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松岡正剛氏の千夜千冊というサイトをときどき眺め、本当に博学多識な方だなーと思っている。その松岡正剛氏が新たに本を出すということで、楽しみで購入し早速読んだのが、この1冊 松岡正剛氏は、日本を「一途で多様な国」と表現する。その多様さとして、宗教面での多神で多仏であることや、社会制度も一つの制度が全国を支配した例が極めて少なかったことなどが上げられている。そういった多様性が本来の姿であり、それが面白いと主張している。私もそう思う。日本の良さは、料理でもそうだが、なんでも取り込んでしまう包容力というべきだろうか、確かに日本に合うスタイルに変形させてはいるけど、そういったところにあり、それが面白さなんだと思う。 この本では、その多義・多様・複雑性がどうやって機能してきたのかを、「日本の面影」というのをキーワードにして、歴史を振り返りながら、松岡正剛史観にいざなわれる設定になっている。 「倭」から「日本」にいつなったかについて、私ははっきりと知らなかったが、663年の白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗し、それまでの朝鮮半島経営を諦め、新羅が朝鮮半島を統一したことによって、「日本」になったということなんだそうだ。『新唐書』にも「倭の名を悪み、更めて日本と号す」という記述がなされている。このときまでは、中国の各王朝と朝鮮半島と倭は一蓮托生の関係にあったが、この新羅の統一により、倭は朝鮮経営を諦め、日本列島内においての経営に専念することになったのが、日本の成立というわけだ。途中稿
2006年10月05日
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ブックオフで購入して読んだ1冊 タイトルの「満足化社会の方程式」という言葉につられ、これからの社会を考えるヒントになるのではないかと思い購入した。 著者、堺屋太一氏は、一つの体制が崩れ、それが新しい体制に代わり確立するまでに10年かかる。そのうち、最初の4年間は主として旧体制の破壊に当てられる。次の2、3年は、将来の体制の方向と基本を探る模索と闘争に費やされる。残り3、4年で定まった方向の中で将来の主流となる産業、組織、人選が選ばれるという持論を持っている。そしてこの書物では、1989年、ベルリンの壁崩壊によって、それまで世界を規定していた冷戦構造という体制が崩れた。それから4年の旧体制破壊に当てられた1993年と、これからの新しい体制を模索する1994年の2年を中心に、これからの日本の目指すべき社会像を「満足化社会」と名づけて、そのあり方を提示したのが、この1冊。 1993年、米国では冷戦に勝利をもたらした共和党政権から、12年ぶりにクリントン大統領による民主党政権が誕生した。日本でも8月に、38年に及んだ自民党単独政権が崩れ、細川連立政権が発足し、政治の「55年体制」が崩れた。 戦後日本には、3つの神話が信じられ、その神話の元に成長してきた。 「土地・株神話」…土地と株は中長期的に見れば必ず値上がりするという神話 「消費拡大神話」…消費は年々間違いなく拡大するという神話 「完全雇用神話」…終身雇用の確立した日本には深刻な失業問題はありえないという神話 しかし、1990年に「土地・株神話」が、1992年に「消費拡大神話」が、そして1994年には「完全雇用神話」が、バブル景気崩壊からの長期不況で崩壊した。 江戸の5代将軍綱吉期の元禄と、8台将軍吉宗期の享保との比較で、昭和元禄と平成享保という言葉を使い、今後の社会のあり方を説こうとするのが面白い。 5代綱吉も就任当初、倹約に努め財政再建を図った。しかしそれを諦め、元禄期に入ると、一転して、赤字財政によって公共事業(護国寺や護寺院の建立など)と公的消費(将軍の大名屋敷訪問によるパーティなど)を拡大する。この財政支出により経済が活気を取り戻し、文化が花開くこととなる。ただ、それでは、財政が持たないので、貨幣改鋳し、金銀含有量を減らし、貨幣の数量を増やすインフレ政策を実施し、景気を拡大、投機ブームを生み出した。文化が百花繚乱に花開く時代を迎えることになる。しかし、それはバブルを生み出した。 これを立ち直らせるべく登場するのが、名君と名高い8代将軍吉宗の登場となる。吉宗といういい政治を行ったというイメージが強い。自分もそう思っているのだが、堺屋太一氏の評価はかなり低い。将軍親政による官僚統制による政治を行い、貨幣経済を嫌い、風紀の粛清と増税を行い、楽しみのない世界を生み出すとともに、結果的には悲惨な不況と飢餓を生み出しただけで、吉宗引退時に蓄えができたのも、当初は元禄の貨幣改悪を嫌っていたにも関わらず、晩年に貨幣を結局改悪したものであるということで、「享保の改革」といってもうまくいったものではないということだ。そして、堺屋氏が「昭和元禄」「平成享保」と表現するとおり、この二つを引き合いにだし、バブル景気崩壊後の平成において、享保の改革のようなことが行われないことを希望している。 冷戦構造が消滅した。冷戦構造の間は、西側陣営の一員として生きていけばいいという選択肢があったが、これまでを規定していたこの構造が崩れた以上、新しい世界のあり方、世界秩序(ワールドオーダー)の在り方について、日本がどう主体的に行動するかが重要であり、それには、政治が重要であると説く。確かに国際関係を規定している上で、政治が重要であるが、2006年の今から振り返ってみると、果たしてそれができたのかわからない。というよりもできていないだろう。世界秩序が明確に確立されているとも思えないし、日本が国際関係において主体的なかかわりで持って役割りを果たしているのかも分からない。 1989年を一つの大きな区切りとして、それから10年で新しい体制が根付くということだったが、そのようにもなっていない。まだ新しい体制を探しているというほうが良いのではないだろうかと思っている。17年が経過しているけど… 満足化社会の方程式 著者:堺屋太一 日本経済新聞社 定価:1,500円+税 1994年2月25日第1版第1刷 同年3月15日第2刷
2006年10月01日
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「超」整理法などで同じ身野野口悠紀雄氏が、「週刊ダイヤモンド」に掲載していた「『超』整理日記」として連載(2005年4月30日・5月7日合併号から2006年3月25日号まで)していたものをまとめて発刊されたのが、この「日本経済は本当に復活したのか?」だ。 もともと、「週刊ダイヤモンド」を気に入った特集号だけ見ていて、そのときに少し読んでいたわけだが、まとまったし、タイトルに惹かれて買ってしまった。最近景気がよくなったという報道がなされるが本当なんだろうかという思いがあり、それで思わず手にとった。 サブタイトルに、「根拠なき楽観論を斬る」とある通り、全11章で構成されるが、野口悠紀雄氏の憂慮から発する理路整然とした批判が繰り広げられる。第1章は、まさにそのメインタイトルにある通り、経済を取り上げる。増益になったことや、金融機関が不良債権処理をしたという事実は認めた上で、それが不十分であったり、小手先であったりするということを、さまざまなデータと国際比較をもとに反論がなされる。 企業増益は、一時的なものであり、利益率は国際比較においては低いこと、企業収益の回復は、今までの時代を担ってきた企業であって、次代を担う企業や業界ではない。そしてその企業収益の回復も、家計を犠牲にした結果にもたらされたもので、企業の増益が、家計、すなわち賃金の増加につながっていないことが説かれる。そう説かれると、マスコミの報道で景気回復が言われる割には実感できないことが理解できた。そして、これは、トーマス・フリードマン氏の「フラット化する世界」に描かれたいた世界レベルでのアウトソーシングの影響ともいえるものである。 ライブドア問題については、「モジリアニ=ミラーの命題」の提唱者の一人、マートン・ミラー教授が、ノーベル経済学賞受賞時に記者に業績について簡単な説明を求められたとき、「ピザを五つに切ろうが七つに切ろうが、総量は変わりないということを証明した」と、答えたことを引き合いに出して、ファイナンス理論は、本来ムダな支出や愚かな投資を避けるためのもので、錬金術として金儲けできるものではない。ライブドアが株式分割(ピザを五つから七つに切り分け)で大もうけしたのは、その理論にあわない現在の制度、そういったことができてしまう株式市場の整備が必要であると説いている。確かに業績を上げた結果、もしくは上げそうだから、それに期待して株価が上がるのは分かるのだが、やはりそういったことではない手段で株価が上がるのは不自然なことなんだろう。 民営化について、1年前に小泉首相が郵政民営化を問うて総選挙を行ったが、野口氏は、本当に民営化すべきは現時点では、公的年金であり、郵政ではないこと(以前はご自身も郵政については民営化すべきと論じたことを認めながら)、なんでも民営化がいいのではなくて、まずは官と民の役割分担を考えるべきで、それがなくとにかく民営化はおかしいと述べられている。確かに2年前にスウェーデンに行ったとき、記憶が正しければ、地下鉄は国でやるほうが安定してできるということを答えたのを覚えている。日本も鉄道をそうすべきというわけではないが、そういったきりわけをきちんと行うことが必要なんだろう。ただ、それをいきなり明示すれば、変革を加えられる予定の相手は、猛反発するわけだし、混乱を生む可能性もあるから難しい問題もあると思う。 今日よく聞かれる「企業の社会的責任」「共生」などにも批判が加えられ、自分自身そういった言葉を考え直すのにいい1冊だと思う。日本経済は本当に復活したのか 根拠なき楽観論を斬る著:野口悠紀雄 ダイヤモンド社定価:1,600円+税 2006年8月24日第1刷
2006年09月21日
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2週間くらい前に読み終えていた1冊。これを読もうと思った理由は、数ヶ月前からお寺に通い、座禅を始めた。お寺で座禅をするうちに、ブッダはそもそもどういったことをおっしゃられていたんだろうという思いからだ。 この本は、ブッダが現れた当時の時代背景の説明や、ブッダの生涯を追いかけながら、ブッダの教えが展開されるので、とても分かりやすい。 ブッダは、古代インドにおいて、農業を中心とした部族集団から、商業が発展し、都市国家が形成される時代の転換期に生まれた。時代の転換期というのは、たとえば、中国の春秋戦国時代の諸子百家のように新しい思想が無数に生まれるもので、インドもそうだったらしく、仏典によると、ブッダが活動した当時、「六十二見」といわれるブッダ以外の思想家が活動していたんだそうだ。 この本を読んで最も印象に残ったことが、ブッダは、理想のバラモンとしてのあり方を説いていたことだ。真の高位のものとしてのバラモンを説いていたというのは、驚きだった。その真のバラモンとは、無一物であって執着のない人、すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人と説く。すなわち、これは、カースト制度上のバラモンを指しているのではない。人としてのあり方を表しているのだ。 もしかすると、ブッダは思想家として活動を始めた頃は、自らが当時の支配的な宗教であったバラモン教の「真のバラモン」を説いたのであって、始めから仏教だったというわけではないのかもしれない。そして、それはブッダの死後、弟子たちによって仏教教団としてまとまったのかもしれないのではないだろうか? もう一つ驚いたことが、仏教といえば、修行をし、執着を捨てることによって、「悟り」を開いて、輪廻転生の繰り返しから解脱することと理解していたんだが、ブッダが苦行を積み、ようやく悟りを開いた後も、悪魔が現れて、ブッダを惑わそうとし、ブッダはずっとその悪魔と戦い続けているということだ。「悟り」を開くことがゴールだと思っていた自分にとっては、新鮮な驚きだったし、逆にそれだけ人間の執着を絶つことの難しさを実感した。 この本を読んだあと、つづけて読んだのが そもそもこちらを先に購入したわけだが、少し味気なかったんで、理解を深めるために、先に前の本を読んだ。こちらの訳者と前者の作者が同じなので、かぶっているところもあったが、前の本で、ブッダの背景が分かったので、味気なさが消えてよかったと思っている。 ただ、これらの本を読んで思ったのが、インド→中国→日本と北伝ルートの仏教が、ブッダの修行を重んじ、修行をして悟りを開くスタイルから、念仏や題目を唱えすればよいという形になったのかが、よく分からない疑問となった。ブッダの人と思想著:中村元 田辺祥二 NHKBOOKS定価:970円+税1998年7月25日 第1刷発行 2006年2月10日第12刷発行ブッダのことば スッタニパーダ訳:中村元 岩波文庫定価:860円+税1984年5月16日 第1刷発行 2006年1月11日第45刷発行
2006年09月03日
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ショッキングなタイトルだが、読むとタイトル以上にショックを受ける。それは、1949年の中華人民共和国建国以来、一貫して国家目標を持ち、その実現のために国家戦略を持ち、そして大胆な選択集中をして進んできた中国と、経済大国化以外は何もせずに進んできた日本の違いに大きなショックを受ける。 その中国の国家目標とは、「中華帝国」の再興で、それは中国史上最大版図を有した清朝最盛期(康熙帝・雍正帝・乾隆帝)のころの再現だ。このことは、この前に読んだ「貝と羊の中国人」でも同じことが書かれていた。やはりそうなんだろう。しかし、この場合、大きな問題が発生する可能性がある。中国史上最大版図を有していたときというのは、現在のカザフスタン・キルギス・タジキスタンの一部、パミール高原、ネパール、ミャンマー(旧ビルマ)、ベトナム、ラオス、カンボジア、そして台湾、沖縄、朝鮮半島、ロシアのハバロフスク、沿海州一帯、樺太と非常に広い範囲で、すでに、その場所には独立国家の存在や、他の国家の領土の一部になっている。もし本当に清朝最盛期を目指すのなら、それらの国々との衝突が避けられないことになる。実際に中国は、建国50年以来、ある意味その目標に向かって十数回戦争を行っているという事実がある。やはり目指していると理解できるものである。 アメリカを軸に、アメリカの庇護の下(アメリカに安全保障を任せること)、”経済大国”を目指した日本と、アメリカの軍事力を見て、「侮られない国」の発想から、”核大国”を目指し、まい進した中国。その中国がどのようにして核を持ち、それが世界各国にいかにショックを与えたのかが、よく分かる。大きな影響が、核保有後、それまで台湾こと中華民国が国連に入っていたにもかかわらず、1971年に変わって中国が国連に加盟することになり、拒否権を持つ五大国に列するのだ。 1964年 ウラン235型の核実験成功 (世界では、技術力がより低いプルトニウム239型と予想していた) 1970年 人工衛星「東方紅一号」を打ち上げ、中距離弾道ミサイル完成 1971年 国連加盟 1980年 大陸間弾道ミサイル実験の実施 (アメリカ本土に届くミサイルの完成) 1981年 一基のロケットで三個の衛星打ち上げ(核弾頭の複数化を目指す) 1988年 原子力潜水艦からの弾道ミサイルの水中発射と突き進んできた。その過程で、先に核を持っていた東側の国のリーダーであったソ連から核開発についてやめるように説明を受けていたが、毛沢東は、それを跳ねのけ、旧ソ連から援助を打ち切られても、関係を絶ってでも核開発を進めたことは知らなかった。 そして、この核を持つことを進めていく中で、清朝最盛期を目指した活動も進められていく。 陸においても、海においても、中国が今でも根付く中華思想による中華帝国再興に向けての歩みが、詳細にまとめられている。読めば読むほどに、このままでは、日本は中国に海を押さえられてしまう。天然資源をはじめ様々な原料・食料を輸入に頼り、それらを加工して輸出する日本にとっては、まさにタイトルどおり併合されたに等しくなってしまう。アメリカに守ってもらうだけでなく、日本も言うべきことは言うべきであり、アメリカに守ってもらうだけではない国にならなければいけないのである。中国は日本を併合する著:平松茂雄 発行所:講談社インターナショナル2006年3月15日第1刷発行 2006年5月23日第4刷発行定価:1,600円+税
2006年08月18日
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溜池通信で、「目からウロコ」の中国論と書いてあったので、早速購入して読んだ1冊。著者の加藤徹(1963~)氏は、国際関係学者ではなく、中国の京劇や漢文などの研究家である。それゆえ、視点がことなり、溜池通信にある通り、とても興味深い1冊だった。 小室直樹先生の「中国原論」とも共通するのだが、中国には二面性があるということだ。加藤氏の説く二面性とは、タイトルにある「貝」と「羊」の二面性である。 加藤氏は、以下のように説く。 ホンネ :貝の文化 タテマエ :羊の文化 ちなみに、小室先生は、「陽儒陰法」という表現で表されるように、以下のようになる。 裏(ホンネ) :法家思想 表(タテマエ):儒教 そして、「貝の文化」の「貝」とは、貨幣を指し、経済主義や現実主義気質を表している。「羊の文化」の「羊」とは、祭祀のときに、神への捧げるものである羊を指し、礼や道徳を重んじ、理想主義やイデオロギーにこだわる気質を表している。 「貝の文化」の基礎を生み出したのが、中国史上最古の王朝「殷」(※夏は、中国以外では伝説の王朝扱い)であり、「羊の文化」を生み出したのが、その次の王朝「周」である。現在の中国人は、この殷人と周人が混合したもので、この混合により、「貝」と「羊」の二面性を持つようになったのである。この二面性があるからこそ、今の中国共産党が政治を一党独裁をし、共産主義を掲げながらも、資本主義を採用するという「社会主義市場経済」を実施することができるというわけだ。 この「貝」と「羊」の後は、日本(人)と中国(人)の様々な違いが展開され、どの視点もとても興味深かった。 中国は、流民が政権や王朝を転覆させたり、流民から英雄が生まれたりすることがある。日本では、どちらもほぼない(筆者は、流民の英雄としては、神武天皇だけとする)。流民型英雄として、晋の文公、孔子、三国志の劉備、そして毛沢東を挙げている。すべて流浪の末に、なんらかの功績を建てたものたちだ。さらに、流民の子孫として、太平天国の乱の指導者洪秀全、中国革命の父孫文、シンガポールの元首相リークアンユー、中国の開放路線に舵を切ったトウショウヘイ、台湾の元総統李登輝などが挙げられている。この流民が大きな存在感をもたらすことが、今も世界中で活動する華僑につながるというわけだ。 「和魂漢才・和魂洋才」と「中体西用」という言葉にも違いがあるとのことで、この「和魂漢才」は、菅原道真が名づけた言葉で、日本固有の精神で漢文の学問を消化することで、「和魂洋才」は、幕末期に、「和魂漢才」が転じたものだ。一方、「中体西用」は、これは中国の思想や伝統を本体とした上で、西洋のものを末節として利用することを表している。要するに、外来のものがある場合に、日本は、吸収して同化することを考えるが、中国は、吸収同化ではなく、あくまでも外来のものとして使うだけというわけだ。 中国の歴史の話が展開されるところで、興味深かったのは、2つ。 一つは、中国は人口の増減によって社会変革が起こること。 中国は現在13億の人口を誇るが、王朝の変遷(前漢~明)においては、6,000万人を壁に、これを超えると人口に、農業生産が追いつけなくなって、流民が発生し、氾濫が発生し、人口急減とともに王朝が倒れ、新たな王朝ができ、平和になると、人口が増えるが、6,000万人あたりで、また同じことを繰り返す。 もう一つは、王朝の変遷の黒幕、士大夫という階級 周から清朝まで、3,000年に渡って存在した階級で、どの王朝でも官吏を担った階層である。前漢の武帝期に儒教が官学化され、隋朝からは、官吏登用制度として、儒教が試験科目である「科挙」が始まり、定着化していく中で、士大夫階級は、王朝交代によってTOPが変わっても、変わらない、常に中間支配者層として生き続けた。ただ、このTOPが変わっても、変わらないでいるしたたかさは、忠誠よりも強いものに付いてしまうということを表している。中国革命を起こした孫文は、士大夫ではなく、革命運動のメンバーに士大夫階級を入れなかったということが書かれていたが、これはその強いものについてしまうしたたかさが、革命を進める際に裏切りに会うかもしれないからだろう。 この本で改めて確認したことは、現代の中国人の領土意識は、中国歴代王朝の中で最大版図を築いた清朝時代のものだということだ。清朝の領土は、大きく分けて3つで構成されている。 直轄地…今日の中国の「省」 藩 部…今日の自治区 冊封国…朝鮮・琉球(現沖縄)・ベトナム(ラオス含む)・タイ・ビルマ(現ミャンマー)で、この冊封国までが領土だという感覚なんだそうだ。これが本当だとすると東南アジアにおいても、南沙諸島だけでなく、さまざまなところで領土問題が発生することが考えられるだろう。 最後に、加藤氏は中国の本音と建前を使い分ける二面性や、中国人といっても、漢民族だけでなく、さまざまな民族がいて、中国人という一くくりできないということ、中国は民主主義もまだ根付いていない(国政選挙制度がない)ことや、言論後の自由がないことを配慮して付き合うことを求めている。 小室先生の「中国原論」とまた違う視点から中国を手軽に学べる1冊だった。 貝と羊の中国人著:加藤徹 新潮新書2006年6月20日発行 定価:720円+税エビケン活動日記は、こちら
2006年08月14日
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21世紀に入り、東アジアにおいて中国との関係というのが、どういう形になるにしろ重要であり、場合によっては大問題になる可能性(すでにエネルギー関係については問題だと思っている)があると思っている。そしてここ最近、中国に関する本の出版が増えているので、ちょっと呼んで勉強してみようと思い、まずは、小室直樹先生の「中国原論」を読むことにした。 小室直樹先生の本は、とにかく難しいことをいかにわかりやすく説いてくれるところがとてもよく。いつも読みながらとても納得させられることが多い、ここ1年くらいで一番読んでいる著者だと思う。 この本自身の出版は10年前のものだから、すこし状況が違うところもあるが、けれども中国の、そして中国人の考え方の基本を理解することができる。 統治機構としての特徴は、「陽儒陰法」という言葉に表されるように、表向きは儒教だけれども、裏は「法家思想」で国を治めることである。儒教というのは不思議なもので、宗教というと(キリスト教・イスラム教・仏教などなど)個人の救済が中心だけど、儒教は集団救済で、「よい政治をすれば世の中がよくなる」ということになる。そして法家とは、中国・戦国時代末期の思想家、韓非子が集大成させた考え方である。ただこの「法」というのは、西欧の「法」とはまったく違っていることが良く分かった。欧米の「法」は、絶対君主の王から自らを守るため、王の強大な権力から人民が不当な抑圧を受けないようにできたものである。一方、中国の法家の「法」とは、君主が臣下を支配する根本原則であり、すべての人民が従うべき基準で、「法」とは、支配者のものなんだそうだ。 「法」の縛り方を二分法的に整理すると 西洋の「法」:下から上 中国の「法」:上から下となる。 中国の「法」というのは、支配者(政府)の都合でいかようにもできるということになる。法家の大家である韓非子も、「法」の解釈は役人に任せ、それに従うことを説いているのだそうだ。日本の「法」も欧米と比べれば不十分な部分もあるかもしれないが、政府がいかようにでも解釈し、変更することはできない。仮に強引な解釈としても最終的には裁判で争うことができる。共産党一党独裁であり、言論の自由があるとは言えない中国においては、今でもこの考え方が貫徹しているのだろう。それゆえに相容れない、理解に苦しむ自体が発生するのだと分かった。 中国人の人間関係の鍵は、「ホウ」と「宗族」の2つにあるという。 ※「ホウ」の感じが、HTMLタグの判定を受けて表示できなくなるのでカタカナ表記 「ホウ」とは、人の横のつながり 「宗族」とは、祖先を同じくするものたちのつながりを表している。 この「ホウ」は、人間関係の横のつながりの究極的なものを指しているわけだが、中国は、何事にも対人関係がかなり色濃く反映される。人間関係は以下の段階で深まりをみせ、深まりが様々なことに大きな影響を及ぼすことになるのである。 まったく知らない人 ↓ 知 人 ↓ 関 係 ↓ 情 誼 ↓ ホ ウ 日本で有名な「三国志」の「桃園の儀」の劉備-関羽-張飛の関係や、「三顧の礼」の劉備-諸葛孔明、そして、司馬遷の「史記」の「刺客列伝」で取り上げられている刺客と依頼者の関係などが、「ホウ」として例示される。この「ホウ」は、中国の対人関係では究極に当たるもので、たとえ命がなくなったとしても、約束を守るし、社会全体のルールである「法」よりも優先される人間関係の規範となるものになる絶対規範である。この深い人間関係にあると、「とても信頼できる関係」を築くことができるが、その関係にない場合、特に、「まったく知らない関係」になると、相手の事情なんて関係のないことになり、そういった状態での契約については、一方的に自らに生じた事情で、破棄もしくは内容の変更を行ってしまうという「まったく信頼できない関係」になってしまう。それゆえに、中国人に対して「とても信頼できる」とか「うそつきだ」といった相反する評価が存在することになるのだ。それは深い人間関係内の決まりは、何よりも最優先する絶対規範であると同時に、その外部の人間関係は、様々な事情で自らの都合により変更可能な相対規範であるからだ。 また、縦の人間関係に相当するのが、「宗族」で、これは、父と子の関係を基にした父系集団で、同一姓を名乗る集団である(ただ同じ姓(たとえば劉とか)だからといって同じ宗族に属しているわけではない)。この「宗族」も、内部の決まりは、横の関係の「ホウ」と同じく絶対規範である。この集団は、祖先を集団内の子孫が祭ることを行うわけだが、子孫が絶えそうなとき、日本だと、たとえば江戸時代の大名家など見れば分かるが、養子をどこかから迎えてくるが、中国では同一宗族内で子孫を見つけなければならない。他の宗族から迎えるということは、孔子が、論語「為政第二」で述べるように、祖先とまったく関係がないゆえに、祭ることはおかしなことになってしまうのである。それだけ縦の関係が強いのである。 このように人間関係においても、縦と横で二重規範を持つ団体が作られ、政府も建前の儒教と本音の法家というダブルスタンダードを使い分けるということが、とても良く分かった。 今まで、三国志や水滸伝などの中国文学を親しみながら、いまひとつ違和感を感じた理由が良く分かった。小室直樹の中国原論著:小室直樹 発行所:徳間書店定価:1,700円+税1996年4月30日第1刷 2005年11月10日第4刷エビケン活動日記は、こちら
2006年08月12日
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小泉後の総理大臣大本命と目される安倍晋三氏の1冊。 祖父の岸信介、父の安倍晋太郎、そして安倍晋三と3代に渡る保守の流れ、そして安倍晋三氏の日本への想いや政治思想が、コンパクトにまとめられていて、読みやすい1冊だ。 はじめに、政治家としての姿勢として、安倍氏は「闘う政治家」でありたいと宣言する。その「闘う政治家」とは、ここ一番、国家のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家であると説明する。それは、安保改定のときに、デモ隊に家を囲まれながらも、日米安保条約を片務的条約を対等なものに変えようとした祖父岸信介や、すい臓ガンに侵されながらも、旧ソ連共産党と自民党との政党交流を実現させ、旧ソ連との外交を深めて父晋太郎氏の姿に影響を受け、培われてきたものなんだろう。そして自身の姿の事例として、北朝鮮の拉致問題で小泉政権の官房長官として北朝鮮としていかに外交交渉で闘ってきたかが挙げられている。 安倍晋三氏にとって重要だと考えているのは、安全保障と社会保障ということで、短い言葉で表現すると、帯に有るとおり「自身と誇りを持てる日本」であり、「再チャレンジを可能とする社会」を目指したいということで、この中では、北朝鮮の拉致問題や日米同盟、アジアそして中国との関係、少子国家における社会保障、そして教育改革などについての考え方が展開される。 非常に筋が通っていて、中には物議をかもし出しそうなものもあるかもしれないが、安倍氏は「闘う政治家」でありたいと宣言しているので、その”闘い”をぜひ見てみたいと思わされた。 最後に、今回だけでなくこれからも総理大臣を目指して総裁選に出馬する候補者は、安倍晋三氏のように、日本への想い、政治の考え方を表明する本を書くべきだと思った。具体的な政策論争も必要だが、政策は、日本を、そして世界をどうか考えているのか、どのような政治姿勢なのかということが前提に有って具体化されたものだともいえるから、まずはその前提を広く知らしめなければいけないと思う。テレビで言葉だけだと、テレビはその人の言っていることをすべて伝えるわけではないし、公正中立といっても、ある意図を持って、発言をカットするなどして編集した結果で放映されるから、その意図の前提に乗っかって判断せざるを得なくなってしまう。流そうとするマスメディアのフィルターがかかることになってしまう。しかし、本だとじっくり腰をすえて読み、そして判断できるので、ぜひ、他の候補者もそうして欲しい。マニフェストと呼べるものではないけど、これはそのマニフェストの基となる考え方が書かれた1冊だ。「美しい国へ」著者:安倍晋三 発行所:文芸春秋文春文庫 定価:730円+税2006年7月20日第1刷発行エビケンの活動日記は、こちら
2006年08月08日
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今回は、一気に上下巻の読書録、アルビン・トフラー氏の「富の未来」の少し前に発行されたトーマス・フリードマン氏の最新作「The World Is Flat フラット化する世界」 トーマス・フリードマン氏は、1999年にグローバリゼーションとナショナリズムを対比させた「レクサスとオリーブの木」を上梓した(ちなみにレクサスは、トヨタが北米で、アメリカ、そして世界を席巻した高級車のこと、オリーブの木はナショナリズムを表現している)が、この1冊で、そのグローバリゼーションは新たな段階に入っていることを、「The World Is Flat」で表現している。 グローバリゼーションには大きく分けて3つあるという。 グローバリゼーション1.0:1492~1800年頃 世界はL→Mに (国のグローバル化:国家がその総合力で自らの国の元にまとめあげる) グローバリゼーション2.0:1800~2000年頃 世界はM→Sに (企業のグローバル化:多国籍企業による世界市場) グローバリゼーション3.0:2000年~ 世界はさらに小さくそしてFlatに (個人のグローバル化:世界中へのインターネットの普及) 上巻では、世界をフラット化させた要因についての説明がなされる。一番初めに上がったのは、世界を大きく分けていた資本主義と共産主義の二つの経済体制の壁、ベルリンの壁崩壊(1989.11.9)だった。確かに、この壁が崩れ共産主義が崩壊していくことにより、世界が二つではなく一つの大きなものとして捉えることができるようになったと思う。それまでは、西側諸国と東側諸国と分かれていた。自分の学生時代の大半は、世界はアメリカを筆頭とする西側諸国と、旧ソ連を筆頭とする東側諸国に二分されている時代だった(両方に属さない陣営も合ったが)。 この壁を崩した大きな要因の一つに、フリードマン氏は、1980年代の初めから半ばに始まった情報革命(FAX・電話・パソコンの普及)を上げている。情報革命で、情報から隔離されていた人々がその鉄のカーテンをすり抜けるようになり、西側との格差を知る結果、それがうねりとなって結果的には壁を崩壊させたことを説明する。 その後、1991年にワールドワイドウェブ(WWW)がデビューし、インターネットが普及し、そして世界各地で共同作業を可能とするソフトウェアが生まれ、標準化が改良されるごとに、世界がどんどんとつながっていき、アップローディング、アウトソーシング(世界レベルでの)、オフシェアリング・サプライチェーン・インソーシング・インフォーミング・ステロイドなどなどにより、世界のフラット化がどんどんと進んでいることをフリードマン氏は説明する。 自分も、保険会社のシステムで仕事をしていた時代、ちょうどY2K問題などで、インド人のプログラマーは、日本人より安い上に、優秀だから、そういった人たちに任せるのが良いんじゃないかというような話題が出たことがあり、インターネットで世界と自分がつながった実感はすでにあったが、自分の仕事でも海外を意識するとは思って見なかったんだが、この本を読んで、そう行った時代に突入していたことを痛感した。 この前に読んだアルビン・トフラー氏の「富の未来」にも通じるものだが、今世界が本当に変わっている。社会は変わらなければいけないということだ。ただ、どちらかというと、トフラー氏の方が、フリードマン氏よりも、深く世界を捉えているように思う。どちらかを読むならば、深さでは、アルビン・トフラー氏の「富の未来」を、ネット社会がどのように進展し、世界をつなげて行ったかを知りたいという場合は、この「フラット化する世界」がいいのかもしれない。フラット化する世界(上)(下) 経済の大転換と人間の未来著:トーマス・フリードマン訳:伏見威蕃 発行所:日本経済新聞社定価:1,900円+税 2006年5月24日第1版第1刷エビケンの活動日記は、こちら
2006年08月02日
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未来学者アルビン・トフラー氏の話題の最新作「富の未来」の下巻をつい最近読み終えた。 アメリカだけでなく、ドイツ・フランス・イギリス・日本に韓国まで、第二の富の体制下において作られた諸制度が、第三の富の体制への移行というパラダイムチェンジともいうべきものによって破綻しかかっていることが説かれる。教育、そして日本でも少し前にものすごく話題になっていた年金(まだ解決しているわけではないが、郵政などで一気に霞んでしまった気がする)などが聴きに陥っていること、そして危機は、国家レベルだけでなく、国連や、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)などの国際機関においても発生していることが説かれる。 危機が発生するのは、その第二から第三の富の体制への移行において、はっきりとした移行の以前から起こっている、その基礎的条件の深部にある時間・空間・知識が変化をするからで、そして民間セクター(企業)などは、その変化についていこうと加速していくが、公共セクター(官僚そして法律)は、そうではないため、民間と公共で大きなギャップ(非同時化)が起こってしまうというわけだ。思い出せば、自分も、保険会社時代を思い出すと、とにかくスピードアップが説かれていたし、知識の共有化が大きなテーマになっていた。そういった意味では、民間企業は、基礎的条件の深部の変化に対応しようとしていたんだと思う。 上下巻を通して、思うことは、とにかく第二の富の体制=工業社会を前提とした均質性・標準化といった大衆を意識した制度ではなく、第三の富の体制=知識社会を前提とした制度に変更することだ。没個性の大衆(マス)ではない、カスタム化された、非マスの対応をすることが、市場の商品だけでなく、教育でも、福祉でも求められているのだ。 そして最後に、アルビン・トフラー氏が示唆していることが、とても印象的だった。第二の波によって、経済中心の考え方が生まれ、文化・宗教・芸術すべてが、その副次的なものとなったが、第三の波の革命的な富では、知識の重要性が高まり、経済は、中心ではなく、大きなシステムの一部となり、文化・宗教・倫理などが中央に戻ってくるということだった。まだまだ経済が中心であることには変わりないと思うが、本当にそうなるのだろうか?とも思いつつも、この上下巻を読むとそう思わせるだけのさまざまな例証がなされている。未来学者アルビン・トフラー氏渾身の1冊だった。富の未来(下)著者:アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー訳者:山岡洋一発行所:講談社 定価1,900円+税2006年6月7日第1刷発行エビケンの活動日記は、こちら
2006年07月25日
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ここのところマックス・ヴェーバーを読んでいたが、今回は、話題の1冊、未来学者とも言われるアルビン・トフラー氏の「富の未来(上)」を読んだ。アルビン・トフラー氏の著作を読むのはこれが初めて 21世紀の「富」が、いったいどのようにして生み出されるようになるのかを、これまでの社会変化と、これからの社会変化を交えながら、見据えた1冊。 1956年、歴史上初めて、アメリカでホワイト・カラーとサービス産業労働者が、ブルー・カラー労働者より多くなったことで、工業社会から、知識と頭脳労働の社会への移行が始まり、それにより、社会の富を生む出す体制が変わり始める。この「富の体制」は、金銭経済と非金銭経済の組み合わされたものと規定し、現在この「富の体制」の革命が進行し、新たな体制に向けて変化を筒付けているため、これまでの体制によって築き上げ、根付いた教育・福祉・年金などなどの制度が、どの国においても、きしみ、悲鳴を上げている。どの国も、崩壊の進む制度を立て直そうとするが、それが工業化社会を前提としたものであるかぎりは、効果は上がらず、知識社会にあわせたものにならなければいけないことを説く。 「富の体制」について 富の体制以前 狩猟採集の時代では、蓄ることができないので、富の体制とはいえない。 第一の富の体制-栽培 一万年ほど前、現在のトルコで農業が始まったことによる農業社会 数千年にわたりこの農業社会が続くが、農業がいくら発達しても、飢饉が発生する。 現在でも、この第一の富の体制で働く人が過半数を占める国は多い。 家族構成は、大家族。 第二の富の体制-製造 17世紀後半に登場した土地と労働と資本に基礎を置く工業社会 化石燃料エネルギーと単純作業の繰り返しを必要とする強力な技術を組み合わせたもの あらゆるものが大規模化、大量生産・大衆教育・マスメディア・大衆文化が生まれる。 標準化・専門化・同時化・集中化・規模の極大化という共通の原則を基盤にする。 家族構成は、画一的な核家族。 垂直な階層組織 第三の富の体制-サービス・思考・知識・実験 知識を基盤とする知識社会 生産・市場・社会の脱大規模化、細分化をもたらす。 多様な家族形態。 組織は、水平でネットワーク型など、いくつもの違った構造のものに 第二→第三へと流れていく中、時間や空間といったこれまでの統計の基礎的条件のさらに深部にあたるものが変化していることが説かれる。 工業化社会は、すべてが機械のように効率的に一体となって動く同時性と一体となって動くことのできる安定性を求め、進めてきたが、第三の体制の移行に伴い、その同時性は崩れ、世界レベルでの熾烈な競争に晒され、変化にいち早く対応する企業、さまざまな社会問題に対応するように活動している社会団体などは、速く動くことを心がけ、動いているが、労働組合・官僚・公教育制度は、その動きから大きく遅れ、そして政治構造と法律ははるかに遅れていることが、それぞれの理由を挙げて説明されている。第三の富の体制にあった変化が、社会の諸制度に求められているということなのだろう。 トフラー氏の指摘で納得したのが、富を生み出すものとして、金銭経済と非金銭経済があり、この非金銭経済が金銭経済に与える影響は、近年非常に大きなものになっているので、評価することを説かれていることだ。NPO、ボランティア団体、個人が様々に経済統計の対象にならないが、企業と同じような活動や、企業の活動を補完したり、結果的に支援したりするような活動をしている。こういった非金銭経済活動に携わるものトフラー氏は、1980年の著書「第三の波」で「生産消費者」と名づけているわけだが、振り返れば、日本で言うと市民活動というべき分野と大いにかぶるのだろうが、企業の経済活動などにも大きな影響を与えるまで成長していることからも、まさに卓見というべきであり、私も、こういった活動が、社会全体の富にいかに影響を与えるのかをつかむことは、知識社会に必要なことだと実感した。これからの社会のあり方を、未来学者アルビン・トフラー氏から教わることのできる1冊だ。 富の未来 (上)著:アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー訳:山岡洋一 発行所:講談社2006年6月7日第1刷 定価:1,900円+税エビケンの活動日記は、こちら
2006年07月12日
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少し前に読み終わった今回の1冊、「職業としての政治」 この本は、1920年に亡くなるマックス・ヴェーバーが、その前年、ミュンヘン(ドイツ)にある学生団体のために行った公開講演をまとめたものなんだそうだ。その当時のドイツは第一次世界大戦に破れたショックや、ロシア革命のあおりを受け、国内に革命への機運といったようなものが高まっている状態で、これを憂い、政治とは何か、そして国家の指導者たる政治家とは、なんたるかを説いたものだ。 この講演でマックス・ヴェーバーが話す「政治」とは、国家の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為とし、その上で、「国家」、特に近代国家の社会学的な定義は、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体であるということ、つまり、国家が、暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされいるものであるとする。そして、「政治」とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力であると喝破した上で、人々に国家の支配に服させることを正当化する根拠として、3つの支配形態を挙げる。 1.伝統的支配 :「永遠の過去」が持っている権威 2.カリスマ的支配:ある個人に備わった非日常的な天与の資質(カリスマ)が持っている権威 3.「合法性」による支配:制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規制に依拠した客観的な「権限」に基づいた支配 近代国家は、この3に該当するわけだが、この講演の中で官僚制国家が、いかに警世されてきたか、そして職業政治家がどのようにして現れてきたかということが展開される。この政治を職業にすることについては、以下の2つがあると語る。 1.政治「のために」生きる 2.政治「によって」生きる そして、この「のために」「のよって」の区別の実質的な側面は、経済的な意味であることを説き、十分に収入のある金持ち職業政治家は報酬を求めないだろうが、無産者でも職業政治家であるようにする。また金権制的でない方法で、政治の世界に人材を迎えるには、政治の仕事に関わることによって定期的かつ確実な収入が得られなければいけないという前提を語る。 マックス・ヴェーバーは、政治家にとって必要な資質は以下の3つと語る。 1.情熱 仕事・問題・対象・現実への情熱的献身 2.責任感 仕事に対して責任を持つ、情熱にその責任性が結びつくことが必要 3.判断力 精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力 事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要。 特に、この「距離」を置けない政治家は、それだけで大罪だと断言する。責任感に結びついた燃える情熱は、政治への献身は情熱によってのみ培われるがゆえに、冷静な判断力は、自己陶酔してしまわぬ強靭な魂の抑制を可能とするために必要であるとする。なぜなら、政治家の活動は、権力の追求が付きまとう。「距離」を置く判断力がなければ、「仕事」のための権力の追求が、権力の獲得のための権力の追求になってしまうからだ。そして、政治家にとって大切なのは、将来と将来に対する責任であると説くのであるが、今現在でも通用するものだ。 そして、最後に、マックス・ヴェーバーが大学生に説くものこそ、すべての政治家、そして政治を職業(天職)としようとするものにとって訓戒であり、心にとどめ置くべきものである。 『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。 しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく-はなはだ素朴な意味での-英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないのである。 自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が-自分の立場から見て-どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず(デンノッホ)!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。』(「職業としての政治」より抜粋) まさに自らへの戒めとしたい。職業としての政治著:マックス・ヴェーバー 訳:脇 圭平発行所:岩波書店 岩波文庫定価:400円+税1980年3月17日第1刷発行 2001年6月5日第38刷発行
2006年07月01日
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古代ユダヤ教を読んでいたんだが、理解するのが難しいこともあり、改めて読み直すことにして、今回は、マックス・ヴェーバーの代表作ともいうべきこの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ。 なぜ、資本主義が、西ヨーロッパにおいて初めて生まれたのかを解き明かした1冊。 自分が高校生時代に学んだ世界史を思い出すと、資本主義が生まれたのは、西ヨーロッパであり、商業の発展による富の蓄積から資本家が生まれ、科学の進歩による技術革新などにより産業革命が起こり、産業のあり方が、農業→工業という形で大きく変化した結果、農民が労働者に転じていくことによって、資本主義が成立していったという感じで習った記憶がある。 学校で習う世界史というものが、ヨーロッパ中心主義的なものであり、今も昔も圧倒的に欧米からの情報流入が多く、自然と欧米フィルターを身にまとうことになるために、疑問に思うこともなかった。 しかし、考えてみれば、世界三大発明(火薬・羅針盤・活版印刷)も純粋に西ヨーロッパのみで生まれたわけではなく、中国などからのものを発展させたといっていいだろうし、清朝の全盛期には、世界の富は清朝に集まっていたわけだし、小室先生のイスラム原論にも、ブルボン王朝全盛期のベルサイユ宮殿を訪れたオスマントルコの外交官は、その宮殿の案内が終わった後に、この程度の広さですかと、まったく驚きもしなかったということからも、富の蓄積から言えば、中東も中国も西ヨーロッパを圧倒していたわけだし、科学技術も進んでいた時期があったわけだから、資本主義が生まれてもいいはずが、生まれなかった。 なぜ、西ヨーロッパで生まれたのか?西ヨーロッパにあって、中東や中国にはないもの、それはキリスト教であり、その中でもプロテスタンティズム、特に、カルヴァンの予定説、そしてその影響を強く受けたイギリスのピューリタンの経済倫理が、その生誕に大きな役割りを果たしたこと(唯一という意味ではないが、とても大きな役割りを、宗教改革者が、ピューリタンが、願っていたわけではない結果として)が説かれている。 ウェーバーの考察は、その当時の近代的企業における資本所有や経営、高級労働にかかわりを持つプロテスタントの数が、カトリックの数よりも相対的に多いというところから、資本主義の成立・資本主義の精神の誕生にプロテスタンティズムが大きく関わっているのではないかと睨み、論証を重ねていく。 プロテスタントの海の親ともいうべきルターは、聖書をドイツ語に翻訳する際に使った「Beruf(英語ではCalling 日本語では天職)」という言葉を使った。この「Beruf」には、職業という意味だけでなく、神からの使命という意味も込められており、日常の労働は、神の使命を果たすという大きな意味を与える契機となる。このBerufを発展させるのが、カルヴァンである。 カルヴァンといえば、予定説である。予定説とは、神に救済されるものは予め定まっている。善行を積もうとも、寄進しようとも、教会に行こうとも救われる救われないは関係ないというものである。信者は、この教えにより、救われるための一斉の呪術的なものから解放されることになり、合理的精神が育っていくことになる。ただし、それゆえに信者は、自分は本当に救われるのだろうかという大きな不安に襲われることになる(カルヴァン自身は、自分は神の「武器」であると感じているため、救われる存在であることを確信しているからいいわけだが、そこまで思えない信徒にとっては大きな問題)。 この「救いの確証」は、予定説という教えに出会うこと自体が、自ら選ばれている存在であると考え、絶え間なく神からの使命である職業労働(Beruf)に打ち込み自己確信することによって得られるのである。働くことは、生活のためや、裕福になるためという理由ではなく、救われる存在であるという証拠を得るために、毎日他のことを置いて(労働以外は誘惑)働くという禁欲を伴う労働観念=天職観念が生まれるのである。そしてこの天職観念をもっとも首尾一貫して受け継いだのが、イギリスのカルヴァン派で、のちにアメリカに渡るピューリタンである。ピューリタンは、富裕になることを目的に働くことを排斥していたが、神の使命を果たすために(神の栄光を増すために)働いた結果として富を得ることは否定しなかった。そして奢侈的な消費を許さなかった。その結果、富の蓄積が起こることとなる。そして蓄えられた富は、奢侈的な消費ができないので、神の栄光を増すために、投下資本として使われ、またそれにより富が得られるという結果が繰り返される。まさに資本が利潤や余剰価値を生み出す社会システム=資本主義につながっていくのである。 しかし、誰しも金持ちになると、奢侈的な使い方をしたくなるものであり、その財という巨大な誘惑に負ける形になり、信仰が薄れていくと、営利活動が、神の栄光を増すためというような宗教的であり、そして奢侈的な消費を認めない倫理的な意味が薄れ、富自体を追い求める競争的な勘定に結びついたり、スポーツ的な色彩を帯びるようなものになる。富の追求が目的化されてしまうことになるのである。結果、禁欲的プロテスタンティズムの影響から生まれでた資本主義の精神が変容し、これまでは宗教により培われた倫理観から形成された資本主義の精神が、今では、禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が薄れた富の追求を合目的化する資本主義が、鉄のおりの様に強力で、逃れ得ない力を振ることになってしまった。 カルヴァンは、富のために宗教改革をしたわけではない。ピューリタンも富追求のために、厳格な規律をもって、神の使命たる天職に打ち込んだわけではないが、その結果からもたらされる富の大きな誘惑により、はからずも、マックス。ヴェーバーのときも、そして今も宗教的・倫理的な意味がなくなった資本主義が、世を覆うことになってしまったということで、ヴェーバーもこの力は、化石燃料の最後の一片が燃え尽きるまで、人々の生活スタイルを決定し続けるだろうと説いている。 正直、注釈も多くて、読むのが結構骨が折れるが、とても勉強になる1冊だった。ただこの本を読んで、こういったことを、よりわかりやすく説いてくれる小室直樹先生ってすごいと思った。 大変だけど、資本主義って、どうやって生まれたんだろうというのを単なる事象面でなく、もっと深い面で知りたい人には、ぜひ読んでほしい1冊だ。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神著:マックス・ヴェーバー 訳:大塚久雄岩波文庫 定価:800円+税1989年1月17日 改訳第1刷発行 2002年6月25日第32刷発行 エビケンの活動記録は、こちら
2006年06月20日
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マックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ教」を読み始めたわけだが、とても苦戦している。いろいろと人名が出てくるのだが、相関関係や、先後関係などが分からなくて、それゆえに???になってしまっている。こういった事態に至った理由は、ユダヤ教やユダヤ人の歴史に関して、あまりにも知識がないためだということだと痛感して、いったん中止して、まずは、その理解をと思い、副読本的に読んだ1冊。 宗教法典(タルムード、シュルハン・アルフ)やイスラエル政府が定めた帰還法のユダヤ人の定義によると 1.ユダヤ人の母親から生まれた者(宗教法典と帰還法の定義) 2.ユダヤ教に改宗した者で、他の宗教に帰依していない者(帰還法のみ)とあるように、母系を重視する。ちなみにユダヤ教への改宗は、日本の多くの新興宗教のように簡単に行えるものではなく、さまざまな手続きを経て、そして男性であれば割礼を受け、ようやくできるものなんだそうだ。 旧約聖書を唯一の聖典とし、その旧約とは、モーセがエジプトで奴隷として虐げられていた民族を、エジプトから脱出に導き、シナイ山の山ろくでモーゼが唯一神ヤーウェとの間に結んだ契約を指し、キリスト教の新約聖書は、イエスによる新たなる契約ということになるんだそうだが、実は、このイエスの存在が、キリスト教世界で、ユダヤ人への迫害に向かわせることになるのである。なぜなら、ユダヤ人が、イエスを断罪(磔刑)からだ。自分が高校時代に世界史を学んだときは、ユダヤ人がイエスを処刑したという習い方ではなく、ローマ帝国の総督ピラトが処刑したと習った記憶があるのだが、ピラトは処刑する気はなく、むしろ大赦の際に、これといった罪が見当たらなかったイエスを釈放したいと考えていた。しかし、民衆はそれを望まず、処刑を強く望んだ。それにより、イエスは処刑されることとなる。この事実が、キリスト教世界におけるユダヤ人迫害を生み出した大きな原因になっているのだ。 シオニズム運動やイスラエル建国についても、単純にパレスチナの地に戻ることと思っていたが、シオニズム運動の当初では、パレスチナに限らず、キプロス・エジプト国境のエルアリシュ・ウガンダの案もあったが、エジプト政府の反対や、多くのシオニストの反対によって、最終的にパレスチナ路線を堅持したことや、ユダヤ人国家建設については、日本が満州においてユダヤ人国家建設を考えていたことも改めて知った。そして建国に際しては、さまざまな思惑が入り組んでおり、今やイスラエルは、中東の親米国だが、もともとはスターリンのソ連が、イスラエルが社会主義国になる可能性があったことや、ドイツなどのファシスト国家との対抗から、反ユダヤ政策から、ユダヤ支援に切り替えていたことや、逆に英米はユダヤ人国家建設については反対していたことなどは、歴史の皮肉を感じさせられる。 今の中東情勢からは、信じられないことだが、当初は、アラブ側も帰還を歓迎していたことが、アラブ人のエミル・ファイサルやヨルダンのフセイン国王は、むしろ歓迎していた。また旧約聖書にもユダヤ人とアラブ人が異母兄弟であるとも書かれていたのである。それが、当時中東支配をもくろんでいたイギリスが、アラブとユダヤの反欧米主義的な国家が生まれることに危機感を感じ、分割統治による外交が、お互いを反目させた結果、今のような中東情勢を生み出しているのである。まさにヨーロッパ列強の帝国主義・植民地主義の徒花といっていいだろう。 この本を読みながら、中東の情勢において、日本は審判のような立場で関わることができるんではないだろうかと思っている。ヨーロッパはキリスト教世界であり、今は以前ほどではないが、そういってもユダヤ人によってキリストが断罪されたという思いが強くなれば、ユダヤ人とは相容れないという状態になる恐れがある。イスラム教世界とユダヤ人は中東情勢で分かるとおり、完全な対立関係にある。キリスト教とイスラム教も、アメリカのブッシュ政権のこれまでの外交姿勢もあって、かなり悪い関係にある。そういった意味では、どの一神教世界にも属していない日本は、第三者的な立場として審判を務めることができるのではないだろうか?審判は中立な立場でなければいけないから、3つの世界に属さない日本には最適な役割りなんではないだろうか。面白いほどよくわかるユダヤ世界のすべて著者:中見利男 発行所:日本文芸社平成15年4月25日第1刷 平成17年8月25日改訂第1版5刷定価:1,300円+税エビケンの活動日記は、こちら
2006年06月04日
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先日、読み終えた本。実は、マックス・ヴェーバーに関する本を読むのは、これが初めて 小室直樹先生の著書の中に、ものすごく登場してくるし、小室直樹先生に多大なる影響を与えていることからも、読んでみようと思ったけど、いきなり、マックス・ヴェーバーの著書を読むのは、恥ずかしながら自分には難解かもしれないと思い、まずは入門としてこの本を読むことにした。 この著は、マックス・ヴェーバーが、これまでの多くの学者が、マックス・ヴェーバーを西洋の近代合理化の礼賛者として扱われてきたことに対する批判というか、著者の山之内靖氏によるマックス・ヴェーバーへの新たな理解を示すもので、マックス・ヴェーバーの社会学者人生を 1 学者として順調な時期 2 重い神経病を患い苦しんだ時期 3 神経病を乗り越えた時期の3つに分けて、それぞれの時期における著作を振り返りながら、マックス・ヴェーバーの心を推し量り、それによって、マックス・ヴェーバーは、西洋の近代合理化への礼賛者ではなく、西洋のキリスト教(プロテスタンティズム、その中でも特に、カルヴィニズム)による合理化が、社会関係が、人と人とをつなぐ感情的な絆ではなく、法によって定められた形式に陥ってしまうということを説いた。 マックス・ヴェーバーという大社会学者、今でも小室直樹先生をはじめ、世界中でさまざまな学者や研究者に影響を与えている人が、実は、10年くらい重い神経病に悩まされていたことは、知らなかった。ただ、それは、第1期のころに感じていた疑問を悩んだが故の、神経症であり、回復した結果、第3期において、また精力的に活動を展開し、数多くの著作を残すことを知った。 また、この西洋のプロテスタンティズムから発生した合理化は、非常に大きな普遍性を持ち、文化がいかなる特性を帯びていても、この合理化の普遍の力にこうすることができないことを、マックス・ヴェーバーが論じていることが、今、グローバリズムという形で、その力が、世界中に現れてきているのだと思った。 入門といっても難しいわけだが、これから、本格的にマックス・ヴェーバーを読んでいこうと思う。マックス・ヴェーバー入門著:山之内靖 発行所:岩波書店岩波新書(赤本)1997年5月20日第1刷 2005年8月4日第15刷定価:780円+税
2006年05月24日
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小沢一郎氏が民主党の党首になり、千葉7区補選で勝ったことを受けて読んでみようと思って購入した1冊。 1993年に発行されただけに、その当時と今とでは情勢が異なっているところもあるんだけど、小沢一郎氏の熱い思いがぶつけられている。読んでみて、ビジョンとしてこれだけのことを書ききることにまずはさすが政治家なんだと思わされた。 当時と違うというところでは、特にアメリカに対してだが、今のアメリカは国連を重視してはいない。ネオコンのブッシュJr政権は、自国中心主義(ユニラテラリズム)で、自国の都合を最優先させる形で、それに国連が従うような行動をすることを求めている。この著書ではクリントン政権は国連を重視しているから日本も国連中心主義(小沢氏が以前から強く主張している)で、アメリカとともに行動すべきだと説いているが、今の世界情勢においては無条件にアメリカにつき従うべきではないだろう。 小沢氏は、”自由”を旗頭にしていることが本当に良く分かる。個人をさまざまなことから自由にして、力を発揮させるようにしたい。ただそのときに単に自由だけを言うのではなく、個人の責任も求めている。 そして、”5つの自由”の実現を説く。 ・東京からの自由(一極集中の中央集権から地方分権への改革) ・企業からの自由(個人を中心とした社会への改革) ・長時間労働からの自由(会社人間からの脱却) ・年齢と性別からの自由(成人男性中心からの転換) ・規制からの自由(管理型行政からルール型行政への転換) を主張する。93年当時からするとこの5つも小沢氏の書いてある方向に進んできている。しかし、私見ながら”東京からの自由”については、ほとんど進んでいないんではないだろうか?相変わらずほとんどのものが東京とその周辺に集まってくる。地方への時代はまだ大きく開かれていないようにも思える。ただ皮肉かもしれないが、すべてではないにしろ、小泉政権においても実施されてきている流れにも思える部分がある。小沢氏が民主党を立て直して政権交代をするには小泉政権と大きな流れについてどのような違いを出すかにあるんだと思った。 93年当時の小沢氏の個人の自由を柱にした日本再生ビジョン、その当時の小沢氏の熱さを十二分に感じるものだった。今回の民主党党首になってどのようになるのか注目したいと思う。日本改造計画著:小沢一郎 発行所:講談社19993年5月20日第1刷発行 2006年4月20日第22刷発行定価:1,500円+税
2006年05月14日
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昨日読み終わった本、『日はまた沈む』を書いたビル・エモット氏が、日本復活を宣言する、まさに今の実は好景気なんだというのを後押しするような1冊。 1990年にバブル景気の破裂により、それまで日本が非西洋諸国の近代化成功モデルや世界第2位の経済大国という手本的な存在から、改革や活性化の処方箋をつきつけられる(主にアメリカからだが)説教される国へと変わったが、それから15年、日本は、革命や1980年代のイギリスのマーガレット・サッチャーが行ったショック療法的なものも行われず”徐々に”漸進的な変化が、もたらされ、2005年9月の小泉政権の総選挙の歴史的大勝はこの流れを今後も続くものと確定させるものだと評価している。 15年という長期間にわたる金融・労働・会社法・世論・資本市場などの広範囲の変化によって、ようやく復活基調に入ったことを説くが、それでももっと競争できるような法整備などの変化を求めている。 政治についても、バブル不況をもたらしても本格的に政権交代がなされなかったことを不思議がるが、それでも小泉純一郎の登場により、旧来型の政治から決別し、改革の中身を争う新たな政治に入ったことを評価している。 そしてこれからも日本は、小さな政府に向けて変化していくことを説くが、これからも日が昇り続けるには、東アジア各国、特に隣の国(中国・韓国)との間にある歴史問題をどう解決するかが大切であると主張し、靖国問題についても第三者の立場からの提案がなされ、同じく歴史問題が横たわっていたが、ほぼ解決させているヨーロッパの取り組みを参考に解決するように助言している。 日本のことを応援する1冊だった。日はまた昇る -日本のこれからの15年‐著:ビル・エモット 訳:吉田 利子 発行所:草思社2006年2月第3刷 定価:1,200円+税
2006年05月04日
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中東は、日本人の生活にとっては、”石油”という意味において、本当に切っても切れない大切な地域。しかし、その地域の中心規範ともいうべき、イスラム教は本当に恐ろしいほど程遠いのではないだろうか?世界三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)の中で今でもものすごいスピードで世界中で信者を増やしている宗教にも関わらず、マホメットが創始した唯一神アッラーを崇拝し、1日に5回の聖地メッカに礼拝することや、断食があることなど、そういった程度しか知られていないのではないだろうか?自分は正直そのレベルでしかない。しかし、宗教としての世界レベルでの影響力や日本人の生活から考えると、そのイスラム教の考え方を知ることは必要だと思い、碩学の小室直樹先生のこの書を読んだ。 不思議なことだが、世界中で今だ信者を確実に増やし続けているイスラム教が、日本では全然受け入れられていない。三大宗教のうちの2つ、仏教とキリスト教は受け入れたにも関わらず、イスラム教は、ほとんど受け入れられていないといってもいい。 その理由を小室先生は、世界三大宗教の中でイスラム教だけが、人間の外面的行動への命令=”規範”を持っている。外面的行動とは、1日5回の定時の礼拝(いつでもいいわけではない)や、進行を絶えず口に出さなければならないこと、貧しい人への喜捨(方法も定められているや、断食や聖地への巡礼など、それぞれが方法も定められていて、例外もあるのだがその例外も明確に規定され、日本にありがちなグレーゾーンがないようになっているということだ。 そして断食や巡礼といった全ムスリムの義務が、民族や貧富の違いを乗り越え、イスラム教徒としての連帯を生む。コーランをはじめとするイスラム法によって外面的行動が明快に規定されることが、イスラムの宗教の法が社会の法となる。 一方のキリスト教は規範はないといっていい。なぜなら基本的に「信仰のみ」であり、心構えを説いたものであるからだということだ。唯一神を信じる宗教として、ユダヤ教があるが、ユダヤ教は、規範のある宗教で、キリスト教はそのユダヤ教という土壌の中から、規範を否定することでその教えが完成されたと説く。いわゆる「信じるものは救われる」という言葉に表されるように 小室先生は、日本においてなぜ仏教やキリスト教が広がったように広がらなかったのかを、この”規範”に求める。日本人は規範が嫌いゆえに、規範にうるさいイスラム教は受け入れられなかったと説く。仏教も、いつのまにか念仏を唱えさえすればいいという形になっていったように、日本人は、規範性が強い宗教が好きでないことが、仏教を例に挙げて説明される。 この書を通して思ったことは、自分自身の考え方が、本当に欧米中心史観的なものになっていることに気づく。考えてみれば、世界史を習うといっても、基本的には中国とキリスト教世界の西洋(欧米)が中心で、中東のイスラム世界は、西洋と比べるとある意味付属的なものだといってもいいレベルだと思う。ただ、実際に西ローマ帝国滅亡後のギリシャローマの文化遺産や歴史を受け継いだのは、イスラム世界であり、世界三大発明もアジアやイスラム世界からのものであったように、またこの書にも掲載されたエピソードに、フランスのブルボン朝絶頂期のルイ14世が造らせたベルサイユ宮殿が完成したときに、オスマントルコの大使が招かれて、案内されたときに、たったこれだけの広さなんですかということだった。 イスラム世界にとっては、もともとは自分たちのほうが、西洋世界よりも富を持っていたし、文化や技術についても、ギリシャローマを継承し、発展させて、西洋に里帰りさせた意識があったわけだが、それが十字軍という形で攻め込まれ、足掛け3世紀にわたる戦いがなされた。イスラム世界はモンゴルによって征服されるのだが、その地域を支配したモンゴル人は、その後イスラム教に改宗し、宗教としてはイスラム教の軍門に下ったが、キリスト教徒である西洋人はそうならなかったところに、イスラム世界の「十字軍コンプレックス」が残り、そのコンプレックスが今の国際情勢の不安を生み出していることを説く。日本人の多くが、アメリカンフィルターや、世界史で習う形で身に着けてしまう西洋フィルターにより、判断しづらくなっていることが良く分かった。 少しイスラム教のことが分かった気がするとともに、やはり今のアメリカと中東の関係の難しさを改めて認識させられる1冊だった。日本人のためのイスラム原論著:小室直樹 発行所:集英社インターナショナル2002年4月22日第2刷発行 1,600円+税
2006年05月01日
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元国会議員の評論家、大原一三氏、2005年11月に81歳で死去したが、死ぬ寸前まで日本の行く末を憂い、そしてその思いを表したこの1冊。恐らく大原一三氏の最後の一冊。 大原氏は、今の日本は、戦後60年たっても民主主義はいまだ借り物の域を出ず、ただこの自由だけを重んじるものになってしまっていることや、”拝金主義=マンモニズム”に陥り、危機的な状態であることを嘆き、この状態から日本が蘇って欲しいと願うメッセージを本に託している。 人口減少(特に生産年齢人口は、2004年現在の8500万から2050年には40%減の5500万)や日本の借金(国・地方合わせて約700兆円、当時の政府の特殊法人の借金約300兆円)といった国内的な問題から、国際的には、世界の人口増加、特にアジア、その中でも巨大な中国とインドが人口が増加し、そして経済成長し、それぞれの国の国民の生活水準の上昇により、世界レベルでの食料や石油などの天然資源の奪い合いが起こり、日本のように食料自給率も4割程度、天然資源特に石油はほぼ100%輸入の状況の中で、人口減少圧力の経済停滞により弱まってっている上に、資源争奪で更に弱ってしまう恐れがあることを説いている。そして日本が食料もエネルギーも、自前ではまったくまかなうことができない資源のない国としての認識を持った上で、改革にあたることを求めている。 改革に際して、大原氏は、できる限り「スリムで効率的な社会」を構築することを目指せと主張し、思い切った気勢撤廃による自由な競争社会と強力な人材養成を求める。その後、財政、年金・医療、官僚、金融、土地、農業、市町村合併、ITによる効率化、労働力確保、技術開発、教育についての大原氏の考えが展開されている。官僚だけでなく組織についても無思慮に大きくなり続けること肥大化することはいいことではないと思う。その点では大原氏は市町村合併を積極的に勧めることを提案しているが、私は、なんでも大きくなれば効率化するとは限らないと思うので、その点はよく検討しないといけないだと思っている。といってもあまりに小さすぎる地方自治体はやはりある程度の大きさを持つべきだとは思っているが…しかし、こうやって広範な考察力やそれぞれに対して大原氏自身の改革案を提示できる知見の広さはやはりさすがだと思う。 最後は、ペリーショックによる開国から世界一流の国に入った第1回目の改革=明治維新。そして第二次大戦後のマッカーサーによる占領行政の後の経済復興し世界第2位の国になった第2回目の改革、そして3度目の改革が成功して欲しいという願いが説かれていた。日本のことを最後まで憂いて亡くなられた憂国の士、大原氏の思いにどう応えることができるのか、これからの課題であり、これはある意味その宿題&参考の書なんだと思う。2050年の日本 …再生か衰退か…著:大原一三 発行所:東洋経済新報社2004年12月9日発行 定価:1,900円+税
2006年04月22日
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日本を鋭く分析するオランダの政治学者・ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の1冊。1年以上前に購入していたんだが、ようやく読んだ1冊。 1962年、東京オリンピックの2年前に日本にやってきて、日本経済の高度成長、バブル崩壊、その後不況と現在の格差拡大の日本を見つめてきた著者が、一国覇権主義を突き進むブッシュ政権のアメリカに日本が無批判に付き従っていくことに警鐘を鳴らしている。 日本がイラクに自衛隊を派遣しているのは、イラクの復興支援のためというのは名目上の理由で、本来の理由は、日本がアメリカに忠実であることを表明するためで、相変わらず日本は国際経済の上では世界第2位の経済大国であるように重要な国であるが、それ以外の分野においては、世界的には大して重要ではなく、アメリカやヨーロッパにおいては、日本を放っておいて中国に目を向けるべきだという状態になっていることを伝える。確かに、自分も4年前にワシントンDCに行ったとき、書店に入ると、どの書店でも中国は大きな扱いをしていたが、日本は下手するとアジアのほかの国と一緒に並べられているところもあり、ジャパンバッシングからまさにジャパンパッシングに進んでいることを思い知らされた。著者はその理由を、戦後、日本が経済だけを追いかけて、外交面では事実上見えない存在であったからだと説く。 著者は、日本がアメリカの同盟国であるということが虚構であることを強く説いている。”同盟国ではない”しかし、”植民地でもない”、その関係は、日本はアメリカの”属国”であると表現する。確かに外交については、重要なところでは日本にはほぼ選択肢はなく、アメリカに従っている。内政についても、アメリカから構造改革を様々な分野でその内容についてまで求められる状態を見ると、”属国”という表現が正鵠を射ているのかもしれない。 著者は、「ナショナリズム」と「愛国心」は異なると説く。この場合の「愛国心」は「パトリオティズム」と言う。この「ナショナリズム」と「愛国心=パトリオティズム」の 「ナショナリズム」は、イデオロギーであり、自分の国は他の国よりも優れており、あるいは価値があり、したがって他の国々にはない特別な権利が与えられているという理論であり、自分の国は特別な経緯と待遇に値するという決めつけやレイシズム(差別主義)的な一面があり、自分の国は、悪いことをするはずがないと考え、その結果、特別な存在として国際関係において覇権を追求するようになると説明する。 ※ただ、もともとは共通の言語や宗教や考え方など、他とは明白に異なる文化を共有する人々が、世界で自分たちを代表することのできる自分たちの国家を設立するために戦うエネルギーを与えることができるものと説明する。すなわち、それは「民族自決」のベースになるものと考えられる。 一方、「愛国心=パトリオティズム」は、自国を愛する心であるが、それは偏愛することではなく、自国がモラルに反した暴挙を行うことや参画することを恥ずかしく思い、自国の良い面、悪い面をきちんと評価できること、世界の他の国々のことも知っていて、その上で自国の立場を把握して行動することができる心だと説く。それは、自分の国を熱狂的に愛するのではなく、客観的に是々非々で自分の国を見ることができる心ということなのだろう。 最終章において、著者は、日本の未来のために、無思慮に無批判にアメリカに忠実であることを止めること、ジョージ・W・ブッシュ大統領とネオコンたちが、一国覇権主義に陥っており、世界の中で、世界の国々に対して「責任ある」行動が取れる国ではない状態にしているので、そういったアメリカの考え方や見方=「アメリカンフィルター」を取り払って考えることを説き、そして国連のあり方を改革し、国連の理念を守り実現することを求めている。ただそれは、第2次大戦の異物である安保理の強化ではなく、国連総会を強化すること、そしてそれを日本が他のユーラシア大陸の国や、安保理自国以外の国々と共に組んで行うことを求めている。国連のあり方については議論すべきことは多いが、世界中の多くの国々が話し合うことができる仕組みをもっと適正に運営できるようにすべきだということを求めているのだと思われる。 今、イラクがどうなっているのかわからない。というよりも泥沼化している状態であることを考えると、この本が、アメリカについて説いていることは、現在、さらに説得力を増していると思う。 世界が日本を認める日 もうアメリカの「属国」でいる必要はない 著:カレル・ヴァン・ウォルフレン 訳:藤井清美 発行所:PHP研究所 2005年2月9日第1版第1刷発行 定価:1,700円+税
2006年04月19日
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ユダヤ教・キリスト教・イスラム教集中講座に続いて読んだ1冊。 ここで井沢元彦氏は、日本の特徴は、「折り紙とビーフカレー」と語る。 ”ビーフカレー”、カレーはヒンズー教徒の国インドのもの、ヒンズー教徒は牛を食べない。すなわちビーフカレーというのは、インドではありえないもので、日本がこれを受け入れたときに、日本独自のものに変容させるように、これまで受け入れてきた外来宗教も変容させてきたことを表現している。 ”折り紙”については、日本文化の特徴、「作り変える力」の象徴であると語る。正方形の紙をのりやはさみも使わないというさまざまな制約があるにも関わらず、元の形からは創造できないようなものを生み出してしまうその力を日本文化の特徴と位置づけている。 前の1冊と比べると、ユダヤ・キリスト・イスラム教と、日本に深く根付いている神道・仏教・儒教とは、本当に考え方が違いすぎることが良く分かった。 仏教の特徴は、生きることを苦しみととらえたこと、生きることにより「生・老・病・死」といった4つの苦しみと、もう4つの苦しみ「愛別離苦」「怨憎会苦」「五蘊盛苦」「求不得苦」があるということだ(このはじめの4つとあとの4つを合わせて、「四苦八苦」という)。 愛別離苦:人間は必ず愛するものと分かれなければいけない苦しみ 怨憎会苦:とても嫌いな人間や自分を殺そうとする人間と会う苦しみ 五蘊盛苦:感覚があることによる苦しみ(たとえば、渇きや飢餓感など) 求不得苦:望みがかなえらえれないことによって感じる苦しみ ブッタはなぜこのような苦しみが発生するのかを、苦行を重ねた結果、「諸行無常(すべては無常)」にも関わらず、あたかもそれが永遠にあるかのごとく錯覚し、守ろう、続けようと執着するからだという結論に達する。「悟り」の境地に達すれば、執着しなくなり、苦しみから解放されるということなんだろう。 生死の考えかたが、仏教とキリスト教ではかなり違っていることが分かった。キリスト教は、今生きているうえでの死は、ある意味仮の死であり、イエス再臨のときに、「最後の審判」によって、生きているものも死んだものも、永遠の生か永遠の死の審判が下される、救済されるものは永遠の生を得ることになる。仏教は、「輪廻転生」という言葉画表現するとおり、生は、死んでも「六道」のどこかの世界で生まれ変わることで永遠繰り返さる。そして永遠に四苦八苦に苦しことになる。この四苦八苦の輪廻転生から逃れるのが、「解脱」するということだ。 六道:天道、人道(人間界)、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つで、天道でも苦しみがあるということだ。 日本を最も特色付けているのが、日本独自の宗教「神道」、他の宗教と際立った違いは、とにかく聖典がない。キリスト教なら聖書、イスラム教ならコーラン、仏教ならさまざまな経典があるが、「神道」にはない。神道にとっての「神」については、江戸時代後期の国学者、本居宣長が、「何にまれ世の尋常ならずすぐれたる特のありてかしこきもの」という言葉があり、井沢氏はこれを、「とにかく、良いか悪いかを問わず、普通のものにはない、尋常ではない特質、異常な特質をもったもの」という意味だと定義する。確かに、菅原道真を神として祭ったり、大木を神に祭ったりする、他の宗教からすれば、なんでもかんでも神にしてしまうと見えるんだろう。 この何でも何らかのずば抜けた力や特徴のあるものを崇め奉るという神道の考え方が、日本がいろいろな外来文化を受け入れ、そして日本流に作り変えてしまうということになったんだと思う。 3つの宗教をあるいみ井沢氏の理解や解釈で学ぶことになるので、井沢氏の考え方にかなり影響を受けてしまう部分もあるが、3つの宗教について初歩レベルで理解するうえではいいのではないかと思う。 仏教・神道・儒教集中講座 著:井沢元彦 発行所:株式会社徳間書店 2005年8月10日第2刷 定価:1,500円+税
2006年04月16日
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先週末くらいに読み終えた本、小室先生の「日本人のための憲法原論」を読んだ後に、宗教のことを知ろうと思い、読んだ1冊。 タイトルにあるとおり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった一神教のそれぞれの説明及び筆者井沢元彦氏の解釈と、それぞれの宗教信者へのインタビューを掲載したもの。 この1冊を読み終えて思ったことは、宗教への知識が深まったなぁといった呑気なものではなく、ユダヤ教とイスラム教には本当に埋まることのない大きな溝があり、根本的には和解に応じることができるものではなく、中東はどちらか一方がなくならない限り、和平状態になることはないのではないだろうかという失望感や、キリスト教とイスラム教徒にも大きな溝があることや、ユダヤ教とキリスト教も理解しあえているわけではないということだった。 この書籍の中で示されていた資料には、イスラム教においては、イスラム教聖職者などにより、数百年以上前から、さまざまな人達によって、ユダヤ教徒は、サルやネズミの生まれ変わりやら、アラーがユダヤ教徒を豚に変えたといったことが示されていた。キリスト教側においても、たとえば、ダンテの『神曲』で、地獄をめぐった主人公がであったのが、ムハンマドであるという内容が描かれているなど、それぞれが相手の宗教を尊重するとは程遠いものであった。また、アメリカの一部のキリスト教徒がユダヤ教徒を支援するのは、真にユダヤ教徒のためではなく、ユダヤ教徒をイスラエルに集めることが、「イエスの再臨」の条件なので、そのためにやっているのだということが書かれていた。 ユダヤ・キリスト・イスラムの各々の信者と井沢氏との対談は、いろいろなことをあぶりだしていて興味深いが、明らかになっているのは、それぞれの一神教同士歩み寄ることはあまりにむずかしいということだった。ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座著:井沢元彦 発行所:徳間書店2005年9月20日第6刷 定価:1,500円+税
2006年04月12日
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「日本国憲法は死んでいる」といきなりショッキングなメッセージを小室直樹先生が読者に投げつけるこの本は、碩学の小室直樹先生による憲法を中心とした資本主義・民主主義・人権・平等がいかにして西洋で生まれたか、その憲法をいかに活きたものにするかを説いている。 自分もそうだけど、多くの人は、そもそも憲法(日本国憲法を言っているのではない)が、一体どのようにして生まれ、どういった意味を持つものなのかというのを理解していないのではないだろうか?今回はそんな思いから早速この本を購入して読んでみた。 そもそも憲法とは国家を縛るための命令で、憲法で定められている基本的人権は、国家権力によって国民の基本的人権が侵されないことが保障されているわけである。なぜ、そうなのか、それはイギリスの思想家ホッブスが近代国家を「リヴァイアサン」という旧約聖書「ヨブ記」にある無敵に怪物にたとえるように、国家権力を縛りつけ、抑え込んでおかないととんでもないことになるという考え方が根底にあるからだということだ。 なぜ、「国家がリヴァイアサン」と考えるようになったのか、中世ヨーロッパにおいて、王国とはいえ、封建領主が割拠し、封建領主と農奴の世界から、貨幣経済の進展と共に商工業者が成長し、都市が発展していく中で、農奴が都市に流れ減少する中で封建領主が没落し、商工業者と手を組んだ王の力が相対的に強くなっていく。そういってもまだ相対的に強くなっただけで、封建領主に対して一方的に力を行使できる状態ではなかったので、力をつけてきた商工業者も自分の仲間に引き入れる形で議会を創設した。封建領主=貴族も王に好き勝手に自分たちの特権をなくすような法律を作られても困ることから議会に参加した。そこには民主主義はない。お互いがお互いの思惑(自らの特権を守るor強化)から議会が作られた。そして1215年にイギリスでヨーロッパ最初の憲法といわれる「マグナ・カルタ」が公布された。といってもこの「マグナ・カルタ」は今の憲法のようなものではなく、その当時のイギリス王ジョンが、貴族や教会にフランスとの戦争を進めるための戦費調達でどんどん税金をかけたために、貴族たちが既得権益を守るために王に結ばせた契約であった。すなわち、憲法も議会も民主主義とは関係ないところから生まれたのである。 王権が増大していくなか、フランスのルイ14世が、「朕は国家なり」という名文句が出るように、絶対王権の状態になる。ついに国家は大きな力を持つリヴァイアサンになる。このリヴァイアサンを縛り上げたのが、キリスト教、特に、宗教改革で名を馳せたカルヴァンか築き上げた思想体系「予定説」であった。 この「予定説」とは、「誰が救われるか救われないかは、その人がずっと前から決まっていることである」ということなんだそうだ。小室先生が説くキリスト教の理解は、「神はあらゆることから超越している」ことと、「一人の例外もなく、人間は堕落した存在である」ということで、アダムとイブがエデンの園に住んでいたが、神の命令に逆らって禁断の木の実を食べたことで楽園を追放され、罰として「死」を与えられた。そしてその「死」は、アダムとイブだけに限らず人類全体の連帯責任として同じ罪=「原罪」が与えられた。ただ人間の死は、「仮の死」であって、本当の死は、世界の終わりに人々の前に髪が現れて、最後の審判で神に救われたものは神の国で永遠に生き、救われないものには本物の死が与えられるのである。すべての人間が背負った「原罪」を免除して救うや救わないを決めるのは、神である。その基準は、全知全能の神が決めることであり、人間をはるかに超越した存在である神のことを推測できるわけがない。そして全知全能の神ほどの力があれば、その人が生まれるから、どんな人生を送るかもお見通しだし、どのような人生を送るかを決めているのも神であり、その時点で救いの可能性も決定されているとカルヴァンは考えたんだそうだ。ただ、この考えはカルヴァンの思い付きではなく、カルヴァンが聖書を読み込んで考え抜いた末の結論だった。 となると信じている意味がなさそうに感じるのだが、確かに救われる基準が分からなくても、「結果として」どのような人間が救われるかは人間の頭でも想定できるものらしく、それはキリスト教を信じ、神の万能を信じ、予定説を信じている人間だ。神から救われるくらいの人間は、単なるキリスト教徒ではなく、筋金入りのキリスト教徒=プロテスタント、そしてカルヴァン派というわけなんだそうだ。 この圧倒的な神の存在、無限で万能な神の存在を信じた結果、王や領主や農奴や商人も、その神の存在からはほとんど差がない。無限大の数字から見れば、1も1000もたいした差はないんだという中から、平等の思想が生まれた。他にも民主主義や資本主義が生まれたことが説明される。 ヨーロッパのキリスト教を軸にしたキリストという無限万能の圧倒的な存在を抱いた結果として生み出されたものだということだ。 このことを明治の伊藤博文は、自らが明治憲法を制定するためにドイツに行き、研究した結果として気がついた。ただ近代化を図るとはいえ、いきなり日本の宗教をキリスト教にしてしまうことができるわけではなかった。しかし、縦の機軸が必要であった。その縦の機軸を、天皇にしたというわけであった。「現人神」である天皇の下にすべての日本人が平等であるという発想を生み出した。伊藤博文の慧眼ともいえる判断で、この判断などから日本は非欧米諸国で初の資本主義国家になりえたということだった。 小室先生の話は、とても分かりやすく、知的好奇心をくすぐられる。ページ数も多くてかなり読み応えもあるが、憲法や人権・平等・民主主義・資本主義がどうして生まれたかが分かる。憲法改正論議が10年以上前と比べたら、想像できないほどに盛り上がっている中、そもそも憲法が楠であるかを学ぶのにいい1冊だと思う。日本人のための憲法原論著:小室直樹 発行所:集英社インターナショナル2006年3月30日第1刷 定価:1,800円+税
2006年04月08日
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春3月、やはり春といえば”桜” 桜が咲こうとする姿に心が躍る。満開の姿に心が止まる。散り行く姿に心が揺れる。なんでそうなるんだろうか? 多くの日本人は、この時期を待ちわび、開花宣言がなされると、こぞって満開の桜の下で花見をする。なんでそうなんだろうか?その思いからちょっと桜のことについて読んでみようと思って買ったのが今回の本。 トータルとしての感想は、自分は本当に”桜”のことを知らなかったんだなーと思わされた。 一番驚いたのは、ソメイヨシノはクローンであるということ!! 植物というと、おしべの花粉がめしべに付いて受粉することで種ができ、その種が土に落ち、芽を出すという風にしか習った記憶がないのだが、ソメイヨシノは、そういった形をとった場合も、違うものになってしまうらしく、あるソメイヨシノの単体からの挿し木や接木によってできたものなんだそうだ。全国各地にあるソメイヨシノは、どれが起源なのか分からないが、それは一本のソメイヨシノから始まったのかもしれないということだ。 群集して咲き誇る桜=ソメイヨシノは、江戸時代末期に生み出された。エドヒガンとオオシマザクラが交配した結果生み出されたもの。 名前の由来は二つの地名が組み合わさったもので、「ソメイ=染井」は東京都豊島区駒込で、かつては染井村と呼ばれ、この染井村は江戸後期から明治半ばまでは園芸の一大拠点であった。そして「ヨシノ=吉野」は、桜の名所として名高い吉野山から来ている。この「ソメイヨシノ」が学術的に固定されたのは、明治23(1890)年で、藤野寄命氏が、上野公園の桜を調査してきたときに分類学上知られていない樹を見つけ、園丁に聞くと、多くは染井から来るということで、真の吉野の桜と区別して、仮に「ソメイヨシノ」と名づけたんだそうだ。 この「ソメイヨシノ」は、その後各地に植樹され、増え続け、今では日本の桜の70~80%(90%とと言う人もいる)が「ソメイヨシノ」という状態なんだそうだ。そう「ソメイヨシノ」は、多く見積もっても、130~150年程度の歴史であり、今のような花見のスタイルではなかったというわけだ。 昔は、桜並木のような群生する桜を楽しむのではなく、一本桜のような形で楽しむものが主流だったんだそうで、それが江戸末期に「ソメイヨシノ」が生み出され(といってもどのような配合で生み出されたのかは分からないらしい)、それが日本各地に植樹され、広まり、今では日本各地が、「桜といえばソメイヨシノ」という状態になったということだ。 なぜ、そうなったのか ソメイヨシノの生態学的な要因としては、他の桜よりも短期間(といっても10年くらい)で花が咲く状態になることや、接木や挿し木がとてもしやすいということや、環境適応力の高さなどが上げられている。 しかし、それだけでここまで広まることはないはずだ。”ソメイヨシノはクローン”ということに関係する。クローンということは、気温差にもよるが同じ気温帯に属していれば、全部がほぼ一斉に咲き、短期間のうちに一斉に散る。しかも葉がつく前に葉の緑が混じらない中で、花だけが付く。白の花が… この同一性が、日本人の心の柱(アイデンティティ)として機能していくようになり、その機能が強められる形で広まっていき、「桜=ソメイヨシノ」という形になったことが、明治以降の歴史を振り返りながら、語られている。戦前は、大日本帝国の国民をつなぐものとして…戦後は新しい都市の心の風景として… 桜のことを知るのにふさわしい1冊だった。桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-著:佐藤俊樹 岩波新書2005年2月18日第1刷 定価:740円+税
2006年03月30日
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著者の榊原英資先生には、松下政経塾研究生時代に社会保障高座を企画して、そのときに話をしていただいた講師の一人で、今回その先生の本を読ませていただいた。 「食」は、文化?資源? 今、日本食が世界的ブームになっているが、その理由を世界的&歴史的視野から語られる。 かつて7つの海を支配したイギリス、産業革命によりいち早く工業化に成功した結果、その技術力によって超大国になったという解釈に対して、それだけでなく、キーワードは「食」で、産業革命以前から食材の交易を世界各国の植民地を通じて抑えたことにより繁栄したことが述べられる。 植民地といえば、そもそもはスペインやポルトガルが始まりだったが、これら2国の場合は、金山銀山の鉱山開発を中心に収奪的であった。一方、イギリスは、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなどに自国民を入植(アフリカから奴隷もつれてきたが)させ、プランテーションにより穀物や肉牛などの生産拠点として育成整備し、食糧生産と食料貿易を抑え、利益を積み上げることで、産業革命を進め、更に強国になっていった。しかしイギリスは超大国であったにもかかわらず、食文化については育たなかった。むしろ料理の不味い国といわれている。確かにイギリス料理なんて聞いたことがない今でも… イギリスの場合は、プランテーションにより農産物を大量生産し、イギリス自身、食の文化が育っていない(イギリス料理というのがほとんど言われないように)ことから、食を「資源」として捉えている。 一方、フランスは、フランス料理という一大料理ジャンルが確立されているように、食を「文化」として捉えている。シラク大統領は2005ねんにプーチン大統領と会談したときに、イギリス人を評して「食い物のまずい国の人間は信用できない」と発言するなど、「食」へのこだわりがあるわけだが、そのフランス料理の始まりが説明されているのが、とても面白い。 フランス料理は、1533年にフィレンツェの富豪のメディチ家から、カトリーヌ・ド・メディチが、フランスの国王アンリ2世に嫁いだときに、フィレンツェの料理人を引き連れてきたのが始まりで、このときに、大量の食材やデザートの調理法や食卓のマナーにいたるまで持ち込み、今日のフランス料理の原型をつくったんだそうだ。つまりは発祥は、北イタリアのルネッサンスにあるといってもいいんだろう。ただ、そのころのフランス料理はあくまでも王侯貴族のためのものであって、一般民衆に縁のないものだった。しかしそれもブルボン王朝の奢侈と浪費により1789年のフランス革命で王家が倒され、貴族が没落した結果、お抱え料理人たちが独立せざるを得なくなり、パリにレストランを開業し、宮廷文化としてのフランス料理が市民社会へと広まった。19世紀、そして20世紀の二人の革命的な料理人オーギュスト・エスコフィエとフェルナン・ポワンの登場により今日のフランス料理が完成したとのことだ。 こうしてみると、フランス料理の歴史は、長く見て470年くらい、短く見ると19世紀と20世紀という2世紀間といえる。 ちなみに、榊原氏は、「食文化の歴史が世界で一番長くて豊かな国は、中国である」と断言している。 食を「資源」として見て、資源を抑える戦略で覇を唱えたイギリス。そのイギリス以上に、食を「資源」と捉えたのがイギリスの植民地だったアメリカ。 イギリスの大穀倉地帯として育成整備されたアメリカ。独立後、工業分野のラインシステムを食の分野にも持ち込み、「食の工業化」を推進させ、マクドナルドやケンタッキーを代表とするファストフードを生み出した。1930年代そして40年代から、これらのファストフードが世界を席巻していく。まさに「食のグローバリゼーション」が進められた。それは大量生産大量消費を前提にしたものだったが、その負の面として現れたものが、今日本でも話題になっている”狂牛病”で、その”狂牛病”の発生の経緯が説明される。 もともと草食動物である牛に、草の代わりに「肉骨粉」を食べさせることが原因で、それは1920年代からイギリスをはじめとしてヨーロッパで始まった。それによって生産性は飛躍的に向上したが、そのころは、この狂牛病は問題になっていない。問題になりだしたのは、1985年ごろだった。その理由は、70年代のオイルショックにより原油価格が高騰したためにより、「肉骨粉」をつくる作業の簡略化を図った。この結果、羊の風土病といわれたスクレイピー病の病原体が完全に破壊されずに混ざり、それを牛が食べて、80年代に牛の脳スポンジ症が発症し、90年代には人間にクロイツフェルト・ヤコブ病(致死率100%)が発症したということなんだそうだ。まさに人間が本来草食動物である牛に無理に肉食をさせたことが原因にあるのだ。工業化という生き物ではなく製品として見てしまったことへのカウンターパンチだ。 こういった問題に対して、今、健康や環境といった「自然への回帰」が大きなテーマになること、そのテーマに見合うのが、「日本食」であることが説かれる。旬を大切にし、素材を生かすことにこだわる。まさに工業化と反対を行く日本食。今、この日本食は世界各地でブームになっているが、そのブームについて、ちゃんと日本食を学んでいないものが他国で日本料理屋として開店していること警鐘を鳴らしている。日本も日本食を文化戦略で考えなければいけないということなんだろう。 食に関するトリビアな話題も合って、読みやすくかつ学ぶことの多い1冊だった。 食がわかれば世界経済が分かる 著:榊原英資 発行所:文藝春秋 2006年2月25日第1刷 定価:1,238円+税
2006年03月26日
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小室直樹先生の本、小室直樹先生は、確か2年前くらいから松下政経塾で塾生に話をするようになった。自分も審査会のプレ審査のときに小室先生もいる中でプレゼンをさせていただいたこともある。今年の24期生の卒塾式にもお見えになられた。 今の日本は、日本人が日本に対しての誇りを失い、連帯を失っている状態で、また日本に伝統主義がはびこっており、これでは日本がダメになってしまうという小室先生の危機感を表明する警世の書。 まずは、伝統主義とは、伝統を重んじるという意味ではない。ヴェーバーが説いた伝統主義とは、「良い伝統を守り、悪い伝統は捨てる」という合理的なものではなく、「過去に行われてきたものは、とにかく正しい」とするものである。ヴェーバーは、「永遠なる昨日的なもの」と表現している。そして、この伝統主義の打破が資本主義の成立の必要条件であることが、シュンペーターの「資本主義の本質は革新(イノベーション)にありとする」言葉を引いて説明される。一方、日本は、伝統主義にとらわれており、その点で資本主義になりきれていないことを説く。”前例”という名の伝統主義に… 日本はペリーの砲艦外交により交わされた不平等条約(治外法権や関税自主権喪失)を改正するために、欧米のような資本主義国を目指す。資本主義が機能するように法システムを整備し、資本家と労働者を生むための教育システムを作り上げ、リベラル・デモクラシーが作動しうるような立憲政治を確立することに取り組む。しかしそれは法律も教育も、条約改正の政治の手段として欧米のシステムを取り入れることに主眼が置かれるというある意味本末転倒なものであった(国民教育については当時の列強を上回る普及率になるが…)明治憲法の発布し、立憲政治を敷いたのも同じ理由。そして、この無理な制度導入が伝統主義によって引きづられていくことが説かれる。 なぜ、今の日本が無連帯(アノミー)に陥ったのかについては、戦後日本が軸を失ったことが最大の原因であることを説いている。戦前は、天皇を軸としていた。いわゆる現人神という思想。なぜ、天皇が機軸になったのか、それは欧米の立憲政治の基礎には宗教=キリスト教という機軸があるが、日本には宗教はあれど欧米のように機軸になるほどのものではなかったからだ。日本で立憲政治を実現するには機軸が必要であると考えた明治の指導者(特に伊藤博文)は、その機軸を天皇とすることを決める。しかし、それがすぐにうまくいったわけではない。鎌倉以来の長きに渡る武家政権(途中に建武新政があるが)により天皇は一般民衆にとっては程遠い存在であった。幕末に尊皇思想が流布されるが、それは基本的には武士層に対してあって、一般民衆には程遠く、江戸が東京になっても、市民はその天皇をバカにすることが行われ、明治政府は必死にPRするが、なかなか浸透しなかった。それが、天皇を頂点にいただく軍隊の日清戦争の勝利が契機になり、日露戦争の軍事大国ロシアへの奇蹟的な勝利により、天皇が一般民衆にも神としての存在を確立した。日清・日露を経てようやく機軸ができたわけだが、それが戦後のGHQの占領統治で、天皇の人間宣言というカリスマが自らカリスマを否定するという形で、いきなりそれまの機軸がなくなってしまった。そして東京裁判という勝者による敗者の一方的な裁判によって形成され「東京裁判史観」により、自分たちがいつまでも悪かったと過去を否定し続けさせられることにより誇りを持つこともできないことがアノミーになっていることを説き、「東京裁判」については、さまざまな点から疑問が提示されている。 改めて今の日本の苦しい様の原因の奥深さを思い知らされる1冊だった。日本国民に告ぐ ~誇りなき国家は、滅亡する~著:小室直樹 発行所:ワック株式会社2005年12月14日初版 定価:1,600円+税
2006年03月23日
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昨年の終わりごろからとても売れている本を読んだ。読んで思ったのは、とにかく、よく言った!!という感じで、読むとある種の爽快感があり、売れるのは当然と納得した。 著者藤原正彦氏は数学者、論理性が求められつづけた数学者が、日本は改めて情緒や形といったある意味論理とは対極にあるものを求め、それにより、日本が普通の国ではなく、あえて”異常な国”であれと説いている。この”異常”とは、特色があってなおかつそれがグローバル化による均一化へのアンチテーゼとして存在すべきことを求めている。 論理や合理は大事であるが、それ以上に大事なのは、その論理をスタートさせるテーマを設定する情緒や形といったものである。古来日本はそういったものを重視し、育み培ってきたが、今や欧米がもたらした論理や合理に偏重してしまっている。これを改めることを説く。 数学という数字と記号の世界のものですら、1931年のオーストリアの数学者クルト・ゲーテルが、どんな立派な公理系があっても、その中には正しいか正しくないかを論理的にできない命題が存在するという「不完全性原理」というものを証明した。数学の世界ですら、論理によって解決されないものが存在するということである。数学よりも複雑に物事が絡み合う日常ではなおさらである。 世の中、論理では説明できないことが多い。以前テレビで、虫博士に女性レポーターが、「なぜ昆虫がすきなんですか?」という質問をしたとき、その博士が、「なぜなんてない。好きだから好きなんだ。好きな理由はそのあといろいろついてくるけど、まずは好きだから好きなんだ」ということを答えていた。人を好きになるといった恋愛感情も、その好きな気持ちの始まりについては論理では説明できないはずだ。美しさを感じるのも、論理的に感じているわけでない。こういったものは情緒である。 日本にそういった情緒が失われ、道徳規範としての武士道といったものがなくなったのが、今の噴出する社会問題なんだと、この本を読んでより一層の確信を得た気がした。改めて日本を見直すのにいい1冊国家の品格著:藤原正彦 発行所:新潮社2005年12月20日7刷 定価:680円+税
2006年03月18日
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文明崩壊に引き続いて、世界の文明論第2弾。 この本の最大の特徴は、作者のマイケル・クック氏がイスラム思想史の専門家ということ。 大体、文明論となると三代文明への言及の後は、西欧かキリスト教に力点が置かれる形で展開されることが多い。 そういった意味で、イスラムの考えが入った上での展開ということに関心があって、この本を購入した。 しかし、とにかくかなり読み応えのある書物で、論の展開では正直ちょっと意味がわからんなーというところもあったが、西欧だけに限らず、オーストラリア大陸・アメリカ大陸・アフリカ大陸・ユーラシア大陸の古代中東にインドに古代地中海、そして近代化をもたらした西ヨーロッパと各地の文明が網羅され、世界全体を概観するにはいい。 不思議に思ったのは、文字である。今や世界中文字で溢れているわけだが、文字を持った文明もあれば、文字を持たなかった文明もある。口伝によって知識を蓄えることも確かにできたが、文字のほうが、正確でかつ圧倒的な量の知識を伝えることができた。なぜ文字を生み出そうとしなかったのか?またどうやって文字を生み出したのか? 象形文字や絵文字のようなものはわかるんだが、たとえばアルファベットのような文字、AやBが、これだけて何かをあらわしているわけではない。むしろ分からない。しかしそういった文字を生み出したことで、象形文字や絵文字では表せないようなことも、表現し伝えることができるようになり、知識の蓄積量が飛躍的に増大し、発展をもたらした。 言語だけの世界から、絵文字や象形文字といったその文字自身で意味を表すものから、アルファベットといった文字自体が意味と分離しているものがどのように生み出されていったことに多いな疑問を抱いた。 文字のロマン・・・ コーラン関連の書物も書いているように、イスラムの教えへの造詣が深く、イスラム文明という形で章立てして論じられている。私はイスラムのことについてはほとんど知らない。世界史で習ったレベルくらいだが、この書物を読んでみると、やはりかなり違うものだと思わされた。日本人にとって、イスラムの中心地中東は、日常生活については石油という点で本当に密接なものだが、イスラム教やイスラム教信者はとても遠い存在だ。これまで、そしてこれからも中東の石油に圧倒的に頼らざるをえない以上(技術革新でエネルギーの大革新でもおこれば別だが)、この宗教のことを知らなければならない。 世界文明一万年の歴史 著:マイケル・クック 訳:千葉喜久枝 発行所:柏書房 2005年7月1日第1刷 定価:2,800円+税
2006年03月16日
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これからの日本がどうなるのか?というのを学んでみようと思って読んだのがこの1冊。もともと『日本の論点』はときどき買って読んでいたんで、それで買おうかと思ったところもあるんだけど、どちらかというと、帯にある「衝撃の大予測 あなたは生き残れるのか」というのを見て、どう書いているのか?と思わず釣られてしまったのが正直なところ 格差社会・消費税問題・団塊世代の大量定年・年金問題・環境問題・過程の問題・アジアの問題などなど、47項目について現状分析とこれから10年後の予測がコンパクトにまとめられている。 現在とこれからのことを知る上では、いいあんちょこ本な感じだが、基本的には、すべてかなり厳しい予想で。47項目については明るさを感じたものは一つもないという状態で、改めて日本は厳しさを知らされるものだった。 あくまでも警鐘を発したいということで、その予測を乗り越える方法についてはほとんど提示されていなかったので、厳しさだけが残る内容だったのが、残念な感じがした。 日本に関するさまざまな問題が網羅されているという意味ではいいけど、問題集という感じ。 10年後の日本 編者:『日本の論点編集部編』 発行所:文藝春秋2005年12月15日第3刷 定価:730円+税
2006年03月06日
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1900年を鍵に、時代を築いた人物を振り返ることで、世界の流れ、その潮流の中での日本がとってきた行動を振り返りながら、これからの日本を考えようというもの。 サブタイトルに、「アメリカの世紀、アジアの自尊」とあるように、この書物は、アメリカ人とアジアの人を題材にしている。 アメリカ人としては、「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士、メディア王のヘンリー・ルース、太平洋戦争のときに大統領だったフランクリン・ルーズベルト、そして敗戦後の日本を支配したマッカーサー 「武士道」を書いた新渡戸稲造、禅の精神を発信しつづけた鈴木大拙、津田梅子、黄熱病に散った亡命学者野口英世、日露戦争を民族防衛戦争と位置づけ、日本及びアジア擁護の論陣を張るが、日露戦争後の日本に警鐘を鳴らした朝河貫一、「アジアは一つである」と説き、アジアの再興を夢見た岡倉天心、非暴力不服従のガンディー、革命家孫文と中国の偉大な文筆家魯迅、大政治家周恩来など さまざまな人に光を当てながら、当時の時代状況を絡める形で、著者の寺島実郎氏の歴史へのまなざしが表現されている。ことさらに卑下するわけでなく、かといって鼻持ちならないように誇るわけではない。冷静な目で展開される。 この本を読んで、印象に残ったことは、第二次大戦前も第二次大戦後も、アングロサクソンの国との二国間同盟によってその後ろ盾でうまくやってきたということだ。 戦前は、その当時の世界の大国イギリスとの日英同盟の存在。この同盟の存在で、日露戦争にも勝利し、富国強兵を実現し、一流国の仲間入りをした。しかし、1921年のワシントン会議で日英同盟を解消させられ、孤立し、迷走し、第二次大戦で敗戦する。 戦後は、今も続くイギリスにとってかわった世界の大国アメリカとの日米同盟の存在。この存在により日本は、経済を追求し、経済大国の地位を築いた。 戦前戦後とも、アジアの一員としてよりも、アングロサクソンに憧れ、アングロサクソンの強国と同盟を結び、その力のもとに成長してきた。そしてアジアに対しては、その憧れの跳ね返りとしての蔑視のような見方をしてきた。アジアの一員としての日本よりも、アングロサクソンの国との関係を重視する日本。今まだアメリカとの同盟は続いているが、その同盟がいつまでも続くとは限らない。日英同盟を解消させたのはアメリカの戦略である以上、アメリカはその戦略から同盟を解消する可能性は否定できない。戦前のような過ちを犯さないためにも、同盟に頼り過ぎない国際関係作りの必要性が実感させられる一冊だった。歴史を深く吸い込み、未来を想う1900年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊著者:寺島実郎 発行所:新潮社2004年1月30日第5刷 定価:1,600円+税
2006年03月03日
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「NHKスペシャル 明治1」を読んで、ピーター・ドラッカー氏が大絶賛していたのが、この渋沢栄一。 正直、銀行を作ったことは日本史で学んでいたが、そこまで絶賛するならということで読んでみた。いろいろあったがネットで手に入れることができたのが、童門冬二先生のこの「論語とそろばん」である。 なぜ、このタイトルがつけられたのか、それがサブタイトルの「日本資本主義の明日」に通じるものである。 そろばん=事業、論語=倫理である。 そう事業を行うにあたっては倫理を持って行わなければいけないということをあらわしている。まさにホリエモン問題の今の日本の問題に通じるものといえるだろう。 持論だが、英語のeconomyを経済と訳したところに問題があったのではないだろうか? ”経済”という言葉は、”経世済民”という言葉を略したものである。中国の古い言葉で、最も古い出典例は、東晋の葛洪の『抱朴子』(ほうぼくし)とされるのだが、この言葉は、「乱れた世をととのえ、苦しんでいる民をすくう」ということを意味し、単に金儲けを表しているのではない。しかし、今の日本人の多くは、その言葉の意味を知らない。”経済”といえば、富の多寡や商業活動ということになるだろう。 この本を読みながら、改めて渋沢栄一という人が、「論語とソロバンを一致させる」ということを掲げ、徳川慶喜が居候する静岡藩を再生し、その後大蔵省に入り、改正掛として、さまざまな改革をするが、官ばかりに人材が集まりすぎると民が育たない思いから、民の立場で銀行を設立し、さまざまな会社や商工会議所などを設立していく姿。商工会議所を作ることで、商売を行う民を育てようとしたことなど、日本の資本主義、明治の富国実現のため(あえて、強兵を外している)に尽力してきたすごさを感じた。 そういった面だけでなく、社会事業面でも著しい活躍をした。8代将軍吉宗が設置し、松平定信が寛政の改革で厳しい中でも貧しい老人を守らなければいけないと不況の中にもかかわらず整備拡充した「小石川養生所」を「東京府立養育院(現在の東京都立養育院」の初代院長として放浪者を収容施設の整備に力をいれ、91歳で亡くなるまで院長の肩書きを手放さず、その整備にこだわり続けた姿を見て、まさに「論語とそろばんを一致」させる人生だと実感した。「論語とソロバン」 渋沢栄一に学ぶ日本主義の明日 著:童門冬二 発行所:祥伝社 平成12年2月20日初版第1刷発行 定価:1,700円+税
2006年02月27日
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坂本龍馬の暗殺、それは幕末最大の謎。 新撰組説、見廻組説、薩摩などなど、 この本で唱えられたのは、英国とつながった形での陸援隊説というところだろうか? フランス革命、アメリカ独立戦争、これらに多大なる影響を与えたフリーメーソン。アメリカの初代大統領ワシントンもその一員。あのモーツァルトもそうだといわれている。そして幕末から明治維新にかけて大きな影響を与えたペリーもそうなんだそうだ。また長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーも… 幕末に、フランス革命・アメリカ独立戦争に続いて革命を起こすためにフリーメーソンが日本にやってきたという結構衝撃的な内容で始まる。 フリーメーソンと絡めた形で、坂本龍馬が土佐藩の密偵でもあり、英国のスパイでもあるという二重スパイ説を唱え、その龍馬が最終的に自己が信じた無血革命を進めすぎたがゆえに、武力革命を目指した英国(オールコック・パークス・サトウ・グラバーら日本に滞在している英国人)と薩摩、そして土佐の武力倒幕派=陸援隊により消されるという顛末の流れが展開される。 高校時代に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、青雲の志や、組織に縛られない自由奔放な生き方や、スケールの大きさに憧れを抱いたが、自分も年齢を重ね、また歴史が好きだったので、それなりに書物を読んでいくうちに、なぜ、あの時代に脱藩したにもかかわらず、残された一族に何も累がおよばななったのか?大塩平八郎の乱では、乱自体に直接関わってない親類縁者もさまざまな処罰を受けていたにも関わらず…竜馬の一族についてはそのようなことを受けたようなものはみたことがなかったことに疑問を感じるようになった。 また、土佐を脱藩したにもかかわらず、土佐藩士と付き合えたのかなどを考えると分からないところもあった。 郷士という、下級士族でかつ、脱藩したという何の後ろ盾がないにもかかわわらず、その当時の大物と会えるということも、高校時代はそれが竜馬のすごさなんだなーとあこがれを持ったところもあるが、現代に照らし合わせてもそうだが、やはり何らかのバックがなければできなかったことだと思う。そしてこの書物でそのバックというのが、英国という提示がなされている。確かに英国であるならば、薩摩・長州そして幕府に対しても十分に通用する後ろ盾だといえる。 この本では、なんとなく抱いていた不自然さについて、ある面から納得させるものがあった。 それは、土佐藩の密偵として働くから、密偵として働くためには脱藩という形で土佐藩と関係ないと見せかけるほうが都合がいいというわけであり、やはり竜馬自身の器量や力量により英国のスパイとしても働くことになり、英国、そしてフリーメーソンの考える方向を実現する形で働いていくのだが、あくまでもこれ以上日本人の血を流したくないと考え大政奉還を進める坂本竜馬が、武力倒幕にこだわった英国の指図で消されるという結末を坂本竜馬は迎えることになり、葬ったのが土佐の武闘派集団の陸援隊だった。しかし、その隊長である中岡慎太郎も消されているという事実がそこにあるのだが、それについては、中岡は以前から坂本を監視し、消すように指令を受けていたが、消すことができず、ためらっているうちに、裏切り者という形になり、陸援隊の隊士により坂本もろともに殺害されたということだった。 この本をすべて信じてしまうと、幕末や明治維新はすべて英国とフリーメーソンによって作られたものだということになってしまうが、けど一つの見方としてはとても知的好奇心をかきたてられるし、坂本龍馬の暗殺としては、自分の中では納得できるものだったし、展開される話も正直とても興味深かった。坂本龍馬暗殺の新たな一説!! あやつられた龍馬 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン 著:加治将一 発行所:祥伝社 平成18年2月15日初版第1刷 定価:1,900円+税
2006年02月23日
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この巻は、地租改正をはじめとする税制改革と自由民権運動そして議会開設という政治参加の2本立てで、日本の民主主義を考察するもの。 税についても、政治参加についても結局は明治の問題を引きずったまま というのが、読後に一番残った感想だ。 「人民告諭書・大蔵省原案」 これは、明治の税制改革を行うにあたって、国民に対して、どういった趣旨の改革を行うのかを知らせるものだで、この告諭書の内容と書くにいたった重いが生かされていたならば、日本人の税への思いが、ただ単に「取られている」とか「払わされている」といったものでなく、もっと積極的で肯定的な意味になっていたかもしれない。原案とある通り、これは案であって、後に、この案の重要な部分は削られる形の骨抜きの状態で告諭書として国民に出された。 「政府は国民のために存在するものであり、国民一般が欲するように規則を作ること(治安がよく、強者が弱者を支配したり、富者が貧者を搾取したりすることなく、安穏無事に働き、生活ができる)、そのために政府はさまざまな機関(裁判所・軍隊・各省庁・役所)を設置する。これらの役所が国民一般のためのことをするので、運営費用を国民一般で負担するものが税金であり、それだからこそ公平でなければならない」 と説くように、江戸時代のお上と下々の発想を大きく転換させたものだった。しかし、このような理念を提示すると、農民に更なる騒擾をもたらすものになるかもしれないとのことから、太政官からは 「政府は人民を保護する存在であった、税を納めることは人民の義務である」 まさに、「政府=お上」そして「人民=下々」の江戸時代のような構図であり、税は義務の面が強調されることになった。現在も、日本国憲法でも納税が三大義務の一つになっているように、支えるという肯定的な面よりも、否定的な面が強いものになってしまったことを感じさせられた明治の税制改革の進展であった。 福沢諭吉は、近代国家になるには、すべての人が「客分」の意識を捨て、一員としての意識を持つことが大切であり、そうでないと一国の独立が守れないという趣旨を説いている。明治政府は当初、建白書という形で国民の意見を広く集めていた。国会開設も当然建白書が出され(有名なのは板垣退助)、国会開設と憲法制定への動きができた。そして「私擬憲法」といわれる民間の憲法草案が、さまざまな人々によって作られたように「民」が積極的に”この国のかたち”を考えていた。しかし憲法は政府=官の伊藤博文が諮問機関で審議を行い、その過程は国民に知らされることなく、1889年に「大日本帝国憲法」が発布されるように、憲法制定について、官と民が手を結ぶ形には必ずしもならなかった。また、その後の選挙が男子だけ+納税額という条件を加える制限選挙によって、否応なく「客分」意識を持たされる人たちが生まれることになり、政治参加においては「客分」意識を払拭させることができなかった。 今は、制限選挙から普通選挙(年齢の妥当性の議論はあるが)になり、そういった意味で否応ない「客分」意識を生み出すことはなくなったが、しかし、投票率に低さを見ると、やはりまだ完全には「客分」意識を脱却し切れていないのかもしれないのではないだろうか? この巻を読みながら、改めて税制度にしろ、政治への意識にしろ、まだ明治、そしてその前の江戸の問題を引きずっているのではないかと思わされた一冊だった。 NHKスペシャル 明治3 税制改革と政治参加、真価が問われる構想力 編著者:NHK「明治」プロジェクト 発行所:日本放送出版協会 定価:1,500円+税
2006年02月22日
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約170年前の今日、江戸末期の1837年2月19日朝、大阪で元町奉行与力の大塩平八郎が門人たちともに天保の大飢饉で飢餓に苦しむ民衆を救うよりも、自己の栄達に励む奉行所の役人や、買い占めて暴利を得ようとする商家に失望し、民衆救済のため「救民」を旗頭に蜂起した。大阪の豪商家などを襲っていくが、奉行所の兵によって半日で鎮圧された「大塩平八郎の乱」が起こった日が今日だ。 この本自体は、1年前に読んだ記憶があるが、今日その日に合わせて改めて読み直してみた。 陽明学徒として、私塾の洗心洞を自宅に開き、学問を学びながら、一方では与力として、大阪の不正を取り締まり、付け届けも受け取ろうとしない清廉潔白で、潔癖な人物、大塩平八郎。 小説は、大塩平八郎の乱から始まるのではなく、それまでの大塩の捕り物がかたられ、その捕り物を重ねていくうちに、奉行所の汚職(今で言うところの地方公務員の汚職)から、もっと大きなレベル幕臣の汚職(国家レベルでの汚職)の事実を知るうちに失望と怒りを感じると共に、ちょうどそのころに発生した天明の大飢饉で、大阪の町にも十分に米がいきわたらず餓死者が出る中、出し惜しみをする商家とそんな中、町民の生命を省みず、自身の出世のために米を買い漁り、江戸に廻送する奉行の姿に救民と世直しを求め、立ち上がることを決起する大塩平八郎と、その門人たち。 しかし、大塩が求めたものは、あくまでも幕府を信じ、汚職を追放し、襟を正して幕政改革に取り組むことだった。それによって世の中が良くなることを信じており、幕府打倒という体制の転覆を狙ったのではなかった。そういう意味では思想的な限界があったのかもしれないとも思った。 けれども、そうだとしても、幕府というとても大きな存在に対して、元は与力として、その体制側で働いていた大塩平八郎が、已むに已まれない気持ちから、正しくありたい、正義を行うためにはと決心する思い。そしてその乱に対して気持ちは分かるが、実際には多くの無関係の民衆も巻き込んでしまうことになり、成算も少ないからやめるべきだと忠告した塾頭の宇津木の存在と、それによる彼の死(殺害)。弟子を殺害してまでも乱に走っていく大塩たち。 ところが、洗心洞で教え学んできた門人の中で、裏切りが出て、決起予定の前日に奉行に知らせが入ってしまう。その結果、予定を早めて決起するが、結局は戦略があるわけでもなく、あくまでも幕府に反省を求めるものであったために半日で鎮圧され、大塩たちは逃亡生活に入る。 大塩の妻は審問を受ける最中、獄中で死去する。多くの仲間が、審問の最中獄死していくという過酷を極めた取調べが行われた。大塩平八郎は、養子の格之助とともに逃亡生活を送り、大阪に戻り、商人の家に潜伏する。自身が幕府に出したこれまでの老中という幕臣の最高レベルにまで達する汚職の摘発と幕政改革を求めた意見書が届き、効果が出るのを待つが、結局、奉行所に露見してしまい、隠れ場所を爆破し、その中で死亡した。 幕府を信じすぎたが誠の男の生き様が表現された熱い1冊。天討 小説・大塩平八郎の乱著:松原誠 発行所:新人物往来社2002年11月10日第1刷 定価:1,900円+税
2006年02月19日
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「明治1」に引き続き読んだのが、この「明治2」。「明治1」は、ピーター・ドラッカー氏と加藤周一氏という東西の碩学が語り合う形式だったが、「明治2」は一転して、いろいろな資料や人の話で丁寧に作りこまれたものだ。 鉄道を通して、「ものづくり」から、そのベースとなる「ひとづくり」に向かい、それが教育制度につながる形で話が展開される。 今回の1冊は、本当に現代に通じすぎているというか、同じじゃないかと思わされることが多かった。鉄道の問題について、官営鉄道のあと、多くの民間鉄道が無秩序に敷設され、その後の展開で、鉄道を敷設するには法律によって国の許可案件となった結果、政治の介入を招き、地元に利権を落としたい政治家が絡んで、政治力によって鉄道が敷設されるという、まさに今の道路建設や新幹線建設と同じ様相を呈しているのであった。 他にも教育についても、究極の目標として独創力を生み出すために教育するはずだったものが、とにかく記憶することが重視され、学力を測るために小学校から、とにかく試験、試験となっていく姿(しかも学校対抗のような試験制度もあったりするなど、かなり加熱したものも)を見ていると、自分の子ども時代の受験戦争を思い出したり、その後逆にそういった試験だけで判定するのではなく、日常の生活態度や取り組み態度などで判断しようと変え、科目も統合する形で授業を減らすなどの対応を行っていくのは、その後の「ゆとり」教育の流れにも通じるものがある。しかし、その結果、逆に学力低下を招いたという批判が出て、また教育制度が変わるという、今の「ゆとり」教育への批判と同じことが起こっている。歴史は繰り返すということなんだろうかと思ってしまうとともに、改めて教育制度の難しさを思い知らされた。 この2巻で、一番興味を持ったのが、スコットランドのお雇い外人のH・ダイアー氏のことだった。明治6(1873)年に来日し、工部大学校の都検(現在の校長)に就任し、日本人学生にエンジニアになる以上、本だけからではなく、現場での実地からも学ぶことを奨励し、そのような制度にして、明治15(1882)年の帰国までの間に、多くの優秀なエンジニアを育てた。スコットランド帰国後も留学してくる日本人の面倒を見たという、まさに日本の恩人といってもいいのだが、あまり知られていない。正直、自分も日本史を選択していたが、本当に知らなかった。むしろ日本人の間では、わずか10ヶ月札幌の農学校に滞在し、「少年よ、大志をいだけ」という言葉を残したクラーク博士のほうが、本当に短い期間にもかかわらず有名である。本当に不思議なのと、とにかく松下政経塾で学んだ自分としては、本だけでなく、現場で学べという姿勢が、松下幸之助の教えに通じる部分と、H・ダイアー氏の著書「大日本」などでも指摘されているように、日本が日本固有の特質をあくまでも保ち続けながら、各国の特質を有機的に調和させることを説き、それが繁栄のための課題だと指摘している。とても深く日本を理解しようとし、発展を願う姿に感謝を感じるとともに、ぜひ読んで知りたいお雇い外人の一人となった。NHKスペシャル 明治2教育とものづくり、独創力をいかに育てるか編著者:NHK「明治」プロジェクト 発行所:日本放送出版協会 2005年6月25日第1刷発行 定価:本体1,500円+税
2006年02月18日
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昨年から幕末から明治にかけてのこの”くにのかたち”が変わっていくところに興味があって読んだ書物のうちの一冊。NHKスペシャルでテレビ放映されたものだが、改めて落ち着いて読んでみた。 この第1巻は、昨年11月に95歳で大往生した経営学の大家故ピーター・ドラッカーと、文明史家の加藤周一氏が、明治時代の変革についての人間の力について語り合うという方式だけでも、東西の碩学の顔合わせということでとても贅沢。ドラッカー氏は、生まれが明治24年ということで、まさに世界と日本の明治大正昭和平成を知る人という貴重な人。 「古いものと新しいものを組み合わせる」「古いものの上に新しいものを築く」という姿勢をお二方ともに非常に評価していた。特に、ドラッカー氏は、明治はそれまでの日本の潜在的な能力を引き出し、開花させたことにより、西洋以外で初めて近代化が成功したことを評価していた。 明治時代の官僚制も、もともとは江戸時代の250年に続く平和な幕藩体制が、武人であった侍を官僚的なものに変貌させていたことにより、他国よりも容易に移行することができたことや、崩れつつあるが、銀行を中心とした企業システムも、江戸時代の幕府を中心に各藩がある程度自立した形で存続した幕藩体制を、企業システムに変更したものだという指摘もあり、かなり示唆に富む話が展開された。 一番印象に残ったのは、とにかくドラッカー氏が”渋沢栄一”をものすごく評価していることだった。加藤周一氏も高く評価していた。 渋沢栄一は、近代日本資本主義の父といわれ、銀行をはじめ、東京ガス・東京海上火災保険・帝国ホテルなどなど500以上の企業を設立した人だが、その根底には「論語」があった。幼少期に学んだ「論語」を拠り所に、事業経営を国家や社会に還元することを説き、心がけていた。その渋沢栄一も、日露戦争後、富国強兵に成功し、列強入り、東京の街が殷賑をきわめていくに従って、格差が広がっていく社会に警鐘を鳴らしていた。 それは、その当時の企業家たちが、国家や社会のことなど考えずに事故が儲けることだけを考えている。私利のためしか考えていないということだった。そしてそのような事業経営では到底永久的生命を保ち得ないと述べていたが、これはまさに、現代のホリエモンを生み出した格差社会への警鐘にも通じるものだろう。 次に印象に残ったのは、日本の潜在的能力を開花させ、近代化を成功させた要因として、西洋の言葉や考えを日本語に翻訳し、広く一般レベルでも理解できるものにしたということだった。漢字にあらわすことによって、漢字から意味が推測できる効果がある。 エレメンタリースクール・ジュニアハイスクール・ハイスクール・ユニバーシティーとその当時カタカナやひらがなで表されていたら、意味は理解されにくかったと思うが、それが小学校・中学校・高校・大学と漢字で表されると、その順序付けが分かるという漢字なら意味が分かるという特性を生かせるから翻訳に意味があったんだと思った。横文字のままに導入しなかったからこそ意味があった。そして翻訳するに際して、加藤周一氏は、翻訳するにはそもそも日本語や日本文化に通じていないと、翻訳した言葉が広く一般に理解されないことを語られ、改めて日本のことを学ばなければならないと思った。 NHKスペシャル 明治1 変革を導いた人間力 編著者:NHK「明治」プロジェクト 発行所:日本放送出版協会 2005年5月30日第1刷発行 定価:本体1,500円+税
2006年02月17日
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「週刊こどもニュース」を見て以来、本当に伝えるのがうまいよなーと思っている池上彰さんの著書。ここでもその分かりやすく伝える技術が炸裂!! アメリカのこと、日本のこと、日本と中国そしてアジアの関係のこと、EU(ヨーロッパ連合のこと)そして国連のことなどが、コンパクトにそして分かりやすく、お父さんが質問に答える形で書かれている。そして、「へぇ~」と思わせるものも多いので、平易でありながら参考にもなる。 たとえば、国連の旧敵国条項について、そもそも国連は第2次大戦の連合国が設立したもので、第2次大戦で敵として戦った日本を含む7ヶ国を旧敵国として定めたもので、この旧敵国条項に入っている国に対しては、国際連合結成時から参加している国は、勝手に戦争をしてもいいという意味のことが定められている。確かに国際世論としてそういったことは許されないが、しかし、こういった条項はやはり改正してなくすべきだと思う。正直、ここまで知らなかったので勉強になった。 他にもユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係のこともとても分かりやすく書かれているし、アメリカがなぜ唯一の超大国で世界各地でアメリカンスタンダードを押し付ける(アメリカ側からすると普及させる)のかということも書かれている。 国際情勢をお手軽だけどしっかりと知りたいという方には、オススメ!!これから3年!「世界はどう変わる?」著:池上彰 青春出版社定価:本体1,400円+税2005年12月25日第1刷
2006年02月15日
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上巻につづいて、下巻もようやく読み終わった。この本を読もうと思った理由には、文明崩壊しなかった好例の一つに、実は江戸時代の日本が挙げられていたからだ。どういう意味でと思ったのが購入した直接の理由だ。 江戸時代の日本は、鎖国政策により海外との交流を著しく制限し、日本国内だけで自給自足のライフスタイルを築きあげた。平和をもたらした結果、人口が増加し、日本各地にて、まちの建設ラッシュとなる。日本は木造家屋である。また人口増加によって山を切り開いて農地を拡大させることや、燃料も薪などの木が主だから、これらにより森林の乱伐が発生する。そのままの状態が続いていたら、上巻で登場した乱伐による資源消費が回りまわって文明を破壊させたかのような状況を生み出していたかもしれないが、江戸幕府や大名のトップダウン方式で、森林を守り増やすことで対応し、崩壊ではなく存続につながったということが書いてあった。 上下巻を通しての感想として、これまでは文明が崩壊したといっても、ある地域の中である文明が滅亡しただけで、他の地域や大陸においては、無関係に人類の営みが行われてきた。マヤ文明が滅んだからといって、日本がそれで大きな影響を受けたわけでない。崩壊に影響されることなく、日本は日本で歩みを続けてきた。 しかし、現代は違う。グローバリゼーションの進展で世界は密接につながっている。科学技術は発展し、衛生状態の向上などの多くの有用なものを人類にもたらしてきたが、一方では、日本なら水俣病をはじめとする公害や、世界レベルでなら地球温暖化をもたらし、使用すれば人類を絶滅にも追いやりかねない核兵器といった負の財産ももたらし、場合によっては地球全体で人類文明自体が崩壊する可能性がある。これからは地球全体で考えるという大きな視点が必要だということを実感した書物だった。 文明崩壊 下 滅亡と存続の運命を分けるもの著:ジャレド・ダイアモンド 訳:楡井浩一出版社:草思社 定価(本体2,000円+税)2005年12月28日第一刷
2006年02月12日
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2005年9月発行の書籍で、著者は茅ヶ崎在住のエンゾ早川さん。東海岸の雄三通りで、「AID STATION」というロードレーサーショップを経営している。 書籍は、健康なカラダ作りについて、エンゾ早川さん自身の体験や、ちまたにあふれるダイエット情報についてのご自身の見解が述べられている。中には結構笑えるような話もあって、正直フィットネス本というよりも健康雑学本として楽しめる書物だった。居酒屋でうんちくとして使えるネタ本としてもいいかも… ちなみに、エンゾ早川の”エンゾ”は、ジャンレノの「グランブルー」のエンゾから取ったものだそうだ。
2006年02月07日
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年始に購入した本 歴史から消滅した社会の法則を解き明かした本ということで読んでみようと思い購入した。 筆者のジャレド・ダイアモンド氏は1937年生まれで、生理学を修めた学者で、そういった意味でこの書物は基本的には侵略したとか、戦争によるというものではなく、生物学的もしくは環境問題的なアプローチで、イースター島・マヤ文明・グリーンランドの歴史から消滅した社会について、その理由を考察し、持論が展開されている。 人間は、必ずしも環境を破壊したくてやっているわけではない。ただ養う必要性や豊かになりたいとの思いから、自然を開発する。豊かになる中で人口が増加する。増加していく中で、その増加の負荷に応えるために更なる開発が進められることになり、その結果として森林や土壌破壊進み、そこに地球レベルでの気候の変化(温暖→寒冷)が加わると、その社会を取り巻く環境では、今いる人口を養うだけの力を失ってしまう。失ったときに環境破壊を気づいたときには、すでに人間が対応できるレベルでないため、消滅に向かってしまうという流れになるということが展開されていた。 文字もない社会が滅んだ理由については、実際には記録がないために分からないが、ただ自然への人間の負荷が、必ずしもはじめから自然を破壊するためのようなことを意図していなくても、やってしまったために取り返しのつかない自体を生み出していることは、今でもある。日本レベルでなら水俣病などの公害がその例だろうし、オゾン層破壊や地球温暖化もそうだろう。 そう考えると、今まではある社会が、ある文明が崩壊したけど、ある意味地球レベルで人類の文明が崩壊してしまうんではないかとも考えてしまう。けど一方で人類は、今までも環境の変化に対応もしくは戦ってきて、繁栄させてきた。地球レベルで環境について考えることも広まっている。下巻では、同じような条件でも対応し、存続している社会についても述べられるとのことで、それを読んで、文明の命運を分けた条件について考えを深めていきたい。
2006年01月29日
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