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五月五日は私たち夫婦の37回目の結婚記念日でお互いの忍耐力の強さと記憶力の弱さでなんとか続いたのだと思います。そんな結婚記念日に、NHKの大河ドラマで有名になった篤姫ゆかりの地である薩摩今和泉の今和泉小学校近くに建てられた幼女時代の篤姫の像を見学に出かけました。この篤姫像は2012年に建てられており、私たち夫婦が前回薩摩今和泉に出掛けたとき(2010年5月4日、「篤姫の実家・島津今和泉家の別邸跡を再訪」にはまだ建てられていませんでした。 今回は、日頃運動しない私の健康のために自動車を使わず、公共交通機関と徒歩で篤姫像見学に出かけることにしました。当日は天気も快晴で午前中に篤姫像見学に出発しました。ネットのマップで調べると、拙宅から鹿児島中央駅までバスで約20分、鹿児島中央駅から薩摩今和泉駅まで54分、薩摩今和泉駅から今和泉小学校まで徒歩で6分とのこと、乗り換え時間も入れて往復約3時間半の旅になることが判明しました。 JR指宿枕崎線沿線には無数の鯉のぼりが泳いでおり、その多くが孫の健康を願って祖父母が購入し、そのお孫さんの家で屋根より高く元気に泳いでいるのだなと思うと自然と胸が熱くなりました。 しかし、JR薩摩今和泉駅に下車してから予想外の障害が存在していました。駅の入り口に行くために歩道橋(路線橋と呼称するのかな)を渡る必要があり、最近自宅の二階ぐらいしか上り下りしない私にとっては思わぬ障害物でした。それでも時間を掛けてゆっくりと鉄橋の手すりを頼りに上り下りしたのですが、足腰が弱っていることを痛感させられました。 薩摩今和泉駅の入り口(私たちにとっては出口かな)には「天璋院篤姫ゆかりの地」と書かれた看板がでかでかと掛けてありました。駅から海沿いに今和泉小学校を目指して歩いて行くと、数人の観光客らしい人たちが小さな像をバックにして撮影している様子が目に入ってきました。篤姫の銅像を撮影しているに違いありません。 天璋院篤姫は幼少時代には於一(おかつ)と呼ばれ、2008年放映のNHK大河ドラマ「篤姫」の原作となった宮尾登美子の『天璋院篤姫』では、島津今和泉家の娘として生まれた篤姫が幼少時代を同家の別邸がある今和泉で過ごしていたと書かれ、大河ドラマ「篤姫」でもそのように描かれたので一躍この地が有名になり、2012年に彼女の幼少時代をモチーフにした銅像も建立されたのです。 銅像近くに篤姫銅像実行委員会会長の今林重夫氏が書いた解説板があり、「篤姫が幕末から明治維新にかけて江戸無血開城に心血を注ぎ江戸百万人の人々の戦禍から護り大奥に仕えた婦女子の身の方について私財を擲って援助したことは有名です」と彼女の業績を紹介し、そんな彼女の八歳ぐらいを想定して地元の田原迫華氏が造ったことが書かれてありました。 残念ながら篤姫の幼少時代の肖像は残されておらず、この今和泉の少女像はどうも大河ドラマ「篤姫」の主役を演じた宮崎あおいに似せて造られたようです。また大河ドラマでは江戸無血開城に尽力したように描かれおり、この銅像の解説板もその見解に従って彼女の業績が紹介されています。 しかし、史実としては、第13代将軍徳川家定の正室だった篤姫は家定の死後に天璋院と号して江戸城大奥を仕切りましたが、彼女は江戸攻撃に迫ってきた薩州隊長の西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出しただけで、江戸城無血開城は勝海舟と西郷隆盛の話し合いの結果と思われます。そのことは下記の拙サイトに書きました。 ↓ 拙サイト「やまももの部屋」の「宮尾登美子の天璋院篤姫と鹿児島」 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/atuhime.htm#tangan 篤姫像の撮影後、近くの観光客用に建てられた四阿(あずまや)で海を眺めながらお昼の弁当を食べました。食後にまた来た道を戻って薩摩今和泉駅に行き、あの障害物の路線橋をエッチラオッチラゆっくり渡っていると、後ろからバスケットの試合帰りらしい元気な女子高校生たちがどっと押し寄せてきましたので、私が「お先にどうぞ」と大きな声を掛け、彼女たちは次々と「こんにちは」と私に挨拶しながら飛び跳ねるようにして私の横を通り過ぎて行きました。 今回の篤姫像見学の小旅行は、今月中旬に神戸で長男のフィアンセのご両親とお会いするための予行練習を兼ねたもので、なんとか無事に帰宅できましたので本番の神戸行き旅行にそれなりに自信が持てました。 2016年5月9日
2016年05月09日
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昨日(10月31日)、鹿児島市の春日町にある鹿児島県民教育文化研究所に行って来ました。この県民教育文化研究所は重富島津家の上屋敷跡に建てられたものだそうです。そんな同研究所の石垣は市の景観重要建造物に指定されています。 なお、重富島津家は島津家の一門四家(重富、加治木、垂水、今和泉)の一つで、もし島津家藩主に嗣子がいないときはこの四家から藩主が選ばれることになっていました。 重富島津家の上屋敷は大龍寺の東隣りにあり、NHKの大河ドラマで有名になったあの篤姫の生まれた今和泉島津家の上屋敷は大龍寺の西隣りにありました。昨日は同研究所内の建物や庭が公開されるとのことで、重富島津家という名家の上屋敷の面影がいまも色濃く残っているのではないかと期待してビデオカメラ持参で出かけることにしました。 撮ったビデオ映像はyoutubeにアップしましたので、興味ある方はご覧いただきたいと思います。 ↓http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/atuhime.htm#sigetomi
2010年11月01日
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今日5月4日は、篤姫の実家・島津今和泉家の別邸跡を妻と二人だけでJRの普通列車に乗って訪れました。私はこの場所を再訪することになるのですが、妻は初めて訪れることになります。実は他の場所もいろいろ考えたのですが、連休中だけにほとんどの場所が家族連れで賑わっており、2年前にNHK大河ドラマで放映された「篤姫」ゆかりの今和泉の別邸跡ならいまは訪れる人も少ないだろうということで、朝からJRの普通列車に乗って1時間ほどかけて薩摩今和泉駅までのんびりと出かけ、今和泉家の墓、豊玉媛神社、隼人松原と今和泉家の別邸跡地などをてくてくと歩いて見学してきました。 NHK大河ドラマ「篤姫」が放映されていた2008年末には今和泉地区を案内する市民ボランティアの「篤姫観光ガイド」の利用者たちが10万人を突破したことが地元の新聞に載っていましたが、さすがにいまは見学者も少なくなり、私たち夫婦が今和泉地区を散歩している間に行き違った「篤姫観光ガイド」さん引率の見学者グループはわずかに4組だけでした。でも、それだけにゆっくりと楽しくいろいろ見学して廻ることができました。
2010年05月04日
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ファンさん、よしさん、バルダさん、こんばんは、やまももです。 ファンさん、「いつも拝見しておりますファンのひとりです」とのコメント及び暦変換ツール【換暦】についてのご注意に心から感謝いたします。 なお、【換暦】につきましては、私自身は昨年(2007年)の3月頃に福岡中央テレビの公式サイトのなかで見つけたもので、「篤姫の略年譜」作成にとても便利なツールとして活用し、ブラウザの「お気に入り」にこの【換暦】を登録してその後もずっと使わせてもらっていました。しかし、ファンさんからのご注意をいただき、久しぶりに福岡中央テレビの公式サイトにアクセスしてみましたら【換暦】へのリンクはなくなっていました。ファンさんがご指摘のように【換暦】はどうも福岡中央テレビとは関係がなく、「まえちゃんねつと」制作のツールのようですね。拙文中の誤りを訂正しておきたいと思います。 よしさん、お久しぶりです。NHKの「篤姫」ドラマもついに終了しましたね。「テレビの『篤姫』」を見ながら宮尾登美子の『天璋院篤姫』を読み,やまももさんのこのブログを読んで史実を確認するというのが楽しみでした。とても参考になりました。本当にありがとうございました」とのご丁寧なコメントをいただきとても感激しております。また、「『篤姫』は終わってしまいましたが,今後もブログの更新を楽しみにしています。/もちろん『篤姫』関連でなくても結構です」とのお言葉もいただき、ブログ更新に対する新たな意欲も湧いてきました。今後ともよろしくお願いいたします。 バルダさん、お久しぶりです。NHKの「篤姫」ドラマ、登場人物たちが丁寧に描かれており、とても面白かったですね。また、バルダさんからいろいろ貴重なご質問をいただき、お陰様で私なりに幕末の歴史について認識を深めることもできました。心から感謝いたします。来年もまたよろしくお願いいたします。
2008年12月31日
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昨夜(12月15日)でとうとうNHK大河ドラマ「篤姫」も最終回を迎えることとなり、その最終の第50回目のタイトルは「一本の道」でした。 昨夜の篤姫ドラマの視聴率は48回目(「無血開城」)の29.2%に次いで高い28.7%だったようです。 ↓ Audience Rating TV(~テレビ視聴率~) NHK大河ドラマ「篤姫」 http://artv.info/taiga.html#2008 なお10回区分で視聴率の推移を見ると、「1-10回平均」から「31-40回平均」は右肩上がりに漸増し、「41-50回平均」で少し下げています。 1-10回平均:22.39% 11-20回平均:23.1% 21-30回平均:24.93% 31-40回平均:26.11% 41-50回平均:25.72% 10/11~11/23のときにすこし勢いが落ちたのが影響しているようですが、それでも非常に高い視聴率をコンスタントに取った番組と言えるでしょうね。 私は、これまでNHKの大河ドラマを熱心に視聴するということはなかったのですが、今回の篤姫ドラマでは主人公が鹿児島ゆかりの人物であり、またドラマの舞台としても鹿児島が取り上げられるということで、初めから全て観ることになりました。しかし、このドラマを1年間観続けることができたのは、決して鹿児島の住人としてお義理からではなく、やはり私にとってもとても楽しいドラマに仕上がっていたからだと思います。 主役の篤姫(天璋院)を演じた宮崎あおいの演技は素晴らしかったと思いますが、また彼女の夫役の家定を演じた堺雅人もとてもユニークでチャーミングな将軍像を創り出しており、この二人の絶妙のからみによってとても印象深いドラマが展開され、そのために4月から7月にかけて中だるみすることなく視聴率漸増に勢いをつけたようです。その他、篤姫の指南役の幾島(松坂慶子)や滝山(稲盛いずみ)、本寿院(高畑淳子)の大奥組もみんなそれぞれ個性があり、このドラマを大いに盛り上げました。 しかし、幕末の変革に大きな役割を果たした薩摩藩の小松帯刀、島津久光、西郷隆盛、大久保利通等の描き方には非常な不満を感じました。特に小松帯刀については、脚本家の田渕久美子氏は「薩摩藩の若き家老であり、西郷や大久保にも匹敵する働きから最初の宰相とまで呼ばれながら、歴史に埋没したヒーロー、小松にもスポットを当ててみたいとも思っています」と抱負を語っていましたが、彼がどのような秀でた能力を持っており、薩摩藩でどのような独自的役割を果たしていたのかドラマを見る限りよく分かりませんでした。ただ篤姫のことをひたすら思慕し、遠くからいろいろ案じているだけの頼りない人物としか見えません。これは、小松帯刀を演じた瑛太という俳優の問題ではなく、やはり脚本に問題があったような気がします。
2008年12月15日
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オッシー・パパさん、masaさん、こんばんは、やまももです。 オッシー・パパさん、初めまして。今年の1月、拙ブログに4回にわたって「調所広郷と贋金づくり」について紹介させてもらったことがあります。 ↓ 「調所広郷と贋金づくり」 「調所広郷と贋金づくり(その2)」 「調所広郷と贋金づくり(その3)」 「調所広郷と贋金づくり(その4)」 これらの拙文に対し、2日前にオッシー・パパさんから「偽金について詳細な記述に興味をそそられました。今年8月には南日本新聞に『薩摩と偽金』記事が5回連載されていたようです。/磯庭園の東方800mに花倉御仮屋跡は実在しています。探訪模様を公開しましたのでご覧下さい」とのコメントをいただき、また花倉御仮屋跡についての貴重な写真とそれについてのコメントが載っている「オッシー・パパのホームページ」 を紹介していただきました。 オッシー・パパさんのご指摘のように、「南日本新聞」に黎明館調査史料室長・徳永和喜氏が「薩摩と偽金」と題して2008年8月15日から9月12日の間に5回にわたって寄稿した記事が載っています。同記事によりますと、薩摩藩では島津斉彬が藩主のときに幕府に貨幣鋳造権の分与を求めていたそうですが、島津久光が実権を掌握した後、大久保利通、小松帯刀によって貨幣鋳造が本格的に始まったそうです。すなわち1862年12月22日に琉球通宝鋳造局が設置され、磯地区で鋳銭所が開業され、その後、場所を花倉に移して大量の偽金が鋳造されたようです。 なお偽金としては、琉球通宝造りを名目にしての偽天保通宝と銀に金メッキを施しての偽一分金、二分金が鋳造されたそうで、「鋳造は六五(慶応)年に始まり、六九(明治)年四月、明治政府の要人となった大久保が藩に贋造を禁止する建白書を出してやめさせたのだった」としています。 花倉で偽金が鋳造さたことについては、「明治政府が六九(明治二)年、贋金取締を厳重にし、贋金の総員数を取調べ申告することを藩に通達したことを受けて、藩は同十二月『華倉細工場を廃し、其の跡に生産方管轄の金性分析所を建設すべきを達』している。密造が花倉工場で行われていたことが分かる」としています。 オッシー・パパさんもご自身運営のHP「オッシー・パパのホームページ」で、「幕末の薩摩藩には『密貿易と偽金造り』により藩財政を支え、幕府に対峙する明治維新への推進力を得たのです」と書いておられますが、このような興味深くて重要な史実についてまだまだその全貌は明らかになっていないようですね。今後さらに詳しい研究がなされることを期待したいですね。 masaさん、こんばんは。篤姫ドラマ第49回目について、「今回よりも前回の方が見ごたえがあったと個人的感想です」とコメントしておられ、「最終回の一つ前の回として、少し、物足りなさを感じました。/これも最終回に繋げる演出でしょうか」とも書いておられますが、私も同感です。それから、篤姫ドラマの1回目から49回目までの視聴率の紹介に感謝します。年間平均の視聴率が24.33%というのですから、このドラマは大好評だったと言えますね。 ↓ http://artv.info/taiga.html また、下のような10回区分の視聴率の推移も興味深いものがあります。 1-10回平均:22.39% 11-20回平均:23.1% 21-30回平均:24.93% 31-40回平均:26.11% 41-49回平均:25.28%
2008年12月10日
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篤姫ドラマもいよいよ来週で最終回ですね。今夜(12月7日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第49回目のタイトルは「明治前夜の再会」でした。 今回のドラマでは、慶応4年4月10日(1868年5月2日)に天璋院が駕籠で大奥から一橋邸に移る間際になって、滝山(稲森いずみ)が天璋院に述べたつぎのような言葉がとても印象的でした。天璋院が、滝山に「私の代で城を明け渡すことになって無念でならぬ」と呟いたとき、滝山はつぎのように言います。「天璋院様ならばこそこたびのこと上手く運んだのだと思います。他の人ではこうはいかなかったのではないでしょうか。あなた様は選ばれしお方だったと存じます。自らの運命を知った大奥があなた様をここに呼び寄せたに相違ありません」。うーん、そうですね。ドラマでのこの滝山の言葉は、実際の史実を踏まえて考えてみても頷けるものがあり、薩摩藩から徳川将軍家の御台所として江戸城大奥に入輿した篤姫が、大奥最後の大御台所として薩摩軍に城を明け渡す役割を果たしたことには運命の不思議さを痛感せざるを得ません。 それから、一橋邸に移った天璋院の許に小松帯刀(瑛太)が訪れて囲碁をしながら若き日の二人の過去を回想したりする場面がありました。過去にもこのような場面が何度かあり、正直言って「またか」という感じもありましたが、小松帯刀から天璋院に家定(堺雅人)との生活について「お幸せだったのですか」と質問させ、彼女に夫の家定との暮らしが「この上もなく私は幸せでした。私を慈しみ愛してくれました」と言わせており、小松帯刀の気持ちにけりを付けさせるだけでなく、来週でいよいよ終わりを迎えるこのドラマとしても、やはりそれなりに必要だったようですね。
2008年12月07日
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今夜(11月30日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第48回目のタイトルは「無血開城」でしたが、今回のドラマのメインは慶喜(平岳大)の助命と徳川家存続を願う勝海舟(北大路欣也)と江戸城を攻撃して徳川を攻め滅ぼそうする西郷隆盛(小澤征悦)との会見の場面でした。 西郷との会見に先立ち、勝海舟は天璋院(宮崎あおい)と対面し、彼女から「西郷は有り余る情を持つ男である男である」から、そこに戦を避ける望みがあるかもしれぬと伝えられます。しかし、勝は「西郷は一時の情にほだされて決心を変えるような人物ではありません」と天璋院の西郷の情に対する期待を否定し、こちら側から江戸に火を放って焼け野原にして官軍の江戸城攻めを阻む策を立て、それをイギリスにも伝えることにより、薩摩が勝利しても何も得られぬことを悟らせる必要があると言います。そして、「おのれを追い詰めて初めて相手と互角になれるのです」との決心を語ります。しかし、勝はまた「西郷の心の奥の奥に届く何かがあればよいのですが……」とも言います。 それで天璋院は、幾島(松坂慶子)と相談し、西郷の心を和平へと動かす手だてについて思案しますが、彼女から「西郷殿の心を揺り動かす何かでございますか? それは薩摩のお殿様しかおられませぬ」との言葉にヒントを得て、西郷との会見のために薩摩藩邸に向かう勝海舟に亡き養父の島津斉彬(高橋英樹)の手紙を託すことにします。 西郷と対面した勝海舟は、江戸城明け渡しを約束する代わりに、慶喜は隠居して水戸家に謹慎し、徳川家は存続するという嘆願書を差し出します。しかし、西郷は勝海舟のイギリスに手をまわして江戸攻撃の手を緩めさせようとの策を見抜いており、あくまでも江戸城攻撃の意思を変えようとしません。そんな西郷に対し、勝海舟は最後に天璋院から預かった斉彬の書状を見せます。 篤姫に宛てた斉彬の手紙には、篤姫を自分の養女にして将軍家に嫁がせて彼女に心労を重ねさせたことを詫びるとともに、「そちと薩摩はいずれ敵味方になる日が来るやも知れぬ」と予言めいた言葉を残していました。またさらに「おのれの信じる道を行け」と書いてありました。斉彬の遺言となった手紙を読んだ西郷ははらはらと涙を流し、また生前の斉彬から「病人を生かす道を考えよ」と言われた言葉を思い出します。斉彬の手紙に心を動かされた西郷は、江戸城攻撃を取りやめることを勝海舟に約束するのでした。 天璋院は、勝海舟から西郷が江戸城攻撃を中止することを約束したと知らされ、大奥の人々を一同に集め、徳川家存続のため江戸城明け渡しに応じる意向を告げるとともに、大奥のみんなは徳川家の家族であり、大奥を出た後の世話も自分が責任を持つと約束するのでした。 今回のドラマには、家定(堺雅人)の位牌の前で「あなた様の思いに背いてしまったのでしょうか」と語りかける天璋院に、なんと家定(堺雅人)の亡霊が出てきて、「わしが残したいのは家でも城でもない。徳川の心なのじゃ。そちのいるところ、すなわち徳川の城なのじゃ」と語りかけるシーンもあり、視聴者の心を打つ場面が満載でした。 なお、史実としましては、勿論、勝海舟が西郷隆盛との会見に斉彬の手紙を見せたなどという事実はありません。また、萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』第7巻(朝日文庫、2008年1月)によりますと、西郷との会見の前に勝海舟がイギリスに働きかけて新政権に対する同国の影響力を利用した形跡は見られないとしています。 史実としましは、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで惨敗して江戸に逃げ帰った後、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、慶応4年1月23日(1868年2月16日)に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁(忠寛)を会計総裁に起用し、新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せています。そして旧幕府軍の代表となった勝海舟が新政府軍の本陣がある駿府に山岡鉄舟を派遣し、西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合わせた後、慶応4年3月13日(1868年4月5日)には自ら江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見を行い、江戸城無血開城を実現させています。 この江戸城無血開城が実現された原因としては、私は少なくともつぎの3点をあげる必要があると思っています。(1)勝海舟と西郷隆盛の個人的信頼関係があったこと。(2)英国公使パークスが討幕軍が江戸城を攻撃すると聞いて、「吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何」と批判し難色を示したこと。(3)そしてなによりも内乱の激化による外国勢力の干渉、侵略を恐れたこと。以上の3点です。 そのことについて、すでに拙ホームページ「江戸城無血開城と勝海舟」に載せました拙文「勝海舟と西郷隆盛の和平交渉」で詳しく紹介していますが、「(1)勝海舟と西郷隆盛の個人的信頼関係があったこと」を補強する説を新たに前掲の萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』第7巻の45頁~48頁に見つけましたので、下に紹介したいと思います。 同書には、東征軍大総督府参謀となった西郷隆盛が駿府に到着早々に在京の吉井幸輔(友実)に宛てて書き送った文書が『西郷隆盛全集』第2巻から引用されています。「賊軍には智将もこれあり、大久保も勝も参政(若年寄)に出候由に御座候間、決して油断は相成らず候。両人を相手に勝負を決め候儀、実に面白かるべきと是(これ)のみ相願い居り申し候。敵方に智勇の将を置き戦を成し候儀、合戦中の一楽、此の事に御座候。」 萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』は、この西郷の文書について、「そこには『好敵手』、つまり、本格的な交渉に堪えうる人物の登場を知った西郷のよろこび、いや、安堵感がおどり出ている」とし、「『歴史における個人の役割』という命題は、このような場合に生彩を放つのであろうが、これ以後、西郷の眼中にあるのは勝と大久保、勝と大久保の意中にあるのは西郷のみであったように思える。この人間狗な組み合わせがなければ、和戦と江戸開城をめぐる『高等政治』の展開もありえなかったであろう」としています。 さらに同書は、駿府に山岡鉄舟で勝海舟からの手紙を受け取った直後の西郷隆盛の心理についてつぎのような興味深い指摘をおこなっています。「勝と大久保の登場を知ったときから、西郷は慶喜の助命と江戸攻撃の中止を、現実的な可能性として考慮しはじめたのではないだろうか。/慶喜の恭順と江戸の開城を保証しうる人物が徳川側の責任者であるとすれば、軍事的な観点からいっても、当然西郷は無用な流血の回避をのぞんだであろう。」 そして、八王子まですでに進出ていた東山道先鋒総督参謀・乾(板垣)退助らに西郷が慶応4年3月12日(江戸総攻撃3日前の1868年4月4日)に送ったつぎのような興味深い手紙(『西郷隆盛全集』第2巻所収)を紹介しています。「陳(のぶ)れば大総督より江(戸)城へ打ち入りの期限、御布令相成り候に付き、定めて御承知相成り居り候事とは存じ奉り候得共、其の内軽挙の儀共これあり候ては、屹(きっ)と相済まざる事件これあり、静寛院宮様御儀に付き、田安へ御含みのケ条もこれあり、其の上、勝・大久保等の人々も、是非道を立て申すべきと、一向(ひたすら)尽力いたし居り候向きも相聞き申し候に付き、此のたびの御親征に、私闘の様相成り候ては相済まされず、玉石相混じわらざる様、御計らいも御座あるべくと存じ奉り候に付き、来る十五日(三月十五日、江戸総攻撃の予定期日)より内には、必ず御動き下され間敷(まじく)合掌奉り候。自然御承諾の儀と相考えられ居り候得共、遠方懸け隔て居り候て情実相通わず候故、余計の儀ながら、此の段御意を得奉り候。」 萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』は、この西郷の手紙を解説して、「江戸総攻撃を三日後にひかえた東征軍大総督府参謀の手紙にしては、静寛院宮の歎願(慶喜の助命と徳川家の存続)や田安亀之助の徳川宗家相続にふれ、さらに徳川倒の勝・大久保の『尽力』について語るなど、異常なほどに留保の多い手紙である。しかも、『私闘』であってはならないと念を押しているが、相手の慶喜が恭順を表明している以上、この段階で『私闘』でない戦闘はありえたであろうか。(中略)この西郷の手紙は、あきらかに慶喜の助命と江戸攻撃の中止に備える西郷のこころの動きを、微妙なことば遣いで語っているように筆者には読める。/もちろん、事実上東征軍全軍をひきいる立場にある西郷としては、江戸総攻撃の備えをいささかもゆるめるわけにはいかなかったであろうし、さらに和戦の最終的な決着は勝との会談の如何、そのさいの勝の出方次第と、西郷は覚悟を決めていたであろうが、会談の前日に書かれた手紙の中で、すでに勝と大久保の『尽力』が語られ、『私闘』の不可が説かれていたのは、西郷のこころが和戦のいずれに傾いていたかを物語るものではなかろうか。/交渉の相手が勝でなければ、こうはいかなかったであろうが、それが旧知の勝であるだけに、西郷は勝の出方をほぼ予測できたであろうし、さらに肝心なことは、勝のことばならば、西郷はそれに信をおくことができたであろう。勝が握っていた最強の切り札は『恭順』である。それを突き崩して、『私闘』に堕さない江戸攻撃をおこないうるものか」と書いています。
2008年11月30日
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2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」が東京(2月19日~4月6日:江戸東京博物館)、大阪(大阪歴史博物館:4月19日~6月1日)、鹿児島(9月6日~10月17日:鹿児島県歴史資料センター黎明館)で開催され、各会場で同展示会の図録(NHKプロモーション、2008年2月)も販売されました。 その図録の178頁~181頁に徳川記念財団の藤田英昭研究員が執筆した「知られざる戊辰戦争期の天璋院」が載っており、幾島が老年のために歩行困難となって大奥から宿下がりしていたこと、そんな彼女が天璋院の命を受けて西郷隆盛に天璋院の嘆願書を手渡したこと、しかしこの天璋院の嘆願書は西郷の「慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった」かもしれない等の興味深いことが書かれています。それで、同論文の一部を紹介したいと思います。 この藤田英昭論文によると、『静嶽公御年賦』(徳川宗家文書)所収の「天璋院様御履歴」に、慶応4年の「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」とあり、またこのつぼねを「薩州ヨリ御供致シ候人ニテ、老年二及ヒ歩行六ケ敷下宿致居候処、押テ出立」したものと記述していることから、「薩摩より天璋院に従い江戸に下向し、老年のため宿下がりをしていた人物といえば、幾島以外にはいない」と推定しています。そして、『興山公御年賦』(徳川宗家文書)の記述によると、この幾島と思われる女性には漢方医浅田宗伯(天璋院から絶大な信頼を受けて大奥の侍医となり、法眼に叙せられていた人物)が同行し、天璋院からは「御くるミ御ふとん」が遣わされたことから、「ただならぬ状態」にありながらも「無理を押して出掛け」て来たのであろうとしています。 なお、同論文によると、幾島が出立した慶応4年3月11日より以前に、慶喜の直命により山岡鉄太郎が駿府滞陣中の西郷隆盛のもとへ派遣され、慶応4年3月9日に西郷と会談し、「慶喜の備前藩御預け、江戸城明け渡しなど七か条の降伏条件が揃えば、家名存続は保証するという西郷の言質を取って」から翌日に帰府していたとし、「このような徳川家にとって有利な環境が整うなかで、天璋院の使者として幾島は出立したことを記憶しておきたい」と指摘しています。 そしてこの藤田英昭論文は、「では、天璋院の徳川家名存続を願う気持ちは薩摩藩隊長、なかでも西郷に届いたのであろうか」と天璋院の嘆願書の果たした役割に疑問を提起し、肥後藩の風聞探索書(『肥後藩国事史料』8巻所収の「一新録探索書」)のつぎのような記述を紹介しています。「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しッヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致居たる処、此一言にて忽チ立腹、心頭より怒気発し、既ニサヽントしたりと、右女使附添之者自ら咄Lたりと云」 藤田英昭論文は、この肥後藩の風聞探索書の記述からつぎのような見解を示しています。 「歎願書に接した西郷は、天璋院の苦労を察して涙を禁じ得なかったという。天璋院の書状に西郷は心を動かされたのである。しかしあろうことか、天璋院の意とは別に、慶喜の所業に心労を重ねる天璋院を憐れみ、慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった。/確かに歎願書の前半には、『(慶喜は)私(天璋院)之心底に応し不申』『いか様成る不忠致候哉』など、慶喜に批判的な文言が綴られている。どうやら西郷は天璋院の本願である家名相続よりも、天璋院を苦しめる慶喜を排除しなければならない、と気持ちを高ぶらせていったようである。ある意味、情に厚い西郷の本領発揮とでもいうべきか。だが、これでは天璋院の本意を汲んではいない。女使(幾島)は、西郷の態度に立腹し、刺殺に及ぼうとしたともいう。/こうしてみると、天璋院の歎願書は、山岡との会談によって徳川家名存続へと傾きかけていた西郷の心を、別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性もはらんでいたことになろうか。もちろん、これは天璋院の真意ではなかったが、単に徳川家名相続に影響を与えた歎願書というだけではなく、多様な政治的意義も併せ持っていたということを考慮する必要があるだろう。」
2008年11月25日
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今夜(11月23日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第47回目は「大奥の使者」でした。 慶喜(平岳大)助命のために静寛院(堀北真希)と天璋院(宮崎あおい)は朝廷に宛てて嘆願書を書き、それをそれぞれ唐橋(高橋由美子)と土御門藤子(竹本聡子)に託します。天璋院の命を受けた唐橋は、近衛忠熙(春風亭小朝)を通じて嘆願書を朝廷に届けようとしますが、近衛忠熙の息子の近衛忠房は累が及ぶのを恐れて受け取ろうとしません。 しかし、唐橋はこの近衛家で幾島(松坂慶子)と会います。幾島は京で隠棲していたのですが、大奥からの使いが近衛家を訪れたと聞いてやって来たのでした。事情を知った幾島は小松帯刀(瑛太)の屋敷を訪れて薩摩の江戸攻め中止を頼みます。しかし、脚の痛みを堪えて鹿児島から京に来ていた小松帯刀も、江戸攻めの軍参謀となった西郷(小澤征悦)に会って江戸攻め反対の意思を伝えようとしていましたが、面会することさえ拒絶されていました。 幾島は小松帯刀に会いますが、西郷が江戸攻めの軍参謀となったこと、薩摩の家老である彼が面会を拒否されたことを知らされます。そして逆に幾島は、小松帯刀からつぎのような依頼を受けます。彼女が天璋院に会い、西郷を説き伏せるための手紙を書いてもらうように頼んでもらいたいというのです。 幾島は久しぶりに大奥で天璋院と再会し、小松帯刀から依頼された話を伝え、天璋院に西郷宛ての手紙を書いてもらいたいと要請するとともに、幾島自身がその書状を持って西郷説得に赴くことを願い出ます。 こうして天璋院は西郷に手紙を出すことになり、彼女は「慶喜の命を助け徳川家をお救いくださいますよう、御所へおとりなしくださいませんでしょうか。徳川家永続のためならば、私の命などどうなろうとかまいません。私は徳川の土となる覚悟です」といった主旨の嘆願書を西郷宛に書き、幾島を通じて西郷に渡すことになります。 この天璋院の手紙を西郷は涙を流して読みますが、自分の「徳川を倒さない限りこの国は変わらない」との思いは変わらぬと幾島に伝え、部下に3月15日に江戸城総攻撃を行うことを命じるのでした。 さて、今回のドラマはそれなりに面白かったですが、当然のことですが、いろいろ史実とは異なっていることがありました。 例えば、小松帯刀(瑛太)は西郷の江戸攻撃を止めようと懸命の努力をしていますが、勿論そんな史実はありません。では史実の小松帯刀はその頃、どんな動きをしていたのでしょうか。瀬野富吉『幻の宰相 小松帯刀伝』下巻(小松帯刀顕彰会、1985年7月)によりますと、小松帯刀は慶応3年10月26日(1867年11月21日)に西郷、大久保等と鹿児島に帰り、藩主父子に倒幕の密勅を示して率兵上洛を要請し、藩主忠義が3千の兵を率いて京に赴くことが決まりますが、小松身は同年11月に重患に罹って歩行も困難になり、鹿児島に残ることになります。しかし、慶応4年1月18日(1868年2月11日)になって、小松帯刀は久光の正月天機伺い(天皇への挨拶)の使者を兼ねて汽船で鹿児島を出発し、1月28日に朝廷に出仕しています。そして彼は徴士参与職に挙げられ、大政官総裁局顧問に任ぜら、さらに外国事務局判事を兼務させられます。そんな彼は、同年2月15日(1868年3月8日)に起こった土佐藩士によるフランス海軍の海兵刺殺事件(堺事件)、同年2月30日(1868年3月23日)に起こった英国公使行列斬込事件等の処理に奔走しています。 それから、天璋院が西郷に嘆願書を書いたのは史実ですが、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」で紹介しましたように、天璋院はその嘆願書で「当人(慶喜)はどのような天罰を受けてもそれは仕方のないことですが、徳川家そのものはとても大切な家柄であり、とにかく徳川家安堵のことを朝廷に頼んでもらいたいと思います。私は徳川家に嫁いだ以上、当家(徳川家)の土となるのは勿論のことでありますが、温恭院(徳川家定のこと)がすでに他界されているので、いまは亡き夫に替わって当家の安全をただ祈るばかりです。。しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も充分に取れず悲歎しています」と書いており、徳川家の存続は嘆願しながらも、慶喜助命のための嘆願などは行っていません。 それから、天璋院の西郷宛嘆願書を持参したのが幾島であることは最近明らかになり、そのことは今回のドラマにも活かされていましたが、鹿児島の地元紙「南日本新聞」2008年11月3日号に載った連載記事「御台所は薩摩人-篤姫さまお目見え」の「病身の幾島が“最後の奉公” 西郷へ手紙届ける」では、「当時六十一歳の幾島はその四年ほど前、病気で大奥を退いていた。だが、徳川家存亡の危機にあたり、“最後の奉公”にでたとみられている」としています。しかし、同記事は、この天璋院の「嘆願書は、(山岡鉄舟との会談で)徳川家存続へと傾きかけていた西郷の心を別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性をはらんでいた」との徳川記念財団の藤田英昭研究員の興味深い見解なども伝えています。それで、この「南日本新聞」2008年11月3日号の記事の一部も下に紹介しておきます。「一八六八年三月十一日、嘆願状を携え江戸を出立した幾島は『歩行がむずかしい』状態だった(天璋院様御履歴)。/徳川記念財団の藤田英昭研究員によると、付き添いの女中七人や役人五人、漢方医も同行。天璋院からは『御くるミ御ふとん』が遣わされた。体を包む布団とみられ、病身の幾島はこれに横になったのかもしれない。西郷隆盛に面会した幾島は十三日、趣旨を伝えて同日江戸に戻った。/風聞書だが、二人が面会した様子を記した興味深い資料がある。西郷は嘆願に心を動かされ涙したが、天璋院に苦難を与える徳川慶喜に対し、怒りと討伐の意欲をかきたてられたという。徳川存続に穏便の処置を求めた嘆願の意をくまず、勘違いした西郷を目の当たりにした幾島は立腹し、刺し殺そうとしたらしい。/藤田研究員は『嘆願書は、(山岡鉄舟との会談で)徳川家存続へと傾きかけていた西郷の心を別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性をはらんでいた』と述べている。」 なお、この「南日本新聞」に紹介されました藤田英昭論文の見解は、東京、大阪、鹿児島で開催されました2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」で販売されました同展の図録(NHKプロモーション、2008年2月)掲載の「知られざる戊辰戦争期の天璋院」を要約したものですので、拙ブログに「天璋院の西郷宛嘆願書についての藤田英昭論文」と題して改めて詳しく紹介させてもらいます。
2008年11月23日
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慶応4年正月(1868年1月)、大坂城から出陣した慶喜(平岳大)率いる幕府、会会津、桑名の連合軍1万5千は、鳥羽・伏見でわずか5千の薩長軍と戦いますが、慶喜は相手の陣営に錦の御旗が翻り、自分たちが「朝敵」となったことを知って大坂城に撤退してしまいます。水戸徳川家に生まれ、幕府よりも朝廷をあがめる尊王思想の教えを守ってきた慶喜にとって、それは大変衝撃的なことでした。慶喜は、さらに同年1月6日(1868年1月30日)の夜、味方の軍勢を大坂城に残してわずかな側近と一緒に船で江戸に逃げ帰ってしまいます。 江戸城大奥の女性たちは、慶喜が味方を置き去りにして逃げ帰ったこと、朝廷から「朝敵」とされたことを知りみんな驚き大いに憤慨します。天璋院(宮崎あおい)はあきれ返り、本寿院(高畑淳子)は、徳川宗家を守るために慶喜の首を朝廷に差し出すべきだと怒り狂い、静寛院(掘北真希)も「慶喜公を許すことはできません」と言います。クールな滝山(稲森いずみ)も「慶喜公の命と引き換えに徳川家が安泰となるなら、それも致し方のないこと」との意見を述べます。 一方、江戸に逃げ帰った慶喜は、勝海舟(北大路欣也)に力を貸してくれと頼み込みますが、勝海舟は「頼るべき相手は天璋院様です」と助言します。慶喜はそれに対し、初めは「たかが薩摩藩の分家の娘に過ぎないのに、薩摩との繋がりがあるということから命乞いをせねばならぬのか。それに薩摩こそ自分を朝敵に仕立て上げた相手ではないか」と非常な反発を示しますが、他に方法はないと諦めて天璋院に会見を願い出ます。 天璋院も逃げ帰った慶喜に反発を感じていますが、慶喜が目通りを願っていると聞いて、躊躇しながらも「会おう。会わねば何事も始まらぬ」と会見を許可します。そして、あれこれ弁解を述べ、死ぬ覚悟もできていると言う慶喜に対し、天璋院は「きれいごとはもうよい」ときひしく叱責し、「もしあなたが最後の将軍として潔く散ったとしても、後に残された徳川宗家は惨めな抜け殻にすぎない。あなたには生きてもらわねばならない。生き恥をさらしてもらわねばならぬ」と言い切ります。 天璋院は、さらに慶喜を静寛院の部屋に連れて行き、「自分は薩摩に慶喜助命の嘆願書を書くつもりだが、宮様にもお力添え願いたいと協力を要請したので、静寛院も「母上さまの仰せでしたら」と快諾します。これにはプライドが高くてめったに感情を表に表すことなどはない慶喜も「なぞこの慶喜にそこまでのことを」と感激しますが、それに対し天璋院は「あなたは家族です。徳川に集う家族である以上、私は命をかけてあなたを守らねばらならないのです」と言い、また「人の上に立つものは孤独です。天下を治める将軍としてのその孤独はいかほどのものか……」と優しい慰めの言葉もかけるのでした。 ところで、三河さんから、「小松は大政奉還を強く主張し、関白にも大政奉還を受理するよう迫っています。/武力討幕を進めつつ大政奉還を進めた小松はどのような考えだったのか私にはどうもしっくり来ないんです」とのご意見をもらいました。 確かに拙ブログの「小松帯刀は西郷、大久保と意見が対立したのか?」という拙文で紹介しましたが、西郷、大久保と連名で「国家の為に干戈以て其罪を討ち奸兇を掃攘し、王室恢復の大業相遂度」と武力による慶喜討伐を請願する小松帯刀と、京都二条城の大政奉還の大会議に薩摩藩城代家老として出席し、大政奉還の趣意書に賛同し、慶喜に「皇国の御為に大政奉還のご英断、誠に感銘の至りと存じます。この上は一刻も早く朝廷へご奏上召されるようお願い申し上げます」と意見を述べる小松帯刀とを同一人物と考えることにはしっくりこないものがあると思いますね。 しかし、史料に基づく史実としては、小松帯刀は慶喜の武力討伐を計画する一方で、彼に平和的政権返上を説いていたのです。原口泉『竜馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社、2008年4月)では、薩摩藩の3人のリーダーについて、西郷は実行部隊の指導者であり、大久保は西郷をコントロールしながら得意な情報分析を行い、「そして帯刀は、西郷、大久保という二大傑物を見出し、彼らと組んで島津久光を取り込みました。それが集団として大きなカになつて時代を動かすエネルギーになっていったのです」と指摘し、「大政奉還か討幕かという岐路にあって、また一方においては、慶喜と久光が離反していく中で、小松だけは慶喜との良好な関係を保っていたことが、大政奉還に望みをつなぐパイプとなったのではないでしょうか。/帯刀の多方位外交能力と、いざというときのために大局を見据える政治能力が大きな意味を持ったことになります。大政奉還は、まさに帯刀の多方位外交の最大の成果だったと言っていいでしょう」と述べています。
2008年11月16日
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今夜(11月9日)のNHK大河ドラマ[篤姫」第45回目は[母からの文」でした。 薩摩で持病の脚の痛みがひどくなった小松帯刀(瑛太)は、西郷(小澤征悦)、大久保(原田泰造)たちが大政奉還後も実権を掌握している慶喜(平岳大)の武力打倒を画策していることに心を痛めていました。全国的騒乱になることを恐れるだけでなく、江戸城大奥にいる天璋院(宮崎あおい)の身を案じるからでした。帯刀の妻のお近(ともさかりえ)は夫が天璋院のことを心配していると知り、天璋院の母親のお幸(樋口可南子)に依頼して天璋院宛てに薩摩の実家に里帰りするようにとの文を書いてもらったらいいのではないかと助言します。 帯刀から天璋院宛の手紙を書くことを依頼されたお幸は、初めは「あの子はもう徳川家の人間です。そして私は島津家の人間です」と言って帯刀の依頼を断ります。しかし、諦めきれない帯刀は、鶴丸城に行って島津藩の国父・久光(山口祐一郎)から天璋院宛の手紙をお幸が書くことの許可を得ます。そのことを知ったお幸はついに娘の天璋院宛に「薩摩にお帰りいただきたい。あなたと朝夕桜島を眺めて暮らし、家族として過ごすことができたらどんなに嬉しいことでしょう」と里帰りを促す手紙を書くことになります。 母親のお幸から天璋院宛に薩摩の実家への里帰りを促す手紙は、薩摩藩江戸屋敷の老女・小の島(佐藤藍子)が大奥に持参して天璋院に渡されます。小の島はそのとき天璋院に「島津家家老の小松帯刀の厳命で参りました」とも伝えます。しかし、天璋院は「私は徳川の人間じゃ。私はこの大奥を守る」と言い切り、薩摩に帰ることをきっぱりと拒否します。 そのことを大奥筆頭御年寄の滝山(稲森いずみ)も当然の受け止めますが、天璋院付きの御年寄・重野(中嶋朋子)から、天璋院が生まれ故郷の薩摩の軍に討たれるようなことがあったらあまりにも惨いことではないかと言われ、ぜひ天璋院に里帰りを説得してもらいたいと強く頼まれます。そのため、滝山はあらためて重野、唐橋(高橋由美子)と一緒に天璋院の部屋に行き、「天璋院様はこれまで徳川家のために十二分に働かれたが、これからは私たちが大奥を守ります」と言って里帰りを促します。しかし天璋院は、「私は帰らぬ。そちたちこそが私の家族であるからじゃ。なにがあってもそちたちと一緒じゃ。薩摩が攻めて来たときは私も戦う」と徳川に嫁いだ女として決意をあらためて滝山たちに伝えます。 今回のドラマでは、京の小御所会議での王政復古の宣言、慶喜に対する辞官納地の要求やが徳川側に対する挑発工作として薩摩側が行った江戸城二の丸炎上、江戸の町での盗賊騒ぎなどの話も出てきましたが、今夜は遅いので明晩にでもそれらのことは語りたいと思います。
2008年11月09日
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今夜(11月2日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第44回目は「竜馬死すとも」で、坂本龍馬(玉木宏)が京都の近江屋で何者かに暗殺される事件も描かれていましたが、しかし今回のドラマの中心は大政奉還でした。 岩倉具視(片岡鶴太郎)は、小松帯刀(瑛太)、西郷(小澤征悦)、大久保(原田泰造)に対し、朝廷を中心とする新しい日本を作る必要があるが、将軍の徳川慶喜(平 岳大)はあくまでも徳川宗家中心の政(まつりごと)を継続しょうとしているとの見解を伝えます。それに対し、西郷は慶喜公の下では日本は一つにまとまらないとし、大久保はそんな慶喜を将軍の座から降ろして徳川の世を終焉させる必要があると主張します。しかし、小松帯刀は岩倉、西郷、大久保の意見に反対し、倒幕などあってはならないことであり、それには大義名分がないと反対します。この小松帯刀の意見に、岩倉は「大義名分などいくらでも作れます。今の帝(みかど)は幼少で我々の手の内におあしますから、勅命を我々で作って幕府を朝敵にすればよろしい」と言い放ちます。 岩倉たちの武力による倒幕論は日本国に大乱をもたらすと危惧する小松帯刀は、京の寺田屋で坂本龍馬に会ったとき、龍馬が船で上洛する途中で考えたという船中八策を示されます。これは幕府が政権を平和的に朝廷に返上すること等、和をもって幕府を倒す方策であり、土佐藩の後藤象二郎が大政奉還の策として慶喜に建白するとのことです。この大政奉還の策が実現されれば、幕府を倒す勅命を出す意味もなくなりますから、小松帯刀もこの大政奉還に大賛成するのでした。そのため、慶応3年10月3日(1867年10月29日)に土佐藩から大政奉還の建白書が出され、同年10月13日(1867年11月8日)に慶喜が二条城で在京の諸藩重臣を集めて大会議を開いた時、薩摩藩の代表として出席した小松帯刀は真っ先に賛同の意を表明したのでした。 この大政奉還のことは江戸城大奥の天璋院にも伝わり、幕府が朝廷に政(まつりごと)の権を返上したことを知ります。天璋院は、大政奉還によって幕府が今後どうなるのか非常な不安を感じ、またその大政奉還の必要を強く主張し慶喜を説得したのが小松帯刀と知って大いに当惑します。しかし、後で勝海舟((北大路欣也)と会見したとき、小松帯刀が坂本龍馬という人物と一緒に大政奉還の策の実現のために尽力したことと、それは流血の惨事を避けるためであることを知って納得します。そして彼女自らも、大奥を命を賭けて守っていく決意を固め、大奥のメンバーみんなにその思いを伝えます。この天璋院の決意に和宮(堀北真希)や本寿院(高畑淳子)も大いに共鳴し、彼女たちも天璋院と一緒に大奥を守る決意を固めるのでした。 ところで、岩倉具視が小松、西郷、大久保に「勅命を我々で作って幕府を朝敵にすればよろしい」と言い、また慶喜が大政奉還を受け入れたと知ったとき、「この勅諚もいらなくなった」と投げ捨てたものがありましたが、これは「討幕の密勅」のことだと思われます。 なお「討幕の密勅」は、鹿児島市の黎明館で開催されました天璋院篤姫展で展示されており、同展示会で販売されていました同展図録の解説によると「島津久光・茂久(忠義)に宛てた討幕の密勅。大久保一蔵(利通)、広沢兵助(真臣)らと計画した岩倉具視が天皇の外祖父中山忠能に依頼し、正式な手続きを経ずに作成された。これにより藩内の討幕反対派は沈黙し、薩摩藩は武力討伐に踏み込むことになった」とのことです。同史料は同展図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」にも活字化されて載っていましたので、下に紹介しておきたいと思います。 討幕の密勅 左近衛権中将凍久光 左近衛権少将瀬筏久 詔 源慶喜、籍累世之威、恃闔族常務之強、妄 賊害忠良、数棄絶 王命、遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不 顧、罪悪所室、 神州将傾覆焉、朕今為民之父母、是賊 而不討、何以上謝 先帝之霊、下報万民之深讐哉、此 朕之 憂憤所在、諒闇而不顧者、万不可已也、 汝宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速 奏回天之偉勲、而措生霊于山嶽之安、此 朕之 願、無敢惑懈。 奉 慶応三年十月十三日 正二位藤原忠能 正二位藤原実愛 権中納言藤原経之 これを読み下し文にすると、「詔す。源慶喜(徳川慶喜)は累世の威を藉り、闔族(こうぞく;一族)の強を恃(たの)んで妄(みだ)りに忠良を賊害し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく;溝や谷)に擠(おと)して顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。朕今民の父母たり、是の賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしゅう)に報ぜんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇(りょうあん;孝明天皇の喪に服する時期)にして顧みざるは、万巳むべからざるなり。汝宜(よろ)しく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以て速かに回天の偉勲を奏して、生霊を山岳の安きに措(お)け、此れ朕の願、敢て惑懈(わくげ;迷いおこたる)すること無かれ」となるでしょう。
2008年11月02日
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今夜(10月26日)放映のNHK大河ドラマ「篤姫」第43回目のテーマは「嫁の決心」でした。 天璋院(宮崎あおい)たちは大坂城で家茂(松田翔太)が他界したことを知って悲しみに沈んでいましたが、老中の松平周防守から幕閣たちが一橋慶喜(平岳大)を次期将軍と決めたことを知らされます。家茂の遺志では将軍継嗣は田安亀之助ということでしたが、老中たちの評定では、長州との戦いにも負けている厳しい情況の中で、まだ幼い亀之助がいま将軍職を継ぐのは無理と判断したとのことです。こう言われて、篤姫としては、慶喜の亡き後を亀之助が継ぐことを老中たちに約束させるだけで精一杯でした。なお、滝山(稲森いずみ)の話によると、慶喜は将軍となっても江戸城ではなく京の二条城で政(まつりごと)を行うとのことで、慶喜の正室も大奥に入らないとのことでした。 家茂の遺体が江戸城に届いたのは慶応2年9月6日(1866年10月14日)でしたが、そのとき家茂が生前に和宮のために京で買い求めた西陣織の反物も届き、それを見て和宮は泣き崩れます。しかし、その後も和宮(堀北真希)は落飾することもなく、天璋院は和宮が京へ帰るつもりでいるとの話を耳にします。それで天璋院は和宮に真意を問いただしますと、幕府も徳川家も大奥も、自分にとってはもうどうでもよいのだと和宮は自分の心の思いを吐露します。そんな和宮を本寿院(高畑淳子)が「なんの未練もなく江戸を去られるとは、いやいや江戸へ嫁いで来たからであろう」責めたとき、天璋院は和宮を擁護し、彼女は家茂を心から思っていたと反論します。 しかし、和宮は落飾の儀式を行った後、「もう心残りもない」と言って京への帰り支度を始めます。そんな時に、孝明天皇(東儀秀樹)の崩御の知らせがに大奥に届きます。夫を亡くしたばかりでなく、和宮はさらに兄の死によっても心を打ちのめされるのでした。 そんな和宮は天璋院に会いに来て、初めて天璋院に「母上様」と呼びかけ、「母上様のように自分も強く生きたい」と言い、京に帰らず徳川の人間となって生きる決心を伝えるのでした。 今回の篤姫ドラマのこのように和宮が天璋院に「母上様」と呼び掛け、徳川の人間として生きる決心を語る場面はなかなか見応えがあったのですが、列侯会議(諸侯会議)については、慶喜がまんまと兵庫開港の勅許を得ることになっただけとナレーションで解説するだけで終わらせており、幕末の重要事件については相変わらずの簡略化路線ですね。これでは、史料では確かめられない篤姫(天璋院)と肝付尚五郎(小松帯刀)の関係を作り上げた意味があまりないのではないかと思ってしまいます。お近さんとお琴さんのことで頭を悩ます気弱な小松帯刀を描いているようでは、史実無視の大フィクションを大いに作り上げ、天璋院が幕末の歴史舞台で活躍した男たちを使って歴史を変えようと懸命に画策する波乱万丈のドラマなど期待できそうもありません。このままでは大奥内ホームドラマ路線で小さく纏められて竜頭蛇尾に終わってしまいそうですね。
2008年10月26日
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上の写真は、友人の結婚式に参加するために鹿児島に帰って来た私の長男が撮影したもので、帰りのJR八代駅で撮影してメールで送ってくれたリレーつばめ車体の「篤姫」の写真です。 さて、今夜(10月19日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第42回目のタイトルは「息子の死」でした。長州攻めの総大将として大坂城に赴いていた家茂(松田翔太)でしたが、天璋院(宮崎あおい)や和宮(堀北真希)の祈りも空しく慶応2年7月20日(1866年8月29日)に息を引き取ります。数え年で21歳という若さでの他界でした。 その他、今回のドラマでは、寺田屋で傷を負った龍馬(玉木宏)とその妻・お龍(市川実日子)を小松帯刀(瑛太)が薩摩に連れ帰り、そのときに妻のお近(ともさかりえ)に京の自分の屋敷でお琴(原田夏希)と一緒に暮らしていることを告白し、そのために険悪な関係になるのですが、お龍から「惚れた相手が生きてさえいてくれれば」と諭されてお近が帯刀を許す話なども描かれていました。 しかし、この篤姫ドラマ、相変わらず時代背景としての幕末の歴史的動向については、見事に簡略化しており、天璋院が勝海舟(北大路欣也)に「なぜ薩摩は長州に味方し、幕府に従がおうとしないのじゃ」と当然の質問をぶつけたときも、勝海舟が「やはり時代が変わりつつあるとしか申せませぬ。家康公が徳川家の力で泰平を保とうと幕府を開かれた当時はそれでよかったのですが、異国と向き合うようになり、このままでは日本国はよくならない、強くもなれないとみなが気づき始めたのでございましょう。江戸幕府開闢から二百六十年近い歳月がたちました。もはや世の流れには逆らえぬかと」と回答しており、確かに間違ってはいませんが極めて曖昧な言葉で誤魔化しており、視聴者としても天璋院同様にただ首を傾げるしかないのではないでしょうか。 それで、天璋院の「なぜ薩摩は長州に味方し、幕府に従がおうとしないのじゃ」との疑問に私なりの回答を考えてみたいと思います。 これまでの薩摩藩は、公武合体路線のレールの上を走りながら幕政改革を目指してきました。しかし、文久政変(1863年9月30日)後に一橋慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信、伊達宗城、島津久光による参与会議が開かれますが(1864年1月~2月)、横浜鎖港問題と長州藩処分問で意見の対立が生じ、参与会議は解体してしまいます。なお、元治1年2月(1864年3月)には、一橋慶喜が朝彦親王邸で島津久光、松平春嶽、伊達宗城に対し「尹宮(朝彦親王)之大壅蔽(だいようへい)、三奸(久光、春嶽、宗城)之大狡計」との「酔余の暴言」を吐いています。「朝彦親王が孝明天皇の考えを塞ぎ覆い、久光たちと結託して奸計をめぐらせている」と酔いに任せて久光たちをあからさまに批判したのです。それ以降、薩摩藩は手詰まりとなった公武合体路線の変更を模索し始めます。 その頃、これまで攘夷を唱えていた長州藩が元治元年8月(1864年9月)に英、仏 蘭、米の四国連合艦隊から馬関(現の下関市)と彦島の砲台を徹底的に砲撃され、四国陸戦隊によって占拠・破壊されるという屈辱的な体験を経て、藩の政策を攘夷から開国路線に切り換えるようになっていました。このことは元から隠れ開国路線の島津久光が実権を握っている薩摩藩との明確な対立点を消滅させることになりました。 さらに薩摩藩の西郷隆盛が勝海舟と元治元年9月10日(1864年10月10日)に会見したとき、幕府の力を過大評価してる西郷隆盛に対し、勝海舟は「徳川の幕吏たちが自己保身に汲々としており、事なかれ主義に堕して誰も責任を取ろうとはせず、どうしょうもない状態にある」とその内情を打ち明け、さらに諸外国からも軽侮されているような情況においては、「明賢諸侯四・五人も御会盟に相成り」、武力を備えて諸外国と談判し条約を結ぶべきであると説いたそうです。なお、このことは拙ホームページ「江戸城無血開城と勝海舟」中の「西郷隆盛に幕府を見限らせた勝海舟」 という文章に書いておきました。 これ以降、西郷のみならず薩摩藩全体の幕府離れ、長州への接近が始まり、ついに前回のブログで紹介したように坂本龍馬の斡旋による「薩長同盟」が実現されることになります。
2008年10月19日
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今夜(10月12日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第41回のタイトルは「薩長同盟」でした。なお今回のドラマでは、将軍・家茂(松田翔太)が天璋院(宮崎あおい)に次期将軍として田安家の亀之助を推す話や、天璋院、和宮(堀北真希)に別れを告げて第二次征長のために出陣する話、観行院(若村麻由美)が病に倒れて死去する話なども描かれていましたが、拙ブログでは薩長同盟成立過程に絞ってドラマと史実について紹介したいと思います。 薩摩の家老・小松帯刀(瑛太)は、勝海舟(北大路欣也)から閉鎖された神戸海軍操練所の塾頭だった坂本龍馬(玉木宏)を預かります。小松帯刀は、京から薩摩に帰ったとき、島津久光(山口祐一郎)が幕府による長州攻めに大いに不満を抱いていることを知ります。それで、薩摩藩が長州藩と手を組むことを考えた小松帯刀は、坂本龍馬や西郷隆盛(小澤征悦)にそのことを相談して賛同を得ます。小松帯刀は、「雄藩連合による新たな政(まつりごと)」を構想し、坂本龍馬は敵対している薩長が和解するためには「まず長州藩に鉄砲や火薬を売って恩を売ったらいい」と提案します。その提案を良案と受け止めた小松帯刀たちは、その代わりに薩摩藩側は長州藩から米を購入することにします。小松帯刀はさらに長崎に赴き、貿易商人のグラバー(ジョッシュ・ケラー)から長州藩士(伊藤俊輔と井上聞多)の眼の前で長州藩のために武器を購入する取り引きを行います。こうして薩長の和解が急速に進み、慶応2年1月21日(1866年3月7日)には、京の小松帯刀邸で長州の木戸孝允(スズキジュンペイ)との間に、薩摩が朝敵とされた長州の汚名を晴らすことや両藩が誠意を尽くして協力すること等を約した薩長同盟が結ばれることになります。 では、史実としての「薩長同盟」とはどのような内容のものだったのでしょうか。通説通り薩長による武力倒幕を目指した同盟が結ばれたのでしょうか。この「薩長同盟」の具体的内容を知るために、まず桂小五郎が坂本龍馬宛てに慶応2年1月23日(1866年3月9日)出した書簡のなかに確認のために記されたその内容を見てみたいと思います。幸い、『木戸孝允文書』第2巻(木戸公傳記編纂所蔵版、1930年2月)の136頁~142頁に掲載されている「坂本龍馬宛書簡 慶応二年正月二十三日」中に所謂「薩長同盟」の6カ条が列挙されていますので、それを下に転載したいと思います。一 戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し只今在京之兵と合し浪華へも千程は差置京坂両處を相固め候事一 戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき其節朝廷へ申上屹度盡力之次第有之候との事一 萬一戦負色に有之候とも一年や半年に決而潰滅致し候と申事は無之事に付其間には必盡力之次第屹度有之候との事一 是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上直様冤罪は従朝廷御免に相成候都合に屹度盡力との事一 兵士をも上国之上橋会桑等も如只今次第に而勿体なくも朝廷を擁し奉り正義を抗み、周旋盡力之道を相遮り候ときは終に及決戦候外無之との事一 冤罪も御免之上は双方誠心を以相合し皇国之御爲に砕身尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても今日より双方皇国之御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度盡力可仕との事 この「薩長同盟」6カ条について、家近良樹『孝明天皇と『一会桑』 幕末・維新の新視点』(文春新書、2002年1月)はつぎのような簡単な説明を加えています。 第1条は「薩摩側から桂に対して、第二次長州戦争が始まったら、薩摩藩が二千名ほどの兵士を国元から上洛させ、京都にいる兵と合体させ、さらに大阪にも千名ほどを割き置いて、幕府側に圧力をかけると言ったというもの」である。 第2条は「戦争が起こって、長州側が勝利を収めそうな勢いになった時は、長州藩の政治的復権を朝廷側に働きかけてあげますよ、ということを薩摩側が一方的に言ったというもの」である。 第3条は「万が一、長州藩の旗色が悪い場合でも、一年や半年くらいの問に長州藩が潰れたりはしない。だから、その間に、薩摩側は長州藩のために何等かの手立てをきっと講じると言ったというもの」である。 第4条は「幕府側の将兵が、征長戦を行わないで江戸に帰ったら、必ず薩摩藩が朝廷に申し上げて、すぐさま長州藩の冤罪を朝廷に認めてもらえるように尺力すると言ったというもの」である。 第5条は「在京薩藩指導者が兵隊を鹿児島から関西に連れてきたうえで、橋会桑(一会桑)の三者らが、いまのように朝廷を抱えこんで、薩摩藩が長州藩を許してやってほしいという働きかけを朝廷にするのを遮る時は戦う、決戦の外ないんだ、とこう桂に宣言したということ」である。 第6条 に関しては、家近良樹『孝明天皇と『一会桑』 幕末・維新の新視点』では要約が省かれていますので、代りに佐々木克『幕末政事と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年10月)掲載の要約を紹介しますとつぎのような内容とのことです。「冤罪が免罪となった場合、薩長両藩が誠心をもって協力しあい、皇国のために砕身尽力することは当警あるが、今日からでも、薩摩藩と長州藩は皇国のため皇威が輝いて回復にいたらしむることを目標に、誠心を尽くして尽力する」としています。 家近良樹『孝明天皇と『一会桑』 幕末・維新の新視点』は「薩長同盟」6カ条の内容を以上のように解釈し、従来の「薩長同盟」に関する研究とは異なる見解を提示しています。すなわち、従来は「薩長両藩は、戦う相手を幕府と想定した、つまり武力倒幕を確認しあったと読み解いてきたのである」が、改めて第5条の部分などを特に読み直すと、「戦う相手に想定されているのは一会桑の三者らであって幕府本体ではない。一会桑らが、薩摩藩の周旋をさえぎる時は戦うとある。これは武力倒幕を目指す攻守同盟でも何でもない。長州藩の復権を薩摩側が手伝うということを言った。同時に、場合によっては、一会桑三者らと決戦となる覚悟を薩摩側が桂に伝えたものである」との新解釈を示しています。 すなわち、一会桑三者の打倒なら、「一橋家生え抜きの家臣などは微々たるもの」であり、「「事実上、戦う相手は会津と桑名両藩に限定される」し、一会桑なかでも会津藩に対する反発が強いなかで、「打倒会津藩を掲げれば勝利する可能性は十分にあったと思われる」としています。しかし、「幕府本体に対する戦いは、ものすごく危険であった。幕府が、ことの外、弱かったというのは、むろん倒れてからの話で、幕府は内臓疾患で重症ではあっても、外見は何しろ巨象だから、幕府本体に戦いを挑むことはまず考えられない。幕府の有する広大な所領と多くの直臣 (旗本・御家人)、それに徳川家と強く結びついていた譜代大名の集団、これらの存在を思い浮かべれば、このことはすぐにわかることである。/薩摩藩にしても長州藩にしても、藩の総意として、幕府に対して公然と戦いを挑むことを決定したことは一度もない。そんなことはありえない。なぜか。そんなことを決定すれば、藩内にものすごい反対運動が起こり、下手をすれば藩そのものが解体しかねないからである。/薩摩藩にしても長州藩にしても、藩内に強硬路線に対する反対はいっぱいあった。そうしたなかで、武力倒幕路線を藩の方針として掲げることはできない。もちろん、対幕府強硬路線まではなんとか打ち出せる。しかし、藩の軍事力をあげて、幕府本体の打倒に向けて立ちあがることは絶対出来なかった」と指摘しているのです。
2008年10月12日
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今夜のNHK大河ドラマ「篤姫」第40回目のタイトルは「息子の出陣」で、元治元年7月18日(1864年8月19日)に起った蛤御門の戦い(禁門の変)において、一橋慶喜(平岳大)や薩摩の小松帯刀(瑛太)、西郷隆盛(小澤征悦)たちの活躍で京の御所の蛤御門に突撃した長州藩の軍勢を打ち破りますが(蛤御門の戦い)、翌年の慶応元年には幕府が家茂(松田翔太)を総大将として長州征伐を行うことになり、天璋院(宮崎あおい)が義理の息子の家茂の出陣を見送ることになります。 今回のドラマでは、薩摩軍が蛤御門の戦いで長州を打ち破って御所を守ったことを感謝して、観行院(若村麻由美)が天璋院の部屋までわざわざ足を運んでお礼を言うなど、大奥での御所方の薩摩出身の天璋院に対する態度も大きく変わります。さらに滝山(稲森いずみ)が家茂に側室を持たせることを天璋院に進言したとき、「それはならぬ」ときっぱりと拒否したことから、御所方の天璋院その人を見直すようになります。そんなとき、和宮(堀北真希)の懐妊騒動が起りますが、心からそのことを喜びまた悲しむ天璋院の姿を見て、和宮も彼女に心を許すようになります。 このように天璋院と和宮や御所方の人々との和解の過程が今回のドラマではそれなりに説得的に描かれていましたが、大奥の外で繰り広げられている長州藩と幕府、薩摩等との対立・抗争は、文久政変から蛤御門の戦い、そして長州征伐軍の出陣まで、まるで新幹線並みのスピードで描かれていましたね。 それで、今回の拙ブログでは、家近良樹『孝明天皇と『一会桑』 幕末・維新の新視点』(文春新書、2002年1月)に基づきまして、文久3年3月から6月(1863年4月18日~1863年7月)の将軍・家茂の上洛以降に生じたつぎのような「注目すべき事態」についてまず紹介したいと思います。「幕府が二極化、つまり『京都の幕閣』と『江戸の幕閣』に分裂するのである。京都では、将軍以下諸役人が、いや応なしに孝明夫皇の擾夷意思を尊重することになった。すくなくとも、そのような姿勢をとらざるをえなくなった。ところが、江戸の老中や諸役人は、京都と遠く離れて直接的なプレッシャーを受けないうえに、日常的に欧米人と接触して、その文明の力量を熟知しているから、とうてい通商条約の破棄などできないと考えていた。」 では、京で「いや応なしに孝明夫皇の擾夷意思を尊重する」姿勢をとらざるを得なかった「京都の幕閣」とは具体的にはどのような政治勢力だったのでしょうか。上記の家近良樹『孝明天皇と『一会桑』」はその政治勢力を「一会桑」とネーミングしています。そして、本来は幕府の利害の代弁者である「一会桑」(禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都守護職の会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬)が、遠く離れた京で活動するうちに江戸の幕閣に対して独自性をもって動くようになり、「孝明天皇の撰夷意思を尊重し、他方天皇の方は、一会桑の三者に自己の代弁者としての役割を積極的に見いだしていく」としています。 家近良樹の同書は、その結果として、一会桑は、江戸の幕閣の意思疎通を欠いて疎遠になるのみならず、「鎖国体制の打破を決意した越前藩や薩摩藩などの雄藩との衝突も、深刻なものとする。そして、公然と擾夷主義を掲げて中央政界に乗りだしてきた長州藩とはライバル的な関係となる」と指摘しています。 さらに家近良樹の同上書は、全国的には擾夷の実行を求める嵐が吹きまくり暴走化するなかで、文久政変(文久三年八月十八日のクーデタ)が起こったとし、この文久政変についてつぎのように解説しています。「日本から外国人を追い払えという尊王壊夷運動は、朝権の伸張と幕権の衰退を背景に、この年最高潮に達する。先頭に立ったのは長州藩であった。同藩は、文久三年五月十日、すなわち擾夷の決行日とされた日に、下関海峡を通航中の外国船に対して砲撃を加え、攘夷を実際におこなってみせた。/そのため、京都(朝廷) における同藩の評価が一段と上昇し、長州藩主に征夷大将軍を命じる朝命がくだるとの噂すら流されるに至る。そして、この後、勢いをえた尊攘派による、天皇を大和(現・奈良県) に担ぎ出して、そこで諸大名にじかに勅諭を発し、攘夷を実行しようという親征計画が立案され、まさに実施に移されんとする。そこで、たまりかねた公武合体派(朝廷と幕府の協力体制の維持をあくまで優先しようとの考えにたつ)が、同年の八月十八日に、尊攘派を京都から追放するためクーデタをおこなった。/ところで、この文久政変は、長州藩を筆頭とする尊攘派の京都追放が、幕府自身の手ではなく、薩摩・会津両藩、および孝明天皇とその信任の厚い中川宮のイニシアチブによってなされた点に特色があった。すなわち、幕府自身がもはや問題を自力では解決しえなくなっていた(言い換えれば、政権担当者としての機能をはたせなくなっていた)ことを、白日のもとに、さらけ出すことになったのである。」 ところが、「クーデタによる急進尊攘派の京都からの追放は、攘夷意思を捨て去ったと思われることをなによりも恐れた孝明天皇に、かえって攘夷の実現を急がせることになった」そうで、天皇は8月19日と25日に幕府と諸藩に攘夷の決行をさらに督促したのでした。しかし、家近良樹の同上書によると、文久3年のこの段階において、君臣が一致して壊夷論に固執している藩は少数であり、「島津久光などは、天皇へ壌夷が不可能なことを言上し、説得することに意欲をみせていた」そうです。ですから、将軍が再度上洛し、有力諸侯と一致して天皇の説得に当たったら、国是を攘夷から開国に転換することも可能だったかもしれないとしています。ところが、江戸の老中・諸役人が将軍の再度の上洛に反対する意見があったために将軍の上洛が遅れ、また文久政変後に参与に任命されていた一橋慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信、伊達宗城、島津久光による参与会議で横浜鎖港の是非と長州藩の処分をめぐって意見の対立が生じ、解体してしまい、国是の攘夷から開国への転換は「未発の可能性に終わった」とのことです。 こんな情況の中、京都守護職の会津藩主の松平容保が、同藩配下の新撰組を使って京の尊攘派志士狩りを行い、元治元6月5日(1864年7月8日)には池田屋を襲って長州藩士多数を殺傷したことから、このことに怒った長州藩が多数の藩兵を元治元年6月24日(1864年7月27日)に上洛させ、朝廷に会津藩と戦うことを求めます。しかし、孝明天皇はこのとき明確な態度を示し、会津藩を擁護して長州藩を批判します。すなわち、入洛を禁じていた長州藩が武器を携えて入洛し、不穏な「所業」をおこなっているとし、禁裏御守衛総督の一橋慶喜に論旨を出して、長州藩士が京都から退去しない場合、ただちに追討せよと命じます。そして、同年7月3日(1864年8月4日)夜には、長州征討を命じる朝命を下します。 薩摩藩は、初め長州藩と会津藩の対立を「私的な戦い」と見なして幕府からの出兵命令を断っていましたが、朝廷から長州追討令が下ると会津に加勢して兵を出して「禁門の変」で長州と戦い、長州兵を京都から追い出してしまいます。そしてその後、幕府はさらに諸藩に命じて第一次の長州征伐軍を組織します。しかし、長州側が降伏条件の受け入れを承認したため、この第一次長州征伐は回避されますが、長州が降伏条件を履行しないことから、さらに家茂を総大将とする第二次征長軍が組織されることになるのです。
2008年10月05日
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今夜(9月28日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第39回目のタイトルは「薩摩燃ゆ」で、今回のドラマの後半に薩英戦争の激しい交戦の様子がかなりリアルに描かれています。 大奥に将軍家茂(松田翔太)が無事に上洛したという知らせが届いたとき、本寿院(高畑淳子)は「公方様がたかだか3千の兵を率いて上洛した」ということに不満を漏らし、和宮(堀北真希)は夫の家茂の身を心配して不安を募らせますが、家茂に上洛を勧めた天璋院(宮崎あおい)は、将軍の上洛は下々にその威光を示すいい機会だとしてすっかり安心している様子でした。しかしその頃、京では長州藩などの過激な攘夷派のテロが吹き荒れていました。家茂は、孝明天皇(東儀秀樹)に直接会って攘夷の無理なことを伝えようと考えていましたが、京で家茂を迎えた将軍後見職の慶喜(平岳大)は、幕府がすでに朝廷に対して攘夷を行う約束を交わしたということを伝えます。そのために、家茂は天皇に拝謁しても自分の思いを言い出せず、それどころか攘夷決行を約束させられてしまいます。 このような当時の情況について、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)はつきのように解説しています。「どこの国でもみられることだが、ある時期に熱狂や情念が異常な力を発揮して、理性を圧倒してしまうことがある。このころの京都の政局がまさにそれであった。攘夷という熱気が、狂気の季節を生み出していたのであった。 諸国から尊攘派の志士たちが、京都に集まってきた。尊攘激派のテロはますます過激になり、文久三年(一八六三)一月二十二日には、かつて朝廷内に力をもった儒者の池内大学を殺して、首をさらした。そこには姦吏に通じた裏切り者の国賊であるとはり紙がなされ、さらに耳が切り取られて、公武合体派とみられていた中山忠能と正親町三条実愛の邸に投げ込まれた。関白の近衛忠照は、ふるえあがって辞表を出すしまつであった。 一月五日に将軍後見職一橋慶喜が、二十五日に前土佐藩主山内容堂、そして二月四日に政事総裁職松平慶永が上京したが、なすすべがなかった。そうしたなかの三月四日、家光いらい二二八年ぶりに将軍が上洛し、七日にその家茂が参内、天皇の引見がなされた。 その際における家茂の宮中席次であるが、最上位が関白鷹司輔照、以下左大臣一条忠香右大臣二条斉敬↓内大臣久我建通とつづき、次が家茂であった。三代将軍家光の参内のときの席次が、関白より上の最上位であったことをふりかえると、今次の参内は将軍、幕府にとっては屈辱的ともいえるあつかいであった。」 そして文久3年3月11日(1863年4月28日)には、孝明天皇による攘夷祈願のための賀茂神社への行幸が行なわれ、関白以下10数人の公家に家茂以下、毛利定広(長州)、池田慶徳(鳥取)、佐竹義尭(秋田)、上杉斉憲(米沢)、徳川慶篤(水戸)、池田茂政(岡山)、伊達宗城(宇和島)、細川慶順(熊本)ら12人の大名が付き従いました。このような孝明天皇による賀茂神社行幸の歴史的意味について、佐々木克の同上書はつぎのように書いています。「幕府権力にとりこまれて、行幸さえ自由にならなかった天皇が、将軍以下、多数の武家を従えて、その力を誇示するかのように、御所の外に出現したのである。いまや天皇と将軍、朝廷と幕府との位置関係が逆転したことが、誰の目にもあきらかとなった。 この行幸は、長州藩の献策を朝廷が受け入れてなされたもので、長州藩そして急進的尊攘派の勢いはますます増大した。こうした状況下の京都に、慶永や容堂との約束から、久光が三月十四日に着京したが、もとより何もできず、滞京三日にして帰国の途につき、慶永も二十一日、また容堂も二十六日に帰国していった。こうして京都は、長州藩と急進的尊攘派志士・公家の天下となったのである。 そして将軍家茂は、四月二十日ついに、強硬な急進的尊攘派の圧力に屈して、攘夷実行の期日を、きたる五月十日とすると答えた。五月十日、長州藩が下関でアメリカ商船を砲撃したのは、この決定にもとづいた攘夷の決行であった。」 さて篤姫ドラマでは、家茂の身を案じていた天璋院が、京に攘夷決行のための人質同然となって留め置かれていた家茂がさらに身体も壊したことを知り、和宮に会って彼女から天皇に将軍を江戸に帰すよう伝えてもらいたいと頼みます。しかし、和宮も夫の家茂の身を心配しながらも、攘夷実行を望む大奥の御所方の意向に配慮して天璋院の頼みを断り、「公方さんを江戸に押し出されたのは大御台さんではあらしゃいませんか」と冷たく言い放つのでした。しかし苦悩する和宮の様子を見た母親の観行院(若村麻由美)は、自分の思いに背いてはなりませんと彼女に優しく諭します。そのため、和宮は兄の孝明天皇に家茂の江戸帰還を頼み、やっと家茂は江戸城に戻ることが出来ます。 ところで、天璋院は和宮から京の天皇への頼みを断られたとき、病に伏している家茂のもとに彼の相談相手として勝海舟(北大路欣也)を派遣しています。大坂城で家茂に面会した勝海舟は、いまは攘夷など実行しても「ころりと負けます」と明言するとともに、まずは攘夷を唱えるものにそれをやらせ、「日本国全体が攘夷なとできぬことを理解させるのです」と言うのでしたた。このような攘夷決行の見通しを勝海舟から聞いて、攘夷決行のことで苦悩していた家茂は精神的にいささか開放された様でした。 さて、攘夷決行の日は文久3年5月10日(1862年6月7日)とされ、長州藩が下関で航行中のアメリカ商船に対して砲撃を加えます。しかしそれに対し、すぐにアメリカにフランスが加わっての反撃がなされ、長州は屈辱的大敗を喫します。薩摩の島津久光(山口祐一郎)は、この長州の米仏軍艦による敗北の知らせを聞きますが、英国艦隊が薩摩に襲来し、生麦事件の賠償金支払いと英国人殺傷の下手人を差し出せとの要求に対し、「降りかかる火の粉は振り払わねばならぬ」と言って小松帯刀(瑛太)に英国との戦いは避けられないことを告げ、帯刀にこの戦で指揮を執るように命じます。 6月27日に英国艦船は鹿児島の錦江湾に侵入し、3日間の交渉の後、7月2日に英国艦船が薩摩藩の汽船3隻を拿捕したことから、薩摩藩側で英国艦船に砲撃を開始し、こうして3日間に渡る交戦が行われました。しかし7月4日になって、英国艦船は薩摩から立ち去りました。 ところで、この薩英戦争時の薩摩側の本陣跡が常盤町1018(西田小学校裏の田の神のすぐ近く)にあります。私がこの本陣跡の存在を知ったのは、クマタツさんが運営しておられるブログの「常盤散歩」にその貴重な史跡の記事と写真が載ったことからでした。それでクマタツさんにお願いして薩英戦争本陣跡の記事と写真を拙ブログに転載させてもらえないかとお願いしましたところ、快諾して下さり、個人のお宅の外側に残された「薩英戦争本陣跡の石碑と表示板」の写真をあらためてアップしてくださいましたので、上に紹介させてもらいます。 千眼寺跡(薩英戦争本陣跡)の写真は本当に貴重なものですね。実は、薩摩藩の藩主の島津茂久(後に忠義と改名)と国父の島津久光が現在の常盤の千眼寺跡に本営を移していたことを私はクマタツさんのブログ記事で初めて知りました。それで西山正徳著『薩英戦争』(高城書房、1999年1月) であらためて読み直してみましたら、確かにそのことがつぎのように書かれていました。「(七月一日)午後四時頃、本営は西田千眼寺(西田小学校西側)に移され、諸役も下町下会所から移動、軍役方は柿本寺に転営した。 千眼寺は、藩主島津重豪の時代に創建された禅寺で、前々代藩主斉興の天保年間中頃に堂宇を大きくして御座所を設け、数百人の兵も収容できるようにしてあった。 後方の常盤山の中腹には遠望台があり、眼下に鹿児島湾を一望に見渡せた。」 本営を西田千眼寺にしたのは、英国戦艦が搭載しているアームストロング砲(当時最新最強の大砲といわれ、射程距離が4Km近くもありました)の情報が入っており、実力の程はまだ把握していませんでしたが(芳即正『島津久光と明治維新』、新人物往来社、2002年12月)、大事を取って錦江湾沖から遠く離れた内陸部のこの地なら大丈夫と判断したからなのでしょうね。 クマタツさんからいただいた薩英戦争本陣跡の案内板にも、千眼寺に本陣を置いた理由として「鶴丸城が海岸に近く敵弾が飛来するおそれがあったので、久光、忠義(第29代藩主)父子はこの寺に本陣を置いて総指揮をとった」」との解説が書かれてありました。 さて、今回のドラマのナレーションでは、鹿児島の城下はこの戦争で「焦土と化した」と言っていますが、実際にはどうだったのでしょうか。平凡社の『世界大百科事典』によると、この3日間に渡って戦われた薩英戦争の結果、イギリス側では「旗艦ユーリアラス号艦長ジョスリング大佐、副長ウィルモット中佐をはじめ戦死13名、負傷者50名の損害」を出したのに対し、「薩摩藩側は戦死5名,負傷者十数名にすぎなかった」そうです。しかし、「イギリス艦の用いたアームストロング砲の射程は薩摩藩砲台の4倍の火力」があり、薩摩藩側が錦江港に築いた砲台の大半が破壊されただけでなく、先代の薩摩藩主・島津斉彬が莫大な資金と労力を投入して吉野の磯という場所に作った日本最初の洋式産業群も徹底的に破壊され、鹿児島の城下町もその1割を焼失してしまいました。その他、薩摩藩が購入していた汽船3隻,琉球船2隻なども焼亡するなど物的損害は大きかったそうです。この薩英戦争の歴史的意義について、同上書はつぎのように解説しています。「薩摩藩人に無謀の攘夷の非を手痛く反省させた。そこで大久保利通らを遣わしてイギリスと和を結んだが、この戦いによりイギリスは薩摩藩の実力を評価し、薩摩藩は西洋文明の優秀さを深く悟り、これに学ばんとして以後急速に薩英の連携が成り立った。65年(慶応1)3月には渡英留学生19人の派遣を実施し,またイギリス商人グラバーの艦船・兵器斡旋等,幕末の政局に大きな影響をもつに至った。」
2008年09月28日
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今夜(9月21日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第38回目のタイトルは「嫁の心 姑の心」でした。帝(みかど)から幕府に勅使が派遣されたことを知った家茂(松田翔太)が、勅使が将軍の彼に求めることは上洛と攘夷であろう察知し、そのことを天璋院(宮崎あおい)に相談した上で、上洛して攘夷の困難さを帝に直接伝えようと決心します。しかし、家茂が上洛することを知った和宮(堀北真希)は京での彼の身を案じます。そして家茂が天璋院の後押しを受けて上洛を決意したと聞き、直接天璋院の部屋に行って、「私はあの方の妻です。母とは違うのです。都で何かがあったら……。私は大御台さんをお恨みもうしあげます」となじるのでした。 さて、今夜のドラマにおいて、大奥で起った細かい出来事は省かせてもらい、いよいよ長州藩の動きもこのドラマのなかに描かれるようになりましたので、当時の主要な攘夷論を紹介したいと思います。 なお、薩摩藩の島津久光(山口祐一郎)は、初めての上洛後に江戸に赴いて一橋慶喜(平岳大)の後見職、松平慶永(矢島健一)の政事職を実現させますが、その後さらに京都に向かう途中の生麦村で、久光の行列を乱した英国人を薩摩藩士が殺傷するという事件が起こってしまいます。この事件を当時の人々は薩摩藩が攘夷を実行した行為と勝手に解釈したようです。しかし、この生麦事件は全くの偶発的事件であり、当時の島津久光は無謀な攘夷など全く考えておらず、それどころか開国やむなしとさえ考えていました。 そんな久光が江戸から京都に到着したとき、京の町は過激な攘夷テロが横行しており、攘夷を唱える長州藩が朝廷内にも影響力を拡大し、そのため朝廷は攘夷一色となっていました。そのような状況の中、久光は歯軋りしながら「長州め、このままではすまさぬぞ」と言いながらも薩摩に帰らざるを得ませんでした。 ところで、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)によりますと、その頃、攘夷を巡ってつぎの3つの立場が存在していたそうです。(1)長州藩や久坂玄瑞、真木和泉に代表される尊撰急進派で、「武力の行使を覚悟のうえで、勅許の得ていない条約を破棄すべきである」と主張しています。なお、長州は尊皇攘夷運動(条約破棄、決戦の覚悟)を文久2年7月6日(1862年8月1日)に藩論として決定しています。(2)政事総裁職となった松平慶永などは「日米修好通商条約などは、外国の圧力の下で調印された不平等条約であり、かつ勅許も得られないものであったから、列強と交渉して、一度条約の廃棄を実現する、そのうえで、挙国一致の体制でわが国より開国する」ことを主張しました。彼等は外国列強との正面からの武力対決は避けながら平和的交渉で条約を破棄したいと考えていたのですね。(3)薩摩藩の島津久光、大久保利通や将軍後見職となった一橋慶喜は「破約壊夷に正面切って反対を主張しないが、破約壊夷などほとんど可能性がない」と思っていたそうす。また「勝海舟のような積極的開国論者がいないわけではないが、天誅テロが危険でうっかりものをいえない、そういう時代状況なのである」とも書いています。 なお、佐々木克の同上書によりますと、松平慶永などの(2)の立場は、「破約擾夷は将来の目標の一つではあるが、当面するもっとも重要なことは、朝廷と幕府が協調し、さらに諸藩が力をあわせて挙国一致の体制を築く、すなわち『公武合体』の実現こそが、いまなすべきことであると主張する」としており、このいわゆる公武合体派に島津久光や一橋慶喜などの(3)の立場の者たちも協力したとしています。
2008年09月21日
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9月14日放映の篤姫ドラマのラストに文久2年8月21日(1862年9月14日)に薩摩藩士が起こした英国人殺害(生麦事件)のことが描かれていましたね。 この生麦事件とは、島津久光が江戸で幕政改革の三箇条の勅諚を基本的に達成したため、その後、大原勅使に先発して行列を仕立てて京都に向かう途中に起ったもので、神奈川の生麦で英国人のリチャードソンたち4人が乗馬したまま久光の行列を乱したことから、それを怒った薩摩藩士の奈良原喜左衛門がリチャードソンにまず切りかかり、逃げるところをさらに久木村治休が抜き打ちに斬って致命傷を与えた偶発的事件です。この事件が原因で、約1年後に薩英戦争が起っていますね。 ところで、9月14日の篤姫ドラマでは、生麦事件の騒ぎが起ったとき、島津久光は駕籠の中でうつらうつらしていた様に描かれていましたね。しかし、島津久光を「ひどい権力欲」の持ち主として描き、彼の上洛を「お山の大将になりたかっただけのことである」と切って捨てた司馬遼太郎の小説「きつね馬」では、生麦事件のときに久光が奈良原に「殺(や)れ」と命じたとしています。また同じ司馬遼太郎の代表作『龍馬はゆく』でも、「一説では、島津久光が、駕籠の引き戸をひらき、/『斬れ、斬れ』/といって顔をひっこめた、という」と書いています。ただし、「一説では」のその「一説」がどのような史料に書いてあるのかは、小説ですから司馬遼太郎は明らかにしていません。 しかし、島津久光自身はそのような説を否定しているようですよ。桃源選書に八木昇編『幕末動乱の記録 「史談会」速記録』(桃源社、1965年8月)という本があります。この本の編者によると、同書は「歴史的価値が極めて高い、『史談会速記録』四百有余冊より採り出した精華十二編」を収めたとのことです。その12編のなかに明治になって島津家の家記編纂掛をしていた市来四郎の「生麦英人殺害事件の実況」も載っており、市来四郎が久光から生麦事件当日のことを聞いた話が紹介されています。それによりますと、当時の久光は「無謀の捷夷はよろしくない、後々は兎角開港せねばならぬという腹」であったが、その頃の攘夷説流行には正面から抗することはできないでいたとのことで、久光のそんな心理を市来はまずつぎの様に述べています。「三ケ条の勅命も奉ぜらるることになって、首尾よく朝意の行われたと、ひと先ず安心して、八月二十一日高輪の藩邸を出発致しまして、帰京でなく久光のところは帰国というものでござりまして、直ぐに帰国するつもりで出立致しました。復命は大原卿の御責任でござりますから、久光は直ちに帰国のつもりでござりました。当時久光は種々な風説を受けて、全く覇権を握うとの策略から此に至ったと言い囃されましたのみならず、久光が初度上京致した建言に、無謀の攘夷はよろしくござりませぬという主義でござりました。けれども久光の心中というものは、故斉彬こは開港論者でござりますから、どこまでもその意を継紹致しまして、無謀の捷夷はよろしくない、後々は兎角開港せねばならぬという腹でござりましたけれども、時勢奈何せん攘夷説流行の時でござりますから、開港という説などいい出しては人心を殞(うしな)います。或は国中も捷夷家が沢山おりますから、かれこれその辺を斟酌致し、なかにも朝廷に建言致すに就ては、大勢奈何ともなしがたく、無謀撰夷は不可なりという文字を以て建言致したそうでござります。その含むところは到底開港論で時勢を俟(ま)って開港ということを申すつもりであったそうです。各藩共壊夷論の大勢であるから、捷夷不可なりとも言われぬ、言葉にも出されぬ程のことであったと申しました。この話が生麦の挙動、心ならぬことであったと申す序言でござります。」 さらに市来四郎は、生麦事件そのものについてはつぎのように語っています。「久光の話されますことに、高輪邸を出立致して、大原卿も同日にお立ちになりました。久光は生麦で昼休みを致すつもりでござりましたそうです。生麦の立場近く行列を立ててやって行くところに、供頭の奈良原喜左衛門という者が、駕籠側におりましたが、/『異人か』/というひと声掛けて先供の方に駈け出して行ったから、/定めて外国人がやって来るから行列をちぢめるかどうかであろう>と何心なく聞いていた。然るに程なく駕籠の行くを止めた。/<さては外国人が行列に踏込みて来たか>と思った。そうすると駕籠側供方の者が前後左右に集った様子で、/<如何さま失礼でも致したか>と考えて、左右の者に、/『何事か』と尋ねたけれでも一向わからぬ。/『異人が参るそうでございます』と言った。/<それで行列にさわったか知れず、喧嘩をせねばよいが、小事を以って大事を過(あやま)るようではいけない>/と心配を致した。」 久光はこのように外国人と喧嘩にならねばよいがと心配したそうですが、しばらくすると「異国人を斬りましたそうです」との報告が入り、「ずんずんやって行くから駕籠の中から路傍に気をつけたところが死骸は見えぬ。ただ路傍に血を流しているままであった。死骸はないから、<さだめて傷つけられてどこえか行ったであろう>と思って、程なく生麦の立場に着いて、茶一盃飲んでいるところに、側役の谷川次郎兵衛という者が出て来て、/「まことに大変なことを致しました。異国人が御行列にさわりましたから斬り棄てました」/と、こういうことを届けて出た」そうです。久光は「さても困った事を致したと、小事を以て大事を惹き出したと心配を起した。そういうことで小事を以て一両人殺して何にもならぬことである。天下の大変を惹き出し国難も惹き出した。と思ったけども、そこでそういうことを言えば、人心にも関するから黙して答えなかった」そうです。しかし、この事件の後、薩摩藩内では攘夷の声が高まり、久光も「戦争の準備もせねばならぬという覚悟を致した」そうです。 ですから、市来四郎は、「久光が下知致したことでは素よりござりません。なかには下知致したようにいうたものもござりますけれども、決してそうでござりません。表面の形によりて言うたもので、久光の心中は時機を察して、斉彬が趣旨通り開国論を発する胸算でありたと申しました。実に行きがかりの小事より卒然に起ったことでござります」としています。
2008年09月16日
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今夜(9月14日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の第37回目のタイトルは「友情と決別」でした。今回のドラマでの「友情」とは天璋院(宮崎あおい)と小松帯刀(瑛太)の友情を指し、「決別」とは久光(山口祐一郎)が実権を掌握している薩摩藩に対する天璋院の決別を指しています。 島津久光は、幕政改革の三箇条の勅諚を携えた大原勅使(木村元)の随従を名目に500人ほどの兵士を率いて江戸に入ってきました。なお、この三箇条の勅諚の内容は、実際は島津久光の意見を採り入れて作成された幕政改革案で、鹿児島市で開催された「天璋院篤姫展」でも「幕府への勅諚三箇条写」が展示されており、また同展示会場で販売されていました図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」にもそれが活字化されていましたので、下に転載しておきます。第一大樹早ク諸大名ヲ率ヒ/上洛アツテ、/朝廷二オイテ相共二国家ノ/治乎ヲ計議シ、万人ノ疑/ヲ散セシメ、/皇国一和ノ正気トナシ、速/二蛮夷ノ患難ヲ攘ヒ、上ハ/祖宗ノ 神叡ヲ慰慰メ、下ハ/義臣ノ帰嚮二従ヒ、万民/ヲ化育シ、天下ヲ泰山ノ安/二比セラレ度事、第二豊臣ノ故事二ヨリ沿海五/ヶ国ノ大藩ヲ以テ五大老ト/シ、国政ヲ諮決シ、夷戎ヲ防/禦スルノ所置ヲ為シメハ、環海/ノ武備堅固確然トシテ、必夷/戎ヲ掃攘スルノ功アラント/思召候事、第三一橋刑部卿ヲ後見トシ、越/前前中将ヲ大老トシテ、幕/府ヲ扶ケ政事ヲ計ラシメハ、/戎虜ノ慢ヲ受スシテ衆人/ノ望二協フヘクト/思召候事、 すなわち、(1)大樹(将軍)の上洛と朝廷での国是の討議 (2)沿海五ヶ国による五大老の新設 (3)一橋刑部卿(一橋慶喜)を将軍後見職、越前の前中将(松平春嶽)を大老に就任させること、以上のことを実現させようと島津久光は江戸にやって来たのです。 しかし、大原勅使と会見した幕府老中たちは朝廷の要求をのらりくらりと拒み続けます。特に慶喜の将軍後見職就任の件については、この職はもう廃された言って認めようとはしませ。このことにいらだった久光は、大久保(原田泰造)に「今度はそちが出向き、どのような手を使っても構わぬから、わしがどれほどの覚悟で江戸に来たかを示してやれ」と命じます。大久保は大原勅使と幕府老中が会談している隣の部屋に薩摩藩士を控えさせ、鯉口(刀の鞘口)を切らせる音を老中たちに聞かせ、さらに「ここからお帰りになれぬことになるかも……」と脅かします。このような脅迫めいた行為に老中たちは動揺し、こうして一橋慶喜が将軍後見職に就き、松平春嶽は政事総裁職に就くことになります。 大久保は暴力団まがいの随分乱暴なやり方を取って幕府に薩摩藩の要求を認めさせたものですね。あまりにも乱暴なやり方なので、かえって吉本新喜劇のあちゃらか芝居を見ているような気分になって私はつい大笑いしてしまいましたが、でもこれに近いことは実際にあったようですよ。佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)にはつぎのようなことが書いてありました。「ようやく五月二十二日、大原勅使と久光が大久保をはじめ手兵を率いて出発。六月十日登城して将軍家茂に朝旨を伝達した。当時の老中は、松平信義(亀岡藩主)、水野忠精(山形藩主)、板倉勝静(備中松山準王)、脇坂安宅(竜野藩主)で、井伊が倒れていらいの安藤信睦、久世広周にかわって、脇坂と板倉が実権派であった。/さて勅使と幕府の交渉であるが、勅使の到着前に、幕府は将軍上洛の方針を内定していた。また五大老の設置は、朝廷側でも実現性が薄いとみていた。そこで問題は久光が主張する第三事ということになる。松平慶永はすでに幕政参与となっていたから、大老は無理としても、妥協の余地はあった。しかし慶喜に関しては、幕府は久光にたいする反感もあって、他から容喙されて要職を任命することに強く難色をしめしたのである。/久光の側面からの工作と、再三にわたる交渉のあと、二十六日、大原勅使は伝奏屋敷に老中を招いて交渉することになったが、ここで大久保は、もし老中が要求をあくまでも拒否するならば『閣老を返し申しまじく(刺殺する)決心』であることを大原に告げた(『日記』)。ずいぶん乱暴な話であるが、それだけの決意で交渉せよという、大久保の大原にたいする強い激励であり、自分たちもそれくらいの覚悟なのだということを伝えたものであろう。/硬骨漢の大原は、ここで奮い立ったらしい。交渉破裂の場合は帰らないとまで言って登城した二十九日、ついに幕府は折れた。かくて七月六日、慶喜は将軍後見職に、九日、松平慶永は政事総裁職に任ぜられて、まずは勅使の使命は達成されたのであった。」 今夜のドラマでは、天璋院が力づくで自分たちの要求を呑ませようとする薩摩藩のやり方に非常に憤りを感じ、家定の命日の寛永寺への墓参を利用して同寺で久光と会見し、朝廷の威を借りて自分たちの要求を実現しょうとするやり方を批判しますが、幕府も同じようなことをしていると反論されてしまいます。そんななかで天璋院は、「私は薩摩に誇りを持ってきた。薩摩にだけは間違った道を進んでほしくなかった」と言うとともに、「私は徳川の大御台所として徳川家とこの国を守りぬく覚悟である」とも言い、今後一切薩摩からは指図は受けぬと決別宣言をしています。 なお、久光に随行して寛永寺にやって来た小松帯刀(瑛太)の姿を見た天璋院は、家茂(松田翔太)の許しを得て大奥で彼と会うことにします。天璋院が碁を打ちながら小松帯刀に薩摩の今和泉家の近況などを質問しているなかで、二人は自然と昔の篤姫と肝付尚五郎に戻ります。そんな静かな語り合いの中、小松帯刀は現在の薩摩藩が力で人を動かそうとする強引なやり方は間違っていると思うと天璋院に語り、その言葉を聞いた天璋院は「私も薩摩を捨てたなどと言いましたが、それは自分の心に嘘をついていたのです」と言い、「私はこの大奥で徳川を守ります。あなたは私が愛する故郷(ふるさと)の薩摩を守ってください」と彼に頼むのでした。この天璋院と小松帯刀の再会の場面は、これまで何度か繰り返されて来ましたが、自然と心を通わすことのできる者同士が碁を打ちながら静かに語りあう場面はこれまでで一番良かったように思います。
2008年09月14日
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2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」が東京展(2月19日~4月6日:江戸東京博物館)、大阪展(大阪歴史博物館:4月19日~6月1日)と開かれていましたが、私の住む鹿児島でも9月6日から10月17日まで鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されることになり、喜び勇んで見学に出かけました。 同展示会は「篤姫と彼女をとりまく人々ゆかりの品、江戸城大奥の華麗な調度、幕末の騒乱を伝える歴史史料などで構成」されており、主として徳川記念財団所蔵の貴重な品物や史料が展示されていましたが、特に私が見たかったのは天璋院が慶応4年7月9日(1868年8月26日)に輪王寺宮公現法親王宛に出したという書状でした。 この書状のことは、2008年3月21日の「南日本新聞」の文化欄に載った東京展の紹介記事で知ったのですが、同記事によりますと、天璋院が輪王寺宮に「幼い天皇をだまして戦争を続ける薩長の逆賊を『御征伐』してほしいと、『徳川家再興の一心』から訴えている」内容の書状が展示されているというのです。なお、天璋院がこの書状を送った相手の輪王寺宮は伏見宮邦家親王の第九子で、江戸無血開城と徳川慶喜の処遇に不満を抱いた旧幕臣たちが彰義隊を結成して上野の山に立て籠もったときに寛永寺の山主をしており、彰義隊から盟主にかつがれています。さらに上野戦争で彰義隊が新政府軍に敗れたときには、彼は東北に逃れて仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されています。 天璋院がそんな人物にどのような内容の書状簡を送ったのか、大いに興味を持ちましたので鹿児島展で展示されているこの書状の実物(ただし「天璋院書状写」とのことで、現在は仙台市博物館が所蔵しているそうで)を確認することにいたしました。また書かれている内容につきましては、同展示会で販売されていました図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」に活字化されていた「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛 慶応四年七月九日」の重要部分を家に帰ってから辞書を引いて調べることにしました。それで、今回はその慶応4年7月9日(1868年8月26日)に出されました「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛」の重要部分を紹介したいと思います。「(前略)扨(さて)上野一条乃儀ハ追々承り候処、第一勅額も御座候中堂山門を初、其外江炮発致御本坊迄焼払ひ候段、薩州ハ勿論其他諸家二至迄官軍と相唱候者ニ有之間敷振舞、何共可申様御座無、悪逆不法の事ニ御座候、右二付私事女儀とハ乍(ながら)申、何分黙止居かたく候まゝ委細書取を以江府大総督汀品々申立候処、取扱候役々兎角に差止メ、如何様申談候ても更ニ相貫き不申、扨々(さてさて)誰あって理非を相糺し候者も無之と只々落涙のミに御座候、右之次第故徳川家之義ハ高七拾万石被下候へとも、此末の処先以如何成行可申哉も難計、夫ニ付候ても北国筋諸侯の義ハ実々忠義之程頼母敷感し入候事二御座候、何卒天の御恵ミ神仏の御助力を以銘々忠節之本意相貫き、徳川家再興相成候様昼夜夫のミ祈念致居候、右二付而ハ先頃上野御一条と申其外種々不法の事のミ相募り候折柄、容易に戦争も相鎮り不申、薩長を初かゝる逆意を働き候も畢竟天子之御幼冲を侮り、銘々私慾をほしひまゝに致候より大乱と成行候事ニ付、迚(とて)も右逆賊を相手二致居候てハ、際限も有之間敷と被存候間、乍恐其御所様思召を以会津・仙台両家等江鎮撫の職掌をも被仰付候様二者相成間敷哉、左候上ハ右両家へ属服致候者ハ相ゆるし、逆意を張り妨等致候向ハ御征伐被為仰候様御叡断之程、偏(ひとえ)ニ希度(ねがいたく)存候、ヶ様之義、申上候も憚多く御座候へとも、只々徳川家再興之一心より思召之程も不顧申上候、(後略)」< 上の天璋院の書状を私なりに要約しますと次のようになると思います。 彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争では勅額が掲げられていた寛永寺の中堂山門や本坊に砲撃が加えられて焼き払われましたが、その行為は薩摩藩やその他の藩によるものであり、とても自らを官軍と唱える者たちの振る舞いと言えるものではなく、悪逆不法の行いと言えます。この件について、私は女ではありますが黙視できず、詳細を文書にして江戸の大総督に訴えましたが、管轄の役人達がなにかと邪魔をして意見が通らず、理非を正してくれる者など誰もいないと涙を流しておりました。このような情況のなか、徳川家は70万石となり、これでは将来どうなることかと不安に思っておりました。しかし、北国筋諸侯は実際に忠義を守っておられ、頼もしく感じました。どうか天のお恵み、神仏のご助力によって各自が忠節の本来の目的を達成され、徳川家再興が実現できますようにと昼夜祈念いたしております。このことにつきましては、この前の上野戦争やそれ以外にもいろいろ不法のことが増えている情況のなか、容易に戦争は収まらず、薩長を始め謀反を企む連中は結局は天子が幼いと馬鹿にして各自が勝手に私欲をほしいままにすることから大乱となっておりまして、とてもこのような逆賊を相手にしていましても際限がないと思いますが、あなた様(輪王寺宮)が会津、仙台両藩等に鎮撫の役目をもし与えられ、これら両藩へ服属するものは許し、謀反の心を起こして抵抗するものは罰することをご決断されますことを偏(ひとえ)にお願いいたします。このようなことを申し上げますことは憚り多いことと思いますが、これもただただ徳川家再興を願う一心からあなた様のお考えを顧みずに申し上げるのでございます。 輪王寺宮に宛てたこのような天璋院の書状は、西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出してから4ヵ月ほど後に出したものであり、慶応4年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が無血開城されてからは3ヶ月と23日後経った後に書かれたものですが、その間にどのようなことがあったのでしょうか。4月29日(1868年5月21日)には田安亀之助による徳川家宗家の相続が認められています。しかし、5月15日(1868年7月4日)の上野戦争では徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であった上野の寛永寺が新政府の軍によって焼き払われています。この寛永寺には天璋院の亡き夫である13代将軍・家定徳川家定も祀られていたのです。さらに5月24日(1868年7月13日)に明らかにされた徳川宗家の石高は500万石近くあったものを70万石に大減封するというものでした。前田の102万石、島津の77万石にも及ばないものであり、しかも封土は駿河に移すというものでした。 天璋院は、上野戦争での新政府軍による徳川家菩提寺の寛永寺に対する「悪逆不法」の振舞に対してのみならず、新政府の徳川宗家に対する「此末の処先以如何成行可申哉も難計」ような処遇に非常な不安と憤りを感じたようです。江戸の大総督に訴えても埒が明かず途方に暮れていた天璋院でしたが、東北に逃れて会津、仙台等の「北国筋諸侯」の盟主となって新政府軍との抵抗を続ける輪王寺宮の消息を知り、藁にもすがるような思いで輪王寺宮宛に「天子之御幼冲を侮り、銘々私慾をほしひまゝに」している逆賊を鎮撫し、徳川家を再興してもらいたいとの願いを書き送ったのです。しかし、天璋院の期待も空しく、東北諸藩はつぎつぎと新政府軍に敗れ、慶応4年9月22日(1868年11月6日)には会津若松の鶴ヶ城も降伏開城し、そのときに輪王寺宮も謝罪嘆願書を提出しています。
2008年09月13日
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今夜(9月7日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第36回目のタイトルは「薩摩か徳川か」でした。薩摩の島津久光(山口祐一郎)が大砲や鉄砲で武装した多数の兵を引き連れて京に上り、幕政改革を唱えて岩倉具視(片岡鶴太郎)を通じて朝廷に松平春嶽(矢島健一)と一橋慶喜(平岳大)をそれぞれ幕府の大老と将軍後見職に就かせることを建白したため、江戸城内では薩摩出身の天璋院(宮崎あおい)がこの薩摩の久光の行動と密かに繋がっているのではないかとの懐疑の眼が向けられることになります。 篤姫ドラマの原作とされている宮尾登美子『天璋院篤姫』では、「久光の動きについて、篤姫が背後から推し進めているように周囲に見られるのはこの際、迷惑だと思われる」等の短い記述がいくつかあるだけだったこともあり、私は薩摩の久光の率兵上洛が江戸城大奥にいる天璋院の立場を悪くし苦境に陥いるなんてことはほとんど考えてもいませんでした。しかし、彼女が先代の薩摩藩主の斉彬から要請を受けて一橋慶喜を将軍継嗣に推していたことはおそらく江戸城内では周知の事実だったでしょうから、今回の篤姫ドラマで詳細に描かれたように、久光の上洛の動きが天璋院と裏で繋がっているとする疑惑が浮上し、そのために天璋院が大いに苦悩したことも実際にあったかもしれませんね。 ですから、今回のドラマにおいて、これまで信頼を寄せてくれていた家茂(松田翔太)からも疑いの言葉を投げかけられたため、その心を深く傷つけられた天璋院が庭に薩摩の品々を持ち出してつぎつぎと火にくべ出し、慌てて駆けつけて疑ったことを謝罪する家茂に彼女が「私は徳川の人間です。徳川のことだけを考えて生きる。薩摩など知らぬ。これはその証(あかし)です」と涙ながらに訴える場面には視ている私も自然と目頭が熱くなってきました。天璋院が徳川の人間として必死に生きようとした姿を考察する場合、当時の女性に求められた道徳観だけで理解するのではなく、今回のドラマに描かれたように、幕末という時代に大奥の大御台所となり、そのために薩摩出身の人間としての複雑で困難な状況に立たされた女性の一つの身の処し方として見ることもまた必要なのではないかと思いました。 さて今回のドラマでは、京都所司代の殺害を計画した有馬新七(的場浩司)たち薩摩藩士9名が同じ薩摩の藩士たちから上意討ちされた寺田屋事件の惨劇がこれまでの篤姫ドラマとは非常に異なるリアルなタッチで描かれていましたが、久光がどのような考えから寺田屋の事件に対処したのかを史実に基づいてちょっと検討してみたいと思います。 桜田門外の変で幕府大老の井伊直弼が殺害されてから以降、尊皇攘夷派の過激分子によるテロ活動は全国で猛威を振うようになります。万延元年12月5日(1861年1月15日)には薩摩藩士の伊牟田尚平らがアメリカ公使館員のヒユースケンを襲って殺害しており、翌年の文久元年5月28日(1861年7月5日)には水戸浪士が江戸東禅寺のイギリス公使館を襲撃しています。さらに文久2年1月15日(1862年2月13日)には幕府老中の安藤信正が水戸浪士の平山兵介らの襲撃をうけています(坂下門外の変)。 このように尊攘派のテロの嵐が吹き荒れるなか、坂下門外の変に恐怖した摂家の近衛忠房から島津久光に上洛要請の書簡が届き、久光はついに文久2年3月16日(1862年4月14日)に鹿児島を出発して率兵上洛の行動を開始します。ところがなんと、この久光の上洛計画に対し尊皇攘夷派の過激分子たちが自分たちの目指しているものと重なると勝手に夢想し、大いに期待を寄せたのでした。そのことについて、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)にはつぎのように解説しています。「京、大坂に集まってきていた、このような尊撰急進派の志士たちは、久光の率兵上京を自分らが夢想する『義挙』とむすびつけて考えていた。藩主ではなく、藩主の父であるにすぎない久光が、多数の兵を率いて上京するのは、たんに参府のためなのではなく、自分らの意志と通いあうような、なにか他に重要な目的があるのだとみて、久光の上京に期待をかけたのである。/彼らが考えた義挙とは、たとえば平野国臣の『回天三策』によれば、久光に勅命を下し、京、大坂の幕吏を退け、幕譴をうけた中川宮朝彦親王の幽閉を解き、大坂に行幸して幕府の罪を間うというもので、この策を実現させるために、志士の決起があるというものである。幕府批判ということでは久光と通じる面があるが、ことの成否とその後の見通しに関していえば、かつての大久保らの突出計画と大差のないものだった。」 ところが、島津久光は薩摩から上洛する直前の文久2年3月10日(1862年4月8日)につぎのような内容の諭書を藩内に出し、「尊王壊夷を名とし、懐慨激烈之説を以って四方ニ交を結ひ、不容易企をいたし」ている連中とひそかに関係を持っようなことがあってはならないとしていたのでした。この久光の諭書は佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年10月)に紹介されています。「去ル午年、外夷通商御免許以来、天下之人心致紛乱、各国有志と相唱候者共、尊王壊夷を名とし、懐慨激烈之説を以て四方ニ交を結ひ、不容易企をいたし候哉二相聞得候、当国ニも右之者共と私二相交、書簡往復等致候者有之哉二候、畢竟勤王之志ニ感激いたし候処より、右次第二及候者筈ニ候得共、浪人軽卒之所業ニ致同意候而は、当国之禍害ハ勿論皇国一統之騒乱を醸出し、終ニは群雄割拠之形勢二至り却而外夷術中二陥り、不忠不孝無此上義二而、別而不軽事と存候、拙者ニも公武之御為聊所存之趣有之候付、以来当国之面々右様之者共と一切不相交、命令二徒ひ周旋有之度事ニ候、若又私之義を重んし絶交いたし難き者共有筋ニ申出候は、其訳ニ応し何様共可致所置候、尤此節之道中筋、且江戸滞留中、右体之者共致推参候共、私二面会致間敷、乍然無拠訳二依り致応接候共敢て不致議論、其筋之江談判いたし候様返答可致、乍此上不不勘弁之族於有之は、天下国家之為実以不可然事候条、無遠慮罪科可申付候事」 久光はこの「諭書」で、尊王壊夷を名目にして大変な企てをしている浪人たちがいるようであるが、薩摩藩の人間がもし彼等の軽率な行為に同調するならば、薩摩藩の禍となるだけでなく日本国全体のまとまりを失わせてて騒乱を生み出し群雄割拠状態にしてしまうであろうとし、それは外国の思う壺となり、不忠不孝この上もないことであるとしています。そして、彼等と交わることを一切禁じるとともに、今度の旅の道中や江戸滞在中に止むをえず彼等と接触せざるを得ないときは、議論せずに藩のその筋の者と談判してもらいたいと返答するようにせよと指示しているのです。 ですから、薩摩藩士の有馬新七、柴山愛次郎たちが久留米藩士の真木和泉らと伏見の薩摩藩船宿の寺田屋に集まり、京都所司代を襲撃して「義挙」のさきがけをなそうと準備していたことは、久光のこの「諭書」に反する不忠不孝の行為とみなされたのは当然のことでした。 さらに前掲の佐々木克『大久保利通と明治維新』によりますと、文久2年4月16日(1862年5月14日)、久光に対して孝明天皇から不穏の企てのある浪士の鎮静にあたるようにとの勅諚が伝達されており、尊攘派の過激分子のテロ活動に激しい嫌悪感を示していた孝明天皇の信頼を得るためにも断固たる措置を取らねばならなかったようです。そのことについて佐々木克の同書はつぎのように解説しています。「十六日昼、久光が近衛邸に参上、権大納言近衛忠房と中山忠能(議奏)、正親町三条実愛(議奏)に面会して、『公武合体』など国事周旋のために上京したことを告げ、あわせて朝威振興、幕政改革について建白した。/両議奏はそれを孝明天皇に執奏した。その結果、同日夕、久光に滞京して、不穏の企てのある浪士の鎮静にあたるようにとの勅諚が、両議奏より伝達された。これで久光の京都での運動が、公的に許可されたことになる。翌日、久光は京都の藩邸に移る。こうして寺田屋の変が起こされる背景が準備されていったのである。」 ところで、今夜の篤姫ドラマでは、有馬新七が誠忠組に宛てた遺書を残しており、久光が彼等に対して断固たる処罰を行うことを見越しており、そのことによって久光が朝廷の信頼を得ることを期待しての覚悟の挙兵を行おうとしたことが書かれてあったとしています。勿論、そんな遺書などは実際に存在していないと思いますが、有馬たちがそれに近い考えで挙兵の計画を行ったとする説はあったようです。 芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮助、田中河内介、小河一敏が、寺田屋で挙兵の計画を話し合った時の模様が小河の『王政復古義挙録』につぎのように記されているそうです。「いまは普通のやり方で悪役人を除くことはむずかしい。だから兵を挙げて殿上(九条関白)と所司代を除くほかはない。いまの時代非常のことをしなければ、尊王壊夷の道は立たない。ここで和泉殿(久光)の命を待たないで奸賊を倒せば、それをきっかけにきっと和泉殿が『大処置』をされるに違いない。この挙は和泉殿の意に背くようだけれども、実際はこの挙を実行してこそ和泉殿の『功業』も大いにあがること間違いなし。だから和泉殿への忠節もこれ以外にない。」 うーん、寺田屋に集結して挙兵を計画した連中の意図は、久光の上洛後の行動を助けることにあったというのですが、本当にそうだったのでしょうか。もし彼等の計画が実行に移されたら、薩摩藩は幕府から厳しいお咎めを受けるだけでなく、天皇の信頼も完全に失い、久光の上洛計画は完全に失敗に終わったことと思うのですが、みなさんはどう思われますか。
2008年09月07日
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今夜(8月31日)のNHK大河ドラマ「篤姫」35回目のタイトルは「疑惑の懐剣」で、家茂(松田翔太)が和宮(堀北真希)の許へお渡りしたとき、寝所の和宮の懐にキラリと光るものが見えたということから、懐剣疑惑が持ち上がります。 私はミステリー小説が大好きな人間ですので、この懐剣疑惑の真相については「ネタばれ」をせずに伏せておくことにします。まだ今回のドラマを視ておられない方は、ぜひ今週の土曜日の再放送をお楽しみください。 しかし、家茂が天璋院(宮崎あおい)から「あなたの本心を話しなさい。攘夷は無理ということを言うのです」とのアドバイスを受けたことから、彼は和宮に攘夷実行は国を滅ぼす結果となることを伝えたため、和宮もそのことを了解し(すぐ簡単に了解するドラマの和宮の姿には私は首をかしげてしまいましたが)、家茂と和宮の二人の「公武合体」は無事に成就することになります。 こうして篤姫ドラマでは大奥世界の江戸方と京方のコップの嵐的いさかいは収まっていきそうですが、しかし、大奥の外では将軍家への和宮降嫁による公武合体という幕府のもくろみはなんの降嫁もあげず、おっと誤変換、効果をあげず、逆に尊皇攘夷派の連中はそのことで怒りをますます募らせます。和宮と家茂の婚儀直前には、和宮降嫁のために骨を折った幕府老中の安藤信正は水戸浪士に坂下門で襲撃されて傷を負っており(坂下門の変)、京では九条家の家令で朝廷と幕府の間に立って和宮降嫁に尽力した島田左近が暗殺され、その首は加茂の河原にさらされます。このように尊攘派のテロの嵐がさらに吹き荒れることになります。 ところで前回の篤姫ドラマで、和宮降嫁を知った薩摩藩の誠忠組のメンバーが「和宮を人質に取ろうとする幕府の陰謀だ」と言って憤り、久光(山口祐一郎)が立ち上がらないことに不満を募らせていました。このような誠忠組の不満をバックに、小松帯刀(瑛太)や御小納戸役に取り立てられていた大久保(原田泰造)は久光に「斉彬様の遺志を継いで幕政改革に名乗りを挙げるべき」だと進言し、久光も彼等に「都へ参る」と明言していました。 今夜の篤姫ドラマでは、久光は奄美大島から戻した西郷隆盛(小澤征悦)に上洛のことについて意見を求めますが、西郷は「京で幕政改革の勅諚を得た後、江戸に上る計画とのことですが、無謀のことと思いますので中止されたがよろしかろうと」と言い、その理由として「御当主にあらず、官位もなく諸侯との交わりも薄い久光様では江戸においてなにもできないでしょう」し言い、さらに「斉彬様とは違い、一介の地ゴロに過ぎません」とまで言って上洛計画の日延べを進言しています。 西郷の久光に対する暴言とさ言える発言ですが、実際にこのような久光に対する西郷発言はあったようです。そのことについて、芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)につぎのようなことが書かれてあります。「久光に、『御前ニハ恐レナガラ地ゴロ』だから公武周旋は無理だと言ったという。このことは明治十九年六月十六日、久光と会った市来四郎が『日記』に書いているので事実であろう。『地ゴロ』とは田舎者という方言で、西郷としては事実を言ったまでだろうが、久光がそれから二五年も後の、死の前年に、この話をしていることから、下級藩士から面と向かって言われた殿様育ちの久光には、よほど大きなショックだったのであろう。ただ西郷の認識も当時の常識にのっとったもので、いま久光らは、その常識をくつがえす革命的改革をやろうとしていた。といっても成功の確信はない。西郷には、それが無謀に思えたのであろうが、自分の意見が容れられないと分かると、足の痛みを理由に指宿の温泉に引っ込んでしまった。西郷は、これで隠遁するつもりだったという。 やっと願いがかなって、西郷呼び戻しに成功した大久保は困った。有馬新七らは諸藩の尊王擾夷派の志士と連絡をとって、京都で兵を挙げようとしている。心配した大久保が三月、指宿から帰った西郷の所にやって来て協力を頼み、久光に願って西郷を先発させ、九州諸藩の形勢を視察して下関で久光の到着を待たせることにした。大久保の頼みを受け入れた西郷は、村田新八を連れて三月十三日、出発する。」 下級藩士の西郷から「地ゴロ」呼ばわりされた久光でしたが、そのとき「無礼な奴」と言って西郷を処罰するようなことはしなかったのですから、久光も偉いですね。では久光はどんな思いで上洛計画を実行しょうと考えていたのでしょうか。 久光の上洛計画の基本点は、大久保利通が文久2年正月14日(1862年2月12日)に摂家の近衛忠煕、忠房親子に面会して勅命の周旋を要請したときの話の内容から窺い知ることができます。その大久保の話した内容について、佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(2004年10月)にはつぎのように紹介されています。「和宮様の降嫁を無理やり実現させたのは(まもなく二月十一日に婚儀が行なわれる)、幕府の『一朝一夕之奸巧』にとどまるものではなく、和宮を『掌中之物』にしたからには、これからどのような『邪謀』をめぐらすか計りがたい。これは『天朝之御危殆、実ニ焦眉之急』である。したがって『京地御十分之御守護』が必要であり、薩摩藩がその任に当たりたい。そのため久光が供の人数五五〇人余を召し連れて船で上京する。さらに後発隊五四〇人を下関に待機させ、船を廻送して上京させる。久光が上京したら、滞京して京都の守護に当たるようにとの勅命を下されたい。京都守衛の体制が十分に備わったところで、関東に勅使を派遣して一橋慶喜を将軍後見に松平春嶽を大老に就任させるよう幕府に要求する。また尾張、長州、仙台、因州、土佐に、皇国のため『赤心ヲ尽シ、可抽忠勤』とする勅命を下し、万一幕府が勅命に従わなかった場合は、『国家之奸賊執政安藤(老中安藤信行)速二可加誅伐旨』を命ぜられたい。そうすれば有志の諸藩が合従しての『勤王義挙』となるに相違ない。さらに勅命で関白九条尚忠を退職させ、前左大臣近衛忠煕を関白に就かせ、かつ青蓮院宮〔朝彦親王)の安政大獄以来の幽閉を解かれたい。叡慮は『徳川家御扶助、公武御合体』であると承っているが、先君(斉彬)の遺志もその通りであるから、何くまでもそのご趣意を貫きたい。」 うーん、久光上洛の朝廷への理由付けにも「和宮を『掌中之物』にしたからには、これからどのような『邪謀』をめぐらすか計りがたい」ので薩摩藩として「京地の守護」が必要であるとしています。勿論それだけでなく、一橋慶喜を将軍後見、松平春嶽を大老に就任させる幕府の人事改革や、関白九条尚忠の退職、前左大臣近衛忠煕の関白就任、青蓮院宮〔朝彦親王)の幽閉解除といった朝廷の人事刷新こそが主たる狙いだったようですね。ただし、叡慮(天皇の意思)も先君斉彬の遺志も「徳川家御扶助、公武御合体」であると承っているとしており、薩摩藩流の公武合体路線を追求しようとしているようです。
2008年08月31日
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今夜(8月14日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第34回目「公家と武家」は、和宮(堀北真希)と彼女に随従してきた女官たち京方が江戸城に輿入れ後も御所風をあくまでも守ろうとし、そのために迎える側の天璋院(宮崎あおい)や御女中衆たち江戸方となにかと対立する様が描かれていました。 例えば、和宮と天璋院とが初めて対面したとき、武家のしきたりに従って上座に天璋院が坐り、和宮は敷物のない下座へ通されたため、庭田嗣子(中村メイ子)たち京方はそのことに激怒します。天璋院は慌てて上座の敷物を和宮に譲りますが、和宮の生母の観行院(若村麻由美)は「一度坐った敷物などに坐れますかいな」と顔をしかめます。一方、天璋院たち江戸方は和宮から天璋院に届けられた土産の目録の宛名が「天璋院へ」と呼び捨てにしていることに驚き悔しがります。その後も、江戸方と京方の間での言葉遣いから立ち居振る舞い、諸道具のこと等なにかと対立は激化していきます。 そんなときに天璋院は滝山から「公方様が帝(みかど)に自筆の請文を書かれた」ということを知らされます。堪忍袋の緒が切れた天璋院は事実を確かめるために家茂に会いに行きます。しかし家持の話によりますと、公武合体にふたごころなどないことを帝に伝えるために請文を書くことを最後に決めたのは家茂自身であるとのことでした。このことを知った天璋院は、彼女自身もやらねばならぬことがあると和宮のいる新御殿に向かい、和宮に対して初対面のときの非礼を詫びるとともに、「和宮様は徳川に嫁がれる上は相当な覚悟で来られたことでしょう。女子(おなご)が覚悟を決めたからには、ここからは一本道を歩んでゆくのみにございます。これからはこの私が姑として御指南仕りまするので万事ご安心下されませ」と天璋院自身の考えを和宮にきっぱりと伝えます。この言葉に、なんでも御所風を通そうとする京方に苛立ちを募らせていた私の妻などはパチパチと盛大な拍手を送っていましたよ。 ところで和宮が天璋院と初めて対面したときに敷物のない下座に坐らされ、和宮が悔しがったという話は史実のようです。畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年12月)によりますと、『孝明天皇紀』に岩倉具視と千種有文とが庭田嗣子からの書状に基づいてつきのようなことを所司代酒井忠義の用人三浦七兵衛に知らせていることが記述されているそうです。「天埠院殿始て和宮へ御対顔の砌(みぎり)天璋院殿には御茵(しとね)の上、和宮には御茵なしに御対顔、夫故(それゆえ)和宮日々御口惜しがり遊され御泪(なみだ)のみと宰相典侍より申し来り候に付、(中略)禁中の御威光丸つぶれと申す事に相成候て、何共何共心配候」 しかし、大奥での江戸方と京方の争い、このドラマの原作である宮尾登美子『天璋院篤姫』にも詳しく書かれていましたが、読んでいてうんざりしてしまいました。史実として実際にあったことなのでしょうが、こんな下らない対立の描写はできるだけ早くさっさと切り上げて、幕末の激しい変動過程を少しでも分かりやすく生き生きと伝えてもらいたいものです。
2008年08月24日
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今夜(8月17日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第33回目は「皇女和宮」でした。桜田門外の変」によって大老・井伊直弼(中村梅雀)が殺害されたことは幕府の権威を大いに揺るがすことになります。幕閣は権威を取り戻すために孝明天皇(東儀秀樹)の妹である和宮(堀北真希)と将軍家茂(松田翔太)との縁組みによる公武合体を実現しようと画策します。 しかし、和宮には有栖川宮熾仁親王(竹財輝之助)という許婚(いいなずけ)がすでにおり、彼女は江戸に行くことを嫌がります。ところが岩倉具視(片岡鶴太郎)が孝明天皇に「幕府に恩を売れば攘夷を実行できる」と説得したことから、天皇も和宮に「日本国のため江戸に行ってはくれまいか」と将軍との婚姻を強く迫ります。この天皇の「日本国のため」という言葉には和宮も逆らうことは出来ません。和宮は泣く泣く江戸に下ることを承知しますが、彼女に随従して江戸に下向することになった庭田嗣子(中村メイ子)に対して、江戸に下っても当地であくまでも御所風を貫く意思を伝えます。このことが大奥で天璋院たちとの確執をうみだすことになるのですね。また幕府は和宮降嫁実現のために朝廷に対して攘夷の実行を約束させられています。将軍の家茂としては和宮との婚姻後に彼女を説得して攘夷の不可能なことを天皇に伝えてもらえば理解してもらえるのではないかと考えますが、結局は攘夷の安易な約束は幕府をどんどん窮地に追い詰めることになるのですね。 さて、今夜の篤姫ドラマでは、天璋院の許に江戸の薩摩藩上屋敷から「なにかと心労が多いでしょうから、薩摩に帰って休養されてはいかがでしょうか」という書状が届いています。天璋院はこの書状を読んで心を動かされ、重野(中嶋朋子)に「私の役目は終わったし、家茂様も成長された。和宮様が輿入れされたら私は余計であろう。それに桜島ももう一度見たいし、会いたい人もいる」とその心情を語ります。しかし、滝山(稲盛いずみ)からこの薩摩藩の手紙は幕府の老中たちが命じて書かせたものであることを知らされます。出自の低い天璋院が天皇の妹の和宮の姑になることはなにかと不都合であろうと判断しての姑息な工作だったのです。このことを知った天璋院は、夫の家定に「徳川将軍家を守り抜く」と約束したことを思い出し、老中の安藤信正(白井晃)を呼び出し、「朝廷の機嫌を損ねないようにと自分を薩摩に追いやろうとするとはなんという浅知恵か。幕府としての誇りを持て。それを忘れたらおしまいぞ」と厳しく叱りつけるのでした。 なお史実としては、万延元年10月18日(1860年11月30日)に攘夷決行を交換条件に孝明天皇が和宮と将軍家茂との婚姻を勅許しており、その年の暮れに薩摩藩から幕府に天璋院を引き取ることを申し出ています。島津家からの自発的な願い出の体裁をとっていますが、実際にはドラマで明らかにされているように幕府より内々の指示あったようです。この話は天璋院の耳に入り、彼女の猛反発をくらって立ち消えとなったそうです。この経緯については、畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年12月)に解説が載っていますが、私も同書を参考にして拙ブログに「天璋院の女の誇りを傷つけた薩摩藩」と題する拙文を書いていますので、興味がございましたらご覧ください。
2008年08月17日
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バルダさん、こんにちは、やまももです。 2つのご質問をいただいていますので、私なりに考えてみたいと思います。一つは、薩摩藩士が「突出」計画を決行しようとしたとき、藩主の忠義が彼等に書状を届けて思い止まらせたことに関連して、「ドラマでは大久保と久光は出会っていないようですが、/実際には、大久保の知恵であった…ということは無いのでしょうか」というご質問であり、もう一つは。「篤姫は家定亡き後、なぜ大奥に残ったのか」ということについてのご質問です。 最初のご質問である「突出」決行前の大久保と久光との関わりについては、毛利敏彦『大久保利通』(中公新書、1969年5月)につぎのようなことが紹介されています。下級武士の大久保にとって、藩主の実父である久光に接触することは容易なことではありませんでした。しかし、久光が囲碁を好んでおり、その相手が吉祥院住職乗願であると知った大久保は、吉祥院に囲碁の教授を請い、久光接近の手がかりとしたそうです。同上書は大久保がさらにつぎのような方法で久光に接近していったとしています。「こうして、まず吉祥院と親しくなり、彼を介して久光に意を通じようとしはじめた。ある日、青祥院から久光が国学者平田篤胤の『古史伝』を読みたがっていると聞き、大久保はそれを友人から借り、吉祥院を通して久光の手元に差しだした。その時、本の中に時事への意見や同志の氏名を認めた紙片をしのびこませておいた。久光は、しだいに大久保やその仲間たちに注目するようになった。また、久光の側近、児玉雄一郎、谷村愛之助、中山実善らにも近づいていった。精忠組の首領に、彼らの間では家格の高い岩下方平を推したのも、久光接近への一つの布石とみていいであろう。」 さらに同上書によりますと、大久保の同志たちの感情が激して暴発寸前になったとき、彼等の気勢をあおり、「そのエネルギーを、久光に対する圧力と取引きの材料に使った」としています。すなわち「久光の側近にそれとなく計画を洩らして久光の反応をさぐった」そうです。そんな大久保の必死の工作に対し、久光も「行動的な下級武士たちを手なずけ、そのエネルギーを配下におきたいと望んでいた」こともあり、大久保の献策を入れて藩主直筆の「諭書」を彼等に下すことになったとのことです。大久保のこのような粘り強くて巧みな久光接近策には彼のなんともすさまじい執念を感じますね。 もい一つのご質問は、「天璋院は、当たり前のように大奥に残りますが、/それって、当たり前なのでしょうか?」とのご質問ですが、御台所だった篤姫が夫の他界後も大奥に残ったのは「当たり前」のことだったと思います。なお、将軍の御台所(正室)は夫の他界後に江戸城の本丸大奥から西丸大奥へ移るのが慣例だったようなんですが、篤姫は家定他界後に落飾して天璋院と号した後にも西丸に移ることはなく本丸で暮らしていたようです。 なお、畑尚子『幕末の大奥』(岩波新書、2007年12月)によりますと、「天璋院は安政五年七月に家定が死去し、家茂が将軍職を継いでも西丸大奥に移っていない。天英院の例に倣い年少の将軍の後見という意味あいがあったともいえるが、前将軍の実子で五歳で将軍職についた家継と、紀州から養君となり、すでに一三歳になっていた家茂では、かなり立場が異なったのではないだろうか」とあります。なお、天英院とは6代将軍・家宣の御台所だった煕子が夫の家宣他界後に落飾して名乗った号で、彼女は側室の生んだ鍋松が7代将軍の家継となったときに後見しています。 しかし、いずれにしても御台所が夫の将軍他界後に江戸城大奥から実家に戻るなどということは考えられません。武家の棟梁である将軍の御台所は婦人の鑑でなければならず、「一度嫁いりしては其の家を出でざるを女の道とすること、古(いにしえ)、聖人の訓(おしえ)なり。もし女の道にそむき、去らるる時は、一生の恥なり」(貝原益軒『和俗童子訓』巻次五の「女子を教ゆる法」より)との当時の道徳観に背くことになるからです。ドラマとしてならともかく、史実として篤姫(天璋院)の言動を考える場合は、このような道徳観をまず前提にするべきだと思います。
2008年08月16日
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今夜(8月10日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の32回目「桜田門外の変」では、天璋院(宮崎あおい)が「安政の大獄」で多数の人が捕らえられ苛酷な処分を受けたことを知り、井伊直弼(中村梅雀)に会って直接そのことを問いただしますが、それに対し直弼は、朝廷の密勅(戊午の密勅のことですね)を得て不可能な攘夷を唱え、幕府が米国と条約締結を締結したことを責め立てる卑怯な連中から国を守るために「おのれの役割を果たしたまで」であると天璋院に語ります。そんな国を思っての直弼の真剣な使命感に天璋院は心を打たれます。しかしその数日後に直弼が桜田門外で襲われて落命し、彼の首をあげたのは薩摩の者であると知らされます……。 ところで、桜田門外の変が起こる直前、薩摩では井伊直弼の政治弾圧に怒りを募らせていた有馬新七(的場浩司)、伊地知正治(三宅弘城)、有村俊斎(平山広行)ら若き藩士たちが脱藩の計画(それを「突出」と称していましたね)を立てていました。これまで冷静だった大久保正助(原田泰造)も、島津忠教(山口祐一郎)に出していた建白書がなしのつぶてだったこともあり、この「突出」計画に賛同し、そのことを小松帯刀(瑛太)に伝えます。小松帯刀は、「突出」計画によって有為な人材を多数失うことを危惧し、薩摩藩主の忠義(中川真吾)とその父親の忠教に会って相談します。その結果、「突出」決行の日に町はずれの庵に旅支度を整えて結集した若き藩士たちの許に藩主からの書状が届きます。その書状は「世の中はいま容易ならざる時節に候……」で始まり、「当家の柱となり礎となって余の至らぬところを支え助けてくれるようひとえに頼みたい」とあり、最後に「誠忠士の面々へ」という呼びかけで結ばれいるものでした。若き藩士たちはこの藩主からの書状に感激して「突出」を思い止まるのでした。 この「突出」計画の藩士たちに島津藩主自らが書状を届けて計画を思い止まらせたのは実際にあったことです。芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、安政の大獄という政治弾圧の嵐が全国を吹き荒れていた頃、薩摩藩の新藩主は島津忠義でしたが、実権は先々代の藩主だった島津斉興が握っていました。しかし、その斉興も安政6年9月12日(1859年10月7日)に死去し、新藩主の島津忠義の実父である島津久光がようやく実質的実権を握るようになります。そんなときに大久保正助ら約40名の藩士たちが「京都に突出して所司代酒井忠義らを倒そうと計画、海路脱藩のため町人出身の森山新蔵が資金を出して鰹船(かつおぶね)二艘」を準備、田中新兵衛を船長ときめるなど着々と準備を進め」ていることを藩主忠義の小姓である谷村昌武が知ります。この情報は忠義に伝えられ、驚いた忠義は父親の忠教(後の久光ですね)に相談します。その結果、つぎのような忠義直筆の諭書が書かれて「突出」を計画していた藩士たちに与えられます。「方今世上一統動揺容易ならざる時節に候、万一時変到来の節は、第一順聖院様(島津斉彬)御深意をつらぬき、国家を以て天朝を守りたてまつり、忠勤をぬきんずべき心得に候、各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、我らの不肖を輔け、国名を汚さず誠忠を尽くし呉れ候様、偏に頼み存じ候、仍(よ)って件の如し。 安政六年 己未(つちのとひつじ)十一月五日 源 茂 久 花押(手書きの判) 精忠士の面々へ」 この忠義直筆の諭書について、芳即正『島津久光と明治維新』はさらにつぎのような解説を加えています。「本来ならば厳罰に処すべき脱藩計画者たちを、忠義の者と呼んでいるのである。この諭書には三本の柱がある。 一、いざという時は、国家(藩)が一つにまとまり、藩主を先頭に行動する。 二、そして斉彬様のお考えを引きついで、皇国(天皇の国)をお守りする。 三、その時はお前たちは大黒柱となり中心となって、自分を支え助けてくれ。というもので、これ以来、薩摩藩の行動の基本方針となったのである。しかも殿様が若い藩士たちに頼んでいるのである。感激した彼らは、ここに突出を中止して、以後、藩自体を動かして、その意思の実現を図ることにし、血判の請書(承諾書)を出した。その時、最初に『大島渡海 菊池源吾』と西郷の名を書いたという。こうして以後、彼らを誠(精)忠組と呼ぶようになる。 この事件は薩摩藩今後の動きに大変重大な意味を持った。もし、この突出が実現していたら、藩の立場も非常に困難なものになったと思われる。それを思いとどまらせたのは、藩主が直筆の諭書を与え、しかも彼らを精忠の士と呼んで、その趣旨に理解を示し、いずれ藩をあげて立ち上がるので、その際は中心となって働けと呼びかけたことである。いわば大久保らのゲリラ的突出論に対して挙藩統一出兵論を展開し、彼らをその中心的メンバーとして期待したのである。薩摩藩は以後、多少の曲折はありながらも、常に一貫して藩としての統一行動をとって動く。これが例えば水戸藩や長州藩、特に水戸藩と大きく違う点で、維新実現の過程で薩摩藩が常に中軸的役割を演ずることができた大きな原因である。この事件はそれへの出発点であったし、そして藩主忠義に、その決意をさせたのは、久光の発想とアドバイスであったと思われる。藩主になりたての若い忠義にできる芸当ではないように思う。」
2008年08月10日
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masaさん、こんばんは、やまももです。 masaさんは先週末から鹿児島へ行かれたそうですが、例の場所では「誰にも会うことが出来ませんでした」とのことですね。それは残念でしたね。次回、再訪されたときにどなたかとお会いすることができ、いろいろ分からなかった事実が判明したらいいですね。。 今は夏休み期間ですから、篤姫ドラマに関心を持った人たちが多数家族連れで鹿児島を訪れていると思います。「ドルフィンポートは団体の方も多数で、盛況のようでした。/『篤姫館』は、やまももさんからお伺いしていた通りでした。/ただ、娘がドラマの衣装を着て写真を撮ることができましたことが、/収穫でしょうか・・・」と書いておられますが、史実に関心を持っておられる masaさんにはいささか物足りなかったかもしれませんね。 鹿児島市内で一番見ごたえある歴史的場所はやはり島津本家の別邸だった磯庭園と思いますが、「車で出掛けましたが、/渋滞で退き返すことになりました。残念でした」と書いておられますね。鹿児島は幕末から明治にかけて廃仏毀釈で国宝級の立派な寺院が全て破壊されており、観光客がぜひ訪れたいと思うような史的遺産は少ないため、どうしても多数の観光客が磯公園(仙巌園)にどっと詰掛けるのでしょうね。 さて、次回の篤姫ドラマは「桜田門外の変」ですが、「実際のところ、/井伊大老はこのドラマから受ける印象の人物だったのでしょうか・・・/一橋派の幾島がお咎めなしだったと考えると、/少しはバランス感覚を持ち合わせていたとも思えるのですが・・・」と書いておられますね。 井伊直弼は、篤姫ドラマでは篤姫(天璋院)の意向など全く無視するふてぶてしい人物として描かれていますね。史実としては、彼は彦根藩という譜代筆頭の名家に生まれており、ウェスタンインパクトが契機となって徳川幕藩体制が揺らぎ始めるなかで大老となり、若き将軍・家茂を支えながらあくまでも従来通りの譜代大名主導の幕閣支配を続けようとした人間です。一橋派の大名や朝廷が幕政に容喙してくることは許しがたいことだったと思います。しかし、井伊直弼の「安政の大獄」は朝廷が幕府だけでなく水戸藩にも「戊午の密勅」を送ったことから開始されたもので、その「密勅」の裏に朝廷や一橋派、尊攘派たちの反幕の画策が隠されていると疑っての政治弾圧です。一橋派が一橋慶喜を次期将軍に推したことを問題にしたわけではありません。ですから、天璋院や幾島は慶喜を推していましたが、それを理由にして罰せられるようなことはありませんでした。
2008年08月05日
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今夜(8月3日)のNHK大河ドラマ「篤姫」31回目のタイトルは「さらば幾島」で、天璋院(宮崎あおい)の身近にこれまで仕えて彼女を支えてきてくれた幾島(松坂慶子)との別れが描かれています。 井伊直弼(中村梅雀)の「安政の大獄」は激しさを増し、その厳しい詮議の手は京の近衛家にも及ぶようになります。近衛家の老女の村岡(星由里子)は京の獄に繋がれ、近衛忠熙(春風亭小朝)は左大臣の職を辞して落飾せざるを得なくるのです。 近衛家の老女の村岡は、天璋院が将軍家への輿(こし)入れしたときに彼女の母親代わりとなっていろいろ尽力してくれた恩ある人です。天璋院は、自分を母として慕う若き将軍・家茂(松田翔太)に村岡を救ってくれるように頼もうとしますが、滝山(稲森いずみ)が天璋院の身を案じて「それは井伊様の思うつぼになります」と諌めます。また、「村岡様のことは天璋院様にとって私事(わたくしごと)でございます。その私事で公方様に助けを求められますと、公方様は天下の将軍としてのお立場がございません」との正論も述べます。大御台所として公私の区別を明確にすることの大切さを伝えているのですね 村岡は江戸に護送され、信州松本藩主の戸田光則の屋敷に預けられます。そこで天璋院はあることを思い付き幾島を呼びますが、そのとき幾島は侍女に行李を持たせて天璋院の前に出てきます。彼女は天璋院の思いをあらかじめ察していたのです。そんな幾島は、天璋院の代わりにその行李の品を持って戸田の屋敷に訪れ、村岡にそれを手渡します。 詮議の日、村岡は真っ白な装束で評定の場に出てきますが、それは天璋院が徳川家定(堺雅人)との婚礼のときに纏ったものでした。そして、「これは大御台所の天璋院さんより拝領したお品であり、いわば葵の御門と同じものでございます」と胸を張って言うのでした。これには詮議の奉行も大いにひるみ、結局彼女は30日の押し込めの後に無事に放免されることになります。 この村岡の白装束の件のように、幾島は天璋院の思いをいつも先回りして察してくれました。そんな幾島がなぜいま天璋院から暇をもらおうとするのでしょうか。天璋院の疑問に幾島は次のように答えます。「天璋院様は徳川家の人間です。しかし私は近衛家、島津家との絆を第一に考えます。そのような人間はもしものときには天璋院様の足手まといとなりましょう」。こうして幾島は天璋院の許から去っていくのでした。 さて、史実としては幾島はいつ頃大奥を去ったのでしょうか。畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩』(岩波新書、2007年12月)によりますと、幾島は元治元年正月15日(1864年2月22日)に「体調を壊し、戸塚静海の診察を受ける。慶応元年(一八六五)は正月から長患いで、閏五月頃に奉公を辞めて天璋院の元を去った可能性が高い」とあります。 また、「朝日新聞」西部地方版の5月23日に「篤姫支えたおごじょ」という記事が載り、NHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証を担当された鹿児島大学教授の原口泉氏が幾島の生没年についてつぎのようなことを紹介しておられました。「幾島の招魂墓が鹿児島市内の唐湊墓地で発見されたのである。鹿児島大工学部の友野春久さんが3年前にその墓を調査されていた。 早速私も墓碑文を確かめるため現場に行って、驚いた。何と原口家の墓と百歩も離れていない。幼い頃からなじみの場所に幾島の魂は眠っていたのだ。身近に大切なものを発見することこそ、まさに人生の喜びである。 碑文によれば、幾島は『朝倉糸』。父は薩摩藩士朝倉孫十郎、母は秋田藩士阿比留軍吾の娘、民。糸は文化5(1808)年6月18日に生まれた。父孫十郎は江戸や大坂藩邸の留守居からお側御用人まで勤めた重役であった。 糸は、13歳から郁姫付きの女中として京都の近衛家に仕えること30年余り。近衛家では「藤田」という名でお側女中から御年寄を勤めた。郁姫が嘉永3(1850)年、薨(こう)ずると尼(得浄院)となり、近衛家にとどまって亡き主(常興善院)の菩提(ぼだい)を弔っていた。 篤姫が将軍家定に輿(こし)入れするため江戸へ向かう嘉永6(1853)年、登用され、大奥ではお局役になった。その時からの名が幾島である。没年は明治3(1870)年4月26日。東京・芝の大円寺に葬られた。数えで63歳だった。 墓を建てた人は朝倉景春(1810~78)。幾島より2歳若いから弟であろう。景春は、幾島の死に際して、藩から賜った弔慰金50円のうちから招魂墓をたてたのである。 幾島の招魂墓を眺めていると、嫁ぐこともなく、子もなさず、近衛家と将軍家に仕えた姉の一生を後世に伝えたいという弟の熱い思いが伝わってくる。 篤姫と同じように幾島もまた、激動の時代をひたむきに生きた、薩摩おごじょだったのである。」
2008年08月03日
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今晩(7月27日)のNHK大河ドラマ「篤姫」のタイトルは「将軍の母」でした。徳川慶福(松田翔太)が次期将軍として江戸城に入り、名を慶福から家茂(いえもち)と改めます。そんな家茂に対し、天璋院(宮崎あおい)は、他界した家定(堺雅人)の遺志に従っの彼の後見役として力を尽くすことを自分自身の生きていく希望にしたいと考えていました。しかし、井伊直弼(中村梅雀)は家茂と面会したとき、天璋院様が一橋慶喜を次期将軍にもくろんでいた薩摩の出身であること、また表の政(まつりごと)に口を出したがることに警戒するよう伝えます。ところが家茂はそんな井伊直弼の「忠告」にもかかわらず、天璋院に対して「母上様」と呼びかけ、「ほかに代わるものなき家族としてお慕いしお守りしていきたい」と自分の思いを伝えます。天璋院もその言葉に涙をこぼして喜ぶとともに、改めて家茂のために後見役として尽力することに強い希望を見出すのでした。 なお、今回のドラマでは井伊直弼による安政の大獄が開始され「戊午の密勅」に関わった人々を次々と捕らえていきます。家茂がその苛酷なやり方に疑問を持ち、天璋院と一緒に井伊直弼にそのことを問いただそうとします。しかし、井伊直弼は逆に天璋院に西郷吉之助(小澤征悦)の潜伏先を聞きだそうとし、さらに「戊午の密勅」について、「これは朝廷が幕府に仕掛けた戦(いくさ)でございます」と言い切り、「政(まつりごと)は幕府に一任されていたはずなのに、朝廷は内密に諸藩と結んで突き崩そうとしました。これを戦と言わずしてなんと申しましょうや」と反論しています。 さらに井伊直弼は、天璋院が家定の遺志として彼女を慶福の後見役に考えていたことを持ち出しますと、「その件では天璋院様を煩わせることはなくなりました。将軍後見職として田安家の慶頼(よしより)様が選ばれ、その儀はすでに決したからにございます」と平然と言ってのけるのでした。それには天璋院もただ呆れ果てるばかりでしたが、そのことを聞いた家茂が「されど天璋院様が私の後見役となること、亡き公方さまのご遺言なのであろう。ならば、それにも従わねばならぬ」と家定の遺志通りに天璋院を後見とするべきだと主張します(このとき、私の妻は思わず拍手していましたよ)。この家茂発言に不意を突かれた井伊直弼は苦々しい思いで「ははっ」と言って低頭するしかありませんでした……。
2008年07月27日
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NHKの大河ドラマ「篤姫」29回目では、天璋院(宮崎あおい)が大老の井伊直弼(中村梅雀)と会って家定の遺志について問いただしています。すなわち、篤姫を将軍継嗣となる徳川慶福(松田翔太)の後見役にし、表の政(まつりごと)を補佐させるという家定の遺志のことですが、井伊直弼は「大奥におわす方が政に関わるなどということは聞いたこともございません」と言って家定の遺志など聞いていないとしらを切っていました。ドラマの井伊直弼が否定しただけでなく、史実としても家定が篤姫を慶福の後見役にして政の補佐させるという遺志を残したなどということはあり得ないと思われます。 では同ドラマの中で、井伊直弼が「戊午の密勅」の存在を知って「安政の大獄」を開始するとい話が出てきましたが、ドラマで紹介された「戊午の密勅」の話は史実通りなのでしょうか。 篤姫ドラマでは、京の水戸藩留守居役が朝廷から密かに御所に呼び出され、天皇からの勅諚が下されます。天皇からの勅諚が幕府を通してではなく水戸藩とい大名に直接下されたのであり、そんなことは徳川幕府が成立して以来、これまでかつてなかったことです。しかし、水戸藩へ勅諚が下されたという情報はただちに井伊直弼の耳に入ります。井伊直弼は「この勅諚が許せぬのは朝廷が条約の調印を難じ、つまりは幕府の政を批判しておることである」とし、この勅諚に関わった者たちすべて洗い出し逮捕することを命じます。世に言う安政の大獄が開始されることになったのです。 なお、水戸藩へ下された勅諚のことを「戊午の密勅」と呼ばれています。正式な手続を経ない(朝議に関白の九条尚忠が参加していない)ことや水戸藩に直接下されたことなどからそう呼ばれたようです。それで「戊午の密勅」のことを平凡社の『世界大百科事典』で調べましたら、同事典の第26巻につぎのような解説が載っていました。「1858年(安政5)8月8日付けで幕府と水戸藩へ出された勅諚。勅許と諸藩との衆議を経なまま独断で日米修好通商条約に調印した幕府に対して、孝明天皇は譲位を表明し、これを受けた朝議は薩摩、水戸藩士の画策もあって、幕府への調印を抗議し、諸藩と衆議を尽くすべしとの勅諚を下すことを決定した。勅諚は10日に幕府へ下され、また8日には内密に水戸藩へも下された。その副書で勅諚を諸藩へも回達するように命じていたため、水戸藩ではそれをめぐって藩論が分かれ、幕府は回達禁止を厳命した。徳川斉昭は、幕府が老中を上京させて調印の経過を奉聞すると確約したため、尾張・紀伊両藩へのみ回達するにとどめた。この勅諚降下に尊攘派の画策があるとみた幕府は、安政の大獄を施行するに至った。翌年、朝廷および幕府は水戸藩に勅諚の返納を命じた結果、水戸藩内はいっそう政治対立が深まり,返納反対の藩士らによる大老井伊直弼襲撃を生んだ。」 この『世界大百科事典』に載っている「戊午の密勅」の解説によりますと、問題の勅諚は篤姫ドラマとは違って水戸藩のみ下されたものではないようですね。幕府にも下されているようです。それで吉田常吉『安政の大獄』(吉川弘文館、1991年8月)で確認してみましたら、安政5年8月7日(1858年9月13日)の深夜に勅諚を降下することが決定され、「八月八日付けで、まず水戸藩へ、ついで二日遅れて幕府へ、それぞれ同文の勅証が下った」としています。なお同書は、この勅諚が「戊午の密勅」と称される由来については、「近衛左大臣以下三公および三条前内大臣が関白不参のままに朝議を決定したとして、進退伺いを提出したことで明らかなように、勅諚が正当な手続きを履まなかったこと、さらに幕府を経ないで密かに水戸家に下ったからであろう」としています。 それから、吉田常吉の同上書はこの勅諚(戊午の密勅)の大意についてつぎのように紹介しています。「先に将軍は条約調印の叡慮を伺ったにもかかわらず、有司が勅答の次第に背いて調印したのは不審であり、三家・大老の召命に対して、水戸・尾張の両家を慎に処した罪状も明らかでなく、容易ならざる時節に人心の帰向にもかかわるべく、かねて三家以下諸大名の衆議を徴したのは、永世安全、公武合体の思し召しによるもので、外虜ばかりの儀でもなく、内憂があって国家の大事であるから、 大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共、 一同群議評定これあり、誠忠之心を以得と相 正し、国内治平、公武御合体、弥御長久之 様、徳川御家を扶助これあり、内を整、外夷 之侮を受けざる様にと思召され候。早々商議 致すべく勅碇之事。(『九条尚忠文書』一)と述べている。勅碇中には『大樹公賢明』などの語もあり、幕府の態度を責める厳しい語句もなく、文体はかなり緩和されたようである。」 この勅諚は討幕、倒幕どころか「徳川御家を扶助」の語句も添えられており、かなり穏やかな内容のものですが、それでも朝廷の勅許を得ずに通商条約を調印したことや水戸・尾張の両家を慎に処したことなどを問題にしており、また形式的にも朝議に関白・九条尚忠が欠席しているのに勅諚を下すことを決定していること、幕府のみならず水戸藩にもこの勅諚を下したこと等が井伊直弼として幕府の権威を犯すものとして見過ごせなかったようですね。
2008年07月24日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 今夜(7月20日)放映のNHK大河ドラマ「篤姫」29回目のタイトルは「天璋院篤姫」でしたが、篤姫(宮崎あおい)から家定(堺雅人)が死去したことを知らされた側室・お志賀(鶴田真由)や生母・本寿院(高畑淳子)の篤姫への言動が彼女の悲しみと苦悩をさらに深めさせる様子がとても印象的に描かれていました。 篤姫は、滝山(稲盛いずみ)から家定が死去したことが公表されるまで本寿院やお志賀にも隠しておいてほしいと頼まれます。しかし、愛する家定の死を今まで知らされなかったことに悔しい思いをしていた篤姫は、本寿院やお志賀に事実を伝えないことに良心の呵責を強く感じます。また自分が家定にハリスとの会見を勧めたり将軍継嗣の問題でその考えをずねたりしたことが彼の死を早めたのではないかとの責任も感じるようになります。 そんなときにお志賀がお菓子を持って篤姫の部屋を訪れ、公務に忙しくて仏間にも顔をも見せない家定の身に不安を感じ「もしや公方様は……」とその安否を尋ねます。篤姫は「そなたの思っておる通りじや」と言い、「すでにこの世の方ではない」と事実を伝えます。家定の死を知ったお志賀は、「たびたびお渡りがあったのに、なぜ公方様のお体のご様子にお気付きになられなかったのか。お恨み申し上げます」と篤姫を激しくなじります。そんなお志賀の批判を篤姫は「責められても恨まれても仕方がない」と全面的に受け入れ、本寿院にも家定の死去の事実を正直に伝えねばならないと思います。 自室で花を活けていた本寿院は、篤姫から我が子・家定の死を知らされて茫然自失となり、「そなたが毒殺したのであろう」と言いながら篤姫を花などで激しく打擲(ちょうちゃく)しはじめます。滝山がそんな本寿院の行為を止めようとしますが、篤姫は「父上の死も上様の死も知らされず悔しい思いをしました。まして我が子の死を知らされなかったことの辛さや悲しみはいかばかりか……」と言ってなされるがままになっていました。 安政5年8月26日(1858年10月2日)に篤姫は夫・家定の菩提を弔(とむら)うため、落飾して天璋院と名乗ります。同じくお志賀も落飾し大奥を出て桜田にある御用屋敷に移ることになり、天璋院の許に分かれの挨拶を言いにやってきます。そして自分の責任に涙する天璋院の姿を見たお志賀は、「なぜお泣きになるのですか。御台様は公方様から愛された。しかし公方様は私に童のような姿はお見せになったが愛しては下さらなかった。愛されずに終った女から見れば、いつまでも悲しみに暮れておられるのは贅沢です」と言って天璋院を励まします。 そのお志賀の言葉に励まされた天璋院は、亡き家定が篤姫に託した思いに応えねばならぬと思い、大老の井伊直弼(中村梅雀)と会って家定の遺志について問いただしますが、井伊直弼は「大奥におわす方が政に関わるなどということは聞いたこともございません」と言って家定の遺志など聞いていないとしらを切るのでした。 さて、バルダさんから「ドラマのように久光とは、あんなに仲良くあったのでしょうか。。。/久光は斉彬の意思を継いでいないように思うのですが。。。」とのご質問をいただきました。今夜の篤姫ドラマでは、後に久光と称する様になった島津忠教(山口祐一郎)が小松帯刀(瑛太)に、「斉彬の遺志を継いで京に上り、幕府を変えて行きたい」と語っていましたが、実際に久光は4年半ほど後にそのことを実行に移しています。また、芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、「斉彬の久光への信頼は強いものがあったと考えられる」としており、「このことをよく物語る話を勝海舟が伝えている」としてつぎのようなエピソードが紹介されています「海舟は長崎海軍伝習所の威臨丸(日本丸)で、オランダ人教官や伝習生などとともに安政五年三月と五月の二回、鹿児島を訪問した。海舟の日記によると、五月訪問の時、斉彬は一族高貴の二十数名に、見聞を広めさせるために威臨丸を見学させた。その時、斉彬は、そのうちの一人を海舟に紹介して、こう言った。『これは島津周防(久光)という者だ。実は自分の弟である。彼は若いころから学問を好み、だから、その見聞の広さと記憶力の強さには、わたしも全く及ばない。また、その志操方正厳格な(正しく厳しい考えを守っている)ことも、私に勝っている』と激賞したという。久光の長所をよく指摘した言葉であり、それを認め、信頼した言葉と受け取ってよかろう。」
2008年07月20日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 篤姫(宮崎あおい)が家定に「御心に添うて参ります」と言い、大老や将軍継嗣について愛する夫の家定(堺雅人)の意思に同調させたことについて「非常な抵抗を感じました」と私は書きましたが、それに対してバルダさんは「私はなぜか、あまり違和感を感じませんでした。/『御心に添う』のが『私の意志』というか^^;/恋する女心ってものなのでしょうか。。。」とのコメントを下さいましたね。 うーん、そうでね、旅館の女将さんの譬え話があまり適切ではなかったかもしれませんね。現代社会では公私の区別を明確にすることが求められていますから、「篤姫」ドラマが時代劇だとしても、自立的に思考する女性として描かれてきた篤姫が公的な人事(大老や将軍継嗣の選定)について、選考対象となっている人物やその考え方について客観的に評価することを突然放棄し、私的な心情(篤姫の家定に対する愛情や信頼)に任せて家定の「御心に添うて参ります」と言ってしまっていいのかなということなんです。 でも、篤姫ドラマの製作者は篤姫と家定とが愛情と信頼を深めていく過程を実に巧みに描いており、多くの視聴者は「公私混同」なんて野暮なことを今回の篤姫の「御心に添うて参ります」発言に感じたりすることはなかったようですね。それどころか、多くの視聴者がそれに抵抗を覚えることなく素直に共感したといことは、篤姫ドラマの製作者のエンタテイメント提供者としての手腕を大いに評価すべきなのでしょうね。 ところでバルダさんはご自身運営のブログ「オペラ座の書庫」の「尊皇 攘夷 倒幕 開国」で「篤姫」ドラマとの関連でいろいろ幕末について再整理をしておられますね。その真摯で熱心な取り組み姿勢には大いに敬服させられますし、また「同好の士よ! 寺子屋・やまももさんちに集合です^^」なんて書いてくださっていることには赤面しています。 それでも「ブタも誉めれば木に登る」と言いますから、ポンコツ山のタヌキも嬉しくなってバルダさんの「斉彬って倒幕なんですね?/幕府の中にあって幕政改革をする…と篤姫には告げていたと思いますが、/眼差しはもっと先の『倒幕』にまであった/それが、ドラマで「新しい国つくり」みたいな言葉で言われていましたね」とのご見解について、コメントさせてもらいます。 まどれーぬさんが「今までどおり徳川幕府に政権を担ってもらいましょ!と思っている人たちは/佐幕派 (補佐の佐、と 幕府の幕で)で良いかと思います。 (^.^) 」とコメントしておられますが、一橋派や同グループに属する斉彬もやはり「佐幕派」であり、従来の譜代大名出身の老中による幕閣独裁体制を改めて、親藩外様の雄藩連合体制によって英明な将軍継嗣を支える体制を新たに作り出し、そうすることによって将軍権力の強化を図り、日本の危機を打開しようと考えていたと思われます。 ですから、一橋派の島津斉彬も将軍権力の強化を目指す「佐幕派」だったと思います。そんな斉彬は、安政5年3月(1858年4月)に勝海舟と薩摩半島南東の山川港で会った後、海舟に出した手紙において、京の朝廷が外国の開国要求に対して勝利できる見込みもないのに「攘夷」を主張し、さらに浪人達がそれに便乗して騒ぎ立てていることに対し、「誠二可歎事卜存候」と憂慮し、やはり「現事二臨ミ候へハ武家二御任セ之外有間シク」と書いています。斉彬は、これまで政治の実権を握ってきた武家の役割を強調しており、当然その武家たちを統べる征夷大将軍すなわち徳川将軍の存在を重んじていたと思います。 なお、歴史研究者の中には、井伊大老が幕府において実権を掌握したとき、斉彬がそんな幕府との武力対決を考えるようになったとする人もいるようですが、芳即正『鹿児島史話』(高城書店、2006年9月)の第一章「安政五年西郷隆盛への島津斉彬密命」では、歴史研究者諸家の説を検討し、鮫島志芽夫『島津斉彬の全容』の「結論を言えば、斉彬は井伊大老との対決は避けて上京(参勤・出府)を延期し次の機会を待ったであろうというのが私の調べた多くの資料が示す見方である」との言葉を引用して「鮫島説の通りと思われる」とし、「当時斉彬は公武一和を考え、そのための根回しを西郷に命じた。というのが実相ではないでしょうか」としています。なお、「公武一和」とは、朝廷と幕府とが対立するのではなく仲睦まじくすることをいいます。
2008年07月17日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 近松門左衛門は「芸というものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」と言ったそうですが、NHK大河ドラマ「篤姫」もバルダさんがおっしゃる通り虚と実を巧みに織り交ぜて「絶妙なフィクション」を創り出していますね。特に篤姫や彼女と絡む主要人物については、史実にないエピソードをいろいろ挿入し、そうすることによって現代社会に生きる私たち視聴者でも大いに共感できる人物像に作り変えていますね。 しかし、前回(7月6日放映の27回目「徳川の妻」)の篤姫ドラマでは、篤姫(宮崎あおい)に従来の中立的立場を放棄させて徳川の嫁として生きる道を選ばせていましたが、その結果として彼女は大老や将軍継嗣についても愛する夫の家定(堺雅人)の「御心に添うて参ります」と彼の意思に同調させていました。うーん、どうなんでしょうか? 自分の意思を大切にする篤姫のキャラクターに重要な修正が加えられたように感じましたが、人は恋をすればそのキャラクターもガラッと変わってしまうものなのでしょうかね。私は首を傾げながら家定の口調を真似て「そちらしくはないのう」とつい言ってしまいましたよ。 また篤姫は将軍家の御台所であり、老舗の旅館の女将さんではありません。旅館の女将さんなら、旦那にぞっこん惚れているめに、彼の意見に従がって調理場(板場)を取り仕切る板長を新たに変えたって特に問題はないでしょう(従業員から総スカンを食うかもしれませんが)。しかし、幕府の大老や将軍継嗣を誰にするかということは多くの人々の生活に大きな影響を与える可能性があります。そんな重要な事柄について、徳川将軍・家定の意向に安易に同調して「上様の御心に添うて参ります」と言う篤姫の発言に私は非常な抵抗を感じました。史実ならともかく、ドラマの篤姫には後台所としてのノブレスオブリージュ(高い地位にある人が持つべき倫理感・責任感)を堅持してもらいたかったですね。おっと、そんなことを言ったら篤姫と家定のプラトニックな愛のドラマに陶酔していた多くの視聴者から「KY」(空気が読めない)なオッサンだと総スカンを食うかもしれませんね。 ところで、ずっと前(6月4日)のことですが、私が拙ブログにアップした拙文「篤姫の将軍継嗣問題についての複雑な動き」にバルダさんがコメントを寄せて下さり、「斉彬はなぜ斉昭…水戸派なのでしょうか?/人気は紀州派にあっても、/政治的な実権が水戸派にあったからでしょうか」と質問しておられましたね。 斉昭を中心とする「水戸派」というより一橋慶喜を将軍継嗣に推す[一橋派」に島津斉彬が加わっていたと考えますと、やはり7月6日に放映されました27回目「徳川の妻」がバルダさんの疑問に大切なヒントを与えてくれるでしょうね。松平慶永(矢島健一)が将軍の前で列公会議という仕組みについて語り、「力のある諸侯が連合して政治を行うもの」であると説明していました。勿論、実際に松平慶永が将軍の前でそんな意見を述べたという記録があるとは思えませんが、史実として、松平慶永をリーダーとする「一橋派」は、一橋慶喜を将軍継嗣とするとともに、従来の譜代大名出身の老中による幕閣独裁体制から親藩外様の雄藩連合体制を作ることによって日本の危機を打開しようと考えていたようです。そんな一橋派の構想に、屈指の雄藩でありながら外様であるためにこれまで政治の中枢で発言力を充分に発揮できなかった島津斉彬が賛同し、その運動に積極的に参加していくのは当然のことでしょうね。 なお、山口宗之「松平春嶽と将軍継嗣問題」(三上一夫・舟澤茂樹編『松平春嶽のすべて』、新人物往来社、1999年12月)には、松平春嶽のブレーンだった橋本左内が安政4年11月28日(1858年1月12日)に村田氏寿宛に出した書簡が紹介されています。同書簡によりますと、将来は積極的に開国して外国貿易をさかんに行って富国強兵をもたらさねばならぬとし、そのために「旧来の老中執政を改めて、春嶽・斉昭・斉彬を国内事務、佐賀藩主鍋島直正を外交事務担当の最高責任者とし、尾州慶恕を京都警備、伊達宗城・高知藩主山内豊信(容堂)を北海道開拓にあて、それぞれの部門ごとにその他の有志大名・幕府部内の有能な吏僚層さらに諸藩士を配し、ひいては浪士・学者らの有能者を登用するはもちろん、いわゆる乞食・雲助の類いをも水夫に採用し北海道の現場作業に携わせる」といったプランを提起しており、被支配層を包み込んで総力を結集した新体制の創設を説いています。
2008年07月15日
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今夜(7月13日)のNHK大河ドラマ「篤姫」28回目「ふたつの遺言」では、篤姫(宮崎あおい)にとって掛替えのない大切な存在であった養父・島津斉彬(高橋英樹)と夫・家定(堺雅人)の死去をほぼ同時に知らされ、彼女は悲嘆の涙を流すことになります。 将軍の命を受けて大老となった井伊直弼((中村梅雀))は、安政5年4月25(1858年5月25日)に将軍・家定に拝謁して紀伊の徳川慶福((松田翔太)が世継ぎとなったことを公にすることを願い出ますが、そのとき家定から「慶福が成長するまで御台を後見とする」との意思が伝えられます。そのとき、井伊は決して本心から納得してはいませんが「しかと承りました」と返事しています。家定はさらに堀田正睦(辰巳拓郎)も呼んで篤姫を慶福の後見とすることを伝えますが、その直後に発作を起こして倒れてしまいます。 大老となった井伊直弼は、隣国の清国(当時の中国)を武力で屈服させた英仏の勢力が日本にも及ぼうとする情況下、その前にハリスと日米の通商条約を締結することが得策と判断し、勅許を朝廷から得られぬまま安政5年6月15日(1858年7月25日)に日米修好通商条約を締結します。そんな井伊直弼は、堀田正睦をまず登城停止にし、さらに老中の職から罷免してしまいます。また松平慶永(矢島健一)、一橋慶喜(平岳大)、徳川斉昭(江守徹)が井伊に対して朝廷の勅許を得られぬままハリスと通商条約を結んだことに異を唱えために、彼等に慎(つつしみ)、登城停止、隠居という重い処分を下します。 その頃、薩摩では島津斉彬が西洋式軍隊の訓練に勤しんでいました。それは琉球王子の天皇拝謁に付き従うことを口実に西洋式軍隊を率いて京に上り、さらに幕府と日本国の改革に着手しようと密かに考えていたからでした。ところが、炎天下の訓練中をしていた安政5年7月8日(1858年8月16日)に斉彬は突然病で倒れてしまいます。死期が近いと知った斉彬は腹違いの弟の島津忠教(山口祐一郎)を枕もとに呼び、彼の嫡男の又次郎を自分の跡継ぎにし、忠教をその後見役になるよう遺言します。 そんな斉彬死去の知らせは江戸大奥の篤姫にも届きます。その衝撃的な事実に愕然とした篤姫は、前に届いたまま文箱にしまっていた斉彬の手紙に初めて目を通します。斉彬は、その手紙の中で、篤姫を自分の養女にして将軍家に嫁がせて彼女に心労を重ねさせたことを詫びるとともに、「そちと薩摩はいずれ敵味方になる日が来るやも知れぬ」と予言めいた言葉を残していました。またさらに「おのれの信じる道を行け」と書いていました。斉彬のいまや遺言となってしまったこの手紙に篤姫は涙を流すのでした。 しかし、篤姫はさらに悲しい知らせを受け取り涙を流さねばなりませんでした。大奥御年寄の滝山(稲盛いずみ)と老中の久世広周(志賀廣太郎)が篤姫の部屋にやって来て、将軍が「薨去(こうきょ)あそばされました」と伝えのでした。慌てて家定の棺が安置されている部屋に駆けつけた篤姫は、夫の家定の臨終に立ち会えなかった悔しさと悲しみに激しく泣き崩れるのでした。
2008年07月13日
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今夜(7月6日)のNHK大河ドラマ「篤姫」では、慶喜(平岳大)、慶福(松田翔太)のどちらにも味方しなと中立宣言をしていた篤姫(宮崎あおい)が、その考えを改めるようになり、家定(堺雅人)に謝罪して、「徳川家に嫁ぎながら、これまでは徳川家の人間ではなかった」とし、「これからは将軍家の人間として生きてまいります」と宣言しています。 なお、滝山(稲森いずみ)から彦根藩の藩主・井伊直弼(中村梅雀)を大老にするための嘆願書への賛同を求められた段階では、篤姫はまだ中立の立場を取り続けており、即答を避けていました。 また、京から戻った堀田正睦が、家定に拝謁して朝廷から通商条約締結の勅許を得られなかったことを謝罪するとともに、越前藩の松平慶永(矢島健一)を大老に推したため、家定が篤姫に大老として松平慶永、井伊直弼いずれが相応しいかを判断するための補佐をしてくれと依頼したときも、あくまでも中立の立場で客観的に人物評価をしょうとします。 将軍の前で大老候補の二人が政(まつりごと)のあるべき姿に語りますが、松平慶永は、列公会議という仕組みを考えているし、それは力のある諸侯が連合して政治を行うもので、ドイツに範を取ったものであると説明しています。それに対し、井伊直弼は、政(まつりごと)はすべて徳川将軍家に一任されており、それを譜代大名と直参が支えもり立てていくべきものであるとし、外様ふぜいなどに口出しさせるべきではない述べます。 両者の面接を終えた家定は、松平慶永の考えだと徳川家は数ある大名の一つに過ぎなくなってしまうとし、徳川将軍家を守りもり立てることをなによりも大切とする井伊直弼を大老にすることに決めたと篤姫に言います。そして、「御台、わしは将軍家を残したいと初めて思うたのじゃ。残したならば、そなたやその子孫を守っていくことができる。わしの家族をじゃ」とその思いを伝えます。この言葉が篤姫の心を強く動かし、彼女は従来の中立的立場を投げ捨て、徳川の嫁として生きる道を選ぶことになります。 そんな篤姫を信頼した家定は、世継ぎとして紀州の徳川慶福を選びますが、それは若い慶福ならば篤姫がその後見役として力を発揮することが出来るであろうと考えたからでした。そして家定は言います。「生まれ変わったら鳥になりたいと前には言ったが、わしはわしでよかった。そちに会えたからな……」。 さて史実では、将軍の前で松平慶永と井伊直弼が大老に就任した場合の抱負を語ったり、それを篤姫も将軍の側で聞くといったことは勿論なかったようですが、ではどのような経緯で大老に井伊直弼が就任したのでしょうか。 吉田常吉『安政の大獄』(吉川弘文館、1991年8月)によりますと、京の朝廷から通商条約締結の勅許を得られなかった堀田正睦は江戸に戻った後、安政5年4月21日(1858年6月2日)に「将軍に謁して松平慶永の大老推薦を言上したところ言下に一蹴され、にわかに直弼の大老就職が決定した」とのことです。堀田正睦が松平慶永を大老に推したのは、朝廷側の意向が将軍継嗣問題では一橋慶喜にあるとの感触を得て、そのために「一橋派に転向した」からだとのことです。 なお、吉田常吉の同上書によりますと、井伊直弼の大老就任のために画策していた人物の一人が信濃上田藩の藩主・松平忠固だったそうで、反徳川斉昭派の彼は、「口では慶喜擁立に賛意を表していたが、内実は直弼と同じく南紀派」であり、「おそらく忠固は南紀派を動かして、大奥を初め将軍の側近まて、周到な根回しをして、一気に直弼を大老に担ぎ出したとみられる」としています。 また吉田常吉の同上書には、大老となった井伊直弼に伊予宇和島藩主で一橋派の伊達宗城が安政5年4月27日(1858年6月8日)に会見したとき、将軍継嗣問題でつぎのような対話かなされことを紹介しています。伊達宗城が「時局重大な折、継飼の決定が急務であり、京都を初め諸大名は慶喜を推挙し、昨年来慶永も堀田閣老に申し入れているが、すでに評議に及ばれたか」と井伊直弼に尋ねたとき、直弼はこれに答えて「血縁が近く、前将軍家慶の台慮からも、紀伊慶福を措いて他に求むべき者がなく、慶喜も勝れた方ではあるが、実父の斉昭は怪(け)しからぬ人で、いかなる非望を企てないとも限らない」とし、また「将軍の意向が慶喜にはなく、ことに本寿院は格別慶喜を忌み嫌っていかんともなし難く、もし慶福を継嗣に定めた場合には、幕議に従い、従来通り二心なく忠勤を励まれたい」と逆に伊達宗城を説得したそうです。
2008年07月06日
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6月29日放映のNHK大河ドラマ「篤姫」26回目「嵐の建白書」では、幕府の老中首座の堀田正睦(辰巳拓郎)がハリスの求める通商条約締結の勅許を朝廷から得るために京に赴きますが、彼の予想に反して朝廷から勅許を得ることができませんでした。篤姫(宮崎あおい)が家定(堺雅人)との会話の中で、「天子様は大の異人嫌いで、しきりに攘夷を唱えておいでだと聞いておりまする」と言っていたように、なによりも孝明天皇(東儀秀樹)が「異人を国に入れては皇祖皇宗に申し訳ない」という思いから勅許を出そうとしなかったからです。 しかし、江戸幕府の長年の支配の中で、朝廷が幕府の意向に反して勅許を出さないようなことはこれまでありませんでした。孝明天皇が個人とし大の異人嫌いだとしても、なぜこのときに幕府の求める通商条約締結の勅許を出さなかったのでしょうか。そのことがとても気になりましたので、同問題に関連する史実をいろいろ調べてみることにしました。その過程で家近良樹『幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白』(中央叢書、2007年10月)がとても興味深い考察を行っていることを知りましたのでご紹介したいと思います。 同書によりますと、「孝明天皇は、世界史の流れを知らない無知蒙昧であったがゆえに幕府の開国通商路線に立ちふさがることになったわけではない」としています。それどころか、彼は明晰な頭脳と論理的な判断力の持ち主で、また当時の国内外の事情にもかなり豊富な知識を持っていたそうです。なかでも当時太閤の地位にあった鷹司政通が積極的に孝明天皇に提示していた情報は大きな意味を有していたとのことです。 それらの情報の中には、前水戸藩主の徳川斉昭からのものもありました。彼は鷹司政通とは義弟関係で、そんな彼から様々な内外の情報が書簡で伝えられ、それが鷹司政通を通じて孝明天皇の伝達されていました。ですから、徳川斉昭が書簡に書いた将軍・家定についてのつぎのような内容も鷹司政通から孝明天皇に知らされたそうですよ。「大将軍(=徳川家定)にては、伺いに出で候者(を)御うるさく思し召し候故、あい成るだけは伺い候事もあい成らず候よし、何事も御分りこれ無き故なり、御庭の鵞鳥(がちょう)家鴨(あひる)など追っかけ給ふ哉、または御側にて豆など煎りまたは菓子などを製して下され候位が御慰のよし、(中略)異国艦などの事はいっさい御分りもなく候て恐入事のみなり、徳川の天下は御失にあい成るとも、やむなく候得共、左候時は京地迄も失ひ侯様にあい成るべく、恐入るの上なしなり」 徳川斉昭は、このように家定のことをなごとも理解できない愚昧な人物だとし、ガチョウ、アヒルを追いかけたり豆を煎り菓子を作ることが好きなくらいで、外国船の事情などについては理解などできはない、と書いているのですね。また堀田正睦についても痛烈な批判を加えた書簡が徳川斉昭から送られており、こんな斉昭からの情報を得た孝明天皇は幕府に対して不信感を覚えたとでしょうね。 しかし、このような幕府情報が孝明天皇をして通商条約締結の勅許を出させなかった決定的な原因となったわけではないようです。同書は、「もし幕府が唯一の中央政権として、自らの判断で条約に調印し、そのことを一方的に朝廷に通知したなら、孝明天皇は、これほど悩まないで済んだといってよい。ところが、幕府はそうしなかった」とし、「天皇(朝廷)の同意をえて、挙国一致という形で開国しようとした」ために、孝明天皇がもし勅許を幕府に与えれば、「天皇(朝廷)にも重大な責任が負わされることになった。それに加えて、たとえ形式的にせよ、自分が日米修好通商条約の調印をすんなりと認めてしまうと、日本全土が内乱状態になるのではないかとの思いが天皇のなかに燃えあがり、どうにもこうにも結論をくだせなかったことも理由の一つに数えられよう」としています。 幕府が朝廷の権威を利用して通商条約締結についてのコンセンサスを得ようとしたことが、天皇に重大な責任を負わすことになり、その結果、彼は大いに悩んで結論が下せなくなったというのですね。同書から浮かび上がってくる孝明天皇像は、幕府に毅然と対決する豪胆な性格の持ち主でもなければ、無知蒙昧な排外主義者でもないようです。
2008年07月02日
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今夜(6月29日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の26回目「嵐の建白書」では、将軍継嗣の問題と米国総領事のハリスが求める通商条約の問題を巡って一橋派と紀伊派の対立が一層複雑で慌しい情況を呈していく様子が描かれていました。 紀伊の慶福(松田翔太)を推してる大奥の本寿院(高畑淳子)は、同じく慶福を推している井伊直弼(中村梅雀)と会見して慶福の継嗣実現のために協力を要請します。同じ頃、鹿児島に居る島津斉彬(高橋英樹)は幕府に建白書を提出し、外国との通商を認めることと一橋慶喜(平岳大)を将軍継嗣とすることを求めますが、その情報は井伊直弼を通じて大奥の本寿院にすぐに伝えられ、本寿院は「おのれ、正体を現わしおったな、こうなったら御台を殺して自害するとまで」と激昂します。 斉彬の建白書の件を知った篤姫(宮崎あおい)は、なぜ今になって養父の斉彬が建白書を出してきたのかと思案し、自分が斉彬から受けた使命を果たさないでいることがこのような建白書提出に繋がったのかであろうと責任を痛感させられます。そのため、家定(堺雅人)に呼ばれたとき、篤姫は「上様にお願いがございます。どうか次の将軍を慶喜様にしていただけないでしょうか」と言い、家定の「それは薩摩の父に従おうとしてのことか」との問いについ本心を隠して「違います、私の考えです」と偽りの返事をしてしまいます。それに対し、家定は「そちは前に慶富(松田翔太)が相応しいと言っていたではないか。そちだけは信ずるに値するおなごじゃと思うておったってのに」と言って立ち去ってしまいます。 しかし、久しぶりに家定が篤姫の許に「おわたり」した夜、家定は「先日はすまなかった。そちの立場を考えれば仕方のないことじゃ」と謝り、それに対し篤姫も「申し訳ないのは私の方でございます」と謝り、さらに将軍継嗣について「正直言ってどちらがいいのか分からないのです」と告白した後、「私は決めました。自分の心に従います。どちらも推すことを止めにいたします」と言うのでした。そして、家定が火鉢で焼いて勧めてくれたお餅を笑顔で食しながら、目からは自然と暖かな涙が流れ落ちるのでした。 このお餅の場面はとても印象深いものがありましたが、さらにその後の二人の会話もホロリと泣かせるものがありました。家定が「今度生まれ変わったら何になりたいか。わしは人でないものなら何でもよい。そうじゃ、鳥になって好きな場所に好きな時に飛んで行きたい」と言い、篤姫はどう思うかと質問します。そのとき彼女は「私は生まれ変わっても私のままでいたいと思います」と答えています。しかし、家定からその理由を問われると恥じらいの表情を見せて言葉を濁してしまいます。そして家定が寝入った後、小さな声で「私が私でなければ、あなた様にお会いできませんでした」とつぶやくのでした。嗚呼、これぞ純愛ですね。 さて、今夜のドラマに島津斉彬が建白書を幕府に出した話が出てきましたが、史実してはどのような情況の中で出された建白書だっのでしょうか。 高木不ニ『横井小楠と松平春嶽』(吉川弘文館、2005年5月)によりますと、一橋慶喜を将軍継嗣として早くから強く推し運動していたのは越前福井藩の松平慶永(春嶽)でしたが、阿部正弘が安政4年6月(1857年8月6日)に他界し、さらに老中堀田正睦を首班とする幕府が同年7月に徳川斉昭を海防参与から免じたため、一橋派の二人の二大チャンネルを失ってしまいます。このような情況の中で、松平慶永は橋本左内を中心に幕府への直接的働きかけを再開するとともに、同年10月には蜂須賀斉裕とともに堀田正睦に一橋慶喜を継嗣とするよう建白書を提出しています。なお同書は、福井藩の将軍継嗣運動には、幕藩制国家体制と異なる「幕藩連合国家構想」とも言うべきものがあると指摘しています。 このような松平慶永の動きに呼応して、島津斉彬も一橋慶喜の将軍継嗣実現の動きを顕在化し、安政4年12月25日(1858年2月8日)には幕府に建白書を提出しています。なお、芳即正の『鹿児島史話』((高城書店、2006年9月)の第8章「西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の奇跡―」)には、斉彬が安政4年12月25日に幕府に出したこの建白書の大意がつぎのように紹介されています。l、 通商条約は許したが良い。2、 外国人が入り込むようになると、人心の統一が必要。そのため将軍継嗣の決定が第一で、継嗣には器量・年輩・人望のそろった一橋慶喜が適当である。3、 諸大名の奢侈を一洗、武備十分の手当を命ずること。 この斉彬の建白書で、将軍継嗣の件について原文はどのように述べているのか確かめましたら、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第2巻のが359頁に「亜米利加官吏登営後御建言」という史料が載っており、つぎのようなことが書いてありました。「就右外夷入込侯様成行候儀ハ、人心ヲ固結イタシ候儀専要ニテ、第一ニハ/西丸 建儲之御事卜奉存候、乍然是迄 儲君不被為建人心不安二奉存候折柄故、少モ早儲君御治定被仰出候ハ、上下一同人心安堵、/皇国ノ御鎮護モ弥根剛ク相成可申、勿論/御血統御近キ御方、当然之御事ニハ御座候得共、斯ル御時節ニ御座候得ハ、少ニテモ御年増之御方、天下人心之固メニモ可相成、然レハ一橋様御事、御器量御年齢旁外ニハ被為在間敷奉存候、/御台様御入輿為在候御事故、偏ニ御出生ヲコソ可奉待儀ニ御座候得共、当時之形勢ニテハ一日モ早ク御養君被 仰出度奉存候」 これを現代語訳にしますと、つぎのような意味になると思います。「外国人が入り込むと、人心を一つに固く結びつけることが大切であり、そのためにまず西丸(将軍の世子)を決められることがなによりも重要なことであります。しかしその世継ぎの君がまだ決められていないために人心が定まらないでおります。ですから、少しでも早く世継ぎの君をお決めになられたら身分の上下を問わずみんな安心することでしょうし、皇国(天子の治める日本国)の護りもさらに強固なものとなることでしょう。勿論、世継ぎの君となられる方は現将軍との血統が近いことが好ましいことは言うまでもありませんが、現在のような厳しい情勢下にあっては少しでも年齢が高い人の方が天下の人心を一つにするのことになるのではないでしょうか。そう考えますと、一橋(慶喜)様以外には御器量、御年齢から言っても考えられません。御台所様(篤姫)が入輿されましたから、お子様の御誕生をなによりもお待ちするべきなのでしょうが、現在の情勢では一日も早く御養子をお決めになられるべきだと思います。」
2008年06月29日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 家定がハリスと会見したとき、高く積んだ畳にふんぞり返って新入りに「おい、てめえはいってえどんなことをやらかしたんだい」なんてドスをきかせる「牢名主」のように威張っていたわけではないようですね。 歴史作家の桐野作人さんのブログ「膏肓記」の「家定とハリスの会見」では、このときのことを史料に基づいてとても詳しく紹介しておられますが、ハリスの日記とともに日本側の「温恭院殿御実紀」という文献にも基づいて、将軍が「御上段へ七重の御厚畳、錦を以て之を包む」場所に坐っていたとの記述があるとしておられます。 しかし、ドラマでは山と積まれた畳の上に床机を置いて家定は坐っていました。このことについて、バルダさんは「宮崎・篤姫らしいアイディアを出すためかしら?」と書いておられますが、おそらくそうでしょうね。堺雅人演じる家定から「将軍として威厳を持って会見するにはどうすればよいか」との相談に、宮崎あおい・篤姫ならではのとんでもないアイデアをひらめせ、畳を山のようにどんと積み上げましたが、バルダさんとしては胸をドキドキされたようですね。家定が桜島か富士山のような高い場所からころげ落ちはしないかと心配されのでしょうか。しかし、堺雅人演じる家定は幸いにして高所恐怖症ではなかったようですし、それどころか篤姫のアイディアに大いにワル乗りして歌舞伎のような大見得さえも切っていますね。なかなかドラマとして楽しい演出だと思いました。 それから、「あと、ドラマの中では土足でしたが、/実際にもそうだったのでしょうか」とのご質問ですが、前に紹介しましたタウンゼント・ハリスの日記(坂田誠一訳『日本滞在記』下巻、岩波文庫、1954年10月)によりますと、「短靴」を履いたまま江戸城の謁見室に入ったそうで、そのことを同行した信濃守(下田奉行の井上清直)たちは何も言わなかったそうです。中国で起ったアヘン戦争(1840年)等の情報から、大砲を積んだ欧米の黒船の威力を知らされていた幕府側の実務者たちとしては、ハリスが江戸城に土足で入ったり、将軍に立ったまま挨拶したりすることを黙認するしかなかったのでしょうね。
2008年06月26日
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今夜(6月22日) のNHK大河ドラマ「篤姫」第25回「母の愛憎」は、家定(堺雅人)がめまいを起こして倒れたことから、彼の母親の本寿院(高畑淳子)が篤姫(宮崎あおい)を遠ざけようと画策する話がメインでした。 めまいを起こして倒れた家定でしたが、すぐに元気を取り戻し、再び篤姫の許に「おわり」しょうとします。しかし、篤姫が一橋慶喜を推していると知った本寿院は、家定に御台は具合が悪いと偽りを伝えて二人を会わそうとしません。そのことを知った篤姫は、直接本寿院の許に赴き、慶喜を推していたことを隠していたこと謝罪するとともに、「妻として上様を思う気持ちに嘘はありません。会いたいのです」と自分が心から家定を慕っていることを伝えます。これには本寿院もかなり心を動かされ、後で「私がまるで嫁いびりをしているようてはないか」とつぶやいていますが、それでもなお二人を会わそうとはしません。そのため、家定とずっと会えないでいる篤姫は、幾島(松坂慶子)に「妻としてでなく、一人の女として会いたい」と心情を吐露しています。 篤姫に会えなくなった家定の方も、本寿院が嘘をついていることを見抜き、彼女の前で「御台はどこじや」と訊ね、「嫌じゃ、嫌じいゃ!」とまるで子どもが駄々をこねるように騒ぎ出し、そのまま卒倒してしまいます。しかしこれは家定のお芝居だったようで、目をあけた彼は布団から起き上がり、本寿院に向かって「これまでご養育下さり、誠にありがとうございました」と礼を言い、「他の兄弟がみんな死んでしまったのに自分だけが生き残って来れたのも母上様のお陰です」と感謝するとともに、「しかし、今や私は大人になりました。これからは、私が母上の心配をする番にございます」と自立宣言をし、そのまま篤姫の許に赴きます。 そして、久しぶりに再会した篤姫に家定は「そちがおらぬと面白うない。まるでこの世から色が消えてしまったようじゃ」と声を掛け、篤姫も「私もでございます」と応えています。本寿院が二人を引き裂こうとしたことは、結果として二人の心の結びつきを一層強める結果となったようですね。
2008年06月22日
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今夜(6月15日)のNHK大河ドラマ「篤姫」24回目のメインは、将軍の家定(堺雅人)と米国総領事タウンゼント・ハリス(ブレイク・クロフォード)との会見です。 家定と篤姫(宮崎あおい)との婚礼があった日から10ヶ月ほど過ぎたある夜、家定は篤姫の許に「おわたり」し、彼女にハリスとの会見についての不安を打ち明け、「将軍として威厳を持って会見するにはどうすればよいか、何か思いついたら教えよ」と相談を持ちかけます。篤姫に心を許し信頼しての相談でしょう。彼女はとても嬉しくなり、将軍として相応しいハリスとの対面方法を考案せねばと張り切ります。 篤姫は、ハリスが平伏して将軍に謁見するのではなく、立ったままで会おうとしていることを知り、老中首座の堀田正睦(辰巳琢郎)に命じてハリスの背丈を調べさせます。その結果、ハリスの身長が6尺(約1.8メートル)ほどと分かり、大奥の女中たちに謁見室へ大量の畳を運び込ませます。家定が坐る位置に畳を何枚も重ねれば、背の高いハリスを見下ろし、将軍としての威厳を示すことできると考えたのです。 会見当日、ハリスは靴をは履いたまま謁見室に入り、立ったまま将軍に挨拶しますが、家定は10数枚重ねられた畳に据えられた床机に座ってハリスを迎えます。そして、ハリスの挨拶を受けた後、家定はすっくと立ち上がり、まるで歌舞伎役者が大見得を切るような仕草をして返礼の言葉を述べます。後で彼が篤姫に語った話によると、ハリスの挨拶を聞いているとムラムラして来て、ついいつものように「うつけ」の振りをしてしまったとのことです。さて、ハリスはそれを見てどう思ったことでしょうかね。 なお、史実としては、将軍・家定は安政4年10月21日(1857年12月7日)に米国総領事タウンゼント・ハリスと江戸城で会見していますが、この会見の模様について、ハリスは自らの日記(坂田誠一訳『日本滞在記』下巻、岩波文庫、1954年10月) でつぎのように記録しています。 江戸城内の大謁見室で「沢山の彫像のように静座している気の毒な大名たち」の傍を通って単独の謁見室に入り、一人の侍従の高声な「アメリカ使節!」との声を聞いた後、西洋式の礼法に則って2回頭を下げて大君(将軍のこと)の前に進み出て、「陛下よ。合衆国大統領よりの私の信任状を呈するにあたり、私は陛下の健康と幸福を、また陛下の領土の繁栄を、大統領が切に希望していることを陛下に述べるように命ぜられた。私は陛下の宮廷において、合衆国の全権大使たる高く且つ重い地位を占めるために選ばれたことを、大なる光栄と考える。そして私の熱誠な願いは、永続的な友誼の紐によって、より親密に両国を結ばんとするにある。よって、その幸福な目的の達成のために、私は不断の努力をそそぐであろう」と挨拶を行います。 ハリスの挨拶が終わると、「短い沈黙ののち、大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいと反らしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。/『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は、永久につづくであろう』」。 また、ハリスの通弁官として江戸城に同行したヘンリー・ヒュースケンは、彼の日本見聞記(青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』、岩波文庫、1989年7月)の中で、会見した将軍にいてつぎのように記録しています。「奥に、国王陛下、すなわち日本の大君が床几のようなものに坐っていた。しかしそのあたりは暗い上に離れているので、ほとんど姿が見えない。天井から垂れ下がったカーテンが顔を隠している。ひざまずいている人たちにはよく見えるが、直立しているわれわれには無理である」としています。そして、ハリスの挨拶に対し、「大君は三度床を踏み鳴らし、そして日本語で答えた」そうですが、通訳森山多吉郎のオランダ語の訳によると「はるか遠国より使節に托して寄せられた書簡をうれしく思う。また、使節の口上もよろこはしく聴いた.末永く交誼を保ちたいものである」ということであっとしています。 今回のドラマに描かれたように、家定が何枚もの畳を重ねた上に坐ってハリスたちと会見したわけではないようですね。また立ち上がって芝居がかった大袈裟な身振りで返礼の言葉を述べたとも書いていません。おそら家定は、緊張して自然と首や足が動いてしまったのでしょうね。 さて、今夜の篤姫ドラマでは、紀伊の慶富(松田翔太)を推す近江彦根藩の井伊直弼(中村梅雀)らと一橋慶喜(平岳大)を推す越前福井藩主の松平慶永(矢島健一)らの争いが激しくなり、そんな状況下、幾島(松坂慶子)に島津斉彬(高橋英樹)から慶喜を家定に合わせるようにせよとの密書が届きます。それで、家定が篤姫の考案した畳積み重ねの会見方式のアイデアを非常に気に入り、「礼をしよう。ほしいものは何なりと申せ」と言ったとき、彼女は家定にハリスとの会見の場に慶喜を同席させてほしいと頼み込み、承諾してもらっています。この家定の優しい配慮に篤姫を思わず涙ぐんでしまいます。 しかし、家定は会見の後で篤姫に「ますます慶喜が好きでなくなった」と言い、今後もしかしたら国内が開国派と攘夷派に分裂するかもしれず、そんな日本国の未来や徳川宗家のことを慶喜は真剣に考える人間とは思えないと言っています。 また、慶喜が会見の場に同席していることを知った本寿院(高畑淳子)が、「御台所が仕組んだに違いない」と怒り出し、廊下ですれ違った篤姫に掴みかかっています。いよいよ将軍継嗣を巡っての対立は激しさを増すようです。
2008年06月15日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 史実では、将軍継嗣問題についての篤姫の真意はどこにあったのでしょうか。当時の大奥では、当時大きな影響力を持っていた本寿院、歌橋等の主流派はみな「水戸嫌い」だったため水戸家出身の一橋慶喜への反感も強かったようです。ですから、篤姫が「勢力争いに疲れて、なんとなく流されてしまう…」ような女性だったとしたら、大奥に入輿したばかりということもあり、大奥主流派に迎合してあっさりと紀州の慶福を支持したことと思います。 しかし、篤姫はなによりも自分の価値観・道徳観を重んじ、それに忠実に生きようとした理念型の女性のような気がします。そんな彼女は、養父の島津斉彬に対しては、「孝」を尽くすためにその意思に忠実に従おうと思ったでしょうし、夫の徳川家定に対しては「婦人は別に主君なし。夫を誠に主君と思ひて,敬ひ慎しみで事(つか)ふべし」ということで、やはりその意思に忠実に従おうとしたと思います。 それで、次期継嗣の候補として島津斉彬と徳川家定の考えが一致しておればなんら問題はなかったのですが、斉彬は慶喜を推し、家定は慶喜を嫌って慶福を候補と考えていたようですから、平重盛が後白河法皇への「忠」と父親の平清盛への「孝」のいずれかで迷い、「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」と言って悩んだように、彼女も養父の島津斉彬と夫の徳川家定の両者の意思のはざまで大いに苦悩したことと思います。またさらに篤姫が島津斉彬宛に出した書状につぎのように書いているように、斉彬が慶喜を推していることを家定が知って怒り出したというのですから、篤姫は身の細る思いだったことでしょう。「家定様のお考えはどうかと思い、本寿院様に相談して話してもらったところ、家定様はことのほかお腹立ちになり、どうして大名がそのようなことを言い出すのか。自分は一橋は嫌だし、大奥の皆も嫌っているのだから、このことは叶えることはできない(中略)なおまた斉彬までそんなことを言い出すということは、娘を御台所に入れたのに斉彬は将軍を侮っているのか、いったい何を考えているのかときつくきつくお腹立ちで、さっそく篤姫に申しつけて、このことは相成らぬと(斉彬へ)伝えるようにせよというのを、本寿院様が止められ、斉彬は篤姫を入興させたがゆえにこのように一大事のこと(世継ぎのこと)を深く徳川家のためを思われて申し上げているのです。いずれ老中・堀田正睦が帰ったら相談してくださいと……」(原口泉『篤姫 わたくしこと一命にかけ』、株式会社グラフ社、2008年1月) この手紙の後段で篤姫は、「このように大事な使命を受けておきながら、なんの結果も出せず、残念で、悔しくてたまりません。父上のお役に立てずにこのように手紙を父上に書いていて面目ない限りです」としていますが、夫の家定の慶喜嫌いのために篤姫は身動きできなくなり、結局は養父の斉彬から受けた使命を果たすことができなかったのでしょう。
2008年06月09日
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これまでのNHK大河ドラマ「篤姫」では、福山藩主で老中首座の安部正弘(草刈正雄)、薩摩藩主の島津斉彬(高橋英樹)、越前福井藩主の松平慶永(矢島健一)、伊予宇和島藩主の伊達宗城(森田順平)が一橋慶喜(平岳大)を次期将軍にするために慶喜の実父・徳川斉昭(江守徹)を交えていろいろ密議する様子が描かれていました。 そして前回22回目では、島津斉彬が安部正弘と一緒に一橋慶喜と面会し、彼に次期将軍の話を持ち出していましたが、それに対る慶喜の反応は驚くほど冷ややかなものでした。彼は、煙草をぷかぷか吹かしながら「火中の栗を拾えというのですか」と言い、外にはアメリカ等の諸外国が迫り、内には譜代大名と外様大名との不和があり、幕府は今後抜き差しならぬことになるであろうと冷静に分析し、「天下を獲ることほど骨の折れることないし、もし仮に天下を獲ったとしても上手く治められないなら、むしろ獲らずにいるほうがずっとよい」と言います。 後で安部正弘の屋敷に戻ったとき、斉彬は隣の間で控えている西郷隆盛(小澤征悦)に慶喜についての感想を聞きますが、そのとき西郷価は、評判通りの利発な人物とは思うが、頼りなく感じたとし、「無闇に自信ばかりが透けて見えました」と述べています。西郷の感想を聞いて、島津斉彬もうなずき、「いささか慢心ぎみにも見える。もう少し慎み深い御人であればよいのやもしれぬ」と発言しています。 なお、芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年3月)によりますと、斉彬が安政4年(1857年)に福井藩主の松平慶永に送った手紙の中で、「水戸老公の評判は散々」であると徳川斉昭の悪評を心配しながらも、その息子の一橋慶喜については、安政4年3月27日(1857年4月21日)に彼と「ゆっくり会談しました」として、そのときの感想として「早く世子と仰ぎたい御人物です。しかし『御慢心(おごりたかぶる心)の処を折角(せっかく)御つつしみ』なさるようにお話しになったら如何でしょう」とその欠点も指摘しています また、芳即正『鹿児島史話』(高城書店、2006年9月)の第8章「西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の奇跡―」によりますと、嘉永6年6月(1853年7月)に12代将軍・徳川家慶が死去し、家定が将軍職を継ぎますが、ぺリー来航以降の難局に対処するために有能な継嗣(あとつぎ)を内定し、将軍を補佐するこが幕政上の緊急課題となったとき、一橋慶喜を将軍継嗣に推して積極的に動き出したのが福井藩主の松平慶永だったそうです。しかし、一橋慶喜は自分を将軍継嗣として松平慶永が推している動きを知って、嘉永6年8月12日(1853年9月14日)に実父の徳川斉昭に書簡を出し、「この節、私を御養君にとのうわさがあると聞きました。天下を取るほど骨の折れる事はありません。骨折るから嫌という訳ではありませんが、天下をとってし損じるよりは、天下を取らないほうがずっとよいと思います。もしお聞きになる事がありましたなら、必ずお止め下さい」と申し送ったとのことです。 さて、今夜(6月8日)のNHK大河ドラマ「篤姫」23回目「器量くらべ」では、篤姫(宮崎あおい)の許に家定(堺雅人)の「おわたり」があった夜、篤姫は家定(堺雅人)に慶喜(平岳大)が嫌いな理由を質問します。それに対し、家定は逆に篤姫に慶喜と会ったことがあるのかと訊き、彼女があったことがないと返事すると、「あったこともない人物を薦めるとはあきれた話だな」と言います。それで篤姫は、家定に慶喜と会えるよう計らってもらいたいとお願いし、その願いは聞き入れられます。 しかし篤姫と対面した慶喜には全く覇気が感じられません。彼女からアメリカ総領事のハリスのことや我が国とアメリカとの関係について質問されても、「私が如き者が考えるごとではございません」と言い、また「自分は未熟者ゆえ、諸侯の期待に応える器量などございません」と言うだけで、とりつく島がありません。こんな慶喜と会って、篤姫はなぜ斉彬(高橋英樹)が慶喜に肩入れするのかと疑念を抱くことになります。 それで篤姫は「一方を聞いて沙汰するな」という母の言葉を思い出し、もう一人の将軍継嗣候補の紀伊家の慶福((松田翔太)とも会うことにし、菊見の宴に招きます。慶福は立ち振る舞いのりりしい若者で、勧められた御菓子が傷んでいると知ったときには、大奥の年寄たちが毒味役にそれを食べさせようとすることに対し、それは毒味役に不憫であり、「上に立つ者のすることではない」とたしなめます。 継嗣候補二人と面談した篤姫は、家定から二人の印象を聞かれ、「人の上に立つ器量を持っているのは慶福様だと思います」と正直に答えます。そのため、家定から「本心を隠さす、何でも正直に話す」と感心されます。家定は、そんな篤姫の真っ直ぐな心に勇気付けられ、将軍に面会を求めているハリスと会うことを決意することになります。
2008年06月08日
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masaさん、こんばんは、やまももです。 前回のNHK大河ドラマ「篤姫」では、家定(堺雅人)が篤姫の対して自分が「うつけ」のふりをしていたことを明らかにしましたね。同ドラマ公式サイトの「あらすじ」のページを見ますと、次回6月8日の23回目は「器量くらべ」だそうで、篤姫が次期将軍候補の慶喜(平岳大)と慶福(松田翔太)の両方に会い、自分の目で二人の器量を確かめようとするようですね。 ところで、masaさんはNHKの「土曜スタジオパークからこんにちは」をご覧になり、そこに出演していた「堺雅人氏が、家定の資料はアメリカの資料を参考にして、役作りを考えた」との発言を聞かれたそうですね。そのような地道な役作りの成果があらわれているのでしょうか、家定の陰影に富んだ人間像が描き出されており、多くの視聴者の心をひき付けていますね。 ところで、今年の8月の2・3日に鹿児島に行きれる予定なんですね。おそらく前にメールで書いておられた場所にも行かれ、いろいろ確かめられること思いますが、差し支えなければ私にも判明した事実を教えてくださいね。 それから、「ドルフィンポートの篤姫館には行ってみたいと、/妻と子供が言ってました」「やまももさんは、行かれましたか?/感想など教えていただければと思います」と書いておられますね。 私は今年の2月頃に篤姫館に見学に行っています。その頃、大河ドラマ「篤姫」では菊本の自害の話が放映されており、篤姫館の展示物の一つに菊本の遺書がありました。勿論、本物ではなく、展示されていたのはドラマの小道具として作られたものでした。そのことでも分かりますように、ドルフィンポートの篤姫館の展示物は、大河ドラマ「篤姫」で使用された衣装や小道具の展示や出演者の写真、ビデオによる紹介などがメインです。 NHK大河ドラマ「篤姫」は全国的に人気を博しており、その篤姫効果によって鹿児島へやって来る観光客も増えているそうで、ドルフィンポートの篤姫館の見学者も多く、今日のテレビの地元ニュースによると同館入館者が20万人に達したそうです。なお、5月16日から展示内容がリニューアルされたそうです。 しかし、篤姫関連の歴史資料を期待して見学に訪れた人は当てが外れると思います。
2008年06月06日
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バルダさん、こんばんは、やまももです。 バルダさんは、「高畑淳子さんの本寿院は、イメージ通り!という感じがします」と書いておられますが、息子の家定(堺雅人)の心中に隠された葛藤と苦悩などに全く気付くこともなく、彼に世継ぎが生まれることをただひたすら期待し、その他のことなどにはほとんど関心もなく、ただのほほんと暮らしている能天気なおばさんという感じですね。 イメー通りといえば、水戸の徳川斉昭を江守徹が演じていますが、去年2月末に脳梗塞のために倒れた後遺症でしょうか、いささか呂律が回らなくなった口調でいらただしげに過激な攘夷論を唱えている頑迷固陋な姿を見ていますと、実際の水戸烈公の斉昭もかくあらんと思わされます。また好色な狒々親爺の雰囲気も漂わせおり、大奥のみんなが水戸のトド様を嫌ったのもよく分かるような気がしますね。 ところで、昨日紹介しました「南日本新聞」6月3日掲載の「薩摩より御台所 篤姫さまお目見え」第5回目の見出しは「次期将軍に慶喜を 大奥の工作実らず」というものでしたが、次期将軍に慶喜を推す島津斉彬に対し、大奥に入輿した篤姫が複雑な動きをしているという興味深い事実が載っています。 同記事によりますと、「御台所となった篤姫は、養父で薩摩藩主・島津斉彬からの指示通り、一橋慶喜を将軍継嗣に決めるよう夫の徳川家定に働きかける。だが大奥が嫌う水戸家出身の慶喜に同意する声は大きくならなかった。事態は進展せず、ついに篤姫は慶喜の世継ぎを邪魔する行動をとったことが知られている」としています。「篤姫は慶喜の世継ぎを邪魔する行動をとった」というのはつぎのようなことを指します。島津斉彬が慶喜を将軍継嗣とするための大奥工作がなかなか進展しないと判断し、そのために幕府への建白書を提出して慶喜擁立の動きを表面化させるのですが、さらに陰で朝廷工作も展開させ、「京都の公家で篤姫の養父・忠煕に、継嗣に慶喜とする内勅の降下を依頼」したそうです。ところが、篤姫はそのとき近衛忠煕に手紙を出して、なんと内勅が出ないように依頼したそうです。江戸東京博物館の畑尚子学芸員によりますと、「篤姫はこの時期までに、継嗣は家茂がいいと考えを変えた」としており、東京大学史料編纂所の山本博文教授も同意見だそうです。 篤姫は明らかに斉彬の意に反する行為をしているのですが、畑尚子学芸員は「篤姫は家定と話し、慶喜や家茂と実際に会った上で、自分の判断で家茂に決めた」とみているそうです。また、明治に入り、当時の状況を語った大奥女中も「天璋院様が紀州をよいとしておられました」と証言しているそうです(旧事諮問録」) しかし、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」の崎山健文学芸員は「この書状は篤姫の真意ではない」としており、篤姫の近衛忠煕宛手紙の2日後に幾島が「手紙は歌橋の願いで書いたもので篤姫の意見ではない」と弁明する手紙を忠煕に書いているそうです。崎山学芸員は「手紙は歌橋を欺くためのもの。面従腹背の戦術で、大奥での厳しい攻防がわかる」とみているそうです。 うーん、篤姫は将軍継嗣問題について複雑な動きをしており、それに対し歴史研究者の見解も分かれているようですね。大河ドラマ「篤姫」ではどのように描かれるのでしょうか。とっても興味深いですね。。
2008年06月04日
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6月2日の大河ドラマ「篤姫」22回目では、篤姫が家定に次期将軍のことで一橋慶喜(平岳大))の名前を持ち出していましたが、翌日3日の「南日本新聞」に掲載されたシリーズ記事「薩摩より御台所 篤姫さまお目見え」の第5回目は「次期将軍に慶喜を 大奥の工作実らず」というものでした。 同記事によりますと、篤姫が大奥に入った当時、そこで主導権を握っていたのは家定の生母の本寿院だったそうで、また女中としては歌橋が威勢をふるっていたそうです。歌橋は家定の乳母として彼を養育しており、当時は上臈御年寄という地位にありました。そして、彼女たちはいずれも次期将軍に紀州家の徳川家茂を推していたそうです。 なお、紀州の家茂とともに有力な次期将軍候補とみなされていたのが一橋慶喜でしたが、この慶喜は前水戸藩主の徳川斉昭の七男として生まれており、後に御三卿一橋家を相続した人物です。ですから彼の実父は水戸の徳川斉昭なんですが、南日本新聞の前掲記事によりますと、「大奥の女中はこぞって『水戸嫌い』だった」そうです。すなわち徳川斉昭を嫌っていたそうで、そのことについてつぎのようなことを紹介しています。「多くの歴史家らは、質素倹約を掲げる水戸家生まれの将軍を迎えることで、大奥が贅沢な暮らしぶりに口を出されることを嫌ったと指摘する。前水戸藩主の徳川斉昭が大奥の費用が多すぎるとして、予算削減を進言していた経緯もある。 もう一つの要因に、黎明館の崎山健文学芸専門員は水戸家の"女性問題”を挙げる。 一八五六(安政三)年、水戸藩主・徳川慶篤の正室緑姫(いとひめ)が自害する事件が起き、斉昭が息子の嫁に横恋慕したためだと、大奥でうわさになった。 線姫は有栖川宮家の娘で美しかったという。五〇(嘉永三)年、慶篤に輿入れする際、当時の大奥上臈御年寄・姉小路の目にとまり、将軍世子だった家定の正室にしようとしたものの、斉昭の反対で流れた。 さらに斉昭には『慶篤の妾に手を出した』『兄に嫁いだ姫に供をしてきた大奥女中に手を付けた』などの世評もあり、斉彬も『大不評判頓(とん)と致しかた之なく候』と嘆いている。崎山学芸専門員は『真偽は別として、大奥でうわさになっただけで意味が大きい。間違いなく水戸家の評判を落とした』とみる。」 徳川斉昭にこのような悪評が立ったのは、やはりそれなりの根拠があったようです。山内昌之・中村明彰『黒船以降』(中央公論社、2006年1月)で、山内昌之はこの人物について「人間として忌避される嫌みな個性があった」「執拗で偏執的な独裁者の風情がある」と評し、中村明彰は「女性関係がひどい。精力絶倫です。側室が少なくとも九人いて、二十二男十五女、つまり子どもを三十七人も生ませた。オットセイ将軍といわれた十一将軍・家斉といい勝負です」と言っています。 オットセイ将軍といい勝負というのですから、水戸の殿様だっ徳川斉昭は水戸のトド様だったようですね。
2008年06月03日
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今夜(6月1日)のNHK大河ドラマ「篤姫」22回目では、幕府の老中首座の安部正弘(草刈正雄)が突然に病死してしまいます。若くして老中となり長年に渡って幕府の実力者として大きな役割を発揮して来た彼の死は、その後の政局に非常な影響を与え、次期将軍を巡っての紀州派と一橋派との抗争も激化させます。このような情況の中で、篤姫(宮崎あおい)も島津斉彬(高橋英樹)の密命をよいよ実行せねばならなくなります。彼女は斉彬から一橋慶喜(平岳大)を次期将軍として家定(堺雅人)に推す様にとの密命を受けていたのです。今回の篤姫ドラマでは、前回の少女コミック調からシリアスモードにガラッと切り換えられていましたが、篤姫と家定との第4回目の対面でも篤姫のみならず家定も彼女の質問をはぐらかすことなく自分の心情を赤裸々に語り、そこで彼がなぜ「うつけ」のふりをしていたのかも明らかにしています。 家定と対面した篤姫は、真の夫婦となるためには、自らが本心を明らかにすべきだと思い、自分は一橋慶喜を次期将軍に推すという密命を受けていることを家定に告白します。彼女の告白に対し、家定は真顔で対応し、そんな彼女の使命も安部の死で不利になったなと言い、さらに幕府の政治を任せていた安部が死んだため、「自分はいつまでもうつけのままではおられぬようになってしまった」と言い出します。 そんな彼は、慶喜のことについては、「一橋は好かぬ。好かぬものは好かぬ」と嫌悪感をあらわにし、また外国から開国を迫られている厳しい情況の中で、一橋がその国難を乗り切る力などはないであろうとし、さらに結局は幕府は滅亡するのは避けられぬ運命であろうとまで言い出します。 将軍の地位にありながら、為政者としてではなくまるで評論家のようなことを言う家定に対し、篤姫は「上様は身勝手だと存じます!」となじります。それに対し家定は、自分はこれまで度々毒を盛られて来たために身体を壊してしまい、もう長くは生きられないであろうと言い、さらに「うつけのふりをして己の運命をわらってやりたかったのじゃ! わし一人をこの世に残して将軍にしたところで、この国はどうにもならぬ! そのことを天にも解らせてやりたかったのじゃ!!」と自暴自棄的な心情を吐露します。家定は言い終わると篤姫に背を向けて眠ろうとしますが、そんな家定の孤独な心情を知った篤姫は、「私がお助けいたします。上様を支える所存でございます」と思わず声を掛けます。しかし、その言葉に振り返った家定は、冷たい目を篤姫に向けて「もう誰も信じない」と言い切るのでした。
2008年06月01日
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CherryCYさん、バルダさん、こんばんは、やまももです。 CherryCYさん、私のブログのリンクに感謝します。今回の篤姫ドラマ21回目の録画に失敗されたとのこと、それは残念でしたね。今回のドラマでは、少女コミック色が濃厚で、幾島(松坂慶子)、滝山(稲森いずみ)、本寿院(高畑淳子)の大奥おばさんカルテットが篤姫(宮崎あおい)の魅力アップのために作戦会議を開き、どんなヘアスタイルがマッチしているかをあれこれ考え、彼女たちが見上げる天井にそのイメージ映像が映し出され、それに○や×の判定が加えられたりしています。篤姫が大奥おばさんカルテットからキンキラの簪を髪いっぱいに飾られてその重さに堪えかねている姿なんかもまさに少女コミックそのものって感じでした。 さらに篤姫が家定(堺雅人)にありのままの顔を見せてほしいと頼んだときなんかは、なんと彼はいろいろ滑稽な百面相をするのですが、これがまるで瓦版屋のコロッケが「ペリー提督ってどんな顔?」と質問されとときに演じた顔芸に充分対抗できるものでした。これまで我慢に我慢をして視聴を続けてきた従来の正統派大河ドラマファン(?)たちがいたとしたら、ついに堪忍袋の緒を切らせてテレビのスイッチをバッチンと切ってしまったでしょうね。今回、篤姫ドラマの製作者たちは従来の大河ドラマからの明らかな決別宣言をしたような気がしました。 バルダさんもCherryCYさんと同様に「祐一郎仲間」なんですが、堺雅人さんに浮気中とのことですね。家定が「わしはまともじゃ」と言う場面では、「笑い転げてしまいました」とのことですが、家定の百面相はいかがでしたか。それからが、幾島役を演じている松坂慶子なんですが、松坂慶子はかなり前から従来のイメージからの決別宣言をしていたような気がします。バルダさんのご主人が「…松坂慶子太っちゃったなあ~」としょんぼりされていたとのことですが、豊満(?)でホットな幾島が着物の帯をバッシと叩いて決意を示す場面などはよく決まっていましたね。 それから、篤姫の相手の心理などは全く斟酌しない無謀で無策な正面突破作戦は、まるで日露戦争のときの乃木将軍指揮の旅順二百三高地突撃攻撃のようで、見事な失敗に終わりましたが、家定にとってこの未知との遭遇のような経験は、案外意外な効果を彼の心にもたらしているのかもしれませんね。次回が楽しみです。
2008年05月26日
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今夜(5月25日)のNHK大河ドラマ「篤姫」21回目のタイトルは「妻の戦い」でしたが、視聴者が期待した家定の「うつけ」の真実は残念ながら全く明らかにされず、次回に持ち越さてしまいました。 さて、婚儀の夜以降、家定(堺雅人)は一ヶ月近く「おわたり」がありませんでした。それで、幾島(松坂慶子)、滝山(稲森いずみ)、本寿院(高畑淳子)、歌橋(岩井友見)たちは大いに気をもみ、篤姫の髪型や服装を変えて家定の気を引こうとします。しかし、その翌朝、仏間にあらわれた家定は篤姫の姿を見ても特に気にとめる様子もありません。そんな家定に、篤姫は思い切って「今宵おわたりをお願い申し上げます」と願い出ます。その結果、家定の「おわたり」がその夜実現します。家定は「相撲の好きなねずみ」の話の続きを聞きたがりますが、天然ボケの篤姫はストレートに「上様はなぜうつけのふりをおられるのですか」と質問をぶつけます。それに対し家定は「わしはまともじゃ」と言い、そのことについてはそれ以上相手にしません。そして「疲れた、寝る」と言い、その際にに篤姫の話のねずみには子がいることを確かめて、「わしには子はできぬぞ」「子を持つ気はない」と言ってさっさと寝てしまいます。 家定の口から「うつけ」のことについての真実を確かめることができなかった篤姫は、今度は側室のお志賀(鶴田真由)を招いて、彼女から家定の真の姿について聞き出そうとします。しかし、お志賀はそんなことは自分にはどうでもよいことだといい、ただただ家定が好きであり、彼のそばにいられれば幸せなのですと答えます。そんなお志賀と対面した次の日、家定の「おわたり」が再びありましたが、篤姫は今度は家定に「なぜお志賀をお傍におこうとされるのですか」とこれまたストレートな質問をぶつけます。しかし、家定は「わしは人間よりアヒルやネズミの方が余計なことを言わないから好きだ」と言い、お志賀も何も言わないから好きなのですかとの篤姫の質問に「うるさい、うるさい、うるさーい」と怒り出します。今回も篤姫の無為無策の正面突破作戦は何の成果も挙げられず完全に失敗してしまったようです。
2008年05月25日
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