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2017.09.30
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カテゴリ: 探訪 [再録]
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前回ご紹介した「ガリバーメルヘン広場」に案内掲示されている 「大溝城本丸模型」 をまず部分拡大してみます。
この模型実物は高島歴史民俗資料館の所蔵で同館2階に展示されています。そしてその模型の傍の壁に、

ここに引用する 古地図が展示されています 。模型とこの地図が照応しているのだろうと思います。(大溝城の破却を経ていますので、私の解釈に間違いがあるかもしれません。)


こちらは駅前広場の大溝城説明板に掲載の レイアウト図部分 を拡大したものです。


古地図で本丸部分の下の青色の大きな内湖部分が、今の乙女ヶ池に相当します 。地理的には内湖についてかなりの変化があるようです。大溝城は、琵琶湖と内湖をうまく利用した水城です。 この城は「鴻溝 (こうこう) 城」とも呼ばれていました。

戦国時代に織田信長が、安土城を基点にみて、湖北に長浜城、湖西(安土城の対岸)にこの大溝城、湖南に坂本城という水城を戦略的拠点を構想したのです。
伝承では明智光秀が大溝城の縄張りをし、信長は天正6年2月に織田信澄を大溝城城主にしています。信澄は信長の弟・信行の長男です。
『信長公記』巻11(天正6年戌寅)には、「戌寅二月三日、磯野丹波守、上意を違背し、御折檻なされ、逐電仕り、則ち高島一向に津田七兵衛信澄、仰せつけられ候なり」と記載されています。つまり、磯野員昌の知行地(近江高島郡)が信澄の手に渡ったのです。 (資料1)
長浜城は秀吉が築き、坂本城は光秀が築いています。
これで、信長は琵琶湖の水運の活用を掌中に収めたことになるわけです。

この大溝城はJR近江高島駅の東方向で、高島市民病院の東側、介護老人保護施設陽光の里の建物の南西隣になります。駅から駅から東南方向150mあたり、徒歩で10分もかからない距離です。勝野という地区に所在します。​ 地図(Mapion)はこちらからご覧ください。

駅から歩いて行くと、途中で新しく建てられた大溝城三の丸跡という石標を通り過ぎます。陽光の里の建物の傍に立っと、草の茂った空地の向こうに、本丸の石垣が見えます。
本丸模型で言えば、石垣の見えている二側面のちょうど裏の対角側を左手方向から眺めたことになるでしょう。


空地を回り込むと、本丸への石段です。

階段傍に、 「大溝城とお初」についての駒札 が建てられています。

京極高次とお初が新婚時代をこの城で過ごしたことがテレビのドラマ番組で取り上げられて、名を知られるようになったお城です。



               この2枚の画像は、近江髙島駅前の案内板の説明のご紹介です。

石段に向かって右側に、


大溝城跡の石標と説明板 があります。駅前の広場に設置の説明を併せてここに載せておきます。


                       石段を上がった本丸跡の景色

                      その地点から本丸の南方向を見たところ

                   本丸の南端側から眺めた本丸跡
 湖岸側(東側)の石垣のライン

      本丸跡の南端側から乙女ヶ池を眺めたところ
樹木が茂って、結構大きな内湖の雰囲気がわかりづらい形のになっています。




本丸跡を後にして、乙女ケ池に向かいます。


鍵形に曲がった橋を渡って行きます。内湖の縦長の広がりが見えてきます。


そして幾重にも繋がれた木造の反り橋が雰囲気を盛り上げてくれます。
天気が良いと、ほんとにいい眺めです。


橋の傍に、「乙女ケ池」の木標が建てられていて、この池(内湖)の説明板もあります。
古くは、 764年の「恵美押勝の乱」の戦場にもなった場所 なのです。
水城として、この内湖が戦略上も有利に取りこまれたのです。



次の探訪地に向かう途中に 「近江湖の辺 (うみのべ) の道」 があります。周遊自然歩道が設定されています。今回の探訪では、この道を利用せず、さらに山側に少し坂道を行きました。

乙女ケ池の反り橋に向かう途中に建てられている万葉集の歌碑を最後にご紹介しておきましょう。


この歌は、万葉集の巻11に2436番目に、詠み人知らずの歌として収録されています。 (資料2) この歌を、折口信夫は次のように解釈しています。現代仮名遣いにしてご紹介します。 (資料3)
 恋をして、物思いをするのを、人は笑うが、香取の海に碇をおろすのではないが、
 一体如何なる人が、物を思わないで居るんだろうか。恋していて。

ところで、ふと前後の歌を見るといくつか近江の地を詠んだのが出ています。脇道ですがご紹介しておきましょう。 (資料2)

 淡海の海おきつ白波知らねども妹がりといはば七日超え来む   2435

 淡海の海おきつ島山奥まけてわが思ふ妹が言の繁く  2439

 近江の海おきこぐ船に錨おろし蔵(おさ)めて君が言待つ吾ぞ  2440

 淡海の海沈く白玉知らずして恋せしよりは今こそ益れ    2445


最後に大溝城の変遷について、上掲の駒札周辺の情報をまとめておきます。 (資料4)
*城主の変遷
 織田信澄→丹羽長秀→加藤光泰→生駒正親→京極高次→織田三四郎→秀吉直轄領へと代わって行きました。
 江戸時代、元和5年(1619)に分部光信が城主となり、分部氏の藩主時代が幕末まで続きます。
*江戸時代、元和の一国一城令により、大溝城は三の丸を残して破却されます
*分部氏は陣屋を設けて、統治しました。

つづく

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1)『新訂 信長公記』 大田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p226
2)『新訂新訓 万葉集 下巻』 佐々木信綱編 岩波文庫  p13
3)『折口信夫全集 第五巻 口譯萬葉集(下)』 中公文庫  p16
4) ​ 大溝築城 ​ :「大溝城の物語」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
大溝城と城主織田信澄 ​ :「びわ湖源流.com」
大溝城三の丸跡碑 (戦国を歩く/大溝城コース) ​:「SHIGA Photo Library」 
織田信澄 ​ :「コトバンク」
津田信澄 ​ :ウィキペディア 
京極高次 ​ :ウィキペディア 
常高院 ​  :ウィキペディア 
大溝陣屋 ​ :ウィキペディア

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Last updated  2017.10.02 23:44:55コメント(0) | コメントを書く


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