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東塔エリアの「戒壇院」の境内に戻ってきました。ここから東塔エリアを巡ります。 戒壇院は、正式な僧侶になるために「受戒」の儀式が行われるお堂。僧侶にとって中に入れるのは受戒を受けるためであり、天台宗の僧侶としてこのお堂に入るのは生涯に一度だけという特別な場所です。堂内には、釈迦如来と文殊・弥勒の両菩薩が祀られているそうです。天台座主が伝戒師となられるそうです。織田信長による比叡山焼き打ち(1571年)により焼失したのち、江戸時代(1678年)に再建されました。 (資料1,2) この境内には、長與善郎作の戯曲『最澄と空海』より戒壇院に関連した箇所の引用を紹介する案内板が設置されています。比叡山延暦寺に戒壇院ができるまでは、日本には三戒壇しか存在しませんでした。奈良・東大寺の戒壇院、あとは九州(観世音寺)と関東(下野薬師寺)に各一つです。 戒壇院の背後にある宝形造の屋根のある小堂 一隅に鐘楼 池ノ間に天女像がレリーフされています。 縦帯に「比叡山戒壇院」と陽刻されています。 石塔 戒壇院から大講堂に向かう途中に、いくつもの石碑が建立されています。その一つがこれ。「一隅を照らす。これすなわち国宝なり」伝教大師最澄が書かれた『山家楽章式(さんげがくしょうしき)』に出てくる章句です。「『山家学生式』は、伝教大師が『法華経』を基調とする日本天台宗を開かれるに当たり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという熱い想いを著述され、嵯峨天皇に提出されたもの」と言います。(資料3)その背後には「修禅大師義真尊者顕彰碑」と刻された碑が、大法会慶讃記念として建立されています。 東塔エリアの案内図 大講堂の背後、北側にいくつか建物があります。傍まで行ってみました。一つは「瑞雲院」で、延暦寺法華三昧道場(別称孝道教団始祖伝法堂)です。 傍にこの駒札が設置されています。 東側には、「前唐院」があります。本尊に「第三世天台座主慈覚大師(円仁)」を祀るお堂で、もとは座主の住坊。「かつては慈覚大師が中国(唐)より将来された真言密教の典籍や曼荼羅を所蔵する経蔵としての機能を果たした」とのこと。(駒札より一部転記)円仁は、円珍(第五世座主智証大師、三井寺の開山)より先に入唐したので、前唐院と称するそうです。(駒札より) 瑞雲院前から眺めた大講堂の背面(北面) 大講堂 重要文化財 4年に一度行われる「法華大会広学堅義」をはじめ、経典の論議や法会が行われる道場です。1956年に火災で焼失し、この建物は麓の讃仏堂が移築されたものだそうです。本尊に大日如来が祀られ、その左右に比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。外陣には、釈迦をはじめ、仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画がずらりと掲示されています。また、外陣には参拝客・観光客向けに、比叡山延暦寺グッズを取り揃えて販売するスペースが設けてあります。 大講堂の南東方向に、この鐘楼があります。 縦帯に「南無阿弥陀如来」と陽刻されています。 ここの鐘楼には鐘を撞くために、長蛇の列ができていました。この鐘は、「開運の鐘」と呼ばれています。それ故に長い列なのでしょうね。 鐘楼の近くから琵琶湖を眺めた景色 大講堂から根本中堂(総本堂)に向かいます。根本中堂は、建物全体の外郭がすっぽりと遮蔽シートで覆われて、大改修工事中です。平成28年度から継続されているそうです。本堂部分の参拝はできます。「不滅の法燈」を眺めることはできます。堂内は撮影禁止。大改修中なので、シートに覆われた外観は勿論撮りませんでした。根本中堂の前を北方向に進みます。根本中堂の前、東側には急勾配で横幅の広い石段があり、その上に建てられているのが文殊楼です。後ほど巡ります。 根本中堂のある境内の北辺に見える景色。 左側に建てられたこの石碑は、上掲の『山家学生式』を刻した石碑。 「天台法華宗年分学生式一首」という標題で駒札が立ち、碑文の読み下し文が記されています。 右隣りの円柱台座の上に立つのは「伝教大師童形像」です。昭和12年(1937)、比叡山開創1500年を記念して建立されました。駒札の末尾には、「全国小学校児童の一銭醵出によって建立されました」という説明が記されています。童形像の右側には、木々の枝葉で隠れていますが、 近づくと石造伝教大師最澄椅座像が建立されています。 左側をその先に進むと、右側に石段があり、その上に碑が建立されています。枝葉の影が映じて碑文がほとんど読みづらいですが、宮沢賢治の詠んだ歌が刻まれています。「根本中堂」という詞書が付いています。 ねがはくば 妙法如来 正遍知(ショウヘンチ)大師のみ旨(ムネ) 成らしめたまへ 傍に設置の案内板には、歌意について次の説明が記されています。「どうかみ仏のすばらしいお知恵によって、伝教大師が日本に天台の教えをひろめられ、国の平和を守りたいと祈られたみ心にあうよう、どうかみ仏の加護をいただきたい」 「宮沢賢治父子延暦寺参詣由来」と題した参詣75周年記念銘板も設置されています。さらにその先を眺めると、 「星峯稲荷」と刻された石標と石鳥居があります。 狐の石像が配されて、 入母屋造の屋根の社があります。 格子戸越しに拝見すると、中に内陣が設けられ、小ぶりな本殿が設けてあるように見えました。お堂のスタイルを取り入れた稲荷社という印象を受けました。社の右側に、山道が見えていますので、どこにつながるのか、登ってみました。つづく参照資料1) 延暦寺の戒壇院、初めての特別拝観 法華総持院東塔も :「朝日新聞DIGITAL」2) 最澄と比叡山 :「伝教大師最澄一千二百年魅力交流」3) 一隅を照らす :「天台宗 一隅を照らす運動」補遺戒壇院戒壇堂 :「東大寺」(7) 戒壇院 歴史の散歩道(史跡スポット) :「大宰府市文化ふれあい館」下野薬師寺 ホームページ戒壇 :ウィキペディア戒壇 :「唐招提寺」正遍知 :「コトバンク」正遍知 :「WikiArc」仏の十号 :「飛び不動 Flying Deity Tobifudo」」本会のなりたち <宮沢賢治と比叡山延暦寺> :「関西岩手県人会」挑戦の気持を忘れずに :「比叡山時報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ探訪 比叡山 延暦寺へ -3 西塔エリア 釈迦堂の秘仏特別ご開帳と境内巡り へ探訪 比叡山 延暦寺へ -4 西塔エリア 西塔政所・常行堂・法華堂・椿堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -6 東塔エリア 文殊楼・大黒堂・東塔・阿弥陀堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -7 京都側への下山路にて 下山途次、八瀬周辺 へ
2024.10.31
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牧水歌碑釈迦堂の東側には、「居士林研修道場」と記した道標が立っています。その道標の先の山道を少し歩いてみることにしました。少し先で目に止まったのが冒頭の歌碑です。 傍にこの案内板が設置してあります。近くに下り道との分岐がありました。下り道を歩むとたぶん本覚院に到るのでしょう。若山牧水は大正7年に本覚院に1週間滞在したそうです。上りの道を少し歩いてみました。 少し登ると、右側に石段があり、その上に石塔を囲む石柵が見えます。由緒があるのでしょうが、何の説明もなく不詳。 この辺り、「モミの天然林」だそうです。緩やかな上りのこの山道は西塔エリアから横川エリアに到る山道でもあります。その表示が出ていました。東海道自然歩道にも指定されています。入手したリーフレットによれば、西塔から横川までは、徒歩で約90分の行路。今回は時間的にも往復はちょっと無理。 路傍に「元三大師道三十三丁目」と読める道標が立っています。その下にも数文字刻されているようですが判読できず。リーフレットの地図を見ますと、横川エリアには元三大師堂があります。1丁ごとに、このような道しるべが案内の役割を果たしてくれるのでしょう。途中で分岐を見過ごしたのか、居士林研修道場らしき建物を目にできませんでした。時間を見計らって東塔エリアへ戻ることにしました。手水舎と釈迦牟尼仏石像との間にある石段道を戻ります。 左側には、門柱に、「延暦寺 学問所 止観道場」(右)、「西塔政所」(左)の木札を掲げてあります。両側に石を積んだ通路の先に建物が見えます。門から先は立入禁止。政所は西塔の寺務所の機能を担うとか。「天台止観」と称されますが、止観は天台宗における仏教の修行法のようです。「天台智顗は南岳慧思から相伝した<三種止観>によって、当時の諸経綸の禅観すべてを整理統摂して仏教の修行法を体系づけた。すなわち、”持戒のうえ禅定を修し、しだいに深い禅観に入って真実を体得する」(資料1) という<漸次止観>から順次修行を深めていくそうです。 通りすぎてきた朱塗りの二つのお堂の背面がまじかに見えてきます。二つのお堂が唐破風造の渡り廊下で繋がっていて、この廊下の下が釈迦堂への通り道になっています。桁行四間、梁間一間です。 西塔エリアの南側から眺めると、二つのお堂をつなげる渡り廊下はこんな景色です。二つのお堂は同じ形です。「延暦寺の僧であった弁慶が、渡り廊下を天秤棒に見立てて担いだという伝説が残っています」(資料2)そこで東西の二堂を総称して「にない堂」と呼ばれています。 西側にあるのが「常行堂」です。本尊は阿弥陀如来。こちらでは常行三昧の修行が行われます。桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺(トチブキ)。正面に一間の向拝が付いています。文禄4年(1595)建造。 東側にあるのが「法華堂」。常行堂と同じ形のお堂です。本尊は普賢菩薩。こちらでは法華三昧の修行が行われます。 にない堂の近くに立つ歌碑。滋賀県の蒲生町極楽寺の住職だった米田雄郎さんの辞世の句だそうです。 (資料3) しづやかに輪廻生死の世なりけりはるくるそらのかすみしてけり 雄郎 にない堂の近くに、「親鸞聖人旧跡」の石標が立っています。 道沿いに少し進むと、西側に石垣と石段があり一段高い場所があります。 石段の先に、「親鸞聖人ご修行の地」の石標が建立されています。この場所は入手したリーフレットにも明記されています。 石標から少し南側には、 「真盛上人修学之地」と刻した石碑が建立されれています。 石碑の傍に、駒札が設置されています。この場所は、もと西塔南谷南上坊(後の真盛院)跡だそうです。このシリーズの第2回で、円戒国師寿塔をご紹介しました。真盛上人の諡号は円戒国師・慈摂大師です。現在の天台真盛宗の祖です。坂本の西教寺は真盛上人が中興の祖となり、天台真盛宗の総本山です。(資料4)箕渕弁財天社の前を再び通り、道沿いに左折した後、浄土院に向かう前に、一旦さらに左側の石段を下ります。 椿堂 本尊は千手観音菩薩が祀られています。 説明にある通り、聖徳太子が比叡山に登られた際に使われた椿の杖にゆかりのある伝承地です。椿堂の名前の由来だそうです。お堂の傍に椿の大木があります。(案内板より) 境内の石灯籠 鐘楼 ここの梵鐘は撞くことは禁止の表示が出ていました。石段を上り直し、浄土院へ道を黙々と登ります。 浄土院外壁の南西側の外に、小さな手水鉢が目に止まりました。浄土院前の道を戻り、東塔エリアに引き返します。 浄土院前からは、復路として、石段道の登りが山王院堂まで続きます。さて、もうひと頑張り・・・・・。 西塔エリア案内図それでは、東塔エリアの探訪に戻ります。つづく参照資料1)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店2) 延暦寺でいただいたリーフレット「比叡山延暦寺」3) 米田雄郎歌碑(坂本本町) :「大津のかんきょう宝箱」4) 真盛 :ウィキペディア補遺西塔 境内案内 :「比叡山延暦寺」延暦寺常行堂及び法華堂 法華堂 :「文化遺産データベース」比叡山延暦寺法華堂・常行堂平面図・立面図(明治23.8)(青木良孝):「Cultural Japan」しづやかに輪廻生死の世なりけり春くる空のかすみしてけり:「古代文化研究所:第2室」碑・塔リスト :「大津市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ探訪 比叡山 延暦寺へ -3 西塔エリア 釈迦堂の秘仏特別ご開帳と境内巡り へ探訪 比叡山 延暦寺へ -5 東塔エリア 戒壇院・大講堂・鐘楼・童形像ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -6 東塔エリア 文殊楼・大黒堂・東塔・阿弥陀堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -7 京都側への下山路にて 下山途次、八瀬周辺 へ
2024.10.29
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恵亮堂前の道を少し下ると、釈迦堂の境内です。右方向に「手水舎」が見えます。 手水鉢への水の注ぎ口に龍像が見えます。龍との出会いです。 石段を下りると正面に「釈迦堂」が見えます。まずは、初期の目的地のこの御堂に向かいます。いざ、内陣拝観へ! 「秘仏本尊釈迦如来像特別ご開帳」の案内板が手前に設置されています。 前売券として購入していた拝観券半券。内陣は1か所を除いて撮影禁止でした。 そこで、この拝観券の上部の図をイメージの補助として部分拡大しました。本尊の釈迦如来像は厨子の中に安置され、その扉が開かれています。厨子の近くは参拝しやすいように照明が調整されていますが、それ以外の内陣は薄暗い空間になっています。内陣中央の厨子の外周には四天王像が配置されてていて、四天王像には青白いスポット照明があてられ、内陣床面には図にみられるように、水面上に蝋燭が燃え明かりが揺らめいている環境が表現されています。 内陣の背後面には、プロジェクション・マッピングの幻想的な映像が投影されています。この壁面箇所だけが撮影OKでした。 内陣の厨子背後で、マッピングされた壁面の前方中央にこの植物を象徴した造形物が置かれています。説明版が設置されていました。英語表記だったと記憶します。dandelion という単語だけが記憶に残っています。辞書を引くと、タンポポのこと。 近づいて、黄色い箇所に息を吹きかけてみてください、という係の人の声に従うと、 タンポポの綿毛が風に吹かれるように飛び散り、マッピング画像が揺らめき、広がっていきます。その動く画像面の中に、ENRYAKUJI、 HONGKONG という2語も飛び回っているのです。ENRYAKUJI はわかるとして、なぜ HONGKONG なのか?係の人に尋ねると、このデジタルアートの展示が同時期に香港でも行われていると聞きました。おもしろい試みです。実に幻想的な空間が創出されています。ユニークな試みを絡めた秘仏御開帳です。こういう演出があるとは想像もしていませんでした。一見の価値あり。後で調べてみますと、これは世界と繋がる参加型アート「DANDELION PROJECT」としてアーティスト村松亮太郎さんによる特別展示だそうです。NAKED のデジタルアートと称されています。 ”平和への祈りをデジタルのタンポポの綿毛に乗せて、「DANDELION」が植樹されている世界各地にネットワークで繋がり、平和の花を咲かせます」(資料1) という試みだそうです。幽闇と花々が飛び交いゆらめく空間の世界から、現世の明るさの中に立ち戻り、釈迦堂周辺の探訪から始めます。 釈迦堂正面の右前に立つ石灯籠。笠石が相対的に大きい。めずらしい姿。 釈迦堂の右側あたりだった気がするのですが、「元三大師得度之霊跡」の石標が目に止まりました。 釈迦堂の右(東)側面 御堂の傍に、石仏が一列に並べて置かれています。 釈迦堂の左(西)側面 西側に「法然上人ご修行地青龍寺」の石標と、石塔が建立されています。ここに立つ石標は、道標のようです。調べてみますと、青龍寺は、法然上人二十五霊場の一つで、比叡山西塔の北谷にある寺院として再興されて存在しますので。(資料2)また、近くには次の「釈迦伝」が掲示されています。ヒマラヤの麓のカピラ国の王子としての生誕から、釈尊の成道までが語られています。 上掲手水舎の近くに設置された西塔エリアの案内図です。釈迦堂は西塔エリアの北寄りに位置し、前回往路の途次としてご紹介した山王院堂が南端になります。 釈迦堂の西側は小高い斜面で、その上に「鐘楼」が見えます。 ここの鐘は撞くことができます。並んでいる人は一人、二人でしたので、一撞きしてきました。 釈迦堂境内の南西隅の一画です。背後に見えるお堂が前回触れた「恵亮堂」。 「釈迦牟尼仏」の石造坐像。お釈迦さまです。 正面前方に設置された石灯籠の姿がユニーク。灯籠としての基本形は同じですが、要所要所の造形にあまり見かけることのない形が組み込まれています。 釈迦牟尼仏の右隣りには、小ぶりな地蔵菩薩石像が建立されています。傍に「平和地蔵菩薩」との案内板が設置されています。この辺りで一区切りとして、次回も西塔エリアをご紹介します。つづく参照資料1) 西塔釈迦堂 秘仏本尊釈迦如来像特別ご開帳 内陣特別公開 :「BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE」2) 特別霊場 青龍寺 :「法然上人二十五霊場」補遺元三大師について :「深大寺」良源 :ウィキペディア青龍寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」村松亮太郎 :「WHITESTONE」プロジェクションマッピングについて :「プロジェクションマッピング協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ探訪 比叡山 延暦寺へ -4 西塔エリア 西塔政所・常行堂・法華堂・椿堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -5 東塔エリア 戒壇院・大講堂・鐘楼・童形像ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -6 東塔エリア 文殊楼・大黒堂・東塔・阿弥陀堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -7 京都側への下山路にて 下山途次、八瀬周辺 へ
2024.10.28
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坂本ケーブルの延暦寺駅で下車し、その近くの展望所から琵琶湖を眺めます。手前が湖西側です。 山頂駅傍には、進行方向とは反対側に「無動寺参道」の大きな石標と石鳥居があります。扁額の文字が判読できませんでした。 進む方向の参道には、「東海道自然歩道」の一部になっている掲示と路傍に大きな石灯籠があります。 参道の左側に、石仏が祀られています。坂道を登って行くと、 「慈眼大師天海大僧正住房跡」の石標が路傍に立っています。 道沿いに右折していくと、「比叡山」「延暦寺」の木札をかけた門柱が立ち、その先に受付所が設置されています。 いくつかの掲示の一つに、「比叡山回遊案内図」があります。延暦寺の東塔エリアに一番近くまで上れるのが坂本ケーブルです。 受付所で拝観手続きをすると、この「諸堂拝観券」と「比叡山めぐり」のリーフレットをいただきました。これは比叡山ガイドマップと延暦寺三塔巡拝マップです。今回、延暦寺に来た第一目的は、西塔エリアに位置する釈迦堂内陣の特別公開を拝見したいためでした。そこで、まずは東塔エリアを通り抜けて、釈迦堂を目指します。当初目的からいえば、まだ釈迦堂への往路途次のご紹介になります。 「法然上人禅定御旧跡 三丁」の石標を横目に見つつ(立ち寄るには方向が異なりますので)、東塔エリアの中心となる根本中堂の傍を通り過ぎ、 戒壇院傍の道を回り込む形で、西塔エリアに向かいます。 東塔エリアを外れますと、途端に観光客は急激に減少。山道の左側、石垣の先に見える覆屋に近づくと、「弁慶水」という木札が掲げてあります。 その隣りの覆屋がこれ。左側に石造地蔵菩薩坐像、右側には「無縁塔」と正面に陰刻した石塔が安置されています。 先に進むと、西塔エリアへの案内表示が出ています。ドライブウエイの上に架けられた鉄橋を渡って、西塔エリアに。 橋を渡るとまず、目に前に「山王院堂」が見えます。木札には、本尊千手観世音菩薩、六祖智証大師円珍御住坊と記されています。 この境内地にある石灯籠、宝篋印塔、そして小詞。お堂の傍を道沿いに進みます。両側に石灯籠が林立する参道を下っていくことになります。 参道を下り終わり、振り返るとこんな景色です。降り終えた前に見えるのが、「浄土院」(重要文化財)です。 石段道を降りきると、すぐ門が見ます。その門からの出入りはできませんが、門前から浄土院のお堂が正面に見えます。浄土院拝観は左折して少し先の通用門から入ります。 通用門側にある建物。上記の門の内側近くまで回り込んできて、眺めた景色。 お堂正面に「浄土院」の扁額が掲げてあります。扉に彩色された文様が鮮やかです。木組の一部も彩色が見られます。 お堂の右側を背後に回り込みます。まず石塔が見え、その先に 「伝教大師最澄の御廟」があります。ここは比叡山で最も清浄な聖域です。「弘仁13(822)年に入寂した伝教大師は弟子の慈覚大師円仁によってこの地に埋葬されました。浄土院で12年間籠山行を行う侍真僧(ジシンソウ)は、食事の給仕など、生前同様に伝教大師に仕えています」とのこと。(資料1) 御廟側のお堂の扉。部分的な彩色が目を惹きつけます。 御廟前から左(西)方向を眺めるとこのお堂が見えます。 御廟の屋根の裏側を眺めると、尾垂木と軒垂木の間に、猿像が支えとして組み込まれています。魔除け的な意味合いがあるのでしょうか。 浄土院を後にしてこの比較的狭い道を西に進み、道沿いに右折して北方向に進みます。 伝教大師御遺誡「我が志を述べよ」が刻された石碑が建立されています。調べてみますと、「我が為に仏を作るなかれ、我が為に経を写すなかれ、我が志を述べよ」という遺言に由来するそうです。(資料2) 右隣りにある詩碑。判読してみました。誤読箇所があるかもしれません。 弁慶の飛び六法 勧進帳を観て 一つの傷も胸の騒ぎもない 真に為し さうして終った 独り凝っと動かず 晴れ渡る安宅の空に 知らず知らず涙が滲じむ 必ず徹る人生の味 成就の味 草野天平 詩碑の右には、「五重照隅塔」が建立されています。 その先には、左側に「箕渕弁財天」の扁額を掲げた弁財天社があります。弁財天社の南西側には駐車場があり、西塔エリアではここまで車で来られるようです。この後、一部は後で巡ることにして、先に進みました。 道沿いの左側、奥に見えるお堂は「恵亮堂」です。恵亮堂は、恵亮和尚(800~859)を本尊として祀るお堂。大楽大師と称される人。当時、お山で修力霊験に最も優れると評されたそうです。京都・妙法院を創建した和尚だそうです。(駒札より)この景色の左手前に建立されているのは、「円戒国師寿塔」です。傍に立つ駒札の説明によれば、寿塔は生前にあらかじめ造られたお墓のことです。上人建立の寿塔は、元亀の兵災で破壊されたそうです。現在の寿塔は天保10年(1839)に再建立されたものです。 寿塔にむかって右側には、石仏が並んでいます。 恵亮堂の前に、中西悟堂の歌碑が建立されています。傍に案内板が設置されています。 樹之雫(キノシズク)しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす中西悟堂は16歳で得度し、比叡山で教義を学んだ後、僧籍から野鳥研究家に転じ、昭和期の詩人であり随筆家だった人です。<日本野鳥の会>を創設。自然保護運動を行ったと言います。 (案内板より)いよいよ釈迦堂が見えてきました。つづく参照資料1) 延暦寺でいただいたリーフレット「比叡山延暦寺」2) No.202 志を立てる 法話集 :「天台宗」補遺天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ草野天平 :「コトバンク」六方 歌舞伎事典 :「文化デジタルライブラリー」中西悟堂 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -3 西塔エリア 釈迦堂の秘仏特別ご開帳と境内巡り へ探訪 比叡山 延暦寺へ -4 西塔エリア 西塔政所・常行堂・法華堂・椿堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -5 東塔エリア 戒壇院・大講堂・鐘楼・童形像ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -6 東塔エリア 文殊楼・大黒堂・東塔・阿弥陀堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -7 京都側への下山路にて 下山途次、八瀬周辺 へ
2024.10.27
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2週間前、14日に延暦寺に行きました。その記録を兼ねたご紹介です。JR湖西線の比叡山坂本駅で下車。駅の傍に冒頭の案内図が設置されています。坂本は延暦寺の門前町として栄えました。「穴太」を「あのう」と読み、「穴太衆積み」という石積み方法で有名です。案内図に描かれた幅の広い坂道を西に進みます。 駅のすぐ近くには「坂本石積みの郷公園」が見えます。9時前に比叡山坂本に着きましたので、歩む道筋にはちらほらと人を見かけるだけでした。静かな坂道を、坂本のケーブルカー乗り場まで、道路沿いの寺社を眺めつつ、坂道を上ります。往路の点描から始めます。 道路の右側にまず目に止まる表門。「不動明王」の石標が門の傍に立っています。養老寿庵と称するようですが、詳細不詳。 道路の左側には、「石占井(イシライ)神社」の石鳥居と朱塗りの板垣、覆屋のある小詞が見えます。由緒書きが設置してあります。「天智天皇の聖代白鳳二癸酉年(673年)大己貴大神(オオナムチノカミ)を奈良の三輪山より日吉大社に勧請されるとき、唐崎比叡辻を経て当地にて石に座した占いの女神に合い『大神の鎮座する聖域はどこか』と尋ねたら女神は大神の御足を井戸で洗い日吉大社西本宮の聖域までご案内した。この故事にちなみ当神社を石の占い井と称し女神を石占井大明神として祀る」(由緒を転記) 祭神は奥津嶋姫神。 覆屋の板垣には石占井大明神の絵図が掲げてあります。 石垣の一部に、飛鳥・白鳳時代、7世紀に造営された坂本廃寺の塔心礎が推定ですが使われているという駒札が設置されています。 坂道には、「日吉神社」の扁額を掲げた石鳥居が設置されています。 石鳥居のすぐの左側には「大神門神社」があります。工事中で立ち入り禁止。 神社の先には、道路沿いに地蔵堂があります。 その少し先は駐車場ですが、その入口近くに、ここが「坂本銭座」の跡地という案内の駒札が設置されています。(地元での伝承と付記あり)1636年、三代将軍徳川家光の命により、青銅の「寛永通宝」一文銭の銭製造地の一つにここが選ばれたそうです。あとの2か所は江戸の芝と浅草。「坂本で作られていた私鋳銭がオランダ商人により海外へ輸出され『サカモト』と呼ばれ人気だったため、その品質や製造技術を評価されたようです。 寛永通宝坂本銭の初期の字体には、『永』の字の跳ねが強いという特徴があります」(説明の後半を転記)ふと思ったのですが、私鋳銭が輸出されたというのは、金属素材としての価値に目をつけたことによるのだろうか・・・・と。 その先、坂道の右側には「公人屋敷(旧岡本邸)」があります。「公人」は「くにん」と読みます。比叡山延暦寺を支えた人々です。 その先、右側には「日吉御田神社 (旧称 井神)」があります。石鳥居の手前に大きな井戸があり、注連縄がめぐらせてあります。設置されている由緒書きには「御田奉行の明神なりと伝う。当社にある大きな井戸を信仰の対象として行われた原始的な農耕祭祀がこの神社の起源とされ、五穀豊穣の御神徳は、今も篤く信仰されている。社名を御田神社と呼ぶのも、古代の田用水や、農耕との密接な関係からと言われている」(由緒転記)石鳥居の先には、覆屋が設けられた一間社流造の小社殿が見えます。祭神は水葉女神(ミズハメノカミ)。 この御神燈がちょっとユニークです。竿は石柱でその上に横長家形の木製の火袋が載せてあります。 その傍に巨木の御神木が聳えています。 境内の西側石垣には、窪みを設けて石仏群が安置されています。ここでも疑問が・・・・。これは明治よりも前からここに集められた石仏(お地蔵さま)なのだろうか。それとも、明治初期より後に、新たにここに安置され集合したものなのか。 さらに進めば、右側に「坂本観光案内所」が見えます。この建物の傍にも、大きな案内地図が設置されています。 この案内所から西側の部分図を切り出してみました。案内所の西隣りが「生源寺(ショウゲンジ)」です。日本における天台宗の開祖伝教大師最澄の生誕地といわれています。奈良時代後期に、最澄により開山されたと伝えられているお寺です。天台宗の霊地です。(資料1) 山門を入ると、前方左側に「写経塔」があり、前方正面に 唐破風屋根の向拝が設けられた本堂が見えます。 唐破風屋根の頂に、獅子口の代わりに、龍像が彫刻された瓦と出会いました。 龍探しの一環として取り上げておきます。 山門を入って右側、境内の南東隅には、「傳教大師御産湯井」の石標が建てられた井戸があります。伝教大師の童形像が建立されています。 山門を入ったすぐ左側、境内の北西隅には鐘楼があり、 鐘楼の背後、築地塀傍に石仏が一番数多く集合安置されています。 生誕寺の西隣りは「大将軍神社」です。この神社は進行方向の坂道と横小路(南北方向)の交わる北東側角地にあります。進行方向の坂道には二つ目の大きな石鳥居が建てられています。ここ日吉大社の表参道が「日吉番場」と称されています。この日吉馬場の両側に穴太衆積みの石積みが見られ、その石積みに囲まれた建物が里坊でです。大将軍神社の角を右折し、横小路を北に1.5km 歩めば西教寺に到ります。道標あり。ここからは里坊を眺めつつ、坂本ケーブルの起点駅に向かうことになります。春には、「京阪坂本駅から日吉大社入口の鳥居までの日吉馬場(ひよしのばんば)と呼ばれる県道が約200本の桜で満開になる」(資料2)のです。 寿量院 実蔵坊 律院 恵光院 様々な形の石灯籠が道沿いに奉納されていておもしろい。坂道の右側に穴太衆積みの石積みと里坊の表門を眺めつつ歩むと、 朱塗りの鳥居が右側に見えます。「官幣大社日吉神社」の社号碑が立ち、「日吉大社」の扁額を掲げた鳥居の前には、日吉大社と墨書した提灯が設置されています。坂本ケーブルは、道沿いに左方向に進みます。 少し奥まった位置に六角堂が見えます。「早尾地蔵尊」です。別名「六角地蔵堂」。道沿いに進むと、延暦寺学園の校門が見え、さらにその先に最初の目的地が見えます。 坂本ケーブルの起点です。 ケーブル乗車券坂本ケーブルは、長さ日本一だそうです。 ケーブルに乗り、山へ!つづく参照資料1) 生源寺 :「滋賀・びわ湖観光情報」2) 日吉大社(日吉馬場) :「滋賀・びわ湖観光情報」補遺公人屋敷(旧岡本邸) :「大津市」公人屋敷(旧岡本邸) 公式サイト生源寺 :ウィキペディア寿量院庭園(坂本5) :「大津のかんきょう宝箱」実蔵坊庭園(坂本5) :「大津のかんきょう宝箱」「律院」と「阿闍梨餅」 特集ページ :「天台宗」山王総本宮 日吉大社 ホームページ滋賀県大津市 早尾地蔵尊 :「Japan Geographic」養老寿庵門前橋 :「田舎暮らしdeほっ!」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ探訪 比叡山 延暦寺へ -3 西塔エリア 釈迦堂の秘仏特別ご開帳と境内巡り へ探訪 比叡山 延暦寺へ -4 西塔エリア 西塔政所・常行堂・法華堂・椿堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -5 東塔エリア 戒壇院・大講堂・鐘楼・童形像ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -6 東塔エリア 文殊楼・大黒堂・東塔・阿弥陀堂ほか へ探訪 比叡山 延暦寺へ -7 京都側への下山路にて 下山途次、八瀬周辺 へ
2024.10.26
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琵琶湖疎水沿いの道から仁王門通に右折し、東大路通を横断して、京阪三条駅に向かう時、ルーティンのように歩く帰り道ではおもしろくないと思い、普段通ることにない通りに左折して南に下りました。自宅で地図を確認してみますと、その通りは新高倉通でした。美術館については、後で少し触れたいと思います。南に歩むと、お寺の大きな屋根が見えてきます。近くまで行くと、冒頭の門が見えました。「日蓮本宗 本山要法寺 西門」の木札が掛けてあります。かなり広い境内地のお寺です。門が開いていましたので、境内を拝見しました。人目につきにくい町中の奥まった位置にこんな大きなお寺があることを今まで気づきませんでした。自宅で調べてみたところ、この門は、「嘉永六年(一八五三年)晋山の第三十八祖日生上人の代に上棟されたもので伏見桃山城の遺構とも伝えられ」ており、平成8(1996)年8月に修理復元されたとのこと。高麗門です。(資料1) 門を入ると、境内の南側には、北向きの門と築地塀が並んでいます。塔頭のようです。「山内には塔頭として顕寿院、実成院、法性院、本行院、本地院、眞如院、妙種院の七寺院」(資料1)があるとか。地図を確認しますと、顕寿院、実成院、法性院が、要法寺の北側に、そしてこちらに4寺が軒を連ねています。 門から東方向には池が見えます。「清涼池」と称するそうです。 (資料1) 塔頭の前の道を進み池に架かる石橋の前に立ち本堂を眺めます。 この石橋は、安永7(1778)年造立で、「救済橋」と称するそうです。 (資料1) 池の東側には袴腰のある「鐘楼」があります。 鐘楼の南東側から眺めるとこんな景色です。 振り返ると、境内の南東側にこの門が見えます。こちらが南面する「表門」です。享保9(1724)年4月上棟、伏見桃山城の旧聚楽門と伝えられているとか。(資料1)この要法寺を地図で確認しますと、東山三条西入ル法皇寺町に位置します。地図を見ていて、気づきました。三条通を東に歩いていくと、三条通に面する北行きの道路の傍に、大きな寺号標が建っていることを思い出しました。グーグルのストリートビューで確認しますと、やはり、「要法寺」の寺号標でした。この北行きの道を上がれば、表門に到るのでしょう。今度は正面から表門を眺めに、この道を使って、立ち寄ってみたいと思います。 境内側から眺めた蟇股には前に張り出した形で亀が彫刻されています。翼の一部が見えますので、多分、正面側は鶴の彫刻が見られるのでしょう。 鐘楼の北東方向には、「庫裡玄関棟」が見えます。 石橋を北側(本堂側)から眺めた景色。欄干の柱に刻された文字は「救済」でしょうか。 本堂 手元の本によりますと要法寺は次のような沿革があります。鎌倉末期、1315年、日尊上人が六角油小路の地に一宇(上行院)を創建 弟子日大が二条堀川の地に住本寺を建立。日尊の法脈を伝える。天文5年(1536)7月、天文法華の乱 泉州堺に難を避ける。1542年、帰洛。綾小路堀川に、上行・住本二寺を合わせて再建。「要法寺」と改称。天正年間(1573-1592)、秀吉の命により、二条寺町に移転。宝暦5年(1755)、大火により類焼。 この被災後に、現在地に移ったとのこと。 (資料2)この本堂は、明和7年(1770)8月16日に上棟、安永3年(1774)3月15日に落成。総欅造。入母屋造・本瓦葺。1987~1989にかけて、大修復工事を行って、現在に到るそうです。本堂には、本尊と日蓮大聖人の尊像が安置されているそうです。 (資料1) 要法寺の寺紋が鶴なのでしょう。 入母屋造の妻側と大棟 大棟の鬼瓦。鳥衾には鶴紋が陽刻されています。 この稚児棟の先端部は、龍像の彫刻に見えるのですが・・・不詳。軒丸瓦の瓦当は寺紋。 降棟と稚児棟の鬼瓦の上部の鳥衾には「要」の字が陽刻されています。留蓋には獅子像が見えます。 本堂の西側にあるのが、「開山堂」です。天保元年(1830)11月20日に再建された時は、新堂と称されていました。重層入母屋造り、唐破風・本瓦葺の建物。大正4年以降は、本尊と開山の日尊上人の御影像が安置されているそうです。この建物もまた、1988年に全面修復工事を着工し、本堂と同時期に古来の姿を蘇らせたとのこと。 (資料1) 唐破風屋根上正面の獅子口には、九条藤の紋が陽刻されています。 開山堂屋根の降棟と稚児棟の鬼瓦。 鳥衾と軒丸瓦の瓦当には、日蓮本宗の宗紋が陽刻されています。 庫裡玄関棟の傍に、この鬼瓦が置かれています。 また、一塔頭の門の傍に、この鬼瓦が置かれていました。屋根上の鬼瓦を見上げることは多くても、すぐ近くで眺める機会は少ないので、このようにさりげなく置かれているのは、瓦好きにとってはうれしいです。この辺りで、要法寺を後にしました。最後に、美術館行きについて、覚書を兼ね少しご紹介します。出かけたのは、二条橋の北西側にある細見美術館。 PR用のチラシ 現在、「美しい春画」展を開催中です。副題は「北斎・歌麿、交歓の競艶」と名付けられています。江戸時代には「笑い絵」とも呼ばれ、有名な浮世絵師たちも作品を残しています。この展覧会の巡回予定はないそうです。ここでの今回限りの展示になるようです。浮世絵師の中でも、葛飾北斎には特に関心を抱いていますので、副題に名前が出ているので期待しました。北斎の版画の「浪千鳥」と「肉筆浪千鳥」が並べて展示されているのは圧巻でした。版画と肉筆画との色遣いの大きな違い、絵の美しさのインパクトの差異等は、現物を鑑賞しないと味わえないものでした。版画と肉筆画の違い、現物(実物)と写真との違いが一目瞭然に体感できました。PRチラシの説明では、海外からの里帰り作品約20件を含む、精選された美麗な春画約70件が展示されています。2013年から翌年にかけてロンドンの大英博物館でSHUNGA展が開催され、春画の高い芸術性とユーモラスな発想が海外で高く評価されたそうです。これがターニングポイントになったのでしょうか。浮世絵研究においても、春画が絵師の作家活動の一つとして捉えられるようになりました。日本で初の本格的な春画展が、東京の永青文庫と京都の細見美術館で開催されました。京都では2016年2月~4月でした、北斎に関していえば、この時、「喜能会之故真通」「富久寿楚宇」「万福和合神」という作品から、期間中に場面替えによる展示でした。それ以来、今回は2回目の展覧会になります。勿論、館内撮影はできません。このあたりで終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 日蓮本宗 本山 要法寺 ホームページ2)『昭和京都名所図会 洛東 下』 竹村俊則著 駸々堂 p218補遺日蓮本宗 :ウィキペディア興門八本山 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.10.20
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瀧尾神社拝殿 天井の龍像10月9日(水)、今年も案内状をいただいたので、「京都女子大学 宗教・文化研究所公開講座」の聴講に出かけました。時間のゆとりをもって出かけましたので、往路の途次、ちょっと立ち寄った箇所の、ちょっとマニアックな点描ご紹介です。いつものように、JR奈良線の東福寺駅で下車します。数分の距離のところに「瀧尾神社」があります。 境内の拝殿、その天井の龍像をちょっと眺めるために立ち寄ってみました。このダイナミックな龍像を久しぶりに撮りました。今回初めて知ったのですが、拝殿に上ることができるようになったようです。ただし有料です。幾度も眺めているので、私は拝殿に上るのは遠慮しました。拝殿に上り、床に寝そべって写真を撮るわけにもいかないでしょうし・・・・。いつもとはルートを変え、大谷高・中学校のキャンパスの北側、JR沿いの道路を東に進み、東大路通に向かうことにしました。東大路通を北上します。 智積院境内地の南西隅で境内の外になりますが、「地蔵堂」があります。 ここのお地蔵さまを格子戸越しに眺めるのも久しぶり。 蟇股 頭貫の先端の木鼻と柱上部の木組前方に向けた木鼻がないのはもともとなのか、切断された結果でしょうか・・・。ちょっと気になりました。 智積院の境内に立ち寄ってから、公開講座の会場建物に向かうことにしました。智積院は入口がオープンです。境内地は自由に参拝、散策することができます。(有料区域は限定) 緩やかな坂道を上ると右手前方に、この「宝物館」があります。(ここは有料)長谷川等伯等による障壁画は、現在この建物(展示収蔵庫)に収蔵され常時公開されています。旧建物で拝観したことはありますが、この宝物館ができて以降は私は未見です。 宝物館の右(南)側面を回り込んで、「金堂」の方に歩みます。 降棟の鬼瓦 稚児棟の鬼瓦 金堂・入母屋造の屋根の妻(側面)に見える鬼瓦 金堂・大棟の鬼瓦 撮りたかったのはこの大屋根の鬼瓦です。金堂の南側には通路と池を挟んで、不動明王を祀る不動堂「明王殿」があります。 池の傍に、彼岸花が咲いていました。 お堂の前には、大きな香炉が設置されています。 正面の向拝は3間幅です。 お堂の正面には、「明王殿」の扁額が掲げられ、向拝の中央部右側の柱には「京都十三佛 第一番 不動明王霊場」の木札が掛けてあります。 右端の柱、頭貫の先には木鼻に象の彫刻。 柱には、この木札が掲げてあります。 左端の木鼻 象の目は、玉眼のようです。 私の探しているものを中央の蟇股で見つけました。龍像の透かし彫り。龍探しの一環です。 左右の蟇股には、麒麟と虎が彫刻されているようです。少し不確かですが・・・・。 お堂の前方に立つ石灯籠。竿には「常夜燈」と刻されています。両堂の一部を拝見した後、公開講座の行われる京都女子大学の建物に向かいました。今回、拝聴したのは、「九條武子と『歎異抄』」と題する講演でした。講師は京都女子大学法学部准教授の西義人先生でした。ご覧いただきありがとうございます。補遺真言宗智山派 総本山智積院 ホームページ京都十三佛霊場 :「聖京都観光タクシー」近畿三十六不動尊霊場会 ホームページ近畿三十六不動尊霊場 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・東山 瀧尾神社ふたたび -1 唐破風の拝所と瑞垣 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍) 3階のシリーズでご紹介探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか 4回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -4 智積院
2024.10.18
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「茶づな」二階への階段 2024年7月撮影京阪・宇治線宇治駅の傍に、「お茶と宇治のまち歴史公園」があり、そこに交流館「茶づな」が建てられています。この公園のメインの建物です。ここで、標題の大河ドラマ展が今春から開催されています。大河ドラマの後半に入り、展示が一部リニューアルされました。それを機会に、ある期間宇治市民は無料で観覧できることができるとのことで、第1日曜(6日)に出かけていました。遅ればせながら、覚書を兼ねてご紹介します。冒頭の景色は、大河ドラマ展の会場への階段、踏み段の側面を使て描かれた図です。 宇治には物語がある 紫式部ゆかりのまちというメッセージが記されています。「広報 うじ」(10/15) を読みますと、「紫式部ゆかりのまち宇治魅力発信プロジェクト」のもとに、様々な企画が組まれています。ご関心のある方は、宇治市の「市政だより令和6年(2024年)10月15日号」のページをご覧ください。pdfファイルで企画が閲覧できます。クリックしてみてください。 階段の上側には、十二単の図が描かれています。 会場入口を入ると、真っ先に展示されているのは、この衣装です。番組「光る君へ」の衣装のようです。会場内は一部、撮影OKの箇所がところどころにあります。そこを中心にご紹介します。 等身大のパネルでしょうか。屏風の前に立ててあります。並んで一枚パチリもできるでしょう・・・・。 こんな一隅も設けてあります。 こんなパネルも掲示されています。大河ドラマのPRをしているようですが、まあ良しとしましょう。勿論、他にもありますが撮影はNG。 一壁面を使い、この俯瞰図が描かれています。 中心部を部分拡大するとこうなります。 上掲の壁面図は、「藤原道長の頃の宇治(想像図)」なのです。現在の宇治、宇治川を見慣れていますので、平安時代の頃の宇治の地形というのを普段あまり考えませんでした。当時は宇治川が真っすぐに巨椋池に流入していたということを抽象的に考える程度でした。この大河ドラマ展で、平安時代、道長の時代の宇治の地形を一歩踏み込んでイメージできる機会を初めてえました。 ( もとの数字が読みづらいので、赤字の数字を補足しました。)宇治市の発掘調査の成果をもとに景観を想像したイラストだそうです。図中に番号が記されています。その箇所の説明要点を説明文から抽出しました。1.宇治川は現在の宇治橋下流でいくつかに分流し巨椋池に同化していた。2.川中に網代が設置され、夏には鵜飼が行われていた。3.このあたりに宇治津があった。4.宇治川の先にあった槙島。宇治川の先には多くの島があり、人々が暮らしていた。5.当時の宇治橋は、現在の浮島十三重石塔あたりにあったと考えられている。6.本町通り(奈良街道)がまっすぐに橋まで伸びていた。 ⇒現在の宇治橋通りは道長時代より300年ほど後に作られたことがわかっている)7.当時の宇治橋の西岸北側に藤原道長の宇治別業があった。 ⇒平等院の場所 ⇒現在の平等院観音堂あたりに寝殿があった。 ⇒当時の別業の園池は、現在の平等院鳳凰堂が立つ阿字池と同じ。8.対岸に離宮社があった。 ⇒現在の宇治神社と宇治上神社の場所9.そのほかにも別業があり、その周りに使用人たちの家や庶民の暮らしがあった。 ⇒現在の宇治市街地10.本町通りの西の端が一之坂。宇治の西の境。 宇治は、平安京(京都)と平城京(奈良)を結ぶ中間にある重要地点でした。宇治は京都という空間の南の自然境界に作られた都市でした。京都盆地の中に平安京があり、南は南西に石清水八幡宮(男山)、南に巨椋池、南東に宇治が境となり、京の文化圏が形成されていたことになります。 「道長の暮らした屋敷」というパネルが掲示されています。道長が普段暮らしたのは京の「土御門殿」です。道長の妻凛子の父源雅信の邸宅を道長が受け継ぎます。道長はこの屋敷を後に拡大します。当初1町だったのが、長保元年(999)までに2町の規模に拡張されたそうです。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたるそうです。(資料1,2)「光る君へ」の場面として既に放映されましたが、道長の娘、中宮彰子が二人の皇子を出産するのがこの「土御門殿」です。この屋敷は、京極殿、上東門院殿とも呼ばれました。余談ですが、紫式部の居宅は現在の廬山寺(上京区寺町通広小路上ル一丁目、北之辺町)の場所と言われていますので、土御門殿とは比較的近い距離にあったことになります。(資料2)「宇治殿」と称された宇治別業(別荘)は、上記の通り現在の平等院の場所と重なります。道長の没後、長男頼道が宇治殿を継承し、永承7年(1052)に平等院へと改修しました。 図像を切り出しました。上は「紫式部日記絵巻断巻」に描かれた絵の部分図です。当時の室内の様子が部分的にわかります。下は、「東三条殿復元模型」です。藤原摂関家当主の京内の主要邸宅。現在の二条城の東側、中京区上松屋町辺りにあったそうです。 (説明文より)道長の父、兼家が伝領し、嫡男の道隆が継承したとみられています。中宮藤原定子はこの東三条殿より入内しました。道長の姉である藤原詮子の里第として用いられたたとか。道長は東三条院に住むことはありませんでした。 (資料3) このパネルでは、道長と宇治殿との関係を説明しています。土御門殿から宇治殿までは約22km。牛車で陸路を利用して半日程度の距離。大和大路を南下し、宇治道(奈良街道)を利用したそうです。一方、道長は舟をよく利用したとか。鴨川~巨椋池~宇治川というルートで、10時間近くかかる場合もあったといいます。道長は、春日社や高野山の参詣の帰路、宇治殿で遊宴を楽しんだそうです。(説明文より)このパネルに掲載の図は、『源氏絵鑑帖』(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)からとられたものです。 道長は生涯に2つの寺院を建立しました。「浄妙寺」と「法成寺」です。「浄妙寺」は、藤原一門の冥福を祈る寺として、道長が建立しました。 このイラストは「浄妙寺復元想定図」(宇治市教育委員会蔵) 現在の宇治市木幡小学校のグラウンドから、発掘調査により、「法華三昧堂」(左)と「多宝塔](右)の遺稿が出土しました。道長の『御堂関白記』の寛弘2年10月14日の条には、「浄妙寺に到った。造営が漸く完成した」と記録し、同月19日の条に浄妙寺三昧堂供養について記録しています。文庫本で2ページ少々にわたる記録です。 (資料4)2年後の寛弘4年10月10日の条には、多宝塔造営の検分を記録し、同年12月2日の条には、浄妙寺多宝塔供養について1ページ少しにわたって記録しています。(資料4)「建立の意図は、父兼家と木幡を訪れた際、先祖の墓が荒れていたため、立身したら先祖供養のために寺を建てると誓ったことによるとされます」(説明文より)この浄妙寺跡の東側一帯には、藤原一門の墓が、宇治領として各所に散在し広がっています。もう一つの寺が「法成寺」です。道長自身が自らのために、土御門殿の東隣りに建立しました。現存する『御堂関白記』の最後の最後、寛仁4年(1020)3月22日の条に、無量寿院落慶供養について記録しています。(資料5)手元の高校生用参考図書の日本史年表には、浄妙寺は載っていませんが、「1020 道長、無量寿院のちの法成寺建立」と一行記載されています。無量寿院は道長の住房となります。道長は万寿4年(1027)に法成寺阿弥陀堂で亡くなりました。(説明文より)今は、法成寺跡の石標が現地に残るだけです。 道長については、「道長の祈り」と題する説明もあります。道長は若いころから病気がちだったそうです。大河ドラマにも道長の病気の場面が描かれていました。40代を過ぎると意識を失うなど深刻な症状も発症します。「望月の・・・」と歌を詠んだ「53歳の頃は咳が絶えず目もかすんでいたらしく、糖尿病」と推定されているとか。道長は54歳で出家します。法成寺は仏国土を彷彿とさせる寺であったとか。(説明文より)パネルの上部には、道長自筆の「紺紙金泥妙法蓮華経」(国宝、東京国立博物館蔵)、中段の右は「金銅製藤原道長経筒」(国宝、金峯神社蔵)、左は「第15回国際糖尿病会議記念切手」です。このパネルには、宇治に葬られた藤原氏の人々を系図で示し、赤字で表記されています。道長による浄妙寺建立以降に、道長一門の墓が木幡に集中して造られたと言います。写真でご紹介できるのはこれくらいです。他にもいろいろなパネル説明の展示があります。印象に残るのは、4Kシアターでの映像です。「ここでしか見られない、独自の映像コンテンツ」というキャッチフレーズの映像プレゼンテーションです。会場で入手した「光る君へ +京都府宇治市 Vol.2」というNHKの協力で作成されたパンフレットには、「キャスト・スタッフのインタビューも交え、ドラマのテーマを深堀り。源氏物語や藤原道長と<宇治>との関係を迫る。市内の史跡紹介編も」とキャッチコピーがきされています。短時間ですが2編の上映。これ、なかなか優れものでした。 「十二単を体験しよう」というこんなコーナーもあります。いわば、来場記念撮影スポットというところでしょうか。平安時代の香の体験だとか、宇治市の方位を円盤上に明記してあり、矢印を回転させて方位を決め、その方位に該当するボックスの蓋を開けて、どのような名所史跡がその方位にあるかを知るという、遊び心をくすぐるコーナーもあります。出口の手前には、大河ドラマ出演キャストの直筆サインとひと言メッセージの色紙が壁面にずらりと並べてあります。それぞれの個性あふれるサインを一堂に見せるというのも、こういう展覧でしかできないコーナーでしょう。おもしろく拝見しました。写真に撮れなかったのがちょっと残念!まあ、こんなところで終わりとします。ここでは触れなかった箇所もあります。気軽に見られて、大河ドラマのコンテンツに一歩近づける企画展だと言えます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 土御門殿 :ウィキペディア2)『紫式部伝 その生涯と「源氏物語」』 角田文衛著 法蔵館 p135-1643) 東三条殿 :ウィキペディア4)『藤原道長 「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏著 講談社学術文庫5)『藤原道長 「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏著 講談社学術文庫補遺廬山寺 :「そうだ京都、行こう」京都大宮御所・京都仙洞御所 :「環境省」長徳四年紺紙金字経 :「e國寶」金色に輝く藤原道長の経筒 :「京都国立博物館」No.16 道長はどこに眠るのか~宇治稜に藤原氏の謎をさぐる :「宇治市」地図の雑学 宇治稜32号(京都府)~藤原道長と所縁がある宇治にある筆~:「mapple」光る君へ 全体住観図 :「NHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -1 4回のシリーズでご紹介しています。
2024.10.15
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昨日、12・13の両日に公開のあと2か所のお寺を探訪してきました。最初に訪れたのは「蔵林寺」です。黄檗山萬福寺の総門前の通りを南に進みますと、通りの東側にこの寺号標が見えます。その傍に地蔵堂があります。地蔵堂については、後で触れたいと思います。 山門山号「源信山」の扁額が掲げてあります。 本堂山門を入ると、かなりの参観者が訪れていました。 本堂の正面には、「蔵林寺」の扁額が掲げてあります。寺号標に刻されていますが、平安時代の寛和2年(986)恵心僧都により開基されたと言われるお寺です。そこから山号を「源信山」と称されました。(資料1) 本堂内部正面内陣に本尊阿弥陀如来坐像が安置され、左右の脇陣に諸仏像が安置されています。 本尊「阿弥陀如来坐像」。印は来迎印(上品下生)を結んでいらっしゃいます。 平安時代後期の作と伝わる阿弥陀如来坐像。脇侍が勢至菩薩(左)と観音菩薩(右)の阿弥陀三尊形式です。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)。 (資料2,3) 上掲本尊がこの公開の拝観券の半券に使われています。本尊に向かって右側には、「三界萬霊位」を祀る祭壇が設置されています。 この二体を眺めて、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像を連想しました。阿弥陀二十五菩薩来迎図に描かれる菩薩像を象っているのでしょう。 本尊に向かって右側脇陣には、「薬師如来坐像」が安置されています。 平安時代後期の作。本尊の阿弥陀如来坐像より一段古式の像と見られています。寄木造。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)。 (資料2,3) 四天王像の内の二像。近年の作と思われます。持物から判断しますと、左が持国天像、右が増長天像。 本尊に向かって左の脇陣の諸仏像を拝観します。 本尊に近い方に、「地蔵菩薩立像」が安置されています。平安時代祭末期の作と考えられています。寄木造。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)です。 「伏し目がちな穏やかな面貌、撫で肩で薄胸、極めて浅い衣文など全体にやや繊細な造り」(資料2)の地蔵菩薩像です。 左側には「毘沙門天立像」。こちらも平安時代末期の作と考えられていて、同様に寄木造。「頭部は小づくりな童顔で腰から下が太い。両手が舞いをみるようにおだやかな動きを示している点も平安時代末期の特色」(資料2)だそうです。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)。 (資料3) 左の脇陣に厨子入りで安置されていますので、「法然上人坐像」です。蓮華座上に座した姿です。 四天王像のあとの二体が左脇陣に安置されています。こちらは、左が多聞天像。右が広目像像。本堂を出て、境内を巡ってみました。 本堂の前方、南西側に石造「聖観世音菩薩立像」が建立されています。 本堂の右側面を回り込みますと、南側は境内墓地で、その端に石造地蔵菩薩立像が建立されています。左腕に赤子を抱かれ、足元には幼子が居ますので、子安・水子地蔵菩薩像と思います。 本堂の背後に巡りますと、大きな「むくのき」があります。駒札が立っています。宇治市名木百選の一木。くすのきはにれ科なのですね。推定樹齢は500年と記されています。現在のくすのきは上部が被災により倒壊してしまったようです。 太い幹はかなり空洞化しています。それにもかかわらず木の生命力はすごいと感じます。 むくのきの傍に、覆屋を設けた小さな鎮守社が祀ってあります。詳細不詳。この辺りで蔵林寺を出ました。本堂で案内説明をしていただいた係の方の説明に加えられていたのが、寺号標の傍の地蔵堂についてです。扉を開けて拝見してくださいとのこと。 左右の地蔵石仏は一般的な形状なのですが、中央の地蔵石仏が得意な形なのです。 石柱の四面にお地蔵さまが彫られている形です。毎年、正面に来るお地蔵さまが交代されるしきたりを守られているそうです。めずらしいお地蔵さまと出会えました。この後、萬福寺の総門前を再び通りぎ、黄檗道を隠元橋の方向、西に向かいます。めざすは西導寺です。 京阪電車の踏切を横断してしばらく歩むと、「西導寺」の寺号標と山門が見えます。 山門を入ると、前方に南面する本堂が見えます。 本堂の東側に、毘沙門天と墨書された提灯がかけられたお堂があります。今回、公開されたのはこのお堂に安置された諸仏像です。本堂は公開対象外でした。こちらのお堂の正面奥側が、保管庫を兼ねた作りにしてあり、扉を開けた状態で、中に安置されている諸仏像を拝観しました。残念ながら、撮影禁止。係の方の案内によりますと、明治の廃仏毀釈の折に、周辺の諸寺で廃寺となったところがいくつかあり、その諸寺の仏像がこの西導寺に遷座されたことで、現在に到るそうです。特別公開の諸仏像は横一列に安置されていました。左右両側に毘沙門天像が安置され、中央部、向かって左に阿弥陀如来像、右に薬師如来坐像です。阿弥陀如来像の左に安置された「毘沙門天立像」(重要文化財)は左手に戟を執り、右手を腰にあてるという姿。一般的な造形は、左手に宝塔をささげ、右手に戟を執る姿です。足元は普通天邪鬼に乗っている姿ですが、こちらは岩座に立つ姿です。ヒノキ材の寄木造で調眼彩色。平安後期の作。(資料4)明治43年(1910)4月20日に重文指定。 (資料3)「長勢の一門の仏師が作った広隆寺十二神将の流れに属するものとみられる。長勢は定朝一の弟子で、定朝なきあと30年以上にわたって造仏界をリードしたが、本像も長勢一門の作で、この筋の巧手によるものと考えられる」(資料4) 「薬師如来坐像」(重要文化財)は特別公開拝観券半券に使われています。左手に薬壺をのせ、左足をうえにして結跏趺坐する姿です。平安時代後期の作。12世紀の温雅な作風で、後世に定朝様と称される作風。「その中でも特に優れた出来をみせている」(資料4)と言います。ヒノキ材の寄木造、調眼彩色。明治42年(1909)9月22日に重文指定。(資料3)右側に毘沙門天が二体安置されています。一体は左手に戟を執る姿です。右端の「毘沙門天立像」も平安時代後期の作。宇治市指定文化財(昭和63年/1988年3月31日指定)。(資料3,4)こちらの毘沙門天は、左手に宝塔をのせ、右手に戟を執る姿。「現在は古色を呈しているが、天冠台、鎧縁には漆箔、袖部には花文や截金の裏跡が認められ、当初はきらびやかな彩色だったと考えられる」(資料4)という仏像です。お堂を出た後、境内の一部を拝見しました。お堂の南西方向に、西面する形で、 ブロンズ製の「勢至丸坐像」 「法然上人立像」 二体を並べて建立されています。 南側に、小社が見えます。鎮守社のようです。詳細不詳。この小社からが北西側に 十三重石塔これは近年、造立された印象を受けました。この辺りで西導寺を後にしました。仏像を撮れなかったのが残念です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 蔵林寺 :「MUNDIAL」2) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 蔵林寺3) 宇治市の指定文化財一覧 :「宇治市」4) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 西導寺補遺木造四天王像立像 :「文化遺産オンライン」四天王像立像 :「大安寺」戒壇堂四天王像 :「東大寺」定朝様の仏像 :「湖南市教育ネット」定朝様の定義に関する問題 松出洋子 :「仏教大学」長勢 :ウィキペディア長勢 :「コトバンク」阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎) :「京都国立博物館」阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎) :「TSUMUGU Gallery」彫刻・工芸 雲中供養菩薩像 :「世界遺産平等院」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) 探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) 探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) 探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2)
2024.10.13
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本堂前の境内の参道を挟んで両側に、ずらりと蓮華の鉢が並べてあります。本堂を出た後、小ぶりな花がかなり咲いていました。 見ているうちに、今この時点で咲いている花を一通り撮ってみたくなりました。 「蓮華」は蓮華座という形で仏像の台座として最も一般的な形式に取り入れられています。蓮の花の開いた様をかたどっています。「蓮華」は、蓮あるいは睡蓮の華。「炎暑の国インドでは、涼しい水辺は生にとっての理想の場であり、その水面に咲く蓮華は苦しい現実の対極にあるその理想の境地を象徴するものとして古来親しまれ愛好され」(資料1) ました。それゆえ、蓮華座という形式に取り入れられたのでしょう。 蓮華として一括されますが、蓮と睡蓮は品種が異なり、インド美術では明確に区別されるとか。それがアジア各地へ伝播するにつれ、両者の区別はしだいに曖昧になったそうです。(資料1) 手元の辞典を引きますと、蓮はスイレン科の多年草。睡蓮はスイセン科の水生多年草。蓮は水面からつき出る茎に淡紅色・白色の一花を開きます。睡蓮は、「ハスに似た花を開く。耐寒性種の根茎は長く、熱帯性種の根茎は球茎。昼咲と夜咲きがある」そうです。(資料2) 手元の歳時記を調べてみました。蓮と睡蓮はともに夏の季語。7月の中に両方が並べて載っています。少し長くなりますが、歳時記の解説事例として引用します。(資料3)<蓮>わが国へは中国から渡来したといわれる。観賞用に池、沼に植え、また蓮根を作るために水田に栽培される。晩夏、緑色の長い花柄を水中から出し、頂に紅、白の花をつける。「にごりにしまぬ花はちす」といわれ、「君子花」の異名がある。花は大きく、花弁は卵形でいわゆる蓮台形に重なり合い芳香を放つ。蕾は宝珠の形をしており、盆の仏壇や霊棚の花として欠かせぬものである。宗教上、極楽浄土の象徴の花として蓮華という。<睡蓮>庭池や水鉢に栽培するが、沼や池の中の根茎から紐のような茎を伸ばし、茎を水面に浮かべる。光沢のある円形の葉は切れ込みがあり、裏は紅葉色を帯びる。花も根茎から長い花柄を伸ばして水面に浮く。蓮に似て、白、紅、黄などすがすがしいほど美しい。花も葉も蓮より小さく6~7センチ。夕刻に花弁をたたみ、昼また開くので睡蓮という。「スイレンの仲間は北半球の温帯の沼沢に広く自生している。これを親として花の美しい園芸品種が多数育成されている。春から秋に基部に切れ込みのある円形の葉を水面に浮かべ、冬には枯れて休眠する」(資料4)これは植物図鑑の説明です。葉の形を判断すると、庭の蓮華の鉢は、睡蓮がたくさん咲いているようです。 「5~9月、直径10~25cmの花が水面に浮かんで咲く」(資料4)と説明されています。温暖化現象の影響は、睡蓮にも及んでいるのでしょうか。わが家の庭のオーシャンブルーは猛暑日が連続した期間は、ピタッと花が咲かなくなり、現在盛んに花開いています。 「熱帯スイレンN.capensisは球根性で、葉のふちには鋸歯があり、花弁は先がとがり、花は水面よりつき出て咲く」(資料4)とのことなので、この睡蓮は熱帯スイレンかも。ハスについてですが、「化石や種子が古い地層から発見されているので、日本に自生していたという説もある」(資料5)そうです。「地下茎はあきになると先端部が太くなり、蓮根として食用にされる」「葉は直径30~40cmの円形」と植物図鑑に説明があります。 (資料4) 大乗仏教の経典で、蓮華は必須の要素となっています。次の説明で、なるほどと思います。「仏教においては、泥中に生じてもそれ自体は泥に汚されず、清浄である蓮華は煩悩から解脱して、涅槃の清浄の境地を目指すその趣旨に合致して、当初より多様なシンボリズムにおいて用いられ、また蓮池の清涼とその水面に咲く蓮華の美は浄土経典をはじめとする大乗仏教の各経典で、浄土・理想の仏国を叙述する場合の必須の要素となっている」(資料1) 仏教では、蓮華は観音のシンボルとされるそうです。そして、観音から発展した一連の尊各群が<蓮華部>と呼ばれるようになりました。 (資料1)聖観音像が左手にもたれているのは蓮華です。密教の法具である金剛杵は男性原理、蓮華は女性原理の象徴とみなされていると言います。(資料1) 上記した「蓮華座」は、「本来は古代インドにおける蓮華崇拝の観念が仏教のなかに取り入れられて成立したもの」(資料1)と言います。 これをまとめていて、初めて知ったことですが、古代インド神話に登場するブラフマー(梵天)は、「根本神ヴィシュヌの臍に生じた蓮華から生まれた創造神である」という考えがあるそうです。「この神を仏像に置き替え、仏像もまた蓮華から生まれ出た聖なる神格として表現されるようになった」(資料1)とのこと。 この庭の鉢には、蓮と睡蓮の両方がありそうです。最後に「蓮華化生」という言葉で終わりましょう。「浄土に往生することを、極楽の蓮の台(ウテナ)の上に生ずることに譬えたもの」(資料1)浄土宗のお寺と蓮華の鉢は密接につながっているようです。 安養寺を出て、道路に戻りお寺を再びみあげました。これで、放生院から安養寺をめぐる探訪を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1)『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店2)『日本語大辞典』 講談社3)『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子 三省堂4)『山渓ポケット図鑑2 夏の花 野草・樹木・園芸植物』 山と渓谷社補遺ハス :ウィキペディアスイレン属 :ウィキペディア睡蓮とハスの違いは?それぞれの特徴や見分け方を解説 :「Green Snap STORE」インド神話 :ウィキペディアブラフマー :ウィキペディア蓮華座 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ
2024.10.12
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「安養寺」は道路に面してまず石段が立ち上がっています。境内地は山の斜面を開削して造成されたのでしょう。 石段を上ると、山門から本堂が見えます。山門を入ると、参道は左側に延びています。参道の両側の境内地には蓮の鉢がずらりと並べてあります。 参道を歩んで振り返るとこんな景色です。 本堂の正面には、この扁額が掲げてあります。「羽戸禅房」と私には読めます。 これは本堂の須弥壇に向かって、左側壁面に掲示されていた拡大図です。「羽戸山安養寺之景」と標題が付き、当寺の由緒が右下に記されています。原図が壁面前の長テーブルに置かれていました。明治32年7月刻と日時が入っています。標題の上に住所が明示されています。当時の表記が興味深いので転記します。 京都府山城國宇治郡宇治村大字莵道宇治市のホームページを見ますと、京都府が置かれたのは明治元年。宇治市という市制が施行されたのは昭和26年(1951)3月1日です。それまでの期間には幾たびかの行政区画の変遷があるようです。(資料1)現在の安養寺は宇治市莵道にあります。浄土宗のお寺。創建の詳細は不明ですが、当初は、現在地の西南方向、現在の京阪電車宇治駅周辺の宇治川岸あたり、羽戸村にお寺があったそうです。それが羽戸山という山号に表れています。江戸時代、貞享2年(1685)に現在地に移転。上掲由緒文には、「貞享年中第八世称譽盤察和尚ノ時今ノ地ニ移レリ」と記されています。「この地域はかつて大鳳寺村(白鳳時代にこの地にあった寺の名前に因む)と呼ばれ、あたり一帯が茶畑で数軒の茶師で構成され、その帰依を受け、地域の中でも格式高い寺として清栄し」(資料2)、現在に到ります。大鳳院という院号は大鳳寺村に由来するのでしょう。本堂内での撮影はOKでしたので、画像でご紹介できます。 本堂の外陣と内陣の境になる柱の上部、欄間には鳳凰(多分・・・)が透かし彫りが見えます。その両端には、「念仏衆生」(右:念仏の衆生を)、「摂取不捨」(左:摂取して捨てたまわず) との、「摂益文(ショウヤクモン)」後半の経文が掲げてあります。 内陣 浄土宗のお寺ですので、本尊は阿弥陀如来立像が祀られています。そして、左右の脇陣と壁面に軸物が掲げてありました。本尊に向かって、右の脇陣正面に安置される仏像群から拝観します。 地蔵菩薩立像 江戸時代 木造地蔵菩薩立像 平安時代末期~鎌倉時代初期の作。宇治市指定文化財(平成6年3月28日指定)この地蔵菩薩像について、境内に次の案内板が設置されています。 この説明から、天文7年(1538)にお寺が再興された時に、天台宗から浄土宗に改められたことがわかります。この地蔵菩薩像は当寺の地蔵堂に伝えられた像だそうです。 善導大師像 阿弥陀如来立像 南北朝~室町時代の作 向かって右の脇陣の端には、小さな厨子に安置された如来像ほかが安置されています。向かって左の脇陣に移ります。本尊に近い方からご紹介。 阿弥陀如来坐像本尊の立像は施無畏印と与願院の印相ですが、坐像は法界定印を結んでいらっしゃいます。禅定印です。平安時代、10世紀の作。宇治市指定文化財(平成16年3月26日指定) 特別公開拝観券の半券には、この如来坐像が使われていました。 法然上人像 厨子入りの地蔵菩薩立像厨子の前の僧形像はどなたでしょうか・・・。不詳。 多宝塔のミニチュア多宝塔の右側に置かれた小さな厨子は地蔵菩薩立像です。壁面にいくつか掛け軸が掲げてありました。 釈迦涅槃図 阿弥陀如来来迎図 未確認で、不詳。 本堂外陣、正面に向かって右端に、この屏風が飾ってありました。これは何? 特に説明が付いていず、本堂ではわかりませんでした。帰宅して、わかりました。拝観の受付をした際に、贈呈本ですと封筒をいただきました。それが、 この本です。『ダニヤ経』著者はこの安養寺のご住職、吉水秀樹さん、絵を畠中光享さんが描かれています。表紙の絵が、上掲の屏風絵でした。畠中光享作「牛飼いのダニヤ」です。これで結びつきました。『ダニヤ経』。初めて目にするお経!?副題は「ーブツダが説くゆるがないしあわせー」とあり、その隣に、「スッタニパータ第1章のⅡ」と書かれています。「スッタニパータ」という言葉を読み、中村元訳『ブッダのことば ー スッタニパータ ー』(岩波文庫)と結びついてきました。「第一章 蛇の章」の二の見出しが「ダニヤ」です。眠っている手元の文庫本で確認しました。ご住職はこの第一章の二を取り出して、「ダニヤ経」と題し、17の偈を翻訳して、それぞれの偈について解説を加えておられるようです、そして、そこにさまざまな絵が載せてあります。まだ「はじめ」を読んだだけで、精読していませんので「はじめに」に記された一点だけ、ご紹介させていただきます。「スッタニパータ」は初期仏教経典。南伝大蔵経の中の経典であり、漢訳経典としては日本に伝来していない経典。中村元先生が『ブッダのことば ー スッタニパータ ー』と題して翻訳されました。上掲書は、そのスッタニパータからダニヤの箇所を一冊の書として、ダニヤ経と題されているのです。登場人物は、ブッダと牛飼いのダニヤの二人です。(本書は、発行:株式会社方丈堂出版、発売:株式会社オクターブ)本堂の拝観を終えて、境内に出ます。 山門の近くに、鐘楼があります。 梵鐘の縦帯の一つには、「饗流十方」と陽刻されています。 撞座の上の縦帯には、蓮華座の絵模様の上に「南無阿弥陀佛」と陽刻され、 もう一つの縦帯には、「為宮林家先祖代々菩提」と陽刻されています。今回の特別公開で寺々を訪れ、案内説明を聞いていて初めて知ったことがあります。宇治の茶師に、上林、宮林、梅林という三家の名が挙げられた点でした。上林家は知っていましたが、他の茶師は知りませんでした。この梵鐘をみて、なるほどと思いました。調べてみますと、江戸時代にはいくつかの階層が設けられ、かなりの数の宇治茶師がいたようです。 梵鐘の龍頭。鐘を吊る箇所に龍が関係しています。デザイン化され、デフォルメされた龍ですが、龍との出会いです。 鐘楼の近くに、石仏象が置かれています。かなり古そう・・・・。傍に立つ石灯籠は、織部灯籠です。さて、次回は境内に置かれた蓮の鉢に咲く蓮の花を取り上げて終わります。つづく参照資料1) 宇治市のあゆみ :「宇治市」2) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 安養寺補遺仏像の手のポーズ(印相)をイラストで解説 :「仏像入門ドットコム」印相 :ウィキペディア宇治茶師 :「コトバンク」江戸時代の宇治茶師 穴田小夜子 :「学習院大学学術成果リポジトリ」宇治茶と御茶師 英原英弌 :「big.or.jp」宇治市の指定文化財一覧 :「宇治市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺 へ こちらもお読みいただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治を歩く -6 安養寺
2024.10.11
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「さわらびの道」を進むと、大きな「宇治上神社」と刻した社号碑と朱塗りの鳥居に到ります。 この鳥居の少し手前、右側に『源氏物語』宇治十帖の四、「早蕨(サワラビ)の古積」碑が設置されています。宇治上神社の表門をくぐり、境内に入ります。 前方に「拝殿」が見えます。駒札にれば、桁行6間、梁行3間の大きさ、一重切妻造・檜皮葺(ヒワダブキ)、両妻に1間の庇が付いている建物で、寝殿造様式と説明し、鎌倉時代の建立です。昭和27年(1952)に国宝に指定されています。明治44年(1911)に解体修理が実施されています。両妻1間が縋破風(スガルハフ)とよばれる独特の屋根構造だそうです。現存唯一の住宅風建築と評価されているとか。 (資料1) 拝殿を右に回り込むとき、この「手水舎」が見えます。宇治七名水の一つ「桐原水」が今も湧いています。ただし、今はもうそのままでの飲用は不可となっています。 拝殿を回り込むと、「本殿」があります。本殿は平安時代の建立で、最古の神社建築として知られ、国宝に指定されています。この外観が一棟に見える建物は覆屋の機能を兼ねていて、内部に3社の建物が並列しています。 左殿 中殿 右殿内殿と覆屋は壁と屋根の一部が共有される建造物となっています。壁の共用は上掲写真でもわかります。祭神は、応神天皇(中殿)、仁徳天皇(右殿)、莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)(左殿)です。(資料1) 本殿に向かって右側に「厳島神社」が祀られています。。今回、撮っていませんが、少し離れた位置に「武本稲荷社」もあります。 拝殿の右側を回り込んでくるとき、最初に見えるのが、本殿に向かって右側に並ぶこの「春日神社」(重文・鎌倉時代)です。祭神は武甕槌命と天児屋根命。一間社流造、檜皮葺。(駒札より) 春日神社の隣に二社が並んでいます。向かって左が「住吉社」、右が「香椎社」社です。 住吉社 祭神:上筒男命・底筒男命 香椎社 祭神:神功皇后・武内宿禰さわらびの道に戻り、宇治上神社の北側を進むと、 与謝野晶子の「宇治十帖歌碑」が建立されています。 歌碑の前に「『宇治十帖』の歌碑に寄せて」と題した碑文が併設されています。「与謝野晶子が夫の寛とともに山水景勝の地宇治を訪れたのは、1934(大正13)年10月14日のことであった。 幼少のころよりわが国の古典に親しみ、とりわけ『源氏物語』の魅力にひかれた晶子は、紫式部を終生の師と仰ぎ、その現代語訳に渾身の熱情をそそいだ。かくて1938(昭和13)年61歳のとき、『源氏物語』全6巻の偉業をなし遂げた。 のみならず、晶子は『源氏物語』五十四帖を五十四首の詠歌一首精励した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮し、流麗典雅な筆跡を歌軸や歌巻にとどめている。 『源氏物語』の舞台となった(数文字判読できず)宇治の地に、晶子没後五十年・市制四十周年を記念して、ゆかりの「宇治十帖」十首が晶子の真筆によって刻まれたことを心から慶賀っするものである。 1992年10月吉日 太田 登 」 (判読し転記。一部判読できず)その近くに、「観光案内地図」が設置されています。 地図に朝霧橋からの行路を青色ドットで追記しました。宇治神社を出てからは「さわらびの道」を歩んでいます。 作者未詳ですが、よく知られた歌碑が近くに建立されています。確認してみますと、「万葉集」の巻13、第3236番で、雑歌に載る長歌です。(資料2,3) 大吉山に登る入口の近くに「総角の古積」碑があります。道沿いにさらに歩めば、「宇治市源氏物語ミュージアム」がさわらびの道の左側に見えます。道をそれて、ミュージアム前の小径を通ることにしました。 小径沿いにミュージアムの周囲を回り、ミュージアムの北側の出入口を出て、右折します。少し先で道が分岐し、右が「さわらびの道」の北の起点です。左の道が北方向への道で、途中までは「かげろうの道」と称されています。この道の途中にある目印は戸倉病院です。病院前を通過し、2つめの道で右折すれば「かげろうの道」。右折せずにそのまま道沿いに北に進めば、安養寺に向かう道です。少し先の右側に見える京都府翔英高等学校がもう一つの目印になります。三室戸中橋を渡り、三室戸寺の方向に向かう道を横断してそのまま北に進みます。 道を歩めば、右に石垣白壁の屋敷が見えます。これも目印。 この建物の北側に、「厳島神社」の社号碑が立つ参道が見えます。道路からは少し奥まったところに社殿があります。久しぶりなので、ここもちょっと立ち寄ってみました。 石鳥居の少し先、左側に位置する「大神宮」。大神殿が祀られているそうです。 参道を進むと、右側に池が見えます。 左前方に瑞垣で囲まれた社殿が見えます。だれも居ない静かな空間でした。 本殿正面 中門の右側に、この「案内文」(由緒)が掲示されています。厳島神社の本殿には、横並びに5柱の神々が鎮座します。正面に向かって右側から、熊野大神、菅原大神、厳島大神、八幡大神、稲荷大神です。厳島大神とは、市杵嶋比売命です。 本殿に向かって、左側に摂社として、「新羅神社」が勧請されています。園城寺の新羅善神堂を勧請したものだそうです。付近にある三室戸寺が、平安時代に近江の園城寺の別院として創建されたことと関りがあるそうです。 (資料4) 境内を一通り拝見して、いよいよ最後に安養寺へ。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社2) 歌詳細 そらみつ大和の国あをによし・・・ :「万葉百歌 奈良県立万葉文化館」3)『新訓 万葉集 下巻』 佐々木信綱編 岩波文庫 p824) 厳島神社【宇治市観光スポット/JR奈良線観光社寺仏閣】:「JR奈良線ガイド」補遺世界文化遺産 宇治上神社公式ホームページ宇治上神社 :ウィキペディア宇治市の維持向上すべき歴史的風致 :「宇治市」宇治上神社・宇治神社コース :「宇治観光ボランティアガイドクラブ」宇治の「厳島神社」 :「KCN京都」[巻子本]源氏物語礼讃 与謝野晶子:「昭和女子大学図書館 デジタルアーカイブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 世界文化遺産・宇治上神社細見スポット探訪 [再録] 宇治を歩く -5 厳島神社スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺 へ
2024.10.08
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恵心院への坂道を上ると、突き当りに覆屋が見えます。 「南無大師遍照金剛」と赤地に白抜きで書された奉納幟が周りに林立し、弘法大師空海の石像が安置されてます。遍照というのは大日如来の原語の訳ですが、大日如来の密号(密教内部での符号的呼び名)を遍照金剛と呼ぶそうです。また、日本密教の開祖弘法大師空海の灌頂名が<遍照金剛>です。この幟は、空海を敬う名号ということになります。(資料1)右折してもう少し上りますと、 山門です。 山門を入ると左前方に本堂が見えます。 本堂正面の手前、右側には、本堂に面する形でブロンズ製の地蔵菩薩立像が安置されています。水子地蔵です。 本堂正面に仮設された受付で拝観券を購入し、右側面の外縁から入堂しました。この建物は、本堂と護摩堂が一体型になった珍しい様式だそうです。(資料2)恵心院は真言宗智山派の寺院。京都・東山にある智積院が智山派の総本山です。もとは、弘仁2年(821)に創建され、空海が留学僧として学んだ唐の青龍寺に立地条件が似ていることから、龍泉寺と称されたと言います。無住寺の時代を経て、天台僧の恵心僧都源信が寛弘2年(1005)にこの寺を再興されました。そこから恵心院と称するようになったとのこと。その後、数度の兵乱で被災し破却衰退したそうですが、天正5年(1577)に真言宗の沙門により中興されました。(資料2)江戸時代の初期に淀藩主永井尚政により伽藍の整備がなされたそうですが、現在は本堂と山門、そして庫裡だけになっています。現在の本堂は、万福寺の建築に関わった秋篠兵庫により延宝4年(1676)に建立され、山門は天正17年(1589)の再建と言います。(資料3,4,5)余談です。恵心僧都が寺を再興された寛弘2年の時代背景の一例として。今、大河ドラマで「光る君へ」が放映されています。藤原道長の「御堂関白記」によると、寛弘2年は、藤原の氏寺として道長は宇治の木幡に「浄妙寺」を造営中の時期です。同年8月3日の条には、「木幡の浄妙寺に行って、三昧堂の造営を検分した」と記録しています。(資料6)同年10月14日の条に、「浄妙寺に到った。造営がようやく完成した」と記し、10月19日の条に、「浄妙寺の三昧堂供養があった。天が晴れた」と記録しています。現在、この浄妙寺跡は宇治市立木幡小学校のグラウンドとなっています。 また、『源氏物語』宇治十帖の「手習」で、初瀬参詣の帰途に発病した母尼のことを知らされて、横川の僧都が加持祈祷のために下山して、宇治院にやどって母尼を待っているとき、弟子が宇治院の木の下で怪しい人影を発見します。横川の僧都は、正気を失っていた浮舟を建物に入れさせて介抱し助けます。この横川の僧都は恵心僧都がモデルと考えられているようです。元に戻ります。本堂内は撮影禁止でした。 拝観券の半券ここに、御本尊の十一面観音菩薩立像を見ることができます。ヒノキ材の一本造で、伝来は不明。平安後期の作と考えられています。平成3年(1991)に宇治市指定文化財に指定されました。「脇を締めた体形や衣文の数が少ない簡素な表現など10世紀の典型的な作風が見受けられる」(資料2) そうです。本堂に入ると、建物の中央部に護摩壇が設置されていて、護摩壇上には、一般的な正方形に法具を置く形式ではなく、初めて見たのですが、曲線形に法具が置かれていました。高座(礼盤)側から眺めると、正面奥の須弥壇に本尊が祀られています。本堂内を時計回りに進んで諸仏を拝見しました。メモをとっていませんでしたので、記憶に残るのは、頬がこけた相貌の木像「源信肖像」と「阿弥如来立像」の二体です。本堂を拝観した後、境内を巡ってみました。恵心院は今は「花の寺」として知られています。 庭のあちらこちらに彼岸花が咲き誇っています。 そして、目に止まったのがこの白い花! 境内の南端に墓地があります。その入口手前から撮った六地蔵菩薩像です。 山門に近いところに、鎮守社 山門から眺めた景色です。 社は南面していて、朱塗りの鳥居が建てられています。 白龍大神社です。 ちょっと細部を眺めてみました。 木鼻の象彫刻 龍像の彫刻を発見! 透かし彫りの兎が彫刻されています。 山門の棟の鬼瓦 降り棟の鬼瓦とその傍の留蓋 山門の軒丸瓦の傍に、植物が根付いていました。 山門の屋根を支える蟇股 蟇股の中央にみえる線彫りのデザインは、三葉葵を最もシンプルに描いた葵紋でしょうか。手元には、紋章を20ページに及んで列挙した一書がありますが、相応するものは載っていませんでした。恵心院を出て、いくつかの史跡等を訪れながら最後の安養寺に向かいます。一旦、朝霧橋まで戻ります。朝霧橋の上から眺めた 上流側の景色下流側の景色 左手前に見えるのは、橘島と左岸の平等院側の間に架かる「橘橋」です。 川の下流に見えるのは「宇治橋」。 朝霧橋側から眺めた宇治神社の一の鳥居まずは、安養寺への行路の途次として「宇治神社」を訪れましょう。 社務所前には、ちょっと異色な狛犬像が置かれています。 参道を挟み、反対側に立つ石灯籠。笠が苔むしているのがいいですね。 手水舎 注ぎ口は兎像の口です。水鉢の正面に「桐原水」と刻されています。宇治七名水の一つです。現在、源水が流れているのは、宇治上神社の手水舎だけのようですので、ここも多分今は水道水が使われているのでしょう。宇治神社と宇治上神社の一帯は、元は離宮址と言われています。前回取り上げた「離宮水」というのも、源水は同じで桐原水ともいえるのかなと思います。再び余談ですが、江戸時代に出版された『都名所図会』によれば、この一帯に「離宮八幡宮」がありました。その項で、「橋寺の南にあり。祭る神三座にして上の社は応神天皇・仁徳天皇、下の社は莵道の尊を崇め奉る。(これ平等院の鎮守なり。宇治郡の産沙神とす。・・・(離宮と号することは、この地に宇治宮ありしゆゑ自然の称号なり」と説明されています。補注には、ここが応神天皇の離宮址に因んで創祀された神社と伝えると説明。明治維新後に上・下二社に分かれ、上社は宇治上神社、下社は宇治神社と号するに至ったと記しています。 (資料7) 中門と瑞垣宇治神社の祭神は、菟道稚郎子命(ウジノ ワキイラツコノ ミコト)です。中門前の拝所から本殿を眺めると、手前に後ろを振り向くウサギ像が置かれています。神使のみかえり兎です。神社のシンボルになっています。瑞垣沿いに吊られた提灯にも描かれています。 本殿 本殿の蟇股 向排の木組の一部頭貫の先端上の巻斗が肘木を支え、肘木の上は平三ツ斗に組まれています。これが上の桁を支えています。 建物本体側の蟇股 本殿を囲む瑞垣の右側(南側)に並ぶ境内社。西側から見た景色。手前から順に 春日社 祭神 武甕槌命(タケミカヅチノミコト) 日吉社 祭神 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 住吉社 祭神 表筒男命(ウワツツノオノミコト)・中筒男命・底筒男命この三社がならんでいます。 こちらは左側(北側)に並ぶ境内社。東側から見た景色。同様に、 伊勢両宮 祭神 天照大御神・豊受大御神 高良社 祭神 武内宿禰命(タケウチノスクネノミコト) 松尾社 祭神 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト) 廣田社 祭神 蛭子命(ヒルコノミコト) 天照大御神の荒御魂と四社が並んでいます。境内北側の出入口から出て、右折し「さわらびの道」に出ます。北東方向に進むことになります。その先は、宇治上神社に到ります。つづく参照資料1)『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店2) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 恵心院3)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p65 4) 恵心院 :ウィキペディア5)『収蔵文書調査報告書1 「白川金色院」と恵心院』 宇治市歴史資料館 p40-436)『藤原道長「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫7)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p123-124, p298補遺真言宗智山派 総本山智積院 ホームページ宇治神社 ホームページ橋上から眺める最高の景色!源氏物語ゆかりの地。観光地巡りに便利な「朝霧橋」:「Kyotopi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺 へ
2024.10.07
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9月17日の朝日新聞で「平安に思いをはせ宇治の仏像を巡る」という記事を読みました。昨日、放生院、恵心院、安養寺の3寺を訪れてきました。放生院から安養寺までの行程途中で立ち寄った寺社も含めて、ご紹介します。 放生院は宇治橋東詰から宇治川右岸沿いの通称「朝霧通り」を上流方向に少し歩んだところにあります。橋寺という名前で知られているお寺。奈良の西大寺を本山とする真言律宗のお寺で、宇治橋を管理していたことから橋寺と称されてきました。山門を入り、急な石段を上がった先の境内地を左折すると、正面に本堂が見えます。拝観受付でいただいた資料によりますと:1.604年、聖徳太子の発願により、秦河勝が建立したことが始まりと伝わる。 聖徳太子の念持仏であった地蔵菩薩を祀り、常光寺地蔵院と称した。2.1281年、西大寺の僧・叡尊律師により再興。その際、新たに地蔵菩薩を造立。 損傷していた地蔵菩薩をその体内に納めた。 (資料1)本尊が地蔵菩薩であるという沿革がここからわかります。 本堂に向かう参道の途中に、本堂に向かう形で五輪塔が置かれています。 本堂の手前にあるのがこれ! 「摩尼車」と称されています。 上部の車輪の部分に「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」(般若心経)が陽刻されています。台座の石柱正面に説明銘板が取り付けてあります。「これは摩尼車というものです。『摩尼』とは摩尼宝珠とも、如意宝珠とも言われ、意のままに宝を出すと言われる珠のことです。 仏さまの徳にたとえたり、お経の功徳にたとえたりします。 これを1回まわせば、お経を一巻読んだのと同じ功徳が得られると言われています。摩尼車にかるく手をあてて、手前に回してください。その時、左の経文を唱えてください。 『羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボジソワカ)』」最後の経文は、般若心経の最後に記された真言です。サンスクリット語の音を漢字の音で表した音写です。中村元・紀野一義両先生の訳注によれば、次のとおり解説されています。(資料2) ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーデイ スヴァーハー (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。) 本堂内は撮影禁止でした。 拝観券の半券に本尊の地蔵菩薩立像が部分図として使われています。優しい容貌の地蔵菩薩像。1281年叡尊の造立によるもので、像高約190cm、寄木造り。重要文化財に指定されています。造像以来一度も修理されていないそうです。(資料1)僧衣には、截金細工の衣文が施されていて、細やかな金箔の輝きを維持しています。地蔵菩薩像の背面を見られないのが残念ですが、背面を撮った大きな写真が掲示されていました。本尊に対して、向かって右の脇仁には、釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像、左の脇仁は弁才天坐像と空海坐像、不動明王立像がそれぞれ安置されています。弁才天は川と関係があるので祀られているとお聞きしました。菩薩像形の雰囲気のある造像でした。改めて調べてみますと、弁才天の梵名はサラスヴァティー。この名称は、古代インドにおいてはサラスヴァティ河をさしたそうです。「やがて、この河を神格化して土地の豊穣をもたらす農耕の女神とするようになり、さらに、弁舌の神ヴァーチと習合されて、恵みを与える福徳伸の性格に学才・音楽の神としての性格が加わることになった」(資料3)と言います。宇治川という川を管理するお寺として、川の縁で祀られていえるようです。さて、橋寺については幾度か訪れて探訪記事を載せていて、重複する部分となりますが、改めて境内を拝見しました。 本堂に向かって左、南西側に建つお堂。ここに「宇治橋碑断碑」が収納されています。646年、元鋼寺の僧・道登により宇治川に初めて橋が架けられました。この時の経緯を刻まれた石碑です。当時は治水技術が不十分のため、洪水で幾たびも橋の流膝を繰り返してきたそうです。放生院を再興した叡尊は宇治橋も新たに架設したと言います。「1791年に境内より碑の上部3分の1が発見された。残りの3分の2は発見に至らず、石を継ぎ足し、文字を補完して1793年に完成した。日本最古の石碑と言われており、日本三古碑の一つに数えっれている」(資料1)とのこと。文字を補完できたのは、『帝王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されていたことによるそうです。(資料4)ちなみに、日本三古碑とは、「宮城県多賀城市の多賀城碑、群馬県高崎市吉井町の多胡碑、栃木県大田原市の那須国造碑、および、京都府宇治市の宇治橋断碑がそれぞれ日本三古碑と呼ばれている。いずれも飛鳥時代~奈良時代にかけての8世紀前後のものである」(資料5)とされ、多少意見はわかれていそうです。 (資料5,6) (資料4,5)これはウィキペデイアから引用した「宇治碑断碑」です。今回は非公開でしたが、本堂には断碑の拓本が展示されていました。叡尊律師は、1286年に、川で亡くなった人馬の慰霊のために、中洲に十三重石塔を建立し、寺で盛大な放生会を営まれたそうです。そこから「放生院」と称するようになったと言われています。現在、塔の島で見られる巨大な浮島十三重石塔がそれです。 宇治橋断碑からは南東方向、山門からの石段を上がると、少し右寄り前方にこの覆屋が東に見えます。「十二支守本尊」が安置されています。 (ねずみ年) 千手観世音菩薩 (うし・とら年) 虚空蔵菩薩 (うさぎ年) 文殊菩薩 (たつ・み年) 普賢菩薩 (うま年) 勢至菩薩 (ひつじ・さる年) 大日如来 (とり年) 不動明王 (いぬ・いのしし年) 阿弥陀如来仏像(如来・菩薩・明王)の上には、それぞれに対応する干支とその仏に対して唱える真言がひらかなで記されています。さらに、その仏が祈りをささげる人々にもたらす功徳が簡潔に記されています。現地でご覧ください。 境内の南辺には、南西隅付近に大きなイチョウの木があり、その傍に小社が祀られています。鎮守社と思われます。 その左に立たれているのは、橋かけ観音です。駒札には、名称を記した続きに、「恋のはしかけ 極楽のはしかけ 合格のはしかけ」と人生の年代に応じた願いのはしかけが例示されているのが興味深いところです。 その左には、石仏群があり諸仏が集まっていらっしゃいます。 その左の像は、たぶん、弘法大師像かと・・・・。 その左には、地蔵菩薩立像があり、その先に宝篋印塔が見えます。 宝篋印塔の傍に「厄除供養」の幟が立ててあります。(私には今のところ、この関係が理解できません。) 最後に目に止まったのが、草花の中にひっそりと見えた小さな五輪塔でした。一通り境内を巡った後、放生院を後にしました。次に目指すのは恵心院です。 朝霧通りを進むと、開運不動尊と刻された石柱を立てたお寺があります。側面に「正覚院」と刻されています。 ここも、石段を上ったところに境内があり、正面のまじかに不動堂があります。ガラスの格子戸から不動明王像を拝見できます。 石段傍の角地に置かれた手水鉢。 この開運不動尊の傍に、宇治観光案内図が設置されています。 部分拡大しました。京阪電車の宇治駅、宇治橋と、この付近の寺社の位置関係がお分かりいただけるでしょう。 さらに通りを南進しますと、「京都府茶業会館」の扁額を掲げた建物があります。宇治茶をPRする目的とした活動のために会館の施設の貸し出しが行われているそうです。 (資料7)その右側の入口には「宇治茶道場」の扁額が掲げてあります。「匠の館」という掲示が出ています。「『日本茶インストラクター』が美味しいお茶の淹れ方を説明してくれるなど、宇治茶を『淹れて』『飲んで』『食べて』楽しむ体験型施設です。」 (資料8) 道路脇に「宇治茶手もみ製法」が宇治市指定文化財に登録されているという案内板が設置してあります。ここからさらに少し南進したとこころに、 覆屋の設けられた「離宮水」があります。 離宮水は宇治七名水の一つだったのですが、今は枯れてしまい、水道水を利用しているとか。 その先に見えるのが、朝霧橋東詰の北側にある「宇治十帖モニュメント」です。 (資料9)源氏物語絵巻の「橋姫」をレリーフした屏風を背景に、橘の小島に向かう小舟に乗る匂宮と浮舟の像が建立されています。このモニュメントのさらに背景に朝霧橋の朱色の欄干が見えます。カメラスポットの一つと言えます。 ここを通り過ぎると、東側に恵心院の寺号石標が見え、坂道への入口になっています。つづく参照資料1) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 放生院(橋寺)2)『般若心経・金剛般若経』 中村元・紀野一義訳注 岩波文庫 1970年1月第12刷3)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研4) 宇治橋断碑 :ウィキペディア5) 日本三古碑 :ウィキペディア6) 日本三古碑 藤代歴史愛好会(石山博) :「asahi.net」7) 宇治茶会館・京都府茶業会館 :「京都府茶業会議所」8) 宇治ガイドMAP :「上林春松本店」9) 源氏物語「宇治十帖」古跡 (宇治十帖モニュメント) :「宇治市」補遺帝王編年記 :「コトバンク」宇治七名水(うじしちめいすい) 京の名水 :「京都通百科事典」源氏物語絵巻 橋姫 :「徳川美術館」源氏物語絵巻 橋姫 十五巻の内一巻 :「徳川美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺
2024.10.06
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マレー半島の北部からインドシナ半島中部に位置するタイ王国に移ります。冒頭の景色は、「ワット・サンプラーン」寺院の「ドラゴン・タワー」です。巨大な龍が17階建てのピンクの塔に巻き付いています。バンコクの西隣にあるコーンパトム県にある仏教寺院です。(資料1)「タイ国政府観光庁」のサイトに載る「ワット・サンプラーン」の説明では、「龍の体の中は通路になっており、入ることができるのは開放されている一部の階のみですが、頂上まで登ることが可能です」(資料2)とのこと。このページに載る写真では寺院とドラゴン・タワーの位置関係がよくわかります。「AFP BB News」というサイトには、「昇り竜や地獄絵図の再現、スーパーヒーローも登場 タイ寺院」と題する日本文の記事と出会いました。ワット・サンプラーンの龍像を様々な角度から撮った写真が8枚載っています。 (資料3)また、「timestravel」というサイトでも、ワット・サンプラーンについての記事を見つけました。「バンコクのワット・サンプラーン ドラゴン寺院、誰も皆恐れ敬うドラゴン」という見出しの記事です。少し異なる角度から撮った写真が載っています。(資料4)この寺院は有名なのでしょう。「in Wanderment」というサイトで出会った記事です。タイトルが奮っていて、「ワット・サンプラーン ドラゴン寺院(2024) 究極ガイド」です。上掲では見られないアングルからの写真や上掲にはない龍像の写真も載っています。(資料5) ウィキペディアの「タイの文化」という項に載っている写真です。結婚式前に取られた写真のようですが、ここでは背景の石造円柱に巻き付く金龍像にご注目。建物の名称等は不詳。タイにも、屋根だけではなく柱を装飾する龍像彫刻がみられることの例になります。 (資料6)他にも龍がいる寺院があるだろうかと、調べてみました。「amazing THAILAND タイ国政府観光庁」のサイトでは、チェンマイに所在する3つの寺院を見つけました。 ワット・パーデート (資料7) ワット・ルアンクンウィン (資料8) ワット・ケートカーラーム (資料9)チェンマイよりも北に、タイ北部の主要都市のひとつであるチェンライがあります。 チェンライの郊外に、「ワット・ロン・クン」、白亜の寺院(White Temple)と通称される仏教寺院があります。 この寺院にも龍像の様々なバリエーションが見られるようです。 (写真について判断ミスがあるかもしれません) (資料10)また、「All images」というサイトでは、「Dragon white temple wat rong」という項目で、このホワイト・テンプルの写真をみることができます。ここには具象的な龍像の写真も載っています。 (資料11)陶磁器の分野を調べてみますと、ラチャンブリ(Ratchanburi)で伝統的な龍壺(dragon pots)が生産されているという記事を「STOCKISTS」というサイトで見つけました。 (資料12)「NIKKEI Asia」のサイトでも、「独特なタイ陶磁器の伝統が危機に」と題する記事を報道しています。(2018.11.9付) (資料13)「shutterstock」というサイトで、「ratchaburi dragon jar」という検索項目で、様々な画像をみることができます。 (資料14)青磁の龍像も製造されていることも「Buy Thai Ceramics」というサイトでわかります。(資料15)タイでも、陶磁器に龍像が使われていることがわかりました。最後に、タイの現代アートとしての龍に出会った「St Adobe Stock」のページ「thai art naga thai dragon」をご紹介します。クリックしてご覧ください。 (資料16)この辺りで、タイ王国での龍探しを終わります。つづく参照資料1) Wat Sam Phran From Wikipedia, the free encyclopedia2) ワット・サンプラーン :「amazing THAILAND タイ国政府観光庁」3) 昇り竜や地獄絵図の再現、スーパーヒーローも登場 タイ寺院 :「AFP BB News」4) Bangkok’s Wat Samphran Dragon Temple, the dragon we all are in awe of :「timestravel」5) Ultimate Guide to Wat Sam Phran Dragon Temple (2024) :「in Wanderment」6) Culture of Thailand From Wikipedia, the free encyclopedia7) ワット・パーデート チェンマイ :「amazing THAILAND タイ国政府観光庁」8) ワット・ルアンクンウィン チェンマイ:「amazing THAILAND タイ国政府観光庁」9) ワット・ケートカーライム チェンマイ:「amazing THAILAND タイ国政府観光庁」10) Wat Rong Khun From Wikipedia, the free encyclopedia11) Dragon white temple wat rong :「All images」12) THE DRAGON POTS OF RATCHANBURI WHAT IS OHNG MUNGKORN? :「STOCKISTS」13) Unique Thai pottery traditon under threat :「NIKKEI Asia」14) Ratchaburi Dragon Jar royalty-free images :「shutterstock」15) Celadon Ceramic Foo Dragon Sculputure :「Buy Thai Ceramics」16) Thai Art Naga / Thai Dragon :「Adobe Stock」補遺タイ王国 :外務省Thailand From Wikipedia, the free encyclopediaDiscover the Charm of Traditional Thai Dragon Pots :「Pots to Inspire」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.10.04
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マレーシアに移ります。冒頭の写真は、玉龍山天恩寺、マレー語ではKuil Naga Jade と称するお寺にある龍頭部の石像彫刻です。 (資料1) こちらは、ペナンにある中国系寺院の龍像 (資料2)併せて、ペナンでの探訪必須の中国系7寺院という記事を「sunwayhotels」というサイトで見つけました。掲載の写真には龍が溢れています。 (資料3)「alamy」というサイトで、クアラルンプールに所在する中国系寺院の正面階段中央部に巨大な黄龍像の極彩色のレリーフと出会いました。 (資料4)同サイトで、ムラカ(Melaka、マラッカ)にある Cheng Hoon Teng Temple の入口の柱に巻き付く形で彫刻された緑色の昇龍像も見つけました。 (資料5)さらに、この柱の昇竜像彫刻の写真を含め、同サイトには「Dragon temple malaysia」という検索項目で、数多くの龍像が見ることができます。 (資料6)「Mlaysia Traveller」というサイトでは、ジョホールの Yong Peng に「幸運の龍」と称される巨大な龍像が建造されていることを記事にしています。巨大な龍は庭園の周囲にとぐろを巻き、観光客は龍の口から入り、龍の体内をぬけて尻尾から出るという趣向に仕立ててあるとか。 (資料7)この幸運の龍は、「THESMARTLOCAL」というサイトの記事でも取り上げられています。351フィートの長さの龍のトンネルを歩き抜けると見出しで述べています。 (資料8)「photodhama.net」というサイトで、ケランタンの Tumpat にあるタイの伝統的寺院で、龍船の形をした寺院(Dragon Boat Temple: Wat Maisuwankiri)を装飾する龍像に出会いました。 (資料9)マレーシアにおける中国龍文化の一つとして、「JSTOR」のサイトで、「大地之龍」という紹介を見つけました。 (資料10)また、同サイトで、「亮燈儀式」と称する龍踊りの動画をみつけました。(資料11)マレーシアにおいて、ドラゴン・ダンスは文化の中に溶け込んでいるようです。YouTube でも見つけました。 (資料12)龍は旧正月に龍燈で寺院を飾る風習もあることを知りました。YouTubeで見つけました。Thean Hou temple の事例です。 (資料13)もう1例、Fo Guang Shan Dong Zen temple の龍燈を撮ったYouTube動画もあります。(資料14)寺院と関連した龍像とは離れて、ハンドクラフトで彫刻された龍像の報道記事と出会いました。クアラルンプール国際空港(KLIA)に旧正月を祝うため、最大級の金龍像が設置されたという報道(2024.2.8)です。 (資料15)その後もそのまま設置されているのでしょうか?クアラルンプールのショッピングモールでは、辰年を祝うために龍を象った燈を設置したという記事も「XINHUANET」というサイトに写真入りで載っています。 (資料16)クアラルンプールにある国立博物館では、2022年に 5か月間にわたって「龍世界博」(Dragon World Exhibition) が開催され、様々な龍像が展示されたという記事も見つけました。「NEW STRAITS TIMES BUSINESS TIMES」の報道記事です。 (資料17)さらに、龍がストリート・アートとして登場したという記事とも出会いました。「3階建ての建物壁面に巨大な青龍現れる」という記事です。「STREET ART UTOPIA」というサイトで報じられています。 (資料18)最後に、「マレーシアの龍がわが国の地理と文化にどのように影響を及ぼしたか」という論考を「cilisos.my」というサイトで見つけました。勿論、この記事の中にも様々な龍像が引用されています。 (資料19)これでマレーシアでの龍探しを終わります。パブリックな画像が少ないことが残念です。つづく参照資料1) Jade Dragon Temple From Wikipedia, the free encyclopedia2) Penang Malaysia - Chinese Temple Dragon-03and (4466685492).jpg From Wikimedia Commons, the free media repository3) 7 Famous Chinese Temples You Must Visit in Penang :「SUBWAYHOTEL GEORGETOWN」4) Chinese dragon sculpture in a Chinese Temple in Kuala Lumpur. Malaysia :「alamy」5) Dragon around Pillar at Entrance to Cheng Hoon Teng Temple, Melaka, Malaysia. :「alamy」6) Dragon temple malaysia Stock Photos and Images :「alamy」7) Fortune Dragon Statue Yong Peng, Johor :「Mlaysia Traveller」8) Fortune Dragon: Visit A 351ft-long Dragon Tunnel You Can Walk Through In Johor :「THESMARTLOCAL」9)Wat Maisuwankiri(Dragon Boat Temple) :「photodhama.net」10) 大地之龍 Malaysian Dragon Culture :「JSTOR」11) 亮燈儀式 中国龍文化項目小組 Malaysian Dragon Culture :「JSTOR」12) Lion and dragon dance spectacle in Malaysia celebrates tradition, diversity, and global harmony YouTube13) Thean Hou temple lights up with dragon-themed lanterns for Lunar New Year YouTube14) Giant dragon lanterns light up Buddhist temple in Malaysia | AFP YouTube15) KLIA unveils largest hand-crafted golden dragon sculpture in Malaysia in conjunction with CNY :「malaymail」16) In pics: Dragon-shaped installations in Kuala Lumpur, Malaysia :「XINHUANET」17) Dragon World Exhibition at National Museum for five months :「NEW STRAITS TIMES BUSHINESS TIMES」18) The Giant Greenish-Blue Dragon Mural That Comes to Life on a Three-Storey Building :「STREET ART UTOPIA」19) How Malaysian dragons influenced our geography & culture :「cilisos.my」補遺マレーシア :「外務省」Malaysia From Wikipedia, the free encyclopedia ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.10.03
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