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【アニー・ホール】「精神科医に、ある男が相談するんだ。“弟は自分がメンドリだと思い込んでます”とね。すると医師は“入院させなさい”と言う。男は“でも卵は欲しいのでね”と答える。男と女の関係もこの話と似てるんだ。およそ非理性的で不合理なことばかり。それでもつき合うのは卵が欲しいからだろうね」恋愛と結婚というものが、必ずしも一致しないことぐらいは、大人ならだれだってわかる。若いうちは恋愛の延長線上に結婚があると思い込んでいる。でもそのうち、恋愛というものが幻想であったことを目の当たりにするのだ。現実というのは、ときに残酷だ。どんなに好きでも長く一緒にいれば喧嘩もするし、憎くもなるし、幻滅もする。そういう二人がひとたび「恋愛」という枠組みから解放され「友だち」という関係におさまったとき、びっくりするほどしっくりするのだから皮肉なものである。だれが言い出したのか忘れたけれど、「結婚するなら二番目に好きな人がいい」というのはまんざらでもない。相手と程よい距離間があった方が、ベタッとした関係より長続きするという過去のデータがあるからだ。 今回、私は『アニー・ホール』をレンタルしてみた。この作品はずいぶん古く、もう40年も前のものである。ウディ・アレン監督の代表作なのだが、人間の営みは時代にほとんど左右されないらしく、現代でもまったく違和感はない。ざっくり言ってしまえば、男女の恋愛が一筋縄ではいかないところを絶妙に表現している。 ストーリーはこうだ。コメディアンのアルビー・シンガーがアニー・ホールと出会ったのは、友人と一緒に行ったテニスクラブである。二人はなんとなく仲良くなっていった。アルビーはアニーにあれやこれやと自分の生い立ちを告白する。ニューヨークのブルックリンで育ち、幼少期から神経質で屁理屈をこねる、ませた子どもであったこと。2回婚歴があり、2回とも離婚していること。そして15年間ずっとセラピーにかかっていることなどである。一方、アニーも付き合って来た彼氏について語り、家族との食事にアルビーを誘ったりした。アルビーはアニーが教養のないことをコンプレックスに感じていると思い、大学で学ぶことを提案した。アニーはアルビーと同衾するとき、欠かさず薬物の力を借りた。そうでもしなければ気持ちが冷めてしまってモチベーションを維持できなかったからだ。だが二人は少しずつギクシャクし、関係が悪くなっていく。アニーは大学の教授と関係を持ち始め、アルビーも別の女性と付き合い始める。こうして二人の関係は切れたかに思えたが・・・ 『アニー・ホール』はアカデミー賞受賞作品であり、ウディ・アレン作品の中でもとりわけ人気の高いものらしい。(ウィキペディア参照)とはいえ、私個人としては退屈な作品だった。もしかしたら、今の私の気分的なものが左右したのかもしれない。男女の惚れたはれたについて、さほど興味がなくなって来ているのも事実だし、ラブ・ストーリーならせめてハッピーエンドにして欲しいという、映画に対する願望もあるからだ。 おもしろい演出だなと思ったのは、作中でアルビーとアニーがそれぞれのセリフ以外に、心の声が字幕で表されているシーンである。さらには、主人公のアルビーがカメラ目線で視聴者に問いかけるシーンがあり、ウディ・アレン監督オリジナルの表現技法があちこちに垣間見られる。この作品が人気なのは、当時としては斬新な演出や、男女の出会いから別れを万人が共鳴できるものに完成させた点であろう。恋愛が永遠のものではないことはわかっていても、人はいつだってだれかを愛さずにはいられない。出会いと別れを繰り返すのが男女の常。私はこの作品からそういう人間の性(さが)を感じずにはいられなかった。ラブ・ストーリーにしてはあまりに現実的で、夢や希望の入る余地さえない作品に思えた。 1977年(米)、1978年(日)公開【監督】ウディ・アレン【出演】ウディ・アレン、ダイアン・キートン
2017.06.04
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【適菜収の賢者に学ぶ】~「正しい歴史認識」とは何か?~韓国大統領の朴槿恵が、就任以来日本に対し「正しい歴史認識を持つべきだ」との要求を続けている。国連事務総長の潘基文も、日本と中韓の対立について「政治指導者は正しい歴史認識を持ってこそ、他国から尊敬と信頼を受けられる」などと述べている。それでは「正しい歴史認識」とは何か?歴史家のエドワード・ハレット・カー(1892~1982年)は、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』)であると述べている。「事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけたときだけ語るものなのです」(同上)シーザーがルビコン河を渡ったのは歴史的事実とされている。しかし、それは歴史家が厖大(ぼうだい)な「事実」の中から恣意(しい)的に選び出し、脚色したものである。それ以前にも、それ以後にも、ルビコン河を渡った人間は星の数ほど存在したはずだが、彼らについての資料は存在せず、誰の関心を惹(ひ)くこともない。歴史家の選択や解釈から独立した「歴史的事実」など存在しないとカーは言う。都合のよい事実を選択し配列すれば「正しい歴史認識」などいくらでもつくることができる。つまり、「正しい歴史認識」なるものが存在するというのは、あまりにナイーブな、もっと言えば子供じみた考え方なのだ。 カーは、ベネデット・クローチェ(1866~1952年)の「すべての歴史は『現代史』である」との言葉を引く。歴史は現在の眼を通して過去を見ることで成り立つものであり、「歴史的事実」は歴史家の評価によって決まる。そしてその歴史家もまた、社会状況や時代に縛り付けられている。つまり、歴史家という存在自体が中立ではありえないのだ。過去の優れた歴史家たちを分析し、ここまで論じた上でカーは次のステップに進む。歴史の一切を解釈と考えれば、「歴史家は全くプラグマティック(実利的)な事実観に陥り、正しい解釈の基準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になってしまう」(同上)。そこでカーは歴史家の義務を規定した。それは一切の事実を描き出す努力を続けること。そしてもう一つ大事なのは、歴史家自体を研究することである。歴史家の判断を生み出した社会的、時代的背景を明らかにするわけだ。歴史を「事実の客観的編纂(へんさん)」と考えるのも「解釈する人間の主観的産物」と決めつけるのも一面的である。歴史家の仕事は、この「二つの難所の間を危なく航行する」ことであり、主観による「事実」の屈折を自覚することである。ましてや歴史の専門家ではない政治家は過去に対し謙虚になるべきだろう。最後にクローチェの言葉を。「歴史の物語をするという口実で、裁判官のように一方に向っては罪を問い、他方に向っては無罪を言い渡して騒ぎ廻り、これこそ歴史の使命であると考えている人たちは……一般に歴史感覚のないものと認められている」(同上)より正しい「歴史認識」のためには、殊更に「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背景を研究する必要がある。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『適菜収の賢者に学ぶ』は産経新聞のコラムだ。適菜氏のペンは正鵠を射る。何より「賢者に学ぶ」というタイトルが示す通り、筆者お仕着せのコラムでないのがありがたい。このごろの新聞各紙は片寄った思想が丸出しだ。根底にあるのは「私の考え」が即ち「正論である」という筆者の傲慢と読者軽視が読んで取れる。そうしたコラムに辟易するとき、「賢者がこう言う」だから「私はこう考える」、或いは「私の考えはこうだ」それは「賢者がこう言うからだ」という適菜氏のスタイルには安心でき、おおいに納得するのだ。多くの新聞は「正しい歴史認識」を書き立てている。「そうだその通り!」と同調するのは簡単だ。ただ我々はその前に適菜氏の導き出した論理に従って考えてみた方がいい。『「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背景を研究する必要がある。』どす黒くいびつに歪んだ新聞の宿痾が見えるかもしれない。さて適菜氏の博覧強記ぶりを以前のコラムからご紹介する。『もっとくちをつぐもう』では流行の市民運動についてキルケゴールを引く。「弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚すると同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう」そして氏はこう喝破するのだ。『意見を持たないことも教養の一つである。知らないことには口をつぐまなければならない。それは発言の価値を確保するためである。「たとえ素人であっても声を上げることが必要だ」という歪んだ考え方が社会に蔓延した結果、傍観者が退屈凌ぎに社会を動かすようになった。』関連して『群れることの危険性』ではこう言っている。『右派だろうが左派だろうが、市民運動的なものは劣化していく傾向をもつ。』引くのはル・ポンだ。『孤立していたときには、恐らく教養のある人であっても、群集に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまう』(趣意)適菜氏の孤高なペンに敬意を表する次第だ。そして今後のご活躍を願ってやまない。
2013.11.19
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「あなたは何だかギラギラし過ぎてますね。」「ギラギラ?」「そう、抜き身みたいに。」「抜き身?」「あなたは鞘のない刀みたいな人。よく斬れます。でも本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ。」やっぱり黒澤映画は文句なしにすばらしい。観ていて全く飽きないし、時代劇にもかかわらず古臭さが感じられないから不思議だ。 バッサバッサと人を斬り殺していくシーンは、ややもすれば殺伐として味気ないものになってしまいがちなのに、途中、妙に育ちの良い城代家老の奥方やその娘などの穏やかな物言いが、作品をやわらかく上品なものに仕上げている。入江たか子の格調高い雰囲気は、後光さえ射している。「あら、いけませんよ。そんな乱暴なことは。」(←まるで虫をいじめる子どもを諭すみたいに)そんなふうにたしなめられたら、どんな剣術士でもひるんでしまうに違いない。椿三十郎も例外でなく、一騎当千の豪の者でありながら、城代家老の奥方には全く逆らえないから不思議だ。深夜、朽ちた神社の社殿において、若き侍たちが人目を避けるようにして密談を交わしている。そこへ、奥の部屋から大あくびをしながらのっそりと現れる浪人、椿三十郎。若者たちは、自分たちの謀議を盗み聞きされたと、思わず息を呑む。だが三十郎はそんな緊張感などどこ吹く風とばかりに、若者たちにボヤくようにしてアドバイスをする。「菊井のほうこそ危ない」と。若き侍たちは、次席家老の汚職を城代家老に相談したところ、全く相手にされず、対して大目付の菊井に話してみると、「共に立とう」との返答を受けていた。しかし三十郎は言う。物事は客観的に捉えていると、その本筋が見えてくるものだと。若者たちは、三十郎をうさんくさく思いながらも、彼の手助けを受け、命がけで悪党に立ち向かってゆく。今さら三船敏郎を絶賛するのもおこがましいが、何と言うかこの存在感は天性のものなのであろうか。主役然として媚がなく、へつらいもない。堂々としていて、スター性に満ち溢れている。また、この限られたスクリーンの中で、役者を多いに生かして撮影に臨んだ黒澤監督の見事な演出。そして無駄のないセリフ。「世界の黒澤」たるを見せつけられた、すばらしい日本映画なのだ。1962年公開【監督】黒澤明【出演】三船敏郎、仲代達矢また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.24
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【東京新聞 筆洗】~雑草という草はない~春の庭で、草むしりをしながら、抜いてしまうか、そのままにしておくか、迷う草がある。例えばハコベにカラスノエンドウ…。放っておくと厄介だが、可憐(かれん)な花を思うと、抜く手が止まる。 カタバミの繁殖力にはお手上げだ。ハート形のかわいらしい三枚の葉に、黄色い五弁の花。古くはたくましさにあやかり家紋に用いられたほどだから、抜かないと、際限なく増える。春先から秋まで咲くカタバミは、夏の季語。こんな秀句がある。〈かたばみや何処にでも咲きすぐ似合ひ〉星野立子。 昭和天皇は、「雑草という草はない」という名言をのこされた。故田中直侍従が随筆で、吹上御所の草刈りをめぐる逸話を紹介している(入江相政編『宮中侍従物語』)。 武蔵野の面影を残す御所前の庭で草が茂りすぎ、陛下が那須でご静養中にさっぱりさせようと刈り払った。お帰りになった陛下はすぐ侍従をお召しになった。「どうして庭を刈ったのかね」。「雑草が生い茂ってまいりましたので」と侍従。 陛下は「雑草ということはない」。続けて「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのはいけない」。 みどり輝く黄金週間。「雑草という草はない」との至言を噛(か)みしめつつ、足元の野花を、じっくりと見つめてみる。(4月27日付)~~~~~~~~日中の陽気に誘われて土手の散歩に興じた。「雑草という草はない」そういわれると足元の草々も愛おしく感じるのだ。春の風に吹かれながら、陛下のお優しさを感じ、過ぎ去りし昭和に思いをはせた連休の一日であった。今日、29日は昭和天皇の誕生日。嗚呼、昭和は遠くなりにけり。
2013.04.29
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【梅原猛/学問のすすめ】◆知識の習得は退屈、だが必要不可欠なもの個人的な嗜好で恐縮だが、私は梅原猛が好きだ。私が高校生の時にハマった『隠された十字架』に始まり、『水底の歌』『笑いの構造』など、どれも楽しく拝読した。今回再読した『学問のすすめ』は、すでに再版はされておらず、古書店などで手に入れるしかないものだが、ぜひとも若い人たちに読んでもらいたい良書である。著者がてらうことなく、「若い時には、学問が必ずしも面白くなかった」と語っているのには、つくづく共鳴した。こんなに立派な著名人でも、若いうちはイヤイヤ勉強していたのか、、、と思うと、何となくホッとする。 『学問のすすめ』は4章から成っている。第一章 生い立ちの記第二章 創造への道第三章 新しい認識への旅第四章 仏教・実践そして人生 私がとくに秀逸だと思ったのが、第一章と第二章で、自叙伝のところなど燃えたぎる熱情にあふれている。梅原猛は仙台市に生まれ、京都大学文学部哲学科を卒業している。代表作に『隠された十字架』や『水底の歌』『仏教の思想』などがあり、研究は多方面に渡っている。もともと著者は西洋哲学に造詣が深く、そこから東洋の仏教思想へと研究の幅を広げて行く。ニーチェの説く精神の三つの段階、『ツァラトウストラはかく語りき』など読んでもさっぱり頭に入って来ないところ、梅原猛の解説により、なるほどと分かったような気になるから不思議だ。 ちょっとここでニーチェの“精神の三様の変貌”というものをご紹介したい。これは、人間の一生を通して考えた時、三段階の変貌を遂げなければ、真の人生とはなり得ないという思想だ。第一段階・・・ラクダ=忍耐重い荷を背負って黙々と砂漠を歩くラクダの姿は、人間があらゆる困難に耐え忍ぶ精神をたとえている。第二段階・・・ライオン=勇気百獣の王であるライオンは、ドラゴンと闘う。それは必死の勇気なくしては挑めない相手であり、それだけの価値がある闘争だからだ。第三段階・・・小児=創造子どもは無邪気に好きなことを楽しむために、一からスタートし、一からつくり出す。創造とは、子どもにのみ許された特権である象徴。 このラクダ→ライオン→小児というプロセスは、あくまで理想論かもしれないが、それだけに示唆的でもある。この考え方は、若い人にはちょっとだけ励みにならないだろうか?若いうちに長く、辛い修練の時が必要なのは、やがて手にする創造の秘儀のためだと考えれば、少しは精神にゆとりが持てるかもしれない。※ここでいう創造とは、梅原解釈によれば、「家庭をつくり、子供を生み、子供を育てる。それもまた大きな創造なのである」と述べている。 私が『学問のすすめ』を何度となく夢中になって読むのは、こうして梅原猛の論ずるようなことも、知っているか否かでずいぶんと人生に対する考え方や生き様が変わってくると思われるからだ。知識の習得というのは、ホンネを言ってしまえば退屈である。役に立つかどうかも分からないのに、本を読んだり勉強したりすることに、一体どんな意味があるのか?だが、『学問のすすめ』を読むと、ニーチェのことが書いてあったり、万葉集のことが書いてあったり、仏教のことが書いてあったりで、知らず知らずのうちに、ほんのわずかでも知識の習得に成功していることに気付かされる。これからを生きる若い人たちの中で、このブログを読んで少しでも興味を持ってくれたら、ぜひとも図書館に足を運んでもらいたい。そしてできれば梅原猛の『学問のすすめ』の一読を推奨する。 「真理の探究は全く孤独な仕事なのである。全世界を敵にしても、あえて戦うことのできる孤独な勇気を自己の中にもたねばならない」 『学問のすすめ』より梅原猛・著☆次回(読書案内No.159)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.03.29
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薫風の素足かがやく女かな日野草城素足の女は早乙女のことでしょう。そして輝いているのだからうら若き女性か。しかしながら俳句の風景は、今では見られなくなった「過去の風景」なのであります。薫風の中、うら若き早乙女を探してアチコチをまわりましたが、収穫はありませんでした、残念!付け加えれば、早乙女はおろか手植えさえほとんど見かけませんでした。小さな田でも手植えをしているところはありません。大概は、こうやって機械を入れて、おじさんが一人で田植えをされておりました。その姿に敬意は表しても、情緒は感じませんなぁ(汗)すでにお祭りや観光客向けの風景になってしまったのですねぇ。ということで、以下の句などは想像の先のはるか彼方の風景ということです、嗚呼。早乙女の裾を下して羞ぢらへり山口誓子ああ、日本の原風景や何処に。
2013.06.03
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【雁の寺/水上勉】◆犯人の出自が殺人の動機?!2時間ドラマでおなじみの山村美沙サスペンスと同列に考えてはいけないが、この『雁の寺』も京都を舞台にしたサスペンス・ドラマだ。イメージとしての京都は、どこか閉鎖的で排他的。奥まったところにある寺では、何かが起きそうな予感さえする。(あくまで私のイメージだが)戦前の昭和初期のころが舞台。寺には独身の中年住職と13歳の小僧がいて、そこに女が加わる。修行僧の時からずっと独身を通して来た住職には、長い間の禁欲生活から解放された激しさがあり、朝も昼も女を求める。だが、そんな房事を秘かに覗く者が・・・とまぁこんな展開だ。この小説は冒頭のところからしてサスペンスらしいストーリーを展開してくれる。日を置いて続きを読むような悠長な読書はしていられず、わき目も振らずページをめくりたくなる隠微な世界が広がる。作中、問題を解決しようとする刑事もいなければ、探偵なども出て来ない。事件は起きたまんまになってしまい、真相は藪の中だ。そのせいかどうか、この小説の背景は暗く、狂信的な孤独さえ感じられる。犯人がすぐに誰なのか分かってしまうだけに、意外性のようなものは感じられないが、じゃあ一体なぜ犯行に及んだのかという理由は謎だ。おそらく時代性とか、登場人物(この場合、犯人)の出自が大きく影響しているに違いない。『雁の寺』という小説には、底知れぬ鬱積した怨念を感じ取らなければいけないのかもしれないが、今を生きる私たちは“サスペンス・ドラマ”として読むのが一番適しているような気がする。著者である水上勉も、平成を生きる若い世代に、過去の喪失を汲み取って欲しいなどとは望んでいないに違いない。既成のミステリー小説に少々飽きて来た方、この作品では本物のミステリーを味わうことができる、かも。【余談】新潮文庫の『雁の寺』は、『越前竹人形』と2本立てになっている。こちらもかなりイタイ小説。『雁の寺・越前竹人形』水上勉・著 (新潮文庫)~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.09.19
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【渡辺淳一/君も雛罌粟われも雛罌粟】◆夫に恋い焦がれてパリまで向かう本物の作家ともなれば、一個人のこだわりを押し通して純文学小説ばかりを書き連ねる、なんてことはしないのだ。大衆の求めるものを逸早く察知し、迎合する。それこそが本物の作家なのだから。むしろそういう時代の流れとか一般読者の傾向を計り知ることが出来なければ、売れっ子にはなれない。その点、渡辺淳一は本物の作家だ。この人は大衆を知り尽くしている天才と言っても過言ではない。渡辺淳一は医師免許を持っていることもあり、医学的なものをテーマにした小説や、『君も雛罌粟われも雛罌粟』のような評伝もあり、さらには代表作である『失楽園』のような不倫小説なども手掛けるエンターティナーである。最近では『鈍感力』などのエッセイでも人気を博し、浮き沈みの激しい業界においては、珍しく盤石なスタンスを誇る作家なのだ。さて、『君も雛罌粟われも雛罌粟』について。これは表題作の通り、与謝野鉄幹と晶子の生涯を綴った評伝である。鳳晶子(のちの与謝野晶子)は、歌誌「明星」に投稿した歌が鉄幹の目に留まり、さらには「明星」に掲載され、歌会などに出席するようになる。同じく才能のある山川登美子も同席し、晶子ともども切磋琢磨する。晶子も登美子も、ただただ鉄幹に褒められたいと、歌の道に精進するのだが、二人ともいつしか鉄幹への激しい恋心となって衝突していく。だが「明星」に掲載される激しい恋の歌を詠んで、尋常ではいられないのが鉄幹の妻・滝野である。「明星」を発刊することが出来るのも、全て滝野の実家からの援助あってのこと。妻同然に暮らしていても、入籍をしない鉄幹に業を煮やし、いよいよ滝野は自分が都合の良いように利用されているに過ぎないことを悟る。結果、鉄幹と滝野は別れ、したがって後ろ盾のなくなった鉄幹は一文無しとなり、頼るのは晶子と登美子のみ。だがその登美子も、親の決めた縁談が着々と進んでおり、結婚を余儀なくされたのだ。 こうして鉄幹は、なるべくして晶子のものとなった。これは私なりの解釈だが、鉄幹はあくまでプロデューサーとしての域を出なかったということだ。晶子という天才歌人を見出した点は優れているし、歌という芸術に晶子の天賦の才を引き出した演出は、素晴らしいと思う。だが晩年は晶子なしではろくに生活も出来ないほどの落ちぶれようだった。仕事もなく、だらだらと終日家で過ごす鉄幹を横目に、晶子は11人もの子どもらの面倒をみながら、生活のために歌を詠み続けた。古典、小説、評論、そして童話など、膨大な仕事量で与謝野家を支えたのだ。この一連の夫妻の半生を振り返る時、もちろんキレイゴトでは済まされないドロドロとした愛憎劇さえまつわりつく。鉄幹の癖としか言いようのない女性問題は絶え間なく、どん底の生活苦も味わった。そんな中でさえ泥に咲く花を見たような気がするから不思議だ。明治の天才歌人としての与謝野晶子の「みだれ髪」をひもとく時、まずはこの『君も雛罌粟われも雛罌粟』の評伝を読むことで、エネルギッシュで前向きな女性のあり方を捉えておくべきだろう。 ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟 ※雛罌粟(ひなげし)は、フランス語で「コクリコ」という。『君も雛罌粟われも雛罌粟』渡辺淳一・著☆次回(読書案内No.45)は有川浩の『阪急電車』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの■No.24宮本輝/流転の海 第一部 戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!■No.25岩井志麻子/ぼっけぇ、きょうてぇ 女郎が寝物語に話す、身の上話■No.26柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・?■No.27宮尾登美子/櫂 妻は黙って亭主に傅くのみ。殴られても蹴られても耐えるべし■No.28向田邦子/阿修羅のごとく いくつもの顔を持ち合わせているのが女なのだ■No.29樋口一葉/にごりえ 明治の娼妓のコイバナ、そして人情沙汰■No.30南木佳士/阿弥陀堂だより 信州の自然美に触れて生き返る■No.31東川篤哉/謎解きはディナーのあとで エンターテインメント性重視、ポップでライトなミステリー小説■No.32辻仁成/ピアニシモ 25歳ぐらいまでに読んでおきたい青春小説■No.33田口ランディ/コンセント 引きこもりをテーマにした社会派小説をねらうも、結果オカルト小説■No.34沢木耕太郎/無名 最愛の父を看取るまでを淡々と語る■No.35浅田次郎/月のしずく エンターテインメント性バツグン! ドラマチックなラブ・ストーリー■No.36有吉佐和子/香華 花柳界に生きた母娘の愛憎劇■No.37田山花袋/蒲団 男の嫉妬、男の哀しさを赤裸々に描く■No.38連城三紀彦/恋文 嘆きとせつなさは、恋愛小説の醍醐味■No.39重松清/エイジ もしもクラスメイトが通り魔だったら・・・?■No.40大崎善生/パイロットフィッシュ おしゃれで、どこか老成した主人公「僕」の語り口調■No.41小川糸/食堂かたつむり 癒しを求めて何となく手に取る小説■No.42中島敦/山月記 声に出して読みたい小説■No.43瀬戸内晴美(寂聴)/美は乱調にあり まともな死に方しないと言い放つ女
2013.02.20
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【島崎藤村/新生】◆実の姪を妊娠させて傷心の渡仏、帰国後再び関係を持つ男私もこれまで女性週刊誌のゴシップ記事やらタレントの暴露本まで、ありとあらゆる私的で低俗な小説を嬉々として読んで来た。だが、島崎藤村の『新生』を越える私小説には、まだ出合っていない。お断りしておきたいのは、島崎藤村が、『ダディ』を書いた郷ひろみや、『ふたり』を書いた唐沢寿明のようなタレントではなく、れっきとした文士であることから、いくらジャンル的には同じ私小説とはいえ文学性において当然差はある。それにしても島崎藤村の思い切った告白には、何とも言いようのない、不愉快極まりないものを感じてしまう。というのも、藤村はあろうことか、実の姪と関係を持ってしまい、妊娠までさせているのだ。その辺の経緯をつらつらと語っているのだが、どう読んでも自己弁護を超えるものではない。そこから贖罪の気持ちなど微塵も感じられないのだから、読者はますます憂鬱にさせられる。このようなタブーをあえて公にすることに、どれだけの意味があったのだろうか?とはいえ、後世の我々が、ああだこうだと野次を飛ばしながらも読まずにはいられないほどの吸引力があるのだから、充分に意味のある作品なのだが・・・。話はこうだ。作家で、男やもめの岸本は、幼い子どもたちの世話や家事を、姪の節子に頼っていた。妻はすでに病死していたのだ。最初は節子の姉・輝子と二人に面倒を見てもらっていたのだが、じきに姉の方は嫁ぐことになり、節子のみになった。岸本は、毎日顔を合わせているうちに、己の寂しさやら欲望から節子と関係を持ってしまう。その後、節子が妊娠してしまう。岸本は、実兄(節子の父)に合わせる顔がなく、フランスへの留学を決める。面と向かって真実を話すこともできず、結局、渡航中に手紙を書いて、節子のことを詫びた。数年後、ほとぼりが冷めたころ帰国。しばらくは兄の宅へ居候の身となるものの、何かと節子が不機嫌なのが気にかかる。ある時、思い余って岸本は節子に接吻を与えてしまい、再び二人のヨリは戻ってしまうのだった。『新生』は、当時の朝日新聞に掲載された連載小説なのだが、藤村の子どもらがそれらを目にして受けたショックなどを考えると、胸が痛む。まさか自分たちの母親代わりになってくれていた、従姉の“お節ちゃん”が、父親(藤村)と近親そうかんだったなんて!しかも自分たちとは母親の異なる弟までいるとは!藤村は、自分の実子らがこの先どれほどの苦悩を抱えるかなんて、さほど考えもしなかったのであろうか?貧しい一族の中で、ただ一人、作家として成功した藤村にのしかかる負担は大きかったかもしれない。経済的な面で、一族がどれだけ藤村一人を頼ったことか知れない。だが、それを慮ってみたとしても、道徳上のタブーは決して犯してはならないはずだ。 『新生』を読んだ芥川龍之介は、次のように述べている。「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」様々な見解があるだろうが、やはり私も芥川に同感だ。この作品は、私小説に偏見を持たない方におすすめかもしれない。『新生』島崎藤村・著☆次回(読書案内No.76)は辺見庸の『もの食う人びと』を予定しています。コチラ
2013.06.08
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【坂崎千春/片想いさん】仕事でクタクタに疲れて帰ると、もう何もやりたくない。それを見越してコンビニでおでんを買って帰る。私が好きなのは、大根、玉子、つくね、餅きんちゃくである。おつゆもたっぷり入れてもらうのだが、冷やご飯にかけて食べると美味しいからだ。小さな正方形の食卓におでんとご飯とお漬物を並べて、ささやかな夕餉を楽しむ。大学生の息子は帰宅が遅いので、私はいつも一人で食事を済ませる。こういう生活は決して嫌いではない。自分なりに時間を節約して自分のためのゆとりを作って楽しんでいるからだ。親子と言えども人格は違うのだから、自分の都合につき合わせるわけにもいかない。すでに成人している息子には息子のやり方があるし、都合もある。自分の責任において好きにやればいいのだ。 私の生活に彩りが感じられないという友だちがいるとしたら、思いつく点が一つある。それは“恋”をしていないということ。私はどこかで、恋を幻想だと思っている。誰かを好きになるのは結構なことだが、一歩まちがえたら宗教にも似て、対象相手のすべてを信じ、あこがれ、没入してしまう恐れがあるからだ。 そんな中、『片想いさん』を読んだ。著者は坂崎千春で、これが初エッセイ本となる。もともと『片想いさん 恋と本とごはんのABC』というタイトルで出版されたものだが、改題され、文庫化された。この作品はあくまでエッセイなので、小説のような劇的な展開があるわけでもなく、テーマ性を重視したノンフィクションとも異なる。とにかく静かだ。静かな日常と、地味な恋バナを自分なりに受け入れ、消化しようとする独身女性の告白である。 坂崎千春は作家は作家でも絵本作家であり、イラストレーターとして活躍する。東京芸術大学美術学部デザイン科卒。代表作としてJR東日本のSuicaのキャラクターであるペンギンや、千葉県公式マスコットのチーバくんなどを手掛けている。(ダイハツのテレビCMに登場する鹿のカクカク・シカジカなど人気キャラクターをも生み出している。) 『片想いさん』を読んでつくづく実感したのは、これだけの富と名声を手にしてもどこかで人は満ち足りることのできないイキモノであるのだな、ということ。坂崎千春は仕事では成功しているけれども、恋愛は成就することなく、いつも片想いで終わっているらしい。そのどうしようもない孤独感とか寂しさは、徹頭徹尾、終始一貫している。ご縁があって今後結婚し、子どもでもできれば胸にポッカリと空いた穴のようなものは埋められるかもしれない。(ご本人は年齢的にも子どもを生むのはあきらめたようだ。) 私がこのエッセイを支持する理由。それは紛れもなくリアリティを感じられるからだ。単なる日常の雑記的なエッセイなら、あえてこちらのつたないブログにアップして紹介するまでもない。私の心を鷲づかみにして放さなかった一文を紹介しよう。 ずっと秘密にしてきたことがある。ひとりの友人と妹には話したことがあるけれど。「わたしは両思いになったことがない」そして「男の人と寝たことがない」。三十二才にもなって。ただの一度も。 いや、驚いた。内容に驚いたのではない、決して。これほどまでに知名度もあり、芸人でもない一人のイラストレーターが、潔くも深いメッセージをつむぐのは珍しい。私は素直に応援したくなった。どうか神様、この作者に生涯のパートナーを見つけてやって下さい、と。でもきっとそんな私のよけいなお節介など一笑されてしまうに違いない。「シングルのお前に言われたくない」と。いずれにしても、世の中の、生まれてこれまでカレシのいない女性にはおすすめのエッセイ本である。やがてこのエッセイは手放せない愛読書に変わることだろう。 追記:エッセイの他に、手書きの料理レシピ、本の紹介などもされている。 『片想いさん』坂崎千春・著 ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.11.17
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~篁牛人(たかむらぎゅうじん)の渇筆画(かつひつが)を見る~秋の日、前田普羅に思いを馳せながら富山の街をそぞろ歩いた。※前回分はコチラから。しみじみと日を吸ふ柿の静かな秋風の吹きくる方に帰るなり 普羅歩くほどにしみじみと普羅が偲ばれ、この街をこよなく愛した普羅の気持ちを理解した。そして翌日はかねて希望の篁牛人(たかむらぎゅうじん)記念美術館に出かけた。篁牛人の渇筆画(かつひつが)は、三年前に池内紀センセイの『二列目の人生』で知ってからずっと見たいと思っていた。まず渇筆画とはこうである。『極端に細い線で一気に形をとり、それから渇墨で隈どっていく。一説によると、弘法大師にはじまる筆法だそうだ。水墨画の技法ながら、鋭い線描と淡い陰影は西洋のマチエールを思わせる。』池内紀著「二列目の人生」~篁牛人~ときに篁牛人という御仁は一筋縄のお方ではない。『家庭生活の営みを知らず、エゴイズムを丸出しにして、一つのことに賭け、それを押し通した男』そう語るのは篁柳兒さんで牛人のご子息である。(二列目の人生/父の思い出)いまだ見たことのない渇筆画もさることながら、私はこの一文にしびれた。そして牛人を思慕したのである。私はこの手の御仁にたまらない魅力を感じ、一方ならぬ思慕の情に捉われてしまうようだ。敬愛の二人、噺家古今亭志ん生そして俳人種田山頭火がそうである。並みの常識では量り知れない言動が、私を魅了してやまないのだ。ご参考まで、古今亭志ん生師の長男で落語家の金原亭馬生氏は、『うちの親父さんというのは自我の強い、実に突拍子もない人です。しかし、この「突拍子もない」というのは、芸人としてではなく、親としてみればこんな弱った親はないですね。』「父・志ん生の人と芸」でそう綴っている。牛人のご子息も同じだ。牛人も志ん生も山頭火も本来はこうであるべきだ。『仮にも一家の大黒柱として家族の面倒を見なければならない立場にある人間』志ん生のいる風景/矢野誠一しかし彼らは皆、そういう立場にありながら、社会における我が身を省みることなく、家族を犠牲にして好き勝手に振舞い自由奔放に生きていたのだ。もちろん、政治的思想などは微塵もない。あくまでも個人の域において破綻者なのである。それが私にはたまらない。ホンネを言うと私は画家としての篁牛人より破綻者としての篁牛人に興味があった、のかもしれない。さて、肝心の渇筆画である。まずもって、渇筆画は「画」といわず「筆」というようだ。(不見識で申し訳ないが、一般にいう水墨画も「筆」というのであろうか。)作品は概ねが牛人、齢六十を過ぎてからのものであった。まず感じたこと。このおっさん、枯れてない。六十過ぎといえば枯れのペースも中盤に入るころのはずである。ところが、六十四歳の画を見てもまったく枯れを感じさせないのだ。このおっさん、いい歳して頬をテカらせていたのであろうか。これが人非人の所以なのか。普羅が苦吟しながら彷徨した富山の街を、このおっさんはテカテカしながら闊歩したに違いない!私は牛人の渇筆画を見ながらそう確信し、完全に牛人の虜となったのだ。そして一通り「筆」を見てまわり思った。池内センセイのいう『二列目の人生』とは誠に言い得て妙である。こういう破綻者の画(筆)は一列目に掲げられることはないであろう。だがしかし、見る人によってそれは一列目に成り得るのだ。特別な感情、そうとしか表しようのない感情が、その筆をして見る人を虜囚ならしめるのである。あたかも美酒に酔い恍惚となったように。とどのつまり、私もその一人である。まあ、私の場合は牛人の芸術そのものもさることながら、オヒレハヒレに心を奪われたのであるが。私は去り難い気持ちを断ち切るように篁牛人記念美術館を後にした。手元には美術館で求めたポストカードがある。今これを眺めながら思った。魅力の虜囚だ、と。
2013.11.12
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「ジョーニーは?」「残念ながら一度も会ったことがない。詳細はボビー・アールに教わった。やつが凶器の場所を教え、俺が手紙を書き、罪をかぶった。・・・顔色がよくないぜ・・・ハハハ・・・何を考えてる?」「なぜ私を(はめた)?」「異常者のウソを正統化させるためさ」先進国では右へ倣えとばかりに、軒並み死刑廃止論が高まり、すでに実現した国や州も多い。いろんな考え方があるとは思うが、一端を担うのはキリスト教の教義にある“復讐をしてはならぬ”の精神である。一度復讐を許してしまうと、またその復讐をする者が現れ、それが実現されるとさらにまたその復讐を・・・と、永久に繰り返されてしまう所以でもあろう。さらに、白人や黒人、黄色人種など様々な人種を抱える国家においては、文化やイデオロギーの違いから取り返しのつかない判決を下してしまう恐れもある。そういう差別意識から、不当な裁決を下すことを避けるための死刑制度の廃止が叫ばれ続けているのだ。本作「理由」はサスペンス作品でありながら、死刑廃止論者に対し、一石を投じた社会派ヒューマン・ドラマとしても鑑賞できる。ハーバード大学の法学部教授ポール・アームストロングは、討論会を終え、帰ろうとしていた。その際、黒人の老婦人に呼び止められ、無実の罪で死刑監房へ入れられている孫を助けて欲しいと頼まれた。ポールは、その場ではいったん断ったものの、帰宅してからその話をしたところ、妻のローリーは「死刑制反対論者であるあなたが助けずして誰が助けるのか」と説得。そんな妻の後押しもあり、フロリダの刑務所に収監されているボビー・アールと面会することにした。連続殺人鬼ブレア・サリバンに扮したエド・ハリスには、正直驚いた。その迫真の演技さゆえ、今後こういう役しか回って来なかったらどうしようと、エド・ハリスに代わり、思わず悩んでしまった(笑)主人公ポール・アームストロングの一人娘ケイト(8歳前後)の役に扮したのは、スカーレット・ヨハンソンだ。この存在感はすごい!名子役だ。犯人に脅され、首にナイフを突きつけられたケイトが、恐怖のあまり声も出ず、ただ涙だけがツーッと流れるシーンがある。もうこのワンカットに吟遊映人は釘付けになってしまった。このスカーレット・ヨハンソンについて調べたところ、彼女は現在、無神論者だとか。 何らかの賞を受賞した時も、「神に感謝するなんてありえない」と言ったとかいないとか。いやまいった。大胆不敵というか、ユダヤ人でありながら正に、アンチ・ハリウッドな女優さんである。 「理由」のすごいところは、錚々たる役者さんが一堂に会しているところであろう。ハラハラドキドキ、実にスリリングな作品であった。【公開】1995年【監督】アーネ・グリムシャー【出演】ショーン・コネリー、ローレンス・フィッシュバーン、エド・ハリスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.09.05
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【佐藤春夫/この三つのもの】◆細君譲渡事件の真相が語られるさんま、さんま、さんま苦いか塩つぱいか、そが上に熱き涙をしたたらせてさんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あはれげにそは問はまほしくをかし。(「秋刀魚の歌」より抜粋)いつ頃このさんまのフレーズを覚えたのか、なぜか耳に残っている。この詩を作ったのが佐藤春夫だということも、恥ずかしながら最近知ったようなありさまで、よもや内容が佐藤本人と谷崎潤一郎と、その妻・千代との三角関係を憂えたものだなんて、知る由もない。私が読んだ小田原事件の顛末によると、まずは谷崎潤一郎の女性に対するおかしな嗜好から始まっているように思えて仕方がない。というのも、その作風からも分かるように(例えば『瘋癲老人日記』『鍵』『痴人の愛』など)、女性は型破りで、妙に気が強く、手足がほっそりとして美しくなければ存在する意味がないとでも思っている節が見受けられるのだ。だから谷崎の最初の妻・千代が、いくら家庭的で嫁としても申し分のない妻であろうとも、容姿があまりよろしくなく、ずんぐりした体型であっては、谷崎にとって幻滅だった。逆に、千代の妹・せい子なんかは女として妖艶で、谷崎を翻弄した。二人が深い関係になるまで、それほど長い時間はかからなかったに違いない。一方、佐藤も妻・香代子には泣かされた。谷崎とは逆で、香代子が佐藤の実弟・秋雄と深い関係になってしまったのだ。それだけに香代子は、まじめだけがとりえのような佐藤春夫に、男としての魅力を感じなかったのかもしれない。後に、佐藤はこの仕打ちに疲れ果て、香代子とは離別するが、谷崎の方の千代は女の身で簡単に離婚など出来るはずがない。そこには経済的な事情も絡むし、何より世間体というものがある。また谷崎も、せい子との再婚が叶いそうもないとなると、にわかに千代の存在を邪険に出来なくなる。どうやら千代と佐藤の間に、淡い恋心が芽生えているのを知ると、男としておもしろくない。(自分の不貞はさておき)結果、谷崎は佐藤と絶交。これがいわゆる小田原事件のあらましだ。この佐藤春夫という作家の、文士としてのプライドをかなぐり捨てた恋模様は、私小説というには余りにもドラマチック過ぎて、読む者を熱くさせる。どこまでも愛を貫く一途な男の姿は、偏屈な谷崎さえ折れずにはいられない。最終的に和解の方向へと傾いてゆくのだ。谷崎は佐藤の作家としての資質を高く評価し、また佐藤も谷崎に対する恩を忘れてはいなかった。不遇の身の佐藤を救ったのは、谷崎その人だったからだ。二人は長い年月をかけ、お互いを認め、理解し、漸く谷崎の離婚、そして佐藤と千代の結婚を果たす。(細君譲渡事件)佐藤が千代を恋する余り、谷崎との交友を絶ったのが29歳の時。やっと佐藤の誠実さが通じ、千代との結婚に踏み切ることが出来たのが38歳。実に、9年もの月日をかけた結果だ。この闘いは、佐藤のひたすらに恋焦がれるまじめさに、谷崎が負けたような形になるが、未完に終わる『この三つのもの』を手掛けた佐藤が、いかに谷崎を慕っていたかがよく分かる。愛情の苦悩と友情に生きる文士が書けなかった結末は、どちらが勝った負けたなんてどうでもいい。ただ、今ある我々が存在することの意義、意味こそが大切なのだと絶唱しているように思えてならない。重厚にしてリアリティに溢れたこの作品は、余りにも優れた純文学で、読了するのに切なさやら寂しさを伴う。未完で終わるのも、「まことの恋と友情と智恵の石と、この三つのもの」を限りなく尊んだ結果によるものだろう。『この三つのもの』佐藤春夫・著~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く◆番外篇.1新潮日本文学アルバム/太宰 治 パンドラの匣を開け走れメロスを見る!
2012.11.10
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【 村田沙耶香 / コンビニ人間 】今年の冬は、言うほど寒くはなくて、気象庁の予測通り暖冬だったと思う。その分、心配なのは、それだけ早く夏が訪れそうなことだ。とは言え、自然現象を人の力でどうにかすることも叶わないので、自分にできることなんて、予想に備えて気持ちを引き締めるぐらいだろうか?一方で、私事で恐縮だが、息子がこの春、転職した。今の時代、転職なんて大して珍しくもないし、私自身、何度となく繰り返した。だから「ふーん、そうなんだ」と、何でもないことのように振る舞いたかった。それは親としての矜持でもあるから。だが、ショックだった。大学時代、就職試験に向けて寝る間も惜しんで勉強していた息子の努力を見ていた。地元の福祉系の大学からの進路は、ほぼほぼ決められていて、本人もつぶしが効かないことに気付いていた。何が何でも希望の職に就いて、それこそしがみついてでも頑張るつもりだったに違いない。だが、人生とは、そうそう希望通りにはいかないし、ましてや親の願望通りには進まない。全てが予測不可。神のみぞ知る世界。それが人生である。結局、息子は7年間勤務した職場を去ることにした。今は民間企業に転職し、研修を受けつつ1日も早く新しい仕事に慣れようと必死だ。しかし彼はやはり再び福祉の道を選んだのだ。そんな折、私は『コンビニ人間』を読んだ。世の中の価値判断がどうであれ、一定のルールに従って、マニュアル通り合理的に働くことのできる環境を良しとする主人公が、嬉々としてコンビニで働く中、成り行きでコンビニ店員を辞めることになった。だが改めて自分とは何かを模索する中で、やはり自分にはコンビニしかないと気付く、という内容だ。作者は村田沙耶香で、1979年生まれ、玉川大学文学部卒である。2003年に『授乳』で第46回群像新人文学賞を受賞し、デビュー。2016年に、本作『コンビニ人間』で第155回芥川賞を受賞している。作品の傾向としては、ジェンダー文学とも言えるし、ディストピアとも言える。一般的な純文学とはだいぶ違うような気がするので明言を避けたい。作品のあらすじは次のとおり。恵子は幼い頃から奇妙なところがあった。公園で小鳥が死んでいるのを見つけて、友だちは皆かわいそうだと言って泣く一方で、恵子はせっかくだから「これ、食べよう」と母に提案する。母はギョッとするが、恵子としては至って真面目。父が焼き鳥が好きなので、焼いて食べるのがいいと思ったのだ。また、小学校の頃、男子が取っ組み合いのケンカを始めたところ、誰かが「止めて!」と言うので、恵子はすぐに反応して、用具入れからスコップを取り出し、一方の男子の頭を殴って止めた。その後、自分の行為のせいで両親が困惑し、悲しんだりするので、皆のマネをするか、誰かの指示に従うようにして過ごす。それからはカウンセリングを受けたりするものの、特に変化はなかった。大学生になっても変わらなかった。ある時、オフィス街で、新規オープンのコンビニ店員募集のポスターに気付く。恵子はすぐに採用された。コンビニの仕事は全てがマニュアル化していた。皆が同じ制服に身を包み、服装チェックのポスターに従い、身なりを整える。アクセサリー類を外し、「いらっしゃいませ!」と笑顔で挨拶すれば、コンビニ店員の出来上がりである。他にも、温かい物は冷たい物と分けて袋に入れたり、ファーストフードの注文があった場合は、手をアルコール消毒するなど、全てが決まり事となっていた。恵子はこの環境の虜となる。ここにいれば、恵子は「普通」なのだ。世界の正常な部品として起動しているのだった。私はこの作品を読んだとき、何とも言えない空虚な気持ちに苛まれた。でもそれは主人公・恵子に対する同情ではなく、むしろそういうことは表立って出てこないだけで、実は日常生活の中にいくらでもあり得ることなのだと思う。常識という物差しを作ったのが、政治家なのか法律家なのかは分からない。人間が集団で生きていく何年もの長い期間を経て出来上がった倫理なのだろう。おそらくは。だから多くの人たちが普通だと思えることが正義であり、そうではない少数派というのが、いつの世でも奇妙に思われ、果ては変人扱いを受けて来た。現代では心療内科(精神科)の分野も進んで、様々な傾向とか特徴を内包する人格に、病名も付くようになった。恵子にも何か性格的問題を抱え、家族を心配させる障害を持っていたに違いない。だけど問題はそこではなさそうである。この社会に常識というものが暗黙のうちに存在することで、その枠から少しでも外れたら奇異な目で見られる。恋愛をして結婚し、子どもが2人いて、夫が公務員というスタイルが勝ち組なのか?万年コンビニで働くバイトの店員は負け組なのか?一体、人生とは誰のためのものなのか?私たちは生きている限り、人目に晒され続ける。常識にとらわれない生き方なんて、ほぼほぼ不可能に近い。(大胆な人はそれもやってのけるかもしれないが)せめて他人様に迷惑をかけない程度に生きていくなら、どんな職種でも、未婚でも、無趣味でも、大目に見て欲しいと言う筆者の心の叫びを聞いた気がした。『コンビニ人間』は、日本の小説には珍しく、男女の情念や行間に感じられる心の機微のようなものは皆無である。空虚なことすら気付かない程に渇いた文学である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~※筆頭管理人先に吟遊さんから「遅ればせながらコンビニ人間を読んでいる」と言われました。するとタイムリーなことに、週刊文集の一面カラー広告を目にしたもので、吟遊さんにお知らせしました。飛んで火にいる夏の虫(*'ω'*)こちらも「一刻も早く」掲載準備をさせられることになりました(^^;)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2026.04.18
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「これは生物兵器部にとって貴重な標本だ。持ち帰れば君も僕も英雄になれるぞ。一生安泰だよ」「あなた正気なの? 第一、危険な生物が検疫を通るはずないわ」「隠して持ち込めばいいさ」「私が言いつけるわ。あなたが植民者157名の死を招いたってこともね」シリーズ2作目になると、監督はリドリー・スコットからジェームズ・キャメロンに代わり、作風もガラリと変わった。当時、キャメロン監督は『ターミネーター』で大成功を収め、波に乗ってこの『エイリアン2』でも大ヒットを飛ばした。前作との明らかな違いは、やはりその道のプロが指摘したように、ホラー色よりもアクション性を重視した点だろう。1作目は、エイリアンの不気味さ、グロさが前面に押し出されていたが、2作目はエイリアンとの戦闘シーンがクローズアップされ、ドキドキハラハラ感に溢れている。どちらも特色が生かされ、甲乙付け難い完成度の高さだ。見どころは何と言っても主人公リプリーが、パワーローダーを装着し、単身エイリアンと戦うシーンだろう。そもそもパワーローダーは武器ではなく、物を持ち運ぶフォークリフトのようなものだ。 その機械を女性であるリプリーが見事に操作し、しぶといエイリアンを宇宙船から振り落とすのは、正に感動的だった。宇宙船ノストロモ号にただ一人生き残ったリプリーは、57年という長い間、冷凍睡眠カプセルの中で眠っていた。というのも、コンピューターの何らかのトラブルで宇宙空間をずっと漂い続け、発見が遅れたのだ。地球に帰還したリプリーを驚かせたのは、何と、エイリアンの巣食う惑星LV-426が、今は開拓され地球人が住民となっているという事実だった。そんな中、惑星を開拓した住民全員が消息を絶ったとの連絡が入り、リプリーの不安は的中するのだった。今回、日進月歩の科学技術の向上を感じさせたのは、ビショップというアンドロイドの存在だ。前作ではアッシュというアンドロイドに、リプリーは殺されかけたため、そのトラウマからビショップを嫌悪する。そんなビショップは、自分は改良型で問題はなく、人間ではないが恐怖心はあると、リプリーに穏やかに説明する。この辺りの表現方法は、さすがはキャメロン監督の演出。ターミネーターの改良型の登場を彷彿とさせ、科学技術は常に進化しているのだと訴えかけて来る。今回登場する生き残りの少女ニュート役のキャリー・ヘンは、エイリアンに脅えながらも健気に生き延びる姿が意地らしい。キュートな愛らしさで作品に癒しを与えてくれる。『エイリアン2』は、前作同様、いやそれ以上に、生きることへ執着する人間の強さを教えてくれる、素晴らしい作品だ。1986年公開【監督】ジェームズ・キャメロン【出演】シガニー・ウィーバー★シリーズ1作目「エイリアン」はコチラから。★シリーズ3作目「エイリアン3」はコチラから。★シリーズ4作目「エイリアン4」はコチラから。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.07.22
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「拳銃が欲しいんです。」「分かりました戸辺さん。もしイヴの日にどこかのコインロッカーのキーが届いたら、私からのイヴの贈り物だと思ってください。」原作の白川道氏の作品は、残念ながらまだ読んだことがない。「イヴの贈り物」の作風に限って言えば、浅田次郎の短編小説を彷彿とさせる。いわゆる「純愛」をテーマにしたものだろうか。だがこの作品から感じられるのは、もっとセンチメンタルで同情的でしかもやみくもな感情だ。この作中の誰かに感情移入する必要などない。我々は全て、傍観者なのだ。この日本のどこかで起こっている「かもしれない」ドラマなのだ。一流商社マンの戸辺は、派閥闘争に敗れ左遷。安らぎの場であるはずの家庭も夫婦仲は冷め切っており、会話と言えば妻の愚痴を聞かされるのが関の山だった。一人娘はすでに病気で亡くなっており、人生の生きがいは仕事に打ち込むことだけだった。そんな中、行きつけのカフェで19歳の女性アルバイト店員、中沢恵子と出会う。戸辺は彼女に亡くした愛娘の面影を追っていた。ある時、恵子が暗い路地で柄の悪い男にからまれている現場を目撃し、声をかける。戸辺のおかげで助けられた恵子は、安心感のある戸辺に全てを打ち明けるのだった。父親の残した借金のせいで、いまだにお金を取り立てられていること。母親が女手一つで自分を育ててくれたこと。クリスマスイヴにはろくな思い出がないことなど。そして二人は、いつしか客と店員という関係からもっと親密であたたかな関係に変化してゆくのだった。佐藤監督がメガホンを取ると、なぜか人生の無情とか哀切が一層際立つ。男と女の関係を単なる肉欲の対象にせず、もっと深く、精神的な結びつきとして表現してくれるから嬉しい。人をいたわる気持ち、愛おしむ気持ちは、人間の最も崇高な魂なのだ。それが間違った方向の行為であっても、全力で傾ける純粋な愛は、孤独さえも凌駕してしまうと言いたげなラストであった。エリート商社マンから一気に奈落の底に落ちぶれた主人公を、舘ひろしが好演。胃がんを患って頬がこけている様はごく自然で、メイクではなかった。舘ひろしの役者魂を見たような気がした。また、貫地谷しほりの可憐で初々しい演技も良かった。男性視聴者を釘付けにしたに違いない。2007年 WOWOWにて放送【監督】佐藤純彌【出演】舘ひろし、貫地谷しほりまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.28
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【愛を読む人】「人は“収容所で何を学んだか”と訊くわ。収容所はセラピー? それとも一種の大学? 学ぶものはないの。それだけはハッキリ言える。彼女への許しが欲しいの? 自分の気を軽くしたいの? カタルシスが欲しいなら・・・芝居に行くか本を読んで、収容所なんか忘れてちょうだい。何も生まれない所よ・・・何も」本作はドイツ人作家であるベルンハルト・シュリンク原作の『朗読者』という小説を映画化したものである。シンプルなオリジナル・タイトルと比較すると、「愛を読む人」という邦題は、実にドラマチックで興味をそそられる。メガホンを取ったのはスティーブン・ダルトリー監督で、代表作に「めぐりあう時間たち」などがあるが、アカデミー賞9部門にノミネートされるなど非常に評価の高い作品を手掛けている。さて、本題に入る。本作「愛を読む人」のテーマは、ズバリ、“状況判断”ではなかろうか。もっと噛み砕いて言うと、“その時、もし自分がその人の立場にあったらどうするか”。 それを視聴者に問いかけているような気がする。ポイントとなるのは、刑に服すハンナの面会に出掛けたマイケルが、ユダヤ人収容所でのことをどう思うか、その後何を学んだかなどをハンナに問いかける場面がある。おそらくこの時マイケルの中では、「とても反省している」などのしおらしいハンナの返答を期待したに違いない。だが、ハンナの答えはマイケルが望んだものではなかった。マイケルにはその時、ハンナの収容所における看守としての立場など想像も出来なかったであろう。ハンナが与えられた職務を全うしたところで、ドイツのユダヤ人に対する仕打ちは常識的に許されざる行為であった。その後、ハンナが自殺することで、マイケルは少しずつハンナの置かれた立場、つまり状況を理解してくことに努める。このくだりは実に興味深い。マイケルがハンナとの過去の甘い記憶を胸に秘め、刑務所にいるハンナにせっせと朗読テープを送る献身的な面を持ち合わせながらも、一方でハンナの身元引受人を依頼する連絡には戸惑いを隠せないでいる。この苦悩は幸いにも、マイケルを単なる偽善者にさせない、人間の本質的な心理を追求することに成功している。そんなところからも、吟遊映人はこの作品を単なるラブ・ロマンスとして捉えるには余りに短絡的ではなかろうかと考える所以なのだ。第二次世界大戦後のドイツが舞台。15歳のマイケルは、気分が悪く、道端で嘔吐しているところを21歳も年上の女性であるハンナに助けられる。猩紅熱で何ヶ月もベッドに伏していたマイケルは、回復後にハンナのアパートを訪れる。 その後、2人は年齢差を越えた愛欲に溺れていく。そんな中、いつしか情事の後は、ハンナの要望でマイケルは本を読むことが日課となった。それは、「オデュッセイア」であったり「犬を連れた奥さん」といった作品である。ある日、いつものようにマイケルはハンナのアパートを訪れると、そこはもぬけのから。 訳も分からずマイケルは自分が捨てられたのだと傷心の日々を送る。やがてマイケルは、ハイデルベルク大学の法科生となる。授業の一環として、ナチスの戦犯の裁判を傍聴することになったところ、なんと被告席にハンナが座っているのだった。ハンナ役に扮するのはやっぱりこの人、ケイト・ウィンスレットである。この女優さんは不思議にこの手の役柄を演じると、見事にハマってしまう。何とも薄幸な雰囲気がそこかしこから漂うのだ。言うまでもなく、本作でアカデミー賞主演女優賞を受賞している。大学の教授役としてブルーノ・ガンツがチョイ役で登場する。「ヒトラー~最期の12日間~」での存在感たっぷりの演技は、ここでも健在だ。「愛を読む人」は、吟遊映人の心を掴んで離さない。人がその時、持てる力で状況を判断し、だが結果として相手を傷つけてしまったら・・・。挫折や後悔のない人生なんてない。苦悩を抱えて、人は生きてゆく。人はいつも、相手の置かれた立場を理解できずに過ちを繰り返すのだから。涙なしには観られない、重厚なテーマを扱う作品であった。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】スティーブン・ダルトリー【出演】ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、ダフィット・クロス
2014.01.26
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ゆうべの台風どこに居たちょうちょ 風天作者の風天(ふうてん)は、『フーテンの寅さん』こと渥美清氏の俳号である。この句風、どことなく山頭火のようではないか。情景が目に浮かび、思わず頬が緩むのである。寅さんも山頭火も、大いなる愚人であった。その魅力は、人をひき付けて離さない「愚人」ぶりであったといっても過言ではあるまい。「人はみなひそかに愚人を求めている。」評論家 外山滋比古氏は『人間的』でいみじくもそう述べている。さもありなん、かつて我が国では幇間という職業も存在していたわけで、彼の国では、道化師は王様のおかかえであった。みな愚人が大好きなのだ。愛すべき、大いなる愚人 寅さん。1969年8月末日、『男はつらいよ』シリーズの第1作が公開された。 2012年8月30日、寅さんを偲ぶ。
2012.08.30
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【河合隼雄/こころの処方箋】◆「常識」を知らない現代人のための指南書こういう本は、まず自分から買い求めることはない。どちらかと言えばこれまで興味がない分野だったからだ。今回はたまたま大学生の息子が読了し、「なかなか良かった」とのことだったので、私も読んでみることにした。『こころの処方箋』は“新刊ニュース”に1988年2月号から1991年12月号まで連載されたものである。内容はエッセイとして万人に読み易いように工夫がこらされている。 著者の河合隼雄は兵庫県出身の臨床心理学者である。京大理学部卒で、日本におけるユング派心理学の第一人者とのこと。(著者プロフィールによる。)代表作に『母性社会日本の病理』等がある。 『こころの処方箋』は、大学生の息子が読むぐらいなので、いわゆる一般常識が平易にまとめられている。(著者自身のあとがきにも「常識を売物にして」いるとある。)というのも、暗黙の了承のように伝わるはずの常識が、昨今では通じなくなってしまったからだ。その理由はいろいろとあげられるけれど、ここでは省略する。 読んでみるとなかなか面白いことが書かれていた。当たり前のことなのに、ふだんすっかり忘れているようなことである。たとえば、 「人の心などわかるはずがない」「ふたつよいことさてないものよ」「マジメも休み休み言え」「男女は協力し合えても理解し合うことは難しい」「ものごとは努力によって解決しない」「善は微に入り細にわたって行わねばならない」「『昔はよかった』とは進歩についてゆけぬ人の言葉である」「日本的民主主義は創造の芽をつみやすい」「心配も苦しみも楽しみのうち」 などなど、カレンダーの標語になりそうな見出しで、それを読むだけでも力になりそうな言葉なのだ。今を生きる若い人たち、あるいは見えない壁にぶち当たってもがいている人たちにお勧めいたいのは、「ものごとは努力によって解決しない」という“処方箋”である。これは私自身にも覚えがあるのだが、自分なりにコツコツと努力を続けているにもかかわらず、一向にそれが報われないことがある。あるいはその努力を誰も認めてくれない場合がある。反ってろくに努力もしていない人が、派手なパフォーマンスや言動で注目を浴び、一躍有名になったりする。これは一体どういうことなんだろう?著者が言うには、「確かにいくら努力しても報われないとか不運としか言いようがないとか、そのような人が居られることは事実」であるとのこと。しかし翻って考えてみると、「努力すればうまくゆく」などということが本当に正しいのだろうか?著者ははっきり名言する。「人間が自分の努力によって、何でも解決できると考える方がおかしいのではないか」この言葉は、目から鱗が落ちる思いだった。もちろん、だからと言って一切の努力を放棄して問題を投げ出してしまうことが良策だとは思わない。河合隼雄が言おうとしているのは、努力をすることが目標なのではないし、解決などというものは、「しょせん、あちらから来るもの」だから、そんなことを目標にするな、と言うことなのである。 つまり、「せいぜい努力でもさせて頂き」、やるだけやってみるか、ぐらいの気持ちでいるのが望ましいというわけだ。肩肘張らず、自分のできる範囲内で頑張ってみて、その後、「ひょっとして解決でも訪れたら、嬉しさこの上なし」というスタンスがベターなのではと述べている。 4月からフレッシュマンとして社会人スタートを切る皆さん、何らかの問題にぶつかったとき、「自分の努力が足りないからだ」と不必要に自分を責めることなく、また努力ということばに踊らされることなく、がんばって下さい!メンタルが疲れたなぁと思ったら、枕元に『こころの処方箋』を置いて、憂鬱な五月病を乗り越えて下さいね! 『こころの処方箋』河合隼雄・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.03.20
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【ビル・カニンガム氏、逝く】心より、ビル・カニンガム氏のご冥福をお祈り申し上げます。吟遊映人ブログの過去記事です。ご覧いただけましたら幸甚です。コチラから
2016.06.27
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「訴えられちまってさ」「訴えられた?」「急患にちゃんとできるだけのことして、あとはデカい病院できちんと診てもらえって言ったのに。そいつがそのままにしやがって、死んでから家族が訴えてきた・・・今、裁判の最中なんだよ。まぁ医療過誤で訴えられたって保険入ってるから本当は平気なんだけどさ。仮に民事で負けたとしても医師免許取り上げるわけじゃねぇし。いくらでも医者は続けられんだよ。でも親父はさ、訴えられたことがよっぽどショックだったのか、重傷の鬱病だってよ」本作で主人公・祐司の妻役を演じた桜井幸子は、昨年末に女優業を引退した。脚本家・野島伸司の作品では常連であり、個性あるキャラクターを透明感のある演技で見る側を惹き付けた。吟遊映人が桜井幸子を初めて知ったのは、TBSドラマ「高校教師」である。真田広之との絡みが衝撃的で、そのインパクトのあるストーリー展開に毎週釘付けになった。そんな桜井幸子には末永く女優業を続けてもらいたかったが、こればかりは本人の都合や意思もあるのでどうにもならない。これまでたくさんのドラマや映画でのご活躍、本当にご苦労さまでした。そして、我々を楽しませて頂き、どうもありがとうございました。都心に今世紀最大の直下型地震が発生した。都市機能は徐々に回復の兆しを見せつつあったところ、地震の影響からか海水温度が上昇、巨大な台風が日本列島に襲い掛かろうとしていた。高潮で水没した地下鉄構内で、元ハイパーレスキュー隊員の祐司が、耳の不自由な愛娘を必死で探す。駅で一人怯える姿を見つけたのだった。そんな中、台風の妨げによりなかなか救助隊が現れず、生存者は生き延びるために必死で耐え忍ぶ。先日のシナでの大地震や、4月半ばを過ぎての大雪、N.Y.では真夏日を観測するなど各地で異常気象が現実のものとなっている。本作「252 生存者あり」は、単なるパニック映画としてではなく、“ありえるかもしれない”という危機感を持って鑑賞すると、また違った感想を持つことになるであろう。作中のクライマックスでもある、台風の目の中にあるたった18分間の救出劇のシーンは胸を打った。救いの手を差し伸べる側と、生きようと必死に助けを求める側との様々な心の葛藤、心理描写が実に素晴らしかった。2008年公開【監督】水田伸生【出演】伊藤英明、内野聖陽、山田孝之また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.04.27
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夕づつを見てきよくかがやかにたかくただひとりになんぢ星のごとく 佐藤春夫※夕づつ:夕方、西の空に見える金星。宵の明星。デジタル大辞泉より
2014.01.20
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「それじゃ宇宙の大きさって?」「無限だ。」「なぜ分かるの?」「データがある。」「未証明よ。目でも確かめてない。」「でも信じてる。」「愛もそれと同じよ。」一芸に秀でた人物というのは、とかく一風変わった人格の持ち主であることが多い。だが全てにおいて完璧な人間などこの世に存在しないので、そういうアンバランスな側面を見てかえってホッとするのも事実だ。この作品の主人公である天才数学者ナッシュも、実在の人物を基にした映画だが、かなり変わっている。正に“天はニ物を与えず”とはこのことだ。奨学生として優秀な成績でプリンストン大学の数学科に進学したナッシュは、ウィーラー研究所への就職を希望していた。だがスランプ状態に陥っていたナッシュは、なかなか斬新で奇抜な論文を作成することができず、教授からウィーラー研究所への推薦状は書けないと断られてしまう。そんな中、ルームメイトのチャーリーが必死でナッシュを勇気付け、励まし続ける。その激励が功を奏し、ナッシュの論文が認められ、ウィーラー研究所への就職が内定する。そこでの仕事はナッシュにとって退屈でつまらないものだったが、ある時、謎の人物、諜報員パーチャーにソ連の暗号解読を依頼される。世界の危機を救うのだという使命感から、ナッシュは密かにスパイ活動を続けることを決意する。この映画の注目すべきところは、やはりナッシュが統合失調症であることが発覚する前と後の経過がガラリと変化する点であろう。彼を激励し、支えて来た人物だと(視聴者が勝手に)思い込んでいたルームメイトのチャーリーは、実はナッシュの中の幻覚だったのだ。さらに政府の諜報員パーチャーも同様。ナッシュが現実と幻覚の狭間で思い悩み、葛藤しているのと同時進行で、視聴者もある種のトリックに引っ掛かってしまったような、妙な感覚に襲われる。この演出は、ストーリーをドラマチックに脚色する上で非常に効果的に成功していた。 主人公ナッシュ役を好演したラッセル・クロウは、素朴だがあたたかみのある人物が適役。低音の紳士的な声が、女性ファンを魅了してやまない。彼の魅力に逸早く気が付いてハリウッドに連れ出したのが、シャロン・ストーンだ。そういう意味ではジャロン・ストーンの先見の明は侮れない。プロデューサーとしての眼も肥えている女優なのだ。2001年(米)、2002年(日)公開【監督】ロン・ハワード【出演】ラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.16
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我が宿は 越のしら山 冬ごもり行き来の人の あとかたもなし良寛
2011.12.26
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「親父、あの女に酒を。」「へい。」(夜鷹、被り物を脱ぎ、色目をつかう。)「ハハハ・・・俺も年でな、そっちの方はいけねぇんだよ。まぁこっちへ来て、体のあったまるものをゆっくり飲んで行きな。さぁさぁ・・・」「旦那・・・。」後に万感の想いで直木賞を受賞した池波正太郎だが、正統派歴史小説家として直木賞選考委員に海音寺潮五郎が名を連ねていた時は、その辛辣な酷評のもとに直木賞を逃していたのだ。しかし、池波作品は大衆から愛され、「読み易い」との定評があり、時代小説家として確固とした地位を確立した。池波正太郎の代表作に、「鬼平犯科帳」は言うまでもないが、「剣客商売」や「真田太平記」などがあげられる。「真田太平記」は天才軍師・真田幸村を扱った作品だが、機知に富み、天文・知略に通じた真田家の登場人物を生き生きと描いている。ちなみに真田家の居城は長野県上田市にあり、10年ほど前だったか“池波正太郎・真田太平記館”なるものが開館し、話題を呼んだ。老いてすでに盗人稼業から足を洗っていた九平は、故郷の加賀国へと向かっていた。途中、通り雨に見舞われて御堂で雨宿りをしていたところ、後から3人の男がやって来て軒下で何やら密談を始めた。それは、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の暗殺計画であった。3人は御堂の中の九平に気付かず、雨があがるとすぐに立ち去ってしまった。頑固で臆病者の九平は、その話を聞かなかったことにして、その1年後、江戸で居酒屋を開くのだった。やっぱり勧善懲悪の時代劇は安心して観ていられるから嬉しい。特に鬼平役の中村吉右衛門の圧倒的な存在感はどうだ!この人がいるからお江戸の町は安心なのさ・・・的な雰囲気さえ漂ってしまう。通りすがりの夜鷹でさえ鬼平に恋してしまうのだから、このキャラクターの魅力って一体・・・?極悪非道の網切の甚五郎という悪役は、大杉漣が好演。血も涙もない悪いヤツとして演じてくれた。「鬼平」を観た後のこの爽快感! これがまたたまらない。暗く陰鬱な時代劇なんか、どれほど芸術的価値があるか知らないが、やっぱりこうでなくちゃ。勧善懲悪、これにて一件落着!2006年フジテレビ系列にて放送【監督】井上昭【原作】池波正太郎【出演】中村吉右衛門、小林稔侍また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.19
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【男はつらいよ~寅次郎恋歌~】「庭一面に咲いたりんどうの花、あかあかと明かりのついた茶の間、にぎやかに食事をする家族たち・・・私はその時、それが・・・それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと、ふとそう思ったら、急に涙が出てきちゃってね。人間は絶対に一人じゃ生きていけない。逆らっちゃいかん。人間は人間の運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと、不幸な一生を送ることになる。分かるね、寅次郎君。分かるね?」「へい、分かります・・・」シリーズ8作目は、初代おいちゃん役の森川信が最後の出演を果たしている。そういう意味で、『男はつらいよ』シリーズの初期作品の節目ともなっている。森川信はコメディ俳優であり、大阪を拠点に森川信一座として活躍した際には、作家の坂口安吾に絶賛されたとのこと。(ウィキペディア参照)それもそのはず、おいちゃん役は3回入れ替わったけれど、あの寅次郎の親族に相応しいキャラを持ち合わせていたのは、何と言っても森川信だけだ。だんご屋の主人とはいえ、あくせく働く様子はなく、昼寝をしたり、タバコを吸ったり、タコ社長とくだらないお喋りをしたりと、どこか寅次郎の気ままな性格とオーバーラップするのだから。これが血縁というものなのだろう。渥美清と森川信のコミカルな演技合戦は、この作品で最後となるのが何とも惜しい。8作目のストーリーは、これまでになくテーマがはっきりしていたように思える。それは、ささやかな日常生活にこそ本当の幸せがあるのだという、家族団らんへの憧憬みたいなものだ。高度成長期まっただ中の、ややもすれば働き過ぎのお父さんたち、あるいは金儲けに目のくらみがちな日本人全体に向かって、平凡な日常生活にこそ己の存在価値があることを伝えたかったのかもしれない。話はこうだ。ある日、岡山から一通の電報が届く。それは博の母が危篤だというものだった。さくらはすぐに博に知らせると、二人は急遽、岡山へ行くことにする。二人が岡山の実家へ到着した時には、すでにお通夜が始まっていた。葬儀当日、親族側に座っていたさくらを驚かせたのは寅次郎だった。というのも、たまたま岡山で商売をやっていたところ、博の母が亡くなったことを知り、焼香をしに来たのだという。喪服を着ていない普段着の寅次郎に、さくらは恥ずかしさやら何やらで戸惑ってしまう。葬儀が済んで、博やさくらが東京へ帰った後も、寅次郎は何となく一人残された博の父親のことが気にかかり、岡山へ居ついてしまう。そんなある晩、博の父親がしみじみと語るのは、自分のこれまでの人生を振り返り、平凡な暮らしこそが幸せなのだということに気づいたとのこと。寅次郎に人並みの生活をするように、遠回しに忠告するのだった。その話に感じ入った寅次郎は、翌朝には岡山を発ち、柴又へ帰郷する。ところが例によって寅次郎は題経寺のすぐそばで喫茶店を営む美人店主・六波羅貴子に一目惚れしてしまうのだった。本作でのマドンナは、池内淳子である。この女優さんもまた薄幸な感じがして、その上、上品でしかも後家さんという設定が憎らしいほどマッチしている。寅さんが夢中になってマドンナの経営する喫茶店に足を運ぶのもよく分かる。今回は、こっぴどいふられ方をするわけでもなく、二枚目の恋人が現れるでもない。単に寅さんがこの辺が潮時だと見切りをつけるのだ。それはおそらく、マドンナ・貴子が「あちこち旅に出かけられるなんて羨ましい」と言ったひとことで、心が離れたのではなかろうか。つまり、そんなに甘いものではないのだと、喉まで出掛かりながら、しょせん自分と貴子とは住む世界が違うのだとあきらめの境地になったのではなかろうか。8作目は、ストーリー展開も然ることながら、出演者一人一人が演技の奥行きを存分に発揮した作品となっている。コメディ色は抑えられ、ヒューマン・ドラマの域にまで達した、山田洋次監督渾身の一作に思えた。1971年公開【監督】山田洋次【出演】渥美清、倍賞千恵子、池内淳子寅さんシリーズ『男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『続・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ フーテンの寅』 コチラ寅さんシリーズ『新・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~望郷篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~純情篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~奮闘篇~』 コチラ
2013.08.25
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「どっこも大変じゃね。うちも万歳、万歳・・・言うて、男の子二人とも送り出して・・・。」「母ちゃん、戦争は(もうすぐ)終わるし。兄ちゃんもすぐ帰って来るけん。」「西さんも克己も、待っちょるけんね。死んだらいけんよ。」自分も含めて現代を平和に生きる者にとって、戦争は映画の世界でしかないのかもしれない。父の年の離れた長兄は、海軍の軍人で、戦死している。遺骨も遺品も何一つない遺族にとって唯一の心のよりどころは、戸籍に残された戦没事項。その記事によって、すでにこの世の人ではないことを自分に言い聞かせ、けじめをつけるのだ。参考に、戦没者である伯父の戦没事項を記載しておく。『昭和拾九年七月拾八日午後参時マリヤナ島沖ニ於テ戦死○○縣隊区司令官○○○○報告』※県名と司令官の氏名は伏せさせていただく。ストーリーは回想シーンとして展開していく。鹿児島の枕崎漁港に、戦艦大和の沈没した場所へつれて行って欲しいと懇願する一人の女性が現れる。聞けばその女性は内田二等兵曹の養女であった。他の漁師たちが相手にもしない中で、ただ一人神尾だけがその女性の願いを聞き入れ、出港するのであった。昭和19年10月にレイテ沖海戦に出撃した戦艦大和は、米軍の猛攻を受け、わずか5日間のうちに武蔵を始めとする戦艦、駆逐艦、潜水艦等、味方の多数を失う。ここで大日本帝国海軍連合艦隊は事実上壊滅。翌年、大和の乗員たちは最後と成り得るであろう任務を果たすべく、沖縄水上特攻作戦を決行する。しかし、大和の燃料は片道のみ、味方の戦闘機支援もなく、米軍の戦闘機を艦砲射撃のみで迎撃するという無謀な作戦であった。勝敗は言うまでもなく、圧倒的な戦力の差の前に大和は成す術もなく、米軍機からの猛攻を受け、乗員3000名と共に東シナ海の藻屑と消えるのだ。作中、神尾の戦友、西のセリフに「三反百姓に現金収入はありませんから」という一言がある。これこそが当時の日本という国を赤裸々に物語っているだろう。西は、貧しい農村に残して来た母に、海軍から支給されたわずかな手当てを送金し続けている。それは、世界最大の戦艦を建造する国家でありながら、農村では極貧に喘ぎ、生活苦のために若者たちが軍人に志願したというのが事実である証拠なのだ。当時の日本が、ナチス・ドイツと何ら変わらぬ軍事国家であったことがわかるであろう。 「死」を美化してはならない。国防のための戦争なら許されるなどと、短絡的に戦争肯定論に傾倒してはならない。末端に横行するのは、新兵いじめ、リンチ、体罰、共食い(食糧不足による人肉食)などの暗澹とした心理の、ごみ溜めのような残酷の極み。真実の敵は仲間うちにあり、そこから崩れてゆくのだ。戦争によって荒んだ心理、植えつけられた精神主義は、人格を崩壊する。この作品では反戦主義が随所に盛り込まれ、東大文学部卒の佐藤監督の「死」を美化してはならないというテーマが、全面に打ち出されており、素晴らしい反戦映画に仕上がっている。我々が今一度過去を省みる時、北緯30度43分、東経128度4分※に、今もひっそりと眠る大和を思い出さねばならない。そして、自らの意志とは別に、国家の都合で命を落としていった若者たちの魂を決して、決して無駄にしてはならない。合掌。なお、昨年、惜しまれて泉下の人となられた辺見じゅん氏が原作を執っている。吟遊映人は、原作もお読みいただく事をおすすめしたい。※昭和20年4月7日、戦艦大和沈没の場所である。2005年公開【監督】佐藤純彌【出演】反町隆史、中村獅童また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.02.09
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