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私が17歳のときに書いた作文「光の中で」。 今の私から見れば、稚拙で文法的な誤りも多々ありますが、17歳当時の私としては魂を込めて作成した作品だったことがよくわかります。 「外燈は、一倍の寒さを二倍の寂しさに変えて、昼の光を三倍に恋しそうに見つめる目のようであった」とか、「彼の目の悲しみだけが唯一の連絡路となって、私の思いは、過去の光に溶けてゆく」など自分の感性をフル動員して絞り出すように言葉を紡いでいっていますね。感性の表現者として、今でも通用する表現が随所に見受けられますから、17歳の作文としては、上出来だったのではないでしょうか。 驚いたことに、当時はオカルトのことをよく知らないはずだった私が、たぶんにオカルト的だったことです。ここに登場する「象徴的な少年」も、まるで実際に見た霊であるかのように描かれていますが、想像して描いているだけです。それでも今の私から見ても、妙にリアリティがあります。時代に取り残された者たちの残留思念を描くと、このような描写になるかもしれませんね。 小学生の時以来、オカルト的なことは、どうせ話しても信じてくれないとわかっていましたから、封印してきました。 オカルトは体験のない人に話しても、決して理解されることはありません。 ところが、16歳、17歳ごろになると、徐々にその力が溢れてきたようにも思われます。 ここに描かれている言葉も、実はかなり啓示的に降りてきている言葉を書き留めて、それをつなぎ合わせて書いているように感じます。 それは今も変わらず、ボーっとしていると言葉がすぐに降りてきます。 その初期の現象が、高校生時代に起こっていたのではないでしょうか。 もっとも本当にオカルト的能力の封印を解くのは、21世紀になってからでした。 それも追々語って行きましょう。 ご参考までに、「光の中で」の全文を通しで再掲しておきます。お暇なときにお読みください。 『光の中で』 つい此の間のことである。私は、一人の少年に出会ってしまったのだ。 何故「・・・しまったのだ。」と書いたかというと、私はいまだかって、彼との出会いが、一つの意外な、奇妙な驚きであるというだけでなく、むしろ、自分の記憶の道の上で、なにかとんでもない、運命に逆らった落し物を拾ってしまったのだという気がしてならないからである。 そして、同時に、彼の静かな悲しみが深い湖になり、その細波が、ささやかな過去の足音とともに四方から、私の心の窓に押し寄せてくるように思えてならないからである。 思えば、彼を知ったということは、私に新しい光の存在を教えてくれたのに他なるまい。 実際、見方によっては、あらゆる光の中に、私は彼の存在を認めざるを得なくなるのだ。 時は少し流れて、やはり、季節は秋である。 ――それも黄昏時。 うす茶けた木の葉が地に散るように、黄昏は夜に流れる川のようであった。 一日の大地の光は、雲となって流れ、今まさに西の方へと沈もうとしていた。 時折、夕暮れの木枯らしは、息深い物思いを地に吹きつけ、寂しげな外燈の光が、芯の細いろうそくとなり、ぽつりぽつりと、青黒いカーテンの裾から、その姿を現わしていた。風は火花のように飛びまわり、人はその中を風に誘われて、家への道をひたすら急いでいた。 人は風に運ばれる枯葉のようなものである。 ただ、風の運ぶ場所が違うだけの事。 風は枯葉を冬に運び、人は、風の冷たさを嫌い、家の光の中へと歩を運ぶ。 やがて、夕焼けの空が、夜の中に次第々々に溶けてゆき、ポッと、ろうそくの火が消えるように、あたりは夜に包まれた。 自然の光は消え――いや、ささやかな天の星だけは残っていたが――そこには、文明の光が黒々と立って、独自の美しい光の世界を闇に投げ掛けていた。 そして、時は寂しげな秋の夜と変わった。 家路を急ぐ彼らは、外燈に照らされ、その幸福の道を歩いてゆく。 彼らは常に光の道を往来するのである。 ところが、ただひたすら光を求めるだけで、光の影に振り向こうとはついぞしたことがないのである。 外燈は、彼らにとっては、単なる文明にすぎないのだ。 しかし、何とその日の外燈の光の弱々しいことであったろうか。 外燈は、一倍の寒さを二倍の寂しさに変えて、昼の光を三倍に恋しそうに見つめる目のようであった。さて、私は、それらすべての中で、同様、光を求めて静かに歩いていた。夜の沈黙は、まるで生き物のように、ところどころに姿を現わしては、幽霊のように消え、また現れたりして、いろいろな寂しさを形成していた。 その沈黙の合間をぬって、木枯らしは低空飛行を続け、枯葉はカサカサと音をたてて舞い上がる。今宵の風は、その行方を知らぬらしい。勘違いの方向に、全く気まぐれに枯葉を飛ばしてしまう。私の目はそんな枯葉の後を追う。そして、それは、私の目を小さな人影の前へと運んだのである。 彼は、棒のように黒々と立っていた。彼と私の間に沈黙の川が流れ、私の感情は縦になって息詰まる。小さな恐ろしさと、大きな驚きが重なり合って交互に私の胸にやって来る。彼は静かに、彼は静かに青白い外燈の光の中に進み出た。その少年は何と寒そうな姿をしていたことであろうか。薄地の赤茶色のぼろをまとった、白く細った少年で、その姿はまるで永遠の貧しさを象徴するのに十分であった。 さらに驚いたことに、彼はいわば幽霊のようにうっすらと、落ち葉の上に素足を置いて、その目はあらゆる悲しみをたたえ、黒く光った湖の底のようであったのだ。 視線が私に注がれて、彼の悲しみがそのまま私にやってきた。彼は言葉を使わずに、自分の悲しみの深さを示したのだ。 彼は外燈の光の影に一歩下がり、その青白い光を見つめていた。今から思うとそれは、なんと不思議な光景であったことか。私と彼は、そのまま、夜の流れに流されるがままに、何時間も静かに立ち尽くした。いや、私はその時すでに眠っていたのかもしれない。何故なら、ふとあたりに気づいた時は、もう彼の姿はなく、自分だけが、その光の中に茫然と立っていたのだから。 そこで、私は、ベンチに座って考え込んだ。あれは、何であったのだろうか。外燈の光が造り上げた単なる幻影であったのだろうか。白い影のいたずらか。それとも、彼自身、光そのものであったのだろうか。 答えが浮かばないままに、闇が風に追い立てられて、あとからあとから通り過ぎた。時がその後を、駆け足で追って行く。不気味さがあたりを支配し、私の考えを惑わして行く。そして、彼の目の悲しみだけが唯一の連絡路となって、私の思いは、過去の光に溶けてゆく。(了)
2023.04.29
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17歳のときに私が書いた作文「光の中で」の後半です。 前半は秋の夕暮れ時の描写が続き、16歳のときの作文と同様に、内と外の二つの視点が提示されています。特に光と闇が対照的に描かれていますね。 そして後半では、闇と光が交じり合う怪しげな時空間において、幻影のような少年を見たと語り始めます。 では、後半をどうぞお読みください。 さて、私は、それらすべての中で、同様、光を求めて静かに歩いていた。夜の沈黙は、まるで生き物のように、ところどころに姿を現わしては、幽霊のように消え、また現れたりして、いろいろな寂しさを形成していた。その沈黙の合間をぬって、木枯らしは低空飛行を続け、枯葉はカサカサと音をたてて舞い上がる。今宵の風は、その行方を知らぬらしい。勘違いの方向に、全く気まぐれに枯葉を飛ばしてしまう。私の目はそんな枯葉の後を追う。そして、それは、私の目を小さな人影の前へと運んだのである。 彼は、棒のように黒々と立っていた。彼と私の間に沈黙の川が流れ、私の感情は縦になって息詰まる。小さな恐ろしさと、大きな驚きが重なり合って交互に私の胸にやって来る。彼は静かに、彼は静かに青白い外燈の光の中に進み出た。その少年は何と寒そうな姿をしていたことであろうか。薄地の赤茶色のぼろをまとった、白く細った少年で、その姿はまるで永遠の貧しさを象徴するのに十分であった。 さらに驚いたことに、彼はいわば幽霊のようにうっすらと、落ち葉の上に素足を置いて、その目はあらゆる悲しみをたたえ、黒く光った湖の底のようであったのだ。 視線が私に注がれて、彼の悲しみがそのまま私にやってきた。彼は言葉を使わずに、自分の悲しみの深さを示したのだ。 彼は外燈の光の影に一歩下がり、その青白い光を見つめていた。今から思うとそれは、なんと不思議な光景であったことか。私と彼は、そのまま、夜の流れに流されるがままに、何時間も静かに立ち尽くした。いや、私はその時すでに眠っていたのかもしれない。何故なら、ふとあたりに気づいた時は、もう彼の姿はなく、自分だけが、その光の中に茫然と立っていたのだから。 そこで、私は、ベンチに座って考え込んだ。あれは、何であったのだろうか。外燈の光が造り上げた単なる幻影であったのだろうか。白い影のいたずらか。それとも、彼自身、光そのものであったのだろうか。 答えが浮かばないままに、闇が風に追い立てられて、あとからあとから通り過ぎた。時がその後を、駆け足で追って行く。不気味さがあたりを支配し、私の考えを惑わして行く。そして、彼の目の悲しみだけが唯一の連絡路となって、私の思いは、過去の光に溶けてゆく。(了) 以上が私の17歳の作文「光の中で」です。 これに対する私の講評は次回にするとして、とりあえず当時の現国の担当教諭の「評」が掲載されていますので、ご紹介しておきましょう。 <評>多分に創作的なものでしょう。象徴的な登場人物が描かれています。まだ知らない光を知らせ、忘れ去った光を思い出させ、彼はあらわれました。光は明るい頼もしいものばかりではありませんでした。静かなかなしい光もあるのです。しかし明るい光を目指してください。いろいろな光の悲しみを知った上で。(山川) (続く)
2023.04.28
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確かゲレンデの名前は藤原スキー場だったと思います。 それほど難しいコースではなく、初、中級者用のゲレンデだったでしょうか。 伯父とはお昼を一緒に食べたとき以外は別行動で、お互い勝手にスキーをして、帰るときも自分で勝手に帰るという取り決めでした。本当に勝手気ままでマイペースな伯父です。 こうして一日中滑って、ふと気づくと、リフトがもうすぐ終わりになる夕方になっていました。ゲレンデを探しても伯父の姿はありません。きっと先に帰ったわけですね。 私もリフトで上まで上がって、記憶を頼りにゲレンデの途中からバックカントリーに入って宿泊先の温泉宿に向かうことにしました。 しかしながら、ここに大きな誤算がありました。来た時の道の感じと、帰る時の道の感じというのは結構異なるんですね。高速道路の下りと上りでは、感じがまったく違うのと同じです。来たときの道を思い出すために、何度も後ろを振り返らなければなりません。 それでも勘違いは起こります。 何本もの尾根がある中で、私はきっとこの道だろうと思って降りた尾根が実は一本下(谷側)の尾根だったんですね。 それに気づいたのは、谷に降りてからでした。 もう一本上(山側)の尾根に再び登らなければならなくなりました。 大幅なタイムロスと体力の消耗です。 多分20分くらい余計に歩くことになりました。この20分というのが、結構大きな意味を持っていました。 秋だけでなく冬の日もつるべ落としです。 アッという間に、夕闇が迫ってきました。 来たときと違って、暗くなってきたため、景色の感じがますます違ってきます。明るいときは見えた目標物も、暗くなると見つけづらくなります。 加えて、道に迷ったことによって生じた20分間のロスで、体力も消耗しました。 気温も急に寒くなってきます。するとかなり心細くなってきますね。 無事に宿屋に着けるのだろうかと心配にもなります。 再び、正しいと思われる道に戻っても、温泉宿までの道程はまだあります。 ひたすら寒さと孤独と焦燥と戦いながら、自分が信じる道に向かって疲れて重い足を前へ前へと動かします。そしてようやく、遠くに温泉宿の灯が見えてきたときの安堵とその喜びようといったらなかったです。遭難は免れました。 おそらく30分で帰れるはずだった道を1時間近くかけて戻ったのではないかと思われます。伯父が心配して宿の外まで出てきていました。私が「道を一本間違えた」と説明すると、「ちゃんと覚えなけりゃ駄目じゃないか」と怒られました。 まあ、結果オーライでしたね。 で、この時の心細さとか、疲れとか、焦りとか、灯を見つけた時の喜びを作品の中に取り入れて、「冬の花」という短編小説を書き上げたわけです。 この話のどこに「冬の花」があるのかと思われるかもしれませんが、答えは温泉宿の灯です。小説では、吹雪の中、疲れて倒れそうになったときに、淡いオレンジ色の花の幻影を遠くの雪景色の中に見つけます。最後の力を振り絞って、意識が朦朧としながらもそのオレンジの花畑に向かったら、温泉宿の灯であったというプロットです。単純なプロットですが、私は同時にロマンチスト(オカルティスト?)でもありますから、ただの宿の灯の幻影にはしませんでした。救出された主人公が小屋の中で温かいスープを飲んでホッとしているときに、外の吹雪の中では本当に目には見えない霊的な花が、見える人に見えていたのだとして結んでいます。 まあ、そのようなちょっとした6600字ほどの短編でした。 (続く)
2023.02.27
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登場人物をパターン化・シンボル化することによってベケットが戯曲で何を伝えようとしていたのか、何となくわかってもらえたでしょうか。今から見ると、ベケットが非常に神秘的な易的領域、すなわちオカルト的領域に踏み込もうとしていたことがわかります。 もちろん当時の私は、オカルトのことなど全くわからなかったので、もっと表層的にベケットの演劇を捉えておりました。それは追々、語って行きます。 この『ゴドーを待ちながら』では、ケント大学での楽しく忘れがたい思い出もあります。 私がベケットを卒論テーマにしていることを知っていた、ヨーロッパ演劇コースを教える助教授クライヴ・ウェイク先生が、当時ロンドンで上演されていたベケットの『ゴドーを待ちながら』の観劇に招待してくれたことがあったんですね。 その時のパンフレットがこちら。 1981年2月17日にオールド・ヴィックで初演と書かれています。で、こちらはベケットについて書かれたページ。学生向けのセミナーが開催されているとも記されています。このパンフレットの中に3月5日にヴラディミールとエストラゴンを演じた二人の役者のパネルディスカッションがある旨のチラシが入っていましたから、おそらく2月21~22日の土日か、2月28日~3月1日の土日のどちらかの上演を見に行ったと思われます。ちょうど春学期真最中ですね。ウェイク先生はその土日の券をくださっただけでなく、ケント大学から車で送迎してくれました。 至れり尽くせりです。 次回は、その時の観劇ツアーの体験を思い出す限りにおいてご紹介しましょう。 (続く)
2022.03.29
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ポゾとラッキーの関係は明白ですね。主従関係です。主人であるポゾは、易的に言うと乾(天)の性質を持っていることになります。金持ちであると同時に社交的であるようにふるまっていますから、コミュニケーション力を示す兌(沢・金)を有していることもわかります。 これに対してラッキーは、主従関係という人間関係を大事にしていますから震(木)の性質を持っていることがわかります。さらに肉体的な表現であるダンスができるということは離(火)の性質を、哲学的な独白ができるので坎(水)の性質も有しています。 ヴラディミールとエストラゴン同様、ポゾとラッキーも非常に補完的であり、対極の存在として描かれています。 しかし面白い相違点は、ヴラディミールとエストラゴンは終始同じような関係を保っていたのに対して、ポゾとラッキーは第一幕と第二幕では主従関係が変化しているように思われることです。第二幕ではポゾは目が見えなくなっているので、ラッキーなしには何もできなくなっていますね。ラッキーの震の性質がまだ強いので主従関係は崩れていませんが、ポゾは独裁的なリーダーの末路を象徴しているように思われます。天の性質が行き過ぎると、孤独になって行くんですね。 それは、同じように天の性質を持つヴラディミールにも当てはまります。実際第二幕では、眠り込んだエストラゴンを、ヴラディミールは「寂しい」からという理由で起こします。リーダーと孤独は、コインの裏表のようなものなのです。 実はここに易経の持つ重要な意味があります。すべての卦は行き過ぎると、苦しく(裏目に)なるのです。リーダーシップ(天)は行き過ぎると孤独になり、自由(風)過ぎると放蕩になります。コミュニケーション力(沢)は行きすぎると人を傷つけ、人間関係(木)を重視し過ぎると雁字搦めになります。表面的なこと(火)にこだわり過ぎると本質を忘れ、深く掘り下げ(坎)過ぎると出口が見えなくなります。寛容(地)すぎると矛盾が増えて、伝統(山)にこだわり過ぎると融通が利かなくなります。 これらはすべて八卦の対極の関係を表わしています。つまり八卦のバランスが必要だということなのです。そのバランスの良さを模索するのが、私たちの人生であると言っても過言ではありません。 たとえば私は、生まれながらにして三つの離(火)と一つの巽(風)の性質を持つことを運命づけられています。自由に本を書いていますから、まさにその通りの人生なわけですが、そのままの偏ったバランスだと表層的な、軽いことしか書けません。実は対極にある坎(水)の性質を加味する必要があります。その坎は何かというと、私にとっては掘り下げて行く能力であり、神秘性(オカルト)という奥行きを知ることでした。 つまり私は、オカルトとは対極の性質を持って生まれたわけです。実際に私はつい最近(2012年)まで、易などの占いを全く信じず、バカにしていたくらいですから。数字には表面的な数の意味しかなく、その数字に哲学的な意味や神秘性を見出すのは馬鹿げているとすら思っていました。それを信じるきっかけとなった麻雀牌占い事件については、既に紹介したとおりです。 オカルト界の重鎮である秋山眞人氏と共著を書き始めるのも、時を同じくした2012年です。これはもちろん偶然ではありませんね。実は秋山氏と私は、ヴラディミールとエストラゴンのように、ある意味、対極・補完関係にあります。 (続く)
2022.03.26
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ベケットが描く登場人物は皆、非常に易経的です。八卦のキャラクターの組み合わせで説明することができます。まあ、当然と言えば当然ですよね。ベケットも易経も、どちらも宇宙の根源にある法則を解き明かそうとしているわけですから、戯曲と易占という表現方法は違っても、同じ法則に行き当たるはずです。 具体的にみてゆきましょう。 『ゴドーを待ちながら』の二人の主人公ヴラディミールとエストラゴンは非常にわかりやすいです。ヴラディミールが陽的で、エストラゴンは陰的ですね。ヴラディミールはよく空を見上げ、帽子を気にします。天的です。同時に落ち着かずにほとんど立っており、動的でもあります。 これに対してエストラゴンは、足元を見て、靴を気にします。地的です。同時に石にへばりつくように石に座り続け、あまり動かないので静的です。 考え方も非常に対称的です。ヴラディミールは、哲学や宗教について思いめぐらします。精神や思考を代表するシンボリックな存在に思われます。一方エストラゴンは、形而上的な思考は一切せず、どんな食事にありつけるかとか、肉体的な痛みを和らげるにはどうすればいいかといった世俗的なことばかり考えています。物質的・肉体的要求が優先しますから、感覚を代表するシンボリックな存在に思われます。 感覚と思考、動的と静的という対比は、必ずしも易の分け方ではありませんが、この二人を易で分析することもできます。 たとえばヴラディミールは、哲学や宗教を思索することから易でいう「坎(水)」の性質(集中力、掘り下げ力)を持っていることがわかります。帽子や空を気にすることから「乾(天)」の性質(指導力)を有し、動的で待機することを好まないのは、「巽(風)」の性質(自由力)を示しています。 エストラゴンはこれに対して、表面的、物質的なことを気にすることから「離」の性質(表面を飾る力)を持ち、石にへばりついて靴を気にすることから「坤(地)」の性質を有し、静的で待ち続けることをあまり苦にしない様は「艮(山)」の性質(忍耐力)の性質を示しています。 二人は坎(水)と離(火)、乾(天)と坤(地)、巽(風)と艮(山)の関係にあります。つまりヴラディミールとエストラゴンは、易で見ると対極的であると同時に補完的関係にあることがわかるのです。 だから二人は、曲がりなりにもうまくやっていけるんですね。 では、ポゾとラッキーはどのような関係なのでしょうか。 (続く)
2022.03.25
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『ゴドーを待ちながら』で最初に誰もが気づく宇宙の三大法則の一つが、繰り返しですね。登場人物たちは、毎日毎日、一向に現れない「ゴドー」を待ち続けます。我々の日常も同じですね。同じことを繰り返します。希望を持ったり諦めたり。まったく不毛な、同じような一日を送っているように思われます。 しかしながら、一日一日同じようでありながらちょっと異なるのも日常です。同じ一日でも昨日と今日、今日と明日では、ちょっと違います。全く同じ繰り返しではないわけです。対称的でいて、ちょっと対称的でない。これが第二の法則。同様に第一幕と第二幕も同じようでいて違うようにできています。木の葉が出てきました。その一方で、ポゾは視力を失い、ラッキーも声を失っています。 そうして三番目の働きが同質結集の法則です。つまりヴラディミールもエストラゴンも、どういうわけか、一本の木のそばに集まってきます。ポゾとラッキーも同様ですね。何か惹かれ合うモノ、同質のモノを見出すので、彼らもまた常に集まり続けるのです。 あらゆる人間の営みは、この法則から外れることはありません。上演時間がわずか30秒ほどのベケットの戯曲『息(Breath)』ですら、この三大法則でできています。 『息』は、1969年に書かれた、登場人物が誰もいない寸劇です。舞台上には、ゴミがあちこちに散乱しています。そこに産声のような叫び声がした後、呼吸音だけが聞こえてきます。呼吸は光の強弱とシンクロしています。そして、二度目の叫び声が聞こえて、幕となります。 呼吸は繰り返し、しかもその呼吸は一回ごとに微妙に異なります。非対称性があるわけですね。そして、舞台上の光や呼吸音に集まる観客の意識は同質結集の法則を表わしています。 ベケットは、これが宇宙の根本原則であることに気づいていたわけです。宇宙には根源的な法則があることを感じ取っていたに違いないんですね。それを極力、シンボリックに、あるいは記号的に描いたのが『息』だったように感じます。 『ゴドーを待ちながら』には、他にもオカルト的な現象の法則が多く描かれています。待っているうちは来ないゴドーは、願っているうちは何も成就しないというオカルトの秘儀すら語られているように思われます。 ベケットの描くすべては、こうした宇宙に秘められた法則を明らかにすることだったのではないでしょうか。では登場人物を詳しくみてゆきましょう。 (続く)
2022.03.23
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ベケットが作品を通して試みたことは、おそらく易と同様に、宇宙の森羅万象をシンボル化することです。それは「象」に代表される形あるモノだけでなく、そこに内在するパターンや法則も含みます。 面白いことに、単純な形、記号、シンボルにすればするほど、意味が深まって行きます。『ゴドーを待ちながら』も同じです。登場人物たちは非常にシンボリックに描かれています。だからこそ、そこに、すべての状況に当てはまるような普遍性が生まれるわけです。単純に言えば、「ヴ(ウ)ラディミール」はプーチンにもなり得れば、隣のおじさんにもなり得るわけです。人間の中に普遍的に存在する性質が、シンボリックな登場人物の中にあるからですね。 そうすることによって、劇は物事の本質に迫ることが可能になり、社会的、政治的、宗教的なあらゆる解釈を可能にすることができるんですね。あらゆる解釈ができるということは、意味が深化することを意味します。ベケットの狙いはそこにあると思われます。だから、演出家に勝手な解釈をさせずに、ベケットの書いたままに演ずることを本人が求めたわけです。勝手な解釈をすると、意味が狭まります。どれだけ深い解釈ができるかは、それぞれの読者や観客に委ねられます。 『ゴドーを待ちながら』の解釈では、最近になって認知症の人の会話からベケットがこの作品を思い立ったのかなと感じるようなことがありました。 とある都内の老人ホームで、入居している90代の男性がほかの入居者の家族が面会に来ているのを見て、ホームで働く人に「うちのカミさんはいつ来るのかな」と聞いている場面に何度も遭遇したことがあります。すると、ホームで働く人は決まって「○○さんの奥様は明日会いに来られますよ」と答えるんですね。すると男性は「そうか、明日か。明日来るんだな」と安心したようにうなずきます。こうした会話は毎回目撃します。 ホームで働く方にそれとなく事情を聴いたところ、実はその方の奥様はそう頻繁に会いに来られる状態ではないとのことでした。しかしそれを伝えてしまうと、その方が悲しまれたり、不安がられたりすると思って、「明日来ることになっています」ということにしたのだそうです。認知症が進んでいるその方は、そう聞いたこともすぐに忘れてしまいますから、「嘘も方便」となるわけです。 「ゴドーは、今日は来ないけど、明日は来ます」と伝えに来る少年は、まさにホームで働く方の役割の象徴であったと解釈することもできますね。このように、どのようにも解釈できるのです。 同様に、シンボル化が進むと、宇宙にある根源的な法則も浮き彫りになってきます。『ゴドーを待ちながら』にも、既に紹介した宇宙の三大法則が語られています。 次回は、この作品の中にある宇宙の三大法則の有様と、それぞれの登場人物にはどのような象徴的な意味が込められているかをみてゆきましょう。 (続く)
2022.03.21
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ベケットが作品を通して試みたことは、おそらく易と同様に、宇宙の森羅万象をシンボル化することです。それは「象」に代表される形あるモノだけでなく、そこに内在するパターンや法則も含みます。 面白いことに、単純な形、記号、シンボルにすればするほど、意味が深まって行きます。『ゴドーを待ちながら』も同じです。登場人物たちは非常にシンボリックに描かれています。だからこそ、そこに、すべての状況に当てはまるような普遍性が生まれるわけです。単純に言えば、「ヴ(ウ)ラディミール」はプーチンにもなり得れば、隣のおじさんにもなり得るわけです。人間の中に普遍的に存在する性質が、シンボリックな登場人物の中にあるからですね。 そうすることによって、劇は物事の本質に迫ることが可能になり、社会的、政治的、宗教的なあらゆる解釈を可能にすることができるんですね。あらゆる解釈ができるということは、意味が深化することを意味します。ベケットの狙いはそこにあると思われます。だから、演出家に勝手な解釈をさせずに、ベケットの書いたままに演ずることを本人が求めたわけです。勝手な解釈をすると、意味が狭まります。どれだけ深い解釈ができるかは、それぞれの読者や観客に委ねられます。 『ゴドーを待ちながら』の解釈では、最近になって認知症の人の会話からベケットがこの作品を思い立ったのかなと感じるようなことがありました。 とある都内の老人ホームで、入居している90代の男性がほかの入居者の家族が面会に来ているのを見て、ホームで働く人に「うちのカミさんはいつ来るのかな」と聞いている場面に何度も遭遇したことがあります。すると、ホームで働く人は決まって「○○さんの奥様は明日会いに来られますよ」と答えるんですね。すると男性は「そうか、明日か。明日来るんだな」と安心したようにうなずきます。こうした会話は毎回目撃します。 ホームで働く方にそれとなく事情を聴いたところ、実はその方の奥様はそう頻繁に会いに来られる状態ではないとのことでした。しかしそれを伝えてしまうと、その方が悲しまれたり、不安がられたりすると思って、「明日来ることになっています」ということにしたのだそうです。認知症が進んでいるその方は、そう聞いたこともすぐに忘れてしまいますから、「嘘も方便」となるわけです。 「ゴドーは、今日は来ないけど、明日は来ます」と伝えに来る少年は、まさにホームで働く方の役割の象徴であったと解釈することもできますね。このように、どのようにも解釈できるのです。 同様に、シンボル化が進むと、宇宙にある根源的な法則も浮き彫りになってきます。『ゴドーを待ちながら』にも、既に紹介した宇宙の三大法則が語られています。 次回は、この作品の中にある宇宙の三大法則の有様と、それぞれの登場人物にはどのような象徴的な意味が込められているかをみてゆきましょう。 (続く)
2022.03.21
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さてケント大学では、春学期になってようやく、後に私が卒論で取り上げたサミュエル・ベケットの戯曲が出てきました。でも実は、ヨーロッパ演劇のコースでベケットのどの作品を授業で扱ったか覚えていません。たぶんもっとも有名な『ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)』だったと思うので、この作品について触れておきましょう。 『ゴドーを待ちながら』は、1952年にフランス語で出版され、翌53年1月5日、パリの小劇場「テアートル・ドゥ・バビロン(Théâtre de Babylone)」で初演された二幕からなる悲喜劇です。当初は例によって戸惑いや悪評が散見されましたが、1955年に英語版がロンドンで上演されるようになると、次第に観客に受け入れられるようになります。そして1960年ごろまでには、世界20言語以上に翻訳され、不条理演劇の代表作として20世紀のヨーロッパ演劇史に刻まれたんですね。 物語は次のようなものです。 ヴラディミールとエストラゴンという、浮浪者風の二人の男が一本の枯れ木のそばで、実りのない会話をしています。その会話から、彼らはゴドーという人物を待ち続けていることがわかるのですが、ゴドーが何者で、いつ来るかも、なぜ待っているかもわからないらしいんですね。 そこへ、旅の途中であるという、ポゾとその奴隷のラッキーが現れます。ラッキーは首にロープが付けられており、重い荷物を持たされています。しかもポゾは、ラッキーを市場に売りに行くところだといいます。ポゾがラッキーに「考えろ、ラッキー!」と命ずると、ラッキーは踊ったり、突然謎めいた哲学的な独白を始めたりします。 ポゾとラッキーが去った後、残された二人の元へゴドーの使者を称する少年がやってきて、「ゴドーは、今晩は来ないが、明日は来る」というメッセージを伝えて、立ち去ります。二人も立ち去ろうとしますが、立ち去らないまま第一幕が閉じます。 第二幕も同じ木のそばでヴラディミールとエストラゴンがゴドーを待っています。枯れ木だった木には葉が茂っています。そこへポゾとラッキーが現れますが、ポゾは盲目に、ラッキーは唖者になっています。ポゾは二人に出会ったことも忘れています。 ポゾとラッキーが去った後、残された二人の元へ再びゴドーの使者がやってきて、ゴドーが来ないことを告げて、立ち去ります。二人は首を吊って自殺しようとしますが、ロープがないので、それもできません。二人は立ち去ろうとしますが、立ち去らないまま終幕となります。 次回はこの作品を解説しましょう。 (続く)
2022.03.20
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なぜ無意識的想念の想起でなくてはならないのか。それは、そうでないと先入観が入り込むからですね。宇宙の真実は、マラルメが気づいたように、易占と同じ「純粋な偶然」が介在しないとわからないようになっているのです。それによって、地上のすべての現象や物語が宇宙の法則によって動いていることが確認できるわけです。 宇宙の意志とつながっている無意識の領域・潜在意識の情報を探るのが易です。半覚醒状態といえるまどろみの中の啓示も然り。そうした無意識の領域において、意味の共鳴、未来と過去をつなぐ超時空的現象が起こります。易占という小さな場が、共鳴を起こすことによって大宇宙の場と変わるわけです。お茶の世界にも似ていますね。茶室という限られた空間に宇宙を再現するのが茶道であると聞いたことがあります。 それは部分と全体、金太郎あめ的世界でもあります。そのことは、ロマン主義の先駆的詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake:1757~1827年)がいみじくも気づいていました。以前にも紹介しましたが、彼が1803年ごろ書いた有名な「無垢の託宣(Auguries of Innocence)」の冒頭4行を紹介しましょう。 To see a World in a Grain of Sand And a Heaven in a Wild Flower Hold Infinity in the palm of your hand And Eternity in an hour 一粒の砂に世界を見て 野の花に天界を知る 手の平に無限を抱き 一瞬には永遠があると知れ 数字やシンボルが宇宙と直結する易の世界が、まさにブレイクが書いた詩に描かれています。託宣とは、神が人に乗り移り、または夢などに現れて、その意志を告げ知らせることですね。その際、純真無垢でなければならないとタイトル「無垢の託宣」は告げています。つまり欲望や願望など不純な意識を捨てよというのと同じです。その時、手の平の上に降られた偶然というサイコロの目が神の意志と直結、共鳴するわけです。 マラルメやプルーストは、19世紀と20世紀の文学の橋渡しをしただけでなく、実はこの表層的な現実界と、深層的なオカルトの世界の橋渡し的役割を無意識的に果たしています。彼らは偶然の重要性に気づき、ジョイスがその偶然性には意味があることに気づき、ベケットが偶然性の意味をシンボルに見出した――私はこのように近代ヨーロッパ文学史の流れを見ています。 (続く)
2022.03.19
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これらの実験結果から得られた教訓は、無意志的想起というよりも無意識的想起のほうが意味ある映像を見ることができるということです。 無意志的想起では、脈絡なく、雑多な映像が出てくるだけなるように思われます。もちろんそれぞれにそれなりの意味があるのかもしれませんが、意味のない(統一性のない)羅列になってしまう確率が高くなるような気がします。 意味のある羅列にするためには、明確な意志が必要であると感じます。ただし、その意志を顕在意識化しすぎると、願望や欲望が強くなり、自分の感情が好むような映像や、ノスタルジックな過去の想念(思い出)の意味のない羅列になってしまうようです。 そこで意味のない羅列を防ぐためには、テーマを決めることです。私の場合は、羽根ラインにかかわりのある私の前世を見るというテーマがありました。自分の意志でそのテーマを決めて、無意識の領域に、重りを付けた釣り糸のように、そのテーマを付けた釣り糸を降ろしてゆくわけです。その際、意識や意志を淡く溶け込ませて、自我を消してゆきます。願望も欲望も、感情すら取り除きます。意識や意志は次第に淡くなって薄れてゆき、最終的にはテーマだけが無意識の領域深くに沈んでゆきます。 すると、そのテーマに引き寄せられるように、テーマに関係のある意味あるシンボルや映像がくっつき始めるんですね。それらを否定も肯定もしないで、淡々と観察します。感情によるジャッジをしません。無意識的意識の流れのままに、見たままを受け入れるのです。 それらは何でもいいのです。色でも形でもシンボルでも。具体的な映像を見る必要すらないかもしれません。私が見た3ピンと7ピンのような数字でもいいわけです。同じ意味、同質のモノは引き寄せ合うという宇宙の法則が適用されるからです。 たとえば、マドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間に幼時の幸福な気持ちが蘇るというプルースト現象を次のように解釈することができます。マドレーヌはおそらく丸い形で表されるシンボルで、紅茶は赤茶色を表わすシンボルであったとみなせば、マドレーヌは「天(乾)」で紅茶は「地(坤)」の意味になります。現れた順番や形と色の優先順番を勘案すると、最初に天が後から地のシンボルが現れたことになります。すると易では地天泰という卦が得られます。それはどういう意味かと言うと、平和と安定という意味です。すると、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に、幼時の平和で幸福な思い出(映像)が意味の共鳴を起こして想起された(出現した)と解釈することも可能なわけです。 プルーストが気づいていたかどうかわかりませんが、こうして無意識的に次から次へと現れる映像には意味があるのです。それに意味があることに気づいて、作品を仕上げていったのが、先述したジョイスです。それは意識の流れの手法といって、人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していきます。人間の思考を秩序立てたものではなく、絶え間ない「半ば無意識的な意識の流れ」として描こうとするわけですね。それでは意味がないではないか、と異を唱える方も多いと思いますが、そこに何か意味があることに気づくことが重要なのです。ジョイスはそれがわかっていたからこそ、『ユリシーズ』を書いたのです。 時を同じくして、プルーストが亡くなった1922年にジョイスが『ユリシーズ』を発刊したのは実は偶然ではありません。ここから次の無意識の領域を利用した「意識の流れの手法」が大きな流れとなるからです。プルーストからジョイスに象徴的にバトンタッチされたことになります。プルーストの無意志的想起の活用は、無意識的想起の活用の橋渡しであったと考えることもできます。 そしてジョイスの試みをさらに易的に単純化、シンボル化していったのが、サミュエル・ベケットというわけです。ベケットは、易経を考え付いた人たちと同じように、宇宙がもたらすシンボルの意味を突き詰めて行こうとした作家のひとりです。パリで、ジョイスとベケットが出会ったのも偶然ではありませんね。 実は、時代を司る神(霊団)がこれを計画的・意図的に演出している感じすらします。 (続く)
2022.03.18
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プルーストがなぜ無意志的記憶や想念を重視したかというと、理性による思慮・選択という意志が介在すると、そこに当時の道徳や既成概念が必ず忍び込むからです。そういう観念が忍び込むと、作品は体のいい、偽善的な教会の訓諭のようになります。心の奥底に眠る人間の本質に迫る作品を生み出すために、時流や時勢、特定の観念を切り捨てる必要があると考えたのだと思います。 無意志的想念を活用することによって、これまでタブー視された同性愛に対する偏見や欺瞞的貴族社会の価値観といった既成概念に支配された壁を破壊することができます。実際に物語も、その既成概念への疑問もしくは挑戦を背景にして展開してゆきます。 しかしながら、それだけでは、オカルト的世界に入るにはまだ足りないんですね。本当に宇宙の真実や神秘性に近づきたければ、無意志的想念からさらに一歩進んで、無意識的想念に入り込まなければなりません。というのも、無意志的想念だけでは自分の願望、欲望といった無意志の領域に潜む「感情のゴミ」を排除できないからです。余分な思考を介在させると、願望や欲望の虜になり、真の神秘的な様相が見えなくなります。 そうした「感情のゴミ」を排除するためには、無意識の領域に入り込む必要があります。 もちろんプルーストも無意識の領域のことを無意志の領域と同一視していた可能性はあります。ただ、意志を「理性による思慮・選択を決心して実行する能力」と定義するのだとしたら、それだけでは足りません。無意志的に偶然に起こる出来事や過去の思い出をただ羅列すればいいというモノではなく、その偶然の羅列を意志の力で読み解かなければならないからです。むしろ意志を持ちつつ、無意識の領域に分け入る必要があるとさえ言えます。 プルーストも、「無意志的領域」から一歩進んで、潜在意識に「意志」を落とし込みつつ、「無意識的領域」に広げた想念を喚起することができれば、きっとさらに広大無辺な新たな地平線を拓くことができたはずです。 それができれば、たとえば主人公の「私」は、マドレーヌの香りから、幼時のコンプレーの記憶がまざまざと蘇るだけでなく、ある特定の時代に生きた過去生の自分を思い出すことも可能でした。無意識の領域は宇宙(神)とつながっていますから、時間や空間すら超えた壮大な宇宙的物語が実際に展開していることを知ることになったはずです。 しかしながら、退行催眠にみられるような無意識や潜在意識の領域の活用といったオカルト的技法は、今日ですら、オカルトを毛嫌い人たちによって疎んじられているわけですから、当時はそこまで踏み込まなくて良かったのかなと思っています。後述しますが、そこに行くには、まずジョイス的な「意識の流れ」の手法が必要になります。 プルーストは無意識の領域に入る一歩手前まで到着していたのです。それは彼が『失われた時を求めて』の冒頭で語られる真夜中や未明のまどろみがもたらす半覚醒状態の描写からもわかります。半覚醒状態こそ、純粋な無意識の領域、オカルト世界の入り口だからです。 さらに偶然がもたらす記憶(たとえば亡き祖母の記憶)の想起も、ほとんど無意識の領域のそばで起こります。それが「意味のある偶然」であることに気づくかどうかで、無意識の領域に入ることができるのです。 この無意志的想起と無意識的想起の違いを知るには、私が退行催眠の実験をした時の経験が役に立ちます。 (続く)
2022.03.12
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プルーストは、優れた小説は自我の内部世界の探求によって生まれると言っています。しかもその探求は、何かを探そうとか、何かを思い出そうとか、意識的・意志的に想起することによるものではなく、無意志的記憶や想念によらなくてはならないと主張しているんですね。 どうしたらそのような無意志的記憶や想念が想起されるかと言うと、一つは半覚醒状態のとき、夜明けや深夜の半覚醒のまどろみの時間にそれが起こると言っています。 そしてもう一つは、「偶然」の感覚的な出会いを通じて起こるとも言っています。 この後者の想起が、いわゆるプルースト現象、プルースト効果とも称される現象のことです。その現象の例としてプルーストが紹介しているのが、主人公の「私」がパン菓子マドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間に、その香りと味などによって幼時のコンプレーでのおやつの時間や、当時のすべての幸福感が蘇るという、第一巻の場面です。 そして最終巻の第7巻でも、同じような体験が語られます。それはゲルトマン家に招待された「私」が不ぞろいな敷石で躓いた瞬間、かつて母親とヴェネチアを旅行した時、同じ体験をしたことを鮮やかに思い出し、過去の幸福に浸るという場面です。 この二つの不思議な体験によって「私(プルースト)」は、偶然によってもたらされる無意志的な記憶や想念には意味があり、そのときに甦って来る「人生の軌跡」にこそ価値があるのだということに気づきます。というのも、そこには時間を超越した「私」がいて、永遠性が創造されるからです。魂の不滅を実感する瞬間でもあるわけですね。そして「私」は、時空を超えた記憶を主題とする長大な小説を書く決心をして、物語が終わります。同時に、物語冒頭のまどろみながら過去を回想する「私」へとつながるという円環を描いています。 ほかにも面白い技法が使われています。部分と全体が見事に絡み合っていることです。たとえば、部分(マドレーヌ)から全体(コンプレーの光景)が想起され、その全体が部分に集約されるようなことが描かれます。また「不意の偶然」がキープレイヤーとして描かれています。たとえば、第四部の「ソドムとゴモラ」では、かつて母方の祖母と訪れたことがあるノルマンディの避暑地バルベックを再訪した際、ホテルの部屋でショート・ブーツを脱ごうと身をかがめた瞬間、不意に亡くなったばかりの祖母の思い出が「心の間欠」としてまざまざと蘇り、悲しみに圧倒される場面があります。 こうした技法の背景にある現象やテーマは、どれも非常にオカルト的です。言い換えると、プルーストが描いた作家論を使うと、オカルトがわかるようになります。つまり、彼の気づいたことは、まさにオカルトに気づく技法でもあるんですね。彼の小説は、オカルト的世界に入って行くための入門・基礎編として利用することができるわけです。 次回はどうやって利用するかを、私の体験を踏まえながら説明しましょう。 (続く)
2022.03.11
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再びケント大学での学業の話に戻ります。 依然として、秘密の倉庫からほかのテキストが見つからないので、春学期にどの本を勉強したのか手探りの状態ですが、フランス文学入門コースのほうではおそらくモリエールの笑劇『スカパンの悪だくみ(les Fourberies deScapin)』やプレヴォの『マノン・レスコー(Histoire du chvalier des Grieux et de Manon Lescaut)』などを取り上げたと思います。そのかすかな記憶があります。 それらの17世紀や18世紀のフランス文学の“古典”をここで取り上げてもいいのですが、ここではもっと私が紹介したい作家と作品を紹介しましょう。 フランス文学史だけでなく世界文学史で必ず話題になる、マルセル・プルースト(Marcel Proust)と、その金字塔的作品の長編小説『失われた時を求めて(A la recherche du temps perdu)』です。プルーストとこの作品についての私の考えを書いておきましょう。 プルーストは1871年7月10日、パリ16区の母方の叔父の別荘で、医学者のフランス人の父と、裕福なユダヤ人家系の母との間に生まれました。病弱な少年時代を過ごし、喘息の持病を抱えながら文学に親しみ、パリ大学では法律と哲学を学びます。その後もほとんど職には就かず(その必要もなく)、華やかな社交生活を送り、20代後半になってから小説や評論を書くようになります。そして、30代の後半から1922年11月18日に51歳でなくなる直前まで、不朽の大作『失われた時を求めて』を書き続けました。生前に4部まで刊行、弟らが既にほぼ書き終わっていた遺構を整理して、死後5年経った1927年までに第7部までのすべてが出版されました。 プルーストのこの作品が評価されたのは、写実的で客観的記述が主体だった19世紀の文学の世界に、写実的でありながらも主観的記述を導入することによって、自我の内部世界を探求するという「20世紀文学の新たな地平線」を拓いたからです。 その作品を書こうと思ったきっかけは、1908年ごろから当時の文芸評論家サント=ブーヴの論に異を唱える「サント=ブーヴに対する反論」という評論を書き始めたことだと考えられています。その評論の中でプルーストは、優れた文学作品は日常的・外面的な「表層の自我」を描くのではなく、自分の内部深くに眠る「深層の自我」に迫ることであると説きました。そしてプルースト自身がそれを証明する(理論を実演する)ために、『失われた時を求めて』を書き始めたわけです。そこには、19世紀から20世紀にかけて滅びゆく一社会の記録が記されているだけではなく、作品はいかにして生まれるか、いかにして自分の心の深奥に潜り込むか、を記した作家論も物語に溶け込む形で描かれています。 次回はその作家論を取り上げてみましょう。 (続く)
2022.03.10
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ここで訂正があります。パリからケント大学に向かった日を1月6日としていましたが、1月7日の間違いでした。つまりパリには1981年1月2日から同7日までの五泊六日の滞在だったことになります。なぜそれが分かったかと言うと、ケント大学の春学期に何を勉強したかを探るために家の「隠し倉庫」の中で書籍資料を探していたら、こんなものが見つかったからです。 『縛られたプロメテウス(Prométhée enchaîné)』のチケットとコメディ・フランセーズの小冊子、それに演目を説明したリーフレットです。日にちは何と、1981年1月6日(火)の午後8時開演。場所はパリのオデオン座。1月6日の夜にパリで観劇していたのなら、ケント大学に戻っていたはずはありませんね。まさに青天の霹靂的に動かぬ証拠が出てきました。1月7日に春学期が始まるということの意味は、その日が入寮再開日であるということだったわけです。そのことをすっかり忘れていました。ですから、6日の夜はパリで観劇し、翌7日にイギリスに戻ったことになります。 ついでにオデオン座について説明しましょう。パリ六区にある王立劇団コメディ・フランセーズの劇場として、1782年4月9日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネット隣席のもとに開場した歴史ある劇場です。当時は「フランス座」と称され、フランス革命直前に「国民劇場」と改名、革命中は「平等劇場マラー支部」、ナポレオン皇帝の時代は「皇后劇場」と呼ばれます。 1830年の7月革命では革命派市民の拠点となり、革命後は公的補助が廃止されました。そのため、単なる貸小屋となり「乗合劇場」と揶揄され、1848年の二月革命の余波で破産、閉鎖に追い込まれます。それでも、第三共和政時代に国に返還され復活。主にコメディ・フランセーズの第二劇場として使われるようになりました。 その後、1959年のド・ゴール大統領時代に「フランス劇場」と名付けられ、1971年のポンピドゥー大統領時代にはコメディ・フランセーズの管轄下に戻って「国立オデオン劇場(Théâtre national de l'Odéon)」と呼ばれるようになりました。私のチケットにもそのように記されています。 興味深いのは、チケットに12フランと印刷されていることです。当時は1フラン=45円でしたから、何と540円。もちろん舞台から遥かに遠い天井桟敷席(自由席)ですが、貧乏学生でも眼下に繰り広げられる格調高い演劇のエッセンスを感じ取ることができたわけです。 この日私が見た『縛られたプロメテウス(Prométhée enchaîné)』は、古代ギリシャの三大悲劇詩人のひとりアイスキュロスが書いた「プロメテウス三部作」の第1作とも第2作ともいわれています。3部作の原文は散逸してしまい、わずかに断片のみが現在まで伝わっています。 物語は、チタン族の英雄プロメテウスの神話。天上の火を人間に与えてゼウスの怒りを買い、コーカサス山に鎖でつながれ、大鷲に肝臓を食べられ続けるという話です。ヘラクレスに助けられて、その拷問は終わりますが、それは別の作である『解放されたプロメテウス』で語られます。ギリシャ神話はシンボルと暗喩に満ちています。易で解釈する絶好の材料なのですが、それはまた別の機会にいたしましょう。 (続く)
2022.03.08
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この絵をご覧ください。素晴らしい色彩、立体的な奥行き。まさに息をのむような、幻想的な情景が描かれています。私の知り合いの須藤眞啓画伯が描かれた「雅(みやび)」です。100号の大作。今日のタウンニュース(逗子・葉山版)でも掲載されておりました。設立100周年を迎えた葉山警察署に、それを記念して寄贈されたんですね。実は昨年12月15日に招待されて、その絵を事前に鑑賞させてもらいました。実際に見たときのその感動は、言葉では表せないものがありました。現在は葉山署の署長室に飾られているそうです。
2020.01.24
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パリに着いた翌日は、フォンテンヌブローへ移動します。フォンテンヌブローでは、宮殿の前にあるホテルに二泊しました。これがそのホテルです。なかなか綺麗で快適なホテルでした。荷物を置いて、セーヌ河畔の村ヴァルヴァンにあるマラルメ記念館へ。美しい庭ですね。19世紀フランスの象徴派の詩人ステファン・マラルメは晩年、この別荘で過ごしました。マラルメの夏館と呼ばれているようです。今では記念館になっていて、マラルメの扇や自筆の手紙、使っていた家具などが展示されています。マラルメは以前、このブログで何回も取り上げましたので、ご興味のある方はこちらへ飛んでください。
2011.10.28
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私がロンドンで初めてミュージカルを見たのは1975年、17歳の時でした。そのミュージカルは、『ジーザス・クライスト・スーパースター』。初めての本格的な観劇で、その時の感動は今でも鮮明に覚えています。思えばそのとき、あの劇場という小さく、不思議な空間に弾けるように飛び回るエネルギーと一体化するという高揚感を初めて知り、劇の世界に夢中になったのでした。そして大学で学んだのは、英文学と仏文学。英国の留学先をケント大学にしたのも、観劇のメッカであるロンドンとパリに近いという理由でした。長い休みを利用しては、ロンドンやパリで一番安い天井桟敷席で観劇をしながら、最終的な論文はフランス語で書いた『サミュエル・ベケットの演劇におけるゲームとプレイの概念』でした。米国のハーバード大学やジョンズ・ホプキンズ大学で学んでいるときも、週末は観劇三昧の日々でした(笑)。そして今回の旅行でも、ロンドンではミュージカルを5本も観劇しました。私の特にお気に入りで3回目の観劇となる『オペラ座の怪人』。パワーと迫力のある『レ・ミゼラブル』。映像や光によるイル―ジョンを駆使した『ゴースト』。踊りを豊富に盛り込んだ『ビリー・エリオット』。そして、すぐに私のお気に入りミュージカルに加わった『ウィケッド』の五本です。最後の『ウィケッド』は、『オズの魔法使い』を題材にしたミュージカルということだったので、ちょっと子供向けなのかなとあまり期待していなかったのですが、どうしてどうして、素晴らしい物語と音楽でした。曲の中で特に素晴らしかったのは、『Defying Gravity(重力に挑戦する)』です。米テレビドラマ『グリー』でレイチェルとカートが歌っていたので「いい曲だな」と思っていたのですが、まさか『ウィケッド』の曲でしかも本当に重力に挑戦する歌だとは知りませんでした(笑)。人々が信じ込んでいる物語の裏には、まったく知られていない異なる物語があったとするこのミュージカルの構成は素晴らしく、私としては多くの点で911テロのアメリカとダブります。恐怖を作り出し民衆を扇動した「オズの魔法使い」は誰だったのか。その操作のからくりにいち早く気づき、人が作り上げた「限界」ではなく、自分の心を信じて常識の殻を破り、たとえ一人でも空を飛んで自由になると決めた「西の悪い魔女」であるエルファバ。その対極としては、独善的なアメリカのキリスト教的良心の象徴である「いい魔女」のグリンダがいます。なるだけ多くの人が、できるだけ早く、オズの魔法使いのカラクリに気づいてエルファバのように「変わって」ほしいと思わずにいられませんでした。
2011.10.14
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スライゴ―のイェイツ博物館を見た後、イェイツのお墓がある郊外のドラムクリフ・聖コロンバ教会まで車で出かけました。あいにくの雨が降り続く天気でしたが、カメラが濡れないように注意しながら撮影します。これがそのイェイツのお墓。墓碑には、晩年に書かれた「ベンブルベンの麓にて」と題する詩の最後の3行が刻まれていました。Cast a cold eyeOn life, on death.Horseman, pass by!冷ややかな目を向けよ、生と、死に。馬に乗る者よ、通り過ぎよ! ご参考までに、「ベンブルベンの麓にて(Under Ben Bulben)」の第VI節を全文載せておきましょう。生前書いた故人の墓碑銘であったことがわかりますね。 VIUnder bare Ben Bulben's headIn Drumcliff churchyard Yeats is laid.An ancestor was rector thereLong years ago, a church stands near,By the road an ancient cross.No marble, no conventional phrase;On limestone quarried near the spotBy his command these words are cut:Cast a cold eyeOn life, on death.Horseman, pass by!むき出しのベン・ブルベンの崖の下、ドラムクリフの教会墓地でイェイツは眠る。大昔、祖先はその教区の教師であった。教会のそばの道端には古びた十字架が立っている。大理石でもなければ、常套句も刻まれていない。近くで切り出された石灰岩に故人の意思により次の言葉を刻む:冷ややかな目を向けよ、生と、死に。馬に乗る者よ、通り過ぎよ!(続く)
2011.08.27
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イエイツはダブリンの生まれですが、イエイツの母の故郷がスライゴ―であったため、子供時代、よくここで過ごしました。彼自身スライゴ―をとても気に入り、心の故郷として詩にも描いたんですね。そのスライゴ―の町です。町のほぼ中心に流れるギャラボーグ川は、雨で水かさが増しておりました。これはイェイツの像です。細身でちょっと神経質そうに見えます。鴨も泳いでいるギャラボーグ川。左手奥に見えるレンガ造りの建物がイエイツ博物館です。(続く)
2011.08.20
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イエイツが愛したスライゴ―の田舎の風景です。牛さんがのんびり草を食んでいますね。時折、日が当たると緑が映えます。丘を越えてどこまでも歩いてゆきたくなりますね。イエイツ、というよりも、アイルランド人が愛してやまなかった風景なのだと思いました。(続く)
2011.08.18
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ギル湖がなぜ有名かというと、イエイツの詩で取り上げられているからです。その詩がこちらです。The Lake Isle of Innisfree William Butler YeatsI will arise and go now, and go to Innisfree, And a small cabin build there, of clay and wattles made: Nine bean-rows will I have there, a hive for the honeybee, And live alone in the bee-loud glade. And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow, Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings; There midnight's all a glimmer, and noon a purple glow, And evening full of the linnet's wings. I will arise and go now, for always night and day I hear lake water lapping with low sounds by the shore; While I stand on the roadway, or on the pavements grey, I hear it in the deep heart's core. イニスフリーの湖島ウィリアム・バトラー・イエイツ さあ、立ち上がって行こう、あのイニスフリー島へ、 土の壁でつくった小屋をそこに建てよう。 そして畑に豆を九列に植えて、ミツバチの巣箱を置き、 その羽音が響く林間でひっそりと暮らそう。 そこでは平安が得られるだろう、ゆっくりと流れる心の静けさが。 平穏は朝日とともに、コオロギの鳴く我が家へと降り立つ。 夜は満天の星空に、昼は黄金の光に包まれ、 黄昏には無数のヒワ鳥が飛び交う。 さあ、今こそ立ち上がって行こう、昼も夜もいつでも 私には、あの湖畔に寄せる静かな波音が聞こえるのだから。 都会の道路で、あるいは灰色の舗装路で、私はふと立ち尽くす。 するとたちまち、深い胸の奥底から、あの波音が湧き上ってくる。そのイニスフリー湖島があるのがギル湖です。そしてこちらが、そのイニスフリー島。さあ、起ち上がって行きましょう、あのイニスフリー島へ!(続く)
2011.08.16
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昨日はこんな月夜の晩でした。まだ日没直後で明るかったのですが、鎌倉の花火大会が始まります。もしかしたら見えるかもしれないと思って、富士山の見える丘に来て正解でしたね。遠く眼下の鎌倉方面に花火が上がっているのが見えました。虫除けスプレーを撒いた後、私たちのささやかな宴会も始まります。たまや~、ですね。見下ろす花火もいいものです。すると、今度はこんな花火が!目玉親父!?こうして夏の夜は更けていきました。
2010.07.22
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夏の景色として、夜の港は味わいがありますね。ジャズコンサートを聴いた後、横須賀の港を散策しているときに撮影しました。「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ」という歌をつい口ずさんでしまいます(笑)。
2009.08.03
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▼ユゴーの薔薇12(ユゴーの生涯2)二日空きましたが、ユゴーの生涯の続きです。ユゴーの『エルナニ』は、物語の筋よりも台詞の斬新さで観客の度肝を抜きました。それまでの古典派の劇では、感情を抑えた大げさな美辞麗句が並ぶような台詞が多かったのですが、ユゴーの台詞は情熱むき出しで、韻文の音と力強い韻律が並びます。『エルナニ』の公演初日(2月25日)には、「感情を赤裸々に表現するのは下品だ」とする古典派支持派と、「古臭い表現はもううんざりだ」とするロマン派支持派が駆けつけ、小競り合いが勃発します(エルナニ事件)。だが、いざ幕が開くと、ユゴーの台詞は詰め掛けた観客を魅了し、公演は大成功。続いて発表した小説『ノートル・ダム・ド・パリ』も大評判となり、ロマン派の黄金時代を築くことになります。劇作や小説で大成功を収めたユゴーですが、このころ衝撃的な事件も起こります。一つはこの年(1830年)の7月にフランスで起きた7月革命です。この革命によって、1815年の王政復古で復活していたブルボン朝は打倒され、ブルジョワジーが推すルイ・フィリップが王位に就きます。本来ならブルボン朝から年金をもらっていたユゴーも非難の槍玉に挙がりそうなものですが、革命を起こした側がロマン主義の仲間であったことから、ユゴーに危害が及ぶことはありませんでした。古典主義の打倒は、古い体制に対する不満の表れでもあったんですね。また、この混乱の最中に、次女アデールが誕生します。アデールの波乱な人生を象徴する出来事でもありました。しかし、さらにショッキングな出来事は、その二年後ぐらいに訪れます。なんと愛妻アデールがユゴーの友人で文芸批評家のサント・ブーヴと恋に落ちて、駆け落ちでもするようにユゴーのもとを離れます。傷心のユゴーは1832年夏、ロマン主義運動の同志でもあったブーヴとの交際を絶ちます。寂しさに打ちひしがれたユゴーは翌33年、その寂寥感を紛らわすため、自分の書いた戯曲に出演していた、若くて美しい女優ジュリエット・ドルエと愛人関係になります。ユゴーは、ジュリエットの役を書く目的もあり、創作活動にますます励み、相次いで劇作を発表します。それに応えるようにジュリエットは、慎み深い、忠実な「伴侶」として終生、ユゴーに尽くします。文学界における名声を不動のものとしたユゴーですが、苦労や苦悩も多く経験しています。1836年には、アカデミー・フランセーズに二度落選、翌37年には妻アデールを愛したために発狂(!)してしまった次兄ウジェーヌが入院先の病院で自殺します。1840年にはアカデミー・フランセーズの会員に三度目の落選。それでもとうとう、翌41年に念願のアカデミー・フランセーズの会員に選出されます。45年には貴族院議員にも任命され、政治活動の基盤を構築します。ただし、不幸な出来事も続きます。1843年には、結婚したばかりの長女レオポルディーヌが、19歳という若さで、夫とともにセーヌ川で溺死してしまうんですね。ユゴーは再び悲しみに沈みます。(続く)
2008.06.12
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▼ユゴーの薔薇11(ユゴーの生涯)ヴィクトル・ユゴーの波乱の人生についてもご紹介しましょう。ユゴーは1802年2月26日、職業軍人ジョゼフ・レオポルド・シジスベール・ユゴーとソフィ=フランソワーズ・トレビュシェの三男として生まれました。父方の人々は農民や職人が多く、母方の人々は船員や法官で、最初から生まれも育ちもまったく違う上、共和党員で生粋のボナパルト主義の父親に対して、母親は根っからの王党派でした。政治的な思想の違いなどから夫婦仲は冷ややかで、ユゴーは母と一緒にパリを離れて、コルシカ島、エルバ島、ナポリ、マドリードなどヨーロッパのあちこちを転々として暮らしていました。10歳のときに再びパリに戻り、12歳ごろからは寄宿学校生活が始まります。ナポレオンによる帝政が終わると、父親は貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長にまで没落します。ユゴーは14歳ごろには試作や翻訳をノートいっぱいに書き付けるようになります。母親もその才能を認め、文学的な活動を奨励します。18歳ごろになると、ユゴーは幼馴染のアデール・フーシェと恋仲になり、結婚を考えるようになります。ところが母親はその交際に猛反対、結婚を認めません。しかしその母親も1821年に病死すると、ユゴーは翌22年にアデールと結婚、同じ年に処女詩集『オードと雑詠集』を出版します。この作品を当時の国王ルイ18世に高く評価され、年金を受けるようにもなりました。これで生活基盤も安定、小説、戯曲、詩、評論などを次から次へと発表、1825年には23歳という若さでレジオンドヌール勲章を受章するなど、次第に名声が高まっていきました。私生活でも、アデールとの間に5人の子供が生まれます。長男は生まれて3ヶ月足らずで死んでしまいましたが、二男二女の4人の子供は健康に育ちます。次女が『アデルの恋の物語』のモデルとなったアデール(母親と同じ名前)であることはすでにご紹介しましたね。また、少年時代には疎遠であった父との仲も改善、それまで疎んじていた、父親が敬愛するナポレオンを讃える詩すら書くようになりました。その父親も1828年に他界します。文壇においては、ロマン主義を信奉するグループに入っており、しばしば自宅でロマン派の会合を開くようになります。これは当時アカデミー・フランセーズ(フランスの学術・芸術協会)を支配していた古典派との対立を生みました。そしてその対立に事実上の終止符を打ったのが、1830年に上演されたユゴーの劇作『エルナニ』でした。(続く)
2008.06.09
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▼ユゴーの薔薇10(無敵艦隊)せっかくユゴーが歴史を題材にして薔薇の詩を書いたのですから、今日はその歴史を振り返ってみたいと思います。そもそもこの詩が収められている『諸世紀の伝説』は、人類史の年代に従って編纂された叙事詩の詩集なんですね。ユゴーはこの中で、人類の進歩に対する宗教的・社会的な信念を強く滲ませています。「眠れるボアズ」は旧約聖書時代の詩でしたが、「王女の薔薇」は16世紀後半のスペインが舞台ですね。史実は無敵艦隊の敗北です。無敵艦隊とは、1588年にスペイン王フェリペ2世がイギリス本土上陸作戦のために派遣した大艦隊のことです。当時、ローマ・カトリック諸国の指導者として最も力があったのはスペインでした。ところがその目の上のたんこぶが、プロテスタントの保護者であるイギリスの女王エリザベス一世でした。経済的にも、イギリスの「海賊」によってスペインの大西洋航路は常に脅かされていましたから、どうしてもイギリスをたたいておく必要があったのです。艦隊は同年5月28日にリスボンを出発、途中で嵐と食料補給などで手間取り、ドーバー海峡にさしかかったのは、7月末になっていました。戦闘はイギリス側が最初に仕掛けます。8月7日夜、追い風を利用して火薬を積み込んで火をつけた中型船6隻を無敵艦隊に向けて放ちました。いわゆる「火船攻撃」です。無敵艦隊側もある程度、火船作戦を予想していましたが、これほど大規模な攻撃を予想していなかったので、それまで保っていた三日月陣形は崩壊、大混乱に陥ります。そこへイギリス海軍の攻撃が始まったものですから、大変です。無敵艦隊は風向きが変わって窮地を脱したのを機会に、ほうほうの体で逃げ延びるのがやっとの有様でした。同年9月末までに本国に帰着できた無敵艦隊の艦船は、出発前のおよそ半数に減り、死者は数千人に達したということです。一方のイギリス側の戦死者は100人程度というのですから、イギリス海軍の圧勝に終わりました。このように海戦では、確かに風は勝敗を決める大きな要素になりましたが、暴風のせいで無敵艦隊が敗北したわけではなかったのですね。でもユゴーは、人知を超えた、神の意思とも言える暴風が歴史を変えたのだと、詩の中で謳っていますね。凶暴で残虐な専制君主のフェリペ2世は、運命の神秘的な力によって、打ち負かされたわけです。イギリス海軍の勝利により、イギリスは制海権を強め、その後の大発展への一歩を踏み出します。一方それまで栄華を極めていたスペインは、この敗戦をきっかけにして没落が始まります。歴史の一大転換点だったわけです。ユゴーはその転換点を、王女が手に持った薔薇が一陣の風によって散る様として描いたんですね。なお、ユゴーがモデルにした実際の幼い王女マリア(フェリペ2世の末娘)は、1580年に生まれ、83年に幼くして亡くなっています。生きていれば8歳でしたが、実はその5年前に亡くなっていたんですね。劇的な効果を高めるために、あえてマリアを登場させたようです。(続く)
2008.06.08
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▼ユゴーの薔薇9(王女の薔薇5)今日で「王女の薔薇」も最終回です。最後まで物語性が強いですが、その物語が象徴するものはとても詩的です。Quand Beit-Cifresil, fils d'Abdallah-Beit,アブダラ=ベイの息子、ベイ=シフルジルは、Eut creuse le grand puits de la mosquee, au Caire,カイロのイスラム教寺院に大きな井戸を掘ったとき、Il y grava: 'Le ciel est a Dieu; j'ai la terre.'次のような文字をその井戸に刻んだ。「天は神のもの。地は私のもの」Et, comme tout se tient, se mele et se confond,専制君主というものは、みな似たり寄ったりで区別がつかず、Tous les tyrans n'etant qu'un seul despote au fond,基底部分ではただの暴君にすぎず、Ce que dit ce sultan jadis, ce roi le pense.そのサルタンが井戸に刻んだようなことを、フェリペは考えていたのだ。Cependant, sur le bord du bassin, en silence,一方、その間にも、池のほとりでは黙ったまま、L'infante tient toujours sa rose gravement,幼い王女が相変わらず、薔薇を重々しく握っていた。Et, doux ange aux yeux bleus, la baise par moment.その青い目をした優しい天使は、時折、薔薇に口付けしていた。Soudain un souffle d'air, une de ces haleinesそのとき突然、一陣の風が、平原を駆け抜けてQue le soir fremissant jette a travers les plaines,夕闇を恐れおののかせる息吹の一つが、Tumultueux zephyr effleurant l'horizon,水平線をかすめて飛ぶ騒々しい西風の神が、Trouble l'eau, fait fremir les joncs, met un frisson水面をかき乱し、燈心草をざわめかせ、遠くにあるDans les lointains massifs de myrte et d'asphodele,銀梅花とツルボランの茂みを震わせて、Vient jusqu'au bel enfant tranquille, et, d'un coup d'aile,静かにたたずむ美しい王女のところまでやって来た。そして風は、Rapide, et secouant meme l'arbre voisin,素早い羽ばたきの一撃で、近くの薔薇の木までも揺るがして、Effeuille brusquement la fleur dans le bassin,王女が持つ薔薇の花弁を突然むしり取り、池に散らしたのだ。Et l'infante n'a plus dans la main qu'une epine.王女の手に残されたのは、棘のついた茎だけ。Elle se penche, et voit sur l'eau cette ruine;王女は身をかがめ、池に散った薔薇の残骸を見つめた。Elle ne comprend pas; qu'est-ce donc? Elle a peur;王女にはわからなかった。いったい何が起きたのか?Et la voila qui cherche au ciel avec stupeur王女は怖くなり、呆然として天を仰ぎ、そして探した、Cette brise qui n'a pas craint de lui deplaire.不敵にも王女に不快なことをした、あの風はどこにいるのか、と。Que faire? le bassin semble plein de colere;どうすればいいのか? 池も怒りに満ちているようだ。Lui, si clair tout a l'heure, il est noir maintenant;ついさっきまで澄んでいた池も、今は黒々と濁っている。Il a des vagues; c'est une mer bouillonnant;波立つその姿は、激しく沸き立つ海のようだ。Toute la pauvre rose est eparse sur l'onde;哀れな薔薇の花は、水面に散らばっている。Ses cent feuilles que noie et roule l'eau profonde,そのいくつもの花びらは、水の深みに沈んだり渦巻いたりして、Tournoyant, naufrageant, s'en vont de tous cotes回転したり難破したりしながら、荒れ狂った風が引き起こしたSur mille petits flots par la brise irrites;無数の小さな波の上を、四方八方に流れていく。On croit voir dans un gouffre une flotte qui sombre.人々はそこに、海の深みへと沈んでいく艦隊の姿を見たにちがいない。--'Madame,' dit la duegne avec sa face d'ombre「王女様」と、陰気な顔をした付き添いの老女が、A la petite fille etonnee et revant,あっけに取られて、ぽかんとしている小さな王女に言った。'Tout sur terre appartient aux princes, hors le vent.「この地上にあるすべてのものは王様ご一家のものでございます。ただ風を除いては」スペイン無敵艦隊の歴史的敗北を、一陣の風に散った王女の薔薇に例えたんですね。見事な描写です。実際に無敵艦隊が「神風」によって敗れたかどうかについては異論がありますが、ユゴーの詩の中では、にわかに巻き起こった暴風を敗因として強調しています。冒頭にサルタンの話が出ていますが、これはユゴーの創作ではないかとみられています。明日は、スペイン無敵艦隊の敗因とその後のスペインについて考察する予定です。(続く)
2008.06.07
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▼ユゴーの薔薇8(王女の薔薇4)今日はイギリスへと侵攻するスペイン無敵艦隊の描写が続きます。フェリペ2世はその様子を(幽体離脱して?)俯瞰するんですね。Morne en son noir pourpoint, la toison d'or au cou,黒い胴衣を身にまとい、首には金羊毛勲章をぶら下げて、On dirait du destin la froide sentinelle;彼は運命の冷たい見張り番のようだ。Son immobilite commande; sa prunelleじっと動かずにいるだけで威圧感があり、彼の瞳はLuit comme un soupirail de caverne; son doigt洞窟の換気穴のように光る。彼の指は、Semble, ebauchant un geste obscur que nul ne voit,誰にも見えない、かすかな仕草をしながら、Donner un ordre a l'ombre et vaguement l'ecrire.闇に向かって命令を下し、おぼろげにその命令書を書いているように見える。Chose inouie! il vient de grincer un sourire.信じられないことが起きた! 彼は今しがた、歯軋りをしながらだが、微笑んだのだ。Un sourire insondable, impenetrable, amer.不可解で、底知れぬ、辛らつな微笑だった。C'est que la vision de son armee en mer彼が微笑んだのは、大海を進む彼の艦隊の姿が、Grandit de plus en plus dans sa sombre pensee;彼の暗い思考の中で、次第に大きくなってきたからだった。C'est qu'il la voit voguer par son dessein poussee,入念な計画通りに艦隊が航行する姿を彼は見る。Comme s'il etait la, planant sous le zenith;まるで彼は実際にそこにいて、空を飛びながら俯瞰しているようだった。Tout est bien; l'ocean docile s'aplanit,すべてがうまく行っていた。海はおとなしく、波もなかった。L'armada lui fait peur comme au deluge l'arche;あの大洪水が箱舟を恐れたように、海は王の艦隊を恐れている。La flotte se deploie en bon ordre de marche,その艦隊は整然とした行進を続け、Et, les vaisseaux gardant les espaces fixes,すべての軍艦は隊列を乱すこともなかった。Echiquier de tillacs, de ponts, de mats dresses,上甲板、甲板、そびえ立つマストが織りなす幾何学模様は、Ondule sur les eaux comme une immense claie.巨大なすのこのように海の上を波打っている。Ces vaisseaux sont sacres, les flots leur font la haie;この艦隊は神聖であり、波が艦隊の周りに垣根をめぐらしている。Les courants, pour aider les nefs a debarquer,帆船の上陸作戦を手助けするために、海流もOnt leur besogne a faire et n'y sauraient manquer;なくてはならない、そこに欠かすことのできないものだ。Autour d'elles la vague avec amour deferle,艦隊を取り巻く波は、愛情を込めて砕け散る。L'ecueil se change en port, l'ecume tombe en perle暗礁は港に変わり、波しぶきは真珠になって落ちていく。Voici chaque galere avec son gastadour;こちらには看守を乗せたガリー船、Voila ceux de l'Escaut, voila ceux de l'Adour;あちらにはフランドルの軍勢やバスクの軍勢が応援に駆けつけた。Les cent mestres de camp et les deux connetables;数多くの連隊長と二人の司令官もいる。L'Allemagne a donne ses ourques redoutables,ドイツは恐ろしいウルク船を提供し、Naples ses brigantins, Cadix ses galions,ナポリは二本マストの小帆船、カディスはガレオン船、Lisbonne ses marins, car il faut des lions.リスボンは水夫を派遣した。勇猛な男たちが必要だったからだ。Et Philippe se penche, et, qu'importe l'espace?フェリペは身を乗り出す。物理的な距離など関係ないのだ。Non seulement il voit, mais il entend. On passe,彼は艦隊の様子を見るだけでなく、音まで聞くことができた。On court, on va. Voici le cri des porte-voix,兵士たちは艦上を歩き、走り、動き回る。メガホンで叫ぶ声、Le pas des matelots courant sur les pavois,舷しょうを走る水兵たちの足音も聞こえる。Les mocos, l'amiral appuye sur son page,見習い水兵たち、近習に寄りかかる提督の姿もある。Les tambours, les sifflets des maitres d'equipage,太鼓の音、乗組員の班長が鳴らす笛の音、Les signaux pour la mer, l'appel pour les combats,航海の信号、戦闘準備のラッパ、Le fracas sepulcral et noir du branle-bas.総員戦闘準備の合図で湧き上がる陰気で暗いすさまじい音。Sont-ce des cormorans? sont-ce des citadelles?まるで数多くの鵜? まるでいくつもの要塞?Les voiles font un vaste et sourd battement d'ailes;船の帆は、壮大かつ重々しく羽ばたいている。L'eau gronde, et tout ce groupe enorme vogue, et fuit,海鳴りが聞こえると、この巨大な艦隊は逃れるように進み、Et s'enfle et roule avec un prodigieux bruit.帆を膨らませ、異常な音を立てて走っていく。Et le lugubre roi sourit de voir groupees不気味な王は、400隻の船に集められた、Sur quatre cents navires quatre-vingt mille epees.8万人もの剣を持った兵士の姿を思い浮かべて微笑む。O rictus du vampire assouvissant sa faim!ああ、飢えを癒している吸血鬼のゆがんだ唇!Cette pale Angleterre, il la tient donc enfin!あの青ざめたイギリスを、彼はとうとう手中に収めたのだ!Qui pourrait la sauver? Le feu va prendre aux poudres.誰がイギリスを救えようか? イギリスの命運も風前の灯。Philippe dans sa droite a la gerbe des foudres;フェリペは右手に雷の束を持っている。Qui pourrait delier ce faisceau dans son poing?彼が握っている束を誰が解くことができようか?N'est-il pas le seigneur qu'on ne contredit point?この男には、誰も口答えすることができないのではないか?N'est-il pas l'heritier de Cesar? le Philippe彼はシーザーの後継者ではないか? ガンジス川からDont l'ombre immense va du Gange au Pausilippe?オジッリポの丘まで巨大な影で覆いつくしているフェリペではないか?Tout n'est-il pas fini quand il a dit: Je eux!「俺はこうしたい!」と言えば、すべてに決着がついてしまう。N'est-ce pas lui qui tient la victoire aux cheveux?勝利の女神の髪を握っているのはその男ではないか?N'est-ce pas lui qui lance en avant cette flotte,あの艦隊を前に進ませているのも、Ces vaisseaux effrayants dont il est le pilote行く先を指示して、あの恐ろしい艦隊を動かしているのも、Et que la mer charrie ainsi qu'elle le doit?そして海が使命として艦隊を運んでいるのも、あの男ではないか?Ne fait-il pas mouvoir avec son petit doigt彼は小指一本で、あの翼を持った黒い竜ともいえる、Toits ces dragons ailes et noirs, essaim sans nombre?無数の軍艦の群れを動かしているのではないか?N'est-il pas, lui, le roi? n'est-il pas l'homme sombre彼こそが支配者ではないか? あの怪物のような竜巻もA qui ce tourbillon de monstres obeit?従うという、あの暗い男ではないか?風前の灯というイギリスの命運はどうなるのでしょうね。明日のブログで決着します。(続く)
2008.06.06
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▼ユゴーの薔薇7(王女の薔薇3)今日は冷酷なフェリペ2世の描写が、これでもかこれでもかというほど続きます。確かにスペインがキリスト教の名の下で、この地球の歴史上行った数々の残虐・野蛮行為は悪名高いものですが、フェリペ2世はその権化みたいな存在なのでしょうか。Philippe deux etait une chose terrible.フェリペ2世は恐ろしい存在だった。Iblis dans le Coran et Cain dans la Bibleコーランに出てくる悪魔も、聖書のカインも、Sont a peine aussi noirs qu'en son Escurial亡霊のような皇帝から生まれた、エスコリアル宮殿に住む royal spectre, fils du spectre imperial.この亡霊の王とは、腹黒さの点で辛うじて肩を並べられるぐらいだ。Philippe deux etait le Mal tenant le glaive.フェリペ2世は剣を手にした悪の化身だった。Il occupait le haut du monde comme un reve.彼は世界の上流階級を夢のように支配した。Il vivait; nul n'osait le regarder; l'effroi彼は生きていたが、だれもあえて彼を見ようとはしなかった。Faisait une lumiere etrange autour du roi;恐れる者は王の周りに奇怪な光を見出した。On tremblait rien qu'a voir passer ses majordomes;彼の召使頭が通り過ぎるだけで、みな震え慄いた。Tant il se confondait, aux yeux troubles des hommes,恐怖に駆られた人間の目には、王は底なしの淵やAvec l'abime, avec les astres du ciel bleu!青空の星々と見分けがつかなかった!Tant semblait grande a tous son approche de Dieu!それほど彼は神に近い存在に思われたのだ!Sa volonte fatale, enfoncee, obstinee,不可避で、深く刻まれた、執拗な彼の意志は、Etait comme un crampon mis sur la destinee;まるで運命に打ち込まれた鎹のようであった。Il tenait l'Amerique et l'Inde, il s'appuyait彼はアメリカと西インド諸島を手中にし、Sur l'Afrique, il regnait sur l'Europe, inquietアフリカに覆いかぶさり、ヨーロッパを支配していた。Seulement du cote de la sombre Angleterre;唯一つ気掛かりなのは、あの暗いイギリスだ。Sa bouche etait silence et son ame mystere;彼の唇は何も語らず、彼の魂は謎だらけ。Son trone etait de piege et de fraude construit;その王権は罠と欺瞞で作られていた。Il avait pour soutien la force de la nuit;彼は心の支えとして、闇の力を頼りにした。L'ombre etait le cheval de sa statue equestre.暗い影が、王の騎馬像の馬であった。Toujours vetu de noir, ce tout-puissant terrestreこの地上における絶対的支配者は、常に黒い服を身にまとい、Avait l'air d'etre en deuil de ce qu'il existait;自分自身の喪に服しているようだった。Il ressemblait au sphinx qui digere et se tait,彼は獲物を食べては黙り込むスフィンクスに似ていた。Immuable; etant tout, il n'avait rien a dire.何事にも動ぜず、自分がすべてであったから、何も言う必要も無かった。Nul n'avait vu ce roi sourire; le sourire誰もこの王が笑うのを見たことがなかった。そもそもN'etant pas plus possible a ces levres de ferこの鉄の唇に笑みなど浮かぶはずもなかった。Que l'aurore a la grille obscure de l'enfer.それは地獄の暗い鉄格子に、曙の光が差し込むようなものだ。S'il secouait parfois sa torpeur de couleuvre,時々、蛇のようにけだるい体を動かすことがあっても、C'etait pour assister le bourreau dans son oeuvre,それは死刑執行人の仕事を助けるためであった。Et sa prunelle avait pour clarte le reflet彼の目の中で光るのは、火刑台の炎の照り返し。Des buchers sur lesquels par moments il soufflait.彼は時々、その炎が燃え上がるようにと息を吹きかける。Il etait redoutable a la pensee, a l'homme,彼は、思想や人間や生命や進歩や権利にとってA la vie, au progres, au droit, devot a Rome;恐るべき敵であったが、ローマ教皇だけには献身的であった。C'etait Satan regnant au nom de Jesus-Christ;彼はイエス・キリストの名の下に世界を支配している悪魔であった。Les choses qui sortaient de son nocturne esprit闇夜の彼の魂から放たれるものは、Semblaient un glissement sinistre de viperes.マムシが不気味に這う姿に似ていた。L'Escurial, Burgos, Aranjuez, ses repaires,エスコリアル、ブルゴス、アランフェスといった彼の棲家では、Jamais n'illuminaient leurs livides plafonds;その鉛色の天井に明かりが灯ったことがなかった。Pas de festins, jamais de cour, pas de bouffons;祝宴もなければ、王宮の華やかさもなく、道化もいなかった。Les trahisons pour jeu, l'auto-da-fe pour fete.裏切りが遊びであり、異端者の火刑が祭りであった。Les rois troubles avaient au-dessus de leur tete動揺する諸国の王たちの頭上では、Ses projets dans la nuit obscurement ouverts;彼の企みが夜の闇の中で密かに花開いていた。Sa reverie etait un poids sur l'univers;彼の夢は世界中の人々にのしかかる重圧だった。Il pouvait et voulait tout vaincre et tout dissoudre;彼はすべてを征服し、破壊することができたし、またそう望んでもいた。Sa priere faisait le bruit sourd d'une foudre;彼の祈りは、響きの鈍い雷鳴のようだった。De grands eclairs sortaient de ses songes profonds.巨大な雷光が彼の胸の奥底から放たれていた。Ceux auxquels il pensait disaient: Nous etouffons.彼に思われただけで、人々はよくこう言った。「息が詰まりそうだ」Et les peuples, d'un bout a l'autre de l'empire,その帝国の国民はだれもかれもが、Tremblaient, sentant sur eux ces deux yeux fixes luire.その両目の光が自分に注がれていると感じて、身を振るわせた。Charles fut le vautour, Philippe est le hibou.カルロスが強欲なハゲタカなら、フェリペは陰険なフクロウだ。いかがでしょうか。ユゴーはかなりフェリペ2世を陰湿で残忍な人物に描いていますね。19世紀のフランス人が16世紀のスペイン王をどのように見ていたかがわかって興味深いです。フランスとスペインは昔から戦争を繰り返していました。最後の行に出てくるカルロスは、フェリペ2世の父親カルロス1世(在位1519~56年)のことです。スペイン王国の繁栄のために幾多の戦争を起こした王でもあります。次回はいよいよ、スペインの無敵艦隊とイギリスの艦隊が戦闘で激突します。果たして戦争の行方は・・・。(続く)
2008.06.05
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▼ユゴーの薔薇6(王女の薔薇2)かわいらしい幼い王女の描写の後は、王のフェリペ2世が登場します。でもこの王のことを、ユゴーは暗くておぞましい人物として描くんですね。その明と暗の対比をお楽しみください。Le jour s'eteint; les nids chuchotent, querelleurs;日の光は消え、鳥の巣では喧嘩好きな雛たちが騒ぎ出す。Les pourpres du couchant sont dans les branches d'arbre;夕暮れの茜色が木の枝々を染める。La rougeur monte au front des deesses de marbre大理石の女神像の額も赤くなり、Qui semblent palpiter sentant venir la nuit;まるで夜の訪れを感じて胸を高鳴らせているようだ。Et tout ce qui planait redescend; plus de bruit,空を滑空するすべてのものは地上に降りてくる。もはや物音も聞こえず、Plus de flamme; le soir mysterieux recueille光も見えない。神秘の夕べは、太陽を波の下に、Le soleil sous la vague et l'oiseau sous la feuille.小鳥を葉陰へと仕舞い込んでしまう。Pendant que l'enfant rit, cette fleur a la main,花を手にして、少女が笑っている間に、Dans le vaste palais catholique romain日の光を浴びると司教の冠のように見えるDont chaque ogive semble au soleil une mitre,尖頭アーチ状天井のローマカトリック風の広大な宮殿では、Quelqu'un de formidable est derriere la vitre;窓ガラスの後ろに恐るべき人物の姿があった。On voit d'en bas une ombre, au fond d'une vapeur,下から見上げると、濃い靄の深みに、一つの人影がDe fenetre en fenetre errer, et l'on a peur;窓から窓へとさまよっているのが見え、人々をぞっとさせる。Cette ombre au meme endroit, comme en un cimetiere,その人影は、墓地の彫像のように、ひとところにたたずみ、Parfois est immobile une journee entiere;時には一日中、じっと動かずにいることもある。C'est un etre effrayant qui semble ne rien voir;この恐ろしい人物には、周囲の様子がまったく見えないようだ。Il rode d'une chambre a l'autre, pale et noir;その男は、暗い青ざめた顔をして、部屋から部屋へと渡り歩く。Il colle aux vitraux blancs son front lugubre, et songe.彼は白いステンドグラスに陰鬱な額を押し当て、物思いにふける。Spectre bleme! Son ombre aux feux du soir s'allonge;青白い幽霊だ! 彼の影は夕日を浴びて長く伸びている。Son pas funebre est lent, comme un glas de beffroi;彼の足取りは陰気で遅く、鐘楼の弔いの鐘のようだ。Et c'est la Mort, a moins que ce ne soit le Roi.もし王でないなら、死神にしか思えない。C'est lui; l'homme en qui vit et tremble le royaume.それは王であった。王国がその男の中で生き、おののいている。Si quelqu'un pouvait voir dans l'oeil de ce fantome,今この瞬間、肩を壁に持たせて立っている、Debout en ce moment l'epaule contre un mur,その亡霊のごとき王の瞳の中に見えるもの、Ce qu'on apercevrait dans cet abime obscur,その暗い深淵の中に見えるものと言えば、Ce n'est pas l'humble enfant, le jardin, l'eau moiré幼子のことでもなければ、庭園でもなく、Refletant le ciel d'or d'une claire soiree,晴れた日の夕暮れの黄金の空を映す、きらめく水面でもない。Les bosquets, les oiseaux se becquetant entre eux.また、木立でもなければ、くちばしをつつき合う鳥たちでもない。Non; au fond de cet oeil, comme l'onde vitreux,そうだ、そのどんよりした水のような瞳の底に映っているもの、Sous ce fatal sourcil qui derobe a la sonde深い海のようなその瞳を時折曇らせるCette prunelle autant que l'ocean profonde,不吉な眉の下にうかがえるものと言えば、Ce qu'on distinguerait, c'est, mirage mouvant,それは動く蜃気楼、Tout un vol de vaisseaux en fuite dans le vent,風を受けて疾駆する帆船の飛翔。Et, dans l'ecume, au pli des vagues, sous l'etoile,星空の下、波のうねりと飛沫の中で、L'immense tremblement d'une flotte a la voile,船体をすさまじく震わせる、帆を広げた艦隊。Et, la-bas, sous la brume, une ile, un blanc rocher,そして、あそこに、濃霧の彼方に姿を現すのは、Ecoutant sur les flots ces tonnerres marcher.雷鳴をとどろかせて波の上を進む艦隊に耳を澄ます、白い崖の島。Telle est la vision qui, dans l'heure ou nous sommes,そのとき、人間の支配者である冷酷な王の頭をEmplit le froid cerveau de ce maitre des hommes,満たしていたのは、そのような光景であった。Et qui fait qu'il ne peut rien voir autour de lui.だからこそ、周囲の様子など王の目にはまったく入らなかったのだ。L'armada, formidable et flottant point d'appui海に漂う、テコの支点とも言うべき、この恐るべき大艦隊、Du levier dont il va soulever tout un monde,王がこれを使って全世界をも持ち上げようという大艦隊は、Traverse en ce moment l'obscurite de l'onde;この瞬間にも、暗い波間を進んでいる。Le roi, dans son esprit, la suit des yeux, vainqueur,王は勝ち誇ったように、その姿を想像の中で追っていく。Et son tragique ennui n'a plus d'autre lueur.悲惨な心配事を晴らしてくれるのは、この艦隊の姿だけだ。この艦隊こそ、歴史に名高いスペインの無敵艦隊のことで、白い崖の島とは、イギリスのことです。無敵艦隊が波を切り裂きながらイギリスへと進攻する光景が浮かんできますね。(続く)オールドローズの写真は夜、アップする予定です。
2008.06.04
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▼ユゴーの薔薇5(王女の薔薇1)大変長らくお待たせいたしました(待っていらした奇特な方もいらっしゃいますよね?)。薔薇シリーズの再開です。なんと今日で167回目なんですね。長いシリーズになりました。今日ご紹介するのは、ヴィクトル・ユゴーの「王女の薔薇」です。「眠れるボアズ」と同様に、『諸世紀の伝説(La Legende des Siecles)』に収録されています。LA ROSE DE L'INFANTE(王女の薔薇)Elle est toute petite, une duegne la garde.彼女はとても幼いので、付き添いの老婆が彼女を守っている。Elle tient a la main une rose, et regarde.彼女は手に一輪の薔薇を持って、じっと見つめている。Quoi? que regarde-t-elle? Elle ne sait pas. L'eau,何を? 彼女は何を見つめているのか? 彼女は知らない、Un bassin qu'assombrit le pin et le bouleau;水を、松や白樺が影を落とす池を。Ce qu'elle a devant elle; un cygne aux ailes blanches,彼女の前では、1羽の白鳥が白い羽根を休め、Le bercement des flots sous la chanson des branches,そよ風にさやぐ枝の下で波が静かに揺れ、Et le profond jardin rayonnant et fleuri.光と花にあふれた奥行きのある庭園が広がっている。Tout ce bel ange a l'air dans la neige petri.その美しい天使のような少女は、まるで雪の精。On voit un grand palais comme au fond d'une gloire,目に映るのは、栄光にあふれたような豪華な宮殿、Un parc, de clairs viviers ou les biches vont boire,庭園、雌鹿たちが水を飲みに来る澄み切った生簀、Et des paons etoiles sous les bois chevelus.そして、こんもりと茂った森の下で星々をちりばめたような羽根を広げる孔雀たち。L'innocence est sur elle une blancheur de plus;無垢な彼女はいっそう清らかに見える。Toutes ses graces font comme un faisceau qui tremble.優雅さという優雅さがすべて、そよぎながら集まったかのようだ。Autour de cette enfant l'herbe est splendide et semble少女の周りでは草が輝き、Pleine de vrais rubis et de diamants fins;本物のルビーと綺麗なダイヤに飾られているように見える。Un jet de saphirs sort des bouches des dauphins.樋嘴(ひはし)の口からはサファイアがほとばしる。Elle se tient au bord de l'eau; sa fleur l'occupe.彼女は水辺に立ち、薔薇の花に気を取られている。Sa basquine est en point de Genes; sur sa jupe彼女の胴着はジェヴァのレース編み。スカートに織り込まれたUne arabesque, errant dans les plis du satin,アラベスク模様は、サテンのひだの間をさまよいながら、Suit les mille detours d'un fil d'or florentin.フィレンツェ金糸の無数のうねりを追っていく。La rose epanouie et toute grande ouverte,壺の口のような新しい蕾から飛び出ながら、Sortant du frais bouton comme d'une urne ouverte,今まさに咲き誇っているその薔薇の花は、Charge la petitesse exquise de sa main;彼女のかわいい小さな手を覆いつくしている。Quand l'enfant, allongeant ses levres de carmin,彼女が赤い唇を突き出しながら、Fronce, en la respirant, sa riante narine,笑みをたたえた鼻にしわを寄せて、その薔薇の香りを嗅ぐとき、La magnifique fleur, royale et purpurine,その堂々とした緋色の素晴らしい花はCache plus qu'a demi ce visage charmant,彼女の魅力的な顔をほとんど隠してしまうので、Si bien que l'oeil hesite, et qu'on ne sait commentそれを見る者はみな、遊んでいる彼女とDistinguer de la fleur ce bel enfant qui joue,花の区別ができなくなり、戸惑ってしまう、Et si l'on voit la rose ou si l'on voit la joue.薔薇を見ているのか、それとも、彼女の頬を見ているのか、と。Ses yeux bleus sont plus beaux sous son pur sourcil brun.彼女の青い瞳は、清らかな茶色い眉の下で、より一層美しい。En elle tout est joie, enchantement, parfum;彼女の周りは、喜びと魅力と芳香で満ちている。Quel doux regard, l'azur! et quel doux nom, Marie!紺碧の空のような、なんと優しい眼差し! そしてなんと優しい名前、マリー!Tout est rayon: son oeil eclaire et son nom prie.すべてが輝いている。彼女の瞳は光を放ち、彼女の名前は祝福を受ける。Pourtant, devant la vie et sous le firmament,しかしながら、これからの人生を前にして、大空の下にたたずむ少女はPauvre etre! elle se sent tres grande vaguement;かわいそうな人! 漠然とではあるが、自分がとても偉い女性だと感じている。Elle assiste au printemps, a la lumiere, a l'ombre,彼女の眼前に広がっているものは、光と影が織りなす春の景色、Au grand soleil couchant horizontal et sombre,地平線へと暗く沈んでいく大きな夕陽、A la magnificence eclatante du soir,光り輝く壮麗な夕暮れの世界、Aux ruisseaux murmurants qu'on entend sans les voir,目に見ることはできない小川のせせらぎ、Aux champs, a la nature eternelle et sereine,野原の景色、穏やかで永遠に続く自然。Avec la gravite d'une petite reine;小さい王妃のような厳かな態度で、これらの自然に向き合っていた。Elle n'a jamais vu l'homme que se courbant;彼女は服従する男しか見たことがなかった。Un jour, elle sera duchesse de Brabant;いつの日か、彼女はブラバント公妃となり、Elle gouvernera la Flandre ou la Sardaigne.フランドルかサルデーニャを治めるだろう。Elle est l'infante, elle a cinq ans, elle dedaigne.彼女は王女であり、五歳であったが、すでに世の中を侮っている。Car les enfants des rois sont ainsi; leurs fronts blancs王家の子供たちとは皆、このようなものだ。白い額には、Portent un cercle d'ombre, et leurs pas chancelants暗い影の輪が刻まれ、おぼつかない足取りは、Sont des commencements de regne. Elle respire来るべき統治の始まりを告げている。王女は、彼女のためにSa fleur en attendant qu'on lui cueille un empire;皆が帝国を摘み取ってくれるのを待ちながら、花の香りを嗅いでいる。Et son regard, deja royal, dit: C'est a moi.すでに女王の威厳を備えた彼女の眼差しは、こう言っている、この花は私のものよ、と。Il sort d'elle un amour mele d'un vague effroi.おぼろげな恐怖の混じった愛情が、王女から発せられている。Si quelqu'un, la voyant si tremblante et si frele,もし誰かが、こんなにも震えて、か弱そうな王女を見て、Fut-ce pour la sauver mettait la main sur elle,手で体に触れようものなら、それが彼女を救う目的であっても、Avant qu'il eut pu faire un pas ou dire un mot,一歩も踏み出さないうちに、一言も話しかけないうちに、Il aurait sur le front l'ombre de l'echafaud.処刑台の影が落ちてくるのを感じただろう。La douce enfant sourit, ne faisant autre choseそのかわいい王女は微笑んでいる。ただ、Que de vivre et d'avoir dans la main une rose,生きて、手には一輪の薔薇を持ち、Et d'etre la devant le ciel, parmi les fleurs.空の下、花々に囲まれてそこにいる。ここまでがイントロみたいなものでしょうか。広大な庭園で薔薇を手にたたずむ少女は、無敵艦隊を擁する16世紀のスペイン王フェリペ2世の末娘マリー(マリア)のことです。さて、彼女に何が起きるのか。歴史と照らし合わせながら、ユゴーの詩を読み解いていきましょう。(続く)後で薔薇の写真をアップする予定です。
2008.06.03
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▼ユゴーの薔薇4(眠れるボアズ4)ユゴーの「眠れるボアズ」について若干の補足説明をします。第9節ヤコブが眠ったように、ユディットが眠ったように、ボアズは目を閉じて、葉陰に横たわっていた。そのとき、天の扉が細めに開かれ、そこから彼の頭上へと、一つの夢が降りてきた。ヤコブは『旧約聖書』の「創世記」に出てくる人物ですね。ヤコブは地上から天にまで伸びるはしごに沿って天使たちが昇ったり降りたりしているさまを夢の中で見て、「お前の子孫は繁栄し祝福を受けるだろう」という主の声を聞いたと書かれています。この記述が天の扉から夢が降りてきたという表現につながったのでしょう。でもこれって、UFOの扉が開いて階段が伸びてきて、そこを宇宙人が昇り降りしていた場面のことを言っているのではないか、と思ってしまいますね。ユディットは『旧約聖書』に出てくる寡婦なのですが、彼女の見た夢については記されていません。ユディットは民族の危機を救うため、自ら進んで敵軍になぐり込み、敵将の首を切って持ち帰ったとされる勇猛な女性です。ジャンヌ・ダルクの原型みたいな人物ですね。第10節それはこのような夢だった。ボアズが見たのは一本の樫の木、それが彼の腹から生えて、青い空まで届いていた。一つの家系が、長い鎖のようにその木を昇って行き、一人の王が下で歌い、上では一人の神が死んでいた。お腹から樫の木が生えて天まで伸びていったという表現は、夢の中とは言え面白いですね。この樫の木は家系図を象徴しています。英語で家系図はまさにtree(木)と言いますね。中世のころのヨーロッパのキリスト教的絵画には、よく体から木が生えて家系図になるという構図が使われていましたから、西洋人にとってはそれほど奇抜な表現ではなかったようです。「一人の王」とは、ボアズのひ孫に当たるダビデ、紀元前1000年ごろから40年間君臨したとされる古代イスラエル第二代の王のことです。そして木の上の方で死んでいた「一人の神」とは、そのダビデよりさらに28代も後に生まれたとされるイエス・キリストのことです。そのことは『新約聖書』の「マタイ伝」に詳しく書かれています。まあ、一種の権威付けのようなものですが、家系図を永延と語る点については、竹内文書や記紀も似たり寄ったりです。第11節ボアズは心の中でつぶやいた。「どうしてこのようなものが、私の腹から出て来たのか?私の年齢はすでに80歳を超え、私には息子もいないし、妻もすでに亡くなっている。「ルツ記」にはボアズがルツを娶ったときの年齢は書かれていませんが、ユゴーはなんと80歳と設定していますね。ルツはまだ20代でしょうか。もしかしたら10代後半かもしれません。年の差60歳。神の粋な計らい? ユゴーは自分の老後の理想をボアズに重ね合わせたのだとみる評論家もいるようです(笑)。若いルツに刺激されて、冬の白樺のように衰えていたものが、明け方の勝利の美酒のようになったそうです。もうご勝手にという感じですね。第15節このようにボアズは、夢と恍惚の中で語った、まだ眠気に溺れている眼を神の方へ向けながら。ヒマラヤ杉は、根元の一本の薔薇に気づかない。ボアズもまた、足元の一人の女に気づかなかった。ここで薔薇が登場しますね。ボアズとルツの関係をヒマラヤ杉と薔薇の関係にたとえています。ここでの薔薇は、身近にあって気づかない大事なもの、というような意味でしょうか。比較する表現が巧みで、美しいです。形と色がすぐに思い浮かぶので、心に強いイメージが残りますね。こうしてユゴーは、ボアズやルツの心理描写をちりばめながら、美しい田舎の風景を描写していきます。大自然の中の静かな夜の雰囲気を見事に描いていますね。最後にルツが思い描く、夜空の星々の輝きの描写も、素晴らしいです。この詩はユゴーの傑作の一つに数えられています。ヴィクトル・ユゴーという薔薇です。写真は先週の土曜日に撮ったものですが、まだまだこれからという感じですね。有名人の薔薇のコーナーにカトリーヌ・ドヌーヴと並んで植えられています。咲いたときに再び写真を紹介しますね。(続く)
2008.04.30
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▼ユゴーの薔薇3(眠れるボアズ3)ちょっと間が空きましたが、ユゴーの「眠れるボアズ」の後半です。「ルツ記」のあらすじを参考にしながら、お読みください。* * *Comme dormait Jacob, comme dormait Judith, Booz, les yeux fermes, gisait sous la feuillee. Or, la porte du ciel s'etant entrebailleeAu-dessus de sa tete, un songe en descendit. ヤコブが眠ったように、ユディットが眠ったように、ボアズは目を閉じて、葉陰に横たわっていた。そのとき、天の扉が細めに開かれ、そこから彼の頭上へと、一つの夢が降りてきた。Et ce songe etait tel, que Booz vit un chene Qui, sorti de son ventre, allait jusqu'au ciel bleu ; Une race y montait comme une longue chaine ; Un roi chantait en bas, en haut mourait un dieu. それはこのような夢だった。ボアズが見たのは一本の樫の木、それが彼の腹から生えて、青い空まで届いていた。一つの家系が、長い鎖のようにその木を昇って行き、一人の王が下で歌い、上では一人の神が死んでいた。Et Booz murmurait avec la voix de l'ame :« Comment se pourrait-il que de moi ceci vint ? Le chiffre de mes ans a passe quatre-vingt, Et je n'ai pas de fils, et je n'ai plus de femme. ボアズは心の中でつぶやいた。「どうしてこのようなものが、私の腹から出て来たのか?私の年齢はすでに80歳を超え、私には息子もいないし、妻もすでに亡くなっている。< Voila longtemps que celle avec qui j'ai dormi, O Seigneur ! a quitte ma couche pour la votre ; Et nous sommes encor tout meles l'un a l'autre, Elle a demi vivante et moi mort a demi. 共に眠った妻が私の寝床を去って、おお、主よ! あなたの御許へ行ってから久しくなります。今でも私たちは、お互いに深く結ばれ合っています。妻は半ば生きており、私は半ば死んでいます。<Une race naitrait de moi ! Comment le croire ? Comment se pourrait-il que j'eusse des enfants ? Quand on est jeune, on a des matins triomphants, Le jour sort de la nuit comme d'une victoire ; 一つの家系が私から生まれる! そんなことが信じられようか?どうして私に子供ができるというのか?若いときは、勝利の朝を迎えることもある、勝利の美酒のように夜から昼が飛び出てくる。<Mais, vieux, on tremble ainsi qu'a l'hiver le bouleau. Je suis veuf, je suis seul, et sur moi le soir tombe, Et je courbe, o mon Dieu ! mon ame vers la tombe, Comme un boeuf ayant soif penche son front vers l'eau.>しかし老いては、冬の白樺のように震えるばかり。私はやもめで孤独の身、私の上に黄昏が落ちてきて、おお、神よ! 喉の渇いた雄牛が顔を水辺へ向けるように私は自分の魂を墓の方へと傾けています」Ainsi parlait Booz dans le reve et l'extase, Tournant vers Dieu ses yeux par le sommeil noyes ; Le cedre ne sent pas une rose a sa base, Et lui ne sentait pas une femme a ses pieds. このようにボアズは、夢と恍惚の中で語った、まだ眠気に溺れている眼を神の方へ向けながら。ヒマラヤ杉は、根元の一本の薔薇に気づかない。ボアズもまた、足元の一人の女に気づかなかった。* * *Pendant qu'il sommeillait, Ruth, une moabite, S'etait couchee aux pieds de Booz, le sein nu, Esperant on ne sait quel rayon inconnu, Quand viendrait du reveil la lumiere subite.ボアズがまどろんでいる間に、モアブの女ルツが、胸もあらわに、ボアズの足元に横たわっていた、目覚めと共に突然の光がやってきたときに、何か知らない光明を見出すことを期待しながら。Booz ne savait point qu'une femme etait la, Et Ruth ne savait point ce que Dieu voulait d'elle, Un frais parfum sortait des touffes d'asphodele ;Les souffles de la nuit flottaient sur Galgala. ボアズは、そこに一人の女がいることを知らなかった。ルツも、神が彼女に何を求めているかを知らなかった。さわやかな香りがツルボランの茂みから流れて来て、夜の息吹はガルガラの丘の上を漂っていた。L'ombre etait nuptiale, auguste et solennelle ; Les anges y volaient sans doute obscurement, Car on voyait passer dans la nuit, par moment, Quelque chose de bleu qui paraissait une aile. 闇は、高貴で厳粛な婚礼の雰囲気をかもし出していた。天使たちもおそらく、密やかに舞っていたのだろう、というのも、夜の間、時折、翼のような青いものが飛び交うのが見えたのだから。La respiration de Booz qui dormait, Se melait au bruit sourd des ruisseaux sur la mousse. On etait dans le mois où la nature est douce, Les collines ayant les lys sur leur sommet. 眠っているボアズが立てる寝息は、苔を洗う小川のせせらぎの音に混じっていた。それは自然が心地よい季節であり、丘という丘の頂にはユリが咲き誇っていた。Ruth songeait et Booz dormait, l'herbe etait noire ; Les grelots des troupeaux palpitaient vaguement ; Une immense bonté tombait du firmament ; C'etait l'heure tranquille ou les lions vont boire. ルツは夢を見て、ボアズは眠っていた。草は黒々と茂り、羊の群れは、かすかに鈴の音を響かせていた。圧倒的な優しさが大空から降り注いでいた。ライオンが水を飲みに行く、そんな静かな時刻だった。Tout reposait dans Ur et dans Jerimadeth ; Les astres emaillaient le ciel profond et sombre ; Le croissant fin et clair parmi ces fleurs de l'ombre Brillait a l'occident, et Ruth se demandait, ウルでもエリマデトでも、すべてが安らいでいた。底知れぬ暗い空には、星々がちりばめられ、細く明るい三日月は、この闇に咲く花々に囲まれて、西の空に輝いていた。そのときルツはふと思った、Immobile, ouvrant l'oeil a moitie sous ses voiles, Quel dieu, quel moissonneur de l'eternel ete Avait, en s'en allant, negligemment jete Cette faucille d'or dans le champ des etoiles. 身動きもせず、ヴェールに覆われた目を半ば開きながら。どのような神が、永遠の夏のどのような刈入れ人が、去り際に、無造作に放り出していったのだろう、星々の畑の中に輝く、あの黄金の鎌を。ユゴーは叙情的に優れた詩を書きますね。若干の説明が必要なところもありますが、それは明日のブログで紹介します。(続く)
2008.04.28
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▼ユゴーの薔薇2(眠れるボアズ2)「眠れるボアズ」の後半に入る前に、「ルツ記」のあらすじをご紹介しましょう。おそらくキリスト教文化圏の方には馴染みのある話なのでしょうが、非キリスト教文化圏の日本人には「ルツの物語」と言ってもピンと来ませんものね。「ルツ記」は4章しかなく、5~10分もあれば全部読めてしまいます。物語は簡単です。士師(さばきづかさ)が世を治めていたころ、飢饉があったので、エリメリクという男が妻ナオミ(日本人の名前みたいですね。「楽しみ」という意味だそうです)と二人の息子を連れて、ベツレヘムを去り、モアブの地へと移住します。ところがエリメリクは亡くなり、息子二人も現地の女性と結婚した後、相次いで死んでしまいます。残されたのは、ナオミと二人の義理の娘です。途方に暮れたナオミは、故郷のベツレヘムの飢饉が去ったことを知ると、故郷に帰ることを決意します。そのとき、義理の娘の一人はモアブに残り、もう一人の義理の娘ルツは姑であるナオミと一緒にベツレヘムへ行くことになりました。二人はベツレヘムに無事到着しますが、そこで生きていかなければなりません。そこでルツはナオミに言われて、麦畑で落穂拾いをします。するとその畑がたまたま、エリメリクの親戚の中で裕福であったボアズの畑だったんですね。ボアズは、ルツがナオミと一緒にモアブの地から一緒に帰ってきたことを知ると、ルツの姑思いの生き方に心を打たれます。そこで自分の畑で落穂拾いをすることを認めたうえで、足りない場合は「わざと麦の穂を落としてやってくれ」と、従僕に命じます。その話をルツがナオミにすると、ナオミは一計を案じます。なんとボアズに夜這いをかけるようにルツに命じるんですね。もちろん「ルツ記」には夜這いをしろと言ったとは書かれておりません。皆が寝静まったころ、ボアズの寝床を見つけて、「その足のところをまくって、そこに寝なさい」とルツに言ったことになっています。どう考えても、色仕掛けでボアズを落とせと言っているように聞こえます。ルツは言われたとおりにボアズの寝床に入り込みます。夜中に目覚めたボアズは、自分の足元に一人の娘が眠っているのに気づいて驚きます。名前を尋ねると娘は「あなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です」と答えました。おそらくボアズは、健気なルツのことを愛しく思ったのでしょう。その場では手を出さなかったようですが、翌日親戚の人と町の長老を集めて、会議を開きます。その場でボアズは、故エリメリクのすべてのものをナオミから買い取り、また死んだものの名が途絶えないよう、エリメリクの息子の嫁であったルツをもらい受け、妻とすることを宣言します。こうしてボアズは、落穂拾いの貧しい女であるルツを妻に娶り、男の子オベデが産まれます。そのオベデからエッサイが生まれ、エッサイから古代イスラエルの王ダビデが生まれたのだと「ルツ記」は結んでいます。(続く)「ルツ記」とは関係ありませんが、海辺のカラスと富士山です。4月1日の「富士100景」からです。カラスの足跡はすでに紹介済みでしたね。
2008.04.26
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▼ユゴーの薔薇1(眠れるボアズ1)いや~、お待たせしました(?)。薔薇シリーズの再開です。ボードレールと同時代に活躍し、ボードレールとは対照的に著述家として大成功したヴィクトル・ユゴー。日本でも『レ・ミゼラブル(ああ、無情)』『ノートルダムのせむし男』を書いたフランスの文豪として知られています。でもほとんど知られていない、あるいはほとんど読まれていないと思いますが、ユゴーは膨大な詩を残し、ロマン派の総帥として19世紀最大の詩人と目されてもいるんですね。ユゴーはどのような詩を書いたのでしょうか。彼の生い立ちや人生について語る前に、実際に彼の詩を読んでみましょう。タイトルは「眠れるボアズ」。『旧約聖書』の「ルツ記」に材を得ています。長いので二回にわけて紹介します(薔薇が出てくるのは後半部分です)。Booz Endormi(眠れるボアズ)Booz s'etait couche de fatigue accable ;Il avait tout le jour travaille dans son aire, Puis avait fait son lit a sa place ordinaire ; Booz dormait aupres Des boisseaux pleins de ble. ボアズは疲労困憊して横になっていた。一日中、彼は麦打ち場で働いていたのだ。そしていつもの場所に寝床をしつらえて、ボアズは小麦であふれた大枡のそばで眠っていた。Ce vieillard possedait des champs de bles et d'orge, Il etait, quoique riche, a la justice enclin ; Il n'avait pas de fange en l'eau de son moulin, Il n'avait pas d'enfer dans le feu de sa forge. この老人は、大麦や小麦の畑をいくつか持っていた。彼は裕福ではあるけれど、正しい心の持ち主だった。彼の水車場の水は泥で汚れておらず、彼の鍛冶場の炎は地獄の影を宿していなかった。Sa barbe etait d'argent comme un ruisseau d'avril. Sa gerbe n'etait point avare ni haineuse ; Quand il voyait passer quelque pauvre glaneuse :<Laissez tomber expres des epis>, disait-il. 彼のあごひげは、四月の小川のように銀色に輝いていた。彼の麦束は、惜しみなく、わけ隔てなく与えられた。貧しい落穂拾いの女が通りかかると、彼は「わざと麦の穂を落としてやってくれ」と言うのだった。Cet homme marchait pur loin des sentiers obliques, Vetu de probite candide et de lin blanc ; Et, toujours du cote Des pauvres ruisselant, Ses sacs de grains semblaient des fontaines publiques.この男は清き道を歩き、邪な道は遠ざけた。純真な誠実さと純白の麻を身にまとっていた。そして常に貧しい人々の方へと流れていく彼の穀物袋は、公共の泉のようであった。Booz etait bon maitre et fidele parent ; Il etait genereux, quoiqu'il fut econome; Les femmes regardaient Booz plus qu'un jeune homme, Car le jeune homme est beau, mais le vieillard est grand.ボアズはよき主人であり、親族にも忠実であった。慎ましいけれども、物惜しみはしなかった。女たちは若い男よりもボアズに心を惹かれた。若い男は美しくとも、その老人には偉大さがあったからだ。Le vieillard, qui revient vers la source premiere, Entre aux jours eternels et sort des jours changeants ; Et l'on voit de la flamme aux yeux des jeunes gens, Mais dans l'oeil du vieillard on voit de la lumiere. 原初の泉へと帰りつつあるその老人は、移ろいやすい日々を離れ、永遠の日々へと入っていく。若い男の眼には情熱の炎が見えるが、その老人の眼差しには光が見える。* * *Donc, Booz dans la nuit dormait parmi les siens ; Pres des meules, qu'on eut prises pour des decombres.Les moissonneurs couches faisaient des groupes sombres;Et ceci se passait dans des temps tres anciens. こうしてボアズはその夜、彼の仲間とともに眠っていた。崩れ落ちた家のようにも見える麦山のそばでは、刈入れをする人たちが暗い塊となって横たわっていた。これははるか昔の物語である。Les tribus d'Israël avaient pour chef un juge ; La terre, ou l'homme errait sous la tente, inquiet Des empreintes de pieds de geant qu'il voyait, Etait encor mouillee et molle du deluge. イスラエルの民は士師(さばきづかさ)を長としていた。人々はテントに暮らして大地をさまよい、巨人の足跡を目にしては不安におののいていた。その大地はまだ、あの大洪水の名残でぬかるんでいた。ここまでが、前半部分です。昔、ノアの大洪水の傷跡がまだ癒えぬころ、イスラエルの民がテント暮らしをしていて、その民の中にボアズという誠実で、貧しい者に施しを与える老人がいたとユゴーは語り出します。この詩には書かれていませんが、「ルツ記」によると、場所はベツレヘム(現在のパレスチナ自治区の一都市)です。「士師(さばきづかさ)」は、王国成立以前の古代イスラエルの政治的・軍事的指導者のことです。「ルツ記」の冒頭にも、「士師(さばきづかさ)」の記述があります。そして「貧しい落穂拾いの女」とは、モアブ出身の女ルツのことですが、どのような物語が展開するかは、明日のブログでお話します。さて、写真は山伏の行列ですが、山伏の兜巾(ときん)に注目してください。ユダヤ教徒が祈りの際に額に付ける黒い小箱のヒラクティリーと山伏の兜巾は非常によく似ており、日ユ同祖論の根拠にしばしば挙げられます。中丸薫さんによると、皇室の男子は生まれるとすぐに割礼をするそうですから、日本(皇室?)とユダヤには、何らかの関係がありそうですね。古代イスラエルの話が出たので少し脱線しました(笑)。(続く)
2008.04.25
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▼悪の華と薔薇21(ボードレールの作品と生涯)ボードレールの生涯についても、ざっと触れておきましょう。23歳で準禁治産者になって、実父の遺産を自由には使えなくなったことは、すでに述べましたね。それまでのダンディな生活ができなくなり、なおかつ自分が書いた絵画批評の小冊子の出来が悪かったためか、1845年、24歳のときに自殺未遂事件を起こします。事前に遺書を法廷後見人に送りつけて、自分は胸にナイフを突き刺して死のうとしました。ところが傷はかすり傷程度で、とても死ねるようなものではありません。だけどボードレールは気絶するんですね。やはり繊細な詩人さんです。この事件の後も、世間から見捨てられたようなボードレールの屈辱的な生活は続きます。期待した母親からの同情も十分には得られず、彼の孤独な苦悩は深まるばかりです。当時はジャンヌだけが「唯一の安らぎ」だったと、ボードレールは手紙に書いています。このころからボードレールの不満の矛先は、自分の境遇は理不尽な階級制度や抑圧的な法律にあるのだと考えるようになるんですね。その階級制度の先には、オーピック将軍という、母親を奪った義父がいたのでしょう。ボードレールは、社会主義者ピエール・ジョセフ・プルードンの急進主義的社会運動に加わります。そして1848年の二月革命に加担、王政派政府攻撃の筆陣を張ります。あわよくば、王政下で将軍の地位に上り詰めた義父を追い落とせる、あるいは亡き者にできるとの期待もありました。しかしボードレールの希望に反して、義父のオーピック将軍は革命の動乱をうまく立ち回るんですね。共和政の臨時政府が誕生すると、すぐに新政権に組します。そしてまんまとトルコ駐在大使に指名されます。落胆したボードレールは、次第に政治への関心を失っていきます。1851年にルイ・ナポレオンのクーデターが起こったのを機に政治運動と決別し、文筆業に専念するようになったようです。その中で、サバチエ夫人と知り合ったり、マリーに夢中になったりしていたわけですね。1857年に出版された『悪の華』にけちをつけられたことは、ボードレールにとっては経済的にも精神的にも大打撃でした。以後死ぬまで、厭世観や挫折感が彼を支配します。しかしその暗く彩られた人生の最後の時期に、文芸評論『1859年のサロン』や散文詩集『パリの憂鬱』といった傑作を書いてもいるんですね。『悪の華』は1861年に友人の出版業者によって再版されますが、その出版社は倒産、ボードレールもその失敗に巻き込まれ、ますます財政状態が悪くなります。1864年には、債権者の督促を逃れる目的もありベルギーへ講演旅行に出かけ、そのままベルギーで新しい生活を始めます。でも講演は不評で、全集の出版計画も頓挫します。失意のボードレールに追い討ちをかけたのは、梅毒の影響とみられる症状がひどくなってきたことです。病苦と窮乏の中にあって、祖国フランスに残してきた母親への思いも募ります。ボードレールは1866年2月、友人らとベルギーのナミュール市にある寺院を見物中に卒倒します。脳神経をやられて失語症になるんですね。急報に接した母親はボードレールをパリに連れ戻し、入院させます。しかし、もう手遅れでした。翌67年8月31日、ボードレールは46歳の生涯を閉じます。ボードレールは、パリのモンパルナス墓地に埋葬されました。偉大な詩人としては寂しい葬儀で、友人の中にはあまりにも参列者が少ないことに嘆く人もいました。その死を報じる新聞も単なる死亡記事扱いにするところが多く、この反逆の詩人はそのまま忘れ去られてしまうかに思われました。時代は変わります。ボードレールの死後30年が過ぎようとしているころには、彼の作品に対する評価がドンドン高まっていきます。20世紀になると、ボードレールの詩は、中学生により隠し読みされるようになります。世代から世代へと密かに読み継がれていたんですね。1917年には彼のすべての作品の公刊が可能となり、今日では19世紀最大の詩人に数えられています。
2008.04.16
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▼悪の華と薔薇20(レスボス後半)レズビアンの島とされた「レスボス」の後半部分です。Car Lesbos entre tous m'a choisi sur la terre Pour chanter le secret de ses vierges en fleurs, Et je fus de l'enfance admis au noir mystere Des rires effrenes meles aux sombres pleurs; Car Lesbos entre tous m'a choisi sur la terre. レスボスは、地上のすべて詩人の中から私を選んだ、花盛りの乙女たちの秘密を歌わせるために、だから私は幼少のころから、黒い秘密の園に入ることを許された、暗い涙の混ざった奔放な笑いの秘密の園に。レスボスは、地上のすべて詩人の中から私を選んだ。Et depuis lors je veille au sommet de Leucate, Comme une sentinelle a l'oeil percant et sur, Qui guette nuit et jour brick, tartane ou frigate, Dont les formes au loin frissonnent dans l'azur; Et depuis lors je veille au sommet de Leucate, それ以来、私はルカート岬の上で寝ずの番をしている、鋭く確かな目を持つ歩哨兵のように、青い海の彼方で影を震わす小型帆船、あるいはフリゲート艦を見逃すまいと昼夜を問わず見張りをする。それ以来、私はルカート岬の上で寝ずの番をしている。Pour savoir si la mer est indulgente et bonne, Et parmi les sanglots dont le roc retentit Un soir ramenera vers Lesbos, qui pardonne, Le cadavre adore de Sapho, qui partit Pour savoir si la mer est indulgente et bonne! 海が寛大で優しいかを知るために、岩の音がとどろく、すすり泣きの中で、ある晩海が、身投げしたサッフォーの崇高な亡骸を許しの島のレスボスの岸へと連れ戻してくれるのか、海が寛大で優しいかを知るために!De la male Sapho, l'amante et le poète, Plus belle que Vénus par ses mornes paleurs! ―― L'oeil d'azur est vaincu par l'oeil noir que tachete Le cercle tenebreux tracé par les douleurs De la male Sapho, l'amante et le poete! 男勝りのサッフォー、恋人にして詩人のサッフォーよ、鈍い青白さゆえに、ヴィーナスよりも美しい!――ヴィーナスの青い瞳さえ、苦悩が残した暗い縁取りの黒い瞳にはかなわなかった。男勝りのサッフォー、恋人にして詩人のサッフォーよ!―― Plus belle que Vénus se dressant sur le monde Et versant les trésors de sa serenite Et le rayonnement de sa jeunesse blonde Sur le vieil Ocean de sa fille enchante; Plus belle que Venus se dressant sur le monde! ――世界に君臨するヴィーナスよりも美しいその清明さという魂の宝玉をその金髪の若さという輝きを自分の娘に見とれる年老いた海に投げ入れた。世界に君臨するヴィーナスよりも美しい!――De Sapho qui mourut le jour de son blaspheme, Quand, insultant le rite et le culte invente, Elle fit son beau corps la pature supreme D'un brutal dont l'orgueil punit l'impiete De celle qui mourut le jour de son blaspheme. ――神を冒涜した日に死んだサッフォー、儀式とでっち上げられた信仰を侮辱しながら彼女はその美しい体を、傲慢にも不信心を罰した野蛮な獣の格好の餌食としてしまった。神を冒涜した日に死んだサッフォー。Et c'est depuis ce temps que Lesbos se lamente, Et, malgre les honneurs que lui rend l'univers, S'enivre chaque nuit du cri de la tourmente Que poussent vers les cieux ses rivages deserts. Et c'est depuis ce temps que Lesbos se lamente! そのとき以来、レスボスは嘆いているのだ、世界がかしずくという栄誉を得ながら、人気のない岸辺から空へと昇っていく苦痛の叫びに毎晩酔いつぶれる。そのとき以来、レスボスは嘆いているのだ!事実は確かではありませんが、伝説では美少女か美青年かの恋に破れたサッフォーがレスボス島のルカート岬から身投げして死んだことになっているんですね。だからこそ、選ばれた詩人のボードレールは、ルカート岬でサッフォーの亡骸が岸辺に打ち上げられないか見張っている、という状況を設定しているようです。もちろん実際は、ボードレールは怪しげなパリの売春宿街(黒い秘密の園)に若い頃から出入りして、禁断の恋を目撃してきたことを言っているのでしょうね。この詩は初版の『悪の華』の代表的な作品だったとみられています。というのも、当初ボードレールはタイトルを『レスボスの女』にしようとしたことがわかっているからです。今の時代にこの詩を読んでも、どこが背徳的かまったくわかりませんが、当時は同性愛を詩のテーマにすること自体、不謹慎なことだったようです。(続く)
2008.04.15
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▼悪の華と薔薇19(レスボス)『悪の華』には薔薇がまだまだ出てきます。「薔薇色の靴下が片方だけ、思い出のように残った」(「ある受難の女」)、「吐息までが薔薇園に吹く風のように薫る」(「シテールへのある旅」)「薔薇色と神秘的な青が織りなす夕べ」(「愛し合う男女の死」)などですが、いずれもかなり長い詩なので、ここでは省略させていただきます。さて、ここで最後になりますが、『悪の華』初版本から裁判で削除された詩を紹介しましょう。当時の公序良俗に反する禁断の作品とは、一体どのように怪しげな詩だったんでしょうね。これも長い詩なので、二回に分けて紹介します。タイトルは「レスボス」です。後で詳しく説明しますが、レスボスとはレズビアンの語源となったギリシャの島のことです。Lesbos(レスボス)Mère des jeux latins et des voluptés grecques,Lesbos, où les baisers, languissants ou joyeux, Chauds comme les soleils, frais comme les pastèques, Font l'ornement des nuits et des jours glorieux, Mère des jeux latins et des voluptés grecques, ラテン風遊戯とギリシャ風享楽の母であるレスボスよ、太陽のように熱烈で、スイカのように冷やかな、気だるい、あるいは楽しい口づけが、夜と栄光の昼を飾る島、ラテン風遊戯とギリシャ風享楽の母よ、Lesbos, où les baisers sont comme les cascades Qui se jettent sans peur dans les gouffres sans fonds, Et courent, sanglotant et gloussant par saccades, Orageux et secrets, fourmillants et profonds; Lesbos, où les baisers sont comme les cascades! レスボスよ、口づけが滝のように襲い掛かる島、その滝は恐れもせず、底なしの深遠へと飛び込んで、荒れたかと思うと静まり、ごった返したり深く沈んだり、不規則に泣きわめきながら流れ落ちる。レスボスよ、口づけが滝のように襲い掛かる島!Lesbos, où les Phrynés l'une l'autre s'attirent, Où jamais un soupir ne resta sans écho, À l'égal de Paphos les étoiles t'admirent, Et Vénus à bon droit peut jalouser Sapho!Lesbos où les Phrynés l'une l'autre s'attirent, レスボスよ、女たちがお互い惹かれあう島、ため息が絶えずため息を呼ぶ島よ、天の星たちでさえ、お前をパフォス(注:キプロス島の古名)と並べて崇め、美の女神が女詩人サッフォーを妬むのも無理はない!レスボスよ、女たちがお互い惹かれあう島、Lesbos, terre des nuits chaudes et langoureuses, Qui font qu'à leurs miroirs, stérile volupté! Les filles aux yeux creux, de leur corps amoureuses, Caressent les fruits mûrs de leur nubilité; Lesbos, terre des nuits chaudes et langoureuses, レスボスよ、暑く物憂げな夜の大地、夜は、ああ不毛の快楽よ!目に隈ができた、情欲をそそる体をした乙女たちに鏡の前で裸になった、その熟れた果実を愛撫させる。レスボスよ、暑く物憂げな夜の大地、Laisse du vieux Platon se froncer l'oeil austère; Tu tires ton pardon de l'excès des baisers, Reine du doux empire, aimable et noble terre, Et des raffinements toujours inépuisés. Laisse du vieux Platon se froncer l'oeil austère. いかめしい老プラトンには、しかめ面をさせておけ。甘美な帝国の女王よ、愛すべき、高貴な国よ、過剰なまでの口づけと、尽きることのない洗練さゆえに、お前は罪を許されるのだ。いかめしい老プラトンには、しかめ面をさせておけ。Tu tires ton pardon de l'éternel martyre, Infligé sans relâche aux coeurs ambitieux, Qu'attire loin de nous le radieux sourire Entrevu vaguement au bord des autres cieux! Tu tires ton pardon de l'éternel martyre! 永遠に続く苦痛ゆえにお前の罪は許される、その罪は、身の程知らずの心に休みなく課せられる!遠く離れた別の空の辺境にぼんやりと垣間見た、輝くような微笑に引き寄せられた心に。永遠に続く苦痛ゆえにお前の罪は許される!Qui des Dieux osera, Lesbos, être ton juge Et condamner ton front pâli dans les travaux, Si ses balances d'or n'ont pesé le déluge De larmes qu'à la mer ont versé tes ruisseaux? Qui des Dieux osera, Lesbos, être ton juge? レスボスよ、どのような神がお前を裁けようか、労苦で青ざめたお前の額をどのような神が非難できようか、お前の小川を通って海へと流れる涙の洪水を金の秤で重さを量ったりしないのならば?レスボスよ、どのような神がお前を裁けようか?Que nous veulent les lois du juste et de l'injuste ? Vierges au coeur sublime, honneur de l'archipel, Votre religion comme une autre est auguste, Et l'amour se rira de l'Enfer et du Ciel! Que nous veulent les lois du juste et de l'injuste? 正義の法も邪の法も私たちに意味があるだろうか?崇高な心を持った処女たち、島々の誉れよ、お前たちの宗教も、他の宗教と同じように尊厳があり、恋愛するのに地獄も天国も関係ないのだから!正義の法も邪の法も私たちに意味があるだろうか?ここでちょうど半分ぐらいです。後半は明日紹介しますが、ギリシャの女流詩人サッフォーとレスボスについて説明しておきましょう。サッフォーは紀元前6,7世紀に活躍した古代ギリシャの詩人です。生まれはトルコに近いエーゲ海に浮かぶレスボス島。裕福な生まれで、アンドロス島出身の富裕な男と結婚して少なくとも娘を一人もうけています。レスボス島の上流社会に属し、若い女性を集めてお茶会のような会合を開き、そこで詩を発表したり教えたりしていたようです。女子教育の元祖的存在ですね。その詩の中に、若い女性に対する穏やかで、ときに激しい恋慕が詠った詩編があることから、サッフォーとその仲間が同性愛者であるとみる研究家は多いようです。そのため後世、レスボス島の女という意味でレズビアン(女性同性愛者)という言葉が生まれたんですね。また、サッフォーから派生した言葉としてサフィズム(女性同性愛)という言葉もあります。ボードレールは、そうしたレスボス島の大らかな恋愛について、プラトンが眉をひそめているというようなことを書いていますが、実はプラトンはサッフォーの精神性や詩を高く評価していたようです。そのプラトンですら、眉をひそめる恋愛行為という意味で使ったのでしょうか。(続く)
2008.04.14
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▼悪の華と薔薇18(未明の薄明かり)これまで紹介した詩編は『悪の華』の「憂鬱と理想」からでしたが、今日紹介する、薔薇がでてくる詩は「パリの描景」からです。タイトルは「未明の薄明かり」です。Le Crépuscule du Matin(未明の薄明かり)La diane chantait dans les cours des casernes,Et le vent du matin soufflait sur les lanternes.起床ラッパが兵舎の庭に響き渡り、街燈に朝の風が吹きつけていた。C'était l'heure où l'essaim des rêves malfaisantsTord sur leurs oreillers les bruns adolescents;Où, comme un oeil sanglant qui palpite et qui bouge,La lampe sur le jour fait une tache rouge;Où l'âme, sous le poids du corps revêche et lourd,Imite les combats de la lampe et du jour.Comme un visage en pleurs que les brises essuient,L'air est plein du frisson des choses qui s'enfuient,Et l'homme est las d'écrire et la femme d'aimer.それは、悪夢の群れによって褐色の肌をした若者の耳がよじれる時。ぴくぴくと痙攣して動く、血走った眼のように日の光の中でランプの灯が赤い染みとなる時。ざらざらして重たい肉体の重みに耐えかねた魂が、ランプの灯と日の光の闘いを真似る時。そよ風がぬぐう、涙に濡れた顔のように、朝の空気は去り行くものの戦慄に満ちている。男は書くことに、そして女は愛することに、疲れている。Les maisons çà et là commençaient à fumer.Les femmes de plaisir, la paupière livide,Bouche ouverte, dormaient de leur sommeil stupide;Les pauvresses, traînant leurs seins maigres et froids,Soufflaient sur leurs tisons et soufflaient sur leurs doigts.C'était l'heure où parmi le froid et la lésineS'aggravent les douleurs des femmes en gésine;Comme un sanglot coupé par un sang écumeuxLe chant du coq au loin déchirait l'air brumeuxUne mer de brouillards baignait les édifices,Et les agonisants dans le fond des hospicesPoussaient leur dernier râle en hoquets inégaux.Les débauchés rentraient, brisés par leurs travaux.あちこちの家々から、かまどの煙が立ち昇りはじめ、売春婦たちは、鉛色のまぶたを閉ざし、口を開けて、愚かな眠りをむさぼっていた。乞食女たちは、やせて冷たくなった乳房を引きずりながら、燃えさしの薪に息を吹きかけ、自分の指にも息を吐きかけていた。それは、冷たさと吝嗇(りんしょく)の最中にあって、産褥にある女性の産みの苦しみがいっそう増す時。泡立つ血によって断たれた嗚咽のように、遠くでは雄鶏の鳴き声が、もやの立ち込める大気を切り裂いていた。霧が立ち込める海は建造物を飲み込み、救済施設の奥の部屋では瀕死の患者が、不規則な痙攣とともに、断末魔の喘ぎ声を絞りだしていた。放蕩者たちは、自分の放蕩に傷つき、帰宅の途についていた。L'aurore grelottante en robe rose et verteS'avançait lentement sur la Seine déserte,Et le sombre Paris, en se frottant les yeuxEmpoignait ses outils, vieillard laborieux.薔薇色と緑色のローブをまとった曙は、震えながら、人気のないセーヌ川の岸辺をゆっくりと進んでいった。そして、まだほの暗いパリは、眠い眼をこすりながら、勤勉な老人のように、仕事道具を取り上げるのだった。パリの朝の情景を、「放蕩息子」のボードレールが描いた詩ですね。遊びすぎて疲れ果て、もう詩は書けないと嘆きながらも、それでも詩を書かずにいられない詩人の姿が浮かんできます。「泡立つ血によって断たれた嗚咽」「断末魔の喘ぎ声を絞りだし」など、ところどころボードレール流に残酷で暗い表現が見受けられます。それでも最後の節では、夜明けということもあり、意外と明るいトーンになっていますね。フランス語の薔薇色には「楽観的な」という意味もありますから、曙に薔薇色を見出したボードレールもまた、悲観的でありながら楽観の詩人であったのかなとも思われてきます。まあ、そうでなければ、ああも湯水のように遺産を食い潰すこともしなかったでしょうね。未明の薄明かりではありませんが、夕暮れの薄明かりの中に浮かび上がる富士山です。(続く)
2008.04.13
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▼悪の華(猫3)臨時の猫ちゃんシリーズも今日が最後です。『悪の華』に出てくる最後の猫ちゃんの詩は、複数の女性たちに捧げられたみたいなんですね。だからタイトルも「猫たち」です。Les Chats(猫たち)Les amoureux fervents et les savants austèresAiment également, dans leur mûre saison,Les chats puissants et doux, orgueil de la maison,Qui comme eux sont frileux et comme eux sédentaires.情熱的な恋人たちも、いかめしい学者たちも、人生の成熟期に同じように愛するのは、力強く、優しい、家の誇りの猫たち。猫たちは彼らと同様、寒がりで出不精でもある。Amis de la science et de la voluptéIls cherchent le silence et l'horreur des ténèbres;L'Erèbe les eût pris pour ses coursiers funèbres,S'ils pouvaient au servage incliner leur fierté.科学と快楽の友として、猫たちは闇の沈黙と恐怖を求める。もし彼らが自尊心を捨て、隷従を選べば、暗黒神エレボスは葬式の使者として彼らを用いただろう。Ils prennent en songeant les nobles attitudesDes grands sphinx allongés au fond des solitudes,Qui semblent s'endormir dans un rêve sans fin;猫たちは夢想に浸りながらも気高い態度を取る。その姿は孤独の底に横たわる大スフィンクス、終わりのない夢の中にまどろんでいるようだ。、Leurs reins féconds sont pleins d'étincelles magiques,Et des parcelles d'or, ainsi qu'un sable fin,Etoilent vaguement leurs prunelles mystiques.猫たちの豊満な腰は魔法の火花で満ちている。そして細かい砂のような金のかけらが、彼らの神秘の瞳にぼんやりとちりばめられている。この詩は、ボードレールが知っている女性たちに捧げられた詩であるかもしれませんが、もうほとんど猫ちゃんたちのことを言っているようにも聞こえますね。個人的な感想ですが、猫もやはり女性と同様、神秘的です。その点で、初めてボードレールと意見が一致したかもしれません(笑)。猫ちゃんたちです。右の猫ちゃんは、昨日紹介した猫ちゃんですね。この一角がお気に入りのようです。眠るのが仕事? ・・・何か私みたいです(笑)。こちらの子は眠そうな眼をこちらに向けています。「何か用?」次は一昨日紹介した黒ちゃんの別カット。オパールの眼の猫ちゃんですね。明日からは再び薔薇シリーズです。
2008.04.12
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▼悪の華(猫2)マリー・ドーブランに捧げられた「猫」はどのような猫なんでしょうね。では早速、見てみましょう。Le Chat(猫)IDans ma cervelle se promène,Ainsi qu'en son appartement,Un beau chat, fort, doux et charmant.Quand il miaule, on l'entend à peine,自分の部屋の中を歩くように私の脳みその中を歩き回る、美しく、強く、優しく、魅力的な一匹の猫がいる。その猫は鳴いても、ほとんど聞こえないほどで、Tant son timbre est tendre et discret;Mais que sa voix s'apaise ou gronde,Elle est toujours riche et profonde.C'est là son charme et son secret.その響きは柔らかく、慎み深い。だけどその鳴き声が静かで、喉を鳴らす程度であっても、いつも豊かで奥深い響きがする。それが猫の魅力、そして秘密。Cette voix, qui perle et qui filtreDans mon fonds le plus ténébreux,Me remplit comme un vers nombreuxEt me réjouit comme un philtre.私の心の最も暗い深奥へと滴り染み渡っていくその声は、リズムのよい詩のように私を満たし、媚薬のように私を喜ばす。Elle endort les plus cruels mauxEt contient toutes les extases;Pour dire les plus longues phrases,Elle n'a pas besoin de mots.その声は耐え難い苦痛を和らげ、あらゆる恍惚を内包している。とても長い文章を語るのにも、言葉をまったく必要としない。Non, il n'est pas d'archet qui mordeSur mon coeur, parfait instrument,Et fasse plus royalementChanter sa plus vibrante corde,完璧な楽器である私の心に食い込み、心の弦を振動させて堂々と奏でさせる弓などほかにありはしない、Que ta voix, chat mystérieux,Chat séraphique, chat étrange,En qui tout est, comme en un ange,Aussi subtil qu'harmonieux!お前の声を除いては。神秘な猫よ、清らかな猫よ、不思議な猫よ、お前の中では何もかも、天使のように、精緻で調和が保たれている。IIDe sa fourrure blonde et bruneSort un parfum si doux, qu'un soirJ'en fus embaumé, pour l'avoirCaressée une fois, rien qu'une.黄金と褐色の毛皮からあまりに甘美な芳香が漂うので、ある晩、一度だけ、たった一度撫でただけで、私もその香りに染まってしまった。C'est l'esprit familier du lieu;Il juge, il préside, il inspireToutes choses dans son empire;Peut-être est-il fée, est-il dieu?それは場所になつく精霊。自分の帝国にあるすべてを裁き、支配し、霊感を与える。おそらく妖精か、神か?Quand mes yeux, vers ce chat que j'aimeTirés comme par un aimant,Se retournent docilementEt que je regarde en moi-même,私の両目が愛すべきその猫の方へと磁石のように引き寄せられ、その視線をふとそらすとき、そして自分自身の内を眺めたとき、Je vois avec étonnementLe feu de ses prunelles pâles,Clairs fanaux, vivantes opalesQui me contemplent fixement.その青白い目の炎に気付いて私は驚く。明るい灯火、生きた猫目石(オパール)は、私のことをじっと見つめているのだ。「その場所になつく精霊」とは、まさに猫の習性ですね。この猫はマリー・ドーブランのことですから、おそらくボードレールは、マリーを舞台の上の「精霊」とみなしていたのでしょう。観客を魅了し、詩人に霊感を与え、そして劇場のすべてを支配する女優としてマリーを描いているように思われます。舞台が終わった後、ボードレールはその余韻に浸っていたのでしょうか。詩人の心に強烈な印象を残したのは、オパールのような緑の眼だったわけです。自分だけをじっと見つめていると思い込むほど、恋は盲目ということでしょうか。でもそんなことはさておき、純粋に猫ちゃんの詩として読むことができるところが楽しいですね。お寺の舞台に上がったマリー・ドーブラン?残念ながら寝ているので、オパールの眼は見られませんが・・・マリーのようにふっくらとしていました(笑)。(続く)
2008.04.11
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▼悪の華(猫1)昨日書き忘れましたが、「秋の日」は「眼」の中の「緑がかった光」が好きだと書かれていることからも、「緑の目のヴィーナス」詩編に属していることがわかりますね。さて、「秋」で薔薇から脱線したついでに、『悪の華』に出てくる「猫」の詩編を三つ紹介してしまいましょう。最初は「黒いヴィーナス」のジャンヌ・デュヴァルに捧げられたとみられる「猫」です。Le Chat(猫)Viens, mon beau chat, sur mon coeur amoureux;Retiens les griffes de ta patte,Et laisse-moi plonger dans tes beaux yeux,Mêlés de métal et d'agate.おいで、私の美しい猫よ、恋をする私の胸の上へ。お前の脚の爪はしまっておくれ、そして金属と瑪瑙(めのう)を混ぜ合わせたお前の美しい眼に浸らせておくれ。Lorsque mes doigts caressent à loisirTa tête et ton dos élastique,Et que ma main s'enivre du plaisirDe palper ton corps électrique,私の指がゆっくりとお前の頭と弾力のある背中をなでていると、そして私の手がしびれるようなお前の体をまさぐる喜びに酔いしれていると、Je vois ma femme en esprit. Son regard,Comme le tien, aimable bêteProfond et froid, coupe et fend comme un dard,私の恋人の姿が浮かんでくる。彼女の眼差しはお前の眼に似ている、愛すべき動物よ、深く、冷たく、やじりのように切れ長のお前の眼に。Et, des pieds jusques à la tête,Un air subtil, un dangereux parfumNagent autour de son corps brun.つま先から頭のてっぺんまで、張り詰めたような気配、危険な芳香が彼女の褐色の体全体に漂っている。ほとんど解説の必要はありませんね。猫をなでながら、恋人のジャンヌのことを思い出している詩です。ボードレールにとってジャンヌは、独特の香りと爪でよく表現されます。いつも引っかかれているんでしょうね。「爪はしまっておくれ」とは、思わず笑ってしまいます。ジャンヌの肖像画には、確かに「やじりのように切れ長」になった目が描かれていました。さて、猫ちゃんの写真ですが、ジャンヌのような猫の写真はありませんでした。その代わりに、かわいい鎌倉の黒ちゃんを紹介します。そしてこちらは、まだら模様の江ノ島のミケちゃん。明日はマリー・ドーブランに捧げられた「猫」を紹介します。(続く)
2008.04.10
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▼悪の華と薔薇18(秋の歌2)「秋の歌」の前半(パート1)では、ボードレールはいつものように人生を嘆いています。楽しかった青春を象徴する「明るい夏」はあっという間に終わり、人生の黄昏とも呼べる「はかない秋」が来てしまった、そしてあの陰鬱な、死を象徴する「暗い冬」がやって来るのだと悲嘆に暮れています。おそらく秋の夕暮れ時なのでしょう。中庭からは冬支度を告げる「薪を割る音」が聞こえてきます。斧を振り下ろすその音は、死刑台で振り下ろされるギロチンの音のようにボードレールには響いているようです。その音はまた、誰かの棺に釘を打ち付ける音にも聞こえると言っていますね。この嘆きの後に来るのはたいていの場合、ボードレール流の甘え、つまり女性に癒しを求める「切ない思い」でしたね。それではパート2を見てみましょう。II J'aime de vos longs yeux la lumière verdâtre,Douce beauté, mais tout aujourd'hui m'est amer,Et rien, ni votre amour, ni le boudoir, ni l'âtre,Ne me vaut le soleil rayonnant sur la mer.あなたの切れ長の眼の、緑がかった光が私は好きだ、優しく美しい人よ、でも私にとって今日はすべてが苦い。そして何も、あなたの愛も、小奇麗な居間も、暖炉も、海に照り映える太陽を私にもたらすことはない。Et pourtant aimez-moi, tendre coeur! soyez mère,Même pour un ingrat, même pour un méchant;Amante ou soeur, soyez la douceur éphémèreD'un glorieux automne ou d'un soleil couchant.だけど私を愛しておくれ、優しい心よ! 恩知らずであっても、意地悪であっても、母のようでいておくれ。恋人でも、妹でもいい、束の間の癒しになっておくれ、栄光に満ちた秋の、あるいは沈み行く太陽の癒しのように。Courte tâche! La tombe attend - elle est avide!Ah! laissez-moi, mon front posé sur vos genoux,Goûter, en regrettant l'été blanc et torride,De l'arrière-saison le rayon jaune et doux!すぐに終わるさ! 墓が待っている――貪欲な墓だ!ああ、こうしてあなたのひざに額を乗せたまま味わわせておくれ、白い、酷熱の夏の日を惜しみながら、黄色く、柔らかな、その晩秋の日の光を!本当にボードレールは女性に甘えるのが好きですね。母親に甘え足りなかった少年時代が影響しているのでしょう。人生が短いと嘆きながら、人生は短いのだから愛してくださいと、刹那的な享楽を求めているようでもあります。それでも詩の響きは豊かで、その描写は見事としか言いようがありません。ジッドが引用したくなるのもわかりますね。写真は昨日からの続き物です。夕陽を見つめるボードレールと恋人の、束の間の甘い時間でしょうか。自転車人や散歩人が傍らを通り過ぎて行きます。そして、いつしか別れの時が・・・(続く)
2008.04.09
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▼悪の華と薔薇17(秋の歌)昨日は「秋のソネット」を紹介しました。「秋」と来れば、おそらくボードレールの詩の中で最も有名な詩「秋の歌」を取り上げないわけにはいきません。『悪の華』の中で私の最も好きな詩編で、実は以前、このブログでも最初の部分(私が暗記していた部分)を取り上げたことがあります。では、鬼気迫るような傑作「秋の歌」をお読みください。Chant d'Automne(秋の歌)IBientôt nous plongerons dans les froides ténèbres;Adieu, vive clarté de nos étés trop courts!J'entends déjà tomber avec des chocs funèbresLe bois retentissant sur le pavé des cours.やがて私たちは冷たい闇の底へと沈んでいく。さようなら、まばゆい光よ、私たちの夏はあまりにも短すぎた!私にはもう聞こえてきている、陰惨な衝撃とともに中庭の敷石に薪が落ちて鳴り響くのを。Tout l'hiver va rentrer dans mon être: colère,Haine, frissons, horreur, labeur dur et forcé,Et, comme le soleil dans son enfer polaire,Mon coeur ne sera plus qu'un bloc rouge et glacé.冬のすべてが私の中に戻って来ようとしている。怒り、憎しみ、わななき、恐怖、強いられた辛い労働、そして、極北の地獄に閉じ込められた太陽のように私の心は赤く、凍った塊に過ぎなくなるだろう。J'écoute en frémissant chaque bûche qui tombeL'échafaud qu'on bâtit n'a pas d'écho plus sourd.Mon esprit est pareil à la tour qui succombeSous les coups du bélier infatigable et lourd.薪が落ちる音の一つ一つを私は震えながら聞き入る。死刑台を建てる音でさえ、これほど重々しく響くことはあるまい。私の精神は崩れ落ちる塔のようだ。城壁を破壊する大槌で、ひっきりなしに重い一撃を加えられている。II me semble, bercé par ce choc monotone,Qu'on cloue en grande hâte un cercueil quelque part.Pour qui? - C'était hier l'été; voici l'automne!Ce bruit mystérieux sonne comme un départ.その単調な衝撃に揺すぶられていると、どこかで誰かが大急ぎで棺に釘を打ち付けているように思われてくる。誰のために? 昨日は夏だったのに、今は秋だ!その不思議な物音は別れを告げるように鳴りわたる。ここまでが「秋の歌」のパート1です。なぜこの詩が有名なのかと言うと、アンドレ・ジッドの『狭き門』の中で、主人公たちがこの詩の冒頭部分を暗唱する場面が出てくるからなんですね。神への愛を貫こうとするアリサが命を落とさなければならなかった理由は、この詩の中に隠されているんでしょうか。アリサとボードレールは対極の存在であるだけに面白いですね。さて、私にとってジッドは、思い出深いフランス人作家でもあります。英国ケント大学留学中、私は母国語ではない英語でフランス文学を学ぶという「二重苦」を味わっていました。当然クラスメートも、英語でさえ大変なのに、フランス語もやるなんて無謀だ、という目で私を見ます。学期間中、各学生は決められたフランス文学の作品の中から一つ選び、みなの前でその作品の分析を発表する宿題があるのですが、私はアンドレ・ジッドの『法王庁の抜け穴』を選んだんですね。一度も読んだことがない作品で、当然フランス語で読まなければなりません。しかもレポートも書かなければならないわけです。与えられた時間は三日だけ。そのとき初めて知ったのですが、ジッドのフランス語って、すごくわかりやすいんですね。私はあっという間に『法王庁の抜け穴』を読みきり、そしてあっという間にレポートを書き上げ、その内容をクラスで発表しました。それが大成功だったんですね。今まで「こいつ大丈夫かよ」と懐疑的な目で見ていたクラスメートも、「こいつなかなかやるじゃん」という評価に変わりました。私の英語に初めてミューズが宿った瞬間でもありました。ずいぶん脱線してしまいましたが、明日は「秋の歌」の後半(パート2)を紹介します。さようなら、まばゆい光よ!(続く)
2008.04.08
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▼悪の華と薔薇16(マーガレット)ジャンヌ、サバチエ夫人、マリーと、ボードレールの三人の詩の女神についてこれまでみてきました。ところがボードレールには、どうやらほかにも女神がいたようなんですね。薔薇ではなく別の花として登場しますが、ちょっとご紹介しましょう。タイトルは「秋のソネット」です。Sonnet d'Automne (秋のソネット)Ils me disent, tes yeux, clairs comme le cristal:"Pour toi, bizarre amant, quel est donc mon mérite?"- Sois charmante et tais-toi! Mon coeur, que tout irrite,Excepté la candeur de l'antique animal,水晶のように澄み切ったお前の眼は、私に問いかけてくる。「風変わりな恋人さん、あなたは私のどこが好きなの?」――魅力的でいてくれ、そして黙っていておくれ! 古代の動物の純真さを除けば、何に対しても苛立つ私の心は、Ne veut pas te montrer son secret infernal,Berceuse dont la main aux longs sommeils m'invite,Ni sa noire légende avec la flamme écrite.Je hais la passion et l'esprit me fait mal!心の中に潜む地獄のような秘密も、業火で刻まれた暗黒の伝説も、お前に見せたくないのだ、手で私を長い眠りへと誘う揺りかごのような女性よ。情熱は煩わしく、機知は私をうんざりさせる!Aimons-nous doucement. L'Amour dans sa guérite,Ténébreux, embusqué, bande son arc fatal.Je connais les engins de son vieil arsenal:ただ優しく愛し合おうではないか。見張り小屋のキューピッドは、闇に紛れながら待ち伏せして、運命の弓を引き絞る。昔ながらの武器庫に隠した、彼の道具のことなら私は知っている、Crime, horreur et folie! - O pâle marguerite!Comme moi n'es-tu pas un soleil automnal,O ma si blanche, ô ma si froide Marguerite?罪と恐怖と狂気だ! ――おお、青ざめたマーガレットよ!私と同じで、お前も秋の陽射しにすぎないのではないのか、おお、私の真っ白な、おお、私の冷やかなマーガレットよ?この詩の中のマーガレットがマリー・ドーブランではないかとする説もあるようですが、私には戯れに関係した女性マーガレット(フランス語ではマルグリット)のことを書いた詩のように思われます。情熱的な言葉も機知に富んだ会話も必要がない、ただ黙って愛し合おうという呼びかけは、3人の女神に対する情熱や機知に比べると、ぞんざいな感じがしますよね。第一節に出てくる古代の動物が何なのかはわかりません。私だったら、まず猫でしょうか。ボードレールも実は猫に惹かれていたらしく、『悪の華』でも猫をタイトルにした詩を3編書いています。その中でボードレールは、「優しく」「気高い」猫ちゃんたちを、まるで「大スフィンクス」のようだと称えたりもしています。もちろん、猫は女性たちの象徴なんですけどね。第二節の「地獄のような秘密」も「業火で刻まれた暗黒の伝説」も、いつものように屈折したボードレールの心の反映です。そしていつものように、女性に束の間の癒しを求めるわけですね。そのような訳で、ボードレールにはおそらくキューピッドも必要ではないのでしょう。キューピッドの助けなど要らないと、宣言しているようにも聞こえます。第四節の「秋の陽射し」ははかなさの象徴です。と言うことは、やはりマーガレットとの恋は、はかないものになりそうなことを暗示していますね。今日の写真は、港から見た富士山です。(続く)
2008.04.07
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▼悪の華と薔薇15(崩壊した女神像)ボードレールは出来上がった『悪の華』とともに、知り合いを通じて司法当局に働きかけてくれと懇願する手紙をサバチエ夫人に送ります。手紙には、詩編の名前を具体的に挙げながら、サバチエ夫人はボードレールにとって詩の女神(ミューズ)であることが明記されていました。これを受け取ったサバチエ夫人は、悪い気はしませんね。自分に捧げられた詩集でもあったわけですから。早速、顔見知りの司法官に事の次第を告げます。でもその司法官は、自分の評判が傷つくのを恐れて、積極的には動きません。公判も二日後と間近に迫っていたこともあり、事前の工作は失敗してしまいました。1857年8月20日、ボードレールは裁判所に被告人として出頭します。検事は『悪の華』の中から「扇情的」な詩句を引用して、いかに風紀を乱す作品であるかを述べ立てます。対する弁護人の弁舌は冴えず、過去にも背徳的な作品があったことを繰り返すだけ。判決はその日のうちに下り、ボードレールは『悪の華』の中から「宝石」「忘却の河」「吸血鬼の変身」など6詩編の削除と罰金を言い渡されました。自分の作品を散々けなされた挙句に有罪となったボードレールは意気消沈します。その落胆ぶりがサバチエ夫人の母性本能を刺激したのでしょうか。自分が救えなかったとの自責の念もあったのでしょう。サバチエ夫人はボードレールを慰めるために一夜を伴にします。すでに述べましたが、サバチエ夫人はボードレールにとって冒してはならない聖なる女性でした。触れることなく、遠くから崇め奉る存在だったんですね。ところがこの一夜の肉体関係によって、ボードレールが抱いていたミューズ像は粉々に砕かれます。あれほどまでに燃え上がっていたサバチエ夫人に対する崇拝の炎が完全に立ち消えてしまいました。逆にサバチエ夫人は、あまりにも繊細な詩人ボードレールにのめり込んでいくのですから、皮肉なものです。ボードレールはサバチエ夫人と決別するために、残酷にも「あなたはもう女神ではなくなった」「今はただの女だ」という内容の手紙を送りつけます。二人の関係はこれで本当に終わりました。すべての女性と別れ、再び独りぼっちになったボードレールは、母親に救いを求めます。しかし母親にとってボードレールは、遺産をすぐに食い潰す放蕩息子です。しかも「いかがわしい詩」を書いて有罪となり、ボードレールの家名を汚した不届きな息子でもありました。後に和解はしますが、諸手を挙げて息子を迎え入れることは、決してありませんでした。(続く)波しぶきと富士山です。北斎の絵にはかないませんが、北斎はこの辺りの海から富士山を見ていたんでしょうね。
2008.04.04
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▼悪の華と薔薇14(病める花々)サバチエ夫人、マリー・ドーブランと別れた孤独感からジャンヌと縒りを戻したボードレールでしたが、二人の生活はやはりうまく行きません。翌1856年9月には再び別れてしまうんですね。再び孤独にさいなまれるようになったボードレールは、創作活動に没頭します。そして、ジャンヌ、サバチエ夫人、マリーといった「病める花々」から霊感を得た作品群が出来上がります。それが『悪の華』なんですね。後は出版するだけとなったころ、大きな出来事が起こります。1857年4月27日、幼いボードレールから母親を“奪った”義父オーピックが死去します。68歳でした。そのときボードレールは36歳。ほぼ30年間に及ぶ遺恨に終止符が打たれたことになります。ところが、これでようやく母親と自分を隔てる障害がなくなったと思ったボードレールに対して、母親はボードレールと暮らすことはせず、ノルマンディ地方のオンフルールという田舎に引っ込んでしまいます。子供ころから続く常に満たされない思いは、ずっと続きます。その思いが、あのような詩を生むんでしょうね。出版された『悪の華』は、すぐに評判になります。ただしそれは、批判の対象として論議を巻き起こしたものでした。「おぞましい」「忌まわしい」「下品」「悪臭を放つ」など散々な論評が次々と現れます。この評判を聞きつけて司法当局が動き出します。同年7月17日、検事総長はボードレールとその出版人に対する証人尋問を請求し、『悪の華』の差し押さえを命じました。そこで思い出されるのが、フランス作家ギュスターヴ・フロベールの『ボヴァリー夫人』ですね。この作品は1856年10月から12月にかけて『パリ評論』に連載された小説で、翌年単行本化されました。田舎の医者シャルル・ボヴァリーの妻エンマが、満たされない平凡な生活から脱出しようと恋に走り、裏切られて自殺するまでを描いています。フランス司法当局は、風俗壊乱と宗教冒涜のかどでフロベールを起訴しますが、高位の人物の庇護があったため、何とか無罪を勝ち取ることができました。ボードレールが起訴された年の1月から2月にかけてのことです。しかし当時、文無しの変わった詩人、ポーの翻訳家、文芸批評家ぐらいにしか思われていなかったボードレールには自分を庇護してくれるような高位の人物などいません。それでも、亡くなったばかりの義父オーピック将軍の伝をたどって弁護を頼むなど、恥も外聞もなく起訴取り下げを勝ち取るべく奔走します。そうした努力にもかかわらず、ボードレールを親身になって助けてくれようとする「高位の人」は現れません。そこでボードレールは、何と白いヴィーナスことサバチエ夫人に手紙を書くんですね。(続く)薔薇の写真ストックがほぼ枯渇したこともあり、当分富士山の写真が続きます。富士山の写真は先日、150枚ほど撮ったのでこちらはストックが十分です(笑)。
2008.04.03
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▼悪の華と薔薇13(緑の目のヴィーナス6)万愚節で一日空いてしまいましたが、ボードレールの「あるマドンナに」でしたね。<マドンナよ、恋人よ、私はお前のために、私の苦悩の奥深くに地下の祭壇を建てよう。そして私の心の最も暗いその片隅の、世俗の欲望や嘲りの視線から遠く離れた場所に、紺碧と黄金をちりばめた壁がんを掘ろう。>「壁がん」とは、彫像や花瓶などを置く、壁に作られた凹みの事ですね。基本的に恋人のマリーを称える詩なのですが、「紺碧と黄金をちりばめ」る一方で「苦悩」「暗い」と書かれていることから、二人の関係が順調に行っているわけではないことが示唆されています。おそらく状況としては、友人のヴァンビルのもとへ戻っていったマリーに対して、まだ未練があるボードレールといった図式でしょうか。<そこでお前は、息をのむような彫像としてそびえ立つのだ。私の洗練された「詩句」で、水晶の脚韻を巧みに刻んだ純金属を編みこんで、お前の頭上に輝く巨大な「冠」を作ろう。>「脚韻」とあることで、ボードレールが地下の壁がんに置こうとしている彫像が詩そのものであることがわかります。「水晶の脚韻」という表現には、澄み切った心地好い響きがありますね。<そして私の「嫉妬」を裁断して、おお、生身の聖母よ、お前のために「外套」を仕立てよう。野暮で、ごわごわして、重く、裏地には猜疑心を当てたその外套は哨舎の番兵のように、お前の魅力を包み込むはずだ。>やはりボードレールの心に巣食っているのは、友人ヴァンビルに対する「嫉妬」なのでしょう。「嫉妬」で作ったマントの裏地が「猜疑心」とは、凄いですね。猜疑心はマリーに向けたものだと思われます。他の男に取られないように、マリーの魅力を隠してしまいたいという願望の表れと解釈できます。<その縁を飾るのは「真珠」ではなく、私が流す「涙」のすべて!お前の「服」には、私の「情欲」がなろう。わななき、波打つ私の「情欲」は、登っては降り、尖った場所ではバランスを取り、谷間では休息する。そして、お前の白くて薔薇色の体中をキスで覆いつくすのだ。>しかし願望は願望。マリーは今やヴァンビルの恋人となり、ボードレールは涙を流すしかありません。二人の関係を思うと、余計に情欲が募るのでしょう。マリーの服に変身して、マリーの体を触りまくるという妄想を膨らませているようです。ここでも薔薇は、女性の肉体の美を形容する表現として登場しますね。<私の「尊敬」からは美しい「靴」を作ろう。繻子でできたその靴は、お前の清らかな足に虐げられながらも、柔らかな抱擁でお前の足を包み閉じ込め、忠実な鋳型のように、その形を刻み続ける。>足フェチなのでしょうか。ちょっとM気もあるようです。女王様のハイヒールで踏まれたい、みたいな(笑)。それほどマリーを崇拝していることを強調していますね。<私の丹念な技巧にもかかわらず、銀色に輝く「月」を「台座」に刻むことができないなら、お前が踏みにじり、嘲ることができるように、私の内臓を食いあさる「蛇」をお前の踵の下に置こう。誇らかで、あがないの気持ちにあふれた女王よ、その蛇の怪物は憎しみと痰で腹が膨れているのだ。>この辺から、ボードレール流の「毒」が顔を出します。「蛇」は人間の心に潜む「魔物」ですね。ボードレールの心の中には、マリーに裏切られたことに対する「憎しみ」が、その鎌首をもたげはじめたようです。結局、銀色に輝く「月」を「台座」に刻むことができなかった、つまり永遠の愛を成就することができなかったために、マリーに心を踏みにじられたのだと言っているように聞こえます。<「処女の中の女王」によって華やぐ祭壇の前、「大蝋燭」のように並べられた私の「思考」が蒼く彩られた天井を星のように照らし出しながら、燃えるような眼差しで、いつもお前を見守っていることを知るだろう。>別れてもなお、「いつもお前を見守っている」ということは、現代風に言えばストーカー行為そのもの。地下の祭壇ですから、かなり引きこもっていますよね。本物の夜空の星々はそこにはなく、あるのは閉ざされた空間を象徴する天井を照らす蝋燭の炎です。やはりちょっと不気味です。<私の中のすべてがお前をいつくしみ、崇拝しているように、すべてが「安息香」、「薫香」、「乳香」、「没薬」となるだろう。そして、白い雪に覆われた高峰であるお前を絶えず目指しながら、狂おしく乱れた私の「精神」は、「水蒸気」となって昇っていく。>ここまでが一つの長い節になっています。波乱を予感させつつも、トーンはほぼ「憧憬」「崇拝」で統一されています。ただ精神は「狂おしく乱れ」ていますから、発狂寸前なのかなとも思ってしまいます。憧れは、沸点を越えて「水蒸気」になるほどに極まっちゃったんでしょうね。<最後に、お前の「聖母マリア」としての役目をまっとうさせるために、そして、愛情と残酷を混ぜ合わせるために、邪悪な快楽よ! 私は後悔に満ちた死刑執行人として、七つの「大罪」を使って、七つの「小刀」を研磨しよう。そして、非情の大道芸人のように、お前の愛の深奥を標的にして、私はその「小刀」を打ち込もう、お前のあえぐ「心」に、お前のすすり泣く「心」に、お前の血が滴る「心」に!>もしボードレールが詩人でなくただのストーカーなら、マリーにナイフを突き刺して、殺してしまったかもしれません。でもボードレールは詩人です。詩を書くことによって、邪悪な思考を昇華してしまいます。すると、「非情の大道芸人」とは、一切の悲しみや恨みを断ち切った詩人の姿に見えてきます。マリーの心臓に小刀を突き刺しているように書いていて、実は自分自身の心から血を流しながら、マリーと決別しているのではないかと思われます。つまりこれは、マリーに対する別れの詩だったんですね。マリーに捧げられた「緑の目のヴィーナス」詩群も、この『悪の華』57番の「あるマドンナへ」で終わっています。サバチエ夫人との恋のゲームに疲れ、マリーとも決別したボードレールは1855年12月、再び「黒いヴィーナス」のジャンヌと再び暮らすようになります。(続く)昨日の続きで、富士山です。午前10時半ごろはこんなにくっきりとしています。江ノ島に架かる橋の上から撮影しています。
2008.04.02
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