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未来学者アルビン・トフラー氏の話題の最新作「富の未来」の下巻をつい最近読み終えた。 アメリカだけでなく、ドイツ・フランス・イギリス・日本に韓国まで、第二の富の体制下において作られた諸制度が、第三の富の体制への移行というパラダイムチェンジともいうべきものによって破綻しかかっていることが説かれる。教育、そして日本でも少し前にものすごく話題になっていた年金(まだ解決しているわけではないが、郵政などで一気に霞んでしまった気がする)などが聴きに陥っていること、そして危機は、国家レベルだけでなく、国連や、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)などの国際機関においても発生していることが説かれる。 危機が発生するのは、その第二から第三の富の体制への移行において、はっきりとした移行の以前から起こっている、その基礎的条件の深部にある時間・空間・知識が変化をするからで、そして民間セクター(企業)などは、その変化についていこうと加速していくが、公共セクター(官僚そして法律)は、そうではないため、民間と公共で大きなギャップ(非同時化)が起こってしまうというわけだ。思い出せば、自分も、保険会社時代を思い出すと、とにかくスピードアップが説かれていたし、知識の共有化が大きなテーマになっていた。そういった意味では、民間企業は、基礎的条件の深部の変化に対応しようとしていたんだと思う。 上下巻を通して、思うことは、とにかく第二の富の体制=工業社会を前提とした均質性・標準化といった大衆を意識した制度ではなく、第三の富の体制=知識社会を前提とした制度に変更することだ。没個性の大衆(マス)ではない、カスタム化された、非マスの対応をすることが、市場の商品だけでなく、教育でも、福祉でも求められているのだ。 そして最後に、アルビン・トフラー氏が示唆していることが、とても印象的だった。第二の波によって、経済中心の考え方が生まれ、文化・宗教・芸術すべてが、その副次的なものとなったが、第三の波の革命的な富では、知識の重要性が高まり、経済は、中心ではなく、大きなシステムの一部となり、文化・宗教・倫理などが中央に戻ってくるということだった。まだまだ経済が中心であることには変わりないと思うが、本当にそうなるのだろうか?とも思いつつも、この上下巻を読むとそう思わせるだけのさまざまな例証がなされている。未来学者アルビン・トフラー氏渾身の1冊だった。富の未来(下)著者:アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー訳者:山岡洋一発行所:講談社 定価1,900円+税2006年6月7日第1刷発行エビケンの活動日記は、こちら
2006年07月25日
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ここのところマックス・ヴェーバーを読んでいたが、今回は、話題の1冊、未来学者とも言われるアルビン・トフラー氏の「富の未来(上)」を読んだ。アルビン・トフラー氏の著作を読むのはこれが初めて 21世紀の「富」が、いったいどのようにして生み出されるようになるのかを、これまでの社会変化と、これからの社会変化を交えながら、見据えた1冊。 1956年、歴史上初めて、アメリカでホワイト・カラーとサービス産業労働者が、ブルー・カラー労働者より多くなったことで、工業社会から、知識と頭脳労働の社会への移行が始まり、それにより、社会の富を生む出す体制が変わり始める。この「富の体制」は、金銭経済と非金銭経済の組み合わされたものと規定し、現在この「富の体制」の革命が進行し、新たな体制に向けて変化を筒付けているため、これまでの体制によって築き上げ、根付いた教育・福祉・年金などなどの制度が、どの国においても、きしみ、悲鳴を上げている。どの国も、崩壊の進む制度を立て直そうとするが、それが工業化社会を前提としたものであるかぎりは、効果は上がらず、知識社会にあわせたものにならなければいけないことを説く。 「富の体制」について 富の体制以前 狩猟採集の時代では、蓄ることができないので、富の体制とはいえない。 第一の富の体制-栽培 一万年ほど前、現在のトルコで農業が始まったことによる農業社会 数千年にわたりこの農業社会が続くが、農業がいくら発達しても、飢饉が発生する。 現在でも、この第一の富の体制で働く人が過半数を占める国は多い。 家族構成は、大家族。 第二の富の体制-製造 17世紀後半に登場した土地と労働と資本に基礎を置く工業社会 化石燃料エネルギーと単純作業の繰り返しを必要とする強力な技術を組み合わせたもの あらゆるものが大規模化、大量生産・大衆教育・マスメディア・大衆文化が生まれる。 標準化・専門化・同時化・集中化・規模の極大化という共通の原則を基盤にする。 家族構成は、画一的な核家族。 垂直な階層組織 第三の富の体制-サービス・思考・知識・実験 知識を基盤とする知識社会 生産・市場・社会の脱大規模化、細分化をもたらす。 多様な家族形態。 組織は、水平でネットワーク型など、いくつもの違った構造のものに 第二→第三へと流れていく中、時間や空間といったこれまでの統計の基礎的条件のさらに深部にあたるものが変化していることが説かれる。 工業化社会は、すべてが機械のように効率的に一体となって動く同時性と一体となって動くことのできる安定性を求め、進めてきたが、第三の体制の移行に伴い、その同時性は崩れ、世界レベルでの熾烈な競争に晒され、変化にいち早く対応する企業、さまざまな社会問題に対応するように活動している社会団体などは、速く動くことを心がけ、動いているが、労働組合・官僚・公教育制度は、その動きから大きく遅れ、そして政治構造と法律ははるかに遅れていることが、それぞれの理由を挙げて説明されている。第三の富の体制にあった変化が、社会の諸制度に求められているということなのだろう。 トフラー氏の指摘で納得したのが、富を生み出すものとして、金銭経済と非金銭経済があり、この非金銭経済が金銭経済に与える影響は、近年非常に大きなものになっているので、評価することを説かれていることだ。NPO、ボランティア団体、個人が様々に経済統計の対象にならないが、企業と同じような活動や、企業の活動を補完したり、結果的に支援したりするような活動をしている。こういった非金銭経済活動に携わるものトフラー氏は、1980年の著書「第三の波」で「生産消費者」と名づけているわけだが、振り返れば、日本で言うと市民活動というべき分野と大いにかぶるのだろうが、企業の経済活動などにも大きな影響を与えるまで成長していることからも、まさに卓見というべきであり、私も、こういった活動が、社会全体の富にいかに影響を与えるのかをつかむことは、知識社会に必要なことだと実感した。これからの社会のあり方を、未来学者アルビン・トフラー氏から教わることのできる1冊だ。 富の未来 (上)著:アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー訳:山岡洋一 発行所:講談社2006年6月7日第1刷 定価:1,900円+税エビケンの活動日記は、こちら
2006年07月12日
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少し前に読み終わった今回の1冊、「職業としての政治」 この本は、1920年に亡くなるマックス・ヴェーバーが、その前年、ミュンヘン(ドイツ)にある学生団体のために行った公開講演をまとめたものなんだそうだ。その当時のドイツは第一次世界大戦に破れたショックや、ロシア革命のあおりを受け、国内に革命への機運といったようなものが高まっている状態で、これを憂い、政治とは何か、そして国家の指導者たる政治家とは、なんたるかを説いたものだ。 この講演でマックス・ヴェーバーが話す「政治」とは、国家の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為とし、その上で、「国家」、特に近代国家の社会学的な定義は、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体であるということ、つまり、国家が、暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされいるものであるとする。そして、「政治」とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力であると喝破した上で、人々に国家の支配に服させることを正当化する根拠として、3つの支配形態を挙げる。 1.伝統的支配 :「永遠の過去」が持っている権威 2.カリスマ的支配:ある個人に備わった非日常的な天与の資質(カリスマ)が持っている権威 3.「合法性」による支配:制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規制に依拠した客観的な「権限」に基づいた支配 近代国家は、この3に該当するわけだが、この講演の中で官僚制国家が、いかに警世されてきたか、そして職業政治家がどのようにして現れてきたかということが展開される。この政治を職業にすることについては、以下の2つがあると語る。 1.政治「のために」生きる 2.政治「によって」生きる そして、この「のために」「のよって」の区別の実質的な側面は、経済的な意味であることを説き、十分に収入のある金持ち職業政治家は報酬を求めないだろうが、無産者でも職業政治家であるようにする。また金権制的でない方法で、政治の世界に人材を迎えるには、政治の仕事に関わることによって定期的かつ確実な収入が得られなければいけないという前提を語る。 マックス・ヴェーバーは、政治家にとって必要な資質は以下の3つと語る。 1.情熱 仕事・問題・対象・現実への情熱的献身 2.責任感 仕事に対して責任を持つ、情熱にその責任性が結びつくことが必要 3.判断力 精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力 事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要。 特に、この「距離」を置けない政治家は、それだけで大罪だと断言する。責任感に結びついた燃える情熱は、政治への献身は情熱によってのみ培われるがゆえに、冷静な判断力は、自己陶酔してしまわぬ強靭な魂の抑制を可能とするために必要であるとする。なぜなら、政治家の活動は、権力の追求が付きまとう。「距離」を置く判断力がなければ、「仕事」のための権力の追求が、権力の獲得のための権力の追求になってしまうからだ。そして、政治家にとって大切なのは、将来と将来に対する責任であると説くのであるが、今現在でも通用するものだ。 そして、最後に、マックス・ヴェーバーが大学生に説くものこそ、すべての政治家、そして政治を職業(天職)としようとするものにとって訓戒であり、心にとどめ置くべきものである。 『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。 しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく-はなはだ素朴な意味での-英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないのである。 自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が-自分の立場から見て-どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず(デンノッホ)!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。』(「職業としての政治」より抜粋) まさに自らへの戒めとしたい。職業としての政治著:マックス・ヴェーバー 訳:脇 圭平発行所:岩波書店 岩波文庫定価:400円+税1980年3月17日第1刷発行 2001年6月5日第38刷発行
2006年07月01日
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