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池田可軒(長發)は旗本で、備中国井原領主である井原池田家の10代目である。今回はこの井原池田家の系譜をざっくりと辿ってみよう。 先祖は戦国時代に織田家重臣の一人だった池田恒興。 織田信長亡き後、織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である清須会議に出席し、羽柴秀吉らと三法師を擁立。領地の再分配では摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を獲得したが、その後美濃国内に13万石を拝領し大垣城に入るも、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の戦いである小牧・長久手の戦いにて戦死した。 恒興の次男・池田輝政が家督を継いで播磨姫路藩初代藩主となり、その後輝政の長男・池田利隆が家督を継いで播磨姫路藩2代藩主になる。しかし弟である輝政の五男・池田忠継が僅か5歳で備前岡山28万石に封じらると、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山城に入り、利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当。忠継は輝政の姫路城に暫く留まっていたが、輝政の死後、16歳で初めてお国入りをした。この忠継が備前岡山藩初代藩主となる。ちなみに岡山藩池田家宗家は輝政が初代となっている。 可軒さんは恒興の三男・池田長吉の流れを汲んでいる。長吉は秀吉の養子(猶子)となり、従五位下備中守に叙任され、近江国内で1万石を知行される。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、褒美として因幡国4郡6万石と鳥取城を与えられて因幡鳥取藩初代藩主となった。 長吉の長男・池田長幸が家督を継ぎ因幡鳥取藩2代藩主となったが、備中松山へ移封されて備中松山藩初代藩主となる。官位は父と同じく従五位下備中守。 【1】いよいよ旗本・井原池田家誕生! 長幸の長男・池田長常が家督を継いで備中松山藩2代藩主となったが、長幸の三男である池田長信は備中後月郡のうち井原村・片塚村・宇戸川村・梶江村の4か村において1,000石を与えられて旗本となり、井原に陣屋を構えた。井原池田家の始まりである。また、通称の修理も長信からだ。 「池田可軒 肆・采邑」で可軒さんが井原を訪れた際、江戸屋敷に祀っていた尾砂子社と井原の尾砂子社の合祀を村に命じたと書いたが、『後月郡誌』によると、大名池田家が長常の死により絶家となったときに弟・長信の乳母・尾砂子が幕府に嘆願して家名再興を許され、旗本修理家を興したという。まぁこの説には色々とおかしな点もあるのだが、尾砂子が井原池田家成立に何らかの貢献はしたようだ。ひょっとすると尾砂子は長幸の妾で長信の生母だったのかもしれないという説もある。 【2】長信の長男・池田友政が遺領を継ぐも、弟である次男の池田利重に300石を分与して所領は700石に。それから26年後に上野国山田郡・下野国足利郡内において500石を加増され、所領は1,200石となった。官位は従五位下筑後守。 【3】友政の長男・ 池田政応が遺領を継ぐも、弟に300石を分与したため所領は900石となった。 【4】政応の長男・池田豊常が遺領を継ぐ。 【5】豊常が25歳で亡くなり嗣子がいなかったため、友政の次男で利重の婿養子になっていた池田政相の次男・池田政倫が豊常の末期養子となって遺領を継ぐ。堺奉行や大目付等を務めた。官位は従五位下筑後守。この政倫以降は全て養子が継ぐことに。 【6】政倫も子がおらず、政相の子・池田政胤の娘を養女に迎えたうえで、利隆の玄孫で備中生坂藩2代藩主である池田政晴の四男・池田長恵に嫁がせて跡を継がせた。長恵は京都町奉行、江戸南町奉行、大目付を歴任。官位は従五位下筑後守。 【7】長恵の嗣子は早世したため、利隆の来孫で備中鴨方藩5代藩主である池田政直の三男・池田長義が8歳で養子となって家督を継いだ。 【8】長義は22歳で逝去して子がおらず、池田政貞の次男・池田長喬が18歳で養子となり跡を継ぐも21歳で逝去。この池田筑前守政貞がどの家系の方なのか分からないが、まぁ池田さんなので何らかの繋がりはある方なのだろう…おそらく。 【9】長喬の末期養子として迎え入れられたのは、近江国大溝藩8代藩主である分部光実の五男・池田長溥。井原池田家初代の長信には3人の男児がおり(長男・友政、次男・利重、三男・信政)、その三男・分部信政は近江大溝藩3代藩主である分部嘉高の末期養子になっていた。嘉高の母は(長信の兄である)長常の娘なので、嘉高の母と信政は従姉弟でもある。ということで、光実は長信の来孫にあたり、長溥は昆孫だったりする。嗚呼、ややこしい。 普請奉行や作事奉行、大目付などを歴任し、所領は300石加増の1,200石に。官位は従五位下筑後守。正室・鶴子との間に二男一女を授かるも皆早世し、鶴子も29歳で逝去。継室に迎えたのは、朱子学派儒学者の林羅山を祖とする林家8代で林家中興の祖ともいわれる林述斎の六女・纜子であった。長溥は十数人の子を設けたが男児が育たず、養子を迎えることに。 【10】友政の玄孫である池田長休の四男・池田経徳が16歳で長溥の養子となる。嘉永5年(1852年)11月25日に経徳は長溥の六女・絖子(12歳)の婿養子となって跡を継ぎ、翌月には名を長發と改めた。「詩商頌曰、濬哲維商、長發其祥」という『詩経』の語句からとられており、名付親は大学頭の林健。健は述斎の孫である。 万延元年(1860年)5月に長女を授かるもたった二日で夭逝、翌文久元年(1861年)5月には次女・皋子(さはこ)誕生。しかし文久2年7月(1862年)に絖子逝去、享年23歳であった。同年12月、旗本蜂谷主殿の長女・富子を継室として迎えた。 小普請組から身を起こした長發は、文久2年に目付、同3年には火付盗賊改、京都町奉行と歴任し、同年9月に外国奉行に抜擢され、従五位下筑後守を仰せ付けられる。そして12月には遂に横浜鎖港談判使節団の正使に任命されて渡仏。皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見し、フランス政府とパリ約定を結んで元治元年(1864年)7月に帰国。開国の重要性を力説するも幕府はパリ約定を破棄、長發を免職し、家禄半減のうえ蟄居を命じた。 元治元年7月23日付で幕府より隠居を仰せ付けられた長發は即日、実家の当主で実兄である池田長顕の五男・池田福次郎(後の池田長春)を養嗣子として家督を譲った。慶應2年(1866年)に処罰は解かれたものの、家禄は600石のままだった。長發は剃髪して名を可軒と改めていたが、慶應3年に軍艦奉行並を命じられて再び池田筑後守に改名。しかし半年後の6月末に健康上の理由で辞職し、7月には再度剃髪して可軒と改め、隠棲生活に入った。 慶應元年4月には珀子、慶應2年12月には田鶴吉が出生したが、二人とも夭逝。慶應元年5月、妾・上田タマ子との間に生まれた東寧丸も生後5ヶ月で世を去ってしまった。 明治元年(1868年)に本貫地帰住が許されて岡山へ向かう途中に滞在していた京都で、6月に蓮子誕生。岡山市に落着いてからは、明治3年1月に駒吉が誕生したが2歳で夭逝。妾・庄司ハル子との間には明治2年5月に通子、明治3年10月には磯吉が出生したが、二人とも夭逝。明治3年9月には妾・森リウ子との間に摂吉が誕生したが、やはり3歳で夭逝している。次女の皋子は長春を婿養子にする予定だったが、明治10年に17歳で逝去。可軒さんは10人の子を設けたが、内9人が親より早くに亡くなっている。 明治12年(1879年)9月12日、可軒42歳にして逝去。戒名は賢忠院殿蘭翁可軒大居士。大正4年(1915年)に正五位を追贈されたそうな。 【11】長發の養子・福次郎は長春となり、明治17年に長發の四女・蓮子と婚姻。長春は明治21年に28歳で逝去し、嗣子がいなかったため蓮子が家督相続願を出した。長春と蓮子の間には一女・釣子がいたが、別家へ嫁いだ。 井原池田家は長春で終わったが、旧岡山藩士番の池田長世が後入婿となり、一子・池田長堅が誕生。しかし長堅には子がなく、池田家は途絶えた。辛うじて釣子の嫁ぎ先の家系が、可軒さんの血脈を保ってくださっているはずである。
2023.11.25
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池田可軒(長發)の為人(人となり)を文献から探ってみよう其ノ弐である。壮年時代の可軒さんは責任感が強くて真直ぐな熱い人だったように思うのだが、このような気質を一言で表すと何だろう? 鎖港談判使節の正使であった可軒さんと副使・河津伊豆守並びに目付・河田相模守の三使節が帰国後、幕府に提出した6千字超の建白書を読むと、国の未来を思う熱い思いに胸が打たれる。蟄居隠居を命じられなければ、可軒さんの意見に幕府や朝廷が耳を傾けてくれていれば、近代史に名を残す活躍をしたことだろう。 ありし世の 秋はさなから かくまでに かなしきものと しらで過しを(可軒) 一 本 気「池田は狷急、悻直の士である。そして国に殉ずる赤心に富んでいる。この使命を奉ずるや既に死を決したるらしく、この談判が成功しなければ、引責して甘んじて自決しよう。よしんば日本使節の死が外国政府の耳を驚かすに足らずとするも、幕府の使者として死を以って事に従ったことが評判になれば、それによって朝意を動かすこともできよう。そうすることによって、臣下としての節操も全うできる、との見解をもっていたように思われる」(幕末外交談)「池田はホテルの窓に日章旗を掲げた。池田は市中の遊歩にも陣笠を被り、大小をたばさみ、威風堂々としていた。好奇心の強いパリの人士は皆眼をみはった」(航海日録) ――これも横浜鎖港談判使節団に随行した佐原盛純が記した「航海日録」より。使節団は洋装禁止だったらしい。「ド=リュイスは会談を重ねるうち、この青年使節に次第に好感をもってきたらしい。愚直なまでにひたむきで純情な池田が、この残酷な使命を帯びて健闘したことを思いやりながら堅く握手した」(悲劇の大使)「五、六月の二ヶ月にまがり、回を重ねること七回にわたる樽俎折衝は、年若く、外交の経験の皆無な池田筑後守を心身ともに疲労困憊させた。 双肩に荷った重責と、押しても突いても寸毫動くことのない壁にぶつかる苦悩は、この人をして夜も眠れぬ、辛い境遇に陥らせた。眼は血走って、顔面蒼白となり、食事をとらぬことさえしばしばで、時には白昼、あられもないことをつぶやくこともあって、従者を驚かし、急いで取り静めるのに汗をかく始末であった」(同)「(使節団の突然の帰国に)若年寄 立花出雲守がみずから横浜に急行して池田に会い、上京をさし控えるように説得した。しかし池田は肯き入れなかった。 若い頭脳に、未知の世界情勢に目覚めたこの青年武士は、無知蒙昧の日本の現状を打破して、開国こそ国を救うものと一図に思い込み、使命感に燃え上がっていたからである。客気に逸る池田が馬を飛ばして東上するその途中、生麦村で竹本隼人正、栗本安芸守が待ち受けて、意を飜えさせようとしたが、これまた到底、阻止することは出来なかった。 だが、一応、登城を見合わせることには成功し、ひとまず、池田邸に落着き、ここでパリでの会議の顛末、直ちに差出すべき建白書などについて話しあった。この建白書には。各国との今後の外交方針、新聞の尊重、留学生派遣等きくべき意見もあって、他日これは検討さるべき卓抜な収穫であった。 因循姑息な幕府は、この当るべからざる意気の池田が、何をし出かすか、計りしれないので、時を移さず、その当夜、彼を免職処分に附し、千二百石の知行をその半ば、六百石に減じ、隠居、自宅謹慎の懲戒処分に附した」(同) ――可軒さんの滾る思いが文章から伝わってくる。まさに「悲劇の大使」であった。また、この時の様子を河田副使の談話によると「ところが正使の筑後守がだんだん焦れてきて、私共の留めるのも振り切って、ただ一騎、入ってはならぬと留められている江戸表へ乗り込みましたが、イヤこの時は騒ぎでした。 一体、池田筑後守という人は年若ではありましたが、英気もあり才気もある人で、ずい分立派な男でしたが、いかにも神経が強いので、帰りました頃から、よほど気が変になりまして、横浜に上がりました頃から、よほど心配の様子でしたが、とうとう横浜から一騎で飛ばして、江戸へ走り込んで行ったのです。あの剣幕では老中の前へ出て、どんなことをするか知れないからというので、河津と私で追いかけました。(略)そこで、ともかく附近の寺院へ入りまして、談判をしているうちに、池田の血相が変わってきて、私共のとめるのを振り切って、江戸へ入って行ったのです。よんどころなく私らもその跡を追いかけまして、ようやく池田の屋敷の近辺で引止めることができました。(略)その晩は寝させましたが、竹本がその様子を申し上げたものですから、翌日は叱られて、それきりになりました」(旧事諮問録) ――英仏蘭米の武力行使計画を知り、急ぎ帰国して知らせようとした…という説もあるが、短気で一本気な可軒さんなのであった。まぁ元々無理な談判を20代の若さで任された可軒さんは、初めての異国の地で本当によく頑張ったと思う。そりゃあ気も変になっちゃうよ…。 風 流 人「筑後守は、名は長発、可軒と号して、漢詩が上手で、字もうまかった。“これだけ発明(利巧なこと)で器用な方は、見たことがない” と、古老だちが賞めちぎっとったから、よほど、才智すぐれた人物とせねばならない」(鶴遺老)「さりとて、日常生活を全然詩酒風流に耽溺したのではなく、読書研學を専らとし、夙夜修養につとめたことは、自ら規定した自課によっても明らかである」(幕末外交使節池田筑後守)「文雅のたしなみのある風流人であったことは、現在散見する幾つかの漢詩和歌などによって立證することができる」(池田可軒の舊藏書)「教養の豊かな視野の廣い學者であったことが判る」(同)「其の引退生活に拘はらず、常に『可軒様』とご尊稱されていたのは、備前藩主の支族であるという点もあろうが、一に高邁なる識見、高潔なる人格によったものであろう」(鶴遺老) ――晩年を岡山で過ごした可軒さんは「世と相忘れた」(世を忘れ世に忘れられた)悠々自適の生活を送られたそうだが、遺された幾つかの漢詩や和歌は万感胸に迫るものがある。 「鶴遺老」にある近藤真琴・幕府海軍操錬所教授の評文を載せておく。原文は漢文らしい。「余嘗て幕府の海軍校に入り航海術を教授す。偶々公に謁することを得て、その風采を欽ふ。公の鎖港の不可を論ずるが如きは侃々諤々当時幾人かあらん。然も世の屯難に遭ひ、動もすれば意の如くならず。然り而して吟咏自適、世と相忘る。所謂『英雄首を回らせば即ち神仙』とは公豈その人か」(岡山県後月郡誌) ――『英雄回首即神仙』は宋代の黄天谷の『絶句』からで、英雄の資質を持った人は、ひとたび志を改めれば神仙になる、英雄といったとて角度を変えてみれば神仙である…というような意味なのだとか。 2回に亘って可軒さんの為人(人となり)を追ってみたが、可軒さんが使節団を率いて仏国へ旅立った文久3年(1863年)は、ちょうど新選組が結成された年だったりする。翌年7月に使節団一行は突如帰国するのだが、その頃といえばちょうど禁門の変が起っていた折だったので、そりゃ幕府も大慌てで対処するしかなかったのではなかろうか。幕府側にも斯様にエネルギッシュな若者がいたというのに才能を発揮出来ず、無念でならない。 参考文献・岸 加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・日本書誌学会 [編]『書誌学』11-13(日本書誌学会)昭和43年 岡田裕子『池田可軒の舊藏書(1-3)』 ・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・岸 加四郎『池田筑後守長発とパリ』(岡山ユネスコ協会)昭和50年・岡 長平『ぼっこう横町――岡山 “聞いたり見たり” ――』(夕刊新聞社)昭和40年・大塚武松 [編]『遣外使節日記纂輯 第三』(日本史籍協会)昭和5年 岩松太郎『航海日記』・尾佐竹猛『幕末遣外使節物語――夷狄の国へ――』(岩波文庫)平成28年・榎本 秋『世界を見た幕臣たち』(洋泉社)平成29年
2023.11.19
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「君幼而頴悟、長受業於林祭酒、出入昌平黌、才學文章夙超越同儕(君幼くして才知に優れ、長く学問を林大学頭に受け、昌平黌に出入す。才学文章は夙に仲間に超越す)」と墓碑に書かれてあるとおり、幼い頃から英俊で、写真からも眉目清秀ぶりが窺える池田可軒(長發)。 そんな彼の為人(人となり)はどうだったのだろうか。幾つかの文献から抜載してみた。今回は其ノ壱である。 努 力 家「嘉永三年十一月三日於學問所素讀御吟味。十二月十六日素讀出精に付丹後縞五反頂戴。嘉永六年九月五日炮を學び。同月二十八日射千本を試む。安政二年五月十九日吹上御物前見に於て馬揃上覧相勤。安政三年八月中學問所に於て辨書並文章時務策御試しを請く。十二月二十四日學問出精一段の事に依り拝領物被仰付」(可軒著・家譜) ――13歳のときに “素読吟味(口述試験)” 、その5年後に “学問吟味(筆答試験)” を受けてどちらも優秀な成績で褒賞をいただいた。また、学問だけでなく砲術や馬術も稽古した。「宝蔵院流の鎌槍は相当の重さがあったという。技術面でも努力訓練を要した。遣欧節当時の可軒の写真から判断すると、可軒の身体は優形華奢で、重い槍を操作するには適していない様である。その可軒が免許皆伝の証状を獲得したのだから、大変な努力と訓練を重ねたことであろう」(鶴遣老) ――18歳にして宝蔵院流鎌槍術を会得、免許皆伝に達した。「一つの書籍を繰り返し、繰り返し繙いて、あるものには非常に克明に補注をつけてゐる。かういった努力の迹を見る時、我々は彼が非常に俊秀な學徒であったことを知るとともにその反面、非常に地味地な努力家であつたことも窺ふことができる」(池田可軒の舊藏書)「余平素好手抄古人之書、有人笑其迂者、於是乎、列古人之言係抄書者於左、以答于其人、清人馮蕈溪云、讀書不如抄書、古人讀書、皆經手鈔、蓋有三益、一加簡練、一備遣忘、一兼學書法不爲家不蓄書也、凡讀經史、其義欲全部貫通、其文欲逐字採掇、有全鈔、此巾箱自備本也、因是觀之、古人著書之富、亦兆於此也晰矣、…」(可軒・抄書説) ――単なる読書より寫書(手抄)の重要さを説く可軒さんは、コツコツと地道に努力するタイプだったようだ。 短 気「池田は未だ壮年であり、殊に勝ち気で人にゆずらない性質なので時としては談判の席でも議論が少し合わないと、往々怒気を顔にあらわさずにはいられないのだ…」(幕末外交談)「池田は狷急(心がせまく短気)悻直(正直で怒りっぽい)の士である」(同上) ――可軒さんが27歳で正使を務めた横浜鎖港談判使節団に随行した田辺太一が明治31年に出した回顧録「幕末外交談」より。可軒さんは彼より9歳下だった。「ロイスは筑後守の像を石膏でとらせ、また腕だけのものを作らせ、あるとき談判の具合で池田がいつもの疳癖を起こしてくると、ロイスは自分の手で石膏作りの池田の手をしかと握って(略)うまくなだめたことなどもある」(明治・大正史 外交篇) ――ロイスとは当時のフランス外務大臣エドゥアール・ドルアン・ド・リュイス(Édouard Drouyn de Lhuys)。「気象(気性)の烈しい人となりであったと記録に残されている」(鶴遣老) ――文武両道で出世街道を驀進した可軒さん、若い頃は結構短気だった御様子。 好 奇 心 旺 盛「使節が上海につき、旅館にはいると、日本人が二名きて、みずから薩摩の脱藩人であると称して面会を乞うた。そして言うには、西洋の風光を見るためにここまで来たが、旅費がつきたので、これから前へ行くことができない。どうか節下に加えて欧州に連れて行っていただきたい、と。池田は物好きな性格の人とて、大いにこれらを連れて行きたがったが…」(幕末外交談) ――可軒さんは面白がって連れて行きたがったそうだが、結局二人を漂流民ということにして旅費を渡し、日本に送還することにしたそうな。「池田正使がその象に乗りたいというと象使いは象にひざまづかせたので、正使はその後方から上がって、その背にうちまたがった」(奉使日記) ――これまた横浜鎖港談判使節団に随行した杉浦愛蔵が記した「奉使日記」より。西貢(サイゴン)でのこと。「(パリの劇場でグノーの『ファースト』を観劇)日本語の台本が用意されていたのでよく理解され、池田は(主演の)ボア夫人の至芸に屢々拍手を送り、兵士の合唱が特に気に入った様であった。しかし池田の興味を引いたのは悪魔メフィストフェルで、終演後支配人室に招ぜられてこの俳優を紹介された時、池田はじめ一行の人々は争ってメフィストフェルを取り囲み、奇怪な黒い衣装を手で触って見たり、顔の隈取りをしげしげと眺めたりした」(悲劇の大使) ――パリのテアトル・リリック座でゲーテ原作、グノー作曲の歌劇『ファウスト』を鑑賞したことを、当時の新聞記事から書き写したもの。可軒さんは悪魔・メフィストフェレスに惹かれたらしい。 モ テ た !?「やや色気のある一婦人が旅館に見えて窮状を訴え使節に会わせてくれとせがむ。田辺組頭が心得て程よくあしらって帰す」(奉使日記) ――使節とは池田正使のことらしいが、田辺さんがあしらって帰したとのこと。何かプライベートなことだったりして!? まさか百数十年後に幕末のイケメン侍として有名になっているなんて、可軒さんも草葉の陰でさぞや驚いていることだろう。
2023.11.16
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「慶応2年(1866)宥免されて幕府軍艦奉行の役職についた可軒は、僅か半年で病のため職を止め、全くの隠棲生活に入った。(略)幕府が倒れ明治維新となって可軒は嗣子であり当主である福次郎(のちの長春)の名をもって本貫地帰住を願出て許され、京都に暫く滞在し、六女蓮子(のちの長春の妻)出生後、岡山市に引上げた。初めは采地井原市に帰住する考であったらしく、井原村に心学館という教学所を設立し、それによる地方教化啓蒙を企画したが、可軒の人物識見学才に惚れ込んだ宗家備前藩主や藩士学者たちの奨引もあって、岡山城下荒神町の典医柴岡宗伯の屋敷が空いていたのでそこに落着いた」(『鶴遺老』より) 池田可軒(長發)は生まれも育ちも江戸っ子であったが、知行地であった井原に帰住すべく明治元年(1868年)3月2日に江戸を出立、まずは京都に向かう。4月15日に可軒さんが参朝の上、当主福次郎(長春)に代わって本領安堵の朱印を受ける。9月21日に大坂より乗船、24日ついに岡山到着。岡山市中へ住居を移した可軒さんであるが、先祖代々の知行地・井原を訪問すること、井原陣屋内の教諭所を立て直して心学舘を開き、自らが講師となることを望むようになったという。 明治2年(1869年)1月、可軒さんの井原巡検の日取が2月初旬と定まるも、翌月には巡検が3月15日に延期され、更に4月1日、5月20日と延期が続く。一方で2月には心学舘諸役(規則取調掛、取締兼出納調方、見廻り役、世話役、下世話役、掲牌草稿の彫刻と書籍板刻)を任命している。 同年7月、井原知行地の事務は倉敷県が行うと決定したことで可軒さんの井原巡検は許可され、実権を持たない “殿様” として7月21日に井原を訪れて、当分陣屋へ居住することを村へ達した。可軒さんが村に命じたことの一つに神社建立があり、江戸屋敷に祀っていた尾砂子社と井原の尾砂子社の合祀、江戸屋敷にあった弁天社と八幡社の建立、大石内蔵助を祀る大石社の勧請などが次々と進められたという。井原で暮らしたいとの希望を村役人に告げつつも、可軒さんは岡山へ帰ったとのこと。 明治3年(1870年)7月に井原知行地は倉敷県へ統合され、心学舘開校計画は立ち消えになってしまったのだった。残念。 心學舘掲牌三則 汝等領民須早入此舘識文字以明孝悌以勤稼穡世業、 學之根本須以朱子白鹿洞掲示及孝經大學爲主而廣渉百子不妨、 詩書勤乃有不勤腹空虚是韓文公之詩也入此舘者須以勤爲最第一事、 右三則是今玆已巳二月所定也後更俟改張應置教頭以斟酌增損俟、心 學 舘 長 池 田 長 發 記 可軒さんは幕府直轄の学問所・昌平黌で抜群に優秀だったうえ、“人間は萬巻の書を讀まねばならない” と常に他人に読書を勧めているだけに、その実行者でもあった。池田家文庫に所在する可軒さんの蔵書目録や渡欧中に購入した書籍目録、可軒さんの自著及び稿本に関する記述等を見ても、読書研学を専らとして修養に努めていたことが十分に窺い知れる。 明治6年(1873年)に木畑坦斎さんに宛てた書簡では、同年3月に文部省が刊行した「小学読本」等の拝借を要請していることから、教育には関心を持ち続けていたのかも。井原の子供達も可軒さんから江戸仕込みの学問をたくさん学びたかっただろうなぁ。 陣屋があった場所に現在は井原小学校が建っていて、正面玄関の東側にある庭園「冬園」には、昭和61年(1986年)に可軒さんの生誕150年を記念して陣屋跡を示す石碑と池田筑後守長發の銅像が並んで設置されたそうな。学校施設のため観光での訪問はご遠慮ください――とのこと。 参考文献・岸 加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・日本書誌学会 [編]『書誌学』11-13(日本書誌学会)昭和43年 岡田裕子『池田可軒の舊藏書(1-3)』 ・井原市史編集委員会 [編]『井原の歴史』創刊号(井原市教育委員会)平成13年 多屋さやか、太田健一『池田長発の未発表書簡について』・井原市史編集委員会 [編]『井原市史 Ⅳ』(井原市)平成13年・太田健一 [監修]『図説井原・笠岡・浅口の歴史』(郷土出版社)平成21年・井原観光協会HP「池田筑後守長発の像」
2023.11.13
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池田可軒(長發)文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて遣欧使節団を率いて仏国を訪問し、帰国するや禄半減のうえ蟄居を命じらるも、慶応3年(1867年)には赦免されて軍艦奉行並となった。しかし病気を理由に半年で辞して岡山で隠棲生活を送り、明治12年(1879年)9月12日に没した。死因は明らかにされていない。 可軒さんの病気に関しては幾つかの文献に記されている。 昭和9年に発行された小林久麿雄著「幕末外交使節池田筑後守」によると、備前藩主池田家は備中井原池田家の宗家である関係上、転住について可軒さんが宗家へ寄せた書札には次のように書かれている。「…然處私儀七八ヶ月以前重職掌被命候後、外國迄使節罷越候處、其後隠被申付、宥恕之後軍艦奉行並被命候處間無御座不快而退役仕候後、唯々病軀保養爲閑散游歩而己罷在…(略)…就而福次郎義不及申上、私義迚同様粉骨砕身鞠躬勉勵可仕之段、今更改而申上候迄無御座候得共、前文申上候通多病之事故、朝廷之御奉公之義十分相勤候次第…」 可軒さんと親交の深かった木畑坦斎さんの御子息・木畑竹三郎氏が序文を寄せているが、その中で可軒さんが坦斎さんに寄せた詩が書かれている。「病軀一臥四年餘、風月睽違不到廬 誰是爲余訴心事、羨君耕讀在詩書。」 昭和40年に発行された郷土史家の岡 長平著「ぼっこう横町」に可軒さんのことが少しだけ書かれているが、それによると――。「長発は、岡山で悠々自適、浮世を捨てて、誌書にその日を送ってたが、明治十二年に、四十三才で、荒神町の屋敷で死んだ。巴里でもらった脳梅毒が、命とりだったとか……」 そして昭和44年発行の岸 加四郎著「鶴遺老:池田筑後守長発伝」にも、可軒さんの病気に関する記述が幾つかある。 まずは、横浜鎖港談判使節団に随行した田辺太一によると、「往々にして咄咄書空の状」に陥っている池田正使を見た、とのこと。無理な談判でノイローゼ気味になっていたのかも。「その病名が医学的に何であったかはわからない。しかし遣欧使節から帰朝した前後に奇矯な行動が二三あったことは事実である」「この手禄(不亀手録)四十冊余はもちろん可軒が維新後岡山に隠棲して後の編集だろう。明治十二年死去の一両年前は脳梅毒による完全な分裂症状であったが、それまでの十余年は全く狂い続けではなく、文人墨客との交わりもなされていた様である」 昭和43年発行「書誌学(11-13)」に載っている岡田祐子著「池田可軒の舊藏書(1-3)」には、舊藏書(旧蔵書)に見えた可軒の書き入れと題し、精神を病んだ時代の可軒さんが蔵書に書き込んだ文言等も詳しく紹介されている。「特に漢魏叢書・禹貢匯疏・説郛・太平御覧には多くの戲書がみられる。また默齋先生發論語講義の書き入れは非常に手元確かに書かれていて、比較的病気の軽い時に書かれたものではないかと思われる。それにひきかへ、漢魏叢書には文字を勝手に色々と作ったり、本文及び著者名をみだりに直したりしている。全般的にこの叢書に見える書き入れは字形をなさない、判然としないものが多く、中には幻想的な繪畫も書かれたりしている。禹貢匯疏には「發狂ニ付謝禮」といふ言葉も出て来る。ここでは本文中に數ヶ所朱でもって木畑貞履という学者が校をつけているのを、可軒は自分が校したと錯覺して、巻頭に『池田長發校』としている」 「又「增評唐宋八大家文讀本」の中に『囚長發于其家奪妻名富○其之因外不許交親御』といふ文も出て来る。これは自分は囚へられ、妻をも奪はれ、親しく妻と交はることもできないといふ意味だらう。富時可軒は狂氣のため、多分家人とも隔離され、幽閉されていたらしいことが想像され、恐らくこれはその時に書かれたものだろう」(○=ウ冠に夏) 可軒さんが軍艦奉行を半年ほどで理由不明のまま辞しているのは、彼が帰朝して実に3年目のことで、脳梅毒をパリでもらったとすれば、この病気は3年位経て発病するのが普通であるというから、この病気のために脳神経が冒されて精神状態及び健康状態ともに優れず、その職務に耐えられなくなって辞職したと見ることは、あながち不可解なことではなかろう――と岡田さんは記している。 岡田さんの分類した狂った時代の書き入れに、自分を偉がっている言葉の見えるもの、ということで様々な書き入れられた言葉が紹介されて、王侯なみに自分を偉く思っていたらしいと書かれている。 ネットで梅毒について調べてみると、末期の神経梅毒で通常40代または50代で始まる実質型神経梅毒では、病識の欠如を伴う誇大妄想(自分を有名人や神、神秘的な力をもつ存在と思い込む)がみられることがあるとのこと。実際に可軒さんが脳梅毒だったのかどうかは分からないけれど。 平成13年に井原市教育委員会が発行した冊子「井原の歴史」創刊号には、木畑坦斎さんが可軒さんの訃報を記している明治12年9月13日の日記のモノクロ写真が載っているのだが、辛うじて “可軒君” という文字が分かるだけで、あとはさっぱり読めない。学生時代に購入した「くずし字辞典」、まだ実家に残ってるかなぁ…「時には病が重くて幽閉されたこともあるらしく、うす暗い部屋にとじ込められ、昔から慣れ親しんできた書物を前に、筆をもてあそびながら心に浮かんでくるたわいもないことを恥とかいった理性的なブレーキを忘れて、一心に書き綴っている姿を想像すると、何かしら可哀そうで可哀そうで、寒々した人気のない書庫の中で一人、思わず涙ぐんでしまいました」 学生だった岡田さんはこのように書かれていたが、私も可軒さんの晩年を知った時から遣瀬ない思いを引き摺っている。
2023.11.11
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文久3年(1863年)、27歳にして遣欧使節団の正使を務めた池田可軒(長發)は帰国後直ちに禄半減のうえ蟄居・隠居を命じらた。慶応3年(1867年)には赦免され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため約半年で職を辞して岡山に移住、明治12年(1879年)9月12日に没した。 可軒さんのお墓は岡山市中区東山の東山墓地にあり、Google Mapにもちゃんと載っている。岡山駅から新岡山港もしくは岡山ふれあいセンター行きのバスに乗り、山陽学園大学・短大前で下車。そこから徒歩で10~15分ぐらいで辿り着ける。 可軒さんのお墓には墓碑がぎっしりと刻まれていた。撰者である木畑道夫(號、坦斎)は岡山藩医だったが後に藩政・県政へと参画。また学者としても名声があり、可軒さんの岡山市隠棲中に深い文雅の交りがあった方とのこと。市立中央図書館に襲蔵されている木畑家文書には、可軒さんが坦斎さんに宛てた書簡が28通存在するそうな。 坦斎さんが撰述した墓碑は以下のとおりである。君諱長發、字大禘、通稱修理、後改可軒、源姓、池田氏加賀守諱長休第四子、系出於我舊藩祖伊香光武信輝命、君以天保八年丁酉七月二十三日生干江戸西窪邸、嘉永五年十一月爲同族筑後守諱長溥所養、家世爲幕府麾下、六年十一月筑州君卒、君襲後食祿千二百石、列小普請、君幼而頴悟、長受業於林祭酒、出入昌平黌、才學文章夙超越同儕、安政中幕府修系譜、君與有力焉文久元年轉小十人頭、除布衣二年轉目付、無幾遷外國事務立合兼知貿易事、三年二月承旨更正學制、其月従將軍上京、五月歸府、尋轉外國奉行、叙從五位下、稱筑後守、當是時各國請互市益急、朝廷令幕府拒絶之、幕府遣君歴説歐洲諸國諭旨、乃以其歳十二月解纜、翌年三月先到佛蘭西、佛人不答、君熟察其國情、且觀文物之盛、有所感因不復他往而反焉、閣老責其檀歸、君乞親謁將軍、將軍引見、君面述其所見痛論鎖港非計、將軍不懌、即日以忤旨停其職削祿之半使屏居、先是君以無子養同族甲斐守長顕第五子長春君、於是襲祿、慶應二年三月特旨赦罪、三年班軍艦奉行、無幾辭之、薙髪不復關于世事矣、及王政復古、官令舊幕麾下士大夫各就其邑、嗣君亦携家就邑於備中路入我岡山、承宗藩之旨、遂留於城下、君亦同焉、自是吟咏風月悠然自適將以送年偶得一疾荏苒不瘥、明治十二年九月十二日易簀、享齢四十有三、葬於上道郡義冡山、元配筑州君第六女先卒、有二女皆夭、繼室蜂谷氏、生二男二女、二男一女亦夭、君氣宇俊爽、臨機能斷、其當職也勇誌畢精不顧身家、而讀書志益堅、雖職屢轉事益劇而公退之餘未甞釋卷、傍好風流、詞人墨客蒙其欵接者不爲鮮、道夫亦甞辱其知矣、而淺陋之見、固不能窺其德業之一班、碑文之嘱不敢辭者、聊以答知遇之辱云 明治十四年二月 備前藩臣 木畑道夫謹撰 妹尾德風 書 可軒さんのお墓(左側面と裏面) 参考文献・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・岸加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・『――井原市史紀要―― 井原の歴史』(井原市教育委員会)平成13年 (池田長発の未発表書簡について)
2023.11.10
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幕末のイケメン侍、またはスフィンクスと記念撮影した侍として人気のある備中国井原領主・池田長發(いけだ ながおき)。 歴史に興味のある方には、27歳にして横浜鎖港談判使節団の正使を務めた英俊として知られている。 池田可軒こと池田筑後守長發、天保8年7月23日(1837年8月23日)に、池田信輝の三男・池田備中守長吉の後裔である幕府直参旗本の池田加賀守長休の第4子として江戸で生まれ、井原領主・池田筑後守長溥の養子となった。幼名は孝七郎、英七郎。初名は經德、通称は修理、諱は長發、字は大禘、號を可軒という。 元々無理を承知で行った鎖港談判(1859年に開港された横浜を再び閉鎖する談判)が上手くいくはずもなく、最初に訪問した仏国で如何に日本が世界に後れているかを身をもって知った長發は、予定していた他国への訪問を中断して帰国の途に就く。バリバリの攘夷派だったのがすっかり開国派となって帰ってきた長發。早々の帰国に驚いた幕府が足止めしようとするも、開国の情熱に燃える長發は乗馬で江戸へ向かってしまう。途中で引き止められた長發は三使節(正使・副使・目付)で建白書を提出したが、その当夜に禄半減のうえ蟄居を命じらる。実兄である池田甲斐守長顕の五男・長春を養嗣子として家督を譲った。慶応3年(1867年)には赦免され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため約半年で職を辞して岡山に移住、明治12年(1879年)9月12日に没した。 先頃、ふとしたことから彼に興味を持ち、長發さんに関連するいくつかの書籍を読んでみた。すると晩年は岡山市内(北区内山下や京橋町)で過ごしたこと、死因は明らかにされてないが脳梅毒の説があり、精神を病んで幽閉された時期もあったらしいということ、位牌は中区小橋町の國清寺に祀られ、お墓が中区東山の東山墓地にあること等が分かった。 150年前、まさかこの地に長發さんが暮らしていたとは…。長發さんがこの世に生を受けた132年後の同月同日に私が誕生したとは何たる偶然(太陽暦での話なのでちょっと強引)。國清寺は以前参拝して御朱印をいただいたことがあるが、そういえば池田家の菩提寺であった。 東山墓地は車で2~30分の距離なので、早速お墓参りをさせていただいた。こんなに近くに眠ってらっしゃったとは…。 岡山では “可軒さま” と呼ばれていたそうなので、私も今後は可軒さんと呼ばせていただく。これからぼちぼちと可軒さんについて知り得たことを綴っていこうと思う。
2023.11.03
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