから、
皆を招待してあげる暇がなくて、気になっているんだ。
(お前に父さんは会いたい。だが会えなくて辛いよ。
正直に言えない中島。)


皆へ醤油一樽くらい贈ってはどうかと思うな。
母さんに相談して、ちゃんと対処するんだよ。

お前のために刀を特注したよ。

鞘の塗り色や、柄糸は、お前の好みだよ。
遠慮なく、父さんに言ってきなさいね。


【ここで感じられること】
鞘の塗り色や、柄糸は、お前の好みだよ。
・年頃の男の子、本人の好みを尊重するのは、いつの時代も頷けるが、この場合、別とよめる。
・厳格に育ててる以上、何色でも文句言う訳はない。
実は、中島三郎助、 可愛い次男坊からの手紙が欲しかった のではなかろうか。
■上枠の『皆』とは:
・ポジション確立の為応援してくれた偉い人もあるが、この場合、『下』とよめる。
・三郎助にとっての同格、与力や、上の者であれば、倅に任せず、三郎助本人が動く。
・いかに利発といえ、少年が一人でヘマをやらかさないわけはない。実際は同心達がフォロー。
・実際、こうゆうタイプの男も居た。完全自己犠牲。主の為。全て背負う。 柴田伸介 タイプが
恐らく、英二郎の側にも居たことだろう。子の教育の一環として、自分で礼を糺す仕事を教えた。

清司(三郎之助の父)から子、三郎之助に送った手紙
英次郎が幼かった頃のヒトコマ

幼い頃の英次郎 (≒房次郎)

中島三郎助の父、清司といえば、中島本人に輪をかけてスーパー親父さん。
引退後も再度幕命で呼び出され、68才でまだ現役。鬼のように大活躍。しかし、
そんな彼とて孫には目を細めている姿がこの話で忍ばれます。中島三郎助が長崎に
行ってる時、英次郎を自宅に連れ帰り世話をしていますが、その様子を
倅の中島三郎助に送っています。お利口さんで大人しくて賢くて・・。


清司から子、 中島三郎助 に送った手紙

幼い英次郎の実況報告!


当方無異にて、英次郎至極穏やかに御座候。
金魚鉢遣り、大いによろこび、水カラクリ等、日々楽しみおり候。
他出嫌いにて、稽古のほかは宅にばかり居り候。
まず浮雲気これ無く、安心に候。


男の子特有のハラハラするような危険なところもなく、落ち着きがある。
外に飛び出して遊びに行かない。おとなしくちょこんと座って金魚を見て
満足している。よく見ると、金魚そのものよりも、 装備品の動く水のカラクリに
興味を持って観察している。


実に、英次郎さんらしい。やはり、中島三郎助の子だ。
幼くして、早々、機械好きの兆候を見せている。
(中島三郎助の機械好きはこちらのSERIES、かなり長いですが、 中島三郎助と蝦夷桜
お読み下さいますと、解ります。)

中島家でたった一人生き残った男児、末っ子の 中島与曾八 も、左記リンク先のとおり、
機械好きで明治、大正、実績を残した。昭和迄生きた。

惜しいやら、悲しいやら。散った者も、生きた者も、皆、機械好きは、父、三郎助譲り。
中島三郎助の学んだ長崎伝習所の教官、カッティンディーケは、当時の日本人について、
こんな嘆きを。数学は教えると、めきめきと頭角を発揮する者が多い。ところが、
日本人は全般的に、なぜか理系が猛烈に弱い。理系的な発想サイクルがない。

中島家は、その点、時代に先駆けた理系男の家だったのが解ります。惜しい。

千代台に散った少年達よ・・・

あらし吹くゆうべの
花ぞめでたけれ
ちらで過ぐべき
世にしあらねば



嵐吹く夕べの五部咲き桜と蕾桜_完

中島三郎助 が絡むSERIES

幕末総合玄関

幕末_WITH_LOVE玄関
文章解説(c)by rankten_@piyo
イラスト写真については頁最下欄






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