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大事な準々決勝の試合で、私は痛恨のミスをします。 本郷高校は下馬評通り強く、試合は一進一退を繰り返しながらも本郷高校の優位に進んでいきました。 しかし後半、思いがけなく大チャンスが到来します。 私がハーフウェイライン付近でタイミングよくボールを受け取ると、初速で対面を抜き去りライン際ギリギリを抜け出すことができたんですね。 とにかく思いっきりラインに沿って快足を飛ばしました。 私は当時、100メートル走の後半を普通の運動靴でも5秒4で走っていましたから、加速がついた以上、高校生のレベルで私に追いつくことはまずできません。相手も味方も完全に「置いてけ堀」になってしまいます。 ところが、前方の相手のフルバックだけは、必死で私を止めようとライン際を走る私に向かって突進してきます。あとゴールラインから5メートルくらいになったところで、私は決断を迫られます。 このまま飛び込むか、右に舵を切るか。 私はそのまま飛び込んでも大丈夫だと思い、インゴールに向かって思いっきり飛び込みます。 インゴールにボールを設置させてトライ! ・・・と、自分では確信していましたが、ジャッジはタッチラインを割ったと判定しました。 私は訳がわかりません。「確実にボールをインゴールに置いたのになぜ?」と、狐につままれた気分です。同時に私はグラウンドにしたたかに激突した衝撃で軽い脳震盪を起こしてしまい、しばらく立ち上がれませんでした。 後でわかったのですが、インゴールのゴールラインとタッチラインとタッチインゴールラインが交わる角の内側にコーナーフラッグが立っているのですが、私がインゴールにボールを置く前に、私の体がコーナーフラッグに触れたと判定され、トライ不成立となったのです。 そういえば空中で相手のフルバックに押され、体が左に振られました。そのときにコーナーフラッグに確かに触れたような気がします。「しまった!」と私は思い出します。 中学で最初にラグビーを習ったときに、トライのときにコーナーフラッグに気をつけるように教わっておりましました。 失念! 痛恨のミスです。 結局、そのときは敵陣に攻め込んだものの、相手にしのがれ、得点できませんでした。 試合はその後も膠着状態が続き、結局、本郷が接線を制しました。 後半の中盤のあのとき、私のトライが決まっていたら、流れは変わっていたかもしれません。 それだけに非常に惜しまれるプレーです。 主将のIさんからは、「まあ、ラグビーの正規部員じゃないからしょうがないけど、ああいうときは、相手に一度当たってからトライをすればいいだよ」と諭されます。 私は走るという才能はありましたが、そうしたラグビーのスキルが足りませんでした。 ところで、高校ラグビーの試合ではタッチジャッジは双方のチームから出してレフリーを補佐します。私のトライを認めなかったタッチジャッジは、わが校のラグビー部のOBの白石さんでした。白石さんは文武両道のラガーマンで京都大学に進学して、その時も大学でラグビーを続けておりました。たまたま東京に来ていたので、タッチジャッジを志願したのだそうです。実は私の姉と同級生で、このとき初めて会いました。 その白石さんが試合後、私のところにやってきて、「惜しかったね。わずかにフラッグに当たるのが早かったと判断してタッチにしたけど、レフリーからはあの位だったらトライにしてやったのにと言われたよ」と告白してくれました。それほど微妙で際どい判定であったということです。でも確かに味方に有利なように判定するわけにはいきませんよね。 フェアーなジャッジであったと誇らしく思っています。 (続く)
2023.04.21
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失敗から学びながら、徐々にラグビーにも慣れてきました。 といっても、細かいプレイはへたくそなので、あくまでもパスを受けて走るという単純なスキルだけの話です。 第二戦では、その本来の走力の片鱗を示すことができたと思っています。 試合の中盤、ハーフウェイライン付近でパスをもらった私は、スペースが十分にあったのでコースを右に切りながら初速で対面のディフェンスを抜き去り、内側からのディフェンスに対してはすぐに左に切り返してよけ、最後は多分フルバックだとおもうのですが、右にステップを切ってディフェンス網を切り裂きます。 もう後はゴールまで一直線。残りの25メートルほどをひたすら無人の前を見て駆け抜け、相手のディフェンスに一度も触れられることもなく、ゴールポスト下にトライしました。三、四回ステップを切っただけで、約50メートルを独走したと記憶しています。相手はただ呆気にとられていたと思います。 今度はゴールポストの真下のトライですから、コンヴァージョンも成功。先輩には怒られることもなく、主将のIさんからは「ナイストライ!」と声をかけてもらいました。 なぜそのような独走ができるかというと、たぶん、子供のころから鬼ごっこで避けるのが上手かったからではないでしょうか。 何となく、どのコースをどの程度のスピードで抜けばよいかが直感的にわかってしまうのだと思います。1990年12月2日、東京・国立競技場で開かれた関東大学対抗戦ラグビーの早明戦で早稲田のフルバック今泉清が終了間際に劇的な同点につながる80メートル独走トライを決めたときに「パッ、と走るコースに光の道が見えた」とその時の体験を語っています。レベルが違うので比較はできませんが、私の独走トライもその感覚に近いです。瞬間にわかるので、そのように体が自然に動くわけです。 このトライがどれだけ勝利に貢献したのかはわかりませんが、この日の試合も順調に勝利しました。準々決勝に進出です。 次の相手は、優勝候補にも時々挙がる本郷高校だったと記憶しています。 (続く)
2023.04.20
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上級生が厳しかったので、結構緊張しましたが、高校生になってからの初めてのラグビーの試合では何とか最低限のウィングの役割をこなすことができました。センターからのパスを受け取って、そのまま走り切ってトライ。 しかし、ここでミスをします。 ゴールラインからデッドボールライン(これを越したらプレーができないというライン)までをインゴールといって、そのエリア内でボールを手で押さえればトライとなるのがラグビーのルールです。デッドボールラインを少しでも踏んだらアウトです。そのインゴールの中でできるだけセンターに近いところでトライすれば、角度的にコンヴァージョンキックが決めやすくなり、二点を追加できます。 つまり本当はもっとセンターに寄りにトライできたのですが、私は勢い余ってデッドボールラインを踏みそうになり、慌ててエリアの端の方にトライするという失態をしてしまったんですね。先輩からは当然、「もっとセンターにトライしろ」と怒られました。案の定、キッカーはコンヴァージョンキックを外して、加点できませんでした。 実は、このミスがどこから来るかと言うと、私の目の悪さから来ています。 私は弁解しませんでしたが、ゴールラインとデッドボールラインがはっきり見えなかったんですね。 目が良ければ、相手選手の動きを見ながら途中で減速してセンター付近へと回り込めたはずです。 でもそれが出来なかったのは、ひとえに視力の悪さ、特に乱視から来ています。 ラインがよくわからないから、そのまま猛スピードでゴールラインを突破、減速のタイミングを失して曲がり切れなくなってしまったわけです。 それでもトライはしたので、インゴールでノックオン(ボールを落とすこと)をするよりははるかにましです。 トライは取りましたが、私にとってはほろ苦い高校ラグビーデビュー戦になりました。 それでも先輩たちのお陰で、初戦は完勝したように記憶しています。 一週間後に、次の試合がありました。 さらに一週間ラグビーの練習をしたので、段々勘を取り戻してきました。 大学生のコーチからも及第点をもらうようになりました。 東京都秋季大会本戦で1回勝ったことで、たぶんベスト16に勝ち上がったのだと思います。次に勝てばベスト8だと言っていたように記憶しています。 次の試合も私は左ウィングで先発出場しました。 (続く)
2023.04.19
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1974年の三月上旬だったと思いますが、公式戦の試合中にラックになったときに、密集に巻き込まれ腰の辺りに痛みを覚えたんですね。幸い、その試合には勝ちました。試合中はほとんど気にせずにそのままプレイを続行したのですが、試合が終わって部室に戻るときに腰の辺りに重さを感じます。歩くのがしんどくなって、最後にはそばの椅子に座り込む始末です。 疲労かなとも思ったのですが、休んでも腰付近の重さとダルさは治りません。 そこで翌日、整形外科で診てもらうことにしました。レントゲンを撮ってもらって、お医者さんから説明を受けると、確か「腰部脊柱管狭窄症」との診断。二か月間コルセットを付けて運動をしないように言われます。 当時の私にはすごいショックでした。何しろ毎日運動していないと気が治まらないようなスポーツ少年でしたから、二か月間、その運動を禁じられたのは、二か月間遊びを禁じられた子供の心境です。ラグビー部を休部することを伝えると、皆からがっかりされましたが、ドクターストップがかかったのでは仕方ありません。 野球部の先輩からは怒られました。ラグビーなんかやるから怪我をするんだ、と。まあ、その通りなのですが、あのラグビーの面白さを知ったら、辞められませんね。その後も高校二年生までは春から秋は野球、冬はラグビーと、二つの部の掛け持ちをやらせてもらっていました。この自由さがいいですね。 しかしながら、二か月間に及ぶドクターストップの宣告に、私はしょげ返っていました。せっかくの春休みもおとなしくしていなければならなくなりました。 そのしょげた気持ちを少しだけ和らげてくれたのは、中学の卒業式で、体育優良賞をもらったことでしょうか。毎年男女一名ずつ選ばれる賞で、野球、陸上、ラグビーで活躍したことが評価されたようでした。女性の受章者は水泳部のFさん。Fさんは小学校の同級生で、五年生くらいのときに両親の仕事の都合だと思いますが、S学園を休学して二、三年アメリカで暮らしていました。そして中学になって再びS学園に戻ってきた人です。 このFさんとも不思議な因縁があり、Fさんの父親と私の伯父が大の親友だったんですね。その縁で私も、私の伯父の車でFさんら家族と一緒に群馬県の水上温泉のスキーに行ったことがありました。 このスキー場は、確か水上高原藤原スキー場だったと思いますが、非常に因縁のあるスキー場で、私が後に高校生の時に書いた短編小説の舞台にもなっています。小説家を目指した高校生時代の話も追々話してゆきましょう。 (続く)
2023.01.28
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「甲子園に出る」という野望があったため私は野球部からラグビー部に転部することはありませんでしたが、私の先輩には、友だちに誘われてラグビー部に入ったことにより、人生の設計を大幅に変えざるを得なくなった人がいます。 それが、後に世界的に有名な指揮者になった小澤征爾氏ですね。 小沢氏は中学のときには既にピアニストになることを決め、「指が危なくない卓球部」に入っていたそうです。そんな小沢氏をラグビーに誘ったのは、クラスメートの熱血ラガーマン松尾勝吾氏。松尾雄治氏の叔父さんです。松尾一族はラグビー一家ですね。 で、小沢氏は誘われるまま入ったら、ラグビーがものすごく楽しくて、夢中になるんですね。その気持ちは私もよくわかります。ラグビーは「血沸き肉躍る」という感じで、本当に面白いスポーツなのです。その証拠に、私が在籍した当時のラグビー部の部室の扉に「楽美部」、楽で楽しくて美しい部と漢字で書かれており、笑えました。決して楽ではありませんが、楽しくて美しいスポーツというのは本当です。 日経新聞のこのサイトに詳しく書かれていますが、小沢氏のポジションはフォワード第一列のプロップでした。指揮者時代の小沢氏の体型を見ると意外ですが、当時は「今より太っていた」し、「体も強かった」のだそうです。 ピアノの先生には内緒で、毎日ラグビーボールを追って練習をしていたのですが、雨の日の練習か試合で、何とピアニストの生命線ともいえる右人差し指を骨折する大けがを負ってしまったんですね。 泣く泣くピアニストになるのを断念し、恩師の進めもあった指揮者の道を歩み、何と世界的な指揮者になったわけです。 ラグビーをやっていなければ、どうなっていたか、わかりませんね。 小沢氏が私のラグビー部の先輩だったとはつゆ知らず、私が米国ボストン近郊ケンブリッジにある大学院(ハーバード・ケネディ行政大学院)に留学しているとき(1996~97年)に、二回ほど小沢氏が指揮するボストン交響楽団の演奏を聴きに行きました。一回はボストンのシンフォニーホールで、もう一回はボストンから車で2、3時間離れた森の中にあるタングルウッドの野外コンサートでした。私はボストン響だけでなく、その「夏バージョン」ともいえるボストン・ポップス・オーケストラも好きで、こちらもよく聴きに行きました。 話は大きく脱線しますが、ハーバード留学中は、週末はシアター・ディストリクト(劇場街)に入り浸り、暇さえあればあちこちの史跡や観光地にでかけ、週に三回くらい地元のテニス・クラブでテニスをする学生生活でした。いったい、いつ勉強していたんですかね。でも、あーら不思議、ちゃんと優秀な成績で卒業しましたから、ご安心ください(笑)。 (続く)
2023.01.26
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ここで我々の中学のラグビー部について説明しておきましょう。実は私の一つ上の代のラグビー部はものすごく強くて、Mさんという中学レベルでは圧倒的に群を抜く、絶対的な、全日本クラスのスタンド・オフがいました(全日本クラスのMさんと言っても、松尾雄治氏ではありません。確かにラグビー部の先輩ではありますが、代が違います。松尾雄治氏は私の兄と同期生でした)。 Mさんはとにかくテクニックだけでなく、抜群の持久力がある運動選手で学内のマラソン(競歩)大会(距離は17キロくらい)をやると、必ず断トツの一位になる長距離型のスポーツマンでした。 ちなみに私は短距離・中距離走は得意ですが、長距離はそれほど得意ではありませんでした(それでも学年で3位くらい)。 うろ覚えですが、Mさんたちが三年生だった前年度(1972年度)は、慶応、青学、麻布などが入っている私立六中学戦を制し、東京都の大会でも優勝し、中学の全日本に補欠もいれて8人くらい選ばれて、わが校のMさんかIさんが主将を務め、交流試合の韓国戦にも勝利した、というような感じだったと思います。 ところが、彼らが抜けた今年(1973年度)は、3年生の部員は、猫の手となって野球部から臨時に借り出された私を入れても3人だけという歯抜け状態になってしまったというわけです。 だからものすごい馬力で短中距離を文字通り馬のように爆走する私は、ラグビー部としては喉から手が出るほど欲しかったのだと思います。 実際、ラグビー部顧問の体育のY先生からは「お前、ラグビー部に入らないか。日本一のラガーマンに育ててやるぞ」とおだてられて、勧誘されました。豚もおだてりゃ木に登るといいますからね。思わず木に登りかけましたが、思いとどまります。「いや、先生。私には甲子園に出るという夢があります。このまま野球を続けます」と答えておきました。 (続く)
2023.01.25
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希望ある敗戦ラグビーにも、夢も希望も楽しみもない敗戦がある。ふわふわした、浮ついた、つかみようのない試合。ラグビーをやっているのか、ダンスをしているのか、これは何のスポーツなのか、と問わなければならないような試合だ。幸いなことに、昨日の日本選手権第二回戦の東芝早大戦は、早稲田は負けたけれども、早稲田にとっても、学生ラグビーにとっても、希望のある敗戦だったなと思う。あの東芝相手に4トライは健闘と言ってもいいだろう。重心の低いモールは十分に通用していたし、バックスのアタック(ディフェンスは崩されたが)にも見るものがあった。もしかしたら、二年前のように学生でもトップリーグ4強に勝てる可能性があるかもしれないと思わせてくれる敗戦ではあった。しかし、早稲田には勝ってもらわなければ困るのである。早稲田がパワーのあるトップリーグの上位チームを破らないと、日本代表もまた、永遠に世界のトップチームに勝てる気がしないからだ。ラグビー協会関係者の間には、トップリーグと学生の間の実力差が開いてきたので、日本選手権はやっても意味がないとの見方もあるようだが、それを言ってしまえばおしまいだ。おそらく早稲田とトップリーグ4強との実力差は、日本代表と世界のトップ5の「二軍」か「三軍」との力の差ぐらいあるのではないだろうか。すると、日本代表のほうが、はるかにW杯に出ても意味がないと断ずることになる。だから希望ある敗戦は、日本代表にとっても、早稲田にとっても、どうしても譲れない線なのだ。創意工夫でパワーに勝てるという可能性を示さなければ、やはり日本のラグビーにも未来はない。トップリーグは来期から同時に試合に出られる外国人枠が3人に増やされるそうだ。パワーに関しては、ますますトップリーグと学生の差は開くだろう。しかし、そのような見せ掛けの差が開いたぐらいでは、日本選手権をやめる理由にはならない。実力差を技とアイデアでどのように縮めるか、その切磋琢磨する場を手放すのは、未来の息の根をとめることになる。そうならないためにも、少なくとも「希望ある敗戦」を何度でも負け続けなければならないのだと思う。
2008.03.02
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今日も落日が美しかったですね。上の写真は国立競技場から見た落日です。今日はその国立でラグビー大学選手権決勝が行われ、関東学院が早稲田を33対26で破り、早稲田の三連覇を阻みました。関東学院はラインアウトの制空権を完全に掌握、接点でも早稲田をほぼ抑え、まさに完勝という感じがしました。バックスの切れ味もよかったですね。完璧の仕上がりだったのではないでしょうか。昨年の決勝では、早稲田に接点で圧倒され完敗しましたから、その悔しさを一年後にぶつけてきました。関東学院には是非、トップリーグ四強の壁を崩してほしいものです(もちろん、早稲田にもそのチャンスはあると思いますが)。負けた早稲田も首藤、管野らのバックスがよく走りました。五郎丸も難しい角度から2本コンバージョンを決めたし、矢富も相変わらず、いい動きをしていた。ただやはり、制空権を取れなかったことでリズムが悪くなり、随所で焦りが出てしまいましたね。下の写真は、荒ぶれなかった早稲田の選手たち。試合ですから、勝者がいれば敗者もいます。決勝での勝者には、勝者にしか味わえない栄光があるでしょうが、敗者には敗者にしか知ることができない貴重な経験があるように思います。美しい落日のような敗北ーー。だけどいつまでも「敗者の美学」に浸っているわけにはいきませんよ。次のシーズンこそ、勝つ前に極まらないで、「荒ぶる」を目指してください。帰り道で出会った猫ちゃんたち。最近、三毛ちゃんに出会いません。世話をしている人に聞いたら、昨日まではちゃんといたのに、今日は探しても出てこないとのこと。三毛ちゃんは既に16歳だそうです。ちょっと心配です。
2007.01.13
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本当は行くつもりはなかったのですが、素晴らしく晴れたのでつい秩父宮ラグビー場まで。外苑の銀杏並木もようやく黄葉になりました。この日は、関東大学ジュニア選手権(レギュラーではない選手たちの試合)の決勝が行われたのですが、関東学院が12対3で早稲田を下し、早稲田の5連覇を阻みました。春の早関戦やファーストステージのジュニア早明戦のときのように、早稲田の攻めはことごとくつぶされました。関東のフォワードは最初にかなり早稲田フォワードに圧力をかけることに成功したようです。プレッシャーを受けたためか、早稲田にミスが多かったですね。逆にフォワード近辺を突かれ、ディフェンスラインを破られました。ジュニア準決勝の早稲田対明治戦では、明治のディフェンスの悪さから早稲田のバックスがディフェンスラインを突破するケースが多かったですが、さすがに関東学院のディフェンスは明治のようにはさせてくれなかったですね。実力的には個々のフォワードが強い分、関東のほうが上だったのではないかと思います。バックスタンドから新宿方面を望みます。いい眺めですね。こちらからだと太陽を一杯に受けて、ポカポカ暖かいです。次の試合はトップイーストリーグの三菱重工相模原対NTT東日本。両者決め手に欠けて、キックでしか点が入らない時間帯が続きましたが、両者疲れが出てきた後半の最後、トライ合戦があってスタンドが沸きました。フィットネスがトップリーグや学生に比べて落ちるので、こういう試合になってしまうんでしょうね。今日はこれから、イワクラ学会関東支部の忘年会です。
2006.12.10
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昨日は3時間半の山歩きでしたが、今日は2時間のサイクリングでした。目的がないのもつまらないので、中野区立中央図書館に本を返却した後、上井草の早稲田ラグビーグラウンドへ。既に早稲田Cと慶応Bの試合が始まっていました。慶応のセカンドジャージを初めて見ました。黄色に黒の横じまは同じなのですが、黒のラインが細いので遠くからは真っ黄色に見えます。ちびタイガージャージですね。試合は早稲田Cが53対0と圧勝。慶応はフォワードが圧倒されていました。一軍と二軍の差がこれだけあるということは、慶応の一軍はよほど少数精鋭ということでしょうか。第二試合は早稲田Bと明治Bの関東大学ジュニアラグビー選手権の準決勝。10月に八幡山でやった試合は明治がフォワード戦で終始優位に立ち19対14で勝っています。この日は早稲田がリベンジを果たし43対19で勝利。スクラムでは明治フォワードが優位に立っていましたが、早稲田はボールに対する寄りの早さで対抗。明治バックスのディフェンスが悪いせいかはわかりませんが、早稲田のハーフ、バックス陣が明治のディフェンスラインを何度も切り裂いてはトライを重ねていました。最後は明治スクラムの認定トライもあり、強い明治のフォワード対スピードと展開の早稲田バックスという「伝統的な試合」ではありました。その後私は、善福寺川のサイクリングコースへ。和田堀公園のベンチには猫ちゃんが座っていました。どこか風格のある猫ちゃんですね。
2006.11.26
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この一年、数々の輝かしい戦績を残した早大ラグビー部佐々木組。しかし、栄光にもいつかは終わりが来ます。22日は、佐々木組最後の行事である佐々木組追い出し試合が上井草のグランドでありました。試合前に円陣を組む四年生。選手は32人(1人欠席?)、トレーナー2人、マネージャー1人の計35人です。この後4年生全員で北風を歌いました。この4年生のチームが、15~20分のマッチでAチーム、3年生チーム、2年生チーム、1年生チームと次々と試合をします。2年生チームと1年生チームとの試合では、四年生のトレーナーやマネージャーも参加。最後は恒例となっている女子マネージャーの独走トライで終わりました。早稲田は19日の日本選手権準決勝で東芝府中に完敗しました。前半はディフェンスで健闘しましたが、結局、接点で圧倒され最後は点差が開きました。来年は、打倒東芝(あるいはサントリー)を目指して欲しいですね。何度か対戦して相手の圧力に慣れれば、勝機があるようにも思えました。試合終了。佐々木組最後の公式戦が終わりました。21日には監督と主将の交代がありました。新監督と新主将は96年度に主将だった中竹竜二とフランカーの東条選手です。清宮前監督はサントリーの監督に就任します。サントリーには佐々木組の三代前の主将だった山下大悟選手がいますね。怪我で昨シーズンは活躍できませんでしたが、青木、前田、佐々木の各選手が加われば、トップリーグにも早稲田魂が宿るかもしれません。
2006.02.22
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ラグビーの日本選手権準々決勝で、早大がトヨタ自動車を28―24で破りました。学生チームが社会人上位チームに勝ったのは1988年以来18年ぶりだそうです。試合はフォワード戦で早稲田が互角以上の戦いをみせましたね。とくにラインアウトはほぼ完璧の出来。フランカーの豊田選手は大活躍でしたね。前半23分には、モールから主将の佐々木選手がトライ。下の写真はそのときのモールです。早稲田が終了間際のトヨタの攻撃をしのぎきり、試合終了の笛がなると、スタンドの観客は総立ちです。スクリーンには佐々木選手がチームメートと抱き合っている場面が映し出されています。ちなみに、中央に写っている髪の毛の薄い人は私ではありません。念のために。
2006.02.12
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今日は雲ひとつない良い天気。上井草の早稲田大学ラグビーグランドでは、明日のトヨタ戦に向けた試合前練習をしていました。負けたら後がない真剣勝負。明日の試合は、5年間にわたる清宮早稲田の集大成でもありますね。どのような試合になるか楽しみです。下の写真は恒例のタックル練習。手前の坊主頭の選手はスクラムハーフの矢富選手です。試験勉強のしすぎ(?)で体調を崩したため先週の試合は欠場したそうですが、もうすっかり元気です。さて気になるのは、スポーツ新聞や写真週刊誌フライデーなどで騒がれている五郎丸選手ですが、あごの骨折から見事に復活しましたね。明日はフルバックで先発出場です。キックの最終調整をする五郎丸選手。赤いスパイクシューズが鮮やかですね。ラグビー日本選手権二回戦の早稲田大学対トヨタの試合は明日12日午後2時、秩父宮ラグビー場で行われます。
2006.02.11
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今日は東京地方、朝から雪が舞いました。上の写真は阿佐ヶ谷駅の南口です。寒そうな景色ですね。まさに荒ぶる吹雪が逆巻いていましたよ。この日は、杉並区役所で(恒例の)早稲田大学ラグビー部優勝報告会がありました。1月8日の大学選手権で優勝した佐々木組のレギュラーが、怪我で入院中の五郎丸選手を除き勢ぞろい。ここでも、日本一になったときだけに歌う「荒ぶる」を披露しました。これが主将の佐々木選手。次の写真は副将の青木選手ですね。青木選手は卒業後、サントリーでプレイすることが決まっています。サントリーには、関東学院の有賀選手や慶応の竹本選手など各校の主将が集まりますね。佐々木選手の就職先は未定だそうですが、同じく未定だと言っていたプロップの前田選手はサントリーに行く可能性が強いそうです。その後、上井草駅前の商店街でパレード。そして早稲田の体育館で商店街主催で優勝報告会がありました。ここはまさに、早稲田ファンのために開いてくれたような報告会でした。樽酒やちょっとした軽食が振舞われ、選手と直に話ができます。私もほぼレギュラー全員と言葉を交わしました。フジテレビに入ることが決まっている内橋選手は、もう本格的にラグビーをやることはないそうです。曾我部選手は見かけ通りひょうきんでしたが、後輩からは優しい人だといわれていました。矢富選手と豊田選手はヤンチャ。菅野選手も真面目で優しい感じがします。次の主将は、首藤選手か東条選手という説が有力でした。下の写真が首藤選手です。さて、あごの骨折で入院している五郎丸選手は、怪我をした翌日か翌々日には手術をして、現在流動食しか食べられない状態だそうですが、近日中に退院予定。2月12日の日本選手権トップリーグ上位チームとの対戦(予定)に間にあうよう奇跡の復活を目指します。その間、五郎丸選手の替わりにフルバックを務めるのは、高橋銀太郎選手ですね。佐々木選手は「よくキックの練習をさせておきます」と冗談交じりに話していました。今季限りで辞める清宮監督は迷ったようですが、現段階ではサントリーに戻ることを考えているようです。早稲田ラグビーファン向けのブログでした。
2006.01.21
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