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2017.06.12
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                                [探訪時期:2015年11月]
市辺天満神社から再び山背古道に戻り南下します。距離的には少しですが、山背古道の東側「城下」の南が「坂口」です。坂口に入り、正面の三叉路のところを左折して、(山背古道を行く場合には右折するのです)そのまま道沿いに東の方向へ坂道を登っていきます。すると、 坂道の途中で「西生寺」の本堂屋根が眼下に見えます 。それが冒頭の画像です。 この坂道の途中から西方向の見晴らしがききます 。良い景色です。

坂を登り切ると、 「青池公園」 の標識が出ています。
このあたりの地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。



この画像の右奧の方向に土塁状の跡が残っています。まあこれも説明を受けなければ見落としてしまう類いなのですが・・・。
大きな家の北側には現在は竹藪が広がって少し急な斜面になっています。
この辺りが、「市辺城跡」にあたるとのことでした。
勿論、城と言っても、「尾根端に位置し、一辺25mほどの方形の曲輪を設け、北側に堀切、南側に土塁が確認される」(資料1)という規模の城跡です。解りづらい城跡ではあります。


前回ご紹介した「茶臼塚古墳 発掘調査現地説明会資料」 (資料2) から切り出した部分図に印しを加筆して引用しました。 赤丸が中天満神社の辺り で、黒土古墳群の内にあり、 空色の丸は前回の市辺天満神社のあたりで す。この東に天満宮古墳群があります。そして マゼンダ色の丸が西生寺 です。そこで位置関係を考えると、「城山古墳群」としてマーキングされている辺りが、どうも「市辺城跡」に重なりそうな気がします。

市辺城跡の近くから東の方向を眺めた景色です。
北東方向には 「石神古墳群」 があり、古墳が散在しているようです。
その1号墳は全長40mほどの前方後円墳(6世紀前半)、2~7号墳は円墳で内部主体は前方後円墳(6世紀後半)が確認されているようです。
地図の南にある「茶臼山古墳」は参照資料をお読みいただくと概要が理解できると思います。現在の城陽市と井手町の境界となる尾根筋上に存在し、直径20mほどの円墳で、6世紀末の造営と推定されていて、南山城で現存最大規模と言います。 (資料1)

                  坂道から眺めた西生寺の本堂
  墓地に建立されている観音菩薩像
今回は本堂の屋根を眺めながら通り過ぎるだけになりました。少し調べてみると、 浄土宗のお寺で、山号は洞谷山。「せいしょうじ」 と読むそうです。
「寺伝によると、室町時代末期1544年(天文13年)頃、縁誉弥念上人が村民の帰依によって創建し、1693年(元禄6年)知恩院の末寺になり、本堂に本尊『阿弥陀三尊』を安置しています。また、境内には城陽市『青谷梅林』の保存に尽力された『大西翁』の『頌功碑』が建っています。」 (資料3) とのこと。 (資料3,4)


坂道を下り、府道70号線沿いにしばらく歩きます。

青谷川が市辺と多賀の境界になっています。 つまり城陽市から井手町に入っていきます。

青谷川は 木津川に合流するのですが、この川が 天井川になっている のはこの画像をご覧いただくとよくわかることでしょう。橋の上から、道路が坂道を下っていく状態です。

後で地図を確認すると、青谷橋を渡り下りの道を南下、2つ目に十字路で交差するところを左折し、東に向かいます。郵便局の山城多賀局を通り過ぎ、しばらく歩いた先にある「西福寺」が次の探訪先です。
地図(Mapion)はこちらをご覧ください。


「西福寺」 は道路からはかなり奥まったところに本堂が見えます。
もとは、最後に訪れる予定の 「高神社」の神宮寺であったとされるお寺 のようです。天正8年(1580)に再建され、 寛永3年(1626)に浄土宗寺院となったそうで、山号が「天王山」です。

今回の探訪は、 境内にある「観音堂」を拝観するのが目的 でした。
屋根は宝形造です。屋根の頂点は露盤の上に宝珠がのっています。この整理をしていて気づいたのですが、不思議なことに露盤の側面に陽刻されているマンジ形が通常の卍とは逆になっています。珍しい部類になるのでしょうか。地蔵堂などで見かけるものはふつうの卍が陽刻されていると思います。

まずは私の関心対象である鬼瓦からのご紹介です。


                観音堂の屋根の鬼瓦
お堂の正面に向かって右側の鬼は阿形で頭頂の角の間に、山伏が頭につける多角形の小さな帽子状の被り物、頭巾(ときん頭襟とも)をちょこんと載せています (資料5) 。一方、左側の吽形は付けていません。このあたりもおもしろい。意図的なのか、そういう形式なのか・・・・。

今回は講座の受講でしたので、観音堂内を拝見することができました。
  堂内の全景 

西福寺の観音堂は江戸時代からは 山城観音霊場の札所 となっています。
前に扁額が置かれていますが、 「中山城十八番」 と刻されています。
調べて見ると「南山城三十三所」の霊場が、貞亨(1684-88)の頃に、東光寺の如範により発願開創されたそうです。しかしその後廃れ、天保6年(1835)に復興されたのです。
参照資料によると、 当初の第27番「観音寺」(山城町石垣)の本尊・十一面観音が、観音寺廃寺後に、ここ西福寺に遷座されたようです。また、第25番「東福寺(宮寺之内)」(井手町井出)の本尊・聖観音も、東福寺廃寺後に、ここ西福寺に遷座されたようです 。また、旧東福寺の本尊・薬師如来坐像もまた西福寺に安置されるに至ったと言われています。 (資料6)
「中山城十八番」というのが、「南山城三十三所」とどのようにかかわるのかということも残念ながら不明です。参照資料では「中山城三十三所」を調査中とされています。

現在 「京都・南山城十一面観音巡礼」というサイト が運営されています。ここには八ヵ寺が登録されています。 このサイトはこちらからご覧ください。
西福寺は現時点ではここに登録されていません。
こういうサイトがあるということは、裏返せば明治維新を挟んでの時代の変転の中で、「南山城三十三所」「中山城三十三所」という巡礼一覧は衰微しており、追憶レベルになっているようです。

脇道に逸れました。西福寺の現在の観音堂そのものに戻ります。
  本尊は十一面観音菩薩立像です。 

「一木造。手足は後補、顔相も後世の改変をうけているようである。平安後期造立と推定される」 (資料1) 仏像です。
一木造ですから、顔相がなにがしか改変されているとしたら、少し細面の顔立ちにでもしたのでしょうか。仏像のお顔も時代の嗜好を反映する側面があるのでしょう。現代人の顔形やメイクアップに流行があるように・・・・。

だけど、なかなかいいお顔だと思います。
光背には仏像ではなくて種字で表象されているのも、私はあまり拝見した記憶がありません。

手許の本とネット検索を併用して調べてみると、 十一面観世音菩薩の種字 でした。 (資料7,8)

十一面観音菩薩の脇侍は、本尊に向かって左側が「難陀龍王立像」、右側が「雨宝童子立像」です
この三尊形式は、長谷寺の十一面観音と同じです。 (資料9)
興味深いのは、長谷寺では脇侍がここの観音堂とは左右が逆だという点です
長谷寺のホームページの説明を参考にしますと、 難陀龍王は八大龍王のひとりで、春日明神としても信仰されている仏像です。 一方、 雨宝童子は初瀬山を守護する八大童子のひとりで、天照大神としても信仰されている仏像だとか。 このあたり、神仏習合、本地仏の思想なのでしょう。

本尊に向かって左側に曲?に座る彩色小像が安置されています。何の像でしょうか。
私が連想したのは、鬼子母神 きしぼじん :訶梨帝母 かりていも )です。懐に抱くのが子供ではないかと思ったからです。間違っていたら教えてください。

また、本尊に向かって右側には、厨子が安置され、その中には入れ子のようにまた厨子が安置されています。小さな 三尊仏像 です。中央は多分聖観音立像で、脇侍は向かって左に毘沙門天像、右に不動明王像なのでしょう。

  本堂
本堂はこの探訪の対象外だったため、拝観しませんでした。
屋根は近年に葺き替えられたようでま新しい感じを受けました。

鳥衾 (とりぶすま) には、西福寺の西の字が陽刻されています。こちらの鬼瓦は正面から見て、右の方は角の間に宝珠を載せ、左の方は三鈷杵を載せています。獅子の巴蓋も左右造形の違うものが使われていておもしろい。

鬼瓦をよく観察すると口許の造形も微妙に異なっているんです。鬼瓦はおもしろい。


境内にはかなり古い無縫塔が建立されています。歴代の僧侶の墓塔なのでしょう。長卵形の形と基壇の形状がそれぞれに異なるというのも興味深いところです。無縫塔も時代の変化につれてそれなりの嗜好の変化があるのでしょうか。
いくつかの部材を集めた五輪塔風石塔もまた、形にはまらないおもしろさを漂わせています。寺の歴史を感じさせる一角です。
 その隣に、異なる種類の石造物が並んでいます。
左から、宝篋印塔、笠塔婆、無縫塔、地蔵菩薩坐像なのでしょう。間違っているかも知れませんが・・・。笠塔婆には六字名号が刻され、無縫塔の基壇には「芳誉上人」と刻されています。地蔵菩薩像の基壇の文字を私は明確には判読できません。

諸仏をオープンに拝見できる機会を得て、うれしい限りでした。



この後、最後の探訪地「高神社」に向かいます。
ここは、山背古道ウォーキングに参加したとき、立ち寄ったことがありますが、今回はこの神社の探訪ということで、新たな目で拝見しようと思っていました。

つづく

参照資料
1) 「京都の歴史散歩30~青谷・多賀を歩く~」2015.11.12 龍谷大学REC 
    当日配布資料資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成
2) 茶臼塚古墳 発掘調査現地説明会資料  城陽市教育委員会・井出町教育委員会
     5ページの「周辺遺跡分布図」をご覧ください。
3) 山背(やましろ)古道 その19  :「奈良観光」
4) 西生寺 (京都府城陽市)青谷絶勝 :「お寺の風景と陶芸」
5) 頭襟   :ウィキペディア
6) 南山城三十三所   追憶の京の霊場  :「京の霊場」
7) 『新版 石仏探訪必携ハンドブック』 日本石仏協会編 青娥書房  p65
8) 紫雲山・中山寺 「秘仏」   :「『ぱぴりお』の芽」
9) 寺宝(像)  :「大和國 長谷寺」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
「花のみち」コース 城陽市 緑と歴史の散歩道 地図   :「城陽市観光協会」
山伏   :ウィキペディア
山城三十三か所巡り(観音さん)について知りたい。  :「レファレンス共同データベース」
十一面観音三尊懸仏   :「文化遺産オンライン」
十一面観音の脇侍    :「甲州光沢山 青松院」
鬼子母神   :ウィキペディア
鬼子母神堂の由来と歴史   :「鬼子母神~ようこそ」(威光山法明寺)

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2017.06.12 22:34:21 コメントを書く


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