Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年08月05日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-492
 定理一八 何びとも神を憎むことができない。
 証明 我々の中における神の観念は妥当かつ完全である(第二部定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。および、同部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。により)。 ゆえに我々は神を観想する限り、その限りにおいて働きをなすものである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。 したがってまた、(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)神の観念を伴ったいかなる悲しみもありえない。言いかえれば(感情の定義七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。により)何びとも神を憎むことができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 系 神に対する愛は憎しみに変ずることができない。
 備考 しかし次のような駁論がなされるかもしれぬ。我々は神をすべての物の原因として認識するのだから、まさにそのことによって我々はまた神を悲しみの原因と見るものである、と。だがこれに対して私は次のごとく答える、我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて悲しみは受動であることをやめる(この部第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。により)。言いかえればその限りにおいてそれは悲しみであることをやめる(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。したがって我々が神を悲しみの原因として認識する限り、我々は喜びを感ずるのである、と。
 参照:慈悲は仏教で重視する用語。「慈」はサンスクリット語のマイトリー(maitrī/友情)にあたり、深い慈しみの心をさし、「悲」はカルナー(karunā/同情)にあたり、深い憐(あわれ)みの心をさす。仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える(与楽)のが慈であり、不幸を抜き去る(抜苦)のが悲であるというが、慈と悲はほとんど同じ心情を表し、マイトリーまたはカルナーという原語だけで「慈悲」と訳されることも多い。大慈、大悲、大慈悲というときは、仏や菩薩の慈悲を表す。仏の慈悲は、生ける者の苦しみを自己の苦しみとするので「同体(どうたい)の大悲」といい、上を覆いかぶせるものがない広大なものであるので「無蓋(むがい)の大悲」ともいう。諸経論には、慈悲に(1)生きとし生ける者に対して起こすもの(衆生縁)、(2)すべての存在は実体がないと悟り執着を離れて起こすもの(法縁)、(3)なんらの対象なくして起こすもの(無縁))の3種があり(三縁の慈悲)、このうち無縁の慈悲が無条件の絶対平等の慈悲であり、空(くう)の悟りに裏づけられた最上のもので、ただ仏にのみあるという。  日本大百科全書(ニッポニカ)「慈悲」の解説
 記:神教と仏教は同義語の「宗教」とはいえ、その宗旨には、はかりり知れない隔たりがあります。スピノザの認識哲学はどちらの宗旨に近似するのか、世界(神)→人間、若しくは世界←人間(仏)の方向性から検討すべき課題が浮かび上がります。



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最終更新日  2022年08月05日 06時01分31秒
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