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・・・春の選抜がおこなわれている。東北北海道勢で秋田商が残っているが、今治北に九回三点差を同点にされ延長となったが、と言っているまに、サヨナラゲームで秋田商が勝ち残った4:3だった。『おめでとう!』 秋田は出羽三山の一つ鳥海山の恵みを受けつつ、自然の脅威に翻弄されつつも農漁業が主流だが、いまだ冬は出稼ぎに行かざるを得ない家が多い。 長年、北陸・東北・北海道は“冬”というハンディキャップを背負い続けて風雪を耐え忍んでいるが、北陸方面は数多く歴代首相経験者が輩出されるうちに社会資本が整備され、高速道路・新幹線などで大動脈の流通が開かれ閉ざされた冬を切開いてきた。 しかし、東北・北海道は一部の交通の便が図られたが、相変らず都会から見れば、陸の孤島の感を逃れないままだ。まだまだ高速道路・新幹線などの社会資本の導入は必要と思われるが、それに乗じた役人・組織の不正が開発を妨げているのだが、そんな不正によって開発は打切られ遅延したりしている。 政治・官僚・役人の不正は暴かれ、暴かれつつある。そして天下りの実態も為にするためにつくった組織によって、地方の必要な開発資金も資源も食いつぶされ続けていることから、いよいよ地方は遅れ続けることになる。 無口で黙々と勤勉に働く、厳冬の中ジッと耐えつづけ声を出さない地方は蔑ろにされ続けている現状を忘れてはいけない。都会も地方も社会インフラは同等に整えてあげねばならず、あとは地方のやる気と努力しだいなのだ。 ODAも出す事にやぶさかではないが、自国の開発発展を図りつつ出すのであればよいが、他国への斟酌が優先されるような政策は現認できないし、また言われているようなバックマージンの為にODAを利用し国税を搾取するような言動は許されないはずだが、まかり通っているのは何故だろう? 忘れ去られた地方にならないようにしてもらいたいものだ。 日本人の資質も気質も変質しつつあるのか、起こり得ないような事が起こっている現実には、ただ、いつも驚愕するばかりだし、悲惨がます。 しかし、素晴らしい期待を寄せてくれた諸外国の方々も居られるのです。 ・・・以下・・・(詩)・・・日本人よ ありがとう・・・かつて 日本人は清らかで美しかったかつて 日本人は親切でこころ豊かだったアジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命尽くしてくれた何千万人もの 人の中には少しは 変な人もいたしおこりんぼや わがままな人もいた自分の考えを おしつけていばってばかりいる人だっていなかったわけじゃないでも その頃の日本人はそんな少しの いやなことや不愉快さを超えておおらかで まじめで希望に満ちて明るかった戦後の日本人は自分たち日本人のことを悪者だと思い込まされた学校でも ジャーナリズムもそうだとしか教えなかったからまじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだだから アジアの国に行ったらひたすら ペコペコあやまって私たちはそんなことはいたしませんと言えばよいと思っているそのくせ 経済力がついてきて技術力が向上してくると自分の国や自分までがえらいと思うようになってきてうわべや 口先では済まなかった悪かったと言いながらひとりよがりの自分本位の えらそうな態度をするそんな今の日本人が 心配だ本当に どうなっちまったんだろう日本人は そんなはずじゃなかったのに本当の日本人を知っているわたしたちは今は いつも 歯がゆくてくやしい思いがする自分のことや自分の会社の利益ばかり考えてこせこせと身勝手な行動ばかりしているヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人だろうか自分たちだけで 集まっては自分たちだけの 楽しみやぜいたくに ふけりながら自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と 国民のことをさげすんだ眼でみたりバカにしたりするこんな 人たちと本当に仲良くしてゆけるだろうかどうしてどうして日本人はこんなになってしまったんだ 『日本人よありがとう』(土生良樹著・日本教育新聞社刊)序文にある マレーシア元上院議員ラジャー・ダト・ノンチック氏の詩より。 昔、こんな日本人が日本があった。 しかし、現在はどうだろうか、上・下も自己利益優先で、他人への斟酌はいつも後回しになった言動から昔日のサムライ日本を想起することは難しい。 日本を好きで応援している多数の外国人にも、このままではあいそをつかされるのは時間の問題だろうし加速する、目覚めねば、哀しいことに。
2006年03月30日
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・・・少しは春らしくなってきたようだが、まだ三寒四温で桜の花が散りきってしまうまで風も雨も油断ならない日が続く。 井伏鱒二の“サヨナラだけが人生だ”なんてのを思い出すけれど、この時期には卒業・就職・転勤と周囲が忙しないなかでも、桜の花が散るとともに友への惜別がある。 別れがあれば、出逢いもまたある。が、なにかと気忙しい季節だ。 先日記した『居酒屋 みのり』に来る異業種格闘技?の様相を呈しているお客さんの中に、釣りが好きな人が何人かいるのですが、日曜日にクロダイ釣りに行ってきた方がいた。結果は外れだったようですがウマズラなど釣ってきたのを刺身で戴いたが、あまく身が締まっていて美味かった。とても日本酒と仲がいいネ。 昨年はクロダイ釣りで、大型のクーラーボックス数個に50~60センチを満載して帰ってきた。行った人数も大勢だったのですが大漁だったので、おこぼれに新鮮なお刺身を戴いたが美味かった。あまくぷりぷりとした食感がいいネ。 今は、フィッシャーウーマンも陸続と輩出されているようで、釣りが男だけの逃げ場ではなくなってきたようだが、ナゼカ男の秘密の場所が減ることはサミシイと感じる今日この頃です。 釣り師のバイブルといえばアイザック・ウォルトンの『ザ・コンプリート・アングラー』(釣魚大全)が在るが、これは三世紀も昔に書かれたモノだが細流は涸渇することなく読み継がれている名著だ。 もうひとつは、これも名作と定評のあるグレイ卿の『フライ・フィッシング』が在る。 いまの釣りが餌釣りからフライとかルアーへと流行が変遷することにより無視されてきたこの名作にも光があたってきたのかも知れない。以前の日本の釣りでは蚊針で山奥の山女・岩魚のテンカラ釣りとか、鮎の友釣りしか知らなかったところに、欧米流の風潮とバスなどが蔓延ってきたことからだろう。 イギリス人の書く随筆には素直、簡明を至境としてめざす文体上の伝統があるように思われるほどシンプルだ。しばしばそれは簡直を志すあまりに微妙な明暗や隠し味までをも忘れてしまうほどだ。 しかし、このシンプルさというものが曲者で、三流のシンプル人間がシンプルを書いてもどうしょうもないが、博大な経験と素養を持つ一流の人物が感性の彷徨と爛熟のあげくにしぼりだす、一滴の光としてのシンプルとなると、それを翻訳するにも批評するにも、これくらい厄介なものはないといえるほどだろう。 文体の背後に捨て去ったものや隠したものが膨大すぎてまさぐりようがなくなる。経験と知識と時間の鑢にかけられた一滴のシンプル、そのエッセンスに含まれる背後に光をあてることはむつかしいことだ。 序文に書かれているのは、釣りの技や道具の解説よりも大事なことは読者と釣りの喜びそのものを分かち合うこと、共感しあえることだと言っている。が、河岸へ行き着くのに草むらやヤブやぬかるみをどうしても通らなければいけないように、必要な技や道具の術語がちりばめられた文章と解説は記してある。 インスタントものが大流行の時代にあり、書物も安出来、お粗末、即席、ヤッツケ、そっくりの氾濫で、手にしたその瞬間に放り出したくなる本が多いなかで、たちどまりつつもどうしても最後のページまで読みとうさずばいられないという本も、ときには読んでみたい。 そうでなければ己の精神は虫歯だらけだ。まだ歯が残っているのならば。 イギリスの外務大臣だったグレイ卿とルーズヴェルトについての逸話もあるが、グレイ卿がウォルトンの『釣魚大全』について、その奇書についてはウォルトンその人の資質、温厚、静謐が気品をにじみだし、風格を伝えていると指摘している。 その当時には、内戦、動乱、緊迫、不安が時代にあり、グレイ卿は相思相愛の妻を馬車事故で奪われ、つでに視力を奪われ釣りも園芸も出来ずに晩年をすごした。第一次大戦を外務大臣として防ぐことができなかったために心の平穏をさえ得られないままだった。 晩年近い卿の視線を“悲しき鷲の眼”と表現した人があると伝えられている。 ウォルトンの時代もグレイ卿の時代も安逸な時代ではなかったが、その著作の中ではけっして一身上の苦悩を語ろうとはせず、弱音を漏らそうとしなかった。読者は河岸での純潔な悦びと静思の愉しみを伝えられ、感染し、ほのぼのと心のほぐれをほどかれるばかりで、苦味や辛味はまったく教えられることがない。 しかし、二人の現世での苦患があってこその明澄と静謐が蒸留されて出来たものと思いたい。隠し味があればこそ真味が分泌されこととなったものと思いたい。 とことん一身上の苦患を曝け出して書かれるものもある。あべこべに、とことんひたかくしにかくして書かれるものもある。が、どちらがいいかわるいかなどは問題にならない。どちらをとるかは自由であるが、一方を支持するあまりに反対の他の一方を軽蔑するような度量の狭さは、自身、排してゆきたいものだ。 二人の現代にくらべて、釣りの知識、道具、感覚、視点などお話にならないほど発達し究明され、もう未知なものは無さそうなくらいに隔たった時代になったが、だからといってウォルトンもグレイ卿も残した名著『釣魚大全』も『フライ・フィッシング』も、その魅力も価値もいささかも損傷されることはない。 そして『真に重要なのは人と作品にある感情の魅力であり、気品にあるのだから』とも書きつけている。が、まったくそのとおりでその言葉をそのまま卿の著作についても贈呈したいものだネ。 二人の逸材ぶりと異能ぶりは見事なもので、心も足も手も弱い我々にひっそりと、けれど力強く奮い立たせる音なき鞭の一鳴りを感じさせられることになる。 シンプルとディープの合体は難儀なことだね。
2006年03月28日
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・・・読んでみた二つのものが面白そうなので転記してみた。 一つは国内における対中政策の根本にある『親中』『媚中』へ傾斜している根本。シナの対日戦略に長年嵌った結果として現在があり、それが加速して日本の首相を決めるにもそんな国の意向が色濃く反映している。知れば知るほど唖然・呆然、隷属国家への道か。 二つ目はフェミニスト・ジェンダー問題が国策となり、その思想がいかに社会と教育の荒廃を加速し国家のメルトダウンを招くことになるかを描き出している一文。「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 中国の対日工作の戦術変更 「小泉首相だけが悪いが、日本国民は友人」 王毅大使が長期の「休暇」をとって北京は戻っていた。四十日間前後も、である。さては左遷?対日工作の変更? 色々な噂が飛んだ。 その後、橋本、野中、二階、野田などの親中派、媚中派が陸続として北京へ向かった。 出てきたのは“靖国カード”の再利用だった。 つまり小泉首相だけが「軍国主義復活を目指す悪者」であり、「日本国民は中国のフレンドであり、これからも仲良く」という路線だ。これは毛沢東が「日中人民は共通の友人、米帝国主義と佐藤栄作は敵」として「つぎ」の田中角栄にエールをおくった、あの戦術の再来であり、換言すれば「ヒットラーだけが悪いが、ドイツ国民は悪くない」というすり替え議論に近い。 「小泉の次」に期待すると中国は言いだした。永田町は浮き足だって、安倍ではなく、福田が良いと言い出す媚中派が猖獗し始めた。 どうやら日本の首相は中国が決めるらしいゾ。 猪口邦子大臣への手紙7.青葉ひかるコーナー 「昼下がりの手紙」 拝啓 猪口邦子大臣殿 時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。私は市井 の一主婦でございまして、日の本花子と申します。突然にこの ような不躾なお便りを差し上げます失礼をどうぞお許しください ませ。 何はともあれ、この度の少子化担当大臣ご就任心よりお祝い 申し上げます。才媛の誉れ高く、大学教授、国際政治学者 という私共主婦といたしまして、目もくらむような肩書をお持ち でいらっしゃいまして、いわゆる才色兼備とは先生のような方 にこそ相応しい言葉でございましょう。数多いる他のフェミニズ ム学者とは一線をおいてらっしゃるような美しいお姿は、華や かさもおそなえになり、女性のリーダーとして私共といたしまし ても、とにかくエールをお送りしなければなりません。 しかも、つい最近までは「軍縮会議政府代表部特命全権大 使」なる舌を噛みそうなものものしい肩書きもお持ちでいらっし ゃいました。以前、東京プリンスホテルの会場で先生のご講演 を拝聴させていただく機会がございました。私共主婦仲間には 大変難しいお話で、正直申しまして、チンプンカンプンでござい まして、浅学非才を恥じた次第でございます。 確か「軍縮をすれば、世界が平和になる」という内容で熱弁を 奮われたように記憶いたしております。私共凡人にとりましては 大変難解でございました。 と申しますのも昨今の国際情勢といいますか、私共はテレビで の知識だけでございますが、「軍縮をしない国」があるため、世 界が困っているように思えるわけでございますから、なかなか先 生のお話が解からなかったわけでございます。 毎日、家事、雑事に追われております私共にとりましては、難 しいお話はわかりませんが,いずれにいたしましても、世界が軍 縮をすれば素晴らしいことでございましょうから、やはり、そう祈 らざるを得ません。 さて、この度ご担当の「少子化」は、子供や孫の世代を考え ますに、やはり喫緊の課題でございまして、専任大臣を置か れましたことは小泉首相の意識の表れでございましょう。 先生は、今まで、確かポマードでピカピカの総理大臣や歴代 の官房長官らに折衝なさり、誰しも反対しづらい「男女共同 参画基本法」の制定に奔走され、大変ご尽力なさった方だ そうでございますね。 「女性が外で働くことが善である」というお考えでらしてご自身 が何より体現なさり、大変ご立派でらっしゃいまして、私共も ご尊敬申しあげております。 しかし、この法律が基幹となり、母親代行業とハコモノでの 「乳幼児保育支援」などという社会政策を進めることは少 子化の歯止めになることは決してありませんし、 私共一般大衆のニーズではありませんということだけはご理 解くださいますでしょうか。 それに、家庭の主婦や母親の価値が完全に否定されてし まったこの法律は私共日々子育てや家族のために働いて いる女性にとりましては、まるで「悪魔の法律」と言っても 過言ではないように思います。 それを象徴するような施策のひとつとして、昨今では「外で 働かない女性」には税制でも締め付けが起きようとしており ます。 この法律は、「家事・育児」も日本の将来を担う子供のた めには大事であるという視点は全くなく、国全体が間違っ た方向へ行くものであるような気がいたしておりますが、「主 婦の戯言」なのでしょうか。家庭が健全で、国家が健全で あるのではないでしょうか。 細かいことは勿論ご承知でいらっしゃいますでしょうから申し ませんが、あの「ジェンダーフリー」とかいう普通の人の生活 実感を否定する思想・政策も子供達を蝕む元凶のような 気がいたします。 この法律が出来て以来、何か変な風潮が巷に溢れている ことは、現在の青少年やさらに、小学校の低学年にまでお よんでいるさまざまな状況や事件などをみましても、明らか でございます。 教育現場が病んでいることは今さら申し上げるまでもござ いませんが、例えば子供達の性病蔓延が他の先進国の 10倍とは、何と恐ろしいことでございましょう。 略して「男女共産法」いえ「男女共参法」という看板を前 に堂々と家庭破壊、国家破壊の思想が行き渡り、滅茶 苦茶なお考えの教師によって、ますます子供や青少年が 汚染されていることは、私共は家庭でも見過ごすわけに はまいりません。 諸悪の根源はこの「男女共産法」いえ「男女共参法」の ように感じる昨今でございますが、このあたり先生はいかが お考えでらっしゃいましょうか。 いえ、これは愚問でございますね。 先生は、この法律を率先なさってらした方でございますもの。 「政・官・学会」を巻き込んでご活躍の先生でらっしゃいま すから、この流れを加速なさることはあっても、お止めになる ことはございませんですものね。 内閣府に「男女共産局」いえ「男女共参局」を設置なさり ここが司令塔になり、我国の防衛費の倍である9兆9000 億円のコストをかけ、日本全国津々浦々にご自身の夢を かなえられました。この法律の導くところのものは地方自治 体にも完全に浸透いたしました。この堅固な体制は微塵も 揺らぐことはないかもしれません。 先生のご要望どおり、全国に365ケ所の女性センターなる 施設もできました。 その施設などでは、かって全共闘であった大学教授や弁護 士や団体役員の方々を講師としてお迎えし、私共主婦を はじめ、全国のさまざまな分野の女性の前で巡回講演会 を実施しています。 日本の将来を危うくするために莫大な税金を使っているわ けでございます。関係者の方々は、猪口先生の多大なご 尽力に大変感謝なさっているようでございます。 毎日黙々と仕事をしている多くの国民が知らぬ間に、声 の大きい方々、しかも「日本悪しかれ」と願っている人々 によって、なんだかおかしなおかしな方向へ向かっているよ うに感じるわけでございます。 よもや先生はそのような方々とは別格でらっしゃるとご自身 もお考えでらっしゃると考えたく存じますが、路線というもの はそうそう簡単には変わらないものかも知れません。 このような思想がますます蔓延るならば、日本は外敵によ って滅びるのではなく「内から滅ぶ」ような気がいたします。 なんだか生意気なことを申し上げたようでございますがお 許しくださいませ。 「民主主義国は互いに戦争をいたしません。だから、民 主主義を世界に広めましょう。」と仰る先生のお説も、凡 人にはやはりなかなか難解でございまして、これは先生の ご愛嬌とでも理解させていただきたく存じます。 私は、先生のこの愛くるしさ、無邪気さが、そして女性ら しいファッションが大好きでございます。本当にファンでござ います。今後も、チャーミングな愛らしい美しいお姿で私 共の目をぜひ楽しませてくださいませ。 最後になりましたが、先生は今までもうご立派にご活躍 なさいました。 猪口先生、本当にご苦労さまでございました。 大臣になられました先生、もうこれ以上のご活躍はお疲 れになられますから、必要ございません。 今後は何もなさらないで、どうぞごゆっくりとご静養なさり お静かにのどかにお過ごしくださいますよう心よりお祈り 申し上げます。 敬具 平成17年11月4日 日の本花子 青葉ひかる猪口さんは大臣になられてから、テレビでよく見るようになりましたが インタビューを聞くと大変張り切っておられるご様子。 青葉さんも言われてますが、何もなさらないで、ごゆっくりとご静 養なさりお静かにのどかにお過ごししていただきたいです。 男女共同参画社会というのは、※ジェンダーフリー社会の別名です。 「ジェンダーに平等な社会」とは「ジェンダーフリー社会」のことにほかなりません。 このジェンダーフリー社会の構築を目指して作られたのが「男女 共同参画社会基本法」(平成十一年公布)という法律です。 平成十年にこの法律を作る際の議事録を見ると、男女共同参画審議 会の委員は、公にされる議事であるにも拘わらず、ジェンダーフリー 思想をいかに上手く入れ込むかという議論をしており、 「社会的・文化的に形成された性別という言葉を使う案では、それ は何だという人が多分出る。・・・何かカモフラージュを」 「こそっと入れておいて、これでうまくいけば、それはしめたもの」 などと発言しています。 ジャーナリスト千葉展正氏の著書男と女の戦争―反フェミニズム入門 によると、フェミニストたちは本当は「男女平等基本法」と名付けたかっ たのですが、頭の回る官僚が「男女平等は表現がきついので抵抗勢力 (男性)の反対を招く」という配慮を働かせ、「男女共同参画」という意味 不明の表現が登場したそうです。 この官僚的配慮が功を奏し、国会議員たちは訳の分からないまま男女 共同参画社会基本法に賛成し、世界に類を見ない「ジェンダーフリー基 本法」が全会一致で国会を通過したのです。 この法律が元になり、ジェンダーフリー推進のため、年間9兆9千億 円(平成十六年度)もの予算が組まれ、国民の血税が使われている のです。この額は、我が国を守るための防衛費4兆9千億円の倍以 上の金額です。 そして、政府の機構を縮小して国費節減を図るために省庁再編が行 われ、128局が削減される中で唯一、男女共同参画局だけが96局 に増やされたのです。 このように、国民の血税を使って、国策としてジェンダーフリー思 想を振りまいているのが現状なのです。 この状況下で、男女共同参画担当相が出来、ジェンダーフリーの旗 振りをしてきた、『確信犯』的存在である猪口邦子さんが任命された のです。 巨額の予算を握り、権力も手にして張り切る猪口さんが何をされる のか、私は大変な危惧を感じます。 ◆男女共同参画局 http://www.gender.go.jp/
2006年03月28日
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・・・夜明けが穏やかだ。 複雑怪奇に錯綜した現実が日々繰広げられ、心ならずも踊らされることになってしまうが、現実の風景も見るものの心のあり方一つで違ってくることは皆知っている。 たまには心のフィルターを取り替えてみたいものだが・・・。 ひとり言「創造編」 分子も原子も、その集合体である細胞も、それぞれのレベルで中心から全方向へエネルギーを放出している。岩も樹木も、動物も、すべてのものが存在するためには、内部でエネルギーがぶつかり合い、数限りないパターンをとり振動している。岩も木も鉱物も、静止しているようで固体のようでも、実はとてつもなく速い動きの複合体が調和されて形を創っている。焦点をどこに合わせるかで、現象は違って見え、視点を移動させることで、創造の性質とメカニズムを知る。 原子が人間の大きさだとすると、実際の人間は100億メートル程の無限巨人になる。世界中にいるすべての人間を全部たしても足らない身長の‘宇宙的巨大人間’。その内部で絶え間なく活動する1メートル程の原子。外も内も宇宙。調和された創造と進化のプロセスそのもの‘エネルギー世界’。 平常でない精神状態にいるとき、身体の細胞レベルでは余計な仕事を強いられ、分裂と再生のリズムが乱れる。「不安」「怖れ」「怒り」「憎悪」の自己破壊力は強烈で、それが繰り返されると、細胞の活動を極端なまでに低下させ、生命を危ぶませることもある。生命活動の支えとなる精神エネルギーを浪費させないためにも、「心配」はしない方がいい。心配して解決する問題など何ひとつ無く、それが「怖れ」「苛立ち」へと発展し、病気を創り出すだけとなる。人のことをよく心配する人は、その人を愛しているのではなく、その人を通して自分を愛し、病気を愛する人。心配ばかりする人は、心の世界のデストロイヤー。 多くの人の脳に共通して刷り込まれた価値観からなる感情が、ある種のセンサーをつくり出し、それが快・喜び・満足といった感情に発展しただけに過ぎない「精神の感動」。それら精神の反応でしかない感動ゲームのようなものとは違い、すべてとの喜びの共有・一体感の中で生まれる「心の感動」。「心の喜び」を知る人は、競争や比較を選ばず、正直な想いを表現し、すべての存在を祝福する。感動するための対象をわざわざ必要とせず、「すべての存在、自由な思考、変化する今」に感動する。目に映るもの、肌に触れるもの、周りの人や出来事みんなに感動する。そして大勢の人がそうであれば、争いも貧困もない調和のとれた素晴らしい世界が生まれることも知っている。 ほんとうに病んだ人を癒したい、痛みを取り除いてあげたいと考えるヒーラーは、病気の人に喜んでもらうことが喜びだから、感謝されようとか、尊敬されようとかの低レベルの思考とは縁が無い。逆に患者に対し、感謝の気持ちで一杯になる。(最高の体験をさせてくれているし。)資格や肩書き、グッズといった形にはこだわらず、特別な場所もスタイルも必要とせず、「縁のある人がさりげなくあたり前に癒される」ことを、ただ実践するだけ。自分の存在そのものが「癒しのエナジー」だから。彼らの持つエネルギーが病気を治すというよりは、彼らの存在(意識、心)の中を、宇宙の治癒エナジーが流れ込み、それが出会う人それぞれに適合した性質の粒子に変換され、愛のエナジーとなって病んだ人を包み込む。そしてス~ッと治癒へ向かわせてしまう。一般の人から見れば、奇跡と思えるようなことでも、彼らにはあたり前の常識。宇宙の光に照らされた生命の道を、しっかりと歩む「癒し手」だから。 「経験に影響される意識の変化」にではなく、その逆の『意識によって影響される経験の変化』という新たな場所に焦点を合わせれば、1、不安の存在意義を認められなくなる。2、悩みや不安、心配ごとが消えるというより、どうでもよくなる。3、問題を解決するというより、それを問題視しなくなる。…と、いつのまにか精神のパワーがついた自分を発見するはず。「目の前の現実は、すべて自分の心のフィルター(意識)を通して具現化したもの」。そのままでいて、フィルターをかえてしまえばいい。 子供の頃の学校生活を懐かしく振り返ると、記憶の中で輝いている先生がいる。よく授業の流れを無視して脱線し、面白い話をしてくれたり、何気ない生徒の質問から授業が思わぬ展開をしてドキドキしたり…。先生はたくさんの経験と知恵で、準備することでつくられる時間じゃなく、ふと思いつくひらめきが大きな力となって人の心を動かし、かけがえのない時間を創り出すことを教えてくれた。 感動のときは、その瞬間瞬間における創造であり、過去に準備(用意)されたものを通してからは、何も生まれない。準備され、計算された言葉は、生命の無い文字の羅列。言葉は生命であり、「今」を表すエネルギー。文字の組み合わせに過ぎない生命の無い言葉は言葉じゃない。 心を開いている状態でいるかどうかを判断するひとつの材料として、「誰とでも話ができる」がある。生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまで、様々な職業やキャリアを持った人たち、異なった人生観や世界観、宗教観を持った人たち。彼ら誰とでもごく自然に疲れを感じることなくふつうに話ができればOK。また心を開いているというのは、真実の自分でいるということ。自己観察があたり前の他とのハーモニー。相手の心にもその想いのエネルギーが伝わり共振し、同じことを選択する機会を持たせることができる。心を開くのではなく、開いている心。何よりも大切で容易なこと。誰もができる普通のこと。 ひとつの情報に対する解釈・理解がエネルギーとなって、その人の精神の中に取り込まれて吸収され、それがまた別な新しい情報を引き寄せ、新しい機会を創造する力に変わる。だから、必要とする情報は自分の存在そのものであり、新たな自分を経験する上での大切な思考のエネルギー(サポート)でもある。 思考は行為の原動力であり、経験を創り出すエネルギー。また、経験によって蓄積された知識・情報という物理的な要素が、思考の微妙な振れや強弱、方向付けを刺激し、次の経験を引き寄せる際の意志・選択を容易に変化させているという影響力を考えれば、思考も経験も同じ仲間、同じ性質のものだと言える。…という思考も経験。…という思考がある。 反省ばかりしている人の危険なところは、過去のある時に戻って、いくつもの後悔をつくってしまい、自分の人生に責任をとれなくなってしまうこと。不本意でしてしまったことも、とっさの思いつきで言ったことも、結局は自分の意志でそのことを選んでいるわけで、「そんなつもりはなかった」と言っても、「そんなつもりはないけどそうした」自分がちゃんとそこにいたわけだ。後悔する必要がないよう、自分の心の欲求のまま、正直な想いのまま表現すればいいのに、心のどこかで責任をとりたくないから、心に嘘をついて他に依存し、自分の考え意見を押し殺し決断するという、最悪のパターンをとる。これじゃ後悔するために生きているようなもの。反省が日課となる暗い性格の人間になってしまう。 反省することの意義は、後悔する必要のない責任ある発言・行動をするという機会を創造・経験するためにある。反省は、反省しなくてもいいことを学ぶためにある。だから弱い精神の自分をごまかさず、認めてしまうこと。そうすれば、自己弁護も無責任への許しも必要なくなる。後悔のない理解と責任ある判断・選択は、そのままの自分を受容し、そのままの自分を表現することで生まれる。反省ばかりしてた暗い表情の過去の自分が、明るく豊かになって浮かび上がってくるための大切なエネルギーは、「反省する必要のない言動」。そのためには…。こたえはいつもシンプル。 「自然と親しむ」…使い古された言葉だけど、これからもずっと使われ続ける大切な言葉。ふとしたときに、心の中に入ってきて、繰り返し思い出させられる。野原をかけ回ったり寝転んだり、木に登ったり、川や海で水遊びをしたり。誰の記憶の中にもある、自然と親しんだ時間と風景。時が過ぎて、あまりにも変わってしまった自然環境。何のために誰のためにやっているのかわからないような様々な開発。それによってたくさんの生命が犠牲となり、大地のバランスが崩れている。「自然と親しむ」…忘れてはならない心の時間と風景が奏でる「自由と喜びのハーモニー」。 忙しい日常をうっちゃって心を解放することもまた必要。なにもしないことも大切で、ワーカーホリックのごとく何かをせずばいられない強迫観念から、心を解き放つことも意識せずばできなくなっているほどの現状。 空を見たり、星空を眺め、眼と心のくもりをふき取りたいものだネ。
2006年03月27日
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・・・お花見にはちょうどいい日和のようだ。 桜前線もドンドン北上を続けて五月の連休以後には北海道を駆け抜けるだろう。この時期には日本列島を桜花が春色に染上げ、日本人の気分を一新させてくれる。四季があることは素晴らしいし季節は巧くできている。 先日、南武線の某駅の近くにある居酒屋『みのり』で飲んでいたが、何時も飲んでいるのだがその時ある人と話をした。 まぁ、『みのり』このお店はいつもお世話になっていて、お金も無いのに飲んではツケで飲ませていただいたり、へべれけになってわがまま放題を許してくれるありがたいお店なのです。(個人的にネ・・・) 居酒屋『みのり』はマスターと嫁さん、義母の三人で遣り繰りしている家庭的なお店で、暖かいもてなしと良心的な料金で、そんなお店なのでそこに集まるお客さんは、そんなお店の雰囲気を体現しているかのようなお客が多い。 老若男女、三々五々集まり想い思いの話に花を咲かせては日々、味わい深い個性と経験から来る話に興じている。どんなお店のお客にも離合集散があるけれど、ここのお店のお客さんは皆おおらかで思い遣りのあるお客が多いネ。(・・・唯一の欠点といえば居心地が良すぎることだろうか?) マスターを含め気質が東北出身ゆえに、人との繋がりを大切にしているが故に、そんな風な一時代前の気風を兼ね備えた現代的居酒屋を目指しているお店なのですョ。 チョッと前が長くなってしまったけれど、その話とは、その人は既にリタイヤし自適の生活をしているのだが、その話の中で以前に新聞の投書に三度ほど掲載されたことを聞いた。 アマチュア・カメラマン宜しく、写真が好きで花・風景・人物の写真を撮り続けているそうなのですが、素晴らしい写真をモノにしている。そんな写真の中での想い出を新聞に投稿し採用されたことを聞き仄々としたのです。 一度目は田舎へ子供達を連れ、雄大な田舎の自然に触れ遊びつつ、おじいちゃんとおばぁちゃんと自然を愛することを経験しにいった時のことを記している。 二度目は逝ってしまったお祖父さんへの邂逅。東京への夢を捨て家業を継いだお話、優秀で東京の一流企業へ就職が決まっていたのだが、御両親に頼まれ夢を捨てて地元に残った思いで話。が、お祖父さんが逝ってしまう前に「心優しい人々のいる田舎に残っていてよかったと」言っていたそうだが。 三度目は子供達が少年野球へ参加していた時の厳しい練習と、子供達と友達と明るく元気な将来を願う、親のあたたかい眼差しを一文にした仄々とした投稿だった。 投稿もさることながら採用されることもまた難儀なことだろう。しかし、森羅万象に多情多恨でなければ、心にピンで留めるが如く想い出を定着させることは難しいはずだ。その心は何事にも深い愛情がなければできないだろうと思う。 そんな風な眼で世の中を眺めれば、いったいどんな風景が映っているのだろうか、気になるところだ。できればまた話を聞かせてもらいたいものだ。 そんな人物もまた『みのり』の常連でもあることは嬉しいことだネ。・・・もうひとつ、こんなのはどうでしょう。━━━━━━━━領収書の見分け方 渡部 亮次郎 北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内閣があったか。中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。いくらやっても無駄なことを続けることを日本では「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。 発行周期 不定期(原則日曜日発行) 御意見・御感想はchomon_ryojiro@yahoo.co.jp 購読(無料)申し込み御希望の方は 下記のホームページで手続きして下さい。 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm バックナムバーは http://www.melma.com/backnumber_108241/ 生き難く、話し難い。表裏・真贋・正邪の複雑さが増してゆき、一面だけでは捉えがたい世の中になっている今、現代という大河を漂流しているかのような気分で生きているのは自分だけだろうかネ。不明が増すだけだネ。
2006年03月26日
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・・・おだやかな陽射しがふりそそいでいる。 この時期には桜の花見も愉しみに冬眠から目覚めた人々が、桜の木の下へと集まり部屋の中からのっそりと出てくることになる季節だ。人の啓蟄。 この花見も旅とおなじで、無意識に文明の狂気から逃れるために、桜の花の一瞬の儚い散際に自然を感じ、そしてこれから来るであろう夏へ向けて、冬眠で蓄えたエネルギィを放出し始めることになる。 旅とておなじで結局、文明の狂気に毒された己を取り戻すために旅立つのだから、桜の花見と何処が違うというのだろう。無意識の自然回帰なのだからネ。 自然には、地球上には、鬱蒼とした杉糸の気が狂いそうになるほど静かな北方降雨林の大森林があり、怪物的な熱帯のジャングルのようにムンムンとした狂気の生命力を発散しているのとは違い、澄明な豊穣に満ちている。 アラスカでもカナダでもそんな糸杉の大森林が広がっている。ずいぶん前にはフラッグストップが大流行したことがあったが、人口密度が少ないからそんな芸が通用するのだろうし、だからこそ自然も生き残れるのだろう。 そんな大森林には輪廻転生を絵に描いた様にフードチェーン・フードウエップが延々と繰広げられている。地面には苔がフカフカと生え、そしてそこには苔に覆われた腐った風倒木が横たわっている。 これが森に湿気を与え湿潤度を一定に保つ役割を果たしている。バクテリアを養成し、土を肥やし、微生物が発生し、植物なり昆虫が出てくる。またそれを食べに動物がやってくる。 かくて、この風倒木はただ単に自然のままに朽ちているものではなく、倒れた格好をして森を養っている。したがってこれをナース・ロッグ、看護婦の木と名付けられたが、自然にはそんな食物連鎖・輪廻転生という徹底的な唯物論がただ在るがままに営まれている。 エネルギィの総量は変らない、質量は恒存であり、善も悪もない。相互に転換しあい関係し、ただ形が変るだけだ、ということになってくる。自然のそんな関係性を数千年前のインドの王子さまが眺めているうちに輪廻転生という徹底した唯物論を、生と死にたいする覚悟を、悟ったのかもしれない。 森の中にナース・ロッグが在るならば、人にとってのナース・ロッグにあたるものは何だろうか。文明の狂気を逃れて森の中へ入り彷徨い苔むした風倒木を眺めると、そんな命題を誰もが考え始めることになる。 人の心にとってのナース・ロッグにあたるものは何か、という命題の答えにたどりつくには森に入ってゆけばほどなく一つの答えに到着するはずだ。それが愚問だということに気付くはずだ。 人の心にとって森羅万象、すべてがナース・ロッグであり得ることに。 人がそれに気付いているかいないか、日頃からそれとなく感じていても、はっきりとした形をとって知覚できるのは、目の前でその展開が行われている大自然の中へと一歩踏み出さなければならないだろう、が、勿論出かけていっても見えないものもまた多い場合もあるが。 産卵のために遡上する鮭は、親は子を知らずに、子は親を知らずに連鎖し生き続けることになる。毎年遡上する河の上流では夥しい数の鮭の屍が、骸骨が横たわっているが、その朽ちた肉は融けて栄養分となり川の水をミルクに変え、プランクトンを発生させる。プランクトンは生まれてくる鮭の子のミルクになる。 ミルクになった川が流れ、ありとあらゆる魚、鳥、動物、河岸の草、木を養う。そして海に入り海草の栄養になる。海草がまたニシンの卵床となり、一切関係しあって生命が営まれる。かくて食物連鎖の環が完成することになる。 フード・チェーンという細い繋がりではなく、フード・ウエップ、一切が絡みあった食物のクモの巣のごとくに自然界はできているようだ。すべての自然の営みはクモの巣のように入り乱れ、絡みあい、全く無駄がないように。 森のナース・ロッグ、人の心にとってのナース・ロッグは無関係のように見えたとしても、フード・ウエップというものが妄執という鱗が眼から剥がれ落ちた人にとってはまざまざと知覚されることになるはずだ。 森を見る眼と心を持った人間にしか姿を見せてくれない自然もある。 現代人にとって旅に出るという願望は、文明の狂気に犯された心をとりもどすため旅で自然の中にはいりこみ、澄明な豊穣から得られるものは結局、言い古された輪廻転生・フード・チェーンの現実をまざまざと知覚させられ、シッタルダ王子の見た現実を時空を越えて哲学させられることになる。 またシッタルダ王子の考えた説、それがポエジーの形を帯びるに至ったのは、その唯物論は徹底していたからではないかと思う。 あることが徹底すると、反対物に転化するという必然性がある。悲劇をとことん煮つめると喜劇になるし、喜劇を煮つめると悲劇になる。 マルキシズムの唯物論がポエジーの形を帯びないのはそれが徹底していないからだだろうし、またそれが直感によらず、西欧の合理精神・三段論法によるものから発生しているからだと。それには心が抜けているのだからネ。 たまには胃袋に入れる糧を求めるとともに、精神の糧を求めて彷徨うこともまた必要なのだろう。 文明の狂気を逃れたつもりで・・・自然、森の中から見えてくるものは。 自然は心の純正食品だろうし、書物は心の森林浴となるはずだ。鳥獣虫魚人も森羅万象フード・ウエップという輪廻転生の環からはずれることはない。 クー・ド・グラース(慈悲の一撃)と、呟いてみた・・・。 ・・・まず“遊ぶ”ことからはじめよう・・・か・・・チンタラと。
2006年03月25日
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・・・きょうは久々にお日様が照らしてくれている。暖かい日だネ。 啓蟄に近づいている今日この頃にふさわしい日差しが落ちている。三寒四温も極まれりの昨今ですが、弥生三月梅も満開だがもうすぐ桜も咲き始めることだろうが、受験生たちの格闘もみんな終了したのだろうか。 人生のさまざまな試練の一里塚でしかないが、受験という最初の試練をのり越えることは、そんな試練と努力が己の新しい領域を手に入れることでもある。己の新しい地平を手に入れるためにはすべて“何かを得れば何かを失う”という鉄則に縛られることになるが、しかし、乗り越えた暁には輝かしい何かが始まることは間違いないだろう。 何事かを成し遂げるためには、怠惰な生活をウッチャッテ、夜遊びも、友人との語らいも、彼女との親和な時間をも、家族との団欒もしばし忘れ去り、己の心の葛藤の世界へ沈潜し孤独との格闘に勝たねば、思い描くものを手に入れることは難しいはずだ。 飛び上がる前には屈まなければならないし、浮き上がるには底を蹴らねば浮上することはできないように、人生のを続けるための充電期間でもあることから、涙と汗と心の格闘をどれだけ経てきたかがそれからの難局を乗り越えるバネになるともいえそうだ。 まぁ、現実に当事者にとってはそんな悠長に構えていることはできないだろうが、そんな苦労の意味も後になってからパズルのピースがすっきりと収まってゆくように、涙と汗と苦労したことしか獲得していないことも同時に思い知らされることになる。 ・・・しかし、ほんとに今日はいい天気だネ。 京に居て 京を見る日や ひな祭り それぞれの旅立ちがあるけれど、踏まれた草にも花が咲く、なんて言われるように何度でもやり直しは利くはずで、気力だけは衰えないように涵養せねばチャンスは巡って来ない。 四季、季節はうまくできている。旅立ちに春は相応しい。
2006年03月05日
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・・・節分の日(←間違いでした、ひな祭りです^。^)暗い。二月に豆まきがあって今日はひな祭りだ。これに呼応するかのように啓蟄がやってくる。無限宇宙の渦動の中、有限の命を太古から、無窮の時間の中に捉えて離さず、更に悠久の彼方へ時を刻みつづける。 日々、時技で稼動、寡黙と猥雑、誕生と終焉をくりかえす、時の技だ。啓蟄 けいちつ 暦の二十四節気のひとつで、雨水後15日めの3月6日頃に当たります。 “啓”は『ひらく』、“蟄”は『土中で冬ごもりしている虫』の意で、 文字通り地中で冬ごもりしていた虫が春の到来を感じ、草木が芽吹く と同時に地上へ這い出してくるという意味です。この時期、北国では 福寿草が咲き、東京では紋白蝶が見られます。『啓蟄や蚯蚓の紅の透きとほる』(山口青邨) 連日の醜態、民主党の甘さと狼狽、無定見と無責任、気概と腐敗の末期症状が噴出していることから、二大政党制も潔癖な野党の幻想も自ら葬りむりさった無残。 自己陶酔、幻想という芝居をリアルタイムで演じ続けた二週間だった。 そして荒川選手のW・ラン報道のNHKの底意と事実。・・・頂門の一針より・・・反 響 1)私は海外でのスポーツチャンネルで、荒川選手の表彰式、その後のウイ二ングランを観ましたよ。国際放送の約束と言うのは、一部地域に限られているのでしょうか。なんだかNHKに騙されているような気がしてなりません。私が見たのは確かにLIVEです。荒川選手に続いて、コーエン選手、スルツカヤ選手が並んで、リンクを周る姿はとても感動的でした。NHKの言っている事が本当でしたら、私が住んでいるシンガポールは、国際放送の約束を守らなかったのでしょうか。昨日に引き続き失礼しました。(紀子) 2)NHKのウイニングランカット問題のことですが、次のコピーをお読みください。(「ぼやきくっくり」の16.2.28より)私は当日(2/24)夕方のテレ朝のニュースでちらっと見ることができたんですが、今思えばこれって超ラッキーだったんですね(^_^; さらに、2ちゃんねるはじめ複数の掲示板で知ったんですが、NHKは荒川さんのウイニングランはカットしといて、韓国(ショートトラック)のウイニングランは放映したんだそう。何で韓国人は流して日本人はカットするの?(T^T)861 名前: 名無しさんといっしょ 投稿日: 2006/02/26(日) 12:56:45ID:7/4xAtEE 今BS1でやってた男子5000mリレー 韓国チームが金とって国旗持ってウィニングスケートやってる姿を 映してたよ。 4人で固まって旗持って滑ってるの 中継じゃなくて録画だから編集しまくってるのに これはカットしなかったようだ 174 名前:クーベルタン男爵さん 投稿日:2006/02/27(月) 09:07:56 オリンピック女子フィギアで、金メダルを獲った荒川選手が日の丸を身にまとい観客に応えるため場内を一周した ウィニングランの映像をNHKはあえて流さず、その間 不自然にもVTRを流し続けた しかし、ショートトラックで韓国人が優勝したときは、韓国国旗振って場内一周するシーンを延々流してた。 以上引用終わりこれを見ると、花岡氏の友人が話したという事実と韓国のウイニングランの放映との矛盾が生じます。明らかにごまかしではないでしょうか。(自然葉) 3)前原さんをはじめとする民主党執行部は何を考えているのでしょうか。う1回「園田戦陣訓」を読み返していただきたい。道が2つに分かれているときは、危なさそうな(リスクの高い)方を選んだということだ。(これは敵の裏をかくという意味では突破率も高いし、自軍の意気も上がります。)東大も松下政経塾もこれは教えてくれない。「三分の虫にも五分の魂」「及ばずといへども一矢報いたい」この精神が欠けております。(桃太郎) 4)荒川さんの件「NHKの謎」とけました。ありがとうございます。でもなでかモヤモヤ感が残ります。規約があるからといって、日の丸をまとい一周したという状況すら言ってはいけないと規制されているのでしょうか?皆さんなんのために現場にいるのでしょうか?映像に映ったことだけしか言葉として表現できないということでしょうか。今日にいたっても、それらしきことを見,聞きできえていません。時には画面で説明できなかったことを現場やアナウンサー各関係者は知恵を授かって伝える。そこにこそ、携わるものの醍醐味があるのでは?とも思ったりするのは私の独りよがりなのでしょうか。 (磯)元内部にいた職員から爆弾が炸裂した。出来ないというのは嘘っぱち 元NHK職員戦後洗脳教育に汚染された世代として、慙愧に耐えないとお詫びを申し上げます。国際映像という仕組みは良く知っていますが、ユニで回線に乗っけてもってくるのは簡単。何で、日の丸が出てきたら、放送できないのか!どんな国でも、国旗、国歌は尊重する。国旗を巻いてフィギュアを演じる。美しいじゃないか。確かに、古いかも知れない。だが、国旗、国歌が100年の間に3回も変わった国の人々は幸せか。旧ソ連の人に聞いてごらんよ。あっという間に平均死亡年齢が20歳も落ちて、庶民は医薬品も手に入らない。マフィアが横行する国じゃないか。第2次大戦で唯一のアジアの同盟国のタイ王国に行ってごらんよ。どんな映画が始まるときも国旗がでてきて、国歌斉唱がある。観客は起立だよ。斉唱が終わったら、そのあと、ポルノ映画を食い入るように見る。ちょっと、日本人の感覚では理解が出来ないが・・・。ただ、国歌の編曲は時代に応じて変わる。歌手も、国民投票でロック歌手になったりする。東南アジアでは唯一、安定的に発展しているこの国は、国歌、国旗を大事にしているからじゃないですか。ただし、酷暑のタイ王国について、フィギュア・スケートで優勝しろというのは無理。(笑い)3月になれば、日中は38-40度の気温ですから。私は国歌、国旗を尊重しない教育を受けた。自ら、受けた教育を憎悪するというのはつらい話です。日教組ばかりじゃない。大学教育もしかり。教育を全面的に疑うべきじゃないですか。現職教員として、恥ずかしい。もちろん、私は日教組がいう、「偏向教育」をしています。学生たちを連れて、男たちの戦艦大和も見に行きます。文句があったら、訴えてこい。学生とともに、自衛隊の協力を得て、哨戒機P3-Cで八戸から、オホーツクの流氷を4時間も空から見た。若者たちに聞いたら、翼の日の丸が美しいという。今の若者は、洗脳教育を受けた幹部より、はるかに純情だ。放送しない、NHKの不作為の行為も訴えるべきでしょ。受信料不払いを大掛かりにやりますか?国際映像にないから、出来ないというのは嘘っぱち。回線なんて、いくらでもある。単に現場の怠慢と音痴の話。経営幹部の事なかれ主義、海老沢ゴマすり体制の残滓の問題さ。その昔、国際映像で奉職していた私が言うのだから、間違いない。どこの回線で映像が来ようが、視聴者には関係ない。NHKの「友人」がいうのは単なる言い逃れ。国際映像から、ユニの映像に切り替えても、視聴者には区別がつかない。問題は断固たる、編集権を持って、国民が見たい、感動したい場面を小ざかしい理屈で、放送しなかった、非常識、日教組もどき、極楽トンボのNHK幹部の無責任にある。衆参の総務委員会で、徹底的に問いただしていただきたい。(地方大学教員)日の丸を忌避する理由 渡部亮次郎トリノ・オリンピックのフィギュアスケート女子で優勝した荒川静香選手が、日の丸を巻いてリンクを1周したのに、NHK初め日本のテレビは全然放送しなかった、けしからんという声が聞かれた。しかしかねて敗戦の悲しみに打ちひしがれている私は驚かなかった。ずるずると中国本土に侵入した日本陸軍。抵抗に遭って戦死者も厖大になったものだから、アメリカの非難にもはや聞く耳持たずだった。それで石油の輸入をアメリカに止められ、だからと言ってアメリカに食って掛かったのが、あの戦争だった。そのアメリカに敗れた。その結果、我々は全てを失った。逆に「得た」と思ったのが日教組である。団結権と民主教育。学校の先生は聖職者と崇められていたのに、敢えて労働者に落ちぶれてストライキの真似事をやり、児童、生徒の顰蹙(ひんしゅく=軽蔑)を買った。昨日まで「早く大きくなって身を国に捧げよ」と叱咤激励していたにも拘らず、マッカーサーがやってきたら「今日からは民主主義」だと。過去を隠滅すべく反軍国主義教育を徹底してやった。マッカーサーの掌に載せられているのとも知らずに。何しろ日の丸、君が代が軍国主義の始まり、だというのだから、あれから60年余、テレビから日の丸をカットするのが当然という幹部が出てくるのが、それこそ当然なのである。過激にして誤った「民主教育」を受けた「団塊の世代」はテレビ、新聞社の幹部である。その子弟がオリンピックの選手である。それを考え合わせると、身体に日の丸を巻いて1周する選手が居たと聞いて私は耳を疑いながら涙に咽んだ。日本人が戻ってきた、と。敗戦の夜、久しぶりに居間に電灯が煌々と点った。前夜までは米軍の爆撃目標になるからと、電灯の周りを黒い布で覆って光が窓の外へ漏れないようにしていたものだ。それでも昨夜は何キロも離れていない製油所が爆撃されて何十人も死んだ。電灯を見上げ、子供心に平和のありがたさを実感したものだ。確かに平和はありがたいが、米軍の進駐と共に大和民族の失ったものはあまりにも大きく、取り返しのつかないものばかりだ。2006年3月1日の産経新聞に、戦後すぐ日本に来て日本国憲法第1章「天皇」の起草を担当したアメリカ人の死(86歳)が報じられた。横浜生まれのリチャード・プール氏。わずか20代半ばの青二才が、明治憲法で主権を有していた天皇を単なる「象徴」と起草したのだ。何もかもこの憲法で大和民族は死んだ。日本を再びアメリカへの挑戦者とせぬよう、民族の精神的金玉を抜いたのだ。占領政策の全てがここにあった事は確かである。興味のある方は西 鋭夫(にし としお)著「国破れて マッカーサー」(中央公論新社 文庫本 1286円)をお奨めする。麗澤大学経済学部・大学院教授である。アラスカのサケ缶詰工場などで働きながら苦労してワシントン大学で国際政治・教育学の博士号を取得する一方、日本占領政策に関するアメリカ側のナマの資料発掘に努めた結果を纏めた500ページを超える大作ながら実に肩のこらない表現力がある。<「富」の魔力に惑わされ、「富」に真の幸せがあると錯覚し、日本国民は形相物凄く「富」を追求した。・・・しかし「富」という甘い麻薬への代償は、日本が最も大切にしていた「大和魂」を失うことだったとは国民誰一人として気付かなかった。><我々の「誇り」は憲法第9条の中に埋葬されている・・・日本の文化から、日本の歴史から、日本人の意識から「魂」を抜き去り、アメリカが「安全である」と吟味したものだけを、学校教育で徹底させるべし。マッカーサー元帥の命令一下。><日本教育が大改革をさせられたのは、アメリカの国防と繁栄という最も重要な国益があったからだ。アメリカが恐れ戦(おのの)いた「日本人の愛国心」を殺すために陰謀作成された「洗脳」を、日本は戦後60年余の今でさえ「平和教育」と呼び、盲目的に崇拝し、亡国教育に現(うつつ)を抜かしている。>前書きからの引用である。これを知れば、安保反対を叫ぶ日教組もまたアメリカ占領政策の実行者に過ぎず、「ゆとり教育」も国力を弱体化させる陰謀に加担するものであることを知るだろう。 頂門の一針、荒川選手の写真、リンクに在ります。
2006年03月03日
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・・・寒さがぶりかえしてきたかのような一日だった。 送信時にひさびさに失敗してしまった。 書き終えて送信しようとしたらば接続されてなく、じゃあ接続しようと思い操作したら消えていたのだった。ひさびさの失敗だったが送信しないほうがよかったのかもしれないね。 世界中の料理・お酒など究極の○○というものが、広く幅を利かせている此の頃ですが、食べ飽き、飲み飽き、しまいにはダンダン嗜好が淡白になってくることになる。そして究極の味は水だということになるのだろう。 コーヒー、紅茶もそうだが日本茶もよい水かどうかで格段に味が変ることは、古より誰でも経験済みだろう。この時代になればいよいよ水の価値が高まり、これまた先を争いよい水を求めてさまようことになっている。 よい料理も酒も、結局は水しだいなのだから当然といえば当然だろう。 深い、澄んだ、冷たい、まろやかで艶のある、何日たっても忘れられないし、いくら飲んでも飲み飽きないそんな水。 火星や月へロケットを飛ばし、軽々と重量物を飛翔させることのできるこの時代になったところで、選び抜かれた場所の、春先の渓谷から流れ出てくる一杯の水は、やっぱり、人工でつくりだすことのできないうまさなのである。 もっとも難しい究極の料理は一杯の水といえるだろう。しかし、この深い単純に到達するためには、無数の段階と領域を巡歴せねばならないのだ。 中国人は辛・酸・苦・甘・カンを称して“五味”と呼び、それらを駆使してできあがった料理の性格そのものについては、鮮・美・淡・清・爽・滑・甘・香・脆・肥・濃・軟・ドン、などの語を考えだしたが、一杯の水はこれらの語を組合わせても形容しきれない味をもっているのである。 “甘露”で“清冽”な味の水はそうはない。しかし故郷があるならそこにある野山を駆け回った後、沢水・岩清水・湧水などにノドを潤した水の味はそのときはまさにそうであったのだろう。 なんと贅沢な一掬いであったことか、引締っていて、輝いていて、甘くて、奥行きのある味、昔のようにそこら辺にあった旨い水がいまはない。 それでもこの国はまだいい、汚れているといわれているところであろうとも、浄水器をつけ濾過すればいっぱしのいける水がただ同然で手に入るのだから。 いぜれにせよ岩の中を潜って磨かれてくることで美味しい水になるが、厳しく磨かれない生のままではやはり、何事もダメなようだネ。
2006年03月01日
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