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真相から見た宇宙の進化第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行-Ⅱベルリン 1911年11月14日 ある人が、内的・精神的な方法を通して、世界の中で何かを達成しようとしていると仮定してみましょう。その人は、まず自分の意志や望みを抑制することを学ばなければなりません。そして、物理的な世界の中では、よく食べ、栄養が行き届き、それによってよりエネルギッシュになると、より強くなるのに対して、精神的な世界の中で何か意義のあることを達成できるのは、断食を行い、意志や望みを抑制するための、あるいは諦めるための何かを行うときなのです。最も偉大で精神的な努力に向けた準備には必ず意志、望み、そして意志衝動を捨てることが含まれています。私たちは、意志することが少なければ少ないほど、人生が私たちの上に降りかかるのに任せる。あれこれのことを望むのではなく、むしろカルマが私たちの前にそれを投げかけるままにものごとを受け取るとますます言うことができるようになります。つまり、私たちは、カルマとその結果を受け入れることができればできるほど、つまり、私たちが人生において、そうでなければ達成したいと思ったはずのあらゆることを諦め、静かに振る舞えば振る舞うほど、ますます強くなるのです。このことが正しいのは、例えば、思考活動に関してです。憧(あこが)れに満たされ、とりわけ、良い食べ物や飲み物を好む教師や教育者の例では、その教師が生徒に向けて語る言葉はあまり多くのことを達成できない。それは生徒の一方の耳から入り、片方の耳からすぐに出ていくということが明らかになる。そのような教師は、それは生徒の責任だと信じるかも知れませんが、いつもそうであるとは限りません。人生におけるより高次の意味を理解し、慎みをもって生き、生命を維持するのに必要なだけ食べ、運命が与えることがらを意識的に受け入れるような教育者は自分の言葉が大きな力を有していることに徐々に気づくようになるでしょう。生徒にはそのような教師を一目見るだけでも大きな効果があります。実際、その教師が生徒を見る必要さえないでしょう。そのような教師は生徒の近くに居さえすればよく、勇気づけるような考えを持ちさえすればよいのです。その考えが言葉で表現される必要はありません、そんなことをしなくても生徒には伝わります。すべては、そうでなかったとしたら強く望まれるようなことがらに関して、人が行使する諦めと断念の程度にかかっているのです。諦めの道は精神的な活動における正しい方法であり、より高次の世界の中で精神的な結果へと導きます。この点に関して、私たちは多くの幻想に出会います。そして、たとえ諦めの幻想が外的には真の諦めに似ているように見えたとしても、幻想が正しい結果に導くことはありません。通常の生活において、禁欲主義、すなわち自ら課す苦しみと言われているものを皆さんはご存じですね。多くの場合、そのような自ら課す苦悩は、自己陶酔、あるいは自己満足のため、何かより大きな欲望、あるいはどこか別の源泉から来る欲望を成就するために人が選択するものである可能性があります。そのような場合、自己否定は効果的ではないのですが、それは、精神的なものに根ざした諦めを伴っているときにだけ自己否定に意味があるからです。私たちは創造的な諦め、創造的な断念の概念を理解しなければなりません。私たちが魂の中で実際に経験することができる諦め、或いは創造的な断念を日常的な生活からは遙かにかけ離れた考えとして認識することはきわめて重要です。そのとき初めて、私たちは、人類の進歩において一歩先に進むことができるのです。何故ならそれは、「太陽」の発達段階から「月」の発達段階に移行する進化の過程においてそのようなことが生じたからです。そのとき、何か諦めに似たことがらが、より高次の世界の存在たちの領域において生じたのですが、彼らはあの「地球」の発達過程に結びついた存在たちでした。このことを理解するために、私たちは、もう一度、古い 「太陽」における発達について考えてみる必要があるでしょう。けれども、その前に、私たちが既に知っているけれども現在に至るまである意味で謎めいて見えたような何かに注意を向けてみましょう。哲学・思想ランキング
2023年10月31日
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真相から見た宇宙の進化第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行-Ⅰベルリン 1911年11月14日 私がこれまで二回の講義の中で指摘しようとしたのは、私たちの宇宙におけるあらゆる物質的な現象の背後には何か精神的なものが横たわっているということでした。熱や流れる空気の現象の背後に見いだされる精神的な現実を特徴づけようとしたのです。私は、そのような特徴を皆さんに伝えるために、私たちの進化発展における遙かなる過去にまで遡らなければなりませんでした。私たちはまた、物質的な宇宙の根幹をなす精神的な文脈を記述するために私たち自身の魂の生活をのぞき見ました。いずれにしても、何かを特徴づけようとするときには、それに用いるアイデアはどこか別の場所から取ってこなければなりません。言葉だけでは不十分です。明確なアイデアそのものが必要なのです。私たちが言及しなければならない精神的な文脈は、現時点で人類が経験するものから、つまり、今日の人間が知ることができるものから遙かに隔たったところに横たわっているということを私たちは見てきました。ですから、この文脈を理解するためには、私たちは滅多に見い出されることのない状況、一般に、私たち自身の魂や精神の生活においては理解されることのない文脈を呼び出さなければなりません。私たちは、外的で物理的な火や熱の顕現からは遠く離れた、熱や火の状態の最も深い性質を探求しなければならないということを見てきました。確かに、私たちが犠牲、それも特定の存在による犠牲、すなわち「地球」の進化における古「土星」状態の間に私たちが出会った存在であり、そして当時、その犠牲をケルビームに捧げた存在であるところのトローネによる犠牲を宇宙における火と熱のあらゆる状態の本質と同一視するととき、それは今日の人間には御伽噺のように聞こえるに違いありません。けれども、本当の意味で語るならば、それが宇宙進化におけるその時点で生じたとき、熱あるいは火の状態で外的、幻視的に私たちの前に現れるあらゆるものは犠牲から構成されていると言わなければならないのです。同様に、私たちが流れる空気あるいはガスと呼ぶところのあらゆるものの背後には、何か非常に遙かなるもの、つまり、私たちが与える徳、精神的な存在たちが彼ら自身の存在を献身的に注ぎ出すと呼んだものが横たわっているということを私たちは前回に指摘しました。あらゆる風のひと吹き、あらゆる空気の流れの中に存在しているのはこれなのです。外的、物理的なものとして知覚されるものは、実際には、幻想であるマーヤに過ぎません。私たちは、幻想から精神的な現実へと進んだときにだけ、正しい考えを持つことができるのです。火や熱や空気は、人が見る鏡に映った人間のイメージの中に人間が存在していないのと同様に現実的なものとしては存在していません。つまり、鏡に映った像が、人間との関係で言えば、本質的には幻影であるのと同様に火や熱や空気は幻影であり、ちょうど現実の人間が鏡の中のイメージと関係しているように、その背後にある真実が現実なのです。真実という現実の中に私たちが探し求めるのは火や空気ではなく犠牲であり与える徳なのです。私たちは与える徳が犠牲に付け加えられるのを見たときに古い「土星」の生活から「太陽」の生活へと上昇しました。私たちの地球による第二の体現の中に私たちが見い出すのは、私たちの発達における本当の状況へと私たちを一歩近づけるような何かです。そして、ここで私たちは、もう一度、幻想の世界に対抗する真の現実の領域に属する概念を導入しなければなりません。それは、私たちが私たちの進化発達における実際の状況を取り上げる前に、ある特定の概念を獲得しなければならないということです。 次のようにして、この概念に近づいてみましょう。人間が外的な生活の中で何かを行い、あるいは何かを達成するとき、一般にその結果は彼または彼女の意志衝動からもたらされます。人間が何をするにしても、それが単なる手の動きであれ、偉大な行為であれ、その活動の背後には意志衝動があります。ある人物に何かをさせたり、何かを達成させたりするように導くあらゆるものは、そこから放射して来ます。そして、強力で力に満ちた行い、例えば、治癒や恵みをもたらす行いは強い意志衝動から来る.あまり重要でない行いはより弱い衝動から来ると云われるかも知れません。一般に、私たちは行いの程度は意志衝動の強さにかかっていると考えがちです。けれども、もしも私たちが私たちの意志を強化すれば、私たちは世界の中で何か重要なことを達成するだろうと言うならば、それはそれである程度正しいに過ぎません。ある地点を越えれば、もはやそうではないのです。驚いたことに、人間が遂行し得るある一定の行い、特に、精神的な世界に関連した行いは、私たちの意志衝動の強化に依存していないのです。もちろん、私たちが住んでいる物理的な世界においては、行いの程度は確かに意志衝動の強化に依存しています。つまり、より多くのことを達成しようとすれば、より多くの努力が必要となります。けれども、精神的な世界においてはそうではなく、寧ろその反対なのです。精神的な世界において最も偉大な行いを達成し、最も偉大な結果をもたらすためには、前向きな意志衝動の強化が必要なのではなく、むしろ、ある種の身を引くこと、諦めが必要なのです。私たちは、最も些細な純粋に精神的なことがらに関しても、この仮定に則って前進することができます。私たちは、私たちの切なる望みを働かせたり、それに没頭したりすることによってではなく、私たちの意志を抑え、望みを抑制し、それらを満足させることを諦めることによって、一定の精神的な成果を達成するのです。(*中庸)哲学・思想ランキング
2023年10月30日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅶベルリン 1911年11月7日 大天使たちは原型的な原初の思い出を保持しています。あれこれの惑星上に存在していたものであれば何であれ、後の時代に繰り返されるのですが、後で現れるときには、いつも何か別のものがつけ加えられます。ですから、ある意味で、私たちは、私たち自身の「地球」上に見い出すものの中においても、「太陽」の存在に出会うことになるのです。このイマジネーションの全体、私たちが発達させることができるこの感情全体が私たちに与えるのは、犠牲を捧げるトローネの像、その供儀を受け取るケルビームの像、その供儀から放射する煌めきの像、空気のように拡散する供儀の煙の像、そして、原初に生じたものを後の時代のために保存する大天使から反射する光の像です。この感情が私たちの中に目覚めさせるのは、これらの創造に関連したあらゆるものについての理解なのです。この環境、私が魂の状況としてここで描写した環境は、私たちが以前、物理的な表現を通して達成したところのものを、より精神的な観点から提示します。そして、私たちは今や、キリスト存在(*わたしはある)として「地球」上に現れた存在が生まれるのはこの環境からであるということを理解します。キリスト存在が「地球」に何をもたらしたのかを私たちが理解することができるのは、宇宙の光として「太陽」体内部の実質に向けて反射され、この光によって浸透され、照らし出されます。そのような、与えるという慈悲を生じさせる徳についての概念を自分のものにするときだけなのです。もし、私たちが今述べたようなこのイメージを掲げ、それをイマジネーションへと変容させ、そして、この存在が地球へともたらし、そこで体現したのはこれであると考えるならば、キリスト衝動という精神的な存在をより深く経験することができるでしょう。人間の魂の中に住むことができる漠然とした暗示が、この表現によって今記述されたことは「地球」上に再び住むことができるのだということを感じ取るとき、私たちはその暗示を理解することができ得るようになるでしょう。私たちが「太陽」について今述べた事柄が、ある「存在」の魂の中に集積され、完全に濃縮され、そして、後になって再び前面に持ち出されると想像してみてください。この「存在」は地上に現れ、原型的な行為と犠牲の煙が創り出したもの、つまり、光を生じさせる時間と与える徳から賦活する慈悲の精髄が受け継がれ、魂の熱と輝く光が宇宙から反射されるような仕方で働きを行いました。このすべてがたったひとつの「魂」の中に濃縮され、その「魂」がそれを「地球」存在に受け渡すと想像してください。そして、それを反射返すとともに、後に残る「地球」存在のためにそれを保持する意図を持った者たちがその「魂」の周りに集まると想像してください。中心には、犠牲からなお又犠牲を通して与える「者」が、そして、この「存在」の周りには、それを受け取る意志を持った者たちがいます。ここで私たちが結びつけたのは、一方では、地上的な存在へと置き換えられた犠牲であるところのものと、その犠牲に属するものであり、他方では、この犠牲を破壊する可能性です。と申しますのも、慈悲を生じさせるために人間に与えられる可能性があるものはすべて拒否されるか、あるいは、受け取られるかのどちらかだからです。このすべてが直感的知覚(インテュイション)の中に体現されると想像してみてください。そのとき、そこにあるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の前に立つときに経験するものです。つまり、そこには、以前の時代に生じたものを後の時代へと伝えるために選ばれた「者」たちから反射し、返される全「太陽」であり、それは、犠牲を捧げる「存在」たち、与える徳の「存在」たち、魂を暖める喜びと光に満ちた荘厳さの「存在」たちとともにあります。このすべては、特に「地球」のために、同時に、それが裏切り者によって拒絶される可能性とともに設(しつら)えられました。「太陽存在」が「地球」上に再び現れたものとしての「地球の存在」は、このようにして経験することができます。外的、知性的な仕方ではなく、真に芸術的な方法でこれが感じられるならば、「地球」存在の精髄を反映するあの偉大な芸術作品の中に、真の推進力を経験することができるでしょう。そして、次にこの絵を見るときには、「キリスト」がいかに「太陽」の環境から育ってきたかということを知るとともに、私たちがしばしば語ってきたことをよりよく理解することにもなるでしょう。つまり、もし、ある精神が「火星」から「地球」にやってきて、彼が見るものすべてを理解できなかったとしても、その精神がレオナルドの「最後の晩餐」を自分に作用させるようにするならば、彼は「地球」の使命を理解できるだろうということをです。火星の住人は、「太陽」存在が「地球」存在の内部に隠されているに違いないということを理解することができるでしょう。そして、私たちがこのことの重要性について語ることができるあらゆることが、彼には明らかとなるでしょう。その火星の住人は「地球」が意味あるものであることを理解し、「地球」にとって何が重要なのかを知ることでしょう。彼は自分に次のように言うかも知れません。「これは地上のどこかで起こり得ることであり、地球存在の片隅でのみ意味を持つことかも知れない。しかし、もし、この行い、中央の人物のそれを取り巻く人物たちとの関連における色彩から私に向かって流れてくる行いを本当に表現することができるなら、叡智の霊たちが太陽上で経験したところのものが、ここでは私の記念にこれを行いなさいという言葉の中にこだましているのを感じることができるだろう」。ここには以後における以前の保存があります。これらの言葉を理解することができるのは、私たちがちょうど学んできたように、全宇宙の文脈からそれらを把握するときだけです。私がここで指摘したかったのは、第一級の芸術行為がいかに宇宙の発達全体に関連しているかということでした。 次回の講義では、「月」の精神的な「存在」の観点へと進むために、「太陽」の精神的な「存在」の観点から「キリスト存在」を理解するということが私たちの仕事になるでしょう。哲学・思想ランキング
2023年10月29日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅵベルリン 1911年11月7日 地球を現在あるがままにではなく、以前の時代に起こったことが再び現在へと流れ込んで来ていると想像してみてください。私たちは実際そのようなことが起こっていることを知っています。私たちが生きているのは第5後アトランティス時代ですが、第3後アトランティス時代である古エジプトから短命に終わったバビロン第11王朝(BC6世紀)新バビロニア王国であるカルディア時代に起こったできごとは今の時代にまで流れ込んで来ているのです。第3の時代に生じたことは再び出現し反射されるのです。これは古「太陽」発達期に生じた、与えることと受け取ることの再現です。このように、私たちは叡智の霊を古「太陽」期における与える者、そして、大天使を受け取る者と見なすことができます。このことから特筆すべきことがらが生じてくるのですが、それを正確に思い描くには、与えられるべき何かがその中心から放射してくるような内的に閉じられた天体を想像するしかありません。中心から周辺へと何かが放射され、そして、そこから再び反射されて中心点へと戻って来るのです。大天使たちは、自分たちが受け取ったものを、その天体の外表面の内から再び反射しています。外側から何かかが来ると想像する必要はありません。私たちは中心から外に向かって動く何かを想像しなければならないのですが、それは叡智の霊からやってくるものです。それはあらゆる方向へと放射され、それを反射し、返す大天使たちによって受け取られます。空間中へと反射し、返されるものとは何でしょうか。再び反射されるところの叡智の霊による贈り物とは何なのでしょう。再びその源泉へと向けられる放射する叡智とは何なのでしょうか。それは「光」なのです。大天使たちは光の創造者でもあるのです。光とは外的な幻想の中に現れるようなものでは全くありません。光が生じるところではどこでも、叡智の霊による贈り物が私たちに向けて反射されているのです。光があるあらゆる場所にそれが居ると考えなければならないような存在とは、大天使たちのことなのです。ですから、私たちは、溢れる光線の内部には大天使たちが隠れていると言わなければなりません。私たちの元に来る溢れる光線の背後には大天使たちが隠れているのです。光を流出する大天使たちの能力は、叡智の霊たちが彼らに向けて放射するところの与えるという徳から生じます。こうして、私たちは古「太陽」の像に至ります。想像してみてください。中心では、叡智の霊たちが、古「土星」から受け継がれてきた遺産、トローネによるケルビームへの犠牲行為についての思索の中に沈んでいます。この犠牲の行いについて思索することによって、叡智の霊たちは彼ら自身の内実、与えるという徳の形を取った流れる叡智を放射するように促されます。この徳は、時間に浸透されているために、送り出された後に再び反射されるのですが、そのため、私たちの前にあるのは、その源泉、中心へと反射し、返される徳によって内的に照らし出された天体です。と申しますのも、私たちが想像しなければならないのは、古「太陽」は外に向かってではなく、内に向かって輝いているということだからです。そして、このことによって何か新しいことが生じるのですが、私たちはそれを次のように記述することができます。叡智の霊が「太陽」の中心で、犠牲を捧げるトローネについて思索し、彼ら自身の存在をそのはるかな周囲へと放射すると想像してください。そして、彼らが放射したものは、その天体の表面から、光の形で戻ってきて、再び彼らによって受け取られます。あらゆるものがますます照らし出されるようになるのですが、彼らに反射し、返されるものから彼らが受け取るものとは何でしょうか。大宇宙への贈り物として捧げられたのは彼ら自身の存在、彼らの最奥の存在です。今やそれが反射されて戻ってくるのです。彼ら自身の存在が外から彼らのところへと戻ってきます。彼らは大宇宙全体にばらまかれた彼ら自身の内的存在が光として、つまり、彼ら自身の存在の反映として、反射され、戻ってくるのを見るのです。 今や、彼ら自身の存在の反映が内と外とがふたつの極として私たちの前に立ち現れます。前と後とが自ら変容し、内と外とになります。空間が生まれるのです。叡智の霊によって与えられた授与するという徳の贈り物から、古「太陽」上で空間が生じます。それ以前には、空間とは、単に寓意的な意味しか持つことができないものでした。けれども、古「太陽」上には今や実際の空間があるとはいえ、それは2次元的なものに過ぎず、上下も、左右もなく、ただ内と外があるだけです。実際には、これらふたつの極は、古「土星」期の終わりには既に現れていたのですが、古「太陽」上での空間の創造に際して、その過程が繰り返されるのです。そして、もし、私たちがこれらのできごとのすべてを想像し直そうとするならば、ちょうど、以前に犠牲を捧げるトローネが時間霊を生じさせたことを私たちの魂の前にもたらしたように、光からなる天体を思い描いてはなりません。と申しますのも、光はまだ外に向かって放射するのではなく、単に内に向かって放たれる反射として存在していたからです。私たちは寧ろ内的な空間としての天体を想像しなければなりません。その中心では、「土星」の像の繰り返し、つまり、ケルビームの前に跪く霊として存在するトローネ、ケルビームは自分自身の存在を捧げるあの翼を持つ存在たちです。そして、それらに加えて、犠牲の思索の中に浸る叡智の霊が生じます。今、想像することができるのは、犠牲(トローネの犠牲の火)の中に横たわるきらめきが叡智の霊の犠牲へと自ら変容するということですが、その犠牲の物質的な表現は、犠牲行為の間、捧げる煙として生じる空気です。ですから、次のように想像するならば、私たちは完全な像を得ることができます。・ ケルビームの前に跪き、犠牲を捧げるトローネ・ 「太陽」の中心では、トローネの犠牲の印象を前にして祈りを捧げる叡智霊の合唱・ 彼らの献身は犠牲の煙のメージとなり、あらゆる方向に広がり、外へと流れだし、周辺で雲へと濃縮する・ 大天使が煙の雲から生じる・ 周辺からは、犠牲の煙という贈り物が光の形を取って反射し、返される・ 「太陽」の内部を照らし出す光・ 叡智霊の贈り物が返戻(へんれい)され、それによって、「太陽」の領域が創造される この領域は燃える熱と犠牲の煙という外に向かって注ぎ出される贈り物から成立っています。外縁には光の創造者である大天使がいて、「太陽」上で以前に生じていたものを反射しています。時間がかかりましたが、最終的には、犠牲の煙が光として返戻されることになりました。大天使は何を保持していたのでしょうか。彼らは以前に生じていたものを保持していたのですが、それは叡智霊の贈り物です。彼らはそれを受け取り、そして、その後、反射し戻したのですが、とはいえ、以前には時間として存在していたところのものを、彼らは空間として返したのです。時間を空間として反射し、戻すことによって、大天使たちは彼ら自身がアルカイから受け取っていたものを返したのです。こうして、彼らは原初の天使たちとなります。と申しますのも、彼らは以前から存在していたものを後の時代に齎したからです。大天使とは原初(アルカイ)の御使いたちなのです。真の秘儀の知識からこのような「言葉」が再び現れてくるということ、そして、この「言葉」が太古の伝統の中で生じ、パウロの弟子であるディオニシウス・アレオパギータの学院を通して私たちのところにまで伝えられたということを思い出してみるのはすばらしいことです。この言葉はあまりにも深く刻みつけられたために、私たちがそれを再び、書かれたものとは別に見い出すとき、最初に生じたものが再び生じてくるというのはすばらしいことです。それは私たちを大いなる尊敬の念で満たします。私たちは秘儀の叡智に参入するための古い聖なる秘密の学院に結びつけられているように感じます。それはこの太古の伝統が私たちの中に流れ込んでいるかのようなのですが、それは、たとえ、私たちが私たち自身の責任で、その古い伝統とは別に、この知識を獲得しているとはいえ、私たちがそれを理解することによって把握しているからです。私たちに伝えられてきた古い表現形式の雰囲気について何かを経験することができる人たちは、たとえそれらの伝統に気づいていないとしても、人間精神の内にある時間霊の影響の下に置かれていると感じます。人類の進化全体に結びつけられているというすばらしい感情、これらのことがらにおける確かさの感情がここから生じるのです。哲学・思想ランキング
2023年10月28日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅴベルリン 1911年11月7日 時間の霊が古「土星」上で誕生したことを思い出してみるならば、「太陽」上にも時間が存在していた。何故かと云えば、時間は「土星」から「太陽」へとやって来ていたからです。そこにも時間は存在していたのです。原型的な与えるという行為が存在していたことで、古「土星」上では生じ得なかったひとつの可能性が古「太陽」上には存在していました。もし、時間が存在していなかったとしたら、与えるということはどうなっていただろうかと考えてみてください。つまり、与えるということは、与えることと受け取ることの両方から成り立っていますから、授与ということはあり得なかったことでしょう。受け取るということなしに、与えるということは考えられません。ですから、与えるということは与えることと受け取ることのふたつの行為から成り立っているのです。そうでなければ、与えることには何の目的もなくなってしまいます。「太陽」上では、与えるということは、受け取るということに対して、非常に特別な関係にありました。「太陽」上には既に時間が存在していますから、古「太陽」の周囲へと送り出される贈り物は時間の中に保存されるのです。叡智の霊たちがその贈り物を注ぎ出すとき、それらは時間の中に存在する状態に留まります。そのとき、それを受け取ることができる何かがやって来なければなりません。叡智の霊たちによる活動との関係で、受容ということが時間の流れにおける後の地点において起こります。叡智の霊たちが与えるのは以前の瞬間においてであり、その与えるということに受け取るという形で必然的に結びついていることがらが生じるのは後の時点においてなのです。このことについての正確な像を得るためには、もう一度、私たち自身の魂の経験を考察しなければなりません。皆さんが何かを理解しようとして、あるいは、何らかの考えを形成しようとして大変な努力をすると想像してみてください。皆さんは、今や、あれこれの考えを創造しました。次の日、皆さんは、前の日に皆さんの思考の中で創造したあらゆるものを再び心の中にもたらすために、皆さんの心の中を空にします。皆さんはこのようにして、昨日形成したものを今日受け取るのです。古「太陽」上でも状況は同じです。つまり、以前の時点において与えられたものは保存されたままとなり、そして、後の瞬間になって受け取られるのです。しかし、この受け取るということにはどのような意義があるのでしょうか。原型的な与えるということと同様、受け取るということもまた古「太陽」上における行いあるいはできごとだったのです。受け取るということが与えることと異なっているのは時間的な意味においてだけです。受け取るということが起こるのは後になってからです。与えるということは叡智の霊から生じますが、では、誰が受け取るのでしょうか。誰かが受け取るということが生じるためには、まず受け取る者が存在していなければなりません。「土星」上でのトローネによるケルビームへの犠牲が時間の霊の誕生へと導いたのと同様に、「太陽」上における叡智の霊による宇宙的な授与が始まったことで、私たちが大天使あるいはアークアンゲロイと呼ぶあの霊たちが生じたのです。大天使とは古「太陽」上で受け取る者たちのことです。けれども、彼らは非常に特別な仕方で受け取ります。と申しますのも、大天使たちは、叡智の霊から受け取るものを自分たちのために保持するのではなく、ちょうど鏡が、受け取った像を反射するように、それを反射するのです。こうして、「太陽」上の大天使たちは、以前の時点において与えられたものを受け取るという使命を持っているのですが、そのため、それは保持され、大天使によって後の時間の中へと再び反射されるのです。ですから、「太陽」上には、与えるという以前の行為と、受け取るという以後の行為が存在していますが、ここで云うところの受け取るとは、以前の時点において与えられたものを投げ返す、反射するということです。哲学・思想ランキング
2023年10月27日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅳベルリン 1911年11月7日 神秘学的顕現あるいは悟り、つまり、照らし出すものとして私たちに提供されるあらゆるものに出会うために醸成されることを待つような認識はどのようにして自らを顕すのでしょうか。私たちのところへとやって来る筈のものは、私たちが十分に準備できたときに、どのようにして現れるのでしょうか。それは、精神的な世界から私たちに出会うためにやって来る贈り物、祝福されるという感情として自らを現すのです。もし、私たちの人生において、そのようにして私たちの前に立つところのもの、恵みに満ち、私たちをその認識で満たしながら私たちの前に立つもの、それが何らかの存在であれ、何か別のものであれ、そのことを記述したいのであれば、それを表現する仕方はただ次のようなものだけです。つまり、私たちは、恵みを与えるものとして、贈り物をするものとして、私たちに何かを与えるものとして、私たちのところへとやって来るものを経験するとしてだけでしょう。ある存在の主な特徴が、付与し、与え提供する恵みを注ぎ出し、降り注ぐ能力で構成されているとき、そのような存在の本性を把握するには、トローネのケルビームに対する犠牲のイメージを自分のものとする必要があるのです!。在が、トローネによるケルビームへの供儀の意味を理解している人のところにやって来る、と想像してください。それは、トローネの犠牲を理解する能力を、与えるという能力、自らの贈り物を自らの周りに恵みとして注ぎ出すという能力に変化させることができる存在です。私たちが薔薇を見て喜びに満たされ、そうすることで、私たちが「美しい」ものとして眺める何かによって祝福される、という感情を経験していると想像してください。そして、また別の存在について想像していただきたいのですが、それは、ケルビームに対するトローネの犠牲の意義を理解し、それが有しているものを周囲のものに捧げる存在であり、与える精神の中で、与えられるものすべてを世界の中へと注ぎ出す存在です。もし、私たちが、そのような存在について想像するならば、それは、「神秘学概論」の中でも記述したように、土星存在期の間に知られるようになったあの存在たちに、太陽存在期の間に付け加えられたあの叡智の霊たちなのです。太陽存在期に現れ、土星存在期を通して既に存在していた霊たちに付け加えられたこれらの叡智霊たちの特徴とはどのようなものかと問われるならば、私は次のように答えなければならないでしょう。これらの霊たちは、その明らかなた特徴として、与え授けるという、恩恵を行使する徳を有していると申せます。私がこれらの存在たちについての定義を見いだそうとするならば、彼らは叡智の霊、大いなる譲与者、宇宙における偉大な与える者たちであると言わなければならないでしょう。ちょうどトローネを偉大な犠牲者と呼んだように、叡智霊については、彼らは偉大な与える者たちであり、宇宙がそれから織りなされ、生かされている正にその贈り物を授ける者たちである、と言わなければならないでしょう。何故なら、彼らは、彼ら自身を宇宙の中に注ぎだし、最初に秩序を創り出したからです。「太陽」上における叡智霊の影響とはそのようなものです。つまり、彼らは彼ら自身の存在をその周囲に向けて与えるのです。けれども、もし、私たちが外的な観察に顕れるものを、より高次の感覚知覚によって見たいのであれば、「太陽」上では何が起こるかと問うかも知れません。私たちが「太陽」を見るとき、私たちが観察するのは「神秘学概論」の中で記述されたところのものです。熱に加えて、「太陽」は空気と光からも構成されています。けれども、単に、「太陽」は熱だけではなく、空気と光からも構成されているというならば、例えば景色について、遠くに灰色の雲が見えるというようなものです。もし画家であったならば、この印象を得たときには灰色の雲を描くかも知れません。しかし、もっと近づいてみるならば、灰色の雲というよりも、むしろ虫の大群のようなものを見い出すかも知れません。実際、灰色の雲のように見えたものは、無数の生きた存在たちだったのです。私たちが遠く離れたところから古「太陽」存在について考えるとき、私たちはそれと同じような状況にあります。遠くから見ると、古「太陽」は空気と光からなる天体のように見えます。けれども、もっと近くからそれを見るならば、私たちはもはや空気と光からなる天体を見るのではありません。そうではなく、叡智の霊による授与という大いなる徳が現れてくるのです。空気を単にその外的で物理的な性質にしたがって記述する人は決して空気の真の本質を見い出しません。これらの性質は単なる幻想(マーヤ)であり、外的な現れに過ぎません。宇宙においては、空気があるところには必ず贈り物を授与するという叡智の霊の行為がその背後にあります。織りなし、働き続ける空気は、大宇宙の霊による授与という徳を有しているのです。空気の真の本質を見る人だけが、私はここに空気の要素を知覚する、しかし、実際には、叡智の霊たちが贈り物を周りに与えている、何かが叡智の霊からその周囲へと流れ出しているのだと言います。こうして、我々は今や、古「太陽」は空気からなっていると言うときには、本当は何について語っていたのかを知ります。私たちは、外的には空気として現れるものは、実際には、叡智の霊たちが彼ら自身の存在をその周囲へと流れ出させている活動であるということを知るのです。ところが、この時点で、超感覚的な視覚の前に、古「太陽」上での顕著なできごとが現れて来ます。このことを理解するためには、与えるという徳についてのもっと正確な考えを魂の生活の中から創造することができなければならないということをはっきりさせておく必要があります。私たちがこれまで記述してきたような、供儀の雰囲気の中での知覚や考えを私たちに浸透させることができるときに持つことができるような感情を、もう一度創り出してみましょう。そのようにして浸透させられた考えは、私たちにいつも特別な感情を起こさせます。それは科学的な考えのようなものではありません。それに非常によく似た経験は、芸術の領域において見いだされるかも知れません。その領域においては、ひとつの独立した実体を世界に提示するために、色や形態が世界の中へと流れ出すその流れ出し方をマスターした考えが必要になります。そのような贈り物を与える能力を持った存在を特徴づけるとすれば、この贈り物に結びつけられるのは生産性・創造性であると言うことができるかも知れません。何故なら、与えるという行為そのものが創造的な活動だからです。そのように考え、その考えが世界に治癒をもたらすと感じ、そして、それを芸術作品の形で提示する人であれば、それが誰であれ、与えるという徳のもたらす果実を正しく理解しています。芸術家の心の中にある創造的な考えについて、そして、その考えがいかに物質の中に顕現するかについて、考えてみてください。つまり、この考えとは、正に空気の精神的な存在なのです。空気があるところには創造的な活動があるということです。そして、この生きた創造行為が「太陽」上にあったことにより、空気と創造的な活動とは関連しているということを事実として見て取ることができるのです。哲学・思想ランキング
2023年10月26日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅲベルリン 1911年11月7日 私たちが古「土星」存在から古「太陽」存在へと突き進もうとするのであれば、私たちの現在の太陽ではなく、古い「太陽」の実質についてのイメージを創造するための概念に向けて、その基礎づけを行わなければなりません。この場合にも、私が「神秘学概論」の中で提示したのはその外的な表現に過ぎませんでした。古「太陽」は、空気と光を熱につけ加えることによって、その熱を高めたのですが、ちょうど私たちが「意志の霊」によってもたらされた犠牲の輝きを知覚するためには熱を越えたところを探求しなければならなかったように、今やもし、私たちが古「太陽」上で熱につけ加えられた空気と光を理解したのであれば、私たちは、空気と光の本質として、何か道徳的なものを探さなければなりません。私たちが古「太陽」上における空気と光についての考え、表現、感情に至ることができるのは、私たちが、魂的、霊的な方法で、私たち自身の内部で経験することができるものを探求するときだけです。この感情は次のような方法で魂の経験として記述することができます。皆さんが真の犠牲行為を観察すると想像してみてください。つまり、前回の講義の中で記述したように、トローネがケルビームにその供儀を捧げるというイメージが皆さんを深く感動させ、そのため、そのイメージが皆さんの魂を無上の喜びによって生き生きとさせると想像してみてください。もし、皆さんが、そのような犠牲を捧げる存在を観察するならば、あるいは、皆さんの魂を目覚めさせ、生き生きとさせるようなこの種の像について想像するならば、皆さんの魂は何を感じるでしょうか。皆さんが生命に満ちた感情を持っているとしたならば、皆さんが、犠牲行為の中で感じる喜びを前にして、無関心で立っていることができないのであれば、皆さんはこの犠牲行為を目の当たりにして、深い目覚めを経験せざるを得ないでしょう。皆さんは、犠牲から生じる無情の喜びを見守るということは最も美しい行いであり、そもそも魂の中で生じ得る最も美しい経験であると皆さんの魂の中で感じざるを得ません。別の経験も生じ得ます。それは完全に身を任せるという態度です。実際、犠牲が魂の中に完全な献身をもってそれを見つめたいという憧れを生じさせないとしたら、そして、自己犠牲の雰囲気を齎さないとしたら、皆さんは一片の木でなければならないでしょう。そのように自らを諦める無我について考えてみてください。それは行為の中で変容された自己犠牲です。そして、能動的で意識的な自己犠牲について熟考することにより、自分を譲り渡すということ。自らをなくすということ。自己を忘れるということに対する親和性を作り出すことができます。そのような雰囲気、あるいは、少なくともそれについての示唆もしくは残響を作り出すことができないとしたら、犠牲についてのより綿密な理解へと本当に至るということは決してないでしょう。実に私たがは淡々と自己を諦めるというこの雰囲気を魂の中に注ぎ込むならば、より高次の認識形態が私たちに与えることができるものへと至ることができ得るかも知れません。自己犠牲の精神を創造することができない人は、より高次の認識を達成することもできません。この自己犠牲という態度の正反対のものとは何でしょうか。それは自己意志、自分自身の意志を主張するということです。自分が思索するものの中に自らを無くすこと、そして、自らの意志で自分の中にあるものを主張すること、これらが魂の生活におけるふたつの極です。これらは大いなる対極です。もし、皆さんが真の認識を達成し、皆さん自身を叡智で満たしたいとすれば、この自己意志は致命的なものとなります。日常生活においては、自己意志は偏見として知られています。そして、偏見はより高次の洞察を絶えず破壊します。実際、自己犠牲への能力として私がここで記述しているところのものを思考の中で強化する必要があるのですが、それは、自己犠牲の強化された感覚によってのみ、人はより高次の世界に向けて歩を進めることができるからです。より高次の世界においては、自分を捨てる能力、少なくともその魂的な雰囲気を経験できなければなりません。もし、私たちが科学的な知識や日常的な思考だけでやっていくならば、より高次の認識を達成することは決してできないということを強調しておきたいと思います。通常の科学や日常的な思考が働くのは、通常の人間的な意志、すなわち、私たちが受け継ぎ、あるいは涵養してきた経験や感情、そして、考えにおいて自己意志が創り出してきたあらゆるものを通してであるということを私たちは明確にしておかなければなりません。私たちはここで間違った方向に導かれる可能性があるのですが、実際、この領域では、錯覚することが非常に多いのです。人々がやって来て、例えば、次のように言うかも知れません。精神科学が提示する知識のあれこれの側面を受け入れるべきであると言われても、私は、私が既に考えたことと一致しないものは何ひとつ受け入れるつもりはない、証明されないものを受け入れるつもりはないのだと。確かに、証拠なしに何かを受け入れるべきではありません。しかし、私たちが私たちに提示されたものの中から私たちが既に知っているものだけを受け取るとしたら、私たちは一歩も前に進むことができないでしょう。超感覚的な能力を持ちたいと願う人であれば誰であれ、自分は自分が既に証明したものだけを受け入れることにしよう、などとは決して言わないでしょう。超感覚的な能力を持ちたいと願う人はあらゆる自己の追求から自由でなければならず、宇宙から自分たちのところへやって来るものはすべて、ただ「恩恵」という言葉で記述されることができるだけだということをあらかじめ知っていなければなりません。そのような人々は、照らし出す恩恵からあらゆるものがやって来ることを見通しています。では、人はどのようにして超感覚的な認識を達成するのでしょうか。それは私たちが既に知っているあらゆるものを脇にやることによってのみ可能となります。私たちは、通常、私には私自身の判断があると考えています。けれども、通常の判断は皆さんの先達が既に考えたこと、皆さんの願望を刺激するもの、あるいはその他のものを単に新しくすることからやって来るに過ぎません。決して自分自身で判断するかどうかが問題なのではありません。自分自身の判断を行使していると最も主張する人たちが、いかに自分自身の偏見に隷属的に結びつけられているかに最も気づいてはいない人たちなのです。もし、私たちがより高次の認識を達成したいのであれば、これらのことすべてから脱却していなければなりません。魂は空虚でなければならず、空間もなく、時間もなく、対象もなく、事象もない、隠された、秘密の世界から受け取ることができるものを静かに待つことができなければなりません。私たちは、顕現あるいは悟り、つまり、照らし出すものとして私たちに提供されるあらゆるものに出会うための雰囲気が私たちの中に醸成されることを待つことなしでも、より高次の認識を獲得できると決して信じるべきではありません。私たちに近づいてくるあらゆるもの、他でもない恩恵として、私たちのところに「来るべきもの」として、私たちに何かを与えるところのあらゆるものを私たちが待っていられるのは、ただこのような雰囲気の中においてのみです。哲学・思想ランキング
2023年10月25日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅱベルリン 1911年11月7日 私たちはまた、トローネたちがその犠牲行為をケルビームに捧げるときには、私たちが時間と呼ぶところのものが同時に産まれるということを見てきました。既に触れましたように、「時間」という現代の言葉は、私がこれから記述しようとしている事柄にそれほど適合してはいません。ここでいう時間は、私たちが今日感じるような「前に」や「後で」というような抽象性を未だ包含していません。時間は「人格の霊」あるいは「時間霊」とも呼ばれる精神的な存在の外的な配列として始まったのです。これらの「時間霊」は、太古における時間の表現であり、トローネとケルビームの所産なのです。とはいえ、時間的側面を持った存在たちが古「土星」上で生まれたのは、犠牲行為という状況があったからです。私たちが暖かさの背後に立つものを本当に理解しようとするとき、古「土星」は暖かさから構成されていたと言うとき、私たちは単に外的、物理的な概念だけを適用すべきではありません。私たちが暖かいという言葉を使うとき、それは物理的な概念である、ということを思い出していただきたいのですが、ここではそうではなく、「魂の」生活―魂の道徳的な生活、叡智に満ちた生活-から導かれる概念を適用すべきなのです。自分が所有するもの、自分が持っているもの、自分自身であるところのものさえ、喜んで捧げるということが何を意味しているかを想像することができない人は誰であれ、暖かさとは何かを知ることができません。必要なのは、魂の観点から、自分自身の存在を捧げるということ、自分自身を意識的に諦めるということが何を意味しているかについての理解に至る、ということです。言い換えれば、自分の最良のものを世界の治癒のために与えるということ、自分の最良のものを自分のために取っておくのではなく、全宇宙という祭壇の前に捧げようとすることについて想像することができなければならないのです。もし、私たちがこれらのことすべてを生きた概念として、私たちの魂に浸透するひとつの感情として把握するならば、それは私たちを熱の顕現の背後に立つものについての理解へと少しずつ導いていくことができるでしょう。現代生活においては犠牲の概念が何に結びついているかということを想像してみてください。つまり、意識的に犠牲を捧げる人が自分の意志に反してそうすることは考え難いことであるということをです。もし、誰かが自分の意志に反して犠牲を捧げるとすれば、そのような圧力を感じていたからに違いありません。強制があったに違いないのです。けれども、それはここでいうところの供儀が意味しているものでは全然ありません。ここでは、供儀は、それを捧げる存在から当然のこととして流れ出るのです。もし、誰かが、何らかの外的な強制や、何かを成し遂げるという期待なしに、誰かが内的に促されるのを感じて犠牲を捧げるとしたら、その人は内的な熱と至福を経験するでしょう。私たちが内的な熱と幸福で輝くのを感じるとき、それが表現しているのは、「犠牲を捧げ、そして、暖かさに浸透されるのを感じる人が幸福で輝くのだ」ということによってのみ記述することができるような何かです。私たちは、いかに犠牲の輝きが世界における外的な熱という幻想の中で私たちに近づくかを自分で経験することができます。世界の中で、暖かさがあるところにはどこでも、その基盤としての魂的、霊的な現実があるということを把握する人だけが、暖かさとは何かを本当に理解するのです。暖かさとは、犠牲の喜びを通して存在し、活動するようになる何かです。暖かさをこのような方法で経験することができる人であれば誰でも、物理的な暖かさという現象、つまり幻想の背後に存在し、隠されている現実へと至ります。哲学・思想ランキング
2023年10月24日
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真相から見た宇宙の進化第2講 太陽紀における地球の内的側面-Ⅰベルリン 1911年11月7日 前回第1講の土星紀における地球の内的側面の講義から、私たちの「地球」の創造に先立つ3つの発達段階のそれぞれを記述するのはきわめて難しいことだということがお分かりになったと思います。私たちは、それを行うためには先ず私たちの宇宙的な発達の中でも遠く離れた見知らぬ状態にまで至るのに必要な概念と思考を構築しなければならないということを見てきました。既に指摘しましたように、古「土星」期やそれに続く「地球」の惑星体現期に関するいかなる記述、例えば「神秘学概論」の中の記述などですが、それも網羅的なものではありません。私は、その「神秘学概論」を書くに当たって、身近で手近なものから導き出された図式の衣装をその主題に着せることで満足しなければならなかったのですが、それは、その本が公衆にとって理解可能で、かつ、過度にショッキングにならないように意図されたものだったからです。「神秘学概論」の中で与えられた記述は、ただ不正確であるというのではなく、図式的にいえば、幻想あるいはマーヤの中に浸されているのです。真実に貫き至ろうとするのであれば、幻想の中を努力しつつ進まなければならないのです。例えば、古の「土星」は、私たちが地、水、あるいは空気として知っているあの諸要素からではなく、全く熱から成り立っていると記述できるかも知れません。そして、これが正しいのはある限度の範囲内なのです。同様に、空間に言及するときにはいつも図式的な記述にならざるを得ないのですが、それは、前回の講義の中で見てきたように、古「土星」上には時間さえ存在しなかったからです。古「土星」上には、少なくとも私たちの言葉の意味での空間はありませんでした。しかし、一方では、その当時、初めて時間が存在するようになったのです。ですから、私たちが自分を古「土星」の文脈の中に置くときには、私たちは空間を持たない領域の中にいることになります。ですから、もし、私たちがこのことを思い描こうとするのであれば、それは表像に過ぎないのだということを明確にしておかなければなりません。このように、もし仮に、私たちが古「土星」の「空間」の中に入ることができ得たとしても、そこにはガスとして記述できるほど濃厚な実質は見いだされなかったでしょう。そこにあるのは暖かさと冷たさだけだったでしょう。実際、空間の一部から出たり、別の部分に入ったりすることについて語ることはできなかったのです。そこにあるのは、より暖かい状態とより冷たい状態の間を動くという感情だけです。超感覚的な能力を有する人でさえ、古「土星」の時代の中に身を置くと想像するときに経験するのは、空間を持たない暖かさが満ちたり引いたりするという印象だけなのです。けれども、この印象は「土星」状態の外的な覆いに過ぎません。と申しますのも、神秘主義でいうところのこの火の暖かさは、その精神的な基盤において、私たちにその実体を現すのですが、既に見てきましたように、古「土星」上で実際に生起しているのは精神的な行為でありその現れだからです。私たちは、古「土星」上で起っているのはどのような種類の精神的な行為と現れなのかということについてのイメージを形成しようとしました。私たちがお話ししたのは、「意志の霊」、トローネが犠牲行為を遂行したということでした。このことは、私たちが「土星」上で生じたことを振り返るとき私たちが見るのはケルビームとトローネから流れ出す供儀であるということを意味しています。トローネからケルビームへと供儀が流れ出すのですが、外から見たときには、これらの犠牲行為は熱として現れます。ですから、熱の状態とは供儀の外的、物理的な表現なのです。実際、全宇宙の中で、私たちが熱を知覚するときには、それがどこであれ、熱はその背後に立つものの外的な表現なのです。熱は幻想であり、熱の背後には、精神的な存在たちによる犠牲行為という現実があります。ですから、熱を正確に特徴づけたいのであれば、「宇宙の熱とは、宇宙的な供儀、宇宙的な犠牲行為の表現である」と云わなければなりません。哲学・思想ランキング
2023年10月23日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅶベルリン 1911年10月31日 「哲学の歴史」(シュテュットガルト/1848年)の著者で、ドイツの哲学者・神学者フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー(Friedrich Karl Albert Schwegler/1819-1857)を取り上げてみましょう。この著作本は、かつて学生たちが試験の前に勉強するのを好んだものですが、哲学から魂が取り除かれたことにより、もはや役に立たないものとなっています。しかし、後の版では改訂を受けているとはいえ、初版本の重要なところは完全には失われていません。つまり、それはヘーゲル哲学の観点から見た哲学の歴史書なのです。ですから、皆さんがシュヴェグラーの「哲学の歴史」を取り上げますと、皆さんはそれが書かれた当時の哲学像を知るためのよい例、ヘーゲル哲学の優れた参考文献をそこに見いだすことになります。けれども今、ドイツの神秘主義者であり、ドイツ自然哲学思想をドイツ語で主に著述した最初の思想家でもあるヤコブ・ベーメ(Jakob Böhme/1575年-1624年)に関する短い章を読んでみますと、知的な哲学書を書く人物が、神秘主義のような精神に直面するときには、いかに無力なものであるかを知ることができます。幸いなことに、彼はパラケルススを取り上げていませんが、もし取り上げていたとしたら、彼についての相当にひどい代物を書いていたことでしょう。とはいえ、シュヴェグラーがベーメについて何を書いているか読んでみましょう。彼はベーメの中にひとつの心を見い出しました。そして、その心の中では、古の「土星」の像ではなく、「土星」の繰り返しの像が素朴な仕方で夜明けを迎えていたのです。この「土星」像の繰り返しは「地球」期において繰り返されたものです。シュヴェグラーがベーメの中で出会ったのは、知性を通しては理解できないような何かを言葉と像で記述しようと試みることしかできない精神でした。「土星」の繰り返しを把握しようとする純粋に知的な方法のすべては失敗するしかありません。つまり、それは、まるでこれらのことがらを全く理解できないかのようであるというよりは、もし、通常の、無味乾燥の哲学的論理にしがみつくだけならば、それらを把握することができないということです。お分かりのように、重要な点は、通常の知性の十全さを越えて自らを上昇させるということです。通常の知的な能力をもってしても、まだシュヴェグラーの「哲学の歴史」のように優れた作品を作り出すことはできますが、だからこそ、それは並はずれた知性が、ヤーコブ・ベーメのような精神に直面したとき、いかに完全に立ち止まらざるを得ないかということを示すよい例となっているのです。私たちは今日、古「土星」に関する考察の中で、私たちの「地球」が太古に体現した惑星状態の内的な側面に貫き至ろうとしました。私たちは古「土星」存在を振り返り、トローネたちが自らをケルビームに捧げることよって時間存在を創造したときの印象を生じさせるようにしましたが、この後の講義では、私たちがそれによって達成した概念に負けず劣らず印象深い概念に到達するために、「太陽」と「月」存在について同じことをしていくことにしましょう。時間とは犠牲から生じたものであり、生きた「時間」から成立っているのですが、「太陽」存在の間に、いかにこれらのことすべてが変化していくのかを、そして、私たちが「土星」存在から「太陽」そして「月」存在へと進むとき、宇宙におけるその他の力強いプロセスがいかに生じるのかを見ていくことにしたいと思います。哲学・思想ランキング
2023年10月22日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅵベルリン 1911年10月31日 「神秘学概論」の中では、人々を過度に怒らせることがないように、古土星の外的な状態だけが述べられていますが、それでも怒りを買ってしまいました。現代の科学的な文脈の中でしか考えることができない人々はこの本を全くのナンセンスであると見なします。けれども、もし、人が実際に次のように言うことができたとしたら、それは何を意味しているかということを考えてみてください。・古土星は、その最奥の存在として、正にその根底として、「意志の霊」に属する存在たちを有しており、彼らは彼ら自身をケルビームに捧げた。・「意志の霊」のケルビームへの供儀により生じた煙から、時間が生まれた。・時間が誕生したことにより、アルカイあるいは「時間の霊」がもたらされた。・私たちが知っているような熱は「意志の霊」による供儀の外的な表現、反映である。・したがって、外的な熱は幻想(マーヤ)である。もし、真実を語りたいのであれば、熱が顕現するところではどこでも、実際にはケルビームの前に捧げられるトローネの供儀があると言わなければなりません。イマジネーションの能力を発達させることは薔薇十字的な秘儀参入の第2段階に当たります。このことは「いかにして超感覚的な認識を獲得するか」やその他のところでしばしば触れています。人智学徒は、世界についての健全な表象からイマジネーションを形成しなければなりません。そのようにして、私たちは思考を想像力に染められたイマジネーションへと変容させることができるのです。私たちは今日お話ししたことがらを例として取り上げることができます。トローネあるいは「意志の霊」は完全な献身をもってケルビームの前に膝まづくのですが、それは卑しさの感情からではなく、捧げることができる何かがあるという意識から生じるものです。強さと勇気に基づき、喜んで供儀を捧げようとするトローネたちはケルビームの前に膝まづき、その捧げものを彼らに向けて差し上げます。トローネたちはその供儀を泡立つ熱、燃え上がる熱として送り出し、そのため、供儀の炎から立ち上る煙は翼をもったケルビームに向けて燃え上がるのです。私たちはそのようにこの現実を描写できるでしょう。そして今や、この供儀から生じるものとして、それはまるで私たちが言葉を空中に向けて発し、その言葉が時間、それも「存在」としての時間であるかのようになのですが、これらのできごとの全体性から生じるものとして、「時の霊」あるいはアルカイが現れます。このアルカイを発生させるというイメージは非常に力強いものです。私たちの魂の前に置かれたこのイメージは、私たちを隠された知の領域へとますます深く齎すことができるようなイマジネーションにとっては、きわめて強い効力を持っているのです。私たちがイマジネーション、すなわち像の中へと受け入れるアイデアをこのようにして変容させるということは、私たちが成し遂げるべき事柄です。たとえ私たちが形成する像が原始的なものであったとしても、それらが擬人化されたものであったとしても、たとえ私たちが描写しようとするこれらの存在たちが翼をもった人物であったとしても、それは重要ではありません。それが問題ではないのです。私たちの努力につけ加えられる必要があるものがあれば、それが何であれ、最終的には私たちに与えられるでしょう。私たちのイマジネーションが有するべきでないものは消え去るでしょう。もし、私たちがそのような像の中に只管(ひたすら)浸るようにするならば、そのような活動そのものが私たちを実際にそのような存在の元へと導くことになるでしょう。もし、皆さんが、勇気に満たされ、叡智に満ち溢れた存在を特徴づけるという試みを受け入れることができるならば、魂がすぐに頼らなければならなくなるのは、理性によって形成される概念とはかけ離れた、ありとあらゆる種類の像であるということがお分かりになるでしょう。知性的な概念が存在するようになったのはずっと後のことです。いずれにしても、純粋に知性的な方法で「土星」存在に近づくべきではありません。超感覚的な能力が、知性的に方向づけられた人たちとは異なる仕方で、素朴な超感覚的能力から何かを描き出そうとする人物の心の中で展開するということが何を意味しているかを、皆さんは理解するようにしなければなりません。知性的な人たちの側からそのような心が適切に理解されるということは決してありません。そのような例を皆さんに示したいと思います。哲学・思想ランキング
2023年10月21日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅴベルリン 1911年10月31日 存在という観点を私しが記述したとおりのもの以外には、皆さんの周りには何もないと想像してください。実際、既に強調してきましたように、皆さんは、皆さんの「周囲」に何かがあるということはできないのです。皆さんが言うことができるのは、「そこに」それがあるということだけです。そのように考えるようにしなくてはなりません。さて、何かが点灯しているというイメージは全く正確というわけでありません。そのため、私は瞬間的な煌めきというよりも、どちらかというと燃えるような輝きと言ったのです。と申しますのも、あらゆることが同時に起こっているからです。何かがある瞬間に存在するようになり、別の瞬間に消え去るというようなものではありません。すべてが同時なのです。とはいえ、「意志の霊」とケルビームの間には結びつきがあるという感情を持ちます。彼らが相互にに関係しているという感情を持つのです。このことが意識されるようになります。そして、「意志の霊」、トローネが彼ら自身の存在をケルビームに捧げるということが意識されるようになります。これが「土星」を逆向きに辿るときに得られる最終的なイメージです。「意志の霊」がケルビームにこの供儀を捧げるというイメージを受け取るのです。それより先は宇宙がまるで「板張り」にされているかのようです。けれども、私たちが「意志の霊」によるケルビームへのこの供儀を経験する程度に応じて、何かが私たち自身の存在から絞り出され、押し出されて来ます。このことを言葉で表現するならば、「意志の霊」からケルビームにもたらされる供儀から「時間が生まれる」と言うことができ得ます。けれども、この時間は私たちがそれについていつも話しているような抽象的な時間ではありません。それは独立した存在です。この時点で、私たちは初めて、何かが始ま、ということについて語ることができるようになります。最初は、時間とは時間存在、完全に時間から成る存在なのです。時間だけから成る存在が生まれて来るのですが、この存在は「人格の霊」、私たちがヒエラルキア存在の中の「アルカイ」として知っているところの存在です。「土星」存在においては、「アルカイ」とは全くの時間なのです。私たちは彼らのことを「時間霊(時間を司る霊)」としても表現しました。彼らは霊として生まれてくるのですが、実際には、完全に時間から成る存在なのです。「意志の霊」によるケルビームへの供儀(くぎいけにえの動物あるいは人間を神霊などに捧げること)、そして、「時間の霊」の誕生に与(あずか)るということはとてつもなく重要なことです。時間が生まれた後で初めて、「土星」の状態、つまり、現在、私たちの周りを取り巻いているものに似た何かであるかのように語ることを私たちに許すような何か別のものが生じることになります。私たちが「土星」における熱の要素と呼ぶのはトローネによる供儀の煙であり、時間を生じさせるものです。私はいつも、「土星」は熱の状態として存在していると言って来ましたが、そのように言うことによって、そこに存在しているものを記述して来たのです。というのも、現在、私たちの周囲にあるすべての要素の中で、古い「土星」にも存在していた要素として、熱だけを認めることができるからです。熱は「意志の霊」がケルビームに捧げた犠牲から生じたのです。このことはまた私たちが火についてどのように考えるべきかを私たちに示します。私たちが火を見たり、熱を感じたりするところでは、今日の人間が当然のこととして習慣的にそうするように、それを物質的に考えるべきではないのです。むしろ、それは、私たちが火を見たり熱を感じたりするところではどこでも、今日においてもなお「意志の霊」によるケルビームへの供儀なのです。熱の精神的な基礎を私たちの周囲に見ることはできないとしても、それは存在しています。あらゆる熱の顕現の背後に立っているのは供儀であるという真実に世界が至るのはこの洞察を通してなのです。哲学・思想ランキング
2023年10月20日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅳベルリン 1911年10月31日 皆さんの思考形成能力が麻痺、すなわち、皆さんが思い出すことを可能にしているあらゆるもの、皆さんが行おうと計画しているあらゆるものが固まった棒のように麻痺したと想像してみてください。こうして、皆さんは、まるで皆さんの考えがしっかりと捕捉されて、もはやそれに触ることができないかのように感じます。この状態においては、皆さんは、皆さんが「以前に」経験した何かは、時間の中のある「時点」において生じたと云うことができません。皆さんはそれに結びつき、それはそこにあるのですが、それは完全に固定されているのです。時間が意味を成さなくなっているのです。時間は全く存在していません。ですから、「土星」、「太陽」、あるいはその他の存在について記述したわけですが、「土星」存在の前には何があったのかと問うことは無意味なのです。この文脈の中では、「前に」というのは無意味なのです。当時、時間は存在していなかったので、私たちは時間に関連したものを示すあらゆるものなしにやっていかなければなりません。「土星」存在というのは板張りされた世界の中にいる状況と似ています。思考は行き止まりになっているのです。超感覚的な能力も同様です。通常の思考はずっと前に置き去りにされています。それはそれほど遠くまで行けません。イメージ的に表現すれば、皆さんの脳は凍りついてしまいます。皆さんがもはや時間を包含しない意識についてのイメージに近づくことができるのは、皆さんがこの麻痺した状態を知覚できる程度においてです。ここまで来ますと、その全体像の中に生じる顕著な変化に気づきます。別のヒエラルキアに属する存在たちが、「意志の霊」とともに存在し、勇気からなる無限の海という時間のない世界であるところの麻痺の中に入り込み、活動するようになるのです。時間の不在が明らかになる正にその瞬間に、他の存在たちの活動に気づくのです。勇気からなる無限の海の内部に何かが存在しているのに気づくのですが、それは不明瞭な意識によってです。まるでそのことを経験しなかったかのようなのです。この広がりの中に何かが点灯するのですが、それは稲妻の素早い発光というよりは、明かりのようなものです。それは最初の差別化であるところのひとつの明かりなのですが、明るい光の印象を与えるような明かりではありません。皆さんは別の方法でこれらのことを理解するように努めなければなりません。例えば、次のようなことを想像してみるのもよいでしょう。皆さんは皆さんに何かを語りかける誰かに出会い、「この人物は何と知的なのだろう。」という感情を抱きます。この人物が語り続けるにつれて、この感情は強くなり、皆さんは「この人物は賢い、無限を経験している、だから、賢明なことがらを語ることができるのだ」ということに気づきます。さらに言えば、この人物は魅惑的なオーラを発散しているかのような感じを起こさせるのです。そして、この魅惑の要素が無限に強化されると想像してください。勇気の海の中に雲が現れるのですが、その中に、稲妻の光というよりは、正確にはきらめく放射が見られるのです。全体として、皆さんが想像することになるのは、今や「意志の霊」の内部で活動する存在、単なる叡智ではなく、放射する叡智の流れであるところの存在についてです。ここで、皆さんは、「ケルビーム」とは何かについて、超感覚的な知覚によるところの考えを持つことができます。つまり、「ケルビーム」とは、勇気の海に流れ込む存在たちのことなのです。哲学・思想ランキング
2023年10月19日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅲベルリン 1911年10月31日 宇宙の根底に横たわるものを把握するためには、それを概念において語ったり、それについての考えを作り出したりするだけでは不十分です。古土星存在を特徴づける無限の空虚に直面したときに経験するものの像を呼び起こすことの方がずっと重要なのです。そのとき、魂は恐怖の感情を、たとえそれがそれを暗示するものに過ぎないとしても、把握します。山のように高い場所におけるめまいの感情、しっかりとした足場もなく深淵の縁に立つときの感情、あるいは、自分ではどうしようもない力に圧倒されながらあちこちと振り回されるときの感情を再現することによって、この土星状態を超感覚的に見上げることができるようになるための準備をすることができます。これが最初の段階、初めの感情です。次に、足下の大地だけではなく、目で見るもの、耳で聞くもの、手で触るもの-周囲の空間中に存在するありとあらゆるものが失われます。そして、不可避的に、人はあらゆる思考を失い、一種の黄昏あるいは眠りの状態に沈み込むのですが、そこでは何も認識的に把握することができません。あるいはまた、人はあらゆる感情の中に浸り、そして、しばしば克服することのできないめまいの状態に捉えられ、死の状態に落ち込むことしかできなくなるのです。 今日の人間には、深淵を前にして恐怖に捉えられることに打ち克つために、ふたつの可能性があります。ひとつの確立された方法は、福音書の理解、ゴルゴダの秘儀についての理解を通過する道です。福音書を本当に理解する人、福音書について現代の神学者が語るような方法によってではなく、内的に経験することができるその最奥のものを吸収する人は、彼あるいは彼女とともにその深淵の中に何かを持ち込むのですが、それは、まるで一点から広がっていき、勇気の感情、ゴルゴダにおいて供儀を完成させた存在と一体になることを通して守られているという感情によってその空虚を完全に満たしていくような何かです。これがひとつの道です。もうひとつは、福音書ではなく、真の、真正な人智学によって精神的な世界に貫き至る道です。これもまた可能なのです。ご存じのように、私がいつも強調しているのは、私たちのゴルゴダの秘儀についての考察は福音書から始めるのではない、ということです。その理由は、たとえ福音書が存在しなかったとしても、私たちはゴルゴダの秘儀を見いだすはずだからです。このことは、ゴルゴダの秘儀が生じる「以前」には不可能なことでした。しかし、それが今日可能になったのは、精神的な世界を精神的な世界の印象そのものから把握することを人々に可能にするような何かがゴルゴダの秘儀を通して世界の中にやって来たからです。これは世界における聖霊の存在、宇宙的な思考による世界の統治と呼んでもいいようなものです。とはいえ、人はそのための準備ができていなければなりません。「記:宗教>神学=信教。秘学>霊学=神秘学」 私達が恐怖を呼び起こすような空虚に直面しなければならないときでも、福音書あるいは人智学を携えているならば、道を失ったり、無限の深淵の中に飛び込んだりすることはないでしょう。もし、私たちが「いかにして超感覚的な世界の認識を獲得するか」、そして、それに続く他の著作の中で紹介されている準備を経てこの幽鬼的な空虚に近づき、そして、精神的な世界、そこで生じるあらゆるものは私たちの感情は痙攣させ、私たちの思考を飲み込む状況に貫き至るならば、私たちは動物、植物、あるいは鉱物界における存在たちとは全く似ていない存在たちに出会うことになるでしょう。私たちが「土星」という存在、そして、そこには雲も、光も、音もないのに親和し、適応するようになれば、私たちは存在たちを知るようになります。実際、私たちは、私たちの呼び方で、「意志の霊」あるいは「トローネ(座)」と呼ばれる存在たちを知るようになるのです。私たちが具体的な現実として知るようになる「意志の霊」たちは、いわば波打つ勇気の海から構成されているのです。人間にとって最初は想像することしかできなかったものが、超感覚的な能力によって、具体的な「存在」となります。皆さんが海の中に浸されていると考えてみてください、そして、キリスト存在とひとつになり、キリスト存在によって支えられていると感じている精神的な存在としてその中に浸され、泳いでいるのですが、それは今や水の海ではなく、流れる勇気、波打つ力で構成され、無限の広がりを完全に満たす海の中なのです。それはただの無関心で未分化な海ではありません。そこでは、勇気の感情として記述することができるようなもののあらゆる可能性と多様性が私たちのところへとやって来ます。私たちがそこで知るようになるのは勇気から構成されている存在たちなのですが、全く個別化されているのです。彼らは完全に勇気から成っているとはいえ、私たちが出会うのは勇気だけではなく、具体的な存在としての彼らなのです。肉からなる人間と同様に現実的でありながら、肉ではなく勇気からなる存在たちに出会うというのは確かにおかしなことのように思われるかも知れません。しかし、然りそうなのです。私たちは正にこの種の存在であるところの「意志の霊」に出会い、そして、彼らに出会うとともに、それによって、「土星」存在について記述しているのです。と申しますのも、それこそ勇気から成る「意志の霊」によって表現されているものだからです。それが去りし「古土星」なのです。それは球のような形をした世界ではありません。六つの角も四つの角も持っていません。空間的な側面を適用できないのです。ですから、「古土星」存在には「終点」というものを見いだす可能性がありません。ここでも「泳ぐ」というイメージを用いたいのであれば、「土星」は海面を持たない海であると言うことができるかも知れません。その代わり、あらゆる場所で、あらゆる方向に、「勇気の霊」あるいは「意志の霊」が見いだされるのです。人はこのような洞察にすぐには到達しないのですが、何故そうなのかについては、後の講義で説明するつもりです。と申しますのも、ここでは以前に用いた「土星」から「太陽」、「月」という順番を用いようとしているのでが、本当は、反対の順番で超感覚的な方法で実際に知覚される順番、つまり、「地球」から「土星」へという方向に進む方がよいからです。しかし、今のところは、「土星」から「太陽」、「月」の順に特徴づけしていきたいと思います。順番そのものは重要ではありません。哲学・思想ランキング
2023年10月18日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅱベルリン 1911年10月31日 もし、私たちが自我をその真の性質において把握し、肉体を目の前に置くような仕方で、それを私たちの前に置くことができるとしたら、そして、肉体が目によって外的に見ることができ、感覚を通して知覚することができるものに依存し、栄養を必要とし、そして雲や山やその他のものを周囲の物理的な世界の中に見いだすのと同様の意味で、自我が依存している環境を見いだそうと努めるならば、つまり、もし、私たちが肉体についての文脈を知るのと同じ意味で自我にとって本質的な文脈を見いだそうと努めるならば、私たちは今日においても私たちの周囲に不可視的に浸透している宇宙の像あるいは絵巻物に至るのですが、それは古「土星」期の宇宙像と同じものなのです。言い換えれば、自我をそれ自身の世界において知ろうとする人であれば誰でも、古「土星」期の世界に似た世界を想像できなければならないのです。この世界は隠されています。つまり、それは人間にとって感覚知覚を超えた世界なのです。実際、私たちの現在の発達段階においては、その知覚を担うことは不可能なのです。それは境域の守護霊によりヴェールがかけられていることで、隠されたままになっているのですが、それは、そのような像を見ることに耐えられるためには、ある一定段階の精神的な発達が必要とされるからです。実際、人が最初に慣れなければならないのは、古土星が提示するような像を見るということです。皆さんは、何にもまして、一体どうすればそのような宇宙像を何か現実的なものとして経験することができるのかということについてのイマジネーションを形成しなければなりません。皆さんが感覚をもって知覚するあらゆるものを皆さんの思考から取り除かなければなりません。同様に、皆さんの内的な世界は魂の内部における潮の満ち引きから構成されていますから、皆さんはそれを捨て去らなければなりません。皆さんは世界に存在するものについての思考を消し去り、思考そのものもすべて解消するのです。感覚を通して知覚されるあらゆるものを外的な世界から取り除かなければなりません。つまり、皆さんは皆さんの内的な世界における魂や思考活動を消去しなければならないのです。このことを行った後、もし、皆さんが、この考えを本当に把握しようとするときに到達しなければならない魂の状態、あらゆるものが完全に取り除かれ、人間だけが残るということについての考えを形成したいのであれば、皆さんが言うことができるのは、私たちの周囲に口を開けている底なしの空虚、無限に続く無の恐怖に耐えることができなければならないということだけです。完全に恐怖に満たされた環境を経験できなければならないのですが、同時に、自分自身の存在の内的な堅固さと確かさによってこれらの感情を克服できなければなりません。魂におけるこれらふたつの傾向、存在の無限に続く空虚への恐怖とそれを克服することなしには、古土星存在がいかに私たちの宇宙存在の基盤に横たわっているかを暗示するいかなるものも経験することはないでしょう。今私が性格づけしたふたつの経験を人々が自分で発達させることは滅多にありません。また、この状態について書かれたものを見つけることも殆んどありません。もちろん、それを何年にも亘って超感覚的な力を用いて探求しようとしてきた人々はそれについて知っています。けれども、書かれたり出版されたりしたものの中には、人々が無限の深淵を前にしたときの恐怖やその克服について経験したということを示唆するものは実のところ殆んどないのです。私は、このことについての何らかの洞察を得る目的で、計りがたい空虚を前にしたときの恐怖らしきものが表現されている最近の文献を調査してみました。一般に哲学者はきわめて賢いので、概念については物知り顔にしゃべっても、恐怖を起こさせる印象については触れるのを完全に避けているのです。ですから、哲学的な文献の中に何かがこの問題について記録されているのを見つけるのは容易ではありません。何も見つけられなかった文献について今話すつもりはありませんが、それでも、ヘーゲル派の哲学者、カール・ローゼンクランツの雑誌の中に、この経験の残響のようなものを見いだすことができました。この雑誌の中で、ローゼンクランツ(Johann Karl Friedrich Rosenkranz/1805-1879)は彼がヘーゲルの哲学に没頭しているときに経験した非常に親密な感情を記述しています。私は彼が全くそれとは知らずに彼の雑誌の中に載せている注目すべき文章に出会ったのです。ローゼンクランツにとって全く明白であったのは、ヘーゲルの哲学はヘーゲルによる「純粋存在」の理解に基づいているということです。ヘーゲルの原則である「純粋存在」については、19世紀の哲学文献の中で、非常に多くの表面的なことがらが語られてきましたが、実際には、それはきわめて貧弱にしか理解されていません。19世紀後半の哲学がヘーゲルの「純粋存在」について理解しているのは、雄牛が1週間ずっと飼い葉を食べ続けてきた日曜日について理解しているのと同じ程度においてであると言ってもいいくらいです。「純粋存在」というヘーゲルの概念、存在の経緯ではなく存在するという状態そのものは、私が定義づけたような恐怖が流れ込む恐ろしい空虚のようなものと全くもって同じではありません。そうではなく、ヘーゲルの「存在」における空間のすべては人間が経験することができない特質、つまり、存在というものに満たされた無限の色合いを有しています。そして、カール・ローゼンクランツはかつてこれを、単なる存在以外の内容をもたない空間の宇宙的な広がりという恐ろしく打ちひしがせるような冷たさの状態として経験したのです。哲学・思想ランキング
2023年10月17日
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真相から見た宇宙の進化第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅰベルリン 1911年10月31日 去年の支部の夕べにおいて私たちが行った考察をさらに進めていきたいと思うのであれば、私たちがこれまでにお話ししてきたものとは別の何らかの概念、考え方或いは感じ方を自分のものとしなければなりません。それと云うのは、私たちが私たちの宇宙体系全体の発展を前提としない限り、人類が残してきた福音書やその他の精神的な文献について私たちが語るべきことがらは、それだけでは十分であるとはいえないと思われるからです。私たちはこの進化を私たちの惑星そのものが「土星」、「太陽」そして「月」の存在状態を通過し、ついには現在の「地球」としての存在状態を取るに至ったものとして記述してきました。私たちがこれらの基本的な原則にいかに屡々言及してきたかを思い出す人であれば、誰でもそれらが人類の進化に関するあらゆる秘教的な観察にとってもまたいかに必要なものであるかを知っています。けれども、もし皆さんが「神秘学概論」の中に記述されている「土星」、「太陽」、「月」、そして「地球」の発展段階に関する説明をご覧になるならば、そこに書かれていることは、たとえ拡張されているとはいえ、単なるスケッチに過ぎず、それ以外のものではあり得ないということを認めざるを得ないでしょう。それはある観点から描かれたスケッチに過ぎませんから。また、別の特定の観点から説明することもできます。と申しますのも、ちょうど地球の存在状態が詳細な内容を途方もなく豊かに提供するように、「土星」、「太陽」、そして「月」の存在状態についても、また、記録すべき無数の詳細な内容があるというのは当然のことだからです。とはいえ、これらの詳細についての大まかなスケッチや概要を描いてみせるということはいつでも可能なのです。ですから、今回の連続講義では、さらに別の面から進化の特徴を描いてみるということにならざるを得ないでしょう。私たちがこれらの説明すべてはいったいどこから来たのかと自らに問うとき、私達はそれらは所謂アカシャ年代記のアーカーシャあるいはアストラル光参入に由来するものであるということを知っています。私たちは、宇宙的な発展の経過の中で一度生じたことであれば、何であれ、アカシャ気質及びアカシャ実質と呼ばれる精妙な精神的実質の中に刻まれた印象を用いて、ある程度読みとることができるということを知っています。過去に生じたことがらすべてが残したこの種の刻印から、物事は過去にはどのように存在していたのかを聞き取ることができるのです。物理的な世界においては、私たちが何かを見るとき、私たちのより近くにあるものは、その詳細において、一般に明瞭とはしているけれども、それがより遠くになるにしたがってあまり明確ではなくなると考えることができます。物事が、時間的に、私たちにより近い場合にも、より遠く離れている場合に比べて、より正確な姿で現れてきます。超感覚的な能力をもって振り返るときも同様です。例えば、「土星」や「太陽」の存在状態は「地球」や「月」の発達期に比べてその概要はより不明確なものとなるでしょう。然し乍ら、一体全体何故そのようなことをする必要があるのでしょうか。何故、私たちは私たちの時代からそれほどまでに遠く離れている時代を追跡することを重要だと考えるのでしょうか。誰かが次のように問うかもしれません。「何故、この人智学者たちはそんな大昔のことを今さら持ち出すのか。私たちはそんなことに関わる必要は全くない。私たちには現在進行中のことが沢山あるのだから。」というように。しかしそのように言うのは間違っています。何故なら、時間の流れの中にかつて置かれたものは、今日においても、実りを迎え続けているからです。土星期の間に存在へと齎されたものは、単にその時代だけに、あるいは、その時代のためだけに存在したのではありません。当時起こったことは私たちの時代にまで影響を及ぼし続けているのです。とはいえ、それは人間をとりまく物理世界の中で外的に存在しているものとの関係においては、ヴェールをかけられ、見ることができないものとなっています。実際、はるか昔の古「土星」存在期に起こったことは今日では殆んど見ることができなくなっています。それにもかかわらず、いにしえの「土星」存在期は人類にとって今でも重要なのです。それが私たちにとって何故重要なのかを考えるために、次のことがらを私たちの魂の前に置いてみましょう。私たちは、私たちの存在の最奥の核は私たちが「私」と呼ぶところのものとして私たちの前に立つということを知っています。私たちの存在の最奥の核であるところのこの自我は今日の人間にとっては本当に実体がなく、知覚できないものとなっています。それがいかに知覚不可能なものになっているかということは、いわゆる「公的な」心理学の中で魂についてどのように語られているかを見れば推し量ることができます。それらはもはや自我を構成するものについてのいかなる考えも、あるいは、実際、そのような自我を示唆することができるかもしれないという考えすら持っていないのです。私は19世紀のドイツ心理学において「魂なき魂理論」という表現が徐々に使われるようになったという事実に注意するようにということを屡々言ってきました。ウイルヘルム・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt/1832年-1920年)の属する世界的に有名な学院ライプツィヒ大学は、ドイツ語を話す地域だけでなく、心理学について語られるところであればどこでも、大いなる尊敬を集めてきましたが、その学院が「魂なき魂理論」を流行らせたのです。この「魂なき魂理論」は、魂の特質を記述するにあたって、独立した魂の実存を前提としません。そのかわり、あらゆる魂の特質が最初に一種の焦点に集まるのです。つまり、自我の中へと集合するのです。かつて魂に関する理論に関連づけられたものの中で、これほどの愚考はありません。けれども、今日の心理学は完全にその影響下にあるのです。つまり、今日では、この概念は世界中で持て囃されているのです。将来、私たちの時代を研究するであろう文化歴史学者は、一体何故そのような理論が19世紀から20世紀に至るまで心理学の分野における最大の成果とまで見なされるようになったのかということを知るために、それらの仕事を切り抜きして利用することになるかも知れません。私がこのようなことを申し上げるのは、単に、「公的な」心理学が、自我すなわち人間の中心点に関して、いかに不明確であるかを指摘したかったからです。哲学・思想ランキング
2023年10月16日
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「キリスト存在について」Ⅹデュッセルドルフ 1909年4月18日夜 キリスト存在について考察すれば、宇宙の発達は単なる繰り返しではないということが分かります。新しい要素が入ってくるのです。人類が経験しているような人間の段階は、以前の天使、大天使、あるいは権天使の間で見られたようなものではありません。人類は世界の中で成就すべき全く新しい使命、私たちがちょうど今記述したような使命を有しています。人類が地球世界に降って来たのはこの使命を達成するためです。キリストは人類の自由な助け手としてやって来ました。上から働きかける神としてではなく、多くの中の最初に生まれたものとしてやって来たのです。ヒエラルキアを構成するメンバーとしての人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのはこのような方法によってのみです。私たちはより高次のヒエラルキア存在たちの高貴な本性と栄光を見上げて、自らに次のように言うことができます。「これらのヒエラルキア存在たちがいかに力強く、賢明で、善なるもの、したがって、真の道から逸れることができないとしても、世界に自由を齎すということ、そして、自由とともに、私たちが言葉の真の意味において愛と呼ぶところのものを齎すということこそが人類の偉大な使命なのだ」と。何故ならといえば、自由なしには愛は不可能だからです。特定の衝動にどうしても従うしかない存在たちは単にそうするだけですが、それ以外の方法が可能な存在にとって、それを可能にする唯一の力があります。そして、それが愛なのです。自由と愛は相互に属するふたつの極です。もし、愛が私たちの世界に入ってくるとすれば、それが可能になるのは自由によって、つまり、ルシファーとルシファーに打ち勝つ者、それはまた人間を救済する者でもあるキリストによってだけです。地球が愛と自由の宇宙であるというのはこの理由によりますが、重要なのは、私たちが、人類を謙遜から遠ざけようとすることなく、西洋の秘教においては絶えず知られてきたような一連のヒエラルキア存在たちに精通するようになるということです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネは神の眼差しの下で伝達される直接的な衝動に従います。叡智霊、運動霊、そして、形態霊は、より高次の力にまだ非常に密接に結ばれているため、人間の前進的な発達を可能にするための反抗命令を受け取らなければなりません。大天使や人格霊でさえ、間違いを犯したり、自らの自由な決意によって悪に陥ったりということができません。人間の直上に位置するヒエラルキア存在たちは伝達者たちあるいは大伝達者たちと呼ばれますが、それは、彼らが彼ら自身の仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を単に遂行するものであることを示しています。一方、人間は自分自身の仕事を遂行するように徐々に成熟していくヒエラルキア存在なのです。木星期、金星期、そしてヴルカン星期の発展を通して、人類は自分自身の衝動の成就に向けて徐々に成熟していくでしょう。今日、この目標はまだ遙かなものであるとはいえ、いつか人類はそれを達成するでしょう。 ヒエラルキア存在とは何でしょうか。私たちはセラフィーム、ケルビーム、そしてトローネから始めます。彼らは神から受け取った衝動を遂行することによってその権威を行使します。次に来る運動霊は、その力を上方から受け取ったものに負っています。そして、そのことは形態霊にも当てはまります。もし、彼らが悪の存在になるとすれば、神的な世界の決定の結果としてそうすることができ得るようになるに過ぎません。そして今、人間のすぐ傍まで降りてくる人格霊、大いなる御使い、そして御使いに至ります。人間はどのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのでしょうか。大天使と天使の後に続いてヒエラルキア的な位階の中に置かれるべきであるのは、「自由の霊」あるいは「愛の霊」とでも呼べるようなものです。上から下に数えるとすれば、これは「10番目のヒエラルキア」です。この「10番目のヒエラルキア」はまだ発達の途上にありますが、それにもかかわらず、霊的なヒエラルキアに属しています。宇宙においては、単なる繰り返しが問題なのではありません。ひとつの周期が完結するたびに、新しい要素が宇宙進化の中に導入されます。そして、その新しい要素を組み込むのは、いつも人間の発達段階にあるヒエラルキア存在の仕事なのです。 今回の講義では、人間の意味と重要性を、私たちの宇宙の意義を考察することによって、推し量ろうとしてきました。今日、私たちは、少なくともある程度は、人間存在の意義についての精神的な質問を投げかけました。そして、私たちは、秘儀の教えにしたがって、宇宙の真ん中にある点としての人間存在の重要性を確立しようと努めてきました。それを行う中で、私たちは中心の謎、つまり人間の謎を周辺から解明しようとしました。円周の観点から点の謎を解こうとしたのです。私たちはそうすることで、私たちの知識を現実の領域に置くことになります。これが、つまり、真の精神科学的な知識は現実的で具体的な知識でもあるという本質的な要です。言い換えれば、精神科学的な知識自体が宇宙と精神的なヒエラルキアの像を直接創り出すのです。私たちは宇宙の中心にいます。私たちの周囲にあるすべてのものは意義を失いますが、それは私たちが感覚で知覚可能な外的世界は私たちが直面する謎を解くことができないということを認めざるを得ないからです。それはまるで汎ゆる全てのものがひとつの点に濃縮されるかのようです。しかし、すべてが全体として圧縮するとき、宇宙の謎についての答えが、物質そのものと同様に力強く現実的なものとして、そして、それは精神的なものの反映であり、イメージなのですが、周辺部から再び戻ってくるのです。物質はそれ自体がお互いに寄せ集まり、中心で消え去るとともに、周辺において再び現れるのです。これが現実です。私たちの知識が現実的であるのは、それが宇宙全体の構造として、あるいはその過程として、私たちの目の前でその歩みを進めるときなのです。そのような知識はもはや思い付きがかたちになったもの、空想的な理論の織物ではありません。何故なら、そのような知識は宇宙から生まれてくるからです。私たちが発達させるべき感情とはこのようなものです。叡智は私たちの理想にならなければなりません。それは宇宙の周辺から生まれて、大いなる力で、つまり、私たちが私たち自身の運命を成就し、私たち自身の宇宙的な理想を達成することを私たちに可能にするような力で、私たちを満たすことができる叡智です。この力があれば、未来に私たちを待ち受ける人類の理想を現実のものにする、ということもまた私たちには可能となるでしょう。(了)哲学・思想ランキング
2023年10月15日
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「キリスト存在について」Ⅸデュッセルドルフ 1909年4月18日夜 皆さんは、キリスト教の教義、キリスト教の中で教えられることのすべて、キリスト教の教えのすべてを記述することができ、他の宗教体系の中にもそれを見い出すことができます。このことを否定することはできません。確かに、キリスト教の教えの本質はそれ以外の体系の中にも含まれているとい云うことができるのです。けれども、キリスト教が有効であったのは、その教えの内容を通してだけだったでしょうか。キリスト教を広めるために最も多くのことを為した人物は、その教えに頼ったのでしょうか。使徒パウロについて考えてみてください。彼がサウロからパウロへの変容を彼自身に作用させたのは聖書の中に書かれていることことがらによってだったでしょうか。彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロが、キリストは「生きている」という事実についての彼自身の個人的な神秘体験を持つまで、キリスト・イエスの追従者たちを迫害していたのです。その死の影響、その行為の効果がパウロにとっての促進的な衝動となったのですが、それが問題なのです。他の宗教体系はその教えを通して働き、その教えはキリスト教の中に見いだされるものと同じです。しかし、キリスト教においては、教えが重要なのではありません。問題は、生じた「行い」なのです。キリストの行為がある人に働きかけることができるのは、その人がそれを有効にしようと決意したとき、つまり、個々の自我の絶対的に自由な本性とその行為とがひとつに結びつけられるときだけなのです。人間のアストラル体の中にキリストが存在するというだけでは不十分なのです。キリストは、真に理解されるためには、自我の中に存在しなければなりません。そして、自我はキリストを受け入れることを自由に決断しなければならないのです。これが重要な点です。けれども、自我が自らをキリストに結びつけることの結果として、この人間の自我は、自らの内に、現実を、つまり、単なる教えではなく、神的な力を、獲得するのです。ですから、キリスト教の教えは既にあちこちで見いだすことができる、しかし、それが問題なのではないのだ、ということを何百回でも示すことができるでしょう。キリスト教の本質的な側面はより高次の世界への自発的な上昇を通してのみ自分のものとすることができるところの行為なのです。人間がキリストの力を自分の中に受け入れるのは、それを喜んで受け取るからであり、それを自発的に受け取らない人は、誰もそれを受け入れることができません。このことが人間にとって可能になったのはキリストが地上で人間となってから、つまり、彼が地上で人間になるように召還されてからです。 ルシファー的な存在として地上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違います。実際、彼らは「月」の上で人間になるべきだったのです。しかし、彼らはその進化の途上で取り残されました。その結果、彼らはアストラル体に浸透することができるのですが、自我に接近することはできません。彼らは異常な状況にあるのですが、それは、多少学者ぶったものに見えるかもしれませんが、ただ図式的に表現できるだけです。レムリア進化期における人間のアストラル体を、エーテル体と肉体は無視して、この円で表現してみましょう。自我は徐々にアストラル体の中に入っていき、このアストラル体の内部に包み込まれることになります。次に何が起こるでしょうか。レムリア期を通して、ルシファー的な力がアストラル体のあらゆる側から忍び込んで来たのですが、それはその活動を通して人間に浸透することになりました。それらは人間において、低級な熱情として表現されます。人間が間違いや悪を犯す可能性はアストラル体の中に組み込まれました。つまり、ルシファー的な精神がその可能性を私たちに導入したのです。もし、そうでなかったとすれば、私たちは決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかったでしょう。そのかわり、私たちは、妨害的な影響を受けていない自我を受け取ったであろう領域へと引き上げられていたことでしょう。そのようなルシファー的な力がアストラル体のあらゆる側から忍び込んで来た状況において、人類の偉大な指導者たちは、私たちがあまりに深く沈み込んでしまわないように、人間を守りました。 そして、キリスト事件が起こりました。キリストを自発的に受け入れた人を取り上げてみましょう。勿論のこと、キリスト教の教義は未だ初期の段階にありますが、理想的な状況を取り上げましょう。つまり、人間の自我が完全な自由意志によってキリストの力を自分の中に流れ込ませたと考えてみましょう。自我が進歩してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファー的な力による行いの中に流れ込みます。そのとき、未来においては何が起こるのでしょうか。キリストの助けによって、そして、彼の助けによってのみ、私たちはルシファーから進み出る私たちの中の「あの性質」をうち消すことができるようになり、同時に、そのルシファー的な力を徐々に解放することができるようになるのです。ルシファー的な力は、人間の自由のために、進化のより低次の段階へと沈んでいかなければなりませんでしたが、そのため、地上ではキリストの力を経験することができませんでした。そのルシファー的な力が、人間を通して、キリストの力を経験し、それによって救済されるときが来ます。人間は、もし、適切な仕方でキリストの力を受け入れるならば、ルシファーを救済することになるのです。その結果、人間は、そうしなかった場合に比べて、より強くなっていることでしょう。もし、人間がルシファー的な力を受け取っていなかったとしたらどうでしょうか。キリストの力は流れ込んでいたでしょうが、ルシファー的な妨害には出会わなかったことでしょう。私たちは、私たちがこれらの相殺的な力を一度は克服しなければならなかったことで、今、可能となった程度にまでは、善、真理、そして叡智において発達することはできなかったでしょう。人間はヒエラルキア存在のひとつですが、他の存在とは異なっています。セラフィーム、ケルビーム、トローネ、主天使、運動霊、形態霊、人格霊、火の霊、そして、天使の一部とも異なっているのです。未来をのぞき見て、人間は次のように言うでしょう。「私は私の行為に向けた衝動を、私自身の内的な存在の最奥の部分において追求するように求められている。例えばセラフィームがそうであるように、神についての思索からではなく、私自身の内的な存在からそうするのだ」と。キリストは、その衝動には従わなければならないというような仕方で働く神ではありません。人がキリストに従うのは、ただ理解と自由からそうするだけです。キリストとはあれこれの方向に発達しようとする自由で個別的な自我を妨げることを決してしない神のことです。キリストは言葉の最も深い意味で次のように言うことでしょう。「お前は真実を知るであろう。そして、真実はお前を自由にするであろう」と。そして、次のヒエラルキアに属する存在たち、悪を行う可能性のあるルシファー的な存在たちは、人間の力によって、再び救済され、自由にされることでしょう。哲学・思想ランキング
2023年10月14日
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「キリスト存在について」Ⅷデュッセルドルフ 1909年4月18日夜 人間の自我獲得以前の時代においては、いかにより高次の存在たちが下降し、人間の肉体、エーテル体、そして、アストラル体に魂を吹き込んだかということを述べたのを覚えておられますね。さて、時の流れにおけるある特別な瞬間に、最も気高い存在、かつては太陽存在に結びついていたけれども、今や、自我に、つまり、自我が有するあらゆる力の中にまでインスピレーション的に働きかける存在を自らの中に受け入れるために選ばれていたある個人的な存在が立ち現れたのです。自我は血を通して自らを表現します。ちょうど血が物理的な実質における自我の表現であるように、血の暖かさ、あるいは体熱は、それは土星の火の名残なのですが、元素における自我の表現なのです。この存在は二重の仕方で自らを物理的に表現しなければなりませんでした。火の元素の中で、その存在は燃える林とシナイ山上の稲妻において自らをモーゼに告げ知らせました。その存在は人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴からモーゼに語りかけることができたのです。この存在はその暁を準備した後、血に浸透された身体、ナザレのイエスの体の中に現れました。この太陽存在は地上的な個人の中に入り込んだのです。人間の自我は、そのときにそれに浸透した力によってますます充たされ、飽和されるようになるでしょう。それによって、この自我は、それ自身の力を通して、それを引き摺り下ろす力を持ったあらゆる影響をますます克服できるようになるでしょう。何故なら、人間の自我に浸透したこの存在は、以前に地上に下降し、肉体、エーテル体、そしてアストラル体に魂を吹き込んだ他の存在たちとはその性質において異なっているからです。 古代の聖なるリシ(聖仙/Rishi、伝説上の聖者あるいは賢者達たち)について考えてみましょう。既に見てきたように、高次存在の精神は彼らのエーテル体の中に住んでいましたが、それは、あの崇高な存在がその中に住んでいた偉大なアトランティスの祖先たちから聖なるリシたちが引き継いでいたのはそのエーテル体だったということによります。それは彼らに伝えられましたが、リシたちは彼らのエーテル体のインスピレーション(直感・直覚/Inspiration)を通して流れてくるものをその自我とアストラル体をもってしては理解することができませんでした。時代から時代へと続く流れとはそのようなものだったのです。人間はインスピレーションを受け取ってきましたが、彼らがインスピレーションを受け取るときにはいつも彼らの中に何か力のようなものを経験したのです。インスピレーションとは、いわば力をもって捕まえるような何かだったのです。そのような場合には、自分で何とかするという通常の人間的な力はいくらか退いていました。その人間が前進し、改善するためにはより完全な存在からのインスピレーションを受ける必要があったのです。宗教の創始者たちはすべてこのような状況にありました。天上の戦いから超越していた存在たちが宗教的な創始者たちの中に吹き込まれていたのですが、そのことによって、人間たちが自分自身の能力だけに頼るというようにはなっていなかったのです。けれども、キリストにおいては非常に異なった本性の存在が現れました。それは、絶対的に何も行わない、つまり、人々を彼のところにもたらすためにほんの僅かな強制力さえも行使しないという存在だったのです。これが主要な点なのです。もし、皆さんがキリスト教の伝播について考えてみるならば、皆さんは、キリストがキリスト教の布教において生じたところのものをその生涯においては何も為さなかったということについての生きた証拠を見いだされるでしょう。古代の宗教創始者たちについて考えてみてください。彼らは偉大な人類の教師たちです。彼らは彼らの発達におけるある特定の瞬間から教えを伝え始め、そして、彼らの教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけます。今、キリストについて考えてみてください。実際、キリストはその教えを伝え続けるでしょうか。キリストの主要な貢献がその教えにあると考えるならば、その人はキリストを本当には理解していません。少なくとも第一義的には、キリストはその教えではなく、その行いを通して働きかけました。そして、キリストの最も偉大な行いとは、彼の死によって終わった行いのことです。それは実際、彼の死だったのです。これが最も重要な点です。キリストは行いを通して働きかけました。そして、この行為についての知識が世間に広まり始めたとき、彼はもはや物理的には存在していなかったのです。これがキリストの効果と他の偉大な宗教創始者たちの効果との根本的な違いです。この違いは理解するのが全く困難なものですが、最も重要な違いなのです。哲学・思想ランキング
2023年10月13日
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「キリスト存在について」Ⅶデュッセルドルフ 1909年4月18日夜記:ミカエル(Michael)*ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の天使の名。旧約聖書ではイスラエルの守護天使とされ(ダニエル書)、新約聖書ではサタンとの闘いを指揮する(ヨハネの黙示録)。西洋美術ではガブリエルと並んで、最も多く登場する天使であるが、啓示の天使ガブリエルとは異なり、その役割から,武装した青年の姿をとって描かれることが多い。初期キリスト教美術や中世美術の作品では、左手に盾を持ち、竜の姿をしたサタンを槍で突こうとする図像が多く見られる(ライプチヒ工芸美術館所蔵の象牙板浮彫/9世紀)。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版*ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の大天使。「誰が神のごとくあろうか」の意。イスラエルの守護者(ダニエル書10)で、天使の大軍を率いてサタンと戦った。美術では若い男性として表され,祝日は9月29日。出典 百科事典マイペディア 「ミカエル」の意味・わかりやすい解説 天上の戦いの図は様々な形で私たちの魂の前に提示されます。それはまずミカエルと龍の間の戦いとして表現されているのが見いだされますが、ミトラ教の雄牛の図の中にも非常に明白に表現されているのが分かります。けれども、それらは、これらの天使存在たちは自らの義務を放棄したということを云うために表現されたのではありません。それらによって意図されていたのは、未来のための理想を描くということです。そこで云われていたのは次のようなことです。これらの存在たちはむしろ精神的な世界に上昇することを好んだが、「お前たちは妨害的な力たちに従った別の存在たちと共に下降した。今、お前たちが取り入れたものに働きかけ、それを精神的な世界へと運び上げるかどうかはお前たちにかかっている。上方に向かう道上で、お前たちはミカエルの行動や雄牛の征服者になるように求められる。」この種の象徴はこのような二重の意味で説明されなければなりません。ですから、お分かりのように、人類が自分自身の力でその目的を達成する可能性、それはセラフィームでさえ彼ら自身の努力によっては達成することができない何かです。それを与えられたのは運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他なりません。最も重要なのはこの事実です。セラフィーム、ケルビーム、トローネたちには神によって彼らに与えられた直接的な衝動に従う以外のことはできません。主天使たち、実際には、第二ヒエラルキア全体も同様です。ただ運動霊の位階に属するものの一部が反抗する命令を受けただけです。彼らが発展の道筋を横切るように身を投げ出したときにも、彼らには神の命令に従う以外のことはできなかったのです。「悪の源泉」とでも呼べるようなものを引き起こすときでさえ、彼らはただ神の意志を遂行したにすぎません。自らを悪の僕とすることによって、これらの運動霊たちは、悪という回り道によって、善を強化しようとした神の意志を達成したのです。さて、能天使あるいは形態霊と呼ばれる存在たちにまで下ってみましょう。彼らも同様に自ら邪悪になることはできませんでしたが、このことは人格霊(アルカイ)や火の霊(大天使)にも当てはまります。と申しますのも、後者が太陽の上で人間の段階を通過していたときには、運動霊たちはまだ反抗命令を受けておらず、まだ、悪になるといういかなる可能性も存在していなかったからです。この、悪になるという可能性を最初に有したのは天使たちですが、それは、この可能性が存在するようになったのはただ月の進化段階以降であったということによります。「天上の戦い」は太陽から月への移行期に起こりました。多くの天使たちがこの可能性、障害を導入することを運命づけられた力にいわばそそのかされるということを拒否しました。彼らは以前の本性に対して真実でありつづけました。このように、天使に至るまで、そして天使の一部もまたそうなのですが、より高次のヒエラルキア存在たちには神的な意志に従う以外のことはできないのです。これが最も重要なことです。ですから、二種類の存在たちがいるということが云えます。第一に、運動霊たちが「天上の戦い」の間に生じさせていたものの中に自らを投げ入れたあの天使たちがいます。これらの存在たちは、彼らの後の行いによって、ルシファー的な存在と呼ばれます。彼らは地球進化の間に人間のアストラル体に働きかけるようになり、悪の可能性を導入しましたが、同時に、自分自身の自由な活動を通して、自ら発達する可能性を導入したのです。ですから、ヒエラルキアの位階全体を通して、私たちが自由の可能性を見いだせるのは、天使の一部と人間の中においてだけなのです。自由の可能性は天使の位階において始まりますが、それが十分に発達させられるのはただ人類においてだけです。人類が地球へと降ってきたとき、人間たちは最初、ルシファーの大群による圧倒的な力の餌食にならざるを得ませんでした。これらの大群がその力によって人間のアストラル体に浸透した結果、自我はその力の領域の中に絡め取られました。レムリア期とアトランティス期の間、そして、その後の時代においても、自我がルシファー的な影響によって生じた雲の中に包み込まれているのが分かります。人間がこのような弱体化させるような力によって圧倒されることから守られたのは、以前の存在たち、上方に留まった天使や大天使が人間に影響を及ぼし、人類を指導するために選ばれた人物たちに受肉したからに他なりません。このことはある重要な出来事が起こった時まで続きました。以前にはいつも太陽存在と結びついていたある存在が、より高次の存在たちがかつてそうであったように人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体に浸透できるだけではなく、その自我に至るまで人間に浸透できるほどに進歩したのです。哲学・思想ランキング
2023年10月12日
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「キリスト存在について」Ⅵデュッセルドルフ 1909年4月18日夜 「抵抗命令を受けた」運動霊にとっては、発達の過程は仲間の運動霊のそれとは非常に異なったものになりました。彼らの活動の影響が非常に異なったものになったことで、「月」の発達過程において、これらの運動霊たちは私たちが「天使」と呼ぶ存在たちの誘惑者となりました。「月」の進化段階において、「天使」たちは人間の段階を通過していました。発達過程における障害の影響を目撃した「天使人間」が「月」の上にいたのです。彼らは自らに次のように言いました。「我々は今これらの障害に立ち向かっていくことができる。「月」進化の流れの中に飛び込むことができる。しかし、我々はそれを差し控えたい。その中に飛び込むのではなく、善き神々と共に上方に留まることを選ぶ」と。これらの天使存在たちは、下方で月の段階が進展する間、その発達の中に障害をもたらした運動霊たちから自らを引き離しました。ところが月の上には、「私たちは彼らには追従しない。何故なら、もし、そうしたとすれば、発達の形式は元に戻り、何も新しいことは起こらないだろうから」と自らに言う別の天使人間たちがいましたから。確かに、月の発達段階以降、何らかの新しいことが導入されたのは、正に障害が存在していたからなのです。次のように云う存在たちがいました。「私たちは下の方で起こっていることに何も関わりたくはない。私たちは劣った者たちとの交流を望まない運動霊たちとともに留まる」と。これらの存在たちは、古い月の発達が続いている間、月の塊から離れて、太陽の中で生じていた汎ゆることがらに追従する者たちとなりました。彼らは、障害が存在するために放り出されていた月の上で生じていた事柄に関わることを望まなかったのです。しかし、中に飛び込んだその他の者たちは、月の上に発達上の障害が存在していたために、彼らが受け取ることになった汎ゆるものを彼らの肉体的な本性の中に取り込まなければなりませんでした。彼らは、もし、そうでなかったとしたら、そうなっていたであろうよりも、もっと自らを硬化させなければならなかったのです。彼らの肉体的な鞘はより濃密なものになり、運動霊による行いの結果をその体の中に担うことになりました。とはいえ、運動霊あるいはデュナミスの行為は神的な宇宙計画の中に確実に基礎づけられたものであったということは覚えておかなければなりません。これらの事柄すべてはさらに次のような結果を齎します。月の進化が地球の進化へと移行したとき、その過程全体がある意味で繰り返されました。月進化の潮流のただ中に自らを投げ入れたあの存在たちは、それと関わりを持とうとしない存在たちに遅れを取ることになりました。また別の存在たちはさらに遅れをとることになったのですが、それは彼らが「退行する進化」に魅了されたからです。ですから、これらのことが起こった結果、地球進化の期間は二種類の天使人間が存在することになりました。先行していた天使人間たちと、後に取り残された天使人間たちです。先行する天使人間たちはレムリア期になると人間への働きかけを開始したのですが、それは人類が人間自我の種子を受け取ることができるまでに成熟していたからです。彼らは人類にいわば選択肢を提示したのですが、それは、月の発達段階以来、宇宙進化の過程に紛れ込んでいたものとはもはや関わりを持たず、精神的な世界に直ちに上昇するというものでした。私たちがルシファー的な存在と呼ぶところの、後に取り残されていた存在たちは、自我にまで至らない人間のアストラル体への働きかけ、「天上の戦い」を開始するとともに、その結果を人間のアストラル体の中に注入しました。運動霊たちが反抗命令を受けて「天上の戦い」に参加し、「障害の神」となったことから、その行為の結果が人間のアストラル体の中に侵入したのですが、そこではそれは別のより重要な意義を持つことになりました。と申しますのも、そこでの結果は、過ちと悪の可能性に相当しているからです。こうして人間は間違いを犯す可能性と悪の可能性を与えられたのですが、それと同時に、自分の力で間違いと悪を乗り越えて上昇する能力をも受け取ったのです。第二ヒエラルキアに属する運動霊やデュナミスのような存在(可能態)にとっては自ら悪となる可能性は全くなかったのです。彼らは反逆するように命令されたのだということを考えてみてください。ただ第三ヒエラルキアに属する存在、つまり、人間に最も近い天使だけが、妨害的な運動霊につき従うことも、あるいはつき従わないこともでき得たのです。屈服しなかったものたちは天上で戦い取られた勝利を描く絵の中に表現されています。それらは人間がアストラル体への受肉、つまり動物人間の段階にまで進んでいた月の進化段階の間に生じることになったものを表現していると考えられます。純粋なままに留まった天使存在たちは、いわば月進化の過程から自らを引き離し、下方の月上で起こっていることを免れたのです。哲学・思想ランキング
2023年10月11日
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「キリスト存在について」Ⅴデュッセルドルフ 1909年4月18日夜 キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイ、あるいは叡智霊、運動霊、形態霊と呼ばれる次のヒエラルキアにまで降りてきますと、彼らはもはや神を直接見ることはないと言わなければなりません。彼らには、神をその直接的な形態において、つまり、神そのものを見るということはもはやないのですが、彼らは神の顕現を、つまり、こう言ってよければ、その表象を通して神が自らを現すのを見るのです。その表象が神であることは彼らにとって明らかです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネと同様、彼らもまた神によって顕現されたものを実行するための直接的な衝動を受け取ります。その衝動は全く強力であるというわけではありませんが、それでも直接的なものです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとって、神の命令と見られるものを実行しないという可能性はありません。それは考えられないことなのです。何故ならそれは彼らが神の近くにいるためです。加えて、キュリオテテス、デュナミス、そしてエクスシアイにとっては、神自身によって意志されないことを行うということもまた同様に問題外のことなのです。とはいえ、世界がさらに進化していくためには、そこに何か非常に特別なことが介入しなければなりませんでした。 さてここで、神秘学的な叡智においてある程度の進歩を達成した人たちにさえ理解するのがいつも困難であったようなテーマを紹介しようと思います。古代の秘儀においては、次のような仕方で、それを理解可能なものにしようとしました。古代の秘儀への参入におけるある特定の段階で、弟子は残虐で恐ろしい形相をした敵対的な力が存在するところへと導かれたのです。そして、その力は、弟子の目の前で、考え得る最も恐ろしい所行を遂行しました。これらのことを行ったのは、他ならぬ仮面をかぶった司祭、仮面をかぶった聖人たちでした。必要な試みを生じさせるために、司祭たちは恐ろしい存在として、幽鬼的な姿に仮装し、考え得る最も恐ろしい所行を遂行したのです。これは何のためだったのでしょうか。秘儀参入者、司祭が悪を行うものの姿で、悪の仮面をかぶって弟子の前に現れたのは何故でしょうか。発達というものが、正しい道からいかに遠く逸れてしまうものかということを弟子に示すためです。弟子は悪に直面して立つという幻想を抱くようにさせられました。仮面が取られたとき、弟子は初めて真実を見ました。幻想が取り払われたときに初めて、弟子はその場面が試験あるいは試みを創り出すための手段であったことを知りました。弟子を悪に対して強化し、武装させるために、当然のことながら過ちを犯すはずのない司祭によって、それは最も忌まわしい姿で示されたのです。これは宇宙進化の中で実際に生じたことがらの反映に過ぎません。木星進化と火星進化の中間段階に当たる時代を通して、いささか浅薄な表現をしますと、デュナミスあるいは運動霊の領域に属する一団の存在たちに対して「反抗命令」が出されました。彼らは、前進的な影響を及ぼす代わりに、進化の過程に障害を生じさせるように配置されたのです。このことは「天上の戦い」として私たちに知られるようになりました。これらのいわば「反抗する命令」を受けた運動霊たちの行為は進化の道を横断して投げつけられたのですが、それは、ヒエラルキア存在たちを支配する宇宙の力が自らに、もし、道がなだらかであったとすれば、存在することになるように意図されたものは決して生じないだろうと言ったからです。何かもっと偉大なものが生じなければなりません。 さて、皆さんが荷車を押し、そして、それを前に押すことで、一定の力を発達させると想像してみてください。もし、皆さんが荷車に重い荷物を積むとすれば、皆さんはより強く押さなければなりませんが、そのために皆さんはより大きな力を発達させることにもなります。神が宇宙進化の過程を木星期に至るまで、そしてそれを越えて進めようとしたと想像してみてください。確かに人間はよく進化したかも知れませんが、その進む途上に障害が置かれたとしたら、さらに強くなることもあり得ます。ですから、ある種の運動霊たちが反逆命令を受けなければならなかったのは、人間をよくするためだったのです。当初、彼らは悪の存在ではありませんでした。彼らを悪の力と見なす必要はありません。むしろ、彼らは発達の道筋の上に障害を置くために自らを捧げたと言ってもいいでしょう。ですから、これらの運動霊は、言葉の最も広い意味で、「妨害の神」あるいは「抵抗の神」と呼ぶことができます。これは発達の道に沿って置かれた障害あるいは抵抗の神たちなのですが、それが置かれた瞬間から、未来に達成されるべきあらゆることがらが成し遂げられる可能性が生じたのです。これらの抵抗命令を受けた運動霊たちはまだ彼ら自身が悪の存在であるというわけではなく、反対に、通常の発達過程に反抗することで、彼らは進化の偉大な促進者となったのです。とはいえ、彼らが創り出した嵐の中から次第に悪が生じたために、彼らは悪の創始者となりました。哲学・思想ランキング
2023年10月10日
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「キリスト存在について」Ⅳデュッセルドルフ 1909年4月18日夜「霊的ヒエラルキーとその物質界における反映第10講」 私たちの惑星の形成は古い土星から始まりました。本当にそれはそのように始まったのです。そして、その形成は木星に至るまで継続しました。木星上で全体的な創造が始まったとき、周辺にいる存在たちのすべてもまたその過程に参加しました。けれども、ちょうど内部の存在たちが惑星系を開始し、彼ら自身の発達を継続するために働いたように、外側にいる存在たちもまた周辺から内に向かって働きかけました。ある種の存在たちが中心から外側へと退いたように、外なる宇宙空間の中にいたあの存在たちも同じことをしました。周辺にいた一定の存在たちもまた退いたのです。木星自体が縮小するにしたがって、退いていた存在たちは圧縮して天王星を形成したのです。同様に、火星進化の間には、退いていた存在たちは縮小して海王星を形成しました。天王星や海王星といった名前は、このようなことがらに対して古代人たちが相応しい名前をつけたような仕方ではもはや選ばれてはいませんが、それでも、天王星という名前にはまだ重要な何かが残されています。それは、正しい名前をつけるプロセスに関して、人がまだ何かを気付かされていた時代に名づけられました。ですから、私たちの惑星系を越えて存在するあらゆるものは、集合的に「天王星」という名前をもって表現されたのです。このように、この二つの惑星を私たちの近代天文学はその他の惑星と同列に扱いますが、実際には、この二つの惑星は、全く異なる基盤の上に立っており、私たちの世界の形成には特に関係していないのです。それらは、古い土星期の間には私たちとまだ何らかの関係を持っていた存在たちが退き、宇宙の周辺を越えたところにその住む場所を確立したことによって生じた世界を表現しているのです。このことから、例えば、これらの惑星が退化してゆく月を有しているというような多くの事実を導き出すことができます。 私たちはここまで、私たちの太陽系が存在するに至った過程を大まかに概観してきましたが、次のような疑問、つまり、実際には私たちの人間としての祖先であるところのより高次のヒエラルキア存在たちとの関係で、人間はどのような位置にあるのかという疑問が生じました。私たちは最高位にある存在、セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネから始めることができるでしょう。実際、それらの本性を特徴づけることによって、私たちは人間についての正しい考えに至ることができます。しかし、私たちがセラフィームを越えて行くときには、たちまち聖なる三位一体の領域に入っていくことになります。これこそが、セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネが有している特別なこと、宇宙における他の存在たちには手の届かないことです。つまり、彼らには「神を直接見ること」と呼ばれるものが与えられているのです。彼らは人間がその発達の過程を通して徐々に追い求めなければならないものに初めから与っているのです。私たちは、人間として、「思考、意志、その他のますます高い力を達成するために、私たちは今日いる場所から始めなければならない。もし、私たちがこれを行うならば、私たちはますます神の側に近づき、神はますます私たちと共にいるようになる。こうして、私たちは、私たちにはまだ隠されているものに向かって自分を発達させなければならない。つまり、「神性」へと近づかなければならないのだ。」と言います。一方にはセラフィーム、ケルビーム、トローネがいて、片方には人間がいますが、これらの間の相異とはこのようなものなのです。精神的なヒエラルキアにおけるこれらのより高次の存在たちは、彼らの発達の最初から、神であるところの聖なる三位一体と共にありました。彼らは正に最初から「神性」を見る位置にいることができたのです。セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとっては、人間がそこに向かって進まなければならない条件が初めからそこにありました。これらの存在たちは初めから神を見ていたということ、そして、その命がある限り、彼らはいつも神を見ているだろうということに気づくことはとても重要なことです。彼らが成し遂げることはすべて神を見ることを通して行われ、神は彼らを通して働きます。彼らの行いがそれとは別様に為される可能性はありません。彼らにとって、それ以外のことを行うのは不可能なのです。神を見るということは強大な力と影響を彼らに及ぼすので、彼らは神が間違いようのない確かさと直接的な衝動をもって命じることを成し遂げます。熟慮とか判断というようなものに似たものは、これらの存在たちの領域には存在していません。彼らには、見たものを実行するための直接的な衝動を受け取るために神が命じるところのものを見るということだけが存在しているのです。彼らは神をその本当の姿において、その通りのものとして見ます。彼らは自分たちを単に神の意志と叡智を実現するものとして考えています。最高次のヒエラルキアが置かれている状況とはこのようなものなのです。哲学・思想ランキング
2023年10月09日
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「キリスト存在について」Ⅲデュッセルドルフ 1909年4月18日夜「霊的ヒエラルキーとその物質界における反映第10講」 精神的な観点からまず考察しなければならないのは、個人の進化ということです。レオナルドダビンチは、彼が達成したものによって、さらなる高みへと上昇しました。それが彼の上昇を構成しているのです。私たちが自分に問いかけるのは、偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や偉大な衝動は地球の未来にとって何らかの意義があるのかということです。未来は地球を灰燼に帰し、男たち女たちが土から創り出したあらゆるものは、地球という惑星がもはや存在しなくなったときには、消えてしまうのでしょうか。皆さんはケルンの大聖堂(Dom St. Peter und Maria)を賛嘆します。それほど遠くない将来、たったひとつの石が別の石の上に残っているということもないでしょう。このことは、人類がケルンの大聖堂というものを石の中に体現したということは地球全体にとって無意味であったということを意味しているのでしょうか。私たちは今、人間が自分と一緒に地球から持ち去るものについてではなく、地球そのものについて考えています。惑星というものは、実際、その進化の過程でますます小さくなっていくものです。それは縮むのです。それは惑星の物質的な部分の宿命なのですが、それで話が終わるわけではありません。それは、いわば肉眼や道具によって観察され得る部分に過ぎません。物質にはそのようにして観察され得るものを越えて行く進化もまたあるのです。私は今、この点を越えていく物質の進化について考察したいと思いますが、それによって私は、現代人には理解が難しく、ほとんど理解不可能であると私が先に述べたところのものへとやって来ました。地球は絶えず縮小しているのです。物質は周囲のあらゆる面から中心に向かって押しつぶされています。さて、当然のことですが、十全なる意識に基づいて、力の保存測があると言うことができます。けれども、同じように十全なる意識に基づいて、あらゆる神秘家に知られている別の事実、つまり、物質はますます中心へと圧縮している、そして、何と中心点へと消え去っているという事実があると云うことができるのです。ひとかけらの物質がますます中心へと圧縮され、そこで消え去ると想像してみてください。それは別の側に押し出されているのではりません。中心点で、それは実際に無の中へと消え去っているのです。言い換えれば、地球は、その物質的な側面が中心点へと押しやられているために、最終的には中心の中へと消えていくということになります。けれども、それで話が終わるわけではありません。中心において消えていく分だけ周辺に現れるのです。それは最果てにおいて再び現れます。物質は空間中の一点、つまり中心点で消え去り、別のところ、つまり周辺に再び現れるのです。中心へと消え去るものはすべて周囲において再び立ち現れます。あらゆる働きがこの物質の中へと注ぎ込まれました。惑星上で働いていた存在たちは、あらゆるものを物質の中へと刻印づけました。当然のことながら、物質は現在の形姿においてではなく、この変容の過程によって受け取った形姿において存在しています。ですから、皆さんはケルンの大聖堂が、その物質的な断片は中心点へと消え去ったとしても、別の側から再び現れて来るのを見ることになるでしょう。惑星上で成し遂げられたことがらは何ひとつ、絶対に失われることはありません。それは反対側から戻ってくるのです。 土星期より前の、地球進化における最初期の時代を通して私たちのところへとやって来たところのものすべては、このようにして外側へと、星座を越えたところへと移されました。太古の叡智では、これは「結晶化した天国」と呼ばれました。以前の進化に属する存在たちの行いはそこに堆積しています。それらは新しい存在たちが創造的になることができるための基盤を構成しているのです。既にお話ししましたように、このようなことがらを現代的な理解力で理解するのは難しいのですが、それは私たちが物質的な側面だけを考察することに慣れているからです。物質が三次元空間中の一点から消え去って、別の次元を通過した後、どこか別のところに再び戻ってくる、などということを認めることに私たちは慣れていないのです。皆さんが三次元空間の文脈で考えることに留まっている限り、そのことを把握することはできません。なぜなら、この現象は三次元空間を超越しているからです。ですから、それは別の側から再び三次元空間中に入ってくるまで見ることはできません。その間、それは別の次元の中に存在しています。このことは私たちが理解しておくべきことがらです。と申しますのも、宇宙創造の諸側面はこの上なく複雑な仕方でお互いに関連し合っているからです。ある場所にある何かは、三次元空間中の全く異なる場所に見いだされる別の何かと複雑な仕方で結びつけられているのです。哲学・思想ランキング
2023年10月08日
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「キリスト存在について」Ⅱデュッセルドルフ 1909年4月18日夜「霊的ヒエラルキーとその物質界における反映第10講」 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟になっているであろうということは想像に難くないしょう。それは住民に見捨てられた後の都市と比べられるかも知れません。皆さんはそのような都市がほんの僅かな時間が経過しただけでどのようになるかを、つまり、いかにそれが徐々に土のかたまりになるかをご存じですね。自然の力に捉えられた古代の都市を見ると、その過程がどのようなものであるかというについての絵画的な図式が得られます。実際には、今日においてもそのようになっているのですが、地球の未来についてはこのことは当て嵌まらないでしょう。次のような観察が、将来、私たちの地球はどうなっているのだろうかという疑問に対する答えに向かって皆さんを導いて行くことができるでしょう。レオナルド・ダビンチやラファエロのような人物、或いは彼是の分野におけるその他の偉大な天才たちの地球進化に対する意味とは何なのでしょうか。ラファエロやミケランジェロが素晴らしい芸術作品群を制作したということ、そして、それらは正に今日に至るまで幾千万という多くの人々によって鑑賞されているわけですが、そのことは地球進化にとってどういう意味があるのでしょうか。皆さんの何人かは、ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」を見て、ある種の悲しみを覚え、そして、この素晴らしい作品はあとどのくらい持つのだろうかと考えたかも知れません。ゲーテは、彼の最初のイタリア旅行において、まだこの作品が十分に輝いているのを眺めることができましたが、私たちにはもはやその状態にあるこの作品を見ることはできないということを思い出してみるべきです。ゲーテの時代から今日に至るまで、外的な物質的環境の中に置かれたこの芸術作品の運命というのは、今やそれは私たちの中に悲しみの感情を呼び起こすというような種類のものなのです。ゲーテの時代から私たちの時代までの時間と同じくらいの時間が経った後に生きる人々にとっては、この作品はもはや存在していないかも知れません。人間が地上の物理的な物質に刻印づけ、創造したあらゆるものについても同じことが言えます。地球そのものや、人間の思考の産物についてさえ同じことが言えるのです。人間がより高次の領域へと上昇し、その領域へと精神化されているであろうあの時代について想像してみてください。現在の言葉の意味での思考というもの、但し、此処では私は科学的な思考に言及しているのではありません。と申しますのも、それらは三、四百年もすれば何の意味もなくなっているでしょうからつまり、脳によって作り出され、地上において意味をなす人間の思考というものは、より高次の世界にとっては何の意味もないものなのです。それらは地上においてのみ意義を有しています。けれども、人間は地球を去らなければなりません。それではそのとき、何百年あるいは何千年にもわたって私たちが地上で作り上げてきたあらゆるものはどうなっているのでしょうか。哲学・思想ランキング
2023年10月07日
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「キリスト存在について」Ⅰデュッセルドルフ 1909年4月18日夜「霊的ヒエラルキーとその物質界における反映第10講」記:シュタイナーは文献のどれを見ても彼が神秘学体験の中に「神を見た」とは一言も発していません。彼は神存在、なかでも西洋宗教の代表基督教の創始者イエス・キリストにはどのように向かい合っていたのでしょう。神存在を認容するとして、その生きている神は、どういうあり方で人間に関わってきたのか。キリスト教独特な言い方に「神は人間と契約を結ばれる」という言葉があります。その場合には、イエスは、神と人間の契約を実現する存在、神の代理若しくは神の身を表します。イエスという名称は、ギリシア語で正しくはイエスス・クリストスで、油を注がれた者・王・救世主たるイエスの意を持ちます。この表現自体が彼を開祖と仰ぐキリスト教徒の立場を反映していることには注意が肝要です。福音書の伝えるその生涯は巌密な史学的検証に耐えないと云えが,およそ以下のように推定されます。ヘロデ大王(前4年没)の晩年にガリラヤのナザレに生まれ,後28年ころバプテスマのヨハネに洗礼を受けてその運動に参加,のち独立してガリラヤを中心に宣教し,後30年ころエルサレムで捕縛・処刑された。死後復活して弟子たちに顕現したと伝える。ここに原始キリスト教が成立,以後の世界史に重大な役割を演じることになったと。ヘブライ語「メシア」での意味は「膏(あぶら)を注がれた(塗られた)者」「受膏者」。古代イスラエルにおいては、預言者、祭司、王などの就任に際して膏を塗る習慣があった。キリスト教においてキリスト(メシア)は、特にこの三つの職務(預言職・祭司職・王職)を併せ持つナザレのイエスを指す称号として用いられています。また、「キリスト」は元来は固有名詞ではなく、「油注がれた者」を意味するヘブライ語マーシュィーアッハ(メシア)にあたるギリシア語(正確にはクリストス)です。 これは「新約聖書」時代のユダヤ人には救済者の称号となっていたが、他の諸民族の間ではその意味が理解されず、したがってイエス・キリストは固有名詞として用いられるようになった経緯があります。 私たちの今回のテーマには、前回の講義の最後に出された質問とは別に、付け加えることが多くありますが、宇宙についての考察を10回の講義で尽くすことは不可能です。ですから、私たちの主たる問題を取り扱う前に、私たちの結論に関係するいくつかのことがらを述べさせていただきたいと思います。 最初に述べなければならないのは、現代的な意識には理解が難しく、実際、殆んど理解不可能なようなことなのですが、それに気づいておくならばそれはそれでよいというような事柄です。つまり、惑星系というのは一度現れたものがどうして再び消え去るのかという質問に関連したものです。精神的な観点から、その発達過程がいかにして生じるかということが明らかになります。存在というものはより高次の段階へと上昇するものなのですが、彼らが前進する過程においては、以前の活動の場から離れて行かなければならないのです。つまり、他の場所では獲得できなかったであろうようなある種の能力を発達させることを一定の期間にわたって彼らに可能にしたそれまでの居住場所を離れなければならないのです。進化の過程において、私たちが古いレムリア期と呼ぶあの時代が近づいて来ていたとき、人間はその発達において、土星、太陽、月の段階を通して達成することができたところのものすべてを要約して繰り返すところにまで来ていました。その後、人間は地球進化の環境の中に現れたのですが、それは正に私たちのさらなる発達のために用意されていたものなのです。私たちはレムリア期、アトランティス期を通過して、私たち自身の時代へと発達して来ましたが、受肉から受肉へと移行しながら、私たちは未来に向かってさらに発達して行くのでしょう。そして、しばらくの後、人間は再び地球を離れなければならなくなるでしょう。地球には人間に与えるべきものが何もなくなっているのですが、それはさらなる発達の可能性を提供することができなくなっているということです。哲学・思想ランキング
2023年10月06日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅸ人体の比率としての方舟(はこぶね) さて、人間の物質体は深い意味を持つ多くの規則性を示しています。そのうちのひとつは次のようなものです。皆さんが、高さ、幅、長さが、3:5:30の割合となる箱をこしらえるとします。そうすると、これと同じ割合が人間の肉体にも見出せるのです。換言すれば、これによって人間の肉体の規則的な構成の割合が示されているわけです。人間がアトランティスの洪水から出てきたその当時、人間の肉体は3:5:30という割合に従って形成されていました。このことは、聖書においては次のような言葉でたいへんみごとに表現されています、「そこで神はノアに命じて、長さは三百エレ、幅は五十エレ、高さは三十エレの方舟を作らせた」と。人体の調和の寸法比は、このノアの箱船の寸法比とぴったり適合しています。神秘学の記号や形象は、事物の本質そのものから取り出されたものです、従って、それらを通じて私たちがいかにして霊界の関係をのぞき込むことができるかを示すものなのです。(了)哲学・思想ランキング
2023年10月05日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅷアトランティス人の知覚 さて、また別のことがらに移りましょう。この地球が常に現在のようであったわけではないことはお分かりですね。相当に神智学に携わってきた方は、現在の受肉状態にある地球がさまざまな進化段階を経てきたことをご存知でしょう。はるかに遠い過去、地球は火で溶融したような状態でした。今日の石や金属であるものは、かつてはこの火で溶けた状態の地球に溶け込んでいました。そのような熱の中では、人間もその他の存在も生存できた筈はないという非難に対しては、次のように答えねばならないでしょう。当時の人間の肉体は当時の諸条件に適合したものであったのだと。当時の肉体は、今日の溶鉱炉よりも高い温度でも生存できたのです。この地球の火の時代に続いて、私たちがアトランティス時代と呼ぶ水の時代がやってきます。ちょっとこのアトランティス時代を考察してみましょう。アトランティス大陸は、今日のヨーロッパとアメリカの間の大西洋の中心に広がり、私たちの先祖が住んでいました。むろん彼らは今日の人間とは全く異なった状態にありました。彼らの視力は私たちのそれとは異なっていました、彼らはある意味で霊視を行っていたのです。アトランティス人の進化においては、この視力にさまざまな段階がありました。アトランティス末期の最終段階は、はるかに高次の段階の一種の余韻のようなものでした。例えば、アトランティス人は外的な対象をアトランティス末期になってようやく見ることができるようになったのです。それ以前、アトランティスには厚い水を含んだ大量の霧が充満していたので、対象物は空間的にはっきりとした輪郭で分けられていませんでした。こうしたアトランティス進化の初期においては、知覚のしかたが全く異なっていました。古代アトランティス人がある物や存在に近づくとき、最初に見たのはある人物や対象の輪郭や骨格ではありませんでした、それどころか、外界とは何の関係もない、ある内的な魂の状態を再現するような色彩像が、彼らの内に浮かび上がったのです。色彩像は、こちらに向かってくる存在が彼にとって有益なのか危険なのかを語るものでした。例えば、こちらにやってくる者が他に対して抱いているのが復讐の感情であったなら、それに応じた色彩像が彼に示され、彼はそこから走り去りました。野生の獣が近づいたら、彼は同様に識別し、それから逃れることができたのです。アトランティス人は、自分の周囲の魂の状態をこの霊視の最終段階で知覚していました。その状態から今日の視力が徐々に発達してきたのです。非常に霧のかかった日のことを考えてみてください、対象はそういうとき、ぼやけています。考えてごらんなさい、こんな日には、街灯も点のように浮かび上がっているだけでしょう。それからだんだんと輪郭が判別できるようになってきます。こうして徐々にアトランティス人は見ることを学んだのです。人間が以前に見ていたものは、一種のアストラル的な色彩でした。最初のうち、この色彩はまだ自由に漂っているように見え、それからいわば事物の上に置かれたのです。もちろん、こうした別種の知覚は、当時の人間は今日とは全く違った様相をしていたことと結びついています。例えば、アトランティス時代の末期には、人間の身体の額ははるかに後退していて、その上方にエーテル体が大きな球のようにせりだしていました。額の後ろ側の点、両眼の間を少し後退したあたりで、物質体とエーテル体はまだ一致していませんでした。それから物質体とエーテル体が収縮し、物質体とエーテル体両者の点が一致したのは、人間進化において、重要な瞬間でありました。今日では肉体の頭部はエーテル体の頭部にほぼぴったりと収まっています。馬の場合は、まだそうではありません。けれども人間の場合、この頭部が変化してきたように、四肢も変化してきたのです。徐々に現在の肉体の形姿が形成されてきたのです。アトランティス時代末期へと思いを馳せてみてください。そもそも当時はどんな状態だったのでしょうか。人間はある種の霊視力で自分の周囲の魂的状態を知覚していました。もう一度この厚い霧の大気、水蒸気をたっぷり含んでずっしりと重い空気を思い浮かべてください。太陽や星々、皆さんの周囲のあらゆる対象物は当時、この厚い水を含んだ空気の中ではよく見えなかったことでしょう。虹は当時はまだありませんでした、虹はまだ生じていなかったからです。すべては厚く重い大量の霧におおわれていました。それゆえ、伝説はニヴルヘイム(霧の国)について語っているのです。徐々に、空気の中に厚く拡がっていた水が凝縮していき、「かくて大洪水の水が地上に降り注いだ」。これは厚い大量の霧が水へと凝縮し、降水、雨となって落下したということを言っているのに他なりません。水が空気から分離されたことにより、空気は透明になり、それに伴って、今日のような視力が形成されてきました。人間は、自分の周囲の対象を見ることができるようになって初めて、自分自身を見ることができたのです。哲学・思想ランキング
2023年10月04日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅴ内的な光を獲得するための修練、Ⅵ叡智の光と天球の音楽、Ⅶ天球の調和(ハーモニー)と惑星運動。 ご存知のように、諸惑星は一定の速度で太陽の回りを運動しております。けれどもこれらの惑星は神秘学的天文学者たちによって精確に探求されている惑星運動でもあるし、また別の運動もしているのです。その探求によって明らかにされたのは、太陽はある霊的な中心点の回りを運動しており、従って諸惑星の軌道はその正中線が太陽の軌道となる螺旋を描くということです。各惑星がその軌道を運行する速度は、お互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この音響としての比例関係が聞く者にとって、ひとつのシンフォニーへと構成されるのです。これがピタゴラス学徒によって天球の音楽とみなされていたのです。この共鳴若しくはハーモニー(harmony)、この音楽は、宇宙的な出来事の模像であり、ピタゴラスの学院で教授されたものは、何ら頭を弄って考案されたものではないのです。古代の神秘学的天文学者たちはこう語りました。一見静止しているように見えるこの星天は実際は動いている。霊的な中心点の回りを、百年ごとに一度ほど前にずれていく速度で回転しているのだと。記:各惑星の速度の相互関係 土星の速度=木星の速度の21/2倍;木星の速度=火星の速度の5倍;火星の速度=太陽、水星、金星の速度の2倍;太陽の速度=月の速度の12倍(この場合、土星の速度は金星天の速度より1200倍早く、年に12度前進します。) 物理学上の音楽的調和が成立するとき、これは、例えばさまざまな弦が、あるものは速く、あるものは遅く、異なって振動することに基づいています。一本一本の弦が振動する速度に従って、高い音や低い音が響き、こうしたさまざまな音の共鳴が音楽として鳴り、調和を生むわけです。皆さんが弦の振動から、この物理学的なものの中に、音楽的印象を得るのと全く同じように、デヴァチャン界の霊聴の段階にまで上昇した人は、天体の運動を天球の音楽として聴き取るのです。さらに、諸惑星のそれぞれ異なる運動速度の比例関係により、宇宙空間全体に響きわたる天球のハーモニーの基調音が生じます。ピタゴラスの学院では、まさしく天球の音楽について語られているのであり、それは霊的な耳で聞くことができるのです。以上の考察から、私たちはさらにまた別の現象も暗示できます。例えば、薄い真鍮板に微細な粉末をできるだけ均等にまき散らし、ヴァイオリンの弓で此の板を擦るとします。すると音が聞こえるばかりでなく、粉末の粒子が一定の線上にきちんと並びます。音に応じてあらゆる図形が形成されます。音が作用して物質、素材が配置されるのです。これが有名なクラドニの音響図形(Chladni acoustic figure)です。霊的な音が宇宙空間を貫いて響いたとき、音は互いに比例関係にある諸惑星を天球のハーモニーへと組織しました。宇宙空間に広がって見えるものを、この創造する神性の音が配列させるのです。このような音が、宇宙空間の内部へと響きわたったことにより、物質が、ひとつの系へと、太陽系、惑星系へと形成されたのです。ですから「天球の音楽」という表現も、才気あふれる比喩などではありません、それは現にある事実なのです。哲学・思想ランキング
2023年10月03日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅳ地球の未来の進化 さて、ここでもう一度天球の音楽というものにおいて理解したことを考察してみましょう。今日の数学的天文学者たちが、神秘学において惑星について語られていることを明らかな妄想と見なすであろうことは、私にはよく分かっております。けれどもそれは問題ではありません、やはりこれは真実なのですから。お話してきましたたように、この地球はだんだんと進化してきました、私たちは地球の諸々の受肉について語ってきたのです。地球は最初、土星、それから太陽、さらには月、そして現在は地球であり、後に木星、金星、ヴァルカンとなっていきます。さて、皆さんは次のように問うことができます、そうは言っても今も空に土星というものがあるではないか、この今日の土星は地球の最初の受肉状態であった土星とどういう関係にあるのかと。今日、星空を観察すると、私たちが公によく知っている諸惑星が見えます。これらの惑星の名称は恣意的に選ばれた、つまり近年、慣例になっているように、特定の人物、例えばその星の発見者の名前に因んで名付けられたというようなものではありません、そうではなく、星々の本質に関する深遠な知から与えられた意味深い意義ある名前なのです。今日人々はもはやそのようなこととは関わりなく、例えばウラヌス(天王星)は、後になってはじめて発見されたためこのような正しい名前を持っておりません。今日皆さんが天に土星として観ているものは、私たちの地球がまだ土星の状態にあったときと同じ段階にあるのです。公の土星は地球に対していわば少年が老人に対するような関係にあります。老人がそのかたわらに立つ少年から育ってきたのではないように、老人自身がかつては少年だったわけですから、この地球も今日ある土星から進化してきたものではありません。今日空にある土星もまたいつか「地球」となってゆくのであり、現在は一種の青年期の段階にあるわけです。他の天体の場合もこれと同様です。太陽はかつて地球がそうであったような天体ですが、ただそれがいわば前進した(avanciert)状態なのです。人間の場合に、老人の傍らに少年がいるといった具合にさまざまな年齢層がともにあるように、天においてもさまざまな惑星がさまざまな進化段階にあって並存しているのです。その一部は、現在その第四の受肉状態にあるこの地球がすでに完了した進化段階であり、また一部はこれからとることになる進化段階です。これらの惑星は、お互い正確に一定の関係にあります。神秘学者はこうした関係を今日の天文学者が行うのとは別のやり方で表現するのです。哲学・思想ランキング
2023年10月02日
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「神秘学の記号と象徴」そのアストラル界と霊界との関係第一講:シュトゥットガルト 1907年 9月13日秘学(オカルト/occult)の記号とアストラル界・霊界との関係Ⅲ「叡智の働きかけ」によるアストラル体の変成と高貴化。 学びつつある人、高次の視力、霊視力を発達させつつある人にとって、たとえば次のような修行をすることは大きな意味があります。すなわち、真っ暗な空間に身を置き、外からの光を完全に遮断して、夜の暗闇であっても両目を閉じることでもよろしいですが、それから徐々に自分自身の内的な力によって、光の表象に突き進もうとするのです。人間がその表象を十分な強度をもって形成できるようになると、その人は次第に明敏になり、そして光を見るようになります、それは物質的な光ではありません、その人が今や自ら創造し、内的な力によって自らの内に生み出した力です。これは叡智に貫かれた光です、この光の中で人間には創造する叡智が現れます。これがアストラル光と呼ばれる光なのです。瞑想を通じて人間は内的な光を生み出すことができるようになります。この光は、人間がいつの日か、物質的な目ではなく、もっと精妙な感覚器官によって見るであろうものの先触れなのです。それはエロヒム(Elohim*シュタイナー解釈)たちのような実際に存在する霊存在たちの衣装となります。人間がこの修行を正しいやり方で行うと、それはこれらの高次存在と関係を結ぶ手段となります。自らの経験から霊的世界について何かを知るひとたちは、このようなことを行なってきたのです。後でお話しします別の方法によって人間は、自らの内的な力により、空間が光に照らされ、叡智に取り巻かれるのみならず、空間がいわば音を発し始めるという事態にまで到達することができます。ご存知のように、古代ピタゴラス哲学では、天球の音楽について語られていました。この「天球」という言葉で、ここでは宇宙空間、つまり星々が運行する空間が意味されています。これはあれこれ考えたあげく作り上げられたイメージなどではなく、詩的な比喩でもない、ひとつの真実なのです。人間が秘密の導師の指示に従って十分に修行を積むと、明澄な、光輝に満たされた空間、叡智の顕現である空間を内的に観るだけでなく、宇宙空間にみなぎる天球の音楽を聞き取ることを学びます。空間が鳴り響き始めるこの時、人間は天上的な世界、デヴァチャン(Devachan)にあると云われるのです。まさしく空間が鳴り響くのですが、これは物質的な音ではありません、これは霊的な音、空気中では生きるのではなく、ずっと高次の精妙な実質、アーカーシャ(サンスクリット語で虚空/Akasha)実質の中に生きる音なのです。空間は絶え間なくこのような音楽に満たされています、そしてこの天球の中にある種の基調音があるのです。哲学・思想ランキング
2023年10月01日
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