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4日ほど前、オバマ米大統領が米連邦準備理事会(FRB)理事にキャサリン・ドミンゲス氏を指名する意向であると発表しました。それに関連して私が過去にドミンゲス女史について書いたブログにアクセスが若干あったようなので、ちょっとだけ説明しておきましょう。私がハーバード大学ケネディ行政大学院に留学していたころ、国際金融論を教えていたのが、ドミンゲス准教授でした。夫は同大学院のミクロ経済学を教えていたジム・ハインズ准教授。二人とも学生には非常に人気があり、私もこの二人の授業を履修しました。国際金融論はA-で、ミクロ経済はB+でしたけどね。まあ、今となっては昔話です。だけど、この二人は私が卒業した1997年を最後にシカゴに移って行きました。そのときの二人の話が過去ブログに書かれていますので、ご興味のある方はお読みください。ドミンゲス女史はその後、2006年から米ミシガン大学で公共政策と経済学の教授を務めていました。FRBの理事は定員7人で、現在2人が空席となっています。ドミンゲス女史が上院で承認されれば、イエレン議長やブレイナード理事とともに女性理事が3人となるそうです。
2015.07.24
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米大統領選とメディアマービン・カルブの第八週の授業では、大統領選とメディアについて議論した。といっても1996年の大統領選なので、クリントンの再選は半ば決まっていたし、それほど盛り上がっていたとはいえない。ただ、授業と同時並行で選挙戦が繰り広げられていたので、それなりの臨場感があるクラスとなった。今から思うと、1996年の大統領選はのどかだった。クリントンの対立候補であったボブ・ドールも人のいいおじいさんのように見えた。メディアも選挙を淡々と伝え、可もなく不可もない報道だったのではないだろうか。勝負は初めから決まっていたので、メディア操作をする素地も少なかったのだろう。その後、2000年、2004年の米大統領選の報道を見ると、牙を抜かれた米メディアの実態がくっきりと浮かび上がってくる。2000年の大統領選ではフロリダ州で不正があったのは明白だ。以前、この日記でも紹介したように私のクラスメートでもあったキャサリン・ハリスと、ジェブ・ブッシュの悪党コンビは、民主党支持者とみられる黒人票を中心に一方的な公民権剥奪という手段を使って「都合の悪い票」を大量に葬り去った。しかし、そのことを報じたのは米メディアではなく、外国のメディア(英オブザーバー紙のグレッグ・パラストの記事)であった。米メディアはこの件に関しては、概してあまり報じないか、報じても扱いが小さいように思う。なぜ選挙の不正を徹底的に叩かなかったのか。ウォーターゲート事件で見せた執念はどこにも見られなかった。不正は2004年にもあったとみられるが、米メディアはほとんど骨抜きにされたようで、「終わったことはどうしようもない」との姿勢を通しているようだ。 2000年の大統領選では共和党系が支配する最高裁の壁の前に、本当は選挙に勝っていたゴアが敗れた。ゴアは最後までフロリダ州の票をカウントさせるよう戦うべきだったが、アメリカを二分するような亀裂を生じさせないために身を引いた形になった。しかし、このゴアの誤った決断の背後には、メディアによって意図的に築かれた「世論」があったように思う。「これ以上ゴアが駄々をこねるのは潔くない」との世論をつくり上げたのは、誰であったのか。その一つの答えが、メディアが実施した世論調査だ。あるいは、メディアが報じる「町の声」や「評論家の意見」であった。だが、本当に客観性のある調査が実施されているのだろうか。あるいは、本当にそんな結果になるほど米国民は頭が悪いのか、と思われるような場合が多い。思えば、1960年の大統領選でもケネディの父親ジョゼフ・ケネディはイリノイ州で不正を働いた疑いが強い。その不正の結果、稀にみる激戦を制して生まれた大統領が英雄になるわけだから、勝てば官軍。悔しかったらどんな手を使ってでも勝ってみろ、ということか。選挙人名簿から民主党支持者とみられるマイノリティーを大量に除外してしまうような国である。アメリカは、もう何でもありの「不正天国」になったようだ。米メディアが果たす役割は、その不正のための道具にしかすぎないのだろうか。
2005.03.03
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ウォーターゲート事件とメディアペンタゴンペーパーのスクープとウォーターゲート事件の報道は今でも、米ジャーナリズムの金字塔となっている。おそらく、これほど米ジャーナリズムがいい意味で脚光を浴び、活気に満ちた時代はなかったのではないか、とも思える。1971年、ヴェトナム戦争に関する国防総省極秘文書がニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙などに漏れる事件があり、その一部が裁判になった。これをペンタゴン文書事件という。極秘文書を漏洩するのは国益に反する許されざる行為なのか、それとも国民の知る権利が優先されるべきなのか。裁判では大統領の記事差し止め請求の適否が論点になったが、結局、新聞社側が勝訴した。仮に新聞社側が負けていれば、取材活動は大いに規制・制限され、国民が知らされる“事実”は権力者に都合のいいものばかりになっていたかもしれない。米メディアは面目を保ったわけだ。ウォーターゲート事件も、メディア側の“勝利”であったといえる。1972年6月、首都ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党全国委員会本部に共和党筋の人物が盗聴装置を設置するために侵入して逮捕された。逮捕されたのは、フランク・スタージスという亡命キューバ人で、ケネディ暗殺でも暗躍したとされるCIAの非合法工作担当員ら7人。ただの侵入事件ではないとにらんだワシントン・ポストの記者が、ニクソン政権ぐるみの不正行為である疑いが強いことを執拗に暴き続け、一大スキャンダルへと発展した。裁判の過程では、ホワイトハウスのもみ消し工作と上層部の関与、以前から政敵に対して行ってきた不法な諜報活動が次々と明るみに出た。リチャード・ニクソン大統領自ら「潔白を証明する」ために、執務室の会話と電話のやり取りを記録したテープを提出したが、作為された空白があることがわかってしまうなど逆に疑惑を深める結果となった(私はこの空白の部分にこそ、ケネディ暗殺に関する決定的な発言があったのではないかと思っています。それについてもいずれ、このホームページで公開していきます。すぐに知りたい方は、図書館で拙著『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』近代文芸社をお読みください)。 さらには、大統領の納税申告における不当な控除やスピロ・アグニュー副大統領の汚職容疑に絡む辞任などがあり、ニクソンに対する国民の不信感は急速に強まった。一方ニクソンは1973年9月、対ソ連、対中国話し合い政策の推進に功績を挙げたヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を国務長官に抜擢、平和外交姿勢を明確にするなどイメージアップ作戦を展開した。しかし、ニクソン最後の悪あがきも無駄に終わり、74年7月には下院司法委員会で弾劾勧告決議が採択され、同年八月八日ニクソンは自ら職を辞した。ウォーターゲート事件は、大統領対メディアという対立図式でもあった。大統領辞任までには司法や議会の功績もあったが、これほどの大スキャンダルに発展した背景には、ワシントン・ポストの二人の記者の執念があったことは特筆すべきであろう。米メディアこうして、権力の不正に立ち向かうという「輝かしい伝統」をつくり上げた。しかし、その伝統もつかの間であったのかもしれない。現在の米メディアは権力に飼い慣らされた「尻尾を振る番犬」でしかない。魂を悪魔に売ったファウストのようで、利益優先の大企業にその魂を売り、いつしか権力の宣伝機関となった米報道機関の「屍」の数々を見ると、無性に悲しくなってくる。
2005.03.02
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大統領と報道機関マービン・カルブの第六週の授業では、大統領とメディアの関係について議論した。これは取材する側とされる側の永遠のテーマでもある。取材先とどこまで付き合い、どこまで親しくすべきなのか、一方、取材される側も取材する側をどこまで信用すべきなのか、といった問題が常に付きまとうからだ。記者は大統領をはじめてとする政治家から情報を得ようとする。大統領(政治家)は記者を利用して自分の都合のいいように原稿を書かせようとする。両者の利益が一致する場合もあるが、多くの場合は本当に書きたいことと、書かせたいこととはかなり異なる。その結果、紙面やテレビで現われるニュースは、大統領(政治家)にとって都合のいいニュースと都合の悪いニュースが交錯することになる。その比率は残念なことに、大統領(政治家)に都合のいいニュースのほうが圧倒的に多い気がする。これは仕方がないといえば、仕方がない面もある。情報を知るものと、それを得ようとするものとの立場の違いが大きなハンディとなっている。情報を得ようとするものは、ある程度取材源に気に入られる必要がある。その度合いが深まると、取材源に染まってしまう。例えば、読売のナベツネなどは完全に取材先の政治家に染まりながら、のし上がっていった政治記者の典型のような人物といえる。また、そうしないとネタを取れないというジレンマもある。元ワシントンポスト編集主幹ベン・ブラドリーの『マイ・グッド・ライフ』を読むと、アメリカの政治記者にも同じようなジレンマがあるようだ。ブラドリーはたまたま、首都ワシントンDC・ジョージタウンの引越し先で、上院議員だったジョン・F・ケネディの隣人になったことからJFKと親しくなった。その後JFKが大統領になった後もその親交は続き、ブラドリーは大統領から特ダネを次々ともらいスクープを連発する。ケネディにとっても利用価値はあったし、ブラドリーにとっては願ってもない状況だった。当然のことのように、JFKに対する批判記事は少なくなる。だが、JFKが暗殺され、ジョンソンが大統領になると、形勢は一変する。ジョンソンはわざとワシントンポストのブラドリーにガセネタをつかませたり、重要な情報を知らせなかったりする。ジョンソンはJFKシンパに事実上の報復を始める。私にはJFKとブラドリーの蜜月的な関係よりも、ジョンソンとブラドリーの緊張感のある関係のほうが健全のように思える。緊張関係があったからこそ、後のペンタゴンペーパー事件では権力と真っ向から戦う姿勢を示せたのだし、ウォーターゲート事件のスクープにつながったのではないだろうか。その話はまた明日。
2005.03.01
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新たな世紀の裁判ショー(マイケル・ジャクソン裁判)OJ裁判のほとぼりも冷め、静かな新世紀を迎えられると思ったら、今度は新たな世紀の裁判ショーが始まった。児童虐待罪など複数の罪に問われているポップス界のスーパースター、マイケル・ジャクソンの裁判だ。メディアの注目度・加熱度は、OJ裁判のときと同じ様相を呈してきた。1月31日に開かれた初公判では、無実であることを誇示するかのような白のスーツに身を包んだジャクソンが、裁判所周辺に集まったファンや報道陣にVサインを送るなどのパフォーマンスを見せ、全米メディアが大々的に報じている。すでにメディアを使ったイメージ戦争は始まっている。OJのときのように無罪を勝ち取れば、それだけ名声を得ることができる弁護団のそろばん勘定。奇行癖など何かと話題性があるため、マイケル・ジャクソンの一挙手一投足を興味本位で取り上げるマスコミの好奇心。「マイケルは黒人の英雄」的なイメージを守ろうとするジャクソン・ファンの熱狂。それぞれの思惑が交錯する中、ジャクソンはこれからも、扇情的なマスコミの犠牲者であるとの「悲劇の黒人ヒーロー」を演じていくだろう。メディアはこれをどう伝えていくべきなのだろうか。OJ裁判のときは、メディアが提示する事件の真相と、報道から隔絶された陪審員が知りえた事件の真相とは明らかに異なった。しかし、これから選ばれる陪審員もすでに加熱したメディアの情報にさらされている。弁護側や検察側がこれから示す事件の真相の数々も、多分に演出されたもの違いない。本当に公平で公正な裁判などあるのだろうか。おそらく、世界中どこの国にも存在しないのかもしれない。その中でメディアができる唯一の仕事は、センセーショナルに書きたてることではなく、検察側にせよ、弁護側にせよ、いかなる政治的な情報操作にも影響されずに、冷徹に裁判を分析していくほかないだろう。もっとも、買収による大企業支配が進む中、すっかりショー化した米ニュースメディアに、冷徹な分析など求めるのは無理かもしれないが・・・。裁判は評決が出るまで半年近くかかり、もし有罪となれば、20年以上の実刑が科せられる見込みだという。
2005.02.17
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世紀の裁判ショー3(O・J・シンプソン裁判)O・J・シンプソン事件はアメリカの暗部を象徴する出来事でもあった。一つは人種の問題。黒人に対する(とくに陪審員の)根深い偏見から、黒人が公正な裁判を受けることができないのではないかという不満が黒人社会には渦巻いている。二つ目は貧富の問題。富める者は優秀な弁護士を雇えるが、貧者はそうした弁護士を雇うのもままならず、有罪や敗訴になる可能性が強まる。三つ目は陪審員制度など司法制度そのものに内包する矛盾という問題だ。授業の討論でも、やはり人種と貧富の格差問題が議論の中心となった。とくにラテンアメリカの学生から、アメリカ司法制度への激しい批判があったのは興味深かった。それは「アメリカではカネで正義も買える」というもので、それを聞いたマービン・カルブは耳をふさぐ仕草をして「聞きたくない」というジェスチャーをしたのが印象に残っている(ラテンアメリカの国々の司法制度の実態も調べてみれば埃がたくさん出るかもしれないが、授業ではそのテーマで話し合うことはなかった)。アメリカ人として聞きたくない現実というものが、OJの事件の中に凝縮されている。状況的には完全に有罪と思われる事件の容疑者が、なぜ刑を免れることができたのか。実際民事では、犯人であると事実上断定されている(これには、刑事と民事では立証責任の程度に差があることも背景にある)。もちろんどの国の司法制度にも欠陥はある。アメリカでは、陪審員の人種構成比が判決を左右するのではないかとの見方が強い。OJの裁判がまさにそれで、陪審員が選ばれる地域により判決が左右されることはほぼ事実であろう。事実、「無罪」の評決が発表された直後にCBSが行った世論調査では、白人の約六割が評決を「誤り」だとしたのに対し、黒人の約九割が評決は「正しかった」と回答したという。OJの弁護士団は結局、こうした制度上の問題や人種の問題をうまく利用した。メディアも、弁護士の主張を大々的に報じないはずはなかった。だがアメリカの徹底しているところは、陪審員は公判が始まってから結論を出すまでの九ヶ月間、ホテルに缶詰になりテレビはおろか、新聞も読めなくなることだ。つまり陪審員は情報から隔絶された“牢獄”に入り、事実上24時間監視されることになる。これにより陪審員は「メディア操作」から逃れられるというわけだ。しかし法廷という戦場では、弁護士による情報操作が極めて大きなウェートを占める。高額な報酬を請求する優秀な弁護士であればなおさらだ。事実、陪審員の中には、「もしテレビなどのニュースを見ていたら、無罪とはならなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている人もいたという。メディア操作がいいのか、弁護士による操作がいいのか、あるいは検察側の情報操作がいいのか、アメリカ社会はいつも究極の選択を迫られているようだ。
2005.02.16
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世紀の裁判ショー2(O・J・シンプソン裁判)1995年1月24日から始まった裁判で、OJは一貫して無実を訴えた。裁判は全米が注目する中、すべてが異様な雰囲気の中で進行した。報道は過熱する一方だった。その異様さの背景には、1992年に起きたロス暴動があった。黒人男性ロドニー・キングが白人警官四人から暴行を受け、その様子がビデオで公開され、全米の関心事となった。ところが警官は白人住民の多い地域で裁判を受けて無罪となったことから、黒人住民らが暴動を起こしたのだ。ロス暴動の悪夢を繰り返すことはできない、と様々な配慮がなされた。裁判官には黒人でも白人でもない、日系人を任命。裁判管区も白人優位のサンタモニカを避け、白人の比率が比較的少ないダウンタウンに変更された。その結果、最終的に選ばれた陪審員12人の構成は、黒人8人、白人1人、中南米系2人、白人とインディアンの混血1人となった。加えて検察側は、有罪となっても死刑を求刑しないと宣言するなど異例の事態となった。ほとんどの証拠はOJが犯人であることを示していた。OJにはアリバイがなく、凶器とみられるナイフも事件前に購入していた。現場の血痕のDNA鑑定もOJに不利であった。しかも、殺人の1月前には殺害されたニコールに対しシンプソンは「お前が別の男と一緒にいるのを見たら殺す」と脅している。それでもOJは無罪となった。優秀なOJの弁護団が、警察の致命的な捜査ミスと「人種差別主義者の刑事」によるでっち上げがあったと主張。実際に、捜査ミスと黒人差別用語を連発する白人刑事がいることが公判でも明らかにされた。その結果、この弁護団の主張が陪審員に受け入れられ、95年10月3日無罪の評決が下された。しかしその後、被害者の遺族らが起こした慰謝料請求裁判では、事情はまったく違った。陪審員が白人9人、黒人1人、中南米系一人、黒人とアジア系の混血一人と白人優位の構成となった民事裁判では、OJは二人の殺害に責任があることが認められ、850万ドルの補償賠償支払いと2500万ドルの懲罰賠償支払いが命ぜられた。以上が一連のO・J・シンプソン事件の顛末だ。この裁判はアメリカが抱える大きな問題である人種問題、貧富問題、制度上の問題の三つを浮き彫りにした。授業でもこの3つの問題点についての議論が白熱したが、その模様は明日の日記で。
2005.02.15
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(その88)世紀の裁判ショー1(O・J・シンプソン裁判)「昔の報道機関は裁判など取材しなかった」と、マービン・カルブは言う。かつて(おそらく1950年代~60年代)アメリカでは、裁判はプライベートなことであり、報道機関が踏み込むべき場所ではないという意識があったのだという。しかし今は、そんなことはない。メディアは、可能な限りそのプライベートな部分に踏み込もうとする。今日では、裁判はメディアが大々的に取り上げるショーとなった。その中でもとくに大々的に取り上げられた出来事が、元プロフットボールの花形スター選手O・J・シンプソン(以下OJ)が容疑者とされた殺人事件の裁判だった。事件のあらましは次の通りだ。事の発端は1994年6月13日午前零時一〇分ごろ。ロサンゼルス市内にあるOJの元妻ニコール・シンプソンの自宅玄関先で、ニコールとボーイフレンドのロナルド・ゴールドマンの惨殺死体が見つかった。あたり一面は血の海で、犯人のものと思われる靴の跡や手袋の片方(左手用)が落ちていた。午前5時頃、現場から約2マイル離れたシンプソンの自宅を訪ねた刑事が、敷地内に止めてあったシンプソンの車フォード・ブロンコを見つけ調べたところ、運転手側のドアに血痕が付着していた。家の中には友人のカトー・カエリンと娘のアーネル・シンプソンがおり、シンプソンは前日の午後11時前にシカゴ行きの深夜便の飛行機に乗るといって家を出たという。シンプソンの家のゲスト・バンガローの裏庭の通路では、右手用の手袋が発見された。死体発見現場で見つかった手袋と同じものだった。フォード・ブロンコ内からも血痕が見つかった。そのころOJは、確かにシカゴにいた。そこで「事件のことを知って」トンボ帰り。ロス市警の事情聴取を受ける。OJは、死体が発見された日に手を怪我し、その血がフォード・ブロンコに付着したのだと供述した。物的証拠や状況証拠は、OJ犯行説を裏付けるものばかりだった。OJの自宅寝室からは血のついた靴下が発見され、事件が発生した時間に25分間ほどOJはかかってきた電話に出なかったこともわかった。後に証言を拒否されたが、その時間帯にフォード・ブロンコを運転するOJを目撃したとの証言もあった。OJの家で発見された手袋には被害者の血痕がついていたこともDNA鑑定で判明。現場の靴跡もOJの靴のサイズと一致した。これだけ証拠がそろえば後は逮捕しかない。六月一七日には逮捕状が交付されたが、OJは制止を振り切り、フォード・ブロンコで逃走。その様子をメディアがヘリコプターから撮影、全米にテレビ放映するなど大捕り物劇が展開された。午後八時前、自宅に着いたOJを警察のSWATチームが取り囲み、一時間後にようやく車から降りてきたOJを逮捕した。全米の話題はOJの捕り物劇でもちきり。メディアは当然、トップニュースでこれを伝えた。まさに、これから始まる世紀の裁判ショーにふさわしい幕開けとなった。(続く)
2005.02.14
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新しいメディアの誕生メディアやコミュニケーションの技術革新は、政治そのもののやり方を根本的に変えたといわれている。カルブの授業第四週の「新しいメディア技術――その機会と危険性」では、ハイテク時代のメディアと政治のあり方について議論した。たとえば今日のテレビ報道では、相互コミュニケーションができるようになったため、即座に視聴者や選挙民の反応がわかる。すると、進行中の番組の中で、ある政治家の発言に対し、どういう国民の反応があったかが短期間のうちに知ることができるわけだ。その結果、その番組放映中にその政治家は、自分の発言を修正したり、弁明したりすることにより、ダメージコントロールをすることも可能になる。もちろん、これ以上のことが実際に行われていると思う。政治家が演説する際、事前にモニターを使って演説の一言一句に対して肯定的な反応をするか、否定的な反応をするかを調査することは常識になっている。これを、原稿を事前に用意できる演説ではなく、大統領選挙のテレビ討論に応用することも可能だろう。あるテーマについて、国民の心を最も捉える言葉を、モニターを使って瞬時に選び、その結果を候補者に無線でフィードバックする(すでにテレビ討論でブッシュが無線を使った疑惑は浮上している)。候補者はその言葉をさも、昔から考えていたかのように話せばいいのだ。インターネットを含むコミュニケーションツールの技術進歩は、10年前までは想像もできなかった政治手法を可能にしている。インターネットを使えば、効果的な世論調査を短時間に実施することもできる。逆にインターネットの“世論”を操作する政治も出現するわけだ。一説には、日本人がイラクで人質になったときに「自己責任論」が跋扈したのも、政治的な仕掛け人がいたとされている。メディアは確実に、より巧妙に、より一般からはわからない形で、政治的に利用されはじめている。細川首相がプロンプターを使って、それまでのいかにも原稿を棒読みしていますタイプのイメージからの脱却を図ったのは、10年以上も前だ。いかにスマートなイメージを作り出すかは、いまでは政治家の日常となった。そして、ニクソンとケネディの討論会から本格化したイメージ合戦の主戦場であるテレビは、世界をとんでもない方向へと導くプロパガンダの道具へと変貌していくのだが、その話は第12週目の「湾岸戦争」の項に譲ることにする。
2005.02.10
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選ばれし者たち、そしてウソ報道機関に携わる者が選挙で選ばれた者でないのに対して、選ばれし者たちが大統領や議員たちだ。カルブの授業第三週の「米議会の挑戦と問題点」では、1994年11月に米議会では40年ぶりに上下両院を共和党が支配することになったことを取り上げた(その後も共和党がほぼ両院を支配し続けている)。それまでの米議会は上院と下院で、うまく民主党と共和党がどちらかの主導権を握るように選挙で議員が選ばれていた。この背景には、米国の選挙民のバランス感覚によるものと理解されていた。確かに選挙では、民主党の大統領が選ばれたときは、議会は共和党が躍進し、共和党が大統領に選ばれたときは、議会は民主党が躍進するというように、うまく選挙民が選び分けていた場合があった。しかし、どうも1994年ごろから、そのバランスが崩れ始めたようだ。私にはそのきっかけが、クリントンにあったように思われる。クリントンは抜群の人気で、共和党支持者の間にも支持を広げていった。そして、その幅広い人気を支えたのが中道寄りの政策であるといわれている。これが非常に効果的であったため、それぞれの党が中道層を取り込もうとする政策を掲げはじめた。すると、政策を見ると似たりよったりで共和党なのか民主党なのかよくわからなくなってきた。共和党議員を選ぼうが、民主党議員を選ぼうがもはや、そう大差がないのではないかと選挙民が考えるようになり、それまで保たれてきたバランスも崩壊していったように感じられる。同時に米メディアもバランスを崩しはじめた。冷戦も終わり、国内では共和党と民主党の政策に大差がない以上、ニュースを盛り上げるためには、より大きな関心事や対立軸を作り出す必要が出てきた。そのきっかけがホワイトウォーターとか、モニカ・ルインスキーといったスキャンダルであった。メディアが飛びつかないはずがない。クリントンが下半身スキャンダルでウソをついたのは明白だ。それをウソでないかのように弁明する話術はこっけいでもあった。大統領の権威は失墜。米国民だけでなく世界中の人々が注目するお笑い政治ショーとなった。しかし今から考えると、のどかな時代であったと思う。イラクが大量破壊兵器を持っているからだといってイラクを攻撃したウソに比べれば、クリントンのウソは何とかわいかったことか。より大掛かりなウソが、まかり通る世の中になってしまった。
2005.02.09
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テレビという巨大メディア近年のアメリカのメディアを論ずるうえで、テレビの影響の急激な増大を取り上げないわけにはいかない。それがマービン・カルブの授業の第二週で議論した「テレビの隆盛とその力」だ。現代の政治家のイメージはテレビによって作られる。テレビが政治家を選び、人気や不人気を作り出し、そして最後にその政治家の政治生命を奪うというように、政治家の殺生与奪の権利を握っているのではないか、という問題提議があった。テレビニュースが登場した当初は、確かにそれほど政治に影響を与えるケースは少なかった。おそらく、そのテレビの役割を決定的に変えたのが、一九六〇年の米大統領選でジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンが行った初のテレビ討論会であろう。それまでも政治家は、効果的にテレビを利用してきた。しかし、この討論会以降、テレビを使ったより洗練された(狡猾な)利用方法が必要であると認識されたという意味で画期的であった。ニクソンには不運な面と慢心した面があった。八月に膝を怪我して入院、体重が落ち、第一回目のテレビ討論会があった9月26日になっても膝は完治していなかった。ニクソンは病人のように見えた。加えて、ケネディがスタッフと入念な打ち合わせをし、休息を十分に取っていたのに対し、ニクソンはほとんど休まず、選挙運動や討論会のための資料を読むなど緊張した時間を過ごした。ダークスーツを着たケネディは日焼けして、若くて健康的に見えたのに対し、グレーのスーツを身にまとったニクソンは化粧が必要なほど青白く、不健康で疲れて見えた。討論自体はお互いに揚げ足を取られないように、慎重な発言に終始した。討論会をラジオで聴いていた視聴者は、ニクソンの慎重な語り口に軍配を挙げる人が多かった。ところが、テレビを見ていた視聴者は、老人のようにか弱そうにみえるニクソンに政治家としての豊富な経験を見るよりも、ケネディの中に自身に満ちた若き指導者の姿を見た。テレビの中のニクソンは額や唇をぬぐうなど神経質そうで緊張しているのがはっきりとわかった。一方ケネディは、リラックスして堂々として見えた。ケネディが視聴者や国民に話しかけているのに対し、ニクソンは目の前にいるケネディにしか話しかけなかった、という印象を与えた。この第一回目のテレビ討論会が、その後の選挙の行方を変えたのだとする人は多い。実際選挙では、若輩のケネディが僅差ながら外交実績のあるニクソンを破った。これ以降、テレビのイメージを最大限利用しようとする動きが主流となるのもこのためだ。しかし、昨年の大統領候補テレビ討論会を見ていると、そうでもないような気がする。あれだけ失態をさらしたブッシュは、今でもホワイトハウスに居座っている。もちろんテレビが映し出すイメージは選挙でも重視されているだろうが、フォックステレビなどを見ていると、テレビ局自体を取り込み、年がら年中、視聴者を洗脳するもっと大掛かりなシステムが進行中なのではないかと思ってしまう。
2005.02.08
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NHKと朝日新聞の抗争9・11テロ後、アメリカ報道機関の名声は地に落ちたと先週書いた。では、日本の報道機関の現状はどうか。現在、NHKと朝日新聞の間で特定の政治家がNHKに圧力をかけたか、かけないかで醜い争いをしている。だが、そもそもNHKを中立な報道機関、つまり“不偏不党”の報道機関だと考えるほうがおかしい。NHKは昔も今も、事実上の政府の御用報道機関であり、与党の広報機関的色彩が極めて強い。それを不偏不党のニュースを伝えているなどと称しているほうがおこがましいというものだ(NHKの災害報道だけは、一応のまともなニュースと呼んでもよい)。安倍、中川という特定政治家がNHKに“圧力”をかけたのかどうか、私は知らない。しかし、国会で多数を占める自民党の“ご承認”がなければ予算も通らないきわめて弱い立場にNHKはある。承認がなければ、番組を作るどころか職員に給料を払うこともできないのだ。時の政府に逆らえるはずがない。その意味で、圧力がなくとも、NHKは自民党に実質的に牛耳られているのだから、自民党幹部の言葉は「神の声」である。中川や安倍の言うように「圧力」などではなく、ただの有無を言わせぬ「神の声」であったのだろう。もちろんNHKにも、かなり公平で素晴らしい番組はある。特に教育テレビのドキュメンタリーには時々、目を見張らされる。しかし、ニュース7とか、ニュース10を見ると、吐き気を催すような権力者べったりの報道が多いのも事実だ。北朝鮮中央放送と違い、多くの日本人はそれを不偏不党なニュースだと思い込んでいるだけ、たちが悪いといえる。今のシステムで、NHKが本当に独立した不偏不党の報道機関でありたいなら、予算が承認されなくとも我々は真実の番組を作るのだという決死の意気込みを、報道に携わる局員が持つことよりほかにないであろう。それは、給料をもらえなくとも真実の報道をするという決意である。今のNHKにそれができるとは到底思えない。それがNHKの実態である。それでも受信料を払いたいと思う人は払えばいい。
2005.02.07
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無知と傲慢今日ほど無知により、そして傲慢な結果として生き物が殺されていく時代を私は知らない。イラクでは、ありもしない大量破壊兵器のために何万人という人々が殺された。中東では毎日のように、そこに昔から住んでいるパレスチナ人が、途中からやって来た者に邪魔物扱いされ殺されていている。アメリカが“テロリスト”の側に分類したせいで、多くのアフガニスタンの人々は非情な爆弾の犠牲となった。殺される前には常に、もっともらしい理由が付け加えられる。「やつらは大量破壊兵器を今にも使おうとしているのだ」とか、「やつらは拷問により人々を苦しめている残虐な圧制者である」とか、「やつらは人間を平気で殺すテロリストだ」とかいった理由だ。つまり、殺される側がいかにひどい人間であるかを強調するプロパガンダが展開される。悪いことに、ほとんどのメディアはそれを煽ることしかしない。何かが狂っている。だがこの狂気は、ごく身近にも迫っているのだ。身勝手な人間に捨てられたという“理由”で、数え切れないほどの犬や猫が殺されている。人間が過剰に植林した杉などのせいで、昨秋には多くの熊たちが射殺された。東京都では、人間の出したゴミのせいで四万羽という聖なるカラスが殺された。そして今度は、カラスを殺しすぎたという理由で大量のハトが飢え死にさせられようとしている。青森のサルに続き軽井沢でも、「人間様が先に住んでいる」という理由でサルを駆除する動きがある。そして、いつものようにメディアは、ハトのフン害の“恐怖”、カラスやサルの“凶暴性”を「それみたことか」と書き立てる。朝日新聞「私の視点:軽井沢のサル 駆除で住民の暮らしを守れ」(一月二十九日付朝刊)で関谷富蔵氏は「軽井沢には元々サルはいなかった」と言う。人間は被害者だ、サルを駆除して何が悪いというわけだ。そうかもしれない。だが、もっと大きなスパンで見れば「軽井沢には元々、人間はいなかった」のではなかったか。殺す側は、動物を駆除するのは最後の手段だと主張する。すべての手段を尽くした上で「どうしようもない」から殺すのだ、と。どこかで聞いた言葉だ。確か人間もあの時、戦争は最後の手段だと叫んでいた。行き着く先は誰でも想像できるはずだ。臭い、汚い、目障りだという理由でホームレス狩りが実行され、人間の生活圏から鳥や野良猫がいなくなる。次は、国益のためだといって私たちの自由は奪われ、自国に都合の悪い真実を書けば、愛国的でないという理由で社会的に抹殺される。「どうしようもない」という理由で私たちが殺される時代は、すぐそこにまで迫っている。
2005.02.04
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メディア論2授業についていくには、大量なリーディングの宿題をこなさなければいけないことはすでに書いた。時々あまりにも大量なので閉口することもあるが、カルブとパターソンの授業のリーディングに関しては、テーマによっては非常に面白く、学生のほうからもっと読みたいと要求することもあった(もちろん私は要求しなかった)。最初の「報道の自由と責任」で私が驚いたのは、アメリカ人の間で報道機関に対する不信感がかなり高まっているということだった。報道機関は司法、行政、立法に次ぐ第四の権力になっているが、果たして選挙によって選ばれたわけでもない報道機関の人間が、これほど力を持っていいのか、という議論を展開した。報道機関に対する不信感は、「わざと暗いニュースを流している」「政府を批判ばかりして何もしない」「政治的なバイアスがある」「会社の利益を優先しており、信頼できない」といった不満などから来ているようだった。最後の「会社の利益を優先しており、信頼できない」というのは、ディズニーのメディア王国を見るまでもなく、近年の米国の報道機関ではまさにその通りになってきたように思う。「これほどの力を持っていいのか」に対する私の考えは明瞭である。ニュースメディアが反権力の立場であり続けるかぎり、つまり権力の監視者としての立場を失わないかぎり、ニュースメディアは第四の権力としての価値がある、いやむしろ強いに越したことはないというものだ。しかし、そのようなニュースメディアが現在、アメリカに存在するのか、非常に疑問だ。9・11以降の大手アメリカ報道機関の有様は、権力にべったりくっついたブッシュの広報宣伝機関になり下がった。最近でこそ少しまともになったが、戦前の日本の大本営発表みたいのような発表を繰り返すか、ブッシュ政権のプロパガンダに踊らされる報道機関がほとんどだった。それ以上にひどいフォックステレビの扇動的、超愛国主義的な“ニュース”や“解説”など論外である。一つのテロによって、ここまでアメリカの報道機関が堕落するとは、驚き、落胆し、あきれるばかり。マービン・カルブもさぞ嘆いていることだろう。
2005.02.03
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メディア論1マービン・カルブ教授とトマス・パターソン教授によるPPP100「報道と政治と公共政策」のコースは、難解で頭が痛くなるような問題を時々解かなければならない経済のコースに比べると、私にはちょっとした息抜きとなった。授業も週一回の火曜日午後2時から4時までの二時間だけ。現役ジャーナリストのパネラーが参加したり、昔の報道番組を見て議論したりするなどディスカッションを中心とした授業だった。60人ほどいる学生は、5~6人の11グループに分けられ、週一回授業とは別に必ずミーティングを開き、その週の最も重要なニュースを選び、次の授業までにレポートを提出することを義務付けられた。成績はテーマを決められた3つのペーパーとクラスでの発言、それに毎週出すレポートの出来(各20%の構成率)で決まった。授業のテーマは次のとおりだった。第一週:報道の自由と責任第二週:テレビの隆盛とその力第三週:米議会の挑戦と問題点第四週:新しいメディア技術――その機会と危険性第五週:O.J.シンプソン事件と裁判取材第六週:大統領と報道機関第七週:ウォーターゲート事件からホワイトウォーター事件まで第八週:1996年大統領選第九週:選挙と有権者の不満第十週:人種差別と公民権運動第十一週:ヴェトナム戦争とペンタゴンペーパー第十二週:湾岸戦争――ヴァーチャル戦争第十三週:国際情勢をどう報道するか第十四週:報道と政治――残された問題ペーパーは、最初の締め切りが第六週までで、テーマは「メディアとは何か」。二つ目の締め切りが第十週までで、テーマは「為政者は近年のジャーナリズムの変化によって得をしたか損をしたか」。最後の締め切りは第十四週までで、ベン・ブラドリーの『わが生涯』、クラウドとオルソンの『モローの子分たち』、ジェームズ・ファロウの『臨時ニュース』の三冊から一冊を選び、それを基にメディアの総論を書け、というものだった。明日からは授業内容について紹介します。
2005.02.02
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日米通貨当局の思惑2(c) Assume that both the BOJ and the Fed want to reduce the value of the yen relative to the dollar, but they also do not want to change the size of their respective monetary bases. How might both central banks intervene in the foreign exchange market in order to influence the dollar-yen exchange rate without changing their respective monetary bases. Describe in details how the Fed and the BOJ intervention operations will lead to a change in the dollar-yen exchange rate.(c)は日米の通貨当局がともにドル高円安を望んでいるが、ベースマネーを変動させたくない場合だ。これは現実的によく起こる問題だ。ベースマネーを変えてしまうと、両国の経済に大きな影響があるからだ。為替のために経済を犠牲にするのは本末転倒になってしまう。そこで登場するのが、前の問題で解いた不胎化介入だ。不胎化介入なら、ベースマネーを変えることなく、為替に影響を与えることができる。具体的には、Fedは日本の(円建て)国債を売り(ドルを市場から吸い上げ)、米国債を買う(ドルを市場へ戻す)。日銀は米国債を買い、日本の国債を売る。こうすればベースマネーは変わらずに、為替レートに変化を生じさせることができる。どのように変化が生じるかは、すでに論じたようにポートフォリオ理論とシグナリング理論で説明できる。簡単に説明すると、ポートフォリオ理論では日本の国債が市場に増えるため、リスクが上がり価値が下がる。また日米通貨当局が市場から信用されている場合には、日銀が将来金融緩和策を実施し、Fedが将来金融引き締め策を実施する兆し(シグナル)だと市場は理解し、ドル高円安へと動く。さて、これでドミンゲスの中間試験の問題はすべて解説した。ただし、これを全部解かなければならないわけではない。全部で四問中、たった二問だけ解けばいいのだ。時間は90分。なんだ、たいしたことないなと思う人は、あえてハーバードの大学院で勉強する必要もないほど国際金融のことを知っている人。難しくて興味がないと思っている人は、ご安心ください、ハーバード・ケネディスクールには、国際政治から世界経済まで公共の利益や公共政策に関係する講座はたくさんあるので、自分の興味がある好きな学科を取ればいいだけのこと。実際ミッドキャリアの学生の中には、経済など一教科も取らずに卒業する人も多い。明日からは経済とはほとんど関係のない、マービン・キャルブ教授のメディア論を紹介します。
2005.02.01
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日米通貨当局の思惑ドミンゲスの中間試験最後の問題。Over the course of the first four months of this year the value of the U.S. dollar fell by over 40% relative to the Japanese yen. Starting in May, the dollar gradually strengthened against the yen, and the current dollar-yen rate is now approximately back to the level it started at in the beginning of the year. This question asks you to consider the monetary and intervention policies that were available to the Bank of Japan (BOJ) and the Fed in April when the dollar was at its lowest value relative to the yen. (NOTE: Do not tell me what the BOJ and Fed actually did; tell me what they could have done given the objectives described below and what you know about the relationship between monetary policy, intervention policy and exchange rates.) Provide short-run analyses assuming prices are (temporarily) fixed. (a) Assume that the BOJ wants to reduce the value of the yen relative to the dollar, what monetary policy actions can they take to accomplish this? Provide step-by-step details on how the BOJ monetary policy change will lead to a change in the dollar-yen exchange rate. (b) Assume that the Fed also wants to reduce the value of the yen relative to the dollar, what monetary policy actions can they take to accomplish this? Provide step-by-step details on how the Fed monetary policy change will lead to a change in the dollar-yen exchange rate. (c) Assume that both the BOJ and the Fed want to reduce the value of the yen relative to the dollar, but they also do not want to change the size of their respective monetary bases. How might both central banks intervene in the foreign exchange market in order to influence the dollar-yen exchange rate without changing their respective monetary bases. Describe in details how the Fed and the BOJ intervention operations will lead to a change in the dollar-yen exchange rate.この問題だけは、現実に即した応用問題のようになっている。止まらない円高ドル安に日米の中央銀行はどう対処するのかについて答える問題だ。(a)では、日銀がドル高円安にしたいと考えている。円の価値を減らすには、日本国内のベースマネーを増やせばいい。円がたくさん市場に出回れば、つまりインフレに動けば、カネの価値がそれだけ減るからだ。そのためには、買いオペ、利下げ(貸し出しをしやすくすること)、預金準備率引き下げの三つの方法がある。また短期的には、ベースマネーの拡大は流動性効果により金利の低下につながる。日本の金利低下は、もし米国の金利がそのままなら、円の価値を減ずるので円安ドル高に働く。(b)は、Fedもドル高円安を望んでいる場合だ。(a)と逆で、Fedはベースマネーを減らせばいい。売りオペ、利上げ、預金準備率引き上げの三つの方法がある。また短期的には、ベースマネーの縮小は流動性効果により金利の上昇につながる。米国の金利上昇は、もし日本の金利がそのままなら、ドルの価値を高めるのでドル高円安に働く。(c)の答えはまた明日。
2005.01.31
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不胎化って何だ!ドミンゲスの中間試験第3問。(3)“Sterilized intervention operations are futile.” (a)Describe the mechanics of a sterilized intervention operation. (b) Under what circumstances would you agree with the quote? (c) Under what circumstances would you expect a sterilized intervention operation to influence exchange rates? (d) How would your answers to parts (a), (b) and (c) change if the intervention operation were non-sterilized? 「不胎化介入(不胎化政策)は無駄である」――。一体何のことか。この文章を読んでSF「スタートレックシリーズ」に登場するボルグの“Resistance is futile(抵抗は無駄である)”という言葉を思い浮かべたのは私だけだろうか。もちろんこの問題は、スタートレックとはまったく関係ない。経済学用語の中でも不胎化政策ほど奇妙な言葉を私はほかに知らない。為替相場への市場介入の際,自国内の通貨量を変動させないようにオペレーション等で相殺することをいう。不毛にする、不妊化するという意味のsterilizeという単語を使っているので、かなりイメージ的に変な感じを受ける。この単語を使っているのは、介入しても何も生じないように市場にとってニュートラルな措置を施すという意味がある。なぜそういう措置をとるかというと、為替への介入がマネーサプライの増減に影響を与えないために実施する。自国通貨のレートを変えるためにマネーサプライを増減させてしまうと、物価の乱高下や金利の上下動につながってしまう可能性がある。それを防ぐためだ。では、具体的にどうやるのか。それが(a)の答えでもある。ポイントは、為替介入といっても実際は買いオペや売りオペとほとんど変わらないということ。唯一の違いは、国内の国債の変わりに外国の国債を買ったり、売ったりする点だ。たとえば、米国がドル安にしたい場合の不胎化介入とは次のようなものだ。まずFEDは、2億ドル相当の日本政府発行の国債を買う。手持ちのドルを使うので、市場に2億ドルが増えることになるが、これを相殺するため同時に2億ドル相当の米国債を市場に売り、市場から2億ドルを引き上げる。こうすればベースマネーに変化はない。不胎化したわけだ。ドル高にしたいときは、その逆をする。つまり、手持ちの日本の国債を売り、同額相当の米国債を市場から買う。しかし実際にドル高になるか、あるいはドル安になるかは(a)では求められていない。その答えは(b)と(c)とも絡んでくるのでまた明日。
2005.01.26
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浪費大国の苦悩2ドミンゲスの中間試験第二問の続き。(2) The fictional country of Freespendia (浪費大好き国) has had a recent history of hyperinflation, frequent devaluations, and large government budget deficits. In order to improve its international reputation and encourage foreign capital inflows, the government of Freespendia is thinking about switching to a currency board system.(c) What problems is Freespendia likely to face with a currency board system?(d) Under what circumstances would you recommend that Freespendia move to a currency board system?(c)は、カレンシーボード制度の問題点は何かという問題。為替安定と引き換えに金融政策を放棄したツケは結構重い。まず、先日すでに述べたが、金融政策が講じられないため、景気が下向きになったときでも金融緩和策ができない。第二に、セイフティーネットがないことだ。商業銀行が短期資金を必要としても、中央銀行は流動性を確保するためにマネーサプライを増加することはできない。不況で取り付け騒ぎが起きても、中央銀行が動けなくなってしまう。そうした金融危機の場合は、カレンシーボード制度は事実上崩壊する。第三には、自国通貨の価値がドルと連動させることにより実力以上に上がってしまうことだ。カレンシーボード制度を導入した「浪費大好き国」は、もともとインフレになりやすい体質がある。もし「浪費大好き国」でアメリカよりも高いインフレ率が続けば、その通貨価値は過剰に高くなる。そうなれば輸出競争力は落ち、相対的に安くなった輸入品が増加、貿易赤字が拡大する。(d)では、逆にカレンシーボード制度の利点を挙げた上で、どういう場合に同制度に移行すべきかを述べればいい。第一の利点としては、カレンシーボードは複雑な金融政策をしなくていいため運営が簡単なことが挙げられる。第二には、カレンシーボードは政府に対して責任のある財政政策を強いることができる。とにかく一切金融政策を行わないわけだから、国債を買うこともしない。政府は自分の責任で借金をしなければならない。第三の利点は、カレンシーボードの設置により通貨切り下げの可能性が低くなるので、それだけインフレを抑制する効果があることだ。こうした長所や短所を考慮すると、金融システムが比較的健全に機能している国でなければ、カレンシーボード制度を導入すべきでないことがわかる。金融政策を行わないため、商業銀行の責任が高まるからだ。それに、財政当局にとってもかなりの強い意志と規律が求められるため、よほどの覚悟がなくてはならないだろう。すでに事実上導入している香港は別にして、インフレで通貨価値の下落が止まらず、国際的信用を失った場合の最後の方策として、カレンシーボード制度を試してみるのもいいかもしれない。
2005.01.25
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浪費大国の苦悩1ドミンゲスの中間試験第二問。(2) The fictional country of Freespendia (浪費大好き国) has had a recent history of hyperinflation, frequent devaluations, and large government budget deficits. In order to improve its international reputation and encourage foreign capital inflows, the government of Freespendia is thinking about switching to a currency board system.(a) How is money created in a currency board system?(b) Why are currency boards seen as protection against devaluation?(c) What problems is Freespendia likely to face with a currency board system?(d) Under what circumstances would you recommend that Freespendia move to a currency board system?この問題を解くには、カレンシーボード制度について説明しなければならない。これは、自国通貨を主要国の通貨,実際にはアメリカ・ドルと一定の為替レートで無制限に交換することを金融当局が保証し,これを担保できる以上の外貨準備を保有する制度。事実上の固定相場制とすることで,為替相場や物価の安定を目的とする。為替レートの安定を手に入れる代わりに金融政策を放棄するため、インフレになろうと、景気が悪くなろうと、金利を上げたリ、下げたりすることができない。香港がこの制度を実質的に採り入れている。さて、カレンシーボード制度の下ではどうやって貨幣が創造されるかという問題(a)の答えだが、国際金融論4の信用創造のことを思い出してくれればよい。信用創造と貨幣創造は同じ意味。基本的にカレンシーボード制度においても、同じことが起きる。誰かが銀行に預金を預けると、信用創造によって、それが何倍かの預金に膨らむ。唯一の違いは、カレンシーボード制度下では、商業銀行が発行するチェックのようなプライベートマネーは、中央銀行は関知しないということだ。通用するのは、その国の通貨(紙幣や硬貨)だけ。もし外貨が欲しければ、商業銀行でチェックなどを現金(紙幣や硬貨)化し、それをもって中央銀行に行き、外貨と固定相場レートで取り替えるしかない。次に(b)の解答。カレンシーボードが発行する通貨は、すべて外貨(ドル)準備で裏付けられている。たとえば外貨準備が1万ドル減れば、ベースマネーも1万ドル分減少。外貨準備が1万ドル増えればベースマネーも1万ドル増加する。このように外貨準備に対するベースマネーの比率はいつも変わらないので、固定相場が維持できる、つまり通貨切り下げの必要がなくなるわけだ。(c)と(d)の答えはまた明日の日記で。
2005.01.24
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グリーンスパンは何をするのか?さて、これまでの基本的な経済事象を踏まえたうえで、ドミンゲスのコースで実際に出された中間試験を解いてみよう(今回は英語の勉強も兼ねて、原文を書きます)。1) On October 20, 1987 (the day after the stock market crash), Fed Chairman Greenspan issued an extraordinary public statement, “the Federal Reserve, consistent with its responsibilities as the nation’s central bank, affirmed today its readiness to serve as a source of liquidity to support the economic and financial system.”(a) What are the policy tools that the Fed has at its disposal, to follow through with this “liquidity”assurance?(b) How, specifically, can the Fed go about implementing its policy tools?(c) How would you expect these actions to influence the dollar exchange rate (assuming no changes in foreign monetary policy)?(a)の前半部分は簡単だ。国際金融論2で述べた公開市場操作、金利政策、準備預金という三つの政策手段(tools)を書けばいい。問題は後半の「流動性の確保を完遂するため」と訳せる部分。前日株価が下落したのを受けての発表だったことに留意しなければならない。一番恐ろしいのは、先行き不安からパニックになること。銀行など市中に潤沢に資金がないと、不測の事態に対応できなくなる。そうした不安を払拭するためにも、資金が十分に市場に出回っているようにしなければならない。そのためにグリーンスパンができることは、マネーサプライを増やすことだ。そのマネーサプライを増やすには、買いオペをする、金利を下げる(あるいは貸し出しを増やす)、準備率を下げる、の三つの政策を実施すればいい。(b)は三つの政策を具体的に論じればいい。買いオペとは実際に何を実施し、実施するとどうなるのか、金利を下げる(あるいは貸し出しを増やす)とどうなるのか、準備率を変動させるとどうなるかを説明する。(c)の解答も流動性がポイントだ。グリーンスパンは「流動性確保」のため、マネーサプライを増やす方針を打ち出した。つまり金融緩和策だ。国際金融論5で書いたように、マネーサプライの増加は、流動性効果により短期的には金利を下げる。金利が下がると、アメリカ・ドル建て財産(ドル預金など)は、他国の通貨建て財産に比べて魅力が薄れる(リターンが少なくなるから)。するとドルに対する需要は減り、ドルが他国通貨に対して安くなる。ただし、マネーサプライの増加により物価が上がったり、所得が上がったりすれば、金利は上昇に転じる。また今回の場合、グリーンスパンは株価暴落を受けて緊急避難的にマネーサプライを増加するわけだから、金利が多少下がったとしても為替に対する影響は少ないとみられる。
2005.01.20
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国際金融論5(おカネと金利)国際金融論3(公開市場操作の仕組み)で市中のお金の量と金利の関係について「お金が市中にあふれているときには金利が低くないと借りてくれない」と簡単に書いたが、実は金利とお金の量の関係についてはもっと複雑な要因が絡んでくる。具体的には4つの要因がある、とドミンゲスは言う。その要因を説明する前に、お金に対する需要が、お金の量や金利とどういう関係があるかを述べたい。まず、お金に対する需要と金利の関係は、金利が高騰したときはお金に対する需要量も低下し(わざわざ借りてまでお金を持とうとは思わなくなる)、金利が下落したとき需要量は増加する。このことは経験的にもわかるだろう。すると、縦軸に金利を、横軸にお金の量(貨幣残高)をとると、お金に対する需要曲線は右肩下がりになる。一方、現金と預金で構成される貨幣供給(マネーサプライ)は、中央銀行によってコントロールされると考えられるので、グラフ上では垂直として表される。この垂直のマネーサプライのラインを右に動かす(つまり供給量を増やす)と、お金に対する需要曲線との交点も右に移動する。その交点を以前の交点と比較すると、金利が下がることがわかる。逆にマネーサプライのラインを左に動かす(つまり供給量を減らす)と、今度は金利が上がることがわかる。このように通貨供給量を増やすと金利は下がり、減らすと金利が上がるという関係がグラフ上で確認できる。この現象を流動性効果(Liquidity Effect)と呼ぶ。これが第一番目の要因だ。第二番目の要因は、所得効果(Income Effect)。人や会社によるかもしれないが、企業や個人の所得が増えれば、それだけお金を保有したいと欲するはずだと考える。別の考え方をすれば、所得が増えたのでもっといいもの(高価なもの)を買おうとするためお金を欲しがると解釈してもいいかもしれない。この欲求は需要曲線を右にシフトさせるため、垂直のマネーサプライラインとの交点は上に移動、金利が上がる。第三番目の要因は、価格効果(Price Effect)。物価が上がると企業や個人はそれだけお金を必要とするので、需要曲線は右にシフト、金利が上昇する。第四番目の要因は、第三番目と似ているがもっと効果が大きいインフレ効果(Inflation Effect)。インフレになれば当然、企業や個人はもっとお金を必要とするので、需要曲線は右にシフト、金利が上がる。では、実際に中央銀行がマネーサプライを増やしたらどうなるか。第一番目の要因である流動性効果により金利は下がる。ところが市中にカネが増えると、カネよりもモノの価値が相対的に高くなるため物価が上がり、企業や個人の所得も増加、それが高ずるとインフレになる。所得効果や物価効果、インフレ効果により金利は上がる。当初、金利を下げる働きをしたマネーサプライの増加が実は金利を上げることにつながることがわかる。果たして、マネーサプライを増加させる前の金利水準より、結果的に金利が高くなるのか低くなるのかは「神のみぞ知る」だ。常に市場に目を配らなければ、逆の効果を生み出すことがある。金融政策はタイミングが極めて大事になるのはこのためだ。
2005.01.19
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国際金融論4(信用創造)国際金融論3で取り上げた信用創造についての説明が不足していたと思うので、今日は詳しく述べたい。ドミンゲスの授業でも、かなり時間をかけて説明された。信用創造とは、銀行組織全体が、貸し出しを通じて、最初に預け入れた預金の何倍かの預金を作り出すことだ。預金創造とも呼ばれる。しかしこれだけでは、何のことだかわからないと思うので、具体例を挙げる。企業や個人が新規に預金100万円を銀行Aに預け入れたとする。すると銀行Aは、新規に預かった預金の一部を払い戻しなどに備えて現金の形で手元に残しておかなければならないが、残りを貸し出しに回すことができる(国際金融論2の準備預金と準備率参照)。現金準備率(支払いに備えて手元に保有しておく現金÷受け入れた預金)を0・1(10%)とすると、新たに90万円の貸し出しができるわけだ。このとき企業Xが銀行Aから90万円を借り、企業Yに支払いを行うと、企業Yの取引銀行である銀行Bは90万円の預金を受け入れることになる。すると、銀行Bも81万円の貸し付けが新たに可能となる。企業Yが銀行Bから81万円を借り、企業Zに支払いを行うと、銀行Cに81万円の預金が入る。銀行Cは・・・。以下、同様にこのプロセスが繰り返される。このようにして、創出される預金総額は100+100×(1-0・1)+100×(1-0・1)(1-0・1)+100×(1-0・1)(1-0・1)(1-0・1)・・・・・=100÷0・1で1000となる。つまり、現金準備率が0・1の場合は当初の預け入れ預金金額100万円の10倍(現金準備率の逆数倍)である1000万円の預金が生み出されたわけだ。この現金準備率の逆数(0・1の場合は10)を信用創造乗数、または預金創造乗数と呼ぶ。もっとも、これは理論上の話。現実には、銀行は貸出限度額まで貸し出すことはあまりないし、企業も借り入れた資金をすべて預金するとはかぎらない。その場合には、信用創造乗数は、理論値よりもはるかに低くなる。明日は再び「不思議な世界」について書きます。
2005.01.17
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バブル経済の歴史3近年のITバブルが技術革新によってもたらされたのは、よく知られている。インターネットなどITの技術革新によって、経済の未来はばら色になったように思えてくる。夢が夢を呼び、それが投機を煽るわけだ。しかし、技術革新のバブルは何も20世紀以降の専売特許ではない。19世紀のイギリスでも、技術革新がもたらすだろう未来社会に対する夢が無限に広がり、株式バブルとなった。その技術革新とは鉄道だ。1820年代に実用的な蒸気機関車が登場、1830年にリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業すると、イギリスでは本格的な鉄道時代が幕開けた。鉄道網が次々と整備され、大量の人や物を迅速で比較的安価に、気象条件にも左右されずに運ぶことができるようになったことから人々は、「鉄道は人類の生活を根本的に変える革命だ」と、もてはやした。このブームに乗って、ジョージ・ハドソンという「鉄道王」も現われた。彼は新線を敷設する一方、既存の鉄道会社を買収することにより、事業を急拡大。加えて、巧みな弁舌と演出で一般投資家の投機熱をあおって資金を集め、その集めた資金で事業をさらに拡大していった(どこかで聞いたような話ですね。エンロンとか)。ところが1840年代後半になると、ハドソンの化けの皮も剥がれてくる。おりしもイギリスの景気が悪化、永遠に続くと思われたハドソンの拡大路線に黄信号がともる。すると鉄道熱も、これまでの熱気がウソだったかのように急速に冷え込みはじめた。これに、ハドソンに対する不正疑惑が追い討ちをかけ、鉄道バブルはもろくも弾け飛んだ。結局、歴史は繰り返すというのが、今日の教訓。これで「三つのバブルの物語」を終わります。
2005.01.15
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バブル経済の歴史2大海に浮かぶ泡のようにはかないという意味を込めたバブル(泡沫)――。その語源となった事件も忘れることはできない。18世紀初頭のイギリスで起きた南海泡沫株事件だ。事件の背景にあったのは、ヨーロッパ列強の醜い利害関係が浮き彫りになったスペイン継承戦争(1701~14年)。その戦費負担などで乱発した国債の利払いに窮したイギリス政府は、1711年に政府の肝いりで設立した南海会社を利用することにした。具体的にどんなことをしたかというと、イギリス政府は、戦争が終結したときにイギリスが獲得することになっていたスペインの中南米植民地(南海地方)との貿易独占権を南海会社に認める代わりに、大量の国債を引き受けさせた。バックにイギリス政府がついているということで、投機熱を煽り、南海会社の株はうなぎのぼり。思惑ばかりが先行し、1720年に1月128ポンドだった株価は8月には1000ポンドにまで高騰した(日本のバブル期に政府“ご推奨”のNTT株が急騰した現象と非常によく似ている)。しかし、南海会社の経営自体はどうかというと、それほどいいものではなかった。収益改善の見通しが立たないことが判明すると、同社の株は同年9月に値崩れしはじめ、同12月には株価は124ポンドまで暴落した。これにより、同社株に投資していた投資家は大損し、破産者が続出した。これは、南海会社の株式が上がることを前提にして国債を引き受けさせた国家的な詐欺にほかならなかった。国民の非難の矛先は、この不正事件にかかわった政府高官に向けられ、時の内閣も倒壊した。この政治的混乱をうまく利用してのし上がったのが、ロバート・ウォルポール。「南海泡沫株事件」の処理に政治的手腕を発揮して名声を高め、1721年から42年まで政治の実権を掌握、事実上のイギリスの初代首相とみなされている。
2005.01.14
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バブル経済の歴史1金融の話ばかり続いたので、今日は歴史について書こう。歴史といってもバブル経済の歴史だ。バブル経済を作り出すのは、何も金融政策の失敗だけとは限らないことがわかる。日本のバブル崩壊の傷は深かったが、世界にはもっと悲惨なバブル崩壊例がある。その悲劇的なバブル崩壊の元祖ともいえるのが、オランダのチューリップ狂とその結末であろう。時は1630年代。国力が衰えたスペインに代わってオランダが海洋貿易で富を蓄え、栄華を誇っていた。そんな経済大国のオランダでは、トルコからヨーロッパに持ち込まれたチューリップが珍重され、金持ちの顕示欲を満たす富のシンボルとなっていった。とくに珍種のチューリップは高値を付けるため、取引が過熱。やがては開発されてもいない架空の新品種が先物取引されるようになる。富のシンボルは強欲のシンボルでもあったわけだ。チューリップの取引は、1634年ごろには一般市民を巻き込んだ狂乱状態となった。たとえば、球根一個と五万平方メートル近い土地が交換されることもあったという。現代の私たちの目から見れば、球根一個と五万平方メートルもの土地が等価であるなどとは想像もできないが、当時はそれが常識だったのだ(猫の額ほどの土地に何億円も払う現代の日本人も笑うことはできない)。しかし、チューリップの狂乱も長くは続かなかった。1637年2月、チューリップ市場は突然暴落、投資家は皆パニックに陥った。債務不履行による不良債権が急増。不動産などを担保にチューリップに投資していた人の破産が相次いだ。チューリップのバブルは完全にはじけ、投機による一攫千金の夢は砕け散った。チューリップは文字通り「時代のあだ花」となったわけだ。
2005.01.13
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経済や金融の話よりも不思議な話のほうが好きな人のために、フリーページに「ETとの交信は可能か」をアップしました。国際金融論3(公開市場操作の仕組み)経済記事を読んでいると、ベースマネーとかマネタリーベースという経済用語がよく出てくる。ベースマネーもマネタリーベースも同じ意味で、簡単に言うと中央銀行が市中に流している通貨のことだ。具体的には、ベースマネーは私たちが日常的に使っている現金(紙幣や貨幣)と商業銀行が中央銀行に開設している当座預金口座の残高の合計をいう。銀行は当座預金口座からいつでも好きなときに現金を引き出せるので、現金と同じであると考えるわけだ。中央銀行はコールレートを誘導するために、このベースマネーを増減して市中のお金の量を調整する。ベースマネーを増減するために使われるのが、前日の日記で書いた公開市場操作。中央銀行が商業銀行の保有している国債や社債、株式を購入(買いオペ)し、その代金を商業銀行の当座預金口座に振り込めば、自動的にベースマネーが増加する。市中のお金の量が増えれば、それだけコールレートは下がる。お金が豊富に出回っているときには、金利が低くないと誰も借りないからだ。逆に中央銀行が保有している国債や社債、株式を売れば(売りオペ)、その代金が中央銀行の懐に入るため、市場からお金を回収することになる。市中のお金の量が減れば、お金を借りるために高い金利でも借りようとするためコールレートは上がるという仕組み。こうした中央銀行のオペレーション(金融調整)を公開市場操作という。ベースマネーの増減は、一国の通貨供給量の大きさを測るための指標であるマネーサプライの増減と連動する。ベースマネーが増えれば、銀行の貸し出しも増え、貸し出されたお金の一部は別の銀行の預金に回される。すると、その銀行も貸し出しを増やし、貸し出されたお金の一部は再び他の銀行の預金に回される。このように預金の貸し出しの一部がめぐりめぐって新たな預金を創出していくことを信用創造と呼ぶ。マネーサプライは信用創造によって増えていく。中央銀行がベースマネーを増減させることによりマネーサプライが増減する比率を信用乗数と呼ぶ。バブル経済期や好景気の時期には、この信用乗数は高くなり、カネがカネを呼ぶ熱狂的な現象が起きることは、80年代を生きた人なら誰でも記憶に焼きついているのではないだろうか。
2005.01.12
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国際金融論2(中央銀行の伝家の宝刀)中央銀行が金融政策を実施する場合、その手段は3つあるとキャサリン・ドミンゲスは言う。いわば中央銀行の伝家の宝刀で、それは準備預金(Reserve Requirements)、金利(Discount Rates)、公開市場操作(Open Market Operations)だ。その中で、潜在的に最も強力な手段は準備預金。これは、銀行をはじめとした金融機関が、預金者から集めた預金のうちの一定割合を中央銀行の当座預金(つまり利子がゼロ)に預けなければならない制度で、中央銀行はこの準備預金の割合(準備率)を決定することによって、市場に出回っている通貨供給量をかなり強烈にコントロールできる。極端な例だが、準備率を限りなく100%に近づければ、銀行など金融機関は軒並み貸し出しができなくなり、つぶれてしまう。逆に準備率を下げてやれば、銀行は自由に使えるカネが増えるので貸し出しやすくなるわけだ。ただし、不景気のときは準備預金制度の威力は衰える。不景気で貸出先がなくなるため、準備率を下げても、貸し出しが増えないからだ。中央銀行が商業銀行に貸し出す際の金利である公定歩合も、重要な金融政策の手段だ。金利を高くすれば銀行は借りづらくなる一方、下げれば借りやすくなり、市場にお金が潤沢に出回るようになる。短期金融市場で銀行同士がお金を貸し借りする際の金利を中央銀行が誘導することにより、市場に出回るお金の量を調整することもできる。この短期金融市場の金利をコールレートと呼ぶ。アメリカでコールレートに相当するのが、フェデラルファンドレートである。日本では最近、公定歩合による金融政策は形骸化してしまったといわれている。というのも、日銀から低利で借りるよりも短期金融市場でもっと低い金利で借りることができる状態が続いているからだ。ただし、短期金融市場では危ない銀行にはお金を貸そうとしない。すると危ない銀行は、日銀から借りるしかなくなるわけだが、日銀から借りると自分の銀行が危ないということを公言するようなもの。結局、日銀からカネを借りる銀行はなくなってしまった。では、そのコールレートやフェデラルファンドレートは具体的にどうやって誘導するのか。その最も一般的な例が、第3の手段である公開市場操作だ。中央銀行が国債や株式を購入することを買いオペレーション(買いオペ)、逆に手持ちの国債や株式を売却するのを売りオペレーション(売りオペ)という。公開市場操作による金利政策を説明するには、ベースマネーの話をしなければならないなど長くなりそうなので、明日の日記で説明します。
2005.01.11
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国際金融論1(中央銀行の役割と独立性)今日からは、私が比較的得意とする分野でもある国際金融の話をしていきたい。これは、私が秋学期にとったキャサリン・ドミンゲスのITF100「国際金融市場」の授業の紹介でもある。学生によるコースの総合評価(最高が5)は4・24。ドミンゲス自身の評価も4・46と高いコースだった。国際金融市場の主役は、各国の中央銀行だ。ドミンゲスの授業でも、中央銀行の政策が市場に与える影響などを詳しく分析した。では、その中央銀行の役割とはなんだろうか。ドミンゲスは5つの役割を挙げる。一つは政府に対する金融コンサルタントとしての役割。二つ目は、国内通貨の統制者であること。三つ目は国際通貨の管理者であり、四つ目は国内金利の統制者。最後は、銀行システムの監督者としての役割だ。この5つの役割に加えて、中央銀行には守るべき目標が三つある。利潤を求めてはいけない、個人ではなく公共の利益を優先させる、政府から独立していることだ。日本の中央銀行である日銀はどうであろうか。なんとなく、5つの役割と3つの目標の条件を満たしているようにも思える。しかし守るべき目標の一つである日銀の独立性に関しては依然、異論を挟む人も多いだろう。1980年代、日本はアメリカから貿易不均衡の是正を強く迫られた。当時の大蔵省は、財政支出拡大をできるだけ抑えるためにも、金融緩和を日銀に要請した。当時の日銀総裁は大蔵省出身の澄田。あうんの呼吸で、あるいは“御用金融機関”として、過度に低金利政策を続けたために、あのバブルが発生したことはよく知られた事実だ。日銀の独立性や信頼性が大いに揺らいだのは、いうまでもない。
2005.01.10
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囚人のジレンマ2昨日ゲームの理論の話しの中で「ナッシュ均衡」と聞いて、ある映画を思い浮かべた人は、かなり勘が鋭いか、映画通の人に違いない。その映画のタイトルは『ビューティフル・マインド』。ナッシュ均衡のナッシュとは、実はジョン・ナッシュという数学者のことだ。映画の中では、ジョン・ナッシュをモデルにしたといわれる、天才的だが心の病んだ数学者をラッセル・クロウが見事に演じた。ジョン・ナッシュは、ナッシュ均衡をはじめゲーム理論を応用・発展させた功績を評価され、1994年にノーベル経済学賞を受賞した。ゲームの理論は、経済学に新しい道を切り開く画期的な理論であった反面、経済学をいっそう数字のゲームにしてしまったという弊害も作り出した。数学者ナッシュの経済学賞受賞は、経済学が数学に取って代わられた象徴的な事象といえるかもしれない。さて囚人のジレンマの特徴は、二人が釈放された後のことまで触れていないことだ。5年の刑期を終えた二人は、町で偶然に出会い、なぜ自白したのだとお互いをなじり合う。今度自白したらただではおかないぞ、ピストルの引き金を引いてやる、と脅す。協定に違反したら制裁を下すというわけだ。これをトリガー(引き金)戦略と呼ぶ。この脅しが功を奏して、二人は次に強盗容疑で捕まったときには、お互いに黙秘を続けて6ヶ月の刑で済んだのだという。メデタシ、メデタシ。石油輸出国機構(OPEC)も当初は協定破りが横行した。ところが、業を煮やしたサウジアラビアは制裁という意味を込めて1985年末に増産に踏み切った。そしてこれにより価格が暴落してからは、カルテル生産枠が守られるようになったとされている。経済学は、ある条件下における極めて短期的で表面的な事象を説明するには適している一方、長期的で現実的な事象を説明しきれない場合がある。あまり短期的な数字のゲームをしていると、道を誤りかねないわけだ。そう考えると、囚人のジレンマに出てくる囚人、囚われ人になっているのは、経済学に囚われている人、あるいは経済学そのものではないかという気がするのは、単なる私の気のせいだろうか。
2005.01.09
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山口博教授の「富山サイエンス・フィクションの世界」をフリーページにアップしましました。富山・尖山と、謎の古文書である竹内文書についての講演です。ハーバード経済日誌(その65)囚人のジレンマ二人の銀行強盗犯が逮捕され、警察の留置所に留置された。ところが検察当局は、二人を道交法違反容疑で立件することはできても、強盗容疑で立件するだけの証拠は持っていない。頼れるのは容疑者の自白だけ。自白が得られない場合、二人とも微罪で6ヶ月の刑ですんでしまう。そこで当局は、二人別々に次のように司法取引をもちかけた。「自白すれば、お前だけ釈放してやる。ただし、このまま黙秘を続けた共犯者は懲役10年だ。二人とも自白した場合は、懲役5年にしてやる」と。さあ、二人の強盗犯は考えた。「俺の相棒が黙秘を選んだとする。もし俺が黙秘すれば6ヶ月の刑だが、自白すればすぐ釈放される。では俺の相棒が自白したとする。その場合、俺が黙秘すれば懲役10年を食らう。自白すれば5年ですむ。いずれにしても、俺は自白したほうが得だ」こうして二人は、自分が得になるという理由で自白を選ぶ。ともに黙秘を続ければ6ヶ月の刑で済んだのに、疑心暗鬼から裏切り合って5年の刑を食らうわけだ。二人とも結局、自白を選んで終わるという組み合わせをナッシュ均衡、そしてこのゲーム自体を囚人のジレンマと呼ぶ。石油輸出国機構(OPEC)の加盟国の中で、時々減産の取り決めを破る国が出てくるため減産計画が失敗するのも、ゲームの理論で説明しようと思えば説明できる。減産計画に従う(黙秘する)よりも、裏切る(自白する)ほうが得になるケースがあるからだ。また寡占市場において、各社がこぞって広告・宣伝に資金を注ぐのも、囚人のジレンマが働いているといわれている。企業の宣伝・広告は、もちろん自社製品の存在や性能を知らせるという目的があるが、多くの場合、他社が宣伝・広告するから、防衛対策上自社でも仕方なくやるという側面もある。各社が宣伝・広告費を抑制する方向に動けば、広告・宣伝費を削減することができるが、疑心暗鬼からそうしたことはできない。そして結局、果てしない宣伝・広告競争が続くというわけだ。
2005.01.08
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ゲームの理論と経済学の限界2先日は利益を第一義に挙げる経済学を批判する日記を書いたが、複雑な人間の経済活動を簡単に説明しようと努力しているという点では、経済学を評価していないわけではない。ただ、経済学では人間の経済活動をすべて説明できない、すべきでないという観点から注意喚起したのだと考えてほしい。私から見れば、経済学は時として机上の空論にしか聞こえない。私がここで経済学のアレコレを書いているのにもわけがある。経済学を批判するにしても、経済学を知った上で批判するのと、知らないで批判するのでは、説得力が変わってくる。そこで経済学を批判する人も経済学を一応、知っておく必要があるわけだ。先日来展開しているスキー場経営の問題にしても、ジルは本当に利益を最大にするために判断する人間なのだろうかと考えてしまう。もちろん経済ワンダーランドでは、ジルはカネの多少で動く。例えば、雇われマネージャーとしての利益が、「自分で経営し、かつマシーンを借りる場合の予想利益=5万8000ドル」を超える6万ドルだった場合を考えてみるといい。経済ワンダーランドでは、ジルは必ず「雇われマネージャー」を選ぶ。だがジルは、2000ドル利益が増えるぐらいなら、雇われるより自分で経営したほうがいいと考えるかもしれない。あるいはジルは、金額よりも自分で経営すること自体を自分の人生において選ぶ人間であるかもしれないわけだ。最初の問題の答えとして私が、「もしジルが自分の利益を最大にしようと思うなら、自分で経営し、かつマシーンを借りる選択をするだろう」と書いたのもそのためだ。「自分の利益を最大にするために」ではなく、「自分の利益を最大にしようと思うなら」である。もちろん、経済理論ではこのようなマドロッコシイ答えを書く必要はない。ジルは無条件に自分の利益を最大にする選択をする単純な人間である。この前提のもとに、明日はゲームの理論の中でも有名な囚人のジレンマを紹介する。
2005.01.07
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ゲームの理論と経済学の限界前日の第二問の答えは、リース代がわからなくても、ジルは自分で経営し、かつマシーンを借りる選択をする、だ。計算式だけ書くと、(12万-X-1万)×0・4+(12万-X-5万)×0・2+(12万-X-9万)×0・4=-X+7万。Xは5000ドル以上、2万ドル以下であるから、リース代が最大の2万ドルでも、5万ドルの利益が見込めることになる。では同じジルの問題で第三問。ジルが雇われマネージャーになろうか、それとも引き続き自分で経営しようかどうか迷っていたとき、株式会社「気象ニュース」から積雪予報サービスを受けないかという電話がかかってきた。もし積雪予報が100%正しいと仮定した場合、ジルはその積雪予報サービスにいくらまでだったら払うだろうか。この答えは、順序だてて解いていく必要がある。もちろん100%正しい予報など存在しないが、ここは何でもありうる「経済ワンダーランド」。まず、積雪が120センチ以上あるとの完璧な予報があった場合、最も利益が出るのは自分でマシーンも借りずに経営するときで、その利益は12万ドル。次に積雪が60~120センチとの完璧な予報があった場合、最も利益が出るのは自分でマシーンを借りて経営するときで、その利益は5万8000ドル。最後に積雪が60センチ未満であるとの完璧な予報があった場合、最も利益が出るのは、雇われ経営者になるときで、その利益は4万5000ドルだ。これらの金額にそれぞれの確率をかけて、予想される利益を計算する。すると、0・4×12万ドル+0・2×5万8000ドル+0・4×4万5000ドル=7万7600ドルとなる。この金額は、積雪予報がない場合で最も予想利益が高いとされる問1の5万8000ドルを1万9600ドル上回ることから、ジルは1万9600ドルまでだったら、その完璧な積雪予報サービスを受けるだろう、というのが答えだ。こうした問題は、ディシジョン・ツリーを描いて、整理するとよりわかりやすくなる。簡略化した図を描くことで、政策決定が容易になると考えるのが、最近の経済学の流行でもあるゲームの理論だ。世界の経済活動を、利益を最大にするためのゲームと捉える。実は私が嫌いなのは、こうした利益至上主義だ。こういう問題を出しておいて、それはないだろうと言われるかもしれないが、数字で人間の活動を規定しようとするのは明らかに間違っている。経済学の限界もそこにある。経済学を突き詰めれば、人件費が削れるから派遣会社の社員を多く雇用しようとか、終身雇用にすればすでに戦力とはいえない中高年にも高額な給料を払わなければならなくなるのでリストラしようとかいう議論になってしまう。それによって失われる目に見えない利点、たとえば若い正社員を大事に育てたり、安心して仕事ができる環境を作ったりするという面が軽視されるようになる。人間の顔の見えない、冷たい経済利益主義だけが社会を覆うことになってしまうのではないだろうか。
2005.01.06
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ディシジョン・ツリー2ジルには、いくつかのチョイスがある。雇われマネージャーになれば、4万5000ドルがコンスタントに手に入る。しかし、そのままスノーファン・スキー場を自分で経営すれば、うまく行けば、4万5000ドル以上稼げる可能性もあるわけだ。こういう場合に、ディシジョン・ツリーを描くとわかりやすくなる。これは選択肢が枝分かれして木のような形になるため、名づけられた(ちょっと見づらいですが、下の写真のような図です)。 ここでポイントとなるのは、積雪量の確率だ。積雪量と利益とその確率を再び繰り返すと、積雪量が120センチ以上の場合:12万ドルの利益。確率40%積雪量が60~120センチの場合:4万ドルの利益。確率20%積雪量が60センチ未満の場合:4万ドルの損失。確率40%である。ということは、マシーンが無い場合の予想される利益のサンプル情報(Expected Value Sample Information=EVSI)は、12万ドル×0・4+4万ドル×0.2+(-4万ドル×0・4)=4・8+0.8-1・6=4万ドルとなる。さらにマシーンを借りた場合のEVSIは、予想利益12万ドルからマシーンのリース代と操業費用を引いた額にそれぞれの確率をかければいいから、(12万-1・2万-1万)×0・4+(12万-1・2万―5万)×0・2+(12万-1・2万-9万)×0・4=5万8000ドルとなる。お抱えマネージャーとしての予想利益=4万5000ドル自分で経営するがマシーンを借りない場合の予想利益=4万ドル自分で経営し、かつマシーンを借りる場合の予想利益=5万8000ドルゆえに、もしジルが自分の利益を最大にしようと思うなら、自分で経営し、かつマシーンを借りる選択をするだろう、というのが答えだ。それでは同じ問題で第二問。もしジルがマシーンの操業費用はわかっていても、リース代がいくらになるかわからない場合は、ジルの決断はどうなるだろう。ただしジルは、リース代が5000~2万ドルぐらいであろうことは知っていたとする(答えはまた明日。ヒント:考え方は同じです。わからないところはXにして答えを出せばいいですよね)。
2005.01.05
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お知らせ:朗報です! 聖徳大学の山口博教授(専門は古代和歌)のご厚意により、山口先生が富山大学教授時代に講演した講演録を私のHPで公開してもよいことになりました。「古典SFの世界」と「富山サイエンスフィクションの世界」という二つの講演録で、本日フリーページに「古典SFの世界」をアップしました。国立大学の教授とは思えないほど柔軟な発想で話を展開されているので、とても面白いです。「傑作中の傑作」ではないかと思います。私の日記のほうは当面、コムズカシイ経済や数学ネタが多くなりますので、経済や数学がお嫌いな方は山口先生の不思議な世界をお楽しみください。「富山サイエンスフィクションの世界」も近日中に公開します。ディシジョン・ツリー(Decision Tree)1一応「経済日誌」としているからには、たまには経済の話もしなければならない(経済が嫌いな人は軽く読み流してください)。昨日はせっかくスキー場の話をしたので今日は、私が夏季コースで習った分析手法の宿題から、スキーにまつわる経済の問題を取り上げよう。問題:スノーファン・スキー場(もちろん架空のスキー場)の経営者ジルは、来シーズンのスキー場経営について決断を迫られていた。ジルのスキー場の利益は、シーズン中にどれだけ雪が積もるかにかかっている。ジルのこれまでの経験から、一シーズンの積雪量と利益、積雪量の確率は次のような関係にあることがわかっていた。積雪量が120センチ以上の場合:12万ドルの利益。確率40%積雪量が60~120センチの場合:4万ドルの利益。確率20%積雪量が60センチ未満の場合:4万ドルの損失。確率40%ジルは最近、大手ホテルチェーンから一シーズン4万5000ドルでマネージャー契約するオファーがあった。それとは別にジルは、人工雪を作るスノーマシーンを借りることも考えている。マシーンさえあれば、積雪量に関係なく一定の利益を上げることができる。その利益は、一シーズン12万ドルからマシーンのリース代1万2000ドルと操業費用を差し引いた金額だ。操業費用は積雪量が120センチ以上の場合は1万ドル、60~120センチの場合は5万ドル、60センチ未満の場合は9万ドルだ。さて、ジルはどういう決断をすべきでしょうか?(明日に続く。とりあえず、自分で考えてみてください。)
2005.01.04
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ニューイングランドのスキー場つかの間の休みにすぎなかろうと、それは貴重な休みであることに変わりなかった。私はその貴重な時間を使って、ニューイングランドのスキー場めぐりをした。いちばん近いスキー場は、ボストンから車で30分のナショバ・バレー(マサチューセッツ州ウエストフォード)だ。なんといっても近いのが便利だが、山は小さくコースも短い。一度行けば飽きてしまい、二度と行かなかった。ナショバより少しましなのが、ボストンから約一時間、西に車を走らせたところにあるワチューセッツ・マウンテン(マサチューセッツ州プリンストン)。「ポーラー・エクスプレス(急行・北極号)」という高速の4人乗りリフトがあり、難しいコースに分類される「ブラックダイヤモンド」が3コースあった。ソコソコ楽しめるが、規模が小さいのが難点。スキーを始めたばかりの人には、面白いかもしれない。同級生で韓国の放送ジャーナリスト、チャン・ヤン・チョイ(私とほぼ同年齢で、ニュースキャスターを務めたこともある)を一緒に連れて行ったら、すごく気に入っていた。ワチューセッツでは物足りないという人は、ボストンから車で2時間は飛ばさなければならない。私が行ったのは、ニューハンプシャー州のガンストックとルーン・マウンテン、それにバーモント州のキリングトンだ。規模がワチューセッツより大きく、ダブル・ブラックダイヤモンド(シングルより難しい)のコースもあるため、結構滑った気分になる。いずれも日帰りで十分な距離にあり、晴れた日に滑りに行けば、最高の気分転換だ。私はよく、金曜か土曜日の晴天の日にふらっと出かけた。だが、なんと言ってもすごいスキー場は、ボストンから車で約3時間かかるメイン州ベセルのサンデーリバーだろう。山が7つもあり、それぞれの山にはブラックダイヤモンドのコースが整備され、距離もすこぶる長い。とにかく豪快な滑りが満喫できる。夜中のうちに圧雪車でスロープを整備しているため、滑りやすい。一週間滞在しても決して飽きることのないコース取りだ。ただ最大の難点は、ボストンから遠すぎること。日帰りスキーは薦められない。帰りに疲労から事故を起こすのが落ちだ。私も同級生ら八人で、二台の車に分譲して、運転を交代しながらサンデーリバーに行った。もちろん日帰りではなく、向こうのロッジで一泊した。しかし、前にも書いたようにニューイングランドの寒さは生半可ではない。吹雪の日にスキーをするなど自殺行為だ。おそらくリフトに乗っているうちに、凍り付いてしまうだろう。安らかに眠りたくなければ、天気予報をよく調べて、晴れた日を選んでスキーをすることを強くお薦めする。下はサンデーリバーのポスター
2005.01.03
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年明けのファイナル試験1997年1月2日にワシントンD.C.からボストンのハーバードに戻った後、すぐに映画鑑賞モードから勉強モードに切り替えた。不思議なことに、二週間映画を観る以外ほとんどなにもしなかったので、その反動でボストンに帰ったら、無性に勉強をしたくなった。私の場合、履修した5科目のうち2科目(統計とメディア論)は12月中旬までに、ファイナル試験に相当するペーパー提出と研究発表、インクラス試験を終えていた。そのため年を越したファイナル試験は、国際金融、マクロ経済、ミクロ経済の3科目だけだった。授業中に取ったノートを最初から読み直し、一つ一つ大事だと思われるところをマーカーで印を付ける。忘れていたところは、教科書を読んで復習、段々と学んだことがよみがえってきた。2日から13日まではそれぞれのコースで、博士課程の学生や以前同じコースを取った学生が質問に応対したり、復習の授業をしたりしてくれる。インクラスの試験では、過去の試験問題をすでに履修した学生から手に入れ、対策を練ることも忘れてはいけない。ある程度の成績を上げるためには、とにかく問題に慣れることが必要最低条件だ。コースにもよるが、ファイナル試験のグレードに締める比率は40~50%程度。すでに中間試験や宿題の提出、発表などで60%ほどは決まっているので、一発勝負よりははるかに気が楽だ。試験の方式も事前にわかっており、マクロ経済とミクロ経済は試験で初めて問題が渡され、その場で解答。国際金融は事前に10問出題され、そのうち4問が試験当日に出された。もちろん、どの4問になるかは学生にはわからないので、学生は10問分の答えを頭に入れて臨む。こうして1月14日から24日までのファイナル試験期間が終わると、学生たちは本当の冬休みを満喫する。といっても、1月28日には春学期が始まるので、3日ほどのつかの間の休みにすぎなかった。
2005.01.02
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大晦日の思い出 クリスマスと同様、1996年の大晦日はワシントンで一人淋しく過ごしていたから、あまりいい思い出がない。というか、何をしていたかも覚えていない。おそらく、テレビでくだらない番組でも見ていたのだろう。記憶はちょうど、消去されたカラのテープのようになっている。クリスマスと違って、大晦日に一人でいることのほうが、私には寂しく感じることがある。私は少々、変わった家で育ったので、小学生だったころの正月といえば、決まって家族マージャンをしていた。その年のお年玉も、マージャンの勝敗で決まるという下克上。兄であろうと、負ければ弟よりもお年玉の額が少なくなる。そのような騒がしい正月に慣れていたため、静かな正月だと正月を迎えた気がしない。しかし、これまで何度か海外で正月を過ごしているが、日本の正月と比べて静かな正月が多いような気がする。私が初めて日本国外で正月を迎えたのは、1981年。場所はフランス・ボルドーから東に15キロ離れたブリーブという小さな田舎町だった。当時私は、イギリスのカンタベリーにあるケント大学に在籍していたが、イギリスの冬はあまりにも暗いので、一ヶ月の冬休みを利用して独りで南仏に行くことにした。行きはスイスのジュネーブまでのチケットを買い、帰りはフランスのボルドーからカンタベリーまでのチケットを買った。では、ジュネーブからボルドーまではどうしたのか? なんと無謀なことにヒッチハイクで移動したのだ!夜行列車で到着したジュネーブから“冒険”を開始。雪が降りしきるスキー場地帯をヒッチハイクしながら進み、フランスのアネシーとラ・クルザでスキーをして1週間過ごした。その後、再びヒッチハイクして南下。スコットランド仕込みのヒッチハイクテクニックを駆使して、並み居る他のハイカーを押しのけ(別に物理的に押しのけたのではありません。念のために)、快調に南仏へと向かった。南仏ニースは思っていたとおり、夏のように暖かかった。ビーチではなんと、水着姿のお姉ちゃんやお兄ちゃんがビーチバレーをしている。冬の国から南国に来たような雰囲気だ。太陽も日本と同じようにちゃんと午後5時ごろに沈む。午後3時に沈む冬のイギリスとはまるで別世界だった。気候はよかったが、南仏は金持ちが多いので、ヒッチハイクには苦労した(金持ちは強盗が怖いので、基本的にヒッチハイカーを乗せない)。途中の話は飛ばして、コート・ダジュールのユース・ホステルでクリスマスを過ごした後、ボルドーへ向かった。ところが、夏のように暖かかった南仏をいきなり寒波が襲い、何十年ぶりという大雪に見舞われ、再び凍えながらのヒッチハイクとなった。寒さや飢えと闘う過酷な環境の中、時々はめげそうになりながら、ようやくブリーブに到着したのは、12月31日だった。ブリーブでは、ユース・ホステルに泊まれば、誰かほかにもバッグパッカー(貧乏な旅人)がいるだろうと思ったが、午後4時時点で私一人だけ。なんと、ベッドがたくさん並んだ、このだだっ広い宿泊所に一人で泊まるのか、それも大晦日に! そう意気消沈としているところへ、もう一人、チェエクインした女性がいた。この地方に遊びに来ていたパリジェンヌで、彼女もユース・ホステルならばパーティーなどでにぎやかなのではないかと思っていたという。一人よりも二人のほうが楽しい、ということで、二人で夕食を作り、二人だけのディナー。夜も10時ごろになり、ちょっとロマンチックな雰囲気になってきたな、と思っていたら、そこへアメリカ人のバックパッカーの団体(5~6人)が入ってきた。彼らは疲労困ばいしているようで、我々がそばで大晦日のディナー中であることには目もくれず、ベッドに寝袋をセットすると、瞬く間に大いびきをかいて寝てしまった。ロマンチックなムードもこれで台無し。気分直しに二人で外に出て、新年は近くのカフェで迎えた。元旦には、彼女は公共交通機関を使ってパリに戻り、私はヒッチハイクでボルドーに向かった。しかし、元旦からヒッチハイクをするのは、はたから見れば異常な行動だ。私が郊外に向かって歩いていると、警官が二人やって来て私に職務質問を始めた。私は別にやましいことは何もしていないので、私が英国の大学の学生であることや旅行中であることをちゃんとフランス語で話した。彼らも納得して立ち去ったが、おそらく近所の人が、元日早々から怪しげな東洋人がふらついていると通報したのではないか、と思った。ボルドーには、その日の午後2時ごろには着いた。ボルドーのような大きな町でもお正月は静かで、お年寄りたちがいつものようにペタンクに興じていた。元旦の緩やかな日差しの中で、時計はゆっくりと時を刻んでいた。それでは皆様。よいお年をお迎えください。2005年が素晴らしい年でありますように!
2004.12.31
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学生割引日本でも学割はあるが、アメリカほど多くの割引や優遇措置はないように思う。学生証を見せて料金が割引になるのは劇場だけではない。博物館、美術館、運動施設、ケーブルTV契約、それにちょっとした観光ツアーが学生であるという理由だけで安くなった。特に私が気に入ったのは、新聞購読の大幅割引だ。新聞社にとって若い学生は、将来の大事なお得意様。大出血サービスで安くしても、それは「未来への投資」であるわけだ。たとえば、ウォールストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズといった経済紙が学生特別料金として年間30~40ドルぐらいで購読できたと記憶している。日本の新聞料金の約10分の1。破格の安売りだ。ボストン・グローブなど地元紙も学生に対して50%引きは当たり前。日本でも、学生向けに割引料金を導入すれば、少しは新聞離れ・活字離れが食い止められるのではないだろうか。このようにアメリカでは、学生証はまるで打出の小槌だ。こまめに学割を使えば、年間でも相当節約できる。提示しないと損をすることが多いので、何かを購入するときは、必ずといっていいほど学生証を提示する癖が付いてしまう。私の友達でフィリピンから来たお茶目なビクター(実はフィリピン政府の局長クラス)は、銀行に行き、試しに窓口でいきなり学生証を出して見せた。すると、窓口の銀行員はその学生証をしげしげと見つめた後、こう言った。「すみません、お客さん。ハーバードのすばらしいカードであることは認めますが、銀行ではこのカードで何も差し上げることはできません」――。確かに、銀行にとってハーバードの学生証は一銭の値打ちもない。当然、担保にもなりようはずがない(ビジネススクールの学生ならともかく、ケネディスクールの学生では担保リスクが高すぎる)。打出の小槌にも、多くの例外があるようだ。
2004.12.30
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『レント』『オペラ座の怪人』以上に私が気に入ったのは、ロック・ミュージカル『レント』だ。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を下敷きにして、ドラッグやエイズが蔓延するニューヨーク・イーストビレッジで生きる若者の苦悩と希望を描いた。この作品をより感動的なものにしているのは、皮肉なことに作者ジョナサン・ラーソンの死であった。ラーソンが長年、夢に描いていた「画期的なミュージカル」の舞台初日の前日に、大動脈瘤破裂で35歳の若さで急死したのだ。ラーソンは1960年生まれ。幼いころから芝居やミュージカルに夢中になり、大学卒業後はニューヨークに渡り、ウェイターや皿洗いのバイトをしながらミュージカルの作曲や脚本を書き、成功するチャンスをうかがった。ラーソンの目指したのは、既存のブロードウェイの枠を打ち破る新しいスタイルのミュージカルの上演だった。しかし、その夢は一向にかなわない。ラーソンは三〇歳になって苦悩する。このまま夢を追い続けて、皿洗いのバイトを延々と続けるのか、それとも夢を捨て、もっと割りのいい仕事につくか(ラーソン作『チック・チック・ブーム』)。ラーソンは前者を選んだ。彼は一年かけて『レント』の骨格を練り、さらに一年かけて初稿を完成。その後も手直しに手直しを重ねた。おそらくは「レント」(家賃)もちゃんと払えないような貧乏生活に耐え、バイトの回数を減らしてでも時間を捻出、作曲に心血を注いだ。1996年1月。とうとう、その夢がかなうときが来た。リハーサルを終え、後は初日を迎えるだけだったのに、その前日に、この世を去ってしまった。『レント』に出てくる売れないミュージシャン・ロジャーは歌う。「偉大な曲を書くんだ。ひとつの曲、栄光。たった一曲でいい、死ぬ前に本当の曲を残したいんだ」――。ラーソンは死して『レント』を残した。産みの親がいないまま、ニューヨークのオフ・ブロードウェイから始まった『レント』は、瞬く間にヒット。3ヵ月後にはブロードウェイに進出、その年のうちにはボストンのウィルバー劇場でも演じられることとなった。『レント』はその年のトニー賞(ミュージカル部門)、ピューリツァー賞(ドラマ部門)、オフ・ブロードウェイの作品を対象としたオビー賞などを総なめにする。ニューヨークの若者のスラングも混ざっているため、最初は聞き取りづらくわからない部分もあったが、CDを買って聴きこみ、2回、3回と劇場に通ううちに、細部のやり取りもわかるようになってきた。もちろん、それだけ『レント』の魅力は増していった。シンプルだが胸に迫る歌詞が、小気味良いリズムに乗って高らかに歌われる。同じプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を翻案したといわれるミュージカル『ミス・サイゴン』よりも、はるかに切実であり、感動的だ。(雪が降ってきました。ハトさんも寒そうです。)
2004.12.29
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「オペラ座の怪人」私は学部でフランス文学(しかも不条理劇)を専攻していたこともあり、行く先々で暇さえあれば演劇を観に行った。劇が好きになったのは、はるか昔の高校生のときで、劇団四季のシェークスピアものをよく天井桟敷(いちばん安い最後列の席)から眺めていた。1975年夏にはロンドンでアンドリュー・ロイド=ウェバーの『ジーザス・クライスト・スパースター』を鑑賞、その迫力に感激し、ますます観劇に浸っていった。さて、私がボストンで二度観た『オペラ座の怪人』も、アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲によるミュージカルだ。ウェバーはご存知のように『ジーザス・クライスト・スーパースター』のほかに『キャッツ』、『エビータ』などの名作ミュージカルを世に出した。『オペラ座の怪人』の舞台は1880年ごろのパリ・オペラ座。ワシントンDCでも『オペラ座の怪人』を観たが、ケネディセンターというモダンな劇場で観るよりは、ワング劇場の古めかしい雰囲気で観るほうがはるかに感動する。『オペラ座の怪人』の初演は、1986年10月のロンドン(由緒ある「Her Majesty’s」。イギリスで大ヒットした後、アメリカのブロードウエイでも大好評を博し。今でもロングランを続けている。イギリスの初演で主役のクリスティーヌを演じたのは、ウェバーの二番目の妻(後に離婚)で世界的な歌姫サラ・ブライトマンだ。『オペラ座の怪人』には、よりミステリアスに描かれたケン・ヒル版があるが、サラがそのオファーを断ったことをきっかけに、ウェバーがサラに合わせてロマンチックなミュージカルに仕立て上げたとされている。私は原作のガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』は読んでいないが、劇場で配られたパンフレットを読むと、ケン・ヒル版のほうがまだ原作に近いようだ。これまでこの作品は何度も映画化されており、私が持っているハリウッド初期の映画ビデオでは、登場する「怪人」はフランケンシュタイン扱い。まるでホラー映画に出てくる怪物のように描かれており、ロマンチックな要素など一つもない。しかし、このウェバーのミュージカルでは、「怪人」の苦悩や葛藤を浮き彫りにし、見事なまでに感動的な作品に仕上がっている。中でも「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」「ファントム・オブ・ジ・オペラ」「ザ・ポイント・オブ・ノーリターン」は秀逸。日本でも、ウェバーのロマンチック版を基にした映画が一月に封切られる予定だ(別に宣伝しているわけではありせん。ただ、劇場で観られない人にはお薦めかも)。
2004.12.28
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ボストンの下町1ボストンの下町にはワング劇場、シューベルト劇場、コロニアル劇場、ウィルバー劇場といった素晴らしい劇場が建ち並ぶシアター・ディストリクト(劇場地域)があり、よくミュージカルや劇を見に行った。郷に入れば郷に従えで、私もクリスマス・シーズンにはワング劇場でバレエの「くるみ割り人形」を観た。私はバレエのことはあまり詳しくないが、一緒に見たバレエ経験者によると、何ヵ所か失敗があるなど、それほどトップレベルのダンサーは出ていなかったと話していた。まあ、季節モノということで上演すれば人が集まるので、全米中でダンサーが引っ張りだこになり、どうしても全体のレベルが落ちてしまうのかもしれない。ただ、舞台装置は素晴らしかった。ワング劇場は、大理石の柱に支えられた大きなホールやその中央に大きなシャンデリアがあるなどフランスの宮殿やオペラ座を思わすようなロココ調装飾を施した、いかにも由緒あるような、つまり格式の高そうな劇場に仕上がっていた。1925年に有名な建築家クラレンス・H・ブラックオールが設計して建てられた。メトロポリタン劇場として親しまれてきたが、1983年に芸術や劇場運営などに多大な貢献をしたドクター・ワングの名前をとって、現在の名称になった。ニューヨークやワシントンDCの劇場に比べても、実に歴史と風格を感じさせる劇場だ。当時、ワング劇場で大好評を博したのは、ミュージカル『オペラ座の怪人』やアイリッシュ・ダンスの『リバーダンス』。ボストンに限らずアメリカは、貧乏な学生に優しく、劇場のチケットも大幅な学生割引があった。60ドルぐらいのチケットも、空席が出たときには20ドルぐらいで買える場合もあった。安いこともあり、『オペラ座の怪人』は2度。ワング劇場の斜め向かいにあるシューベルト劇場でやっていた、エイズをテーマにしたロック・ミュージカル『レント』は3度も観に行った。ほかにも新しい演目が上演されるたびに、金曜や土曜の夜は劇場通いをしていた。(ところで昨日は、ラグビー大学選手権の二回戦を観に行きました。早稲田と対戦した大東文化大学には、監督と同様トンガから来たとみられるロックのマヘとナンバー8のフィリピーネがおり、大活躍。早稲田のディフェンス陣を脅かし、スタンドからは「大トンガ文化大学」との声援?も聞かれました。試合は早稲田がけが人を出しながらも49対12で勝利しました。記念に試合後の清宮監督の写真を貼っておきます。)
2004.12.27
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キリストの嘘、ハーバードの嘘昨日の日記では、キリストを白人のように描くのは誤りだと書いたが、クリスマスはキリストの誕生日ではないということも、よく知られた「ウソ」だ。キリストの誕生日には諸説があり、当初定まらなかった。イエスが誕生したとき、羊飼いが野宿していたと新約聖書の「ルカ伝」に書かれていることなどから、本当は冬ではなく、初夏に生まれたのではないかとの説が有力だ。ところが、ローマ教皇リベリウスは354年、キリストの誕生日を12月25日と決めた。これは当時、イランのゾロアスター教を源流とする民間の太陽信仰(ミトラ教)に基づき、冬至に関係する太陽神の祭りを12月25日に行っていたことと関係がある。この民衆の祭りの日をキリストの誕生日にすりかえることにより、ミトラ教を衰退させ、国教としてキリスト教を民衆に浸透させようとした狙いがあったとみられている。キリストの話はこれぐらいにして、実はハーバード大学にも「歴史のウソ」がある。ハーバード大学の正門(ジョンストンゲート)から入ってすぐ正面の建物(ユニバーシティホール)の前にある「創設者」ジョン・ハーバードの銅像には、三つのウソが隠されているのだ。第一に、創立年月日が間違っている。1638年と書かれているが、正しくは1636年(なぜ2年も後になっているかは不明)。第二に、ジョン・ハーバードは「創設者」ではない。アメリカ最古の大学であるハーバード大学は、マサチューセッツ・ベイコロニーという地域の最上級委員会の評決により創設されており、特定の創設者などいないのだ。しかしジョン・ハーバードは、当時名前もカネもなく困っていた大学に多額のカネと本を寄付した初代後援者でもあった。その貢献を称えて、ハーバードの名前が付けられた。第三に、なんと銅像の顔が間違っている! ジョン・ハーバードの栄誉を称えて銅像を造ることが決まった時、すでに彼が死んでから長い年月が過ぎていた。17世紀には写真もなく、彼の肖像画も残っていなかったため、誰も彼がどういう顔だったかを知らない。そこで、当時学生(特に女学生)の間で人気があったシャーマン・ホアという男子学生をモデルにして銅像が造られたという。これらのウソは、別にハーバード大学に在籍したから知っているわけではなく、キャンパス・ツアーに参加した観光客なら誰でもガイドから聞かされる。夏の間、学生はアルバイトでキャンパス・ツアーのガイドを務めて、学費の足しにするのが常になっている。
2004.12.26
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真実のキリストキリストの誕生日(本当は誕生日ではない)ということなので、キリストの人種について少し触れたい。キリストは有色人種(今のアラブ人のような褐色)のセム系ユダヤ人であるはずだ。しかし、その後の西洋文化の中に現れるキリストは、まるで白人のように描写される場合が多い。とくに欧米の絵画などで描かれるキリストは、ヨーロッパ系白人そのもの。しかし、これは全くの間違いだ。ナザレのイエスが生きていた時代には、白人のユダヤ人などいなかった。今のシャロンのような「白いユダヤ人」はアシュケナージ系ユダヤ人と呼ばれ、後の世に政治的に生まれた可能性が強い。そのいきさつは次のようなものだ。八世紀ごろ、イスラム勢力とビザンチン・キリスト教勢力との板ばさみになった黒海北方のトルコ系白人国家「カザール王国」は、イスラム、キリスト両勢力との争いに巻き込まれないようにするために両宗教の「ルーツ」ともいえるユダヤ教に国家単位で改宗、王国の保身を図った。しかし11世紀になると、うまく立ち回っていたカザール王国も、ビザンチン帝国とモンゴル帝国に相次いで攻められ、13世紀には滅亡。難民となった「白いユダヤ人」は西に逃げ、ヨーロッパ各地でユダヤ人として生き延びた。これが、現在のユダヤ人に白人が多く存在する最大の理由だとみられている。この説を唱えたのは、ハンガリーで生まれたアーサー・ケストラーというアシュケナージ系ユダヤ人思想家(ニューサイエンスの『ホロン革命』で有名)だった。現在のイスラエルでは、アシュケナージ系ユダヤ人が大半を占めている。ケストラーが正しいとすると、民族的にはパレスチナの地とは縁もゆかりもない白人のユダヤ教徒人が、「ここは祖先の土地である」などと称して、パレスチナ人を追い出したに等しいことになる。さて、ご存知のように多くの西洋キリスト教徒は、キリストを殺したのはユダヤ人だと考えているので、ユダヤ人を別の人種とみなす傾向がある。そのためイエスという「神の子」がセム系の有色人種では都合が悪いので、白人のように描いた可能性が強い。同時にアシュケナージ系ユダヤ人にとっても、キリストを白人のように描くことは、自分たちの正当性を主張することでもあったわけだ。白人は、実際には地球規模でかなり野蛮で残虐なことをしてきた。未開(非キリスト)の地を「侵略」することが神から与えられた使命であると考え、キリスト教布教の名の下に、世界中で数え切れないほどの人命を奪い、言語を含む文化を破壊してきた。ところが歴史小説や芸術を含むさまざまな分野(とくにハリウッド映画)において、白人は多くの場合、「野蛮人に文明をもたらした正義の味方」として描かれてきた。キリストが白人のように描かれるのも、こうしたイメージ戦略上にあるとみるべきだ。クリスマス・シーズンになると、全米各地の劇場では必ずバレエの「くるみ割り人形」を演じる。日本でいえば、「忠臣蔵」のような定番だ。ボストンの「くるみ割り人形」では、「美しい王子」役をアフリカ系アメリカ人(黒人)が演じることになり、新聞で話題になったことがある。ハリウッドに代表される白人至上主義的文化に浸りきっている人(洗脳されている人)は、美しい王子様やキリストが有色人種だと、がっかりしたり、違和感を覚えたりするはずだ。「くるみ割り人形」の黒人の抜擢はおそらく、リベラルな風土で比較的まともなアメリカ人が多いボストン(!?)だから可能だったのだろう。有色人種に対する偏見が依然根深く、キリスト教原理主義がはびこる南部では、まずありえないのではないだろうか。(重くてシリアスな話になりましたが、これもジャーナリストの性なのでご了承ください。)
2004.12.25
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一人きりのクリスマス クリスマスの日には、それほどいい思い出がない。別にキリスト教徒でもないし、個人的にキリストの誕生日を祝う義理もない(少なくとも今生の記憶にはない)ので構わないのだが、1996年のクリスマスも一人で過ごした。ボストンに残っていれば、テニス仲間やクラスメートも大勢いたので、ワイワイガヤガヤ騒いでいたと思う。だが個人的な理由で、12月20日ごろから約2週間、友人も誰もいないワシントンDCに一人で滞在しなければならなくなった。とりわけ何かをすることもなかったので、映画館へは足繁く通った。アメリカでは、映画が安い。午後五時以前の昼間の部(マチネ)だと、新作でも3ドル75セント(当時の料金。今は4ドル50セント以上するらしい。夜の部は当時で7ドル)で見ることができた。日本の約4分の1の料金だ。これも実に「ミクロ経済101」を忠実に守っている現象だ(101については11月30日の日記を参照)。需要が高い夜間は高くなり、人があまり来ない(需要の少ない)昼間は安くする。当時、何の映画を見たかはよく覚えていないが、マドンナの『エビータ』を見たことだけは覚えている。マドンナの歌唱力にはいつも感嘆させられるが、娼婦のように描かれたエビータはアルゼンチンの人から見れば「国辱もの」だと、アルゼンチンからきた留学生が怒っていた(このテーマについては、いずれまた触れます)。ハーバード大学ケネディスクールでは、12月中旬に秋学期最後の授業があった後、1月1日まで冬休みに入る。1月2日から13日ごろまでは、リーディング期間といってファイナル試験前最後のレビュー期間がある。そして1月14日ごろから10日間の日程で、秋学期のファイナル試験がある。私はファイナル試験の準備のため、1月2日にはボストンに戻った。ボストンはワシントンよりはるかに寒く、キーンと凍った空気を吸うと肺の中でチリチリと響いた。チャールズリバーも、一面に氷が張っていた。
2004.12.24
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ボストンの冬、富山の冬冬の停電の話で思い出したが、ボストンの冬の寒さは生半可ではなかった。私は富山で「59豪雪」(昭和59年の豪雪。本当にすごい豪雪は56年だった)を経験したこともあり、雪国の冬には慣れていたつもりだった。だがボストンの冬は、風が強いので体感温度がマイナス30度ぐらいにまで下がる。この寒さは、富山でも、日本やヨーロッパのスキー場でも、味わったことのないものだった(一度だけ、樹氷で有名な山形蔵王でこれに近い温度を体感したことはある)。ボストンに比べ富山の冬は、雪が降ってしまえば町全体がかまくらのようになり、意外と暖かかった。私の家は富山市芝園町にある一軒家の社宅(本当は支局長宅だったのだが、支局長が嫌がって入らなかった)で、なんと北西の角地にあった。夏は西日で家自体が天然サウナのようになり、冬は太陽が当たらないうえ、隙間風が北から吹き込み、天然の冷凍庫(あるいは、太陽の届かぬ穴蔵のような状態)となった。冬場の夜間、社宅から外に出たときはホッとした。家の中よりも外のほうがずっと暖かかったのだ! しかし雪が降り積もると、あちこちの隙間が雪で埋まるため、風が入らなくなり、少し寒さが緩んだのを覚えている。それでも、屋根雪下ろしは重労働だった。屋根の雪を下ろさないと、重みで障子が開かなくなるし、夜は天井がミシミシと鳴ることもあった。さて、ボストンの冬だが、マイナス30度といえば、バナナでクギをたたくこともできる寒さ。車を運転していてもガンガンに暖房でフロントガラスを暖めないと、大気中の水分が凍りついて結晶がフロントガラスにへばりつく。きれいな雪の結晶が見えるなどと悠長なことは言っていられない。雨や雪が降っていなくとも、フロントガラスが凍って、みるみるうちに見えなくなってしまうからだ。夜間、人気のない田舎道を車で走っていると、すべてが凍り付いているような錯覚に陥る。この寒さの中では、空気も、音も、時間や色彩さえも沈黙する。あたりは深く沈んだ暗闇と静寂に包まれ、まるで異次元世界に迷い込んだようだった。
2004.12.22
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テニス仲間テニスクラブのいいところは、地元の人と知り合え、仲良くなれることだ。イギリスでも富山でも埼玉でも、すぐに友達がつくれた。ボストンでは、ポーランド系アメリカ人のローマンとよく遊んだ。ローマンは私がこのクラブで最初に試合したプレーヤー(つまり最初の犠牲者。6-1、6-0で私が圧勝した)で、そのとき以来、親しくなり、テニス帰りにはバーでよくおしゃべりをした。ローマンは地元の世界的な音響機器メーカー、ボーズ(本社・マサチューセッツ)の社員で、非常に「チャーミング」なポーランド訛りの英語を話した。ローマンは、私と最初に対戦したときは、4・3のレーティングだったが、その後、レーティングの見直しがあり、4・5になったと大喜びしていた。憎めないキャラで、クラブの人気者だった。中国系アメリカ人のピーター・リュウとも仲良くなった。レーティングは4・7。サウスポーで、オーソドックスなテニスをした。ピーターは、ボストンに来る前はニューヨークで金融関係の仕事をしており、ボストンでは郊外の大きな家に住んでいた。何の会社かは忘れたが、もらった名刺によると、アダムズ・ハークネス・ヒル社の副社長という肩書きだった。ピーターの「邸宅」には食事に呼ばれたこともあった。猫と犬を飼っていたが、近くの森にはコヨーテが出没するので、なるべく家の中で飼うようにしているのだと話していた。ボストン郊外は冬場、豪雪で送電線が切れたりするため停電が多く、私がお邪魔した日も、途中で停電になった。しかし慣れたもので、すぐに幾つかのキャンドルに火をともすと、部屋の中は暮しに支障がないくらいには明るくなった。「暖炉の火もあるし、もう慣れっこになっているよ」と話していた。
2004.12.21
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初の敗戦忘れもしない1996年12月17日。秋学期最後の授業が終わったその日に、実に二週間ぶりにテニスをしたときだ。とにかく学期の終わりの二週間はペーパーや論文の提出期限、場合によってはファイナル試験が重なるため、非常に濃密なスケジュールになる。どのぐらい濃密かというと、この二週間はひたすら授業が終わるとすぐに家に帰り、勉強する。食事時間も惜しみ、電子レンジで温めて食べる冷凍食品やレトルト食品が急増する。週末の外出も買出しに行く程度で、ほとんど家にこもって勉強。気が狂いそうになるほど忙しい。当然、今まで週3回やっていたテニスも断念せざるをえなかった。そして、その悪夢の2週間が過ぎて、開放感に浸っていたとき、電話が鳴り、夜テニスをしないかとテニスフロントからリクエストが入った。「久しぶりにテニスでもやるか」と、私はすぐにOKの返事をして、テニスクラブへ。いつものようにアップをして、試合が始まった。ところが、いつもと感じが全く違う。ちょっと走るとすぐに息切れ。「ゼイゼイ、ハーハー」。私の体力はかなり落ちていた。普段なら取れるはずのボールも、私の脇をただ抜けていく。足が重い。相手のレーティングは4・7と私より低かったが、とてつもなく強く思えた。結果は3-6と惨敗。なすすべもなく、やられた感じだった。二週間、運動をしなかった「つけ」が回ってきたわけだ。しかし、一年間このクラブで試合をして、負けたのはこの一度だけ。クラブ員の評価も、私がほぼ実力ナンバーワンであるとのことだった(「ほぼ」というのは、ほかにもう一人、5・3クラスのすごく強いプレーヤーがいたらしいのだが、一度も対戦しなかった)。そのため、新年会だったか何かのパーティーのエクスビションマッチ(模範試合)のダブルスに、クラブ員代表として参加した。相手は、コーチのB.J.と、アルバイトでコーチをしていたボストン大学テニス部の学生(一応、世界ランカー。といっても800位とか、かなり下の方。全仏を制したこともある女子プロ選手ピエルスとは、「かなり親しい仲」だとか、本人は言っていた)。これに対し私のパートナーは、クリスというもう一人の専属コーチだった。試合は白熱。一進一退の攻防が続き、6-4、3―6、7-5で我々が勝利した。四人の中ではクリスが一番うまいように思った。さすがにこのクラスでは、私もアップアップ。クリスのおかげで勝てたようなものだった。
2004.12.20
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テニスのレーティング3(文末にラグビーの写真を追加)5・0のレベルでも、私を打ち負かすプレーヤーは出てこなかった。たいていの場合、6-2とか6-1で勝ってしまった。一応、留学する前までの7年間、日本でシングルスのクラブチャンピオンを保持した面目は保ったわけだ。ただし5・0のレベルの選手は、私には十分すぎる相手だった。とにかくアメリカの選手は背が高いし、パワーがある。サーブも速い。それでも勝てたのは、人工芝コートがハードコートに比べてボールのスピードが落ちるからだ。私は足が速い(今からすると速かった)ので、相手のウイニングショットも返球することができた。すると、向こうが根負けする場合が多かった。多くのアメリカのプレーヤーは、力任せに攻めるばかりで防御が弱い。車社会で足をあまり使わないせいか、上半身は強いが、足腰が弱い人が多かった。「お前は勝ってばかりいて、つまらないだろう」などとよく言われたが、とんでもない。5・0レベルの選手は、私が気を抜くと負ける相手であるとわかっていたので、本当は暑い炎天下できついシングルスの試合はしたくなかった。レーティング5・2の選手にも勝った後、あるとき、コーチのB.J.とも2回だけ試合をさせられた。たまたま同じレベルの人がいない場合には、コーチも登場することになる。試合は激しい応酬となった。一回目は6-4、2-1(時間切れ)で私の勝ち、二回目はロングゲーム(タイブレークなしのこと)で行われ、これも9-7で私が辛勝した。紙一重の差だった。私はいつも、シングルスよりもダブルスをやりたいとリクエストを出していたが、アメリカ人はとにかくシングルスが好きで、なかなかダブルスをやろうとする仲間が集まらない。おそらくアメリカ人は子供の頃から、一対一の勝負ばかりやらされてきたのだろう。ダブルスだと、勝ち負けの責任が分散され、あいまいになる。勝つか負けるか、白黒をはっきりつけたがる国民性や、アメリカ自体が個人主義的勝負社会であるということも、シングルス重視の背景にあるようだ。リクエストするときは、フロントに何曜日の何時から何時までの間(通常シングルスで一時間。ダブルスで90分間)にテニスをやりたいなどと電話で申し込めばいい。するとフロントの人が、同じレベルの人に電話をかけて人を集めてくれる。私はいつもダブルスをやりたいと申しこんだが、ダブルスをやりたい人が集まらず、9割以上はシングルスをやらされた。私が強いということがわかると、私を指名してシングルスをやりたいというプレーヤーが殺到した。毎日のようにテニスクラブのフロントから電話がかかってきて、断るのに苦労した。しかし、連戦連勝だった私も、ついに敗れるときが来た。(今日はこれから、ラグビーの早大ー流通経済大戦を見に行ってきます。私が負けた話は明日の日記で・・・)難しい角度からコンバージョンを決める早稲田の五郎丸。早稲田が84対13で流通経済大学を破った。 試合後、コーチと話をする早稲田の清宮監督 法大と近畿大の試合。法大が100点ゲームで圧勝した。決勝は早稲田と法政の戦いか?
2004.12.19
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テニスのレーティング2昨日も書いたように、私はテニスが「本業」なので、六月末にボストンに来てすぐにテニスクラブを探しまわった。10ぐらいのテニスクラブに電話したり、実際にクラブを訪れたりしてリサーチ、私にとって最適のクラブを選んだ。私が入ったテニスクラブは、ハーバード大学から西に車で30分ほど行ったところにあるウエストン・ラケット・クラブだ。郊外の閑静な場所にあり、周りは森で囲まれていた。そこには、人工芝のコートが10面ほどあった。このテニスクラブに決めたのは、日本でも慣れ親しんだ人工芝で比較的膝にも優しいコートであること。それに冬場は特殊な覆いを膨らましてドーム状にするため、雪が降ってもプレーができるからだ。ボストンの冬は長いので、運動不足を解消するためにも、インドアのテニスコートが必要絶対条件だった。人工芝は、日本ではオムニコートと呼ぶが、アメリカではクレイマーコートとメーカー名で呼んでいた。アメリカではハードコートが主流であるため、人工芝のコートを見つけるのは苦労した。さて、4・5のレーティングをもらった私に対して、次から次へと「マッチング」が行われた。マッチングは、クラブ員同士で、そのレーティングが妥当なものかどうかをチェックする意味合いもある。試合をしてみたが、どうも4・5のレベルではないとわかると、その旨が非公式にコーチに伝えられる。自分のレーティングを維持するためには、おちおち負けてもいられない。私の場合は最初、4・5レベルのプレーヤーと試合をしていたが、相手は私から1ゲームも取れないケースが続いた。私は別にそれでも構わなかったが、レーティングしたB.J.のところに苦情が殺到した。「あいつは4・5ではない。早く5・0に上げてくれ」という。つまり、私が4・5であり続けると、自分たちの4・5が危うくなるわけだ。ほどなく私は、5・0に「昇格」した。
2004.12.18
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