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【太宰の桜桃忌に寄せて 栗木京子】太宰は死に際して、遺書と1枚の色紙をしたためており、色紙には、「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という短歌が書かれていた。「水」「濁り」「影」「雨」といった言葉が暗い心情を表しているようで、太宰自身の詠んだ辞世の歌と誤解されがちだが、実は彼の歌ではない。明治から大正にかけて活躍した歌人・伊藤佐千夫の歌なのである。佐千夫は正岡子規に師事して「馬酔木」や「アララギ」を発刊した人物。小説「野菊の墓」の作者でもある。「池水は」の歌は、佐千夫が世をはかなんで詠んだものではない。現在の都内江東区に住んでいた彼は、近くの亀戸天神にたびたび足を運んだ。その折に境内の藤の花の美しさに魅了され詠んだのがこの句の歌なのである。(6月16日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~本日、6月19日は太宰治の桜桃忌である。毎年、女性を中心にした熱心なファンで墓前に人垣の花が咲く。鬱陶しいなぁ、などと漏らしたら叱られそうだ。彼岸でも、ニヒルな薄ら笑いを浮かべる太宰なのである。それにしても何故、太宰は伊藤佐千夫の短歌を残したのだろうか。太宰ほどのナルシストには、少し不自然な気がする。ましてや、作者の意図を無視した用い方である。そしてなにより辞世の一つや二つを詠めない太宰ではないはずだ。あれこれ考えをめぐらしていると、また太宰の薄ら笑いが見えてきた。やはり一筋縄ではいかない御仁である。死してなおその影響力や大、何か太宰の術中にはまったようでくやしい。ときに画像の『恥の多い生涯を送って来ました。』は「人間失格・第一の手記」の冒頭である。太宰の直筆原稿から一部を拝借した。「人間失格」は太宰の黙示録と言えなくもないのだが、私の書架には時を経て三冊となった「人間失活」がある。私は決して太宰のファンではないが、その時の表紙(装丁)に興味がわいて求めたものだ。薄い文庫でも同じ背表紙が三冊並ぶと存在感がある。そしてその奥にはいつも太宰の薄ら笑いが見える・・・バー「ルパン」で三島由紀夫が太宰にかみついたという話は有名だ。「僕はあなたが大嫌いだ!」私には三島の胸中を察するに難くはない。(ただし、その後の太宰の薄ら笑いも容易に推察される。)栗木さんのエッセーを読み、私は37年前にもとめた初代の「人間失格」を紐解きしばし読み耽った。そして気がついた。また太宰の術中にはまってしまったのだ。「僕はあなたが大嫌いだ!」いくら毒づいても太宰は薄ら笑いを浮かべるだけである。さて、太宰が用いた伊藤佐千夫はすばらしい短歌をたくさん残している。子規門下だけあり、写実の効いた歌がとても多いのだ。そして健全で生き生きしている。伊藤佐千夫は私の故郷に縁があり、故郷を詠んだ歌が多数あることからとても身近に感じている。『み仏に 救はれありと 思ひ得ば 嘆きは消えん 消えずともよし』伊藤佐千夫太宰は伊藤佐千夫のこの短歌を知っていただろうか。薬と女性に溺れた人間は、この歌をどう読むであろうか。それにつけても、太宰が伊藤佐千夫を引いたのはなぜだろうか・・・桜桃忌に際し、なにはともあれ太宰のご冥福を心よりお祈り申し上げる。
2014.06.19
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「拳銃が欲しいんです。」「分かりました戸辺さん。もしイヴの日にどこかのコインロッカーのキーが届いたら、私からのイヴの贈り物だと思ってください。」原作の白川道氏の作品は、残念ながらまだ読んだことがない。「イヴの贈り物」の作風に限って言えば、浅田次郎の短編小説を彷彿とさせる。いわゆる「純愛」をテーマにしたものだろうか。だがこの作品から感じられるのは、もっとセンチメンタルで同情的でしかもやみくもな感情だ。この作中の誰かに感情移入する必要などない。我々は全て、傍観者なのだ。この日本のどこかで起こっている「かもしれない」ドラマなのだ。一流商社マンの戸辺は、派閥闘争に敗れ左遷。安らぎの場であるはずの家庭も夫婦仲は冷め切っており、会話と言えば妻の愚痴を聞かされるのが関の山だった。一人娘はすでに病気で亡くなっており、人生の生きがいは仕事に打ち込むことだけだった。そんな中、行きつけのカフェで19歳の女性アルバイト店員、中沢恵子と出会う。戸辺は彼女に亡くした愛娘の面影を追っていた。ある時、恵子が暗い路地で柄の悪い男にからまれている現場を目撃し、声をかける。戸辺のおかげで助けられた恵子は、安心感のある戸辺に全てを打ち明けるのだった。父親の残した借金のせいで、いまだにお金を取り立てられていること。母親が女手一つで自分を育ててくれたこと。クリスマスイヴにはろくな思い出がないことなど。そして二人は、いつしか客と店員という関係からもっと親密であたたかな関係に変化してゆくのだった。佐藤監督がメガホンを取ると、なぜか人生の無情とか哀切が一層際立つ。男と女の関係を単なる肉欲の対象にせず、もっと深く、精神的な結びつきとして表現してくれるから嬉しい。人をいたわる気持ち、愛おしむ気持ちは、人間の最も崇高な魂なのだ。それが間違った方向の行為であっても、全力で傾ける純粋な愛は、孤独さえも凌駕してしまうと言いたげなラストであった。エリート商社マンから一気に奈落の底に落ちぶれた主人公を、舘ひろしが好演。胃がんを患って頬がこけている様はごく自然で、メイクではなかった。舘ひろしの役者魂を見たような気がした。また、貫地谷しほりの可憐で初々しい演技も良かった。男性視聴者を釘付けにしたに違いない。2007年 WOWOWにて放送【監督】佐藤純彌【出演】舘ひろし、貫地谷しほりまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.28
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【江戸川乱歩/幽霊塔】◆黒岩涙香の翻案を乱歩が再創作もともと推理小説とか怪奇小説というジャンルは、通俗小説の筆頭にあげられるものである。そのため、作品としての評価が今一つ盛り上がらないのは致し方ない。言わずと知れた江戸川乱歩は、西洋と比べると立ち遅れていた日本の創作小説というものを確立した人物であると言っても過言ではない。かの大谷崎も、江戸川乱歩の描くおどろおどろしい世界観に早くから目をつけており、高く評価している。日本人が実は、根っからのエロ・グロ好みである気質を、鋭く見抜いていたという点では、江戸川乱歩は谷崎に勝るとも劣らない文士なのだ。江戸川乱歩といえば、『怪人二十面相』に始まる少年読み物が代表作であるのは疑う余地もないことだが、昨今でも一般読者の圧倒的な支持を集めるのは、この『幽霊塔』である。この作品はもともと黒岩涙香の翻案したものを、さらに乱歩が再創作した小説である。〈※ウィキペディア参照〉巻末にある乱歩本人による注釈だと、当時はこの黒岩涙香の翻訳した原作というものが分からなかったとのこと。だが最近になって原作が判明。アリス・マリエル・ウィリアムソンによる『灰色の女』がベースとなっているようだ。 『幽霊塔』のあらすじはこうだ。舞台は長崎の片田舎、K町。時代は大正初期。主人公・北川光雄の叔父が、時計塔のそびえる古風な西洋館を地所ごと買い取った。光雄は改築を命じられ、はるばる下見にやって来たのだ。ところがこの西洋館には、幽霊が出るといういわくつきの物件だった。というのも、もともとの持ち主は徳川末期の大富豪渡海屋市郎兵衛で、維新前の物情騒然たる時世ゆえに財宝の隠し場所としてからくり部屋を作ったところ、出入り口が分からなくなってしまい、そのからくり部屋で巨万の富とともに絶命した。その非業の死が悲痛な魂となって屋敷内をさまよっているという伝説が、まことしやかに囁かれていた。その後、時計屋敷はお鉄婆さんという老婆の持ち物となったのだが、いっしょに住んでいた養女に殺されるという悲運な最期を遂げた。このような因縁めいた屋敷に不安を覚えつつ見回っていたところ、光雄は突然、美しい女性と出くわす。それはそれは神秘的で、凛とした美しさを持つ、野末秋子という女性だった。秋子はなぜか時計屋敷について詳しく、大時計の巻き方なども知っており、持ち主である光雄の叔父にも挨拶がてらその旨、教えたいとのこと。こうして光雄は、秋子に対して深い詮索もせず、その魅力的な美貌から、徐々に気持ちが秋子の方へと傾いてゆくのだった。内容は古めかしく、時代性を感じさせるものだが、登場人物の善悪がハッキリ分かれているし、不透明感のない結末は、読後、清々しい。ラストでこれだけ後日談がきちんと語られていると、本当の意味でのハッピーエンドを味わえる。とかく社会派ミステリーなどにはつき物の、絶望的な後味の悪さは、乱歩の描くこの作品には皆無である。怪奇小説、スリラー小説は苦手だという人も、この『幽霊塔』なら、あるいは最後まで楽しめるかもしれない。『幽霊塔』江戸川乱歩・著(原作・アリス・マリエル・ウィリアムソン『灰色の女』より)☆次回(読書案内No.115)は寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.03.01
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「アナキン、大いなる神秘を知るには、あらゆる側面を学ばねばならぬ。ジェダイの教えは独断的で狭い。賢い指導者になりたければ、フォースのすべてを受け入れるのだ。ジェダイに気を許すな。ジェダイより強い力は私を通してのみ身に付くのだ。フォースの暗黒面を学べば、妻を死の運命から救えるだろう。」映画製作を家族にたとえてみた。一家の大黒柱である主人を監督だとすると、ムードメイカーとして家庭に表情を生み出すのは脚本家の妻。その二人の間に生まれた子どもたちがそれぞれに個性を持ったスタッフである。そう考えてみると、監督と脚本家との相性というのは非常に大きな問題である。監督が脚本家も兼ねている場合はもちろんあるが、多くの場合、監督とは別に脚本を書く者として執筆者が参加している。名匠と呼ばれる監督の成功は、ひとえに有能な脚本家に恵まれた際、そこに「名作」が生まれるのだ。よって、どれほど多才な映画技術を駆使する監督と言えども、脚本に恵まれなければそのほとんどが駄作となって不評に終わってしまう。それほどストーリー・テラーとは重要なポジションにあるわけなのだ。エピソード3は、エピソード三部作中、最も重要で、かつ重苦しいストーリーとして描かれている。舞台は、アナキンとパドメの極秘結婚から3年後の出来事。パドメはアナキンの子を宿すところからストーリーは展開する。シスの暗黒卿ダース・シディアスは、銀河系の支配を完全なものとさせるため、ジェダイの騎士たちを抹殺することを企む。一方、若きジェダイのアナキンについては、(エピソード2で)母を殺した者たちへの憎しみ、そして失ったことへの哀しみが災いし、暗黒面へと引き込まれる隙を与えてしまう。さらにアナキンは自分の命と言っても過言ではないパドメを失う予知夢を見てしまったせいで、尋常ならざる恐怖心に駆られてしまう。その結果、アナキンはダークサイドへと落ちていくことになる。旧三部作を導くためのエピソードシリーズが、果たして成功したものであるかどうかは観客の感覚に委ねられている。一つ言えるのは、この込み入った脚本の内容から推測するに、「スター・ウォーズ」シリーズの熱狂的ファンのために制作された番外編なのではなかろうか。優れた特殊効果の多用と視覚的な魅力はあいかわらずで、息継ぎすら許さない緊迫感とスリリングな光景は秀逸。また、オープニングのタイトルと同時に流れる大音量のメインテーマを作曲したジョン・ウィリアムズは、観客の期待を裏切らないアクション・スコアを効果的にかもし出している。この音楽性は、後期ロマン派、あるいはワーグナーあたりを意識しているのかもしれない。いずれにしても「スターウォーズ」と言えばほとんど条件反射的にこのメインテーマを思い出すのだから、その浸透性は深く、いかにテーマ音楽として成功したかを物語っている。2005年公開【監督】ジョージ・ルーカス【出演】ユアン・マクレガー、ヘイデン・クリステンセンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.16
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『自分自身に』他人を励ますことはできても自分を励ますことは難しいだから、というべきかしかし、というべきか自分がまだひらく花だと思える間はそう思うがいいすこしの気恥ずかしさに耐えすこしの無理をしてでも淡い賑やかさのなかに自分を遊ばせておくのがいい 吉野 弘詩集「贈る言葉」より詩人の吉野弘氏が逝去された。享年87歳。『祝婚歌』がつとに有名である。ある程度の年齢の方は、吉野氏の名は知らなくとも、結婚披露宴で『祝婚歌』を一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。自分が「まだひらく花」などと口幅ったくて言えやしないが、ときに沸々と湧きおこる情動を持て余すことはある。そんな時は吉野氏の詩にふれ、我が身を行間で「遊ばせて」やろう。吉野氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げる。
2014.01.21
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いたつきに三年こもりて死にもせず又命ありて見る桜かな 正岡子規※いたつき:病
2014.04.08
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古池や蛙飛びこむ水のおと 松尾芭蕉
2014.07.04
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春眠暁を覚えず春の川ひねもすのたりのたりかな
2010.03.16
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「この金を持って逃げるんだ。そして国境を越えろ。少しでも遠くへ行け」「感謝の言葉もありません・・・」「ロホスたちが追って来る前に行け」「なぜ(私たちに)親切にして下さるのですか?」「昔、あんたのような女がいた。だが誰も助けなかった」急激な衰退を見せた西部劇は、90年代に入って古き良き西部劇へのオマージュとも取れる作品を、ケヴィン・コスナーによって次々と発表された。だがどうだろう。評価はもう一つだったような記憶が残っている。そもそも西部劇というのは、比較的歴史の浅いアメリカが、そのフロンティア精神を物語にすることで、アメリカ建国のいわば“古事記”にしようと試みたものだった。そういう意味で言うと、日本の時代劇とは根本的に違う。だが西部劇そものが風化してしまっても尚、現代映画のアクションモノやSFモノの中に活かされることで機能しているのだ。60年代、そんな西部劇に脚光を当てたのは、なんとイタリア人監督のセルジオ・レオーネであった。いわばマカロニ・ウェスタンの登場である。しかしセルジオ・レオーネという監督は、日本の黒澤作品に傾倒しており、そのサムライ文化に大きな衝撃を受けたという経緯があるのだ。さらには、映画人として生活のために稼がなくてはいけないという使命もあった。そんなハングリー精神は、見事に功を奏した。本作「荒野の用心棒」は、そんな中、誕生したのだ。アメリカとメキシコの国境近いとある田舎町。そこはロホとバクスターの二大暴力集団が横行する、無法地帯だった。ある日、アウトローのジョーが酒場にやって来る。人の好い店主から町の荒んだ状況を聞かされ、「悪いことは言わないから早くこの町を去れ」と助言される。だがジョーは、一計を企てるとロホに取り入り、悪者たちを一掃しようと試みる。ジョーは拳銃を持たせたら、早撃ちの名手だったのだ。さすがの吟遊映人も、若きクリント・イーストウッドのカッコ良さにグッと来た。しかしながら、イーストウッドのポンチョ姿にくわえ葉巻といういで立ちには驚いた。 いくらなんでもアメリカ人がポンチョを着るというのは、どうなんだろうか・・・。それはまるで西欧人が、日本映画には必ずニンジャが登場すると思い込んでいるようなものではないだろうか。やはりこればっかりは、イタリア人の製作した西部劇であるという背景を拭えない。だがラスト、ポンチョを脱いだところで「なるほど、そういうわけでポンチョが必要だったのか」と納得する。全体を通して、名作と言われる所以をそこかしこからかもし出してくれる、マカロニ・ウェスタンの金字塔なのだ。1964年(伊)、1965年(日)公開【監督】セルジオ・レオーネ【出演】クリント・イーストウッドまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.05.12
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ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行
2014.04.09
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「申し訳ありませんでした」「謝ることなんて何もないぞ。君たちは十分ベストを尽くした。・・・次は私の番だ」 本作で思わず目を見張ったのは、“公安”の存在だ。ずい分前に、法曹界に片足を突っ込んだ友人から、公安の凄さは訊いていた。公安は、日本国家を守るための機関なので、警察組織からも独立し、その素顔をさらすことはない。国家に対し、不穏な動きがあれば、たとえそれが内閣総理大臣と言えども監視のターゲットと成り得る。電話は常に盗聴して分析し、暗号などを使った特殊な会話を24時間態勢で解析するのだ。さらに、作中にもあったように、公安は世間の日常に溶け込んで生活している。傍目に見れば、どこにでもある家族風景なのだが、実は何気なく町内に潜む要注意人物を監視するために、何年もかけて居住するのだ。それはもう見事な家族ごっこであり、連携プレーなのだ。そんな公安の潜入捜査がクローズ・アップされたのは、何と言ってもオウム真理教の一件であろう。だが、日本のCIAとも言える公安は、あまりドラマとしては成立しにくい。とにかく全貌が明らかにされていないので、ほとんど想像の世界だからであろう。それに比べると、SPの世界はドラマになり易い。命をかけて要人を警護するという行為は、何やらアクション映画の王道たるニオイがプンプンする。井上は警護課第4係のメンバーとともに、六本木ヒルズで行なわれている地雷撲滅キャンペーンの警護に当たっていた。そんな中、晴れているのにこうもり傘を持つ不審なスーツ姿の男を発見。すぐさま井上は、その男の追跡に乗り出す。一足先に仲間の笹本が男に声をかけたところ、一目散で逃走。井上は必死で追跡する。一方、第4係の係長である尾形は、公安から目をつけられていた。というのも、テロリストの背景に尾形が一枚かんでいることを掴んでいたからだ。尾形はSPでありながら、何やら不穏な動きを見せていたのだ。「SP」は、フジテレビ系列で放送されていたTVドラマの劇場版である。映画では、野望篇と革命篇の2部作があり、今回、吟遊映人は野望篇の方を鑑賞してみた。主人公井上の役を、V6のメンバーである岡田准一が熱演している。ルックス良し、演技良しで、まずまずの好評。他にも堤真一や香川照之らが脇を固めることで、単なるアクション・ドラマではなく、印象的で迫力のある演技を披露してくれている。ラストはやや消化不良に陥りぎみだが、おそらく革命篇への動員を促すための効果であろう。全体を通して、まずまずの作品であった。2010年公開【監督】波多野貴文【出演】岡田准一、堤真一、香川照之また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.07.21
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桜を追って北上していたはずの友人は、いつのまにか山陰ののどかな田園風景を前に、思わずシャッターを切っていたようだ。そこがどこなのかははっきりと分からない。だが、今は少なくなった棚田に、古き良き日本の美しさに想いを馳せ、友人はすぐさまメールに画像を添付して来たのだ。その写真からは大地の匂いと、光に揺れる水面が、初夏の風に吹かれてキラキラと輝いているように感じられた。友人はその写真に陶淵明の詩を寄せていた。“田園詩人”と呼ばれる陶淵明を引用したところを見ると、華やかな都会の生活に疲れ果て、素朴な田舎暮らしに逃避したくなったのだろうか?いずれにしても、友人のあてのない気ままな旅は、まだまだ続きそうなのだ。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.05.23
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鳥居より内は鳥啼く若葉哉 子規
2012.05.26
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【イヤー・オブ・ザ・ドラゴン】「中国人の言い草にはもううんざりだ! 君らには賭博も賄賂も神聖侵すべからずか? 数千年来の伝統だって? そんなカビくさいものくそくらえだ! アメリカはまだ200歳だ。君らの遅れた時計を合わせろ! 君らには特権はないんだ。他の人種と何ら変わりはない。だから平等に法律に従え!」 80年代半ばと言ったら香港映画の全盛期ではなかったか?もちろん、この作品は香港映画ではなく、単にチャイナタウンが舞台となっているに過ぎないが、東洋系俳優の際立つ演技力には目を見張るものがある。その筆頭が、チャイニーズ・マフィアのジョーイ役に扮したジョン・ローンである。この役者さんの代表作に『ラスト・エンペラー』などがあるが、身のこなしが優雅で品格のある物腰に、世の女性はずい分と沸いたものだ。さぞかし立派な出自のお家柄なのではと思いきや、なんと孤児院育ちと言うから驚いた。(ウィキペディア参照)そんなわけで、正式な生年月日もよく分からないまま今に至っているようだ。そんなジョン・ローンがマイケル・チミノ監督によって見出され、若きチャイニーズ・マフィアの役を熱演したのは、何かの因果かもしれない。これがきっかけでジョン・ローンはスターダムにのし上がるのだ。舞台はニューヨークのチャイナタウン。チャイニーズ・マフィアのボスが暗殺されたことで、盛大な葬儀が行われていた。チャイニーズ・マフィアの内部では、新旧対立によるリーダー争いがくり広げられていたのだ。一方、ニューヨーク市警のスタンリー刑事は、それまでの警察とマフィアの馴れ合いを一掃するために送り込まれたのだが、独断的なやり方を警察内部から非難されていた。また、仕事一筋で家庭を顧みないことから、スタンリーの妻・コニーとは最悪の夫婦関係になっていた。チャイニーズ・マフィアの抗争を必死で報道する、中国系アメリカ人のTVレポーターであるトレイシーと接近するスタンリーは、妻のことを気にしつつも、トレイシーに傾いてしまう。スタンリーはチャイニーズ・マフィアを敵にし、妻からも愛想をつかされ、上司や同僚からも疎まれ、四面楚歌の状態で闘いに挑むのだった。主人公スタンリー刑事に扮したのは、若きミッキー・ロークである。このころのミッキー・ロークは、ジョニー・デップなみのエキゾチックなルックスに恵まれ、ハリウッドの若手スターとしてキラキラ輝いている。その後、不遇な時代を過ごし、『レスラー』で久しぶりに見たミッキー・ロークの容貌は、若かりしころの面影を残すこともなく、浮腫み、歪んでいて、あの甘い声さえ失われ、嗄れていた。だが、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』の時のミッキー・ロークより、『レスラー』で復活したミッキー・ロークの方が、はるかに好きだ。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はバブル期と重なり、むやみやたらと「ノリノリ」な?猥雑さが垣間見られる。内容というよりは、出演者の快演を味わいたい作品だ。1985年(米)、1986年(日)公開【監督】マイケル・チミノ【出演】ミッキー・ローク、ジョン・ローン
2013.02.03
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【群ようこ/三人暮らし】◆独身女性3人がシェアして暮らす生活群ようこのエッセイは本当におもしろい。どれを取ってもハズレのないエッセイを書き続けるエッセイストは珍しい。初期のころのものだが、『鞄に本だけつめこんで』などブックガイドになっていて、とても参考になった。私はこの群ようこのエッセイを読んで、川端の『山の音』を読んだり、谷崎の『瘋癲老人日記』を読むきっかけを与えられたのだから、それはもう感謝の一冊となっている。他にも、『無印良女』や『財布のつぶやき』などどれも最高にして傑作のエッセイばかりだ。そんな群ようこは小説も書いているのだが、エッセイストとしての看板を背負った彼女が好きなので、どうも小説の方は敬遠していた。それでもと思って読んでみたのが『三人暮らし』だ。うん、なかなかいい。様々な人生を背負った独身女性が3人集まって、シェアして暮らすという物語だ。女性のパターンはいろいろで、例えば78歳同い年の3人の老女だったり、母とリストラされた娘2人だったり、職場の同期入社のOL3人だったりする。そういういろんなパターンの女性3人の物語が短編で、10篇収められているのだ。現代社会では、共白髪になるまで夫婦睦まじく老後を過ごすという考えが揺らぎ始めている。一生シングルを貫き通す人もいれば、夫のリタイアと同時に熟年離婚という例もあり、老後のライフスタイルは多様化している。そんな中、どんな生活形態がベストなのか、まだまだ未知数だし、結果として本人が満足ならばそれで構わないという状況である。『三人暮らし』の中に「三人で一人分」という作品がある。78歳の女性ら3人がマンションを購入して一緒に暮らすというお話だが、ものすごく前向きで愉快だ。もともと3人は戦後タイピストとして働いて来た職業婦人だ。いわば女性たちの憧れの的で、一線で活躍して来たものの、寄る年波には勝てず、今は体力やトイレを気にして旅行にも出かけられないし、美容院も節約と称して行かなくなってしまった。だがこのままではいけない、まだ足腰の立つうちにと、旅行の計画を立て始めるのだった。私が好感を持ったのは、いくつになっても女性は女性で、美容院で髪をセットしてもらい、お化粧を施してもらうと、パッと華やぐシーンだ。奮発してデパートで洋服や靴を購入するところなども、読んでいて自分のことみたいに気持ちが明るくなってしまう。さて旅行に出かける日の朝、「尿漏れバッド、持ちましたね」と確認し合う3人の女性の会話が可愛い。こういうほのぼのとした物語は、下手な恋愛小説よりよっぽど魅力的だ。さすがは群ようこだ。エッセイの中に感じていた格調高く優雅なムードは、小説の中にも爽やかに感じられる。厭味がなく優しいお話がたっぷり詰まった小説だ。『三人暮らし』群ようこ・著☆次回(読書案内No.48)は深沢七郎の『東北の神武たち』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの■No.24宮本輝/流転の海 第一部 戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!■No.25岩井志麻子/ぼっけぇ、きょうてぇ 女郎が寝物語に話す、身の上話■No.26柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・?■No.27宮尾登美子/櫂 妻は黙って亭主に傅くのみ。殴られても蹴られても耐えるべし■No.28向田邦子/阿修羅のごとく いくつもの顔を持ち合わせているのが女なのだ■No.29樋口一葉/にごりえ 明治の娼妓のコイバナ、そして人情沙汰■No.30南木佳士/阿弥陀堂だより 信州の自然美に触れて生き返る■No.31東川篤哉/謎解きはディナーのあとで エンターテインメント性重視、ポップでライトなミステリー小説■No.32辻仁成/ピアニシモ 25歳ぐらいまでに読んでおきたい青春小説■No.33田口ランディ/コンセント 引きこもりをテーマにした社会派小説をねらうも、結果オカルト小説■No.34沢木耕太郎/無名 最愛の父を看取るまでを淡々と語る■No.35浅田次郎/月のしずく エンターテインメント性バツグン! ドラマチックなラブ・ストーリー■No.36有吉佐和子/香華 花柳界に生きた母娘の愛憎劇■No.37田山花袋/蒲団 男の嫉妬、男の哀しさを赤裸々に描く■No.38連城三紀彦/恋文 嘆きとせつなさは、恋愛小説の醍醐味■No.39重松清/エイジ もしもクラスメイトが通り魔だったら・・・?■No.40大崎善生/パイロットフィッシュ おしゃれで、どこか老成した主人公「僕」の語り口調■No.41小川糸/食堂かたつむり 癒しを求めて何となく手に取る小説■No.42中島敦/山月記 声に出して読みたい小説■No.43瀬戸内晴美(寂聴)/美は乱調にあり まともな死に方しないと言い放つ女■No.44渡辺淳一/君も雛罌粟われも雛罌粟 夫に恋い焦がれてパリまで向かう■No.45有川浩/阪急電車 列車内でくり広げられる一期一会■No.46綿矢りさ/蹴りたい背中 自意識過剰な女子高生を冷静に見つめる
2013.03.02
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【男はつらいよ~望郷篇~】「寅さんたら、だんご屋だんご屋って言うから、私てっきり屋台の方だと思ってたら立派なお店みたいじゃないの」「何が立派だよ、犬小屋に毛が生えたようなもんだよ」「帝釈様の門前町にあるんでしょ? 立派なもんよ」「帝釈様なんて、豚小屋みてぇなもんで」「あら有名なお寺じゃない! 写真で見たわよ、裏に江戸川が流れてて」「あんな川、ドブ川みてぇなもんで」 『男はつらいよ』は、もともとテレビドラマから始まってブレイクした。だが実際、なじみ深いのは映画作品の方である。ほとんどの人がそうではないだろうか?シリーズ5作目は、『男はつらいよ』の完結篇として製作されたこともあり、テレビドラマの出演者を総動員させてのキャスティングで、そうそうたる顔ぶれとなった。マドンナ役は長山藍子で、テレビドラマの方ではさくら役を演じており、山田監督とは気心の知れた女優さんだ。とはいえ、映画ではさくら役を倍賞千恵子が演じており、その知性美や物腰にとうてい及ぶものではない。圧倒的な存在感でさくら役を印象付けたのは、倍賞千恵子であろう。だから個人的には倍賞千恵子に軍配を上げたい。今回の寅さんはこれまでになくマドンナとの結婚を意識して、堅気になろうとするプロセスがクローズアップされている。それだけに寅さんの想いに全く気づかないマドンナには、滑稽なほどの失恋をしてしまうのだが、それもまた「らしさ」となって効果的に生かされている。話はこうだ。寅さんは旅先で、おいちゃんが重病で亡くなる不吉な夢を見てしまう。心配になって柴又に帰ってみると、たまたま暑さのために横になっているおいちゃんを見てびっくり。寅さんは、「やっぱり夢は正夢だったのか」と、葬儀屋から題経寺の住職・御前様などに段取りまでつけてしまうのだった。早とちりとはいえ、死人扱いされたおいちゃんは怒って寅さんと大ゲンカ。結局、いつものように寅さんは出て行くはめに。その後、舎弟の登から札幌の極道仲間が重病だという知らせを受け、慌てて見舞いに行く。すると病院のベッドに、枯れ枝のように横たわる寝たきり老人となってしまった姿を見て、寅さんは驚き悲しむ。身寄りのない極道者が、最後のよりどころとしたのは、20年も前にほったらかした女に生ませた息子のことだった。寅さんは、登といっしょに必死で探し出し、息子を病院まで連れて行こうとするが、「20年もほったらかしておいて、今さら親子などとムシのいいことを言わないで欲しい」と、拒絶されてしまう。寅さんは仕方なくあきらめ、病院に戻ってみると、すでに仲間は息を引き取っており、極道者の惨めな末路をしみじみと実感するのだった。このことがきっかけで、寅さんは堅気になろうと決意。千葉県の浦安にある小さな豆腐屋で働くことにした。その店には、老いた母親と、若くて気立ての良い節子という娘が住んでおり、男手のなかった二人には寅さんが願ったりの働き手であった。寅さんは朝早くから汗と油にまみれて働くのだが、それもこれも、例によって、節子という明るくチャーミングな娘に惹かれてのことだった。皮肉なものだと思うのは、山田監督がこの5作目で一区切りつけようと思って、これだけゴージャスなキャスティングを揃えてやってみたところ、当然のように爆発的な人気を呼んだ。結果、『男はつらいよ』のシリーズが延長されることになるのだから不思議だ。おそらく、テレビドラマからずっと楽しんで来た方々は、この作品で、さくら役が完全に長山藍子から倍賞千恵子に、博役が井川比佐志から前田吟に、おばちゃん役が杉山とく子から三崎千恵子に交代したことを、改めて実感したのではなかろうか?さすがは天下の山田洋次監督の演出だけのことはある。見ごたえたっぷりの内容となっている。1970年公開【監督】山田洋次【出演】渥美清、倍賞千恵子、長山藍子寅さんシリーズ『男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『続・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ フーテンの寅』 コチラ寅さんシリーズ『新・男はつらいよ』 コチラ
2013.08.04
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【司馬遼太郎/『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 前編】◆時代の変革、歴史の動く瞬間を垣間見る!これまで数々の歴史小説を手に取り、そのつど胸をときめかせて来たものだけれど、『国盗り物語』以上に夢中になったものがあっただろうか?もちろん、吉川英治の『三国志』も子母沢寛の『勝海舟』もおもしろかった。だが、いかんせん長い。『国盗り物語』は全四巻となっていて、一・二巻は斎藤道三、三・四巻は織田信長を取り巻く物語となっている。歴史上の人物のあらましを知るには適切な長さとなっていて、読者を飽きさせない。さらには、時代の変革に伴うエネルギーがそこかしこから感じられるのだ。主要人物たちを突き動かす変革への情熱がほとばしり、歴史の動く瞬間を垣間見るような錯覚さえする。驚いたのは、著者である司馬遼太郎がこの小説を書いた時の年齢だ。何と、今の私と同じ42歳とな?!42歳にしてこれだけの表現力、洞察力を持ち合わせ、緻密な調査を繰り返し大作を書き上げた司馬遼太郎という人は、あるいは超人ではなかろうかと、度肝を抜いてしまった。様々な作家が戦国武将の武勇伝をおもしろおかしく書きつらねているけれど、司馬遼太郎の斎藤道三ほど人間臭く、それでいて生き生きと情熱的に描かれたものはないだろう。それはもうとびっきりのキャラクターに仕上げられていて、読んだそばから斎藤道三のファンになってしまうほどだ。その魅力あふれる斎藤道三が、娘婿となる織田信長と出会い、やがてはその意志を信長によって引き継がれていくまでが一・二巻で描かれている。話はこうだ。後の斎藤道三である松波庄九郎は、妙覚寺本山の僧だったが、還俗して今は乞食も同様だった。だが大志を抱いていたから、転んでもタダでは起きない。まずは経済的基盤を固めるために、油問屋の奈良屋へ婿入りを果たす。奈良屋の身代であるお万阿は、庄九郎にとことん惚れ抜いていることもあり、また物分りの良い女であるから、庄九郎の大胆不敵な天下取りの野望に大いに賛同する。その後、奈良屋は山崎屋と名を変え、これまで以上に大繁盛する。経済的な基盤が出来上がると、次に庄九郎はどの国を制するかについて考えた。庄九郎が着眼したのは、美濃である。美濃は名家であるはずの土岐家が腐敗しきっていることで、庄九郎のつけ入る隙を与えた。また、「美濃を制する者は、天下を制する」とも思っていた。そうと決めると庄九郎の行動力は素早い。まず山崎屋の商売を全てお万阿に一任し、自身は身一つで美濃に下った。美濃には常在寺という大寺があり、そこの住職は庄九郎にとって妙覚寺時代の学友であったのだ。庄九郎は美濃についてもっと詳細を知りたいし、名族や豪族を紹介してもらうのに都合が良い。日護上人にしても、京での噂話や、修行時代の思い出話も語り合いたい。何より、上人は大の世話好きであったから、それに甘えて庄九郎は常在寺に長期滞在を決め込んだ。その後、日護上人の兄である長井利隆の紹介を経て、本丸でもある土岐頼芸に接近するのだった。このように、『国盗り物語』のおもしろいのは、ムサいホームレス上がりの男が、それまでに培った知識、教養、交友、経済力の全てをフル活用し、着実にステップ・アップしていくところだ。これほどまでに生きることに貪欲だと、呆れるというより、むしろ圧倒されてしまうのだから不思議だ。斎藤道三の子孫は、どうやらその血統を恥じて、美濃から遠州・浜松へと流れたそうである。だが、後世、この『国盗り物語』の斎藤道三と出合うことでどれだけ救われたことか。斎藤道三は、乱世を生き抜く知恵と勇気を持った人物として、第一巻ではしめくくられている。嗚呼、ページをめくる指先がもどかしい。斎藤道三の豪傑ぶりは、二巻へとつづく。『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 前編☆次回(読書案内No.90)は司馬遼太郎の「『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 後編」を予定しています。コチラ
2013.09.07
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【朝日新聞 天声人語】苦楽をともにしてきた老妻が死んで、葬式もすんだ。隣家の奥さんが通りかかって「お寂しゅうなりましたなあ」。「一人になると急に日が長(なご)うなりますわい」。つぶやく夫の向こうに瀬戸内の海――。変哲もないシーンながら、映画「東京物語」のラストは何回見ても胸にしみ入る。 監督の小津安二郎は「映画ってのは、あと味の勝負だと僕は思ってますよ」と後に語っている。その術に心ふるわせたファンは多かろう。世界的な巨匠の、きょうは誕生日にして命日。生誕から110年、没して50年にあたる。 作品の多くは、家族や人のつながりを「無常の相」としてとらえる。古き良きものが崩れていく現実が淡々と示される。作詞家の故・阿久悠さんは小津映画を見ながら、家の間取り図を描いたことがあったそうだ。 そこでは家族それぞれが、他の家族を見るともなく目の端に入れながら暮らしている。盆栽をいじる父、料理をする母、本を読む妹、グローブに油を塗る弟――。「絆」という語をあまり叫ばずにすんだ時代かもしれない。 いま、「孤」という字が社会にのさばる。むろん家族にも地域にも煩わしさや重荷はある。それを嫌って、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏みすぎて来なかったか。功と罪を、古い映画は問うているかのようだ。 「おれは豆腐屋だから豆腐しか作らない」と言って作風を変えなかった。今ならどんな映画を撮るだろう。その墓は鎌倉の円覚寺にあって、「無」の一文字が刻まれている。(12月12日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ふたたび小津監督である。先の記事はコチラをご覧いただきたい。朝日新聞も負けじとばかりに小津監督を扱った。「道徳」というと妙に反応する朝日新聞なのだが、記事はなんとも「道徳的」ではないか。とはいえ、こういうコラムを目にすると、サスガは朝日、そう思わないではいられない。「道徳的」なところが鼻白まないでもないが、それもご愛嬌だ。一定の抑制も感じる。今日はわきまえているのだ。やればできるじゃないの、天声人語さん!それはそれとして、小津監督はやはりいうことが違う。「映画ってのは、あと味の勝負だと僕は思ってますよ」文学もそうだが、「ふたたび」の気分にさせてくれるかどうか、それが真贋を見究める判断だと私は心得る。その気分を起すのが小津監督のいう『あと味』なのだ。豆腐屋は正鵠を射る。何事も、ふたたびという『あと味』にさせてこそ真(一流)となる。だから『あと味』のないものは即ち贋(三流)である。余談ながら昨今、サービス業界で言われている「顧客満足」のもとになるのも、「ふたたび」の気分にある。物が売れない、客が入らない、そうお嘆きの企業や店舗に共通するのは、商品やサービスに「ふたたび」の気分が起きないということだ。つまり、小津監督の言う『あと味』がないのである。新規開拓に汲々としているところは疲弊し、やがて没落の憂き目を見る。それは映画も店舗も同じことなのだ。「人は自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」豆腐屋小津安二郎、そうサラッと言いのけるだけの大人物なのだ。(移ったり辞めたりを繰り返す議員さんとは大違いなのだ。)墓石に「無」と刻ませることだけはある。いまだ拝んではいないが、円覚寺の「無」は、さぞやさまになっていることであろう。ときに天声人語さん。『今ならどんな映画を撮るだろう。』これは無粋だ。そして『あと味』の何たるかをご理解いただいていないというものだ。まずは、『何回見ても』胸にしみ入ったという「東京物語」を、もっともっと見てほしい。それはそうと。「剣岳」で気をよくしたのか、木村キャメラマン改め監督が、またメガホンを手にしたそうだ。しかも山が舞台と言う。木村氏らしい。小津DNAの最後が木村氏あたりになるのだろうか。封切の折は、是非とも劇場に馳せ参じたいと思う。新作に思いを馳せ、亡き大監督を偲ぶ師走半ばであった。
2013.12.15
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【キャリー】「女になったのね」「ええ、びっくりしたわ。(中略)どうして生理のことを教えてくれなかったの?」「『最初の罪は性交』『性交は罪』」「私・・・罪なんて犯してないわ!」春の嵐の中、飛ばされそうになる傘を必死で押さえながら、TSUTAYAに出向いた。店に着いたときは足もとはぐっしょり濡れ、髪の毛は山姥のようにボサボサになっていた。それはガラスの自動扉にうっすらと自分の姿が映っているのを見て気づいたのだが、心底驚いた。まるでホラー映画に出て来る得体の知れない何かみたいではないか?!だからというわけではないが、それがきっかけで、よし、今日はホラーを借りよう、そう思った。 2013年にリメイクされた『キャリー』を見ようか、それともオリジナルの方を見ようかさんざん迷ったあげく、やっぱりオリジナルの方から見ることにした。デ・パルマ作品で衝撃を受けたのは、何と言っても『殺しのドレス』である。エレベーターという密閉された狭いスペースでの殺人は、ヒッチコック監督の『サイコ』におけるシャワールームでの殺人を連想させるもので、かなりのインパクトだった。そんなデ・パルマ監督がスティーヴン・キング原作の『キャリー』を手掛けたのは、すでに40年も昔のことだ。なので画的に時代性を感じなくもないが、決してB級モノではなく、最高傑作と言っても差し支えない。 ストーリーはこうだ。ハイスクールに通うキャリーは、地味で冴えない容姿から、いじめのターゲットにされていた。ある日、体育の授業が終わると、更衣室でシャワーを浴びるのだが、その最中、キャリーは初潮を迎える。生理の知識を知らないキャリーはパニックを起こすが、他のクラスメートたちはそれをおもしろがり、キャリーに向かってナプキンやタンポンを投げつける。騒ぎを聞きつけた女性教師が慌ててキャリーをかばい、いじめた生徒らを叱りつけ、事態をおさめる。その後、いじめ問題を重く見た女性教師が女生徒らを呼び出し、高校最後の卒業パーティーに参加したいなら毎日体育の補講に出席するよう突き付けた。そして万が一、その課題を拒否するなら卒業パーティーへの参加を禁止するというものだった。女生徒らは卒業パーティーにどうしても参加したいがため、ブツブツ文句を垂れながらも居残り授業を受けることにした。ところがその補講があまりにもキツイせいで、加害者筆頭のクリスがボイコットする。さらにクリスは、キャリーのせいでこんな目に合ったのだと逆ギレし、キャリーに復讐する計画を立てる。一方、キャリーは学校だけでなく家でも過酷な状況下に置かれていた。キャリーの母は宗教にハマリ、女性の性を憎しみ、呪っていた。初潮を迎えた娘の成長を喜ぶどころか汚れた肉体だと言ってキャリーを虐待する。それもこれもキャリーの母は、その極端な性格からなのか亭主に愛想を尽かされ、他の女性のもとに去られてしまっていた。そんな環境で育ったキャリーは、いつのまにか自分に特殊な力があることに気付き始めるのだった。 デ・パルマ監督のスゴイのは、ホラーなのにちゃんとサービスカット?!が取り入れられ、冒頭から視聴者の目を釘付けにさせてしまうところである。それは、更衣室で女子高生が賑やかに着替えたりシャワーを浴びたりするシーンだ。何とも言えない瑞々しさと、若さにむせ返るようなカットとなっている。また、思春期のハチャメチャな明るさをかもし出すことにも成功しており、後半の惨劇とのギャップに驚愕する。いじめ問題を扱うにしても、40年前のアメリカにこれほど残酷ないじめがあったのだとしたら、たいへんな社会問題である。スティーヴン・キングがペンの力で警鐘を鳴らそうとした意図が、充分理解できる。深読みしすぎかもしれないが、主人公の母親がいくら神に祈りを捧げ宗教に傾倒したところで状況は何一つ変わらず、反って悪化したところは神の存在の限界さえ表現しているようにも思えた。 デ・パルマ作品における『キャリー』の見どころは、青春の光と影の対比が見事に表現されているところにある。思春期のどうにもコントロールの難しい感情のうねり、ハチャメチャな明るさ。それは、男子たちが卒業パーティーに着ていくタキシードをレンタルしに行く、明るくコミカルなシーンを一つ取っても効果的だし、もう一方で、女子たちがキャリーを明るく陽気に(?)いじめ倒していく残酷なシーンも、青春の闇に迫る仕上がりとなっている。オリジナル版の『キャリー』がこれほどまでに完成度の高いものだとすると、2013年版のものがどうリメイクされているのか見ないではいられない。ホラー好きの方は必見だ!! 1976年(米)、1977年(日)公開【監督】ブライアン・デ・パルマ【出演】シシー・スペイセク、パイパー・ローリー、ジョン・トラボルタ
2017.04.16
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第一回 田舎の素朴な僧侶である父は「金閣ほど美しいものはこの世にない」と私に教えた。リアルな金閣を知らない私にとっては、父の語る金閣こそが最高のものであった。 近くに適当な中学校がなかった私は親元を離れ、叔父の家に預けられた。そこから東舞鶴中学校(現・京都府立東舞鶴高校)へ通った。私は体も弱く、吃りがあり、さらにはお寺の子だと言うので毎度イジメを受けた。 近所に有為子と言う美しい娘がいた。女学校を出たばかりで舞鶴海軍病院の特志看護婦である。私は度々有為子の体を思ってそれに触れるときの指の熱さ、弾力、匂いを思った。 ある晩、その空想に耽ってろくに眠ることのできなかった私は外へ出た。そして、とある欅の木陰に身を隠す。有為子がここを自転車で通勤するのを知っていたからだ。 私は有為子の自転車の前へ走り出た。自転車は急停車をした。 言葉こそがこの場を救うただ一つの方法であるのに、私の口からは言葉が出ない。「何よ、へんな真似をして。吃りのくせに」 有為子は石を避けるように私を避けて迂回した。その晩、有為子の告口で私は叔父から酷く叱責された。私は有為子を呪い、その死を願うようになり、数ヶ月後にはこの呪いが成就した。 と言うのも有為子は憲兵に捕まったのである。海軍病院で親しくなった脱走兵と男女の間柄となり、妊娠し、病院を追い出されたのだ。 その脱走兵の隠れ家を吐かせるため、憲兵らは有為子に詰め寄った。微動だにせず押し黙っている彼女は拒否に溢れた顔をしていたが、突然変わった。有為子は鹿原の金剛院を指差したのだ。憲兵は有為をおとりに脱走兵を捕まえようとした。有為子は御堂に潜む男に何かを語りかけた。男はそれを合図に手にしていた拳銃を撃った。有為子の背中へ何発か撃ち、今度は自身のこめかみに当てて発射したのである。有為子は憲兵らの詰問に負け、男を裏切ったかに思われたが、結局は一人の男のための女に身を落としてしまったに過ぎない。 父の死後、その遺言通り私は金閣寺の徒弟になった。「金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ」と私は呟いた。日に何度となく金閣を眺めにゆき、朋輩の徒弟たちから笑われるほどだった。 私は東舞鶴中学校を中退して、臨済学院中学へ転校したのだが、そこで鶴川と言う少年と出会う。鶴川の家は東京近郊の裕福な寺で、ただ徒弟の修業を味わわせるために金閣寺に預けられていた。東京の言葉を話す鶴川はすでに私を怖気づかせ、私の口は言葉を失った。ところが鶴川は初めて会ってから今まで一度も私の吃りをからかおうとしない。「なんで」と私は詰問した。私は同情より、嘲笑や侮蔑の方がずっと気に入っている。鶴川は「そんなことはちっとも気にならない」と答えた。私は驚いた。この種の優しさを知らなかったからだ。それまでの私と言えば、吃りであることを無視されたら、すなわち私と言う存在を抹殺されることだと信じ込んでいた。 終戦までの一年間は、私が金閣の美に溺れた時期である。私を焼き滅ぼす火は金閣をも焼き滅ぼすだろうと言う考えは、私を酔わせた。昭和19年11月に東京でB29の爆撃があった時、京都も空襲を受けるかと思われた。だが、待てども待てども京都の上には澄んだ空が広がるだけであった。 父の一周忌、母は父の位牌を持って上洛した。父の旧友である田山道詮和尚に、ほんの数分でも読経を上げてもらおうと考えたのだ。「ありがたいこっちゃな」 まともにお布施の用意もままならない母は、ただ和尚のお情けにすがったに過ぎない。母が言うには寺の権利は人に譲り、田畑も処分し、父の療養費の借金を完済したと。今後自身は伯父の家へ身を寄せるべくすでに話をつけてあるとのこと。 私の帰るべき寺はなくなった! 私の顔に、解放感が浮かんだ。「ええか。もうお前の寺はないのやぜ。先はもう、ここの金閣寺の住職様になるほかないのやぜ」 私は動転して母の顔を見返した。しかし怖ろしくて正視できなかった。 戦争が終わった。敗戦の衝撃、民族的悲哀などと言うものから、金閣は超絶していた。とうとう空襲に焼かれなかったのである。「金閣と私との関係は絶たれたんだ」と私は考えた。敗戦は絶望の体験に他ならなかった。私には金もなく、自由もなく、解放もなかった。せいぜい老師に巧く取り入って、いつか金閣を手に入れよう、老師を毒殺してそのあとに私が居座ってやろうといった他愛もない夢ぐらいしかなかった。 日曜の朝、私は泥酔した米兵の案内を頼まれた。私は鶴川より英語はよくできたし、不思議なことに英語となると吃らなかったからだ。米兵は女をつれていた。女は外人兵相手の娼婦で、酷く酔っていた。私は型通りに金閣を案内した。そのうち男女の間に口論が起こった。激しいやりとりだったが私には一語も聴き取れなかった。女は米兵の頬を思い切り平手打ちにした。駆け出した女に米兵はすぐに追いつくと、女の胸ぐらを掴み、突き倒した。女は雪の上に仰向けに倒れた。「踏め。踏むんだ」 米兵が英語で言った。私は何のことかすぐには理解できないでいたが、やがて命じられるがまま、春泥のような柔らかな女の腹を踏んだ。女は目を瞑って呻いていた。「もっと踏むんだ。もっとだ」 私は踏んだ。私の肉体は興奮していた。米兵は「サンキュー」と言って私にチップをくれようとしたが、私は断り、代わりにタバコを2カートン受け取った。私は命ぜられ、強いられてやったに過ぎない。もし反抗したらどんな目に遭っていたかしれないのである。その後、私はタバコ好きの老師に2カートンのチェスターフィールドを差し出した。老師はこの贈り物の意味を何も知らずに受け取った。「お前をな大谷大学へやろうと思ってる」 退がろうとする私を引き止めて老師が言った。 後でそのことを知った鶴川は、私の肩を叩いて喜んでくれた。(彼は家の費用で大谷大学へ行かしてもらうことになっている。) しかしこの進学については一波乱ある。大谷大学の予科へ入った時だ。皆の態度が常と異なるものを感じた私は、渋る鶴川に詰問した。するとこうだ。大谷大学進学の許しが出て一週間後、例の外人兵向の娼婦が寺を訪れたと言う。住職と面会した女は、私が女の腹を踏みにじったくだりを具に話し、あげく流産したとのこと。幾ばくかの金をくれなければ鹿苑寺を訴えると言ったのだと。鶴川は涙ぐんで私の手を取り、「本当に君はそんなことをやったのか?」と聞いた。私は公然とこの友に嘘をつく快楽を知った。「何もせえへんで」 鶴川の正義感は高じて私のために老師に釈明してやるとまで息巻いた。だが私はこれを止めた。老師はすでに見抜いていたかもしれない。私の自発的な懺悔を待ち、大学進学の餌を与え、それと私の懺悔を引き換えにしたのかもしれない。すべてを老師が不問に附したことは、かえって私のこの推測を裏書きしている。 こんな経緯がありながら、結局、私は大谷大学へ進んだ。鶴川には新しい友が増える一方で、吃りの私はいまだ独りだった。私以外にも皆から一人離れる厭人的な学生がいた。柏木と言う男で、両足が内飜足であった。入学当初から彼の不具が私を安心させた。私は思い切って柏木に吃り吃り話しかけた。講義で分からないところを教えてもらおうと思ったのだ。「君が俺に何故話しかけてくるか、ちゃんとわかっているんだぞ」 柏木は二の句を継げずにいる私に向かって「吃れ!吃れ!」と面白そうに言う。「君はやっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」 私は頷いた。すると柏木は不具の自分がどうやって童貞を脱却したかを話し出した。 柏木は自分の村に住む老いた寡婦に目をつけた。臨済宗の禅寺の息子である柏木は父親の代理でその老婆のところへ経をあげに行った。読経が済んで茶をご馳走になった時、折しも夏、水浴びをさせてもらいたいと頼んだ。柏木の心には企みが浮かんだのだ。水浴びを済ませて体を拭いている際、それらしいことを語り始めた。「俺が生まれた時、母の夢に仏が現じて、この子が成人した暁、この子の足を心から拝んだ女は極楽往生すると言うお告げがあった」 信心深い寡婦は数珠を手に柏木の目を見つめて聴いていたのだ。柏木は裸のまま仰向けに横たわり、目を閉じ、口だけは経を唱えていた。笑いをこらえながら。 老婆は経を唱えながら柏木の足をしきりに拝んでいる。この醜悪な礼拝の最中に、柏木は興奮し、起き上がり、老婆をいきなり突き倒した。それが柏木の童貞を破った顛末だった。私は柏木についてもっと知りたいと思った。初めて午後の講義を怠けたのである。 その後、私は柏木が言う「内飜足の男を好きになる女」と言うものを知った。世の中にはそう言う趣味のある女がいて、柏木にはそれがカンで分かるのだそうだ。実際、柏木は自分の不具を利用し、女に一芝居打って自身に惚れさせるという現場を、私は目の当たりにした。 鶴川はそんな私と柏木との付き合いを快く思っていなかった。友情に充ちた忠告をして来た鶴川を拒絶したことで、彼の目に悲しみの色が浮かんだ。 5月、柏木と私は平日に学校を休み、嵐山へ出かけた。彼は令嬢を伴い、私のためには下宿の娘を連れて来た。二人とも柏木と体の関係のある女だが。 途中、男女ペアに分かれた。もちろん私の方には「下宿の娘」がついて来た。私たちは花陰に腰をおろし、長い接吻をした。ずいぶん夢見ていたはずのものでありながら、現実感は稀薄だった。その時、私の前に金閣が現れた。金閣自らが化身して私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思った。 そんな惨めな遊山の後、老師宛に訃報が届いた。鶴川が事故で死んだのだ。柏木と付き合うようになり疎遠になっていた私だが、失って分かるのは私と明るい世界とを繋ぐ一縷の糸が、その死によって絶たれてしまったことである。私は泣いた。そして孤独になった。私は鶴川の喪に一年近くも服していた。孤独には慣れていて努力は不要だった。生への焦燥もなく死んだ毎日は快かった。 私は金閣の傍らに咲くカキツバタを2、3本盗んだ。それは柏木から貰った尺八の礼であった。金のかかる礼はいらないが、せっかくだからと柏木が私に小さな盗みを示唆したのである。柏木はカキツバタを器用に活けた。どこで習ったのかを聞くと、「近所の生花の女師匠だ」と言う。柏木と女師匠は付き合っているのだが、自分はもう飽きたから私にくれてやると言うのだ。しかし私にはその女師匠については過去の記憶があった。3年前、鶴川と二人で南禅寺を散策していた時のことである。天授庵の一室で女と若い陸軍士官が対坐していた。女は男の前に茶を勧めた。ややあって女は乳房の片方を取り出し、男は茶碗を捧げ持った。女はその茶の中へ乳を搾ったのである。私はその女の面影に有為子を見たのだ。その女こそ柏木から捨てられる予定の女師匠なのだ。 さて、女はやって来て、柏木から「もう、あんたに教わることは何もない。もう用はない」と、こっぴどく捨てられた。女は錯乱し、柏木から平手打ちをくらい、部屋を駆け出して行った。「さぁ、追っかけて行くんだ」と子どもっぽい微笑を浮かべた柏木に押され、私は女を追った。 女の愚痴を聞いただけで大した慰めもしたわけではないが、女は帯を解いた。私の前に乳房を露わにしたのである。だがそれは私にとって肉そのものであり、一個の物質に過ぎなかった。するとそこにまた金閣が出現した。と言うよりは乳房が金閣に変貌したのである。私は女と関係することなく寺へ帰った。金閣は頼みもしないのに私を護ろうとする。何故か私を人生から隔てようとするのだった。 昭和24年正月、私は映画を見た帰りに新京極を歩いた。その雑沓の中で見知った顔に行き当たった。明らかに芸妓と分かる女と歩いていたのは、他ならぬ老師であった。私にはやましいことはなかったが、老師のおしのびの目撃者となることを避けたかった。たまたま雑沓に紛れて歩く野良犬に気付いた私は、その犬に導かれるように歩いた。 こうして私は暗い電車通りの歩道へ出た。すると目の前に一台のハイヤーが止まった。思わずその方を見ると、女に続いて乗ろうとしている男に気付いた。老師であった。老師はそこに立ちすくんだ。私は動転した。吃りのせいもあって言葉が出ない。すると私は自分でも思いがけず、老師に向かって笑いかけてしまったのである。老師は顔色を変えた。「バカ者! わしをつける気か」老師は、私が嘲笑ったのだと誤解した。 翌日、私は老師からの呼び出しを待った。だが、娼婦の腹を踏んだあの事件のときと同様に、老師の無言による拷問が始まったのだ。 その年の11月、私は突然出奔した。直接の動機は、その前日、老師から「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持がないことを言うて置く」と明言されたことによる。私はその時、自分の周りにあるすべてのものから暫くでも遠ざかりたいと思った。柏木に三千円の借金を申し込んだ。「何に使う金なんだ」「どこかへ、ぶらっと旅に出たいんだ」「何から逃れたいんだ」「自分のまわりのものすべてから逃げ出したい」「金閣からもか」「そうだよ。金閣からもだ」 敦賀行きは京都駅を午前6時55分に発つ。あまり混んでいない三等の客車で、私は死者たちを追憶していた。有為子、父、そして鶴川の思い出は私の中に優しさを呼びさました。 舞鶴湾。それは正しく裏日本の海。私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉。醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。突然、私に想念が浮かんだ。「金閣を焼かねばならぬ」 明治30年代に国宝に指定された金閣を焼けば、それは取り返しのつかない破滅である。一見、金閣は不滅と思われがちだが、実は消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう、と思った。 その後、三日に渡る出奔は打ち切られた。一歩も宿から出ない私を怪しみ、通報されたのである。私は警官の尋問に答え、学生証も見せ、宿料も支払った。私は私服警官に送られ、鹿苑寺まで帰ることとなった。 それから私が悩まされたのは、柏木からの再三の督促であった。利子を加えた額を提示し、私を口汚なく責め立てた。だが私は黙っていた。世界の破局を前にして借金を返す必要があるのだろうかと思ったからだ。しびれを切らした柏木は、結局、老師に告口をしたのである。 老師から呼び出された私は、「もう寺には置かれんから」と言われた。代わりに柏木には利子を差し引かれた元金のみが老師によって返済された。 柏木は郷里へ帰る前日、鶴川からの4、5通の手紙を見せてよこした。鶴川は私の知らないところで柏木と親しくしていたのだ。彼は私には一通も寄越さなかったが、柏木には書き送っていた。私と柏木との交遊を非難しながら、自分は死の直前まで密な付き合いをしていたのである。手紙を読み進むにつれて私は泣いた。鶴川は、親の許さぬ相手との不幸な世間知らずの恋に苦悩していたのだ。私は泣きながら、それに呆れてしまった。鶴川の死は事故などではなく、自殺だったのである。私は怒りに吃りながら「君は返事を書いたんだろうな」と聞いた。「死ぬなと書いた。それだけだ」 私は黙った。 柏木とのことがあって五日後、私は老師から授業料等550円を手渡された。まさかその金をくれるとは思いもしなかったのだが。 私はその金を持って北新地へ出かけた。金閣を焼こうとしていることは死の準備にも似ていた。自殺を決意した童貞の男が廓へ行くように、私も決行の前に廓へ行った。 その日が来た。昭和25年7月1日である。私は最後の別れを告げるつもりで金閣の方を眺めた。 私は火をつけた。火はこまやかに四方へ伝わった。渦巻いている煙とおびただしい火の粉が飛んでいるのを見た。事前に用意していた(ポケットの中の)カルモチンや短刀のことを忘れていて、突発的にこの火に包まれて死んでしまおうと思った。だが死場所と考えた三階の究竟頂の扉が開かない。鍵が堅固にかかっていたのだ。私は拒まれているという意識が起こった。身を翻して駆けた。左大文字山の頂まで来ていた。ここから金閣の形は見えないが、爆竹のような音が響くとともに空には金砂子を撒いたような光景が見えた。私は短刀とカルモチンの瓶を谷底めがけて投げ捨て、一服した。生きようと思った。(了)
2021.02.23
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【斎藤美奈子/挑発する少女小説】私は多感な思春期の読書傾向に、初めて後悔した。もちろん自分自身の、である。一体何をどう読んで来てこうなってしまったのか、、、?スポンジのように多くの教養を吸収したであろう小・中学校時代。私は世間一般で女子の必須アイテムでもある少女小説というものと、ほぼほぼ無縁だった。こよなく愛したのは岩波少年文庫から出ている『三国志』『水滸伝』、福音館書店から出ている児童書シリーズ、特に『アーサー王と円卓の騎士』など。それはもう夢中になって読んだものだ。そこから学んだものは、、、今となってはよくわからない。ただ、とにかく好きだったのだ。戦乱の世を刹那に生きる英雄・豪傑たちの魂に震えたのだ。だが、そんな自分の嗜好が、今となっては忌わしい。あの頃、どうして他の女子たちが好んで読んでいた少女小説を手に取らなかったのだろう、、、?私はもっと世間の動向とか流行に敏感になるべきだったのでは、、、?今さらそんなことを悔いても、詮無いことではあるが。いきなり私がこんなことをボヤき始めたのにはワケがある。私はフェミニズム系文芸評論家である斎藤美奈子の著書を読んだのだ。河出新書から出ている『挑発する少女小説』という一冊である。もちろん私も人生50年を生きて来て、女性論を説くお偉い方々の一言一句を盲信するようなアマちゃんではない。じゃあ何をそれほど後悔しているのか?それは、こちらの著書で取り上げられている少女小説のどれもがユニークで魅力的であるからだ。これを大人になった今の視点から読むのも良いけれど、うら若き乙女のとき、真っさらなな気持ちで読んでおきたかったと後悔しているのである。ちなみに私が大人になった今読んでみたいと思ったのは次の作品である。『赤毛のアン』の続編。『あしながおじさん』『秘密の花園』『ふたりのロッテ』『長くつ下のピッピ』どれも児童文学のベストセラーである。なんでもっと若いうちに読んでおかなかったのか、、、時間は取り戻せないし、こればかりは仕方がない。斎藤美奈子の文学評論がズバ抜けて面白いのは、何と言っても杓子定規ではないところである。通り一辺倒のレビューではなく、かと言って小難しく掘り下げるのでもなく、大人になった〝ちびまる子ちゃん〟的な物言いが見事にハマった感じなのだ。『挑発する少女小説』において、様々な児童文学が取り上げられているが、中でも『赤毛のアン』の続編は大人になった今、読んでみたいと思った筆頭である。少女小説とはあまり縁のなかった私だが、さすがに『赤毛のアン』だけは今も本棚の片隅に保管されている。小学生の頃だったか、テレビアニメとして放送されていたこともあるし、女子の間で話題にもなったからである。皆さんご存知の通り、『赤毛のアン』と言えば、孤児の女の子がカナダの大自然の中で明るくたくましく生き抜いて行く青春物語である。ところが斎藤美奈子の捉え方は違った。「実はみなしごの就活小説だった」と言うのだ。劣悪な環境である孤児院なんかに二度と戻りたくない主人公のアンが、マシュウとマリラ(初老の兄妹)の住む家庭に引き取られるために、並外れたトーク力とイマジネーションを働かせて2人の心を動かす。それはもはや「みなしごの少女が自身の居場所を確保するための戦いの物語」であると説いている(笑)もともと引き取り手のマシュウとマリラは、農作業の手伝いもできるだろうと、孤児の男の子を希望していたのだ。ところがどこでどう間違ったのか、やって来たのは女の子(アン)だった。自分が必要とされていないと気付いたアンは、何が何でも引き取られてみせるとばかりに躍起になるのだが、これを一つの「就活」と見なすところがおかしくて笑えた。『赤毛のアン』は二作目の『アンの青春』『アンの愛情』とさらに続き、最終話の『アンの想い出の日々』まで全11巻という長編作品となっている。いつだったか、『赤毛のアン』フリークの友人が言っていたのだが、続編を読んでいると、アンがどうやら更年期障害を患っているのか、始終イライラしているシーンが出て来るというのだ。それがホントかウソかは不明だが、何とも人間臭い少女小説(?)ではあるものだ。それも含めて続編を読んでみたいと思った。本書は他に『あしながおじさん』についてもレビューしている。なんと、「金持ち道楽息子が小娘に翻弄される物語」であると(笑)『大草原の小さな家』に至っては、「引っ越し、引っ越し、また引っ越し」という小見出しがついてる。(「新天地をめざしての移動」とはしないところが笑える)こう言う歯にきぬ着せぬ物言いのできる斎藤美奈子の著書は、実に魅力的だ。本来はもっとジェンダー論を盛り込んで少女小説を掘り下げていきたかったのかもしれない。抑圧された少女たちの魂の叫びを、少女小説の中から感じ取って、あれやこれやと批評したかったと思う。それが斎藤美奈子のお得意分野だからだ。だが以前のようにそこまでとんがらなくても、充分な求心力を持つ内容となっていると思う。ジェンダーの何たるかなんて、そう簡単には分析・理解されるものではないだろう。(つまり、なるようになると言うこと)本書は、少女小説と縁のなかった大人の少女(?)らに読書を勧め、新たな発見を誘う文芸評論となっている。もちらん、夢中になって読んだことのある人にも再読を促し、戦う少女たちの人生に焦点を当てることを勧めている。私たちの日常の読書は、このぐらい明け透けで、それでいて目新しい発見が一つでもあれば充分意義のあることなのではと思う一冊だった。 (了)『挑発する少女小説』斎藤美奈子・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾(1~99)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾(100~199)はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第3弾(200~ )はコチラから
2023.05.27
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【レッド・オクトーバーを追え!】「私もこれに似た故郷の川で祖父から釣りを習った。“海は人々に新しい希望をもたらす”“眠りが夢を運ぶように”・・・コロンブスの言葉だ。」「新しい世界へようこそ。」冷戦時代末期、当時ソビエトの体制に不満を抱くインテリ層は、こぞって西側へと亡命を果たした。映画はそんな社会的世相を鋭く反映しているから頼もしい。この作品「レッド・オクトーバーを追え!」も、ソビエト海軍の優秀な逸材である艦長が、多くは語らないけれども国家に対する何らかの不満を抱き、アメリカへ亡命するという内容だ。まぁ製作者がアメリカ人なので、西側に肩入れしているのは仕方ないとしても、事実、当時東側からの亡命はある種の社会問題にまでなったのだから否めない。いよいよ社会主義体制の崩壊を予感していたに違いない。(無論、資本主義体制が完璧であるとは言えないけれど。)ソビエト海軍の最新鋭ミサイル原子力潜水艦レッド・オクトーバー(※)が、ムルマンスク港を出航。艦長は、世界の軍事関係者の誰もが一目置いているマルコ・ラミウスであった。だがラミウスは、ソ連の体制に不満を持ち、アメリカへの亡命を画策していた。一方、アメリカではソ連軍の動きを警戒し、レッド・オクトーバー撃沈の命令が下されようとしていた。しかしCIAアナリストであるジャック・ライアンは、ラミウス亡命の意図を読み、命を懸けそして英知を持ってラミウスと連絡を取ることに成功する。映画というのは大衆の娯楽でありながら、同時に社会史の記録でもあるのだとつくづく感じた。1990年に公開されたこの作品を、20年近く経過した現在観たところで、この物語の背景を知らなければまずピンと来ないだろう。多くの映画に馴染み親しんでいる若き視聴者の皆さんは、こういう作品とたくさんめぐり合って、その歴史を知ることで映画のテーマを探っていただきたい。日本史・世界史離れと言われて久しい現代、せめて映画というメディアを通じて楽しく歴史を学んでいこうではないか。映画が永遠に大衆娯楽であり続ければ、自然とそこに“政治性”“社会性”が絡んで、我々にとって最も親しみ易い教材と成り得るに違いないからだ。※レッド・オクトーバー・・・「十月革命」にちなんで付けられた名前。【参照:ウィキペディア】1990年公開【原作】トム・クランシー【監督】ジョン・マクティアナン【出演】ショーン・コネリー、アレック・ボールドウィン
2009.01.13
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【地球が静止する日】「どんな文明もいずれ危機的局面を迎える」「ほとんどが滅びる」「(だが)君たちは生き延びた」「太陽を失いかけ、進化を余儀なくされた」「絶滅の危機だと知ってから進化したんだな」「そうだ」「私たちは今知った。確かに絶滅の危機だろう。だが危機に瀕して初めて人は変わろうとする。窮地に立って初めて進化する。その好機を奪わないでくれ。答えに近づいているんだ」この作品を鑑賞することで気付かされた永遠のテーマ、それは人類創世以来の悩みかもしれないと思った。“人類滅亡”という問題のことである。世界のベストセラーである旧約聖書には有名な“ノアの箱舟”のくだりがあるが、これもいわゆる滅びの哲学から生まれた作品のような気がする。『全能の神は、地上に増えた人々や人間の業を見て怒りを覚え、洪水で滅ぼすことにした。神に従順なノアは忠告を聞き入れ、巨大な箱舟を作り、全ての動物の雌雄一組ずつを箱舟に乗せ、来るべき日に備えた。』(旧約聖書「創世記」より)増えすぎた種は、地球という一つの生命体にとってこの上もない負担となる。その際、人類は戦争・疫病・天変地異等により淘汰される運命にあるのかもしれない。それが自然の摂理だとすれば、もうどうしようもない滅びの哲学なのではと。『彼は警告にきた。しかし人類は気づいていない。』謎の球体が突如としてN.Y.のマンハッタンに現れる。しかしその球体は世界中の至るところで出現していた。米政府は軍も出動させ、厳戒態勢を布く。危機対策チームの一人である生物学者のヘレンは、セントラルパークに到着し、球体の謎を解くため軍隊と共に包囲する。まばゆいばかりの光の中から現れたのは、地球外文明の代表としてやって来た宇宙からの使者クラトゥであった。この作品は、望むと望まざるとに関係なく一度は観ておきたい、地球規模の社会的テーマを扱っている。それをエコ対策の喚起と捉えるか、あるいは宗教的倫理観の覚醒と捉えるのか、単なるパニック映画と捉えるのか、それは視聴者各人に委ねられている。だが大切なのは、我々一人一人が生きものであると同時に地球そのものが一個の生命体であるということ。我々人間が増えすぎることでガン化し、地球が病んでしまっていることだけは確かなのだ。“じゃあ一体どうしたらいいのか?”と問われたら具体策は漠然としていて、地球の静止する日を止める術はないというのが現実だ。ならば我々は、せめてこの地球のために何ができるか考えようではないか。人類のためと言うより、地球のために。それが結果として人類を救う解決策になるのではなかろうか。余談であるが、ゴルトベルク変奏曲が、実に効果的に使われていた。地球外生命体も美しいと認めるバッハの音色である。余談ついでにもう一つ。ゴルトベルクは、あのレクター博士も大のお気に入りである。2008年公開【監督】スコット・デリクソン【出演】キアヌ・リーブス、ジェニファー・コネリー
2013.12.30
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