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2015年10月27日 名古屋学院大学礼拝メッセージ 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48) 「完全主義者」を辞書で引くと「不足や欠点を容認せず、完璧さを追求する考え方を持つ人。万事につけ完璧にしたがる傾向を持つ人」とあります。几帳面で、頑固で、何事にも融通が利かない人というイメージがありますね。フロイトは、排泄がコントロールできるようになる1歳~3歳頃に親から厳しい躾を受けると、几帳面、頑固、倹約といった完全主義的な性格が形成されるとしています。さらにこういう人にはその完全主義的な性格が原因で、強迫性人格障害になることがあるそうです。 さて、イエスさまが「あなたがたも完全な者となりなさい」という時、それは今言ったような完全主義者になれという意味でしょうか?そんなことではありません。イエスさまはユダヤ人ですから、旧約聖書の考え方が深くあったと思います。旧約では完全という言葉は「全き者」という言葉で出てきますが、特に神に献げるいけにえの動物について言われています(日本語訳の聖書では「傷のない」という訳語が使われています)。犠牲の動物は牛とか羊や山羊ですが、私も皆さんもあまりこれらの動物に接したことがないでしょうから、猫を例に取りましょう。 私はこれまでに4匹の猫を飼ってきました。最初の猫は娘が拾ってきた茶トラです。なかなか賢い猫でエサは器に入れたものを食べ、近くに袋に入れたままのキャットフードがあっても手をつけません。冬は私がベッドに入ると潜り込んできてクルッと向きを変え、私と同じ態勢になります。2匹目の猫は白猫で、これは食い意地の張った猫で食べ物を見つけると何でもバリバリ袋を破いてしまいます。ドアノブに飛びついてドアを開けるという技を使います。3匹目は安城の友人が連れて来た黒猫で他の猫と仲良くしない孤高の猫です。狩猟が上手でスズメ、メジロ、ハトまで捕まえてきます。今うちにいる4匹目はグレーの猫で黙って座っていると美しいのですが、落ち着きのない猫で部屋の外から中に入れろと騒ぎます。入れてやると間もなく今度は外に出せと騒ぎます。そして甘えん坊です。 どの猫がより完全な猫なのでしょうか? 実は全部完全な猫なのです。足が4本あって、耳が二つ立っていて、ヒゲがピッピッとをあって、目が二つ明るさによって瞳孔が丸くなったり細長くなったりする。そして爪研ぎをする。そういう猫として当たり前の特徴が揃っていれば完全な猫なのです。ドアを開ける知恵や狩猟の能力がどのくらい優れているかは関係ありません。 そのような旧約の「完全」の概念を知っていたイエスさまが「あなたがたの天の父が完全であられるように」つまり「神さまが完全なように」、「あなたがたも完全な者になりなさい」というのです。やはり無理な話ではないか、人間はどこまで行っても人間であって神さまの完全には行き着かないと考える人もいるでしょう。しかし、文脈をよく見て理解しないといけません。ここでは神さまというのはどんな方だ、と言われていますか?「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方だと言われています。 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」。徴税人というのはローマに納める税金を集める役人で、本来徴収すべき金額にかなり上乗せした金額を取り立てて、自分のポケットに入れていたと言われています。そういう「不正」+「ローマのための徴税」ということで悪者の代名詞としてみんなから嫌われていました。「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。異邦人とは単に外国人という意味だけでなく、ここでは異教徒、神さまを知らない人々という意味です。悪者や神を畏れぬ異教徒と同じことをやっているだけではだめでしょう、とイエスさまは言ってるのです。神さまは人を分け隔てせず、誰の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせる。だから、あなたがたも「人を分け隔てせず、挨拶し、また愛しなさい」。これが言われている「完全な者」の具体的な内容です。そうすると、聖書が言う「完全」というのは、やるべきことのリストがあって、一つでも欠けがあってはならないというようなこと、つまり「完璧であれ」ということではなく、「誰に対しても善意をもって接しなさい」という、態度や意志の問題だということがわかると思います。 ルカによる福音書には「善いサマリア人」というたとえ話がありますが、そこでもこの問題が扱われています。 旧約聖書に詳しい専門家がイエスさまにたずねました。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。イエスさまは逆に「旧約聖書には何と書いてありますか」と問い返しました。彼は専門家ですから即答しました「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」。これは本学のスクールモットー『敬神愛人』の基になっている言葉です。ところでこの専門家は一気に答えましたけど、前半の「あなたの神である主を愛しなさい」は申命記、後半の「隣人を愛しなさい」はレビ記に出てくる言葉です。つまり、彼は旧約聖書の中から一つの箇所だけを選んだのではなく、二つの箇所を選んで一つにまとめたのです。そこに彼の旧約聖書の専門家としての有能さが表れています。イエスさまは彼のこのまとめに大賛成しました。そして、もうひと言付け加えました。「知識としては素晴らしい。あとはその通りに生きることだよ。そしたら永遠の命が得られる」と。「それでは、隣人とは誰のことですか?」というところからたとえ話が始まります。 イエスさまの時代、ユダヤ人とサマリア人はとても仲が悪かった。ユダヤ人はエルサレムとガリラヤを行き来する時に途中にあるサマリアを通りたくないために、はるかに遠回りをするほどだったそうです。「善いサマリア人」というのはこんな話です。 あるユダヤ人が強盗に襲われて半殺しになっていた。そこをエルサレム神殿の祭司さまが通りかかったけど「自分も襲われたら大変だ」と思って、この人を助けずに急いで通り過ぎて行った。次に祭司の助手として神殿に仕えるレビ人と呼ばれる人が通りかかったけど、これも助けずに行ってしまった。最後に、ふだんユダヤ人とは関係の良くないサマリア人が通りかかったが、この半殺しになっている人を見て、傷の手当てをし、ロバに乗せ、近くの宿まで連れて行き、宿の人に2万円ばかり渡して治療を頼み、「これで足りなければ帰りに払います」と行って旅を続けた、という話です。イエスさまは旧約の専門家にたずねました。「三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。もちろん襲われた人を助けたサマリア人ですね。イエスは最後に言います「行って、あなたも同じようにしなさい」。 今の時代で言うなら、自動車と自転車の交通事故を目撃したとき、自転車に乗っていて投げ出されたのが自分の家族や友達だったら、もちろん救急車を呼んだり、警察に通報したりしますね。応急処置の出来る人ならそれもやるでしょう。もしあなたが悪人だったとしてもそうするでしょう。でも事故に遭った人が自分に関係ない人だったら、あるいは自分とは関係の悪い人だったら、知らん顔して通り過ぎますか?イエスさまは事故に遭った人がどんな人であっても、通報し、あなたにできるなら必要な応急手当をしなさいというのです。もちろんちゃんとした知識がないのに、手を出すとかえってまずいこともありますから、そこは医療関係者に任せるべきでしょう。そうして、自分にできること、できないことを区別して、自分に可能な事柄でその人を助ける。たとえ、自分にできることが119/110番通報だけであったとしても、それをする人が「完全な者」であるのです。 聖書が「完全な者」というとき、それは完璧な人、欠点のない人、ミスを犯さない人ではありません。誰に対しても善意をもって接することをいつも心がける人を指しています。どうして誰に対しても善意をもって接することができるのか?神さまが全ての人を愛している、つまり、私は神さまに愛されているということを知っており、また神さまはあの人をも愛していることを知っているから、私はあの人をも愛するのです。 完全な者とは、神さまが私を、人を、愛してくださることを感じる人ということにもなりましょう。人の愛は移ろいやすいものです。でも、神さまの愛は永遠です。そして無限です。神さまの愛を感じ、そこから人を愛する人になっていただきたいと願っています。
October 28, 2015
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前奏招詞 ハバクク書2章2節賛美 f.75 感謝と喜びを赤138 来たれイエスを主の足もとに祈祷 司会者交読 詩編78篇1~8節 (旧)913賛美 福226しもべらよ、み声きけ朗読 ヘブライ11:32~12:2 (新)416牧会祈祷説教 「自分のレースを走り抜こう」賛美 福245御名をほめたたえる信仰告白 使徒信条献金(福210主を待ち望む者は)主の祈り頌栄 福269たたえよ、主の民祝祷後奏【今週のみ言葉】「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ人への手紙12:1~2)【命の言葉】 手紙の著者は信仰を「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」と定義し、信仰に生きた人びとを列挙します。私たちも来月、同様に信仰に生きた人びとの名を挙げ、信仰の共同体を確認する時を持ちます。 しかし、イエス・キリスト以前に信仰に生き、世を去って行った人々は、信仰を神に認められながらも、約束されたものを手に入れることができませんでした。その意味において彼らは完全な状態に達しなかったのです。 言い換えると、イエス・キリスト以後に信仰を生きる私たちは、完全な信仰を生きることができる幸いを与えられています。 「完全」というと、神と同じになることと受け取り「あり得ない」と拒否する人がいますが、イエス・キリストは明確に「完全な者となりなさい」と命じています(マタイ5:48)。主が命じられる完全とはどのようなことかは聖化大会のオズワルト先生と竿代忠一先生のメッセージ(tokai.holy.jp/autumn/ で聴けます)を聴いていただきたいのですが、ここではヘブライ人への手紙の著者が言う完全だけ言っておきます。それは、上に掲げた聖句がそれです。旧約の信仰者たちはイエスの姿を見ることができなかった。しかし、私たちは新約によってイエスの姿、とりわけ私たちの罪の身代わりとして十字架に死んでくださった姿、罪と死の力を打ち破ってよみがえられた姿を知っています。このイエスから目を離さずに信仰の道を走るなら、それは完全な信仰者の行き方と呼ぶことができるのです。
October 18, 2015
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