遊心六中記

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茲愉有人

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2019.04.19
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カテゴリ: 探訪
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「山科本願寺旧地を巡る」の一環として、山科本願寺南殿旧地とその一画にある光照寺を探訪した時、併せて 「若宮八幡宮」 を訪れました。事前に地図を見たときに、北東方向にわずかの距離でこの神社があることを知ったからです。

外環状線からだと、道路の西側にある大型スーパー「西友」の傍の交差点、つまり 西友の北側の東西の道を東に入り、道なりに進みますと、冒頭の左の社号標があります 。そこから北への道を歩むと石鳥居に至ります。


一方、境内の東側にも石鳥居があります。こちらの石鳥居前に大きな社号碑が立っています。
こちらが主たる鳥居として扱われているということでしょう。駒札もこちらに立ててあります。
こちらは、後で地図を確認沁ますと、 三条通四ノ宮の交差点から醍醐に向かう奈良街道(府道大津宇治線)沿いに面して西側に位置する のでした。 三条四ノ宮から約400mの距離 になるようです。

         東側の鳥居を入ると、手水舎が一番近くに見えます。

南側の鳥居から境内に入って来ると 、石鳥居の右側に社務所の建物があり、 正面に拝殿、拝殿の奥(北側)に本殿、東に手水舎が見えます。
手水舎の傍に立つ駒札にはこの手水舎が現在地に移設された経緯が記されています。
手水舎は「元、境内の中央部に当たる拝殿と社務所の中程に井戸と共に設けられていた」そうです。諸般の事情から井戸の井筒と手水舎を移設したとのこと。井戸は明和7年(1770)11月に奉納されたもので、手水舎は昭和9年(1934)9月に再建されたものだとか。





まずは社殿から拝見です。



天智8年(669)に八幡神(=誉田別命、応神天皇)がここに勧請されたと伝えられ、 仁徳天皇・応神天皇・神功皇后を主神 とし、旧音羽の産土神として祀られていた。そこに 須佐之男命と天武天皇を加えて、祭神が五座となり崇敬されてきた そうです。山科に天智天皇陵があります。天智天皇ではなく天武天皇が祭神として加えられたというのが興味深いところです。
「元禄の火災に社記を失い、その創祀沿革を明らかにしない」 (資料1) とか。


唐破風屋根の獅子口は、経の巻の先端が半球状に丸くなっています。
破風板の飾り金具の中央に見える紋が神紋でしょうか。

蟇股の透かし彫りが特徴的です。鴛鴦 (おしどり) を象っているのでしょうか。
一方、木鼻はごくシンプルです。

瑞垣の外周を巡ることができます。

側面から本殿を拝見しますと、本殿は格子戸です。

蟇股は鴛鶯が丸彫りされています。幣殿はこれに倣ったということでしょう。

頭貫の木鼻は象の彫刻の彫りが深く、眼は玉眼です。




北東隅に石が置かれ、注連縄がしてあります。鬼門除けの一種なのでしょうか。

               本殿の側面に見る蟇股や木鼻は簡素な意匠です。


本殿の西側には、天満宮が勧請されています。石鳥居をくぐると、臥牛像があり、
  注連縄が基壇に巻いてあります。
 小祠ですが、




                 木鼻はしっかりと象が彫刻されています。

蟇股の位置には牛が丸彫りされています。素朴な感じがいい。

                     側面の蟇股や木鼻は簡素な意匠です。


本殿の東側には、宝篋印塔が2基並んでいます。

高さ約2mの花崗岩製の 宝篋印塔 です。左の方は基礎が欠損していて、別石で補われているため、低く見えます。本来は同じ高さだったようです。 向かって右が大津皇子、左が粟津王の供養塔 と伝えるものです。

大津皇子は天武天皇の第3皇子です。天武朝では太政大臣となったそうですが、天武天皇崩御の直後、皇太子草壁皇子に謀反のかどで捕らえられ、大和国訳語田 (おさだ) の家で自殺させられるという悲劇の皇子です。 (資料1,2)
     ももづたふ磐余 (いはれ) の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 
                        という辞世の歌が伝えられています。
このとき、妃の山辺皇女も殉死したと言います。
『日本書紀』は、次のように記しています。
「(九月)九日、天皇の病ついに癒えず、・・・・・二十四日、南庭で殯 (もがり) をし、発哀した。このとき、大津皇子が皇太子に謀反を企てた。」
「冬十月二日、皇子大津の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、・・・・・三十余人を捕らえた。三日、皇子大津に訳語田の舎 (いえ) で死を賜った。時に年二十四。妃の山辺皇子は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。」と。 ​勿論​、これは歴史の勝者側が残した記録としての史実です。​​ ​​

また粟津王は、大津皇子の王子です。父の謀反、逮捕、処刑に際し、肥前(一説に備前)に配流となり、のちゆるされたと言います。 (資料4)

手許の書では、「山科音羽の旧郷士粟津氏は粟津皇子の後裔とつたえるので、後世に供養塔をつくられたものであろう」 (資料1) と記します。南北朝時代の造立だそうです。
すると、上記の天武天皇を祭神に祀るという点がなるほどと頷けます。


この若宮八幡宮で注目すべきは、このお堂があることです。


       手前に狛犬が置かれています。  


お堂に近づくと、 「観世音」の扁額 が掲げられています。その下に、注連縄が掲げてあります。格子戸から内部を拝見しますと、 十一面千手観音像 (平安)を中央に、不動明王・毘沙門天像(鎌倉)が安置されています。 神仏習合時代には、神宮寺として観音寺が在った そうです。 昭和42年(1967)にこの観音堂が復興された そうです。 (資料1)   現在の神社としては少し特異といえるのかもしれません。
かつての信仰の有り様をしのばせているといえます。


南側の狛犬の傍で、この細身の宝篋印塔が目に止まりました。
こんな細身のものを見た記憶がありません。


    社務所傍に聳える大木には注連縄が回してあります。神木となっているようです。
           この木を眺めて、当初の探訪の続きを再開しました。

ご覧いただきありがとうございます。

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p311,p314
2) ​ 大津皇子 ​ :「コトバンク」
3) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳  講談社学術文庫 p310,p313 
4) ​ 粟津王 ​  :「コトバンク」

補遺
若宮八幡宮のカツラ ​ :「京都市情報館」
大津皇子 ​  :ウィキペディア
大津皇子の墓 ​  :「葛城市」
天武天皇皇子 大津皇子 二上山墓 ​ :「倭は国のまほろば・・・残された憧憬を訪ねて・・・。」

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Last updated  2019.04.19 23:16:45コメント(0) | コメントを書く


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