ロシア政府の発言や軍事作戦を見聞きすると、彼らはアメリカやヨーロッパ諸国を話し合いのできる相手とは考えなくなり、問題を軍事的に解決する決断をしたと推測できる。「特別軍事作戦」から戦争へステージが進んだということであり、ロシア政府は「停戦」要請を受け入れそうにない。その延長線上に2014年2月のバラク・オバマ政権のキエフにおけるクーデターがあり、22年2月のロシア軍の介入もある。
欧米における反ロシア勢力の中心はアメリカやイギリス、つまりアングロ・サクソンの支配層。遅くとも19世紀からイギリスはロシアや中国を征服する長期戦略を立てていたが、その中心にいたのは有力政治家のヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)。
この人物はイギリスの首相や外相を務め、反ロシアで知られている。1840年にアヘン戦争を始めたのも彼。「ウクライナ人はわれわれが反ロシア蜂起のストーブに投げ込む薪だ」と語り、ポーランドをロシアとドイツの間の障壁として復活させる計画を立てている。
19世紀から21世紀にかけて世界を支配した北西ヨーロッパ諸国の富の基盤はラテン・アメリカでの略奪。スペインやポルトガルはラテン・アメリカで金銀財宝を奪い、金や銀の鉱山を開発した。鉱山開発では先住民を奴隷として使っている。
そうした略奪した財宝をスペインやポルトガルは船でヨーロッパへ運んだが、その船を襲い、奪ったのがエリザベス1世時代(1593年から1603年)のイギリス。その頃、イギリスの支配層の中で「ブリティッシュ・イスラエル主義」が現れた。
19世紀の後半に南部アフリカでダイヤモンドや金鉱山が発見されるとイギリスの権力者は軍事侵略した。その侵略の中心的な存在がロスチャイルド家を後ろ盾とするセシル・ローズ。そのローズの発案で創設された「選民秘密協会」はイギリスを動かすことになる。
この協会にはローズのほか、ナサニエル・ド・ロスチャイルド、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)、ロバート・ガスコン-セシル(サリスバリー卿)、アーチボルド・プリムローズ(ローズベリー卿)が含まれていた。そのうちローズ、ロスチャイルド、ブレット、ステッドの4人が協会の指導者になったとされている。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
ちなみに、ローズベリー卿が1878年に結婚したハンナはメイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルドの子どもで、ナサニエルのいとこにあたる人物。1891年末までにローズベリー卿の甥にあたるアーサー・バルフォアもローズのグループへ入り、さらにアルバート・グレイやセルボーン卿も加わる。
ステッドによると、ローズはチャールズ・ダーウィンの仮説を信じ、優生学を信奉していた。ローズは1877年6月にフリーメーソンへ入会、その直後に『信仰告白』を書いている。
それによると、彼はアングロ・サクソンは最も優秀な人種であり、その居住地が広がれば広がるほど人類にとって良いことだと主張、領土を拡大して大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するとしている。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)
ジョージタウン大学の教授を務めたキャロル・クィグリーによると、1901年までこの協会を支配していたのはローズ。ローズは英語圏を一体のものと見ていた。ローズ以降はアルフレッド・ミルナーを中心に彼らは活動している。
ミルナーはシンクタンクのRIIA(王立国際問題研究所)を創設した人物としても有名で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」も彼を中心に組織されたという。タイムズ紙も1912年ころからミルナーが管理するようになり、22年にはオーナーになった。(Carroll Quigley, “The Anglo-American Establishment”, Books in Focus, 1981)
世界の支配構造は1917年に大きく変化した。イギリスがターゲットにしていた帝政ロシアは地主階級に支えられていたが、産業資本化の影響力も拡大していた。その産業資本家やユスポフ家のような貴族はドイツとの戦争を望んでいたが、地主は戦争に反対。地主の代弁者を務めていたのはシベリア出身の修道士だったグレゴリー・ラスプーチンだ。皇后アレクサンドラも戦争に反対していた。
1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻が暗殺されて世界大戦が勃発するが、アレクサンドラ皇后は参戦に反対する。皇后は同じ考えのラスプーチンへ7月13日に電報を打ち、相談。ラスプーチンは皇帝に対して戦争は帝国の崩壊を招くと電報で警告しているが、治安当局はそうした電報を盗み見て議会などへリークしていた。皇后からの電報を受け取った直後、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院する。その女性とラスプーチンは面識がなかった。ラスプーチンが入院している間にロシアは第1次世界大戦へ参加してしまう。
ドイツとロシアに戦争させようとしていたイギリスでは1916年に外務省がチームをペトログラードへ派遣していたが、そのチームには興味深いメンバが含まれていた。スティーブン・アリー、ジョン・スケール、オズワルド・レイナーだ。
レイナーはオックスフォード大学の学生だった当時からフェリックス・ユスポフ公と親密な関係にあり、流暢なロシア語を話す。ユスポフはラスプーチンを暗殺した貴族グループの中心人物だ。スティーブン・アリーはロシアで1876年に生まれ、15歳の時にイギリスへ帰国、家族の経営するアリー・アンド・マクレランで働くようになるが、その裏では情報機関員として活動することになる。
スティーブンが生まれた場所はモスクワ近くにあったユスポフの屋敷で、父親はユスポフ家の家庭教師だったとも言われている
ラスプーチン暗殺には3種類の銃が使われているが、トドメを刺したのは455ウェブリー弾。イギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだった。
1917年3月の「二月革命(ユリウス暦では2月)」でロマノフ朝は崩壊したが、この時、ロシアの街頭にボルシェビキの幹部はいなかった。刑務所に入れられているか、ウラジミル・レーニンのように亡命していたのだ。
二月革命の主体は産業資本化やその背後にいる金融資本家。政党でいうならばカデット(立憲民主党)が中心で、臨時革命政府はイギリスの傀儡だったと見られている。
この臨時革命政府はドイツとの戦争を継続すると見られていた。そこでドイツ政府が目をつけたのがスイスに亡命中だったレーニン。彼を含むボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンは1917年4に帰国した。そしてレーニンをはじめとするボルシェビキの幹部が十月革命の主体になった。
十月革命によって社会主義政権が出現したロシアに対し、イギリス、フランス、アメリカ、そして日本は1918年8月に軍隊を派遣して干渉戦争を開始する。イギリス、フランス、アメリカはそれぞれ7000名の兵士を派遣、日本はその年の10月には7万2000名以上、その後も増強は続いた。その翌月、つまり11月に大戦は終了するのだが、日本は22年までシベリアにとどまった。
実は、この干渉戦争で日本軍がロシアから金塊を持ち帰ったことが判明している。この問題を最初に取り上げたのは憲政会の中野正剛で、当初は1000ルーブル相当の砂金だと考えられていたのだが、実際に持ち帰った金塊は177箱、1万2000キログラムに達すると現在では考えられている。このうち143箱は旅順火薬庫に保管した後、朝鮮銀行の下関支店に運ばれ、そこから大阪造幣局へ移された。またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。
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【 Sakurai’s Substack 】
【 櫻井ジャーナル(note) 】